英霊に敬意を!

引揚者と戦没者 
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体験記 抑留ー引き上げ・復員その2

一億人の昭和史 日本占領 1降伏・進駐・引き上げ から抜粋

■ 南十字星の下 妹尾英男

 北部マレーのビドル収容叫にいた私たちが、シンガポールに移送されたのは昭和二〇年の暮れであった。シンガポール島の西端ジュロンと呼ぶ一帯は、丘陵と湿地帯からなる荒蕪地である。敗戦直後、シンガポール在留の日本人はいち早くこの地にバラックを建てて集団生活を営んでいた。ほどなくマレー半島、スマトラの一般邦人も逐次送られて来て、いわば内地引湯の中継地となっていたが、ピーク時には、四、五万人にも達していたであろう。
一棟に約三〇人が起居できるバラックが整然と建ち並んでいて、集会所、野外劇場まで設けられていた、英軍は概してシビリアンには寛大で、ビドル収容所で味わったような強制労働も、ここでは行われていないようだった。
炊事の手伝いや、水汲みの使役に出る以外は、麻雀などで時間をつぶすのが日課であった。

 マラッカ海に日が沈み、シンガポールの街の灯が夜空に映える時刻になると私たちは香りの高い英国煙草をくゆらしながら、野外劇場をひやかしに出かける。出場者にはクロウトもいて、なかなかにぎやかなものだった。なかに丸顔のひどく歌の上手な少女がいて私たちを驚かせたが、この娘が久保幸江さんだとは後日知ったことだった。ジュロン抑留所での三ヵ月間は、私の人生の中でもっとも屈託のない安逸の時だったかもしれない。独身者の気楽さで、私はシンガポール残留を希望した
がいれられるはずもなく、翌二一年二月、廃虚と化した故国に帰還した。(神戸市在住)

■ 抑留列車 高崎初喜
 私たちは放心したように線路の上に立っていました。ここは北朝鮮の咸興より、二つ三つ南に下がった小さな駅でのことです。

 二〇年一〇月、ソ連軍発行のパスポートを手にした私たちは内地の土を踏める日が近いことを信じつつ清津駅をたちました、二両の貨車に二〇〇人もがつめこまれました。男は数人のみで、あとは女と子供でした。だが、やっと、ここまで来たときに、「機関車に牽引力がない」との理由で私たちの貨車二両を切り離して、列車は行ってしまいました。

 食料と水を求めて私たちは朝鮮人の村へ行き、戸をたたきました。「イルブンサラミ(日本人)には分けるものがない」と、かたく戸を閉ざし、屋外にある井戸のポンプまではずして家の中に持っていってしまいました。
 一日、二日とむなしく日は過ぎました。そして.三日目がきました。線路のはるかかなたに機関車の煙が見えたのです。みんな大喜びで手を振リました。間もなく列車はこの駅に止まりました。そのとき銃を持ったソ連兵が一〇人くらい降りて来ました。貨車には日本の軍人が捕虜として乗せられていました。言葉をかわすことはできません。黙ってお互いのあわれな姿を見つめあい、涙がほおを伝いました。兵隊さんたちも泣いていました。やがて、その貨車は北に向かって動き出しました。

 そのときです。「捕虜の身にこんなものはいらない」と叫んで毛布、財布、果糖などを私たちの貨車に向かって投げてきました。 「日本へ生きて帰れよ!」、「子供を死なすなよ!」と口々に絶叫しました。はたしてあのときの兵隊さんの幾人が、日本の土を踏むことができたでしょうか。  (金沢市在住)

■ トラック 金子正七 
終戦の日から一週間後、この新京にもソ連兵が進駐してきました。二五日、私と同僚の小野田さんが満州自動車の社用のトラックに乗って南嶺方面に物資の調達に行った帰り道、人影もまばらな官庁街の大通りを横道に曲がった途端、二人づれのソ連兵にバッタリとぶつかってしまいました。さっと自動小銃をかまえたソ連兵はトラックに停車を命じました。なにごとか声高にしゃべっているのですが、さっぱりわかりません。近づいて来てステップにあがり、さかんに新京駅の方を指さしています。そっちへ走れということらしいので仕方なく、ノロノロと車を走らせました。

 私たち二人はここで捕まってシベリアヘでも送られたら一大事だと目くばせしながら、脱走のチャンスをうかがいました。ソ連兵の任務はどうも自動車の徴発のようでしたが、とられてたまるかと大和魂がちょっと頭をもたげました。二人のソ連兵はヤケにしっかりと車につかまっていて、ふリ落とす機会もなくて、とうとう新京駅の見える所まで来てしまいました。なんと駅前の広場にはソ連兵がウジャウジャといました。そして徴発された自動車の列がずーっと続いていて私たちのトラックはその最後尾につけるように命じられました。しっかり停車したのを見定めて二人のソ連兵はステップから降りると前列の方へ報告に行くらしく、駆け足で車から離れました。「それ、今だ」とっさにバック! フルスピードで逃げだしました。二人は後ろから飛んでくるかも知れない弾丸の恐怖も忘れて、顔を見合わせて思わずニッコリと笑いました。

 しかし、トラックをカムフラージュして草むらに隠したかいもなく、中国人の密告で三日後、ソ連に召し上げられてしまいました。      (東京都在住)

■ トイレ 榎本 侑
 日本敗るの悲報全聞いたのは保定の陸車病院であったが、私の原隊である保定幹部候補生隊は、当時のいわゆる国共内戦で国府軍に加担し、ハ達嶺方面に出撃していたため、原隊復帰のできない私はそのまま北京に後送され、ここから内地帰還の部隊を編成して復員するということになった。 昭和二一年の一月、私たち日本兵を満載した無蓋貨車は、天津を目指して、折からの寒風をついて走ったのだが、長時間停車したり、またノロノロ運行などして、某夜、廊坊という駅に到着した。ところが、なんたることか、トイレで用を足しているうちに、復員列車は私を残して出発してしまったのだ。

さあ、たいへん。駅分哨の国府軍に尋問され、翌日、一般中国人の汽車で天津へ行くより方法がないという。だが、天の助けか、国府軍の装甲列車を見つけ、これに便乗、どうにか天津の駅までたどりつくことができた. これからがまたひと苦労。一目で日本兵士分かる軍服、しかも支給されたばかりの新品のものを着ているため、部隊の集結地を求めて市内を歩く私のあとを中国人がゾロゾロついてくる。身辺の危険を感じた私は人力車を見つけて、とにかく日本人のいる所へ連れてゆけというのだが、とんでもない所で降ろされて、べらぼうに高い料金を請求される始末。
 やっと日本人部隊の集結している集中営にたどリ着いたが、トイレの一件は笑えぬ大きなミステークだった。   (田無市在住)

■ 愛馬葬送曲 伊藤武雄
 異様な沈黙の列が続いている、南国の灼けた道に重苦しい列は延々と続いている。一頭、一頭、軍馬は兵に引かれてやがて丘の小道を登る。ときどき兵は愛馬の一肩を撫で首筋をたたいて、はげますがごとく慰めるがごとく呟くが、その目は暗く沈み、足どりは重い。やがて丘の中腹まで登ると視野が広がり、左側に地隙に似た断崖があって板の仮橋がかかっていた。その上に馬をとめ、一握りの青草を与える。それを無心にむさぼる馬に一発の銃声。いななく間もなく愛馬は谷底に転落し、やがてかすかに地響きがはい上がってくる。

 銃声は、軍馬への厳粛なる葬送曲であり、儀式の進行の合図でもあった。兵はみな唇をかみしめ、涙をこらえ、嗚咽を必死に押さえ、その冥福を祈るばかりであった。丘の下から愛馬たちは一列に登ってきつつあるが、銃声のたびに軍馬の耳は一様にビクンとはするけれど動揺はまったく見られず、さすが砲兵部隊とともに六年有余の砲撃戦を経験した強者としての貫録十分で、たのもしい限りだが、数刻の後に迫る運命を思うとき、哀れさが倍増されて涙があふれた。 こうしてこの日約一〇〇〇頭の軍馬が心収拾ならずも射殺され、バンコク郊外のナコンナヨークの丘は鬼哭啾々の霊場と化した。昭和二〇年一〇月四日のことである.。            (北九州市在住)

■ 水飢饉   飯豊 正五
 商工省から第一六軍軍政部付文官として派遣された私は、インドネシアのバンドンで終戦を迎え、その後、同地で強制使役をつとめたうえ、二十一年四月、ガラン島に島送リとなった。シンガポールから五時間ほどの赤道直下の無人島であるこの島は〟餓乱島″ともいわれたようにヤシの木すら育だない荒涼たる小島である。ここで四○日間、餓死寸前に追いこまれるまで過ごしたあと五月二五日、復員船となった空母「鳳翔」で帰国することになった。

 ところが、出航してまもなく、海水を浄化して真水に変える給水装置が故障してしまった。シンガポールに寄港できない当時、次の寄港地は台湾の高雄で、およそ一週間はかかるという。わずかの真水を貯蔵した給水タンクが五〇〇〇人を超す日本兵の命の綱となったのである。酷熱の南シナ海上、スシ詰めのカイコ棚の船室………そして水は一日たったコップ一杯、であった。

 なんとかして水を・・・というわけで舷側からバケツをロープにつるしてくみあげようとしても、二〇ノットのスピードである。バケツが水面にはねあがるだけ。せっかくくみあげてロにすると、そのあまりの塩からさに吐き出してしまうほどだった。

 窮余の策として、給水タンクの漏水に目をつけ、夜半、水泥棒に出かけるとたちまち見つかってリンチを受ける始末。はてはコップ一杯の水が腕時計や万年筆と交換というふいたらくとなった。この相手の甲板員は日本人船員であったと記憶するが、人間には水が食物より優先するとはいえ、浅ましい限りであった。          (東京都在住)

■ 星条旗    八子 淳次
 ホノルルから船で復員した。二一年十月のことである。復員船の中ではいまだ勝ち組の苦悩があった。祖国の無条件降伏が信じられないというのである。これはマッコイ収容所の暑い夏から始まっていた。「負けたという証明もないのに、なんで負けたと君たちは信ずるのか、陛下に申し訳がないではないか」というのだ。係員がいくら事実をありのまま説明しても、納得しようとはしない。「日本が負けたというその証拠を見せろ」「アメリ力から借りた船だなどというが、日章旗を掲げているではないか」と叫ぶ。

 やがて浦賀へ着いた。湾の水は青く美しかったが一隻の駆逐艦が片隅で傾いていた。恐るべき敗戦の事実がしだいに明らかになってゆく。赤十字から来た老看護婦が「皆さん、ほんとにご苦労でございました」と優しく出迎えてくれた。母のような声であった。それから広場へ出たら、アメリカで見慣れていた星条旗が、高々と中央に翻っているではないか。「畜生!」「ガッデム!」というやけくそまぎれの声が流れ、祖国はもう完全に星条旗の下に置かれているのだという感懐が、我我の胸を秋風のように寒々と吹き抜けてゆく。

 それから広場ではMPの手による所持品検査。タバコ三個と日用品は没収されない。だが、禁制品のUSAの記号入りの軍隊毛布を二枚、隠し運んできたヤツがいたのには仰天した。それは皇道派だかなんだか知らないけど、いつも立派な言葉を吐いていた男であった。
         (新潟県南蒲原郡在住)

■ 便器運搬   時岡弘志
 私たちは、第八七飛行場大隊の兵士として、スマトラのコタラジャで終戦をむかえたが、引湯の途中、シンガポールで現住民のストにあい、その代替要員として日本人作業隊となったが、幕舎の表門には、ジャパニーズ・プリズンと大書してあり、収容所はジョホールバルを指呼の間にのぞむゴム林の中にあった。

 作業隊は毎日幕舎から英印兵の引率で、徒歩で作業に出かけたが、ある中国人民家から七、八歳のこどもが小走りに出て来て、親しげに紙巻きタバコようのものをニワトリに餌をやるようにぱらっとまいた。日本兵は将校も兵士も先を争ってそれを拾ったが、実はそれは白い紙を巻いただけのものだった。

 作業場へ行く途中の道路わきに、旧日奉軍の軍票が山のように捨ててあり、風が吹くたびに空に舞った。我々より少し前にここに到着したものは、全裸でシンガポール市街を走らされたという話を聞いた。 作業場はカマボコ型の大きな倉庫で、その一棟々々にはI〇〇キロほどの米や砂糖、チーズの缶詰めなどがあり、英印兵の監視の目を盗んで、手を血だらけにして缶詰めを開け、むさばり食べた。見つかればもちろんチャンギーの刑務所行きであるが、それほど私たちは空腹だった。

 変わった作業といえば、大小便器の清掃である。六畳ほどのところに溜まっている大小便は炎熱の太陽のため、表面二〇センチほど固くなっていたが、それをスコップでとりのぞいて下にあるのを汲みとった。また、民家の便取りもあった。ある日、私たち二人が重い便器を持って二階の階段をおりていると、頭の上に落ちて来る液体がある。上を見ると同じ日本兵が四階の階段を、あふれた容器を運んでいた。             (玉野市在住)

■ 神霊    影山敏治
 二一年三月、国府軍の進駐で瀋陽(奉天)市内もやや平穏をとり戻した。私は当時、大和区青葉町の出雲大社教奉天分院院長を代行していた。 三月末の朝、軍装の将兵十数人が朝鮮なまりの強い医大生服の男を通訳にして入って来た。なにごとかと玄関に出ると「本日午後四時までにこの建物より全員退去せよ」という。私が「ここは日本人の神廟である。難民救済所として一五〇余人が住んでいる。退去できない」というと彼は「軍の命令である。昨日、営ロより到着した砲兵部隊を駐留させる」。私は「建物はすでに、国民政府瀋陽市公署に接収され、その管理を委任された責任者だ。承諾できない」と説明すると「軍の作戦行動上占領する」といいすてて彼らは引き揚げた。

 私はさっそく瀋陽市公署の邦人財産接収委員の李さんを訪れ相談したが「軍には勝てない」といわれ引きさがるだけだった。苦難! 受難! 時間はすでに正午を過ぎていた。その時あることがひらめいた。一週間前、紅梅町の元幼稚園広場で露天商一〇五店の開店合同地鎮祭をした折、列席した国府軍、宇中校と親交を誓ったことを思い出し、最後の神頼みと夢中ではせ奉じた。宇中校はしばらく腕組みをして思案していたが「督察組へ行きなさい、連絡しておきます。接双書を持奉して・・・」と助言してくれた。奉天ビル隣りの食糧会社跡の事務所へ走り込んだ。中国語で「この建物は督察組が管理する。許可なく立ち入りを禁ず」と書いた文書をいただいたのは三時半。正四時、彼らは現れたが、この文書を見ると即刻退去した。私は宇中校に感謝し、督察組の権力を改めて認識した。
 お陰で八月引き揚げるまで、出雲大社のご神霊と奉天神社のご神霊を無奉奉祭できたのである。
          (島根県斐川町在住)

体験記 抑留ー引き上げ・復員その1

一億人の昭和史 日本占領 1降伏・進駐・引き上げ から抜粋

■三十八度線  朝日 望

「さあ行こう」押し殺した男の声が暗闇の中から聞こえた。昭和二〇年一〇月初め、夜中の一時ころだろう、待ちに待った脱出の日がきた。朝鮮人の船を買収し北緯三八度線を海路突破するのだ。しかし本当に船に乗れるのだろうか、密告され全員逮捕されるのではないか、期待と不安を胸に二キロほど離れた港に向かった。

一〇〇人くらいはいるだろう。当時一七歳の私を頭に四人の弟妹と母の六人家族だ(父は十九年に死亡)。おとなたちに遅れまいと四歳の末弟の手を引き必死に歩いた。港にはソ連軍の目を逃れるため、防波堤の石垣の下に十トン足らずの小さな漁船が二隻あった。

 それを見ると整然と並んでいた列が急にくずれ、われ先にと乗りこみ始めた。おとなたちは自分の妻子を乗せるため人を押しのけ暴力を振るっている、小さい子供が泣き出す、私たちはじっと順番を待った。小さい船倉がすぐいっぱいになった。まだ数家族が残っている。おとなたちは「荷物を捨てろ」「もっとつめるんだ」と怒鳴りながら狂ったようにわが子を人の頭の上に投げ込む。どうにかみんな乗りこみ、私たちが最後に乗りこもうとしたそのとき「乗るな、もういっぱいだ」「お前らは残れ」の怒号。

 「私たちだけです。乗せて下さい。子供ばかりです。助けて下さい」。船べりをつかんで母は泣いて頼んだが、その手は冷たく払いのけられた。つかんでもつかんでも払われ、蹴とばされた。船はエンジンの音を押し殺し、沖に向かった。これがいままで生死をともにした同じ日本人だろうか。私は涙も声も出ず立ちすくんだ。どのくらいたったろうか、ふと我にかえったとき、聞こえるのは母のすすり泣く声と波の音だけだった。私は静かにいった。 「さあ元気を出そう。収容所に戻ろう、死ぬなら一緒だ。明日があるさ」。それからIカ月後、同じ港から脱出できた。(長野市在住)


■アクチブ  石川末隆
 アクチブ(活動分子)たちは、疲れきった捕虜を砂浜に並べ「これから第一、二、三分哨で、ソ連官憲の厳しい所持品検査がある。それに引っかかったら後戻りになる。そうならぬように正直に、針、ハサミ、ロシア紙幣を出せ」と、わずかの所持品全部を没収し、分哨に誘導する。

 そこには日本兵が朱に染まって倒れ、その背後では、財閥が酒池肉林に溺れている宣伝ポスターがあった。分哨に入るとソ連検査官が、我々の背を申し訳なさそうに触り「カネがあるか」「ない」と答えると「よしよし」と簡単に全員通過。わずかの所持品を没収された捕虜が「にっくきアクチブめ、日本船に乗ってみろ、海底に叩き込んでやる」と砂を蹴飛ばす。

 アクチブたちは毎日、焼けつく砂浜に我々を引っ張り出し、ソ連賛美、天皇、軍閥、財閥、地主を罵倒し、思想教育をする。そして数日後、我々は小雨の降るなかを岸壁目指したが、さして波浪はないのに、天候不良で船が接岸できぬと、またも幕舎に追い返された。

再び数日後、岸壁に行く。 日の丸をなびかせた船が接岸している。ソ連兵が人名の頭文字だけ読むと、我々はタラップを駆け上がりマストにしがみつき「おおっ、日本船には日の丸があるぞっ」と叫んだが、船員に「敗戦は事実か」とは恐ろしくて聞けなかった。我々はソ連の謀略にひっかかったのではあるまいか。ヒョッとするとこの船は捕虜交換船ではあるまいか。我々は生きて虜囚のはずかしめを受けた。日本軍の状況をソ連に提供したという想定のもとに、処刑されるのではあるまいかと、新たな恐怖におののくのであった。          (益田市在住)


■夫を失う 深山小百合
 旧満州国の安東市で苦しい難民生活一年ののち、持ちこがれた引揚の旅か始まった。第十三大隊、一行三〇〇〇人。老若男女を交えたこの多人数を引率する幹部も大変だったであろうが、一年間こじき同様の難民生活に心身ともに弱り果てた人々は、気力だけで足を引きずっている状態の人が多かった。出発後三日目 かすかな月明を頼りに、岩角にしがみつき、木の根にすがり、ずるずるとすべり落ちそうになるのを必死に手にさわるものに何でもしがみつき爪を立て、山中をあえぎあえぎ登った数時間。夫は一家四人の衣類や乏しい食糧を詰めた重く大きなリュックを背負って四歳の長男の手をひき、私は二歳の二男を背負って、互いに呼び交わしながら、命からがらの行軍であった。途中落後者が多く出た。"もうどうなってもいい、捨てて行ってくれ″という老婆もあった。

 ようやく平野に下り、荒れ果てた建物ながら雨露をしのげる宿を得てホッとしたのもつかの間、極度の心身の緊張がゆるんだ夫は、かねて栄養失調で衰えていたところへ心臓発作を起こし、わずか数時間で絶命してしまった、三四歳の若さで。この驚きと嘆きは一生忘れ得ない。

 安東市を出てまだ数日、先の長い引揚の旅の途中だというのに。翌日、空はよく晴れて、こんな悲しい出来事があるなどウソのように思われた。アンペラに包まれた夫の遺体は、すでに凍結しているので浅く掘られた土の中に埋められた。幼い長男が「土をかけたら出られなくなる……」と泣いた。無一物の難民生活一年、中国軍の激しい使役に疲れ果てていた夫。恋しい故国を一目見ることもかなわず異国の土になった夫。私は三十四年間、夫を思って泣いてきた。 (茨城県波崎町在住)

この死からの脱出-私の引揚体験記 その5

八人の赤ちゃんをとりあげて 末吉トク (当時・満州。図們で産婆を開業)

 私は朝鮮の平壌で十五年間、その後、終戦まで満州図們で、産婆を開業しておりました。終戦の年の五月に十九歳で次男が、七月には長男が現地召集され、八月には娘が結核に加うる栄養失調で亡くなり、戦後は雇用人も散ってしまって、にわかに一人になりました。二人の息子は戦後まで続いたソ連との戦闘で戦死していたのですが、引揚げ時には知らずにおりました。

 終戦の前日だったと思います。満鉄に勤めていた長男の友人が避難するようにと知らせてくれましたが、お産があって満鉄関係者とは別になり、三日ほどあとに町内の方たちといっしょに、朝陽川という処に集まりました。

 ここでIヵ月ほどいるうち、老黒山で降伏した日本兵が百人ばかり武装解除され、白旗を持ってソ連兵に銃を突きつけられながら来るのを見ました。生まれてはじめて見る白旗は何ともいえず、なさけなかったことは今も忘れ得ません。

 ふと、老黒山といえば長男がいたはずと夢中でさがしましたが、七月に入隊したばかりの新兵は捕虜となってソ連に連れて行かれたとのことでした。一ヵ月ぶりに家にもどると、まるで空家同然、台所には空びんやら割れた皿などが散乱していました。寝るふとんもないので、むかし使っていた中国人に頼んで敷ぶとんを一枚もらい、それで冬を迎えました。

そのふとんもどこかの日本人の家から盗んだものらしく思われました。 近所に小学校の公舎がありましたが、接収されて行き場のない先生の家族が産院をしていた私のところにまいりました。一部屋に一家族がはいり、七家族が引揚げるまで住みました。そんな冬の真夜中、突然三人のソ連兵か押し入って来て、かぶっていたシューバ(毛皮の外とう)まで剥いで行ってしまいました。寒さを防ぐために燃えるものを集め、ようやく冬を越しました。

 そして八月末、外出先から家の近くまで帰って来ると、町内の人達がすぐ引揚げだといっております。急いで診察カバンに産婆カバン、それに銘仙のもんペー枚をもって広場にかけつけました。あまりあわてたので、子供たちの写真を忘れて来たことに気付きましたが、ハ路軍が銃を向けて取り囲んでいるので、恐ろしくて戻れません。そればかりか荷物を調べられて、カバンを二つとも取り上げられてしまいました。さいわいにも、診察カバンのほうがひどく古かったせいか、その場で投げ捨てましたので、それを拾って汽車に乗り込みました。

 汽車とはいえ、無蓋の貨物車で、すでにチャムス方面から乗って来た人で混んでおりました。しかもこの一行には、夫や子供と別れ、出立の遅れた妊婦がたくさんおりました。結局佐世保に上陸するまでの五十二日間に、あちらこちらと乗り合わせた人達の中からハ人の子供が生まれましたが、妊婦とて着のみ着のままの有様でしたから、平時ではとても考えられないお産でした。私のカバンの中には僅かながら綿花、目薬、デルマトール、リソホルムなど入れておりましたのが投立ちました。

 汽車は、病人が出ると止まったり、また理由もわからぬ荒野でも止まったりしました。そんなとき配給のお米を機関車のお湯をもらって炊くのですが、お米がぶつぶつと煮え始めるころ、突然汽車が走り出したりして、ゴリゴリのご飯を噛んだこともありました。こんな中でのお産はいちばん大変でした。なにしろ狭くて、消毒液を溜めた盆の置き場にも困りました。綿花等は一片でも貴重でしたから、血を絞っては干して使いました。私の唯一の着がえのもんぺも、何枚かのT字帯に変わりました。

 ある日、病院のある町に着き、臨月近い妊婦はそこで全部降すことになりました。ところが病院側では、お産の用具を持たない妊婦につらく当たるというので、私が付いて降り、病院で場所とお湯を与
えてもらっただけで、三人の子供を取り上げました。全く人情も何もありませんでした。

 こうして、普通なら二日の道のりのところを、五十日もかかってコロ島に着き、すぐ船で佐世保に向いました。、船は八十人乗りぐらいの小さなもので、そこもすし詰めの状態でした。・コロ島を出て、すぐ産気づいた婦人がありました’。その人には看護婦をしている若い妹も一緒でしたが、その子がおんおん泣くのを、ほんとにかわいそうに思ったことでした。船長が親切な方で、手桶のようなものに水
を下さり、協力して下さいました。その後、佐世保沖でまた一人取り上げましたが、その子には船長が洋子と名付けられたのを憶えております。

 あれから三十年、私はいまも空っぽの古ぽけた診察カバンを大事にしております。これを見るたびに、八人の子供の生命を、そこに感じるのでございます。 私はことし八十六歳になりました。耳はまだよく聞こえますが視力も記憶もうすれました。ですが、私が持ちました体験を記録の一部に加えて頂ければ幸いと存じまして、恥ずかしいのですか、人にすすめられて応募いたしました。

この死からの脱出-私の引揚体験記 その4

■盲人と唖者の逃避行     近藤正兼 (21年4月北鮮・咸興より引揚)

 昭和二十年八月七日、予期しなかったソ連軍の進撃をうけ、私たち朝鮮、満州、ソ連の三国国境警備の朝鮮咸鏡北道慶興警察署署長以下百余名の警察官は、国境を死守するためわずかの武器であったが、怒濤のようなソ連軍に抗するにはあまりにも少数でありました。それにもまして住民保護が本来の使命でもあり、ソ連軍の追撃は隣の青鶴部隊に任せて、住民安全退避に全力を尽した。住民のしんがりとなってソ連兵の追撃を受け、家族達とも七日の夜から別れました。

 倒れる同僚の屍もそのままに農家の納屋に倒れ込み、そこの主人から戦争の終結を知ったのです。「早くお前達も避難民の群に紛れ込まなければ、自警団に捕まってソ連へ送られるから、早く逃げよ」とズボンとシャツをもらい、一路南下して羅南の方に線路ぞいに歩いた。食糧も金も持っていません。道ばたの馬鈴薯畑を掘り、とうもろこしやその茎の汁を吸って歩き、夜は橋の下や大きな本の下で眠りました。疲れと飢えを訴える子供達に、大人は食糧を得るために道ばたの農家や、先に引揚げた日本人住宅にはいっては、食糧を盗みました。そのため、村落ごとに自警団が日本人を寄せつけないようにしていました。

 その上ソ連兵の暴行略奪です。ピストルや自動小銃で女をさがす。なんの拒む力もない日本人は、死ぬよりつらい苦しみに耐えねばならない。女という女は、みんな丸坊主に刈り上げ、男装してはソ
連具の目から逃れようとしました。 私は別れた妻子の安否をきづかい、南へ南へと歩きつづけているある日、ふとしたことで妻と娘らしい人が咸興にいると聞いた。すぐ行ってみると、紛れもなく妻と娘が栄養失調で病み細った身体でうずくまっているのであった。「おい、おとうさんだぞ元気を出せ」。母娘はしばし声も出ず大きく瞳をあけロをパクパクさして従りついた。三人はただ必死に抱き合いました。娘は泣きながら坊主頭で、どんなに長い不安の旅であったかを話した。病気になった母とともに、幾度か死を決したという。

 「もう大丈夫だ’。おとうさんが来たからには、親子三人で日本へ帰るのだ。頑張ろうね」 しかし避難民には医者はいたが薬がない。それに食物はなにIつない。私は毎日街中を食糧を探し求めて民家の軒に立つやら、農家に行って手伝って食物をもらっては’それを粥にして三人で食べ、神仏に感謝したものです。やがて冬の寒さである。零下三ト度は、身一つで逃げ廻って来た人々にとって死を強制する寒さである。咸興に集まった二十数万の中の老人子供は、この寒さで次々と死んでいった。妻の衰弱した身体には、この寒さはあまりにもひどかった。ついに十二月八日、魂だけ先に日本海を渡り黄泉路に旅立ちました。
 せめてもの安らぎは、別れ別れになった親子が偶然にもめぐり逢い、わずかではあるが親子三人で暮した日々の想い出であった。包むもの十らなく、寒さに固まった妻の亡骸を背負って、裏山の防空
壕に納め、一握りの土を娘と二人で被せて、山を降リたのでした。

 それから八ヵ月後、「おとうさん、日本のお餅が食べたいね」といいつつ栄養失調の末死んで行った娘の遺体を抱き、呆然自失の私を叱る神の声を聞いた。この苦しみ抜いた二人の死を日本の故里の母達に知らすことは、自分に課せられた使命である。必ずや二人の霊が守ってくれると信じました。
 そのころ、咸興で盲唖学校の生徒だった二人の青年と知り合いになった。二人は、日本内地に渡りたい、連れて行ってくれというので、私が唖者となりその盲人二人と元の盲唖学校生徒が故郷へ帰る
という証明を手に入れ、朝鮮人避難列車へ乗り込みました。二人の盲人を連れた、唖者で朝鮮人姿の私は、朝鮮山脈を越して平塙へ出ました。そこから先は汽車が出ません。そこで二人の手をひいて開城まで歩きました。

 道中、保安隊に、「連れの者ぼ日本人だろう」と審問を受けること再三です。唖者である私に、なんの応答が出来ましょう。あるところでは拷問で兵隊だろうと責められる。が私はただ「あわ、あわ」と手まねで盲人の手を引くだけです。そうすると盲人二人が頭を振り口を揃えて、「お前達、同志の発行した証明が信用できぬか」と、朝解語でまくしたてたので、どうにか通り抜けました。

 妻や娘の霊に念じながら幾度か難関を通り抜けて、三十八度線の山中に入り、米軍陣地を発見したとき、私ぼ両手を上げて駆込んだのです。私はもう唖者ではない、日本人だ。直ちに開城日本人世話会へ連れて行かれました。そうすると盲人は朝鮮人だから内地へ渡れないという。さあ困った。結局三人は開城の町で一ヵ月あまりさまよいつづけ、民家の前に立ち、人々の喜捨を受け、かろうじて生命をつなぎました。

 やがて京城の盲人委員会の救いの手がのび、二人はそこにはいることになった。が私は日本人なので彼等と別れねばならなくなりました。二人は「私達は京城で暮してゆけますから心配なく。あなた一人だけならなんとかして日本に帰れるだろうから、一日も早く帰って下さい。いずれ国交が回復したときはあなたを尋ねて行きますから」と涙ながらに誓って別れました。

 思えばあれから約三十年、二人の生死もまだ尋ね得ません。こうして二人と別れた私は、幸い日本鉱業の人達と知り合い、そこの工員として日本に帰ることができました。いま朝鮮にねむる妻子の霊
に合掌する私の心に、ニ人の魂は生きています。毎朝、誦唱し奉る般若心経を納受し拾い、有縁の土へ成仏なさしめ給え。合掌。

この死からの脱出-私の引揚体験記 その3

■現地人に助けられた父   大浦明美(21年11月満州・安東省荘河より引揚)

 昭和二十年八月十五日、当時、国民学校の三年生で、ラジオもデンキもない世界に住んでいた私にとっては、学校が早いめに終ったのと、その夜、父が一晩中、風呂をたき、書類を燃やしていたのが、常と違う印象であった。 ソウガというその満州の片田舎にある小さな町の警察にいた父は、憲兵隊だったか誰か親しい知人から電話があり、別れの言葉をいったあと、何発かの自決のための弾の音をきいたとあとあとになって、語ってくれた。その南京豆のおいしい海辺の町は、明けて八月十六日になると、大きな官舎の鉄の扉をたたきこわして乱入する現地人達を迎えた。昨日までとは打って変ったそのようす。家財をすみずみまで持ち去っていく姿は、幼な心にも大変強烈な印象であった。

 その日のあとに私達は、大連に近い町の小学校の講堂に寝起きしていた。このときの印象をいえば夜ごとにソ連兵が、若い女を探しに来るということで、十二、三歳から上の女の人は、みんな顔に炭をぬったり、断髪をしたりしていたのを覚えている。父は元警官であったため、ピストル等を所持することは具合悪いと考え、囲りの人達のを集めて、コウリに入れ、校庭にうめていたようだった。そして身分をかくすため、このころから家族全員が偽名になった。

 やがて、大連から塩運びのジャンクにのって安東に着いた。この町は、私は今でも第二の故郷と思っているくらい渡満した最初の想い出深い土地であった。そして、入学の思い出も深い国民学校を横目で見ながら、旅館に落着いた。二十年の暮だったように思う。この旅館は、避難民で満ちていた。戦時中一クセあった連中ばかりであった。特に父は、元警察の上層部ということでねらわれていた。

 昭和二十一年一月十七日のことだった。中国人が殺害され、その寛人が旅館にいるというので、みんな市の公会堂に集められた。雪の積った寒い日だった。結局、犯人がいたのかどうか判らぬまま、私達は安東市外の競馬場に移動させられた。途中脱走した人達は、ハ路軍に機関銃で射殺された。

 競馬場では、馬小屋一頭分が一家族であった。そのときのことだった。父は八路軍二十人ばかりに銃口を向けられ、円の中に立たされたのである。警官だったことがバレたのだ。彼らは、ピストルをかくしていて自分たちがおそわれるのを恐れたのである。父の言葉を信用しない彼らの、銃口が火を吹こうとしたとき、その中に以前可愛がっていた中国人が割り込んで来て、父の言葉を信用してくれ、ようやく釈放されたという。その父はいま七十歳を越えてなお元気である。 その競馬場からは十里以上の追放になった。寒風吹きすさぶなかを荷馬車にゆられ、湯山城という遠い親類を頼った旅が続いた。この村での生活は永く、落ち着いた毎日だった。しかし人々の胸に望郷の思い捨てがたく、コックリさんが大変流行した。そして二十一年九月、帰国のための苦しい旅につくのである。

 汽車にのれば二十分くらいの所が、戦火によりズタズタになっている。そのため毎日毎日川の中を歩き、山路を歩き、ときには無蓋車にのり、雨にたたかれ、死んだ人を路傍に見捨て、前の人におくれることなく毎日八里ばかり半月も歩いただろうか。

 京都、金せい、奉天、新京、そしてコロ島。このコロ島から玄海灘で流されながら、船は博多に着いた。コレラ発生で 一週間ほど上陸はのびたけれど、赤茶けた大陸の山を見慣れた私にとって、みどりの山々が、そして差し入れの青いみかんが、どんなに新鮮に映ったことだろう。昭和二十一年十一月も末の日のことであった。



■同性を救った10人の芸妓    篠原与四郎(20年12月北京より引揚)

 紅い夕陽が、淀んだ西の空を真赤に染めはじめたころ、北京の在留日本人の引揚者を乗せた輸送船(米軍LST)三隻が錨を揚げ、天津から白河を下っていった。それは昭和二十年十二月十日の夕暮れのことだった。

 天津の外港、塘活岸壁にいったん碇泊し、乗員(引揚者)の再検査が済んで薄暮の外海へ静々と進んだとき、上甲板に出ていた私たちの瞳がうるんだ。ニれが惜別の涙というものかしら、あれほど祖国の土を懐しんだ私だったが、いざ大陸を離れるとなったら、戦友や北京で世話になった人々の声が耳に残り、つい「さようならお先に……有難う」と唇から洩れ、夜のとばりの下りるのも知らなかった。 こうして引揚げの第一夜を迎えたのだが、九時には消灯、小さな保安灯が船内をわずかに照らしているだけだった。やがてたくましい黒人海兵が三名で巡視に廻って来た。たどたどしい日本語で一人が「おれたちは沖縄織の勇士だ。お前たちはこれからおれたちの指揮に従わねばならない。そこで、持っている時計、指輪など貴金属をみんな出せ」という。

 一人は一メートルほどの麻縄の束をもって引揚者の身体検査を始め、ワニ皮や高級品の帯革をしめている者からはそれさえ取り上げ、「お前はこれでよろしい」ととりかえる。もう一人はピストルをもって二人の行動を護衛していた。詰所というか監視所というか、一段高い場所に帰った彼らは、机の上に戦利品を並べ、なにやら話し合いゲラゲラ笑っている。話の内容は解らなかったが、おそらく戦利品の分配の話だったろう。 私の近くにいた引揚者の一人は素早く腕時計をはずし、もっていた握飯の中へ握り込んでしまった。黒人兵の帰った後で、彼はその握飯を割って見せた。握飯がコツコツと時をきざんでいた。彼は佐世保へ上陸するまで、その握飯を食うことは出来なかった。

 第二日目、船の速力は遅く、もどかしくてならない。朝食に支給された水は、小さな茶飲み碗に一杯ずつ、これで今日一日を過ごせというのだ。私と友人はいっぺんにググーッと飲んでしまった。午後になったらのどがカラカラに乾いてしまった。そこで、飯ごうをヒモでつるし、海水を汲み揚げて飲んでみたが、とても塩辛くて飲めるものではない。友人の島津国臣君(当時、毎日新聞経済部記者、のちTBSへ移る)が、北京の煙草公司の石渡理事長から兄の石渡荘太郎氏(当時、宮内大臣)へ渡してくれと預かってきたサッカリンを持ち出し、混ぜてみたが、甘辛のおかしな水が出来上って、これまたのどを通らなかった。船室へ帰ると、乗船のときから青ざめたフラフラの青年が血を吐いて寝ていた。彼はもともと肺結核で、船旅は無理と知りつつ、どうせ死ぬなら内地の土になりたいと周囲の引き止めるのをふり切って乗船したという。

 米兵による陵辱
その日、昼間は何事もなく済んだが、夜になって大変なことが起こった。昨夜、強奪に来た黒人海兵がまたやって来て、「上官の命令だ、十人ほど若い婦人を提供せよ」という。船内は大騒ぎ、若い夫婦者、独身女性など怯えきって唇をふるわせるだけで、声も出ない。黒人兵に連れ去られたら最後、生命の保証すらない。すると片隅から一人の女性が起ちあがって「このところはわたしたちにお任せ下さい。みなさんを鬼のような米兵のいけにえにするわけにはまいりません。わたしたちはついこの間まで済南で芸妓をしていたものです。どうせ体の汚れついでです。ちょうど十人おります。ちょっと片づけて来ますから……」といったかと思うと、彼女らは化粧をし直して出ていった。彼女らのうしろ姿に掌を合せるものすらいた。おそらく観世音菩薩の化身にも見えたのだろう。独り身の私は、このときばかりは故郷で私の帰りを持つ妻子の顔が思い浮かび、いつまでも眠れなかった。

 第三夜。肺結核で血を吐いて寝たっきりのあの青年がとうとう死んだ。所持品によって九州の男とわかった。誰ひとり、死水をとってやる者もいなかった。もっとも、朝、支給される一ばいの真水だけでは無理もない。深更十二時過ぎ、各グループから一人ずつ代表が上甲板に召集された。そこへ艦長が正装して現われ、「これから米海軍の慣習によって水葬を行なう」と宣言。舷側に、君が代の吹奏につれて日の丸がするすると掲げられ、やがて新しい毛布に包まれた青年の骸が静々と玄海灘に沈められていった。後ろの方から讃美歌の合唱が聞こえた。その合唱隊の中に、夜な夜な船内を荒し廻った黒人海兵の姿も見えた。その夜ばかりはさすがにシーンとしていた。やがて暗闇の海上に、漁り火がちらちらと見えはじめた。


この死からの脱出-私の引揚体験記 その2

■病める父に青酸カリを飲ませ  山村文子(21年10月満州・チチハルより引揚)

 一九四五年八月に入ると、北満州のチチハル市の関東軍の動きが、私の目にもなんとなく異常に感じられました。トランクや柳ごうりだけの軍家族が、軍用トラックで、どんどんどこかへ移動して行くのです。やがて、ソ連参戦、満州里、ハイラル等から、民間人婦女子が着のみ着のまま、なかには寝まき姿のままで逃げて来た人もありました。

 城内に住んでいた私が、「日本八街の方に移るように」と申し渡されたのは、十四日の夜でした。しかし日本人街に私達の避難する余地はありませんでした。行き場所のない婦女子三百名ほどが広場に集められ、一人の将校から、「この聖戦を勝ちぬくためご早天近くの工場に行って働いてもらう……二名の男子引率者をつける……」との訓示を受けて、貨車に押し込まれたのは、八月十五日の夜明けでした。このとき、すでにこの将校は、自分の家族を南下させていました。敗戦を知ってぃたのでしょう。

 子供を背負い、前に荷物をぶらさげ、着こめるだけ着こんだ私のそばで、中国人の友人は、チチハルに残るよう熱心にすすめました。しかし、私は関東軍の言葉を信じておりましたので、私の働きがお国のためになると思いました。訓示に従わないのは非国民となると思っておりました。
 北満州の大平原を走る、私たちの乗った貨車めがけて、ソ連の飛行機が機銃掃射をあびせてきました。そのたびに私達は平原に散らばって、大地に身をふせました。地平線までつづく大地と空、停車したままの貨車と駅舎、静まりかえった八月十五日のひるすぎでした。駅舎の水をもらいに行っていた一人が帰ってくると、「よくわからないけど………戦争まけたらしいの。駅長さんから聞いたの……」と、とぎれとぎれに伝えました。

 大地に寝ころんでいた一同は、「まさか……」と、起き上がりました。「うそよ……」と言って、私たちはふたたび横になりました。駅舎にたしかめに行った引率者か、「広島に新型爆弾が落とされ、天皇陛下のお言葉があったそうだから、ほんとうらしい……」と帰ってきました。
 「チチハルを出るんじゃなかった」と、後悔しましたが、家に帰れるとほっとしておりました。しかし敗戦を迎えた安達から、二日目につれてこられたのはハルビン駅でした。線路の横では、関東軍の物資がどんどん焼かれていました。つかれきった私達は、乾パンを噛みながらぼんやりとその火を見ておりました。私たち女、子供、老人の一団が、二名の男子引率者に逃げられたのは、収容所に入ってまもなくのことでした。

 こうして、職なく、家なく、金なく、祖国の保護からも捨てられた私たちの共同生活がはじまったのです。持ち金を出してメリケン粉を買い、一日二食、だんご汁を作ることになりました。何日食いつなげるかわかりませんが、のばせるだけのばさなければということになり、親指大のだんごが二、三個入った塩味だけの汁が、空缶などに一ぱいずつ。こんな日が二十日もつづいたころには、浄化してない水を飲んだためもあって、ほとんどがパラチフスにかかり、ふらふらしておりました。

 その上に毎夜のように、土足のままふみこんでくるソ連兵。囚人兵がまず満州に入ってきたとかで、銃でこづいて時計を取りあげ、着ている物まで「ダワイ、ダワイ」と、はぎ取ってゆきました。栄養失調で動く力もなくなった助い子供達が、まず眠ったまま動かなくなっていきました。収容所の庭には、毎日、土まんじゅうが増してゆきました。娘が「お父さんお薬よ……」と、上部から渡された青酸カリを飲ませました。

 「えろろ・・・にがいな・・・」とつぶやいた中風の老人が、目を白黒させてこと切れました。父親の瞼をそっととじてやりながら、娘は涙を落しました。私の一歳半の息子も、骨と皮になって、「オブ、ちょうだい」という言葉を最後に、逝ってしまいました。

 ソ連軍の鬼畜行為
「お母ちゃん助けて!!」と泣きさけぶ娘がソ連兵にかかえてゆかれ、「私が行くから……私が行くから・・・」と、追いかける母親の必死の抵抗もむなしく、下半身が血だらけになって母親に負われて帰って来たこともありました。ハルビンの日本の出先機関にも行きました。しかし、「日本がなくなったいま、何か出来ますか」との言葉が返ってくるだけでした。こんななかでも、それ相当の地位にあった人々の家族は、金を持たされて出たらしく、街にあふれている食物を買って食べておりました。
 こうして日本に帰るまで長い流浪の旅で、人間のみにくさ、美しさを知りつくしました。きたない日本人も多くいたあのときに、規律正しい八路軍から暖かい心を受けたことは、終生忘れることはありません。

 いまも、敗戦で死んだ一般の日本人が、旧満州の広野で、街で、眠りつづけております。またあの混乱の中で親を亡くしたり、ほぐれたりした子供たちがたくさん満州に残ってぃます。生きていることへの感謝を、これらの方々へのお役に立つよう、生きてゆこうと思っております。


■姉ちゃんのお骨を首にさげて      金田雅博  当時・満州安東在住、引揚後島根県 (安来市立赤江小学校六年生のとき執筆)

 ぽくは満州熱河省承徳で生まれた。(略)ここでは五つのときまでいた。つぎは奉天にかわっていっった。(略)姉ちゃんは国民学校二年生だった。妹の公子は三つで、弟の康博ちゃんは生まれたばかりの赤ちゃんだった。(略)ぽくたち日本人は満語を知らなくても、満人が日本語をよく知っていてとても親切だった。奉天には一月から八月までいて、つぎにかわったのは安東だった。(略)五日目に終戦になった。そして九日目にトラックに荷物を乗せて(略)出発したが、途中の北鮮(註・亀城)で日本人は通行禁止にあってそこで一年間くらした。亜麻会社という(略)きたない工場をかりて、土間にかますを三枚ずつ重ねて、その上にアンペラをしいて、そこで八百人もぎっしりつまって集団生活をしていたので、(略)いろいろ悪い病気がはやって、三つから下の赤ちゃんは殆んど死んでしまった。毎日のように小さなおかんが山にうめられるのを見て、ほんとうにかわいそうだった。そのときぽくの弟のわいい康博ちゃんも、。ジフテリヤで病気になってから三日めに、ぽっくり死んでしまった。まるまるふとっていたので、死んでもねむっているようなかわいい顔をしていたので、山へうめるのがかわいそ
うでならなかった。(略)

 とうもろこしのこなでおだんごを作って食っていた。それも一日二回だから、とてもおなかがすいているけれど、そのおだんごをたべかけると、とてもまずくて食べられなくてこまった。『略』もうこれから先、いつまでもいられないので、ふとんや着物を売って自動車賃をつくって、鉄道本線(註・定州駅)まで出ていったが、そこでロシヤ兵が汽車に乗せてくれず、また、いた所へ追い返されてしまった。しかたがないので、野宿をしながら歩いてでた。(略)十八日間、その間の苦労といったら口にも筆にもとてもいいあらわすことができない。途中で大人二人と子供一人が死んだので、かわいそうだったが、川原にうめて来た。

 この時うちの姉ちゃんは病気になったのをむりに歩かしたので、鳥目になって、夕方になると目がみ
えなくなった。妹の公子をおんぶしているお母さんの両手に、姉ちゃんとぽくはつかまって歩いた。お父さんはその一団の責任者であったし、病人のたんかをかついでいたので、家の者のめんどうはちっとも見てもらえなかった。(略)保安たいに荷物をけんさされた。ときどきにせ者がいて切れものを全部とられた。(略)かぽちゃを川原の石にぶっつけて、さじで小さくきってにてたべた。(略)やっとの思いで三十八度線の近くまでくると、あちらこちらの道からひきあげ者がたくさん集って来て、二千人ぐらいの人数になった。そこで三時間ぐらい道路にずらっとならんでけんさをされて、通行ぜいをとられた。その間にぽくたちの前にいた人がマラリヤがおこって道路の上でぶるぶるふるえていたが、みな自分たちもくたくたにつかれているので、どうしてあげることもできず、かわいそうだったか、水をのましてあげることぐらいしかできなかった。(略)

 ここから十分ぐらい歩くと大きな道路に出たので、皆やれやれといって休んでいると、そこへ天幕村から日本人の世話係の人がむかえに来てくださった。「皆さんおかえりなさい。みなぶしに帰られてよかったですね」といわれたときには、みなうれしなきにぽろぽろないた。(略)出発してから屋根の所で安心してねることが出来ると思うと、米軍のありがたさがしみじみとうれしかった。(略) 一週間ののちコレラのうたがいのない者だけ貨物列車で釜山までおくられた。釜山から六千トンの貨物船に乗せられたときは、これで内地へ帰れるといって、みなうれしさのあまりなみだをうかべた。

 あのときのうれしさは、いまだにはっきりとぽくは思いだすことができる。その日の夕方なつかしの内地の博多についた。明後日はいよいよ上陸というときコレラ患者が出たので、上陸は二週間のばされた。(略)姉ちゃんはえいようしっちょうのため、他の者より先に上陸させてもらって福岡の病院に入院した。姉ちゃんにはお父さんがついて伝染病の病室に入れられたので、姉ちゃんには窓からでないとあえなくなった。

 入院してからIカ月目にとうとう死んでしまった。その朝、窓から早く早くといわれて二略)ぽくと妹は手のぬけるほどお母さんにひっぱられて、姉ちゃんのへやへ行ったときには、もう死んでしまっていた。死ぬ前にははれていた顔が、死んでからすっかりはれが引いて、もとの姉ちゃんの顔になっていた。かんごふさんにアルコールできれいにふいてもらうと、「ほんとうにきれいでロウ人形のようだ」といって、同じ室の人がなみだをこぽしてくれた。せっかくここまで帰っておりながら……ほんとうにかわいそうだった。そのよく日、姉ちゃんは小さな箱の中の骨となってしまった。ぽくはこのかわいそうなお姉ちゃんのお骨を首に下げて、おばあさんの家に帰った。

 〈付記〉この作文の原稿は、当時の担任が保有されていて、昨春小学校の百年祭に発表され、初めてこのような思い出を書いていたことをしりました。 父 金田豊吉

この死からの脱出-私の引揚体験記 その1

■海を渡って38度線突破  小西静子(二十年十一月 北鮮・清津より引揚)
 
 北鮮の清涼から南鮮へ向けて出る最後の引湯列車、それも四両連結の貨車でした。二十年十一月初旬、日々厳寒に向かうこの土地に見切りをつけたのです。 ほんとうに着のみ着のままでした。ソ連軍の切断作戦のためこの町もしだいに反日のきざしが強くなって来ました。きょうまで何百里歩きつづけたことでしょう。地下足袋もいつしかすり切れ、家から持ってきた主人の鬼足袋も十里ほどで足裏が血に染まってきました。衣類もぼろぼろ、背中の子供も投げ出したくなるような重さでした。胸は負い紐で傷が痛みました。いまはただ汽車に乗り、たとえ少しでも内地に近づくことが出来ると思えば、狂喜にも似た気持ちで一杯でした。運転手は北鮮の人とソ連兵だったようです。しかし期待していた列車は、二、三の駅を走っては二日も三日も止まったきりで動こうとはしません。夜ともなればソ連兵が貨車を破って侵入し、いつもの略奪です。私達はきょうまでそんなことは馴れていますが、ただ婦女子を襲うことだけが恐かったのです。またあるとき北鮮の人がわめきながら車の中に乱人して来て。
 「この汽車は我々のものだ。日本人は降りてしまえ」と叫び一人の男がソ連兵をつれて来ました。窓口で事情を話していた日本の男の人が銃で殴られ、ただ無言のまま立っております。鬼のような形相のソ連兵が、こんどは私達に銃口を向けました。「皆さん伏せて下さい」と一人の老人が叫びました。薄笑いさえ浮かべてソ連兵は車から降りて行きました。

 さて八十名あまりの人がI貨車にすし詰め状態のまま、ちょうど1ヵ月ぶりに私達はキンコウという町へ降ろされたのです。久しぶりに駅で手足をのばし、コンクリートを床に夜を明かしました。さて虎の子のお金も千円になり、金の切れ目は命の切れ目にならぬよう、一日も早く京城へ脱出したい心でいっぱいでした。

 キンコウから南鮮へ山を越えて鮮満の人々が歩いております。日本人は私達二組、みんなで八名でした。服装もチマとチョゴリでした。でもこの単独突破は朝鮮の少年に見破られ、「ヤッポン助だ」とソ連兵に密告されて捕まり、とうとう失敗してしまいました。

 さて待望の二度目の突破の日がやって来ました。昭和二十一年二月四日、それこそ劇的な死にもの狂いの1ページでした。当時、私達は地理的に有利な海州の高台に収容されていたのです。明けても暮れてもみんなと脱出の話ばかりでした。この海州の引き潮を利用して対岸へ渡れば南鮮でした。その決行の夜がいよいよきょうなのです。

 その夜は淡い月光が私達を祝福するかのように……星も光っておりました。すべての準備を終えて私は子供を背中に、鍋を首にぶらさげました。手に食糧です。主人の後につづきます。みんな息を殺して保安隊の詰所を通り、村のあぜ道を静かに抜けて息をつくひまなく引き潮の海上に走り出したのです。 無人の海はなにか無気味なほど閑静でした。あちこち大きな沼がまるで怪物のように口を開け、視野のつづく限り暗黒の別世界のようでした。後方の女の人が悲鳴をあげています。人々のざわめき。銃声が二度、三度聞こえました。朝鮮人の案内人が逃げようとしています。私は無意識にその人の手をつかみました。「あんたは私達を見殺しにするのですか。この海の真ん中で私達はどうしたらいいの」と哀願したのです。
 「奥さん、向こうのほうに灯が見えるね。あれはソ連の飛行場。早く逃げなさい」そうこうするうちに、半分くらいの人が前進するのを諦めたのか、背後に人影はありません。もちろん案内人もいなく月は
雲にかくれて、あたりは暗くなってきました。ふと前・を見ますと、藤本さんが幽鬼のように立っております。連れて来た女の子三人が見えないのです。問いつめましたら、「みんな沼にはまって死んでしまった」と男泣きしています。瞬間何か冷たいものが私の背筋を走ったのです。

 後方から小山さん一家四人が近づいて来ました。お題目を唱えています。もう何時間すぎたのか。それより飛行場の灯の遠いこと。近くに見えては私どもを嘲笑するように明滅しています。だんだん疲労も激しくなり、足もとが浮いたようになってきます。睡魔がおそってきます。ふと夢の中で子供の泣き声がしたようでした。

 立って前方を見ますと、右の方向に黒い長蛇の列がうごめいて見えます。そして赤ん坊の泣き声が聞こえてくるではありませんか。私は懸命に泣き声の方へ走り寄り、うしろの男の人に助けて下さいとすがりつきました。それはこの土地の引揚者の人達でした。
 「御苦労さんでした。どこから来たのですか。私達のあとから離れないでついて来て下さい」とまるで神様の声のようでした。海を渡りきったところに大きな川が流れています。腰まであったと思います。無我夢中で渡り、やっと岸へ上陸することができたのです。待望の三十八度線脱出が成功したのです。時刻は夜も白む午前五時ころでした。

 私達の四十名中八名がこの海の犠牲者になってしまいました。みんな沼に足を取られてなくなったのです。私達の身代りになられた人々の冥福を祈りつつこの記を閉じます。



■ピストル出せと拷問  細野淑子(21年9月満州・チチハルより引揚)

 私の一家十人は、北満のチチハル市に住んでおりました。両親と八人兄妹で、終戦当時、兄は二十四歳で長女の私が二十二歳、一番下の弟は小学校の二年生でした。 日本への帰国が開始されていた昭和二十一年の九月初め、父と母は事情があって八人の子供を残し、一足先に日本に帰国することになりました。半月遅れて子供八人は引揚列車に乗ったわけでした。両親の事情というのは、こんなわけでした。

 昭和十二年から満鉄社員だった父は、大変に大陸が好きで「満州に骨を埋めたい。せまい日本には自分は住めない」とも話して、満州がとても気に入っていたようです。昭和十六年の秋、父がチチハル鉄道局に転任になったので、一家は住み馴れた奉天を離れ、北満のチチハル市に移りました。一家十八は満鉄社宅に落着いて平和に暮していました。その後、戦況はしだいに悪化の道をたどり、「日本は戦争に負けるのでは?」などささやかれる中で、昭和二十年七月、兄は応召され、消息の知れぬまま八月十五日の終戦を迎えました。

 兄は満州にいるのか、南方にでも回されているのか、毎日案じていました。父は当時五十二歳で、体格もよく、働き盛りでしたが、終戦で満鉄が崩壊して父の運命にも変化が始まっていました。満鉄で父が防衛関係の仕事をしていたので、終戦後まもなく中国の官憲から取調べを受けるようになり、何度も連れ出されました。父の仕事の関係上、武器をどこかに隠匿してはいないかというものでした。
父は終戦時、武器は関東軍に引渡し、整理のついていることを申し述べましたが、なかなか信じないのか、ピストルはないかといって押入れの中を必死になって捜したりされました。

 連れ去られた父は「ピストルー丁でもよいから、出したらすぐ釈放してやる」とおどされ、次には拷問を受けました。山口県の萩に生まれ武家屋敷に育った武骨な父は、「ないものはない」と一喝したそうですが、そのたびに拷問が加えられ、若いころ軍隊できたえた体に自信のある父も、全身に青いアザをつくられ放りだされて帰宅するしまつでした。家で養生して体がすこし回復したと思うころ、また顔ぶ
れの違った連中が乗り込んで来て、父をロープでしぼり、町制に乗せてどこかへ連れ去るのでした。そんな父の様子を訴える警察もなく、家族は敗戦のみしめさをかみしめるだけでした。

 そのうち、父の友人や知八が力となって父を助けるために運動してくれましたが、ピストルー丁でも戦利品として入手したい一味によって、父が連れ去られることもわかり、母がお金を包んで連絡の者に渡すと、父は早く帰れるようになりました。しかし、このまま同じようなことをくり返していると、拷問によって父の体がもたなくなるからと、知人の家に父と母はかくまってもらうことになり、社宅をでて四キロ離れた家に移り、静養することになりました。

 そんなとき消息不明だった兄が、ひょっこり帰宅したので、弟妹の喜びようは大変なものでした。北安の山奥で武装解除を受けた兄は、満鉄社員だったため釈放され、南下する貨物列車に身をかくして帰宅、戦友はシペリアに連行されたのでした。

 日本人の引揚も近いという話に、兄は父に代って露店に立って菓子を売り、八百屋を開いたりしながら、引揚の費用を準備しました。チチハル高女の四年生だった妹も男装して兄と露店に立ち、弟たちはソ連兵相手にタバコを売ったりしました。

 二十一年九月十四日、残暑の強い日ざしを受け、重いリュックを背に出発することになりましたが、お隣りの石原さん宅の奥さんが心臓病で歩けないので、担架を造り、四八の男子で持つことになり、兄もその中の一八として病人を連れ、重い荷を背に、七人の弟妹を連れての引揚が始まりました。
 なかでもハルビンと新京間の鉄橋が爆破されているところでは、全員下車して次の駅まで歩いたのですが、その光景は忘れることができません。焼けつくような大陸の陽を受けて、重いリュックを背にした人々は、ただ下をむいたままあえぐように十三キロ余りを歩きました。病八の担架を持った兄たちは、汗を流して}歩一歩進み、途中病人を地に置いてご主八が注射を打つのですが、そのとき病人は弱々しい声で担架を持つ四八の男子に、「本当に済みません」といっておられた言葉を思いだします。

 二十分、三十分と歩くうち、人々はリュックの中から毛布を捨てる人、オーバーを投げる人、終りには食糧まで捨ててゆく人……。隊列は乱れ、弟妹も遅れてヨタヨタ歩いておりましたが、兄はふり返りながら「死にたくなかったら早くオレについてこい」と叱咤したものでした。そして無事萩まで、兄妹八人たどり着きました。

 毎年八月十五日には八人の兄弟が集まり、赤い夕日の満州、重いリュックを背に歩いた十三キロの遺のりの話に花が咲きます。子供と別れ、病院列車で引き揚げた父は、萩に帰国してまもなく他界しました。

方面別海外引揚要図

方面別海外引揚要図昭和36年12月31日現在 1億人の昭和史 4 毎日新聞社

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Author:野生馬 太郎
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