凛として サハリンの同胞を救った夫婦 朴魯学・堀江和子

朝鮮半島出身者には、大きく分けて三つのグループがあった。
(1)大正時代から戦前にかけて樺太開拓のために入植した
(2)戦時中、主に朝鮮半島南部から募集や官斡旋(あっせん)、徴用などで渡った
(3)戦後、派遣労働者などとして現在の北朝鮮地域、ソ連(当時)の中央アジア地域などから移住した-の三つである。

この問題で日本の責任がないとはいわない。ただ、「四万三千人が強制連行された」「日本人が朝鮮半島出身者だけを置き去りにした」などという指摘は事実ではない。
まず、約二万人とされる(3)については戦後のことであり、もちろん、日本とは何の関係もない。(2)については、日本時代に戦時動員である徴用で樺太に渡り、戦後、帰国できなかったケースは確かにある。ただ、『サハリンの韓国人はなぜ帰れなかった』を書いた新井佐和子(七四)は、日本、ソ連側の公文書などを検証し、当事者からも聞き取り調査をした上で、「高賃金に魅力を感じて自ら行った人が多く、樺太の場合、徴用は少なかった」と指摘している。

 ちなみに、朴が昭和四十二(一九六七)年に、同胞の帰還希望者の名簿を完成させたときの人数は、家族を含めて約七千人だった。
こうした朝鮮半島出身者の多くは、南部地域(現在の韓国)の出身者であったが、終戦後、ソ連当局によって「無国籍者」に分類されたことは、すでに述べた。当時ソ連と韓国は国交がなかった。後にソ連籍や友好関係にあった北朝鮮籍を取るものもいたが、ごく一部を除いて、サハリンから出ることは認められなかった。冷戦時代、現地では住民同士の密告や監視もあり、軽々しく、西側への帰国の
希望を口にすることもできない。

 そして、何よりも、関係各国(ソ連、韓国、日本など)がこの問題に無関心だったことが、解決を大きく遅らせてしまったのである。
国会議員としてこの問題に長く取り組んできた参院議員(公明党副代表)の草川昭三(七六)はこういう。
「本来は、戦争が終わったときに、彼ら(サハリンの朝鮮半島出身者)のことも、きちんと決めておかねばならなかった。それなのに彼らの存在は忘れられ、ほったらかしにされた。そして、だれも(どこの国の政府も)責任を取らず、長らく外交交渉の対象にもならなかった」
(後略)

産経新聞 平成16(2004)年9月28日[火]
凛として サハリンの同胞を救った夫婦 朴魯学・堀江和子(5)
姿を変えた帰還運動

「当事者が少なくなったのになぜ支援を続けるのか」 消えない複雑な思い本来の目的失い、政治的な色彩朴魯学(パク・ノハク)の死から約五カ月が過ぎた昭和六十三(一九八八)年八月、サハリンの残留韓国人が、日本を経由して、母国、韓国に帰還する「永住帰国」が初めて実現した。韓国がソウルオリンピック(同年秋)の開催に沸き立っていたころである。

 第一号となった韓元洙(ハン・ウォンス)は当時八十歳。日本で親族と再会する一時帰国が始まろうとしていたとき、最初にリストアップされた十人の一人であり、朴は、「何としても永住帰国させたい」として、病の体をおして懸命に運動を続けてきた。「朴の遺言」ともいうべき第一号であった。
永住帰国は、残留韓国人が故郷に帰るという帰還運動本来の姿である。ただ、一時帰国に比べると、解決しなければならない問題ははるかに多かった。日本とソ連、韓国のスタンスも、それぞれ違い、最後の最後まで混乱が続いた。

 ソ連の立場は、「(国交がある)日本へ永住するなら出国させてもいい」というものだ。だが、日本はあくまで永住地は韓国であるとし、「通過するだけなら」という。韓国は韓国で、「日本が(サハリンに)連れていったのだから、費用面も日本の責任で」と主張し、必ずしも永住帰国には積極的ではなかった。
『サハリンの韓国人はなぜ帰れなかったのか』の著者で、朴と和子の運動を手伝っていた新井佐和子は、永住帰国の直前になって、東京の韓国大使館の担当者から「韓さんの生涯の生活保障はいったいだれがするのですか」と聞かれ、あぜんとしたことがある。

 新井が、「韓国の家族がするでしょう」と答えると、大使館員は、「韓さんの家族は貧しい。日本が責任を持つべきだ」と主張し、らちがあかない。結局、新井は「韓さんが生活に困ったら全責任は私が持ちます。だから入国を許可してください」とタンカを切ることになってしまった。
こうした各国のスタンスや思惑の違いが、この問題の支援をめぐって、後々まで尾を引くことになるのである。

 韓は、韓国への永住帰国から約三カ月後、家族に見守られて息を引き取った。故郷で暮らしたのはわずかな期間だったが、それでも韓は「間に合った」のである。長い間、故郷へ帰ることを夢みながら、サハリンの土になった人がどれだけいたことか…。和子はそれを思うと胸が締め付けられるようであった。

■□■

一時帰国者、永住帰国者はその後もどんどん増えていった。六十三年八月からは、日本政府から、一時帰国者夫婦や付き添いの子供たちに各四万円あまりの補助金が出るようになった。和子たちには、喜ばしいことであったが、この善意の補助金をめぐって、事態はその後、思わぬ方向に向かうことになる。
新井のもとに、「一九八八(昭和六十三)年十二月二十三日来日予定者」と書かれた一時帰国者のリストが残っている。リストを見ると、その日だけで帰国者は十六人。本人以外に戦後生まれの三十代、四十代の二世(子供)の名前も目立つ。実際、このころになると、日本へ行きたい二世の方が「主」といった帰国者家族もおり、日本に到着後すぐ、秋葉原の電気街へ行くことをせがんだり、韓国の家族と会おうとしない人たちすら出てきた。新井は当時の一時帰国者の様子について、「買い物八分、家族再会二分といった感じだった」と書いている。

 晩年の朴は、こうした姿を見てやるせない思いにとらわれていた。この時点で戦後四十年あまり。「やはり、時間がたち過ぎたんだ」と思うしかなかった。和子は朴の死後しばらくは、帰還運動の支柱となっていたが、やがて距離を置くようになった。運動が本来の目的を失いかけていることや、考え方の違う別の団体が、同じように帰国者の受け入れを始めたことなどが理由だった。

 自虐史観や度が過ぎた贖罪(しょくざい)意識に取りつかれた人々が、この運動にからめて“強制連行”や日本の戦後責任を声高に叫び、問題は政治的な色合いを濃くしていった。
平成元年には、帰国者の支援を行うために日韓赤十字による在サハリン韓国人支援共同事業体が設立された。日本政府の立場は一貫して「法的責任はない」というものだが、戦後責任を問う声や韓国側の要求などに押されるかのようにして、「人道的な支援」がどんどんと膨らんでいった。日本の支援は現在も続いており、その内容はかなり手厚いものだ。日本がこれまでに共同事業体に拠出した額は約六十四億円(韓国側は年金の形で永住帰国者の生活費などを出している)。和子は、「本当に支援が必要だったときはもう過ぎてしまったのに。当事者が少なくなってしまった今、なぜ、これだけのお金を出すのか」という思いが消えない。きっと朴も同じ気持ちだろう。

 和子と新井が平成七年にサハリンを訪問したとき、日本の支援で韓国へ一時帰国をした八十歳を超える男性は、「私は年寄りだし、帰国は一回で十分だ。でも息子がどうしても行きたいというので、二度目の申請をした」と話した。支援の対象者を選ぶのは韓国側で日本側はチェックする手段もないという。

■□■

 朴が亡くなって十六年になる。長女、蘭子(五五)の子供たちは祖父の晩年の姿しか知らないが、アルバイト先などで、「おじいちゃんはすごい人だった。誇りに思っている」と話していることを聞き、蘭子はうれしくなった。

朴を知る人はみな、「本当に清廉な人だった」という。朴らの運動に感動した篤志家が、一千万円単位の支援を申し出たことがあった。この篤志家はサハリンからの帰国者に対しても必要以上のお小遣いを与えることがあったが、朴は、「彼らのためにもよくない」と断り、支援についても最小限のお金しか受け取らなかった。
和子にしてもそうだ。昭和三十三年に自分たちの家族が日本へ帰国した時点で、運動をやめてもよかったのである。だが、和子は、いろんな思いを飲み込んで、夫を支え、ともに闘った。サハリンに行ったときには、いろんな人が和子に声をかけてきた。みんなが恩人の名前を知っていた。

 何の地位もお金もない一民間人が、各国政府を動かし、重い扉をこじあけたケースは希有(けう)なことだろう。もちろん、夫妻以外にもいろんな人たちが闘った。でも、朴らが運動を始めなければ、サハリンの同胞は、いまだに置き去りにされたままだったかもしれない。=敬称略(喜多由浩)



≪在サハリン韓国人支援共同事業体への日本の支援≫
【これまでの日本の拠出総額 約64億円】
・一時帰国支援
【内容】サハリン在住者の韓国への一時帰国支援(往復渡航費および滞在費)
【実績】平成元年から16年3月までに、のべ1万4678人が一時帰国(民間航空機の定期便を使って年間8便、現在3順目=同じ人が3回目の一時帰国をするという意味=を実施中)
・永住帰国支援
【内容】サハリン在住者の韓国への移住に対する支援 渡航費および移転費▽住宅施設(仁川療養院・安山アパートなど)建設費▽仁川療養院のヘルパーおよび光熱費▽安山アパート内の福祉会館の運営費▽仁川療養院の増設
【実績】平成11年3月、仁川療養院開設(収容能力100人)▽12年2月、安山アパート形式集団住宅開設(同489世帯)、16年3月までに1497人が永住帰国
・サハリン残留者支援
【内容】サハリンに引き続き在住する者に対して、文化センターの建設、マイクロバス提供
【実績】平成15年6月、30人および15人乗りバス提供▽文化センターは今年8月、総工費5億円で着工
・永住帰国者支援
【内容】韓国に在住する永住帰国者がサハリンに残った家族を訪問する際の支援(往復渡航費)
【実績】平成16年3月までに、永住帰国者1577人がサハリン訪問

産経新聞 平成16(2004)年10月1日[金]
アピール 今なお続く「サハリン支援」に怒り
元サハリン再会支援会共同代表 新井佐和子 74 (茨城県つくば市)

産経新聞九月二十七日付朝刊から五日連続で掲載された「凛(りん)として サハリンの同胞を救った夫婦」を読み、かつてこの運動にかかわらせていただいた私は、改めてご夫妻を思い起こし、感動を新たにした。
しかし、最終回の「姿を変えた帰還運動」を読むに至って、日本政府の施策に対する激しい怒りがこみ上げてきた。それはいまだに続けられている在サハリン韓国人支援共同事業体への日本の支援についてである。

 これによると、これまでの日本の拠出総額は何と約六十四億円。その中身というのは、サハリンに在住している朝鮮民族が一定の条件さえ満たせば、里帰りと称して韓・露の間をタダで往復できるという、人もうらやむ結構な制度なのである。
改めて述べるまでもなく、サハリンに取り残された韓国人の帰還について、日本に法的責任はなく、支援はあくまで人道的なものである。十年ほど前に私はやはり本欄で、この支援金の不必要性、有害性を強く訴えて警鐘を鳴らしたが、結局、政府は何の検討もせず、一部の偏向勢力に押されてますますエスカレートさせ、各種施設の建設など、驚くような額の支援を行ってきたのである。
もともとこの支援金というのは、当時国交がなかったソ連(サハリン)と韓国の家族・親族を日本で再会させるための滞在費の負担金であって、いわば接待費を国が肩代わりするという意味合いのものであった。

 それを、旧社会党が主導して発足させた「サハリン残留韓国・朝鮮人問題議員懇談会」が平成二年前後に、その支援金を同党の強い圧力によって「戦後補償」のように位置付けてしまった。それを年々、額をつり上げて、国庫から引き出させてきたもので、同七年、村山内閣の「戦後五十年の謝罪」政策で、それは頂点に達した。社会党勢力が退き、当然、見直しが図られたものと思っていたのだが、産経新聞の記事のおかげで、驚くべき現状があぶり出された。

 今、「戦後補償」裁判という不気味な黒雲がアジアの空を覆っている。その原点ともいうべき「サハリン支援」の問題に国民はもっと関心を持つべきではないだろう
か。
産経新聞 平成16(2004)年10月8日[金]
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サハリン残留韓国人への支援問題

East Asia News Watch
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戦後60年、薄れる「家族再会」の趣旨 理由見えず…いつまで続く
特集部 喜多由浩

いったいこの“奇妙な支援”は、いつまで続くのだろう? 日本によるサハリン残留韓国人への総額六十億円以上に上る支援のことである。当初は、冷戦で祖国へ帰れなかった人たちが家族と再会するための補助金だった。それが、一部勢力の声によって「戦後補償」のように位置付けられ、支援はエスカレート。戦後六十年近くたち、当事者が減ってしまった今もやめられないでいるのだ。

≪至れり尽くせり≫
 今年八月末、ロシア・サハリン(旧樺太)に住む韓国人(朝鮮民族)のために、日本が資金を負担した文化センターの起工式が行われた。総工費は約五億円。センターには、ホテルの機能やレストランも設けられるという。
韓国では、サハリンから永住帰国した人たちが住むアパートや療養院の整備が続いている。二〇〇〇(平成十二)年に韓国・安山に開設されたアパート(五百戸)の建設費は約二十七億円。療養が必要な人の定住施設には療養院があり、現在さらに増設中だ。
これだけではない。サハリンに住む韓国人は一定の条件を満たせば家族との再会のために日本の負担で韓国へ一時帰国することができる。一九八九年の開始以降、ひと通り希望者が一時帰国をしたため、数年後には二巡目が行われ、現在は三巡目に入っているという。
三年前からは逆に、韓国へ永住帰国した人たちが、サハリンに残っている家族・親族に再会するための「サハリン訪問」への支援も始まった。まさに、至れり尽くせりではないか。

≪日本が“火をつける”≫
 こうした支援活動は、八九年に日韓の赤十字によって設立された「在サハリン韓国人支援共同事業体」によって行われている。
共同事業体とはいっても、永住施設の建設費や一時帰国者の渡航費などを負担しているのは、もっぱら日本側だ。現在までの日本側の拠出総額は約六十四億円(韓国側は土地代や年金の形で永住帰国者の生活費などを負担)。日赤国際救援課などによると、「『帰りたい』という人がいる以上、今後も支援は続ける」という。

 冷戦などによって、長く帰国を許されなかったサハリンの残留韓国人が家族と再会する事業(当初は日本で再会)は約二十年前、日本にいる民間人によって始められた。当初は公的な支援もなく、費用は個人で負担するしかない。少しでも国庫で負担しようというのが、支援の趣旨のはずだった。
だが、一部の勢力によって起こされた裁判などの過程で、「日本によって四万三千人がサハリンに強制連行された」「日本人だけがサハリンからさっさと引き揚げ、韓国人だけを置き去りにした」などと、事実とかけ離れたことが声高に叫ばれ続けていた。

 国会でもこうした間違った認識を前提とした質問が繰り返され、日本が支援を行っても、「まだ足りない」「責任は日本にある…」と追及した。これに呼応して韓国側やサハリンの韓国人からも、日本の責任や補償を求める声が強まり、支援はいつの間にか「戦後補償」のように位置づけられ、野放図に増えていったのである。

≪本来の目的はどこへ≫
 問題は他にもある。数年前にサハリンを訪れた産経新聞の記者は、現地の韓国人からこういわれた。「私たちは戦前、自分の意思でサハリンへ来た。それなのに日本のお金で韓国へ連れていってくれるとはありがたいことだ」サハリンにいる韓国人(朝鮮民族)は何も、日本時代に募集や徴用で渡った人たちばかりではないのだ。支援の対象者を実際に選ぶ作業は、韓国やサハリン側に任されており、日本側はチェックする手段がないという。

 韓国への一時帰国は、すでに何年も前から、本来の目的であった家族再会は隅っこに押しやられ、付き添い役の二世、三世が主体となった“買い物ツアー化”が指摘されている。
夫とともに残留韓国人の帰還運動を続けた堀江和子さん(七七)は、「本当に祖国へ帰りたかったお年寄りたちはもうほとんどいない。日本に支援するお金があったら、ほかの困っている人たちに回すべきではないか」と話している。

 サハリン残留韓国人問題について、「日本の責任がまったくなかった」というつもりはない。ただ、支援はもう十分したのではないか。「理由のない支援」や「実効性のない支援」に多額の税金が注ぎ込まれるのでは困るのだ。(特集部 喜多由浩)

■サハリン残留韓国人問題と日本の支援
 日本時代にサハリン(旧樺太)へ企業の募集や徴用などで渡った韓国人(朝鮮半島出身者)の多くが戦後、ソ連(当時)によって帰国を認められず、数十年間、当地にとどめられた問題。当事者の1人であった強調文e="color:#0000ff">朴魯学氏(故人)と妻の堀江和子さんらが昭和30年代に日本へ帰還して、同胞の帰還運動を開始。
当時はソ連と韓国の間に国交がなく交渉は難航を極めたが、ソ連のペレストロイカや冷戦の終結も
“追い風”となり、日本での家族再会や韓国への永住帰国が順次、実現した。
日本政府は一貫して「法的責任はない」と主張してきたが、この問題が関係各国を巻き込んで政治問題化していくなかで、「人道的な見地からの支援」がふくらんでいく。

 在サハリン韓国人支援共同事業体の支援によって、今年3月までに延べ1万4678人が韓国へ一時帰国、1497人が永住帰国した。また、韓国からサハリンへの家族訪問では今年3月までに1577人が参加。サハリンではマイクロバスの提供なども行われている。

産経新聞 平成16(2004)年10月25日[月]
 凛として サハリンの同胞を救った夫婦 朴魯学・堀江和子(1)

北朝鮮による拉致被害者や家族の報道が今、連日のように新聞やテレビで流されている。
「私たちも同じような立場になっていたのかもしれない」堀江和子(七七)はそう思うと胸が詰まった。長い間、母国の政府が関心すら持たず、救出に動こうとしなかったという意味では、拉致被害者もサハリン残留韓国人問題も同じだ。“祖国から忘れられた存在”ほど悲しいものはない。海を隔てたすぐそこに自分の国があるのに…。

◆◇◆

 終戦まで、樺太(現サハリン)には四十万人以上の日本人がいた。酷寒の不毛の地に、日本人が鉄道や道路を通し、産業を根付かせたのである。和子は昭和二(一九二七)年、樺太・西海岸の真岡(現・ホルムスク)で生まれた。
十一人兄弟の三女。大正期に樺太へ渡り、製紙会社に勤務していた父が十七年に亡くなるまでは、暮らしぶりも良かったという。
すべてを変えたのは終戦、そしてソ連軍の突然の侵攻だった。和子はその日のことをよく覚えている。「ぼろぼろの格好の兵隊が行進していた。腕には日本人から奪った腕時計がいくつも巻いてあり、万年筆や着物を欲しがる兵隊もいた。言葉も分からず、とにかく恐ろしかった」
やがてソ連軍は日本人が築いた施設を次々と接収し、住民には職場復帰を命じた。もちろん、だれも出国はできない。そして翌年、ソ連が行った人口調査で「日本人」と「無国籍者」とされた朝鮮半島出身者は完全に区別された。これが“悲劇の第一幕”であった。

◆◇◆

 朴魯学(パクノハク)(昭和六十三年、七十五歳で死去)は大正元(一九一二)年、日本が植民地支配していた朝鮮半島の生まれ。新聞広告で見た樺太人造石油の労務者募集に応じて、樺太に渡ったのは昭和十八年のことだった。
当時、樺太の給与水準は内地(日本)や朝鮮半島と比べても高水準で、それに魅力を感じて、海を渡る朝鮮半島出身者が少なくなかった。もちろん、「強制」ではなく、自分の意思である。戦争のために国民の動員を可能とした徴用令が朝鮮半島で施行されるのは十九年九月になってからだ。ただ、徴用を見越して募集に応じた人もいないではない。
朴は後に和子に、「一家のうち、いずれ誰かは(徴用に)行かねばならない。弟が病弱なので私が行った」と語っている。終戦を迎えて、朴は真っ先に故郷(現在の韓国)へ帰るつもりだった。妻と三人の
子供がいたからだ。だが、終戦から一年たっても、ソ連当局からは帰国について、何の沙汰(さた)もなかった。そんなとき和子との縁談話が持ち上がったのである。当時、兄の家にいた和子にとっても、帰国のメドが立たないまま、兄の世話になっているわけにはいかなかった。

 二十一年九月、朴と和子は結婚する。朴に妻と子供がいることは秘密だった。このことが、後に和子や韓国の妻、そして朴自身を苦しめることになるのである。

◆◇◆

 皮肉なことに、結婚から程なくして、和子は日本人の引き揚げが始まることを知った。二十一年十一月、「米・ソ引き揚げ協定」が結ばれ、日本人の引き揚げが決まったのである(二十四年までに、約三十万人の日本人が帰国)。だが、引き揚げの対象に「無国籍者」となった朝鮮半島出身者は含まれていなかった。当時、米占領下にあった日本はこの決定に関与していない。というより関与できなかった。だから「日本が朝鮮半島出身者だけを置き去りにした」という指摘は事実でない。
(中略)
【サハリン残留韓国人問題】
日本時代に、企業の募集や徴用などで、樺太(現ロシア・サハリン=元来、日本の固有の領土であり、現在も帰属が決着していないという主張もある)に渡った朝鮮半島出身者約1万人(終戦時)が戦後も帰国を認められなかった問題。そこには、日本人妻約1000人もいた。
冷戦構造のなか、当時のソ連が友好関係にあった北朝鮮に配慮し、国交のない韓国への帰国を認めなかったためとされている。サハリンには戦後、北朝鮮地域などから2万人規模の派遣労働者が渡っており、これを含めた人数が一部で伝えられたことがあるが、彼らは日本とは関係がない。

 日本人妻は昭和30年代に夫や子供とともに日本への帰国を認められたが、それ以外の朝鮮半島出身者は出国できず、朴魯学・堀江和子夫妻らの帰還運動によって、帰国の道が開かれるまで、何十年もの間、サハリンに取り残された。

サハリン(樺太)残留韓国・朝鮮人問題

正論2000年5月号【編集者へ編集者から】
http://www.sankei.co.jp/pr/seiron/koukoku/2000/reader/05 -r1.html
☆編集者へ=つくば市の新井佐和子さん(元サハリン再会支援会代表・69歳)から。
四月号、豊中市の辻孝次さんへ。
一月二十五日のNHKニュースの報道についての御質問に対し、僣越ながら参考意見を述べさせていただきます。
私は、この報道は聞いておりませんが、これは、サハリンにいる韓国人の一部が、韓国に集団永住帰国するというニュースのなかでの解説とおもわれます。
ところで、ご質問の、(一)日本軍の朝鮮半島の占領、(二)ハバロフスクへの強制労働のため
の移住、
という首を傾げるような報道を、公共放送が疑問を持たずに行うようになってしまった

 背景には、つぎのようなことがあると考えております。
それは、一部の日本の知識人たちが、ある政治目的のために在サハリン韓国人の歴史を捏造してしまったことが原因です。その人たちは、「四万三千人のサハリン残留韓国・朝鮮人は戦争中日本国によって強制連行されて行った人々で、戦後日本人だけを引き揚げさせて朝鮮人は置き去りにしてきた」と主張し、その責任として日本政府から多額(数十億円)の補償金を拠出させています。今回、その補償金で韓国に建てた居住施設に、永住帰国するサハリン残留韓国人一世夫婦約千人が三月までに入居することになりました。

 しかし、日本時代の樺太(サハリン)にいた韓国人(いまの韓国を故郷とする人)は、前記一部の知識人が言っているような人たちではなく、大部分が、戦前戦中を通じて好景気の樺太へ、競って出稼ぎに行った労働者とその家族です。なかには戦争末期に徴用というかたちで強制労働に就かされた人もいますが、それは百人にも満たない数です。

 終戦時の総数は四万三千人でなく推定一万五、六千人ですが、ソ連軍に占領されてから彼らは日本人と区別され、帰国は一切許されませんでした。と同時に大陸部からロシア系の朝鮮人や、現北朝鮮からの労働者を移入させたので、サハリンの朝鮮族の人口は、二年後には四万三千人にふくれあがりました。それとは別に、ロシアの大陸部には五十万ほどの朝鮮族がいますが、その人々の大部分は一九三〇年代にスターリンによって沿海地方から中央アジア地方に強制移住、強制労働させられてきた人たちの子孫です。

 ところで、日本政府が全面的に援助しているサハリン韓国人帰国支援事業ですが、その対象となる人は、終戦時樺太にいた韓国人のみでなく、前記のように戦後移入してきてそのまま居ついた人や、サハリン以外の地にいた人でも一九四五年以前に生まれた人なら皆含まれているようです。永住帰国とは別に十年前からこれも日本政府が毎年一億円以上の予算をつけて行われている韓国への一時帰国(里帰り)事業には、明らかにロシア大陸に一九三〇年代に強制移住させられた人が含まれていたことを、私は数年前、韓国の新聞記事で確認しています。

 そこで、ご質問の(二)について考えられることは、現在、大陸に居住している朝鮮族のために置かれているとみられる「ハバロフスク離散家族会」というのがありますが、そこで扱った帰国者のなかに、ソ連による沿海地方から大陸への「強制移住者」が含まれていたことから、このような誤報がなされたのではないかということです。

 (一)についていえば、以上のようにサハリン在住韓国・朝鮮人の由来が意図的に歪められたり、また他でも韓国には謝罪と補償を繰り返していることから、朝鮮半島は条約によって日本と併合されたという基本的な認識がだんだん薄れてきているからなのでしょう。NHKに限らず、あらゆる報道機関で、この「サハリン韓国人問題」を正しく理解し報道しているところは、いまのところ産経新聞以外にありません。

 長い間彼らが帰れなかった理由は、冷戦時代の国際情勢によるもので、日本国にはなんら責任はありません。とはいえ、戦中戦前から樺太にいた韓国人でいま身寄りもなく、故郷に帰りたいという人がいるならば、人道的な見地から援助の手をさしのべるのにやぶさかではありませんが、実際は、その他の人たちにも無制限に日本の国費で援助しているというのが現実で、そのためいろいろな弊害が出ています。

 以上「サハリン韓国人問題」の間違った解釈は、困ったことに「広辞苑」などの辞典や教科書にも書かれて、既に定着しています。
詳しくは拙著「サハリンの韓国人はなぜ帰れなかったのか」(草思社)をご参照頂ければ幸いです。強調文

サハリンの韓国人はなぜ帰れなかったのか―帰還運動にかけたある夫婦の四十年
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4794207980
内容(「BOOK」データベースより)
戦前、戦中、開拓民として、また戦時動員によってサハリン(樺太)に渡り、終戦後も同地にとどまらざるをえなかった韓国人を故郷に帰還させるべく、黙々と運動を続けた日韓夫妻がいた。
昭和十八年末、樺太人造石油の労働者募集に応じて渡樺した朴魯学と、戦後朴と結婚した堀江和子である。昭和三十三年、幸運にも日本人妻とその家族の引揚げに加わることができた朴は、その後半生を同胞の帰還運動に捧げ、和子は献身的にこれを支えた。だが、昭和五十年、サハリン残留韓国人帰還のための裁判がはじまると、この問題はにわかに政治的色彩を帯びて、日本の戦争責任、戦後補償問題へと発展してゆき、夫妻の活動は忘れ去られていった。サハリン残留韓国人はなぜ祖国に帰れなかったのか。その責任は本当に日本にあるのか。だれがこれを政治的に利用しようとしたのか。夫妻の足跡をたどり、ことの真相を明らかにした労作。

戦後補償http://ryutukenkyukai.hp.infoseek.co.jp/sengo_hosyo_1.html
≪サハリン残留者帰還請求訴訟(東京地裁)≫1975年(昭和50年)
日本領だったサハリン(樺太)が戦後ソ連領に組み入れられ、戦前働きに来ていた朝鮮人(ほとんどが現韓国にあたる地域の出身者)たちが取り残された。そこで、日本政府に対し、日本に「帰れる」ようにソ連と交渉することを求めた裁判です。
訴訟については、残留朝鮮人の支援活動をしていた新井佐和子氏が「サハリンの韓国人は何故帰れなかったのか」という著作でレポートしています。裁判の目的が、残留朝鮮人を韓国に帰国させることではなく、日本を糾弾することにあることに新井氏は途中で気付いて手を引きます。

 戦後に日本人は帰国できたのに、朝鮮人が帰国できなかったのは、サンフランシスコ講和条約で彼等が日本国籍を失ったことや米ソの協定によるもので日本にはどうしょうもなかった。また背景にはソ連が彼等を労働力として必要としていたことやソ連と北朝鮮との関係もありましたが、原告側、弁護団は「日本が強制連行してサハリンに連れていったのだから、日本が悪い。責任を取れ」の一点張りだったそうです。

 70年安保の活動家たちが訴訟の支援に加わっていたことも明らかにされています。この訴訟の中心人物が、90年代の「従軍慰安婦」訴訟の中心人物でもある高木健一弁護士でした。
訴訟で、原告側は樺太に朝鮮人が来たのは強制連行されたからだという主張を展開しますが、そのことに関する証言者が、なんと、あの吉田清治でした。
※吉田は「従軍慰安婦強制連行」問題で、「自分は済州島で慰安婦狩りをした」とありもしない捏造証言をした人物である。当時彼の嘘はまったく暴露されておりませんでしたから、ストレートに信じられた。サハリン訴訟のいかがわしさを象徴しています。そもそも吉田はサハリン問題とは何の関係もありません。証言者としての資格がないんです。仮に彼が実際に強制連行をしていたとしても、彼が強制連行した朝鮮の人がサハリンに居住したという証拠は何もありません。「日本が強制連行した」というイメージを与えるためだけに証言したのです。

 「サハリンの韓国人は何故帰れなかったのか」のあとがきに新井氏はこう書いています「平成四年の宮沢首相訪韓の前後に、従軍慰安婦問題が持ち上がったとき、私はこの問題の裏にサハリン問題と同一の仕掛け人がいることを知り、そのことで警告を発したことがあった。知らずに運動に踊らされる人たちに、自分と同じ轍を踏んでもらいたくないというほどの気持ちからだった。

 ところが、宮沢首相訪韓を機に慰安婦問題はマスコミの力を借りて燎原の火の如くいっきに燃え広がり、その結果は周知のとおりで、こんにち日本の近隣諸国への謝罪外交はほとんど習慣的になり、教科書では間違った歴史を教え、国家が自信と誇りを失った国民を育成するという事態に陥ってしまった。
(中略)
サハリン帰還運動の歴史を正しく捉えていれば、この国が、これほどまでに方向を誤ることはなかったかもしれない。この訴訟は、「戦後補償」運動の原点というべきものであると同時に、その歪んだ本質をも示していて注目すべきだと思います。結果的に、サハリン訴訟が、従軍慰安婦運動を準備した

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プロフィール

野生馬 太郎

Author:野生馬 太郎
欧米列強と必死に戦ってきた爺ちゃんたちの名誉のために!

アジアの歴史と各民族性の相違を理解するために!


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