「降伏日本軍人」という身分と英軍による虐殺

「日本の反論』米田健三著 並木書房
第6章 歴史の闇に葬られた日本人捕虜虐殺から抜粋


日本軍捕虜に対する戦時国際法違反の不法な対応は、米軍にとどまらない。国際法が定める捕虜の待遇を与えないために、英車は「降伏日本軍人」というあらたな身分を編み出した。その結果、英軍主体の東南アジア連合軍に降伏した我が南方軍将兵は、粗末な給養で、危険な、あるいは不潔な労働に使用されたのである。この問題については『軍事史学』(第三五巻第二号)に掲載された喜多義人論文に詳しい。

 それによると、一〇万六〇〇〇名もの将兵が昭和二一年七月以降も「作業隊」として現地に残され、昭和二三年一月の送還終了までに九〇〇〇人近い死者が出たという。

 もともと、捕虜の立場を厭う日本軍側の意向が、逆手に取られたのである。
 また、日本軍将兵が課せられた作業は、「弾薬の海中投棄、採石、樹木の伐採、下水掃除、糞尿処理、炭塵の立ち込める船倉内での石炭積載作業、一〇〇キロ入り米袋の運搬」などで、明らかにハーグ陸戦法規と一九二九年の捕虜条約が禁じた、過度で、不健康、危険な労働であった。まさに、緒戦で日本軍に敗れた怨念を晴らすための報復に他ならなかった。

 英軍についていえば、一九四四年六月二二日、インド・アッサム州のミッションで、一〇〇人以上の日本軍傷病兵が、英軍兵に焼き殺された(『世界戦争犯罪事典』文藝春秋)。アッサムの英軍根拠地インパールの攻略をめざした牟田口中将の第一五軍は、コヒマを占領したものの、英軍の猛反撃を受け後退を開始した。ミッションを防衛していた歩兵第六〇連隊も移動を始めたが、逃げ遅れて担架に乗せられたまま路上に放置された野戦病院の重症患者一五〇名は、英車グルカ兵の手でガソリンをかけられ焼き殺されたのである。

 ブーゲンビル島トロキナでは、オーストラリア軍によって、日本軍捕虜に「死の行進」が課せられた(同)。
 ナウル島とオーシャン島を占領していた日本軍は、一九四五年九月、オーストラリア陸軍の捕虜となった。同月二〇日にナウルの日本兵約二〇〇〇人がトロキナの仮収容所に移送されることとなったが、栄養失調と疾病で衰弱しきっているにもかかわらず、気温三五~三ハ度のなかを一〇マイル行進させられた。翌日、到着の一二五〇人も同様であった。豪州車の警備兵は行軍の速度をゆるめることを許さず、水もほとんど与えられなかった。死亡者が続出した。

 体験者の回想によれば、川を見つけた日本兵が水を求めて駆け寄ると、川の両側に並んだ豪州車将校たちが水を飲ませまいと、足で水をかきまぜて泥水にし、そのうえ銃を向けて威嚇した。一〇月八日にトロキナに着いたナウルからの七〇〇人とオーシャンからの五一三人も同じ扱いを受けた。
 くわえて、一〇月末にファウロ群島の常設収容所に移動させられた時には、マラリアに多数が感染したが、豪州軍は予防薬を支給しなかった。捕虜のほとんど全員が感染、約七〇〇名が死亡したとみられる。

 なお、戦場となった各地で非業の死をとげた無数の捕虜の他に、戦犯容疑者として拘束され、虐待のうえ死亡、あるいは処刑されたBC級戦犯については、第三章で述べたところである。


■シペリアだけではなかった旧ソ連の日本人抑留地

 第五章でも触れたように、一九四五年二月四日から一一日にかけて、ソ運クリミヤ半島の保養地ヤルタ近郊のリバディア宮殿で、ルーズベルト米大統領、チャーチル英首相、スターリンソ連首相による首脳会談が聞かれた。世に言うヤルタ会談である。議題の中心は、ドイツ降伏を目前に控えての第二次世界大戦戦後処理で、この会談で「ソ連はヨーロッパでの戦争終結後、九〇日以内に対日宣戦布告する」ことが取り決められたのである。

 これを受けて、ソ連は同年八月八日、日ソ中立条約を一方的に破って対日宣戦布告。翌九日には満州、樺太南部、千島列島への侵攻を開始した。その結果、膨大な数の日本人民間人がソ連接による略奪・暴行の餌食となり、くわえて約六〇万人の軍民が拉致・連行され、強制的な重労働により約六万人が死亡したのである。「早期に捕虜を本国に送還する」としたポツダム宣言に、明らかに違反する行為であった。

 八月二三日にスターリンが発した命令は、次のようなものであった。「強制労働に耐えられる健康な捕虜五〇万人を選別する。捕虜を一〇〇〇人ずつの建設大隊に編成する。捕虜の被服や寝具は戦利品から調達する」

盗人猛々しいとはこのことであろう。捕虜のほとんどは軍人であったが、技術や通訳の能力を待った軍属、満州国政府や満鉄の日本人職員、そして従軍看護婦などの女性五〇〇〇人も連行された。それぞれが重労働に駆り立てられ、女性はソ連軍の″習性”により多くが陵辱の対象となった。重労働に耐えられないとみられた病弱者は、劣悪な環境の満州の収容所に送り返され命を落とした。

ソ連の蛮行をたどるとき、まさに、捕虜=奴隷だった古代・中世の戦争を彷彿させられる。ソ連が捕虜にした外国軍民は、ドイツや日本をはじめ四百十二万人にのぽる。これだけ大量の捕虜を捕獲した理由は他でもない。戦後復興のためのタダの労働力にするためだった。したがって、日本人捕虜の収容所が設置された地域をみると、シベリアに限らない。モンゴル、中央アジア、はてはウクライナ、モスクワ近郊を含むヨーロッパ・ロシアにまで広がっているのには驚かされる。

 ハーグ陸戦法規やジュネーヴ捕虜条約の精神を踏みにじり、捕虜たちは食糧や医療も不十分で極寒のなか、危険で厳しいさまざまな作業に酷使された。石炭・石油の採掘、木材の伐採、河川・港湾の整備、鉄道の建設、各種工場での労働、農場での労働などで、ノルマが課せられ、目標を達成できない場合は労働時間の延長、減食などの懲罰に付された。

 二〇〇〇年十二月一九日に公開された外務省外交文書で、シベリア帰還者の証言が明らかになっている。それによると、収容所はバラックや旧囚人収容所。一人当たり居住面積は平均一・三平方メートルで、やっと横になれる程度。衣服や暖房が不十分なため、凍死者があいついだ。食事も重労働に値するものではなく、一日、一九〇〇~二〇〇〇カロリー、収容当初は一食三〇〇グラムのパンとお茶だけで氷点下四〇~六〇度のなか労働を強制された例もある。

 拘留者がさらされた恐怖は、重労働だけではない。約三〇〇〇人が弁護人もつかないデタラメな略式裁判で「スパイ罪」、「反革命罪」、「資本主義幇助罪」に問われ、五年から二五年の強制労働に処せられたのである。これら犠牲者の取り調べの模様について、外交文書はこう記している。
 「足を縛ってつるされた」
 「等身大の箱に八時問閉じ込められた」
 「銃で脅され調書に署名させられた」

 一方、共産主義の洗脳教育に同調し、日本帰国後はソ連の先兵として日本共産化に挺身するであろうと目された者のみは、食事・衣服・労働量などで優遇されたのである。
 死亡者は約六万人とされているが、実際には実数不明である。公開されている日本人墓地にすら、氏名や身元不詳の無縁墓地が多く残されている。

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