ロシア人・朝鮮人に「性奴隷に」された日本人女性の悲劇

ロシア人・朝鮮人に「性奴隷に」された日本人女性の悲劇
              歴史通 17-April 大高未貴
「北鮮二侵入セル『ソ』兵ハ白昼街道ニテ通行中ノ婦女ヲ犯ス」(高松宮日記)
◆封印された日本婦女子の悲劇
 数年前、私は埼玉県大宮市の墓地「青葉園」に立つ青葉地蔵尊で行われた供養に参加した。拙著『強欲チャップル 沖縄集団自決の真実』に詳しいが、集団自決の真相について取材を進める中、戦時中、渡嘉敷島に赴任していた皆本義博元中尉から「沖縄の集団自決は決して軍命令ではなく、人間としての尊厳を守るため、ある意味自発的なものでした。あの不幸な時代、集団自決は沖縄だけの現象ではなく、ソ連軍の侵略をうけた満洲や朝鮮半島、そして樺太でも起こったものなのです。来週、満洲で自決という非業の死を遂げた従軍看護婦二十二人の供養があるから取材に来ませんか?」とお声掛けいただいたのがきっかけだった。
 恥ずかしながら、皆本氏からそのことを聞くまでソ連軍の蛮行といえばせいぜいシベリア抑留程度だったので、あらためて青葉地蔵尊の由来を調べながら震え上がった。
  「昭和二十一年六月二十日の満洲・ 新京(長春)。旧ソ連軍に留め置かれ、長春第八病院で働いていた松 岡喜身子さん(七七)ら二十数人の従軍看護婦は、絶望のどん底にいた。
  その夜、ソ連軍の要請で軍の救護所へ仲間六人と”応援”に行っていた人鳥はなえ看汲婦(二二)が、十一発もの銃創を受けながら一人逃げ帰り、救護所の実態を伝えて息を引き取った。「日本人看護婦の仕事はソ連将校の慰安婦。もう人
を送ってはいけません」
 大島さんの血みどろの姿に、喜身子さんはぼうぜんとし、涙も出なかった。「ロシア人は日本人を人間とすら扱わないのか……」。だが、悪夢はその翌朝も待っていた。二十一日月曜日午前九時すぎ、病院の門をくぐった喜身子さんは、病
院の人事課長、張宇孝さんに日本語でしかられた。「患者は米ているのに、看護婦は一人も来ない。婦長のしつけが悪い」「そんなはずはありません。見てきます」胸騒ぎがして、看護婦の大部屋がある三階に駆け上がった。ドアをノックしても返事はない。中へ飛び込むと、たたきには靴がきち人とそろえてあった。線香が霧のように漂う暗い部屋に、二十二人の看護婦が二列に並んで横たわっていた。(略)「死んでいる……」。
 満州赤十字の看護婦は終戦時、軍医から致死量の青酸カリをもらい、制帽のリボン裏に隠し持っていた。机上には、二十二人連名の遺書が残されていた。〈私たちは敗れたりとはいえ、かつての敵国人に犯されるよりは死を選びます〉」(産経新聞 平成七年六月二十九日)
 悲劇は朝鮮半島にも及んだ。『高松宮日記』にもこう書かれている。
「北鮮二侵入セル『ソ』兵(白昼街道ニテ通行中ノ婦女ヲ犯ス。汽車ノ通ラヌタメ歩イテ来ル途中、一日数度強姦セラル。二人ノ娘ヲ伴フ老婦人(カクシテ上娘(妊娠、下ノ娘(性病二罹ル。元山力清津ニテ(慰安婦ヲ提供ヲ強ヒラレ人数不足セルヲ籤引ニテ決メタリ、日本婦人ノ全部「強姦セラル。強要セラレ自殺セルモノ少ガラス」(『高松宮日記 第八巻 昭和二十年十月二十三日』中央公論社)

 こうして満洲、朝鮮半島から心身ともに傷を負った日本人女性が駆け込んだ先の一つが福岡の二日市保養所だった。いまは当時の悲劇を鎮魂するための水子供養地蔵を中心とした二日市保養所跡があり、跡地建立趣旨にはこうある。
「昭和二十∇二年の頃 博多港には毎日のように満州からの引揚船が入っていた。其の中に不幸にしてソ連兵に犯されて妊娠している婦女子の多い事を知った旧京城帝国大学医学部関係の医師達は、これら女性を此処-旧陸軍病院二日市保養所―に連れてきて善処した。(略)児島敬三」
 父親もわからぬ青い目をした異国の赤ん坊を産んで育てることもできず、上陸寸前に博多湾に身投げした女性もいたという。そこで不遇な女性の自殺を防ぐため、引き揚げ船には医師も同乗し、傷を負った女性たちに、。上陸したら二日市で手術できますから心配しなさんな‘と声をかけてまわっていたのだ。この行為は当時、堕胎が禁じられていた日本で、超法規的措置として秘密裏に引揚女性の堕胎が認められたという。とはいえ、終戦直後の物資不足で麻酔すらない状態での手術だった。
 この悲劇を裏付けるため、引き揚げ船内で配られた一枚の呼びかけ文を紹介する。
 「不幸なるご婦人方へ至急御注意口‥ 皆さんここまで御引揚になれば、この船は懐かしき母国の船でありますから先づご安心下さい。さて、今日まで数々の厭な想い出も御ありでせうが茲で一度顧みられて、万一これまでに『生きんが為
に≒故国へ還らんが為に』心ならずも不法な暴力と脅迫に依り身を傷つけられたり、またはその為身体に異常を感じつつある方には再生の祖国日本上陸の後、速やかにその憂診に終止符を打ち、希望の出を建てられる為に乗船の船医へこれまでの経緯を内密に忌憚なく打ち開けられて相談してください。本会はかかる不幸なる方々のために船医を乗船させ、上陸後は知己にも故郷へも知れないやうに博多の近く二日市の武蔵温泉に設備した診療所へ収容し健全なる身殼として故郷へご送還するやうにしておりますから、臆せず、惧れず、ご心配なくただちに船医の許まで御申し出ください。財団法人 在外同胞援護 救療部派遣船医」千田夏光氏が書いた『皇后の股肱』の中にご一日市・堕胎医病院々という章があり、当時の様子がよく描写されている。妊娠六ヵ月、七ヵ月の中絶手術は母体へのダメージも大きく、手術後命を落とした女性もいた。中には泣き声をあげる胎児もいて、その声を聞くと母性が目覚めかねないので医師たちの手で胎児の息をひきとらせている。昭和二十三年に閉鎖されるまで約九百名もの女性が門をくぐり、手術を受けた女性は四百六十二名、うち十名が命を落としているというのだ。
 二日市保養所跡に慰霊碑を児島敬三氏が建立したきっかけも、上述した千田夏光氏のルポを読んで衝撃を受けたからだという。貴重なルポルタージュだと思うが、南京については東京裁判史観そのもので、臼井勝美電気通信大学教授の「日中戦争」などを孫引きしながら『日本軍の通過した後に処女なしと言われる』などといった針小棒大な証言をサラリと織
り込んでいるところに千田氏の視点が伺える。又、従軍慰安婦に関して千田氏は麻生徹男軍医を慰安所発案の責任者であるとはのめかすように描いている。その件に関して私は麻生軍医の娘である天児郁氏に福岡で取材し、千田氏が天児氏に謝罪した話や彼女に宛てた手紙なども見せてもらったことがある。彼女は「千田氏の不正確な執筆や検証もない孫引きによって書かれた本がジョージーヒックスなどによって引用され、さらにクマラスワミ報告に採用され、国際社会に慰安婦問題が歪んだかたちで広まってしまった」と怒りを隠さなかった。
 ともあれ二日市保養所について調べてゆくうち、意外なことに気付かされた。保養所に駆け込んだ女性達への加害者の大半はソ連兵だと思っていたのだが、なんと朝鮮人の方が多かったというのだ。
「二日市保養所の医務主任だった橋爪将の報告書によると、施設の開設から二ヵ月間で強姦被害者の加害男性の国籍内訳は、朝鮮二十八人、ソ連八人、支那六人、米国三人、台湾・フィリピンが各一人だった。一九四七年の施設閉鎖までに五百件の堕胎手術をおこなった』(『戦後五十年引き揚げを思う』)
 また終戦直後、朝鮮北部の興南にいた鎌田正二氏はこんな証言をしている。「ソ連兵や朝鮮保安隊の掠奪と横暴は、残酷をきわめた。
 夜なかに雨戸を蹴やぶって侵入してきたソ連兵は、十七になる娘を父親からひったくるように連行。
 娘は明け方になり無残な姿で、涙もかれはてて幽鬼のごとく帰ってきたという。みなソ連兵を朝鮮人が案内したのだった」(『潮』一九七一年八月号)
 日本が敗戦国となったと同時に、一部の朝鮮人は手のひらを返すように残忍な加害者と化して日本人に危害を加えたのだ。余談になるが″慰安婦強制連行‘について朝日新聞ですら虚偽と認めた吉田清治氏は福岡県出身で、戦後は山口県下関の門司港を拠点に活動をしていた。吉田氏は労務報国会で朝鮮人狩りをしていたのではなく、日雇い労務者の仕事の振り分けをしていたに過ぎない。引揚船の割合は福岡の博多港と長崎の佐世保が最多で、門司港は使用されず近くの仙崎港が使用されていたが、いずれにせよ北九州に押し寄せてきた引揚者の悲劇は吉田氏も聞き知っていた筈だ。にも関わらず。私か朝鮮人女性を強制連行して慰安婦にした”などという創作話を、一体どんな心境で吹聴していたのだろう。
 日韓合意後、韓国人慰安婦の中には日本からの見舞金を二重取りした女性もいる。アジア女性基金から約五百万、和解金約一千万、合計一千五百万もの大金だ。方や近現代史家・秦郁彦氏の推計によると従軍慰安婦の約四割をしめていた日本人慰安婦には何の補償もされていない。ちなみに朝鮮人慰安婦は約二割。つまり慰安婦問題の本質とは、女性の人権問題ではなく、外交問題に発展させて。戦後補償産業”の恩恵に預かろうとした活動家たちが、吉田清治や韓国人慰安婦などを利用したということにつきるのではなかろうか? こうした倒錯した歴史の担造の罪深さの陰で、日本人婦女子の受難は封印されてきたのだ。
 日本婦女子の悲劇の痕跡は北方の地・樺太にも刻まれていた。一九四五年戦争末期の八月八日、ソ連は日ソ中立条約を破棄して対日宣戦。翌九日、突然ソ満国境線を破り日本軍への攻撃を開始した。その最たるものはソ連軍が迫る中、九人の電話交換手だった女性が集団自決した真岡事件が有名だ。
 大本営は一九四四年三月「決戦非常措置要綱」を発令し、電信電話部門に関しても徹底的な強化推進の方針を打ち出していた。真岡郵便局でも非常体制が取られ、残留の募集に応じた二十一人の交換手が交代で二十四時間業務にあたっていたという。八月二十日、真岡沖に現れたソ連艦が艦砲削撃を開始し、真川の町は幟火に包まれた。その直後、九人が青酸
カリを飲んで集団自決を果たしたのだ。彼女たちは、生きたままソ連兵に見つかったら、どのような陵辱を受けるかわかっていたのであろう。
 私か彼女たちの苦渋の選択が、決して妄想に起因するものなどではなかったことを確信したのは、終戦直後、満洲から朝鮮半島経由で引き揚げてきた開勇氏の壮絶な証言を聞いたからだ。

◆皇軍兵士が見たソ連軍の蛮行
 「東は虎頭 北黒河 興安嶺の峰越えて 襲ひきたれしソ連軍 げに恐ろしやその姿鉄輪迫る修羅の途 避難する身 に襲ひきて 縦横無尽に踏みにじり 悲惨の極みに血は流る 聞くも語るも血の涙 屍は積りて 山を築き 血汐は流れて川をなす修羅の巷か 地獄谷(略)我をあざむき襲ひくる ソ連の蛮行 許すまじ 恨みつくさん時くるや 恨 み返さん 時くるや」(日本人避難民悲歌)
 この歌は元陸軍憲兵伍長の故開勇氏からいただいた資料の中にあったものだ。
 初めて開氏を知ったのは、。靖國神社に参拝中の元日本軍兵士(開勇)が中国人の暴漢に襲われる、といったニュースがきっかけだった。
 二〇〇八年、開氏が靖國神社を訪れた際、突如中国人の暴漢に襲われ、持っていた日の丸を奪われ、国旗を足で踏まれた上に竿を折られたという。開氏は自らの命を顧みず、奪われた国旗を取り戻すために中国人に歯向かった。何故ならその日の丸には鬼籍に入った戦友たちの名前が記されていたからだ。
 日本の老人に対する中国人の暴挙は産経新聞やチャンネル桜などで報道された程度で、中国に抗議した政治家もおらず、うやむやとなってしまった。この事件後、私は開氏の戦友たちへの想いや彼が体験した戦争を記録せねばと思い、彼の元を訪ねた。横浜の自宅の部屋には天皇皇后両陛下の写真が飾られ、居住いも正しく、矍鑠(かくしゃく)たる様は、さすが元皇軍兵士と思わせるに十分だった。
 開氏は大正十五年、富山県生まれ。昭和十九年に陸軍憲兵学校を卒業し、その年の十二月に北朝鮮の羅南地区・清津の憲兵分隊に赴任している。
 悲劇が始まったのは翌年、昭和二十年八月九日、ソ連軍侵攻により、南方に主力兵を取られていた慶興分隊、清津守備隊は瞬く間に全滅。北朝鮮では天皇の玉音放送がなされた十五日以降もソ連軍の爆撃が続き、日本軍が正式に武装解除したのは、その数日後で、開氏が語る地獄絵図は、その混乱の中で生じていたのだ。
しかし、ソ連の正規軍がやってきても、北朝鮮にいる日本人の受難が終わったわけではない。

◆ケダモノ以下の囚人ロシア兵
「敗戦と同時に北朝鮮に南下してきたロシア兵(ソ連軍)はケダモノ以下でした。当時、日本人は民間人も含め、我々兵士と共に、家を朝鮮人に奪われて、学校や工場などで避難民生活をしていたのですが、ロシア兵は。ヤポンスキー・マダムーダワイ(日本女性はいるか?)と、若い女性を捜し回り、見つければ、その場に押し倒し、集団強姦です。しかも物陰でなどという配慮など一切ありません。当然、目の前で娘や妻が犯されるのですから、父親や夫は止めに入ります。そ
うした場合、即、射殺です。我々兵士も武器を取り上げられており、如何ともしがたく、それはもう地獄絵図でした。だから、顔に泥をなすりつけ、頭を丸刈りにする日本女性もいましたが、奴らの目から逃れるのは難しかったようです。
 この先遣隊は、殺人犯や強盗犯で編成されたいわゆる。”囚人部隊゛だったようで、その後、正規軍が入ってきて、状況は少し改善されました。日本軍もロシア兵も同様ですが、正規軍は厳しい軍律がありますから、民間人に不法な事をしたら軍法会議にかけられ極刑です。だから、人前で強姦するような乱暴なことはしません。とにかく囚人兵レベルの低さといったら……。人相は凶悪そのもの、やることなすこと人間ではないのです。なにしろ日本人の前でズボンをおろして平気な顔で排泄するのですからあきれるばかりです。正規軍のロシア兵は。あいつらは、死ぬ運命にあった死刑囚もたくさんいる。ここまで生きられただけもうけものだ”と吐き捨てるように言いました。まあそれでも、正規軍がきてからは、目にあまる強姦や殺戮が減り、我々日本人が少しは助かったのも事実です……」
 元憲兵伍長・開勇氏は、そこまで一気に語り、大きく息をついた。満洲や朝鮮半島にいた多くの日本兵がソ連に捕えられシベリア抑留となったが、開氏はアルチョム収容所から南の古茂山収容所に送られるため五百キロ歩かされている時に、ソ連軍警備兵の目をかいくぐって必死の脱走を試みて成功したのだが、南下する際、朝鮮人の保安隊に、日本軍の敗残兵と見破られ、再びソ連軍に引き渡されてしまった。下着に所属部隊と名前が書かれていた(戦死した際の認識票代わりに日本兵は皆そうしていた)のが致命的だった。ちなみに当川りの北仙川では、人民似安隊だの特別警備隊と名乗る朝鮮大武装自警団が践厄し、街道に関所のようなものを設け、日本人避難民から通行料だといっては金目のものを強奪したり、日本兵を一人当たり約五十円でソ連軍に売り飛ばしたという。私は三百人の日本兵とともに、再びソ連兵に連行されることになったのですが、その道中でのことです。山道を芋虫のように地べたを這いながらこちらに進んでくる奇妙な人間の姿を日にしました。近付いてみると、両手と膝に草履をひざにも草履をくくりつけ、四つん這いになってそろりそろりと歩む老婆でした。゛おばあさん、どうしたのですか?”と問うと、”息子夫婦は先に逃げたのですが、匿ってもらっていた朝鮮人に家を追い出され、私一人、南鮮へ行くところです。腰が悪いので、こうして進むしかありませんや”と言います。さすがに我々は絶句しました。助けてやりたくても、連行される身の我々にはどうしてやることもできません。
堪り兼ねた兵隊の一人が。”親を捨てて逃げるだなんて”と呟くと、”息子夫婦には私か頼んで逃げてもらったのです。無事に内地に帰ってくれればいいんです。恨んでなんかいません。戦争に負けたのですから゛と言い残し、やがて老婆は見下ろす私たちを後に、南に向かって、そろりそろりと這って行き、私たちも無言のまま北へ歩き出しました。しばらくして思わず後ろを振り返ると、黒い豆粒のようになった老婆が、峠の向こうに消えてゆくのが見えました。涙なんて出ませんが。戦争に負けるとは! 心も死ぬことなのだとつくづく思い、足だけでなく心までずっしりと重くなりました。

◆平壌で三百体の死体処理
 開氏は、北へ向かう行軍の最中、再び脱走を試み、成功。運よく平壌まで逃れた。
「平壌には下平避難民団(関東軍野戦貨物部及び、その指揮部隊家族約八百名)と、横内清津避難民団(下平方面在住者の約二百八十名)の二つの避難民集団がありました。私は清津避難民団に紛れ込みました。
しかし、ここでも十月下旬になると船橋里警察署から。十七歳以上の日本男子はただちに出頭せよ‘と通達がありました。ソ連軍に引き渡され、シベリア送りになるのは当然予測されましたが、男達は皆観念して、警察署に出頭しました。そうしなければ老人や女子供に迷惑がかかるからです。私も。今度こそシベリア送りだ”と覚悟しました。ところが日が暮れ始めた頃。”今日は帰っていい。後日の呼び出しまで待機せよ”といわれ、拍子ぬけしたものです。どうやら、船橋里警察署の署長の奥さんが日本女性で、裏からなんらかの工作をしてくれたようです。あの戦争を生き延びた者は、皆、そうした僥倖(ぎょうこう)に恵まれた者だけです。
 それはともかく、冬の訪れとともに、バタバタと避難民達が死に始めました。劣悪な環境下で栄養失調、腸チフス、アメーバー赤痢、マラリアが蔓延し始めたのです。私は平壌日本人会東平壌支部奉仕葬儀班に参加し、毎日のように死体を大八車に乗せ、十キロ程離れた瀧山共同墓地へと運びました。冬場は雪で轍が凍結し、道がでこぼこでなので、遺体が踊りだします。何しろ遺体をくくりつける紐すら入手困難だったのです。でもそれはまだましでした。春が来て夏が近くなると、遺体の腐乱が速くなり、荷台が揺れるたびにチャポン、チャポンと体液が飛び散り顔や体にかかります。そしてどこからともなく、銀バエがやってきて、我々の周囲を飛び回って離れません。朝鮮人に。日本人、臭いぞ! あっちいけ”と罵られ、石まで投げつけられました。こうした毎日を繰り返していると、人間は少々のことでは動じなくなります。
 しかし、そんな私でも脳裏に焼き付いて離れない遺体がありました。あれはたしか女性の遺体でしたが、死体置き場に行くと、顔全体が筋肉体操でもしているかのように、グリグリと激しく動いているのです。よく見ると、目・耳・鼻・口、穴という穴に巨大な姐が庭いており、その姐が皮膚の下の腐肉を食い荒らしていたのです。それでも、四人の仲間と手足を持って、掛声もろとも遺体を大八車に引き揚げようとしました。その瞬間です。だわだわだわわと尻の穴から赤黒い得体の知れない体液とともに腐った内臓やウジ虫、回虫が滝のように流れ出し、その臭いといったら半端でなく本当に卒倒しそうになりました。
 当然、私もアメーバー赤痢にかかってしまいました。そうはいっても休むことはできません。なにしろ避難所の状況は日に日に悪化してゆきます。死んだ赤ん坊を三日間も抱き続け放心状態の母親、”うどん、うどんはいらんかね~”と、自らの口から吐いた川虫を洗面器にいれて徘徊する気が触れてしまった青年。毎日のように人が死んでゆく光景が日常風景となり心も動かなくなってゆくのです」
 三百体ほど遺体処理をした頃、疲労困信した開氏の様子を見かねた先輩が、ソ連軍将校の集会場となった桜町ホテルを紹介してくれ、そこの住み込みボイラー焚きとなって精神の小康を得たという。
「とはいえ、そこも大変なところでした。日本人の避難民が毎日やってきて、残飯漁りをするのです。もっとも私自身もボイラー焚きの傍ら、肉や魚の骨を誰よりもはやく漁ってしゃぶりついていたのですから浅ましいものです。その頃のことです。
ソ連兵の将校に。日本人女性の家政婦を紹介してくれないか?ぷと頼まれました。。朝鮮人はダメだ。来るたびに必ず、かが無くなる。それも、砂糖一杯とか、じゃがいも一個とかだが、盗まれていると思うと家の中でくつろぐことができない。その点、日本人女性はどんなに貧しくとも、盗むことは決してしない‰その言葉を聞き、私は。戦争に負け、こんな悲惨な状況になっても、日本女性は凛として生きているんだ々と嬉しくなり、何故か故郷の老いた母に無性に会いたくなり、決死の覚悟で釜山を目指しました。どうにか三十八度線にたどりつくと、そこに待ち構えていたソ連兵に、わずかに隠し持っていた時計や地図など、それこそ身ぐるみはがされました。北と西のわずか三、四キロですが、方角もわからず、三日三晩山中を彷徨いました。至るところに死体が転がり、死臭が蔓延していたのを覚えています。
 そして精も根も尽き果てた頃、誰かが。南だ! 漢城(現ソウル)の灯がみえるぞ!と叫びました。ふらつく足で小高い丘に登ると、確かに眼下遥かに街の灯が広かっていました。。助かった! 俺達は助かったんだぞ”避難民達は皆、感極まって泣きました。山を降り、米軍基地の天幕村にはいって、私たちはようやく人間の世界に生還できたのです。釜山から船に乗って博多に復員したのは昭和二十一年九月三日。故郷に帰ると痩せ衰え、死に神のようになった私を抱きしめて、母はさめざめと泣きました。私も泣きました。あの時、再び母にあえてどんなにうれしかったことか、私には生涯忘れられません」。

◆日本人よ、沈黙するな
 その開氏は十年近くかかって仕上げた、一冊の本と分厚いノートと二枚の地図を宝物のように保存していた。ノートには満洲、朝鮮で死亡した軍人千六十八柱の氏名・階級・本籍・処刑場所や自決場所がぎっしりと書きこまれている。自ら政府機関や関連場所を訪ね歩いてまとめたものだという。満洲・朝鮮の二枚の地図には、民間人の死者数がびっしり書き込まれている。その数、満洲・三十五万八千八百人、朝鮮三万四千六百余名。

「気が遠くなるような作業でしたね」と私か問うと、開氏は子供のように照れた笑顔を見せ「無事に復員できた私のせめてもの償いです。この人たちのお陰で、私はいまも生きていられるのですから。最後の使命です」
 開氏にインタビューした数週間あと、私は、(ハルビン、長春、瀋陽、大連と旧満洲の街々を旅した。それらの各都市の抗日記念館には、明らかに握造と思われる写真や蝋人形で、日本軍が悪魔か狂人のように表現されていた。中国共産党が外に敵を作り、国内に不満を封じ込めようとするための施設とはいえ、いかにも常軌を逸したものだった。
 開氏だが冒頭で述べたように、正規の軍人は、たとえソ連兵であっても、民間人に悪魔のような所業は組織だってはしないものなのだ。そんなことを許したら秩序や軍規はバラバラになり、軍としての機能もしないし、敵との戦いもできなくなる。そんなわかりきったことを忘れている日本人がなんと多いことか。
 ベトナム戦争で韓国軍がベトナムに参戦した際、ベトナム人女性を強姦して産まれた混血児が釜山日報によると最少五千人・最大三万人(釜山日報)。又、第二次世界大戦の際、ドイツに侵略したソ連兵に、約半数近くのドイツ人女性が強姦され、そのうち約二〇%の女性から混血児が産まれたという。
 一方、日本軍が駐屯していた東南アジアで現地女性への強姦による日本人の混血児が産まれたという事例はあまり聴いたためしがない。慰安婦制度は、そういった悲劇を防ぐためにも取り入れられたものだった。にも関わらず、″日本軍はアジアの女性約二十万人を性奴隷にした”などといったデマが世界に喧伝されている。
すでにほとんどが鬼籍に入ってしまった日本軍兵士と、性奴隷に既められた慰安婦達、握造された不名誉な歴史を背負わされかねない日本の子供達、彼らの尊厳を守るため、日本人はこれ以上沈黙してはならない。

≪大高未貴≫
一九六九年生まれ。フェリス女学院大学卒業。世界百力国以上を訪問。チベットのダライラマ十四世、台湾の李登輝元総統、世界ウイグル会議総裁ラビアーカーディル女史などにインタビューする。『日韓。円満々断交はいかが? 女性キャスターがみた慰安婦問題の真実』(ワニ新書)、『イスラム国残虐支配の真実』(双葉社)など著書多数。『テレビ・タックル≒ニュース女子』『DHCニュース虎の門テレビ』などに出演している。

スポンサーサイト

敗戦による朝鮮半島引揚げの惨事 ③

敗戦後の日本人資産の略奪を現地人の目から見た貴重な証言である。

「朝鮮戦争の真実 -元人民軍工兵将校の手記-」 朱栄福 1992年 悠思社

(1945年8月8日、ソ連が日ソ中立条約を破って対日宣戦を布告し満州と朝鮮に侵攻してきた。)15日の夜、(朝鮮半島北部にある)羅南の(日本)軍当局は最後の破壊作戦に出て、全市の軍事施設に火をかけて焼いた。その夜、ぼくは鏡城の北にあたる山の上から、炎上する羅南の赤い空を眺めていた。…36年、わが国を軍靴で踏みにじってきた侵略者の断末魔の光景であった。朝鮮の農民たちは、15日(終戦日)が過ぎても何が起こっているのか正確には知らないでいた。

ただ、津波の引き去るように逃げてゆく日本軍、警察、一般日本人が、もう二度と戻ってこないようにと願いながら、そのさまを眺めていた。(中略)羅南の軍事施設が燃えた晩、市内は無人地帯であった。数千人の日本人は、臨時疎開して、すぐ帰るつもりであったかもしれぬが、市が燃え尽きても、ついに一人も戻らなかった。日本人は永遠に去ったのである。帰ってきたのは全部朝鮮人であった。彼らは、防空壕からはい出し、あるいは郊外の避難先から、続々戻ってきた。火災の翌日、いたるところに余燼のくすぶる市内で、物資あさりの騒乱が始まった。

窓も門も開け放しのまま去った日本人の空き住宅、商店、倉庫などにアリのように人間が群がった。家財、衣類、食器、装飾物、楽器、娯楽品、靴、傘、書籍、自転車、あらゆるものをかっさらい運び出すのに忙しかった。町全体が怒鳴り合い、奪い合い、誰もが目を皿のようにして走っていた。ある人はトランクを担いで逃げる。ある人は自分の体よりも大きい布団袋を引っ張って走る。ある人はリヤカーに山ほど積んで汗を流しながら家に急ぐ。ある婦人は衣類をいっぱい頭に載せオーバーを抱えて土手にのぼる。ある老人はチゲ(背中に荷物を担ぐ時に用いる木製の背負子)の上に衣類ダンスを担いで走る。みな走る、ぶつかる、ののしる、宝物を求めて、より大きい高級住宅に入る。

先着の略奪者は血相を変えながら部屋から部屋に出入りする。集めた品物から目を離したとたん、別の者が担いで逃げる。家に持って帰っても、また出ていくと、その間に誰かが来て持ち去る。こういう時には誰も安心できない。隣り近所、みな疑心暗鬼である。避難先から帰りの遅れている肉親をののしる。だからといって呼びに行く暇もない。

――あのとんま野郎!こういう重大な時に家にいさえすれば、いっぺんに大金持ちになれるのに・・・!二、三千軒の日本人民間住宅と商店、数百件の焼け残りの軍用官舎は、わずか五、六時間でスッカラカンになった。ぼくが羅南に着いた時は、そういう"敵産の分配"が終わってから一週間もたっていた。残るのは日本人の不動産である。日本人の家屋、商店、車庫、倉庫の壁や門に、色とりどりのペンキで、大小さまざまに、ハングルや漢字で所有者の名前が書かれていた。

"李XXの家"と書いた反対側には、もっと大きな文字で"金XXのジップ(家)"と書いたり、前に書いた文字を消して一尺もある大きさの漢字で"この土地は40年前のわが祖先の土地なり"と書いてあったり、"この建物では近き将来平和食堂開業予定" "まもなくアリラン床屋になります" "この建物の主、日本人某は一週間前、小人(自分)に移譲せり"等々、何とかして自分のものにする口実を書きつけていた(まもなく敵産家屋、土地、軍事施設は全部登録され、政府または全人民の所有になった)。ぼくの伯父が住んでいた初瀬町のはずれの谷間の入り口に、小玉(こだま)氏経営のよく手入れした農園があった。解放前には周辺の朝鮮人は皆、小玉さんを尊敬していたが、世の中が逆さまになって、皆、彼を"日帝の悪質地主"とののしった。今度の騒動で、小玉邸も無疵なはずはなくサジ一本、畳一枚残さず、すっかり群衆に没収された。

引揚げの惨事は北朝鮮だけに起こったのではない。南朝鮮(韓国)においても、日本人に対し朝鮮人はあらゆる悪事を働いた。北と南に民族性の違いはないのである。


「大東亜戦史8 朝鮮編」 池田佑編 昭和46年 富士書苑
夜明けの舞台裏    中保与作(元京城日報主筆)

(終戦とともに)朝鮮人は、全鮮各地で、公然と日本の諸機関や日本人の財産の接収を始めだした。京城では、総督府に近い中心の鍾路をはじめ幾つもの警察署が朝鮮人の手に帰した。ピストルを狙って襲撃する者もある。警察官にも襲撃者側にもぞくぞく死傷者が出た。ほとんど、どの駐在所からも巡査が姿を消してしまった。

駐在巡査の大部分は朝鮮人であったが、職場を守ろうにも、大勢で襲撃されるので2人や3人では守っていられなくなったのである。このように警察が力を失い出した矢先、安在鴻の放送があった(朝鮮の建国準備委員会が政治の実権を握ったかのように放送した)ので日本人に日頃恨みを抱く者や泥棒は、この時とばかり、目ぼしい日本人の家へ押しかけた。

泥棒はたいていピストルか刃物を持っているので、街々にはあちらでも、こちらでも、たまげるような悲鳴が起こった。「助けて!」と呼んでも呼んでも、誰も表へ出るものがなかった。日本人はもう互いに助け合わないと知ると、今度は3人、5人と組む集団強盗が横行した。

(中略)(米軍進駐後、筆者の勤める京城日報社は米軍の管理下に置かれることになった)米軍政府は間もなく朝鮮人李相哲を管理人に指名した。江原道で鉱山の仕事をしていた李にこうした任務を与えたのは、米軍政長官の側近にいる知り合いの旧宣教師が斡旋したからであると言われた。「あなた方は、運悪く、とんでもない悪党に、管理されることになりましたね」と李の甥にあたる、毎日申報幹部が私たちに同情した。

(中略)当時の米軍政庁は、英語さえできれば、どんな朝鮮人でも重用し、一々その言うことに従った。一般の朝鮮人はそれを「通訳政治」だといってあざ笑った。英語を話したり、米軍に好意を寄せるものは、たいてい極端な反日家である。これらの人々は、何事につけ、日本人を極悪非道の人間に印象づけようとし、朝鮮にある日本人の財産は全て搾取し略奪したものであると言い続けたのである。

(中略)李管理人は、1年前からの伝票を取り出して一々収支を調べさせ備え付けの写真機などの比較的値段の高いものはもちろん、1冊の書物、紙片1枚に至るまで猜疑の目を光らして点検した。足りないと思うものについては一々弁償を要求した。私ども社長、副社長に対する解散手当ても前年度の賞与も不当であるといって返還を迫った。日本人社員が引揚げ後、生活の道を得るまで、補助機関として設けた京日互助会の基金50万円も取上げてしまった。私はそれをよこせという要求を受けたとき、「それは、互助会のものである。君は互助会までも管理しに来ているのではない」と拒んだが、私の留守に米兵を連れてきて金庫を開けさせ、それをどこかへ持って行ってしまった。当時の50万円といえば、300倍に計算しても今の1億5千万円である。

李は、彼が雇い入れた朝鮮人たちを使って、「日本人の幹部連は隠していた50万円を、それぞれ山分けしてふところに入れた」と宣伝させた。どの団体も、どの会社も多かれ少なかれこれに似た災難にあったのである。中には帳尻が不明だというだけの理由で投獄されるものさえあった。自宅の畳の下や、便所の上に2、3万円の金を隠していたということで拘引される者もあった。

本社の地方部長なども北緯38度線以北から南下する支局員たちの給料や解散手当てを預かっていたのをみんな取上げられてしまった。猜疑心の深い李は刑事を使ってまで私たちを脅迫した。20代のその刑事は「きょうは、留置場入りの用意をして来るように」と家へ電話したこともあった。

(中略)ここでは京城日報だけを挙げたがこれは、ひとり、京城日報だけのことではない。30年、40年、親子2代、3代にわたって営々と築いた血と汗の結晶も、およそ目ぼしい日本人の財産はことごとく強奪されたのだ。後で記すように、託送荷物までもことごとく取上げてしまったのである。日本人の土地、日本人の家屋、全ての日本人の不動産は朝鮮人に直接売ることを禁じられた。それは、事実上その代金を朝鮮人から受け取ることを禁じたのである。

(中略)日本人の預金は全部凍結された。1家族1ヶ月千円払い戻されるだけになった。どんな財産を持っていた者もこの千円が、最後の命の綱となったのである。引揚げにはリュックサック1つしか許されない。なまじ家財らしい物を持っていると強盗に付け狙われるのである。むしろ、それを売って金に換えたほうが始末がいい…というので、思い出のこもった家具も什器もいっせいに街頭へ並べ出した。8月16日以来、日本人はみんな古道具屋さんになったのである。

朝鮮人たちはそれを二束三文に値切っている。中には、「いずれ遠からず、戻ってくるから… 」と、家も家具も什器も、全てを懇意な朝鮮人に預けて日本へ帰った人もあったが、大抵の日本人はもはや、リュックサック一つが唯一の財産になってしまった。それでも、2人、3人と組んだ強盗が宵の口を狙って、最後の金、最後のリュックサックまで持って行った。米軍の保護は、少しも日本人には及ばなかった。日本人がどんな被害を受けても、それを取り調べようともしない。言葉という不自由な障壁があるせいもあるが、どこまでも日鮮双方の争いに割り込みたくないという態度である。目の前で行なわれる暴力沙汰は一応抑えるが、「いま、強盗が入ったから… 」と、MP(米軍憲兵)の駐在所に訴えても、駈けつけてくれはしない。

知ってか知らずか、家を強奪しようとする朝鮮人に同行している米軍大尉もあった。U総務局長の建てたばかりの住宅を、タダで引き渡せといってきた朝鮮人があったが、米軍大尉は、その男の横に腰をかけて時々、英語で話しかけるその男の言葉に耳を傾けた。Uは、「どういうわけで、私があなたに私の家を提供しなければならないのか」となじると、「まあ、僕に見つかったのが災難と思って、あっさり渡すことですナ」と言って、また米軍大尉に耳打ちするのであった。

「日本人は、無警察の国というより、強盗国のまん中に、座っているようだね」と私たちは語り合った。1日1日、昼でも、街のひとり歩きが危ぶまれだした。〃倭奴、早く帰れ〃 という宣伝ビラがまかれてゆく。それには、「船便がなければ、泳いで玄海灘を渡れ」とも書いてある。「俺は、ここで骨を埋めるつもりで来たんだから、帰化してもここに残る」と固い決心をしていた人々も、「もはや、これまでだ」と言い出した。「親兄弟の墓を守りたい」と思っていた人々も、墓石をバラックの土台とし、その上で焼酎屋やヤキトリ屋を開いているのを見て、やはり、引揚げのリュックサックを買うことにした。

親たちや、夫や妻や、わが子わが兄弟の遺骨が土足に踏みにじられ、不浄なものさえかけられているのは、とても見るに忍びないのである。(中略)私は、毎日のようにバルコニーへ出て、引揚げ列車が無事に漢江の鉄橋を渡りきるのを見送った。やがて、私自身も暮れ近い鉄橋を、引揚げ列車で渡った… 引揚げ列車といっても貨車にむしろをひいたものである。隙間から研ぎ澄ました刃のような寒風が入るのである… 危険なのは、途中で汽車をすめることである。

停車すると、たちまち群衆が押し寄せて金をせびり、女を引きずり出そうとした。機関手や車掌が3万円、5万円というチップ要求し、誰もそれを出さぬと、「機関車が故障を起こした」といって山中や野原で、ガタンと車を停めたこともあった。(中略)引揚げ列車が出る竜山駅へ、くる日もくる日も、延々と長蛇の列が続いている。ひとり者のBのお婆さんが、竜山へ出かけたばかりなのにあわただしく帰って来て、ガラン洞の我が家で泣いていたこともあった。

訪ねてゆくと、「私はもう、国へ帰れない」と言って、身もだえしているのである。「婆さんしばらく、あんたも帰るんですか」となれなれしく近寄る若い男があるので、「ながながお世話さまで」と挨拶すると、「その荷物、私が担いで上げましょう」と親切気に取り上げて、その男は間もなく人ごみの中へ姿を消してしまったのであった。もしや元の家へ戻ってはいはせぬかと来てはみたが、「もう誰もいやしません」と、身寄りのないこのお婆さんはサメザメと泣き伏した。駅前で用を足している間に、最後の財産であるトランクを盗まれてしまった人もあった。

血まなこになって走り回ると、2、3町先の路傍でそれを開いて、セリ売りを始めている男がある。「それは僕のものだ」と言い寄ると、その男は「ナニッ!なんの証拠があって、そんな言い掛かりをつけるのか」とつかみ掛かるのであった。群集が、「なんだ、なんだ」と取り囲むと、打つ、殴る、蹴るの狼藉。――たちまち、顔も手も血と泥にまみれて動かなくなってしまった。

路傍では、ツギのあたったあわせや、赤子のオシメを指でつまみながら売っているのを見たこともある。「こんなものまで盗らなくてもよさそうなものだ」と思った。それと同時に、こんなものをせめてもの財産として大事に持って帰ろうとした人には、どんなに深刻な痛手であろうと思うと、とめ度もなく涙が溢れ出るのであった。
戦時中の朝鮮人強制連行の発掘作業は、人権問題として反日左翼・市民団体によって熱心に進められており、新聞・テレビなどで目にすることも多いが、日本人の悲劇は彼らの関心の対象外のようだ。


ぢぢ様玉稿集 大日本史 番外編 朝鮮の巻 から引用
http://mirror.jijisama.org/

敗戦による朝鮮半島引揚げの惨事 ②

「生きて祖国へ5 死の三十八度線」 引揚体験集編集委員会編 昭和56年 図書刊行会発行
(日本敗戦後一年が過ぎても北朝鮮内の日本人の移動は禁じられていた。筆者のグループは賄賂を使ってトラックを雇い南朝鮮への脱出を決行することになった。)私も居所を中心とした50人ほどのグループに参加した。昭和21年9月中旬、朝鮮警察のトラックを使用する。料金は一人千円ということで、赤ん坊も含めて、私は六千円を支払った。

(中略)夕闇の迫る時刻に平壌郊外に集会することになった… 全員乗車し終わると、大きなシートで人間を覆って、トラックは始動をしはじめた。あのエンジンの音の嬉しさと恐ろしさとは忘れることができない。途中、第1のソ連兵の関門を通った時、停車を命ぜられたのにトラックはそのまま猛スピードで逃れて発砲された。銃の発射音を聞いたが、別状無く進んだ。第2、第3の関門では、用意の賄賂の酒瓶を与えることで無事通過した… 市辺里で全員トラックから下ろされ、後は徒歩になったのだが、牛車が2台待っていて使用を強制され、荷物を載せて身軽で歩いた。

牛車代はもちろん多額が要求され、次の部落では次の牛車に載せ替えられてまた金を巻き上げられる… いよいよ38度線が稜線だという山にかかると、牛車から下ろした荷のうち、病人や老人の荷は、強制的に数人の朝鮮人たちの背中のチゲ(背負子)に載せることになる。山の中腹に煙が見えた。そこはチゲ部隊の交替地であった。もうこのころには、醵出(きょしゅつ)する金は無くなっていたが、物でもいいと言われ、せっかく、わざわざここまで運んできた物を大部分取上げられてしまう。稜線まできたチゲ部隊に、「こんな少しばかりで、お前ら、日本へ帰れると思うのか。

もっと出せ出せ!!」と威かくされ、残りの物まで投げ出し、疲労困憊の老幼男女は、狂気のようにこの38度線の山稜を駆け下る。ああ、ここは衛生施設の整ったアメリカ軍管轄の開城府のテント村であった。この脱出コースは、関所があり、検査所があり、牛車やチゲによって金銭や持ち物を日本人から取上げてしまおうという、最初から最後まで彼らの計画の略奪コースであったのである。このようにして、病死を除いた引揚者は、命だけをようやく日本へ運んだということになったのだった。 (常松泰秀)


「平和の礎 海外引揚者が語り継ぐ労苦12」 平成14年 平和祈念事業特別基金発行
私の三十八度線突破記録  梶山緑
(筆者の家族は朝鮮北部の咸境南道元山市郊外にある文坪という町に住んでいた。)8月15日(終戦日)を境にして、それこそ天地がひっくり返ったようになり、いく先の運命は段々と暗くなっていった… 文坪の町も日に日に治安が悪くなっていた。しばらく鳴りを潜めていた朝鮮過激分子の跳梁が始まってきた。

元山でも朝鮮人が暴徒と化して、日本人経営の店や住宅にまで押しかけて暴行、略奪を始めたという噂が入ってきた。私たち文坪在住の日本人も、このままでは危ない、何か対策をたてないとということで相談を始めたところに、朝鮮保安隊(朝鮮人による警備隊)から指示があった。その内容は、「日本人は町中の一ヵ所に集め、集団生活をさせることとなった。

2世帯か3世帯が一緒になって同居のような形になる」というような内容だった。態度を豹変させた保安隊員は、指示により他に移り住む人々を、まるで囚人を追い立てるかのように家から追い立てていた。まだ移転する準備もできずに家財道具も整理していないのに、小銃などで追い出していた。私の家も追い立てられて、よその人の家に同居することになった。そのうちに、ソ連軍が進駐してきた。

ソ連兵は保安隊員の先導で日本人の住宅地区にやってきて、家中を物色しありとあらゆる家財道具を略奪し始めた。その内のめぼしい物がなくなってくると今度は、「女!女!」と言って若い女性を連れ出すようになってきた。私たち若い女性は、頭髪をぷっつり切り落とし丸坊主になり、貧しい男の子のように薄汚れた服を着るようにした。ソ連兵や保安隊員が来ると、いち早く床下に隠れたり、前もって準備して掘った穴に身を潜めた。時には敗戦後も親しく付き合っていた近所の現地民の家にかくまってもらったりもして難を逃れていた。

こんなに恐ろしいことになったのも、それまでは日本の警察官補助者として忠実に治安維持の仕事に就いていたのに、日本の敗戦と共に治安維持体制が根本から崩壊し、指導者であった多くの警察署長や上級の警察官が、自らの手で自らの命を絶つような行動をとり、最後まで残った日本人を保護するという体制がなくなり、警察官補助者であった者が保安隊員となって報復心しか持っていなかったことが原因ではなかったかと思う。

命を削り取られるような不安におののく毎日であった。男の子のような姿になっていても、顔見知りの保安隊員に見つかるとすぐにソ連兵に密告され、ソ連兵の先導として襲ってきた。保安隊員は、あたかも手柄をたてたような顔をしていた。ソ連軍の将校クラブができて、そこにも日本女性が数人ずつ毎日のように連行されていった。私の住んでいた集団住宅にも度々、ソ連兵が銃を片手に構えて略奪にやってきたが、私は幸いに発見されなかった。

(中略)そのうち満州におけるソ連軍の不法侵入によって終戦前から避難行を開始していた開拓団員などの人々が、乞食同然の身なりで鴨緑江をなんとか渡って、ここ文坪にもやってきた。十数日間、食べるものも食べられず、わずかな荷物を持って逃げてきたので衰弱がひどく、寒さよけにタオルを首に巻いていたが、そのタオルが重いと言っていた。

しかし文坪でもそれらの人々を暖かく迎えることはできなかった。かわいそうだという気持ちだけで、食べ物も満足には渡されなかった。このときの惨めな思いはそれから当分頭から離れることがなかった。秋がやってくると、この北朝鮮は寒さが身にこたえてくる。こうなると無謀な脱出はできなくなるので、時期が来るまでここで避難生活を続けて越冬をすることとなった。

しかし治安は相変わらずで、保安隊員とソ連兵の行動に一喜一憂していた。あるときは、保安隊員がやってきて、「日本人は全員帰国することが許されたので、本日の午後3時までに、駅前広場に身の回りの最小限の荷物だけを持って集合せよ」と言って回った。突然の話でびっくりしたが、やっと日本に帰れるという喜びが先走りして、疑うこともなく一同小躍りして喜び、早速に荷造りを開始した… 両手には当座の食糧をこれまた持てるだけ持った。

準備ができて全員いそいそと駅前に向かった。あとのことは知人の朝鮮人に頼んでいた。もう帰国することだけが頭にあった。元山駅に向かって歩き出した… 数時間歩いただろうか、夜も更けていた。突然に保安隊員が走ってきて、行列を停止させて、「今夜の引揚げは都合により中止になった」と、いとも平然とした態度で言い放った。みんな放心したようになってその場にへたへたと座り込んだ。

しかしここで座り込んでいてはどうにもならないので、お互いに励まし合って、またもとの道をトボトボと引き返して家に戻った。戻ってみてびっくりした。家の中がひっくり返ったように荒らされていた。タンスの中に残してあった母の着物や、私の赤いチャンチャンコなどがどこにも見当たらなかった。実は、これは引揚げのために元山に向かうといって日本人を家から出して、その間に空き家になった家に入り込み、残っている物を略奪するための手段だった。

その上に今度は、住居まで替えられて棟割長屋に数所帯が押し込められてしまった。リュックサックに詰め込んだほんの身の回りの品だけが財産となった… 布団などは、前の家に取りに行くことは許されたが、残っているのは古い汚れた物ばかりだった。厳寒の冬になると、集団生活をしている者の中にも発疹チフスなどの伝染病が蔓延し、老人や赤ん坊などが次から次ぎと死んでいった… 薬もないし医者もいないので、そのうちに若い人たちも高熱を出して死んでいった。

不安は日に日につのるばかりだが、冬の間はここから脱出することもならず、なすすべもなくただ過ごすほか策はなかった。ソ連兵や保安隊員の傍若無人ぶりは、相変わらずであった。女性に対する暴行事件も後を絶えず、暴行を受けた人の中には自ら死を選んだ人も多かった… 死者が出ても葬式をだせるはずもない… なんとかしなければと有志の人たちが、保安隊の幹部に申し入れてやっと許可を得た… 深さ1.5メートル、幅2.5メートルぐらいの穴を掘り、そこに山から風倒木を運んできて薪をつくり、それを土の上に敷き並べて、さらにその上に遺体を数体ずつ置き、石油をかけて四方から火をつけて荼毘(だび)に付した。 

家族の者や作業をしていた人だけが手を合わせて野辺の送りをしたが、運命とはいえ、悲しく、かつわびしい有り様でした… 保安隊では、お骨を持って帰ることを許さなかった。噂話で聞くところによると、遺体が灰になった後、金歯などの貴金属を探して持っていったということだった。(中略)昭和21年の正月を収容所で迎えた。その頃になると満州の奥地から、また、鮮満国境地帯から元山を目指して避難してくる人が増えてきた。 

…相変わらず発疹チフスは猛威を振るっていて、やっとここまでたどり着いたが、ここで発病して死んでいく人も多かった。 …収容施設も超満員となった。これ以上の人が入ってきて、いつまでもこの状態でいたら全員共倒れとなってしまうだろうという話になり、ここから歩いて元山に向かって脱出しようという相談が始まった。 …やっと綿密周到な、「集団脱走計画」が完成した。決行日は、昭和21年4月3日の夜と決定された… 

北朝鮮からは今日に至るまで、日本人の正式な引揚げというものは全く、行なわれていない。命からがら38度線を越えて日本にたどり着いた人々は全員、それぞれその個人の労苦と努力によって38度線という関所を、ソ連兵や保安隊のすきをみて突破・脱出してきたのである。それに失敗した多くの同胞は、途中の鉄原辺りでソ連兵などに見つかり、銃殺されたり、または、国境近くの河を渡る寸前で捕まっておくり返されたりしてしまった。

いずれも暗夜に乗じて決行したが半分以上の人々が失敗してしまったらしい。元山から多額の金を払って船を雇い、集団で脱出しようとしたが、途中の38度線近くの江原道付近で、だまされて上陸させられたということもあったらしい。それこそ死を覚悟しての38度線突破以外に、南朝鮮にたどり着く方法はないということになった。私たちの脱出グループは70人ぐらいで、老若男女入り交じった集団だった。もうあまり残っていない身の回り品をリュックサックに詰めて当座の食糧も入れて背負った。

ソ連兵や保安隊員の目につかないように、あらかじめ集合場所として定めていた文坪西側の山中に、三々五々と集合した… 闇夜の中を異様な姿の列が、南に向かって進み出した。38度線突破行の第一歩がこうして始まった… 東海岸沿いの山中の間道を歩いた。夜は主に野宿をしたり、好意的な朝鮮人の家の庭先や、納屋に分散して泊めてもらったりした… 大きな集落を通ると、村人が出てきて通行料を要求された。

通行料は10円ぐらいだったと記憶している。そのほかに荷物検査料とか、何とか名目をつけては、2、30円は取られていた… 38度線近くになると、ソ連軍側の警戒も厳しくなってきたので、昼間は人目につかないようにして休息をとり、暗くなってから歩き出すようになった。4月とはいえ、北朝鮮はまだまだ真冬並みの気候だった。特に晴れ上がった夜半などは寒気が身にしみて、歩くことも容易ではなかった… 行列の前後左右を絶えず注意しながら行軍していたが、それでも保安隊員に発見されて荷物検査されたが、寄付金名目でお金を渡すと、黙って解放してくれた。 

…連日連夜の行軍に、老人や女、子供の中には疲労が蓄積されて歩くのも困難になった人が出てきた… ある女性は、2歳ぐらいの女の子の手を引き乳飲み子を抱きかかえ、荷物を背負って歩いていたが、とうとう体力の限界がきて、もうこれ以上歩けないからここに残ると言い出した。しばらくは周りの人が交代で助けていたが、ある部落にたどり着いた時に、とうとう2歳の女の子を朝鮮人の家に預けてしまった。それからはその女性は、魂の抜けたようになって、話もせずにただ列について歩いていた。みんなも、自分のこと、子供のことだけで精一杯の極限状態だったので、だれ一人としてこれを助けるということもしなかった。致し方ないことであった。

私は、最近テレビなどで、中国残留孤児の問題を見たり聞いたりするたびに、そのことを思い出して、あの女の子はあれからどうなったのだろうかと、胸を締め付けられるような思いをする。 …3歳になったばかりの妹は私が背負い、10歳の弟と一緒に歩いていた。父母と私は地下足袋を履き、弟と妹は足首のところから上を切り取ったゴム長靴を履いていた。歩いている人の中には、藁沓(わらぐつ)を履いていて底が擦り切れ、はだし同然になって、擦り傷をつくり血を流しながら歩く人もいたが、助ける手段もなかった。

…国境近くになると警戒が一段と厳重になって。保安隊員が組を作ってあちらこちらに立っていた。 …疲労が重なってくると、列がだんだんと伸びてくるので監視の目を逃れることが次第に難しくなってきた。保安隊員に感づかれて懐中電灯で照射された時は、背筋に氷が走るような気持ちになり、もうここで終りかと観念したが、相手は気付くこともなくそのまま立ち去り、ほっと安堵の胸をなで下ろした。38度線上の山々は、標高が400メートル前後で山肌はむき出しているような峻険な姿であった。この峻険な山を登ることは、普通ではとてもできない無理なことであった。

特に老人、女、子供の一団では考えられないことであったが、しかしこれを突破しなければ脱出できないと思うと、苦にはならなかった。1日でも半日でも早く南に行きたいという気持ちが体中に満ちていた。いよいよ明日は、38度線を突破するという日の夜に、全員が集められて細かい注意事項が示された。「夜明けの突破になるので声を絶対に立てないように。特に幼児は泣かさないように」と、厳しく申し渡された。そしてさらに、「 …最後は走るようになるから履物が脱げないように上から結びつけること。荷物はなるべく捨てること」などが達せられた。

荷物に未練がある者は、無事に脱出することはできないということだった。 …ただ、ただ日本に家族全員が無事に帰るという最終目標の達成だけが全てであった。これから先のことを考える余裕もなく、言われるままにした。どの人の顔をみても必死の形相で、それは凄まじいものがあった。夜半の12時に行動が開始された。やはり若くて元気な人が先頭に立ち、老人、女、子供が続き、最後を男の人が歩き落伍する人を監視、激励していた。深々として寒気が身にしみ込んできたが、極度の緊張のためかあまり寒さを感じなかった。

ただ、サクサクと踏みつぶしていく霜柱の音だけが、耳に響いていたことを覚えている。息を殺して歩いていたが、38度線の山の頂上にはなかなか出ない。歩きながらだんだんと焦燥感が襲ってきた… そんな時に、牛を連れた家畜商人らしい者に出会った。世話人が案内料を払って国境までの案内を頼んだ。みんなは、ほっとしてちょっと気持ちが落ち着き足に力が出てきた。無言の行進が続いた。しばらく歩いている時に、家畜商人が「あの丘の向こうが38度線だ」と、指差した。勇気百倍し渾身の力をふるってまた歩いた。しかし、歩けども歩けども国境線らしきところには着かない。はじめてだまされたことに気付いた。

みんなはそれを知って、一遍に疲れが出てその場にへたへたと腰をおろしてしまった。今までの張り詰めていた気持ちが一度に消えて、動く気力もなくなっていた。その夜は特に寒さが厳しかった。腰をおろしている間にも霜が降りてきて、髪の毛までざくざくになったと母が話していた。世話人の話し合いがあり、「このまま、ここにいても凍死するばかりだから、一か八か前進しよう」ということになり、みんなは気持ちを持ち直して出発することとなった。…夜はもうとっくに明けて、太陽が上がってきた。

 …しばらく歩いていると、急に目の前が開かれたように明るくなった。山頂に出たのだ。見下ろすと川が見えた。みんなは急に元気が出て山を下った。紛れもなく三十八度線を流れている川であった。一同は、なんの抵抗もなく急いで渡った。弟が一番先に渡り、向こう岸から母に向かって、「お母さん!早く、早く、こっちにおいでよ」と叫んでいた。疲れきって歩くことも難儀になって列の後ろの方で、父に助けられながらなんとかここまでたどり着いた母は、力なくてを振って、熱のまだある体で川を渡り、弟と抱き合った。岸には鉄条網が張り巡らされていたが、みんなはその隙間から入り込んで、草むらにひっくり返ってしまった。

本当に命懸けの渡河だった。無我夢中とはこんなことをいうのだろうと、後になって思った。蓄積していた疲労が一度に吹き出し、体が全然動かなくなった。どのくらいそんな状態でいたのか思い出せないが、それこそ虚脱状態だったのだろう。自動車の音で、みんな我に帰って立ちあがった。よく見ると赤十字のマークのついた車だった。最初は半信半疑だったが、だんだんと近づいてくるのを見て間違いないことを知りほっとした。すると自然に涙が流れてきた。あとからあとから、ぬぐってもぬぐっても流れ出てきた。とうとう38度線を越え、北朝鮮から脱出できたのだった。アメリカ軍の看護婦さんが車から降りてきて、病人らしき人々を見て回っていた。

そのうちにアメリカ軍のトラックがきて、病人や子供を乗せていった。母も弟も乗せてくれた。私はなんとなくほっとした気持ちになった。(その後、筆者は2、3日収容所で過ごした後、京城から列車で釜山へ行き帰還船に乗って無事に故郷へ帰った。)戦争は、本当に怖く悲しいものである。アルバム一つ残せなかった私たちですが、しかし、家族が一人も命を落とさなかったことが唯一最大の救いでした。帰国が果たせなかった多くの人が、異郷の地で死んでいったその怨念を忘れてはならない。謹んで哀悼の意を表したいと思う。

北朝鮮に対し植民地支配の謝罪と賠償をしなければならない、という論調のマスコミがあるが、一方的な謝罪と賠償などもってのほかである。


ぢぢ様玉稿集 大日本史 番外編 朝鮮の巻 から引用
http://mirror.jijisama.org/

敗戦による朝鮮半島引揚げの惨事 ①

共産主義国家の蛮行は左翼マスコミに無視されてきた。
「韓国・朝鮮と日本人」 若槻泰雄 89年 原書房

惨憺たる北鮮引揚げ日本の連合国への降伏により、日本軍は38度線を境に、南鮮はアメリカ軍、北鮮はソ連軍へ降伏するように指令された。南鮮の日本人は終戦の年の暮れまでにほとんどすべて引揚げたが、北鮮では約31~2万の日本人がそのまま残っていた。もともと北鮮に住んでいた27~8万と、満州から戦火をさけて逃げてきた4万人である。北鮮にはいってきたソ連軍は、満州におけると同様、略奪、放火、殺人、暴行、強姦をほしいままにし、在留日本人は一瞬にして奈落の底に投じられることになった。白昼、妻は夫の前で犯され、泣き叫ぶセーラー服の女学生はソ連軍のトラックで集団的にら致された。反抗したもの、暴行を阻止しようとしたものは容赦なく射殺された。「各地の凄惨な記録は読むにたえない」と、『朝鮮終戦の記録』の著者森田芳夫氏は書いている。

それらは主としてソ連軍兵士によって行なわれたことであり、また占領地の住民の保護にあたるべきソ連軍当局の責任であることは明らかだが、ソ連兵に触発された朝鮮人の暴行も多かったし、ソ連軍を背景に行政権を掌握した北鮮の人民委員会も、その責任はまぬかれない。たとえば3000名中、その半数が死亡した富坪の避難民の情況を調査するため派遣された咸鏡南道人民委員会検察部、李相北情報課長自身、次のように報告している。

…かれら(在留日本人)の大部分は、途中において衣類、寝具等を剥奪され、零細なる金銭と着衣のみにて咸興市内に殺到したるも…われわれは36年間の日帝の非人道的支配に反発し、立場が逆になった日本人全般に対する民族的虐待という、ごく無意識のうちにファッショ的誤謬をおかしたことを告白せざるを得ない。

…駅前に雲集せる三千余名の避難民を空砲と銃剣を擬して、即時咸興市外脱出を強要し、市外に追放した。その結果、断え間なく降りつづいた雨中の川辺と路傍に野宿し、極度の困憊(こんぱい)と栄養不良を激成し、…富坪避難民の宿舎は実にのろわれたる存在である。

それは実に煤煙と、あまりの悲惨さに涙を禁じ得ない飢餓の村、死滅の村なり。襲いくる寒波を防ぐため戸窓はたらず、かますで封鎖され、白昼でも凄惨の気に満ちた暗黒の病窟なり、それは避難民を救護する宿舎ではなく、のろいを受くる民族のまとめられた死滅の地獄絵図にして、老幼と男女を問わず、蒼白な顔、幽霊のようにうごめくかれらは皮と骨となり、足はきかず、立つときは全身を支えることもできず、ぶるぶるふるい、子供たちは伏して泣す。無数の病める半死体はうめきながらかますのなかに仰臥しており、暗黒の中にむせびつつ、……そこに坐しているのは実に地獄の縮図以外の何ものにもあらず…(森田芳夫『朝鮮終戦の記録』)

一日も早く引揚げさせてくれという要望はソ連軍当局によって無視され、日本人はただただ餓死を待つよりほかない状況に追い込まれた。こうして在留日本人社会では「38度線さえ越えれば」というのが唯一の悲願となった。やせこけた身体に乞食のようなボロをまとい、山を越え谷を歩き強盗にささやかな所持品を奪われ、歩哨の銃弾にたおれ、そして時には泣き叫ぶ子供の口をふさいで死にいたらしめるまでして、人々は南にたどりついたのである。38度線は朝鮮民族にとっては何十万の血の流れた同胞争闘の境界線となったが、20万を超える日本人にとってもまた、血と恨みにいろどられた『天国と地獄の境』となったのである。


「大東亜戦史8 朝鮮編」 池田佑編 昭和46年 富士書苑
三十八度線        木下宗一

満州から鴨緑江を越えてぞくぞくと南下する避難民を朝鮮軍は平壌でストップさせた。やがて、38度線は朝鮮を南北にまっ二つに分断した。北鮮にあった日本人は、この分断線によって悲運のどん底に突き落とされた。(中略)北鮮を追われた避難民の群れは、平壌へ、平壌へと流れてきた。列をなした乞食の群れである。ぞうりを履いている者はほとんどいない。女も子供も皆ハダシである。山を越え、熱砂をふんだ足の裏は、ザクロのように裂け、その傷にはウジがわいている人もいた… 

平壌には元からの在住者が2万8千名もいる所へ、汽車で送られて来た疎開者が1万2千名もはいっていた。そこへ、北鮮からのこのハダシ部隊が毎日毎日流れてきた。若松小学校の避難舎は、これらの人々を迎え入れて日とともに膨れ上がっていく。中には一椀のカユをふるまわれ優しい言葉で迎えられると、悪夢のような数日の怒りがこみ上げてくるのであろう、「畜生、ロスケのやつ」「山賊朝鮮人め!」髪を振るわして、勝利者の暴力を訴える婦人もいる。

負けた者の宿命に、悲しいあきらめを残して、これらハダシ部隊の大部分はぞうりを恵まれてたって行く。1日でも早く、1時間でも近く、祖国日本の姿に接したいのである。南へ、南へ、38度線突破の一念に燃えながら――乏しい食糧の所へ、これらの南下部隊を迎え入れて、若松小学校の疎開本部は苦しい生活が続いた。1日ひとり1合の米が心細くなって、1日2食のカユになった。子供たちは腹をすかして母親を困らせた。

ある日――それは何かの祝いの日にあたっていたので、肉入りの味噌汁が大なべで作られていた。そこへ朝鮮の子供がいつものとおり4、5人からかいにやってきた。遊びに来るというのではなく、子供ながらも自分たちの優越感を誇りに来るのである。そんな時に、このやろう! とでも言おうものなら、後の仕返しがそれこそ大変である。朝鮮人の顔役がズラリ顔をそろえてやって来て、打つ、蹴る、殴るの「見せしめ」が始まる。この日も悪い奴がやって来た! と思ったが、炊事当番の人々が知らぬ顔をしていると、「負けたくせに生意気だ」と食って掛かって来た。あまりの雑言にきっと目をすえると、「これでも食え!」と言いざま、足もとの土砂をすくって パッと味噌汁の鍋にたたきこんで逃げていった。久しぶりのご馳走というので、窓、窓には笑顔が並んでいたが、この光景に、窓の表情はたちまち青ざめた憤りに変わった。

今日もまた「命令」と称して朝鮮人のトラックが乗りつけて来た。カーキー色のものは服といわず靴といわず、一物も余さずかっさらって行く。これらは軍需品だから没収するというのである。これから寒さに向かうというのにシャツ1枚でも無駄にはできない、その貴重品をトラックに山積みにして今日も引揚げていく。避難の人々は、最後の1枚を没収されないためにチエを絞り出した。明日もまた現れるであろう没収団のため、有り合わせの染料で他の色に染め変えてしまった。その翌日――。朝鮮側の命令は例のとおりやってきた。一同は一夜で変わった黒や青色の服で列をつくったが、予想に反して今度は服装には目もくれず、意外な命令が言い渡された。「今度は一切の所持金を提出しなければならない。もし、この命に違反し、一銭といえども所持していることが後で分った場合は銃殺される。

では、本日ただちに提出するように」有無を言わせない強制処置である。今後何か月かかるか分らない長い苦難を前に、金こそは命の綱である。その命の綱を一銭残らず供出したら――今までに子供がおなかをすかせれば芋の一つも買ってやれたのに、無一文は死の宣告も同然である。しかし、銃殺で脅かされた一同は、泣く泣く最後の一銭までも提出してしまった。

その夜――カユをすすった避難民一同は絶望の中に寝られぬ夜明けを迎えた。その朝も、恐怖のマトである命令が来た。1日1日この命令で心臓を締め付けられてきた一同は、伝令の姿が現れると、もうそれだけで体が震え出した。「命令――」冷厳な、その命令は疎開本部代表に針のような鋭さで伝達された。「17歳以上、50歳までの男子は、ひとり残らず軽装で集合せよ」十分の猶予が与えられて男子は校庭に集合した。この部隊はそのまま朝鮮保安署に連行された。

残された婦人たちは「いつもの使役だとよいが… 」と冷たい雨の中を去っていく男子部隊をいつまでもいつまでも見送っていた。この雨中の別れが、長い長い別れとなった。この男子部隊はその夜、移駐を命じられ、遠くシベリア送りとなったのである。

ぢぢ様玉稿集 大日本史 番外編 朝鮮の巻 から引用
http://mirror.jijisama.org/

 | HOME | 

プロフィール

野生馬 太郎

Author:野生馬 太郎
欧米列強と必死に戦ってきた爺ちゃんたちの名誉のために!

アジアの歴史と各民族性の相違を理解するために!


最新記事


カテゴリ

戦争裁判 (13)
満州開拓団 (2)
戦後処理 (4)
朝鮮半島引揚げの惨事 (4)
終戦直後の混乱 (9)
北朝鮮への帰還運動 (2)
シベリア抑留 (4)
慰安婦 (16)
その他 (7)
未分類 (0)
サハリン(樺太)韓国・朝鮮人残留 (3)
終戦時の朝鮮半島 (1)
韓国軍 (4)
日本人捕虜虐殺 (1)
空襲被害 (6)
海外からの引揚 (9)
日本占領 (1)
ソ連軍の暴虐 (3)
慰霊 (1)
戦場の実相 (8)
在日 (5)
韓国の売春事情 (9)
アメリカ (2)
メディア論 (1)
高級幹部 (2)
負け犬の心理 (2)
中国の不条理 (2)
歴史認識 (10)
北朝鮮 (2)
台湾 (1)
北海道が危ない (6)
満洲 (15)
韓国・北朝鮮の国民性 (2)
国家 (1)
朝鮮人強制連行 (1)
国家の軸 (1)
共産党研究 (1)

月別アーカイブ


最新コメント


最新トラックバック


検索フォーム


RSSリンクの表示


リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる


QRコード

QRコード