教育勅語 (原文)と現代口語訳

教育勅語 (原文)
朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ

我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ
此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス
爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ
博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ
進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ
一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ
是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス
又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所
之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス
朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日
御 名 御 璽
 
現代口語訳
私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。
 そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。
 国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や秩序を守ることは勿論のこと、国家に非常事態発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。
 そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるだけでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。
 このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。
教育勅語の十二徳  
孝行
子は親に孝養をつくしましょう
友愛
兄弟・姉妹は仲良くしましょう
夫婦の和
夫婦はいつも仲むつまじくしましょう
朋友の信
友達はお互いに信じあって付き合いましょう
謙遜
自分の言動を慎みましょう
博愛
勉学に励み職業を身につけましょう
知能啓発
知識を養い才能を伸ばしましょう
徳器成就
人格の向上につとめましょう
公益世務
広く世の人々や社会のためになる仕事に励みましょう
遵法
法律や規則を守り社会の秩序に従いましょう
義勇
正しい勇気をもってお国の為に真心を尽くしましょう
スポンサーサイト

アイヌの保護政策について「旧土人保護法」解説

北海道のアイヌの保護政策について「旧土人保護法」というのがあった。
この保護法については鈴木宗男氏をはじめとする政治家・官僚・メディア等はもちろんのこと一般国民は内容を知らずして「旧土人」という言葉の意味を知らずして国会において満場一致で廃止された。当時は私も内容を知らずしてずいぶんひどい法律があったものだと誤解していた。

先日”「アイヌ先住民族」その真実” 著 的場光昭 展転社を手に入れ、詳しく読んでみて我々は日本政府のアイヌ政策を誤解していると気づいたのだ。
この本は的場氏の力作であり北海道ばかりではなく全国民に是非読んでほしいと思い一部紹介する。

以下引用
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
〈問十五〉 明治政府は具体的にどんなアイヌ保護政策をしたのですか?
答: 明治政府はこ貝してアイヌ保護政策をとり、彼等に対して授産と教化を進めてきましたが、充分な成果は上げられませんでした。それは物々交換経済のアイヌが貨幣経済に馴染めなかったことが最大の理由でした。明治二十四(一八九二)年、道庁が授産指導を廃止すると、彼等は再び耕地を捨て放浪する者が現れ、その結果、彼らの耕作地は、焼酎一本、酒1升で人手にわたり、政府が与えた彼らの生活基盤の多くが失われてしまいました。こうしたアイヌの窮状を救う目的で、明治二十六年、加藤正之助によって第五回帝国議会に北海道土人保護法案が提出、アイヌ自身も代表を送り法案成立を目指して国会に陳情しました。
 この法案がなんら差別的でないことは、「北海道の旧土人即ちアイヌは、同じく帝国の臣民でありながら、北海道の開くるに従って、内地の営業者が北海道の土地に向つて事業を進むるに従ひ、旧土人は優勝劣敗の結果段々と圧迫せられて同じく帝国臣民たるものが、斯の如き困難に陥らしむるのは、即ち一視同仁の聖旨に副はない次第と云ふ所よりして、此の法律を制定して旧土人アイヌも其所を得る様に致し度いと云ふに、外ならぬことでございます」という提案理由からも明らかです。

〈問十六〉旧土人保護法とはどんな法律ですか?
答: 明治三十二年に制定された北海道旧土人保護法は、先に示したその提案理由「北海道の旧土人すなわちアイヌは、同じく日本の国民でありながら、北海道の開拓にしたがって、内地の営業者が北海道の土地に向って事業を進め、旧土人は優勝劣敗の結果段々と圧迫せられて、同じく日本国民でありながら、このような困難に陥ったことは、国民は平等だという天皇陛下のおぼしめしにそぐわない。よってこの法律を制定して旧土人アイヌも幸せに休らせるようにしたいという目的に外ならぬことでございます」からも差別的な法律ではありません。文意を損ねることなく分りやすいように現代語に訳して全文を紹介し、一部解説(※)を加えます。

◆北海道旧土人保護法
 第一条 北海道旧土人で農業をしたいと志す者には一戸につき土地一万五千坪(五町歩:約五ヘクタール)を無償で与える。
   ※無償下付五町歩は民間開拓に下付された面積と同じ、屯田開拓は三町五反でした。
 第二条 前条で与えられた土地の所有権には以下の制限に従うこと。
  一 相続以外は他に譲渡することはできない。
   ※契約に不慣れなアイヌが土地を和人に馴し取られることを防ぐためです。
  二 質権・抵当権・地上権・永小作権は設定できない。
   ※和人に借金のかたとして取られたり、占有されてしまうことを防ぐためです。
  三 北海道庁長官の許可がなければ地役権を設定することはできない。
   ※地役権は他人の土地を自分の土地の便宜のために使用する権利。例えば通路としたり水路を掘ったりすること。
  四 留置権・先取特権の目的とすることはできない。
   ※留置権は借金の返済までその占有をすること。先取権は他の債権者より優先してその所有を主張できること。
    前条で与えられた土地はその年より起算して三十年間は固定資産税と地方税を課さない。また登録税を徴収しない。旧土人で以前より所有した土地は北海道庁長官の許可なく相続以外の譲渡や質権・抵当権・地上権・永小作権・地役権は設定できない。
   ※上記の和人からの保護に加え、三十年間も免税という直接保護政策がなされています。
 第三条 第一条によって与えられた土地でもその年より起算して十五年しても開墾されない部分は没収する。
 第四条 旧土人で貧困の者には農具及び種子を給付する。
 第五条 旧土人で傷病者や病気で自費治療することができぬ者はこれを救済して薬代を支給する。

 第六条 旧土人で怪我・病気・身体障害・老衰・幼少のため自活することができない者は従来の規則により救済するほか、死亡した場合には埋葬料を支給する。
  ※アイヌの生活に関しては特別の配慮がなされていました。
 第七条 旧土人の貧困者の子弟で就学する者には授業料を支給する。
  ※今でいう奨学資金制度です。現在でも道はアイヌ系日本人の子弟に対して特別の奨学資金を出しています。
   アイヌ修学資金一昭和五十七年からの二十五年間で道は九百八十九人に対して二十四億九千百四十一万円を貸付け、二十一億千六百十二万円を減免、さらに返還に応じたのはたった一人百五十九万円でした。年収五百八十五万円以下で返済免除。大学の通信教育の受講生に十四年間で千二百十三万円を貸し付け、返還を免除したという例もあります。私や私の姉兄も皆高校・大学と日本育英会の奨学金を借りましたがちゃんと返済を終えています。開拓農家の四代目である私たち姉弟からすると途方もなく優遇された制度だと思います。
 第八条 第四条と第七条に要する費用は北海道旧土人共有財産の収益をあて、不足のときは国庫より支出する。
  ※旧土人共有財産は明治政府がアイヌ授産のために与えた居留地・農地・漁場など。
 第九条 旧土人の集落のある場所には国庫によって小学校を設置する。
  ※労働力として子弟を家業に使用したり、子守に出して酒代を稼がせたりするアイヌの子弟に学校教育を受けさせるために、学資や弁当を支給したり通学生に対して奨学金を与えたりしました。
  ※マラリアをはじめ疥癬(七・二%)・トラホーム(三(・四%)など風土病や伝染病の罹患率が高く、これを改善するために学校で入浴させたり散髪したりと現場の先生は大変苦労しかことが記録に残っています。
  ※後にアイヌ子弟と和人子弟を分けて教育したことを差別とする向きもありますが、その理由として入学前にある程度家庭で教育されている和人と同列教育できないことや、朝食を遅くとるアイヌ家庭の習慣に合わせて授業開始を遅くする必要、さらには学校での入浴や学用品支給・給食などを考え合わせると同じ課程での授業は困難でした。
 第十条 北海道庁長官は北海道旧土人共有財産を管理する。
    北海道庁長官は内務大臣の認可を経て共有者の利益の為に共有財産の処分をし、必要と認めるときにはその分割を拒むことができる。北海道庁長官の管理する共有財産は北海道庁長官がこれを指定する。

 第十一条 北海道庁長官は北海道旧土人に関しては警察令を廃して、これに二円以上二十五円以下の罰金、若しくは十一日以上二十五日以下の禁固の罰則を与えることができる。
   ※警察令は軽微な犯罪に対しては裁判なしで最寄の警察署長が処罰することができた制度です。
 付則
 第十二条 この法律は明治三十二年四月一日より施行する。
 第十三条 この法律の施行に関する細則は内務大臣がこれを定める。

 いかがでしょうか。差別どころか、アイヌの保護を目的とした法律だったことは明らかです。事実、この法律の成立を願ってアイヌ自身が代表を議会に送り陳情したことは何度記しても強調しすぎることはありません。




隠された西洋史 〜 人種差別と奴隷制

■■ Japan On the Globe(964) ■■ 国際派日本人養成講座 ■■

地球史探訪: 隠された西洋史 〜 人種差別と奴隷制

 ヨーロッパ人の強欲非道の歴史を隠してしまえば、真実の世界史も日本史も見えなくなってしまう。

■1.ボストン公共図書館の半旗

 ボストンの中心街に聳えるボストン公共図書館は1848年創設、その面積は東京ドームより広く、いかにもアメリカの国力を誇示するような広壮な建物だが、その正面に何本も並ぶ星条旗がすべて半旗になっていた。

 最近、白人警官が無抵抗の黒人を射殺する事件が相次ぎ、全米各地で抗議デモが広がる中、ダラスで黒人容疑者に狙撃されて死亡した5人の白人警官に弔意を示したものだろう。

 一方でボストンでは街中で白人と黒人のカップルをよく見かけた。ハーバード大学やマサチューセッツ工科大学など一流大学があるせいか、なんとなく黒人も知的な顔立ちの人が多いような気がする。しかし、こういう進んだ光景は全米でもごく一部の地域だけで、人種差別はいまだに米国全体を悩ませている宿痾である。

 ただ米国人の名誉のために付け加えれば、米国ほど人種差別の問題に悩まされつつ、その解消のために努力してきた国もない。

 アメリカの13の植民地は1776年に独立宣言を発し、連邦国家として出発したが、その当初から、黒人奴隷に依存したプランテーション農園を経済基盤とする南部諸州と、黒人の少ない北部諸州では奴隷制に関して対立していた。

 建国の父たちは、この点にこだわっていては一つの国家としてスタートすることは不可能と判断し、憲法では奴隷制を表立って取り上げることなく、南部諸州の既存の制度を守ることを憲法上の権利として、国家統合を優先したのである。

 この矛盾が表面化した1860年代の南北戦争、その最中のリンカーン大統領による奴隷解放宣言、1950年代からの公民権運動と、200年にわたる努力がなされてきた。それでも根絶し得ないほど、人種差別の問題は根深いと言わざるを得ない。

 実は我が国も、明治維新以降、人種差別の渦巻く近代世界に漕ぎ出し、差別されている有色人種による唯一の近代国家として戦ってきた。この視点なくしては、我が国の近代史における苦闘の足跡は見えてこない。

 この足跡に関しては、拙著『世界が称賛する 日本人の知らない日本』の中で述べたが、今回はそれを補完するために岩田温氏の『人種差別から読み解く大東亜戦争』[1]をご紹介しよう。

 この書は書名の通り、人種差別との戦いが大東亜戦争の発端であったことを述べている。その本論は、同書に直接あたって貰うこととして、ここでは同書の前段となっている、人種差別と奴隷制が常に西洋とともにあったという史実を見ておきたい。

■2.奴隷制と共存していたギリシャの民主主義

 ギリシャは西洋文明の源流、特に民主主義の発祥の地として高く評価されているが、実はその民主政治は奴隷制と共存したものであった。哲学者アリストテレスは著書『政治学』で次のように奴隷制を擁護している。
__________
 自然によって或る人々は自由人であり、或る人々は奴隷であるということ、そして後者にとっては奴隷であることが有益なことでもあり、正しいことでもあるということは明らかである。[1, p44]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 人間には生まれながらに知性に欠けた人々がおり、そうした人々は「奴隷であることが有益」で「正しい」ことだ、とまで言っているのである。

 ちなみに、奴隷を英語では“Slave”と言うが、これは中東欧のスラブ語での「スラブ(言語)」を語源とする。ギリシアとの戦争に負けたスラブ人の捕虜が戦利品として奴隷とされたために、ギリシャ語で「スラブ」が「奴隷」の意味となり、そこからローマ帝国のラテン語経由で、ヨーロッパの諸言語に広まった。

 そのような奴隷は当然、市民には含まれず、民主主義の対象とも考えられていなかったのである。


■3.「神が真黒な肉体のうちに善良な魂を宿らせたはずはない」

 ヨーロッパ人はアフリカ大陸の黒人と接触することで、この人種差別を一層強めたようだ。近代的な司法、行政、立法の三権分立の原則を説いたモンテスキューですら、著書『法の精神』で次のように述べている。

__________
 現に問題となっている連中は、足の先から頭まで真黒である。そして、彼らは、同情してやるのもほとんど不可能なほどぺしゃんこの鼻の持主である。

 極めて英明なる存在である神が、こんなにも真黒な肉体のうちに、魂を、それも善良なる魂を宿らせた、という考えに同調することはできない。[1, p55]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 ヨーロッパ人は、科学やキリスト教などを持つ自分たちが「足の先から頭まで真黒」な黒人よりも優れた存在である事は当たり前の事だと考えた。

 ローマ教皇ニコラウス5世は1452年、アフリカの地中海沿岸部を征服してアフリカ王と呼ばれたポルトガル王アルフォンソ5世に対して、異教徒を永遠の奴隷にする許可を与えている。人種差別と奴隷化に、キリスト教のお墨付きが与えられたのである。


■4.「キリスト教徒たちの暴虐的で極悪無慙な所業」

 西洋人の強欲非道ぶりは、コロンブスによって新大陸に展開された。コロンブスがバハマで出会ったタノイ族は温和で、武器の存在すら知らなかった。コロンブスは感激して、次のように記している。

__________
 さほど欲もなく・・・こちらのことになんでも合わせてくれる愛すべき人びとだ。これほどすばらしい土地も人もほかにない。隣人も自分のことと同じように愛し、言葉も世界で最も甘く、やさしく、いつも笑顔を絶やさない。[1, p80]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 この「愛すべき人々」をコロンブスは捕らえて、奴隷としてスペインに連れていった。さらに圧倒的な武力で脅して、タノイ族に金の採掘を命ずる。採掘作業のために、畑作業が出来なくなった結果、深刻な饑餓が起こり、5万人の原住民が餓死した。

 同様の強欲非道は、その後、さらに大規模にくり返された。1532年、フランシスコ・ピサロ率いる200人未満のスペイン人の一隊がインカ帝国にやってきた。彼らは奸計をもって、皇帝アタワルパを捕らえ、莫大な金銀を身代金として巻き上げた上で、処刑してしまう。さらに住民たちを搾取し、虐待、殺戮した。

 ピサロによって傀儡皇帝とされたマンコ・インカは次のようにスペイン人に語ったと伝えられている。

__________
 私は心から君たちに好意を寄せ、友人になりたいと願って数々の親切をしてきたのに、君たちはそれをすっかり忘れ去り、わずかばかりの銀のために私の願いを無視し、挙句の果て、君たちの飼っている犬に対するよりも酷い仕打ちを加えたのだ。・・・結局、銀を欲するあまり、君たちは私と私の国のすべての人びとの友情を失い、一方、私や私の部下は君たちの執拗な責め立てや甚だしい欲望のために宝石や財産を失った。(ティトゥ・クシ・ユパンギ「インカの反乱」)[1, p74]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 ピサロらの悪行を、従軍司祭として見たラス・カサスは「この四○年間にキリスト教徒たちの暴虐的で極悪無慙な所業のために男女、子供合わせて1200万人以上の人が残虐非道にも殺されたのはまったく確かなことである」と述べている。(ラス・カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』)[1, p76]

 ヨーロッパ人たちは愛を唱えるキリスト教を信奉しつつ、その仮面の下では、ローマ帝国の崩壊以降、何世紀にも渡って内部抗争や、異教徒との戦争をくり返しており、その過程で他には例を見ない強欲非道ぶりを身に付けたように思われる。


■5.「彼らは自分と肌の色が違うものを隷属させ」

 強欲非道ぶりに関しては、北米に入植したイギリスも負けてはいない。1606年、144人の入植者をバージニアに送り込んだが、多くが病や寒さで死亡してしまう。彼らにトウモロコシの栽培を教えて、助けたのがインディアンだった。

 インディアンの族長が「武器を船においていらっしゃい。ここでは武器は要らない。われわれはみな友人なのだから」と言ったが、返ってきた言葉は「トウモロコシを船に積め。さもないとお前等の死体を積むぞ!」

 彼らはインディアンを「人間」とは見なしていなかった。インディアンの村々を襲撃し、食べ物を強奪していった。1610年に、植民地の住人2人がインディアンによって殺害されると、イギリス人は報復措置として二つの村を焼き尽くし、女子供に至るまで殺戮した。こうして、血で血を洗う復讐合戦が始まったのである。

 入植者たちは、神によって新大陸が与えられたと信じていたので、異教徒のインディアンを殺す事は神の意思に従うと考えた。
キリスト教の指導者コトン・マザーは、ピクォート族の戦士たちを殺戮し、生き残った女子供を奴隷として西インド諸島に売却した。彼は誇らしげに「この日、われわれは600人の異教徒を地獄に送った」と記している。

 以下のインディアンの言葉を読めば、ヨーロッパ人の強欲非道ぶりがよく分かる。

__________
 白人の中にも善良な人間がいることは認める。しかし、その数は悪意を持った白人の数に比べると比較にならない。白人たちは圧倒的な力で支配した。彼らはやりたい放題のことをやった。人間はみな同じように大いなる精霊によって作られたのにもかかわらず、彼らは自分と肌の色が違うものを隷属させ、従わないものたちを殺した。白人の誓いはいかなるものも守られたためしがない。(デラウェア族パチガンチルヒラス)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■6.大西洋奴隷貿易

 17世紀中葉には、キューバやハイチなど、カリブ海諸島でサトウキビのプランテーション(大規模農園)が広まった。ヨーロッパで飲茶の風習が広がり、砂糖の需要が高まったからである。

 しかし、このプランテーションには大量の労働力が必要であり、地元の原住民人口が激減していたことから、熱帯の気候に強いアフリカの黒人が奴隷として大量に連れてこられた。

 アフリカの奴隷商人たちが、ヨーロッパ人から購入した銃で大陸内部の村々を襲撃し、捕まえた原住民を海岸部でヨーロッパ商人に売り渡す。奴隷は奴隷船にすし詰めにされて大西洋を越えてカリブ海まで運ばれた。

 その後、北米大陸の南部でも綿花のプランテーションで黒人奴隷を輸入するようになった。16世紀から18世紀の300年間で、奴隷貿易により大西洋を渡ったアフリカ黒人は900万人から1100万人と学界で推定されている。まさに世界史的な悪行である。


■7.日本の植民地化も狙ったポルトガル

 ポルトガル人は、日本にもやってきて、布教を始めた。マカオなどと同様に、最終的には植民地にする事を狙っていたのだ。しかし戦国時代で戦い慣れていた信長や秀吉、家康は、彼らの企みを見抜いた。

 信長は宣教師たちがキリシタン大名を育てているのを知り、布教を許したのは「我一生の不覚也」と後悔したが、鉄砲部隊や鉄製軍艦などで宣教師を威嚇して、「日本は征服が可能な国土ではない」と諦めさせた。[a,b]

 ポルトガル人たちは布教のかたわら、日本人奴隷を海外に売り払っていた。秀吉はイエズス会の宣教師ガスパール・コエリョに対し、「何故ポルトガル人は日本人を購い奴隷として船に連れていくや」と詰問している。さらに教宣教師たちが、九州のキリシタン大名を焚きつけて寺社を焼かせているのに激怒し、宣教師追放令を出した。[c]

 キリシタンとの冷戦は、その後の徳川幕府にも引き継がれて、キリシタン禁制と鎖国の政策がとられた。島原の乱[d]という戦闘もあったが、ヨーロッパ人の毒牙から我が国の独立を守ったのは、この反キリシタン政策の功績であった。


■8.西洋の強欲非道と戦った日本の400年

 18世紀以降の産業革命によって、ポルトガル、スペインに替わって、イギリスやフランス、オランダなどが台頭し、アジア、アフリカを植民地化していった。またカリフォルニアまで開拓したアメリカは太平洋を越えて、アジアへの触手を伸ばしつつあった。

 こうして、アメリカからの黒船が来た時に、すでにアジア、アフリカで完全な独立国と言えるのは、日本とタイぐらいしかなくなっていたのである。

 幕末の「攘夷」とは世界を植民地化しつつあるヨーロッパ人の強欲非道から我が国の独立を守る事であった。その戦いは日露戦争から大東亜戦争まで続く。国際連盟創設の際は人種平等条項を入れようとして欧米諸国に拒否され[]、またカリフォルニアの日系移民が差別を受けた。

 これらに対する国民的怒りが大東亜戦争の発端となった。この経緯を岩田温氏の著書は詳しく辿っているので参照されたい。

 近代世界史から、ヨーロッパ人の人種差別と奴隷制という強欲非道の行いを隠してしまえば、キリシタン禁制は宗教弾圧であり、鎖国は文明世界から国を閉ざした愚かな政策であり、幕末の攘夷は無知愚昧なスローガンであり、大東亜戦争は軍国主義による近隣諸国侵略としか見えない。それでは真実の世界史も日本史も見えてこないのである。
(文責:伊勢雅臣)

「朝鮮雑記」日本人が見た1894年の李氏朝鮮

「朝鮮雑記」日本人が見た1894年の李氏朝鮮
本間九介著 (祥伝社・1800円十税)

 国家の近代化とは何か  
                                      書評 古美術鑑定家 中島誠之助
 この本は東京経済大学図書館に収蔵されている120年前の朝鮮旅行記の現代語訳である。
 監修者はアジア主義研究の第一人者であるポーランド生まれの歴史学者、クリストファー・W・A・スピルマン。
巻末に付録の解説を先に読むことをおすすめする。

 二本松藩(現福島県)出身のリポーターが朝鮮半島をくまなく探訪して、日清戦争直前の明治7(1894)年に 「二六新報」という当時の日刊紙に連載した紀行文だ。写真の代わりに筆者による風物スケッチが挿入されている。
 有名なイギリスの女性旅行家、イザベラーバードの「朝鮮紀行」より4年早く刊行された、先駆的紀行文なのだ。
伝えられていることは、単なる旅行記という範躊を超えている。明治の開明期を生きた若き日本人の率直な目が、国家の近代化とは何かを問いただしているのだ。

 全編158項目の一つ一つ、どれをとっても興味の尽きることはない。里謡、葬礼、娼妓、地方官、市場、寺院、気候、古美術、婚姻など、どれも現代の私たちの日常生活につながるものがある。もちろん、19世紀末の世界観と価値観にたって書かれていることを理解しなければならないが。

 筆者は当時の朝鮮王朝治世のもとで国民である韓人たちが不合理に苦しみ、その揚げ句に無気力なその日暮らしをしているありさまを偽らずに記述している。
 根底にあるのは、批判ではなく同情である。朝鮮半島の人々が理不尽な状況に耐えなければならないのは、どうしてなのか。筆者はその原因を、腐敗した李王朝とそれを支える清王朝にあるとみている。
 文中に豊富に登場する漢詩や熟語の解説も勉強になる。この本は現代日本に生きる私たちにも暗黙の警告を発しているのではないだろうか。

被害者に成りすました加害者 韓国がおびえるオーストリア正史

2014.5.22
◆被害者に成りすまし
 オーストリアは「ナチス・ドイツに併合された、ナチスによる最初の犠牲国」と、先頃まで言い張った。韓国の朴槿恵大統領(62)も「日本が加害者で、韓国が被害者」と、繰り返し強弁する。教科書では「対日戦争」を教えてもいる。しかし、史実は全く違う。近代に入り、朝鮮と本格的に戈を交えてはいない。10年に大日本帝國が併合し、日本と成った朝鮮は、欧州・植民地兵のようにではなく枢軸国・日本の将兵として大戦を戦った。朝鮮人の軍人・軍属は24万2000人以上。志願兵の競争率は62倍強に沸騰した。2万1000柱の英霊が靖国神社に祀られる。今、韓国の反日勢力が最も行きたくない国は90年代以降、枢軸国側で連合国と戦った歴史を一転して認めたオーストリアに違いあるまい。オーストリアを訪れれば日本への“説教”、即ち「歴史を正しく直視し、責任を取る姿勢を持て」(朴氏)が、木霊と化して自らに襲い掛かってしまう。
 だが、小欄の認識は甘かった。韓墺国交正常化50周年の2013年、韓国政府は首都ウィーンで記念行事を催したが、文化・芸術一色だった。さらに3カ月後の9月、朴氏はベトナムを訪れた。ベトナム戦争(1960~75年)中、韓国軍はこの国で民間人や捕虜を大量虐殺し、多くの女性を陵辱したが、謝罪は皆無。日本に執拗に要求する「正しい歴史認識」とは何かを自覚し悩む「墺太利(オーストリア)症候群(シンドローム)」や「越南(ベトナム)症候群」に苛まれる時代は来るのか? その日を迎え、初めて一人前の独立国に昇華する。

 《第三の男》の話をもう少し。映画ではなぜ、多数の人々を死なせる質の悪いペニシリンを闇で横流しするオーソン・ウェルズ(15~85年)演じるハリーが暗躍可能で、ハリーの親友・三流作家ホリー(俳優ジョゼフ・コットン/05~94年)が射殺するまで逮捕されなかったのか…。なぜ、ハリーに怒ったホリーが英軍治安当局の囮(おとり)捜査に協力したのか…。


◆「偉人の捏造」も共通癖
 オーストリアは38年、ナチス・ドイツが併合。独総統アドルフ・ヒトラー(1889~1945年)を歓迎する国民も多かった。ドイツとして将兵80万人を動員し、30万人前後が戦死した。従って1945年のポツダム会談で、ソ連/米国/英国/フランスが墺全土とウィーンを、それぞれ分割統治する方針が決まる。4地区には軍政が敷かれ、各国の主権が保障された。ハリーは、英軍の捜査権が及ばぬソ連支配地を根城に、地下下水道を使い他地区に潜入して闇商売で儲けた。逮捕には、英国支配地におびき寄せる必要があった。
オーストリアは55年に主権回復し永世中立国と成るが、ドイツのように国家分断の悲劇は回避できた。米英ソ首脳発信の《モスクワ宣言=43年》が影響している。宣言では、大戦中の残虐行為を戦争犯罪と指定し、主に独軍将兵とナチス党員を該当者と明記。その際、墺併合は無効と認定された。以来、オーストリアは宣言にすがり、万人単位のユダヤ人虐殺の暗部を覆い隠す。ところが、国連事務総長を経て大統領に就任したクルト・ワルトハイム(1918~2007年)の独軍突撃隊将校という軍歴が暴かれ、自身は残虐行為を否定したが、大統領再選(1992年)を断念。それでも、ユダヤ社会や国際社会は墺非難を高めていく。結局、首相がイスラエルを訪問し、初めて謝罪する。

 オーストリアの「連合国気取り」は終わった。ただ、ヒトラーを独生まれ、ルートウィヒ・ベートーベン(1770~1827年)を墺生まれと偽るオーストリア人が少なからずいるそう。実際は逆だ。

 「偉人の捏造」。哀れな行為に、日韓併合に反対した初代朝鮮統監・伊藤博文(初代首相/1841~1909年)を暗殺した頓珍漢なテロリスト・安重根(アンジュングン)(1879~1910年)を英雄と粉飾し、歴史から絞り出す韓国が透ける。

◆「連合国気取り」
 しかも、オーストリアがやめた「連合国気取り」も続けて尚、平然としている。韓国の教科書にも載るが、2013年9月の《韓国光復軍》創立73周年、韓国メディアは光復軍について講釈した。

 《英軍と連合して1944年のインパール戦闘をはじめ、45年7月までミャンマー(ビルマ)各地で対日作戦を遂行した》

 韓国光復軍は40年9月、中華民国=国民党政権の臨時首都・重慶で立ち上がった朝鮮独立を目指す亡命政府=韓国臨時政府の武装組織。だが、動員計画は遅れに遅れ、創軍1年目の兵力は300人に過ぎぬ。米CIA(中央情報局)の前身で、レジスタンス活動を支援するOSS(戦略諜報局)協力の下、朝鮮半島内で潜入破壊活動を考えたが、日本降伏が先になった。

 45年8月15日、最後の朝鮮総督は日章旗を降ろし、太極旗掲揚を命じたのも束の間。9月、軍政施行に向け半島に上陸した米軍は太極旗を降下させ、再び日章旗を揚げさせる。以後3年間軍政を実施し、臨時政府樹立など論外であった。臨時政府の金(キム)九(グ)主席(1876~1949年)は個人資格で“故国”に帰り、光復軍も武装解除された。韓国は日本を打ち負かして独立したのではない。米国より棚ぼた式に独立を譲ってもらっただけ。金も自伝で憂いた。
《心配だったのは、この戦争で何の役割を果たしていないために、将来の国際関係においての発言権が弱くなること》

 《何の役割も果たしていない》韓国が戦争責任をすり抜けられた理由の一つは、オーストリアのように“ユダヤによる追及の構図”がなかった幸運。ナチスと「喧嘩」しながらもユダヤ人を守った日本の役割は小さくない。だのに、韓国人は被害者たる“ユダヤ人”を装う。

 ところで、韓国外交官にとり墺駐在は出世街道とされる。国連の潘基文事務総長(69)や金星煥・前外交通商相(60)らはいずれも駐墺大使の経歴を持つ。韓国民からオーストリア正史を遠ざける功績が認められたわけではなかろうが…。(政治部専門委員 野口裕之)

高麗・朝鮮王朝時代の「貢女」の実態とは

高麗時代から朝鮮王朝時代まで続いた「恥辱」
娘が候補になると、顔に薬を塗って傷を付けることも


 「娘が生まれたら秘密にしたまま暮らす。他人に知られるのが心配で、隣人にも娘を見せられない。娘を隠していた事実が発覚すれば、村全体が害を被ることになり、親族を縛って取り調べ、屈辱を与える。処女を選ぶ過程でわいろが取り交わされるが、金がある者は切り抜け、金がない者は連れて行かれる」

 高麗時代、李穀(イ・ゴク)=1298-1351=がはるか遠くの元の皇帝に差し出した上訴は、切々としている。李穀が訴えたのは、ことあるごとに中国に献上しなければならなかった「人間の献上品」こと貢女のことだ。恥辱の歴史は、5世紀初めまでさかのぼる。高句麗・新羅から中国の北魏に、女子を送ったという記録がある。貢女の献上が最も盛んに行われたのは、高麗後期から朝鮮王朝時代にかけてだった。ソウル大学奎章閣のイ・インスク人文韓国(HK)事業研究教授は、今月末に出版される『朝鮮人の海外旅行』(文字の甕社)で、『高麗史』と『朝鮮王朝実録』を中心に貢女の残酷な実態をまとめた。

■自害・早婚で抵抗することも
 高麗時代の元宗15年(1274年)、元が140人の婦女を連行したのを皮切りに、忠烈王・恭愍王代に元に対し献上した貢女は170人以上、44回に上った。朝鮮王朝時代にも、太宗から孝宗の時代にかけて、明・清に対し9回にわたり146人が献上された。学界では、中国の高官が私的に連れて行ったケースを合わせると、数千人に上ると推定している。

 中国から、貢女を選ぶ「採紅使」が訪れると、朝廷では貢女選抜機関を臨時に設置し、巡察使が各地を物色して回った。だが、民衆の抵抗は激しかった。孝宗の時代、慶尚道の鄭煌(チョン・ファン)という人物は、娘が貢女候補になったことを知るや、娘の顔に薬を塗って傷を付けた。また、娘を出家させるケースもあった。高麗時代には、乳飲み子を乳母が抱いて嫁がせることまであった。そのため朝鮮王朝時代には、世宗が「12歳以下の女子については婚姻を禁ずる」という法令を公布しなければならないほどだった。

朝鮮王朝時代の太宗8年4月、各地から処女30人が選ばれ、ソウルに移送された。父母を亡くして3年以内の女性や、息子がいない家の一人娘を除いた7人が、景福宮での最終審査に臨んだ。しかし中国の使臣は「美しい女がいない」として官吏を棒で打とうとした。娘たちも指名を避けようと、体に障害があるかのように口をゆがめたり、足を引きずったりした。最終的に、娘たちの父親は全員罷免されたり、流刑に処されたりした。同年7月、再び選抜が始まった。太宗は「処女を隠した者、針灸を施した者、髪を切ったり薬を塗ったりした者など、選抜から免れようとした者」について、厳罰に処するという号令を下した。

■国内外の権力関係を反映
 貢女たちのほとんどは、他国で人妻や「めかけ」として人生を終えたが、中には皇帝の目に留まり妃嬪(ひひん=君主の側室)の地位を与えられ、権力の道を歩む者もいた。高麗出身の奇皇后は、母国高麗の王位継承に関与するほどだった。貢女出身の妃嬪の父や兄も「皇親」として権勢にあずかった。奇皇后の兄・奇轍(キ・チョル)は、高麗国王と並んで馬に乗り、歓談した。朝鮮王朝時代の太宗・世宗の代に相次いで2人の妹を貢女として送った韓確(ハン・ファク)=1403-56=は、右議政や左議政(共に現在の副首相クラス)などの要職を歴任した。韓確が密通に及んだ事実が発覚した際も、世宗は「罰せられない人物」だとして黙認するしかなかった。

 中国は大陸に新たな権力が誕生したり、国内の国家権力が不安定になるたびに貢女を要求した。高麗や朝鮮の新たな支配者にとって、大国の承認を得ることは最大の急務だった。世宗でさえ、貢女の献上は「国内の利害のみならず、外国にも関係することなので、ただ(中国皇帝の)令に従うのみ」と語った。イ教授は「貢女は、中世国家の欲望と男性の欲望が凝縮された国家間の力学関係から生じた副産物。特定の時期に起こった事件というレベルを越え、その後も“慰安婦”、“洋公主(米兵を相手にする歓楽街の女性)”のように、強大国と弱小国の間で繰り返されてきた」と語った。

全炳根(チョン・ビョングン)記者
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版 2011.04.24

悪意を持った反日教

「原爆は神罰だった。そして、まだ終わってない」中央日報、社説 2013.5.20
・安倍、丸太の復讐を忘れたか

神は人間の手を借りて人間の悪行を懲罰したりする。最も苛酷な刑罰が大規模空襲だ。歴史には代表的な神の懲罰が2つある。第2次世界大戦が終結に向かった1945年2月、ドイツのドレスデンが火に焼けた。6カ月後に日本の広島と長崎に原子爆弾が落ちた。

これらの爆撃は神の懲罰であり人間の復讐だった。ドレスデンはナチに虐殺されたユダヤ人の復讐だった。広島と長崎は日本の軍国主義の犠牲になったアジア人の復讐だった。特に731部隊の生体実験に動員された丸太の復讐であった。同じ復讐だったが結果は違う。ドイツは精神を変え新しい国に生まれた。だが、日本はまともに変わらずにいる。

2006年に私はポーランドのアウシュビッツ収容所遺跡を訪問したことがある。ここでユダヤ人100万人余りがガス室で処刑された。どれもがぞっとしたが、最も衝撃的な記憶が2つある。ひとつはガス室壁面に残された爪跡だ。毒ガスが広がるとユダヤ人は家族の名前を呼んで死んでいった。苦痛の中で彼らは爪でセメントの壁をかいた。

もう一つは刑罰房だ。やっとひとり程度が横になれる部屋に4~5人を閉じ込めた。ユダヤ人は互いに顔を見つめながら立ち続け死んでいった。彼らは爪で壁面に字を刻みつけた。最も多い単語が「god」(神)だ。

ナチとヒットラーの悪行が絶頂に達した時、英国と米国はドレスデン空襲を決めた。軍需工場があったがドレスデンは基本的に文化・芸術都市だった。ルネッサンス以後の自由奔放なバロック建築美術が花を咲かせたところだ。3日間に爆撃機5000機が爆弾60万個を投下した。炎と暴風が都市を飲み込んだ。市民は火に焼けた。大人は子ども、子どもはひよこのように縮んだ。合わせて3万5000人が死んだ。

満州のハルビンには731部隊の遺跡がある。博物館には生体実験の場面が再現されている。実験対象は丸太と呼ばれた。真空の中でからだがよじれ、細菌注射を打たれて徐々に、縛られたまま爆弾で粉々になり丸太は死んでいった。少なくとも3000人が実験に動員された。中国・ロシア・モンゴル・韓国人だった。

丸太の悲鳴が天に届いたのか。45年8月に原子爆弾の爆風が広島と長崎を襲った。ガス室のユダヤ人のように、丸太のように、刀で頭を切られた南京の中国人のように、日本人も苦痛の中で死んでいった。放射能被爆まで合わせれば20万人余りが死んだ。

神の懲罰は国を改造して歴史を変えた。ドレスデン空襲から25年後、西ドイツのブラント首相はポーランドのユダヤ人追悼碑の前でひざまずいた。しとしと雨が降る日だった。その後ドイツの大統領と首相は機会があるたびに謝罪し許しを請うた。過去に対する追跡はいまでも続いている。ドイツ検察は最近アウシュビッツで刑務官を務めた90歳の男性を逮捕した。

ところが日本は違う。ある指導者は侵略の歴史を否定し妄言でアジアの傷をうずかせる。新世代の政治の主役という人が慰安婦は必要なものだと堂々と話す。安倍は笑いながら731という数字が書かれた訓練機に乗った。その数字にどれだけ多くの血と涙があるのか彼はわからないのか。安倍の言動は人類の理性と良心に対する生体実験だ。いまや最初から人類が丸太になってしまった。

安倍はいま幻覚に陥ったようだ。円安による好況と一部極右の熱気に目をふさがれ自身と日本が進むべき道を見られずにいる。自身の短い知識で人類の長く深い知性に挑戦することができると勘違いしている。

彼の行動は彼の自由だ。だが、神にも自由がある。丸太の寃魂がまだ解けていなかったと、それで日本に対する懲罰が足りないと判断するのも神の自由だろう。

キム・ジン論説委員・政治専門記者 「大韓言論賞」受賞

戦争犯罪と歴史認識

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
平成26(2014)年4月21日(月曜日)通巻第4211号   

北原淳『戦争犯罪と歴史認識 日本・中国・韓国のちがい』(花伝社。発売=共栄書房)
-------------------------------------------------------------------------------
 「戦争犯罪」を裁く「正義」とは、いったい何か? それは勝者の一方的論理による復讐ではないのか。つまり法律ではなく、究極的には感情で裁判が行われる。東京裁判の結果をみるとよく理解できる。国際法を無視し、人類共通の正義を軽視した判決である。
 本書の著者、北原氏は、右でも左でもなく、ニュートラルな立場から歴史を追究され、「正義」が如何に困難であるかとこれまでの現代史の問題点を淡々とえぐる。力作である。特に最近忘れがちな中国共産党の虐殺の歴史、チベットで、ウィグルで、モンゴルで、かれらはいかなる戦争犯罪を犯したか、具体的数字を網羅しつつ詳述している。
 韓国もまけてはいない。
「真実と和解の調査会」と「ハンギョレ新聞」の週刊誌『ハンギョレ21』が列挙した韓国の戦争犯罪は「済州島4・3事件」「保導連盟事件」。そしてベトナム戦争中の大量虐殺と婦女子強姦殺人である。
 さて。
 韓国はベトナム戦争に累計32万名もの大量の兵員を送り込んだが、主目的は「積極的に参加して金儲けをすること」だった。「派遣された韓国兵の給与はアメリカ側が支払い、それは通常の韓国兵が受け取る給与の約二倍であった」(本書158p)。
 評者はベトナム戦争の最中におこった韓国兵の残虐行為の数々のなかで強姦による混血児が四万人前後もいて社会問題化している事実は知っていたが、次のような虐殺があったことを本書に指摘され改めて思い出した。
 「韓国軍に殺されたベトナム人の数は公式統計だけでも41450人」だが、「1965年12月22日に韓国軍作戦兵力二個大隊がクイニョン市に500発あまりの大砲を撃ち込んだ。それが終了すると韓国軍は12歳以下の子供22人、22人の女性、三名の妊産婦、70歳以上の老人を含む、合計50名以上の民間人を虐殺した。この韓国軍の行動の背景にあったのは『きれいに殺して、きれいに燃やして、きれいに破壊する』というスローガンなのである」
 1966年1月23日から2月26日にかけて、タイヴィン村の15の集落で1200名の村民が虐殺された。
 1969年10月14日には、「パンランというベトナム南部の小さな街にあるリンソン寺での虐殺は韓国軍兵士がベトナム女性にいやがらせをしたため僧に注意された」ことを逆恨みして、銃を乱射し、「71歳の住職、69歳の僧、41歳の尼僧、15歳の修行層、そして詳細不明の僧一名、合計五人が死亡した。兵士たちは遺体に火をつけた」
 「1966年2月26日に韓国の猛虎部隊はゴダイ集落を襲い、380名を虐殺した」。生存者がひとりも残らず、この場所にゴダイ記念館が建てられた。
 近くのアンカン村でも虐殺があり、フォンニィ・ファンニャット村では韓国の青龍師団によって69名から79名の村人が虐殺された。これはアメリカに報告され問題となったが、「ベトコンが韓国兵の軍服を着て行った」と弁明した。
1970年にアメリカ監察官は、この報告は嘘であると暴露した。
 ハミ村では135名が殺され、アンリン郡でも韓国兵による無差別の虐殺があった。
 これらの韓国兵の大量虐殺は戦争犯罪であることは明瞭だが、ベトナム政府は抗議せず、首脳会談でも議題とせず、あえて外交問題としないのは韓国財閥によるベトナムへの投資を前にして事大主義に陥っているからである。

朴韓国大統領の反日発言

「(日韓関係は)いまだ過去に縛られて未来に進めずにいる」「(日本の首相の靖国神社参拝は)隣国の国民感情に配慮し、他の方法を模索する必要がある」
  (2006年、東京の日本記者クラブでの記者会見で)

「アジアで緊張と葛藤を緩和し、平和と協力が一層拡散するよう米中日露などと厚い信頼を積み上げる」
  (13年2月25日、大統領就任演説で)

「加害者と被害者という歴史的立場は1000年の歴史が流れても変えることはできない」「未来の世代にまで歴史の重荷を背負わせてはいけない。政治指導者たちの決断と勇気が必要な時だ」
  (13年3月1日、「3・1独立運動」記念式典演説で)

「歴史に目を閉ざす者は未来が見えない」 
  (13年5月8日、訪問先の米議会で演説)

「日本の政治家たちが過去の傷を癒やす勇気ある指導力を見せなくてはいけない」  
  (13年8月15日、日本の植民地支配からの解放を記念する「光復節」の演説で)

「慰安婦問題は今も進行中の歴史だ。日本は謝罪どころか侮辱し続けている」
  (13年9月30日、訪韓した米国防長官との会談で)

「最近になって村山談話、河野談話を否定する言動が出てきたので、両国関係の協力する環境をしきりに壊す状況を作っている」「日韓首脳会談は、結果を導き出せるよう事前に十分な準備がなくてはいけない」 
  (14年1月6日、新年記者会見で)

◆元寇の司令官は朝鮮人

◆元寇の司令官は朝鮮人
    歴史通2014年1月号  東洋史家 宮脇淳子

 現在の韓国は、大統領以下、近代現的エリートの筆頭であるはずの裁判官まで、条約無視の反日に狂奔しており、日本人が、彼我の文化の違いを実感する結果になったのは、嘉(よみ)すべきであると思う。
 ことに、朴槿恵大統領が「被害者と加害者の立場は千年変わらない」と演説してくれたので、それでは、千年もさかのぼらないでも、今から七百四十年前の「元寇」では、高麗人も万を超す人数で日本に攻めてきたではないか、と言い返してやろう。
 あれはあくまでもモンゴル軍が主体で、高麗は渋々従ったに過ぎない。船も無理矢理作らされて、水手(かこ)として参加しただけだと弁明するかも知れないが、第一次、一二七四年の文永の役のときの船九百艘はすべて高麗製で、水手六千七百人の他、高麗軍だけで八千人いた。しかも、一万五千の元軍本体の副司令官も、高麗人だったのである。
          
 副司令官の征東都副元帥(せいとうとふくげんすい)は、洪茶丘(こうさきゅう)と言い、鴨緑江を越えた先の満洲生まれの高麗人二世だった。第二次、一二八一年の弘安の役の際には、洪茶丘は征東都元帥に出世しており、またもや元軍一万五千を率いて日本を攻めた。このときの高麗軍は一万、水手は一万七千人で、総勢四万二千の軍勢である。
これを東路車と言い、南宋からやってきた十四万二千人を江南軍と言う。
 なぜ高麗人が元軍の司令官だったのか、説明のために歴史をさかのぼる。
 モンゴル軍が高麗に侵入を始めたのは、一二三二年のことである。このあと、一二五九年に高麗王がモンゴルに降るまでの三十年近く、実権を握る崔氏一族は、王を連れて江華島に逃げ込み、徹底抗戦を主張した。とはいうものの、民に向かっては「モンゴル軍が来たら山か海に逃げろ」と言うだけで自分たちは安全な江華島にひたすら引きこもった。これを武人政権というのは日本の鎌倉武士に失礼である。江華島は半島から見えるくらいすぐ側にあるが、周囲はかなり潮の流れが速く、モンゴル軍は船戦が不得手だったので手が出せなかった。
 そのためモンゴル軍は攻め込むたびに「出て来い」と言い続けるが、崔氏は出て来ないので、怒ったモンゴルは、六回高麗に侵入して全土を荒らし回り、高麗人捕虜約六十万人を連れ帰って、遼東地方に農耕民として入植させた。
 ちなみに、日本人は遼東というと遼東半島を思い浮かべるが、遼東は遼河の東という意味なので、瀋陽・遼陽も遼東である。
 崔氏政権がクーデターで倒れたあと、第二十三代王の高宗は、太子(のちの元宗)を派遣し、即位前のフビライに忠誠を誓った。元宗はまたの名を忠敬王と言い、元朝を建てたフビライの娘と結婚したその息子は忠烈王と号す。高麗王の称号から、シナ皇帝と格を同じくする「宗」が消え去ったのである。
 このあと、代々の高麗王の世子(太子より格下の称号である)は、フビライ家の娘と結婚して元朝の宮廷で暮らし、父親が死ぬと、帰国して高麗王の位を継ぐのが習慣となった。
 フビライは、多数の高麗人が入植した遼河デルタを統治するため、遼陽行省を設置した。行省というのは、中書省(中央官庁)の出先機関のことで、今の平壌は遼陽行省に含まれる。
 フビライはまた、高麗人コロニーの王として、高麗王の一族を瀋陽王に封じた。瀋陽王はその後、瀋王に昇格するが、場所の名前が付いた王より、一文字の王のほうが位が高い。つまり、元朝から見て、高麗王と瀋王はほとんど同格になったのである。
 元朝支配下で、今の韓国と北朝鮮のように、高麗と遼東という二つの朝鮮人の本拠地ができたことになる。元寇のモンゴル軍は、ほとんどこの遼東の住人で、だから司令官も高麗人二世だったのである。対馬と壱岐の人々を皆殺しにしたモンゴル軍は、みんな朝鮮人だったと言ってもいいくらいだ。
 元寇に際して、高麗人の禅僧がフビライと元軍を讃えた漢詩が残るが、醜い東夷(日本)に掣肘を加える命を高麗が受けたことを誇らしく謳い上げる。
 このあと、瀋王と高麗王は、元朝宮廷の権力争いにリンクして排斥し合い、高麗人で元朝皇帝の妃となった外戚勢力も加わって憎み合ったのは、千年経ても変わらない文化である。

みやわき じゅんこ
一九五二年、和歌山県生まれ。京都大学文学部卒業、大阪大学大学院博士課程修了。学術博士。著書に『真実の満洲史≒真実の中国史』(以上、ビジネス社)、『モンゴルの歴史』(刀水書房)、『世界史のなかの満洲帝国と日本』(ワック)などがある。

 | HOME | 

プロフィール

野生馬 太郎

Author:野生馬 太郎
欧米列強と必死に戦ってきた爺ちゃんたちの名誉のために!

アジアの歴史と各民族性の相違を理解するために!


最新記事


カテゴリ

戦争裁判 (13)
満州開拓団 (2)
戦後処理 (4)
朝鮮半島引揚げの惨事 (4)
終戦直後の混乱 (9)
北朝鮮への帰還運動 (2)
シベリア抑留 (4)
慰安婦 (16)
その他 (7)
未分類 (0)
サハリン(樺太)韓国・朝鮮人残留 (3)
終戦時の朝鮮半島 (1)
韓国軍 (4)
日本人捕虜虐殺 (1)
空襲被害 (6)
海外からの引揚 (9)
日本占領 (1)
ソ連軍の暴虐 (3)
慰霊 (1)
戦場の実相 (8)
在日 (5)
韓国の売春事情 (9)
アメリカ (2)
メディア論 (1)
高級幹部 (2)
負け犬の心理 (2)
中国の不条理 (2)
歴史認識 (10)
北朝鮮 (2)
台湾 (1)
北海道が危ない (5)
満洲 (15)
韓国・北朝鮮の国民性 (2)
国家 (1)
朝鮮人強制連行 (1)
国家の軸 (1)

月別アーカイブ


最新コメント


最新トラックバック


検索フォーム


RSSリンクの表示


リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる


QRコード

QRコード