満州帝国の崩壊 日本人の流浪と抑留

満州帝国の崩壊
日本人の流浪と抑留
虐殺と病死で斃れ、ソ連に強制連行された者がなんと多かったことか。


■明暗分かつ満州からの引き揚げ
「いよいよ引き掲げが決まって家を出るというころになると、往宅のまわりを満人がグルーッと取り囲人だ。持てる荷物はたいした量しゃないがら大部分は家に残す。それを目当てに早く出ていがないものかと、待ってる人だ。まあ、それでも我々が出るまでは踏み込人でこながったら、いいようなものだったし、これは奉天市で十年間、小学校教師をしていたM・Tさ人が息子によく語っていた話という。昭和二十一年七月のことである。

 Mさんには小学校四年生の長女を頭に、三女・一男がいたが、一番下の娘は三歳になっていなかった。長女が末娘をおんぶし、それぞれが荷物をリュックに詰めての難民へのスタートだったが、持てるだけ持とうとして出発した一家も、歩いているうちにやがて一つ捨て、二つ捨てして、行軍を続けるしかなかった。なかには赤ちゃんをそっと置いていく夫婦もあった。

「ロシア兵が二人、土足で入ってきて、道子(末娘)を抱き上げて、何やら自分の顔と道子の顔を交互に指さしているんだな。俺にもこんな娘がいると言っているようにも見えるし、俺にこの娘をくれと言っているようにも見えるしな。あわてて奪い返したが、それ以上なにもしなかったところをみると、俺にもこんな娘がいるということだったんだろう……。そのときお前たち三人は押人れに隠していた」。
 Mさん一家はとにかく奉天という大都市にいて、一家六人の誰一人として欠けることなく日本に帰国できたのだから、最も恵まれた引揚者であったに違いない。

 満州国の都市では、昭和二十年八月十五日の無条件降伏のその日から、それまでの日本人と中国人との立場が逆転した。しかし、満ソ国境に近い辺境地帯に数多くあった開拓団村では、一週間早い八月九日のソ連侵攻のときから、突如として奈落の底に突き落とされた。実際にソ連兵が進出する前に、周辺中国人からの暴行・掠奪が始まり、ソ進軍が進出してくるとその餌食になったケースが多かった。
 あまりにも悲劇の数が多いので、一つ一つには名前もつけられていない。だがなかには(○○事件)として記憶されているものもいくつかはある。

 「麻山事件」
八月十二日、東安県麻山での四百六十五人にものぼる集団自決。彼らはは鶏寧県暗建河開拓団約一千名の中の一つにまとまっていたグループのほぼ全員だった。逃避行のさなか、北方がらのソ建軍、南方からの旧満州国軍に挟み撃ちにされるかっこうになり、絶望のあまり銃による集団自決となったものだった。

 「葛根廟事件」
八月十四日、逃避行の途中、興安県興安街のラマ教寺院「葛根廟」に入っていた約一千三百名を、ソ連軍戦車が攻撃して殺戮した事件。ほとんどが婦女子であった。
 「佐渡開拓地事件」八月二十五日、三江省県利県にあった佐渡開拓団跡に、別の十三、四の開拓団が避難途中に集結していた。その数約五千八百人という。そこヘソ連戦車部隊が襲いかがり蹂躙殺戮した。死者は三千七百人から五千七百人と諸説ある。
 敗戦時の開拓団は、いわゆる普通の開拓団が九百二十六団体の二十四万二千三百人、満蒙開拓青少年義勇隊が百二隊の二万二千八百人、報国農場七十四の四千九百人、合計一千百二団(隊)の二十七万とされている。以上の事件はそのなかのごく一例でしかない。

■自決、虐殺、凌辱、拉致…… 
ノンフィクション作家・合田一道氏著の『開拓団壊滅す「北満農民救済記録」から』は、ハルビンの難民収容所とその周辺に避難した、百にものぼる開拓団の記録をまとめたものである。ハルビンという
都市に到達するまでの苦難の逃避行が赤裸々につづられている。生き残ってたどりついた人々が、文書であるいは口頭で、ハルビン日本人居留民会長民部に届けたものという。そのいくつかを、同書によりながら紹介してみよう。

①東安省密山県永安屯開拓団の場合 
八月十日夜に脱出したものの、十一日夜明け、ソ連軍戦車隊を望見し、絶望のあまり七十二人が自決した。だが、戦車隊と見たのは近郷の別の開拓団が逃げていく行列だった。残った者たちは思いなおしてハルビンを目指したが、途中で関東軍部隊と遭遇、喜んだのもつかのま、戦闘に追われて護衛はできないという。万一の場合として渡された手榴弾で、婦人子供だけ八十四人が自決した。

②浜江省五常県冲河開拓団の場合 
ある集落では、日本人皆殺しの流言に恐怖して集落長が二人の子供を包丁で刺し殺し、ともに死のうと呼びかけた。自決が決まり、婦人、子供、老人を銃で殺し、自らも頭を撃ち抜いて死亡した(合計四十三名)。そこへよその集落からかけつけた一行は、集落に火をつけ遺体を焼き、脱出した。
指定された避難地・五常街に着いて逗留したが、その後の希望が見いだせないまま開拓集落に引き返す者が続出したが、そこはすでに「治安不良にして掠奪、盗難、また婦女子に強姦、満妻を強要される」地と化していた。

③黒河省大青森郷開拓団の場合 
総員四百七十名が大車三十台、馬四十頭を引き連れて八月十四日に脱出した。途中二十日目ぐらいになって、病人と老人など歩行困難な者約百名のために山小屋をつくり、救出を約束して置き去りにした。しかし、ハルビンに向かった者たちも道を迷って五十日目にハルビンに到着、引き返して置き去りにした人たちの場所を突き止めることは不可能となっていた。合田氏はこの引揚者の何人かに取材し、その証言を記録しているが、そのなかには、「もっとも残酷だったのは出産でした。道路のまん中で髪振り乱して気違いのようになって産むんです。でも二、三時間も休んだら赤児を布にくるんで歩き出すのです。置いてきぼりをくうので、でも力尽きて倒れてしまいます。それを見ながら助けることさえできませんでした」 「川崎団長の夫人は二人の子供を抱えてもう限界でした。馬や血液が配られたのですが、それを飲む元気もありませんでした」などという話がある。 「米は大方食い切れた。食塩は雨で流し欠乏した。駄馬は一日二頭位食糧になるが、大人数にては小切れの生肉が配給される程度であった。幾日となく草根、木皮、木の実を食べた。馬の血、生肉、馬皮、臓腑、馬の骨も何一つ残すことなく食べた」とその報告書に書かれている。

 ハルビン忠霊塔事件というのがあったという。ハルビンまでようやくたどりついた浜江省阿城県天理開拓団の男性七十八人が、ソ連兵に連行され、一切の弁明も許されず集団銃殺された事件である。
ソ通軍は元日本兵と判断したという、が、日本軍がかつてよくやった掃討作戦と称する民間人虐殺をやっていたわけである。同開拓団は一千百名を越える集団を作っていたが、昭和二十一年四月までに、この虐殺された男性らもふくめて四百二名が死亡、虐殺以外は栄養失調と病死である。
 三江省通河県張家村開拓協同組合は敗戦時八百七十名いたが、六百七十人が病死している。

 北安県緩県稲穂村開拓団と東瑞穂開拓団、布郷開拓団は中国人の襲撃に耐えかねて約六百人が集団自決したという。この開拓団は第三次試験開拓移民団として武装して入植していた。
 開拓団での集団自決は枚挙にいとまがないが、この集団自決は最大規模といわれている。報告書によると昭和二十一年初めに銃器を県公署に納入したあと、起こっている。母子二人が槍で刺し殺され、作業中の男性がいきなり銃で撃たれ重傷を負い、警察官と称して銃をつきつけ家財道具のめぼしいものを一切掠奪され、たまたま残っていた銃で匪賊を射殺したら法外な罰金(当時の金で五千円とか三万円とか)やら乳牛を慰謝料として要求する、そういう事件が頻発した。
 「この上、生きて彼等の玩具となるより、いっそ自決すること。ただし身体強健なるものは生き延びて村所期の目的達成に努力することに決したり。よって各宿舎に毒薬を分配し、決定事項を申し渡したのは十七日午前二時なり。服毒自殺せる者、男女合わせて約六百名」とその被害状況概要害は記している。

■十六歳少女が体験した逃避行の惨劇
その時、ソ連兵が二人ドカドカと入ってきた。それが何を意味するかわからず、誰もが固唾を飲んで目で追ってぃた。 ”ハタ”と立ち止まり、一番手近な所にいた人の肩に手を掛けた。「立てっ」という仕草だ。肩にかかった手を振り払うと、二人が銃口を突き付けた。一人が銃の先を跳ね上げて「行けっ」と合図した。こうして次ぎ次ぎ「女狩り」が行われた。私は同じ人間が何度も来るのかと思ったが、そうではなく、入れ替わり立ち替わり来たようだった。
 明かりはランプが一つ。奥の方に居る者の顔など見えはしない。手当たり次第、運の悪い者が犠牲になった。 「わしらは女のうちではない」狭くて、横になる場所がなく、通路に座っておられた七十歳近いおばあさ人も、片目義眼で髪振り乱した小母さ人も連れて行かれた。
 これは『孫たちへの証言 激動の昭和をつづる』(新風書房刊)に収録されている来須富子さんの「野獣の館」のなかの一節である。来須さんは当時十六歳だった。昭和十五年、十一歳のとき家族とともに入植した。四合成開拓団にソ連兵十人あまりがやってきたのは、九月八日正午ごろだった。一同約二百五十名は、ソ連兵に追い立てられて二里ほど先の、慶安満州拓殖公社跡に入った。
そこにはすでに、裸同然のグループが先着していた。そして間もなくやはり裸同然の一群が到着し、ブラウスを肩から引き裂かれた女の人もいた。彼女は満州人に襲撃された様子を、泣きじゃくりながら話した。また臨月に近い大きなお腹をした若い女の人も、肩に手拭いを掛け、両手を交差させて、豊かな胸をわずかにかくしていた。下は腰巻を横で合わせているだけだった。
 「恥ずかしかろうに……」私は正視できなかった。正義感にあふれた血が騒いだ。大声で泣き叫びたかった。侮しくて、悲しくて、やたらと涙が溢れた。
 誰もが脱げるだけ脱いでわけた。子供のおむつも数を減らした。それでどうにか、裸の人は居なくなったようであった。 来須さんたちはこの"野獣の館″に九月末まで押しこめられていたという。

■俳優・芦田伸介さんの苦難 
悲惨な逃避行をあじわったのは開拓団だけではなかった。
 たとえば俳優の芦田伸介さんは朝鮮との国境に近い安東で終戦を迎えた。奥さんは六ヵ月後に出産の予定だった。最初は国民党の指導のもとに治安維持委員会も結成されたが、やがて事態は一変した。
 「十月に、中共八路軍が一列縦隊で整然と入市した。青天白日旗が下ろされ、五星旗が、安東の空に翻った。 国民党軍は、八路軍の妨害と、旧日本軍人を糾合した武力地下工作に全力をあげはじめた。国・共激突の間にはさまった日本人は、身動きのとれない、もっとも恐れていた事態に、身をさらすことになった」(芦田伸介「劇団とともに 満州引湯記録」『別冊新評臨時増刊」昭和四十七年十一月号所収。以下同)
芦田さんは自宅で豆腐を作って売り歩いたり、野菜屋や炭屋をしたりして食いつないでいた。いずれも失敗ばかりで長続きしなかったが、「閉鎖された私立図書館の文学全集や白樺叢書をかついでの回覧貸本屋は当たった」し、にわか坊主になり「法事を営む家を回ってお布施をいただいたりもした」そうだ。
 「十二月のソ連軍撤退後、安東省全域の実権を手中にした八路軍は、連日にわたって、反動分子の逮捕、人民裁判、処刑を操り返した。日本人は恐怖におののいた」
 芦田さんも逮捕されたが、すぐ釈放された。そのころ芦田さんは紙芝居で日銭を稼いでいたが、「紙芝居の道具に『日の丸』が描かれていた」からという。釈放は日本人解放学校のある青年が奔走してくれたおかげと信じている。

 昭和二十一年六月末、撤退する八路軍の列車に便乗して奉天に向かった。当時、ソ連軍が占領していた鴨緑江を渡って朝鮮経由の帰国は絶望視されていた。奉天に向かったのはそこが国府地区(国民党支配地区)であり、それらの地域では日本人送還が始まっているという確かな噂が伝わっていたからだ。 車内での掠奪に耐えながら列車に揺られていくうちに鉄橋が破壊されている所で下車させられた。芦田さん一行はそこから徒歩で奉天を目指したが、非武装の国・共真空地帯のところまでやってきたところで農民に囲まれた。
 「何もかも掠奪された私たちに、彼等はついに子供を狙ってきたのだ。男の子が三百円、女の子が五百円だという。我々は顔色を変えて一斉に立ち上がった。太った太々(おかみ)に亜子が狙われていた。札束を打ちふりながら、妻の腕をにぎってわめいている。『掌櫃有病了(亭主は病気だ)、小孫可憐、売呼』私は太々の前に両手をひろげ、地べたに膝をついて叫んだ。
 『救命呵!(たすけてくれ)太々、救命呵……小孫は我的のいのちと一様、明白? 明白? 我的のいのち!』 なるほど、痩せこけ、ヒゲののびた私は半病人に見えたのだろう。いつの間にか、妻は亜子を抱いたままその場から逃げていた。嵐が去ると、再び行進が始まった。気がついてみると、何人かの子供の姿が我々の一行から消えていた。ただ黙々と歩くだけだった」
 芦田さんは奉天についたものの、安東で芝居をやっていたことが八路軍のスパイとみなされていることを知り、収容所を脱出、名前を変えて国府側の芸術工作隊にもぐり込む。とうてい帰れないと覚悟していたが、昭和二十一年秋、帰国許可がおりて莉蘆島から無事に帰国したという。

■六十万のソ連抑留
 関軍軍の将兵と民間の在満日本人男子の相当数は、ソ連軍によってシベリア各地に連行され、強制労働につかされた。その数は厚生省援護局の出した数字だと五十七万五千名という。このなかには、朝鮮における北緯三十八度線以北のソ連軍占領地域や南樺太・千島諸島で捕虜となった日本人もふくまれている。実際に連行されたのはもっと多く、七十万人に近いのではないかと推定されている。
 関軍軍はおおむね八月末までにはソ連軍によって武装解除されたが、やがて一千名単位ごとに作業大隊を編制させられ、満州のめぼしい工場から機械類などごっそり解体、撤去に使役、それらをロシア領内へ移送するとともに、日本人捕虜もまた続々と連行していったのだった。

 連行先はバム鉄道建設現場、ハバロフスク地方、沿海地方、チタ州、イルクーツク州、ブリヤート・モンゴル自治共和国、クラスノヤルスク地方、アルタイ地方、カザフ共和国、ウズベク共和国など多方面にわたった。
 これほどの大強制連行が極軍軍司令官の裁量でできるはずがなく、当時の最高権力者・スターリンの命令にもとづくものだった。
 加藤明氏が最初に発掘し、『文藝春秋』の平成四年二月号に発表した「ソ連対日工作最高責任者が証言する・瀬島龍三・シベリアの真実」のなかに紹介されている秘密文書がそれを証明している。
それは八月二十三日(昭和二十年)の国家防衛委員会の決定内容を伝えるむので、その委員会の議長がほかならぬスターリン首相なのである。

 それは、ベリヤとクリベンコ(ともにソ運内部人民委員部)に対して端的に、五十万の日本人捕虜の受け入れと捕虜収容所への移連を命じており、強制連行はこの命令にもとづいて実施されたことが明白となっている。
 ソ連が捕虜を強制連行して国内で強制労働に従事させるのは、いわばソ連の慣例のようでもあった。
すでに三百十五万五千人にものぼるドイツ人のほか、イタリア人二十二万人、フランス人二万人、オーストラリア人五千人などを強制連行していたからである。
 強制連行された日本人は、一千八百とも二千ともいわれる各地の収容所(ラーゲリ)に分散された。
鉄連建設、連路建設、森林伐採、鉱山採掘、発電所連設などのほか石油コンビナートでの労働と、その強制労働の範囲は多岐にわたる。冬が訪れてもほとんど暖房施設が整えられず、極端に少ないうえに粗末な食料が日本人の命を容赦なく奪った。とくに最初の一、二年がひどかったといわれる。
 肉体的苦痛のうえに連い打ちをかけたのが「民主連動」という名の反動分子の摘発だった。ソ連主義とするところのプロレタリアート民主主義や人民主義を押し付け、従わぬ者をつるしあげ、懲罰し、投獄した。こうした民主連動は、それに全面的に賛同する日本人の組織化をはかりつつ、日本への憎悪と、ソ連とスターリン個人への賛美を強いた。ソ連側はそうぃう連動に積極的に参加することが帰国を早く認める条件であるかのように指導したのである。そして、帰国後は「ソ連のために銃をとる」というところまで思い詰めさせるのであった。

 ついにはスターリンヘの感謝決議文まで提出するという段階にまで達した。日本政府は、降伏後の関東軍の消息についてかなりの間、はっきりした情報を持っていなかった。
敗戦の年の十一月になってようやく、ソ連に強制連行されたらしいという情報に接したといわれる。
当時の日本には連合国軍の一国としてソ連代表部も駐在していたが、正式に問いただすルートがなかった。やむなく、アメリカ代表部を通じて事実の確認を求めたが、連合軍対日理事会ではソ連代表は「ソ連には日本の引き掲げ対象者はいない」と断言したという。

 日本政府はアメリカに対し、ソ連との交渉を持ってくれるように依頼し、その結果成立したのが日本人抑留者の引き掲げに関する「米ソ」協定だった。昭和二十一年十二月のことである。同年十二月八日、第一陣の引き上げがナホトカから舞鶴に入ったが、その後二度ほど中断し、最後の引湯船が入港したのは昭和三十三年九月七日である。
シベリア強制連行による犠牲者は、ソ連が崩壊したあとエリツイン・ロシア大統領が認めたかぎりでは六万一千八百五名という。

「満州帝国の興亡」戦記シリーズ38 新人物往来社 から引用
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満州開拓団と義勇隊の悲劇

東京都多摩市にある都立桜ヶ丘公園の一角に建つ「満州開拓殉難者之碑」は全国から集められた浄財で昭和38年完成したものであり、毎年4月の第2日曜日に例祭が行われているという。
ソ連軍の侵攻作戦により、満州開拓団は約1千の開拓団と100以上の義勇軍の運命は悲惨極まるものであった。
終戦時の満州在籍者約22万余名といわれているうち、ソ連軍、土匪、暴民、八路軍などに惨殺されたり自ら自決した者、避難中に病死や栄養失調で亡くなった方達は実に約9万名といわれている。
各地で悲劇が起きているが、その中の一部、代表的な事件を一覧表にしたのが別表「悲劇に見舞われた主な開拓団・民間人」である。

表はクリックすると大きく見えます
満州開拓団の悲劇1

満州開拓団の悲劇2

昭和の戦争記念館 第2巻 大東亜戦争と被占領時代 名越二荒之助著 展転社から引用

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