同胞4万救出作戦

国際派日本人養成講座( H16.08.15 )から引用
地球史探訪:同胞4万救出作戦

 内蒙古在住4万人の同胞をソ連軍から守ろうと、
日本軍将兵が立ち上がった。



■1.蒙古での玉音放送■
 昭和20年8月15日、張家口第2国民学校6年生の富田豊
は、強い日射しの照りつける校庭に級友たちと土下座していた。
夏休みだったが、正午に天皇陛下の玉音放送があるというので、
登校を命じられていたのだった。

 張家口は蒙古連合自治政府の一都市で、北京から2百キロほ
ど北西、万里の長城の関門にあたる。8月9日、ソ連軍が日ソ
中立条約を破って、満洲と同時に北方から内蒙古にも侵入して
くると、これらの地域に住んでいた邦人が、内蒙古の最南部に
ある張家口に逃げ込んできていた。

 玉音放送は雑音が多く、言葉も難しいので、小学生にはよく
分からなかった。校長先生も沈痛な面持ちで「大変な事態にな
りました」と言っただけだった。訳がわからないまま、不安を
抱きつつ家に帰ると、母のいとが泣きながらミシンを踏んでい
た。「どうしたの」と豊が聞くと「日本が戦争に負けたのよ」

■2.「これに対する責任は一切司令官が負う」■

 その15日夜、駐蒙軍司令官・根本博中将は、張家口の宿舎
で眠れない夜を過ごしていた。ソ連軍はその前日には張家口北
西44キロの張北にまで迫っていた。満洲に侵入したソ連軍に
関する情報ももたらされていた。

 ソ連軍は、在留邦人に対して、婦女子は手当たり次第に
暴行したり、着ている衣服や腕時計まで掠奪している。拒
否するものは容赦なく射殺するなど、暴虐の限りを尽くし
ているらしい。

 日本は降伏したが、このまま手を拱いていて、ソ連軍が張家
口に侵入すれば同じ地獄絵図が繰り広げられる。北方27キロ
にある丸一陣地にてソ連軍を食い止めつつ、時間を稼いで、邦
人4万人を北京・天津方面に脱出させなければならない。

 日本の降伏後、ソ連軍に抗戦したら、罪に問われるであろう。
その時は、一切の責任を負って自分が腹を切れば済むことだと、
覚悟が決め、根本中将は丸一陣地の守備隊に対して、命令を下
した。

 理由の如何を問わず陣地に侵入するソ軍は断乎之を撃滅
すべく、これに対する責任は一切司令官が負う。

「軍司令官は、たとえ逆賊の汚名を受けても4万人の同胞を救
うためには、断乎としてソ連軍を阻止する決意だそうだ。」そ
ういう噂が口伝えに広がると、陣地内の将兵の士気は、一挙に
高まった。

■3.ソ連軍、現る■

 迫りつつあるソ連軍は、外蒙騎兵を含め、総員4万2千。戦
車・装甲車4百輌、砲6百門を持つ機甲部隊である。それに対
して丸一陣地を守るのは約2千5百名。重火器としては迫撃砲、
速射砲など数門づつあるのみだった。陣地とは言っても、小高
い丘を利用して所々にコンクリート製の機関銃座を設け、その
前面には幅6メートル、深さ4メートルの対戦車壕があるだけ
だった。

 8月19日、未明。細雨のなか、低くたれ込めた朝霧の彼方
から無数のエンジン音が響いてきた。煌々ととライトを照らし
た敵装甲車軍が朝霧の中から現れた。

 陣地前面の鉄条網付近には「ワレ抗戦セズ」という意思表示
の白旗が掲げられていたが、それを無視してソ連軍は戦車砲、
迫撃砲、機関銃による猛射を始めた。

 日本軍陣地の方は積極的戦闘は禁止されているので、応射は
厳禁していた。第一線将兵のはらわたは煮えくりかえっていた。
参謀の辻田新太郎少佐が停戦交渉をしようと、4人の軍使に大
きなシーツで作った白旗3本を持たせて陣地から送り出すと、
その白旗をめがけて撃ってくる。軍使の一人が耳たぶを打ち抜
かれて倒れた。「何という軍紀のない敵か」と辻田少佐は激怒
して、軍使たちを引き返させた。

■4.「一時避難」のニセ命令■

 20日午後、富田家に隣組を通じて通達が来た。「今晩一晩、
情勢が悪いので一晩分の非常食を持って、国民学校の校庭に集
まれ」という「一時避難命令」だった。いとは、わずかな着替
えと1食分の弁当を持って、豊と清美(8歳)、章三(5歳)
の手を引き、2歳の伊久代を背負って、夕方、差し回しのトラッ
クに乗った。夫は市内警備に動員されていたが、どこの家も同
様に男手は徴集されて女子供だけだった。

 トラックは学校でなく、駅に向かった。何千というほとんど
母子のみの群衆が押し合いへしあい、貨物車に乗り込んでいた。
子供はみなで尻を押し、引っ張りあげた。実は「一時避難」と
はニセ命令だった。引き揚げ命令を出せば、少しでも多くの家
財道具を持って逃げようとする。そのために集合が遅れ、また
持ち込んだ荷物で駅前は大混乱になる。短期間で4万人を脱出
させるための駐蒙軍の苦肉の策であった。

 満洲では関東軍が8月10日、居留民の緊急輸送を計画した
が、居留民会が数時間での出発は不可能と反対し、11日になっ
ても誰も新京駅に現れず、結局、軍人家族のみを第一列車に乗
せざるをえなかった。これが居留民の悲劇を呼んだのである。

 夜になっても、なかなか列車は出発しない。雨のそぼ降る中、
無蓋汽車にすし詰めの母子たちは濡れ鼠になって出発を待った。

 その頃、張家口から数十キロ南方の線路では、八路軍(中国
共産党軍)に爆破されて脱線した機関車と客車数両を日本軍の
一隊が必死になって取り除こうとしていた。4,5時間かかっ
て、車両を線路横の谷間に落とした。「これで汽車が通れるぞ」
「居留民たちが、やっと帰れるぞ」 疲れきった兵士たちの中
から声があがった。

 夜10時頃、北の大地の遅い夕闇の中を居留民を満載した一
番列車が通る。線路際に立って見送る兵士たちに、無蓋汽車の
上から両手を合わせて頭をたれる婦人の姿が、シルエットとなっ
て浮かんだ。

■5.白兵戦■

 その頃、丸一陣地にソ連軍が侵入を開始していた。約2百人
が対戦車壕の西端を回り込んで、背後に回ろうとした。その近
辺を守っていた増田中尉は、ただちに中隊の先頭に立って、
「突撃」と大声で呼号した。

 そのとたんに、機関短銃を打ちながら前進してきた敵兵と鉢
合わせとなり、反射的に軍刀を横になぐと、敵兵の首はころり
と落ちた。それから後は無我夢中だった。倒れた敵兵の死体を
飛び越えて突進し、血刀を振るって斬りまくった。

 8人目を斬り伏せた時、その後ろにいた敵の中隊長らしき人
物が何か叫んだ。「後退せよ」とでも言ったのだろう。敵は潮
の引くように一斉に退却した。増田中尉がほっとして腰をおろ
したとたん、全身に激痛が走り、立ち上がれなくなった。身体
の数カ所に銃弾が貫通して、血だるまになっていた。軍刀はひ
んまがって、鞘に入らなかった。

 陣地最右翼からも、ソ連軍が侵入してきた。手榴弾の投げ合
いのあと、日本軍は白ダスキをかけた銃剣突撃で、敵を撃退し
た。

■6.「元気で帰れよ」■

 豊の弟、5歳の章三は出発前から風邪気味だったが、列車の
中で40度もの熱を出した。母のいとは夜は自分の身体で雨か
ら守り、昼は手ぬぐいを顔にかけて烈日を少しでも遮ろうとし
た。持参した弁当もすでにない。

 駐蒙軍の野戦鉄道司令部は、引き揚げ列車への食料供給に苦
心していた。17日頃から軍の倉庫にあった米や乾パンを沿線
の各駅にトラックで大量に輸送していた。(これが「軍が先に
逃げたとの誤解を与えたらしい。)

 トラックに乾パンを満載して、陸橋の上で待ちかまえ、通過
する列車に次々と乾パンを投げ入れた。駅で停まると国防婦人
会の人たちが炊き出しのおむすびを差し入れた。

 豊の乗った列車が、一面のリンゴ畑を通ると、警備の日本兵
たちが駆け寄って、「元気で帰れよ」と口々に叫んでは、リン
ゴをもいで列車に投げ入れてくれた。豊はその一つを受けとめ
た。赤いリンゴを噛みしめると、甘酸っぱい果汁が歯に染みた。

■7.「兵隊さん、これ食べて頑張って下さい」■

 八路軍の鉄道襲撃は執拗だった。周囲の山から居留民を満載
した無蓋汽車に銃を撃ちかけてくる。北京から急遽、救援にか
けつけた第118師団の将兵も、防戦に駆けずり回った。

 8月21日、張家口から約40キロ東南の宣化の駅では、広
い駅構内の何本もある引き込み線に引き揚げ者を満載した列車
20本ほどが一時停車していた。物資輸送のために山本義一軍
曹と部下20人がそこを通りかかった時、八路軍が襲撃してき
た。

 山本軍曹は「こりゃ、エライこっちゃ。どうせ死ぬなら、日
本人のために死のう」と部下たちに呼びかけ、応戦。やがて3
百メートルほど離れた川岸まで撃退した。

 しかし、八路軍は何度も襲撃してくる。撃ち合って二日目、
疲れ果てて、もう持ちこたえられん、とあきらめかけた時、
5、6歳のイガグリ頭の男の子が、大きなカバンをひきずるよ
うにして小走りに走ってきた。その子を目標にして、八路軍の
追撃砲弾が周囲に炸裂する。山本軍曹は思わず、その子を横抱
きにして窪地に飛び込んだ。

「兵隊さん、これ食べて頑張って下さい」と、男の子はカバン
の中からいくつもの焼きお握りを取り出した。山本軍曹の顔は
泥と涙で、目の下が真っ黒になっていた。男の子の励ましに疲
れも吹き飛んで、まもなく八路軍を撃退させた。

■8.堂々たる行進■

 20日夕刻から始まった張家口からの4万人脱出は駐蒙軍と
鉄道関係者の必死の努力で、21日夕刻にはあらかた完了した。
丸一陣地にもその知らせがあり、辻田少佐はその夜、闇にまぎ
れて撤退しようと決心した。19日未明からのまる3日間ソ連
軍を食い止めて、消耗の極みに達し、もう一日ともたない状況
だった。

 まずトラックで、負傷者を送り出す。その後、1箇小隊づつ
隠密に陣地を離脱した。幸いにもソ連軍はすぐには追撃してこ
なかった。夜間の白兵戦で日本兵の強さに恐怖感を抱き、その
夜も夜襲を恐れて、前線から後退していたために、日本軍の撤
退に気がつかなかったのである。また3日間の戦闘で予想外の
大損害を受け、積極的進撃の意欲を失っていた。

 一行は山中を歩き、ようやく6日後の8月27日に万里の長
城にたどり着いた。長城のもとでは、一行の到着を知った中川
・駐蒙軍参謀総長以下の将官等が出迎えた。一行は疲労を隠し、
堂々と胸を張って行進した。戦死者約70人の遺体から切り取っ
た遺髪や小指を、飯ごうや図のうに入れての行進である。出迎
えた中川参謀総長はこう手記に書き残した。

 暫くの後、後衛(帰着した一隊)、整々たる縦隊を以て
帰着す 士気旺盛なるも、長き頭髪と髭とは無言に長期の
労苦を示す 小官感極まり落涙あるのみにして、慰謝の辞
を述ぶる能わず

■9.緑したたる森に赤い鳥居■

 富田母子を乗せた列車は、ふだんなら10時間ほどで着く所
を3昼夜もかけて24日午後、天津に着いた。そして日本租界
の中の小学校に収容された。熱を出していた章三は、市内の病
院で手当を受けたが、翌日、亡くなった。9月に入って、よう
やく合流した父は、それを聞いてがっくり力を落とした。

 蒙古政府の日本人官僚たちは、天津でも引き揚げ者たちへの
食料や衣服などの供給に必死の働きをした。丸一陣地で戦った
将兵の一部も、武装解除された後に、天津で帰国の船を待って
いたが、旧日本軍の物資倉庫に忍び込んでは、米や毛布を盗ん
で、引き揚げ者たちに差し入れた。警備のアメリカ兵たちは見
て見ぬふりをしてくれた。

 10月に入って、引き揚げ者たちの間で発疹チフスが流行し、
富田家でも栄養失調で体力の弱っていた清美(8歳)と伊久代
(2歳)が相継いで亡くなった。

 10月16日、引き揚げの第一船、江ノ島丸に乗船。弱って
いた豊は父の背におぶわれてタラップを登った。船中でも安心
感から、急速に病状を悪化させて水葬に付される人が相継いだ。
豊が「ボクも死ぬんだろうか」と母に聞くと、「何を言ってま
すか。もうすぐ内地ですよ。日本ですよ。」と励まされた。

 江ノ島丸が対馬沖にさしかかると、緑したたる森に赤い鳥居
が見えた。引き揚げ者たちはデッキに鈴なりになって泣いた。
生きて帰れた、という実感が湧いた。

■10.35年目の初対面■

 昭和56年1月25日、愛知県豊川市。古い農家の一室から、
耳慣れぬモンゴルの歌声が響いた。

アルバン トングル チルクデ ナルジョー

 歌っているのは、47歳になった富田豊。ピンと背筋を伸ば
してそれに聴き入っている老人は、元陸軍少佐・駐蒙軍独立混
成第2旅団参謀、辻田新太郎、71歳だった。昭和20年8月
20日の夕刻、豊は母に連れられて、張家口の駅の引き揚げ者
の渦の中にいた。辻田少佐はその時、丸一陣地の戦闘司令所で、
どうしたら引き揚げが完了するまでの3日間を持ちこたえるか、
考えてあぐねていた。

 それから35年目にして、ふたりは始めて出会った。辻田が
旧陸軍軍人の親睦雑誌に書いた記事が、偶然、富田の目にふれ、
一読、感動を抑えきれずに、辻田への感謝の手紙を書いたのが
きっかけだった。

 いや、下手な歌をお聞かせいたしました。こんな歌を今
うたえるのも、あの時、辻田さんたちに頑張って頂いたお
かげですよ。

 歌い終わって深々と礼をして、こう言う富田に、辻田は答え
た。

 いえいえ、私どもは、軍人としての義務を果たしただけ
です。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(203) 終戦後の日ソ激戦
 北海道北部を我が物にしようというスターリンの野望に樺太、
千島の日本軍が立ちふさがった。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 稲垣武、「昭和20年8月20日 内蒙古・邦人4万奇跡の
脱出」★★★、PHP研究所、S56

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日本人抑留者が遺したウズベキスタンとの友好の絆

国際派日本人の情報ファイルから引用
日本人抑留者が遺したウズベキスタンとの友好の絆

伊勢雅臣
■転送歓迎■ No.1373 ■ H19.12.03

 ウズベキスタン共和国の首都タシケントにある国立ナボイ劇
場は、レンガ造りの三階建て観客席1400の建物で、市中心
部の代表的建造物として威容を誇っている。

 この劇場正面には、「1945年から46年にかけて極東から強制
移住させられた数百人の日本人がこの劇場の建設に参加し、そ
の完成に貢献した」とウズベク語、日本語、英語で表記された
プレートが設置されている。

 ウズベキスタンには大戦後、ソ連によって約2万5千人の日
本人抑留者が移送され、水力発電所や運河、道路などの建設に
あたった。中山恭子元駐ウズベク大使は在任中に、いまも国民
に電気を供給している水力発電所の建設を仕切った元現場監督
に会った。この人物は、まじめに、そして懸命に汗を流してい
た日本人抑留者たちの思い出を涙ながらに語ったという。

 捕虜の境遇にあっても勤勉に働く日本人抑留者は、当時の地
元民に敬意を表された。現地の人は、「絶対に帰れる」と励ま
しながら、黒パンを握らせてくれたという。

 日本人抑留者が現地に残した遺産のシンボルが、約500人
の抑留者によって2年がかりで建設したナボイ劇場なのである。
レンガ製造から館内の装飾、彫刻まで抑留者が行った。

 66年の大地震でタシケント市内の多くの建造物が倒壊した際
も、この劇場はビクともせず、「日本人の建物は堅固だ」「日
本人の建築技術は高い」という評価が定着した。そのためか親
日感情が強い中央アジア諸国の中でもウズベキスタンの日本人
への好感度は飛び抜けている、という。

 1991年に旧ソ連から独立して新国家建設を進めるウズベキス
タンは、カリモフ大統領をはじめに日本の明治維新や戦後復興
をモデルとして「日本に見習え」を合言葉にしている。

 劇場前のプレートの表記についてはカリモフ大統領が、「決
して日本人捕虜と表記するな。日本とウズベキスタンは一度も
戦争していない」と厳命したそうである。

 2万人の抑留者のうち、800人以上が現地で死亡し、各地
の墓地に埋葬されたが、その多くは荒れ放題となった。しかし、
元抑留者たちが中心となって募金活動を行い、ウズベキスタン
政府の協力も得て、日本人墓地が整備された。また「日本に帰っ
てもう一度、花見がしたかった」と言い残して亡くなった抑留
者のために日本からサクラの苗木千三百本が送られた。整備の
発起人の一人、中山成彬衆院議員は「両国友好の証しになって
ほしい」と話している。

 過酷な環境の中で祖国帰還を夢見ながらも、勤勉に働いて、
ウズベキスタンと日本との友好の絆(きずな)を残してくれた
抑留者の御霊に感謝と追悼の意を捧げたい。

■リンク■
a. JOG(525) シベリア抑留
「ここにおれがいることを、日に一度、かならず思い出してく
れ」

■参考■
1. 産経新聞「小泉首相きょう中央アジア歴訪 ウズベクに息づく
『日本人伝説』、H18.08.28、東京朝刊、2頁
2. 産経新聞「元抑留者働きかけ ウズベクの日本人墓地再生 天
国の仲間へ熱き思い」、H18.07.31、東京朝刊、27頁
3. 産経新聞「ウズベキスタンの『国立ナボイ劇場』 建設に従事
元抑留兵の松永さん」、H10.05.06、東京夕刊、11頁

近衛文隆 ~ ラーゲリに消えたサムライ

国際派日本人養成講座( H15.06.15 )から引用
人物探訪:近衛文隆 ~ ラーゲリに消えたサムライ

 ソ連での獄中生活11年余。スパイになる事を拒否し続
けて、ついに屈しなかった青年貴族。


■1.日本首相の息子であるコノエ中尉を捕らえました。■


 同志スターリン、朝鮮国境で3日前にスメルシ(赤軍防
諜部)が日本首相の息子であるコノエ中尉を捕らえました。

 その報告に、スターリンはゆったりと聞き返した。「コノエ
だと? この夏にヒロヒトが特使として名指したあの人物の息
子か?」

「ヒロヒトの特使」とは、日本の降伏も間近の1945(昭和20)
年7月に、ソ連に和平工作の仲介を依頼するために元首相・近
衛文麿が特使として指名されたことを指す。しかし、その時に
はすでにスターリンは日ソ中立条約を破って対日参戦すること
を決めていたのである。

 近衛文麿の長男・文隆が所属する重砲兵第3連隊が停戦命令
に従って武装解除に応じ、ソ連軍に投降したのは玉音放送の3
日後、1945(昭和20)年8月18日だった。文隆は配下の中隊
の部下を集めて、「なあに、川ひとつ越せば朝鮮だ。釈放され
たら、さほど手間取らずに内地に帰れる。それまでは一致団結
して頑張ろう」と相変わらず元気な檄を飛ばした。

 文隆は17歳にして米国プリンストン大学に留学したが、遊
び過ぎがたたって中途退学。その後、しばらく父・近衛首相の
秘書役を務めた後、上海に渡り、蒋介石政権の高官の娘と恋仲
になって、一緒に日中和平工作に乗り出すが、軍部ににらまれ
て徴兵の対象となり、二等兵として満洲に配属された。今度は
よく勉強して瞬く間に中尉まで昇進した。身長1メートル79
センチ、体重81キロという堂々たる体躯にふさわしいスケー
ルの大きな人物だった。

■2.すごいスパイになる!■

 ソ連国家保安省の防諜担当捜査官ピィレンコフは、保安省次
官セリヴァノフスキー将軍のデスクの前に立っていた。将軍は
いきり立っていた。

 いずれこちらの手に取り込むのだ。それはすごいスパイ
になる! 日本ではなんとしても工作要員が必要だ。捕虜
を何人協力者に仕立て上げても、共産党支部に直行して集
団入党が関の山。雑魚の集団だ。おまえの仕事は、一本釣
りだ。話がついたら、すぐに帰国させ、国会議員にする。
政党をつくり彼を党首にする。

 いいか、コノエを落とせば、レーニン勲章だ! 期限は
1ヶ月。できなければ、やつと一緒に監禁されることにな
る。

■3.そんな無分別だと、死刑台に直行だぞ。■

 コノエ、もう午前3時だ。17時間もあんたとやりあっ
ている。そろそろ吐かないかね。

 そう言う捜査官ピィレンコフも駕籠の鳥であった。尋問は盗
聴されている。コノエに向かって怒声を発し、頭がおかしくな
るくらい、同じ質問を繰り返さねばならない。文隆はきょう一
日何も食べていない。頬はこけ、目は落ちくぼんでいた。

 この8日間、捜査官殿、わたしは50時間尋問されまし
た。同じ質問が繰り返されました。何故に報いを受けるの
でしょうか? 皇軍将校たるわたしが軍紀を遵守し、陛下
に忠誠を誓ったからですか? わたしは死ぬまで忠義をた
がえません。わたしをむりやり裏切らせるようなことはあ
なたにもおできになれない。家族、祖国、天皇陛下、わた
しにとって神聖にして犯すべからざるすべてのものを裏切
れなんて。

 そんな無分別だと、死刑台に直行だぞ。

 父もそうだったが、わたしも死をおそれない。その備え
は常にできております。

 もういい、コノエ。おまえの生殺与奪の件はこちらにあ
る。言われたことをよく考え、分別を示すことだ。おまえ
はふつうの捕虜ではない。国家保安部の最高首脳が本件に
関わっているのだ。ほら、紙だ。監房にもち帰り、自分の
罪状を書け。

 紙は必要ありません、捜査官殿。書くことがないのです。

 翌1946年4月、文隆はモスクワに送られ、ソビエト国家保安
機関の本部ビル・ルビャンカに収容された。このビルには銃殺
室や拷問室もしつらえてあり、スターリン時代の暴政のシンボ
ルであった。

 その中の何十とならぶ地下墳墓のような監房の一つに文隆は
入れられた。便桶の強烈な悪臭をかぎながら、酸っぱい黒パン
と水のような囚人スープを与えられる。しばしば夕食後に呼び
出しを受け、時には翌朝未明までぶっ通しで尋問を受けた。や
がて歯は抜け始め、視力も落ちてきた。まだ30代だというの
に、老人のようになってきた。

■4.「ソ連侵略の策謀」容疑■

 取り調べが長く続き、3年目の1948年4月19日、文隆は獄
中で起訴された。スパイにならない以上、今後の対日カードと
して罪人に仕立て上げて人質にしておこうとしたのであろう。
起訴理由は、資本主義幇助に関わる犯罪行為の疑いであった。

 その内容は、父・文麿の秘書官在任中にその意を体して、中
国や満洲国の現地部隊を訪問し、ソ連侵略の策謀をなした事、
また昭和20年2月14日、文麿が昭和天皇に上奏したいわゆ
る「近衛上奏文」に荷担して、国際共産主義に対する妨害をな
したという理由であった。

 近衛が首相在任中に日ソ中立条約を成立させた事実だけを見
ても、「ソ連侵略の策謀」とは荒唐無稽な理由であった。その
中立条約を破棄して対日宣戦布告をしたのはソ連の方である。
また「近衛上奏文」とは、日本を中国や英米との戦いに引きず
り込んだのは国際共産主義の策謀であったと自省した内容で、
現実にソ連のスパイ・ゾルゲと彼に操られた元朝日新聞記者・
尾崎秀實が逮捕・処刑されている[a]。しかし文隆は上奏文の
存在すら初耳であった。

■5.ロシア語の嘆願書■

 起訴されてから、文隆はロシア語を身につけようと決心した。
英語の通訳を介さずに、直接ロシア語でやりとりできれば、裁
判でも言いたいことが言えるようになる。ダメで元々と、看守
にロシア語を学びたいので辞書と紙、鉛筆を支給してくれない
か、と頼んだところ、意外にもすぐに露英辞典を与えられた。

 またロシア語の書物も、要求すれば無条件に差し入れられた。
ソ連の文献を読めば共産主義の信奉者となり、スパイに転向す
るかもしれない、と考えたのかも知れない。

 紙と鉛筆は支給されなかったので、10日に一回の入浴の際
に、風呂場で掠めた石鹸屑と、マッチの燃えかすを練り合わせ、
即席の墨を作った。これをマッチ棒につけて、タバコの空き箱
の裏に文字を書きつける。文隆は毎日最低2時間はロシア語の
学習にあてる事を自らのノルマとした。

 それから2年ほど、ひたすらロシア語の学習に励んだ結果、
文隆はロシア語の読み書きと日常会話には困らないようになっ
た。10分間の入浴を終えて、看守詰め所の前を通りかかった
時、ラジオの朝鮮戦争勃発のニュースを聞き取ることができた。

 文隆が獄中で書いたロシア語の嘆願書が残されている。寒さ
をしのぐために取り上げられている毛皮の手袋を返して欲しい、
とか、監房の通気窓が氷のために閉まらなくなったので、自分
のスプーンで氷を割ろうとした所、折れてしまったので、代品
の支給をお願いする、などと、監獄での暮らしぶりが窺われる。

 後には、同じ監獄で友人となったヨシダ・タケヒコという日
本人が肺病で見る見るうちにやせ衰えていったので、その世話
ができるように、同じ房に入れてくれ、と嘆願している。

■6.「わたくしが敵なら銃殺しなさい」■

 7年目の1952年1月14日、突然、ソ連国家保安省の部長に
呼び出され、判決が言い渡された。禁固刑25年である。文隆
は起訴されたという以上、法廷に出て検事と弁護士のやりとり
が、たとえ形の上だけでもあるだろうと思っていたが、それす
らもなかった。「そんな裁判は聞いた事がない」と文隆は抗議
したが、「コノエ、世界一民主的なわが裁判ではすべてが可能
なのだ。われわれはブルジョワ法の古めかしいドグマは認めな
い。」

 文隆には知るよしもなかったが、ソ連崩壊後に公開された資
料では、このような形で有罪とされた者は385万人、うち
82万人が極刑に処されたとされている。裁判の形式などに構
っている暇はなかったろう。

 大佐は今までの何百回もの尋問によって捜査官たちが作成し
た調書の抜き書きを示し、「きみの罪状は捜査で証明され、き
みも認めた。だから署名せよ」と言う。文隆はロシア語で言っ
た。

 いいですか、大佐。今短刀を持っていたなら、もう何度
も捜査官たちに言ったように、迷わず相手の腹を刺してい
たことでしょう。このつまらぬ文書を見せられてこわくな
ったとか、びっくりしたからではありません。破廉恥にも
わたくしの名誉を侮辱したことに対する抗議です。いかさ
ま師のようにわたくしを刑に服させようとしている。わた
くしが敵なら銃殺しなさい。その方が分相応だ。
 
■7.「近衛文隆を即刻帰せ」■

 1月20日、文隆はモスクワから、貨物列車を改造した囚人
護送車に詰め込まれて、バイカル湖の西にあるイルクーツクの
アレクサンドロフスク監獄に移された。帝政ロシア時代から3
大中央監獄と呼ばれた国内最大の監獄の一つである。

 文隆が収容された49号室は、25畳ほどの部屋に20人余
りの囚人がいた。ほとんどが日本人で、関東軍将校や満洲国官
吏、外務省領事などの任にあった人々だった。日本語をふんだ
んに話せることがうれしかった。天気が良ければ1時間ほど狭
い敷地内を散歩できるが、冬の間は猛吹雪が吹き荒れて閉じこ
められてしまう。

 そんな時は文隆の独壇場だった。プリンストン大学の学生合
唱団で鍛えた喉で、日本の歌を歌うと、房内はしんと静まりか
えり、涙を流す者もいた。またアメリカでの数々の武勇伝を面
白おかしく語っては大笑いさせた。まるでレコードのように同
じ話を繰り返しせがまれた。

 1955年6月に日ソ国交正常化交渉が始まった。この時点でも
いまだ2千4百人近くもの「戦犯」がソ連国内に抑留されてい
た。特に文隆はその中心的存在として、東京や京都では釈放を
要求する集会が開かれ、何十万人の署名入りの声明書や嘆願書
が出されていた。日ソ交渉では鳩山首相が「近衛文隆を即刻帰
せ」と要求した。

■8.文隆、死す■

 1956年6月14日、文隆はモスクワの西北およそ2百キロの
チェンルイ村のイワノヴォ収容所(ラーゲリ)に移された。外
国のジャーナリストも見学できる別荘のような建物で、日本軍
の将官クラスや外務省の幹部級が抑留されていた。食事もよく、
ここに入れられた日本人は急速に健康を回復していった。しか
し、文隆だけは不眠に苦しめられ、気分が優れず一人陰鬱な顔
をしていた。凄まじい尋問と獄中生活を凌いできた文隆には初
めての事だった。

 抑留者のうちに日本軍の軍医がおり、心配して文隆に言った。
ソ連では政治犯にある種の薬物を使っており、それを何度か注
射されると、鬱状態が続き、自殺に追い込まれることがあると
いう。文隆はいつもの痔の治療の際に、透明な液体の注射を打
たれている事を思い出した。

 10月19日、鳩山首相が領土問題を棚上げする形で、日ソ
共同宣言にこぎつけ、日本人抑留者の帰国も確定した。ラジオ
のニュースを聞いたイワノヴォ収容所の日本人の間でどっと歓
声があがった。文隆も久しぶりにうれしそうな顔をした。

 23日、不眠で一夜を明かした朝、ひどい倦怠感と頭痛に襲
われた。高熱が数日続き、そのまま29日午前5時、息を引き
取った。死因は動脈硬化にもとづく脳出血と急性腎炎とされた。
同室で治療を受けていた太田米雄・元陸軍中将は午前4時20
分頃、病室を移され、入れ替わりに専属の女医が入って、その
後1時間もしないうちに悲報を聞いたという。

■9.「本当のサムライだ」■

 1958年1月28日、モスクワ。ソ連共産党中央委幹部会が開
かれていた。文隆の未亡人から出されたイワノヴォ収容所への
墓参りと遺骨返還の要請にどう答えるか、フルシチョフ以下の
最高首脳陣が討議していた。「遺骨を返すしかない、日本なし
ではやっていけない」という結論が出た後で、国際政治・諜報
担当のスースロフが言った。

 プリンスの死は、われわれにとり、ここだから言えるこ
とですが、ある種の救済でもあったのです。

 同志諸君、ご想像下さい。こんな折りに、日本政界にも
う一人のコノエが現れたらどうなりましょう。シベリア抑
留の苦難を耐え抜いた若く生気に溢れた貴公子。40代の
日本人たちは、元軍人であろうとそうでなかろうと、敗戦
に不満で占領の恥辱に我慢がならない。ただちにコノエを
新しい指導者として迎え入れるでしょう。こう言ってもま
ちがいはありますまい。3,4年後には、ソ連はその収容
所群島の裏表を知り尽くした日本首相と事を構える羽目に
なる、と。

 フルシチョフが「賛成だ」と支持の声をあげた。ブレジネフ
は文隆が何度も脅されながらも、決してスパイにならなかった
事を聞いて「あっぱれだ! 本当のサムライだ。」と感心した。
彼は死因を聞いて「マイラノフスキー(スターリンの殺し屋)
の手口としか考えられないな」と言った。

「その手口が使われたにしろ、使われなかったにしろ、今じゃ
何の意味がある?」とフルシチョフが話を締めくくり、会議を
打ち切った。
(文責:伊勢雅臣)

シベリア抑留

国際派日本人養成講座 から引用
地球史探訪: シベリア抑留

「ここにおれがいることを、日に一度、
かならず思い出してくれ」
■転送歓迎■ H19.12.02 ■

■1.真っ白の凍原の中にうずくまる黒い杭の一列■

 50トンの有蓋貨車の中は二つの檻に分かれていて、それぞ
れ日本人40人、白系ロシア人30人が詰め込まれていた。車
内には火の気もなく、まるで冷凍庫だった。5日間待たされ、
囚人貨車が20両ほど連結されると、列車は走り始めた。昭和
20(1945)年12月15日のことである。

 満洲側の最後の駅・満洲里を過ぎてしばらく行くと「オトポ
ールだ!」と騒ぐ声が聞こえた。シベリア最初の駅である。誰
ひとり、自分たちの行く先を知らなかった。石原吉郎は車両の
腰板の隙間から外をかいま見た。

 なにもかも一様に黒ずんで見える貨車の内部とは対照的
に、貨車の外側はいきなりまっ白であった。満洲里通過以
来すでにおなじみの凍原が、一望のもと荒涼とひろがって
いるだけの、文字通り空白であったが、やがてその空白な
視野をおびやかすようにして、傾いた杭の黒い一列が不意
にうかびあがって来た。それは、異様としかいいようのな
い光景であった。

 音という音が死に絶えたような風景のなかで、立つとい
うよりはむしろうずくまっているような黒い杭の、息をの
むような単調なたたずまいは、一種沈痛な主張のようなも
のを私に連想させた。[1,p72]

 真っ白の凍原の中にうずくまる黒い杭の一列、それは石原た
ちシベリア抑留者の今後を暗示しているかのようであった。

■2.日本人狩り■

 昭和20(1945)年8月9日、ソ連軍が日ソ中立条約を破って、
満洲に侵攻した。北満の荒野に点在する総数27万人の日本人
開拓団は悲惨な状況に追い込まれた。8月12日、東安省哈達
河(ハタホ)開拓団が避難の途中、ソ連軍に取り囲まれ、婦女
子421名が集団自決するというような悲劇が各地で起きた。
ソ連人による殺戮、強奪、強姦が至るところでくり返された。

「日本軍捕虜50万人の受け入れ、配置、労働利用について」
というスターリンの極秘指令が9月2日に発せられた。労働に
適した日本人捕虜50万人を捕らえ、関東軍から押収した戦利
品の中から衣服、食料などを与えて、シベリアの地で強制労働
をさせる、という内容だった。各地でソ連軍による「日本人狩
り」が始まった。

 ハルピンの関東軍特務機関で、傍受したソ連の無電を翻訳す
る仕事をしていた石原吉郎(30)も、捕まった一人だった。

■3.アルマ・アタ■

 ハルピンで囚人列車に詰め込まれてから40日、石原の一行
がたどり着いたのは、中央アジアの高原地帯の街、カザフ共和
国(現在のカザフスタン共和国)の首都アルマ・アタであった。
海抜4千メートルを超える天山山脈の向こうは新彊ウイグル自
治区である。

 強制収容所は2千平米ほどの敷地で、高さ3メートルの板塀
と有刺鉄線で囲まれ、四隅に見張り塔が建っていた。ここに日
本人480名、ロシア人220名ほか、朝鮮人、満州人、蒙古
人、ドイツ人などが若干いた。

 全員が三段式の蚕棚のようなベッドが200も並ぶ居住用バ
ラックに押し込められた。四隅にはペチカがあったが、零下
30度の真冬の極寒を防ぐにはあまりにも無力で、収容者たち
は、外套も着込み、靴も履いたまま横にならなければ、寒さを
防げなかった。

 第2次大戦の痛手がひどかったソ連ではもともと食料が不足
していたが、収容所ではさらに所長が食料を横流ししたため、
黒パンが一日350グラム、朝夕2回の薄いカーシャ(粥)か
野菜スープというのが、ほとんど毎日のメニューだった。

 栄養失調と強制労働による消耗、発疹チフスの流行などで、
次の夏までに2割近くの抑留者が亡くなった。

■4.民主運動と内部抗争■

 収容所の中では、ソ連共産党の指導のもと、「民主運動」が
組織された。石原の収容所でも二人の日本人が推進役となった。
彼らはほとんど作業をせずに、作業現場への往復に、赤旗を立
てて、「インターナショナル」や「スターリン賛歌」の音頭取
りをしたりした。その一人・山田清政三郎は、『ソビエト抑留
紀行』という小説風の記録を残しているが、そこにはこんな一
節がある。

 朝は目が痛いほどの、一面の太陽の炎。天山山脈のうね
りをも包んで、あくまで深く澄み切った、中央アジア高原
の円天井・・・強烈な紫外線に、裸体で挑んで、或いは鶴
橋を振り上げ、或いは円匙を突きさし、或いは採石を堆
(うずたか)く積んだターチカ(手押し一輪車)を走らせ
る、たくましいラボータ(労働者)たちの姿・・・[2,p88]

 労働を免除された「赤いエリート」とは違って、「たくまし
いラボータたち」には、死亡率2割の環境の中で、天山山脈の
美しい景色など眺める余裕はなかった。石原の抑留エッセイに
は、こうした自然賛歌はほとんど登場しない。

 ある抑留者は、「民主運動」について、こう記している。

 民主運動はさらにエスカレートして行き、日本人独特の
狭量、変更性を帯びていく。・・・内部抗争、つるし上げ、
自己批判の強要、密告、加罰制裁。・・・私たち文民の多
くは、身を縮めて嵐を避け、偽装に腐心した。[2,p89]

 過酷な生活環境の中で、さらにこうした内部抗争をけしかけ
られて、収容者たちは精神的にも極限まで追い詰められていっ
た。

■5.「反ソ行為、諜報」の罪で「強制労働25年」■

 昭和23(1948)年5月、石原を含む約400名の抑留者は、
また鉄格子の監獄列車で5日間揺られて、炭坑の町カラガンダ
に移送された。北カザフスタンの荒涼とした大地に石炭採掘の
ボタ山が無数に並んでいる。ここの採掘量はソ連第3位で、多
数の労働力を必要としたため、18もの強制収容所が設けられ、
日本人抑留者1万人ほど以外に、ドイツ、ルーマニア、ハンガ
リー、ポーランドからの捕虜も使役されていた。

 石原の仕事は、地下の坑内に降りて、採掘された石炭を鉄製
の炭車に積み込み、垂直抗から旧式のウインチで引き揚げる作
業だった。石原は、石炭満載の炭車に跳ねとばされ、肋骨を2
本折るという事故も経験した。治療も受けられず、働きながら
自然治癒を待つしかなかった。

 昭和24(1949)年が明けると、抑留者たちの取り調べが始まっ
た。取り調べは、深夜から未明にかけて、毎晩、行われた。抑
留者が熟睡中のところをたたき起こして精神的に痛めつけ、す
でに用意されていた調書に署名を強要する、というソ連の伝統
的なやり方である。石原は一週間ほど抵抗したが、あきらめて
署名した。

 その後、粗末な木造家屋に設けられた「法廷」に呼び出され、
ロシア国刑法第58条6項「反ソ行為、諜報」で起訴された。
外国人捕虜にソ連の国内法を適用するという理不尽さであった。

 2ヶ月ほど独房に閉じこめられた後、10数人の日本人抑留
者とともに判決を言い渡された。朝鮮人通訳が判決を翻訳した。
「罪状明白」「強制労働25年」といった言葉に石原は、我が
耳を疑った。シベリアでの強制労働25年は、生きて故国に帰
ることはほぼ絶望であることを意味していた。抑留者たちの間
から悲鳴とも怒号ともつかない声が湧き上がった。

■6.もっとも恐れたのは「忘れられる」こと■

 25年の判決を受けてから、故国への思慕が様相を変えた。

 私がそのときもっとも恐れたのは、「忘れられる」こと
であった。故国とその新しい体制とそして国民が、もはや
私たちを見ることを欲しなくなり、ついに私たちを忘れ去
ることであった。

・・・ここにおれがいる、ここにおれがいることを、日に
一度、かならず思い出してくれ。おれがここで死んだら、
おれが死んだ地点を、はっきりと地図に書きしるしてくれ。
地をかきむしるほどの希求に、私はうなされつづけた。
[2,p99]

 石原たちはみたび、囚人列車に乗せられ、バイカル湖の西、
バム(バイカル・アムール)鉄道沿線に送られた。ソビエトの
囚人たちの間で「屠殺場」と呼ばれる最悪の収容地帯の一つで
ある。この地域に送られた日本人捕虜は約4万人にのぼり、線
路工事では「枕木1本に死者1人」と言われるほどの多くの犠
牲者を出している。

 ほとんどが永久凍土(ツンドラ)の密林(タイガ)で、厳冬期
には零下40度のマロース(極寒)が、ほぼ一週間の周期で襲っ
てくる。夜明けには地上数十メートルに霧状の氷片がたちこめ、
あたり一面、白い靄(もや)がかかったようになる。10時か
11時頃、ようやく薄日が差し、黒い太陽が見えてくる。昼過
ぎになっても、気温は零下30度程度である。密林は樹氷の花
をつけ、地面は凍って岩盤のようになっている。

 人間が冬の自然に耐えるという段階はすでに終わってい
た。そこでは、人間はほとんど死者であり、その墓標のよ
うに、白く凍った樹木がひっそりと立ち並ぶ。ここでは、
タイガを支配するのは静寂というようなものでなく、完全
な黙殺である。[2,p113]

 1930年以来、流刑地以外のロシアを見たことがないとい
う尊敬すべき老トロッキストが、ある日僕の隣でパンを食
いながら、不意に居眠りをはじめた。ゆすぶってみたら、
もう死んでいた。老衰と栄養失調とが、目くばせをし合う
ようにして、この誠実な男のなかに燃え続けていた火を踏
み消したのだ。[1,p133]

 真っ白の凍原の中にうずくまっていた黒い杭のように、「完
全な黙殺」の中で、抑留者たちは一人、また一人と孤独な死を
迎えていった。

■7.老婆の涙いっぱいの目■

 1950(昭和25)年9月、バム沿線の日本人のほとんどが、
ハバロフスクに移送された。石原は最悪の一年を生き延びた
が、衰弱のあまり囚人列車の中ではほとんど昏睡状態だった。

 ここでは労働時間が一日10時間から8時間に軽減され、
食事も一日2回から3回に増やされた。石原は所内の軽作業
をあてがわれた。

 10月なかば、石原は数人の仲間と共にハバロフスク郊外
のコルホーズ(集団農場)に送られ、収穫の手伝いをした。
ここはウクライナから強制移住させられた婦女子だけのコル
ホーズで、男達はドイツ軍に占領されていたときに、逃げず
にとどまっていたという理由で、ほかの強制収容所に送られ
ていた。

 昼休みとなって、女たちは食事の支度を始めた。一人の女
が「おいで、ヤポンスキー(日本人)。おひるだよ」と石原
を招いた。警備兵は見て見ぬふりをしてくれた。

 ジャガイモと人参とわずかな肉を煮込んだスープがあてが
われた。石原には気が遠くなるようなご馳走だった。がつが
つとスープに食らいつく石原の姿に女たちは黙り込んでしまっ
た。それぞれが、自分の夫や息子もこんなふうに飢えている
のか、と思いこんだのであろう。

 私はかたわらの老婆を見た。老婆は私がスープを飲むさ
まをずっと見守っていたらしく、涙でいっぱいの目で、何
度もうなずいてみせた。そのときの奇妙な違和感を、いま
でも私は忘れることはできない。[2,p129]

 老婆の同情に「奇妙な違和感」を感じるほど、石原の心は
「黒い杭」の孤独に慣れていたのである。

■8.「ここではとても死ねない」■

 たまたま収容所にあったソ連の百科事典を見ていたら、日本
に関する記事に海岸の松林の写真が添えられていた。ごく平凡
な風景だったが、石原はしばらくの間、目を離せなかった。自
分はそこに行ってはじめて、安心して死ねる。ここではとても
死ねない、と思った。

 1952(昭和27)年5月、参議院議員高良(こうら)とみが、
ハバロフスクの強制収容所を訪れた。その日、急造の売店には
日頃まったく見られない白パン、菓子、果物、タバコなどが並
べられた。日曜日だというのに、抑留者の大半は戸外作業に駆
り出され、「日曜日には、みんな魚釣りや水遊びに行くんです」
と、まことしやかな説明がなされた。

 それでも抑留者たちは嬉しかった。やっと日本の政治家が来
てくれた。自分たちは故国から忘れられていなかったのだ。

 1953(昭和28)年3月、収容所の四隅の望楼や高い建物に半
旗が掲げられた。やがてスターリンが死んだ、という知らせが
伝わると、抑留者たちは喜びを隠せなかった。

■9.故国につながる日本海■

 スターリンの死を契機に、日本政府との間で抑留者の釈放交
渉が進められた。5月末、石原たちはナホトカの丘の中腹に建
てられた旧日本軍捕虜収容所に移された。そこから見下ろす港
湾の外には、故国につながる日本海が広がっている。

 それから何の説明もないまま、石原らは6ヶ月を待った。短
い夏と秋が過ぎて、ナホトカ湾が氷雪に閉ざされていく。再び、
あの真っ白の凍原に戻されるのではないか、と焦燥に駆られた。

 11月28日正午過ぎ、収容所の窓からほぼ真下に見下ろす
位置に、巨大な日本の客船が姿を現した。彼らを日本に運ぶ興
安丸だった。2台のトラックが忙しく港との間を往復して抑留
者811名を運んだ。

 タラップをのぼり切ったところで、私たちは看護婦たち
の花のような一団に迎えられた。ご苦労様でしたという予
想もしない言葉をかきわけて、私は船内をひたすらかけお
りた。もっと奥へ、もっと下へ。いく重にもおれまがった
階段をかけおりながら、私は涙をながしつづけた。いちば
ん深い船室にたどりついたと思ったとき、私は荷物を投げ
出して、船室のたたみへ大の字にたおれた。[2,p145]

(文責:伊勢雅臣)

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Author:野生馬 太郎
欧米列強と必死に戦ってきた爺ちゃんたちの名誉のために!

アジアの歴史と各民族性の相違を理解するために!


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