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阿比留瑠比の極言御免 日本は韓国に世話になったか

阿比留瑠比の極言御免
日本は韓国に世話になったか
 博覧強記の評論家、八幡和郎氏の31年2月2日付のフェイスブックの記事は、戦後最悪といわれる日韓関係を考えるうえで、示唆に富むものだった。八幡氏は新著『握造だらけの韓国史-レーダー照射、徴用工判決、慰安婦問題だけじゃない』を執筆しながら、改めてこう感じたのだという。
「日本が(文化で)韓国人から学んだとかお世話になったということなど古代から何もないということであり、一方、韓国人が日本から学んだことは多いのにほとんど研究もされずに不明だということだ」
 目からうろこが落ちる指摘である。多くの日本人は何となく、朝鮮半島からさまざまな文物や文化が伝えられたと思い込んでいる。
■「お世辞」の名残か
 例えば韓国紙によると、朝日新聞の木村伊量前社長は在職中の平成26年10月、東京で開催された日韓言論人フォーラムに出席した韓国人記者らに次のように語ったとされる。
「朝鮮半島の影響なしには日本の文化が豊かにならなかったと考える。そのような面で、韓国は日本の兄のようだ」
 似たようなことを言いたがる政治家や文化人は、今も少なくない。だが、それは錯誤で、明治43年の日韓併合以降の刷り込みではないかと八幡氏は論じる。
 八幡氏は、もともと韓国人を低くみる傾向があった日本人に対して、明治政府や朝鮮総督府が韓国を見下すなと諭すとともに、併合された韓国側を慰撫するために始めた「お世辞」と、「お世話になったキャンペーン」の名残とみている。
「日本は確かに百済には負っているが、実際に文化を伝えたのはほとんど中国人で韓国とは関係ない。論語を伝えたとされる王仁博士も百済から来たが中国人だ。そもそも百済は日本の友好国で、滅ぶ際に支配層は大量に日本に亡命して日本人に吸収された。韓国は百済の継承国といえない」
 われわれが韓国に一定の恩義や敬意を覚えたり、親しみを感じたりする大本自体、勘違いに基づく部分が大きいのかもしれない。
■繰り返す迎合
 ともあれ、開会中の国会に目を移すと、国民民主党(玉木雄一郎代表)と自由党(小沢一郎代表)の合併が大詰めを迎えている。
「日本の政治家なら(与野党関係なく)当然、韓国政府に強く抗議すべきことだ。黙っているなんて、絶対に許されない」
 玉木氏は韓国駆逐艦による海上自衛隊哨戒機への火器管制レーダー照射について、こう強調していた。それはいいが、合併後もその姿勢を継続できるだろうかと少々心配になった。
 パートナーとなる小沢氏といえば2009(平成21)年12月、韓国で講演し
た際に、日本の学界では誰も相手にしていない騎馬民族征服説を持ち出し、朝鮮半島南部の権力者が奈良盆地で政権を樹立して初代、神武天皇になったのは「歴史的な事実であろう」と放言している。
 また、同じ講演では大和朝廷と百済や新羅の交流で「通訳を使ったという記録は全くない」との事実誤認を堂々と語り、さらに「桓武天皇の生母は百済の王女さま」だと明言して韓国側を喜ばせた人物である。
 実際は、生母は百済の武寧王の子のはるかな子孫である帰化氏族、和(やまと)氏の出身であるにすぎず、王女だとは到底言えない。
 小沢氏の例は極端だとしても、日本人は史実を亡し無私・軽視した韓国への迎合リップサービスをずっとくり返してきた。中国には文句を言えない韓国が、日本に対しては居丈高で無礼な態度を取る現状も、日本自身が招いた部分が大きい
 (論説委員兼政治部編集委員)
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ファーウェイ 排除される理由

【「中国点描」産経新聞 H31.01.23 】 矢板明夫・外信部次長

「弊社の社員、王偉晶(おおいしょう)はポーランドの法律に違反し、個人的な理由で逮捕されたため、雇用契約に関する社内規則に基づき労働契約を終了する」

1月12日、中国通信機器大手、華為技術(ファーウェイ)は、同社ポーランド支社の幹部、王偉晶氏を解雇するとの声明を発表した。王氏がスパイ容疑でポーランドの治安当局に拘束されてから、わずか4日後のことだった。

ポーランドメディなどによれば、王氏は中国政府のため違法な情報収集活動を行った疑いがある。元ポーランド内務省高官だった同国籍の男性も共犯として同時に逮捕された。王氏は容疑を否認しているという。事件の捜査が始まった直後に、華為がいきなり王氏を解雇するという結論を出したことに、中国国内では「早急すぎる」という批判が出ている。

王氏と比較されたのは、昨年12月にカナダ当局に逮捕された、同社の副会長、孟晩舟(もうばんしゅう)氏だ。米国の対イラン制裁に違反した容疑だが、逮捕後、華為は何度も「事実無根だ」と否定し、カナダに孟氏の釈放を求め続けている。

孟氏は華為の創業者の長女で主要幹部という立場があるとはいえ、同じく外国の治安当局に逮捕された王氏との対応の違いが注目された。

中国政治に詳しい専門家は「2つの事件はいずれも国家安全に関わっており、一企業として対応できるレベルを超えている。孟氏を守ることも、王氏を解雇することも、中国当局が決めたことだろう」と分析。その上で「孟氏は、中国のIT戦略など多くの重要な秘密を知っており、海外で裁判が開かれることをどうしても避けたい。これに対し王氏は“小物”で、華為のイメージのさらなる低下を避けるために切り捨てられた」との見方を示した。

華為の声明では、王氏が逮捕されたのは「個人的な理由」としているが、その経歴には中国当局の工作員と思わせるところがある。

2002年に北京外国語大学を卒業した王氏は、外交官としてポーランドの中国総領事館で06年から約5年間勤務。11年に転職し、華為のポーランド支社に入社した。

しかし、中国の全国人民代表大会(国会に相当)が09年に可決した「外国人員法」では、外交官について「海外赴任中に退職することはできない」と明記している。

ある中国の元外交関係者は「王氏は退職したのではなく、政府の指示で仕事しやすい身分に変えただけだと考えた方が自然だ」と指摘する。

華為は中国の国有企業ではないため、これまで民間企業として国際社会で活動し、シェアを拡大してきた。しかし、裏では中国政府とさまざまな潜在的なつながりがあることは孟氏と王氏の事件で一層浮き彫りになった。

また、中国には国家情報法という法律がある。「(中国の)機関や市民が同法に従って、国家の情報活動を支援し、協力する」ことを義務付けている。中国当局から「諜報活動への協力」を要請されれば、華為を含むすべての中国企業は拒否できないことになっている。

「孟晩舟事件」以降、欧米のみならず、アジア諸国でも、華為を排除する動きが高まっている。各国はようやく、中国企業の怖さに気づき始めたようだ。

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(51)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(51)「懸け橋」となったアリラン 古賀政男、力道山も魅了 2018.12.29
作曲家の古賀政男
 朝鮮出身の出自を隠しながら「日本人のヒーロー」であり続けたプロレスラーの力道山(昭和38年、39歳で死去)は故郷を懐かしみ、親しい人の前ではよく朝鮮民謡の『アリラン』を歌っていたという。
 朝鮮民族の魂というべきアリランは古来、地方ごとに歌い継がれたバージョンが星の数ほど存在する。力道山はどのアリランを歌っていたのだろうか。
 力道山は、大正13(1924)年=異説あり=に現在の北朝鮮に含まれる咸鏡南道で生まれている。その2年後(大正15年)に制作され、朝鮮全土で2年に及ぶロングランヒットとなった映画があった。

 羅雲奎(ナ・ウンギュウ)監督・主演の朝鮮映画『アリラン』だ。無声映画だが、ラストで弁士や歌手が劇場で歌ったアリランが「解説版」として多数のレコードに吹き込まれた。同じ頃、朝鮮でも実験放送が始まったラジオにも乗って普及してゆく。
 この日本統治時代の映画から誕生した歌がもとになって「本調アリラン」が整えられ、現在の韓国・北朝鮮のみならず、世界中で最も親しまれている“スタンダード”のアリランとなった。今年2月の韓国・平昌五輪開会式で南北選手団が統一旗を掲げて合同入場したときに流されたのも、このアリランである。
 力道山が、南北統一選手団を夢に描いた昭和39(1964)年の東京五輪。前年にスイス・ローザンヌで行われた南北体育会談では、統一選手団の団歌としてアリランを使用することで合意していた。結局、北朝鮮は東京五輪に参加せず、統一選手団も実現しなかったが、年代からみても力道山が愛唱していたのも、このアリランだったに違いないだろう。

■哀調は「涙のスープ」
 このアリランは、間もなく“海峡を越えて”日本でも大ヒットする。
 映画から5年後の昭和6年、日本初のアリラン・レコードが発売された。歌ったのは「金色仮面」という覆面歌手、後に『涙の渡り鳥』で知られる小林千代子である。日本語の詞は、詩人の西條八十(さいじょう・やそ)が書いた。

翌7年には、淡谷のり子と長谷川一郎(蔡奎●(=火へんに華、チェ・ギュウヨプ))のデュエットによる『アリランの唄(うた)』がヒットを飛ばす。こちらの詞は、詩人・作詞家の佐藤惣之助(そうのすけ)が書き、編曲を古賀政男が担当している。哀愁をかきたてる伴奏は、古賀の母校である、明治大学マンドリンオーケストラ・アコージョンが務めた。
 後に、日本を代表する作曲家となり、国民栄誉賞にも輝く古賀は、福岡県出身だが、少年時代を兄が事業を営んでいた日本統治時代の朝鮮で過ごしている。

 『アリランの唄』が発売された年の雑誌『改造』12月号には、朝鮮という土地の風土や伝統的な民謡の美しさに魅了されたのが、音楽に親しみ、作曲に興味を覚えたきっかけになったこと。さらには、清楚(せいそ)な装いをした妓生(キーセン)が哀調をもって歌うアリランの音楽的すばらしさを称賛する一文を寄せている。
 古賀は、戦後の25年には、朝鮮出身の歌手、小畑実(康永★(=吉を2つヨコに並べる、カン・ヨンチョル))にアリランをモチーフにした『涙のチャング』を提供している。
 『アリランの唄』に詞をつけた佐藤もアリランに強い印象を受けたらしい。朝鮮の訪問記にこうある。
 《アリラン歌は、三つ子でも知っているようである。そして内地の河端(かわばた)柳のように、どこか自暴自棄で、哀愁があって、非常に疲れているような味がある。安妓生が竹の箸で大きい鼓を鳴らし、アリラン・アラリーヨと唄い出すと、実際、神仙炉(※朝鮮の鍋料理)から立ちのぼる煙も、涙のスープになる》(昭和12年、『旅窓読本』から)

 この時期、他にも『アリラン・ブルース』『アリラン小唄』『アリラン夜曲』など、アリランにあやかった大衆歌謡が相次いでつくられている。8年には、宝塚キネマの映画『アリランの唄』も公開された
なぜ、アリランはこれほどまでに日本の作曲家、詩人、歌手の心を揺さぶったのか。もちろん、第一には歌が持つ「力」が理由であろう。さらに、時代背景として6年の満州事変、翌年の満州国建国と続く「大陸ブーム」があった。新天地に夢を描いた多くの日本人が“海峡を越えて”大陸へと渡った時代、満州・朝鮮にちなんだ「ご当地ソング」が続々とつくられ、ヒットを飛ばす。
 折しも朝鮮で「緩やかな統治」の文化政治の時代に入っていた。1920年代後半以降、日本のレコード会社が相次いで朝鮮へ進出し、大衆音楽文化も花開く。映画、レコード、ラジオといった当時のニューメディアによってアリランは一気に広まり、“海峡を越えた”人々によって日本にも伝えられた。世界的舞踊家の崔承喜(チェ・スンヒ)やテノール歌手の永田絃次郎(げんじろう)(金永吉(キム・ヨンギル))ら、日本統治時代にアリランにかかわった芸術家・音楽家は数知れない。

■戦後も続いたブーム
 日本での「アリラン」ブームは、形を変えて戦後も続いてゆく。『月がとっても青いから』などのヒット曲で知られる菅原都々子(つづこ)(91)にはエレジー(哀歌)の女王の異名がある。菅原は昭和26年、第1回のNHK紅白歌合戦に出場。同じ年には戦後初となる『アリラン』と朝鮮民謡『トラジ』のレコードを出し、日本のファンにこの歌の魅力を思い出させた。
 日本の伝統音楽の巨匠たちも魅力した。新内の岡本文弥(ぶんや)、津軽三味線の高橋竹山(ちくざん)、都々逸(どどいつ)の柳家三亀松(みきまつ)…多くの名人・上手が「アリラン」を取り込み、歌い、演奏している。
 日本統治時代にルーツを持つ歌(アリラン)が日本と朝鮮半島との「懸け橋」となり、いまなお世界中で愛されているのだ。そのことを噛(か)みしめて、この連載を終えたい。=本文敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)=おわり
                   

『海峡を越えて「朝のくに」ものがたり』は、産経新聞出版から書籍化の予定です。ご期待ください。

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◎ソ連に振り回された共同宣言

産経新聞 論説委員日曜に書く
              河村直哉 2019.1.20

 1956(昭和31)年の日ソ共同宣言に至った経緯を見ていると、日本はソ連に振り回されたという感が強い。日本として本意のものではなかった。

■抑留者を「人質」に
 宣言は平和条約締結後、北方領土のうち色丹島、歯舞群島を日本に引き渡すとしている。同年10月、鳩山一郎首相らがモスクワを訪ねて調印した。
 国論は割れていた。当時の産経新聞によるとこの前月には、財界首脳が鳩山首相の事実上の引退を要望した。また自民党の反主流派が訪ソに反対の動きを見せた。残る択捉島、国後島を実質的に失うことになる、という声は世間に強かった。
 昭和29年末に首相になった鳩山は、ソ連との復交に前のめりだった。ソ連はそこにつけこんだ。機を逃さず日本にアプローチし、まず駐英大使経験のある松本俊一を全権として、同30年6月から交渉が始まった。まだ多数の日本人がソ連に抑留されていたころである。
 松本の回想録『モスクワにかける虹』によると、松本は抑留者を交渉開始とともに送還することや、領土問題について意見交換することなどを提起した。
 ソ連側は、抑留者の送還は平和条約を調印して解決される、とした。抑留者はいわぱ人質に取られたわけである。
 領土問題についてソ連は当初、解決済みとして取り合わなかった。途中から色丹、歯舞を引き渡す意向を見せたが、ほかは頑として認めなかった。交渉は物別れに終わった。

■日本を手玉に
 その後もソ連は日本を手玉に取っている。松本の前掲書によると、ソ連は北洋の公海上に一方的に漁獲高の制限を設けた。
北洋漁業が打撃を受ける日本は、平和条約の発効などを前提とした漁業条約をソ連と結び、再び復交交渉に持ち込まれた。
 ソ連は日本の国連加盟にも反対していた。抑留者や国連という有利なカードを持つたまま、日本を交渉に引きずり出す魂胆だったと思われる。

 外相の重光葵を首席全権として交渉が再開された。ソ連は択捉、国後の返還は決して認めず、溝は埋まらなかった。
 鳩山の共産主義国への認識は甘かったといわざるをえない。
 戦後、反共路線を取った産経はソ連に厳しくものを言っている。昭和31年の社説(現在の「主張」)をいくつか見る。引用は大阪本社版による。
 復交を狙うソ連の意図を5月16日付の社説は次のように分析した。自由主義国から日本を引き離す、日本国内の親ソ連親中国勢力を勢いづかせる、多数のソ連人を日本に送り込み公然、隠然の活動を行わせる、など。その通りだっただろう。
 7月24日付では、ソ連は強国だからという「敗北主義の気分」が国内にあるとしたうえで、訴えた。「ソ連が国交を回復するというならば、まずその対日侵略の不当を自認し、侵略の成果のうち、少なくとも日本固有の領土だけは返せ、」と。
 いうまでもなく北方四島は日本がポツダム宣言を受諾した後、ソ連が占領した日本の固有領土であり、返還するのが当然である。抑留者の送還は国交回復以前の人道問題だ。

■国家の主権の問題
 重光交渉が難航していた8月9日付は、「無条約は一時多少の不利であっても、先方の反省を待つ方が独立国として永遠の利益一と打ち切りを提案した。
確かに、北方領土で問われているのは国家の主権をどう守るかという問題である。
 このように重光交渉が物別れに終わった後の、択捉、国後返還の見込みのない状態での鳩山訪ソだった。日本は領土を継続交渉にするという方針を打ち出した。社説は厳しく批判した。
 「国交回復を急ぐあまりに、わが民族的屈辱の跡を長く残すことは許し難い。その意昧において、そもそも領土をタナ上げにした復交などは、甚だ好ましくない」 (9月16日付)
 「目前の小利害と小功名心のために、わが固有の領土を永久にソ連に対して放棄する」「領土問題の継続審議とは・・・ソ連を相手とする限り、領土の永久放棄にほかならない」、「およそ領土はわが現代の国民が、千百年来祖先から受継いで、さらに後代の国民に伝うべき貴重な預りもの」(9月18日付)
 調印されると「民族的悲劇」(10月20日付)とした。

 さて、安倍晋三首相のロシア訪問である。昨秋、日ソ共同宣言を基礎に平和条約交渉を加速させることでプーチン大統領と合意した。主権をどう守るのか。
     (かわむら なおや)

海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(50)

海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(50)夢に終わった五輪統一チーム 南北で取り合った民族の英雄 2018.12.22

 昭和29(1954)年に本格的な日本デビューを飾った力道山が、「日本人のヒーロー」としてスターの階段を猛スピードで駆け上っていたころ、海峡を挟んだ朝鮮半島情勢は、刻一刻と変化していた。
 韓国では、李承晩(イ・スンマン)政権が倒れた後、36年5月、朴正煕(パク・チョンヒ)が軍事クーデターで実権を掌握。停滞していた日韓国交正常化のための交渉が加速してゆく(40年、日韓基本条約締結)。
 北朝鮮では、初代最高権力者、金日成(キム・イルソン)が次々と政敵を粛清して独裁体制を盤石に。34年12月からは日本から北朝鮮への帰国運動が始まり“地上の楽園”の宣伝文句に誘われて約9万3千人の在日コリアン・日本人配偶者らが海を渡った。

 南北は激しく対立し、日本国内では、それぞれを支持する在日組織が代理闘争を繰り広げる。力道山がいくら出自を隠しても、彼らにとっては「朝鮮生まれの民族の英雄」だ。30年代半ば以降、自陣営に取り込む綱引き合戦は、次第に熱を帯びてゆく。

◆北朝鮮へ帰国させよ
 力道山は、現在の北朝鮮(咸鏡南道)の出身だ。兄たちや幼いときに別れたきりの娘もそこにいる。肉親の情や望郷の念は、もちろんあっただろう。
 北の出先機関というべき朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)は副議長をヘッドとした“力道山獲得工作”を開始する。帰国事業のために日朝間を往来する船に力道山の兄と娘を乗り込ませ、新潟港停泊中、ひそかに力道山と再会させたエピソードや、力道山が金日成の50歳の祝い(37年4月)として高級車のベンツを贈った話も伝わっている。
 さらに、副議長の指令で総連傘下の芸術団所属の若い女性歌手が力道山のもとへ派遣された。2人を結婚させ、北朝鮮へ帰国させる計画だったという。

 『もう一人の力道山』の著者で、その女性にもインタビューを行った李淳●(スンイル)(57)はこう話す。「当初、力道山の周囲にいるのは圧倒的に『南側』の人が多かった。ところが、力道山はだんだんと北へ足を踏み出してゆく。望郷の念や新しい社会主義国家建設。自身の衰えもあって、帰国への流れはかなり進んでいたと思いますね」
 当時、北朝鮮への帰国事業は、開始当初の熱が失われつつあった。もしも、力道山が帰国することになれば格好の宣伝になったのは間違いない。
 南側も巻き返しに出る。38年1月、力道山は極秘裏に韓国を訪問した。当時日本との国交は、まだ結ばれていない。訪韓には、自民党の有力政治家や右翼の大物、在日の暴力団関係者などが関わったとされる。
 出発前日に婚約したばかりの妻、田中敬子(けいこ)(77)も詳しい事情は知らされていなかった。「『黙っていろよ』と口止めされただけ。後に、日韓交渉を手助けするために行った。反対する韓国内の勢力を抑えられるのは『力道山しかいなかったんだ』という話も聞きましたが…」

 敬子のもとには訪韓時に撮った多数の写真を収めたアルバムが残されている。韓国の情報機関KCIA(当時)部長や政府、スポーツ関係の要人の数々。敬子は同行者から、このとき力道山が南北を分かつ38度線近くへ行き、故郷の北へ向かって大声で叫び声を上げたという話も聞く。
 結局、力道山は、総連から派遣された女性と結婚することも北朝鮮へ帰国することもなく、総連の獲得工作は失敗に終わる。極秘訪韓についてもわずかなメディアが小さく報じただけ。もちろん、帰国船の中で、北の兄や娘と会った話が表に出ることもない。
 「日本人のヒーロー」を演じ続ける力道山は、水面下で南北双方とかかわりながら何を思い、何をやろうとしていたのか。

◆なに人でも関係ない
 ひとつのカギが、39年に開催が予定されていたアジアで初めての「東京オリンピック」だ。
 『もう一人の…』を書いた李は、このとき力道山が東京五輪で、韓国と北朝鮮の間で持ち上がっていた統一チームを実現させるために動いていた、という見方をしている。「実は韓国は、メダルが有力な選手を抱える北朝鮮の参加阻止に動いていた。力道山はそれを説得し、最低でも北の参加を、できうるならば統一チームを実現させたかったのだと思う」
敬子によれば、力道山は東京五輪のために、計1千万円の寄付も行っている。
 だが、力道山が東京五輪の開幕を見ることはなかった(38年12月死去)。北朝鮮選手団は来日したものの、選手の資格問題などがこじれ、結局、開会式前に帰国している(韓国は参加)。ただ、金メダル有力とされた北朝鮮の陸上女子選手と韓国からやってきた父親との日本での再会は大きな話題となった。
 力道山が生きていたら、スポーツ選手だったという北朝鮮の娘と日本で再会できたかもしれない。あるいは、南北の統一チームが実現し、力道山が好きだったという朝鮮を代表する民謡「アリラン」が流れる入場行進のシーンを見て涙しただろうか。

 敬子が思い出す力道山の言葉がある。「『オレは“なに人”でも関係ない。南も北もない』って。主人は、スポーツを通じた平和を望んでいたと思う。もし生きていたら日韓、日朝関係も現在とは違った形になったかもしれません」
 力道山の死後、北朝鮮の親族から、北での葬儀の写真と朝鮮語で書かれた手紙が送られてきた。後に訪朝した敬子は、力道山のことを市民がよく知っており、名前を冠した記念品があちこちで売られていることに驚かされたという。
 『力道山がいた』を書いた直木賞作家の村松友視(ともみ)(78)は、「当時の日本で、力道山ほどインターナショナルな価値観や視座を持っていた人はいなかったでしょうね」と話す。
 死して伝説となった力道山。「アジアに進出し、子供はアメリカで産み、スイスで暮らす…」。敬子に語っていた余生は夢と消えた。=本文敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)
                  


 『海峡を越えて「朝のくに」ものがたり』は、産経新聞出版から書籍化の予定です。ご期待ください。
●=馬へんに日

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(49)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(49)妻に見せた力道山の涙 昭和のヒーローの「光と影」 2018.12.15

 55年前の今日(昭和38年12月15日)、暴漢に刺され療養中だったプロレスラー、力道山が息を引き取った。39歳。再手術の前、妻の田中敬子(けいこ)(77)が聞いた最期の言葉は「オレは死にたくない」だったという。翌16日付本紙朝刊の扱いは、意外に小さい。社会面と運動面で事実関係と関係者のコメントなどを報じていた。
 半世紀以上過ぎた現在、戦後何度目かのプロレスブームに沸いている。試合会場には若い女性の姿も多い。アイドルのようにレスラーを見つめる若いファンたちは、すべての始まりが力道山だったことを知っているのだろうか?

 爆発的なブームを巻き起こして、日本人を熱狂の渦にたたき込み、「戦後最大のヒーロー」の一人に上り詰めた男のことを…。
 直木賞作家で、『力道山がいた』の著書がある村松友視(ともみ)(78)は、日本での本格的なお披露目試合、29年2月19日に東京・蔵前国技館で行われた「力道山・木村政彦対シャープ兄弟」のタッグマッチを、近所の電器店に置かれたテレビの生中継で見ている。
 当時、中学1年生。プロレスを誰も知らなかった時代に村松は、ほんの少し予備知識があった。力道山の力士時代の活躍をラジオで聞いていたこと。家で取っていた新聞がプロレス興行の主催者だった関係で、大相撲を辞めた力道山がプロレスラーとなり、アメリカ修業中の記事などが掲載されていたからである。
 ブラウン管に映った力道山は公称180センチ、トレードマークの黒タイツ、長めのガウンを羽織り、独特の無表情で少し上の方をにらみつけていた。パートナーの木村は柔道出身で“鬼の木村”と呼ばれたが、さらに小兵。2メートル近い大巨漢のシャープ兄弟に比べると、2人はあまりに小さい。

 「(体格差を見て)これは無理だろうなと思っていたら力道山が、でかい相手に空手チョップをたたき込んでぶっ飛ばしてしまった。僕はプレスリーの『ハートブレーク・ホテル』を初めて聴(き)いたときみたいにゾクッときた。『問答無用のヒーローの登場』だ、と夢中になったのです」
すっかり力道山に魅せられた村松少年は翌日の試合も電器店のテレビ桟敷に駆けつけた。同じ年の12月、力道山が木村を血だるまにした“巌流島の血闘”は会場で観戦している。
 大人たちの受け止め方は少し違う。約10年前の戦争で、完膚無きまでたたきのめされ、わが国を焦土にして占領したアメリカ人へのコンプレックスを、この日本人が吹き飛ばしてくれたという快感であった。

◆「書けない」タブー
 テレビが普及し始めると、プロレスは、プロ野球と並ぶ人気スポーツとなってゆく。力道山の空手チョップを見るために、街頭テレビには群衆が押し寄せ、漫画やドラマ、映画にも取り上げられた。メディアの取材は連日引きも切らない。

 34年に小学館へ入社したカメラマン、中島弘(83)は創刊間もない「週刊少年サンデー」のグラビアの撮影などでよく、力道山の取材に出かけた。
 「野球・巨人軍のON(王貞治と長嶋茂雄)や芸能人の取材にも行きましたが、何といっても一番人気は力道山。自宅で、分厚いステーキを頬張るところを撮らせてもらったこともあります。弟子には厳しかったらしいけど、僕たちには優しい人でしたね」
 スターとなった力道山はプロレスのみならず、政財界人や芸能人らとの華やかな交流、さまざまな事業への進出でもスポットライトを浴びた。一方で、「プロレスはショーだ」との冷ややかな視線や、暴力団など反社会勢力との交際など「影」もつきまとう。そのひとつが「朝鮮出身」という出自の噂である。
 だが、当時のメディアにとっては「書けない」タブーだった。力道山自身も決して公にすることはない。歌舞伎の荒事(あらごと)の主役のように悪役の外国人レスラーをコテンパンにやっつける「日本人のヒーロー」を演じ続けたのである。

 ◆自らの意思で日本へ
 北朝鮮で出版された評伝を邦訳した『力道山伝説』(平成8年、朝鮮青年社)には昭和13年、大相撲に誘われた力道山(金信洛)が、兄らの徴兵や徴用をちらつかせられて、その後、無理やり朝鮮から日本へ連れ去られたかのように書かれている。
これは明らかにおかしい。朝鮮での徴兵・徴用の実施は19年から。当時の朝鮮は日本の統治で豊かになって人口が急増。仕事を求めて日本へ渡る朝鮮人が相次いだために規制を設けたほどだ。妻の敬子も、力道山から自らの意思で“海峡を越えて”大相撲入りしたことを聞いている。
 もっとも、25年、関脇を最後に大相撲を辞めたのは、ひとつには出自が原因であった。敬子は「横綱になるために日本へ来たのに、純粋な日本人でないとなれないと聞いたようです。ならば、もうこんな所にいてもしようがない、となったんだと話していました」

 38年1月に婚約した敬子が力道山の涙を見たのは2度だけだ。敬子がプロポーズを承諾したとき。婚約が決まり、力道山から「オレが朝鮮で生まれたことを知っているか? それでもいいのか?」と初めて打ち明けられたときである。
 死の数年前…。日本と韓国・北朝鮮をめぐる国際情勢は急を告げようとしていた。アジアで初のオリンピック・東京五輪の開催を39年に控えている。
 「日本人のヒーロー」力道山も、その嵐の中に巻き込まれ、いや応なく出自や民族の問題と向き合うことになる。=本文敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)
                  

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【用語解説】力道山(りきどうざん)
 大正13(1924)年(異説あり)、日本統治下の朝鮮咸鏡南道(現北朝鮮)出身。朝鮮名は、金信洛。昭和15年、大相撲の二所ノ関部屋へ入門。25年、関脇で廃業。プロレスラーとなり、29年2月、日本でのデビュー戦で、爆発的ブームを巻き起こし、一躍ヒーローに。38年6月、田中敬子さんと結婚。同12月、東京・赤坂のナイトクラブで刺され、15日に死去。

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海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(46)

海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(46)姜尚中 在日2世物語の終焉 もう国籍にこだわらない 2018.11.24

 姜尚中(カン・サンジュン)(68)にはいろんな「顔」がある。
 元東大教授、ベストセラー作家、美術番組司会者、テレビのコメンテーター…。そして、とりわけ強いイメージを残したのが、在日韓国人2世として生まれた苦悩を語る発言者としての「顔」であろう。
 戦後73年経(た)ったいま、在日コリアンは、3世が中核を担いつつあり、4世も数を増やしている。
 彼らの意識や、取り巻く社会環境も大きく変化した。総数は50万人を切り、在日中国人にトップの座を譲ってから久しい。日本への帰化者は毎年5千人前後を数え、日本人配偶者との間に生まれた子供たちの多くは日本国籍を選択する。結婚、進学、就職、スポーツにあった「壁」もどんどん取り払われてゆく…。

 姜は、こうした現状をどう見ているのか。
 「ぼやけてきていると思います」。そう表現した。外国籍を維持しながら日本社会で暮らす『在日』という存在や意味が曖昧になっていると言うのである。
 日本統治下の朝鮮半島から、成人として日本へ渡ってきて苦労を重ねた1世は、今やほとんど残っていない。日本生まれの2世も、そろそろ鬼籍に入り始めている。「3世、4世になると、韓国に戸籍の登録もしていないだろうし、日本人との結婚も当たり前になっている。彼らは、なぜ、自分が『在日』でいるのかすら分からない。親が韓国・朝鮮籍だから惰性で外国籍を維持している人が多いと思います」
 姜によれば、戦後「在日の物語」を紡いできたのは実は2世なのだという。1世と違い、文字を知り、高等教育を受けた者が多い。過去の記憶をたどり、国もない、よりどころもないアンビバレンツ(二律背反)な苦悩を、さまざまな表現方法で語ることができた。
 「2世もあと10年もすれば、かなりいなくなるでしょう。“遠心力”にかけられて、在日という存在はますます焦点がぼやけ、見えにくくなる。もちろん、過去の記憶にアイデンティティーを求め、強い民族意識を持ち続ける人もいるでしょうが、長い目で見れば、日本国籍を取るのが自然の流れでしょうね。ひとつの物語の終焉(しゅうえん)です」

■20年前から考えた帰化
 姜自身も、もはや「国籍にこだわるつもりはない」と話す。姜以外の家族はすでに日本国籍だ。
 「日本で生まれ、住み続け、日本で土に還(かえ)る。私は、日本以外へ出たいと思ったこともない。日本にいる以上、日本の流儀に従うべきでしょう。唯一、こだわりがあるとすれば、『姜尚中』という名前だけですね。それも、私の世代で終わる。後は、活字の中で『そんな名前の人がかつていたんだ』というくらいで残ればいいのです」

 姜が日本への帰化を考えたのは20年ほど前からだという。ちょうど、東大教授に就任したころだ。
 少年時代、なぜ、在日韓国人に生まれてきたのかと苦悩し、出自を隠して「永野鉄男」を名乗った。やがて、韓国の民主化運動に身を投じ、「姜尚中」として生きてゆくことを決意。初めての訪韓、埼玉県の「指紋押捺(おうなつ)拒否第一号」、そして、さまざまなメディアでスポットライトを浴びた華々しい活躍…。
 姜は、日本への帰化を「外来種から、本当の在来種への転換。その物語を完結させる儀式」と表現した。「あと10年…いや3、4年後には日本国籍を取ることになるでしょう。そして、日本人論を書いて終わりたいと思います」
 3世、4世にとって、もはや朝鮮半島は「父祖の土地」という以外の意味はない。日本人と同じような生活をし、民族意識は薄く、言葉もままならない…。毎年、減り続けているとはいえ、それでも、いまだ50万人近くが外国籍を維持している『在日』という存在は、アメリカや中国などのコリアン系住民にとっては奇異に映るらしい。

 「お前たち(在日)は、言葉もできないくせに、そんなに民族意識が強かったのか? 『シーラカンス』みたいじゃないか、ってね。ただ、彼らは『自分が誰なのか』を知っている。在日はそれがよく分からない。すがるものがないから『国籍』にしがみつく一面もあったのです」
姜は、日本社会がうまく“受け皿”をつくっていれば、同化はもっと早かっただろうと思う。「在日を負の遺産として日本政府は長い間、統制や公安上の対象としてみてきたからです。同化一辺倒ではなく『コリアン・ジャパニーズ』としての個性を重んずる社会を実現すべきでしょう」
 もうひとつ、日本への帰化が進まない理由として、姜が挙げたのが、手続きの煩雑さだ。「私の両親も帰化を考えていましたが、文字もろくに知らず、手続きが大変で、あきらめたのです。昔より簡素化されたとはいえ、まだまだ時間も(司法書士などへ支払う)費用もかかる。それで帰化に踏み切れない人も少なくないと思います」

■『在日』の歴史を鏡に
 ソフトバンクの創設者、孫正義(そん・まさよし)(61)は姜と同じ九州出身で、在日コリアンの出自を持つ(孫は3世で現在は日本へ帰化)。IT業界の大立者(おおだてもの)になった孫が「経団連会長」になるような日が来るのかもしれない、と姜は思う。
 「一代であれだけの企業をつくり、日本の経済発展に多大な貢献をしている人です。『在日』社会は今後、日本国籍を持った人がマジョリティーになってゆくでしょうが、国籍に関係なく、朝鮮半島に縁をもった人たち皆が、違和感なく『コリアン』だ、といえる時代になってほしい」
 折しも、外国人労働者へのさらなる門戸開放が議論となっている。
 「多くの外国人が日本にやってきて、大きな仕事をする時代が来るでしょう。そんなとき『在日』という存在を歴史的な材料として生かしてほしい。今後の『鏡』にしてほしいのです。東アジア諸国の“橋渡し役”としても『在日』をうまく使えばいい。彼らはきっとブリッジになれますよ」=本文敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)

                  

【プロフィル】姜尚中
 カン・サンジュン 政治学者、東大名誉教授、熊本県立劇場館長。昭和25(1950)年熊本県出身、在日韓国人2世。早稲田大大学院政治学研究科博士課程修了。ドイツ留学を経て、国際基督教大学准教授、東大社会情報研究所教授などを歴任。テレビ、新聞、雑誌など幅広いメディアで活躍。主な著書に『悩む力』『在日』『母-オモニ』など。新刊は『母の教え 10年後の「悩む力」』(集英社新書)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(48)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(48)「無法乱世」の大韓帝国時代
2018.12.8
 「先祖返り」した韓国最高裁判決

 韓国の大手紙の電子版に最近、韓国で「大韓帝国」時代(1897~1910年)を取り上げたテレビドラマや美術展などが相次いでいるという内容のコラムが掲載されていた。
 そのトレンドに共通するのは日本の朝鮮統治以前から朝鮮人による《自発的な近代化の努力があったという点》だという。つまり、“おせっかい”な日本にやってもらわなくとも、朝鮮人自身によって近代化はできたという主張だ。

 一方で、コラムは《同時にその試みが、なぜ限界にぶつかったかを冷静に分析することも重要だ》とし、大韓帝国建国の3年前に朝鮮を訪問したオーストリアの旅行作家、ヘッセが書いた『朝鮮、1894年夏』の記述を取り上げている。
要約すれば、(1)漢城(現韓国ソウル)の商人が扱っていたのは箱、帽子、たばこなどでしかない(2)腐敗官吏の存在は、朝鮮の没落とここに蔓延(まんえん)する悲惨さの最も大きな原因だ(3)かつて朝鮮の技術は先進的だったが、数百年間も同じ所にとどまっているうちに、日本人は多くの領域で産業を発展させた。外部から遮断された朝鮮は官吏の抑圧と搾取、無能力な政府のため産業はむしろ後退した-。
 李朝末期から大韓帝国にかけての政治腐敗のひどさや社会の停滞、それにともなう近代化の遅れについてはヘッセの他にも多くの外国人が書き残している。

 コラムの筆者は、《このような内容を読むほど、「朝鮮旧体制が日帝という外国勢力でなく内部の市民革命で転覆できていたなら」とため息が出る》としながら、「朝鮮についての民族主義の郷愁」や「今の大韓帝国に対する関心」に対してチクリとクギを刺しているのは興味深い。

■盗賊団が横行
 前回(47回)本欄に登場した「慰安婦問題のウソ」に抗議する韓国系アメリカ人の男性(88)の祖父は、地方の郡守(首長)を務めた名門の生まれだった。この祖父は、少年期を過ごした大韓帝国時代には苦い思い出しかない。
 当時、義兵と称しながら盗賊行為を働く一団が各地で跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)。裕福な家の子供を狙っては誘拐し、身代金をせしめる事件が相次いでいた。名門家の独り息子であった祖父は、「義兵盗賊」団から逃れるために毎夜、親類や小作人方に身を隠さねばならず、つらい思いをしたという。

 だから、1910(明治43)年の日韓併合で、大韓帝国が消滅したとき、祖父は、「これで『無法乱世』が終わる」と、随分ほっとしたらしい。そして、法治国家の重要性を改めて認識し、自分の息子を法律家にすべく、日本統治下で整備された高等教育機関に入れて学ばせている。
男性は、「祖父は、『無法』状態だった大韓帝国によほど懲り懲りしていたのでしょう。『国のカネはオレのカネ』という腐敗もひどかったから法律ほどありがたいものはない、と言っていたそうです。初期の日本統治は『武断政治』と呼ばれ、憲兵警察による強圧的な方法でしたが、朝鮮に『法と秩序』を取り戻したのは事実ですからね」
 祖父は、日本語を懸命に学び、息子が無事、法律家になったのを見届けて亡くなったが、日本統治への評価は最後まで変わることがなかった。そして、息子(韓国系アメリカ人男性の父)は、「たとえ『悪法』であったとしても『無法』には勝る」と語るのが口癖だったという。

■創氏改名歓迎した人も
 男性は、日本統治下で教育を受け、旧制中学在学中に終戦を迎えた。昭和15年に実施された「創氏改名」も経験している。
 「旧満州や中国、日本へ渡った朝鮮人は、もろ手を挙げて喜んだと思います。それまで中国風の名前だったために、“同じ日本人”だといっても低く見られていたからですよ。頑強にイヤだと抵抗感を持っていた人は全体の2割くらいだったと思いますね」
 男性は、日本に肩入れしているわけではない。日本統治時代の評価も、「良いものは良い。悪いものは悪い」だ。自身は、日本統治時代に朝鮮人であることで「差別」を受けたことはないが、周囲で差別を見聞きしたことはある。

 たとえば、官吏では、ある時期まで日本人だけに支給されていた「外地手当」や官舎の格差。戦時下で統制が進んだときは、食料配給や学童へのプレゼントにまで差があった。「日本軍の快進撃が続いていたとき、どこそこ陥落記念として子供たちに贈られる品物が、日本人の学校では(貴重な)運動靴だったけど、朝鮮人には、ゴム鞠(まり)だったことがありました」

■歴史を知らない韓国人
 韓国の最高裁で、日本企業に対し、元徴用工への賠償を命じるめちゃくちゃな判決が続いている。
 国際社会が認め、合法的に行われた日韓併合を不法と決めつけ、“強制連行”された徴用工への賠償は、昭和40年の日韓請求権協定などで「互いに放棄する」とうたったはずの請求権には含まれない、という国際法をまったく無視した身勝手な言い分。まさしく「無法乱世」の李朝末期や大韓帝国時代へ、“先祖返り”したかのようだ。

 男性は戦後の韓国・李承晩政権の「反日」や今アメリカで広がっている韓国・中国系住民らによる「反日」も経験している。
 「今の韓国人は、日本統治下で『搾取・略奪され、奴隷のように働かされた』と主張するが、アメリカの黒人奴隷や、ヨーロッパ人が南米やアフリカでやったこととは明らかに違う。朝鮮人は『奴隷』などではなかったからです。若い人たちは歴史を知らず、洗脳されてしまっている」
 だが日本は、韓国などに求められるまま理由なき謝罪や金銭供与を行い、「歴史戦」に負け続けた。
「これまで日本は、事なかれ主義の謝罪や金銭供与で問題をやり過ごそうとして、韓国側を増長させてしまった。今度こそ、断固たる対応を取らねば、韓国は、さらに冒険的になり、取り返しのつかない事態になるでしょうね」=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)
                   ※
 『海峡を越えて「朝のくに」ものがたり』は、産経新聞出版から書籍化の予定です。ご期待ください。

大韓帝国 
 日清戦争(1894~95年)で日本が勝利し、朝鮮の清からの独立が確認された。約500年続いた李朝の王、高宗は冊封(さくほう)体制から離脱したとして97年、皇帝に即位、新たに「大韓帝国」を国号とした。清からの独立を祝い独立門も建立している。1905年の第2次日韓協約に基づき韓国統監府が設けられて日本の保護国となり、10(明治43)年、日韓併合により消滅した。

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(47)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(47)慰安婦問題のウソに抗議 韓国系アメリカ人の孤軍奮闘 2018.12.1

 《私は1930年に朝鮮で生まれ、50年代の大学留学以降、アメリカに住んでいます…以前、あなたがグレンデールの公園にある『慰安婦』像を訪問するニュースを見ました》
 在米の韓国系アメリカ人の男性(88)が、米民主党の下院議員、アダム・シフ=カリフォルニア州=へ宛てて送った手紙は、こう始まっている。書いたのは、新たにサンフランシスコ市で、中国系団体による『慰安婦』像などの寄贈受け入れが議論になっていた昨年8月のことだ。

 シフは、元慰安婦への日本政府の謝罪などを求めた2007年の米下院決議の共同提案者の一人だ。報道によれば、前回の中間選挙を控えていた14年4月、シフは、選挙区であるカリフォルニア州グレンデール市に設置された『慰安婦』像を訪れて献花を行い、「何十万人もの女性が戦時中に性奴隷とされ…元慰安婦の女性が何十年も恥と怒りとともに生きてきた」などと口を極めて非難した。
 手紙の中で男性は、日本統治時代などの自身の体験を踏まえ、シフが口にしたような“虚構の物語”に疑問を呈していく。
《(日本統治下の朝鮮の)朝鮮語の新聞で、私は「軍隊のための性労働者」の求人広告を見たことを覚えています。もしも、日本軍が本当に自宅や路上で無理やり朝鮮の少女を連行したのならば、わざわざ、こんな新聞広告を出す必要があったでしょうか?》
 《1980年代に「吉田清治」という怪しげな背景を持つ男の本が韓国語にも翻訳されて出版されました。彼らは『戦争中に朝鮮女性が“性奴隷”として日本軍に強制連行された』と主張しましたが、それまで韓国で、そんな話はまったくなかった。果たして、日本軍が秘密裏に何十万もの朝鮮女性を連れ去ることなど可能でしょうか?》

 男性は、日本統治時代の朝鮮に生まれ、旧制中学在学中に終戦。戦後はソウル大学法学部を出て朝鮮戦争に従軍、米大学に留学して米国籍を取り、長年、アメリカの多国籍企業で国際金融関係の仕事に携わってきたビジネスマンだ。その2年前には、オバマ政権で駐日大使を務めたキャロライン・ケネディ宛てにも同様の手紙を送っている。
「本当は日本人がすべきことでしょう。だが、僕はウソを見過ごせない。戦時中、僕の街や親類でも、慰安婦にさせるため“軍に強制連行された若い女性”の姿なんて見た人は誰ひとりいないのだから」
 結局、どちらの手紙にも返事はなかった。サンフランシスコ市は昨年11月、像などの寄贈を受け入れ、シフは、先月行われた中間選挙で再選。民主党が下院で多数党になったため、下院情報委員長への起用が確実視されている。また、今回の選挙で、ニュージャージー州では、20年ぶりとなる韓国系下院議員(民主党)も誕生した。米政界の一部議員による理不尽な日本への非難は、今後も強まりこそすれ、緩むことは期待できないだろう。

■中・韓系ロビーが結託
 慰安婦問題や徴用工問題をめぐる“歴史戦”は、今やアメリカが主戦場になっている感がある。
 「反日」で結託する韓国系と中国系ロビーが政治家や地方自治体に圧力をかけて各地に『慰安婦』像や碑を建てさせ「性奴隷」「人身売買」などという言葉で煽(あお)り立てる。米公立高校で使われる一部の世界史教科書には「約20万人の女性を慰安所で働かせるために強制的に徴用した」などという虚偽の記述が堂々と掲載される。ニューヨーク・タイムズスクエアの電光掲示板には、徴用工問題をめぐって「軍艦島は地獄島」などという韓国映画の意見広告が流される…。

 ウソがウソを呼んでひとり歩きし、まるで人間の所業とは思えない“日本軍の悪行”が吹聴され、とどまることをしらない。なぜ、直接関係がないアメリカで、虚構の物語が、これほどまでに流布されるのか。
手紙を出した韓国系アメリカ人の男性はいう。「韓国側の行動は、組織的で非常に統制が取れている。政府や現地の在外公館が後ろでコントロールしているのは間違いないでしょう。彼らは、居留民や宗教の団体を通じて住民に浸透していく。元慰安婦のおばあさんを連れてきて、ワーワー泣かせる。組織だった献金をさせて政治家を動かす…。『反日』で一致する中国系とも連携しています」
 もともとは、こうした問題にさほど関心がなさそうな若い3世、4世らも取り込んでいく。「洗脳ですよ。鉦(かね)や太鼓をたたいて『あなた方の父祖は、日本にとてもひどい目に遭わされたんですよ』とあらゆる場所、機会を通じて『反日』を吹き込み続けるんです」
■「負け続け」の日本
 対して、日本側の動きは鈍く、負け続けているという。男性は、「何事にも事なかれ主義で、まとまった対応ができていないし、積極的な反論メッセージを発信できていない。その結果、多くのアメリカ人は『日本は知らん顔で、ほおかむりしている』と感じている」と手厳しい。
 サンフランシスコ市の問題をめぐっては、日本の政府関係者から、この男性に市議会の公聴会で反対意見の証言をしてほしい、という打診があったという。ところが、内情を聞いてみると「反対」はこの男性1人だけ。「日本の“根回し不足”を感じました。しかも、証言できる時間は2、3分しかないという。これでは最初から“負け”に行くようなものですよ」
男性は、身の安全も考えて出席はせず、反対意見を書面で提出するにとどめた。圧倒的多数の韓国系住民が「賛成」するなかで、実名で「反対」を表明することは家族や親類にまで累が及ぶ可能性がある。
 男性は、アメリカでの一連の「反日」行動を放置すれば、ますます世界へ広がってゆくだろう、という。それが、東アジアにおける米・日・韓の連携を弱体化させることになり、中国や北朝鮮の“思うツボ”になることを憂慮する。
 「『軍隊と性』の問題は世界中にあるが、軍隊が慰安婦にするために強制連行したのは日本しかない…アメリカでは、そこが問題視されている。その点を残したまま何度、謝罪してもダメ。むしろ“事実”だと認めたことになることを分かっていない。日本政府がそれに近いことを公式的に認めてしまった『河野談話』(平成5年)を勇断をもって否定するしかありません」=敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて「朝のくに」ものがたり】(45)

【海峡を越えて「朝のくに」ものがたり】
(45)朝鮮人強制連行載せた「広辞苑」 「発行者」は朝大認可の仕掛人11月17日

■朴慶植も吉田証言引用
 朝鮮人強制連行という言葉を拡散させた『朝鮮人強制連行の記録』(昭和40年)の著者、朴慶植(パク・キョンシク)(1922〜98年)は、「作り話」と知ってか知らずか、講演などで吉田清治の話をたびたび引用している。
 《暴力的な連行の例をあげます…吉田清治という人が…『朝鮮人慰安婦と日本人』という本を出した。(略)朝鮮人慰安婦というのは、日本の陸軍が戦線の兵隊に遊ばせる為(ため)にだまして連行した女性を言ったんですけれども、兵隊が女性を連れてゆくのは例がないと言(い)われています。中国の各地でそれからビルマまで朝鮮の女性を何万と連行しています。(略)日本人には吉田清治のような、強制連行をやった人が相当数いるはずです》(朴著『在日朝鮮人・強制連行・民族問題 古稀(こき)を記念して』収録の平成2年の講演から)
 「朝鮮人強制連行」という言葉を使って非難する人たちの主張には「タコ部屋」「奴隷労働」「小便汁」というおぞましい表現が並ぶ。まるで日本人が悪事の限りをし尽くしたかのような印象だ。何でもかんでも「強制連行」と言いくるめるケースも目立つ。
 朴慶植の追悼号として出された「在日朝鮮人史研究」10年10月号に掲載された『戦時下の日本人が報じた朝鮮人強制連行の視察記』を見てみたい。昭和19(1944)年に京城帝大教授が書いた「近畿の工場に敢闘する半島産業戦士達(たち)を訪ねて」という文をそこに引用しているのだが、原文の内容は『強制連行』のタイトルとは程遠い。
 原文の要旨は(1)労務動員計画(昭和14年〜)によって集団で朝鮮から渡ってきた若者は総じて熱心で評判がいい(2)月給は最高180円、送金は同800円と好成績(3)移動率が高いのはブローカーらに欺かれて自由労務市場に誘惑される者が多いため(4)半面、自由契約の労務者は食うに困って渡ってきた、いわゆる失業移民で評判もよくない−。
 「労務者にとって半強制的徴発の如(ごと)く感ぜられる場合が無(な)いでもない」というくだりがあるが、これは、国家の非常時(戦時)に国民の責務として動員に加わるという、この計画の理念が十分に理解されていないという文脈の中で語られているもので、前述した「タコ部屋」「奴隷労働」といったような過酷な状況はどこにも書かれていない。
 むしろ、純朴で、故郷の家族に多額の送金を行い、職場からも重宝されている若者たちの姿は、日本の高度経済成長期の「集団就職者」に似ている。

■政治問題化に便乗
 “日本叩(たた)き”のツールとして利用された「朝鮮人強制連行」や「従軍慰安婦」などの言葉は、政治・外交問題化が顕著になった1980年代から90年代にかけて教科書や辞典にも順次、掲載されてゆく。
 日本を代表する辞典『広辞苑(こうじえん)』(岩波書店)に「朝鮮人強制連行」の項目が登場したのは、平成3(1991)年発行の第4版から。《日中戦争・太平洋戦争期に百万人を超える朝鮮人を内地・樺太(サハリン)・沖縄などに強制的に連行し、労務者や軍夫として強制就労させたこと。女性の一部は日本軍の従軍慰安婦とされた》とある。
 この内容は、朴らの主張に近い。「従軍慰安婦」と関連づけているのは、朝日新聞報道などによって政治・外交問題化したことに“乗った”のだろう。
 同社辞典編集部では、4版から掲載した理由について、「当時の日本近現代史や朝鮮史の校閲者による選定と推測するが、詳しい資料は残っていない」などとコメントしているが、4版の発行者として、「植民地支配の清算」を求め、日本政府の姿勢を厳しく非難してきた、安江良介(やすえ・りょうすけ)(1935〜98年)の名前があるのは偶然だろうか。
 同社の総合雑誌『世界』の編集長を16年にわたって務めた安江は、北朝鮮の金日成(キム・イルソン)(首相、国家主席)や韓国の金大中(キム・デジュン)(後に大統領)らと近く、進歩的文化人とよばれた「左派人士」を代表するジャーナリスト・編集者。この前年(平成2年)には、岩波書店社長に就任している。

■まるで北の代弁者
 安江の主張や行動は、相当「北」に偏っていたと言わざるを得ない。
 昭和42年、美濃部亮吉(りょうきち)(1904〜84年、東京都知事通算3期)による初の革新都政が誕生した際、安江は、ブレーンとして知事特別秘書に就任。美濃部が就任早々に手がけた「朝鮮大学校(東京都小平市)の各種学校認可問題」も、安江の“耳打ち”がきっかけだったことを美濃部自身が書き残している。
 《朝鮮大学校を各種学校として認可するかどうかの問題が、(前任の)東(龍太郎)知事の時からタナざらしになったままであることを、特別秘書の安江良介君から知らされた。安江君は、岩波書店にいた時(とき)から朝鮮問題に詳しい。話を聞いて、初耳だった私も、その重要性を知った…》(美濃部著『都知事12年』から)
 美濃部は、政府・自民党の反対を押し切って翌昭和43年、朝大の認可に踏み切る。朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)幹部や朝鮮学校教員などを養成する朝大は、これによって固定資産税の免除などの恩恵にあずかることができた。
 46年に、都知事として初めて訪朝した美濃部は、金日成(当時・北朝鮮首相)と2度も面会。資本主義に対する「社会主義の勝利」をブチ上げるとともに、朝大認可に対して、金日成から、ねぎらいの言葉を掛けられている。安江自身も度々訪朝。60年、4度目に訪れたときは、金日成(当時・国家主席)との「解放四十年を迎えて」と題した会見記録を『世界』(同年8月号)に掲載。安江による「まえがき」にこうあった。《…日本政府は、四十年経ながらなお植民地支配の清算をせず、そのことを具体的課題として掲げていない。それのみか、韓国の軍事政権との一体化を進め、北朝鮮に対する敵対的関係を強めているのが現状である》。まるで、北朝鮮の代弁者かのようではないか。
 『広辞苑』は今年1月、10年ぶりの改訂となる、第7版が発行された。
 「朝鮮人強制連行」の記述はわずかに、人数が「労務者だけで約七〇万人」に、慰安婦から従軍の2文字を外した程度で、ほぼ変わっていない。一方で「従軍慰安婦」の項目は7版でも残されたままだ。
 韓国・北朝鮮などに政治利用されかねない記述は、そろそろ削除されたらどうか。=敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(44)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(44)「朝鮮人強制連行」一体誰が…日本たたきのツールにされた言葉 2018/11/17

 「朝鮮人強制連行」という言葉が戦前・戦中はもちろん、戦後しばらくも存在しなかったことは以前、書いた(連載42)。虚偽にもかかわらず、“日本の悪行のシンボル”のごとく使われるようになってしまった言葉は、いったい誰が言い始めたのだろうか。
 特定するのは難しいが、評論家・詩人の藤島宇内(うだい)(1924~97年)が岩波書店発行の雑誌『世界』昭和35(1960)年9月号に書いた論文の中で使用されたのが最初ではないか、という見方が多い。
 首都大学東京名誉教授の鄭大均(てい・たいきん)(70)は、著書『在日・強制連行の神話』で、1960年代以前にこの言葉がほとんど使われた例がないことを指摘した上で、「おそらくは(先行して1950年代半ばから使用されていた)『中国人強制連行』から得た発想なのだろう」と言う。
 この藤島の『世界』論文は「朝鮮人と日本人-極東の緊張と日・米帝国主義」のタイトルがつけられている。文字通り、内容は親北朝鮮、親中国のスタンスに立ち、対峙(たいじ)する日米を、「帝国主義」、韓国を「強圧的な悪政」と指弾したいのが趣旨であろう。
 その中で藤島は、4カ月前の『世界』昭和35年5月号に掲載された「戦時下における中国人強制連行の記録」に触発されたとし、《…「強制連行」は中国人に対してだけ行なったのではなく、朝鮮人に対してもより大規模に長期にわたって行われた犯罪である…しかもこれに対しては一かけらの反省もあらわれない》と日本の姿勢を痛罵する。
 そして、「朝鮮人強制連行の記録」とした第2章で、《一九三九年からは朝鮮人に対して強制的な「労務供出」政策が実施された(略)一九四〇年代の五年間に強制連行されてきた朝鮮人は一〇〇万人ちかいといわれ…》と主張。朝鮮人男性の寝込みを襲い、トラックに乗せて炭鉱に送り込んだ、とか街を歩いていた青年が突然、警官に捕まり、炭鉱へ送り込まれた-という信じがたいエピソードを挟み込んでいる。
 ただ、論文の趣旨からすれば、朝鮮人強制連行のくだりは、「現在」を語るのに「過去」の事例を持ち出し、無理に“ねじ込んだ感じ”が否めない。
 「寝込みを襲い…トラックに乗せて」のエピソードについても、原文にある、やったのは「朝鮮の官吏」という部分が削除されたことが分かっている。つまり、朝鮮人強制連行を“善玉(北朝鮮・中国)”を際立たせ、日本を糾弾する「印象操作のツール」として使ったのではないか。

■狙いは日韓条約阻止
 『世界』の「中国人強制連行の記録」を読んで朝鮮人強制連行に関心を持った人物がもう1人いる。後に、この言葉を大きく拡散させることになる『朝鮮人強制連行の記録』(昭和40年)の著者、朴慶植(パク・キョンシク)(1922~98年)だ。
 朴は、日本統治下の朝鮮慶尚北道に生まれ、6歳のとき一家で大分県に来た。もちろん“強制連行”などではない。ほとんどの朝鮮人がそうであったように、貧しい農民だった父親が新たな仕事を求めて自ら日本へ渡ってきたのである。
 戦後、東洋大学を出た朴は、東京朝鮮中高級学校(日本の中・高校)の社会科教員を経て、昭和35年、朝鮮大学校歴史地理学部の教員となった。
 そのころ、『世界』の論文を読み、朝鮮人強制連行問題に踏み込んでゆくのだが、『在日朝鮮人・強制連行・民族問題 古稀(こき)を記念して』(平成4年)に、その「きっかけ」が書かれている。
 《大学教員の立場から何をもって(在日朝鮮人の)運動に寄与しようかと考えました(略)『世界』五月号に「戦時下における中国人強制連行の記録」という調査報告がのったことに私は刺激を受けました…朝鮮人の強制連行については朝鮮人自身がやらなくてはと考えました》と前置きした上で、《「日韓(基本)条約」調印の少し前の(昭和40年)五月、それに反対する立場から『朝鮮人強制連行の記録』という単行本を出しました》(同書から)と綴(つづ)っている。
 日韓条約を阻止するためには、こんな“非道なこと(朝鮮人強制連行)”をやった日本。そして過去の反省・謝罪もないまま、そんな国と国交正常化をしようとしている韓国を糾弾することが必要だったのだ。

■慰安婦問題で致命的
 朴や藤島は、国家総動員法(昭和13年)に基づいて14年から20年まで実施された朝鮮人の内地(日本)南樺太などへの組織的な動員計画(年代によって「募集」「官斡旋(あっせん)」「徴用」)をすべて“強制連行”だと主張しているが、これは明らかにおかしい。強制力を伴う徴用令が朝鮮に適用されたのは19年9月以降で、内地への移送は半年あまりにすぎない。その徴用ですら応じなかった朝鮮人も少なくない。また、動員計画に従って、ちゃっかり“タダ”で日本へ来た揚げ句、より賃金の高い職場に移っていったケースは多々あった。
 繰り返しになるが、ほとんどは自らの意志で日本へ渡ったのである。それすらも朴らは、日本が朝鮮を侵略して植民地にし、政治・経済を支配し、土地を奪ったために日本へ来ざるを得なかったのだ-と主張するが、これも違う。日本統治下で豊かになったために朝鮮の人口が急増したのが本当の理由である。
 終戦後、戦時の動員計画で来た朝鮮人は優先的に帰国船に乗ることができた。200万人以上の朝鮮人のうち、自主的に日本へ残ったのは約60万人。朴もその一人である。そこへ朝鮮の戦後の混乱・貧困に耐えかねて再び、日本へ舞い戻ったり、新たに来た朝鮮人がない交ぜになって構成されたのが、戦後の「在日韓国・朝鮮人」社会だ。だから“強制連行された朝鮮人の子孫”などではない。
 ところが、朴らの「朝鮮人強制連行」に、日本を糾弾したがっていた日本人が飛びつき、煽(あお)った。1980年代以降、歴史教科書、慰安婦、徴用工…。日本人が火をつけ、韓国政府・メディアが反応・硬化するパターンで、次々と政治・外交問題化、日本は“理由なき謝罪・資金拠出”に追い込まれてゆく。先の韓国最高裁の理解不能な判断もその結果だろう。
 とりわけ慰安婦問題では致命的な影響を与えてしまう。世界中の軍隊に性の問題は存在しても、軍が関与し強制連行した慰安婦は「日本以外にはない悪行だ」というわけだ。ウソがウソを呼び、この言葉は日本をあしざまに罵るツールとして大衆化。やがて、教科書や日本を代表する辞書にも掲載されるようになる。=敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(43)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(43)今なお続く日本の資金拠出 「戦後補償」にすり替わった人道支援 2018.11.3

 先の大戦中、地上戦で民間人が犠牲になったのは沖縄だけではない。日露戦争以降、日本が領有していた南樺太(からふと)でも4千人以上の民間人が亡くなっている。しかも、北海道の北半分を、奪い取る目的で、昭和20年8月15日以降も侵攻をやめなかったソ連軍(当時)によって丸腰の女・子供・お年寄りらが殺され、略奪・レイプといった非道極まる行為の犠牲になった。

 日本統治下の朝鮮と同様、南樺太にインフラ(鉄道、道路、学校など)を整備し、製紙や炭鉱、水産といった産業を活性化させたのは日本である。
 北海道の北にある魚の尻尾のようなこの細長い島に当時、40万人以上の日本人が住んでいた。ソ連軍が来るまでに北海道へ逃れられたのは約11万人。残された約29万人の日本人の大部分も、翌21年の「米ソ引き揚げ協定」によって順次、帰国がかなったが、朝鮮人は留め置かれた。これが、「サハリン残留韓国人問題」と後に呼ばれるのだが、ソ連軍政下で行われたことであり、占領下にあった日本政府が決定に関与していないのは前回、書いた通りである。

■主張は「虚偽」ばかり
 この問題をめぐって、昭和50(1975)年に始まったサハリン裁判で、弁護団などが主張した、日本による強制連行▽日本が朝鮮人だけを置き去りにした▽残された朝鮮人は4万3千人-は、いずれも事実とはかけ離れている。
 日本統治下の朝鮮から南樺太へ渡った朝鮮人労務者の大部分は高賃金に惹(ひ)かれ、自らの意思で行った(その中で後に現地で徴用に切り替えられた者はいる)。
 14年からの労務動員(年代別に「募集」「官斡旋(あっせん)」「徴用」)を“強制連行”と主張する人たちには、その期間(18年)に渡樺し、戦後、サハリン残留韓国人問題に力を尽くした朴魯学(パク・ノハク)(63年、75歳で死去)の例を紹介したい。朝鮮で理髪師として1日2円程度の収入だった朴は同7円という樺太人造石油の好条件に魅力を感じた。「いずれ徴用される」という思いがあったにせよ、朴は給料から朝鮮の家族が家を建てられるほどの大金を送っている。
もとより、戦時下という非常事態において徴用されたのは、日本人も同様だ。
 「4万3千人」の人数は戦後、ソ連が朝鮮北部(後に北朝鮮)などから労働力として移した朝鮮人(約2万人)なども誤ってカウントしてしまったことに起因している。実際に残留した朝鮮人は多くても1万人前後だろう。
 「日本が朝鮮人だけを置き去りにした」というのもウソだ。ソ連軍政下で、日本人・朝鮮人は「無国籍者」とされたが、パスポルト(身分証)の民族欄には日・鮮の区分が明記され、これが明暗を分けた。ソ連が朝鮮人を帰さなかったのは多くが南部(後に韓国)出身者で、友好関係にある後の北朝鮮への配慮や、日本人引き揚げ後の労働力不足を懸念したからである。実際、北への帰還を希望した朝鮮人は、出国を認められているのだから。

■残留者に押し切られ…
 残留者問題は、朴と堀江和子夫妻らの粘り強い帰還運動などによって63年以降、韓国への永住帰国が実現する。“美談”で終わる話が、そこから奇っ怪な展開を見せてゆく。内外から圧力を受けた日本政府は「法的責任はないが、人道的な立場から支援を行う」として、巨額支援を余儀なくされてしまう。
 平成元年、日韓の赤十字を実施主体にする「在サハリン韓国人支援共同事業」(別項)がスタート。2年には、当時の中山太郎外相が国会答弁で韓国に謝罪。社会党の村山富市を首班とする内閣になって、韓国で永住帰国者が住むアパート群建設など、約40億円の巨額支援が一気に決定(7年)された。
10年ほど前に日本の支援でできた、そのアパート群(「故郷の村」)を訪ねたことがある。住んでいるのは「故郷に帰りたかった元労務者のお年寄り」ではなく、多くが若い2世たちであった。これは、朝鮮人の残留者団体が、終戦までに南樺太にいた者すべてを1世とし「補償すること」を強く求め、事業の枠組みに入れてしまったからである。つまり、当時0歳の赤ん坊でも支援対象なのだ。ロシア語しか話せない彼らにとって韓国は「父祖の地」という以外の意味はない。
 一旦、永住帰国してもサハリンに残した家族と再会するための旅費まで、日本が面倒を見てくれるため「暑い夏はサハリンへ帰る」と嘯(うそぶ)く居住者もいた。彼らは「日本が補償するのは当然ではないか」と一様に口をそろえる。韓国政府はことある度に、日本に追加支援を迫り、人道支援は「戦後補償」問題へと、すり替えられていった。

■菅談話で亡霊が復活
 帰れなかった朝鮮人の苦痛は察して余りある。戦争に起因した問題であり、日本の責任は「ゼロ」だと言うつもりもない。だが、虚偽を並べ立て、すべての責任を日本に押しつけ、政治・外交問題化させた日本人や、安易に謝罪し、「カネさえ出せば…」と譲歩してしまった日本の政治家や官僚らの行為は許し難い。
 それが、慰安婦、徴用工問題などでも韓国を勢いづかせ、「強い態度に出れば日本は折れる」と、今なお続く理不尽な“日本叩(たた)き・カネの要求”につながってしまったからだ。
 残留者問題での不可解な共同事業への日本の資金拠出は、戦後73年がたった今も続いている。民主党政権時代の事業仕分け(21年)で一旦は「見直し」が決まったが、翌22年、日韓併合100年に合わせて出された菅直人首相(当時)の談話の中に事業継続がうたわれ、「亡霊」が甦(よみがえ)った。その内閣の主要閣僚に、巨額支援を決定した村山内閣と同じ革新政党の出身者がいたのは偶然ではないだろう。
「この程度の予算で済む(韓国政府が文句を言わない)のなら…」と本音を漏らした外務官僚の言葉が忘れられない。これまでの日本の拠出額は80億円を超えた。人道的支援ならば、日本はもう十分にやったであろう。譲歩すればするほど相手がかさにかかってくるのは「慰安婦問題」や徴用工をめぐる今回の韓国最高裁の判決で思い知らされたではないか。=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)
               ◇
 ■在サハリン韓国人支援共同事業
 平成元~30年度の日本の拠出額は約84億円。サハリンから韓国への永住帰国支援(約3800人、アパート・療養院建設)▽一時帰国支援(延べ約1万7000人)▽永住帰国者のサハリン再訪支援(同約6900人)▽サハリン残留者支援(文化センターの建設など)。ほかに療養院のヘルパー代やサハリン残留者の医療相談、老朽化した施設の改修費などを負担。31年度予算の概算要求にも1億円あまりが盛り込まれている。

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【海峡を越えて「朝のくに」ものがたり】(42)

(42)慰安婦問題の原点「サハリン裁判」 “朝鮮人狩り”証言した吉田清治 2018.10.27

 軍の命令で朝鮮人女性を慰安婦とするために暴力で狩り出した-などという吉田清治の虚偽の話が、それをうのみにした朝日新聞の記事によってバラまかれ、今や世界中に慰安婦像が立ち並ぶ事態になってしまった経緯は、いまさら繰り返す必要もないだろう。
 吉田はもちろん、尻馬に乗って、さんざん日本の行為を非難した革新政党の政治家や、進歩的文化人とよばれた学者や、ジャーナリスト、弁護士たちの責任はあまりにも重い。この結果、「従軍慰安婦」「朝鮮人強制連行」など、戦時には存在しなかった言葉が、日本の悪行のシンボルのごとく使われるようになり、ウソがウソを呼んだ。

 その吉田がスポットライトを浴びることとなったのが昭和50(1975)年12月、東京地裁に起こされた「樺太(からふと)残留者帰還請求訴訟」(サハリン裁判)である。57年、法廷で朝鮮人の「強制連行」や「慰安婦狩り」を証言した吉田はメディアに大きく取り上げられ、翌年には同様の話を綴(つづ)った著書を出版。韓国で「謝罪碑」なるものを建てサハリン残留韓国人の遺家族の前で土下座パフォーマンスを行う。虚偽の話はどんどん拡散していった。
 日本叩(たた)きに狂騒する日本人たちにとって吉田の証言は貴重だったろう。何しろ“加害者側(日本人)”による具体的、詳細な告白だったのだから。社会の注目を集めたサハリン裁判に味を占めた彼らはそれ以降、「戦後補償」「戦後責任」という言葉を声高に掲げて日本政府を非難し、慰安婦問題をはじめとする補償請求訴訟などを次々に起こしてゆくことになる。

 ■「日本糾弾」が主目的
 そもそも、サハリン裁判は奇妙な性格をもっていた。残留韓国人問題(別項)の本来の目的は、ソ連(当時)が出国を認めないサハリンの朝鮮出身残留者を「故郷(主に韓国)の家族のもとへ帰したい」ということである。事実、残留者のひとりで、妻が日本人であったために一足先に日本へ帰国できた朴魯学(パク・ノハク)(昭和63年、75歳で死去)らは、韓・ソの国交がない時代に、外務省やソ連大使館などを回り、署名を集め、何とか堅い門をこじあけようとしていた。

 ところが、元日弁連会長を団長とする大弁護団は、サハリンに残っている朝鮮出身者4人を原告に仕立てた上、彼らは、日本政府の強制連行政策によって当地に送られ、戦後、置き去りにされた(つまり、すべては日本がやったこと)。当事者の責任として、日本政府は原状回復(日本への帰国)させる義務がある-と主張したのである。
原告サイドの中にも“無理筋”ではないか、と門前払いを危惧する声があったが、そうはさせじ、と、前述した事実ではないプロパガンダをメディアに訴えては世論を煽(あお)った。
 吉田自身もサハリンとは何の関係もない。すでに著作を出し、講演活動も行っていた吉田を法廷に連れ出した弁護団の思惑は朝鮮人「強制連行」の“非道ぶり”を印象づけることにあったのだろう。思惑通り、裁判開始から7年後の57年9、11月の2度の「吉田証言」は、裁判の流れに強いインパクトを与える。

 朴とともに帰還運動に取り組んだ新井佐和子(88)は著書『サハリンの韓国人はなぜ帰れなかったのか』にこう書く。《「強制連行」の事実は決定的なものとなって、裁判を継続するにあたっては有利に働いた。さらには日本人の意識のなかに日本の植民地支配の残酷さをすりこみ、加害者意識をかきたたせる結果となり…》。弁護団らは、朴らの運動に寄り添う姿勢を見せながらも、日本政府を糾弾し、謝罪を求め、やがては補償をさせる-ということに主たる目的があったとしか思えない。
 注目された裁判には、多くの支援が寄せられ、ボランティアや寄付金も集まってきた。裁判を支援するグループに加わった新井もその一人である。支援グループの主宰者の女性は学生運動の活動家らと密接な関係にあった。会の会計を担当した新井は、支援者から寄せられるカンパの振込先の通帳が著名な元活動家の名義になっていることを見て仰天する。「一般からのカンパを(主宰者の)独断で怪しげなところへ流用していた。公私混同というより『公』はゼロでした」

 裁判開始の時点で戦後30年、時間も経(た)ちすぎていた。新井によれば、裁判の証人として韓国から呼ばれた残留者の妻たちは法廷で「夫を返せ」と泣き叫び、コップを投げつける愁嘆場(しゅうたんば)を演じてみせたが、終わるとケロッとしていた。「箱根観光へも連れていきましたが、彼女たちは“タダで”日本に来られたことがうれしくて仕方がない様子でしたね」という。
 裁判に疑問を感じた新井は、やがて袂(たもと)を分かつ。

■「味を占めた」人々
 日本政府も国会議員も当初は、この問題に関心を持っていなかった。裁判で被告側(国)が主張した通り、終戦後のサハリンからの引き揚げは、連合国軍側(米ソ)によって決まったことで、(占領下にあった)日本政府は関与していない、法的責任はない-という立場である。関係国であるソ連と韓国の間には、まだ国交がない時代だ。社会党(当時)や公明党、共産党など野党側も、韓国より、北朝鮮と関係が深く、及び腰だった。

 こうした中で58年、公明党の衆・参院議員を務めた草川昭三(90)はサハリンへ乗り込んで、ソ連共産党の地元幹部と直談判。「帰りたい国民(朝鮮出身者)などいない」と怒鳴り付けられながらも、日本を舞台にした家族再会への道筋をつける。「人道問題じゃないですか。当時の党幹部からは『勝手なことをするな』と怒られましたが、安倍(晋太郎)外相や韓国の盧泰愚(ノ・テウ)大統領(いずれも当時)からは随分、感謝されましたよ」
 ところが、残留者の永住帰国のメドが立つようになってから、「オレがやったんだ」とばかりに多くの国会議員が割り込んできた。「味を占めた」人たちは“根拠なき巨額支援”に乗り出し、自・社・さ政権の村山富市内閣(平成6~8年)時代にそれはピークを迎える。 =敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)
                   

【用語解説】サハリン残留韓国人問題 
日本統治時代の朝鮮半島から南樺太(現在はロシアが「サハリン」として実効支配)へ、企業の募集や徴用によって渡った朝鮮半島出身者が終戦後もソ連(当時)によって当地に留め置かれた。当時占領下にあった日本政府は決定に関与していないが、一部勢力が「日本が強制連行しておきながら4万3000人(実際は多くて1万人)の朝鮮人を置き去りにした」などと事実でないことを喧伝(けんでん)し、政治問題化した。元残留者の朴魯学・堀江和子夫妻らによる粘り強い帰還運動などによって昭和63年には韓国への永住帰国が実現した。

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(41)

(41)「独裁の道具」にはさせない 死をも覚悟した訪朝 2018.10.20

 北朝鮮の金日成(キム・イルソン)・正日(ジョンイル)父子に側近として仕え、朝鮮労働党国際担当書記だった黄長燁(ファン・ジャンヨプ)の韓国への亡命(平成9年2月)は、世界中に衝撃を与えた。

 主体(チュチェ)思想を黄とともに研究してきた「同志」で、朝鮮大学校副学長(肩書は当時)の朴庸坤(パク・ヨンゴン)(90)にも、北朝鮮・朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)の追及の手が伸びるのは、避けがたい状況になった。

 朴著『ある在日朝鮮社会科学者の散策』に拠(よ)る。《黄長燁系列の余毒の清算は日本の朝鮮総連にも及んだ…ターゲットはこの私だと誰の目にもわかっていた。私には当時、朝鮮総連の社会科学者としての学位と学識の肩書(共和国科学院院士、在日朝鮮社会科学者協会会長など)がすべて冠せられていた》

 微妙な空気が続き、13年、ついに総連を通じて、朴に訪朝の招請状が届く。妻は猛反対した。「(訪朝すれば)二度と帰れない。殺されるかもしれない」。朴も“片道切符”を覚悟したが、「命を惜しんでいかないのは卑怯(ひきょう)だ」と覚悟し、黄から「決起」の計画を聞かされたとき以来、6年ぶりの訪朝を決意する。

 平壌では、そのまま北朝鮮に居残って主体思想の研究を行うことを勧められたが、日本のNIRA(政府系の総合研究開発機構)客員研究員として書いている論文がまだ執筆中であることを理由に断った。

 逆に、朴には何としてでも聞かねばならないことがあった。「最近、主体思想が強調されていないのではありませんか」と党中央の幹部に質(ただ)すと「今は『先軍政治(金正日が掲げた軍事中心の方針)』の時代だ」と返された。

■「人間のくず」の悪罵
 緊迫したやりとりの中で、朴は何とか“イエローカード”で踏みとどまる。帰国後、今度は総連議長の徐萬述(ソ・マンスル)(平成24年、84歳で死去)らから呼び出される。徐は、NIRAの論文を気にして、出版前に組織の承認を受けるよう迫ったが、朴はもはや、学者としての良心に逆らうつもりはなかった。生涯をかけて研究してきた主体思想が“独裁政治の道具”として歪(ゆが)められ、蔑(ないがし)ろにされている。朴には「先軍思想が主体思想の神髄になることなどありえないこと」だった。

16年3月に製本されたNIRAの論文には、《金正日政権の非理を論難するくだりがあった…反北朝鮮文書の意図的流布と解せられた。執行猶予は取り消された》(「同書」から)。朴は、23年間続けた朝大の副学長、総連中央委員などを解任された。

 さらに19年、テレビ番組に出演して、それまで極秘だった「朝大生200人の帰国(昭和47年)」の事実を公表したことにより、すべての勲章や称号の返還を求められたことは以前(連載38)に書いた通りである。北朝鮮の朝鮮中央通信は朴のことを「人間のくず」だと罵(ののし)った。

■消えた「主体思想」
 北朝鮮の国家と党の公式イデオロギーであったはずの「主体思想」という言葉は近年、あまり使われなくなった。一昨年、36年ぶりに開かれた朝鮮労働党の党大会でも、その言葉はどこにも見当たらない。

 朴自身は、『博愛の世界観』を使うことにした。「(主体思想は)人間があらゆるものの主人であり、あらゆるものを決定する。誰も解明できなかった問題を主体哲学は解明しました。未来の理想社会は、自由と幸福とが保障される人道主義社会であるべきです。世界を発展させる最も強い力は『愛』による統一ですから、『博愛の世界観』と呼ぶことにした。もう私は『主体思想』という言葉は使いません」

■朝大は国際化すべきだ
 平成12年には、韓国の左派政権下で朝鮮籍者の訪韓要件が緩和されたことで、昭和23年に“海峡を越えて”日本に密航して以来、52年ぶりに韓国全羅南道の故郷を訪ねた。5年後に再び訪韓したときには、韓国へ亡命した黄と、涙の再会を果たしている。

 総連組織を離れた今も、個人的つながりまでなくなったわけではない。長く教員として在籍した朝大の教え子は数千人、現在の総連幹部の中にも多い
朴が教員として赴任した朝大の草創期、校舎などは教職員と学生自らの手で建てられた。朴が慣れない講義に四苦八苦しているときも、若い学生たちは熱心に耳を傾けてくれた。1960年代の「金炳植(キム・ビョンシク)事件」の後、荒廃した朝大の再建を任されたときは、学校に泊まり込み、寝る間も惜しんで一人一人に改革を訴えた。再び朝大が正常化するまで3年の月日が必要だったという。朝大への思いはいまなお強い。

 在日コリアンは日本社会への同化が進み、若い世代の意識も急速に変わりつつある。こうした動きに耳を貸さず、依然、北朝鮮の独裁体制への“盲従”をやめようとしない総連組織は細り、求心力は低下、朝大の在校生も、全盛時から大きく減り、存続の危機に立たされている。

 朴の目に「朝大の現状」はどう映っているのか。
 「(朝鮮学校で行う)民族教育は必要だと思う。ただし、(北朝鮮の独裁体制を賛美するような)思想教育と一緒にするのはおかしい。僕は民族を愛し、世界を愛している。そういう思想教育に変えていかねばなりません。朝大はもっとオープンにすべきですよ。開放し、広く人材を受け入れる。そして、国際社会に通用する人材を育成してゆくために、もっと国際化すべきでしょうね」

 昨年出版した『ある在日朝鮮社会科学者の散策』は、激動の半生を赤裸々に振り返り、北朝鮮の独裁体制や総連組織への厳しい批判も綴(つづ)られている。朴は「信念を曲げずに書くことができた」という。

 まさに老学者による「頂門(ちょうもん)の一針(いっしん)」というべき本だったが、総連関係者からの反応はなかった。

 目を悪くし、体調は必ずしもよくない。それでも、朴は『博愛の世界観』を究めたい一心で思想的な格闘を続けている。=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (40)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(40)引き金となった「決起未遂」 黄長燁亡命事件の真相 2018.10.13

 「主体(チュチェ)思想」は、1950年代の中ソ対立のはざまで、北朝鮮の独自性を打ち出そうとした初代権力者、金日成(キム・イルソン)が提唱し、側近の黄長燁(ファン・ジャンヨプ)らによって体系化された。「革命と建設の主人は人民大衆である」などと規定した北朝鮮と朝鮮労働党の政治思想である。

 やがて、主体思想は、後継者となった金正日(キム・ジョンイル)によって、「金日成の絶対化・神格化」のツールとして利用され、変質してゆく。

 後に主体思想研究の日本での第一人者となる朝鮮大学校元副学長、朴庸坤(パク・ヨンゴン)(90)が“絶対化”の一端に触れるのは1974年7月、朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)の「第2次教育者代表団」の一員として初訪朝したときだ。

 朴らは、金日成総合大学の一室に案内され、通しナンバーがふられた赤い表紙の小冊子「党の唯一思想体系確立の10大原則」(別項)を受け取る。朝鮮労働党中央の指導員が読み上げた内容は、まさに衝撃的であった。

 朴の著書『ある在日朝鮮社会科学者の散策』を見てみよう。《後継者に内定した金正日が最初にやった仕事は、「党の唯一思想体系確立の10大原則」を定めたことだった…金日成の神格化、偶像化の宣言であり、疑似宗教国家への変質の道を開く宣言だった…》

 「(初めて聞いたとき)大変なショックを受け、思わず(指導員に)質問をした。『これは事実なのでしょうか?』と。マルクス主義の研究者だった私にとっては、『絶対化』『神格化』などは、あり得ないことでしたからね」

 約2カ月後に帰国した朴は、自宅に飾っていた金日成の肖像を庭にたたきつけ、一時は組織を離れる決意を固める。だが、周りの状況が許さなかった。初訪朝直前には、朝鮮総連の幹部を養成する朝大政経学部の学部長に就任したばかり。翌年5月には、ポーランドで開かれる世界教員大会に出席する総連の派遣団団長に選ばれていた。

 さらに、思わぬことが起きる。1977年9月、北朝鮮の平壌で開かれた「主体思想国際討論会(セミナー)」に総連代表団団長として参加した朴に、主体思想に関する基本演説をする役割が割り振られたのである。マルクス経済学が専門の朴にとって“畑違い”の分野だが、組織の決定を拒否することはできない。

 以来、朴はこの新しい思想・哲学に対して次第に魅了されてゆく。金日成総合大学付属の主体思想研究所研究員、総連傘下の社会科学者協会会長、朝大社会科学研究所長などの肩書を与えられ、黄長燁らとともに、体系化する仕事に熱中することになる。

◆神格化は認めがたい

 だが、主体思想を学問として究めようとする黄や朴と、それを、政治的に利用したい金正日らとは、いずれ衝突せざるを得ない「運命」にあった。

 朴が平壌に滞在していた1995年10月、黄から衝撃的な話を打ち明けられる。再び、朴書に拠(よ)る。《主体思想がマルクス・レーニン主義者に受け入れられないのは、マルクス主義思想を標榜(ひょうぼう)しながら唯物的弁証法とは縁もゆかりもない首領(金日成)の神格化、絶対化を唱え、現在の独裁体制を思想理論で支えているからだ、と黄長燁は自らの考えを述べた…》

 その上で黄は、翌96年2月にモスクワで開催される主体思想の国際セミナーの場で、その考えを世界の研究者の前で披露する、ついては、メインスピーチを朴にやってほしいという話であった。「私たちは、これほど深く、新しい真理を追究しているのに、広く受け入れられないのは『10大原則』が妨害しているからだ。『それと主体思想は全く違うんだ』と世界に広言すべきだと思いました。国(北朝鮮)に背くことになるが、学者としての良心の方が大事だった」

 黄の計画は、それだけではなかった。モスクワでの意見表明と呼応して平壌では金正日の義弟である張成沢(チャン・ソンテク)(2013年処刑)や軍幹部が決起し、独裁体制を終わらせようというのである。「勝つか、負けるか…命がけの計画でした。(黄は)党と軍の幹部、思想学者が立ち上がれば、大衆の支持を必ず得られると信じていたのだと思います」

 ところが、病気に倒れた朴がモスクワのセミナーに参加できなくなり、黄はひとり小さな集会の場で思いのたけを語った。そのスピーチが録音されて金正日に報告され、黄の立場は一気に悪化する。「決起」は行われなかった。

 ◆青酸カリを懐に忍ばせ

 1997年2月、すでに“イエローカード”を突きつけられていた黄が国際セミナーの団長として来日、東京・新宿のホテルで夜半、ひそかに朴と再会する。翌朝早く、人けのない公園で2人は語り合った。《(黄は)ポケットから小さな袋を取り出し…「金正日が私をこのまま放っておくはずがない。これ以上生きるのが苦しくなってきた。青酸カリがある。これを飲めば苦しまずに死ねるだろう…」。私たちは、かたく抱擁しあった。私の両頬は涙にぬれた》(「同書」から)

 黄は、日本から帰国の途に立ち寄った中国・北京で韓国大使館に駆け込み、政治亡命する。北朝鮮側は、悪罵(あくば)の限りをつくして黄を非難、家族ら係累は、政治犯収容所へ収監されたり、自ら命を絶ったりした。もしもモスクワのセミナーで、朴が多くの聴衆の前でスピーチできていたら、「決起」が行われていたら事態は違っていただろうか?
「黄長燁一派」と見なされていた朴にも、危険が迫っていた。=敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)
                  


【用語解説】黄長燁(ファン・ジャンヨプ)1923(大正12)年、日本統治下の朝鮮出身。戦前、日本の中央大学で法学を学ぶ。戦後、ソ連(当時)のモスクワ大学へ留学。北朝鮮の金日成総合大学総長、朝鮮労働党国際担当書記などの要職を歴任。主体思想を体系化し、金日成・金正日父子に重用されたが、1997(平成9)年、出張先の中国・北京で韓国大使館へ駆け込み、亡命した。2010年、韓国・ソウルで病気のため、87歳で死去。
                  


【用語解説】党の唯一思想体系確立の10大原則 
1974年に北朝鮮の朝鮮労働党が定めた全組織・国民の行動規範で、金日成の後継者に内定した金正日が主導した。「偉大なる首領金日成同志の革命思想によって全社会を一色化するために身を捧(ささ)げて闘わねばならない」(第1条)などと、金日成の権威の絶対化、金日成の思想以外を排除する唯一思想体系の確立を図ったもの。2013年「金日成・金正日主義」の文言が盛り込まれ、一部修正された。

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海峡を越えて「朝のくに」ものがたり (39)

海峡を越えて「朝のくに」ものがたり
(39)最後までトップに固執した総連議長 「政治の道具」にされた朝大

 朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)の初代議長として、亡くなるまでトップの座に君臨し続けた韓徳蛛が
戦前。”海峡を越えて”きた経緯や初期のころの日本での活動についてははっきりしない部分が多い。
 「歌が好きで音楽家を志していた」とか、トンネルエ事の肉体労働に就いていたときに、文字が書けない
同胞が朝鮮の家族に送る手紙を代筆してやり、「リーダーとして信望を集めていった」などというエピソー
ドも伝わっている。
 終戦直後の昭和20年10月に結成された在日朝鮮人の組織「在日本朝鮮人連盟(朝連)」から、10年後の
朝鮮総連発足に至る激動の中で、韓は、北朝鮮の権力者とのパイプをバックにして総連組織を掌握。在日同
胞の権利擁護よりも、北朝鮮の意向を代弁する機関へと変質させてゆく。
 その韓が、最後まで手放さなかったポストは、総連議長だけではない。総連コミュニティーの人材を育成
する各種朝鮮学校の頂点に位置する朝鮮大学校と、総連幹部の再教育機関である中央学院のトップ(名誉学
長)もそうである。
 朝大の副学長を23年間務めた朴庸坤(90)が書いた『ある在日朝鮮社会科学者の散策』を引いてみよう。
 《(韓は)総連議長として辣腕を振るったが、権力欲が強く、自分に対抗する力ある幹部を順次、北(朝
鮮)送し、地位の保全を図った。組織の要諦である人材育成機関、中央学院と朝大のトップの座は決して手
放さなかった》
 ただ、朴の。人間・韓徳鉄”への評価は少し違う。副学長として長く仕え、かわいがられたという思いが
強い。「(常任ではない韓が)朝大へやってくると必ず僕を探すんだよ。『朴庸坤はどこだ?』つてね。権
力を維持するために強引なこともやったでしょうが、リーダーとしての手腕や人をひきつける魅力があっだ
のは確かでしょう」
 ■日本人妻と離婚せよ 
 韓は、主体思想研究の日本での第一人者として、北朝鮮本国が認める輝かしい研究成果と肩書を持ちなが
ら長い間、朝大副学長に留め置かれたままの朴を何とか、学長にしたいと思っていた。ネックになっていた
問題は2つである。1つは、朴が、朝鮮の全羅道出身で、根深い地域感情から在日コリアンに多い慶尚道出身者からの反発(寄付金が集まらないことなど)が予想されたこと。
 2つ目にして最大のネックは、朴の妻が日本人であることだ。日本は、北朝鮮が、米国とともに。"打倒す
べき敵”などと位置づけていた存在である。韓自身をはじめ、歴代の朝大学長、総連幹部らは、日本人や外国人の妻をわざわざ離婚してまで。”身の証”を立てていた。朴も昭和35年、朝大教員になったとき、すでに大学校幹部から、日本人妻との離婚を忠告されていたが、ずっと従わずにいたのである。
 「(韓は)『故郷(全羅道出身)の問題は私か何とかしよう。だが(朝鮮学校の最高学府である)朝大の学長の奥さんが日本人では、さすがに示しがつかんじゃないか』というのです。私は『地位(学長)』は求めません。『役割』で仕事をします、とやんわり断りましたが…」
 朝大に通うのは、日本で生まれ、将来も日本社会で生きてゆくであろう在日コリアンである。そんな若者たちに、北朝鮮の政策・思想を押しつけ、いまだにその。”モノサシ”しか容認しようとしないところが、朝大の異常性であろう。「日本」で差別されたのは朴だけではない。母親が日本人だったというだけで、朝大での昇任を阻まれた研究者もいたという。
 結局、朴が朝大学長になることはなかった。北朝鮮の意向に沿わぬ論文執筆やテレビ番組で、朝大生200人を北朝鮮へ送った秘密を暴露したことによって、朝大副学長職など、平成19年までに、すべての肩書・称号を剥奪されたことは前回書いた通りである。
 ■叩いて腑抜けにしろ
 朴の著書には、1960年代後半、韓にとってかわろうとした金炳植(総連第一副議長、後に失脚して北朝鮮へ送還)とが、朝大を巻き込んだ激しい権力闘争を繰り広げたことが詳しく綴られている。((韓が拠点とする朝大への)金炳植の陰湿な攻撃が始まった・・・大学の教職員の思想点検が始まった。極左学生運動の内ゲバ的な自己批判だった・・・「まず徹底的に叩け。俯抜けにしろ。それから種を蒔け」》 (同書)
 教育機関にあるまじき暴力・監視・密告…。金炳植は、北朝鮮の初代最高権力者、金日成の思想だけを神のごとく崇めさせ、それをタテにして総連内の権力を掌握しようとした。
 根っからの学究肌で、若い学生に教えることに情熱を燃やしていた朴もまた夕ーゲットにされた。何日も自宅に帰れないまま、自己批判書を書かされてしまう。「(すべてを金日成の思想に関連づけるため)僕の担当講義もなくなったし、図書館からは『三国志』のような本までが消えていく。精神的に追い詰められて、自ら命を絶つことまで考えましたね」
 昭和47年に、金炳植が失脚すると、朝大内でも今度は。金一派の追い落とし”が始まる。教育機関が醜悪な政治の道具とされ、多くの優秀な教員が学校を去った。疑心暗鬼が支配し、学内は荒廃してゆく。
 混乱の中で、「朝大再建」の重責を担わされたのは朴だった。一時は自死まで覚悟した朴は、やがて、
生涯をかけることになる
「主体思想研究」とめぐり合い、再び、学問の道へとのめり込んでゆく。
   =敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)


 韓徳鎌(ハン・ドクス)
 朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)初代議長。朝鮮大学校初代学長。明治40(1907)年、朝鮮半島の慶尚北道(現・韓国)生まれ。戦前、日本に渡り、(1955)年に結成された朝鮮総連のトップ(議長)として、平
成13年、94歳で亡くなるまで強い権力を保持し続けた。

 ■朝鮮大学校 
 昭和31(1956)年に創設され、34年に現在の東京都小平市に移転。政治経済、理工、教育、外国語など、8学部や研究院、研究所などを備える。文部科学省所管の大学ではなく、東京都が認可する各種学校。北朝鮮が海外公民と位置づけている在日朝鮮人のための「民族教育の最高学府」「(北朝鮮の)唯一の海外同胞大学」と称している。全寮制で、卒業後の進路は、朝鮮総連関係団体の専従職員や朝鮮学校教員などが多かったが、現在の在校生数は、ピーク時の3分の1近くに減少している。

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (38)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(38)主体思想研究の第一人者 朝鮮大学校元副学長の慟哭 2018.9.29

 朝鮮大学校(東京都小平市)の副学長を23年にわたって務めた朴庸坤(パク・ヨンゴン)(90)が密航船に揺られ、“海峡を越えて”、朝鮮半島から日本へ渡って来たのは、戦後の昭和23(1948)年、6月18日のことである。

 北緯38度線を挟んで米ソ両国が進駐し、事実上、南北に分断された朝鮮半島は混乱状態が続いていた。民族の独立を目指し、南朝鮮労働党(後に北朝鮮・朝鮮労働党に統合)の活動家となった朴は、モスクワ留学も決まり、前途洋々に見えたが、ぬれぎぬのスパイ容疑をかけられ、故郷に居づらくなってしまう。

 20歳の朴はひそかに、日本へ渡ることを決心。小さな船に詰め込まれ、済州島を経て、瀬戸内海の広島・尾道に上陸した。「尾道は警戒が緩く、まったく怪しまれなかった」という。

 愛知県内の親類宅に身を寄せた朴は、20年10月に結成された在日朝鮮人団体「在日本朝鮮人連盟(朝連)」愛知県本部の仕事や朝連の民族学校の英語講師をして糊口(ここう)をしのぎ、愛知大に編入する。同大は上海にあった東亜同文書院の系譜を引き、外地から引き揚げた教員・学生の受け皿として戦後創設された学校で、優秀な人材がそろっていた。朴は、東京帝大出身のマルクス経済学者、林要(かなめ)らに師事。学部、研究科(大学院)を経て助手となり、11年にわたって同大に在籍し、研究に打ち込む。

 そのままいけば、同大の教授になるか、故郷(後に韓国)に帰って、経済学の研究者として穏やかな人生が待っていただろう。だが、ふとしたことで始まった朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)、そして北朝鮮との関わりが朴を激動の渦に巻き込み、「主体(チュチェ)思想」研究の日本における第一人者として、その学者人生をも大きく変えてゆく。

◆ない交ぜの在日社会
 朴の後半生をたどる前に、終戦後の在日社会について説明しておきたい。戦争が終わり、日本に200万人以上住んでいた朝鮮人のうち、約140万人が朝鮮半島に帰った。ところが、混乱と貧困によって再び日本へ舞い戻ったり、朴のように、新たに日本を目指したりした朝鮮人らが“ない交ぜ”になって形成されたのが後の「在日朝鮮・韓国人」という存在である。

 日本の行政機関も、混乱していたらしい。戦後にやってきた朴が後に外国人登録を行ったとき、「戦前から親類方に住んでいた」と申告すると、役所側は詳しく調べもせず、すんなり受理されたという。

 前述の「朝連」は在日の権利擁護、帰国支援を目的に結成された。故郷を目指しながら、朝鮮語ができない日本生まれの2世らのために国語講習所を各地に開設、その後身が現在、総連傘下となっている各種の朝鮮学校である。やがて、在日の志向は帰国→定住へ。団体は朝鮮半島の分断とともに韓国支持の在日本大韓民国民団(民団)と北朝鮮支持の総連に分かれ、政治的な性格を強めてゆく。

 ◆帰国事業参加から一転
 朴の人生を変えたのは、34年から始まり、約9万3千人の在日朝鮮人や日本人配偶者・子が北朝鮮へ渡った帰国事業である。

 朴には、交際中の日本人女性(現在の妻)がいたが、故郷に連れて帰ろうにも名家出身の父親が「日本人の嫁」を認めるはずがない。ならば一緒に帰国事業に参加して北朝鮮へ行き、社会主義国家建設に加わろう、と総連の窓口に申し込んだ。資本主義に対する「社会主義の優位」が信じられていた時代である。夫妻は、35年早々の帰国船に乗り込むはずだった。

 ところが、もう一度“賽(さい)の目”は転がる。

4年前(31年)に東京朝鮮中高級学校(日本の中・高に相当)に間借りして開校した「朝鮮大学校」が34年6月から、東京都小平市の約2万坪の新キャンパスに移転しており、規模の拡大にともなって教員の増員に迫られていた。

 総連は急遽(きゅうきょ)、朴の帰国を取りやめさせ、幹部教育機関である中央学院へ送った上、新装なった朝大教員となることを命じる。思いもかけないことだったが、組織(総連)の決定に逆らうことなどできないし、朴自身も若い学生たちを教えることに魅力を感じた。

 まさに、運命の分かれ目であったろう。帰国事業参加者は資本主義の毒に染まった日本からの帰国者として差別を受けただけでなく、スパイ容疑などの冤罪(えんざい)を着せられ、政治犯収容所に送られた人も珍しくない。監視・密告が横行し、“地上の楽園”という宣伝文句とは全く逆のひどい暮らしに疲れ、多くがボロボロになって死んでいった。

 ◆朝大生の帰国を暴露
 朴は49(1974)年に初めて訪朝するまで、その実態を知らなかった。だから47年に北朝鮮の初代最高権力者、金日成(キム・イルソン)の還暦祝いとして、朝大生200人を北へ帰国させるよう指示が来たとき、逡巡(しゅんじゅん)する学生・保護者を説得して回り、背中を押したのである。

 女性映画監督、ヤン・ヨンヒ(53)の長兄(当時朝大1年)も、このとき帰国した。長兄は、後に心身を病み、60歳を前にして亡くなったという。「朝大生200人帰国」の事実は長く秘密とされた。

朴が初めて訪朝したとき、ひそかに宿泊先まで会いに来た元朝大生は、恨み言ひとつ言わなかったという。朴はひとり慟哭(どうこく)する。取り返しのつかないことをしてしまった、と…。平成19年、テレビ番組で朴は、この事実を初めて公にする。そして北朝鮮からすべての称号などを剥奪された。「自責の念ですよ。いつか機会があれば、話すべきだとね。帰国事業は、総連最大の事業だった。ちゃんと総括すべきでした」=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)
                   


【プロフィル】パク・ヨンゴン 
昭和2(1927)年11月、日本統治下の朝鮮・全羅南道和順郡(現韓国)生まれ。23年、日本へ渡り、愛知大でマルクス経済学を学んだ。35年、朝鮮大学校の教員となり、政治経済学部長、副学長を歴任。朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)傘下の在日本朝鮮社会科学者協会(社協)会長、総連中央委員などの要職を務め、日本での「主体思想」研究の第一人者となった。

 2000年代になって主体思想が北朝鮮の金一族独裁に利用され、ゆがめられたことや、北朝鮮へ朝大生約200人が金日成の「還暦祝い」として帰国させられたことを論文やメディアで公表。北朝鮮から与えられた称号や20年以上務めた朝大副学長の役職などを剥奪された。主な著書に『ある在日朝鮮社会科学者の散策』『主体的世界観』など。

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (37)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(37)朝鮮初の女性パイロット 思いは遥か故郷の大空へ
2018.9.22

 『朝鮮交通史』(昭和61年、鮮交会)に、日本統治時代の「朝鮮出身操縦士名簿」(航空局発行、13年まで)が載っている。40人弱の朝鮮人の中で、女性パイロットが2人。その一人、朴敬元(パク・キョンウォン)(1901~33年)は、日本統治下の朝鮮で、初めて操縦士免許をとった女性であった。

 朝鮮・慶尚北道の大邱出身。東京の日本飛行学校を出て、3年5月に、操縦士2等の免許を取得している。当時の免許は、操縦の条件によって1~3等に分かれ、2等は、女性では最高の免許。日本人女性と合わせても3番目だった。翌4年7月には、朴を慕って来日した日本飛行学校の後輩女性、李貞喜(イ・ジョンヒ)がやはり2等免許を取得している。

 第1号となった朴の夢は故郷・朝鮮への凱旋(がいせん)飛行だった。8年8月7日、念願の愛機『青燕(あおつばめ)』(複葉単発機「サルムソン2A2型」)を手に入れた朴は勇躍、羽田を飛び立つ。大阪・福岡を経由して“海峡を越え”、朝鮮から満州へ向かうフライトだった。

 ところが、離陸後しばらくして通信が途絶え、現在の静岡県熱海市内にある玄岳の斜面に墜落してしまう。事故を知った付近の住民総出で捜索したが、朴の死亡が確認され、遺体は現地で荼毘(だび)に付された。事故は当時の新聞にも大きく取り上げられ、朴の夢は悲劇で終わった。

 2号の李貞喜もまた、朝鮮戦争(1950~53年)時に拉致され、北朝鮮へ渡ったと伝えられている。

 ■ワンパターンの反日

 朴敬元の物語は、戦後も続いてゆく。事故から70年近くたった平成12年、当時の首相、森喜朗(よしろう)と韓国大統領、金大中(キム・デジュン)による日韓首脳会談が静岡県熱海市で開かれる。2年後、その縁で熱海梅園に李朝時代の韓国庭園が造られ、その中に、日韓友好のシンボルとして「朴飛行士記念碑」が建てられることとなった。
「思いは遥(はる)か故郷の大空」と題された碑文には、日韓両国語で、朴の経歴や事故の経緯が刻まれている。こぢんまりとした韓国庭園内には、両首脳直筆を刻字した友好平和記念碑も設置された。朴飛行士の慰霊祭には、後輩である韓国の航空関係者も訪れ、先人の遺業を偲(しの)んだという。

 2000年代半ばには、朴を主人公とした韓国映画『青燕』が製作された。ところがその内容は“お決まりの反日”。産経新聞ソウル支局長(当時)の黒田勝弘が、コラム「ソウルからヨボセヨ」(平成18年1月21日付)に書いている。

 《…映画を見て失望した。親日映画どころか逆に反日映画なのだ。(略)「あるがままの歴史」より「あるべき歴史」が優先する“韓国人の歴史観”そのものでした》と。

 ■13年間の朝鮮定期航空

 日本統治下で、朝鮮の定期旅客航空網は大きく発展した。昭和13(1938)年の朝鮮航空路(日本航空輸送)は、東京・大阪・福岡の内地から、朝鮮(大邱・京城・平壌・新義州・清津など)を経て、日本の租借地であった、関東州の大連や満州国の奉天(現中国・瀋陽)・新京(同長春)にまで、翼を広げている。

 9年10月の鉄道省編纂(へんさん)航空時刻表の東京-大連のタイムテーブル(日本航空輸送)を見てみたい。東京を午前9時30分に離陸、名古屋・大阪に寄航して福岡着は夕方4時。さらに京城着は翌日昼の12時40分。最終目的地の大連着が夕方の4時(満州時間・日本の標準時マイナス1時間)。計約2100キロメートルを、1泊2日(各空港での待機時間を含む)で飛んだ。鉄道と日満航路の船を乗り継げば、4日かかる行程である。

 当初の航空機の利用客は少なく、4年から定期旅客航空営業をスタートさせた日本航空輸送の初年度の総旅客数は、わずか943人。8年の朝鮮内主要飛行場利用状況をみても、出発旅客数が1千人を超えたのは京城だけである。京城の飛行場は現在、国会議事堂や高層ビルが立ち並ぶ漢江の中洲・汝矣島(ヨイド)にあった。戦後しばらくも、軍民両用の空港として使用されている。
その後、同社は順調に路線を延ばしてゆく。朝鮮・満州のほか、中国(青島・天津・北京、上海・南京)、沖縄・台湾線など、総営業キロは計1万2837キロ(昭和13年10月、『日本航空輸送 10年史』から)に達した。これは4年の開業時の約5倍。総旅客数も5万5547人(12年10月~13年9月)と、実に60倍近くに膨れ上がった。

 朝鮮での定期旅客航空の輝きは短い。同社は13年12月、国策によって国際航空と統合し、新たに国策会社色が強い大日本航空が発足。16年12月、対英米戦争が始まると、民間機路線は次第に縮小されてゆく。

 『朝鮮交通史』にこうある。《大日航機は次々と軍に動員され、朝鮮関係の昭和17年冬ダイヤ以降は急激に縮小され、一般的には休航と告示された》。同年秋以降は、陸・海軍の徴用体制に組み込まれ、朝鮮関係は陸軍の担当となった。

 《(朝鮮の)実質的な民間航空輸送機関としての役割は昭和4年より昭和17年までのわずか13年間…17年以降の朝鮮関係の定期航空は減便され、主幹線でもせいぜい週3往復程度に止(とど)まったが、大邱-福岡間の特別航路のみが毎日3往復する程度であった》

 この定期旅客航空の歴史に、女性パイロットは登場しない。事業用航空機の操縦桿(かん)を握ることができる免許(1等)は当時、男性に限られていたからだ。もしも、制限がなければ、朴敬元が、「民間定期航空機」の朝鮮女性パイロット1号の栄誉も合わせて勝ち取っていたかもしれない。=敬称略、土曜掲載 (文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (36)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(36)蔚山(ウルサン)飛行場の栄枯盛衰 朝鮮の大空かけた旅客機 2018.9.15

 蔚山(ウルサン)は、釜山の北約70キロ、朝鮮半島南部東海岸にある港町。現在は、韓国を代表する財閥・現代グループの企業城下町として知られているが、昭和17(1942)年の朝鮮総督府統計によれば、人口(蔚山郡)約2万9千人、このうち日本人(内地人)は675人しかいない。

 宮崎市在住の岩下鎮生(しずお)(92)の父、久栄(ひさえい)(1894~1969年)は大正3(1914)年、宮崎師範を出て、12年に朝鮮へ渡った。昭和7年4月、釜山高等小学校から蔚山小学校の校長として赴任。翌年に同小に入学した鎮生は、「釜山に比べると蔚山はとても小さな街で、さびしい田舎に見えた」と振り返る。

 その蔚山郡の三山里に4万円の巨費を投じ、京城飛行場(汝矣島(ヨイド))と並ぶ「蔚山飛行場」が造られたのは3年のことである。約6万坪の敷地に600メートルの滑走路と格納庫、航空会社事務所などを備え、10年には約10万坪に拡張され、拠点空港のひとつとなった。

 政府の支援を受けた航空会社「日本航空輸送株式会社」の設立も3年の10月。翌4年4月から内地、朝鮮、満州間相互の貨物・郵便輸送を開始、同年10月からは、定期旅客便の営業もスタートさせている。路線は内地の東京-大阪、大阪-福岡のほか、京城-平壌、平壌-大連など。「蔚山」は京城-福岡ルート、その先の内地や大連への中継地となっていた。

 とはいえ、民間飛行機を利用できるのは、まだまだひと握りの人だけ。9年3月の民間航空事業概況によれば、朝鮮内の定期航空航路は計約670キロでしかない。就航している航空会社は、日本航空輸送と満洲航空の2社のみ。航空機は6機、パイロットは20人で、このうちの7人が朝鮮人パイロットとなっているのは興味深い。

◆ピカピカの陸軍献納機
 岩下一家が、7年8月に、蔚山飛行場で撮った記念写真が残っている。後ろに写っているのは同月、民間から陸軍に献納されたばかりのピカピカのプロペラ飛行機。機体には『愛国43(朝鮮)』の大文字と日の丸が、垂直尾翼には、機種を示す『九二式戦闘機』の小文字が書かれている。

 献納機は昭和初期に、国民による国防献金などで造られた軍用機。陸軍は「愛国号」、海軍は「報国号」と称した。日本全国のほか、外地の朝鮮、台湾、満州で行われ、企業や団体、女学生や児童のお小遣いなどで献納された飛行機もあったという。

 もうひとつの写真は8年3月、京城-蔚山-福岡便に就航していた日本航空輸送の「フォッカー・スーパーユニバーサル機」を蔚山飛行場で撮ったものである。同機は、3年から製造されたアメリカ製の単発プロペラ機(日本の中島飛行機でライセンス生産された)。約200機が製造されたが、日本航空輸送はうち二十数機を所有する最大のユーザーであった。

 全長約11メートル、420馬力の空冷9気筒エンジンを積み、最大速度は、時速約240キロ(巡航時約170キロ)。航続時間は、約5時間。パイロットら乗員2人、乗客は最大で6人しか乗れなかった。

 飛行機の前にちょうど6人の男女が写っているが、宣伝用にデモフライトで撮ったらしい。岩下鎮生の父、久栄も「一度、乗ったことがある」と鎮生は聞いたことがある。乗客数は年々増加したが、経営環境は厳しかったという。

 9年10月の時刻表によれば、蔚山-福岡間の運賃は18円(所要時間1時間50分)。船と鉄道を乗り継げば、蔚山-博多間は約14時間かかるものの、運賃は、約3分の1の計約6円30銭で済んだ。

◆飛行場長は後の日航社長
 もう一点、興味深い写真がある。

 8年4月、父、久栄が校長を務めていた蔚山小学校の奉安殿の前で撮った記念写真だ。奉安殿とは、天皇、皇后両陛下の御真影(ごしんえい)(写真)と教育勅語を納めていた建物のことである。

 奉安殿の前に整列した人の中に校長の久栄と並んで蔚山飛行場場長だった若手官僚の松尾静麿(しずま)(1903~72年)の顔がある。

 松尾は、旧制佐賀高から九州帝大機械工学科卒。民間企業を経て、逓信省に入省、朝鮮総督府航空官となり、蔚山飛行場長、大邱飛行場長などを歴任し、朝鮮とは縁が深い。戦後は、日本航空業界の復活に尽力し、日本航空の社長・会長などを務めた。

 岩下一家の写真には、自動車で到着した御真影を、たくさんの人々が道路に整列して恭しく迎えるところや、奉安殿の前に、教職員と児童が並んで立っている場面も残されている。この年に入学したばかりの鎮生もこの中にいたという。「奉安殿を新しくしたときの記念写真だと思う。松尾さんは当時30歳くらい。写真中央に写っているのを見ると、飛行場長の地位は高かったんでしょうね」

 民間の定期旅客便の中継地としての蔚山飛行場の“命”は短かった。

 12年、就航機の大型化にともない、中継地の役割は、慶尚北道の中心都市・大邱に移される。大邱飛行場は同年1月、約20万坪で開場、15年には約50万坪に拡張され、蔚山に取って代わる朝鮮内の拠点空港のひとつになった。

 蔚山飛行場は、定期旅客便が大邱に移った後は、陸軍の飛行場となった。600メートル滑走路と直角に交わる2本目の滑走路(600メートル)も建設されたが、戦後廃止され、住宅地となったという。=敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (35)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(35)日本が近代化した金融制度 高利貸に苦しむ朝鮮農民救う 2018.9.8

 拓殖大学は、明治33(1900)年、台湾協会学校として創設された。初代校長は後に3度首相を務める桂(かつら)太郎である。海外で活躍する有為な人材育成を目的とし、同40年には、東洋協会専門学校(改称)京城分校(後に官立の京城高等商業)を開校。朝鮮の近代化に尽くそうと多くの若者たちが“海峡を越えた”。

 その一人に、重松●修(まさなお)(1891~1975年)がいる。朝鮮発展に捧(ささ)げた無私の生涯は『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』(田中秀雄著)に詳しい。同校を卒業した重松は大正4(1915)年、朝鮮総督府の官吏になった後、同6年、朝鮮北部平安南道の陽徳地方金融組合理事に転じる。平壌から約150キロも離れた山深い厳寒の地であった。

 重松は、同8年3月に発生した大規模な抗日・独立運動「三・一事件」に巻き込まれて被弾。右足が不自由になりながらも、私財を投じて寒村に「養鶏」を根付かせ、「卵の代金を貯蓄させて耕牛を買う」というシステムを構築する。

 豊かになった朝鮮の農民たちは、やがて重松を「聖者」と呼び、功績を顕彰する頌徳(しょうとく)碑も建てられた。終戦まで朝鮮在任約30年。日本へ引き揚げたとき懐には、わずかな金しか残っていなかったという。

 ◆極めて幼稚な朝鮮経済

 重松がいた「金融組合」をつくったのは目賀田種太郎(めがた・たねたろう)(1853~1926年)である。

 米ハーバード法律学校(現大学)に留学、大蔵省主税局長などを務め、明治37年、第1次日韓協約の下で、大韓帝国の財政顧問に就任。紊乱(びんらん)の極にあった財政や金融システム、税制、貨幣制度の徹底改革・近代化に乗り出す。そのひとつが、農民に低利で資金を貸し付ける金融組合の設置(40年)だった。

 なぜ、金融組合が必要だったのか? 昭和11年発行の『25年!朝鮮は何を得たか?』(京城日報編)にはこうある。
《(大韓帝国時代は)経済の発達極めて幼稚で、貨幣制度乱雑を極め、高利の金貸し業者が跋扈(ばっこ)した…民衆は憐(あわ)れむべきもので、官吏と地主と高利貸の三大専制王に責められ…生き血を吸うもののために困殺(こんさつ)されんとしていた。かくして民衆の意気も、経済も、産業も、全く凋落(ちょうらく)衰微してしまっていた》と。

 農民を対象にする金融組合制度は、ドイツやベルギーの農村金融を参考に、相互扶助的な組織を目指したものだ。組合員は原則として朝鮮の小作農で、融資面では「成牛1頭分に相当する50円(後に100円)」を限度に低利資金を貸し付ける。当初は、農業の技術指導や種子や肥料、農機具の販売・貸与、農作物の委託販売なども行い、イメージとしては農協に近い。

 明治40年のスタート時には朝鮮全土に30の組合を設立、日本人理事に就任したのは30人全員が、後の重松のように東洋協会専門学校を出た若者たちだった。

 この低利融資は、荒廃していた朝鮮の農村を再生し、前近代的だった農業を大きく発展させる。

 『朝鮮金融組合史』(昭和4年、同金融組合協会刊)にある「貸付金を得て幸福に至る」という組合員・白仁順の例を紹介してみたい。いささか、講談調の記述で宣伝めくが、以下は、その大意である。

 《(朝鮮の)奸悪(かんあく)な地主の小作人であった白は13人の家族を抱えて生活費にも事欠き、地主に借りた金は積もり積もって大金に。その上、病気に罹(かか)り、地主から冷酷にも小作権を剥奪・退去を命じられてしまう…。困り切った白は紹介されて組合員となり、50円の貸し付けを受ける。一部を地主に返した後、牛や鶏卵などの商売を始めて貯蓄にも励んだ結果、数年後には牛10頭、田1町歩、資産500円を持つに至った》と。

 朝鮮全土に張り巡らされた金融組合網は、順調に組合数、組合員、貸付額を伸ばしてゆく。さらに、第一次大戦後の好景気を受けた大正7(1918)年の法令改正によって、農民だけでなく、「都市金融組合」として商工業者にも貸し付け(限度額300円)を行うようにもなった。
同じ頃、旺盛になった朝鮮産業界の資金需要に応えるため、大韓帝国時代からの各農工銀行を統合して、長期金融を主な目的とする「朝鮮殖産銀行」が新たに創設されている。金融組合との連携も密にしながら金融システムのネットワーク化を進め、“産業の血液”を供給していった。

 ◆長崎十八銀行の盛衰

 日本が関与した草創期、朝鮮の金融業発展に寄与したのは、彼らだけではない。長崎の地方銀行「十八銀行」は、国立銀行時代の明治19年、朝鮮にいち早く仁川出張所(後に支店)を開設している。

 長崎港は朝鮮貿易の拠点のひとつだった。十八銀行史『百年の歩み』(昭和53年)はこう書く。《日清戦争は清国商人を朝鮮から一掃し、軍需景気をもたらした。長崎港の日清貿易は衰退した反面(はんめん)、日鮮貿易が浮上した》。貿易量の増加に伴い、同行の朝鮮支店は元山、釜山、京城など次々と増設されてゆく。

 勢い込んだ同行は明治40年、不動産金融を目的とした韓国拓殖銀行の設立を企図したが、果たせずに終わる。翌41年に拓殖移民、殖産資金供給を行う国策会社の東洋拓殖株式会社が設立されたからである。

 昭和11年には、ついに朝鮮からの撤退を余儀なくされてしまう。金融組合の商工業者への事業拡大などによってシェアが低下。在鮮全9支店を、前述した総督府主導で設立された朝鮮殖産銀行へ譲渡・廃止することになったのだ。

 全行本支店24のうち9つの支店廃止は大事件である。『百年の歩み』には悔しさがにじむ。《当行は朝鮮支店の維持存続に努力したが、現地金融機関の発展整備や内鮮交易による長崎の地位など往時に比し著しい変遷を…》

 対して、朝鮮総督府は財務局長声明を出して同行の業績をたたえた。《その功績は没すべからず…(朝鮮)半島金融史上に長くその功績を留(とど)める》と。=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員  喜多由浩)

●=高の右に昇

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進まぬ遺骨収集112万柱今なお…

進まぬ遺骨収集112万柱今なお…
 先の大戦での戦没者は軍人・軍属約230万人、一般国民約80万人の計約310万人。
そのうち海外や沖縄などでの戦没者は計約240万人いる。今年7月末現在で、半数近い約112万柱の遺骨が現地に取り残されたままになっており、戦後73年を経ても収集が思うようにいかない現状がある。
 厚生労働省によると、遺骨収集事業は昭和27年から始まり、これまで計約128万柱を取り戻した。最近5年間に収集した遺骨は年881~1437柱。国交がない北朝鮮や、対日感情に配慮する必要がある中国などで収容困難な遺骨が約23万柱あるほか、海没した遺骨などを除くと、収容可能な遺骨は残り約60万柱とみられるという。
 平成28年には遺骨収集を「国の責務」と記した戦没者遺骨収集推進法が成立。36年度までの9年間を遺骨収集の「集中実施期間」と規定したが、埋葬地を知る関係者が高齢化したり死去したりして、情報が年々少なくなり、収集は想定通りに進んでいない。
 昨年は厚労省の遺骨収集事業で、職員が経費の領収証の金額を水増しするなどして、総額約4億6325万円の不適正な会計経理があることを会計検査院に指摘された。

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (34)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(34)統治四半世紀の「発展」 日韓併合で朝鮮民衆は救われた2018.9.1

 日本の朝鮮統治は、第6代朝鮮総督(昭和6~11年)、宇垣一成の時代に、「四半世紀」を超える。ある程度の“腕力”をもって朝鮮の近代化に道筋をつけた「武断政治」の時代、大規模な抗日・独立運動「三・一事件」(大正8年)以降の緩やかな「文化政治」の時代を経て、朝鮮統治は、安定成長期に入っていたといえるだろう。それ以降は、戦時体制の中で、朝鮮統治も皇民化政策が次第に色濃くなってゆく。

 四半世紀の日本統治によって朝鮮はどう変わったのか? この時期の『宇垣一成日記(一如庵随想録)』の記述を見てみたい。

 《日韓併合ができたればこそ、朝鮮民衆は暴虐の悪政から匡救(きょうきゅう)(悪を正し危難から救うこと)されて文化幸福に浴しつつある…》(昭和7年2月)

 多少の“上から目線”を感じないでもないが、それが「真実」であった。朝鮮のカネ・コネによる政治腐敗によって住民は苦しめられ、近代化が絶望的に立ち遅れていたことは、何度も書いてきた通りである。

 宇垣が「南綿北羊」の農業振興策を進めたことは前回(33回)書いた。朝鮮全土を混乱状態に陥らせた「三・一事件」は道路、鉄道、港湾などのインフラ整備、農、工、商、林業の振興、教育や衛生環境の改善を一時、頓挫させたが、「文化政治」以降、それらの施策は再び加速され、より充実度を増してゆく。

 ◆植林で禿げ山を緑化

 《山の多きは…国民の幸福である。水源の涵養(かんよう)、気候の調節…燃料および建築材の供給地…紙や人絹や綿の原料たらしむることを得るのみならず、羊、牛、馬の家畜類の放牧地ともなり得る…》(7年6月)

 「禿(は)げ山」は朝鮮の悪(あ)しきシンボルだった。11年発行の『25年!朝鮮は何を得たか?』によると、朝鮮は全国土の約4分の3を林野が占めるが、乱伐や火田民(焼畑農業)によって荒廃が激しく保水力の消失による災害も多発していた。

 日本は、朝鮮の植林・緑化に努め、8年までに行った植林事業は、国費経営事業だけで、造林面積約6万2千町(1町=約100アール)、植林本数約1億900万本に上った。
《朝鮮の工業は、現在においては幼稚である。しかしながら、繊維および軽金属工業の原料は豊富であり…石炭、水力発電、労力なども潤沢かつ安価に供給し得る…母国(日本)工業が圧迫を感ずる日もあまり遠き将来にあらざるべし》(8年7月)

 再び、『25年!朝鮮は何を得たか?』によれば、李朝末期の朝鮮の工業は、小規模で、産額は小さく、技術は幼稚、製品すこぶる粗悪…とひどい書きようである。潜在的なポテンシャルは高いのに、商工業は蔑(さげす)まれ、産業らしい産業もない。

 その朝鮮の工業が「日本を追い越す日も近い」というのだから、宇垣の“大風呂敷”かと思いきや、官民の積極的な投資によって紡績、製鉄、セメント、硫安などの大規模工場が次々と建設。8年の工場数は約4800、従業員数は約12万人、生産品価額は約3億6700万円…こちらも四半世紀で急成長する。

 ◆台湾並みは果たせず

 朝鮮経営の収支は常に「赤字」であり、日本は一般会計などから毎年巨額の“持ち出し”で支えた。

 《(天皇)陛下より…台湾のように財政の独立もできるのか、との御(ご)下問がありました。余(宇垣)は今後、大(おおい)に努力致しましたならば、あまり遠からざる将来において、台湾並みの財政独立は難事にあらずと存じます》(昭和8年12月)と“大見えを切った”が、こればっかりは、終戦まで果たせなかった。税率は低く抑えたのに、朝鮮近代化のための資金は、いくらでも必要だったからである。

 その成果をデータで見てみよう。日韓併合(明治43年)時と「文化政治」開始後の大正10年ないし11年との比較である。朝鮮全産業の生産額・約3億600万円→14億7千万円(約5倍)▽輸(移)出入額・約6千万円→約4億7千万円(約8倍)▽道路延長は約13倍となった。

 四半世紀となれば、さらに数値は跳ね上がる。
 李朝末期には、司法と行政の権限があいまいで、地方官吏が賄賂を受け取り恣意(しい)的に投獄されたりもする“人治主義”がまかり通っていた。その悪弊を駆逐するために、近代的な司法制度・警察制度を整備してゆく。司法では高等法院、覆審法院、地方法院の三審制を実施。朝鮮人の判事・検事や警察官の登用も積極的に行ったのである。

 ◆朝鮮は日満間の鎹

 宇垣の総督時代は、内外とも激動期にあった。就任直後(昭和6年9月)には、満州事変が勃発、関東軍主導で7年3月には満州国が建国されている。退任の年(11年)には、陸軍青年将校らによる「二・二六事件」が発生している。宇垣は、激動の時代こそゆえ、朝鮮のチャンスと見た。

 《朝鮮は実に今は時処(じしょ)を得ている…内地の不安、満支の紛々、世界の擾々裡(じょうじょうり)に超越して極めて平静に漸進しつつある…(朝鮮の)立場は大陸への桟橋であり、日満間の鎹(かすがい)であり…その心臓部に相当している。実に天与の処を得ている。(略)(これまでの「他力主導」の)陋習(ろうしゅう)を清算して…物心両方面の新建設に邁進(まいしん)せざるべからず!》(10年10月)と。=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

                   


【プロフィル】宇垣一成(うがき・かずしげ) 慶応4(1868)年、現在の岡山市生まれ。陸軍士官学校卒。陸軍大将。陸相、外相、戦後、参院議員。昭和12年には“陸軍を抑えられる首相”として、組閣の大命が下ったが、陸軍の抵抗に遭い、宇垣内閣は土壇場で実現しなかった。朝鮮総督は6年6月から5年余り務め、農業や商工業の振興を図り、内鮮融和を提唱した。31年、87歳で死去。

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (33)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(33)日本は「供与」し民生を安定・向上させた 「南綿北羊」の農業振興政策2018.8.25


 「文化政治」の朝鮮総督、斎藤実(まこと)の後任として第6代総督(昭和6~11年)に就任した宇垣一成(うがき・かずしげ)(1868~1956年)が進めた朝鮮の農業振興策に「南綿北羊」がある。

 南部では、綿花の栽培を促進。北部では、緬羊(めんよう)(家畜用の羊)を育て、付加価値の高い農、畜産品である綿糸・羊毛の生産拡大を図る政策だ。

 古来、朝鮮で栽培が行われていた綿花は、全羅南道、慶尚南道など南部6つの道を中心に大増産計画が進められたが、緬羊の飼育については、ほとんど実績がない(昭和8年の全朝鮮での緬羊の数は2700頭弱)。このため、緬羊の一大生産地であるオーストラリアから船便で輸入を図るプランが立てられた。

 緬羊を乗せた貨物船が、遠路はるばる太平洋を北上し、朝鮮東岸の雄基、清津、元山などの港に陸揚げ。鉄道で、北部・咸鏡北道の国策会社・東洋拓殖会社牧場などへ運んで飼育し、羊毛を刈る…。

 この朝鮮向けの緬羊の輸出を扱ったのは日豪貿易に実績があった総合商社の兼松だった。第1船の「朝陽丸」が約2700頭の緬羊を積んで豪シドニーを出発したのは、昭和9年4月24日のことである。

 初めてのことだけに、万全を期したのであろう。「朝陽丸」には当時、兼松の豪・現地法人で羊毛担当の責任者だった曽野近一(きんいち)(1899~1943年)が乗り込み、朝鮮まで付き添っている。

 品種は、羊毛の質こそ中程度ながら適応力に優れたコリデール種。近一の長男で、やはり兼松OBの曽野豪夫(たけお)(84)が書いた『写真で語る日豪史 昭和戦前編』によれば、苦労が多かったらしい。赤道直下を行く船のデッキで熱気にやられ、死んでしまう緬羊もいた。第2船以降は航海時の気候を考慮したり、デッキによしずを張ったりする工夫を重ねたという。

 こうしてスタートしたオーストラリアから朝鮮への緬羊の輸出は、順調に回を重ね、対英米戦争が始まった昭和16年に中断を余儀なくされるまで約4万5千頭が太平洋を越えてゆく。

 朝鮮で総督の宇垣に面会した近一は、こう力説したという。《(朝鮮)各地での羊牧場経営が衣料及(およ)び食料の両面から民生の安定と向上に大いに役立つ》(『写真で語る日豪史 昭和戦前編』)と。

◆収奪するものがない

 2年前、韓国のメディアは、この「南綿北羊」について、日本統治時代の記録映画『北鮮の羊は語る』(昭和9年)などの映像資料が見つかったというニュースを一斉に報じた。

 映画には、曽野近一が同行したルートそのままに、オーストラリアから船で輸入された緬羊が荷揚げされ牧場で飼育されたこと、毛を刈って生地を織る様子などが記録されていた。「羊毛輸入のために、毎年2億円が使われる。輸入代替のために努力しよう」という字幕もあったという。

 ただし、韓国メディアのトーンは、もちろん(?)ネガティブだ。内地(日本)でもほとんど羊毛の生産ができず、多くを輸入に頼るしかない。だから、朝鮮の安い労働力を利用して日本製造業の原料供給地にする目的で、南では綿花を、北では羊を育てるようにした…つまり、何でもかんでも“日帝による収奪”にしてしまうのだが、果たして本当にそうか?

 日韓併合(明治43年)以前の朝鮮には産業らしい産業もなかった。儒教の思想によって商工業は蔑視され、農業では森を焼いて肥料にする「火田民」(焼き畑農業)という前近代的な農法が多くみられた。つまり、「収奪」したくともするものがない。日本がやったのは「供与」して「育成」することだった。内地の一般会計からも巨額の資金を回し、優秀な人材と技術を供給し、せっせと近代化を進めたのである。

 第1次産業分野では、はげ山に植林をし、灌漑(かんがい)設備をつくり、干拓や開墾で耕地を増やす。東洋一の化学肥料工場を建て収量を上げる。とりわけ、米は「朝鮮産米増殖計画」を定めて増産に努め、大正10年の年産額は約1430万石(併合当時の約40%増)、品質も向上した。朝鮮の農業は効率化、近代化され、あらゆる指標が飛躍的に伸びたのである。

 そこに、朝鮮を兵站(へいたん)基地とする国策がなかったとは言わない。だが、日韓併合前のカネ・コネの政治腐敗によって、それこそ朝鮮の官吏らに「収奪」されていた農民の暮らしははるかに改善された。その証拠に日本統治時代の間に農民が約8割を占める朝鮮の人口は急増(2倍弱)している。

 人口増には、英国の女流旅行作家の『朝鮮紀行』で“中国の都市に次ぎ世界で2番目にひどい”と酷評されていた街や住民の「衛生環境改善」も貢献している。近代医学の医師などほとんどおらず、感染症の蔓延(まんえん)にたびたび苦しんでいた朝鮮全土に病院を建て、各都市に上水道を設けたのも日本である。例を挙げればキリがない。

◆父の「思い出の背広」

 朝鮮の牧場で育った初めての豪州緬羊の羊毛は、清津で入札が行われ、4社が応札したが、緬羊の輸出を請け負った兼松がメンツにかけて落札した。

 『写真で語る日豪史…』によれば、その羊毛は内地で紡出され、茶、緑など4系統の毛織物となって、朝鮮総督らに贈られたという。第1船に同乗したシドニーの曽野近一にも、その生地が送られてきた。

 後に、商社マンとなった長男の豪夫は、その生地で仕立てた背広を着て、世界を駆け回った。平成2年に豪州兼松が100周年を迎えたときの記念式典にもその背広を着ていったという。豪夫はいう。「海軍の軍属として父が戦死(昭和18年)したときはまだ国民学校(小学)生でした。父の思い出があまりない私にとって、この背広は本当に大切なもので、“長生き”してくれましたよ」

 “海峡を越えて”朝鮮の近代化に貢献したのは人だけではなかった。=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)


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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (32)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(32)思う存分生き、いい詩をつくりたかった スパイとして処刑された林和2018.8.18

 人気作家、松本清張に『北の詩人』(昭和38年)という作品がある。主人公の詩人、林和(イムファ)(1908~53年)は実在の人物だ。詩集『玄海灘』などで知られ、日本統治時代の朝鮮で、左翼色が強い「朝鮮プロレタリア芸術同盟」(カップ、大正14年結成)の中心人物として活躍、戦後の昭和22年、北朝鮮へ渡ったが、28年8月の軍事裁判でアメリカのスパイと認定され、処刑された。

 『北の詩人』で、林はカップ解散(10年)前後から“転向し”密(ひそ)かに軍部などに協力していた「暗い過去」の発覚に怯(おび)える人物として描かれる。戦後、それを米諜報機関に弱みとして握られ、スパイとして北朝鮮へ渡ることを余儀なくされてしまう…という設定だ。小説なのか、実録なのか判然としないが、巻末には長大な軍事裁判の判決文まで掲載されている。

 作品の中で、林の「暗い過去」のひとつとして挙げられている仕事に、昭和16年7月に、日本陸軍の朝鮮軍報道部が製作した国策映画『君と僕』への協力があった。朝鮮人志願兵として最初の戦死者となった李仁錫上等兵をモデルに、志願兵制度や内鮮一体をPRするために製作された映画で、平成21年に、フィルムの一部が見つかり、ニュースにもなった。

 主役は、テノールの人気歌手、永田絃次郎(げんじろう)(金永吉)、相手役は満映出身の大スター、李香蘭という豪華キャスト(ほかに、三宅邦子、大日向伝、小杉勇らが共演)。監督の日夏(ひなつ)英太郎(許泳)も朝鮮出身である。林は映画の校正を担当したという。

 それが事実であったとしても戦時体制下で、林や永田ら朝鮮人でも軍部への協力を求められれば拒否するのは難しかっただろう…というより当時、多くの朝鮮人は同じ側として戦争熱に取りつかれていた。陸軍の朝鮮人志願兵制度がすさまじい競争倍率(昭和18年の採用予定約5300人に対し30万人以上が殺到)になっていたことは以前(25回)書いた通りである。

 林は、在日コリアンの活動家らに大人気だった『人民抗争歌』の作詞者としても知られている。テンポがよく、宴席などでは必ず飛び出したという。ところが林の粛清後、特に朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会、昭和30年結成)関係者の中では『人民抗争歌』はタブーになった。作曲者の金順男もまた北朝鮮へ渡った後、粛清され、行方知れずになっている。

 ■「二度殺された」詩人

 だが、林和が「米のスパイだった」という認定はかなり疑わしい。北朝鮮の初代権力者、金日成(キム・イルソン)(首相、国家主席)は独裁体制を確立するためにさまざまな罪状をデッチ上げ政敵を次々と粛清していったからである。林は、金日成のライバルであった朴憲永(元北朝鮮副首相、米スパイとして処刑)ら南朝鮮労働党一派の排除に連座させられたとみるのが妥当であろう。

 昨年12月に80歳で死去したジャーナリストの萩原遼(はぎわら・りょう)は、月刊『正論』平成18年6月号に、「北朝鮮にはめられた松本清張 『北の詩人』の奇怪な成り立ち」のタイトルで、同作における日本のスパイ→米のスパイという林の設定に異議を唱え、「北朝鮮側の主張をうのみにした」として、清張を厳しく批判した。

 《(林らの処刑は)金日成の判断の誤りによって朝鮮戦争が勝利できなかった責任を転嫁するための粛清裁判・殺人裁判であったことは今日では大方の認めるところです。…(清張は)金日成の殺人裁判に追随して林和をもう一度作品の上で抹殺しました》。そして、《金日成は朝鮮が生んだ優れた詩人を抹殺しただけでなく、日本の作家を使って文学の名の下に林和を抹殺させ、殺人裁判をあたかも事実であるかのように装わせた》のだと…。

■金正日の略奪愛の末に

 林が在籍したカップは、日本統治下の朝鮮で結成。前述した朴憲永らによる朝鮮共産党の影響を受け、ブルジョア文学に対抗するプロレタリア文学の牙城として、7つの支部、約300人の同盟員を擁し、文学のみならず映画、音楽、演劇、美術を包括する芸術団体に発展してゆく。

 世界的な舞踊家、崔承喜(チェ・スンヒ)の夫で戦後、北朝鮮の文化省次官を務めた作家の安漠(アンマク)、ザ・フォーク・クルセダーズの名曲「イムジン河」(北朝鮮では「リムジン江(ガン)」)や北朝鮮の国歌(愛国歌)の作詞者である朴世永(パク・セヨン)も、カップのメンバーとして活躍した。

 戦後、彼らの多くが北朝鮮へ渡るが、重用されたのは一時で、派閥争いに巻き込まれたり、独裁者の機嫌を損なったりして、林和と同じように、粛清されたケースが少なくない。

 とばっちりともいえる厄災が降りかかったのは作家の李箕永だろう。2代目の金正日(ジョンイル)が、女優の成(ソン)●(=くさかんむりに惠)琳(ソン・ヘリム)を見初めたとき、すでに彼女は人妻であった。その夫だったのが李の息子で、金正日は夫妻を離婚させ、強引に自分の妻にしてしまう。2人の間に生まれた長男が、マレーシアで暗殺された金正男(ジョンナム)である。

 金正日の略奪愛は絶対のタブーである。李は、北朝鮮の文学芸術総同盟委員長などの要職に就いたが、2000年代に金正日の指示で、北朝鮮の文学人名事典が編まれたとき、李の扱いの大きさに金正日が不快感を示し、やり直しを命じたという。以来、文学人名事典が刊行されることはなくなった。
カップのメンバーが「社会主義の理想郷」と夢見た北朝鮮は、独裁者の指先一つで簡単に命さえ奪われてしまう悪夢のような国だった。日本時代の残滓(ざんし)を思わせる彼らの居場所など最初からなかったのである。

 『北の詩人』に印象的な林の独白があった。《思う存分生きて、いい詩をつくりたい。革命とか、思想とか、共産主義とかを離れて、自然の中に純粋な人生を凝視したい…》と。

 カップの活動は約10年間だった。内紛が絶えず、最後は日本の官憲によって相次いでメンバーが検挙され、解散している。

 だが、逆の見方をすれば、これほど左翼的な団体が曲がりなりにも約10年間、日本統治下の朝鮮で活動できたのだ。その時期は日本が世界に類を見ない緩やかな統治を行った「文化政治」の時代に重なる。近代文学も大きく発展した。=敬称略

 (文化部編集委員喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (31)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(31)朝鮮の文化と習慣を尊重せよ 驚くべき「文化政治」の緩さ2018.8.11

 “緩やかな朝鮮統治”である「文化政治」を推し進めた斎藤実(まこと)が第3代朝鮮総督に就任したのは大正8(1919)年8月のことである。海軍の先輩である山本権兵衛内閣で海軍大臣を務めていたが、海軍を舞台にした4年前の疑獄事件「シーメンス事件」で引責辞任、予備役編入…つまり軍人として「クビ」を宣告された境遇にあった。

 《暇な体でもあるし北海道にでも行って畑作りでもしようと…その間に持ち上がったのが朝鮮総督の話である。(略)断ったら、加藤友三郎(原敬(たかし)内閣の海相、後に首相)が来て「何だか朝鮮がごたごたしているようで誰か面倒を見てやらなければ困る」…今度は原総理自身がやってきて…詰め寄られ、のっぴきならなくなり…》(昭和16年『子爵斎藤実伝』から)

 原首相とは、同郷(岩手)の知己であった。結局、斎藤は、現役の海軍大将に復帰し、朝鮮総督就任を受諾する。陸軍大将以外の総督は、後にも先にも斎藤だけであった。

 このとき、加藤海相が言った「ごたごた」とはもちろん、大正8年3月1日に端を発した大規模な朝鮮の抗日・独立運動「三・一事件」のことである。まだ騒然とした雰囲気が残っていた中で、9月2日、京城駅に到着した斎藤を待ち受けていたのが、独立派活動家による“爆弾テロの洗礼”(斎藤は無事)だったことは前回も書いた。

 斎藤は難しい判断に迫られる。軍人主導の「武断政治」を、さらに強め、力で、くすぶり続けている抗日・独立の動きを押さえ込むか? それとも…。当時の日本の世論は、武断政治続行が優勢であった。

 ◆外国人宣教師も絶賛

 「三・一事件」は、米ウィルソン大統領らが掲げた世界的な「民族自決主義」に煽(あお)られて始まった。その朝鮮人の抗日・独立運動の背後には、李朝末期から朝鮮に浸透しているキリスト教の外国人宣教師らの存在があったとされる。斎藤に爆弾を投げつけた男もキリスト教信者だった。

ところが、斎藤は赴任早々、総督府学務局に「宗教課」を設けて“敵方”ともいえる外国人宣教師との意思疎通を進め、布教の便宜を図る目的で財団法人の設立を認める策に出た。

 これには、外国人宣教師も驚いたのだろう。メソジスト教会監督牧師、ハーバート・ウエルチの「斎藤評」が残っている。

 《当時、(朝鮮の)住民は武器なき「独立運動」のため、前総督により、強制的弾圧を受けたため、不穏・不安・怨嗟(えんさ)が国内に漲(みなぎ)る状態であった。かくの如(ごと)き陰険にして困難な状況に、子爵(斎藤)は温和にして温情的精神を…真に朝鮮人を愛撫(あいぶ)し、彼らの権益を保護する…子爵の施策を緩に過ぎると非難した者もあったが…反抗する者を心服させる程に誠意と親切を尽すは偉大なりというべき…》

 後には、朝鮮各地に神社が建てられ、参拝問題でキリスト者は反発を強めてゆくのだが、こうした“蜜月期”もあったのである。

 ◆近代文学・映画も発展

 斎藤は、内外の“雑音”をものともせず、どんどん新政策を進めてゆく。

 「武断政治」の象徴であった軍主導の憲兵警察の廃止▽朝鮮人官吏への待遇格差の是正▽朝鮮語(ハングル併用)新聞(東亜日報、朝鮮日報など)発行の許可▽朝鮮人児童が通う普通学校(小学校)の増設▽外地初の帝国大学(京城帝大)の設置▽農業・工業振興、鉄道・道路・病院の整備▽集会・結社の制限緩和など枚挙にいとまがない。

 折しも日本では自由・民主主義を標榜(ひょうぼう)する大正デモクラシーの時代。「政党政治」の原内閣だったのも無関係でなかったろう。

 斎藤はさらに、朝鮮固有の伝統文化・慣習の保護・奨励という思い切った施策にまで踏み込んでゆく。大正15年に朝鮮総督府が編纂(へんさん)・発行した「普通学校補充唱歌集」(60曲)に朝鮮の偉人や名所旧跡を題材にした、台湾・満州でも例がない「公募・現地(朝鮮)語の唱歌」が、数多く盛り込まれたことは、以前(27回)紹介した。

日本人への朝鮮語学習奨励は、公務員への手当支給や、主に日本人が通う小学校での朝鮮語教育(随意科目)方針に表れる。教育機関や博物館・図書館を整備し、朝鮮の古文書や古跡、民俗品の調査・研究、収集作業も進めさせた。

 これに後押しされるようにして、朝鮮では、近代文学、映画、音楽といった芸術が花開かせてゆく。   連載初回でも触れたが、朝鮮映画の代表作『アリラン』(大正15年、羅雲奎(ナ・ウンギュ)監督・主演)は、三・一事件で拷問を受けて精神を病んだ男が主人公だ。“親日派”の朝鮮人悪徳地主と主人公らが対決するストーリーは朝鮮人観客に大ヒットし、2年以上もロングラン上映されたが、こんな「抗日色」が強い作品が、よくも検閲をパスできたものだと驚かされる。

 この映画のラストシーンで流れる「アリラン」は当初、「新アリラン」「羅雲奎のアリラン」などと呼ばれたが、メロディーやテンポをすこしずつ変えながらその後「本調アリラン」として定着。朝鮮民族の命ともいえる歌で、星の数ほど存在する「アリラン」の中で現在、最も親しまれているのが、日本統治時代の映画から生まれたこの曲なのである。

 今年の平昌五輪開会式で、南北朝鮮の選手団が合同で入場したとき流された「アリラン」もそう。失われたこの映画のフィルムを、現在も南北ともがやっきになって探しているのもむべなるかなだ。

 大正9年1月1日付談話で斎藤はこう語っている。《…朝鮮の文化と習慣とを尊重して、その長をとり、短を除き、利を興し、害を除き、もって時代の推進に適合せしめん…》と。=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

                  


【用語解説】斎藤実(さいとう・まこと) 安政5(1858)年、現在の岩手県奥州市生まれ。海軍兵学校卒。海軍大臣、内大臣、首相(昭和7~9年)などを歴任。朝鮮総督は、第3代(大正8~昭和2年)、第5代(昭和4~6年)の2度務め、緩やかな統治、朝鮮の自主性を重んじる「文化政治」を推進した。内大臣を務めていた昭和11年、二・二六事件に遭い、凶弾に倒れた。

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(30)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(30)政治腐敗蔓延の李朝末期 日本は「誠意」を持って「奮闘」した
2018.8.4


 《北京を見るまで私はソウル(漢城・京城)こそ、(当初は)この世で一番不潔な街だと思っていたし、紹興へ行くまではソウルの悪臭こそ、この世で一番ひどい臭いだと考えていたのであるから! 都会であり首都であるにしては、そのお粗末さは実に形容しがたい。礼節上2階建ての家は建てられず、従って推定25万人の住民は主に迷路のような横町の「地べた」で暮らしている…》

 19世紀末に李朝末期の朝鮮を訪れたイギリスの女流旅行作家、イザベラ・バードが書いた『朝鮮紀行』の〈首都の第一印象〉の項にこう記されている。

 街の汚れは後に改善されたというが、政治腐敗はひどかった。

 《政治腐敗はソウルが本拠地であるものの、どの地方でもスケールこそ小さいとはいえ、首都同様の不正がはびこっており、勤勉実直な階層を虐げて私腹を肥やす悪徳官吏が跋扈(ばっこ)していた…堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、困難極まりなかった…朝鮮には階層が2つしかなかった。盗む側と盗まれる側である》

 イザベラ女史は、当時の日本についても、国土の美しさや治安の良さを称賛する一方で、貧相な外見などを辛辣(しんらつ)に指摘しているから、西洋人の「視線」があったかもしれない。

 では、ほぼ同時期に日本人の本間九介が記した『朝鮮雑記』も紹介しておこう。

 《(朝鮮の)官人に盗賊でないものはいない…あとを引き継いでやってくる官人もまた盗賊なのである…ああ、彼ら(農民ら)の境遇は、まったく憐(あわ)れむべきものだ》(「官人は、みな盗賊」から)

 本間は、中国のみをひたすら信奉する朝鮮の知識人の姿も揶揄(やゆ)している。

 《朝鮮の士人(知識人)は、支那を呼ぶのに、常に中華と称し、その一方で自らを小華と称している。そこで私が…大華の人であると答えたら、彼らは、それを咎(とが)めて傲大(ごうだい)だと言うけれども、傲大であることと卑小であることの、いずれがましだというのだろう》(「大中小華」から)
2つの見聞録は、いくつも共通しているのだ。絶望的なほど、立ち遅れた近代化、蔓延(まんえん)する腐敗と不正、硬直した封建社会…。イザベラ女史は、朝鮮の良さや愛着も示しつつ、こう結論付けた。《朝鮮には、その内部から自らを改革する能力がないので、外部から改革されねばならない》

 その外部の担い手になりつつあった李朝末期の日本の対応について、イザベラ女史は閔妃(みんぴ)殺害事件などを痛烈に非難する一方で、次のように見ていた。《私は日本が徹頭徹尾誠意を持って奮闘したと信じる。経験が未熟で、往々にして荒っぽく、臨機応変の才に欠けたため、買わなくともよい反感を買ってしまったとはいえ、日本には朝鮮を隷属させる意図はさらさらなく、朝鮮の保護者としての、自立の保証人としての役割を果たそうとしたのだと信じる》と。

 ◆武断政治は法治主義

 このように、極めて困難な状況から始まった日本の朝鮮統治(日韓併合は1910~45年)は、その政策的な方針から、おおむね3つの時期に分けられる。

 朝鮮の改革・近代化に道筋をつけた、いわゆる「武断政治」の時期(1910年代まで)▽大規模な抗日・独立運動「三・一事件」(大正8年)後に、緩やかな統治政策に舵(かじ)を切った、いわゆる「文化政治」の時期(1920年代から30年代半ばころ)▽日中戦争が始まり(昭和12年~)、いや応なく、日本が戦時体制に入り、皇民化政策を浸透させてゆく時期(終戦まで)の3つだ。

 初期の「武断政治」はその言葉から“悪辣(あくらつ)な”イメージを抱きがちだが、事実はそうではない。

 冒頭の見聞録にあったように政治腐敗が横行し、近代化から取り残された当時の朝鮮を根本から立て直すために、日本は巨額の資金を投入して、ほとんど「ゼロ」からインフラ(鉄道、道路、港湾など)を整備、学校や病院を建て、農業や産業を振興させてゆく。その道筋をつけるのに、ある程度の“腕力”も必要だったということだろう。
昭和3年発行の『総督政治史論』(青柳綱太郎著)は、初代朝鮮総督を務めた寺内正毅(まさたけ)(1852~1919年、陸軍大将、陸軍大臣、首相など歴任)の「武断政治」をこう評価している。

 《朝鮮民族にとりては過分の文明政治であった…4方面(教育、衛生、農業、交通・通信)より、朝鮮の社会に貢献せし…》

 さらには、《寺内伯の武断主義は、即(すなわ)ち法治主義の別名とでも言い得る…朝鮮民族政治の改革には、民族心理の根本的改革が必要であると信じたからだ》と。権力者の意向で政治がゆがめられる“人治主義”を正そうとしたというのだ。

 ◆日本版「太陽政策」

 さて、「文化政治」である。世界的な民族自決主義の波に煽(あお)られ、朝鮮全土に広がった「三・一事件」の直後(大正8年8月)に、第3代朝鮮総督に就任した斎藤実(まこと)(1858~1936年、海軍大臣、首相、内大臣など歴任)は、京城到着早々、爆弾テロに遭っている(斎藤は無事)。

 朝鮮の抗日・独立運動家らは戦々恐々としていたのだ。何しろ、三・一事件の嵐が吹き荒れた後である。今度は、どんな強圧的な総督が来るのか? と。ところが、斎藤は「北風」を吹かすのではなく、「暖かい太陽」で、旅人のコートを脱がすがごとく、さらに緩やかな統治に舵を切る。

 軍主導の憲兵警察→普通警察の転換▽朝鮮の伝統文化、風習、言葉の奨励・保護▽集会・結社の規制緩和といった諸政策のみならず、斎藤は日鮮を同一視する(一視同仁(いっしどうじん))内地延長主義を掲げ、最終的に「朝鮮の自治州化」まで念頭に置いていたというのだから、血気にはやっていた朝鮮人も腰を抜かした。

 まさしく、イザベラ女史が指摘した「誠意を持って」「朝鮮を隷属させる意図なく」「自立の保証人」として、である。

 すると、今度は日本の世論が沸騰する。「生ぬるい」「(朝鮮の近代化は)まだそこまで成熟していない」…等々。だが、斎藤の度量が、朝鮮の新たな文化や近代化の花を咲かせることになる。=敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(29)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(29)清楚たる風姿の妓生 「朝鮮旅行案内記」をたどる2018.7.28

 前回、紹介した朝鮮総督府鉄道局(鮮鉄)の元技術者、横山左武郎(さぶろう)(1917~43年)の遺品の中に、昭和9年鮮鉄発行の『朝鮮旅行案内記』がある。当時の観光ガイドブックだ。

 日本が統治時代の朝鮮に敷いた鉄道網は終戦までに5千キロ以上。同書では京釜線、京義線など沿線別に詳細な観光ガイドが写真と文で書かれている。巻頭に、《本案内記は朝鮮を旅行される方々に朝鮮の概念を得て戴(いただ)く…》とあるように単なる観光ガイドにとどまらず、記述は朝鮮の風俗や文化、政治、歴史におよびなかなか興味深い。

 同書の発行は、日本に「大陸ブーム」が起き、新天地への夢を描いた移住者や観光客が内地から続々と「海峡を越えて」行ったころ。横山もその一人だった。同書は、彼らの必読書だったのだろう。

 ◆モデルコースは7日間

 同書には当時の、朝鮮旅行のモデルコースがいくつか紹介されている。標準的なプランは「朝鮮廻覧(かいらん)7日間」。下関(山口)と朝鮮の釜山を結ぶ関釜連絡船から鮮鉄・満鉄を乗り継ぐルートだ。その行程と見どころを同書から追ってみよう。

 【1日目】関釜連絡船で朝、釜山着。鮮鉄・京釜線に乗り、一路、京城へ。朝8時発の急行「のぞみ」なら所要時間は、8時間45分だ。その日は京城泊。鮮鉄直営の朝鮮ホテルは、客室数80あまりで食堂、酒場、演芸室完備。1泊3食付きで9円以上だが、内地と比べて「頗(すこぶ)る低廉」とあった。日本式の旅館、朝鮮式の宿ならさらに格安。

 【2日目】京城市内見物。朝鮮の政治、経済、文化の中心地・京城の見どころは盛りだくさんだ。李朝の旧王宮・景福宮、徳寿宮、南大門。京城の表玄関・京城駅は、ルネサンス式建築で1日の乗降客は約1万人。“京城の銀座”本町通には、三越、丁子屋、三中井の百貨店が立ち並び、昼食は、そこの食堂を使うのも「便利」とある。
市内遊覧の足は「遊覧乗合自動車」が便利(大人2円20銭)。タクシーは市内均一80銭。夕食は、朝鮮料理、日本料理、中国料理と何でもそろう。遊郭で遊ぶならば新町、弥生町。京城の街をたっぷり堪能した後は夜行列車に乗り込み北上。この日は車中泊。

 【3日目】早朝、平壌着。1日の乗降客は4千人弱。朝鮮北西部の中心都市で平安南道庁所在地、現在は北朝鮮の首都だ。名所・旧跡は京城に引けをとらない。市内を流れる大同江、大同門、七星門、牡丹台…。ユニークな見どころとしては妓生(キーセン)学校。「古来、官妓の産地として美妓嬌妓(びぎきょうぎ)が多く輩出せられ…最近養成機関として設立、主に歌謡舞踊国語書画等(とう)を教授している」とある。

 市内見物の後は、鮮鉄線でさらに北上、夜に鮮満国境の街、新義州着・泊。

 【4日目】国境にかかる鴨緑江鉄橋を渡り、満州の安東へ。鴨緑江に架かる橋梁(きょうりょう)は日本の手によって明治44年に完成(全長約950メートル)、これによって朝鮮-満州をつなぐ国際列車の運行が可能になった。昭和18年には第二橋梁が完成。最初の橋は、朝鮮戦争(1950~53年)中に爆撃で破壊されている。

 安東市内見物の後は、再び、夜行列車で一気に南下。この日は車中泊。

 【5日目】朝鮮南東部・慶尚北道の中心都市・大邱で下車。9世紀新羅時代に創建された朝鮮きっての古刹(こさつ)「海印寺」は大邱の西南約70キロにあり、乗合自動車が便利。高麗八万大蔵経の版木が保管されている大蔵経板殿は現在、世界遺産に登録されている。市内見物の後、大邱泊。

 【6日目】大邱は、新羅の旧都で東海岸に近い慶州方面への乗換駅。東海中部線で約2時間の汽車の旅だ。慶州は現在の韓国旅行でもハイライトのひとつ。市内に点在する新羅遺跡を探訪し、現在は世界遺産に登録されている「仏国寺」へ向かう。同泊。
【7日目】新羅時代の石仏が安置されている「石窟庵」(世界遺産)は、長い仏教弾圧の時代に埋もれていたのを20世紀初頭、郵便配達員が偶然発見、日本時代に整備が進んだ。そこで日本海からの日の出を拝した後、釜山の東莱温泉で湯につかる。再び夜行の関釜連絡船で内地へ。車中泊2回、内地との連絡船も往復夜行だから、なかなかのハードスケジュールだ。

 ◆朝鮮語の単語集も

 同書には、あいさつや日常会話に必要な朝鮮語の単語集も載っている。「朝鮮料理」というコラムには《昔から伝わっている上流家庭の料理はそれは手のかかった美味なるものが多い。(それに比べて)今日、朝鮮の料理店で味わう料理は、妓生を呼んで幾分でも朝鮮の情緒を味わうに過ぎないところである》

 その妓生の写真と説明もあった。《朝鮮名物のひとつとして妓生がある。内地より見物などに来る人は、大抵酒席に妓生を招く…その宴席を斡旋(あっせん)することにおいては、何ら内地の芸妓(げいぎ)に異なるところはないが、清楚(せいそ)たる風姿は、むしろそれに優(まさ)っている》と。先の単語集によれば妓生-芸妓。娼婦はカルボである。

 現在は、北朝鮮の地域にある朝鮮きっての名勝「金剛山」についても多くのページが割かれている。スキー場や夏のキャンプ場も写真入りで紹介されており、こうしたレジャーが日本統治時代に定着していたことがうかがえる。=敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(28)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(28)行け!朝鮮開発には人が要る 近代化に身を投じた若者の記録2018.7.21

 16歳の横山左武郎(さぶろう)が海峡を越えて、「朝鮮・満州旅行」へ出かけたのは、昭和9(1934)年5月のことであった。京都市立第一工業(当時)卒業を翌年に控えた修学旅行である。

 9年といえば、満州国建国から2年、新天地・大陸への夢や憧れが高まっていたころだ。修学旅行は他に「東京」を選ぶこともできたが、横山は迷わず、朝鮮・満州に決めている。

 18日間の旅は、横山の将来をも決定づける鮮烈な印象を与えたらしい。卒業後、横山は再び海峡を越え「朝鮮総督府鉄道局(鮮鉄)」に技術者として就職しているからだ。

 日本は莫大(ばくだい)なカネ、ヒト、モノ、技術をヨソの民族のためにつぎ込んだ。朝鮮の開発・近代化に貢献するため、どれほど多くの日本人が、情熱と志をもって海峡を越えていったことか。横山少年もまたその一人であったことは遺(のこ)された日記や手紙から、うかがい知ることができる。

 ◆夢想う憧れの朝鮮
 『昭和九年鮮満旅行日記』を追ってみたい。
 第一工業の一行は、京都駅を9年5月2日午後8時32分に夜行列車で出発、東海道・山陽線を走り、広島・宮島で厳島(いつくしま)神社に参拝した後、下関から夜行の関釜連絡船に乗り込む。

 《僕達は初めて見る植民地の風景をいろいろ頭に画(か)きつつ船が出るのを待った…大空を仰げば、平和の使者のごとき半月と宝玉を散(ち)りばめたような星が輝く…翌朝早朝4時半ごろに目が覚めた…多年、夢想(おも)う内に憧れていた朝鮮半島が海に浮かび出ているではないか》(同旅行日記から)

 初めて訪れる朝鮮の地に胸躍らせる若者の高ぶりが目に浮かぶようだ。

 釜山からは鮮鉄・京釜線に乗って北上する。《(朝鮮の)街は、あまりきれいとはいえないが、風情は全く内地(日本)と異にしている。住む人、家屋…われわれの好奇心を注がせる。(内地に比べて)汽車の広大なこと、視界の広いのは愉快。大邱、大田、天安、水原…朝鮮開発にはまだまだ人も要るし、機械も要る。「行け、開発せんとするものは唯(ただ)、満州に限らない!」》(同)

京城着は、5日の朝8時55分。京都からは2日半の行程だ。一行は、京城駅前の旅館へ入り、南大門や李朝の旧王宮・景福宮などを見学。南山にあった朝鮮神宮を参拝した。《南大門は市内四大門の一つで、誠に雄大なるものだ。朝鮮神宮の参道では、内地人、本島(朝鮮)人など種々見受けられ、ちょっと異国情緒がある》(同)

 横山少年は、いにしえの朝鮮の伝統文化と、急ピッチで進む近代化の波が入り交じった光景を目の当たりにする。《(略)終日、大朝鮮の民族、風習などを一見した私の頭にはさまざまな想いがかけめぐる…古典的な街にも文明開化の潮が押し寄せているのだ。(略)午後十時、思い出多き京城の街に別れを告げて、われらの列車は汽笛一声北上した》(同)

 一行は、鮮鉄の京義線に乗って平壌へ。さらに北上して鴨緑江を越え、南満州鉄道(満鉄)線で満州各地を回り、帰路は、朝鮮東海岸の元山などを訪問している。横山が買い求めた写真入りのはがきには当時の朝鮮の風俗や街の様子が刻まれていて興味深い。

 ◆道半ばでの無念の病死
 日本が、朝鮮に張り巡らせた鉄道網は終戦前に5000キロ以上。修学旅行で横山らが乗った関釜連絡船-鮮鉄-満鉄のルートは、大陸への「最短ルート」であり、その先のロシア、ヨーロッパへとつながる「西洋への扉」でもあった。

 横山は、卒業後の昭和10年3月、鮮鉄に入り、京城にあった工作課の車両係に配属されている。

 横山の日記は《近衛文麿内閣(第1次)総辞職》のニュースが飛び込んできた14年正月から再び、書き始められている。先行きの見えない日中戦争、迫りつつある対英米戦争の足音…。陸軍への入営を挟みながら横山は技術者として多忙な日々を送っていた。

 《朝鮮はまったく朝が鮮やかだ。わが第二のふるさとに汽車は走りぬ》(一時帰郷から朝鮮へ戻った14年1月24日付日記から)
(朝鮮南部の)光州へ出張し試運転列車に乗り込んだこと。人事異動のこと。休日に同僚と京城の動物園や桜の名所、昌慶苑に遊んだこと。仕事に悩み、満州(満鉄)への転職を考えたことも書いている。

 《内地(日本)と異なり、物資は豊かにあります…内地より帰城した人々の話を聞き、京城の有難味(ありがたみ)をつくづく感じました》(17年1月15日付手紙から)。物資が窮乏していた内地と比べて朝鮮はまだまだ恵まれていたのだろう。

 だが、横山は次第に体調を崩し、長い入院生活を余儀なくされてしまう。内地の病院へ転院したが、18年12月死去。まだ26歳、朝鮮開発へかけた若者の夢は、道半ばで終わった。

 めいのたか子(68)はいう。「内地へ戻ってきた叔父は『余命6カ月』と宣告されていたそうです。志を抱いて朝鮮へ渡ったであろう叔父はさぞかし無念だったでしょう。葬儀の香典帳(28日付)には仲良くしていたらしい朝鮮人同僚の名もありました」。カメラが得意だった横山のアルバムには、まだ戦争の影がない朝鮮の写真が多く残されている。部屋には若い朝鮮女性の笑顔の写真が飾ってあった。=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

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海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(27)

海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(27)「取り入れる」日本人 朝鮮語の唱歌までつくった 2018年7月14日


 朝鮮民族は「極端に走りすぎる」ときがあると前回書いた。

 一方の日本人は古来、和を尊び、争いを嫌い、曖昧、折衷、混在といったことをよしとしてきた。ただし、これにはプラス・マイナス両面がある。

 例えば、国益がぶつかり合う外交の場では間違いなくマイナスであろう。

 14年間のすったもんだの末にやっと決着した日韓会談(昭和40年、日韓基本条約に調印)。日本の領土と疑いようのない竹島の問題を摩擦を恐れて“タナ上げ”してしまい、韓国に実効支配され続けている。日本が「和」の心で譲っても、相手が同じような寛容な心で歩み寄ってくれるわけではない。

 互いの国・国民の財産、請求権を放棄し、完全かつ最終的に決着したことを確認した日韓請求権協定(同)もそうだ。韓国が主張していた徴用工の補償問題など8項目の要求も「含む」とした合意議定書まで交わし“完封”したはずだったのに、韓国側からのカネの要求はいまだにやむことがない。最終的には日韓双方が望んだ形とはいえ、「経済協力」という曖昧な折衷案でカネを支払ってしまったからだろう。

 ◆外国文化を「日本化」

 半面、文化や宗教などでは日本人の混在ぶり、曖昧さも悪くない。朝鮮人がどっぷり漬かった儒教(学)も日本人は全面的には取り入れはしなかった。仏教とごちゃ混ぜにしたり、その仏教も神道と混交させたりしている。朝鮮人が中国に倣った科挙(かきょ)(官吏登用試験)も導入しなかったし、実学や職人、商人を軽視せず、そろばんも身につけさせたから明治以降いち早く近代化を達成できた。

 15世紀に公布された朝鮮固有の文字、ハングルも本家本元の朝鮮人知識層が軽んじてあまり使わなかったのに、日本人は江戸時代から興味をもっていた。

 大阪大名誉教授、加地伸行(のぶゆき)(中国哲学史)の本紙連載コラム「古典個展」(平成26年1月26日付)によれば、江戸時代の天明4(1784)年発行の書物の中にサンスクリット語やオランダ語などと併せて、ハングルが「朝鮮国の文字」として紹介されている。しかも日本人に分かりやすいよう「いろは歌」で再構成する工夫が見られた。

 加地は《古代以来、中国は自分が世界の中心と思い、今もその態度を変えない。朝鮮半島は中国を主人とする属国根性が今も抜けていない。しかし、わが国は、歴代、外国文化を謙虚に受け入れ、しかも、日本化するという努力を続けてきた》と書いている。

 ◆朝鮮の偉人や旧跡も

 明治初期に日本の学校教育として取り入れられた「唱歌」も最初は、“日本人お得意”の和魂洋才、和洋折衷というべきものだった。『蛍の光』も『蝶々(ちょうちょ)』も外国の曲からメロディーだけを借りて、まったく違う日本語の歌詞をつけて作られている。

 さて、朝鮮ではどうやったのか。

 日本が朝鮮に、近代教育制度を整備したとき、やはり唱歌教育を導入している。これは“日朝折衷”というべきものだった。

 日韓併合(明治43年)直前の保護国時代、韓国統監府が監修し、大韓帝国学府が発行した「普通教育唱歌集 第一輯(しゅう)」(同年)は主に内地(日本)の唱歌を、そのまま朝鮮語に翻訳したのである。

 日本は、同じく統治した台湾や、日本が強い影響力をもっていた満州(現中国東北部)でも、土地の自然や名所旧跡などを取り入れたオリジナルの唱歌をつくっているが、「現地語の唱歌」をつくったのは意外なことに朝鮮だけだ。

 ところがこの“日朝折衷”唱歌の評判があまりよくない。当然だろう。なじみのない(日本の)山河や動植物、風習を織り込んだ歌が朝鮮の児童の心に響くはずがない。唱歌や童謡は、子供たちが、子守歌の次に触れる歌である。歌って楽しく、愛着を持ち、子供たちの情緒を育てるものでなくてはならない。

 そこで、朝鮮に渡った日本人教師や総督府の教育担当者は、「朝鮮の偉人や旧跡、自然、風俗を取り入れたオリジナルの唱歌をつくろう」と主張する。そして、その歌を朝鮮の子供たちに公募し、歌詞を書いてもらう。大正15年に朝鮮総統府が編纂(へんさん)・発行した「普通学校(小学校)補充唱歌集」(60曲)だ。

 公募によって採用された唱歌には、朝鮮民族誕生の神話の山である『白頭山』やハングルの制定に貢献した李朝時代の儒者を題材にした『成三問』、日本とつながりの深い新羅の王を歌った『昔脱解』などがある。前回、日本人が普及に貢献したと書いたハングルで表記された唱歌は低学年用に多い。「読みやすく」という配慮だろう。

 このほか、新羅王生誕の地である『鶏林』、中朝国境を流れる大河『鴨緑江』や天下の名勝『金剛山』…。きっと朝鮮の子供たちはこうした唱歌を歌いながら民族の偉人や歴史、自然を誇らしく感じたことであろう。こんな“お人よし”の統治者が日本の他にいるだろうか。

 ◆耕筰・露風の幻の唱歌

 “日朝折衷”唱歌はその後も続く。昭和7年に京城師範の音楽教育研究会がつくった「初等唱歌・第三学年用」には、山田耕筰作曲、三木露風(ろふう)作詞の大御所コンビによる『五月雨』『水車』『冬の朝』など、日本でもほとんど知られていない唱歌が収録されている。大正12年に大阪の出版社が発行した唱歌集に掲載されているが、耕筰の関係者も把握していなかったいわば“幻の唱歌”だ。

 耕筰は、満州唱歌である『ペチカ』や『待ちぼうけ』(大正13年の「満洲唱歌集・尋常科一、二年用」に収録)もつくっている。きっと、京城師範の教育者たちは、芸術性の高い耕筰の曲を朝鮮の子供たちに教えたかったのだろう。

 ただ、朝鮮の唱歌にも時期の濃淡があった。日中戦争翌年の昭和13年に改正された朝鮮教育令(第3次)によって、唱歌も一新され、以後、皇民化や軍国色の強い歌が増えてゆく。日本人教育者が愛情込めた自由な朝鮮の唱歌を知る人は今やほとんどいない。=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (26)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(26)ハングル普及に貢献した日本人 中国崇拝一辺倒を打破 2018.7.7

 朝鮮・韓国語を少しでも勉強した人は、よく分かると思うが、日本語との共通点が非常に多い。文法がほぼ同じだし、漢字由来の単語(漢字語)が多数を占めているから、やや発音は違うものの、日本人には何となく意味の予想がつく。

 のっぽ、おんぶ、デブ、ボロ(もうけ)、(腹)ぺこ、チョンガー、(ラクダの)パッチ…知らず知らずに使っている日本語の中にも、朝鮮語に関係があると思われる単語が少なくない(異説あり)。おそらく日本人にとって「最も習得しやすい外国語」であろう。逆もまた然(しか)りである。

 ただ、漢字は別にして、文字は全く違うから、とっつきにくい。初めて韓国へ行った日本人が、看板などに書かれた、見慣れない記号のような文字の洪水に頭がクラクラして、“ハングル酔い”になることもあるらしい。

 ハングルは、15世紀の半ば、李朝の王、世宗(セジョン)の時代に「訓民正音(フンミンジョンウム)」の名で公布された。母音と子音を組み合わせた合理的な表音文字で漢文を読めない庶民にも分かりやすいようにした画期的な発明であった。

 ところが、中国文化(漢文)ばかりをありがたがる朝鮮の支配者階級は、かたくなに「漢文」しか使おうとしない。せっかく独自の文字を発明したのに、それを「諺文(おんもん)」と呼び、知識のない者や女・子供の文字だとして、公的には使おうとしない向きもあったのである。ハングルは長らく“日陰の身”に置かれていた。

 ◆識字率を向上させよ

 李朝末期、朝鮮人の間でようやくハングルを再評価する動きが広がってきたが、そこには日本人の貢献もあった。

 福沢諭吉(1835~1901年)は、朝鮮の改革・進歩、文化の発展のためには、庶民にも読みやすいハングルを普及させて識字率を上げることが肝要だ、と考えた。福沢は、自らハングルの活字を特注して作らせ、門下の井上角五郎(かくごろう)(1860~1938年)を京城へ派遣する。

井上著の『福澤先生の朝鮮御経営と現代朝鮮の文化とに就いて』(昭和9年)を引いてみたい。《朝鮮には諺文(ハングル)がある。日本の「いろは」の如(ごと)くに用いられると知られて、(福沢)先生は、これさえあれば朝鮮も開化の仲間に入れることができる》

 福沢や井上の頭にあったのは、日本語の「漢字かな交じり文」だ。漢字のみの漢文や、ひらがな、カタカタのみの文は読みにくいが双方が交じると読みやすい。漢字は表意文字なので文意がつかめるからだ。

 ハングルは、表音文字であるため、同音異義語が多く、「防火」と「放火」が同じ表記になってしまう。そこへ漢字表記を交ぜると、文意がつかみやすくなるのは日本語と同じだ。福沢らは漢文志向が強かった当時の朝鮮に、漢字とハングルを交ぜた文を根付かせ、庶民にも読みやすくしようと考えたのである。

 再び前述書に拠(よ)る。《政治も法律も支那に模倣(略)官吏の文書に正音(ハングル)を交えることを禁じ…常民の全く学識なき者、婦女子のほかは、男子として諺文(同)を読んだり書いたりするのは一大恥辱…というのが朝鮮上流社会の思想であった》

 福沢と井上は、その思想を打破するために、ハングル入りの文を用いた新聞の発行を考えつく。《先生は「(新聞への)諺文使用は出来うるか」と言われました。私は、決して困難とは思いませんが、朝鮮上流社会の支那崇拝思想を打破せぬ限りは、これを社会に普及させられませぬ。これを打破するのが私の使命と思っています》

 そして、井上は、朝鮮人語学者の協力を得て、明治19(1886)年、形は少し違ったが、京城でハングルを入れた初の新聞『漢城周報』(週刊)の発刊にこぎつける。新聞は国王の認可を受け、政府の機関が発行所となったもので、朝鮮社会に与えたインパクトは大きかった。29年には朝鮮人の手によってハングルのみの独立新聞が発行される。

◆一村一校の小学校建設
ハングルの標識
福沢諭吉

 日本統治時代、ハングルは普通学校(小学校)の教科書に載り、朝鮮の子供たちに普及してゆく。

 日本が建てた初等教育の学校は、明治45年に500校あまり(児童数約6万6千人)だったが、「一面(村)一校」を合言葉に地方に広がり、昭和11年には、約2500校・児童数約93万人→16年、約3700校・約170万人と急増。終戦前の就学率が、5割を超えていたのは前回書いた通りである。

 初等教育機関は当初、日本人が主の小学校(一部の朝鮮人も通った)と朝鮮人児童の普通学校に分かれていた。昭和12年に名称はともに小学校となったが、学校の統一はされていない。「国語(日本語)能力」に差があったからである。

 朝鮮総督府は、普通学校で教える朝鮮語で、ハングルのつづりを統一するため、朝鮮語学者の協力を得て昭和5年に、諺文綴字(つづりじ)法を公布。正書法を完成させてゆく。

 前回、国語政策の「時代による濃淡」について触れた。大正8(1919)年の大規模な抗日運動(三・一事件)以降、日本は“緩やかな”「文化政治」にかじを切る。結社、集会の規制が緩められ、今も続く朝鮮日報や東亜日報といった朝鮮語の新聞も、この時期に創刊されている。

 だが、日中戦争開始(昭和12年)以降は、朝鮮でも戦時体制として皇民化政策が進められ、自由な雰囲気は失われてゆく。ハングルの普及活動を進めた朝鮮人の民間団体が、民族運動、独立運動の拠点とみなされ、治安維持法で検挙される事件も起きている(17年の「朝鮮語学会事件」)。

 ハングルは再び“日陰の身”とされたが、ハングル交じりの新聞(毎日新報)は終戦まで発行されている。

 戦後の韓国・北朝鮮は、一転して、民族意識の象徴としてのハングルを重んじ、漢字を排除するようになる。韓国では漢字教育をほとんど受けなかった「ハングル世代」が大多数を占め、自分の名前すら漢字で書けない人も多い。どうもこの民族は、極端に走りすぎる。=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

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