中隊長としての戦場体験と教訓⑧

支那事変間中隊長として百数十回の戦闘を体験、そこから得た「戦場心理」「戦場における指揮統率の秘訣」を学ぶ最適な書
            高杉善治(陸士37期)支那駐屯軍中隊長、歩兵22連隊大隊長等
■戦場における指揮官の責任観念

 戦闘が開始されると、各級指揮官は如何にしてこの戦闘を有利に進展させ、勝利に導こうかということで頭が一杯であろう。特に直接戦闘にたずさわる中隊長以下の指揮官は、死傷者を身近かに見ながら指揮をするので、自分の指揮の巧拙が直ちに結果として現われ、時によっては全軍勝利の基を開くことになり、また時によっては取り返しのつかぬ悲惨な結果を招くことになるのでその責任は極めて重大であり、できるだけ損害を少なくして勝つのが戦闘指揮の上手なやり方である。

 しかし、状況によっては、全軍の犠牲となり、損害をかえりみず無理な戦闘をせねばならぬこともあるが、その場合でも戦闘の指揮をうまくやれば、最少限の損害で目的を達成することができるのである。中隊長以下の指揮官は、戦闘の勝敗の鍵を握る直接の責任者であると同時に、数百名の貴い部下の生命を預る責任者であることを心に銘じ、上手な指揮をすることに全力を注がねばならない。実際私共も、いざ戦闘が始まるということになると、最初の展開(部署)を命じ、攻撃前進を開始するまでは随分心配するが、一度展開が終り、攻撃前進が始まると一安心するものである。
 
 そして戦闘間は、死生の問題などは忘れて、どうしたら速くこの戦闘を勝利に導けるか、どうしたら損害を最も少なくできるか、そのためにはどんな処置をしたらよいか、ということで頭が一杯である。そのために、ついわが身の危険を忘れ、無謀な行動をして死傷することも多々あることである。指揮官は自己の責任の重大なることを考え、軽挙盲動してはならないのと同時に、必要な場合には危険を冒かしても勇敢な行動をぜねばならぬこともある。常に慎重な行動ばかりしていると、憶病に見えて部下に馬鹿にされるおそれがある。

 戦場では勇敢にして、戦闘指揮の上手な指揮官は部下に信頼され、憶病でへまな戦闘指揮をやり、いつも損害が多く、不利な戦闘ばかりしている指揮官は、全く部下から信頼されなくなるものである。

 某大隊長が、太原の突撃の際、途中で敵の射撃を受けたため付近にあった便所の中に入って一時避難し、第一線の突撃が終ってからやって来たことがあったが、すぐに兵隊たちの噂となり、憶病者のそしりを受けた。この大隊長は、いつも鉄かぶとをかぶっていた。戦闘間は無論であるが、行軍間でも馬上でかぶっている。部下の将兵は誰一人かぶっていないのに自分一人だけかぶっている。理由は、戦場ではいつ、どこから敵の不意な射撃をうけるかわからないからだそうだ。しかし鉄かぶとというものは相当重く、誰でもなるべくかぶりたくないもので、なれてくると少々の戦闘ではかぶらない者もいる位である。大隊士気の中心である大隊長が、馬上豊かに鉄かぶとをかぶっているのではちょっとおかしな話で、兵隊達は、「大隊長が転任のときには、記念品として鉄かぶとを贈呈しようか」などと冷かし気分で話し合っていた。

 私は兵の心得として次のように指導していた。一旦戦闘が始まったら、各人は全知全能をつくして自己の任務達成に努力しなければならないが、犬死してはならない。死なずに目的を達成できるのが一番よいのである。そうすれば永く御奉公ができ、自他共に幸いを受けるのである。不注意や空元気のために戦死したり、負傷したりすれば自分の損ばかりでなく、中隊の戦力を低下することになり、戦いに戦ける原因となる。戦闘は一回だけではない。生き残っていつまでもお国のために戦わねばならないのであるから、細心の注意をもって臨まなければならない。と教えた。

 特別な場合を除き、戦闘では損害を最少限にして勝利を得るように指揮をすることか大切である。戦場では指揮官の功名心や、他部隊との競争心から無理な戦闘をすることが多々ある。中隊長以下の指揮官は、直接部下と苦楽を共にし死生を同じくしているので、そんなことは割合少ないが、連隊長以上の上級指揮官になると、直接戦闘の悲惨さを目撃する機会が少ないので、落ちついて冷静な作戦指導ができる反面、功名心とか、競争意識が働らくことがあり得ると思われる。

 武漢戦のとき、どの部隊が武漢三鎮に一番乗りをするかというので、ある部隊は健脚先遣隊を出し、またある部隊は落伍者続出を覚悟して昼夜兼行の強行軍をした。某連隊の如きは、軍旗を翻えしながら士気を鼓舞していたのもあった。こういうことは一面必要なことで、どうせやるからには立派な手柄をたてたいと願うのは人情であり、士気の上でも大いに効果がある。余り慎重過き、いつも他部隊のあとから進み、却って損害を多く出し手柄もたてられぬというのでは士気も阻喪し、指揮官への信頼もなくなってしまうから、同じ苦労をするなら、或果のあがるような戦闘指導をした方がよいと思う。ただそれが程度を越し、無益な損害を出すようなことは慎しまねばならぬと思う。

 英国のモントゴメリー元帥の回顧録を見ると、彼は損害を極力少くして目的を達成することを主義とし実行して、いる。第二次世界大戦のノルマンジー作戦の際、米軍と並んでドイッに反攻作戦をした際、米軍の進撃は非常に迅速であったが損害も多かった。英軍の進撃は慎重で遅かったが損害は少なかった。それで進撃が遅いといってアイゼンハワー総司令官からしばしば督捉を受けていたが、彼は彼自身の信念に基づいて行動し、損害を少なくして目的を達成することにつとめたといっている。アルジェリアの作戦においてもまた然りであった。

 これは、国民性から来る考え方の相違であるかも知れないが、旧日本軍は、どちらかというと人命尊重ということをやや軽視した感があったように思われる。あるいはそのため強かったのかも知れないが、将来の戦争の場合には大いに学ぶべきことであると思われる。私の中隊は初陣の広安門出動のとき、中隊長以下六十八名であったが、直接指揮をした戦闘は百数十回におよんだ。その中戦死者は兵三名、負傷者は将校一名、兵四名の極めて少数で連隊中で一番損害が少なかった。私が中隊を去ってから聞くところによると他に将校二名、准士官一名、兵十名が死傷し、六十八名中の無傷は四十七名であったらしい。

 私は前述のように、必要なときには思い切って大胆勇敢に行動させたが、必要時以外は、人命尊重ということを念頭に置いいて細心の注意をもって指揮した。しかしそれがため他部隊に迷惑をかけたり、卑怯な振舞をしたことはない積りである。

立派に目的を達成して来た。のみならず太原攻略のときには一番乗りの光栄を担うことさえでき、部下の士気は常に上がっていた。私の経験から考えて見ても、人命尊重に力を入れても戦力が鈍ることもなく、寧ろ常に充分な戦力を保つことができ、立派な戦果をあげることができると確信するものである。

 あれだけ多くの戦闘をしながら、これ程少ない損害で済んだのは天佑神助があり、運がよかったのだと思うが、また一面、中隊幹部の適切な指揮と、一兵に至るまで私の主義が徹底していて、皆がよくそれを守ってくれれたお蔭であると思い感謝に耐えないのであり、一同と共に喜んだ次第であった。
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中隊長としての戦場体験と教訓⑦

支那事変間中隊長として百数十回の戦闘を体験、そこから得た「戦場心理」「戦場における指揮統率の秘訣」を学ぶ最適な書
            高杉善治(陸士37期)支那駐屯軍中隊長、歩兵22連隊大隊長等
   
■戦力のバランスを破る

 「戦捷の要は有形無形の各種戦闘要素を総合して、敵に優る威力を要点に集中発揮せしむるにあり」と旧作戦要務令では教えていた。これは、上は軍司令官から、下一兵に至るまでよく味わい、実行すべきことだと思う。

 ここでは主として第一線の中隊長以下の行動について述べて見たいと思う。
 敵との戦闘が開始されたとき、特に遭遇戦においては咄嵯の判断で決心をし、戦闘を開始せねばならないのが常である。戦闘に慣れないと型の如く正面に展開して漫然と射撃を開始する者が多い。特に未経験な若い幹部に多く見られるところである。決心がつかずに遅疑逡巡して戦機を逸するよりはましであるが、決心をする前には必ず戦術的判断をする余裕がほしいものである。任務、敵情、地形を大観し、如何にして彼我戦力のバランスを破り、敵に勝る戦力をもって戦うことができるか、ということを考えることが必要である。戦争に限らず、何事でも競争して勝敗を決する場合にはこの着意が必要である。戦略、戦術の根本原理は、戦力のバランスを破り、敵に勝る戦力をもって戦うことができるように、あらゆる手段を講ずることであると私は思っている。この根本原理をわきまえていれば、あとは常識でもできるものである。

 戦闘の諸原則も結局この大原則から生れ出たものである。典範令の原則はもちろん修得し応用せねばならぬものであるが、枝葉の原則に拘泥して、根本原則を忘れ、千変万化の戦況において創意と工夫に欠け、不覚をとることがある。
 私は戦後英国のモントゴメリー元帥の回顧録を翻訳したことがあったが、元帥の回顧録の中にも同じような意見が出ているのを発見して大いに意を強くしたものである。この考えをもって戦闘に当たれば、わかり切った失敗を繰り返すようなことはないと思う。

 平素の演習では、戦関関始前に指導官から「このときにおける指揮官の決心、処置」を問われるだろうが、戦場では指導官はいない。自分の判断で行動せねばならない。こんなことを聞くと諸君は、そんなこと当たり前ではないか、いつも演習でやっていることだから戦場だってきっとその通りできる、というであろうが、しかしなかなかそれができないのが戦場心理というものである。応召幹部が多くなり、訓練が精到でないためでもあろう。

 私は初めて敵弾を受け、戦闘がまさに開始されんとする時には、先ず軽機関銃一分隊位をもって正面に対する 準備を命じ、自らは職場付近の敵情と地形を大観し得る 地点に進出し、一ぷく煙草に火をつけて心を落ち着け、この状況で最も有利に戦力のバランスを破って勝つ方法はどうしたらよいかを考えた。そして極力正面攻撃を避け、側面あるいは背後から敵の意表に出て攻撃することにつとめた。これは戦術原則上当然のことである。ところが、内地から補充で来たばかりの幹部候補生や、応召の小隊長のやり方を見ていると、敵を見ると猪突猛進、型の如く正面攻撃をしていたずらに死傷者を出しており、自らも戦死する例が非常に争い。

 武漢攻略戦の折、某中隊(中隊長は現役)か予備隊か ら第一線の増援に出された。前方ハ○○米位のところに ある高地(高さ約二〇〇米)帯で、第一線が苦戦をしていたのでその増援のためであった。前面高地には敵が進出して占領しているのが双眼鏡でよく見える。この場合左右に友軍がおり、中隊は正面攻撃より他に方法はなかった。中隊は勇躍して正面からの攻撃を開始した。ところが、高地の中腹まで進むと敵の十字火特に手榴弾の狭撃をうけ、死傷続出して前進困難となり、午前十一時頃から攻撃を開始したのであるが、日没になるまで進退きわまり、進むことも、退くこともできなくなってしまった。夜暗を利用してようやく死傷者を収容することができたが攻撃は失敗に終った。

 この失敗の原因は、昼間山地の正面攻撃に際して、この中隊は谷間を前進したので、稜線(尾根)上から、重軽機関銃や手榴弾の十字火を受け、文字通り進退きわまって失敗したのであった。山地の昼間攻撃では、稜線伝いに商い所を占領しつつ攻撃するのが原則であり、常識であるのに、無思慮に猪突猛進して大きな損害を受け攻撃に失敗したのである。指揮官というものは、一度へまな戦闘指揮をやると沢山の部下の尊い生命を失うばかりでなく、その後部下の信用を失うことになるから特に注意を要する。

 同じで武漢戦の折、大令山という高さ約三〇〇米の高地の攻撃があった。これは第一連隊の小岩井中隊が攻撃に当たった。私は隣接連隊の本部にいたので、四〇〇栄位の距離でその奮戦振りを手にとるように見ることができた。敵は山の中腹から頂上にかけて十数名毎に分散して壕によって占領していた。小岩井中隊は各稜線伝いに歩々の攻撃を進めている。第一戦の兵もよく訓練されていて、岩かげを利用して一歩一歩敵に近づき手榴弾を投げては突撃している。最前線のところには日の丸の小旗が見える。第一線の位置を標示するためであろう。小隊長が軍力をかざして敵陣に切り込むのも見える。実に整然とした堅実な攻撃振りであり、あせらず、迫らず、悠々として一歩一歩と敵陣を攻略していく。指揮もうまいが、兵の訓練もよくできていた。実に立派な戦闘であった。これは山地攻撃で成功した例である。

 同じ武漢戦のとき、丁度秋の末で、満山紅葉の錦に包まれていた頃である。某大隊が標高二〇〇栄位の高地を攻撃していた。あたりは同じ位の高地帯であった。午後三時頃であったろう。山頂の敵が頑強でなかなかぬけなかった。するを山の麓の方から一条の煙が上がったと見ている中に煙は山肌に沿い頂上に向かって這うように登っていった。発煙筒をたいたのである。連隊長は電話で命令をして下から火をつけて山火事を起こし、山頂の敵を火攻めにせよといっていた。たちまち火の手が上がり全山山火事となり、さしもに頑強な敵も灰と化してしまった。戦わずして勝利を得たのである。楠正成の戦法みたいであるが、煙の這い上がる気象を見て直ぐ火攻めに気のついた連隊長の着意に敬服したものである。こんな戦法は平素の演習ではできないことであるが、戦場では勝つための手段として、適当なものは何んでも工夫し採用する着意が必要である。

 同じ武漢戦のとき、連隊は深い谷間の道路を追撃していた。両側は高さ四〇〇米位の高地がそびえ立っており、谷の幅は四、五百米位あった。谷に入ってしばらくすると右側の高地上に敵兵が現われ、続々増加をして射撃を開始した。連隊は真側面から、しかも行軍縦隊のままで約一コ連隊の敵から不意の攻撃を受けたので、一時はどうなることかと心配したが、連隊長は、落ち着いて部署し、一部をもって当面の敵に対せしめ、主力をして右側の山を迂回して、敵の左側背を攻撃させることによって有利な態勢に挽回し、苦境を突破し戦闘を有利に導くことができた。

 戦場では、警戒のための斥候、個所等を出すのをいやがるものである。連絡がとれなくなり迷子にしてしまうことがあったり、これらの行動を待っているため、主力の行動が遅れることかあるので、小部隊の分割派遣を極力避けたがるものである。私なども、中隊長のときには、目視し得る箆囲以外には斥候は或るべく出さなかった。その代り直接警戒を厳重にしていた。前記の場合も側衛の前進が遅れ、本隊の方が先に前進していたので、側面の警戒が不備であったのであろう。しかしこんな不利な情況でも、沈着適切な処置をとれば、彼我戦力のバランスを破り、戦闘を有利に導くことができるものである。

 要するに、直接第一線に出る指揮官は、戦闘開始前は勿論、戦闘間でも絶えず彼我戦力のバランスを如何にして破るかということを考えて戦闘を指揮することが必要である。これはいうことは易いが、いざ戦闘となると、特に第一線の弾の中では実行がむずかしいことである。

中隊長としての戦場体験と教訓⑥

支那事変間中隊長として百数十回の戦闘を体験、そこから得た「戦場心理」「戦場における指揮統率の秘訣」を学ぶ最適な書
            高杉善治(陸士37期)支那駐屯軍中隊長、歩兵22連隊大隊長等

■地形地物の利用

 日本軍の旧歩兵操典には、射撃と遮蔽のため些細な地物もこれを利用することを要求している一方、顕著な地物付近にい集しないように戒しめてあった。ところが実際戦場で弾の中を前進するときには、自然に顕著な地物の付近に集まるのが人情である。従って敵に対して、有利な目標となって損害を受けることが多いから特に注意すべきである。また敵から狙撃されていることを知ったときには、速かに位置を変換することが大切である。

 敵弾というものは、なかなか一発で命中するものではなく、身近に危険な弾が数発集まって来るものである。そのときには狙われているなと思い、速かに位置を変換するとよい。また戦闘間に遮蔽に適した地隙とか、提防のようなものがあるとそこに集まり停止するようになるのも人情である。これがまたすこぶる危険な場所であることを知らねばならない。敵は戦場の著名な地物に対しでは予め試射して置き、攻撃軍がその地物に集まったときに集中火をあびせ、大きな損害を与えようと待ちかまえていることが多い。

 前記山西のセッ口鎮の戦闘で、第一線大隊(私は第二線攻撃部隊にいた)が攻撃前進を開始し、ちょうど平素の演習のように勇敢に攻撃前進していた。すると敵前二〇〇米位のところに、敵陣地に平行するようになっている大きな地隙があった。攻撃部隊がこの地際に飛び込み、一息ついているなと見ていると敵迫撃砲の弾幕射撃が巡続数回行なわれた。地隙の内外は文字通り弾幕で覆われてしまった。どうなることかとかたづを呑んで見ていたが、果せるから死傷続出、前進は頓坐し、某中隊の如きは殆んど全滅に近く、無傷の者は数名しか残っていないということであった。あとで五師団の者に聞くと、この地隙は五師団がしばしば同じ方法でやられたところで「地獄谷」と呼んでいたところだったそうである。

 攻撃開始前に、隣接部隊(第五師団)の第一線幹部相互の連絡を密にし、事前に事情を知ることが必要であると思う。セッ日鎮の場合の事前連絡は一応したのだが、第五師団は再度の攻撃で死傷続出し、幹部の戦死も多く、これ以上の攻撃は不可能であるとし、駐屯軍の1コ連隊が来て突破できるならやってご覧なさいという態度だったので、地獄谷のことまでは言及しなかったのではないかと思われる。事前に中隊長以上全員が五師団の第一線に行き、連大隊長と会って連絡をしたのであるがそんな話は聞かなかった。当方としてもなぜ五師団がこんなに死傷者を出し、攻撃が不成功でおったかの原因を充分に検討することが不充分であったので、同じ失敗をくりかえすことになったのである。

 要するに戦場では、地形、地物の利用は最大限にすべきではあるが、目標となりやすいものの付近に行かぬことと、著名な地形地物の付近に長く留まらないことが極めて必要である。

中隊長としての戦場体験と教訓⑤

支那事変間中隊長として百数十回の戦闘を体験、そこから得た「戦場心理」「戦場における指揮統率の秘訣」を学ぶ最適な書
            高杉善治(陸士37期)支那駐屯軍中隊長、歩兵22連隊大隊長等 
 
「三不打(サンプータ)」ということ
 昭和十二年の秋、山西の戦線もようやく進み、第五師団は大道の嶮(けん)を突破して大原を目ざして前進したが、その前方セッロ鎮の堅陣にぶつかり、死傷者続出、前進困難な状態に立ち至った。それでわれわれ駐屯軍の萱島部隊は増援のために北京、通州の警備を後続部隊に委ね、セッ口鎮に向かって出発した。大道を過ぎて礦山用軽便鉄道で、平地泉というセッ日鎮の手前の部落に進んだ。

 その途中は行きちがう台車の中には、セッロ鎮で負傷をした将兵が一杯乗っていて、見るも気の毒な状態であり、目をそむけさせるものかあり、セッロ鎮の戦闘がいかに激戦であるかを物語っていた。途中ですれ違いの台車が共に小休止をした。その折近くの台車の中に乗っていた四十がらみの老大尉がいた。頭と足に包帯をし、左腕は骨折したらしくてギブスを当てて肩からつっていた。彼は私に声をかけて、これからセッ日鎮へ行くのですか、御武運の長久を祈りますよ、気をつけて下さい。旅順のような戦場ですからね。ついては一つあなた方に大事なことを教えてあげましょう。あそこの職場では支那軍に「三不打」という射撃法がある。

「三不打」とは
 一、敵が射撃をしている間は射たない。
 二、昼は射たずに夜射て。
 三、遠い敵は射たずに近よった敵を射て。
 ということである。

一、は敵が射撃している間は、敵の所在をよく見て置くために射撃をしないでいる。そして敵が前進を始めた
 ときに猛射をあびせるやり方である。
ニ、は日本軍は昼間は攻撃して来ないが、夜襲をして来るから、昼は射たずにいて夜射撃せよというやり方で
 ある。
三、は敵が遠い間は射撃をしても当らないら、最も効果的な近距離で射撃せよ、というやり方である。
 これは弾薬を節約し、効果的な射撃をさせるためにとった方法と思われる。
 このような経験談をしてくれた。なるほどと思っていざセッロ鎮の戦場に行って見ると、全くこの話と同様で非常に参考になった。

 日本軍は、とかく弾薬を浪費しがちであったが学ぶべきところがあろう。、
 セッ日鎮では敵味方が遠くても数十米、近きは二、三米で対峙した山岳地帯の攻防戦で、五師団か約二十日、われわれも約十日間、毎日毎夜、とったりとられたりを繰り返し、死傷七千と称し、全滅に近い中隊も相当あった由である。

 支那車の「三不打」戦法はよく徹底しており、このために随分損害をうけた。昼間の狙撃は実に上手で、壕から頭を出すと必ずといってよいくらいやられる。また壕に銃眼をつくって銃口だけ出して狙撃している日本兵のその銃眼の中を狙撃して命中させている。昼の戦場は朝食、昼食、タ食で、食事の分配(麓で炊事したものを山に持って来て各壕に分配していた)で壕から兵が出るときを狙って迫撃砲の集中射撃を約一時間やり、毎日これをくり返す。夜は日本軍の夜襲に際してはあらゆる火器、特に軽機関銃(チエコ)、手榴弾の弾幕をつくって阻止するというやり方である。

 日本軍の小銃射撃は制圧にはなったが、狙撃は下手だった。これはセッ口鎮ではなく武漢戦のときのことであったが、連隊本部の近くの民家から、敗残兵が二人(男に女の兵隊)突然逃げ出した。それっというので予備隊の一小隊で、距離約五十米先を逃げて行く二人を猛射したがさっぱり当たらぬ。二人はどんどん逃げて行く、一小隊が近距離で射ちまくったが遂に当たらず二人は逃げおおせてしまった。これはあわてて射撃したので、照準が不正確であったのと、だんだん遠ざかって行く目標に対して、照尺変換を忘れたためであったろう。

 戦場で不意に敵と遭遇した場合に、指揮官も兵もあわてて距離照尺を号令することを忘れ、ただ射てと号令することがしばしばある。初心者に多い。必ず照尺を示すこと、要すれば二重照尺(半数宛距離の異なった照尺)で射撃させるくらいの余裕がほしいものである。

中隊長としての戦場体験と教訓④

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 戦闘に経験のない幹部の現地教育
 私は内地から新たに補充されて来た幹部に対しては、最初から戦闘指揮をとらせず、初めて戦闘に参加させるときには、中隊長の手許に置いて、戦闘を見学させながら教育することにしていた。この戦闘は、なるべく軽い戦闘を選び、充分に勝算のある討伐戦のようなものがよい。一例をあげると、昭和十二年の秋に、私が北支の通州(通州事変のあった地)の守備に当たっていた頃、殆んど毎日のように討伐戦があった。そこへ士官学校を卒業したばかりの若い元気なY見習士官が着任して来た。
 
 一応口頭で初陣の心得を教えて置き、翌日もちょうど手頃な討伐があったので、見習士官を指揮班付として中隊長の手許に置いて出動した。夜中に出発して夜明けに某部落の前方四〇〇米位に到達したとき不意に敵の射撃を受けた。私は一時部隊に停止を命じて煙草に火をつけ、一ぷくしながら墓地のかげに入り、敵情、地形を観察して攻撃方針を定め、見習士官を呼んで問題を与えた。

   問  題
 この時における中隊長の決心
Y見習士官は顔色やや青ざめ、興奮した口調で。
   決  心
 中隊は一部をって正面から、主力をもって右方から敵の左側背を攻撃します。

と答えた。それから決心に伴う部署をきいて大体同意を与えた。私は予備隊の軽機関銃二銃をもって正面から牽制射撃をさせ、中隊主力は右側の高梁畑の中を遮蔽しながら前進し、敵の左側背に出て約二〇〇米の距離から不意に射撃を開始した。すると敵は狼狽してどんどん後退を始めた。そこでY見習士官に新任務を与え、「貴官は予備隊の残余を指揮し、敵の退路に迫りこれを射撃せよ」と命じた。但し余り深追いをしないこと、突撃まではしなくてもよいから射撃で敵をいためつければよい、という注意をつけ加えて置いた。

 Y見習士官は生れて初めての戦闘であり、初めの中はかなり興奮と緊張の様子が見えたが、中隊の勝ち戦を見て沈着と安心観をとりもどし、「中隊長殿!もういいでしょう、早く第一線に出して下さい」といきり立っていた。私共は、これ迄たびたびの戦闘で慣れているが、彼は初陣である。いくら軽い戦闘であっても、あなどってはならない。全力をつくして真剣にやらねばならぬことを諭し、持っていた恩賜の煙草一本をとり出して彼に与え、「しっかりやるのだぞ!」といって出発させた。すると彼は勇猛果敢、弦をはなれた矢のように、部落の右から背後を迂回して敵の退路に迫り、退却しつつある敵に猛射をあびせ、大きな損害を与え胸のすくような戦闘をし勝ち戦さの味を満喫することができた。

 戦闘も一段落したので、中隊は部落の西北端で前進を停止し隊伍を整理した。当方死傷者なし。しかし見習士官の部隊だけがまだ帰って来ない。心配になったので曹長を捜しにやってようやくつれ戻し、無事であったのでほっとした。彼は初陣の勝ち戦さにすっかり有頂天になって、中隊長の注意も忘れて敵を深追いしていたのであった。お目王を頂戴して引き下がった。

 補充兵の現地教育は、数も多いしこんなわけには行かないが、出発前には充分に戦闘の教訓を教え、事前に現地で古年兵のやりかたを見せつつ訓練して実戦的に焼を入れ直して置くようにした。内地での平素の訓練では、どうしても、敵の弾が来るという観念が充分でなく、あるいは極度に弾を恐れるようになったり、あるいはぼんやりしていて無益の損害を受けたりすることが多い。平素の訓練をもっと実戦的にすることが必要である。

中隊長としての戦場体験と教訓③

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 徴候判断
 戦線ではいろいろな徴候が現われる。特に幹部はこの徴候を迅速に把握し、正鵠に判断する能力が必要である前方の部落に敵がいるか否かは五、六百米手前で双眼鏡でよく見るとわかることか多い。農夫が畑に出て仕事をしていないとか、住民が部落のあちこちにかたまって何か話し合っているとか、全然人気がないとかいうようなところには敵兵がいることが多い。だんだんなれてくると第六感というか、敵がいるぞという殺気を感ずるようになるものである。ここまで行けば大丈夫。

 私の連隊長は、頭のよい戦術の上手な人だったが、中支作戦の追撃の時、約七〇〇米位の広々とした水田にぶつかった。ふと見ると向う岸には敵が相当数陣地を占領していて、閑散な射撃をしていた。このまま前進をしたならば、水田の中で相当な損害を受けやしないかと考えていた。すると前岸の敵兵の若干名が、あちこちで後退するのが見えた。連隊長は直ちに疎開前進を命じた結果は大きな抵抗もなく、前岸にとりつくことができた。このやり方は、追撃戦の性質から見て当然なやり方ではあるが、なかなか思い切れない場面であろう。速かに徴候を発見し、これに戦術的判断を下し、果敢な行動に出られた処置に感心したものだ。
 敵の靴跡、車両の轍痕、敵の捕虜や戦死者の隊号等は敵の退却方面を知り、如何なる部隊が前面に来ているかを知るために大切な徴候であることをしばしば体験した。

中隊長としての戦場体験と教訓②

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 弾の音と弾筋
 小銃や機関銃弾の音には「トン」「パン」「シュン」の三種があるとわれわれは射撃教範で学んだ。そして下志津の闘種射撃のとき一度だけ「トン」音と「パン」音を聞く体験をしたことがあった。「トン」音は発射音で「パン」音は弾が自分の頭上高く通過するときの通過音である。「パン」音は通過音であるが、音も大きくあたかも自分の頭上で破裂したような感じを受け、弾の音としては一番恐ろしい音で、ちょっと危険に思う音であるが、実際は一番安全な音である。私は戦闘問「パン」音が聞えるようになったら敵を制圧した証拠であり、前進の時機だと部下に教えていた。それは、敵がわが銃砲弾によって制圧され、二頭を濠の中にひっこめ、手元を下げて射撃しているときであり弾は高いところを通るので決してあたらないからである。旧歩兵操典に、分隊の前進の時機は、わが火力をもって敞を制圧した瞬時というのがあったが、それが具体的に現われた現象は、全く弾が来なくなるか、あるいは、この「パン」音が聞える状態になったときをいうのだと思う。激烈な戦闘間でも、敵の射撃には波があって、この「パン」音が出てくる。あるいは、わが方としては、この「パン」音を出させるように敵を制圧して前進の時機をつくることが必要なのである。

 次に一番恐ろしい音は「シュン」音である。これは地上1米前後の高さで、自分の身辺を通過する弾の音であり、ちょうど秋のススキの葉が風に揺られて出す音によく似ており、音は小さいが、敵に胆われていることが明らかであり、命中する公算の最も大きな弾である。この弾は、音が小さいので、うっかりしていると聞き逃してしまうから注意を要する。この音を聞いたときは、前進を見合わせるか、前進路を変更するか、あるいは敵を制圧する手段を講ずるか、いずれにしても、細心の注意と充分な準備をしてかからねば不覚をとることがある。

 これらの弾の音は、初めはなかなか聞きわけられないが、回数をかけ慣れてくるとすぐ聞きわけることができるようになり、「パソ」音のときには大きな姿勢で前進することもできるようになる。
 また弾には弾筋というものがある。地形や光線等の関係で、よく目立った地物の付近や、日光に暴露した目標の近くには敵弾が集中してくる。狙い易いからである。戦闘が始まって敵味方の射合いが起こり、彼我両軍の間にはタ立ちのように弾が落ち、一寸の隙間もないようにえるが、よく落ちついて弾着の様子を見ていると、友軍の前後に落下する弾着が土煙をあげてよく見えるようになる。その弾着状況がおる地点では疎になるものである。

戦闘に慣れた者は、この弾筋を絶えず見極めて進路を選ぶことができるようになるものである。弾着の濃いところを避けて疎なところを前進するようにする。ときには全く弾の来ないところもあるのである。この弾筋を見極められるようになれば一人前の戦闘員ということができよう。もちろん全体の中の個人として、自分の行動を許される範囲は制限されているが、その制限された行動範囲の中においても、おちついてよく見ると、弾筋は発見することができる。
特に直接戦闘に従事する中隊長以下の下級幹部は、絶えずこの弾筋を見極めて自己に許される範囲内で部下部隊を誘導し、無益の損害を避けることに努力せねばならないと思う。もちろん任務が最も重要であるから、任務を遂行するためには水火もなお辞せずという決意は必要であるが、その達成の手段方法については、極力損害を避けて効果をあげるように工夫することこそ、特に幹部の責任である。

 死傷者の一番多いのは、内地から初めて戦線に補充されてくるまったく戦闘経験のない兵や若い幹部と、少し戦闘に慣れて弾を馬鹿にしてかかる者である。前者は敵弾の威力を無視して平素の演習と同じ型で戦闘に加入するからであり、後者は敵弾の威力を軽視して油断をし地形地物の利用を怠り、不必要に大きな姿勢をするからである。初めて戦闘に参加する者が任務達成に忠実で、猪突猛進する勇気は壮とするも、戦争では実弾がくる。この実弾を如何に処理し、損害を最少限度にして任務を達成するかという思慮と、工夫に欠くるところが多いからである。戦争に慣れないのでカッとなり、沈着と冷静とを失い、工夫をする余裕がないせいでもある。内地から来たばかりの小隊長の指揮振りを見ていると、敵情、地形の如何にかかわらず、常に正面に展開して攻撃する者が多い。地形、敵特に応じて極力包囲迂回をし、戦力のバランスを破り、有利に戦うという工夫が足りない。

 武漢戦の最中に近衛師団から補充された新任少尉(幹部候補生)が、二十数名戦場に到着したことがある。夜間到着したのと戦場が激戦中であり、戦場での準備訓練をする余裕もなかったので、私は連隊本部の岩かげに彼等を集め、激烈な前線の銃砲声を開きながら初心者の心得を敢えてやり、直ぐに前線の中隊に配属した。夜明けになると前線から負傷者が担架に乗っかり、あるいは歩いて包帯に包まれて続々と下がってくる。一人一人顔と部除名を見てねぎらってやったが、その負傷者の大部分が昨夜補充されて来た人達で、特に小隊長が多かった。新しい服に新しい背嚢を鮮血に染めて担架に乗って下がってくる様を見ると胸がつまる思いがした。この場合は戦場での予備訓練をする余裕もなく、いきなり戦闘に参加させなければならぬ状況であったが、できる限り戦場での予備訓練をして、敵弾の性質をよく認識させてから本戦に参加させた方がよいと思う。

 また山西のセッ口鎮の戦闘中に、事変開始以来歴戦の兵が油断し、敵弾を馬鹿にし塹壕の上に仁王立ちとなり、敵方に向かって小便をしていた。たちまち敵の狙撃をうけ戦死したという馬鹿げたこともあった。戦友と度胸比べをして何! 弾なんかあたるもんかと力んでやったことらしいが決してこんな空元気を出すものではない。戦場では大敵たりともおそれず、小敵たりともあなどらず、どんな場合でもいやしくも戦闘をするときには細心の注意と全知全能をつくして事に当らなければならないのである。

 平素の演習訓練も、われわれが一度戦闘の経験をしてから見ると、敵弾を無視した形だけの訓練であったと思う。平素実際に弾の来ないところで、戦闘に経論のない幹部が教えているのだから無理もないが、これら無経験者には戦場の実相をよく知らしめ、実戦的な真剣な教育訓練をしておく必要があると思う。私は戦争中補充兵が来ると、戦争に経験のある老練な兵に各個戦闘教練をやらせて模範を見せ、両方を比較してここに隙がある、あそこに油断があると指摘して教育したものだ。戦闘は剣道の試合のようなもので、こちらに油断があり隙があると、敵弾はすかさず打ち込んでくる。一寸も隙のないようにしていなければならないのである。

 大東亜戦争中、満州部隊ではときどき実弾を使用した演習を行なって幹部に見せていた。これは内地の散開射撃に似たやり方ではあるが、トーチカ等の攻撃には本物の手榴弾を使用してやり、敵弾は来ないが、友軍の方は大砲も機関銃も全部実弾を使用して、実戦さながらの感を呈していた。内地ではこんな場所がないかも知れないが、危害予防に充分に注意して、在営間に少なくも1度はこんな体験をさせておくとよいと思う。

中隊長としての戦場体験と教訓①

支那事変間中隊長として百数十回の戦闘を体験、そこから得た「戦場心理」「戦場における指揮統率の秘訣」を学ぶ最適な書
           高杉善治(陸士37期)支那駐屯軍中隊長、歩兵22連隊大隊長等
死 生 観 
 人間は、誰でもできるだけ長く生きたいと願うのが本能であり人情である。戦争に従事する者でも、死にたくないと願い祈る心は同じである。「戦する身はかねてから、捨てる覚悟でいるものを、何で命が惜しかろう。ないてくれるな草の虫」という歌が戦争中流行したが、それは虚構であり、あきらめであって、人間本来の心ではなく、生きたい、死にたくないという気持が本心である。ただ当時の気持では、天皇陛下のためと、国家のために国防の大任を引き受けた軍人が、その責任と名誉のために決意した覚悟を表わしたものである。若き特攻隊員が、淡々として死を見ること帰するが如き心境で、死地に赴き得たのも、皆この決意から来たものであろう。
 現在は当時とは時代も変り、思想も異なって来たので今の若い人達には当時の我々の気持は理解できないかも知れないが、当時の軍人には確かにそういう信念があった。

 戦争では、いくら死にたくないと思っても、敵の弾丸雨飛の中を進まなければならない。従って、いつその弾がわが身に当たらないとは限らない。今まで隣にいた戦友がバタバタとたおれるのを見ると、自分の生命というものはほんの一寸先も保障ができない状態にあるのである。この時に臨んで、死生の問題をどう考えたらよいかという問題が起こる。なるほど戦争に参加する前に一応は戦死するかも知れない、死んでも仕方がない、と覚悟はきめて出発はしているが、いざ戦闘となり、射ち合いが始まって見ると、もう一度あらためて覚悟を決め直さなければならない気持になるものである。このときの覚悟が本当の覚悟である。この覚悟は、人によって拠りどころが違うと思う。全般的にいえば、「お国のため」だというあきらめに近い心であるが、ただ無意味に犬死はしたくない、という気持、何か尊く崇高な目的のために結びつけた犠牲心というものがないと、あきらめ切れず未練が残る。また指揮官という立場となると、多勢の部下を持っており、その尊い生命を預かっているので、その責任観念が起こり、自分一個人の問題に恋々としてとらわれていると、作戦指揮を誤り、任務を達成することができないばかりでなく、尊い部下の生命を無駄に失うことになるので、死を超越して指揮に専念せねばならぬという覚悟がおのづからできてくるものである。この覚悟がきまったときの心境は、実に清らかな気持がする。人間一切の欲望がなくなり、金もいらず、物もいらず、光風清月の思いである。この心境が仏教でいういわゆる「悟」を開いた心境ではないかと思う。しかし、凡人のなさけなさで、ひとたび戦闘が済むと、また直ぐもとの俗心にかえってしまうのが常である。いずれにしても、戦闘の始まった瞬間に、この覚悟を決めなければならない。ところが、この覚悟の決らない者がある。それは結局「悟」の開けない者で、兵の中にも幹部の中にもあるものである。                    

 私が参加した山西セッ口鎮の戦闘の際、某中隊の小隊長は、攻撃前進の命令が下って、敵味方の射ち合いが始まり、身辺に敵の銃砲弾が盛んに落下し、死傷者も続出してくると、顔面蒼白となり、ぶるぶる、がたがたふるい出して、射撃号令も出なくなり、岩かげにかくれて前進もせず、涙をぼろぼろこぼしていた。これを見た中隊長は、平素温厚でよく部下を可愛がる人であったが、決然立ち上がって、小隊長の襟がみをつかみ、畑の中に引きづり出し、どんどん敵の銃砲弾の飛んで来る中に二人共突っ立って「それでも貴様は将校か」とどなりなぐりつけていた。するとその小隊長はにわかに顔面にさっと血の気をとり戻したかと思うと、自分の卑劣な行為をわび勇猛奮起して飛び出し、落ち着いて射撃の指揮をしはじめた。小隊長は応召前は女学校の先生で、性質も女性的で、幹部候補生出身の少尉で、召集されて来たものであった。家庭にもいろいろな事情があったらしく、個人的には同情すべき点があったか、いやしくも小隊長として数十名の部下を持ち、その尊い人命を預かる職責にある者としては許さるべき行為ではないと思う。また、この際中隊長の採った処置も私的制裁に似ているが公憤であり、この場合そうするより他に方法がなかったのではなかろうかと思う。この中隊長は後に戦死をされたが、沈着勇猛しかも情味豊かな立派な人であった。

 戦場で死生に迷って覚悟の定まらぬ者は、心の練れていないインテリに割合多いように思われた。私の見た範囲では兵隊の中には見受けられなかった。それは、絶対服従の軍紀にしばられており、また戦闘のさ中、そんなことを考える余裕もなく、戦友と行動を共にせねばならぬ立場にあったので、卑劣な行為もできなかったばかりでなく、あまり死生の問題を深刻に考えず、割合あっさりと覚悟ができるせいでもあったと思う。思考力があり、ある程度行動の自由を許されている幹部の心すべきことである。

 生れて初めて戦闘に参加し、最初に敵弾の音を身近に聞いたときは、大抵の折は兵といわず、将校といわず、一時は顔面蒼白となる。私はそういう場面をたびたび見た。これもやはり敏感なイソテリに多い。某部隊長は頭よい人で、勇気もあり立派な部隊長であったが、今迄一度も実戦に参加したことがなく、中央部から初めて前線に出て来られた人だったが、前進中数発の機重射撃を受け、敵弾は頭上高くパンパンという音をたてて通った。パン音は相当大きな音がするので初めての者はびっくりするのが普通だが、この部隊長も例外なく咄嗟に首を縮めて土に伏して危険を避ける姿勢をとられた。見ると類面蒼白で緊張した様子がありありと表われていた。

 これは誰もが一度は経験することで、特に臆病だからというわけではないのであるが、戦争に慣れて弾の音によって危険の大小を識別できるようになった者から見るとまことに滑稽に見えるのである。近くにいた老練な兵隊たちは、この新任隊長の様子を見てクスクス笑っていた。これは平時において実弾の洗礼を受けさせる訓練をして置かないからで、平時の散開射撃の時に危険のないようにして実弾の音によってその遠近、高低を聞きおける訓練をして置くことが必要であると思う。

 私は支那事変前十数年軍隊にいたが、その間戦闘射撃のとき、実弾の下で実際にトン、パン、シュンの音を聞き別ける経験をしたのはただの1回しかなかった。それでも1回の経験があったので随分役に立った。また一方において特に幹部はこのような場合に泰然自若としておれる修養も必要であると思う。
 戦闘に慣れてくると、敵の弾もそれほどこわくなくなり、兵隊達も立ったままで、敵味方の射ち合いを見物しながら面白がっていたりするようになるものだが、これは勝ち戦さの場合であり、大会戦の前夜だとか、苦戦が予想される戦闘では、毎回相当深刻に死生のことを考えるのが人情である。今度こそはやられるかなという気持になるのである。こんな場合、私は部下の兵隊全員にハガキを数枚もたせて置き、今度は危険だなと思われる戦闘の前夜に、全部の者にハガキに遺言をかかせて集め、封印をして預かることにした。私も従軍手帖に何かそれらしい最後の言葉を書き残すことにしていた。そうすることによって、肩の重荷がおりたような気がして、心がはればれとし、いつ死んでもいいという覚悟が新たに決まるのである。

 戦争に出るときには、親戚、知人その他から沢山のお守り札や千人針等を大抵の者がもらって腹や腰に下げていた。苦しいときの神頼みで、こういうものを身につけていると、なんとなく弾があたらないような気がする。
理論的には通俗的であり、実際の効果は、あるか否かわからないか、お守りを持ち、千人針を身につけていると、自分の体は、神様が守っていてくれるから弾にあたらないのだという安心感を持つようになることは確かである。この安心感があるので心に余裕ができ、落ち着いて平常心をもって事に当たることができ、敵の弾筋の判断、地形、地物の利用も適切となり、指揮官は落ち着いて指揮かできることになり、結果的には身を守ってくれることになるものである。これは私の先輩の中隊長のことであるが、山西に出動前有志で夜会食をした。そのとき彼は大分メートルが上がって、満洲事変以来、いつも肌身離さず腰に下げていた沢山のお守りを全部焼き捨ててしまった。そんなことをすると罰が当たって戦死をするぞと皆から冷かされたが、数日後、山西のセッ口鎮で戦死をしてしまった。

 縁起をかつぐわけではないが、こんなことはしない方がよいと思う。私は郷里の氏神様と成田山のお守りを持っていた。事変か始まってから、天津の知人から金属製の観音様の像(メダル式にさげるようにできていた)をもらったので、それを刀帯の前部の環にぶらさげていた。それから母のかたみのシャリコウベの数珠を常に軍服のポケットに入れていた。もう一つは義父のかたみの軍刀(虎撤)を持っていた。

 これをもっていることによって、氏神様と父と母とがまもってくれているから大丈夫だという安心感を持っていた。中支の武漢戦のとき、前進中敵弾が私の腹部に命中した。相当のショックを受けてその場にしゃがんで、てっきりやられたと思って腹を押えていた。やがて手をとって見ると血が出ていない、不思議に思ってよく見ると、刀帯の前部にさげていた観音像がぶち切れて、どこかに吹き飛んでなくなっていた。恐らく敵弾がこの観音像に命中してそれたのだと思う。この観音像のお蔭で私は命拾いをしたわけだ。これは迷信であり、奇蹟であり、偶然であったのであろうが、戦場でこんなことがあると、神仏の加護だったとしみじみ有り難く感ずるのである。

 いざ戦闘が始まるというときには、時間の余裕があったならば大便をして置くことは心が落ちついてよいものである。私は自らもこれを実行し、部下にもこれを励行させた。これは一見妙なことのように思われるが、用便することによって心が落ち着くのと同時に、万一腹部に敵弾があたった場合に助かる公算があるという実効ももっているからである。何か大事に臨むときには、一つたして見たらよい。
 要は平素心の修養ができていて、戦場でも平常心を失なわないようになっておれば、こんな迷信じみた事に頼る必要もないのであるか、凡人の悲しさ、いざとなると、こんな事にも頼りたくなるものである。

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