マニラ法廷 フィリピン軍による戦犯裁判
■モンテンルパの死刑囚はゲリラ戦の報復だった
伊藤正康(陸将 陸自富士学校長、”あゝ モンテンルパの夜は更けて”の作曲者)
ーー途中から抜粋ーー
比島軍事裁判は一体何であったか。一言に要約すれば、基本的には米軍のそれと同じであり、その二番煎じでしかなかった。米軍当時の調査資料がそのまま踏襲されただけで、独自の調査活動はなかったように思う。両者ともに、裁判は人道と正義の名において行われたが、裁かれた側から見れば、戦勝国が敗戦国の個人に対して行った「報復」以外の何物でもなかった。比島軍事法廷では時として反日感情が露呈し、判決の結果から見れば、米軍以上に厳しかったといわざるを得ない。
比島裁判第一号工藤ケースの工藤忠四郎氏(秋田県)は私と同連隊(歩兵第十七連隊)に属し、彼は中隊長、私は連隊本部の幕僚(兵姑)であり、起訴項目(バイにおける住民殺害の責任)について彼とその中隊がまったく無関係であることを私はよく知っていた。それゆえに日本人弁護士K氏からの依頼で某日弁護側証人として法廷に立った。K氏の質問に対して、私が答えようとする矢先、検事が立って「この証人は同じ罪名ですでに起訴されている。本証人の証言は信用するに値しない!・」ことを主張し、ついに私の口は封ぜられてしまった一幕を、今も思い出さずにはいられない。
昭和二十二年十一月六日、工藤氏は、死刑を宣告されてマンダルョンの独房舎に入れられた(比島軍事裁判の死刑第一号)。 やがて私の出番となる。ほとんど工藤氏と同じ罪名だったので、工藤氏を担当したK氏に私の弁護をお願いした。 開廷劈頭、検事側証人が現われ、事件発生の経緯を述べたかと思ったとたん、被告席にたった一人座っている私を指さして、「この男が現場の責任者だった!」と供述したのには、当方が驚いた。バイという場所へ私白身今まで一度も足を踏み入れたことがなかった。それだけに裁判で負けるとぱ思ってもみなかった。この後の弁護側証人、私自身のアリバイ証言も、事件の生き残りと称する一人の住民の証言には勝てなかった。昭和二十三年一月二十一日、私もまた工藤氏同様に死刑を宣告されてしまった(死刑第四号)。この日からマンダルョンにおける独房生活が始まった。先に判決を受けた工藤氏はもとより、その時点ではまだ、米軍により死刑の宣告を受けた人々が約十名残っていた。
独房に入ってから自分の裁判について考えてみた。結局は法廷に現われた住民の証言を根本から覆すだけの資料がなかった。ただ自分自身のアリバイを供述するのに精一杯で、住民の言うような事件なんてものはなかった。住民の証言は嘘だと主張できなかったところにわが方の弱昧があった。
昭和二十年二月上旬のある日、―すでにリンガエンに上陸した米軍も、ナスグブに上陸した米軍もともにマニラヘ進撃していた。―食糧収集に出かけたわが約一個分隊ぐらいが、バイにおいてゲリラによって全滅したことが報ぜられ、その翌日所在の部隊により報復的ゲリラ討伐が行われたことも耳にはしていたものの、その細部を私は知らなかった。所在部隊が前述工藤中隊でなかったことは確かだが。結局のところ、工藤氏も私も、日本車の行った報復討伐に対する報復裁判だった。
比島側にしてみれば、被告は日本人でさえあれば誰でもよかったのであろう。
これに類する事例は他にも限りなくあったと思うが、具体的に述べようとすると残念ながら明確な資料は私の手許にはない。ただ一つ後述する中村ケース(十三名)はセブ島の事件で責任をとらされたのであるが、この十三名のうち少なくとも四名は、当時その島にいなかった。にも拘らず判決は、全員死刑を宣告されてしまった。
戦後比島側により誇強調文張されたにせよ、日本軍によって戦時中犯された数々の事件をいまさら言い逃れようとは思わないが、そのほとんどが比島側の「ゲリラ」によって触発されたこともまた明白である。
強調文
比島の「ゲリラ」とは一体何であったのか。その多くは、開戦初期日本軍による比島攻略作戦時、すでに米軍の構成員だった比島軍人である。米軍の降伏時、同時に彼らも降伏したが、日本占領時代の初期釈放された(ルソン島だけで十五万人もいたといわれる)。釈放後、マッカーサー再来を信ずる軍人の多くが「ゲリラ」となり、米軍将校の指揮下で、占領日本軍に反抗し、あるいは反抗するよう住民を扇動していた。
マッカーサー将軍は自らの予言どおり、昭和十九年十月大軍をもってレイテに進攻、さらに昭和二十年一月ルソンに進強調文攻したのである。これと軌を同じくして、各地のゲリラが一斉蜂起しないはずはなく、住民もまたこれに同調したことは紛れもない事実である。
米軍の上陸と同時に戦闘を強いられた部隊からは、戦犯者は出ていないと思う。逆に米軍上陸から本格的戦闘まで、若干の時間的余裕のあった部隊(私の部隊はその典型だった)では、戦後多くの戦犯犠牲者がでている。米軍来攻以前に行わざるを得なかった「ゲリラ」との対決が、多くの住民を捲き込んでしまったと、弁解がましいが言わざるを得ない。とは言ってみても、その行為が今日正当化されることはないであろうが。
比島におけるゲリラとはそのようなものだった。もとより戦後彼らの多くは、英雄視され、米軍人として当然の報酬を受け、各方面で活躍していた。
戦記シリーズ23「戦争裁判処刑者一千」 新人物往来社
伊藤正康(陸将 陸自富士学校長、”あゝ モンテンルパの夜は更けて”の作曲者)
ーー途中から抜粋ーー
比島軍事裁判は一体何であったか。一言に要約すれば、基本的には米軍のそれと同じであり、その二番煎じでしかなかった。米軍当時の調査資料がそのまま踏襲されただけで、独自の調査活動はなかったように思う。両者ともに、裁判は人道と正義の名において行われたが、裁かれた側から見れば、戦勝国が敗戦国の個人に対して行った「報復」以外の何物でもなかった。比島軍事法廷では時として反日感情が露呈し、判決の結果から見れば、米軍以上に厳しかったといわざるを得ない。
比島裁判第一号工藤ケースの工藤忠四郎氏(秋田県)は私と同連隊(歩兵第十七連隊)に属し、彼は中隊長、私は連隊本部の幕僚(兵姑)であり、起訴項目(バイにおける住民殺害の責任)について彼とその中隊がまったく無関係であることを私はよく知っていた。それゆえに日本人弁護士K氏からの依頼で某日弁護側証人として法廷に立った。K氏の質問に対して、私が答えようとする矢先、検事が立って「この証人は同じ罪名ですでに起訴されている。本証人の証言は信用するに値しない!・」ことを主張し、ついに私の口は封ぜられてしまった一幕を、今も思い出さずにはいられない。
昭和二十二年十一月六日、工藤氏は、死刑を宣告されてマンダルョンの独房舎に入れられた(比島軍事裁判の死刑第一号)。 やがて私の出番となる。ほとんど工藤氏と同じ罪名だったので、工藤氏を担当したK氏に私の弁護をお願いした。 開廷劈頭、検事側証人が現われ、事件発生の経緯を述べたかと思ったとたん、被告席にたった一人座っている私を指さして、「この男が現場の責任者だった!」と供述したのには、当方が驚いた。バイという場所へ私白身今まで一度も足を踏み入れたことがなかった。それだけに裁判で負けるとぱ思ってもみなかった。この後の弁護側証人、私自身のアリバイ証言も、事件の生き残りと称する一人の住民の証言には勝てなかった。昭和二十三年一月二十一日、私もまた工藤氏同様に死刑を宣告されてしまった(死刑第四号)。この日からマンダルョンにおける独房生活が始まった。先に判決を受けた工藤氏はもとより、その時点ではまだ、米軍により死刑の宣告を受けた人々が約十名残っていた。
独房に入ってから自分の裁判について考えてみた。結局は法廷に現われた住民の証言を根本から覆すだけの資料がなかった。ただ自分自身のアリバイを供述するのに精一杯で、住民の言うような事件なんてものはなかった。住民の証言は嘘だと主張できなかったところにわが方の弱昧があった。
昭和二十年二月上旬のある日、―すでにリンガエンに上陸した米軍も、ナスグブに上陸した米軍もともにマニラヘ進撃していた。―食糧収集に出かけたわが約一個分隊ぐらいが、バイにおいてゲリラによって全滅したことが報ぜられ、その翌日所在の部隊により報復的ゲリラ討伐が行われたことも耳にはしていたものの、その細部を私は知らなかった。所在部隊が前述工藤中隊でなかったことは確かだが。結局のところ、工藤氏も私も、日本車の行った報復討伐に対する報復裁判だった。
比島側にしてみれば、被告は日本人でさえあれば誰でもよかったのであろう。
これに類する事例は他にも限りなくあったと思うが、具体的に述べようとすると残念ながら明確な資料は私の手許にはない。ただ一つ後述する中村ケース(十三名)はセブ島の事件で責任をとらされたのであるが、この十三名のうち少なくとも四名は、当時その島にいなかった。にも拘らず判決は、全員死刑を宣告されてしまった。
戦後比島側により誇強調文張されたにせよ、日本軍によって戦時中犯された数々の事件をいまさら言い逃れようとは思わないが、そのほとんどが比島側の「ゲリラ」によって触発されたこともまた明白である。
強調文
比島の「ゲリラ」とは一体何であったのか。その多くは、開戦初期日本軍による比島攻略作戦時、すでに米軍の構成員だった比島軍人である。米軍の降伏時、同時に彼らも降伏したが、日本占領時代の初期釈放された(ルソン島だけで十五万人もいたといわれる)。釈放後、マッカーサー再来を信ずる軍人の多くが「ゲリラ」となり、米軍将校の指揮下で、占領日本軍に反抗し、あるいは反抗するよう住民を扇動していた。
マッカーサー将軍は自らの予言どおり、昭和十九年十月大軍をもってレイテに進攻、さらに昭和二十年一月ルソンに進強調文攻したのである。これと軌を同じくして、各地のゲリラが一斉蜂起しないはずはなく、住民もまたこれに同調したことは紛れもない事実である。
米軍の上陸と同時に戦闘を強いられた部隊からは、戦犯者は出ていないと思う。逆に米軍上陸から本格的戦闘まで、若干の時間的余裕のあった部隊(私の部隊はその典型だった)では、戦後多くの戦犯犠牲者がでている。米軍来攻以前に行わざるを得なかった「ゲリラ」との対決が、多くの住民を捲き込んでしまったと、弁解がましいが言わざるを得ない。とは言ってみても、その行為が今日正当化されることはないであろうが。
比島におけるゲリラとはそのようなものだった。もとより戦後彼らの多くは、英雄視され、米軍人として当然の報酬を受け、各方面で活躍していた。
戦記シリーズ23「戦争裁判処刑者一千」 新人物往来社
米豪軍の日本兵に対する残虐行為(リンドバーグの衝撃証言から)
米豪軍の日本兵に対する残虐行為
リンドバーグの衝撃証言から
米兵の日本兵に対する非人道的扱いを告発した資料は少ない。何故かと言えば戦後GHQが情報統制をし、占領軍に不利になる記事は公開させなかったのである。
例えば米兵の犯罪行為を記事にした新聞は発行停止にし、ラジオ放送も統制した。また「真相箱」と言う番組で「悪しき国日本、日本軍は残虐」であるを基本に国民を洗脳し、徹底して占領軍の不利になる話を握りつぶしたのである。
しかしここに現在、絶版となっているチヤールズ・A・リンドバーグ著の『リンドバーグ第二次大戦日記(下)』(新潮社、1974年)がある。
チャールズ・A・リンドバーグ(1902~74年)
アメリカの飛行家。1927年5月、二ューヨーク~パリ間を愛機「セントルイスの魂」号で33時間30分かけて飛び、世界初の大西洋横断単独無着陸飛行に成功した。
日本の敗色が濃厚になった44(昭和19)年4月から9月までの南太平洋における日米戦について書かれた「戦時下の南太平洋にて」の章は、日本兵に対する米豪軍の目を覆うような残酷なやり方が赤裸々に記述されているので紹介する。
リンドバーグ第二次大戦日記・抜粋◇下巻「戦時下の南太平洋にて」(1944年4月~1944年9月)
から
*******************************************************
*6月21日水曜日
日本兵士殺害に関する将軍の話一 数週間前のことだが、最前線のさる技術科軍曹が、もう2年以上も太平洋地域で、戦闘部隊と行を共にしながら、ついぞ実戦に参加した経験がなく、帰国する前にせめて一人だけでも日本兵を殺したいと不平を漏らした。
軍曹は敵の地域内に進入する偵察任務に誘われた。軍曹は撃つべき日本兵を見つけられなかったが、偵察隊は一人の日本兵を捕虜にした。…「しかし、俺はこいつを殺せないよ!やつは捕虜なんだ。無抵抗だ」「ちえっ、戦争だぜ。野郎の殺し方を教えてやらあ」偵察隊の一人が日本兵に煙草と火を与えた。煙草を吸い始めた途端に、日本兵の頭部に腕が巻き付き、喉元が「一方の耳元から片方の耳元まで切り裂かれた」のだった。
*6月26日月曜日
8時38分、第三滑走路からP38で離陸し、ニューギニアの密林を越えてボランデイアヘという直線コースの針路をとる。天気良好。小屋の壁の一つに、絹地の日本国旗が三枚かかげてあった。日本軍兵士の死体から取ったものだという。その一枚は記念品(スーベニア)として10ポンド(33ドル)の値打があると、ある将校は説明した。日本軍将校の軍刀を所持する男は250ポンドなら譲ってもよいと言った。
●談たまたま捕虜のこと、
日本軍将兵の捕虜が少ないという点に及ぶ。「捕虜にしたければいくらでも捕虜にすることが出来る」と、将校の一人が答えた。「ところが、わが方の連中は捕虜をとりたがらないのだ」
「*****では2千人ぐらい捕虜にした。しかし、本部に引き立てられたのはたった100か200だった。
残りの連中にはちょっとした出来事があった。
もし戦友が飛行場に連れて行かれ、機関銃の乱射を受けたと聞いたら、投降を奨励することにはならんだろう」「あるいは両手を挙げて出て来たのに撃ち殺されたのではね」と、別の将校が調子を合わせる
*六月二十八日水曜日
第475飛行連隊の将校連と夕食、夜を共に過す。話題は今夜もまた、戦争や捕虜、記念品のことに及ぶ。わが将兵の態度に深い衝撃を覚えた。敵兵の死や勇気に対しても、また一般的な人間生活の品位に対しても、敬意を払うという心を持ち合わせておらぬ。…略奪したり、ある議論の最中に私は意見を述べた。
日本兵が何をしでかそうと、われわれがもし拷問を以て彼を死に至らしめれば、われわれは得るところが何一つ無いし、また文明の代表者と主張することさえ出来ないと。「ま、なかには奴らの歯をもぎとる兵もいますよ。しかし、大抵はまず奴らを殺してからそれをやっていますね」と、将校の一人が言い訳がましく言った。
*7月24日月曜日
…十分後、ビアク島のモクメル飛行場に着陸。…午後、クロード・スタップス少佐ら数人の将校とジープでモクメル西方の洞窟へ出掛けてみる。日本軍が最も頑強に堅守した拠点の一つだ。丘の斜面を降りて行くと、峠に差し掛る。そこには一人の日本軍将校と、10人か12人の日本軍兵士の死体が、切り刻まれた人体だけが見せるような身の毛もよだつ姿勢で四肢を伸ばしたまま、横たわっていた。
…頭蓋骨を覆う僅かな肉片だけが残っている。ある場所では一個の遺体に二つの首が並んでいるかと思えば、他の場所では遺体に首が無かった。
なかには四肢がバラバラになり、身体のかけらしか残っておらぬ死体もあった。そして同行の将校が言ったように、「歩兵はお得意の商売にとりかかったようだ」。つまり、戦利品として金歯を悉くもぎとったというのである。
洞窟群へたどり着くまでには山道を横切り、もう一つの丘を登らねばならぬ。山道の片側にある爆弾で出来た穴の縁を通り過ぎる。穴の底には5入か6入の日本兵の死体が横たわり、わが軍がその上から放り込んだトラック一台分の残飯や廃物で半ば埋もれていた。同胞が今日ほど恥ずかしかったことはない。
敵を殺す、これを理解できる。戦争の欠くべからざる要素だ。敵を殺戮する最も効果的ないかなる方法も正当化されるだろう。しかし、わが同朋が拷問によって敵を殺害し、敵の遺体を爆弾で出来た穴に投げ込んだ上、残飯や廃物を放り込むところまで堕落するとは実に胸糞が悪くなる。
*8月6日日曜日
明りのいくらか貧弱なテント内で空箱や簡易ベッドの端に腰掛けたまま、日本人捕虜の問題を語し合った。私は自分の考えを述べた原文は、だが誤植だと思われるので。
でもよい相手を捕虜に出来るいつ如何なる時でも投降を受け容れないのは間違いだ、投降を受け入れればわれわれの進撃は一段と速くなり、多くのアメリカ人の生命が救われるであろう。
とにかく投降した場合は必ず殺されると考えるようになれば、彼らは当然踏みとどまり、最後の一兵まで戦い抜くだろう-そして機会があるごとに捕虜にしたアメリカ軍将校を殺すであろう、と。
大多数の将校は私の意見に同意したが(さほど熱烈に同意したわけではないが)、しかし、わが方の歩兵部隊はそのように考えてはおらぬようだと言った。「たとえば第42連隊だ。連中は捕虜を取らないことにしている。兵どもはそれを自慢にしているのだ」
「将校連は尋問するために捕虜を欲しがる。ところが、捕虜1名に付きシドニーヘ2週間の休暇を与えるというお触れを出さない限り、捕虜が一人も手に入らない。お触れが出た途端に持て余すほどの捕虜が手に入るのだ」「しかし、いざ休暇の懸賞を取り消すと、捕虜は一人も入って来なくなる。兵どもはただ、一人もつかまらなかったよとうそぶくだけなんだ」
戦後GHQの統制で占領軍に不利な記事は全て封印してきたことが米軍の占領政策を成功に導いている。
しかし日本人は戦争の真実を知らなければならない。
欧米の人種差別がいかにひどかったか。
そして日本人捕虜を犬畜生のごとく扱った事実を知らなければならない
そこから人間の本質が見えてくる。
リンドバーグの衝撃証言から
米兵の日本兵に対する非人道的扱いを告発した資料は少ない。何故かと言えば戦後GHQが情報統制をし、占領軍に不利になる記事は公開させなかったのである。
例えば米兵の犯罪行為を記事にした新聞は発行停止にし、ラジオ放送も統制した。また「真相箱」と言う番組で「悪しき国日本、日本軍は残虐」であるを基本に国民を洗脳し、徹底して占領軍の不利になる話を握りつぶしたのである。
しかしここに現在、絶版となっているチヤールズ・A・リンドバーグ著の『リンドバーグ第二次大戦日記(下)』(新潮社、1974年)がある。
チャールズ・A・リンドバーグ(1902~74年)
アメリカの飛行家。1927年5月、二ューヨーク~パリ間を愛機「セントルイスの魂」号で33時間30分かけて飛び、世界初の大西洋横断単独無着陸飛行に成功した。
日本の敗色が濃厚になった44(昭和19)年4月から9月までの南太平洋における日米戦について書かれた「戦時下の南太平洋にて」の章は、日本兵に対する米豪軍の目を覆うような残酷なやり方が赤裸々に記述されているので紹介する。
リンドバーグ第二次大戦日記・抜粋◇下巻「戦時下の南太平洋にて」(1944年4月~1944年9月)
から
*******************************************************
*6月21日水曜日
日本兵士殺害に関する将軍の話一 数週間前のことだが、最前線のさる技術科軍曹が、もう2年以上も太平洋地域で、戦闘部隊と行を共にしながら、ついぞ実戦に参加した経験がなく、帰国する前にせめて一人だけでも日本兵を殺したいと不平を漏らした。
軍曹は敵の地域内に進入する偵察任務に誘われた。軍曹は撃つべき日本兵を見つけられなかったが、偵察隊は一人の日本兵を捕虜にした。…「しかし、俺はこいつを殺せないよ!やつは捕虜なんだ。無抵抗だ」「ちえっ、戦争だぜ。野郎の殺し方を教えてやらあ」偵察隊の一人が日本兵に煙草と火を与えた。煙草を吸い始めた途端に、日本兵の頭部に腕が巻き付き、喉元が「一方の耳元から片方の耳元まで切り裂かれた」のだった。
*6月26日月曜日
8時38分、第三滑走路からP38で離陸し、ニューギニアの密林を越えてボランデイアヘという直線コースの針路をとる。天気良好。小屋の壁の一つに、絹地の日本国旗が三枚かかげてあった。日本軍兵士の死体から取ったものだという。その一枚は記念品(スーベニア)として10ポンド(33ドル)の値打があると、ある将校は説明した。日本軍将校の軍刀を所持する男は250ポンドなら譲ってもよいと言った。
●談たまたま捕虜のこと、
日本軍将兵の捕虜が少ないという点に及ぶ。「捕虜にしたければいくらでも捕虜にすることが出来る」と、将校の一人が答えた。「ところが、わが方の連中は捕虜をとりたがらないのだ」
「*****では2千人ぐらい捕虜にした。しかし、本部に引き立てられたのはたった100か200だった。
残りの連中にはちょっとした出来事があった。
もし戦友が飛行場に連れて行かれ、機関銃の乱射を受けたと聞いたら、投降を奨励することにはならんだろう」「あるいは両手を挙げて出て来たのに撃ち殺されたのではね」と、別の将校が調子を合わせる
*六月二十八日水曜日
第475飛行連隊の将校連と夕食、夜を共に過す。話題は今夜もまた、戦争や捕虜、記念品のことに及ぶ。わが将兵の態度に深い衝撃を覚えた。敵兵の死や勇気に対しても、また一般的な人間生活の品位に対しても、敬意を払うという心を持ち合わせておらぬ。…略奪したり、ある議論の最中に私は意見を述べた。
日本兵が何をしでかそうと、われわれがもし拷問を以て彼を死に至らしめれば、われわれは得るところが何一つ無いし、また文明の代表者と主張することさえ出来ないと。「ま、なかには奴らの歯をもぎとる兵もいますよ。しかし、大抵はまず奴らを殺してからそれをやっていますね」と、将校の一人が言い訳がましく言った。
*7月24日月曜日
…十分後、ビアク島のモクメル飛行場に着陸。…午後、クロード・スタップス少佐ら数人の将校とジープでモクメル西方の洞窟へ出掛けてみる。日本軍が最も頑強に堅守した拠点の一つだ。丘の斜面を降りて行くと、峠に差し掛る。そこには一人の日本軍将校と、10人か12人の日本軍兵士の死体が、切り刻まれた人体だけが見せるような身の毛もよだつ姿勢で四肢を伸ばしたまま、横たわっていた。
…頭蓋骨を覆う僅かな肉片だけが残っている。ある場所では一個の遺体に二つの首が並んでいるかと思えば、他の場所では遺体に首が無かった。
なかには四肢がバラバラになり、身体のかけらしか残っておらぬ死体もあった。そして同行の将校が言ったように、「歩兵はお得意の商売にとりかかったようだ」。つまり、戦利品として金歯を悉くもぎとったというのである。
洞窟群へたどり着くまでには山道を横切り、もう一つの丘を登らねばならぬ。山道の片側にある爆弾で出来た穴の縁を通り過ぎる。穴の底には5入か6入の日本兵の死体が横たわり、わが軍がその上から放り込んだトラック一台分の残飯や廃物で半ば埋もれていた。同胞が今日ほど恥ずかしかったことはない。
敵を殺す、これを理解できる。戦争の欠くべからざる要素だ。敵を殺戮する最も効果的ないかなる方法も正当化されるだろう。しかし、わが同朋が拷問によって敵を殺害し、敵の遺体を爆弾で出来た穴に投げ込んだ上、残飯や廃物を放り込むところまで堕落するとは実に胸糞が悪くなる。
*8月6日日曜日
明りのいくらか貧弱なテント内で空箱や簡易ベッドの端に腰掛けたまま、日本人捕虜の問題を語し合った。私は自分の考えを述べた原文は、だが誤植だと思われるので。
でもよい相手を捕虜に出来るいつ如何なる時でも投降を受け容れないのは間違いだ、投降を受け入れればわれわれの進撃は一段と速くなり、多くのアメリカ人の生命が救われるであろう。
とにかく投降した場合は必ず殺されると考えるようになれば、彼らは当然踏みとどまり、最後の一兵まで戦い抜くだろう-そして機会があるごとに捕虜にしたアメリカ軍将校を殺すであろう、と。
大多数の将校は私の意見に同意したが(さほど熱烈に同意したわけではないが)、しかし、わが方の歩兵部隊はそのように考えてはおらぬようだと言った。「たとえば第42連隊だ。連中は捕虜を取らないことにしている。兵どもはそれを自慢にしているのだ」
「将校連は尋問するために捕虜を欲しがる。ところが、捕虜1名に付きシドニーヘ2週間の休暇を与えるというお触れを出さない限り、捕虜が一人も手に入らない。お触れが出た途端に持て余すほどの捕虜が手に入るのだ」「しかし、いざ休暇の懸賞を取り消すと、捕虜は一人も入って来なくなる。兵どもはただ、一人もつかまらなかったよとうそぶくだけなんだ」
戦後GHQの統制で占領軍に不利な記事は全て封印してきたことが米軍の占領政策を成功に導いている。
しかし日本人は戦争の真実を知らなければならない。
欧米の人種差別がいかにひどかったか。
そして日本人捕虜を犬畜生のごとく扱った事実を知らなければならない
そこから人間の本質が見えてくる。
戦争裁判 マカッサル法廷
マカッサル法廷
「戦犯裁判」との戦い
「員数揃え」死刑判決の疑念
「日本の名誉を守り従容と逝った義士を想う」
栗栖弘臣(元統合幕僚合議議長)
戦犯の弁護と言うと、まるで他人事のようによそよそしく聞こえるが、私の場合は、自分自身が戦犯
の中に身を置いた時、裁判の弁護に当たった時、および刑の執行に立ち合う時までの連続した経験であるから、むしろ戦犯と共に暮らしたと言うはうがピンとくる。現在資料も持たず記憶も定かでないが、求めに応じて多少思い出すことを書くことにする。
■キャンプ内で裁判の打ち合わせ
終戦後しばらくボルネオ島のバリックパパンで捕虜生活(ホワイト・キャンプ)をしていたが、一月も経たないうちに指名手配で戦犯に指定され、いわゆるブラック・キャンプに送り込まれた。
通常だと将校は労働を見除されるはずだが、戦犯の場合は将官以外はすべて労働に駆り出され。
ただ皆一緒のタール紙製テント内生活だから、どの人とも自由に話が出来る。そこで四名の大佐が相談して私に、各地の戦犯容疑を調べて対策を練るように指示された。そのため私は労働を休んで、場所ごと、事件ごとの関係者別にキャンプに残ってもらい、それぞれ見体的に思い当たることを話題にして、私が事件関係答弁の調整に当たることとした。それが出来たのはまだ取り締まりがそれほどやかましくなかったからである。
当時は、ブラック・キャンプ内に百数十名いたと思う。毎日見体的な状況を聴いて、それぞれ矛盾の起きないよう答弁の内容を修正したり、証拠となりそうな人や物を思い出させたりしたが、中に主計大尉で事件の場所に居合わせなかったと訴える人がいた。もし居たとすると、階級から見てその場の一番の責任者にされそうである。何人から聴いてもそこに居なかったのは本当のようだったので、この事実を取り調べ側に如何にして認識させるかに頭を絞った。
そこでいろいろ考えた末、何人かの者に、彼とその日は別の場所で仕事をしていたとか、本人の顔はよく知っているがその場では見かけなかったとか、直属の部下には当日の仕事内容を説明させるとかと答弁の分担を決めた。
当時取り調べはまだ本格的ではないが、大雑把な地域分け、事件分けのため行われていた。しばらくしてそのグループも各個に呼び出されたが、この準備が成功して当の大尉が関係していないことが認められたと分かった時は、そうなってしかるべきだとは言え、一方的な勝者の言い分に打ち勝ったことに胸を撫で下ろしたものだった。
そのうち、何週間も日中キャンプの一角で何人もが集まって相談していることが警戒側に分かったと見え、大佐の人々の警告が出された。危ないから毎日は止めようということになり、事後は隔日とか夜とかに限定して実施し、一応全部のケースの相談を終了したように思う。この結果が裁判上どのように現れたかは私自身が別の場所に移されたため知ることは出来なかったし、従って裁判途中にアドバイスすることも出来ずに残念だった。
その後は私も労働に出て、ジャングルを切り開いて遺跡を造り、木村を搬出、製材する作業をやらされた。監視の軍曹の中に酷いのがいて、私も殴られて耳から血を流したものだ。はなはだ少ない食糧、度を越す労働、厳しい督促に皆あいつを殺したいと話し合ったが、堪えかねて脱走した者が三人いた。しかし二~二日後、一名は射殺され二名が逮捕されて帰ってきた。
■戦犯容疑で危うく死刑へ
昭和二十年暮頃だと思うが、バンジエルマシンに移され、本格的取り調べが始まった。ここでは人数も四十名程度だったし、容疑内容も見当がついたため、今度はより綿密な相互調整を始めた。
事件は私が関わる、というか責任を持つべきものが、海軍大佐をはじめ約二十名で一番多く、他にもいくつかの事件があり、中には占領時代を通じた問題もあった。ここでも当初約一ヵ月は勝者側の管理が粗雑だったため、幸いに十分打ち合わせの時間が取れた。私の関与した事件は、こちら側の弁明に齟齬が生じれば全員死刑のおそれがあるため、助かる方法があるとすれば全貌を知る私一人が中心となることだけだ。
そこで、誰が何時誰と組んで何処へ行った、証拠物件は何々で何処で見付けた(この中には小型船舶もあり、取り調べ官は現地に行った由だが、事件から一年以上も過ぎているのだから存否は確認できなかったと悔しがっていた)等と事件を再構築した上、関係者に最終責任をすべて私に被せるよう何度も確認し合って、何処からつつかれても矛盾が起きない点に苦心した。私一人なら何とか太刀打ち出来そうだと熟慮した末のことである。
そのうち私が画策していることがばれて、ある日取り調べと共に突如隔離され、離れた刑務所の独房に放り込まれた。日本人はほかにおらずもっばら現地民ばかりだった。着るものは破れた半ズボンと半袖シャツだけで毛布が一枚支給されたのを被って寝るのだが、夜、南京虫の襲撃を受けてなかなか寝られない。食事は一日二食。それもブリキ製の盆のような容器に米飯少しに汁をかけてあり、指で食べるのである。日中もわずかに微光が入るのみで薄暗い。一日がこんなに長いものとは思わなかった。唯、日に一回数分間、前の庭に出て便器を洗い身体に水をかけることが許された。
刑務所から遠くで銃の発射音が時々聞こえていたが、一月近く経ったある真夜中、銃声しきりの中で刑務所が襲撃放火された。火は瞬く間に全部の建物に拡がり、私の独房にも追って来て独房の扉が焼け出した。熟いので隅にあるバケツの水を少しずつ身体に掛けつつ観念していると、前の庭を一群の人々が「キャプテン! キャプテン!」と叫びながら走って行く。私の居るのを探知した独立派の連中が救出に来たのだった。
私は瞬時迷った。返事をすればその場からは脱出できるだろう。しかし独立派の狙いは、戦犯キャンプや刑務所内の生活の連続だから全く分からず、成功の可能性(その後、独立派の人々は逮捕されて死刑になった者が多いし、後日、私自身別の場所で独立派の王族の若者達の死刑囚と知り合い、死刑執行に立ち合うことになった)へ躊躇もあって決心がつかない。
彼等の声が遠くに消えた時、オランダ兵三名が回ってきて、私を見つけて独房から引き出し、背中と両脇に銃日を押し付けて焼跡を連行する。この時は、誰もいないこの場所で処刑されるとばかり思い詰めたためか、焼け残りや土の上を裸足で歩く熱さや痛さを覚えていない。
それから郊外の戦犯キャンプに連れ戻されたが、皆とは離れた警戒兵の控室で、それまで別々の場所に監禁されていた上司や戦友四名と、鎖につながれる生活に入った。日が暮れると手首に鉄輪をはめ、これに鎖を通して数珠つなぎの格好。一人が便所に行きたいというと、銃を持った警戒兵に追われてゾロゾロと一網打尽の姿でついて行く。
鎖が短く互いの間隔が取れないので、横になる時は上を向いてくっつく形で寝るほかなかった。
衛兵所の横で海軍中尉が殴られて虐殺される絶叫を聞き、ある通訳が、猛烈に痛い毒を持つ大蟻が群がった樹の枝を身体中に押しつけられて七転八倒して悲鳴をあげるのも耳にした。敗者の絶望感と屈辱感に苛まれる毎日であった。
この生活も約一月で終わり、今度は急造の野外独房に分散された。広さ約一坪、その半分が板敷高く床は土のまま、板囲いの継目はすべて竹で日隠ししてあって外界は見えない。ただ野外だから昼は明るい。初めは便器も無く苦しんだが、四日程してバケツが一個入った。この独房は五~六メートル間隔で五個あったが、常時全部がふさがっていたかどうかは分からない。
やがてその中で自殺者が出た。この間にも取り調べは続く。私は先の打ち合わせに従って、関係者全員の役割と行動内容の概要を説明し、自己の全権限で実行したのだからもし違法があるなら私の責任だとして、あらゆる訊問に出来る限りの答弁をした。実は、敗戦の虚脱、悔しさを紛らわす手段として、何としてでも相手に一泡吹かせ、一種の逆襲をしてやろうと思い込んでいたのである。
取り調べが進み、処刑の場所が問題となった。私は自分の全責任だと言い切った手前、どうしてもその場所を探さなければならぬ羽目となって、某日取り調べ官や警戒兵と同行、場所探しに出かけた。この時私の誤算だったのは、広い場所ゆえ到底分かるまいから煙に巻けると考えたことだ。
探す振りをして灌木の間をあちこち引っ張り回したところ、思いがけぬ場所で壕を埋めた形がはっき
り浮き上がった場所に逢着した。あれから一年も経過し長い雨季もあったのに、これはど明瞭に痕跡が残っているとは予想外だった。そこを警戒兵達が確かめ、間違いないと分かるとその日はおしまいになったが、翌日、今度は大佐以下主だった士官三~四名と一緒に発掘させられた。
数十名の遺体を手で堀り出すわけだが、上からは銃床で叩かれ指は人肉まみれ、屍臭が穴に満ち座る余地さえなく、暑熱の中を午前、午後の苦しい作業だった。巻き添えを食ったこれらの方々には、事件関係者だとはいえ大変お気の毒だった。
しかしこのことがあって、どうしてもこれらの人々を起訴させてはならぬこの私の決意はますます固まった。その後の取り調べに対してはこちらから反撃して、証拠調べを要求するやら、相手の主張の根拠を質すやらと及ばずながらも戦いの連続であった。
昭和二十三年初めだったと思うが、関係者全員不起訴と知らされ、してやったりと内心快哉を叫んだことだった。
その際私に対して取り調べ官は、お前が悪いことをやったのは分かっているが、どうしても証拠が挙げられない、と述べたのが印象に残る。その頃までには他の事件が次々と裁判に移され、無念にも死刑の宣告を受けて別の個所に収容されている人が数名いた。私は独房から直接移送されたが、途中この人々と数十メートル離れてすれちがった。引き揚げる者と死を待つ者との目と目の、ばんこく万斛(ばんこく)の思いを秘めた別れに暗然としたことを、いまさらのように思い出す。
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「戦犯裁判」との戦い
「員数揃え」死刑判決の疑念
「日本の名誉を守り従容と逝った義士を想う」
栗栖弘臣(元統合幕僚合議議長)
戦犯の弁護と言うと、まるで他人事のようによそよそしく聞こえるが、私の場合は、自分自身が戦犯
の中に身を置いた時、裁判の弁護に当たった時、および刑の執行に立ち合う時までの連続した経験であるから、むしろ戦犯と共に暮らしたと言うはうがピンとくる。現在資料も持たず記憶も定かでないが、求めに応じて多少思い出すことを書くことにする。
■キャンプ内で裁判の打ち合わせ
終戦後しばらくボルネオ島のバリックパパンで捕虜生活(ホワイト・キャンプ)をしていたが、一月も経たないうちに指名手配で戦犯に指定され、いわゆるブラック・キャンプに送り込まれた。
通常だと将校は労働を見除されるはずだが、戦犯の場合は将官以外はすべて労働に駆り出され。
ただ皆一緒のタール紙製テント内生活だから、どの人とも自由に話が出来る。そこで四名の大佐が相談して私に、各地の戦犯容疑を調べて対策を練るように指示された。そのため私は労働を休んで、場所ごと、事件ごとの関係者別にキャンプに残ってもらい、それぞれ見体的に思い当たることを話題にして、私が事件関係答弁の調整に当たることとした。それが出来たのはまだ取り締まりがそれほどやかましくなかったからである。
当時は、ブラック・キャンプ内に百数十名いたと思う。毎日見体的な状況を聴いて、それぞれ矛盾の起きないよう答弁の内容を修正したり、証拠となりそうな人や物を思い出させたりしたが、中に主計大尉で事件の場所に居合わせなかったと訴える人がいた。もし居たとすると、階級から見てその場の一番の責任者にされそうである。何人から聴いてもそこに居なかったのは本当のようだったので、この事実を取り調べ側に如何にして認識させるかに頭を絞った。
そこでいろいろ考えた末、何人かの者に、彼とその日は別の場所で仕事をしていたとか、本人の顔はよく知っているがその場では見かけなかったとか、直属の部下には当日の仕事内容を説明させるとかと答弁の分担を決めた。
当時取り調べはまだ本格的ではないが、大雑把な地域分け、事件分けのため行われていた。しばらくしてそのグループも各個に呼び出されたが、この準備が成功して当の大尉が関係していないことが認められたと分かった時は、そうなってしかるべきだとは言え、一方的な勝者の言い分に打ち勝ったことに胸を撫で下ろしたものだった。
そのうち、何週間も日中キャンプの一角で何人もが集まって相談していることが警戒側に分かったと見え、大佐の人々の警告が出された。危ないから毎日は止めようということになり、事後は隔日とか夜とかに限定して実施し、一応全部のケースの相談を終了したように思う。この結果が裁判上どのように現れたかは私自身が別の場所に移されたため知ることは出来なかったし、従って裁判途中にアドバイスすることも出来ずに残念だった。
その後は私も労働に出て、ジャングルを切り開いて遺跡を造り、木村を搬出、製材する作業をやらされた。監視の軍曹の中に酷いのがいて、私も殴られて耳から血を流したものだ。はなはだ少ない食糧、度を越す労働、厳しい督促に皆あいつを殺したいと話し合ったが、堪えかねて脱走した者が三人いた。しかし二~二日後、一名は射殺され二名が逮捕されて帰ってきた。
■戦犯容疑で危うく死刑へ
昭和二十年暮頃だと思うが、バンジエルマシンに移され、本格的取り調べが始まった。ここでは人数も四十名程度だったし、容疑内容も見当がついたため、今度はより綿密な相互調整を始めた。
事件は私が関わる、というか責任を持つべきものが、海軍大佐をはじめ約二十名で一番多く、他にもいくつかの事件があり、中には占領時代を通じた問題もあった。ここでも当初約一ヵ月は勝者側の管理が粗雑だったため、幸いに十分打ち合わせの時間が取れた。私の関与した事件は、こちら側の弁明に齟齬が生じれば全員死刑のおそれがあるため、助かる方法があるとすれば全貌を知る私一人が中心となることだけだ。
そこで、誰が何時誰と組んで何処へ行った、証拠物件は何々で何処で見付けた(この中には小型船舶もあり、取り調べ官は現地に行った由だが、事件から一年以上も過ぎているのだから存否は確認できなかったと悔しがっていた)等と事件を再構築した上、関係者に最終責任をすべて私に被せるよう何度も確認し合って、何処からつつかれても矛盾が起きない点に苦心した。私一人なら何とか太刀打ち出来そうだと熟慮した末のことである。
そのうち私が画策していることがばれて、ある日取り調べと共に突如隔離され、離れた刑務所の独房に放り込まれた。日本人はほかにおらずもっばら現地民ばかりだった。着るものは破れた半ズボンと半袖シャツだけで毛布が一枚支給されたのを被って寝るのだが、夜、南京虫の襲撃を受けてなかなか寝られない。食事は一日二食。それもブリキ製の盆のような容器に米飯少しに汁をかけてあり、指で食べるのである。日中もわずかに微光が入るのみで薄暗い。一日がこんなに長いものとは思わなかった。唯、日に一回数分間、前の庭に出て便器を洗い身体に水をかけることが許された。
刑務所から遠くで銃の発射音が時々聞こえていたが、一月近く経ったある真夜中、銃声しきりの中で刑務所が襲撃放火された。火は瞬く間に全部の建物に拡がり、私の独房にも追って来て独房の扉が焼け出した。熟いので隅にあるバケツの水を少しずつ身体に掛けつつ観念していると、前の庭を一群の人々が「キャプテン! キャプテン!」と叫びながら走って行く。私の居るのを探知した独立派の連中が救出に来たのだった。
私は瞬時迷った。返事をすればその場からは脱出できるだろう。しかし独立派の狙いは、戦犯キャンプや刑務所内の生活の連続だから全く分からず、成功の可能性(その後、独立派の人々は逮捕されて死刑になった者が多いし、後日、私自身別の場所で独立派の王族の若者達の死刑囚と知り合い、死刑執行に立ち合うことになった)へ躊躇もあって決心がつかない。
彼等の声が遠くに消えた時、オランダ兵三名が回ってきて、私を見つけて独房から引き出し、背中と両脇に銃日を押し付けて焼跡を連行する。この時は、誰もいないこの場所で処刑されるとばかり思い詰めたためか、焼け残りや土の上を裸足で歩く熱さや痛さを覚えていない。
それから郊外の戦犯キャンプに連れ戻されたが、皆とは離れた警戒兵の控室で、それまで別々の場所に監禁されていた上司や戦友四名と、鎖につながれる生活に入った。日が暮れると手首に鉄輪をはめ、これに鎖を通して数珠つなぎの格好。一人が便所に行きたいというと、銃を持った警戒兵に追われてゾロゾロと一網打尽の姿でついて行く。
鎖が短く互いの間隔が取れないので、横になる時は上を向いてくっつく形で寝るほかなかった。
衛兵所の横で海軍中尉が殴られて虐殺される絶叫を聞き、ある通訳が、猛烈に痛い毒を持つ大蟻が群がった樹の枝を身体中に押しつけられて七転八倒して悲鳴をあげるのも耳にした。敗者の絶望感と屈辱感に苛まれる毎日であった。
この生活も約一月で終わり、今度は急造の野外独房に分散された。広さ約一坪、その半分が板敷高く床は土のまま、板囲いの継目はすべて竹で日隠ししてあって外界は見えない。ただ野外だから昼は明るい。初めは便器も無く苦しんだが、四日程してバケツが一個入った。この独房は五~六メートル間隔で五個あったが、常時全部がふさがっていたかどうかは分からない。
やがてその中で自殺者が出た。この間にも取り調べは続く。私は先の打ち合わせに従って、関係者全員の役割と行動内容の概要を説明し、自己の全権限で実行したのだからもし違法があるなら私の責任だとして、あらゆる訊問に出来る限りの答弁をした。実は、敗戦の虚脱、悔しさを紛らわす手段として、何としてでも相手に一泡吹かせ、一種の逆襲をしてやろうと思い込んでいたのである。
取り調べが進み、処刑の場所が問題となった。私は自分の全責任だと言い切った手前、どうしてもその場所を探さなければならぬ羽目となって、某日取り調べ官や警戒兵と同行、場所探しに出かけた。この時私の誤算だったのは、広い場所ゆえ到底分かるまいから煙に巻けると考えたことだ。
探す振りをして灌木の間をあちこち引っ張り回したところ、思いがけぬ場所で壕を埋めた形がはっき
り浮き上がった場所に逢着した。あれから一年も経過し長い雨季もあったのに、これはど明瞭に痕跡が残っているとは予想外だった。そこを警戒兵達が確かめ、間違いないと分かるとその日はおしまいになったが、翌日、今度は大佐以下主だった士官三~四名と一緒に発掘させられた。
数十名の遺体を手で堀り出すわけだが、上からは銃床で叩かれ指は人肉まみれ、屍臭が穴に満ち座る余地さえなく、暑熱の中を午前、午後の苦しい作業だった。巻き添えを食ったこれらの方々には、事件関係者だとはいえ大変お気の毒だった。
しかしこのことがあって、どうしてもこれらの人々を起訴させてはならぬこの私の決意はますます固まった。その後の取り調べに対してはこちらから反撃して、証拠調べを要求するやら、相手の主張の根拠を質すやらと及ばずながらも戦いの連続であった。
昭和二十三年初めだったと思うが、関係者全員不起訴と知らされ、してやったりと内心快哉を叫んだことだった。
その際私に対して取り調べ官は、お前が悪いことをやったのは分かっているが、どうしても証拠が挙げられない、と述べたのが印象に残る。その頃までには他の事件が次々と裁判に移され、無念にも死刑の宣告を受けて別の個所に収容されている人が数名いた。私は独房から直接移送されたが、途中この人々と数十メートル離れてすれちがった。引き揚げる者と死を待つ者との目と目の、ばんこく万斛(ばんこく)の思いを秘めた別れに暗然としたことを、いまさらのように思い出す。
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戦争裁判 アンボン法廷 豪軍搭乗員不法処刑
アンボン法廷
豪軍搭乗員不法処刑
命令実行者のみ処罰された
「″上官の命令は天皇陛下の命令″が裁かれた」
禾(ノギ)晴道(元海軍大尉)
■どんな事件だったのか
一九四四年三月頃、ニューギニア島西方のアンボン島と豪州西北部の豪軍基地ポートダウィンに近い中間海域のタンニバル諸島で、豪空軍のハドソン機が日本軍に撃墜され、スコット少佐以下四名の搭乗員が捕えられた。彼らはすきをみて逃げたが、現地陸軍憲兵隊により五月頃再度捕まり、海軍派遺隊に引き渡された。重要な情報調査のため、第四南遣艦隊司令部に送られ、調査終了後ガララ捕虜収容所に拘禁された。そして同年八月、第四南遣司令部の命令で、不法に処刑された事件である。
日本の敗戦後、この処刑が戦争犯罪とされ、命令を受けて処刑を実施した片山日出雄海軍大尉ら三人が銃殺刑となった。筆者も米軍搭乗員捕虜を、片山たちと同じく、上官の命令で不法に殺害したので、マニラの米軍戦犯法廷で重労働三十年の刑を受けた。
それ故にこそ、この片山裁判の真相を明らかにし、将来の教訓としたいと思い、その裁判記録の要点をここに公表した。資料は公表を約束して、片山の弟に当たる片山輝男氏より提供を受けた。
故片山大尉と筆者とは、太平洋戦争開戦と同時に日本海軍が募集した、海軍予備生兵科一期生の同期であり、アンボン島では約六ヵ月、配置は異なっていたが、一緒にいた戦友でもあった。
BC級豪軍戦犯裁判の公刊記録の要点事件名 アンボン島豪軍捕虜殺害軍件 被告人(三名)
第四南遺司令部 海軍大尉 片山日出雄
第四南遺司令部 海軍中尉 高橋豊治
第二十警備隊 海軍中尉 植村重郎
弁護人
豪軍キヤンベル大尉
日本陸軍法務官鍵山大尉
判事
裁判長 豪軍コステロ中佐
判事 豪軍士官二名
検察官(検事)豪軍ウイリアム大尉
■起訴理由と片山被告らの弁明
「被告たちは一九四四年(昭和十九)八月15日、アンボン島に於て、スコット少佐、キング軍曹、
ウォーレス軍曹、ライト軍曹の四名の豪軍捕虜を殺害した。
一、一九四四年三月ニ十七日頃、スコット少佐以下四名の豪空軍ハドソン機搭乗員が撃墜され、五月末頃捕虜となった。七月頃、非武装の一般住民を攻撃したとの容疑により、池内止清通訳により訊問された。捕虜たちはこのことで軍法会議(日本軍軍事裁判)で裁かれなかった。
二、一九四四年八月十六日頃、片山日出推、高橋豊治、西田孝は、第四南遣艦隊司令部の先任参謀川崎松平大佐から四名の捕虜処刑を命ぜられる。片山は四名の捕虜が拘禁されているガララ捕虜収容所の収容所長(警戒隊長)である植村兵曹長(後中尉)に、この命令を電話で伝えた。
三、同年同月十六日頃四名の捕虜は、トラックで処刑場(近くの山林中)に連行され、そこで、片山
、高橋、西田と、植村兵曹長の部下であった吉崎先任下士官により斬首された」これに続き、検察官側から、各被告の軍件に関しての取り調べ陳述書も提出された。
本軍件の経過と内容は、前記の検察側の起訴理由の要点で指摘されている通りであり、各被告人の訊問調書(陳述書)と、第二十五根司令部側から豪軍側に提出された、各種回答書に基づいて書かれた内容である。
公判中において、片山日出雄は、証人として立ち、弁護人側の質問に次のように答えている。
その要点は次の通りである。
「私は彼等四名が非武装の住民を攻撃したことを暗号長として知った。そして当司令部の捕虜担当主務参謀である高崎中佐により、取り調べられたことを覚えている。
私は彼等捕虜が、一九四二年(昭和十七)に口本軍中央部から出され、その後南方総軍から発令された軍律(搭乗員に対する)と、国際法規をも犯した。そして各種情況から判断して、彼等はアンボンの海軍軍法会議で、死刑の宣告を受けたものと信じた。
私は命令を川崎大佐(先任参謀)から受けたが、その命令は司令長官山縣中将から出されたと思った。我々士官が処刑実行者として選ばれた理由は、日本武士道により、死者の名誉を重んじたものと考えた。……処刑した結果は川崎大佐に、正規(合法的)処刑が終了しましたと、報告した。
搭乗員の処刑命令は、川崎大佐から口頭で直接受け、川崎大佐を信頼していたので、処刑の理由は聞かなかった」と、あくまで彼等の追刊は正規の法手続きを経た処刑命令であったと確信していたことを述べている。
また、片山は裁判長の質問に答えて次のように述べている。
「私は、彼等捕虜が軍法会議にかけられたという直接的な認識は無かったが、彼等が何時も軍j事裁判が行われている建物(司令部近くの)に収容されて居り、高崎中佐(英国の有名大学に学んで英語が上手な男爵であった)が、日頃軍軍裁判が(多くは軍律裁判であった)行われた時、裁判長の役職を行って居り、その高崎中佐が、度々彼等捕虜に会うためにその建物に出入していたので、彼等捕虜は当然軍法会議にかけられたと信じた」と。
片山日出雄以外の二名の被告も、「処刑は正規の手続きを経た命令であると知らされ、当然そう信じている」と証言している。
また捕虜収容所の警戒隊長植村兵曹長(当時)が、警戒隊の先任下士官吉崎清里(後兵曹長)に対して次の如く命令したと、吉崎兵曹長の陳述書の中にある。
「私は上官の植村兵曹長から処刑命令を受けた時、彼等捕虜がいかなる罪で処刑されるのか、またこの処刑命令を誰れが下命したのかについて、植村に尋ねた。彼は。いかなる罪かは知らないが、艦隊司令部の命令であり、発令者が責任を負うのだから何も心配することはない、吉崎の行うことは命令を忠実に実行することだと言われたので、私は彼の命令を実行した(一人の捕虜を殺した)」と。
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豪軍搭乗員不法処刑
命令実行者のみ処罰された
「″上官の命令は天皇陛下の命令″が裁かれた」
禾(ノギ)晴道(元海軍大尉)
■どんな事件だったのか
一九四四年三月頃、ニューギニア島西方のアンボン島と豪州西北部の豪軍基地ポートダウィンに近い中間海域のタンニバル諸島で、豪空軍のハドソン機が日本軍に撃墜され、スコット少佐以下四名の搭乗員が捕えられた。彼らはすきをみて逃げたが、現地陸軍憲兵隊により五月頃再度捕まり、海軍派遺隊に引き渡された。重要な情報調査のため、第四南遣艦隊司令部に送られ、調査終了後ガララ捕虜収容所に拘禁された。そして同年八月、第四南遣司令部の命令で、不法に処刑された事件である。
日本の敗戦後、この処刑が戦争犯罪とされ、命令を受けて処刑を実施した片山日出雄海軍大尉ら三人が銃殺刑となった。筆者も米軍搭乗員捕虜を、片山たちと同じく、上官の命令で不法に殺害したので、マニラの米軍戦犯法廷で重労働三十年の刑を受けた。
それ故にこそ、この片山裁判の真相を明らかにし、将来の教訓としたいと思い、その裁判記録の要点をここに公表した。資料は公表を約束して、片山の弟に当たる片山輝男氏より提供を受けた。
故片山大尉と筆者とは、太平洋戦争開戦と同時に日本海軍が募集した、海軍予備生兵科一期生の同期であり、アンボン島では約六ヵ月、配置は異なっていたが、一緒にいた戦友でもあった。
BC級豪軍戦犯裁判の公刊記録の要点事件名 アンボン島豪軍捕虜殺害軍件 被告人(三名)
第四南遺司令部 海軍大尉 片山日出雄
第四南遺司令部 海軍中尉 高橋豊治
第二十警備隊 海軍中尉 植村重郎
弁護人
豪軍キヤンベル大尉
日本陸軍法務官鍵山大尉
判事
裁判長 豪軍コステロ中佐
判事 豪軍士官二名
検察官(検事)豪軍ウイリアム大尉
■起訴理由と片山被告らの弁明
「被告たちは一九四四年(昭和十九)八月15日、アンボン島に於て、スコット少佐、キング軍曹、
ウォーレス軍曹、ライト軍曹の四名の豪軍捕虜を殺害した。
一、一九四四年三月ニ十七日頃、スコット少佐以下四名の豪空軍ハドソン機搭乗員が撃墜され、五月末頃捕虜となった。七月頃、非武装の一般住民を攻撃したとの容疑により、池内止清通訳により訊問された。捕虜たちはこのことで軍法会議(日本軍軍事裁判)で裁かれなかった。
二、一九四四年八月十六日頃、片山日出推、高橋豊治、西田孝は、第四南遣艦隊司令部の先任参謀川崎松平大佐から四名の捕虜処刑を命ぜられる。片山は四名の捕虜が拘禁されているガララ捕虜収容所の収容所長(警戒隊長)である植村兵曹長(後中尉)に、この命令を電話で伝えた。
三、同年同月十六日頃四名の捕虜は、トラックで処刑場(近くの山林中)に連行され、そこで、片山
、高橋、西田と、植村兵曹長の部下であった吉崎先任下士官により斬首された」これに続き、検察官側から、各被告の軍件に関しての取り調べ陳述書も提出された。
本軍件の経過と内容は、前記の検察側の起訴理由の要点で指摘されている通りであり、各被告人の訊問調書(陳述書)と、第二十五根司令部側から豪軍側に提出された、各種回答書に基づいて書かれた内容である。
公判中において、片山日出雄は、証人として立ち、弁護人側の質問に次のように答えている。
その要点は次の通りである。
「私は彼等四名が非武装の住民を攻撃したことを暗号長として知った。そして当司令部の捕虜担当主務参謀である高崎中佐により、取り調べられたことを覚えている。
私は彼等捕虜が、一九四二年(昭和十七)に口本軍中央部から出され、その後南方総軍から発令された軍律(搭乗員に対する)と、国際法規をも犯した。そして各種情況から判断して、彼等はアンボンの海軍軍法会議で、死刑の宣告を受けたものと信じた。
私は命令を川崎大佐(先任参謀)から受けたが、その命令は司令長官山縣中将から出されたと思った。我々士官が処刑実行者として選ばれた理由は、日本武士道により、死者の名誉を重んじたものと考えた。……処刑した結果は川崎大佐に、正規(合法的)処刑が終了しましたと、報告した。
搭乗員の処刑命令は、川崎大佐から口頭で直接受け、川崎大佐を信頼していたので、処刑の理由は聞かなかった」と、あくまで彼等の追刊は正規の法手続きを経た処刑命令であったと確信していたことを述べている。
また、片山は裁判長の質問に答えて次のように述べている。
「私は、彼等捕虜が軍法会議にかけられたという直接的な認識は無かったが、彼等が何時も軍j事裁判が行われている建物(司令部近くの)に収容されて居り、高崎中佐(英国の有名大学に学んで英語が上手な男爵であった)が、日頃軍軍裁判が(多くは軍律裁判であった)行われた時、裁判長の役職を行って居り、その高崎中佐が、度々彼等捕虜に会うためにその建物に出入していたので、彼等捕虜は当然軍法会議にかけられたと信じた」と。
片山日出雄以外の二名の被告も、「処刑は正規の手続きを経た命令であると知らされ、当然そう信じている」と証言している。
また捕虜収容所の警戒隊長植村兵曹長(当時)が、警戒隊の先任下士官吉崎清里(後兵曹長)に対して次の如く命令したと、吉崎兵曹長の陳述書の中にある。
「私は上官の植村兵曹長から処刑命令を受けた時、彼等捕虜がいかなる罪で処刑されるのか、またこの処刑命令を誰れが下命したのかについて、植村に尋ねた。彼は。いかなる罪かは知らないが、艦隊司令部の命令であり、発令者が責任を負うのだから何も心配することはない、吉崎の行うことは命令を忠実に実行することだと言われたので、私は彼の命令を実行した(一人の捕虜を殺した)」と。
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ラングーン刑務所の記録
ラングーン刑務所の記録
最後の日を語る
井手憲兵准尉手記
この手記は、小田国夫憲兵大尉、塩田源二中尉が、ラングーン刑務所で「明朝死刑執行」を言い渡されたその日の十数時間に交された会話の記録である。同房内に拘留されていた井手憲兵准尉が、できるかぎり記憶し、房内のトイレ用紙にメモして、持ち帰ったものとされている。
手記は『鉄輪』(昭和三十五年三月・鉄輪会本部発行)から引用した。
なお、手記中に出てくる清水中尉、橋口准尉、屋曹長、菅原准尉、渡辺准尉の各氏はシンガポール・オートラム刑務所で処刑されたという。
▼最後は笑って別れよう
二十号小田大尉、塩田、清水中尉、橋口准尉の四名、一号には宮本、岩城、蔡、鼻野、屋五名及び隣房十九号には渡辺、菅原(以上死刑の宣告を受け確定判決を持っておられる方)は、平常の連り十五時三十分頃夕食を終えて雑談しておられましたが、十五時四十五分頃英人軍曹(パワー)以下二名が来ました。「小田、塩田」と呼び開扉致しました。この時雨宮は坐わっておられましたが、小田「とうとう来たか」
塩田「とうとう来ましたね」と言いながら立ち上り「来い間お世話になりました。じゃ行って来ますから」
と、二人とも同胞の清水、橋口の二人に笑顔で訣別の握手をされ、廊下に出て一号室の五名の方々にも同様笑顔で、格子の間から出した五ツの手に各々握手、「じゃ皆様行ってきますよ」と二人は英人二名別に「グルカ」兵歩哨に護られて確定判決の言い渡しを受けに出て行かれました。十六時頃戻って来られまして、二人は廊下を歩きとから各房の人々に向かい、「永い間種々御世話になりました、今晩は最後だから御願いしますよ」と笑顔で挨拶して行かれ、小田大尉は十号、塩田中尉は十一号と、向かい合って房に各々移し収容されました。
(前記方々の外、三、四、五、六、七、へ、十三、十四、十五、十六、十七、十八、の各房には二名宛収容されて居ります)
二名の英人が帰って間もなく、塩田「小田大尉殿仲良く行きましょう」
小田「ああ、仲良く行きましょう。今日はなかなか親切だったね。何にもせずにここまで連行して来た。彼等にも、日本精神が少しわかったかな」
塩田「ハッハッハッハツ」
ちょっと間を置いて
小田「おぃ井出准尉ぃるかぃ」「ハイ」
小田「書いたものやその他の品は新山大尉に頼んであるから、清水中尉に言って新山大尉に渡してくれ、森元君はどこか」「ハイ十五号です」
小田「今晩は頼むぞ」「ハイ承知しました」
塩田「塩田の歌集やその他の品は橋日さんに言って菅野少佐殷に渡して下さい」「ハイ承知しました」
「森元君、所長が来たら、今晩は最後だから演芸をやらしてくれるように頼んでくれないか」「承知しました」
小田「皆さん今晩の我々の御通夜はよろしく頼みます」
塩田「お願いしますーっ」一同「承知しました」
十六・〇五、英人軍曹5名来り雨宮を連れて行きました(体重を計るため)。二人は並んで歩きながら顔を見合わせ、
小田「今日は待遇が良いなあ」
塩田中尉は微笑をもってこれに応えられておりました。約五分ほどして二人とも笑顔で帰ってき来、廊下に入ると両側の各房に向かって歩きながら
小田「今晩は頼むぞ」
塩田中尉、歩きながら皆に向かって、
塩田「お願いしますよ」
二人元の室に収容され、英人が帰って間もなく
井出「今どこに行かれたんですか」
小田「ちょっと体重を計りに行って未だ」
この時渡辺大尉(事務所勤務鉄九)来り、二人と何か話しておられましたが、聞きとれず。
小田「この中に酒でも一杯あったらなあ」
塩田「ハッハッハッハツ」と聞えました(飲食物の希望を聞きたるものの如し)
一六・二〇、印度人通訳「ワタン」面会に来り間もなく帰って行きました。ちょっと置いて、
小田「井出、今『ワタン』が来て、お国のためだから安心して逝って下さいと、言ったものだから、お前達から、そんなことを言われなくても俺達日本人にや、ちゃんと覚悟は出米ておるわい。大出鱈日な通訳ばかりしやがって、いらんことを言うなと言ってやったらすごすごと帰って行ったよ。
井出「そうですか」塩田中尉もハッハッハツと笑っておられました。
十六・二五、所長印度人(カーン)大尉来り二人に封して何か頼むこと、慾しいものがあれば出来る
だけのことのことはするから遠慮なく言ってくれと言いました。
小田「最後ですから今晩は一晩中話をすることを許可して下さい。そしてそれを衛兵司令に話しておいて下さい」
所長はこれを承諾した模様で、以下聞取れず。
菅野少佐および英人将校一来るも英人間もなく帰る。菅野註(二日前確定を聞き安心していただけに打撃も大きかった。今日は遅いし言渡は大丈夫であろうと室で話をしているところへ、堀口曹長来り今英人が五・六人行き糧秣庫からは煙草を二缶届けましたよ・・・とのことで早速事務室に行かんと門のところまで行くと、西独房から緊張した渡辺大尉の顔が見える。ついに最後の決心が来た、覚悟していたとはいえ、全身の力が抜け考える気力もなくなった。爾後は唯「ロボット」の如く唯機械的に動くだけだった。ただちに「西」に行き所長に言って面会の許可を得、八棟東独房に赴き別れの人々を案内す)
一六・三〇頃から清水、橋口、屋、蔡生川、鼻野、宮本、岩城、菅原、渡辺の順に面会、続いて千葉、井出、島田面会東独房より司令官以下二十名、八棟より原田少佐以下十名の方々面会さる。
所長はこれに立ち会い全部終わって一七・三〇頃帰りました。
(一同帰ってから所長にせめて十九時頃迄ここにいらして世話をさせてくれと頼みたるも入れられず
、最後の握手を交す小田大尉は涙の目(俺は悲しくて泣いているんじやないぞ嬉しいんだ元気でやってくれと格子から手を出して肩をたたいて居られたが)をはらい、「御陰で安心して逝かれます、ほんとに御世話になりました。前もって知らせてもらい覚悟は出来ているものの最後の準備が出来て落ち付けました。御元気で」と堅く堅く手を握られた。
此方は一言も発せられず唯頭を下げるばかりだった。塩田中尉の顔を見た瞬間言わんとすることが胸につかえ唯一言最後に笑って別れよう」と口に出したが、言ったとたん前が見えなくなる程涙が、どうとあふれ出して何時迄も堅く手を握り合って心ゆくばかり泣いたのであった)
しばらく二人とも無言のままに過しておられましたが、ややして、
「これで満足した。真実に満足した。皆に会ってこんな嬉しいことはない」と二人で話しておられました。
▼祖国再建を皆にたくして
小田「井出、所長に酒をくれと言ったら後からくれると言ったよ。今生の別れによかったよ」
井出「それはよかったですね」
一七・四〇、菅野少佐が二人のために挑の缶詰を一個宛持って来て分配しながら何か話しておりましたが、声が低く聞き取れず間もなく菅野少佐二人のために「コップ」および掃除道具を持ってきて渡されました。
塩田「菅野少佐殿、誠にすみませんね、マア宜しく頼みます」
菅野「何でもいることがあれば言って下さい。決して心配いりませんから」
この時渡辺大尉と山崎軍曹、紅茶を持ってきて分配しました。
塩田「最後までいろいろとすみませんね」
小田「最後までまったく親切にして頂いて有難うございます」と言っておられました。
ややあって三人に向かい。
(仏様の煙草です、喫って下さいと煙草を出され歩哨をまいて三人とも坐り込みいろいろ話す)
塩田「今までで今度が一番持遇がいいですよ、ハッハッハッ」
渡辺「なんでも不自由なものがあれば」
小田「便器を入れて下さい」
つづいて三人はいろいろ話をしておりましたが、聞きとれず。
一八・〇〇、間もなく三人一緒に帰って行く。
小田「後もう十二時間ですねハッハッハツ」
塩田「ハッハッハツ」
菅野少佐、二、三分して二人のため「ローソク」を持って来て間もなく帰る。
(蚊取線香を持参したら塩田『仏様にいいですね』『いやそんなつもりじゃないんだよ』塩田『ハッハッハツどうも有難う」「一晩ですから蚊にも食わしてやりましょう』)
井出准尉から二人に鉢植の”野草の花”を送る。
小田「所長は、酒を余り遅く呑ませると心臓麻痺を起すといけないから、一九・三〇頃持って来ると言
ったよ」
塩田「心配しているんですねハッハッハツ」
小田「ハッハッハツ」
菅野少佐、今度は「チョコレート」を持って来て帰られ、その後二人話をされておる模様なるも、聞き取れず。何か明朝の打合せの様でした。
一八・四〇
小田「(全員に)明朝は出発前五時に私達は遥拝を終えその後、君が代と海ゆかばを二回宛、万歳は室を出る直前にしますから、承知下さい。歌の音頭は森元君にとってもらいたいと思います」
各々「承知致しました、元気で行って下さい」
しばらく無言。
一八・五五、二人拍手を打って遥拝されている模様でした。
小田「じゃそろそろ演芸を始めてもらいましょうかね」
塩田「ああいいですね」
清水中尉、全員に向かって「オイ皆、今夜は最後だから二人のために自分の持っている芸を全部出して慰めてあげてくれよ」。各室より返事あり。
一九・〇〇、井出准尉の進行で演芸を始めました。二一・三〇頃、所長来り一時中止。所長は二人に対して「何か欲しいものはないか」。二人は酒の礼を述べ、
塩田「貴方より煙草をもらいたい」
所長これを承諾し、何か話せるも聞きとれず。
所長約十分にして帰り、続行。二一・五〇頃、橋口准尉、二人に対し左の工貢を贈る。
○雄々しかる皇国のつはものが、七生誓ひて今そいでたつ。
○南涯の秋の夜は風なくも、みたまの光、やみじ照さむ。
二二・二〇、全員手向けの演芸に応えて塩田中尉、日頃愛唱の二、二六の歌および自作の歌を歌われ、次いで辞世を朗読されました。
辞 世
あたたかき、友の情にうるほいて
心ゆたかに、我は逝くなり。
身はたとへ断頭台に消へんとも
永遠に生きなん真心もちて。
小田大尉、つづいて都々逸「すみたのほとり」
を唄い、詩吟撤去生気の歌自作の転進行を吟詠後
辞世を朗読せられました。
辞 世
皇国の悠久平和祈りつゝ
南の涯に我は散りゆく。
永遠に皇国の新世を
興されませと祈りつゝ逝く。
其の後で、内地に帰る者に、戦犯をよく理解して帰って祖国再建に邁進して下さい。連合国は将来の戦争を防止せんがために戦犯裁判をしているというが、現在戦犯として取り扱っている様な事実は独り戦敗国のみでなく戦勝国にでもあるはずですが、戦敗国のそれのみと所謂一方的に裁断している、つまり不公平です。不公平は不和、不和は争いの因です。大自然界に植物の間にすら生存競争はあります。
それは同様に人間の生存競争はつづき、戦争もこれと正比例して太陽の光と熟が無くなり宇宙に生物がすめなくなるまではつづく、これが人類の生活であります。過去もまた原始の昔より二十世紀の今日までの歴史は斯くして創られました。皆さまどうぞ祖国再建を御願い致します。
一同「御安心下さい。祖国再建を誓います」
二三・〇〇、二人が何か小声で話された後、
小田「余り遅くなるといけませんから、この辺で切り上げて下さい。どうも永い間有難う御座いました
」
塩田「どうも有難うございました」
清水、時間の方は心配ありませんから。おい皆どんどんやってあげてくれ、その代り遅くなったら拍
子だけは止めることにしよう。
小田「では屋君に子守唄を歌ってもらいましょう」
と二・〇〇までつづく。
塩田「蔡生川に和楽音頭と湖上の尺八」を注文。
小田「森元に遺骨を抱いてと蛍の光」を望まれる。
一同交々、御安心下さい、再建は必ずやります、と誓う。
二・一〇頃、
塩田「只今の皆様の熱誠な御言葉を聞き、私は安心して逝くことが出来ます。皆様の現在の気持を生して行けば、必ず日本再建は出来ることと信じます。かつて独逸が第一次(大戦)一年後、少年に対して将来の希望を聞きたるところ、その九十九パーセントがソ連を叩くと答えたそうです。これは「ゲルマン」民族であればこそです。ところがそれ以上の強国になって立上るものと信じます。
そして大和民族が再び此の悲劇を繰返さぬ様皆様に御願致します」
つづいて二・三〇頃より小田大尉が十一年間に亙る野戦勤務の想出話をされる。(中略)
二人しばらく無音。
小田「自分の死生観は常に『朝に紅顔ありて夕に白骨となる人の一生』これは今でも変らない」と言っ
ていました。
二・五〇分頃、
小田「歩哨の奴バケツに腰を下して居眠りしてやがる。ハッハッハツ」
塩田「もう神さんになるんだから安心しているんですね。ハッハッハツもうすぐ神様になる人だから、
まあ生きているうちから恵をかけてやって、居眠りしているのを監視してやるんですね」
清水「塩田さん腹の具合はどうですか」
塩田「もう大丈夫です。明日は火葬で完全消毒してから行くんですから、アメバーも大腸炎も大丈夫で
すよハッハッハツ、それに英軍は親切ですよ、
あの世に行くのに予防接種までしてくれるんですからね、ハッハッハツ……清水さん橋口さんにもうす
こし碁を錬ってやって下さい、ハッハツ」
橋口「大丈夫、大丈夫、自分が行くまでには強くなって行くから」
塩田「将棋はどうかね? ハッハッハツ」
岩城「将棋は自分が一番」
塩田「弱いのですか、ハッハッハツ」
一同「ハッハッハッハツ」
蔡「塩田さん一度聞こう聞こうと思って忘れていたことがあるんだがね、ハッハッハツ」
塩田「何かね?」
蔡「ちょっと言い難いのだがね、ハッハッハツ、言おうかね、あんたの妹さんのことだよ」
塩田「あゝ妹かね、あれは未だ小さいから」
蔡「ハッハッハツ、小さいから可愛いですよ」
▼君が代と海ゆかばに送られて
三・〇五頃から、小田大尉が内地へ帰る皆さんへといって、自分の性格と経験から割った処世観を話されました。
不言実行、陰徳○虚これは度を過ぎ明朗性を欠く様ではいかん。私の場合は、明朗性を欠いた様に恩われます。家庭生活、上下主従の関係面の生活においても愛は不可欠なり。任務仕事に対しては不言実行、これを天職と考え全力を傾注すること。下あるいは従を持ちたい。上あるいは主の場合は偏愛所謂片寄った差別のある愛情は、最も戒むこと等、以上を話されました。この話の終わる
五分前、四・〇〇を報ず。
四・一〇頃から小田大尉、井出、森元を相手に広東時代の想出を約十分程され一寸間、四・二〇頃、小田「森元、煙草屋の娘を一つ」 と所望。終わると自分で今から小学校卒業式の歌を歌うからな、と言うて歌われました。つづいて、塩田「蔡生川さん、御得意の唄を一つ頼みます」 蔡生川曹長、注文に応えて「嗚呼揚子江」「白衣の春雨」を唄う。
小田「今日言渡を受けて帰る途中エスゲー(印度人刑務所通訳)にあって永い間有難うと言ったら、お
国のためだから安心して逝って下さいと、逆に激励されたよ(中略)」
やや無音
清水「塩田さんよく眠ってたが、眠くないかね」
塩田「いや、今までに今夜の分まで眠っておいたから眠くないですよ」
清水「蚊は来ないかね」
塩田「もう神さんだからね、蚊も畏れ多くて近寄れんですよ、ハッハッハツ」
橋口「神様は神様でも、荒神様だから蚊も敬遠して近寄らんのですよ、ハッハッハツ」
塩田、清水、小田、「ハッハッハツ」
小田「井出、恩を忘れるな、三恩をな。君の恩、親の恩、師の恩をね。帰ったら小学校の先生が一番いい人間として基礎をつくってくれるのだからね。そのことを当房、大野、塩田に伝えておいてくれ。そして屋には、最後まで希望を持って頑張れって言っておいてくれ」
この時五・〇〇を打つ。
しばらく二人とも無音。二人は洗面を終えて遥拝をしている模様でした。
五・〇八頃、
小田大尉「じやあ、君が代を始めて下さい」
塩田「御願いします」
森元「承知しました」
五・一〇、「君が代」「海ゆかば」二回全員合唱。
小田「今度は私達で歌います」
と二人合唱されました。
小田「平素の気持とさらに変わりありません。ただ神様と阿弥陀如来が迎えに来ているようだ。八棟東房の方々、長い間いろいろと迷惑をおかけしました。皆様の厚情と真心を抱いて、笑って逝きました、とお伝え下さい。どうも皆様有難う御座いました」
塩田「永い間相当無理な願いも聞いて戴き有難う御座いました。二人は笑って逝ったとお伝え下さい」
五・三〇頃、最後にもう一度詩吟をやっていこうかね、と生気の唄を吟詠。
塩田「最後に辞世をやらしてもらいます」
○あたたかき友の情にうるほいて。
心豊かに我は逝くなり。
○身はたとへ断頭台に消へんとも。
永遠に生きなん真心侍ちて。
五・四五、
小田「決して悲しまないでください。笑って送って下さい。万歳は縛られる前にやりますから……
井出いよいよ別れだな。君からもらった水を末期の水に呑んで行くよ」
所長来ると- 聞えずー沈黙
五・五六、万歳三唱、一同唱和
五・五九頃、二人は「サョナラ」と言われて出て行かれた模様。
一同黙祷六・〇〇 音
「上柳田広氏資料」では、「音」の部分は次のようになっている。
六・〇〇、早朝の静寂を破って冷酷な踏板の落ちる音が響く。全房万歳をもってこれに和す……
この儀繰り返されることすでに五回、ここに第六回目の犠牲者を送る。
辞世、小田大尉、
祈りつつ死にゆく我は霊となり
永遠に守らん皇国を。
昭和二十二年十一月二十二日六・〇〇
-終-
最後の日を語る
井手憲兵准尉手記
この手記は、小田国夫憲兵大尉、塩田源二中尉が、ラングーン刑務所で「明朝死刑執行」を言い渡されたその日の十数時間に交された会話の記録である。同房内に拘留されていた井手憲兵准尉が、できるかぎり記憶し、房内のトイレ用紙にメモして、持ち帰ったものとされている。
手記は『鉄輪』(昭和三十五年三月・鉄輪会本部発行)から引用した。
なお、手記中に出てくる清水中尉、橋口准尉、屋曹長、菅原准尉、渡辺准尉の各氏はシンガポール・オートラム刑務所で処刑されたという。
▼最後は笑って別れよう
二十号小田大尉、塩田、清水中尉、橋口准尉の四名、一号には宮本、岩城、蔡、鼻野、屋五名及び隣房十九号には渡辺、菅原(以上死刑の宣告を受け確定判決を持っておられる方)は、平常の連り十五時三十分頃夕食を終えて雑談しておられましたが、十五時四十五分頃英人軍曹(パワー)以下二名が来ました。「小田、塩田」と呼び開扉致しました。この時雨宮は坐わっておられましたが、小田「とうとう来たか」
塩田「とうとう来ましたね」と言いながら立ち上り「来い間お世話になりました。じゃ行って来ますから」
と、二人とも同胞の清水、橋口の二人に笑顔で訣別の握手をされ、廊下に出て一号室の五名の方々にも同様笑顔で、格子の間から出した五ツの手に各々握手、「じゃ皆様行ってきますよ」と二人は英人二名別に「グルカ」兵歩哨に護られて確定判決の言い渡しを受けに出て行かれました。十六時頃戻って来られまして、二人は廊下を歩きとから各房の人々に向かい、「永い間種々御世話になりました、今晩は最後だから御願いしますよ」と笑顔で挨拶して行かれ、小田大尉は十号、塩田中尉は十一号と、向かい合って房に各々移し収容されました。
(前記方々の外、三、四、五、六、七、へ、十三、十四、十五、十六、十七、十八、の各房には二名宛収容されて居ります)
二名の英人が帰って間もなく、塩田「小田大尉殿仲良く行きましょう」
小田「ああ、仲良く行きましょう。今日はなかなか親切だったね。何にもせずにここまで連行して来た。彼等にも、日本精神が少しわかったかな」
塩田「ハッハッハッハツ」
ちょっと間を置いて
小田「おぃ井出准尉ぃるかぃ」「ハイ」
小田「書いたものやその他の品は新山大尉に頼んであるから、清水中尉に言って新山大尉に渡してくれ、森元君はどこか」「ハイ十五号です」
小田「今晩は頼むぞ」「ハイ承知しました」
塩田「塩田の歌集やその他の品は橋日さんに言って菅野少佐殷に渡して下さい」「ハイ承知しました」
「森元君、所長が来たら、今晩は最後だから演芸をやらしてくれるように頼んでくれないか」「承知しました」
小田「皆さん今晩の我々の御通夜はよろしく頼みます」
塩田「お願いしますーっ」一同「承知しました」
十六・〇五、英人軍曹5名来り雨宮を連れて行きました(体重を計るため)。二人は並んで歩きながら顔を見合わせ、
小田「今日は待遇が良いなあ」
塩田中尉は微笑をもってこれに応えられておりました。約五分ほどして二人とも笑顔で帰ってき来、廊下に入ると両側の各房に向かって歩きながら
小田「今晩は頼むぞ」
塩田中尉、歩きながら皆に向かって、
塩田「お願いしますよ」
二人元の室に収容され、英人が帰って間もなく
井出「今どこに行かれたんですか」
小田「ちょっと体重を計りに行って未だ」
この時渡辺大尉(事務所勤務鉄九)来り、二人と何か話しておられましたが、聞きとれず。
小田「この中に酒でも一杯あったらなあ」
塩田「ハッハッハッハツ」と聞えました(飲食物の希望を聞きたるものの如し)
一六・二〇、印度人通訳「ワタン」面会に来り間もなく帰って行きました。ちょっと置いて、
小田「井出、今『ワタン』が来て、お国のためだから安心して逝って下さいと、言ったものだから、お前達から、そんなことを言われなくても俺達日本人にや、ちゃんと覚悟は出米ておるわい。大出鱈日な通訳ばかりしやがって、いらんことを言うなと言ってやったらすごすごと帰って行ったよ。
井出「そうですか」塩田中尉もハッハッハツと笑っておられました。
十六・二五、所長印度人(カーン)大尉来り二人に封して何か頼むこと、慾しいものがあれば出来る
だけのことのことはするから遠慮なく言ってくれと言いました。
小田「最後ですから今晩は一晩中話をすることを許可して下さい。そしてそれを衛兵司令に話しておいて下さい」
所長はこれを承諾した模様で、以下聞取れず。
菅野少佐および英人将校一来るも英人間もなく帰る。菅野註(二日前確定を聞き安心していただけに打撃も大きかった。今日は遅いし言渡は大丈夫であろうと室で話をしているところへ、堀口曹長来り今英人が五・六人行き糧秣庫からは煙草を二缶届けましたよ・・・とのことで早速事務室に行かんと門のところまで行くと、西独房から緊張した渡辺大尉の顔が見える。ついに最後の決心が来た、覚悟していたとはいえ、全身の力が抜け考える気力もなくなった。爾後は唯「ロボット」の如く唯機械的に動くだけだった。ただちに「西」に行き所長に言って面会の許可を得、八棟東独房に赴き別れの人々を案内す)
一六・三〇頃から清水、橋口、屋、蔡生川、鼻野、宮本、岩城、菅原、渡辺の順に面会、続いて千葉、井出、島田面会東独房より司令官以下二十名、八棟より原田少佐以下十名の方々面会さる。
所長はこれに立ち会い全部終わって一七・三〇頃帰りました。
(一同帰ってから所長にせめて十九時頃迄ここにいらして世話をさせてくれと頼みたるも入れられず
、最後の握手を交す小田大尉は涙の目(俺は悲しくて泣いているんじやないぞ嬉しいんだ元気でやってくれと格子から手を出して肩をたたいて居られたが)をはらい、「御陰で安心して逝かれます、ほんとに御世話になりました。前もって知らせてもらい覚悟は出来ているものの最後の準備が出来て落ち付けました。御元気で」と堅く堅く手を握られた。
此方は一言も発せられず唯頭を下げるばかりだった。塩田中尉の顔を見た瞬間言わんとすることが胸につかえ唯一言最後に笑って別れよう」と口に出したが、言ったとたん前が見えなくなる程涙が、どうとあふれ出して何時迄も堅く手を握り合って心ゆくばかり泣いたのであった)
しばらく二人とも無言のままに過しておられましたが、ややして、
「これで満足した。真実に満足した。皆に会ってこんな嬉しいことはない」と二人で話しておられました。
▼祖国再建を皆にたくして
小田「井出、所長に酒をくれと言ったら後からくれると言ったよ。今生の別れによかったよ」
井出「それはよかったですね」
一七・四〇、菅野少佐が二人のために挑の缶詰を一個宛持って来て分配しながら何か話しておりましたが、声が低く聞き取れず間もなく菅野少佐二人のために「コップ」および掃除道具を持ってきて渡されました。
塩田「菅野少佐殿、誠にすみませんね、マア宜しく頼みます」
菅野「何でもいることがあれば言って下さい。決して心配いりませんから」
この時渡辺大尉と山崎軍曹、紅茶を持ってきて分配しました。
塩田「最後までいろいろとすみませんね」
小田「最後までまったく親切にして頂いて有難うございます」と言っておられました。
ややあって三人に向かい。
(仏様の煙草です、喫って下さいと煙草を出され歩哨をまいて三人とも坐り込みいろいろ話す)
塩田「今までで今度が一番持遇がいいですよ、ハッハッハッ」
渡辺「なんでも不自由なものがあれば」
小田「便器を入れて下さい」
つづいて三人はいろいろ話をしておりましたが、聞きとれず。
一八・〇〇、間もなく三人一緒に帰って行く。
小田「後もう十二時間ですねハッハッハツ」
塩田「ハッハッハツ」
菅野少佐、二、三分して二人のため「ローソク」を持って来て間もなく帰る。
(蚊取線香を持参したら塩田『仏様にいいですね』『いやそんなつもりじゃないんだよ』塩田『ハッハッハツどうも有難う」「一晩ですから蚊にも食わしてやりましょう』)
井出准尉から二人に鉢植の”野草の花”を送る。
小田「所長は、酒を余り遅く呑ませると心臓麻痺を起すといけないから、一九・三〇頃持って来ると言
ったよ」
塩田「心配しているんですねハッハッハツ」
小田「ハッハッハツ」
菅野少佐、今度は「チョコレート」を持って来て帰られ、その後二人話をされておる模様なるも、聞き取れず。何か明朝の打合せの様でした。
一八・四〇
小田「(全員に)明朝は出発前五時に私達は遥拝を終えその後、君が代と海ゆかばを二回宛、万歳は室を出る直前にしますから、承知下さい。歌の音頭は森元君にとってもらいたいと思います」
各々「承知致しました、元気で行って下さい」
しばらく無言。
一八・五五、二人拍手を打って遥拝されている模様でした。
小田「じゃそろそろ演芸を始めてもらいましょうかね」
塩田「ああいいですね」
清水中尉、全員に向かって「オイ皆、今夜は最後だから二人のために自分の持っている芸を全部出して慰めてあげてくれよ」。各室より返事あり。
一九・〇〇、井出准尉の進行で演芸を始めました。二一・三〇頃、所長来り一時中止。所長は二人に対して「何か欲しいものはないか」。二人は酒の礼を述べ、
塩田「貴方より煙草をもらいたい」
所長これを承諾し、何か話せるも聞きとれず。
所長約十分にして帰り、続行。二一・五〇頃、橋口准尉、二人に対し左の工貢を贈る。
○雄々しかる皇国のつはものが、七生誓ひて今そいでたつ。
○南涯の秋の夜は風なくも、みたまの光、やみじ照さむ。
二二・二〇、全員手向けの演芸に応えて塩田中尉、日頃愛唱の二、二六の歌および自作の歌を歌われ、次いで辞世を朗読されました。
辞 世
あたたかき、友の情にうるほいて
心ゆたかに、我は逝くなり。
身はたとへ断頭台に消へんとも
永遠に生きなん真心もちて。
小田大尉、つづいて都々逸「すみたのほとり」
を唄い、詩吟撤去生気の歌自作の転進行を吟詠後
辞世を朗読せられました。
辞 世
皇国の悠久平和祈りつゝ
南の涯に我は散りゆく。
永遠に皇国の新世を
興されませと祈りつゝ逝く。
其の後で、内地に帰る者に、戦犯をよく理解して帰って祖国再建に邁進して下さい。連合国は将来の戦争を防止せんがために戦犯裁判をしているというが、現在戦犯として取り扱っている様な事実は独り戦敗国のみでなく戦勝国にでもあるはずですが、戦敗国のそれのみと所謂一方的に裁断している、つまり不公平です。不公平は不和、不和は争いの因です。大自然界に植物の間にすら生存競争はあります。
それは同様に人間の生存競争はつづき、戦争もこれと正比例して太陽の光と熟が無くなり宇宙に生物がすめなくなるまではつづく、これが人類の生活であります。過去もまた原始の昔より二十世紀の今日までの歴史は斯くして創られました。皆さまどうぞ祖国再建を御願い致します。
一同「御安心下さい。祖国再建を誓います」
二三・〇〇、二人が何か小声で話された後、
小田「余り遅くなるといけませんから、この辺で切り上げて下さい。どうも永い間有難う御座いました
」
塩田「どうも有難うございました」
清水、時間の方は心配ありませんから。おい皆どんどんやってあげてくれ、その代り遅くなったら拍
子だけは止めることにしよう。
小田「では屋君に子守唄を歌ってもらいましょう」
と二・〇〇までつづく。
塩田「蔡生川に和楽音頭と湖上の尺八」を注文。
小田「森元に遺骨を抱いてと蛍の光」を望まれる。
一同交々、御安心下さい、再建は必ずやります、と誓う。
二・一〇頃、
塩田「只今の皆様の熱誠な御言葉を聞き、私は安心して逝くことが出来ます。皆様の現在の気持を生して行けば、必ず日本再建は出来ることと信じます。かつて独逸が第一次(大戦)一年後、少年に対して将来の希望を聞きたるところ、その九十九パーセントがソ連を叩くと答えたそうです。これは「ゲルマン」民族であればこそです。ところがそれ以上の強国になって立上るものと信じます。
そして大和民族が再び此の悲劇を繰返さぬ様皆様に御願致します」
つづいて二・三〇頃より小田大尉が十一年間に亙る野戦勤務の想出話をされる。(中略)
二人しばらく無音。
小田「自分の死生観は常に『朝に紅顔ありて夕に白骨となる人の一生』これは今でも変らない」と言っ
ていました。
二・五〇分頃、
小田「歩哨の奴バケツに腰を下して居眠りしてやがる。ハッハッハツ」
塩田「もう神さんになるんだから安心しているんですね。ハッハッハツもうすぐ神様になる人だから、
まあ生きているうちから恵をかけてやって、居眠りしているのを監視してやるんですね」
清水「塩田さん腹の具合はどうですか」
塩田「もう大丈夫です。明日は火葬で完全消毒してから行くんですから、アメバーも大腸炎も大丈夫で
すよハッハッハツ、それに英軍は親切ですよ、
あの世に行くのに予防接種までしてくれるんですからね、ハッハッハツ……清水さん橋口さんにもうす
こし碁を錬ってやって下さい、ハッハツ」
橋口「大丈夫、大丈夫、自分が行くまでには強くなって行くから」
塩田「将棋はどうかね? ハッハッハツ」
岩城「将棋は自分が一番」
塩田「弱いのですか、ハッハッハツ」
一同「ハッハッハッハツ」
蔡「塩田さん一度聞こう聞こうと思って忘れていたことがあるんだがね、ハッハッハツ」
塩田「何かね?」
蔡「ちょっと言い難いのだがね、ハッハッハツ、言おうかね、あんたの妹さんのことだよ」
塩田「あゝ妹かね、あれは未だ小さいから」
蔡「ハッハッハツ、小さいから可愛いですよ」
▼君が代と海ゆかばに送られて
三・〇五頃から、小田大尉が内地へ帰る皆さんへといって、自分の性格と経験から割った処世観を話されました。
不言実行、陰徳○虚これは度を過ぎ明朗性を欠く様ではいかん。私の場合は、明朗性を欠いた様に恩われます。家庭生活、上下主従の関係面の生活においても愛は不可欠なり。任務仕事に対しては不言実行、これを天職と考え全力を傾注すること。下あるいは従を持ちたい。上あるいは主の場合は偏愛所謂片寄った差別のある愛情は、最も戒むこと等、以上を話されました。この話の終わる
五分前、四・〇〇を報ず。
四・一〇頃から小田大尉、井出、森元を相手に広東時代の想出を約十分程され一寸間、四・二〇頃、小田「森元、煙草屋の娘を一つ」 と所望。終わると自分で今から小学校卒業式の歌を歌うからな、と言うて歌われました。つづいて、塩田「蔡生川さん、御得意の唄を一つ頼みます」 蔡生川曹長、注文に応えて「嗚呼揚子江」「白衣の春雨」を唄う。
小田「今日言渡を受けて帰る途中エスゲー(印度人刑務所通訳)にあって永い間有難うと言ったら、お
国のためだから安心して逝って下さいと、逆に激励されたよ(中略)」
やや無音
清水「塩田さんよく眠ってたが、眠くないかね」
塩田「いや、今までに今夜の分まで眠っておいたから眠くないですよ」
清水「蚊は来ないかね」
塩田「もう神さんだからね、蚊も畏れ多くて近寄れんですよ、ハッハッハツ」
橋口「神様は神様でも、荒神様だから蚊も敬遠して近寄らんのですよ、ハッハッハツ」
塩田、清水、小田、「ハッハッハツ」
小田「井出、恩を忘れるな、三恩をな。君の恩、親の恩、師の恩をね。帰ったら小学校の先生が一番いい人間として基礎をつくってくれるのだからね。そのことを当房、大野、塩田に伝えておいてくれ。そして屋には、最後まで希望を持って頑張れって言っておいてくれ」
この時五・〇〇を打つ。
しばらく二人とも無音。二人は洗面を終えて遥拝をしている模様でした。
五・〇八頃、
小田大尉「じやあ、君が代を始めて下さい」
塩田「御願いします」
森元「承知しました」
五・一〇、「君が代」「海ゆかば」二回全員合唱。
小田「今度は私達で歌います」
と二人合唱されました。
小田「平素の気持とさらに変わりありません。ただ神様と阿弥陀如来が迎えに来ているようだ。八棟東房の方々、長い間いろいろと迷惑をおかけしました。皆様の厚情と真心を抱いて、笑って逝きました、とお伝え下さい。どうも皆様有難う御座いました」
塩田「永い間相当無理な願いも聞いて戴き有難う御座いました。二人は笑って逝ったとお伝え下さい」
五・三〇頃、最後にもう一度詩吟をやっていこうかね、と生気の唄を吟詠。
塩田「最後に辞世をやらしてもらいます」
○あたたかき友の情にうるほいて。
心豊かに我は逝くなり。
○身はたとへ断頭台に消へんとも。
永遠に生きなん真心侍ちて。
五・四五、
小田「決して悲しまないでください。笑って送って下さい。万歳は縛られる前にやりますから……
井出いよいよ別れだな。君からもらった水を末期の水に呑んで行くよ」
所長来ると- 聞えずー沈黙
五・五六、万歳三唱、一同唱和
五・五九頃、二人は「サョナラ」と言われて出て行かれた模様。
一同黙祷六・〇〇 音
「上柳田広氏資料」では、「音」の部分は次のようになっている。
六・〇〇、早朝の静寂を破って冷酷な踏板の落ちる音が響く。全房万歳をもってこれに和す……
この儀繰り返されることすでに五回、ここに第六回目の犠牲者を送る。
辞世、小田大尉、
祈りつつ死にゆく我は霊となり
永遠に守らん皇国を。
昭和二十二年十一月二十二日六・〇〇
-終-
イギリスの捕虜・戦犯収容所
イギリスの捕虜・戦犯収容所
判決後も吹き荒れた暴虐の嵐
■容赦ない暴虐行為の日常化
イギリスが開設した軍事法廷は次の十一ヵ所である。
シンガポール
マレーシアのジョホールバル、
クアラルンプール、タイピン、
アロールスター、ペナン
ビルマのラングーン、メイミョー
ボルネオのゼッセルトン、ラブアン島
香港
合わせて千人近い人々が裁かれ、二百二十三名が死刑判決を受けた。
戦犯容疑者の摘発に当たったのは、英軍の戦犯調査局である。シンガポールでは、昭和二十一年の六月ごろまでに二千名以上の容疑者が収容されている。
英軍においても収容者の虐待は、ごく日常的に行われた。次の例は、特別に烈しいというものではなく、各地に共通して一般的に見られた光景である。
「香港のスタンレー監獄に入ったのは、二十年九月二十五日。同十月二日にNo1コマンド部隊に交代してからは、虐待の連続史であった。最初は一日中監禁されており、午後一回、運動と称して一名ずつ引き出し、長さ五十米のコンクリート廊下をぐるぐるかけ足させる。速度が遅れると、やにわにムチをふりあげて叩く。倒れそうになると、さらに激しく打つ。すっかり叩きのめされて監房に入る。
収容されて来る者は、九龍の収容所から香港の渡船場まで四キロを行軍中、倒れそうになったり、よろめいたりする者を遠慮会釈なく棍棒で頭、手、背とところ構わず殴られるので、スタンレーに着いた者のうちには十名くらいの怪我人が必ずあった。棍棒で頭を叩かれた者は一~ニセンチの裂傷がある。三角巾で応急に治療しても、流れる血は頬を伝わる。
二十二年正月二日、八十名の容疑者に集団処罰が加えられた。褌一本の裸体にして、小雨の降る中を屋外に連れ出し、コンクリートの冷たい歩道に五分間うつ向けに寝かせ、つぎに温かい水でシャワーを取らせ、再び雨中で運動、体操。この間三十分。全身は冷えて歯はカチカチと鳴り、鳥肌が立って唇の色は失せた。
二十一年正月も虐待の連続。特にエドヮード伍長は監房を一つずつ開けていって拳闘の実地指導を行った。直立不動させ、二言三言しゃべって気をそらせ、急に拳をもって鳩尾をついた。我々をノックダウンするにはこの鋭い一撃で充分だ。『ゲラップ(get up)』の怒声で立上るや、また一発。声の出る
余裕がない。
二十一年二月初め、日本から到着したN大佐はその翌日にはもう顔が変形していた。同大佐はしばしば暴行の対象となり、坐骨神経痛が再発して松葉杖をついて断頭台に登った殴打により耳の変形した者はほかに二名。そのうち一名は五十過ぎの老人であったが、耳に血腫ができ、残忍な英台湾人通訳と十五年の刑を言い渡された日本マレイ混血青年の場合、判決後、二人とも英領植民地の市民権を有することが判明した。そこで、先の判決は取り消され、改めて普通法院の管轄に移されて審理を受けることになる。その結果、同一の事案で反逆罪に問われるのだが、刑罰は通訳に四年、混血青年に十五ヵ月が宣せられた。戦犯なるが故に量刑がいかに重くされているかを示す好例ではなかろうか。
では、イギリス軍事法廷が裁いた事件のうち、注目すべき二、三の事件を具体的に追ってみよう。
観光地として知られているマレーシアのペナンでは、およそ前近代的で乱暴な裁判が行われた。すなわち、終戦の約一年後に被告として起訴された三十五名は、十把ひとからげにして被告席に座らされた。特定の事件と個々の被告の関係が検証されることがなかった。三十五名に唯一共通して関連あることは、ペナン憲兵分隊に勤務したことがあるということだけ。種々雑多な事件を寄せ集めて一件としたものだ。
この三十五名は、昭和十七年四月一日から終戦までの全期間もしくは一部の期間、ペナン憲兵隊に服務した。この間に分隊長は二人。先の分隊長時代にのみ服務した者、後任分隊長時代にのみ服務した者、両方にまたがる者、わずか一分月余しか勤務しなかった者、臨時に通訳に雇われた者とさまざまであった。
彼らの裁判は、先に紹介したような見せ物として演出された。二人一組で手錠をかけられ、トラック六両に分乗して法廷に向かう時、沿道には現地の中国人、欧米人ら群衆が待ち受けている。嘲笑が投げかけられ、「バカヤロウ」などと罵詈雑言を浴せられ、歓声とともに石が投げられる。後任分隊長だった元大尉は、こう記している。
「トラックより降りる時は、一、二、三と調子を合わせて二人が飛びおりる。姿勢が立直らないうちに、カモンと銃床で尻を突かれる。ヒョロッとよろめく。群衆は喜ぶ。警戒兵は民衆に迎合する如くカ
モンを連呼して後を追い、構内広場に作られたバリケードの囲みへ追い人れる。あたかも鶏を小屋に追い込むようである。群衆は遠巻きに観賞する。ペナン開発の先駆者フランシス・ライトの銅像が吾々を見おろしている。これは全く余分のコースだった。中世の罪人引廻しのやり方だ。
文明の臭も人道の薫りもない」法廷では、五列にヒナ段のような被告席に脹らせられる。傍聴席は超満員である。こうして公判は一カ月続いた。
検事側証人約七十人のうち、半数は戦時中、日本側の使用人だった人たちだったが、彼らは戦後、厳しい選択をしなければならなかった。それは戦犯裁判の証言台に立つか、対日協力者として被告席につくかという二者択一を追られたものとみられるからだ。
証人に立った被害者たちには、証言の誇張が目立った。たとえば、ある伍長が取り調べ中に渇きをいやすために氷を被害者にも与えた際、ちょっと戯れて氷の一片を彼の手に載せたことがあった。
それが、戦犯裁判の証言台では、十貫目の氷を腹の上に一時間余りも置いて苦しめたということになっている。
公判中、最大の争点となったのは、いわゆるペナン島の粛清事件である。
昭和十七年四月五日、マライ北部駐屯の第五師団は各地の抗日分子を一斉に検問捜索、検挙した。この時、ペナン憲兵隊は命令に基づき、ペナンを担当した同師団所属の大隊の指揮下に一部隊員を入れ、抗日分子の収容に協力したのである。
起訴状によると、給養、衛生、その他管理の不十分と憲兵の拷問の結果、約千名が死亡したことになっている。
だが、刑務所の管理が憲兵隊の責任ではないことはいうまでもないし、それよりも千名という数字に
は誇張があった。当時の書類によれば、千名というのは検挙者数である。千名死亡という数字は、偽証による虚構であったようだ。
にもかかわらで、論告は、「とにかく千名の命が失われている。千名の命に対して三十五名の命は安い。誰がやったかは問題ではない。三十五名は一体となってその責を負うべきである」と、虚構の上に立って算術的整合性を求めたのである。
はたして判決は、被告二十五名のうち絞首刑二十名、銃殺刑一名、無罪三名、他は五年から十年の有期刑を宣告された。その後、銃殺刑の一名が終身刑に変更されただけで、あとは全部、宣告通りの刑が確定した。
■世論が許さなかった″無罪放免″
香港のイギリス法廷においては、特異な経過をたどった裁判があった。ウィリアム・ハットン事件というのがそれである。
昭和十八年、上海工部局警察官であったイギリス人ウィリアム・ハットンは、上海憲兵隊に逮捕留置されて取り調べを受けていたのだが、まもなく発狂して取り調べが不能となった。彼は釈放され、病院に入院するが、その二、三日後に死亡してしまったという事件である。
英軍は、この事件を憲兵隊の拷問の結果だとして、上海憲兵隊隊長であった元少将と同隊の元軍曹を戦犯容疑者として二十数回にわたって取り調べた。しかし、元少将は検挙以来二十七ヵ月後、元軍曹は十三ヵ月後、いずれも証拠不十分として釈放されたのである。
やがて、香港軍事法廷は閉鎖されることになるが、それとともに二人の元被告は昭和二十三年三月、香港から内地へ帰還し、無事、自宅に帰った。
これで、一件落着と思われたのだったが、そうはいかなかった。英本国の議会で問題が再燃したのである。
「元少将を重大な容疑のもとに長期抑留しながら、裁刑も聞かずに釈放するとは何事であるか!」
というわけだ。新聞雑誌も盛んにこれを書きたて、世論を喚起した。
その結果、英側としては、すでに閉鎖した軍事法廷を再び臨時に開設せざるを得なくなってしまう。
裁判長が英本国から呼ばれ、二人の被告も再逮捕されて、再び香港に移送されたのである。
再逮捕に当たって、英側の発表したところでは、新たに有力な証拠を得たということであったが、その後、公刑廷に出された証拠も偽り、出廷した証人も偽り。何が何でも両名を有罪にせんがための芝居が裁刑の名のもとに展開された……
かくして、元小将に終身刑、元軍曹には十二年の刑が言い渡されることになる。英国のメンツあるい
は世論が生み出した戦犯といえるだろう。
シンガポール法廷では、アンダマン島事件で四十四名という大量の死刑判決が出されている。
アンダマン島というのは、インド洋南部に位置し、二百以上の島からなる群島。昔からビルマの重罪人の流刑地だったらしいが、イギリス植民地となって海軍基地も置かれていた。
日本軍がこの島を占領したのは昭和十七年三月のことであるが、十九年ごろからは、戦局が不利になるにつれ、次第に海空の輸送も絶え、日に日に物資・食糧が欠乏するようになる。そこで日本軍は現地人を指導して自給自足態勢の確立に乗り出すが、軍の倉庫や田畑から物品や食糧を盗み出す原住民が多くなった。
そのような状況下、日本軍部と民放部は、「窃盗者は発見次第、現場の長においてただちに銃殺処分すべし」との命令を全島に通達したのである。
島内のダンダスという村で原住民百四十八名を指導した元海軍上等兵曹の場合、きわめて良心的に全力をあげて食糧生産に努めている。村民の一人が甘藷を盗んだことがあったけれども、彼は着物の上から軽く尻を叩いて説諭しただけ。ところが、終戦後、この村民がたまたまマラリアで死亡してしまう。
戦犯裁判で元兵曹は、この一件を合めて四名を殴打殺害したとして起訴された。例によって虚構に満ちた裁判が行われるのだが、原住民の食糧確保に努めたことなどは裁判長も認めざるを得なかったようで、こんな判決をくだしている。
「お前がアンダマン島進駐以来、よく原住民の食糧を確保せしめたことには誠に感激する。また、法
廷に出頭した態度言語ともに日本軍人の模範とするに足る者である。しかし、お前は殺人罪で起訴されておる故、当然、死刑に価するものであるが、その人格に免じて、終身刑を言い渡す」
しかし、アンダマン島軍件においては、これは例外的ケースである。容疑者として逮捕された八十二名のうち、死刑判決は実に四十四名に達していた。
なかでも、海軍が四十名も死刑に処せられたのは、司令官が命令したことを否定し、責任を部下に転嫁したからだ。陸軍では、旅団長が責任を全部引き受けたので、四名の死刑しか出していないのと対照的である。
■戦争の責任は誰が負うべきなのか
シンガポール法廷において、もう一件、特筆すべき軍件は、昭南憲兵隊による英国人抑留者虐待事件である。
昭南とは、日本統治時代のシンガポールのことだが、昭南港は日本軍南方作戦の重要基地で、毎月およそ三万人の部隊が出入りしていた。昭和十八年九月。その昭南港に停泊中の日本油槽船六隻が、磁気性機雷の爆発によって沈没するという事件が突発する。
この捜査に従軍したのが昭南憲兵分隊である。が、数日を経ても事件の真相は明らかにならない。
これに業を煮やした南方総軍司令部は、そのころ噂にもなっていたチャンギー刑務所の英国市民拘留者の教唆による犯行と断定した。その上で、同刑務所の英市民抑留者の一斉検索、容疑者の検事、取り調べと一般市民容疑者の検索(「一号工作」といわれる)を命じたのである。
昭南憲兵分隊は同命令に基づき、一斉検索を実施して、無線送信機用とみられる改造ラジオ、短波ラジオなどとともに容疑者五十名以上(のちに百名以上に増加)を検事し、三十余名を軍件送致した。軍法会議の結果は死刑一、十五年から三年の有期刑十数名であった。この間に、容疑者のうち病死者三名、自殺者一名が出ている。
戦後、この作戦が裁かれることになる。元昭南憲兵分隊長以下十五名の隊員が不法検挙虐待致死行為で起訴された。
この裁判もまた針小棒大または虚偽の証言など各種の不公正のなかで進められ、苛烈な判決が宣せられている。死刑八名、終身刑三名、有期刑四名という結果となった。
この戦犯たちが、数年後、日本に送還されることになった時、シンガポール地区別務長官あてに一通の手紙が届いた。発信人は、かつて昭南憲兵分隊に検挙された英国市民抑留者の一人。手紙はこの裁判の実態のなにがしかをうかがわせてくれる。
「貴刑務所で服役中の終身刑Aが一号工作実施中、終始親切に取扱われたことを感謝し、今次、本国送還に当たり、この親切に何か酬いたいと思う。
しかし、貴下はこの私の申し出に対して、それほどの好意を侍つならば、なぜ同戦犯の裁判時、弁護しなかったのかとの疑念を抱かれることでありましょうが、当時、私は本国に帰還中で、マライに居住しておらず、さらにまた、もし当地におったとしても、当時の一般世論の状況より見て、弁護のため出廷することは到底できなかったことと思う。しかし、戦争終結してすでに六年、私は敢然として英国人が前記親切心に感謝しおる気持を伝えたいと思うのである」
シンガポール軍事法廷で裁かれた事件のうち、最もよく知られているのは、タイメン(泰緬)鉄道建
設に関連する一件であろう。
実は、この裁判を管理・進行したのはイギリス一ヵ国だけではない。イギリスとオーストラリアの連合という形で行われた。裁判長こそ英国人だったが、陪席判事は英豪一名ずつ、検事も英豪一名ずつという構成になっていた。
タイメン鉄道というのは、ビルマのタンビザヤからタイのノンブラドックに至る延々四百キロにおよぶもので、戦前に英国が計画した時は、なんでも六年の歳月と数億円(当時の金)を要すると見こまれていたらしい。これを日本軍はわずか一年余りで完成させたのである(昭和十八年十月末完成)。
それだけに大量の労働力が必要であった。日本軍はもとより、現地人労働者のほかに、多数の俘虜がそのために動員されることになった。
これに充てられたのか、シンガポールの俘虜約一万名(イギリス人とオーストラリア人)。七千名と三千名の二群に分かれて、鉄道輸送されたのだが、途中から工事現場まで約三百キロは、徒歩による行軍となった。熱地を寝るに家なく貧弱な給与のみで行軍したので、七千名組のほうだけでも二千名が落伍した。フィリピンのパターン行軍とならんで二大「死の行軍」と喧伝されるゆえんである。
加えて、工事現場ではコレラが蔓延し、医薬品も不十分、さらに赤痢、マラリア、デング熱なども多
発した。しかし、雨期になっても工事は強行され、俘虜は毎日毎日死んでいったのである。結局、工事を終えて無事シンガポールに引き揚げた俘虜数は、七千名組については約四千名でしかなかったという。
戦後、英豪連合法廷がこの件で起訴したのは、次の二項目である。つまり、俘虜を使役、虐待し、多数の俘虜を死に至らしめたことと、俘虜を不当に処遇し、不良なるキャンプに収容して多数の病者を出し、多大の苦痛を与えたこと。
起訴された者は、現場の工兵隊の元中尉や鉄道連隊の元少尉、俘虜収容所の元所員など七名。うち四名に死刑判決が出され、三名には有期刑が宣告されたが、のちに死刑の四名は無期と十五年に減刑されている。
七千名の俘虜を引率した元所員は、死刑判決後、終身刑に減刑されたが、その手記にこう書いている。
「今次の裁判において一番問題になったことは『命令した』『命令しない』『知らない』ということである。命令の性質はどんなものか説明は無駄である。しかし、その命令も表面に現われた言葉や文字だけで解釈すると充分でない。死生を共にする上官と部下では以心伝心というか、口に発せざるに意中が通ずることがある。あるいは、行動そのものが、また眼の動き方、頭の動かし方が命令になっていることがある。命じた者は、なぜ『命じたと言わなかったか。といって、私は命じた人が罪を犯した人とは毛頭思わない。誰がその地位にあっても、かくあったのである。かくあらしめたものは『戦争』なのであり、その時そうすることが絶対であったのである。戦争の責任は果たして誰が負うべきものであろうか」
戦争の責任は誰が負うべきなのか
どの国のどの法廷についても、最後にはこの疑問にたどりつく。
『戦争裁判 処刑者一千』 戦記シリーズ23 新人物往来社から引用
判決後も吹き荒れた暴虐の嵐
■容赦ない暴虐行為の日常化
イギリスが開設した軍事法廷は次の十一ヵ所である。
シンガポール
マレーシアのジョホールバル、
クアラルンプール、タイピン、
アロールスター、ペナン
ビルマのラングーン、メイミョー
ボルネオのゼッセルトン、ラブアン島
香港
合わせて千人近い人々が裁かれ、二百二十三名が死刑判決を受けた。
戦犯容疑者の摘発に当たったのは、英軍の戦犯調査局である。シンガポールでは、昭和二十一年の六月ごろまでに二千名以上の容疑者が収容されている。
英軍においても収容者の虐待は、ごく日常的に行われた。次の例は、特別に烈しいというものではなく、各地に共通して一般的に見られた光景である。
「香港のスタンレー監獄に入ったのは、二十年九月二十五日。同十月二日にNo1コマンド部隊に交代してからは、虐待の連続史であった。最初は一日中監禁されており、午後一回、運動と称して一名ずつ引き出し、長さ五十米のコンクリート廊下をぐるぐるかけ足させる。速度が遅れると、やにわにムチをふりあげて叩く。倒れそうになると、さらに激しく打つ。すっかり叩きのめされて監房に入る。
収容されて来る者は、九龍の収容所から香港の渡船場まで四キロを行軍中、倒れそうになったり、よろめいたりする者を遠慮会釈なく棍棒で頭、手、背とところ構わず殴られるので、スタンレーに着いた者のうちには十名くらいの怪我人が必ずあった。棍棒で頭を叩かれた者は一~ニセンチの裂傷がある。三角巾で応急に治療しても、流れる血は頬を伝わる。
二十二年正月二日、八十名の容疑者に集団処罰が加えられた。褌一本の裸体にして、小雨の降る中を屋外に連れ出し、コンクリートの冷たい歩道に五分間うつ向けに寝かせ、つぎに温かい水でシャワーを取らせ、再び雨中で運動、体操。この間三十分。全身は冷えて歯はカチカチと鳴り、鳥肌が立って唇の色は失せた。
二十一年正月も虐待の連続。特にエドヮード伍長は監房を一つずつ開けていって拳闘の実地指導を行った。直立不動させ、二言三言しゃべって気をそらせ、急に拳をもって鳩尾をついた。我々をノックダウンするにはこの鋭い一撃で充分だ。『ゲラップ(get up)』の怒声で立上るや、また一発。声の出る
余裕がない。
二十一年二月初め、日本から到着したN大佐はその翌日にはもう顔が変形していた。同大佐はしばしば暴行の対象となり、坐骨神経痛が再発して松葉杖をついて断頭台に登った殴打により耳の変形した者はほかに二名。そのうち一名は五十過ぎの老人であったが、耳に血腫ができ、残忍な英台湾人通訳と十五年の刑を言い渡された日本マレイ混血青年の場合、判決後、二人とも英領植民地の市民権を有することが判明した。そこで、先の判決は取り消され、改めて普通法院の管轄に移されて審理を受けることになる。その結果、同一の事案で反逆罪に問われるのだが、刑罰は通訳に四年、混血青年に十五ヵ月が宣せられた。戦犯なるが故に量刑がいかに重くされているかを示す好例ではなかろうか。
では、イギリス軍事法廷が裁いた事件のうち、注目すべき二、三の事件を具体的に追ってみよう。
観光地として知られているマレーシアのペナンでは、およそ前近代的で乱暴な裁判が行われた。すなわち、終戦の約一年後に被告として起訴された三十五名は、十把ひとからげにして被告席に座らされた。特定の事件と個々の被告の関係が検証されることがなかった。三十五名に唯一共通して関連あることは、ペナン憲兵分隊に勤務したことがあるということだけ。種々雑多な事件を寄せ集めて一件としたものだ。
この三十五名は、昭和十七年四月一日から終戦までの全期間もしくは一部の期間、ペナン憲兵隊に服務した。この間に分隊長は二人。先の分隊長時代にのみ服務した者、後任分隊長時代にのみ服務した者、両方にまたがる者、わずか一分月余しか勤務しなかった者、臨時に通訳に雇われた者とさまざまであった。
彼らの裁判は、先に紹介したような見せ物として演出された。二人一組で手錠をかけられ、トラック六両に分乗して法廷に向かう時、沿道には現地の中国人、欧米人ら群衆が待ち受けている。嘲笑が投げかけられ、「バカヤロウ」などと罵詈雑言を浴せられ、歓声とともに石が投げられる。後任分隊長だった元大尉は、こう記している。
「トラックより降りる時は、一、二、三と調子を合わせて二人が飛びおりる。姿勢が立直らないうちに、カモンと銃床で尻を突かれる。ヒョロッとよろめく。群衆は喜ぶ。警戒兵は民衆に迎合する如くカ
モンを連呼して後を追い、構内広場に作られたバリケードの囲みへ追い人れる。あたかも鶏を小屋に追い込むようである。群衆は遠巻きに観賞する。ペナン開発の先駆者フランシス・ライトの銅像が吾々を見おろしている。これは全く余分のコースだった。中世の罪人引廻しのやり方だ。
文明の臭も人道の薫りもない」法廷では、五列にヒナ段のような被告席に脹らせられる。傍聴席は超満員である。こうして公判は一カ月続いた。
検事側証人約七十人のうち、半数は戦時中、日本側の使用人だった人たちだったが、彼らは戦後、厳しい選択をしなければならなかった。それは戦犯裁判の証言台に立つか、対日協力者として被告席につくかという二者択一を追られたものとみられるからだ。
証人に立った被害者たちには、証言の誇張が目立った。たとえば、ある伍長が取り調べ中に渇きをいやすために氷を被害者にも与えた際、ちょっと戯れて氷の一片を彼の手に載せたことがあった。
それが、戦犯裁判の証言台では、十貫目の氷を腹の上に一時間余りも置いて苦しめたということになっている。
公判中、最大の争点となったのは、いわゆるペナン島の粛清事件である。
昭和十七年四月五日、マライ北部駐屯の第五師団は各地の抗日分子を一斉に検問捜索、検挙した。この時、ペナン憲兵隊は命令に基づき、ペナンを担当した同師団所属の大隊の指揮下に一部隊員を入れ、抗日分子の収容に協力したのである。
起訴状によると、給養、衛生、その他管理の不十分と憲兵の拷問の結果、約千名が死亡したことになっている。
だが、刑務所の管理が憲兵隊の責任ではないことはいうまでもないし、それよりも千名という数字に
は誇張があった。当時の書類によれば、千名というのは検挙者数である。千名死亡という数字は、偽証による虚構であったようだ。
にもかかわらで、論告は、「とにかく千名の命が失われている。千名の命に対して三十五名の命は安い。誰がやったかは問題ではない。三十五名は一体となってその責を負うべきである」と、虚構の上に立って算術的整合性を求めたのである。
はたして判決は、被告二十五名のうち絞首刑二十名、銃殺刑一名、無罪三名、他は五年から十年の有期刑を宣告された。その後、銃殺刑の一名が終身刑に変更されただけで、あとは全部、宣告通りの刑が確定した。
■世論が許さなかった″無罪放免″
香港のイギリス法廷においては、特異な経過をたどった裁判があった。ウィリアム・ハットン事件というのがそれである。
昭和十八年、上海工部局警察官であったイギリス人ウィリアム・ハットンは、上海憲兵隊に逮捕留置されて取り調べを受けていたのだが、まもなく発狂して取り調べが不能となった。彼は釈放され、病院に入院するが、その二、三日後に死亡してしまったという事件である。
英軍は、この事件を憲兵隊の拷問の結果だとして、上海憲兵隊隊長であった元少将と同隊の元軍曹を戦犯容疑者として二十数回にわたって取り調べた。しかし、元少将は検挙以来二十七ヵ月後、元軍曹は十三ヵ月後、いずれも証拠不十分として釈放されたのである。
やがて、香港軍事法廷は閉鎖されることになるが、それとともに二人の元被告は昭和二十三年三月、香港から内地へ帰還し、無事、自宅に帰った。
これで、一件落着と思われたのだったが、そうはいかなかった。英本国の議会で問題が再燃したのである。
「元少将を重大な容疑のもとに長期抑留しながら、裁刑も聞かずに釈放するとは何事であるか!」
というわけだ。新聞雑誌も盛んにこれを書きたて、世論を喚起した。
その結果、英側としては、すでに閉鎖した軍事法廷を再び臨時に開設せざるを得なくなってしまう。
裁判長が英本国から呼ばれ、二人の被告も再逮捕されて、再び香港に移送されたのである。
再逮捕に当たって、英側の発表したところでは、新たに有力な証拠を得たということであったが、その後、公刑廷に出された証拠も偽り、出廷した証人も偽り。何が何でも両名を有罪にせんがための芝居が裁刑の名のもとに展開された……
かくして、元小将に終身刑、元軍曹には十二年の刑が言い渡されることになる。英国のメンツあるい
は世論が生み出した戦犯といえるだろう。
シンガポール法廷では、アンダマン島事件で四十四名という大量の死刑判決が出されている。
アンダマン島というのは、インド洋南部に位置し、二百以上の島からなる群島。昔からビルマの重罪人の流刑地だったらしいが、イギリス植民地となって海軍基地も置かれていた。
日本軍がこの島を占領したのは昭和十七年三月のことであるが、十九年ごろからは、戦局が不利になるにつれ、次第に海空の輸送も絶え、日に日に物資・食糧が欠乏するようになる。そこで日本軍は現地人を指導して自給自足態勢の確立に乗り出すが、軍の倉庫や田畑から物品や食糧を盗み出す原住民が多くなった。
そのような状況下、日本軍部と民放部は、「窃盗者は発見次第、現場の長においてただちに銃殺処分すべし」との命令を全島に通達したのである。
島内のダンダスという村で原住民百四十八名を指導した元海軍上等兵曹の場合、きわめて良心的に全力をあげて食糧生産に努めている。村民の一人が甘藷を盗んだことがあったけれども、彼は着物の上から軽く尻を叩いて説諭しただけ。ところが、終戦後、この村民がたまたまマラリアで死亡してしまう。
戦犯裁判で元兵曹は、この一件を合めて四名を殴打殺害したとして起訴された。例によって虚構に満ちた裁判が行われるのだが、原住民の食糧確保に努めたことなどは裁判長も認めざるを得なかったようで、こんな判決をくだしている。
「お前がアンダマン島進駐以来、よく原住民の食糧を確保せしめたことには誠に感激する。また、法
廷に出頭した態度言語ともに日本軍人の模範とするに足る者である。しかし、お前は殺人罪で起訴されておる故、当然、死刑に価するものであるが、その人格に免じて、終身刑を言い渡す」
しかし、アンダマン島軍件においては、これは例外的ケースである。容疑者として逮捕された八十二名のうち、死刑判決は実に四十四名に達していた。
なかでも、海軍が四十名も死刑に処せられたのは、司令官が命令したことを否定し、責任を部下に転嫁したからだ。陸軍では、旅団長が責任を全部引き受けたので、四名の死刑しか出していないのと対照的である。
■戦争の責任は誰が負うべきなのか
シンガポール法廷において、もう一件、特筆すべき軍件は、昭南憲兵隊による英国人抑留者虐待事件である。
昭南とは、日本統治時代のシンガポールのことだが、昭南港は日本軍南方作戦の重要基地で、毎月およそ三万人の部隊が出入りしていた。昭和十八年九月。その昭南港に停泊中の日本油槽船六隻が、磁気性機雷の爆発によって沈没するという事件が突発する。
この捜査に従軍したのが昭南憲兵分隊である。が、数日を経ても事件の真相は明らかにならない。
これに業を煮やした南方総軍司令部は、そのころ噂にもなっていたチャンギー刑務所の英国市民拘留者の教唆による犯行と断定した。その上で、同刑務所の英市民抑留者の一斉検索、容疑者の検事、取り調べと一般市民容疑者の検索(「一号工作」といわれる)を命じたのである。
昭南憲兵分隊は同命令に基づき、一斉検索を実施して、無線送信機用とみられる改造ラジオ、短波ラジオなどとともに容疑者五十名以上(のちに百名以上に増加)を検事し、三十余名を軍件送致した。軍法会議の結果は死刑一、十五年から三年の有期刑十数名であった。この間に、容疑者のうち病死者三名、自殺者一名が出ている。
戦後、この作戦が裁かれることになる。元昭南憲兵分隊長以下十五名の隊員が不法検挙虐待致死行為で起訴された。
この裁判もまた針小棒大または虚偽の証言など各種の不公正のなかで進められ、苛烈な判決が宣せられている。死刑八名、終身刑三名、有期刑四名という結果となった。
この戦犯たちが、数年後、日本に送還されることになった時、シンガポール地区別務長官あてに一通の手紙が届いた。発信人は、かつて昭南憲兵分隊に検挙された英国市民抑留者の一人。手紙はこの裁判の実態のなにがしかをうかがわせてくれる。
「貴刑務所で服役中の終身刑Aが一号工作実施中、終始親切に取扱われたことを感謝し、今次、本国送還に当たり、この親切に何か酬いたいと思う。
しかし、貴下はこの私の申し出に対して、それほどの好意を侍つならば、なぜ同戦犯の裁判時、弁護しなかったのかとの疑念を抱かれることでありましょうが、当時、私は本国に帰還中で、マライに居住しておらず、さらにまた、もし当地におったとしても、当時の一般世論の状況より見て、弁護のため出廷することは到底できなかったことと思う。しかし、戦争終結してすでに六年、私は敢然として英国人が前記親切心に感謝しおる気持を伝えたいと思うのである」
シンガポール軍事法廷で裁かれた事件のうち、最もよく知られているのは、タイメン(泰緬)鉄道建
設に関連する一件であろう。
実は、この裁判を管理・進行したのはイギリス一ヵ国だけではない。イギリスとオーストラリアの連合という形で行われた。裁判長こそ英国人だったが、陪席判事は英豪一名ずつ、検事も英豪一名ずつという構成になっていた。
タイメン鉄道というのは、ビルマのタンビザヤからタイのノンブラドックに至る延々四百キロにおよぶもので、戦前に英国が計画した時は、なんでも六年の歳月と数億円(当時の金)を要すると見こまれていたらしい。これを日本軍はわずか一年余りで完成させたのである(昭和十八年十月末完成)。
それだけに大量の労働力が必要であった。日本軍はもとより、現地人労働者のほかに、多数の俘虜がそのために動員されることになった。
これに充てられたのか、シンガポールの俘虜約一万名(イギリス人とオーストラリア人)。七千名と三千名の二群に分かれて、鉄道輸送されたのだが、途中から工事現場まで約三百キロは、徒歩による行軍となった。熱地を寝るに家なく貧弱な給与のみで行軍したので、七千名組のほうだけでも二千名が落伍した。フィリピンのパターン行軍とならんで二大「死の行軍」と喧伝されるゆえんである。
加えて、工事現場ではコレラが蔓延し、医薬品も不十分、さらに赤痢、マラリア、デング熱なども多
発した。しかし、雨期になっても工事は強行され、俘虜は毎日毎日死んでいったのである。結局、工事を終えて無事シンガポールに引き揚げた俘虜数は、七千名組については約四千名でしかなかったという。
戦後、英豪連合法廷がこの件で起訴したのは、次の二項目である。つまり、俘虜を使役、虐待し、多数の俘虜を死に至らしめたことと、俘虜を不当に処遇し、不良なるキャンプに収容して多数の病者を出し、多大の苦痛を与えたこと。
起訴された者は、現場の工兵隊の元中尉や鉄道連隊の元少尉、俘虜収容所の元所員など七名。うち四名に死刑判決が出され、三名には有期刑が宣告されたが、のちに死刑の四名は無期と十五年に減刑されている。
七千名の俘虜を引率した元所員は、死刑判決後、終身刑に減刑されたが、その手記にこう書いている。
「今次の裁判において一番問題になったことは『命令した』『命令しない』『知らない』ということである。命令の性質はどんなものか説明は無駄である。しかし、その命令も表面に現われた言葉や文字だけで解釈すると充分でない。死生を共にする上官と部下では以心伝心というか、口に発せざるに意中が通ずることがある。あるいは、行動そのものが、また眼の動き方、頭の動かし方が命令になっていることがある。命じた者は、なぜ『命じたと言わなかったか。といって、私は命じた人が罪を犯した人とは毛頭思わない。誰がその地位にあっても、かくあったのである。かくあらしめたものは『戦争』なのであり、その時そうすることが絶対であったのである。戦争の責任は果たして誰が負うべきものであろうか」
戦争の責任は誰が負うべきなのか
どの国のどの法廷についても、最後にはこの疑問にたどりつく。
『戦争裁判 処刑者一千』 戦記シリーズ23 新人物往来社から引用
フランスの捕虜・戦犯収容所
フランスの捕虜・戦犯収容所
″徹底的復讐”誓う主任検事
■仏探偵局の陰惨な拷問
フランスが開設した軍事法廷は、サイゴンーヵ所のみである。ここで被告として裁かれた者二百三十名、死刑判決を受けた者六十三名(執行された者は三十余名)を数える。
仏紙インドシナ(現在のベトナム、ラオス、カンボジア)地域の戦犯容疑者は当初、英軍の管轄下に置かれたが、昭和二十一年三月からは仏軍に移管されている。容疑者として収容された日本人は、二十二年末で約六百五十名に達していたが、仏軍が彼らに加えた虐待、拷問は、英軍に劣らず残酷なものだ
。
通常、仏当局の戦犯局というところが取り調べに当たったが、ここで使われた常套句「白白しなければ探偵局に送るぞ」は、容疑者を怖れさせた。
探偵局というのは、政治思想関係を主に扱うフランスの警察機関。ここが虐待、拷問の舞台となった。
よく使われた拷問に三角拷問というのがある。
三角型の台木を両膝の下に敷き、立て膝の姿勢をとらせるもの。両手は後ろで手錠され、全裸のまま痛みに耐えかねて身動きすると、提棒で殴打されたり、尾骨を靴先で蹴られたり。上から押しつけられ、膝の肉が裂けて、痛みのあまり失神した者もいた。
真っ暗な独房に放置するということもあった。褌ひとつ、両手錠、コンクリートの床の上にムシロー枚で何十日間も監禁する。食事の時さえ施錠されたままである。
断水断食もよく使われた。やはり真っ裸で両手両足は施錠したまま、三日間とか四日間ぐらい放置れた。頭上に「極悪人の日本人であるから、一切の食物を与えてはいけない」という張り紙をされた人もいる。また、念の入ったことに、断水断食を始める前に、多量の下剤や濃食塩水を飲まされたり、断水断食四日目にニリットル半もの水を飲まされたケースもあった。
そのほか、種々の電気拷問も行われたし、足裏を自転軍のチェーンで殴られたり、タバコの火を押しつけられたり、死刑を執行する真似で脅かされたり……。
インドシナに長く住み、安南人を妻にしていた民間の日本人が探偵局に連行されてきたことがあった。開拓者として苦労を積み、財産もかなり蓄えた小地主だったが、なんら戦犯容疑もないのに、独房内で縊死(いし)したという。その妻や一人娘もフランス兵に陵辱された。
また、二人の将校(元大尉と元少佐)は、目をそむけたくなるはど残酷な拷問を受けた。刑務所に帰ってきた時には、耳の穴から血がふき出していたという。二人はこれに抗議して憤死したが、独房内縊死した元大尉は、石けんに爪で「フランス人の暴状に死を以て抗議する」と書いた遺書を残していた。
さらにまた、プノンペン停軍場勤務の元准尉ら二十数名の日本軍逃亡兵が捕えられ、収容所に入られた。彼らの全身はいたるところ傷だらけ、病人のように蒼白な顔色だったという。特に厳重に監視され、取り扱われていたが、一週間後にはどこかへ連れさられてしまい、その後の行方は不明。帰国もしていないし、裁判も受けていないから、人知れず葬りさられたものとみられる。
こうしたことからもわかるように、フランスの戦犯裁判もまた復讐ということに強く支配されていた。
ガルドンという主任検事は、「私は日本人をボルネオの原住民以下に取り扱うだろう」とうそぶき、また、あからさまに、「日本人に対しては徹底的に復讐してやるから覚悟しろ」と豪語してもいるのだ。
フランス当局が準拠した法規は一九四四年の大統領特別命令とアルジェリアにおける植民地治安条例。なかでも問題なのは植民地法規の適用で、戦争では当然の行為とみられるスパイ検挙や俘虜の捕獲などが、この法規にかかると暴徒の集団による不法監禁ということに一変してしまうのだ。
次のような軍情もサイゴン法廷を苛酷にさせた。
まず一つには、日本軍憲兵隊に捕えられたフランス諜報団員や俘虜が、日本人戦犯容疑者を裁く側に参画したこと。さらに、約一世紀近くにもわたりフランスが安逸の夢を貪ってきたインドシナを日本軍のために放棄せざるを得なくなったこと。
第三には、各地法廷でも見られたことだが、日本軍の元上級者たちが責任を回避したことである。
以下、具体的に判決例をみてみることにする。
■”裁判の公正”装うテクニック
プノンペンの元憲兵隊長は、探偵局で二日間の断水断食を体験したうえに、気絶するほどのパンチを浴せられているが、その公判では、フランス側の姑息な手段が暴露された。元隊長以下隊員たちが集団で裁かれたのだが、初めから全く無関係な者四名が被告団のなかに加えられていた。彼らに無罪を宣告することで、裁判の公平性を強調しようと企んだのだ。
だが、この目論見はあえなく崩れてしまう。検事側は、虚構の証人を立てて残虐行為を立証しょうとしたのだが、この証人が、残虐行為の行為者として無罪要員の一人を指名したからである。
にもかかわらず、判決では七名の死刑、十三名の長期刑が出された。
富田という元サイゴン憲兵分隊長のケースは過激だ。
この元少佐には、強制的にサインをさせるべく、一週間にわたってなんと十三種類もの拷問が加えられたという。三角拷問、絶食、断本、火ぜめ、本ぜめ、電気ぜめ、壁土を本に溶かしてのます、心臓部に丸太を激突させる、死刑執行の真似、殴打等々。
死を決して裁判に臨んだ彼は、こうした拷問を法廷で暴露し、不法裁判を痛烈に非難している。しかも、強制的にサインさせられたことについて、 「私が探偵局において拷問を受け、調書に、サインをしたと思っているだろうが、よくサインを見てくれ。決して私の名は署名していない。署名欄には『とんだ苦労をした』と書いただけだ」と叫んで、裁判官や検事をあわてさせた。 が、元少佐もまた他の隊員とともに死刑判決を受けている。
同じくサイゴン憲兵分隊特高班員であった元准尉の場合は、甘言によって欺かれた。准尉は戦時中、捕えたフランス探偵局員から同探偵局に関する重要な情報を入手したが、そのことが戦後、この探偵局員にとっては悩みのタネとなった。なぜなら、もし准尉がこれを法廷でバラそうものなら、局員が本国において裁判を受けなければならなくなることは必定だったからだ。そこで、同局員はこの准尉に甘言を弄して、「法廷においてはもちろん、他のいかなるフランス人に対しても、我々が君に提供した情報の件は口外してくれるな。そうすれば、君の生命は保証してやる」と誘った。同准尉は、この約束を守ったにもかかわらず、結局は処刑されてしまったのである。
むろん、戦時中は日本軍も拷問を行ったことを認める被告もいた。ハノイ憲兵隊で働いた元軍曹は率直にこう記している。
「私はフランス人対日諜報団員を取り調べ中、拷問殴打した。それは、戦場における敵愾心に加えて自己に与えられた任務を遂行せ人とするの熱意により、また彼らスパイ団のため軍軍施設が破壊され、多数の戦友が斃れたことに対する仇討ちの感情により、また彼らに有力なる証拠物件を突きつけても頑として否認し続けたため」
ところが、裁判長はこれに対して、 「お前がこうぃう非人道行為をなしたにもかかわらず、フランスはお前たちに対し給与、医療設備とともに良い待遇を与えている。取り調べに当たっても拷問はしなかったろう。どうだ」 と、ぬけぬけと突っこ人できた。
「まことに申しわけありません。フランスは実に紳士的な取り調べでした」
裁判長の感情を害して自分や同僚の不利にならぬよう、元軍曹は断腸の思いでこう答えざるを得なかったのだという。
北カンボジアでの作戦が戦犯容疑に問われた第二師団捜索第二連隊は、特異な体験を有する部隊である。
原大佐に率いられた同部隊は、終戦後の昭和二十年十月以降、いったん捨てた武器を再び手にした。それも、連合国の命令により、連合国のために武力を行使したのだ。戦後インドシナで盛人になった民族解放運動の脅威から、三百余名の連合国人の生命と財産を守り、無軍、連合国側に引き渡したのであった。
死刑を論告求刑されていた原大佐以下三名に対し、無期という判決が宣告されたのは、前述の功績が認められたからだろう。
同連隊でもっと特異な体験をしたのは、同連隊に配属されていた小貫元大尉だ。
終戦直後の八月二十二日、カンボジアのクラチエで発生したフランス人二名の処刑につき、同大尉は日仏両軍の軍法会議でそれぞれ有罪を宣告されたのである。事件が発生した時、同大尉はクラチエに居なかったのだが、事件には大尉が率いる中隊の部下が関係していた。また、フランス人三人が殺害された翌二十三日の事件にも別の部下が関係していた。事件の背景には、同中隊が本来所属していた部隊長から、無条件降伏は敵側のデマであるので、警備、治安確保を強化するよう命令
が出ていたという事情もある。
まず、八月二日に日本軍の軍法会議が開かれる。
同大尉は、部下を救うために自分の監督下で事件が発生したことにした。師団長をはじめ、上官たちは、大尉やその部下を罪にしないと公言してもいた。ところが、軍法会議の判決は予想に反し、殺人罪で同大尉に懲役十三年を宣告したのだ。
翌昭和二十一年三月、フランス軍に引き渡されることになった時、小貫元大尉は日本軍の獄舎にいた。言語に絶する不当な処遇ゆえに体重は二十キロも落ち、脚気も患っていたのだが、引き渡される前夜には、なんと毒物まで食わされたらしい。
そのために、失神状態のまま引き渡されたのである。
フランス軍の法廷において、大尉は事実のみを述べて上官や関係者の取り調べを求めた。しかし、上官たちは大尉に責任転嫁しただけでなく、師団長に至っては検事側の証人に立って、偽証まで行った。判決は終身刑であった。
こうして、大尉は同一事件について十三年の懲役と終身刑という二重の刑に処せられた。日仏両法廷とも、文明法治国の名にもとる不名誉な冤罪裁判である。
″徹底的復讐”誓う主任検事
■仏探偵局の陰惨な拷問
フランスが開設した軍事法廷は、サイゴンーヵ所のみである。ここで被告として裁かれた者二百三十名、死刑判決を受けた者六十三名(執行された者は三十余名)を数える。
仏紙インドシナ(現在のベトナム、ラオス、カンボジア)地域の戦犯容疑者は当初、英軍の管轄下に置かれたが、昭和二十一年三月からは仏軍に移管されている。容疑者として収容された日本人は、二十二年末で約六百五十名に達していたが、仏軍が彼らに加えた虐待、拷問は、英軍に劣らず残酷なものだ
。
通常、仏当局の戦犯局というところが取り調べに当たったが、ここで使われた常套句「白白しなければ探偵局に送るぞ」は、容疑者を怖れさせた。
探偵局というのは、政治思想関係を主に扱うフランスの警察機関。ここが虐待、拷問の舞台となった。
よく使われた拷問に三角拷問というのがある。
三角型の台木を両膝の下に敷き、立て膝の姿勢をとらせるもの。両手は後ろで手錠され、全裸のまま痛みに耐えかねて身動きすると、提棒で殴打されたり、尾骨を靴先で蹴られたり。上から押しつけられ、膝の肉が裂けて、痛みのあまり失神した者もいた。
真っ暗な独房に放置するということもあった。褌ひとつ、両手錠、コンクリートの床の上にムシロー枚で何十日間も監禁する。食事の時さえ施錠されたままである。
断水断食もよく使われた。やはり真っ裸で両手両足は施錠したまま、三日間とか四日間ぐらい放置れた。頭上に「極悪人の日本人であるから、一切の食物を与えてはいけない」という張り紙をされた人もいる。また、念の入ったことに、断水断食を始める前に、多量の下剤や濃食塩水を飲まされたり、断水断食四日目にニリットル半もの水を飲まされたケースもあった。
そのほか、種々の電気拷問も行われたし、足裏を自転軍のチェーンで殴られたり、タバコの火を押しつけられたり、死刑を執行する真似で脅かされたり……。
インドシナに長く住み、安南人を妻にしていた民間の日本人が探偵局に連行されてきたことがあった。開拓者として苦労を積み、財産もかなり蓄えた小地主だったが、なんら戦犯容疑もないのに、独房内で縊死(いし)したという。その妻や一人娘もフランス兵に陵辱された。
また、二人の将校(元大尉と元少佐)は、目をそむけたくなるはど残酷な拷問を受けた。刑務所に帰ってきた時には、耳の穴から血がふき出していたという。二人はこれに抗議して憤死したが、独房内縊死した元大尉は、石けんに爪で「フランス人の暴状に死を以て抗議する」と書いた遺書を残していた。
さらにまた、プノンペン停軍場勤務の元准尉ら二十数名の日本軍逃亡兵が捕えられ、収容所に入られた。彼らの全身はいたるところ傷だらけ、病人のように蒼白な顔色だったという。特に厳重に監視され、取り扱われていたが、一週間後にはどこかへ連れさられてしまい、その後の行方は不明。帰国もしていないし、裁判も受けていないから、人知れず葬りさられたものとみられる。
こうしたことからもわかるように、フランスの戦犯裁判もまた復讐ということに強く支配されていた。
ガルドンという主任検事は、「私は日本人をボルネオの原住民以下に取り扱うだろう」とうそぶき、また、あからさまに、「日本人に対しては徹底的に復讐してやるから覚悟しろ」と豪語してもいるのだ。
フランス当局が準拠した法規は一九四四年の大統領特別命令とアルジェリアにおける植民地治安条例。なかでも問題なのは植民地法規の適用で、戦争では当然の行為とみられるスパイ検挙や俘虜の捕獲などが、この法規にかかると暴徒の集団による不法監禁ということに一変してしまうのだ。
次のような軍情もサイゴン法廷を苛酷にさせた。
まず一つには、日本軍憲兵隊に捕えられたフランス諜報団員や俘虜が、日本人戦犯容疑者を裁く側に参画したこと。さらに、約一世紀近くにもわたりフランスが安逸の夢を貪ってきたインドシナを日本軍のために放棄せざるを得なくなったこと。
第三には、各地法廷でも見られたことだが、日本軍の元上級者たちが責任を回避したことである。
以下、具体的に判決例をみてみることにする。
■”裁判の公正”装うテクニック
プノンペンの元憲兵隊長は、探偵局で二日間の断水断食を体験したうえに、気絶するほどのパンチを浴せられているが、その公判では、フランス側の姑息な手段が暴露された。元隊長以下隊員たちが集団で裁かれたのだが、初めから全く無関係な者四名が被告団のなかに加えられていた。彼らに無罪を宣告することで、裁判の公平性を強調しようと企んだのだ。
だが、この目論見はあえなく崩れてしまう。検事側は、虚構の証人を立てて残虐行為を立証しょうとしたのだが、この証人が、残虐行為の行為者として無罪要員の一人を指名したからである。
にもかかわらず、判決では七名の死刑、十三名の長期刑が出された。
富田という元サイゴン憲兵分隊長のケースは過激だ。
この元少佐には、強制的にサインをさせるべく、一週間にわたってなんと十三種類もの拷問が加えられたという。三角拷問、絶食、断本、火ぜめ、本ぜめ、電気ぜめ、壁土を本に溶かしてのます、心臓部に丸太を激突させる、死刑執行の真似、殴打等々。
死を決して裁判に臨んだ彼は、こうした拷問を法廷で暴露し、不法裁判を痛烈に非難している。しかも、強制的にサインさせられたことについて、 「私が探偵局において拷問を受け、調書に、サインをしたと思っているだろうが、よくサインを見てくれ。決して私の名は署名していない。署名欄には『とんだ苦労をした』と書いただけだ」と叫んで、裁判官や検事をあわてさせた。 が、元少佐もまた他の隊員とともに死刑判決を受けている。
同じくサイゴン憲兵分隊特高班員であった元准尉の場合は、甘言によって欺かれた。准尉は戦時中、捕えたフランス探偵局員から同探偵局に関する重要な情報を入手したが、そのことが戦後、この探偵局員にとっては悩みのタネとなった。なぜなら、もし准尉がこれを法廷でバラそうものなら、局員が本国において裁判を受けなければならなくなることは必定だったからだ。そこで、同局員はこの准尉に甘言を弄して、「法廷においてはもちろん、他のいかなるフランス人に対しても、我々が君に提供した情報の件は口外してくれるな。そうすれば、君の生命は保証してやる」と誘った。同准尉は、この約束を守ったにもかかわらず、結局は処刑されてしまったのである。
むろん、戦時中は日本軍も拷問を行ったことを認める被告もいた。ハノイ憲兵隊で働いた元軍曹は率直にこう記している。
「私はフランス人対日諜報団員を取り調べ中、拷問殴打した。それは、戦場における敵愾心に加えて自己に与えられた任務を遂行せ人とするの熱意により、また彼らスパイ団のため軍軍施設が破壊され、多数の戦友が斃れたことに対する仇討ちの感情により、また彼らに有力なる証拠物件を突きつけても頑として否認し続けたため」
ところが、裁判長はこれに対して、 「お前がこうぃう非人道行為をなしたにもかかわらず、フランスはお前たちに対し給与、医療設備とともに良い待遇を与えている。取り調べに当たっても拷問はしなかったろう。どうだ」 と、ぬけぬけと突っこ人できた。
「まことに申しわけありません。フランスは実に紳士的な取り調べでした」
裁判長の感情を害して自分や同僚の不利にならぬよう、元軍曹は断腸の思いでこう答えざるを得なかったのだという。
北カンボジアでの作戦が戦犯容疑に問われた第二師団捜索第二連隊は、特異な体験を有する部隊である。
原大佐に率いられた同部隊は、終戦後の昭和二十年十月以降、いったん捨てた武器を再び手にした。それも、連合国の命令により、連合国のために武力を行使したのだ。戦後インドシナで盛人になった民族解放運動の脅威から、三百余名の連合国人の生命と財産を守り、無軍、連合国側に引き渡したのであった。
死刑を論告求刑されていた原大佐以下三名に対し、無期という判決が宣告されたのは、前述の功績が認められたからだろう。
同連隊でもっと特異な体験をしたのは、同連隊に配属されていた小貫元大尉だ。
終戦直後の八月二十二日、カンボジアのクラチエで発生したフランス人二名の処刑につき、同大尉は日仏両軍の軍法会議でそれぞれ有罪を宣告されたのである。事件が発生した時、同大尉はクラチエに居なかったのだが、事件には大尉が率いる中隊の部下が関係していた。また、フランス人三人が殺害された翌二十三日の事件にも別の部下が関係していた。事件の背景には、同中隊が本来所属していた部隊長から、無条件降伏は敵側のデマであるので、警備、治安確保を強化するよう命令
が出ていたという事情もある。
まず、八月二日に日本軍の軍法会議が開かれる。
同大尉は、部下を救うために自分の監督下で事件が発生したことにした。師団長をはじめ、上官たちは、大尉やその部下を罪にしないと公言してもいた。ところが、軍法会議の判決は予想に反し、殺人罪で同大尉に懲役十三年を宣告したのだ。
翌昭和二十一年三月、フランス軍に引き渡されることになった時、小貫元大尉は日本軍の獄舎にいた。言語に絶する不当な処遇ゆえに体重は二十キロも落ち、脚気も患っていたのだが、引き渡される前夜には、なんと毒物まで食わされたらしい。
そのために、失神状態のまま引き渡されたのである。
フランス軍の法廷において、大尉は事実のみを述べて上官や関係者の取り調べを求めた。しかし、上官たちは大尉に責任転嫁しただけでなく、師団長に至っては検事側の証人に立って、偽証まで行った。判決は終身刑であった。
こうして、大尉は同一事件について十三年の懲役と終身刑という二重の刑に処せられた。日仏両法廷とも、文明法治国の名にもとる不名誉な冤罪裁判である。
アメリカの捕虜・戦犯収容所
検証・捕虜収容所の実態
敗者・日本将兵が味わった
屈辱と報復の暴虐
●構成」小林峻・(ジャーナリスト)
一斉に銃を置き、連合国の捕虜となった日本軍将兵。彼らを待ち受けていたのは、収容所での屈辱的な処遇であり、理不尽な戦犯裁判だった。米・英・蘭・仏の各収容所と戦犯裁判で日夜くりかえされた、非人道的行為を検証する
アメリカの捕虜・戦犯収容所
際立つグアム監獄の残虐性
■然えさかる復讐の感情
アメリカがBC級戦犯裁判のための法廷を開設した場所は、横浜、上海、マニラ、中部太平洋上のグアム島とクエゼリン島の五カ所である。ここで戦犯に問われた被告の総数は約千四百人。横浜が最も多くて一千人を越え、次いでマニラ二百余、グァム百余名となっている。その結果、処刑された人はおよそ百四十名である。
どの法廷にも共通するのは、程度の差こそあれ、アメリカの日本に対する復讐という感情である。
マニラ法廷では、それがフィリピン人の反日感情と結びついた。フィリピン人たちの反日感情はすさまじいばかりで、その典型的な例が中田善秋(刑期三十年)の手記に見られる。
ニ十歳ぐらいのフィリピン人インテリ女性が、中田を弁護する証人として法廷に立った。彼女は中田の弁護人の質問に答え、中田が彼女の義兄や彼女の友人の弟を救出したことを証言してくれた。
そこまでは順当だったのだが、しかし、そのあとに続いた弁護士とのやり取りが予想外であった。
「では、被告中田は死刑に価すると思いますか」
「はい」
「なぜ、そう思いますか」
「なぜなら、彼は日本人ですから」
終戦直後のフィリピン人たちの反日感情は、まったく論理を寄せつけないほど昂ぶっていた。
フィリピンでは、戦犯容疑者として逮捕された者が四万名、重湯しか給与されない粗末な待遇のために、そのうちの二万名もが死んでいったといわれる。戦犯第一号となった山下奉文元大将をはじめ、マニラ法廷に引き出された被告たちは、アメリカ軍とばかりではなく、こうしたフィリピン人の反日感情とも戦わねばならなかった。
元陸軍中尉・日高重美は昭和十九年一月、情報将校として所属部隊とともにフィリピンのセブ島に到着、ゲリラ討伐隊と行を共にしたことがあったが、そのことで戦後、告訴される。討伐隊はゲリラ四名を殺害したが、日高は命令によって情報将校として同行しただけで、殺害には加わっていない。が、告訴によれば、非武装の一般市民を故意かつ不法に殺害したというのだ。
裁刊には、検事側証人としてフィリピン警察隊の地区隊長が出てきた。討伐隊がゲリラ討伐を実施した地区の隊長で、日高被告とも熟知の間柄。この隊長がまったく嘘の証言をしたのである。つまり「私は討伐隊が引きあげてきた時、日高中尉と面談しました。日高中尉は、いまゲリラを討伐して殺してきたといい、この刀で斬ったのだと軍刀を抜いて、鮮血したたる刀身を私に見せたのです」と証言した。むろん、被告はゲリラを殺害したこともないし、隊長に軍刀を抜いて見せたこともない。
では、隊長はなぜこ人な嘘の証言をしたのであろうか。
彼は戦時中、ゲリラ討伐等において日本軍に積極的に協力した。自分の妻がゲリラの襲撃にあって負傷、身体障害者になっていたというせいもあったようだ。
そのために終戦後、彼はフィリピン政府により死刑判決を受けていたのであった。こうした境遇から解放されるかもしれないという一縷の望みを、日高らに対する偽証に託したものと判断せざるを得ない。
米軍検事は、隊長のこの弱昧に便乗した。そして、先の嘘の証言をなさしめたというわけだ。ここでは、フィリピン人の反日感情とアメリカ人の復讐心がうまく連携しているのである。
こうして日高元中尉は、マニラ法廷において終身刑を宣告される。この隊長が唯一の証人となった結果であった。
■グアム監獄の虐待の数々
アメリカの復讐がもっとストレートで露骨な形態をとるのは、グアムの監獄においてである。それは、被告や囚人に対する虐待となって現われた。
虐待は連合軍各国のどの収容所にも共通して見られるのだが、グアムの虐待ほど残酷をきわめたものはない。アメリカ人というよりも、人間がいかに性悪な生き物であることか、グアムの虐待を知って深い絶望感に襲われる人も少なくないだろう。
殴る蹴るはもとより、およそ思いつく限りの虐待がなされた。たとえば、こんな具合であるー。
◎独房のドアは、上部が有刺鉄線で格子づくりになっていたが、そこに力いっぱい押しつけられた。
そのために、左腕には何カ所も刺が食いこんで出血、いくつかは傷痕となって何年も残った。
◎眼かくしをさせられて、獄舎の廊下を走らされた。当然、廊下の端で転落してしまう。それを見て、米兵の曰く「非はお前自身が招いたのだ」。
◎収容者一人一人に口を開けさせ、金歯を入れている者がいれば、それを釘抜きで取ってまわった。
拒絶すると、棍棒で叩かれたのである。当人ばかりでなく、全員が叩かれたケースもある。
日本人同士で拳闘をやらされた。手加減をしていると、米兵は「模範を示してやる」といって、力いっぱい頭、胸、腹を殴ってみせる。そうなると、仲間同士で力いっぱい殴りあわざるを得なくなる。
◎独房から用便に行く時は、房のドアの手前に座り、番兵に向かって合掌して願い出る。ドアを開けてもらうと、再び座って合掌し、「サンキュー、べリーマッチ、サー」と礼を言う。駆け足で用便に行き、もどってくると、ドアの外側に座って拝み、またも「サンキュー、ベリーマッチ、サー」。房内に入って施錠されたあと、またまた合掌して「サンキュー、ベリーマッチ、サー」と言う。 これを一ヵ月半も続けてやらされた。
◎獄舎の一棟全員が、ドアの前で不動の姿勢をとらされ、目を開けたままドアの網につけているように命ぜられた。開いた目に何がなされたか。唾を吐きこまれたのである。
◎少女のような顔と体つきをした某海軍大尉は、米兵が見回りに来るごとにきまってやらされることがあった。「あなたは私を好きなの?」という英語に節をつけて歌わされ、ワイセツな格好で腰を振らせらたのだった。
◎手淫を強制したり、被告の口中に陰茎を挿入し射精する番兵がいた。ある兵曹は二晩も夜中に拳銃をつきつけられて、二人がかりで無理矢理それを口の中に押しこまれた。また、別の若い兵曹は、ある夜これを強要され、「許してくれ」と泣いて抵抗した。しかし、強引に引っぱって便所へ連れこまれたという。
◎ある海軍大尉は、草刈作業をする時、首に縄をつけて引き回された。また、ある海軍中佐は、ペンチで生爪をはがされた。
◎感電死した兵曹もいる。ある日の午後、便所のドアの把手に手をかけた瞬間に感電、即死したのだ。
当局からは何の説明もなし。虐待の嵐が最高潮に達していた析だけに、いつか我が身にもという恐怖感を収容者に与えた。
◎一棟の十四名全員が犬、猫、虎、鶏、豚の鳴き真似をやらされた。かつての将官、佐官、尉官が子供のような番兵の命令にしたがって、「ワンワンワン」、「ニャーゴオ、ニャーゴオ」、「コケコッコー、コケコッコー」と一斉にやらねばならない。
◎六十有余歳の睦軍中佐は、よく裸でヮイセツな踊りをやらされていたが、その日はシャワーを使って
素裸のままこれをやらされ、非番の米兵たちが大勢おしかけて来てワイワイ笑いながら見物していた。そして翌日、その中佐は判決により処刑されたのだった。
◎父島の海軍指揮官であった元海軍中将は、全戦犯の眼前で白昼、炎天下において屈辱的な虐待を受けた。褌ひとつの裸体に靴をはかされるという奇妙な格好で独房より引き出された彼は、四陳の収容所の中庭に置かれた給水タンク自動車に駆け登らされたのである。少し離れたところから助走させ、その勢いで自動車を乗り越えさせるのだ。
これを何十回となくくり返しやらされた。元中将は相当に肥満体であったから、回を重ねるにつれ、気息エンエンとなって、ついにへたばり起きあがれなくなってしまったのである。彼はグアムでの判決は終身刑だったが、他の法廷で死刑判決を受け、蘭印で処刑された。
◎別の元海軍中将も元海軍大佐とともに同じような屈辱を味わわされている。
二人はやはり白昼の炎天下、独房より引き出されてバケツを二個ずつ持たされた。防人用として二練の収容所に一つずつ備えられていたドラム缶に水を運ばされたのである。約百メートルも離れた水浴場からバケツ二十四杯分を運ぶとドラム缶は一杯になった。しかし、これで終わったのではない。二個のドラム缶が満水になったとた人、番兵たちは放水して缶を蹴かえし、再び満水にするよう命じたのだ。これを何回となくくり返し、ついに二人が倒れるまで続行したのである。このような虐待を受けて、元中将は刑死していった。
以上のような虐待は、不起訴になって帰国した者などの通報によって総司令部の知るところとなり、
訓育の結果、収容所の米職員全員が交代させられる昭和二十二年人月まで続いたのである。
ただ、ここで付記しておかなければならないのは、すべての米兵が虐待行為をしたのではないということだ。なかには、少ないながらも良心的な米兵もした。
「こいつ、アメリカ人を何人も殺しやがったんだ」と、アメリカ人番兵が元少佐を虐待していた時、見回りに来た米人下士官はその番兵に対してこう諭したという。
「彼は指揮官の命令に従った。もし君が君の中隊長から敵を殺せと命令されたら、君はどうするか。自分なら命令に従って殺すだろう。君の場合も同じだと思う。彼らもそれと同じ立場だ。可哀想ではないか。親切にしてやるべきだとは思わぬか」
下士官の理解ある言葉に喜んで、元少佐はつい涙ぐんでしまうのである。
■不合理に便乗した処罰の拡大
横浜法廷で裁かれた事件のうち、最も復讐的なケースといわれているのが石垣島事件である。
すでに米軍が沖縄本島に上陸を始めていた終戦の年の四月十五日ごろ、事件は石垣島において発生した。
同島海軍警備隊は、石垣市街を盲爆していた米攻撃機一機を撃墜し、落下傘で降下した搭乗員三名を捕獲した。警備隊司令が三名を取り調べたうえ、部下に処刑を命じた。命令に従い、隊員は分担してその日のうちに二名を斬首し、一名を刺殺したものである。戦後、GHQあての投書によって事件は発覚した。
米側による初期調査において、元警備隊の上官たちの間で責任のなすり合いが発生し、隊内の指揮系統が不明瞭なものになった。また、日本側弁護団の策動が加わって、ますます事件は不明瞭なものになっていった。つまり、誰が誰に命令を出したのかということがわからなくなったのだ。
そのために、起訴の段階では、四十六名の被告による”共同謀議”上は司令から、下は軍籍に入ってわずか十五日という一兵卒に至るまでの”共同謀議”が行われたということにされた。階級の上下に厳格な日本の軍隊の実態から考えると、あるまじきことである。
復讐にはやるアメリカ側が、日本側の醜態に、これ幸いと便乗したといえるだろう。
裁判の結果もまた、きわめて不合理だった。
上官たちは、処刑を命令し、強制し、実行せしめたということで有罪となった。一方、部下たちは、命令によらず、自由意志で共同謀議し、実行したことが有罪とされた。これでは、上官たちは存在しない者に命令をくだしたということになるだろう。
このような不合理によって、判決は多数の死刑宣告を導き出した。四十六人の起訴者のうち、死刑宣告を受けた者の数は実に四十一名にも達したのだ。
アメリカの意図は、不合理を追及して真実を発見することにあったのではなく、不合理に便乗して多数の日本人を処刑することにあったとみるほかない。石垣島事件が最も復讐的といわれる所以である。
なお、四十一人のうち死刑を執行された者は七名、他は再審あるいは再々審によって減刑または無罪となった。
上級者が責任を免れ、そのために下級者に過重な刑が科せられるという例は、どの法廷でも少なからずあったようだ。横浜法廷では、九州福岡の西部軍が米機搭乗員を処刑した事件の裁判で、そのような事態が発生している。
同事件において、命令によって二名を斬り、死刑(のち無期に減刑を宣告された元陸軍大尉は、大略、次のように書いている。
「高級幹部の各々が直接間接に下級者に責任の転嫁をなし、責任の存在をウヤムヤにした。米軍の審理がそれを最后まで究明しなかったことと両々相まって、下士官に至るまで軍司令官と共同謀議して謀殺したるが如き、軍隊としてあり得ない起訴条項が認められた。同種の東海軍、中部軍の執行者が無罪ないしは刑の執行中止の判決を受けたにもかかわらず、西部軍の下級者は高級者の犠牲にされた」
また、同じ横浜法廷で裁かれた潜水艦事件では、もっと大がかりな責任回避が行われた。
昭和十八年に入り、ガダルカナル島の撤退作戦が始まる等、戦況が不利となるにしたがって、中央の海軍司令部で明確になっていった方針がある。
すなわち、「撃沈した商船乗員は、情報収集に必要とする者を残して、その他は徹底的にこれを処分すべし」
この日本海軍の方針に従って、潜水艦隊は何度か敵商船乗員を処分した。
戦後、これが戦犯裁判にかけられ、横浜法廷で被告四十数名の合同裁判が行われることになった。
ところが、A級戦犯を裁く東京裁判において、本事件のような乱暴な行為は、現地で勝手にやったことであり、中央当局のあずかり知らぬことだと一蹴されたのである。累が天皇陛下に及ぶことを避ける
のが、当初の一大要件ではあったが、その懸念がなくなってからも、これを口実に責任回避が行われていたのだ。
その結果、判決では、現地の司令官以下幹部級十六名が有罪となり、二十数名の者が無罪釈放された
。中央部の上級者が責任を回避し通したことはいうまでもあるまい。
なお、同じような目にあったのは潜水艦隊だけに限らない。「敵商船乗員は処分すべし」という海軍方針に基づいて、インド洋上で撃沈商船乗員を処分した巡洋艦戦隊の司令官は、戦後の英国による戦犯裁判で死刑に処せられた。その上級司令部である南西方面艦隊司令部の首脳部はその責任を回避したということである。
■「上海軍律会議事件」裁判の″特異性″
こうしたケースに眼らず、様々な不公平が目立つ戦犯裁判のなかにあって、当時としては比較的に公平に行われたといわれる裁判例が上海法廷には存在した。上海軍律会議事件がそれである。
昭和十七年四月、米軍爆撃機十六機は東京、名古屋、阪神と日本本土を初空襲して中国大陸へ引きあげる途中、そのうちの二機が落下、搭乗員八名が中国派遣の日本軍に逮捕された。
これを機に制定されたのが、無差別爆撃をした敵機乗員を処罰する軍律である。最高刑は死刑とされ、軍律制定前の行為にも遡及して適用されるものと規定されていた。
同年八月、事件を裁くことになった第十三軍は、所定の手続きを経て軍律会議を間く。米搭乗員八名が出廷し、約二時間の審理を行い、続いての評議の結果、八名は死刑と審判された。
その後、大本営からの命令によって、五名は無期監禁に減刑され、三名に死刑が執行されたのだった。
戦後、この事件の関係者を戦犯に問うた米軍は、戦死者を除いた四名を上海法廷の被告席に座らせた。第十三軍の司令官、軍律会議審判官二名、第十三軍拘置分所長が被告となった。
裁判は、冒頭から注目すべき展開を見せる。予断を持った裁判官一名を忌避するという動議が弁護団より出され、評議の結果、それが認められたのである。このような例が他の法廷であり得ただろうか。
さらに、弁護団は束京、名古屋に出張して弁護資料を収集するため約二週間の休廷を申し出る。
これまた認められたのである。
アメリカ人の弁護人二名の活動も光っている。検事側証人として、日本本土空襲に参加した米軍大尉が出廷した時、弁護人は決定的な反証を提出した。その大尉が、日本の民家に焼夷弾を投下したという事実を自己の署名入りで書いているが、それは事実かと弁護人は訊問した。そればかりか、その署名入りの書類を証人の眼前につきつけたのだ。検事側は、米軍が無差別爆撃などしていないという前提に立っていただけに、この反証は効果てき面、証人は顔を真っ赤にして立ち往生してしまった。検事や証人よりも、もっと仰大したのは日本人被告たちだったにちがいない。「被告人に有利になり米人の困るような書類を米人弁護人から提出せずともよいのにと我々は驚かされ、裁判はかくあるべきものかとの第一印象を深くきざみ込まれたのであった」と、被告の一人は書き残している。
二人の弁護人は、こうした書類など弁護資料を熱心に収集したばかりでなく、被告と打ち合わせの時は果物や菓子などの手土産を持ってきてくれたし、タバコも勧めてくれ、被告の言うこともよく聞いてくれて、公私ともに至れる尽せりだった。
そのために、上海の新聞に「弁護人は米人であるか、日本人であるか」とたたかれたほどだという。
裁判官もまた親切だった。第十三軍の元司令官は、大本営に米人飛行士三人の減刑嘆願の電報を打だなかったと陳述していたのだが、裁判官の一人は再び元司令官を証人台に呼び出して、次のように訊ねた。つまり、参謀長の供述書にある通り、減刑嘆願の電報を打ったというのが真相であり、打たなかったという先の陳述は記憶違いであろうと念を押したというのだ。
もっとも、元司令官は墟の陳述をして他の三被告に過重な責任がかかっては申し訳けないというので、先の陳述をひるがえすことはなかったそうである。
かくして、出された判決は司令官に重労働五年、審判官二人にはそれぞれ重労働九年と五年、分所長に重労働五年というもので、当時としてはとても考えられないほど軽い刑であった。被告たちも、「身体が急に軽くなるのを感じたほどで、自動車運転手が致死罪で罰金刑のいい渡しを受けるより軽い感覚ではなかったか」と受けとめている。
この上海軍律事件の裁判がきわめて稀なースであったというところに、戦犯裁判の過酷さがうかが
えるのである。
『戦争裁判 処刑者一千』戦記シリーズ23 新人物往来社から引用
敗者・日本将兵が味わった
屈辱と報復の暴虐
●構成」小林峻・(ジャーナリスト)
一斉に銃を置き、連合国の捕虜となった日本軍将兵。彼らを待ち受けていたのは、収容所での屈辱的な処遇であり、理不尽な戦犯裁判だった。米・英・蘭・仏の各収容所と戦犯裁判で日夜くりかえされた、非人道的行為を検証する
アメリカの捕虜・戦犯収容所
際立つグアム監獄の残虐性
■然えさかる復讐の感情
アメリカがBC級戦犯裁判のための法廷を開設した場所は、横浜、上海、マニラ、中部太平洋上のグアム島とクエゼリン島の五カ所である。ここで戦犯に問われた被告の総数は約千四百人。横浜が最も多くて一千人を越え、次いでマニラ二百余、グァム百余名となっている。その結果、処刑された人はおよそ百四十名である。
どの法廷にも共通するのは、程度の差こそあれ、アメリカの日本に対する復讐という感情である。
マニラ法廷では、それがフィリピン人の反日感情と結びついた。フィリピン人たちの反日感情はすさまじいばかりで、その典型的な例が中田善秋(刑期三十年)の手記に見られる。
ニ十歳ぐらいのフィリピン人インテリ女性が、中田を弁護する証人として法廷に立った。彼女は中田の弁護人の質問に答え、中田が彼女の義兄や彼女の友人の弟を救出したことを証言してくれた。
そこまでは順当だったのだが、しかし、そのあとに続いた弁護士とのやり取りが予想外であった。
「では、被告中田は死刑に価すると思いますか」
「はい」
「なぜ、そう思いますか」
「なぜなら、彼は日本人ですから」
終戦直後のフィリピン人たちの反日感情は、まったく論理を寄せつけないほど昂ぶっていた。
フィリピンでは、戦犯容疑者として逮捕された者が四万名、重湯しか給与されない粗末な待遇のために、そのうちの二万名もが死んでいったといわれる。戦犯第一号となった山下奉文元大将をはじめ、マニラ法廷に引き出された被告たちは、アメリカ軍とばかりではなく、こうしたフィリピン人の反日感情とも戦わねばならなかった。
元陸軍中尉・日高重美は昭和十九年一月、情報将校として所属部隊とともにフィリピンのセブ島に到着、ゲリラ討伐隊と行を共にしたことがあったが、そのことで戦後、告訴される。討伐隊はゲリラ四名を殺害したが、日高は命令によって情報将校として同行しただけで、殺害には加わっていない。が、告訴によれば、非武装の一般市民を故意かつ不法に殺害したというのだ。
裁刊には、検事側証人としてフィリピン警察隊の地区隊長が出てきた。討伐隊がゲリラ討伐を実施した地区の隊長で、日高被告とも熟知の間柄。この隊長がまったく嘘の証言をしたのである。つまり「私は討伐隊が引きあげてきた時、日高中尉と面談しました。日高中尉は、いまゲリラを討伐して殺してきたといい、この刀で斬ったのだと軍刀を抜いて、鮮血したたる刀身を私に見せたのです」と証言した。むろん、被告はゲリラを殺害したこともないし、隊長に軍刀を抜いて見せたこともない。
では、隊長はなぜこ人な嘘の証言をしたのであろうか。
彼は戦時中、ゲリラ討伐等において日本軍に積極的に協力した。自分の妻がゲリラの襲撃にあって負傷、身体障害者になっていたというせいもあったようだ。
そのために終戦後、彼はフィリピン政府により死刑判決を受けていたのであった。こうした境遇から解放されるかもしれないという一縷の望みを、日高らに対する偽証に託したものと判断せざるを得ない。
米軍検事は、隊長のこの弱昧に便乗した。そして、先の嘘の証言をなさしめたというわけだ。ここでは、フィリピン人の反日感情とアメリカ人の復讐心がうまく連携しているのである。
こうして日高元中尉は、マニラ法廷において終身刑を宣告される。この隊長が唯一の証人となった結果であった。
■グアム監獄の虐待の数々
アメリカの復讐がもっとストレートで露骨な形態をとるのは、グアムの監獄においてである。それは、被告や囚人に対する虐待となって現われた。
虐待は連合軍各国のどの収容所にも共通して見られるのだが、グアムの虐待ほど残酷をきわめたものはない。アメリカ人というよりも、人間がいかに性悪な生き物であることか、グアムの虐待を知って深い絶望感に襲われる人も少なくないだろう。
殴る蹴るはもとより、およそ思いつく限りの虐待がなされた。たとえば、こんな具合であるー。
◎独房のドアは、上部が有刺鉄線で格子づくりになっていたが、そこに力いっぱい押しつけられた。
そのために、左腕には何カ所も刺が食いこんで出血、いくつかは傷痕となって何年も残った。
◎眼かくしをさせられて、獄舎の廊下を走らされた。当然、廊下の端で転落してしまう。それを見て、米兵の曰く「非はお前自身が招いたのだ」。
◎収容者一人一人に口を開けさせ、金歯を入れている者がいれば、それを釘抜きで取ってまわった。
拒絶すると、棍棒で叩かれたのである。当人ばかりでなく、全員が叩かれたケースもある。
日本人同士で拳闘をやらされた。手加減をしていると、米兵は「模範を示してやる」といって、力いっぱい頭、胸、腹を殴ってみせる。そうなると、仲間同士で力いっぱい殴りあわざるを得なくなる。
◎独房から用便に行く時は、房のドアの手前に座り、番兵に向かって合掌して願い出る。ドアを開けてもらうと、再び座って合掌し、「サンキュー、べリーマッチ、サー」と礼を言う。駆け足で用便に行き、もどってくると、ドアの外側に座って拝み、またも「サンキュー、ベリーマッチ、サー」。房内に入って施錠されたあと、またまた合掌して「サンキュー、ベリーマッチ、サー」と言う。 これを一ヵ月半も続けてやらされた。
◎獄舎の一棟全員が、ドアの前で不動の姿勢をとらされ、目を開けたままドアの網につけているように命ぜられた。開いた目に何がなされたか。唾を吐きこまれたのである。
◎少女のような顔と体つきをした某海軍大尉は、米兵が見回りに来るごとにきまってやらされることがあった。「あなたは私を好きなの?」という英語に節をつけて歌わされ、ワイセツな格好で腰を振らせらたのだった。
◎手淫を強制したり、被告の口中に陰茎を挿入し射精する番兵がいた。ある兵曹は二晩も夜中に拳銃をつきつけられて、二人がかりで無理矢理それを口の中に押しこまれた。また、別の若い兵曹は、ある夜これを強要され、「許してくれ」と泣いて抵抗した。しかし、強引に引っぱって便所へ連れこまれたという。
◎ある海軍大尉は、草刈作業をする時、首に縄をつけて引き回された。また、ある海軍中佐は、ペンチで生爪をはがされた。
◎感電死した兵曹もいる。ある日の午後、便所のドアの把手に手をかけた瞬間に感電、即死したのだ。
当局からは何の説明もなし。虐待の嵐が最高潮に達していた析だけに、いつか我が身にもという恐怖感を収容者に与えた。
◎一棟の十四名全員が犬、猫、虎、鶏、豚の鳴き真似をやらされた。かつての将官、佐官、尉官が子供のような番兵の命令にしたがって、「ワンワンワン」、「ニャーゴオ、ニャーゴオ」、「コケコッコー、コケコッコー」と一斉にやらねばならない。
◎六十有余歳の睦軍中佐は、よく裸でヮイセツな踊りをやらされていたが、その日はシャワーを使って
素裸のままこれをやらされ、非番の米兵たちが大勢おしかけて来てワイワイ笑いながら見物していた。そして翌日、その中佐は判決により処刑されたのだった。
◎父島の海軍指揮官であった元海軍中将は、全戦犯の眼前で白昼、炎天下において屈辱的な虐待を受けた。褌ひとつの裸体に靴をはかされるという奇妙な格好で独房より引き出された彼は、四陳の収容所の中庭に置かれた給水タンク自動車に駆け登らされたのである。少し離れたところから助走させ、その勢いで自動車を乗り越えさせるのだ。
これを何十回となくくり返しやらされた。元中将は相当に肥満体であったから、回を重ねるにつれ、気息エンエンとなって、ついにへたばり起きあがれなくなってしまったのである。彼はグアムでの判決は終身刑だったが、他の法廷で死刑判決を受け、蘭印で処刑された。
◎別の元海軍中将も元海軍大佐とともに同じような屈辱を味わわされている。
二人はやはり白昼の炎天下、独房より引き出されてバケツを二個ずつ持たされた。防人用として二練の収容所に一つずつ備えられていたドラム缶に水を運ばされたのである。約百メートルも離れた水浴場からバケツ二十四杯分を運ぶとドラム缶は一杯になった。しかし、これで終わったのではない。二個のドラム缶が満水になったとた人、番兵たちは放水して缶を蹴かえし、再び満水にするよう命じたのだ。これを何回となくくり返し、ついに二人が倒れるまで続行したのである。このような虐待を受けて、元中将は刑死していった。
以上のような虐待は、不起訴になって帰国した者などの通報によって総司令部の知るところとなり、
訓育の結果、収容所の米職員全員が交代させられる昭和二十二年人月まで続いたのである。
ただ、ここで付記しておかなければならないのは、すべての米兵が虐待行為をしたのではないということだ。なかには、少ないながらも良心的な米兵もした。
「こいつ、アメリカ人を何人も殺しやがったんだ」と、アメリカ人番兵が元少佐を虐待していた時、見回りに来た米人下士官はその番兵に対してこう諭したという。
「彼は指揮官の命令に従った。もし君が君の中隊長から敵を殺せと命令されたら、君はどうするか。自分なら命令に従って殺すだろう。君の場合も同じだと思う。彼らもそれと同じ立場だ。可哀想ではないか。親切にしてやるべきだとは思わぬか」
下士官の理解ある言葉に喜んで、元少佐はつい涙ぐんでしまうのである。
■不合理に便乗した処罰の拡大
横浜法廷で裁かれた事件のうち、最も復讐的なケースといわれているのが石垣島事件である。
すでに米軍が沖縄本島に上陸を始めていた終戦の年の四月十五日ごろ、事件は石垣島において発生した。
同島海軍警備隊は、石垣市街を盲爆していた米攻撃機一機を撃墜し、落下傘で降下した搭乗員三名を捕獲した。警備隊司令が三名を取り調べたうえ、部下に処刑を命じた。命令に従い、隊員は分担してその日のうちに二名を斬首し、一名を刺殺したものである。戦後、GHQあての投書によって事件は発覚した。
米側による初期調査において、元警備隊の上官たちの間で責任のなすり合いが発生し、隊内の指揮系統が不明瞭なものになった。また、日本側弁護団の策動が加わって、ますます事件は不明瞭なものになっていった。つまり、誰が誰に命令を出したのかということがわからなくなったのだ。
そのために、起訴の段階では、四十六名の被告による”共同謀議”上は司令から、下は軍籍に入ってわずか十五日という一兵卒に至るまでの”共同謀議”が行われたということにされた。階級の上下に厳格な日本の軍隊の実態から考えると、あるまじきことである。
復讐にはやるアメリカ側が、日本側の醜態に、これ幸いと便乗したといえるだろう。
裁判の結果もまた、きわめて不合理だった。
上官たちは、処刑を命令し、強制し、実行せしめたということで有罪となった。一方、部下たちは、命令によらず、自由意志で共同謀議し、実行したことが有罪とされた。これでは、上官たちは存在しない者に命令をくだしたということになるだろう。
このような不合理によって、判決は多数の死刑宣告を導き出した。四十六人の起訴者のうち、死刑宣告を受けた者の数は実に四十一名にも達したのだ。
アメリカの意図は、不合理を追及して真実を発見することにあったのではなく、不合理に便乗して多数の日本人を処刑することにあったとみるほかない。石垣島事件が最も復讐的といわれる所以である。
なお、四十一人のうち死刑を執行された者は七名、他は再審あるいは再々審によって減刑または無罪となった。
上級者が責任を免れ、そのために下級者に過重な刑が科せられるという例は、どの法廷でも少なからずあったようだ。横浜法廷では、九州福岡の西部軍が米機搭乗員を処刑した事件の裁判で、そのような事態が発生している。
同事件において、命令によって二名を斬り、死刑(のち無期に減刑を宣告された元陸軍大尉は、大略、次のように書いている。
「高級幹部の各々が直接間接に下級者に責任の転嫁をなし、責任の存在をウヤムヤにした。米軍の審理がそれを最后まで究明しなかったことと両々相まって、下士官に至るまで軍司令官と共同謀議して謀殺したるが如き、軍隊としてあり得ない起訴条項が認められた。同種の東海軍、中部軍の執行者が無罪ないしは刑の執行中止の判決を受けたにもかかわらず、西部軍の下級者は高級者の犠牲にされた」
また、同じ横浜法廷で裁かれた潜水艦事件では、もっと大がかりな責任回避が行われた。
昭和十八年に入り、ガダルカナル島の撤退作戦が始まる等、戦況が不利となるにしたがって、中央の海軍司令部で明確になっていった方針がある。
すなわち、「撃沈した商船乗員は、情報収集に必要とする者を残して、その他は徹底的にこれを処分すべし」
この日本海軍の方針に従って、潜水艦隊は何度か敵商船乗員を処分した。
戦後、これが戦犯裁判にかけられ、横浜法廷で被告四十数名の合同裁判が行われることになった。
ところが、A級戦犯を裁く東京裁判において、本事件のような乱暴な行為は、現地で勝手にやったことであり、中央当局のあずかり知らぬことだと一蹴されたのである。累が天皇陛下に及ぶことを避ける
のが、当初の一大要件ではあったが、その懸念がなくなってからも、これを口実に責任回避が行われていたのだ。
その結果、判決では、現地の司令官以下幹部級十六名が有罪となり、二十数名の者が無罪釈放された
。中央部の上級者が責任を回避し通したことはいうまでもあるまい。
なお、同じような目にあったのは潜水艦隊だけに限らない。「敵商船乗員は処分すべし」という海軍方針に基づいて、インド洋上で撃沈商船乗員を処分した巡洋艦戦隊の司令官は、戦後の英国による戦犯裁判で死刑に処せられた。その上級司令部である南西方面艦隊司令部の首脳部はその責任を回避したということである。
■「上海軍律会議事件」裁判の″特異性″
こうしたケースに眼らず、様々な不公平が目立つ戦犯裁判のなかにあって、当時としては比較的に公平に行われたといわれる裁判例が上海法廷には存在した。上海軍律会議事件がそれである。
昭和十七年四月、米軍爆撃機十六機は東京、名古屋、阪神と日本本土を初空襲して中国大陸へ引きあげる途中、そのうちの二機が落下、搭乗員八名が中国派遣の日本軍に逮捕された。
これを機に制定されたのが、無差別爆撃をした敵機乗員を処罰する軍律である。最高刑は死刑とされ、軍律制定前の行為にも遡及して適用されるものと規定されていた。
同年八月、事件を裁くことになった第十三軍は、所定の手続きを経て軍律会議を間く。米搭乗員八名が出廷し、約二時間の審理を行い、続いての評議の結果、八名は死刑と審判された。
その後、大本営からの命令によって、五名は無期監禁に減刑され、三名に死刑が執行されたのだった。
戦後、この事件の関係者を戦犯に問うた米軍は、戦死者を除いた四名を上海法廷の被告席に座らせた。第十三軍の司令官、軍律会議審判官二名、第十三軍拘置分所長が被告となった。
裁判は、冒頭から注目すべき展開を見せる。予断を持った裁判官一名を忌避するという動議が弁護団より出され、評議の結果、それが認められたのである。このような例が他の法廷であり得ただろうか。
さらに、弁護団は束京、名古屋に出張して弁護資料を収集するため約二週間の休廷を申し出る。
これまた認められたのである。
アメリカ人の弁護人二名の活動も光っている。検事側証人として、日本本土空襲に参加した米軍大尉が出廷した時、弁護人は決定的な反証を提出した。その大尉が、日本の民家に焼夷弾を投下したという事実を自己の署名入りで書いているが、それは事実かと弁護人は訊問した。そればかりか、その署名入りの書類を証人の眼前につきつけたのだ。検事側は、米軍が無差別爆撃などしていないという前提に立っていただけに、この反証は効果てき面、証人は顔を真っ赤にして立ち往生してしまった。検事や証人よりも、もっと仰大したのは日本人被告たちだったにちがいない。「被告人に有利になり米人の困るような書類を米人弁護人から提出せずともよいのにと我々は驚かされ、裁判はかくあるべきものかとの第一印象を深くきざみ込まれたのであった」と、被告の一人は書き残している。
二人の弁護人は、こうした書類など弁護資料を熱心に収集したばかりでなく、被告と打ち合わせの時は果物や菓子などの手土産を持ってきてくれたし、タバコも勧めてくれ、被告の言うこともよく聞いてくれて、公私ともに至れる尽せりだった。
そのために、上海の新聞に「弁護人は米人であるか、日本人であるか」とたたかれたほどだという。
裁判官もまた親切だった。第十三軍の元司令官は、大本営に米人飛行士三人の減刑嘆願の電報を打だなかったと陳述していたのだが、裁判官の一人は再び元司令官を証人台に呼び出して、次のように訊ねた。つまり、参謀長の供述書にある通り、減刑嘆願の電報を打ったというのが真相であり、打たなかったという先の陳述は記憶違いであろうと念を押したというのだ。
もっとも、元司令官は墟の陳述をして他の三被告に過重な責任がかかっては申し訳けないというので、先の陳述をひるがえすことはなかったそうである。
かくして、出された判決は司令官に重労働五年、審判官二人にはそれぞれ重労働九年と五年、分所長に重労働五年というもので、当時としてはとても考えられないほど軽い刑であった。被告たちも、「身体が急に軽くなるのを感じたほどで、自動車運転手が致死罪で罰金刑のいい渡しを受けるより軽い感覚ではなかったか」と受けとめている。
この上海軍律事件の裁判がきわめて稀なースであったというところに、戦犯裁判の過酷さがうかが
えるのである。
『戦争裁判 処刑者一千』戦記シリーズ23 新人物往来社から引用
オランダの捕虜・戦犯収容所
オランダの捕虜・戦犯収容所
「組織的テロ行為」含め死刑236人
■捕虜をいたぶり尽す残虐非道
オランダ領東インド(蘭印)地区において、オランダが終戦後、開設した軍法会議は次の十二ヵ所におよんでいる。
ジャワ島のバタビア
セレベス島のメナド、マカッサル
ボルネオ島のバリックパパン、パンゼルマシン、ポンティアナック
スマトラ島のメダン
チモール島のクーパン
ニューギュア島のホーランディア
アンボイナ島のアンボン
ハルマヘラ島のモロタイ
ピンタン島のタンジョンピナン
ここで裁かれたBC級戦犯は一千人以上、アメリカが裁いた一千四百人に次ぐ。また、死刑二百三十六人という数は、五ヵ国(アメリカ、イギリス、オーストラリア、オランダ、フランス)中では最大である。
この戦犯容疑者たちは、オランダ軍などによって残虐な取り扱いを受けた。その虐待の種類は、想像を絶するはどの多岐にわたり、その程度においても苛酷を極めている。
虐待は武装解除されて逮捕された瞬間から始まり、長期の未決拘留中にも行われ、判決に至るまで続ぃだ。
たとえば、アンボンで十五年の刑を宣告されることになる森田正一郎(三十三歳、和歌山県出身)
の手記によれば、昭和二十一年四月、モルッカ群島中のセラム島桟橋に出頭させられた森田ら約百五十人の抑留者たちは、オランダ軍兵士による虐待の餌食となった。自動小銃を構えた兵士に、抑留者らは所持品を片っぱしから奪い取られ、黒山の見物人の前で軍靴で背や横腹を蹴られ、鉄拳や銃床、で殴られ、海中に突き落とされた。桟橋から収容所までの約三キロの間では、軍隊式歩調で行進させられ、途中、住民や兵士に棒で殴られ石を投げられ罵声を浴びせられ、頭から血を流すものが続出している。
さらに収容所に着くや、全裸のまま身体検査を受け、昼食抜きで夕方まで井戸掘りや倉庫建設などの作業をさせられ、夜間は、便器の悪臭が充満する一坪の空間で五人が折り重なって寝かされた。
交代で入ってくる警戒兵にまで銃剣を突きつけられて物資(提供)を強要されたのである。
この例に出てくるような虐待は、むしろありふれたケースで、蘭印各地で日常的に行われていたといっても過言ではない。
ジャワの刑務所では、もっと極端なケースも見られた。作業中の着衣を禁じられ、炎天下、もっこ揮ひとつで働かせられたのである。しかも、作業場の出人りに際しては、戸口に居ならぶ看守十数名の前を、揮をはずし局部を見せながら行列して通過させられた。
アンボンの陸軍病院では、釘抜きで歯を抜かれたという信じられないような話もある。歯痛治療を同病院に申し出たところ、オランダ軍医が口を開けと言う。口を開くと、軍医は背後に隠し持っていた釘抜きで健全な奥歯二本をいきなり挟む。
大きな釘抜きを喰えこんでしまったので声をたてることもできないまま、奥歯を抜きとられた。出血も止まらず、約半里の道を血を吐きながら帰ったのだという。
また、スマトラでは、酷熱の砂浜で砂取り作業をさせられたが、能率不良ということでオランダ軍下士官に革のムチで殴られた。そのうえ、大腸を凝視しながら砂上で直立不動の姿勢をとらされ、それ二時間も続けられた。南方の太陽をそんなに長く視ておれるものではない。しかし、眼を閉じ顔をそむける者は背後から銃で殴打されたのである。
このような虐待が続くと、病人、死者が出るのは当然である。さらには自殺者も出、殴り殺された者もいる。
ボルネオのバンゼルマシンの判決でニ十年の刑を宣告された平野重治(四十五歳、長崎県出身)
の手記には、粗食と減食のなかで働かされ、ついに倒れていった者の個人名が刻まれている。炎天下で処刑者の骨掘り(墓穴掘り?)を昼食抜きで二日間やらされ、その間しばしば殴られ、ついにある夜自殺した藤井という人物、昼食抜きで終日、防空壕崩しをやらされ、発病して死んだ三缶という六十六歳の老人、三日間の病臥で死亡した尾前、長椅子に俯向きに縛られ、棍棒で殴り殺された秦等々、以上は、いずれも未決拘留中の虐待であるが、取り調べ、裁判のプロセスにおいても肉体的暴力や不法、不当な扱いが常態であったようだ。
■取り調べという名の拷問
裁判が準拠した主な法律は、「戦争犯罪の定義に関する条例」と「戦争犯罪処罰に関する条令」。
いずれも、終戦後の一九四六年に制定された事後法である。かつてヒトラーの事後法を非難攻撃した連合国は、自らもまたあえてその不法を犯したことになる。裁判を構成した三人の裁判官はオランダ軍人だったが、戦時中、俘虜として抑留され、日本人に対する復讐、憎悪の感情が激しい人が多かった。この一事をもってしても、裁判に構成を期待するのは所詮無理というものであろう。不公正を物語る具体例は数多いが、その一端をピックアップして見るとーー。 容疑者の取り調べに当たったのは、オランダ人の警察署長クラスであるが、取り調べに際し拷問にかけられた人が少なからずあった。
西田象三(ジャワ 十二年 五十八歳 広島県=順に、裁かれた法廷、刑期手記を書いた昭和二十七、八年当時の年齢、出身地。以下同様)の記録するところによれば、スォーデンというオランダ人取調官は最も非道の人物。答弁が気に入らないというので、西田はこの男に殴られて歯を一本折られ、もう一本は緩んでまもなく脱け落ちてしまった。また、電灯もなく蚊の多い独房に放りこまれたともいう。
さらに、この取調官は西田の部下にもいろいろな拷問を加えたと、西田は書いている。やはり期待通りの答弁をしないという理由で、六十歳以上の高齢者の顔面を殴打、出血しているのに炎天下、無帽で立たせたり、のちに死刑となったある人物に対しては、蚊の多い独房にまっ裸で入れ、十日以上も放置するという非道ぶり。
また、西田によれば、別の取調官はのちに死刑となる日本人通訳を糞壷に首までつけて数時間放置したことさえあった。
伊藤友衛(セレベス 無期 四十歳 宮崎県)という元憲兵准尉も、すさまじい拷問を受けている。
伊藤本人の手記によると、取り調べ官二名が長さ一メートル、直径三センチぐらいの棍棒で伊藤の全身をところ構わず殴り、うち一名は興奮逆上して拳銃を技いて安全装置をはずし、伊藤の胸に突きつけて威嚇。続けて、伊藤にキリキリ舞を命じてやらせ、伊藤が目まいで倒れると、野蛮な叫声をあげて再び殴りかかり、特に頭部を強打した。
その後、チリの半分ぐらい入っているチリ籠を頭からかぶせて不動の姿勢で立たせたが、やがて伊藤が脳貧血を起こして倒れると、二人は伊藤を土足で踏みつけ、蹴り飛ばした。こうして拷問は、実に四時間にもおよんだのだという。
取り調べ陳述書の作成においても、違法や改ざんが目立つ。読み聞け″をしないまま、署名を強要する例がかなりあるし、「お前は在任中、一名も犯人を逮捕したことはないか」と聞かれ、「毒物詐欺事件犯人として一名の支那人を逮捕しました」と答えたところ、陳述書には「私は一名の支那人を棒で殴りました」と記載されでいたなどというデタラメもあった。
「英米の法廷とくらべて、オランダの法廷に特徴的なことは、組織的テロに問われるケースが多かったことだ。先述の準拠法「戦争犯罪の定義に関する条例」の第一条第二項に定められた「組織的テロ行為」に該当するケースとして、憲兵隊、俘虜収容所、抑留所、刑務所、警察などはテロの組織体とみなされ、その構成分子まで処罰されたのである。つまり、英米の法廷では、命令の実行者は無罪または減刑処分となるものとされていたが、オランダの法廷では命令者も実行者も同等に罰せられた。
たとえば、スマトラ派遣の憲兵隊員・木原清一(メダン ニ十年 四十一歳 愛媛県)は、四十件余りの事件で訴えられたが、ほとんどは木原と無関係であった。にもかかわらで、単にその憲兵隊に属していたという理由により組織的テロの罪名で処罰されている。
次のように、明らかに冤罪と思われるケースも存在した。
アンボン憲兵隊において検挙取り調べ中であった支那人が病死したことがあったが、憲兵曹長の安村大熊は、この支那人を拷悶死させたとして告訴された。しかし、安村曹長はこの件に無関係であり、実際に取り調べに当たった関係者は全員帰国してしまっていた。安村の名を知っているというだけで、支那人の妻は告訴したのである。アンボンでは対日感情が悪かったにもかかわらで、村長をはじめその他有力者が安村側の証人に立ち、また、日本人も不在証明のため証人として出廷した。だが、結局、安村は死刑を宣告されて処刑されてしまったのである。
冤罪というよりはデタラメも極まったというべきなのは、遊佐早雄(バタビア 十五年 三十四歳 宮城県)の場合だ。
その告発状には、遊佐はインドネシア人陰謀団関係者の警察署長スロジョという人物を検挙、拷問致死せしめたとある。しかしながら、戦後になって進駐した英軍の命令によって逮捕された遊佐を拘留したのは、なんと警察署長スロジョ当人なのである。告発が虚偽であることは火を見るよりも明らかだ。
■「口惜しかったら、戦争に勝てばよい」
公判廷でいちばん問題となるのは、反日感情を侍った裁判官の訴訟指揮だろう。
白土伍郎(アンボン 二十年 三十五歳 千葉県)は、インドネシア人八人を拷問したとして告訴されたが、法廷における証人尋問で告訴内容がすべて事実無根であることが判明した。普通なら、ここで無罪結審となるはずのところだが、裁判長は証人に対し、「あなたは、戦時中の対日協力により十二年の懲役に服務中であるにもかかわらず、今なお日本人に協力するつもりなのか」と脅迫したというのだ。そのうえで、こう誘導訊問をしたのである。
「被告人が戦時中、インドネシア人の取り調ベに当たって拷問したのを、あなたは初め現認したではないか」証人は結局、これを受け入れ、 「被告人が太さニセンチ、長さ五十センチの棒切れで二・三回軽く殴打するのを見た」と証言するに至った。裁判長は、これに対する被告の反対訊問を拒否して閉廷、白土被告の二十年の刑が確定したものである。
次の例は、裁判長と検事が連携して有罪判決がくだされたケースである。
斉藤正吾(アンボン 二十年、三十二歳 愛知県)は、三人のアンボン兵に告訴され逮捕される。告訴内容は言語に絶する拷問虐待を加えたというものであったが、数回にわたる取り調べの結果、事実無根であることが判明して不起訴となった。同僚とともに帰国を許され待機していたところ、交代した新任の担当検事が先の一件を再び蒸し返し加えて新たな容疑も追及してきたのである。
新任検事はデハースという中尉だったが、斉藤の反論抗議に対して、彼はこんな暴言を浴せたという。
「お前は口惜しいか?口惜しいというのならなぜ戦争にまけたのか。日惜しいくらいなら戦争に勝てばよいのだ。敗戦国民が戦犯になるのは当然である。それとも、お前は日本人ではない、敗戦国民でないというつもりなのか!」
ここには、この戦犯裁判の本質が如実に露呈されている。
かくして起訴された斉藤は、公判廷において三人の告訴人と対決、告訴が誣告であることを暴露した。三人のうちの一人は、「実は検察官に強要されて証言したんだ。お前に関する限り全部、作りごとだ。嘘を言ってすまなかった」と、斎藤に謝罪した。ところが、裁刑長はこの証言をひるがえした告訴を詰責したのである。
「お前は、以前に検察に対し供述したことが全部嘘だというのか? もし嘘だとすれば、誣告罪として懲役八年に処さなければならない。だが、何か勘違いをしているのであろう、今ここでもう一度前の証言が真実であることを宣誓できるか」告訴人が裁判官の言うとおりにしたことはいうまでもない。
■無きに等しかった弁護活動
このように裁刑官までもが敵対する状況にあっては、被告が頼れるのは日本人弁護人しか居ないとはいえ、この弁護士があまり役に立たなかったのである。
渡辺正司(ボルネオ 二十年 三十八歳 新潟県)
によるとジャワその他の法廷には日本人弁護団がいたけれども、ボルネオ島のポンティアナックには渡辺らの公判が決審に至るまでついに専門家が派遣されることはなかった。
そのために同じく戦犯容疑に問われている同僚の中から弁護人を選ばざるを得なかったのだが、何しろ専門家ではないから、弁護闘争を始めさまざまな不利不都合が生じたは当然である。
「仮に日本側が公刑事前に正式弁護士を派遣されていたら、一、二の死刑者を除き減刑もしくは無罪をもって放免せられ得る者があったはであり遺憾に堪えない」と、渡辺は書き残している。
だが、弁護士がついた場合でも、渡辺の期待は裏切られたに違いない。というのも、弁護活動には様々な制約があって、無きに等しいのが実態であったからだ。弁護士は、人数も少なく、時間の制約や行動制限のために証拠収集も不可能、オランダ語がわからないから法廷で反論することも出来なかった。
弁護どころか、オランダ側の歓心を買うことに窮々としている弁護士さえいたというのである。
しかしながら、こうした状況下にあって、自ら進んで弁護人となった栗栖弘臣(のちの統幕会議議長)の活動はせめてもの救いであろう。
栗栖の世話になった清水利行(マカッサル 二十年 三十四歳 長野県)によれば、栗栖は自らの衣類や私物を売ったり、酒タバコをやめ往復の車代を節約したりして、収容者に差し入れするなどの世話をする一方、裁判資料の収集、整理、公刑対策の指導、弁護文書作成、減刑嘆願、死刑者に対しては遺言の作成、刑場の立ち合い、遺品の整理などに病身をおして奔走したという。
「裁判に臨んでは、もちろん最大の努力を惜しまず闘ってくださったが、軍事法廷の特殊なる状況下において弁護士の活動は制約されて成果は期待できなかったが、これは弁護士の誠意が足りなかったのではなく、オランダ当局がこれを許さなかったのであって、弁護士栗栖氏の努力と厚意に対しては心から感謝している」
と、清水の手記には深い感謝の言葉が記されている。
ともあれ、蘭印地区の戦犯裁刑を支配したものが何であったのか。それは、メダンで十五年の刑を受けた森重義雄の、次の獄中歌に集約されているといえる。
神の御名によりて 裁くと言い放てど
復習の眼 我は見にけり
『戦争裁判 処刑者一千』 戦記シリーズ23 新人物往来社 から引用
「組織的テロ行為」含め死刑236人
■捕虜をいたぶり尽す残虐非道
オランダ領東インド(蘭印)地区において、オランダが終戦後、開設した軍法会議は次の十二ヵ所におよんでいる。
ジャワ島のバタビア
セレベス島のメナド、マカッサル
ボルネオ島のバリックパパン、パンゼルマシン、ポンティアナック
スマトラ島のメダン
チモール島のクーパン
ニューギュア島のホーランディア
アンボイナ島のアンボン
ハルマヘラ島のモロタイ
ピンタン島のタンジョンピナン
ここで裁かれたBC級戦犯は一千人以上、アメリカが裁いた一千四百人に次ぐ。また、死刑二百三十六人という数は、五ヵ国(アメリカ、イギリス、オーストラリア、オランダ、フランス)中では最大である。
この戦犯容疑者たちは、オランダ軍などによって残虐な取り扱いを受けた。その虐待の種類は、想像を絶するはどの多岐にわたり、その程度においても苛酷を極めている。
虐待は武装解除されて逮捕された瞬間から始まり、長期の未決拘留中にも行われ、判決に至るまで続ぃだ。
たとえば、アンボンで十五年の刑を宣告されることになる森田正一郎(三十三歳、和歌山県出身)
の手記によれば、昭和二十一年四月、モルッカ群島中のセラム島桟橋に出頭させられた森田ら約百五十人の抑留者たちは、オランダ軍兵士による虐待の餌食となった。自動小銃を構えた兵士に、抑留者らは所持品を片っぱしから奪い取られ、黒山の見物人の前で軍靴で背や横腹を蹴られ、鉄拳や銃床、で殴られ、海中に突き落とされた。桟橋から収容所までの約三キロの間では、軍隊式歩調で行進させられ、途中、住民や兵士に棒で殴られ石を投げられ罵声を浴びせられ、頭から血を流すものが続出している。
さらに収容所に着くや、全裸のまま身体検査を受け、昼食抜きで夕方まで井戸掘りや倉庫建設などの作業をさせられ、夜間は、便器の悪臭が充満する一坪の空間で五人が折り重なって寝かされた。
交代で入ってくる警戒兵にまで銃剣を突きつけられて物資(提供)を強要されたのである。
この例に出てくるような虐待は、むしろありふれたケースで、蘭印各地で日常的に行われていたといっても過言ではない。
ジャワの刑務所では、もっと極端なケースも見られた。作業中の着衣を禁じられ、炎天下、もっこ揮ひとつで働かせられたのである。しかも、作業場の出人りに際しては、戸口に居ならぶ看守十数名の前を、揮をはずし局部を見せながら行列して通過させられた。
アンボンの陸軍病院では、釘抜きで歯を抜かれたという信じられないような話もある。歯痛治療を同病院に申し出たところ、オランダ軍医が口を開けと言う。口を開くと、軍医は背後に隠し持っていた釘抜きで健全な奥歯二本をいきなり挟む。
大きな釘抜きを喰えこんでしまったので声をたてることもできないまま、奥歯を抜きとられた。出血も止まらず、約半里の道を血を吐きながら帰ったのだという。
また、スマトラでは、酷熱の砂浜で砂取り作業をさせられたが、能率不良ということでオランダ軍下士官に革のムチで殴られた。そのうえ、大腸を凝視しながら砂上で直立不動の姿勢をとらされ、それ二時間も続けられた。南方の太陽をそんなに長く視ておれるものではない。しかし、眼を閉じ顔をそむける者は背後から銃で殴打されたのである。
このような虐待が続くと、病人、死者が出るのは当然である。さらには自殺者も出、殴り殺された者もいる。
ボルネオのバンゼルマシンの判決でニ十年の刑を宣告された平野重治(四十五歳、長崎県出身)
の手記には、粗食と減食のなかで働かされ、ついに倒れていった者の個人名が刻まれている。炎天下で処刑者の骨掘り(墓穴掘り?)を昼食抜きで二日間やらされ、その間しばしば殴られ、ついにある夜自殺した藤井という人物、昼食抜きで終日、防空壕崩しをやらされ、発病して死んだ三缶という六十六歳の老人、三日間の病臥で死亡した尾前、長椅子に俯向きに縛られ、棍棒で殴り殺された秦等々、以上は、いずれも未決拘留中の虐待であるが、取り調べ、裁判のプロセスにおいても肉体的暴力や不法、不当な扱いが常態であったようだ。
■取り調べという名の拷問
裁判が準拠した主な法律は、「戦争犯罪の定義に関する条例」と「戦争犯罪処罰に関する条令」。
いずれも、終戦後の一九四六年に制定された事後法である。かつてヒトラーの事後法を非難攻撃した連合国は、自らもまたあえてその不法を犯したことになる。裁判を構成した三人の裁判官はオランダ軍人だったが、戦時中、俘虜として抑留され、日本人に対する復讐、憎悪の感情が激しい人が多かった。この一事をもってしても、裁判に構成を期待するのは所詮無理というものであろう。不公正を物語る具体例は数多いが、その一端をピックアップして見るとーー。 容疑者の取り調べに当たったのは、オランダ人の警察署長クラスであるが、取り調べに際し拷問にかけられた人が少なからずあった。
西田象三(ジャワ 十二年 五十八歳 広島県=順に、裁かれた法廷、刑期手記を書いた昭和二十七、八年当時の年齢、出身地。以下同様)の記録するところによれば、スォーデンというオランダ人取調官は最も非道の人物。答弁が気に入らないというので、西田はこの男に殴られて歯を一本折られ、もう一本は緩んでまもなく脱け落ちてしまった。また、電灯もなく蚊の多い独房に放りこまれたともいう。
さらに、この取調官は西田の部下にもいろいろな拷問を加えたと、西田は書いている。やはり期待通りの答弁をしないという理由で、六十歳以上の高齢者の顔面を殴打、出血しているのに炎天下、無帽で立たせたり、のちに死刑となったある人物に対しては、蚊の多い独房にまっ裸で入れ、十日以上も放置するという非道ぶり。
また、西田によれば、別の取調官はのちに死刑となる日本人通訳を糞壷に首までつけて数時間放置したことさえあった。
伊藤友衛(セレベス 無期 四十歳 宮崎県)という元憲兵准尉も、すさまじい拷問を受けている。
伊藤本人の手記によると、取り調べ官二名が長さ一メートル、直径三センチぐらいの棍棒で伊藤の全身をところ構わず殴り、うち一名は興奮逆上して拳銃を技いて安全装置をはずし、伊藤の胸に突きつけて威嚇。続けて、伊藤にキリキリ舞を命じてやらせ、伊藤が目まいで倒れると、野蛮な叫声をあげて再び殴りかかり、特に頭部を強打した。
その後、チリの半分ぐらい入っているチリ籠を頭からかぶせて不動の姿勢で立たせたが、やがて伊藤が脳貧血を起こして倒れると、二人は伊藤を土足で踏みつけ、蹴り飛ばした。こうして拷問は、実に四時間にもおよんだのだという。
取り調べ陳述書の作成においても、違法や改ざんが目立つ。読み聞け″をしないまま、署名を強要する例がかなりあるし、「お前は在任中、一名も犯人を逮捕したことはないか」と聞かれ、「毒物詐欺事件犯人として一名の支那人を逮捕しました」と答えたところ、陳述書には「私は一名の支那人を棒で殴りました」と記載されでいたなどというデタラメもあった。
「英米の法廷とくらべて、オランダの法廷に特徴的なことは、組織的テロに問われるケースが多かったことだ。先述の準拠法「戦争犯罪の定義に関する条例」の第一条第二項に定められた「組織的テロ行為」に該当するケースとして、憲兵隊、俘虜収容所、抑留所、刑務所、警察などはテロの組織体とみなされ、その構成分子まで処罰されたのである。つまり、英米の法廷では、命令の実行者は無罪または減刑処分となるものとされていたが、オランダの法廷では命令者も実行者も同等に罰せられた。
たとえば、スマトラ派遣の憲兵隊員・木原清一(メダン ニ十年 四十一歳 愛媛県)は、四十件余りの事件で訴えられたが、ほとんどは木原と無関係であった。にもかかわらで、単にその憲兵隊に属していたという理由により組織的テロの罪名で処罰されている。
次のように、明らかに冤罪と思われるケースも存在した。
アンボン憲兵隊において検挙取り調べ中であった支那人が病死したことがあったが、憲兵曹長の安村大熊は、この支那人を拷悶死させたとして告訴された。しかし、安村曹長はこの件に無関係であり、実際に取り調べに当たった関係者は全員帰国してしまっていた。安村の名を知っているというだけで、支那人の妻は告訴したのである。アンボンでは対日感情が悪かったにもかかわらで、村長をはじめその他有力者が安村側の証人に立ち、また、日本人も不在証明のため証人として出廷した。だが、結局、安村は死刑を宣告されて処刑されてしまったのである。
冤罪というよりはデタラメも極まったというべきなのは、遊佐早雄(バタビア 十五年 三十四歳 宮城県)の場合だ。
その告発状には、遊佐はインドネシア人陰謀団関係者の警察署長スロジョという人物を検挙、拷問致死せしめたとある。しかしながら、戦後になって進駐した英軍の命令によって逮捕された遊佐を拘留したのは、なんと警察署長スロジョ当人なのである。告発が虚偽であることは火を見るよりも明らかだ。
■「口惜しかったら、戦争に勝てばよい」
公判廷でいちばん問題となるのは、反日感情を侍った裁判官の訴訟指揮だろう。
白土伍郎(アンボン 二十年 三十五歳 千葉県)は、インドネシア人八人を拷問したとして告訴されたが、法廷における証人尋問で告訴内容がすべて事実無根であることが判明した。普通なら、ここで無罪結審となるはずのところだが、裁判長は証人に対し、「あなたは、戦時中の対日協力により十二年の懲役に服務中であるにもかかわらず、今なお日本人に協力するつもりなのか」と脅迫したというのだ。そのうえで、こう誘導訊問をしたのである。
「被告人が戦時中、インドネシア人の取り調ベに当たって拷問したのを、あなたは初め現認したではないか」証人は結局、これを受け入れ、 「被告人が太さニセンチ、長さ五十センチの棒切れで二・三回軽く殴打するのを見た」と証言するに至った。裁判長は、これに対する被告の反対訊問を拒否して閉廷、白土被告の二十年の刑が確定したものである。
次の例は、裁判長と検事が連携して有罪判決がくだされたケースである。
斉藤正吾(アンボン 二十年、三十二歳 愛知県)は、三人のアンボン兵に告訴され逮捕される。告訴内容は言語に絶する拷問虐待を加えたというものであったが、数回にわたる取り調べの結果、事実無根であることが判明して不起訴となった。同僚とともに帰国を許され待機していたところ、交代した新任の担当検事が先の一件を再び蒸し返し加えて新たな容疑も追及してきたのである。
新任検事はデハースという中尉だったが、斉藤の反論抗議に対して、彼はこんな暴言を浴せたという。
「お前は口惜しいか?口惜しいというのならなぜ戦争にまけたのか。日惜しいくらいなら戦争に勝てばよいのだ。敗戦国民が戦犯になるのは当然である。それとも、お前は日本人ではない、敗戦国民でないというつもりなのか!」
ここには、この戦犯裁判の本質が如実に露呈されている。
かくして起訴された斉藤は、公判廷において三人の告訴人と対決、告訴が誣告であることを暴露した。三人のうちの一人は、「実は検察官に強要されて証言したんだ。お前に関する限り全部、作りごとだ。嘘を言ってすまなかった」と、斎藤に謝罪した。ところが、裁刑長はこの証言をひるがえした告訴を詰責したのである。
「お前は、以前に検察に対し供述したことが全部嘘だというのか? もし嘘だとすれば、誣告罪として懲役八年に処さなければならない。だが、何か勘違いをしているのであろう、今ここでもう一度前の証言が真実であることを宣誓できるか」告訴人が裁判官の言うとおりにしたことはいうまでもない。
■無きに等しかった弁護活動
このように裁刑官までもが敵対する状況にあっては、被告が頼れるのは日本人弁護人しか居ないとはいえ、この弁護士があまり役に立たなかったのである。
渡辺正司(ボルネオ 二十年 三十八歳 新潟県)
によるとジャワその他の法廷には日本人弁護団がいたけれども、ボルネオ島のポンティアナックには渡辺らの公判が決審に至るまでついに専門家が派遣されることはなかった。
そのために同じく戦犯容疑に問われている同僚の中から弁護人を選ばざるを得なかったのだが、何しろ専門家ではないから、弁護闘争を始めさまざまな不利不都合が生じたは当然である。
「仮に日本側が公刑事前に正式弁護士を派遣されていたら、一、二の死刑者を除き減刑もしくは無罪をもって放免せられ得る者があったはであり遺憾に堪えない」と、渡辺は書き残している。
だが、弁護士がついた場合でも、渡辺の期待は裏切られたに違いない。というのも、弁護活動には様々な制約があって、無きに等しいのが実態であったからだ。弁護士は、人数も少なく、時間の制約や行動制限のために証拠収集も不可能、オランダ語がわからないから法廷で反論することも出来なかった。
弁護どころか、オランダ側の歓心を買うことに窮々としている弁護士さえいたというのである。
しかしながら、こうした状況下にあって、自ら進んで弁護人となった栗栖弘臣(のちの統幕会議議長)の活動はせめてもの救いであろう。
栗栖の世話になった清水利行(マカッサル 二十年 三十四歳 長野県)によれば、栗栖は自らの衣類や私物を売ったり、酒タバコをやめ往復の車代を節約したりして、収容者に差し入れするなどの世話をする一方、裁判資料の収集、整理、公刑対策の指導、弁護文書作成、減刑嘆願、死刑者に対しては遺言の作成、刑場の立ち合い、遺品の整理などに病身をおして奔走したという。
「裁判に臨んでは、もちろん最大の努力を惜しまず闘ってくださったが、軍事法廷の特殊なる状況下において弁護士の活動は制約されて成果は期待できなかったが、これは弁護士の誠意が足りなかったのではなく、オランダ当局がこれを許さなかったのであって、弁護士栗栖氏の努力と厚意に対しては心から感謝している」
と、清水の手記には深い感謝の言葉が記されている。
ともあれ、蘭印地区の戦犯裁刑を支配したものが何であったのか。それは、メダンで十五年の刑を受けた森重義雄の、次の獄中歌に集約されているといえる。
神の御名によりて 裁くと言い放てど
復習の眼 我は見にけり
『戦争裁判 処刑者一千』 戦記シリーズ23 新人物往来社 から引用
戦争裁判 裁判地と国別 判決
戦争裁判 裁判地一覧
戦争裁判 泰緬鉄道俘虜虐待殺害
シンガポール法廷(2)
泰緬鉄道俘虜虐待殺害
否定できない多くの犠牲
俘虜を押しつけたのは誰だつたのか
語る人・阿部 宏(元鉄道第五連隊・中尉)
『死の鉄道』と呼ばれ、世界中の注目を集めた泰緬鉄道建設。熱帯ジャングルの苛酷な自然のなかで、連合軍俘虜数千をはじめ多くの人命が失われた。だが、その死の責任を問うシンガポール第六軍事法廷に引き出されたのは、命令する立場ではなく、される立場にあった人々だけであった。
阿部宏元中尉もその一人。大正九年生まれ。国鉄から鉄道連隊に入り、泰緬鉄道建設ではビルマ側工事を担任した鉄道第五連隊に属していた。
■連絡将校、ワイルド少佐の怨
Q:阿部さんは、昭和十八年の泰緬鉄道建設期間中の俘虜取り扱いに関して、戦犯容疑に問われたわけですね。
「そうです。馬来俘虜収容所第四分所長だった板野中佐の名をとっていわゆる『バンノケース』と呼ばれた裁判です。俘虜収容所関係者が五人、近衛工兵連隊から一人、それと鉄道第五連隊の私、合計七人が起訴されています。鉄道連隊からは私一人だけですね。
起訴状を受けとったのはシンガポールのチヤンギー刑務所に収容されてから一月後の二十一年九月末頃です。英文で書かれていましたけれども、大まかに言えば、戦時国際法に違反して泰緬鉄道の建設に俘虜を使役し、衛生給与等の悪条件の下に管理あるいは酷使虐待して、多数の者を死に至らしめたというのが起訴理由でした。
こんな起訴理由で板野中佐以下の七人を集めたのは、当時から訳がわからなかったですね。皆が不思議がっていました。
それで、起訴状を受けとったときに担当のイギリス軍中尉に言ったんです。私が泰緬鉄道の作業を一人で指揮し、全部の俘虜を使役したわけではない。私はそんな上級者で冶ないし、第一、起訴されるならその前に取り調べがある冶ずだが、私冶取り調べを受けた覚えがない。裁判にかけるというなら、もっと具体的な訴因を挙げたらどうだというわけです。中尉は困った顔をして、起訴状を渡すのが自分の仕事だと帰って行きましたが、これはワイルドと一戦交えなきやならんなと思いましたね」
Q:ワイルドと一戦交えるとはどうぃう意味ですか。
「ダブリンプル・ワイルド。イギリス軍の、その頃は大佐で、連合軍東南アジア戦争犯罪調査局長でした。昭和十七年二月のシンガポール陥落のときに、山下奉文中将とパーシバル中将の会見の通訳を務めた男です。
戦争中はまだ少佐でしたが、そのワイルド少佐が私たちの鉄道建設現場に配属された俘虜部隊の連絡将校を務めていて、私とは顔馴染みだったんです。戦争が終わって戦犯調査局長に就任したときに、これから日本の戦犯を捜し出して仕返しをすると言ったと伝えられていましてね。
なにしろ、私はワイルドが一番よく知っている日本の将校の一人ですから、これはヮイルドに狙い撃ちにされたと思うわけですよ」
■木造橋にてこずった阿部小隊
Q:そのあたりの事情をもう少しお話しいただけますか。
「泰緬鉄道の建設は、大まかに言ってビルマ側を鉄道第九連隊、タイ側を鉄道第五連隊が担当したんです。
そのうち、ビルマのロンシーから国境をはさんでタイのコンコイターまでの九十一キロが鉄五の第三、第四大隊の担当で、私の小隊(第三大隊第六中隊第四小隊)は国境から十二キロばかりタイ側に入ったソンクライに行きました。私は少尉で小隊長です。ソンクライの現場の責任者ということですね。
この現場はちょうど線路がソンクライ川を渡るところで、工事は高さが十五メートル、長さ八十メートルほどの木製の橋を架けることが主体になりました。これに労力と時間をとられたために、橋を含めてつくった鉄道の長さは六キロくらいですね。
ビルマの雨季の雨量は凄まじいもので、普段はおとなしい川もたちまち激流になります。その流れに耐え、しかも軍需物資や部隊を満載した列車を通すことができなければならないわけですから、ひとくちに橋を架けるといっても大変な工事です。
そのうえ、調べてみると川底が堅い岩盤になっていましてね。そこに木製の橋脚をどうやって立てたらいいのか、最初は途方に暮れたものです。
考えに考えた末、岩盤にミゾを据ってそのなかに橋脚を立て、コンクリートで固める方法を採りました。さいわい、まだ雨季には入っていませんでしたから、川をせきとめて岩盤にミゾを据ることができたんです。
もう一つ、橋を架けるにも線路の枕木にも大量の木材が必要ですが、これは付近のジャングルから切り出して使いました。現地の象部隊が大活躍してくれましたよ。
むちゃくちゃな工期短縮命令がきていましたから、工事は確かに突貫作業でした。われわれ鉄道隊員も、一日も休まずに働いたんです」
■死体が戦犯を告発した
Q:その作業に、俘虜が加わったわけですね。
「そうです。第三、第四大隊の担当区間九十一キロのあいだに配属されたのは約七千人。イギリス兵とオーストラリア兵がほぼ半数ずつで、Fフォース、F部隊と呼ばれていました。ソンクライの現場に来たのはそのうちの千二百人で、そのなかに連絡将校としてワイルド少佐がいたわけです。
ワイルドは毎日のように私のところにやってきて、俘虜を労働に使うのはやめてくれという決まり文句を言うんです。私はワイルドが働いているのを見た記憶がありませんから、自分は働かないのに何を言うかという気持ちですね。また、時には鉛筆がほしい、砂糖がほしいといっては持っていったこともあります。
ワイルドとはいろんな話をしていますが、強く記憶に残っているのは、戦況をよく知っていたことですね。ヨーロッパ戦線のことなんか私でさえわからないのに、俘虜の方がよく知っていて教えてくれるんです。
昭和十八年の夏ごろだと思いますが、ドイツは負けます。ドイツが負けたら日本も負けます。日本が負けたらあなたはどうしますかと尋かれたことがあります。ちょうどスターリングラードの戦いがソ連の勝利で終わった頃ですね。
私は日本が負けるわけないだろうと答えたんですが、彼らはどうも、短波ラジオを持っていたらしい。ニユースを聞きながらいずれ日本が戦争に負けることを予測して、その後のことを考えていたんだと思います。
たとえば、日本の降伏直後に、鉄道建設中に死亡した俘虜の死体を掘り起こして埋葬し直したことがあります。私自身は北ビルマで負瘍して入院していましたので直接見たわけではありませんが、掘り起こされた死体はタバコの缶などに封印された資料を抱いていたそうです。
資料というのは、その死体の身許を明らかにする給与証明書などの書類と、どんな状況で彼は死んだのか、その死に責任を持つべき日本人は誰かなどを克明に書いたものです。ワイルドが鉛筆や紙を要求していたのはこのためだったのかも知れません」
■コレラ流行と大量の犠牲
Q:後日の復讐を期して、死体に相手の名を書きつけた資料を抱かせて埋葬するほど苛酷な状況だったということですか。
「多数の犠牲が出たことは否定しようのない事実です。F部隊七千人のうち三千人以上が死に、ソンクライでは、千二百人のうち九百人以上が死んでぃます。
作業は突貫工事で苦しかったことも、食糧が乏しかったことも、医薬品が不足していたことも事実です。
しかし、少なくともソンクライについては、作業中の事故や日本兵の暴行によって死んだ俘虜は私の知る限り一人もありません。ただ、私が知らないところでも、直接的な暴行などの行為はまったくなかったかと言われると、正直なところ分からないと言うしかない。
私白身は、一度だけ、サボタージュを重ねる将校を殴ったことがありますが、隊員には俘虜を殴ることは厳重に禁止していたんです。日本兵が鞭を持っていたと証言した俘虜もいたそうですが、鞭なんか持たせるわけがない。おそらく、鉄道隊員の必需品のIメートル尺を見違えたんでしょう。
作業でも、水中や高所などの危険な作業は、すべて鉄道隊員自らやっています」
Q:多数の犠牲者が出た原因は何だったんですか。
「熱帯性潰瘍、赤痢、マラリア、コレラなどの疫病と、栄養失調です。
なかでもコレラは俘虜がキャンプに到着してしばらくしてから流行が始まり、凄まじい勢いで広がったんです。
後の裁判のなかで明らかになったんですが、俘虜がキャンプまで行軍してくる途中にコレラの流行している村を通過しています。ここで生水を飲んだという者がいるんです。キャンプに到着してからも生水を飲んではいかんとうるさく言うんですが、なかなかいうことを聞いてくれない者が多かった。原因は明らかでしょう。
コレラの流行で何人が犠牲になったかはっきりしませんが、防疫給水部が来て濾過した水だけを飲むようになってから流行は収束に向かいました。
もっとも、俘虜が病気になっても治療らしい治療はできませんでした。軍医はいても医薬品がない。肉や魚などの蛋白質、新鮮な野菜や果物がないから栄養をつけてやることもできません。
しかし、そうした状況は我々も同じです。日本人だけがうまいものを食べていたわけではなくて、皆同じだったんですよ。
我々に対して、食糧がないとか医薬品がないとか、ましてジュネーブ条約に違反して俘虜を軍事作戦行動に使役したなどというのは、最初にも言ったように見当違いなんです。鉄道隊員は俘虜を使って鉄道をつくれと命令されたわけですから。
また俘虜の管理は収容所が受け持っていて、そうした待遇に関しては収容所の管轄です。しかし、第一線の収容所に責任のすべてを被せるのもおかしい。一線は補給を受ける方であって、補給を確保する責任があるわけではありませんからね」
■元俘虜ウェイト少佐の弁護活動
Q:泰緬鉄道建設に関して、阿部さんを合めた七人を戦犯として起訴したのはおかしいと、そういう意味ですね。ところで、裁判の方はどう進められたのでしょうか。
「タイからシンガポールに送られて、チヤンギー刑務所に収容されたのが昭和二十一年八月二十五日。Cホールの二階でした。Cホールは、起訴されて有罪になる確率の高い者が収容されろところだったそうです。
起訴は一月後です。この間、取り調べといえば私服の検事に経歴について聞かれただけです。呼び出されて取調室に入ると、戦犯弁護部の弁護士が二人いました。もちろん 名前も覚えています。
お互いに名乗りあって、話しをする暇もなくまた別室に呼ばれて起訴状を渡された。
それを持って元の取調室に戻ったら弁護士のほかにバンノケースの六人がいました。ここで初めて、その七人が起訴されたことがわかったんです。
日本人弁護士の二人は不真面日というか、最初から熱意がありませんでした。死刑に決まっていると思っていたのかも知れません 。
裁判は二十一年九月二十五日、シンガポール第六軍事法廷で始まりました。午前九時半頃だったと思います。
この前日はものすごい夕立で雷鳴が響いていたんですが、とにかく被告の七人が、バラバラでは犠牲が大きくなる。態勢だけはつくっておかねばならないと思って、板野中佐にお互いに庇いあっていこうと提案した人です。
板野中佐は『ウーン』と唸ったきり黙り込んで、しばらくたってから、『鉄道隊が無理を言ったからな。正直なところを言うよ』と言う人ですね。
鉄道隊がやりすぎたという雰囲気な人です。
ところが一時間も経ったころ、『阿部君が言うようにするか』と言い出して、これには皆がうなずいた。そんなことがありました。
法廷は、検事が二人、判事が三人、弁護士が二人。日本人弁護士のほかにもう一人、イギリス人弁護士がついたんです。この人は元俘虜で、やはり泰緬鉄道の建設現場で働いていたことがあるウエイト少佐です。日本人弁護士の不真面日な態度に比べて、ウエイト少佐は本気で弁護活動をやってくれましたね。
俘虜が大勢死んだのはなぜかが争点になって、結局コレラの流行が大きな原因だったとなったわけですが、そのコレラの流行は日本軍の故意によるものだと証言する者があったらしいんです。ところがウエイト少佐は検察側証人を徹底的に追いつめて、日本軍には責任がないことを明らかにしてくれたんです。反対尋問は、それは迫力がありました」
Q:ワイルド大佐は、証言台に立たなかったんですか。
「もちろん、証言する予定になっていたんです。ワイルドが来るというので、これで終わりだと観念しましたよ。
ところが、裁判が始まって三、四日後のことですが、法廷に三十歳くらいのイギリス人女性が入ってきて、そこにいるイギリス人男性の顔を一人一人覗き込んで歩くんです。なんというか、悲しそうな、寂しそうな顔を今でも覚えています。
そのときは何だろうと不審に思っただけでしたが、実は、ワイルドが飛行機事故で死んだんです。
東京のA級裁判に証人として出廷した後、私たちの裁判で証言するためにシンガポールに向かったんですが、途中、香港で乗っていた飛行機が墜落したんですね。
法廷で見た女性は、ワイルドの奥さんでした。
事故で死んだとの知らせを受けて、あるいは知らせは間違いで本人は法廷に出ているんじやないかと思ったのでしょう。
そういうわけで、ワイルド大佐は証言台には立てなかったんです。かわりに、オーストラリアから来たカッペー大佐という人が証言しました。そのほかには、元俘虜の兵と看護兵が一人ずつだったと思います」
■連隊長が弁護に立ったが……
Q:弁護側証人にはどんな人が出たんですか。
「私の弁護に立ってくれたのは鉄道第五連隊の連隊長だった佐々木万之助大佐でした。バンノケースの審理が始まった頃はスガモプリズンにいたんですが、元の部下が被告席に立っていると間いて進んで弁護にきてくれたんです。
佐々木大佐は、阿部に責任はない、すべての行動は私の命令に基づくものであったと、繰り返して強調してくれました。
すると裁判長は、『大隊長とか連隊長とかいった立場を考えず、また、泰緬線といった場所の限定も離れてここに阿部小隊が存在し、近くに俘虜収容所があったとする。そこで、阿部がある作業に必要を感じ、その俘虜を借りて夜間作業をしたとする。それで事故が発生した場合は誰の責任か』と質問するのです。
この返答如何ではおまえ白身が起訴されることになるかもしれない。よく考えて答えろと言われて、佐々木大佐はしばらくじっと考え、『そのような場合であれば、阿部の責任です』と答えました。
こんな、言ってみれば 汚い誘導が行われる裁判だったということです。
佐々木大佐は、部下だけを前線に出して自分は逃げた指揮官がいたような激戦のなかで、最前線の私の横で戦い、一緒に負傷した人です。証人席にも白分から志願して立ってくれました。裁判でも精一杯のことをやってくれたと思っています」
Q:阿部さん白身はどんな陳述をされたんですか。
「俘虜を虐待したというが、そんなことをすれば 作業力を低下させるだけ。虐待などあり得ないと言いましたよ。裁判長は理屈なんか聞いているんじゃないと言ってましたが、理屈じゃなくて事実です。
あとは夜間作業のことや、部下が俘虜を殴ったことに関してなどですね。一度だけ、部下が作業現場で私の部下に殴られたとワイルドから抗議がありましたが、注意したあと同じ抗議を受けたことはないんです。また、橋の上から落ちて死んだ俘虜があるとも言われましたが、それは明らかな嘘です。先ほど言いましたように、俘虜を高いところに登らせたことは一度もありません。人が落ちたことがあるのは事実ですが、それは鉄道隊員で、しかも死んでなんかいないんです。
感動したのは、俘虜収容所に軍属として務めていた朝鮮人青年、洪起聖(日本名・豊山起聖)の最終意見陳述でした。彼はこう言ったんです。
『もし悪いと言われることがあれば、原因はすべて私にあります。私は俘虜を殴りました。私は殺されてもいいです。しかし、あんなに俘虜のために苦労していた私の上官を助けてください。日本軍は一生懸命にやりました……。
誰もが、自分の命だけは助かりたいと思っているときですよ。これを間いて、私は泣きました」
■絞首台からの生還
Q:審理はどのくらい続けられたんですか。
「判決言い渡しが二十一年十月二十三日ですから、実質三週間ほどですね。これでもBC級戦犯裁判としては異例の長さです。二、三日とか、たった一度の審理だけというものがたくさんあったと聞いています。
バンノケースの裁判には、なにか一種異様な雰囲気があったような気がします。泰緬鉄道は『死の鉄道』として大宣伝され、その張本人が裁かれて、もうすぐ死刑になるという宣伝が行われていたようですね。
判決は、七人のうち私を含めて四人が死刑、後の三人は禁固五年、三年、一年半です。板野中佐は禁固三年でした。彼は洪青年が言ったように、本当に誠心誠意、俘虜の待遇を向上させるために頑張っていましたから、有利な証言が法廷のはかにも集まっていたのかも知れません。
死刑判決が下るだろうと覚悟はしていましたが、実際に言い渡しを聞いたときはやはり動揺がありましたね。終わったときにウエイト少佐は一人一入と握手をして、絶対に諦めるな、あとで書類を送るからかならず嘆願書を出すようにと力づけてくれました」
それから死刑囚を収容するPホールに移って、つらい体験をされるわけですね。
「絞首台に向かう人を何人も見送りました。私の房は絞首台からはんの数メートルしか離れていなくて、そちらに面した窓からすべての音が聞こえてくるんです。踏み板が落ちる瞬間に『天皇陛下、万歳』を叫ぶ声と、バアーンという音が重なります。絞首台は三人一緒に処刑できるんですが、処刑の人数がそれよりも多いと、ギリギリと踏み板を巻き上げる音が続きます。
それよりも何よりも、残酷極まりないのが、体重測定でしたね。死刑執行が言い渡されると、一人一人体重を計るんです。死を確実にするために足に砂袋をつける。その重さを決めるためです。
軍医に聞くと、そんなものをつけなくても落ちた瞬間に首の骨が折れて即死状態だから、必要はないはずだと言ってました。はかの刑務所でこんなことがあったとは聞いたことがありません。チャンギーだけで行われたのだ思います。
それに、確認したわけではありませんが、絞首刑にした死体から血を抜いていると言っていた人もいます。埋葬する前に一時的に死体を保管する
小屋を覗いたら床に大量の血が流れていたというんです。絞首刑ではそんな大量の血は流れませんからね。ただこれは事実かどうかわかりません」
Q:阿部さんもそういう運命になるはずだった。ところが、減刑になったんですね。
「そうです。普通、判決があって二、三ヵ月後には執行されていましたから、昭和二十二年の正月を生きて迎えられるとは思っていなかったんです。
年が明けてもなかなか来ない。そうしているうちに、一月十一日、バンノケースの死刑囚全員に減刑通知がきました。終身刑と十五年で、私は十五年になりました。
減刑の理由はいまだにわかりません。通知には、シンガポール最高司令官の再審査の結果と書いてあっただけでした。ただ、私白身は一つの仮説を持っています。まだ公表はできませんけどね。
減刑されたらPホールを出なければならない。
毛布一枚抱えてPホールを出ていく私たちを、残る者が拍手で送ってくれました。みんな笑って祝福してくれましたけれども、その胸のなかがどうであったか。それを思うと今でも涙が止まらなくなります」
「戦争裁判処刑者一千」戦記シリーズ23 新人物往来社 から引用
泰緬鉄道俘虜虐待殺害
否定できない多くの犠牲
俘虜を押しつけたのは誰だつたのか
語る人・阿部 宏(元鉄道第五連隊・中尉)
『死の鉄道』と呼ばれ、世界中の注目を集めた泰緬鉄道建設。熱帯ジャングルの苛酷な自然のなかで、連合軍俘虜数千をはじめ多くの人命が失われた。だが、その死の責任を問うシンガポール第六軍事法廷に引き出されたのは、命令する立場ではなく、される立場にあった人々だけであった。
阿部宏元中尉もその一人。大正九年生まれ。国鉄から鉄道連隊に入り、泰緬鉄道建設ではビルマ側工事を担任した鉄道第五連隊に属していた。
■連絡将校、ワイルド少佐の怨
Q:阿部さんは、昭和十八年の泰緬鉄道建設期間中の俘虜取り扱いに関して、戦犯容疑に問われたわけですね。
「そうです。馬来俘虜収容所第四分所長だった板野中佐の名をとっていわゆる『バンノケース』と呼ばれた裁判です。俘虜収容所関係者が五人、近衛工兵連隊から一人、それと鉄道第五連隊の私、合計七人が起訴されています。鉄道連隊からは私一人だけですね。
起訴状を受けとったのはシンガポールのチヤンギー刑務所に収容されてから一月後の二十一年九月末頃です。英文で書かれていましたけれども、大まかに言えば、戦時国際法に違反して泰緬鉄道の建設に俘虜を使役し、衛生給与等の悪条件の下に管理あるいは酷使虐待して、多数の者を死に至らしめたというのが起訴理由でした。
こんな起訴理由で板野中佐以下の七人を集めたのは、当時から訳がわからなかったですね。皆が不思議がっていました。
それで、起訴状を受けとったときに担当のイギリス軍中尉に言ったんです。私が泰緬鉄道の作業を一人で指揮し、全部の俘虜を使役したわけではない。私はそんな上級者で冶ないし、第一、起訴されるならその前に取り調べがある冶ずだが、私冶取り調べを受けた覚えがない。裁判にかけるというなら、もっと具体的な訴因を挙げたらどうだというわけです。中尉は困った顔をして、起訴状を渡すのが自分の仕事だと帰って行きましたが、これはワイルドと一戦交えなきやならんなと思いましたね」
Q:ワイルドと一戦交えるとはどうぃう意味ですか。
「ダブリンプル・ワイルド。イギリス軍の、その頃は大佐で、連合軍東南アジア戦争犯罪調査局長でした。昭和十七年二月のシンガポール陥落のときに、山下奉文中将とパーシバル中将の会見の通訳を務めた男です。
戦争中はまだ少佐でしたが、そのワイルド少佐が私たちの鉄道建設現場に配属された俘虜部隊の連絡将校を務めていて、私とは顔馴染みだったんです。戦争が終わって戦犯調査局長に就任したときに、これから日本の戦犯を捜し出して仕返しをすると言ったと伝えられていましてね。
なにしろ、私はワイルドが一番よく知っている日本の将校の一人ですから、これはヮイルドに狙い撃ちにされたと思うわけですよ」
■木造橋にてこずった阿部小隊
Q:そのあたりの事情をもう少しお話しいただけますか。
「泰緬鉄道の建設は、大まかに言ってビルマ側を鉄道第九連隊、タイ側を鉄道第五連隊が担当したんです。
そのうち、ビルマのロンシーから国境をはさんでタイのコンコイターまでの九十一キロが鉄五の第三、第四大隊の担当で、私の小隊(第三大隊第六中隊第四小隊)は国境から十二キロばかりタイ側に入ったソンクライに行きました。私は少尉で小隊長です。ソンクライの現場の責任者ということですね。
この現場はちょうど線路がソンクライ川を渡るところで、工事は高さが十五メートル、長さ八十メートルほどの木製の橋を架けることが主体になりました。これに労力と時間をとられたために、橋を含めてつくった鉄道の長さは六キロくらいですね。
ビルマの雨季の雨量は凄まじいもので、普段はおとなしい川もたちまち激流になります。その流れに耐え、しかも軍需物資や部隊を満載した列車を通すことができなければならないわけですから、ひとくちに橋を架けるといっても大変な工事です。
そのうえ、調べてみると川底が堅い岩盤になっていましてね。そこに木製の橋脚をどうやって立てたらいいのか、最初は途方に暮れたものです。
考えに考えた末、岩盤にミゾを据ってそのなかに橋脚を立て、コンクリートで固める方法を採りました。さいわい、まだ雨季には入っていませんでしたから、川をせきとめて岩盤にミゾを据ることができたんです。
もう一つ、橋を架けるにも線路の枕木にも大量の木材が必要ですが、これは付近のジャングルから切り出して使いました。現地の象部隊が大活躍してくれましたよ。
むちゃくちゃな工期短縮命令がきていましたから、工事は確かに突貫作業でした。われわれ鉄道隊員も、一日も休まずに働いたんです」
■死体が戦犯を告発した
Q:その作業に、俘虜が加わったわけですね。
「そうです。第三、第四大隊の担当区間九十一キロのあいだに配属されたのは約七千人。イギリス兵とオーストラリア兵がほぼ半数ずつで、Fフォース、F部隊と呼ばれていました。ソンクライの現場に来たのはそのうちの千二百人で、そのなかに連絡将校としてワイルド少佐がいたわけです。
ワイルドは毎日のように私のところにやってきて、俘虜を労働に使うのはやめてくれという決まり文句を言うんです。私はワイルドが働いているのを見た記憶がありませんから、自分は働かないのに何を言うかという気持ちですね。また、時には鉛筆がほしい、砂糖がほしいといっては持っていったこともあります。
ワイルドとはいろんな話をしていますが、強く記憶に残っているのは、戦況をよく知っていたことですね。ヨーロッパ戦線のことなんか私でさえわからないのに、俘虜の方がよく知っていて教えてくれるんです。
昭和十八年の夏ごろだと思いますが、ドイツは負けます。ドイツが負けたら日本も負けます。日本が負けたらあなたはどうしますかと尋かれたことがあります。ちょうどスターリングラードの戦いがソ連の勝利で終わった頃ですね。
私は日本が負けるわけないだろうと答えたんですが、彼らはどうも、短波ラジオを持っていたらしい。ニユースを聞きながらいずれ日本が戦争に負けることを予測して、その後のことを考えていたんだと思います。
たとえば、日本の降伏直後に、鉄道建設中に死亡した俘虜の死体を掘り起こして埋葬し直したことがあります。私自身は北ビルマで負瘍して入院していましたので直接見たわけではありませんが、掘り起こされた死体はタバコの缶などに封印された資料を抱いていたそうです。
資料というのは、その死体の身許を明らかにする給与証明書などの書類と、どんな状況で彼は死んだのか、その死に責任を持つべき日本人は誰かなどを克明に書いたものです。ワイルドが鉛筆や紙を要求していたのはこのためだったのかも知れません」
■コレラ流行と大量の犠牲
Q:後日の復讐を期して、死体に相手の名を書きつけた資料を抱かせて埋葬するほど苛酷な状況だったということですか。
「多数の犠牲が出たことは否定しようのない事実です。F部隊七千人のうち三千人以上が死に、ソンクライでは、千二百人のうち九百人以上が死んでぃます。
作業は突貫工事で苦しかったことも、食糧が乏しかったことも、医薬品が不足していたことも事実です。
しかし、少なくともソンクライについては、作業中の事故や日本兵の暴行によって死んだ俘虜は私の知る限り一人もありません。ただ、私が知らないところでも、直接的な暴行などの行為はまったくなかったかと言われると、正直なところ分からないと言うしかない。
私白身は、一度だけ、サボタージュを重ねる将校を殴ったことがありますが、隊員には俘虜を殴ることは厳重に禁止していたんです。日本兵が鞭を持っていたと証言した俘虜もいたそうですが、鞭なんか持たせるわけがない。おそらく、鉄道隊員の必需品のIメートル尺を見違えたんでしょう。
作業でも、水中や高所などの危険な作業は、すべて鉄道隊員自らやっています」
Q:多数の犠牲者が出た原因は何だったんですか。
「熱帯性潰瘍、赤痢、マラリア、コレラなどの疫病と、栄養失調です。
なかでもコレラは俘虜がキャンプに到着してしばらくしてから流行が始まり、凄まじい勢いで広がったんです。
後の裁判のなかで明らかになったんですが、俘虜がキャンプまで行軍してくる途中にコレラの流行している村を通過しています。ここで生水を飲んだという者がいるんです。キャンプに到着してからも生水を飲んではいかんとうるさく言うんですが、なかなかいうことを聞いてくれない者が多かった。原因は明らかでしょう。
コレラの流行で何人が犠牲になったかはっきりしませんが、防疫給水部が来て濾過した水だけを飲むようになってから流行は収束に向かいました。
もっとも、俘虜が病気になっても治療らしい治療はできませんでした。軍医はいても医薬品がない。肉や魚などの蛋白質、新鮮な野菜や果物がないから栄養をつけてやることもできません。
しかし、そうした状況は我々も同じです。日本人だけがうまいものを食べていたわけではなくて、皆同じだったんですよ。
我々に対して、食糧がないとか医薬品がないとか、ましてジュネーブ条約に違反して俘虜を軍事作戦行動に使役したなどというのは、最初にも言ったように見当違いなんです。鉄道隊員は俘虜を使って鉄道をつくれと命令されたわけですから。
また俘虜の管理は収容所が受け持っていて、そうした待遇に関しては収容所の管轄です。しかし、第一線の収容所に責任のすべてを被せるのもおかしい。一線は補給を受ける方であって、補給を確保する責任があるわけではありませんからね」
■元俘虜ウェイト少佐の弁護活動
Q:泰緬鉄道建設に関して、阿部さんを合めた七人を戦犯として起訴したのはおかしいと、そういう意味ですね。ところで、裁判の方はどう進められたのでしょうか。
「タイからシンガポールに送られて、チヤンギー刑務所に収容されたのが昭和二十一年八月二十五日。Cホールの二階でした。Cホールは、起訴されて有罪になる確率の高い者が収容されろところだったそうです。
起訴は一月後です。この間、取り調べといえば私服の検事に経歴について聞かれただけです。呼び出されて取調室に入ると、戦犯弁護部の弁護士が二人いました。もちろん 名前も覚えています。
お互いに名乗りあって、話しをする暇もなくまた別室に呼ばれて起訴状を渡された。
それを持って元の取調室に戻ったら弁護士のほかにバンノケースの六人がいました。ここで初めて、その七人が起訴されたことがわかったんです。
日本人弁護士の二人は不真面日というか、最初から熱意がありませんでした。死刑に決まっていると思っていたのかも知れません 。
裁判は二十一年九月二十五日、シンガポール第六軍事法廷で始まりました。午前九時半頃だったと思います。
この前日はものすごい夕立で雷鳴が響いていたんですが、とにかく被告の七人が、バラバラでは犠牲が大きくなる。態勢だけはつくっておかねばならないと思って、板野中佐にお互いに庇いあっていこうと提案した人です。
板野中佐は『ウーン』と唸ったきり黙り込んで、しばらくたってから、『鉄道隊が無理を言ったからな。正直なところを言うよ』と言う人ですね。
鉄道隊がやりすぎたという雰囲気な人です。
ところが一時間も経ったころ、『阿部君が言うようにするか』と言い出して、これには皆がうなずいた。そんなことがありました。
法廷は、検事が二人、判事が三人、弁護士が二人。日本人弁護士のほかにもう一人、イギリス人弁護士がついたんです。この人は元俘虜で、やはり泰緬鉄道の建設現場で働いていたことがあるウエイト少佐です。日本人弁護士の不真面日な態度に比べて、ウエイト少佐は本気で弁護活動をやってくれましたね。
俘虜が大勢死んだのはなぜかが争点になって、結局コレラの流行が大きな原因だったとなったわけですが、そのコレラの流行は日本軍の故意によるものだと証言する者があったらしいんです。ところがウエイト少佐は検察側証人を徹底的に追いつめて、日本軍には責任がないことを明らかにしてくれたんです。反対尋問は、それは迫力がありました」
Q:ワイルド大佐は、証言台に立たなかったんですか。
「もちろん、証言する予定になっていたんです。ワイルドが来るというので、これで終わりだと観念しましたよ。
ところが、裁判が始まって三、四日後のことですが、法廷に三十歳くらいのイギリス人女性が入ってきて、そこにいるイギリス人男性の顔を一人一人覗き込んで歩くんです。なんというか、悲しそうな、寂しそうな顔を今でも覚えています。
そのときは何だろうと不審に思っただけでしたが、実は、ワイルドが飛行機事故で死んだんです。
東京のA級裁判に証人として出廷した後、私たちの裁判で証言するためにシンガポールに向かったんですが、途中、香港で乗っていた飛行機が墜落したんですね。
法廷で見た女性は、ワイルドの奥さんでした。
事故で死んだとの知らせを受けて、あるいは知らせは間違いで本人は法廷に出ているんじやないかと思ったのでしょう。
そういうわけで、ワイルド大佐は証言台には立てなかったんです。かわりに、オーストラリアから来たカッペー大佐という人が証言しました。そのほかには、元俘虜の兵と看護兵が一人ずつだったと思います」
■連隊長が弁護に立ったが……
Q:弁護側証人にはどんな人が出たんですか。
「私の弁護に立ってくれたのは鉄道第五連隊の連隊長だった佐々木万之助大佐でした。バンノケースの審理が始まった頃はスガモプリズンにいたんですが、元の部下が被告席に立っていると間いて進んで弁護にきてくれたんです。
佐々木大佐は、阿部に責任はない、すべての行動は私の命令に基づくものであったと、繰り返して強調してくれました。
すると裁判長は、『大隊長とか連隊長とかいった立場を考えず、また、泰緬線といった場所の限定も離れてここに阿部小隊が存在し、近くに俘虜収容所があったとする。そこで、阿部がある作業に必要を感じ、その俘虜を借りて夜間作業をしたとする。それで事故が発生した場合は誰の責任か』と質問するのです。
この返答如何ではおまえ白身が起訴されることになるかもしれない。よく考えて答えろと言われて、佐々木大佐はしばらくじっと考え、『そのような場合であれば、阿部の責任です』と答えました。
こんな、言ってみれば 汚い誘導が行われる裁判だったということです。
佐々木大佐は、部下だけを前線に出して自分は逃げた指揮官がいたような激戦のなかで、最前線の私の横で戦い、一緒に負傷した人です。証人席にも白分から志願して立ってくれました。裁判でも精一杯のことをやってくれたと思っています」
Q:阿部さん白身はどんな陳述をされたんですか。
「俘虜を虐待したというが、そんなことをすれば 作業力を低下させるだけ。虐待などあり得ないと言いましたよ。裁判長は理屈なんか聞いているんじゃないと言ってましたが、理屈じゃなくて事実です。
あとは夜間作業のことや、部下が俘虜を殴ったことに関してなどですね。一度だけ、部下が作業現場で私の部下に殴られたとワイルドから抗議がありましたが、注意したあと同じ抗議を受けたことはないんです。また、橋の上から落ちて死んだ俘虜があるとも言われましたが、それは明らかな嘘です。先ほど言いましたように、俘虜を高いところに登らせたことは一度もありません。人が落ちたことがあるのは事実ですが、それは鉄道隊員で、しかも死んでなんかいないんです。
感動したのは、俘虜収容所に軍属として務めていた朝鮮人青年、洪起聖(日本名・豊山起聖)の最終意見陳述でした。彼はこう言ったんです。
『もし悪いと言われることがあれば、原因はすべて私にあります。私は俘虜を殴りました。私は殺されてもいいです。しかし、あんなに俘虜のために苦労していた私の上官を助けてください。日本軍は一生懸命にやりました……。
誰もが、自分の命だけは助かりたいと思っているときですよ。これを間いて、私は泣きました」
■絞首台からの生還
Q:審理はどのくらい続けられたんですか。
「判決言い渡しが二十一年十月二十三日ですから、実質三週間ほどですね。これでもBC級戦犯裁判としては異例の長さです。二、三日とか、たった一度の審理だけというものがたくさんあったと聞いています。
バンノケースの裁判には、なにか一種異様な雰囲気があったような気がします。泰緬鉄道は『死の鉄道』として大宣伝され、その張本人が裁かれて、もうすぐ死刑になるという宣伝が行われていたようですね。
判決は、七人のうち私を含めて四人が死刑、後の三人は禁固五年、三年、一年半です。板野中佐は禁固三年でした。彼は洪青年が言ったように、本当に誠心誠意、俘虜の待遇を向上させるために頑張っていましたから、有利な証言が法廷のはかにも集まっていたのかも知れません。
死刑判決が下るだろうと覚悟はしていましたが、実際に言い渡しを聞いたときはやはり動揺がありましたね。終わったときにウエイト少佐は一人一入と握手をして、絶対に諦めるな、あとで書類を送るからかならず嘆願書を出すようにと力づけてくれました」
それから死刑囚を収容するPホールに移って、つらい体験をされるわけですね。
「絞首台に向かう人を何人も見送りました。私の房は絞首台からはんの数メートルしか離れていなくて、そちらに面した窓からすべての音が聞こえてくるんです。踏み板が落ちる瞬間に『天皇陛下、万歳』を叫ぶ声と、バアーンという音が重なります。絞首台は三人一緒に処刑できるんですが、処刑の人数がそれよりも多いと、ギリギリと踏み板を巻き上げる音が続きます。
それよりも何よりも、残酷極まりないのが、体重測定でしたね。死刑執行が言い渡されると、一人一人体重を計るんです。死を確実にするために足に砂袋をつける。その重さを決めるためです。
軍医に聞くと、そんなものをつけなくても落ちた瞬間に首の骨が折れて即死状態だから、必要はないはずだと言ってました。はかの刑務所でこんなことがあったとは聞いたことがありません。チャンギーだけで行われたのだ思います。
それに、確認したわけではありませんが、絞首刑にした死体から血を抜いていると言っていた人もいます。埋葬する前に一時的に死体を保管する
小屋を覗いたら床に大量の血が流れていたというんです。絞首刑ではそんな大量の血は流れませんからね。ただこれは事実かどうかわかりません」
Q:阿部さんもそういう運命になるはずだった。ところが、減刑になったんですね。
「そうです。普通、判決があって二、三ヵ月後には執行されていましたから、昭和二十二年の正月を生きて迎えられるとは思っていなかったんです。
年が明けてもなかなか来ない。そうしているうちに、一月十一日、バンノケースの死刑囚全員に減刑通知がきました。終身刑と十五年で、私は十五年になりました。
減刑の理由はいまだにわかりません。通知には、シンガポール最高司令官の再審査の結果と書いてあっただけでした。ただ、私白身は一つの仮説を持っています。まだ公表はできませんけどね。
減刑されたらPホールを出なければならない。
毛布一枚抱えてPホールを出ていく私たちを、残る者が拍手で送ってくれました。みんな笑って祝福してくれましたけれども、その胸のなかがどうであったか。それを思うと今でも涙が止まらなくなります」
「戦争裁判処刑者一千」戦記シリーズ23 新人物往来社 から引用
戦争裁判 チャンギー刑務所の実態
シンガポール法廷①
沼田真蔵の冤罪
チャンギー刑務所の実態
冤罪はこうして作られ、無造作に重刑が科せられた
構成・編集部
■チャンギーは野蛮、地獄の世界
まず、シンガポール英軍事法廷で終身刑の判決を宣告され、のち巣鴨プリズンに移送されて釈放された沼田真蔵・元陸軍伍長の手記を掲げよう。
昭和二十六年、巣鴨に収監中に書かれたものである。(原文のまま。適当に改行した)
--私は英国人をけっして日本人以上に人道的、かつ。人権尊重の思ひの深い文明人であると思っておりません。
したがって民主国家が、現在の共産党主義の、ことごとくに非難しているようですが、私は其のすべてに、もっともだと思ふものでは有りません。
民主国家、いやしくも大英帝国と名乗る支配かにあった私達、私も身を切る思ひの作業隊並に刑務所生活を経験してきたものであります。今又借釈放の件で未決十ケ月も英人の手で刑務所に監禁された私に、未決間の証明が無いと言われ、現在悩んで居るもので有ります。
あの十ケ月が私にとって二年もの長きに感じ今の数千倍の苦しみで有った事を忘れることは出来ません。
作業隊の当時は日曜日すらなく、朝四時に起され、少しばかりの粥をすすって六時までに一里離れた現場まで歩くのでした。昼休三十分の後は、午後六時までシヤべルを持って我身の哀さにこらい乍ら、時の早く過ぎる事のみを祈りました。
或る日はコンクリートにひざまずいて、たわしと石鹸でゆか洗いでした。幾度故意に、あつい湯を打掛けられた事か又或日は、深く土を掘って又元の様に埋めるのです。そして又掘るのでした。これは何を意味したものでしょう?
其の後戦犯として、チヤンギー刑務所に入られて栄養不良のため足もがくがくと、眩暈すら感じました。当時を私は殺人給養であると言いきる事ができます。なぜならば、あの刑務所の生活を少しでも経験のある人々は口をそろえて同意される事と私は信じます。
私の目にありありと消えさらぬ二十一年のクリスマスでした。私達を正しく立たしておいて、クリスマスのプレゼントだとステッキの太いので手当りブロックの我々を、殴打して走るのです。もうれつな殴打にステッキも析れて、英人大尉の去った後傷み苦しんで居る、友を労わりつつ、国破れて武器を失ひ生死のさかいも人の自由となって居る我身の哀さに泣いてこらえました。
其の外、死刑の宣告を受け、諦めようとつとめても苦しく仏に縋って居るあれらの人々はただ執行の日を待つのみの友に何の罪があって毎夜の様に殴打しなければならなかったのか。頭上の何処かの監房からもれて来る呻き声は、まるで野蛮の世界です。地獄の世界で、けっして文明人の住むチヤンギーでは有りません。
水の拷問で其の場で死んで行った友も有ります。あの死刑囚を減刑になったから喜ぶべしと知らせて、家族に喜びの手紙まで書かして、死刑の確定を言渡した例すらあり、裁判はこれ又一方的報復手段の外何ものもでもない。
強調文
私は思ひ考えれば考えるほど、何故に戦犯として現在にいたり、悩み苦しまなければならぬのか。
この事を多くの人々、より廣く世界の人々に批判を求めたいものであります。
私は願わくば皆様がもっとも勝れたる文明人であると思われるなれば、「人道何々」と、もっともらしく宣伝せずして戦勝国が敗戦国に与へた、
報復なりと言って下されば、私はこの様に悩むことはないでありましょう。
■中国人少年虐待殺害の容疑
この手記をしたためた沼田真蔵は、中国人殺害容疑で戦犯に問われたのだった。しかし、はっきりとした冤罪であった。その経緯は次のようなものであった。
沼田は航空機整備兵で、開戦後まもなくシンガポールで、第三航空軍第十六野戦修理廠所属となり、発動機工場に配属された。そのうち、チヤンギーの陸軍飛行場建設にたずさわるようになり、現地人労働者の世話係をやらされた。仕事がなかった当地の華僑をはじめ、マレー人、インド人が大勢応募してきた。
そうしているうちに、レンタル・アブドロカニーというマレー人が、沼田の右腕となった。職場での統制や、必要な人員の確保にあたって協力を惜しまなかった。そのレンタルがかわいがっていた者に、ホー・コク・オン(呵恩)という英国と中国人の混血人がいた。そつがなく、優男で、沼田のお気に入りになった。
そのホーがある日、リオ・シン・チエン(梁新田)という十二、三歳の中国人を連れてきた。孤児だという。労務者の宿舎に迷い込んできたので、日本軍に内緒で世話をしてきたが、隠しおおせるわけがないというので、温情をもって世話をすることを許してもらいたいというわけであった。
沼田は、その申し出を自分限りの判断で許したのだが、沼田の上官は宿舎からの追放を命じた。
しかし、氏は、ひょっとしたら日本軍の華僑粛清で父母を失った犠牲者かもしれないという同情心もあって、工場に併設されていた工芸学校の校長に嘆願し、宿舎起居の許可を得たのだった。
そうぃう経緯があったので、リオ少年は沼田によくなつき、氏の宿舎にもほとんどフリーパスに近い形で出入りしていたのである。
ところがある口、リオ少年は死んでしまうのである。そのために、戦後、右腕とばかり思っていたホー・コク・オンから、「少年殺害」の罪で告発された。ホー・コク・オンは、抗日諜報員の一人だったのである。沼田はそのことを、戦犯容疑の予備尋問の途中でやっと思い出したのである。
沼田の記憶によると、その尋問は次のように進められた。
ー(一九四六年) 一月七日、またしても、チン大尉の呼び出しがあった。今度の通訳は華僑である。相当慣れた日本語で早口にしやべる。
「お前は、マレー人のレンタビン・アヘブドロカニーなるものを知っているか?」
「イエス!」
「彼は死んだヨ。絞首だ! それから中国人教師のリー・チョン・ボー
(梨鍾波)を知っている
「ノウ、知らない」「日本の技術学校の教師だ、覚えはないか?」 「ノウ!」「では、中田少年リオ・シン・チエン(梁新田)は知っているね?」
「イエス、孤児の少年だ?」「そうです、そうです。その子を連れてきたホー・コク・オン(何国恩)もちろん、知ってるね」「よく知っている!」レク・チェン・ヒアンは?
リー・シオン・ギョは? と後から後からたたみかけて来るが、よく覚えていない。そんな雇いの男もいたような気がするけれども… 『何だ。今日はチャンギーの発動機工場のことーー
あの少年の死亡のことか、そんならはっきりしているし、手続きも完全だ! アブドロカニーは、対日協力祖国反逆罪でやられたのか、可哀そうなことをした……」
その時、チン大尉が、書類をかかげて、威圧するように立ち上がった。
「ユー、コーポラル・ヌマタ! お前は梁少年を虐待致死せしめた件により、柯国恩その池三名により、告発されている!」
何回も練習したのだろうが、聞きとり難い日本語だ。通訳が同じことを繰り返す。
「ノウ! ノウ!」
烈しく叫んで立ち上がった途端、書類をもったままの手が振りおろされ、鼻血がパッと散った。
つづいて胸元へ左手のフックーー
そんなバカな事が、ある筈がない……。
「お前は知っていたはずだ! あの少年が写真を盗みに入った真実の動機をナ………だから殺ったんだ! そうだな!」
抗議をしようと身動きすれば、足蹴が来る。顔を上げようとすれば、また鉄拳の雨だ。通訳のげんこつまで降る始末だ!
「お前、本当に最後まで、柯国恩の正体を知らなかったのか?」
知らなかった…本当に今の今まで、知らなかったーーあの混血人め。お人好しの自分が、全くもって情けない。そうだ、彼は諜報謀略員だったのにちがいない!
■ “首切りスミス”の遊び半分裁判
沼田は、チン大尉の手荒な尋問の末、自分にかけられている戦犯容疑の事実を知った。かわいがっていた「飼い犬」に噛まれたという思いとともに、そして歯ぎしりしながら、容疑とされている当日のリオ少年の不審の死もようやく氷解する思いだった。沼田は次のように回想する。
そうか、呵国恩は抗日諜報員の一人としてわが発動機工場にもぐりこんでいたのか。
梁少年を突然連れて来たのも、その後の経過にも、現在自分の取り調べにも一々思い当たる節がある。
梁少年は、あの時十二・三歳だとの言葉に騙されていたが、そうじゃない。自分の手先きを若く言って、俺を安心させるためのごまかしか!
チェッ、・あの混血め!
あの晩は、俺はぐっすり熟睡しておった。突然の物音に驚いて、頭もとの電燈をひねったが、犯人は咄嗟に姿をかくし逃走した。床にばっさり落ちていたのは、現地労働者の個人写真……」これがばらけて散らばっていた。さては、あれは対日協力者のリスト作りのためかチェッ、あのセラニーめ! 俺は、すぐアブドロカニーとほか数名に非情召集をかけて、犯人捜査をやらせた。暫くすると柯国恩、あいつが少年を連れて謝りにきた。その時は正直な奴じやと賞めたが、後姿でも見られているかも知れぬ、そんなら単純な盗みだと言いくるめた方が得策と思ったに違いない。憲兵への届出を奴はおそれたのだ! チエッ、あのセラニーめ!
その晩は、そのままあいつの手許で監視させたが、「いつの間にか逃亡しました。許してやって下さい」と謝って来たのもあいつだ。よっぽど俺をお人好しに扱っているナ……。「いや、憲兵隊で捜索する」と頑張ったら、またつかまえましたとつれて来た。
何とか救ってやろうと思っていただけにカッと来て、胸ぐらを二つ三つ小突いて、「置いていけッ! 俺が調べてやる!」と怒鳴ったら、「今晩私たちでよく事情を調査して見ますから」とのこと。それもいいだろうと軽く許したら、小一時間もせぬうちに、死にそうだと柯国恩めが駆け込んで来た!
今から思えば、口封じだったのだナ。それから後は、時田軍医と衛生兵に来てもらったがすでにこときれていた………
沼田の審理は(一九四六年)四月一日と二日の二回、八規に判決言渡しがあった。
スミス裁判長は〝首切りスミス″と仇名され、恐れられていた。要するにいい加減な態度で終始し、気分によって量刑を変えるような雰囲気を漂わせていた。当日も判決の直前に弁護人の陳述が行われたが、ほとんど聞いていなかった。手元の用紙に何やら書いたり、あくびをこらえたり、居眠りしたり、こともあろうに傍に連れて来ている自分の奥さんとひそひそ話さえしている。
スミスは最終弁論が終わると、すぐに沼田の名前を呼び、起立させた。
-起立すると同時に「デス・バイ・ハンギング(絞首刑)!」--と傍らの夫人をかえりみてウインク……。総身水を浴びて蒼白となった沼田をにらみ直して、ジェスチャーよろしく、「ハウエバー・アイ・コミュート・インツー・ライフ・インプリズメント(しかし終身刑ですませてやろう)!」
沼田伍長にも”ライフ“ぶぶっきりと聞こえ、おもわず一礼した。ーー 沼田ぶこの判決直後から、未決拘留から既決のDブロックに収監された。
翌五月三日、沼田ぶチン大尉から「十五年の禁固刑」に減刑さたことを知らされた。告訴した河国恩から減刑嘆願の手続きが取られ、それが受け入れられたというのであった。
■死刑囚墓地でタピオカ芋づくり
十五年に減刑された沼田への監視は多少ゆるくなった。事務所の雑用係を命じられていて、錠前の修理や水道貯蔵タンクの点検のために時計塔内を一日に三、四回は見回るという”特権“が与えられていた。沼田はある日の夕方娑婆の景色でも見てやろうと時計塔の上によじ上って下を見下ろしてみた。
かつての日、ここには大日章旗が翩翻とはためき、沼田真蔵百六十ポンド(約七十二キロ)は剣とピストルを腰に、チヤンギーの丘から、こちらを眺めていた。
あれから、早くも五年も経つのか。いや、囚われの日々は、それを倍する長さなのに……。
かつての日を憶いながら、発動機工場のあったあたりを眺め、ついで監獄のまわりに目をやったとき、川田真蔵は異様なものに気付いた。外部障壁東南の隅の外側に、何カ所か、横穴が並んで掘られているのだ。
わずか二百五十メートルほどの場所だからよく判る。郷子の葉が夕日に染まりながら風に揺れる。その合間に横一メートル、縦ニメートルほどの穴が並んでいる。アッと思った。
あそこが墓地か!
そう言えば今朝処刑があった!。
かつてPブロック(死刑囚の入っている部屋)の覗き窓から見た処刑者の、胸を張ってはいたが、影のない悲惨な姿を想い起した。
まだニカ月も経っていないのや:…沼田真蔵は、首をはげしく振って、下に降りパイプを点険しながら、事務所に戻り、看守の一人に「OK」の介図を送った。……
沼田は次の日、再び時計塔に登り、昨日の穴が平に埋められていることを確認した。獄中では、絞首刑された遺体をどう処置するかについてさまざまな噂がたっていた。ある者は、遺体は塀に沿って埋められると言い、ある者は遺体を毛布にくるんで放置しておくと、その夕首に現地雇兵か印度兵かが運んで埋めると言う。しかし、沼田のようにはっきりと埋葬地を確認した者は、おそらく居ないだろう。
一九四七年十月、刑務所の管轄が軍政から民政に移った後、沼田が目撃した埋葬地はタピオカ芋の畑となった。囚人食糧増産の名の下に沼田ら有期刑のものは全員工作に使役された。日本人戦犯処刑者の遺体が埋葬された墓地の上を(遺体はおそらく深く埋められていたであろうから)耕し、いわば彼らを肥料としてタピオカ芋を植えさせられたわけである。
一九五五年、日本政府の調査団によってこの処刑墓地から遺骨が発掘され、シンガポール日本人墓地に埋葬され、彼らはやっと安住の地におさまった。
■既決後もやまなかったリンチ
話は前後するが、沼田真蔵が冤罪で、いささか裁判長の気まぐれから絞首刑を免れ、さらに告訴人当人からの減刑嘆願により十五年の禁固に減刑されたという経緯そのものが、シンガポール法廷のでたらめさの一面をよく示している。日十人が事件を起こしたのだから、罪人は日本人なら誰でもよかったわけだ。
そういうケースの一つとしてアンダマン・ニコバル住民虐殺に関連して、当時アンダマン第十ニ特別根拠地隊の山根仁平海軍上等兵が訴えられた
裁判を一瞥してみよう。
起訴状の大要は「一九四五年八月、ポートブレア(アンダマンの首都)にて住民一人を虐待殺害した」というものである。山根の十記を簡約要約してみると、その審理の模様は次のようであった。
私は昭和二十一年三月二十一目無根の起訴状を受けた。同年四月ニ十六日午前十時シンガポール第六法廷にて裁判に附された。裁判には原告側の本人も出頭し居らず、原告の証人と全然関係のない百姓のモランラールと言う印度人一人であった。
裁判長: 彼処の山根という者を知って居るか。
原告首証人: 知って居る。
裁判長: 山根はバチャンシンを殴打して殺したのを知って居るか。又如何にして殺したか、且つお前は見て居ったか、其を詳細を説明せよ。
原告証人: 山根はバチャンシンを二寸角の長さ五尺位の棒で約一時間位で百十打って殺したのを私は見て居りました。
裁判長: よろしい、控室に行き待って居れ。
それと同時に私が証言台に呼ばれた。
裁判長: 被告山根は此の事件は無罪と思ふか有罪と思ふか。
山根: 私は必然無罪である。
日本人弁護人: 中根は此の事につき事実無根であるし、日本人の証言三人の確証あり、此の法廷に出頭させて証言させる。
検事: 山根は日本軍がアンダマン島に進駐して以来終戦まで居て、司令部に勤務して居ったが、其の間原住民の有識階級が日本軍によってスパイ嫌疑にて逮捕されたのを知って居るだろう。いや、知っているのだから詳細を説明せよ。
山根: 私は司令部に居ったが、飛行場建設のためジャングル地帯に勤務して居りし故何も知らぬ。
裁判長: 山根は原告証人が証言して居るが、何故殺さなければならなかったのか。
山根: 私は殺したなどと言ふことはない。原告証人は虚偽の証言である。
(休廷約十五分)
裁判長: 山根は最後に何か言うことはないか。
山根: 私はこの事件のバチヤンシンなど殺した覚えはなく原住民の為、万善を尽して来たもので、原住民一同へ野菜・塩・油・衣類などまでも、無償供与して来たもので、事実無根なる故、尚今一度取調べて下さい。私の言ふ事が虚偽と疑はれるなれば、原告証人を呼びお尋ね下さる様お願ひ申し上げます。
直ちに原告証人を呼出し、
裁判長: お前は山根が使用して居った苦力に野菜、塩、油等を与へて居た事を聞いたことがあるか。
原告証人: 山根は使用人に野菜、塩、衣類を無償で与へて居った。私も二、三回貰ったことが或る。
このあと一時間ほどの休廷のあと、次のような判決言渡しがあったという。
「山根はアンダマン島進駐以来、よく原注民の食糧を確保せしめたことは誠に感激する。また法廷に出頭し、態度言語共に日本軍人の模範とするに足る者である。しかし貴殿は殺人罪として起訴されて居るゆえ、当然死刑に値するものであるが、君の人格に免じて終身刑を言い渡す」
その事件の審理時間は、三時間半だった。告訴されているという事実のみが優先して、なかば冤罪と感じつつも、裁判長は出来るかぎり無罪を出さないように、また出来るかぎり量刑を重くするように最初から一定の伜がはめられていたことを十分にうかがわせる裁判例である。
もっとも、山根の場合は沼田の場合と異なり減刑の処置が取られなかったということもあったのか、チャンギー監獄の既決房に入れられたあとのリンチは烈しいものがあった。山根白身の手記か
ら要約すると、それは、「毎日減食、拷問、殴り込みに遇い、すべての者におぃても、ただ生きているのみの状態にあり、じつに惨酷きわまりないものがありました。両手を上に掲げて焼けつくようなコンクリート上を歩かされ、夜は殴り込みされる」というものであった。
既決前のリンチもひどかったが、それは既決後も一層烈しくなったとぃう多くの証言がある。例えば伊野権谷下憲兵軍曹は、こう証言している。
「殴り込みは実に凄惨この上もありませんネ。昼のうちに誰をやるか目をつけてぃるのです‐……あいつは原住民虐殺で裁判、絞首だ、ぃや終身刑だと言えば起訴の段階からはげしく、裁判進行中はより酷い。
チャンギー監獄から、法廷に進行する看守(監硯兵)が先ず法廷の証人などの証言で興奮して帰ってくるわけーーこれが直ぐ伝わる訳です。
私と同じ監房にいた憲兵軍曹(名前は忘れましたが……)も、徹底的にやられ、最後には英兵に一階のホール(雨天集合所)に連れ出されて倒れるまで駆け足……… 何日か目の夜は遂に帰って来ませんでした。噂では、翌朝毛布にくるんだ死体らしきものが運び出されたと聞きました」
このようにして、監獄内のリンチで死亡した例は、ほかにもあるという。
(本稿は茶園義男著『BC級戦犯・チヤンギー絞首台』に拠った)
「戦争裁判 処刑者一千」戦記シリーズ23 新人物往来社から引用
沼田真蔵の冤罪
チャンギー刑務所の実態
冤罪はこうして作られ、無造作に重刑が科せられた
構成・編集部
■チャンギーは野蛮、地獄の世界
まず、シンガポール英軍事法廷で終身刑の判決を宣告され、のち巣鴨プリズンに移送されて釈放された沼田真蔵・元陸軍伍長の手記を掲げよう。
昭和二十六年、巣鴨に収監中に書かれたものである。(原文のまま。適当に改行した)
--私は英国人をけっして日本人以上に人道的、かつ。人権尊重の思ひの深い文明人であると思っておりません。
したがって民主国家が、現在の共産党主義の、ことごとくに非難しているようですが、私は其のすべてに、もっともだと思ふものでは有りません。
民主国家、いやしくも大英帝国と名乗る支配かにあった私達、私も身を切る思ひの作業隊並に刑務所生活を経験してきたものであります。今又借釈放の件で未決十ケ月も英人の手で刑務所に監禁された私に、未決間の証明が無いと言われ、現在悩んで居るもので有ります。
あの十ケ月が私にとって二年もの長きに感じ今の数千倍の苦しみで有った事を忘れることは出来ません。
作業隊の当時は日曜日すらなく、朝四時に起され、少しばかりの粥をすすって六時までに一里離れた現場まで歩くのでした。昼休三十分の後は、午後六時までシヤべルを持って我身の哀さにこらい乍ら、時の早く過ぎる事のみを祈りました。
或る日はコンクリートにひざまずいて、たわしと石鹸でゆか洗いでした。幾度故意に、あつい湯を打掛けられた事か又或日は、深く土を掘って又元の様に埋めるのです。そして又掘るのでした。これは何を意味したものでしょう?
其の後戦犯として、チヤンギー刑務所に入られて栄養不良のため足もがくがくと、眩暈すら感じました。当時を私は殺人給養であると言いきる事ができます。なぜならば、あの刑務所の生活を少しでも経験のある人々は口をそろえて同意される事と私は信じます。
私の目にありありと消えさらぬ二十一年のクリスマスでした。私達を正しく立たしておいて、クリスマスのプレゼントだとステッキの太いので手当りブロックの我々を、殴打して走るのです。もうれつな殴打にステッキも析れて、英人大尉の去った後傷み苦しんで居る、友を労わりつつ、国破れて武器を失ひ生死のさかいも人の自由となって居る我身の哀さに泣いてこらえました。
其の外、死刑の宣告を受け、諦めようとつとめても苦しく仏に縋って居るあれらの人々はただ執行の日を待つのみの友に何の罪があって毎夜の様に殴打しなければならなかったのか。頭上の何処かの監房からもれて来る呻き声は、まるで野蛮の世界です。地獄の世界で、けっして文明人の住むチヤンギーでは有りません。
水の拷問で其の場で死んで行った友も有ります。あの死刑囚を減刑になったから喜ぶべしと知らせて、家族に喜びの手紙まで書かして、死刑の確定を言渡した例すらあり、裁判はこれ又一方的報復手段の外何ものもでもない。
強調文
私は思ひ考えれば考えるほど、何故に戦犯として現在にいたり、悩み苦しまなければならぬのか。
この事を多くの人々、より廣く世界の人々に批判を求めたいものであります。
私は願わくば皆様がもっとも勝れたる文明人であると思われるなれば、「人道何々」と、もっともらしく宣伝せずして戦勝国が敗戦国に与へた、
報復なりと言って下されば、私はこの様に悩むことはないでありましょう。
■中国人少年虐待殺害の容疑
この手記をしたためた沼田真蔵は、中国人殺害容疑で戦犯に問われたのだった。しかし、はっきりとした冤罪であった。その経緯は次のようなものであった。
沼田は航空機整備兵で、開戦後まもなくシンガポールで、第三航空軍第十六野戦修理廠所属となり、発動機工場に配属された。そのうち、チヤンギーの陸軍飛行場建設にたずさわるようになり、現地人労働者の世話係をやらされた。仕事がなかった当地の華僑をはじめ、マレー人、インド人が大勢応募してきた。
そうしているうちに、レンタル・アブドロカニーというマレー人が、沼田の右腕となった。職場での統制や、必要な人員の確保にあたって協力を惜しまなかった。そのレンタルがかわいがっていた者に、ホー・コク・オン(呵恩)という英国と中国人の混血人がいた。そつがなく、優男で、沼田のお気に入りになった。
そのホーがある日、リオ・シン・チエン(梁新田)という十二、三歳の中国人を連れてきた。孤児だという。労務者の宿舎に迷い込んできたので、日本軍に内緒で世話をしてきたが、隠しおおせるわけがないというので、温情をもって世話をすることを許してもらいたいというわけであった。
沼田は、その申し出を自分限りの判断で許したのだが、沼田の上官は宿舎からの追放を命じた。
しかし、氏は、ひょっとしたら日本軍の華僑粛清で父母を失った犠牲者かもしれないという同情心もあって、工場に併設されていた工芸学校の校長に嘆願し、宿舎起居の許可を得たのだった。
そうぃう経緯があったので、リオ少年は沼田によくなつき、氏の宿舎にもほとんどフリーパスに近い形で出入りしていたのである。
ところがある口、リオ少年は死んでしまうのである。そのために、戦後、右腕とばかり思っていたホー・コク・オンから、「少年殺害」の罪で告発された。ホー・コク・オンは、抗日諜報員の一人だったのである。沼田はそのことを、戦犯容疑の予備尋問の途中でやっと思い出したのである。
沼田の記憶によると、その尋問は次のように進められた。
ー(一九四六年) 一月七日、またしても、チン大尉の呼び出しがあった。今度の通訳は華僑である。相当慣れた日本語で早口にしやべる。
「お前は、マレー人のレンタビン・アヘブドロカニーなるものを知っているか?」
「イエス!」
「彼は死んだヨ。絞首だ! それから中国人教師のリー・チョン・ボー
(梨鍾波)を知っている
「ノウ、知らない」「日本の技術学校の教師だ、覚えはないか?」 「ノウ!」「では、中田少年リオ・シン・チエン(梁新田)は知っているね?」
「イエス、孤児の少年だ?」「そうです、そうです。その子を連れてきたホー・コク・オン(何国恩)もちろん、知ってるね」「よく知っている!」レク・チェン・ヒアンは?
リー・シオン・ギョは? と後から後からたたみかけて来るが、よく覚えていない。そんな雇いの男もいたような気がするけれども… 『何だ。今日はチャンギーの発動機工場のことーー
あの少年の死亡のことか、そんならはっきりしているし、手続きも完全だ! アブドロカニーは、対日協力祖国反逆罪でやられたのか、可哀そうなことをした……」
その時、チン大尉が、書類をかかげて、威圧するように立ち上がった。
「ユー、コーポラル・ヌマタ! お前は梁少年を虐待致死せしめた件により、柯国恩その池三名により、告発されている!」
何回も練習したのだろうが、聞きとり難い日本語だ。通訳が同じことを繰り返す。
「ノウ! ノウ!」
烈しく叫んで立ち上がった途端、書類をもったままの手が振りおろされ、鼻血がパッと散った。
つづいて胸元へ左手のフックーー
そんなバカな事が、ある筈がない……。
「お前は知っていたはずだ! あの少年が写真を盗みに入った真実の動機をナ………だから殺ったんだ! そうだな!」
抗議をしようと身動きすれば、足蹴が来る。顔を上げようとすれば、また鉄拳の雨だ。通訳のげんこつまで降る始末だ!
「お前、本当に最後まで、柯国恩の正体を知らなかったのか?」
知らなかった…本当に今の今まで、知らなかったーーあの混血人め。お人好しの自分が、全くもって情けない。そうだ、彼は諜報謀略員だったのにちがいない!
■ “首切りスミス”の遊び半分裁判
沼田は、チン大尉の手荒な尋問の末、自分にかけられている戦犯容疑の事実を知った。かわいがっていた「飼い犬」に噛まれたという思いとともに、そして歯ぎしりしながら、容疑とされている当日のリオ少年の不審の死もようやく氷解する思いだった。沼田は次のように回想する。
そうか、呵国恩は抗日諜報員の一人としてわが発動機工場にもぐりこんでいたのか。
梁少年を突然連れて来たのも、その後の経過にも、現在自分の取り調べにも一々思い当たる節がある。
梁少年は、あの時十二・三歳だとの言葉に騙されていたが、そうじゃない。自分の手先きを若く言って、俺を安心させるためのごまかしか!
チェッ、・あの混血め!
あの晩は、俺はぐっすり熟睡しておった。突然の物音に驚いて、頭もとの電燈をひねったが、犯人は咄嗟に姿をかくし逃走した。床にばっさり落ちていたのは、現地労働者の個人写真……」これがばらけて散らばっていた。さては、あれは対日協力者のリスト作りのためかチェッ、あのセラニーめ! 俺は、すぐアブドロカニーとほか数名に非情召集をかけて、犯人捜査をやらせた。暫くすると柯国恩、あいつが少年を連れて謝りにきた。その時は正直な奴じやと賞めたが、後姿でも見られているかも知れぬ、そんなら単純な盗みだと言いくるめた方が得策と思ったに違いない。憲兵への届出を奴はおそれたのだ! チエッ、あのセラニーめ!
その晩は、そのままあいつの手許で監視させたが、「いつの間にか逃亡しました。許してやって下さい」と謝って来たのもあいつだ。よっぽど俺をお人好しに扱っているナ……。「いや、憲兵隊で捜索する」と頑張ったら、またつかまえましたとつれて来た。
何とか救ってやろうと思っていただけにカッと来て、胸ぐらを二つ三つ小突いて、「置いていけッ! 俺が調べてやる!」と怒鳴ったら、「今晩私たちでよく事情を調査して見ますから」とのこと。それもいいだろうと軽く許したら、小一時間もせぬうちに、死にそうだと柯国恩めが駆け込んで来た!
今から思えば、口封じだったのだナ。それから後は、時田軍医と衛生兵に来てもらったがすでにこときれていた………
沼田の審理は(一九四六年)四月一日と二日の二回、八規に判決言渡しがあった。
スミス裁判長は〝首切りスミス″と仇名され、恐れられていた。要するにいい加減な態度で終始し、気分によって量刑を変えるような雰囲気を漂わせていた。当日も判決の直前に弁護人の陳述が行われたが、ほとんど聞いていなかった。手元の用紙に何やら書いたり、あくびをこらえたり、居眠りしたり、こともあろうに傍に連れて来ている自分の奥さんとひそひそ話さえしている。
スミスは最終弁論が終わると、すぐに沼田の名前を呼び、起立させた。
-起立すると同時に「デス・バイ・ハンギング(絞首刑)!」--と傍らの夫人をかえりみてウインク……。総身水を浴びて蒼白となった沼田をにらみ直して、ジェスチャーよろしく、「ハウエバー・アイ・コミュート・インツー・ライフ・インプリズメント(しかし終身刑ですませてやろう)!」
沼田伍長にも”ライフ“ぶぶっきりと聞こえ、おもわず一礼した。ーー 沼田ぶこの判決直後から、未決拘留から既決のDブロックに収監された。
翌五月三日、沼田ぶチン大尉から「十五年の禁固刑」に減刑さたことを知らされた。告訴した河国恩から減刑嘆願の手続きが取られ、それが受け入れられたというのであった。
■死刑囚墓地でタピオカ芋づくり
十五年に減刑された沼田への監視は多少ゆるくなった。事務所の雑用係を命じられていて、錠前の修理や水道貯蔵タンクの点検のために時計塔内を一日に三、四回は見回るという”特権“が与えられていた。沼田はある日の夕方娑婆の景色でも見てやろうと時計塔の上によじ上って下を見下ろしてみた。
かつての日、ここには大日章旗が翩翻とはためき、沼田真蔵百六十ポンド(約七十二キロ)は剣とピストルを腰に、チヤンギーの丘から、こちらを眺めていた。
あれから、早くも五年も経つのか。いや、囚われの日々は、それを倍する長さなのに……。
かつての日を憶いながら、発動機工場のあったあたりを眺め、ついで監獄のまわりに目をやったとき、川田真蔵は異様なものに気付いた。外部障壁東南の隅の外側に、何カ所か、横穴が並んで掘られているのだ。
わずか二百五十メートルほどの場所だからよく判る。郷子の葉が夕日に染まりながら風に揺れる。その合間に横一メートル、縦ニメートルほどの穴が並んでいる。アッと思った。
あそこが墓地か!
そう言えば今朝処刑があった!。
かつてPブロック(死刑囚の入っている部屋)の覗き窓から見た処刑者の、胸を張ってはいたが、影のない悲惨な姿を想い起した。
まだニカ月も経っていないのや:…沼田真蔵は、首をはげしく振って、下に降りパイプを点険しながら、事務所に戻り、看守の一人に「OK」の介図を送った。……
沼田は次の日、再び時計塔に登り、昨日の穴が平に埋められていることを確認した。獄中では、絞首刑された遺体をどう処置するかについてさまざまな噂がたっていた。ある者は、遺体は塀に沿って埋められると言い、ある者は遺体を毛布にくるんで放置しておくと、その夕首に現地雇兵か印度兵かが運んで埋めると言う。しかし、沼田のようにはっきりと埋葬地を確認した者は、おそらく居ないだろう。
一九四七年十月、刑務所の管轄が軍政から民政に移った後、沼田が目撃した埋葬地はタピオカ芋の畑となった。囚人食糧増産の名の下に沼田ら有期刑のものは全員工作に使役された。日本人戦犯処刑者の遺体が埋葬された墓地の上を(遺体はおそらく深く埋められていたであろうから)耕し、いわば彼らを肥料としてタピオカ芋を植えさせられたわけである。
一九五五年、日本政府の調査団によってこの処刑墓地から遺骨が発掘され、シンガポール日本人墓地に埋葬され、彼らはやっと安住の地におさまった。
■既決後もやまなかったリンチ
話は前後するが、沼田真蔵が冤罪で、いささか裁判長の気まぐれから絞首刑を免れ、さらに告訴人当人からの減刑嘆願により十五年の禁固に減刑されたという経緯そのものが、シンガポール法廷のでたらめさの一面をよく示している。日十人が事件を起こしたのだから、罪人は日本人なら誰でもよかったわけだ。
そういうケースの一つとしてアンダマン・ニコバル住民虐殺に関連して、当時アンダマン第十ニ特別根拠地隊の山根仁平海軍上等兵が訴えられた
裁判を一瞥してみよう。
起訴状の大要は「一九四五年八月、ポートブレア(アンダマンの首都)にて住民一人を虐待殺害した」というものである。山根の十記を簡約要約してみると、その審理の模様は次のようであった。
私は昭和二十一年三月二十一目無根の起訴状を受けた。同年四月ニ十六日午前十時シンガポール第六法廷にて裁判に附された。裁判には原告側の本人も出頭し居らず、原告の証人と全然関係のない百姓のモランラールと言う印度人一人であった。
裁判長: 彼処の山根という者を知って居るか。
原告首証人: 知って居る。
裁判長: 山根はバチャンシンを殴打して殺したのを知って居るか。又如何にして殺したか、且つお前は見て居ったか、其を詳細を説明せよ。
原告証人: 山根はバチャンシンを二寸角の長さ五尺位の棒で約一時間位で百十打って殺したのを私は見て居りました。
裁判長: よろしい、控室に行き待って居れ。
それと同時に私が証言台に呼ばれた。
裁判長: 被告山根は此の事件は無罪と思ふか有罪と思ふか。
山根: 私は必然無罪である。
日本人弁護人: 中根は此の事につき事実無根であるし、日本人の証言三人の確証あり、此の法廷に出頭させて証言させる。
検事: 山根は日本軍がアンダマン島に進駐して以来終戦まで居て、司令部に勤務して居ったが、其の間原住民の有識階級が日本軍によってスパイ嫌疑にて逮捕されたのを知って居るだろう。いや、知っているのだから詳細を説明せよ。
山根: 私は司令部に居ったが、飛行場建設のためジャングル地帯に勤務して居りし故何も知らぬ。
裁判長: 山根は原告証人が証言して居るが、何故殺さなければならなかったのか。
山根: 私は殺したなどと言ふことはない。原告証人は虚偽の証言である。
(休廷約十五分)
裁判長: 山根は最後に何か言うことはないか。
山根: 私はこの事件のバチヤンシンなど殺した覚えはなく原住民の為、万善を尽して来たもので、原住民一同へ野菜・塩・油・衣類などまでも、無償供与して来たもので、事実無根なる故、尚今一度取調べて下さい。私の言ふ事が虚偽と疑はれるなれば、原告証人を呼びお尋ね下さる様お願ひ申し上げます。
直ちに原告証人を呼出し、
裁判長: お前は山根が使用して居った苦力に野菜、塩、油等を与へて居た事を聞いたことがあるか。
原告証人: 山根は使用人に野菜、塩、衣類を無償で与へて居った。私も二、三回貰ったことが或る。
このあと一時間ほどの休廷のあと、次のような判決言渡しがあったという。
「山根はアンダマン島進駐以来、よく原注民の食糧を確保せしめたことは誠に感激する。また法廷に出頭し、態度言語共に日本軍人の模範とするに足る者である。しかし貴殿は殺人罪として起訴されて居るゆえ、当然死刑に値するものであるが、君の人格に免じて終身刑を言い渡す」
その事件の審理時間は、三時間半だった。告訴されているという事実のみが優先して、なかば冤罪と感じつつも、裁判長は出来るかぎり無罪を出さないように、また出来るかぎり量刑を重くするように最初から一定の伜がはめられていたことを十分にうかがわせる裁判例である。
もっとも、山根の場合は沼田の場合と異なり減刑の処置が取られなかったということもあったのか、チャンギー監獄の既決房に入れられたあとのリンチは烈しいものがあった。山根白身の手記か
ら要約すると、それは、「毎日減食、拷問、殴り込みに遇い、すべての者におぃても、ただ生きているのみの状態にあり、じつに惨酷きわまりないものがありました。両手を上に掲げて焼けつくようなコンクリート上を歩かされ、夜は殴り込みされる」というものであった。
既決前のリンチもひどかったが、それは既決後も一層烈しくなったとぃう多くの証言がある。例えば伊野権谷下憲兵軍曹は、こう証言している。
「殴り込みは実に凄惨この上もありませんネ。昼のうちに誰をやるか目をつけてぃるのです‐……あいつは原住民虐殺で裁判、絞首だ、ぃや終身刑だと言えば起訴の段階からはげしく、裁判進行中はより酷い。
チャンギー監獄から、法廷に進行する看守(監硯兵)が先ず法廷の証人などの証言で興奮して帰ってくるわけーーこれが直ぐ伝わる訳です。
私と同じ監房にいた憲兵軍曹(名前は忘れましたが……)も、徹底的にやられ、最後には英兵に一階のホール(雨天集合所)に連れ出されて倒れるまで駆け足……… 何日か目の夜は遂に帰って来ませんでした。噂では、翌朝毛布にくるんだ死体らしきものが運び出されたと聞きました」
このようにして、監獄内のリンチで死亡した例は、ほかにもあるという。
(本稿は茶園義男著『BC級戦犯・チヤンギー絞首台』に拠った)
「戦争裁判 処刑者一千」戦記シリーズ23 新人物往来社から引用














