【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (25)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(25)日本の官憲に朝鮮語奨励 国境警察隊の8割は日本語理解せず 2018.6.30

 先週書いた、朝鮮北部の国境警察隊の映画『望楼の決死隊』(昭和18年、今井正監督)の思い出は、朝鮮総督府の元キャリア官僚で戦後、埼玉県警本部長や大分県副知事を歴任した坪井幸生(さちお)(大正2年生まれ)も書き残している。
 《国境地帯では、百人近くの警察官が一つの駐屯地に集団で駐在していた(略)隊員は当番となり、二、三人の班を組んで戸口調査をし…情報を集めるのが常務であった、使う言葉は朝鮮語であり、朝鮮語ができなければ話にならなかった》(「ある朝鮮総督府警察官僚の回想」から)
 映画の中に、住民の説明会で日本語とハングルを併記して板書するシーンが出てくる。終戦前には普通学校(小学校)の就学率は50%を超え、日本語を解する朝鮮人の割合は年々増加していったが、全体から見れば「日本語ができる朝鮮人」はわずか15・6%(昭和15年、朝鮮総督府統計)にすぎない。終戦間際でも2割前後。特に、年配者や女性は低かった。
 日本語が分からない朝鮮人に対処するためには、日本人警察官の方が朝鮮語を勉強した。再び、坪井書に拠(よ)る。《(警察官志願者の)講習所で朝鮮語の教育をしなければならなかった。教習科目のなかでも、朝鮮事情とともに朝鮮語は重要視されていた》
 警察官だけではない。総督府は地方官吏を中心に朝鮮語習得を奨励し、「熟達せる者」に対しては手当まで支給している。
 坪井は、こうも書いている。《当時の朝鮮人の日常の市民生活では、当然のこととして朝鮮語が常用されていた。(略)汽車の切符も煙草(たばこ)も朝鮮語で買えた。郵便局でも片仮名以外にハングルを使って電報を打つことができた。「朝鮮語の使用禁止」があったというのは、当時の実情を知らない者の虚報か、タメにする作り話である》
 朝鮮人を対象とした徴兵令は18年に発せられ、19年になって、やっと実施されている。それまでは、13年からの陸軍特別志願兵制度などによって朝鮮人兵を集めていた。戦局悪化にともなって戦死者も増え、内地ではどんどん徴兵年齢が上げられてゆく。できるならば朝鮮人兵も早く徴兵したかったであろう。なぜ終戦間際になったのか?
 ひとつには「日本語能力」がネックになったからである。若い徴兵世代でも全体の7割弱は日本語ができない。そんな兵は訓練もままならないし、命令を伝えることもできない。実際、徴兵制を実施したものの、徴兵されたのは「全対象者の約4分の1」にとどまっている。戸籍が把握できなかった者らに加えて、日本語の能力で除外された者がいた。
 大多数の朝鮮人が日本語を理解できない現実の前では、坪井が書いているように、日常生活での「朝鮮語の禁止」など、できるはずがないのである。
 ◆日本語求めた朝鮮人
 総督府は、朝鮮人児童への初等教育を整備・拡大し、あまり使われていなかったハングルを教え、識字率向上に努めた。
 ただし、総督府の言語政策は時期によって濃淡がある。映画『望楼の決死隊』に登場する、もう一方の映像も紹介しなければ公平ではない。それは、国境警察隊の壁に張られた「国語常用」の標語である。
 日中戦争(昭和12年~)以後、戦時体制の中で朝鮮でも内鮮一体、一視同仁のスローガンのもと、皇民化政策が進められてゆく。
 映画が撮られた18年には、「日本語を使いましょう」という国語常用運動が総督府によって進められており、官公庁などには、先の標語を掲げるよう指示が出ていた。初等教育の科目としての「朝鮮語」も、16年を最後(随意科目)に姿を消している。
だから、他民族統治の中で国語政策についても強圧的なやり方がなかった、というつもりはないが、一方で、多くの朝鮮人が「日本語を求めた」側面を見逃すべきではない。日本語を身につけることは、教育を受けたり、仕事を得たりするのに有利になったし、“同じ日本人”としての意識も次第に高まっていたからだ。
 先の陸軍特別志願兵には、初等教育で、日本語を学んだ農村出身者らが多かった。昭和17年には、採用予定人数4500人に対し、志願者が約25万人、18年は、採用予定約5300人に対し、30万人以上の志願者が殺到した。すさまじい人気ぶりである。
 批判する側がいう「皇民化政策の影響」だけで、ここまで高倍率になったであろうか? やはり朝鮮人の日本への同化が進み、「ともに戦う」という意識の高揚が、この数字につながったのではないか。
 『前進する朝鮮』(17年、朝鮮総督府情報課編)に、当時の朝鮮人の日本語学習熱についての記述がある。《今日では、すでに国語(日本語)の習得は朝鮮人にとっても国民常識であり…正規の教育機関ばかりでなく、各村落に設けられた短期の国語講習所等(とう)には50、60歳の老翁、あるいは30、40歳の主婦たちの子どもをおんぶした手習い姿も見られて…》と。
 批判する側は、この国語講習所についても、「そこまでして日本語を強要した証拠ではないか」と主張する。では、終戦当時旧制中学3年生の朝鮮人少年だった男性(88)の証言を聞いてみたい。
 「朝鮮ではますます、日本語の使用が広まり、朝鮮語の書物や朝鮮語の新聞の購読者が減少していった。満州(現中国東北部)へ進出した朝鮮人たちも可能な限り、(有利になるように)日本人のふりをしていた。もちろん、朝鮮人の日本化を促進させるための総督府の政策も、そこにはあった。だから、日本語の普及・朝鮮語の教育の退潮は、政策面と(日本語を身につけたい)需要面の両面によって進んだのです」
 公平で率直な見方だと思うが、どうだろう。=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (24)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(24)警察官の半数近くが朝鮮人だった 映画『望楼の決死隊』に見る実相 2018.6.23

 戦後の日本映画を代表する巨匠の一人、今井正(ただし)(1912~91年)がメガホンをとり、昭和18年に公開された映画『望楼の決死隊』(東宝)は、10年ごろの満州国(現中国東北部)との国境に近い朝鮮北部の村を舞台にしている。“永遠の処女”原節子(1920~2015年)が、匪賊(ひぞく)と対決する国境警察隊所長の若妻役を演じ、戦闘シーンで拳銃をぶっ放す派手なアクションが話題になった。
 撮影当時、国境にある朝鮮・咸鏡北道知事を務めていた古川兼秀(かねひで)(1901~74年)は、現地ロケにやってきた原など、撮影隊に会ったことを、よく家族に話していたという。
 映画のストーリーを簡単に紹介しよう。朝満国境を流れる鴨緑江や豆満江が凍結する厳冬期には、満州から匪賊が河を渡って朝鮮へ攻撃を仕掛けてくる。
 匪賊には馬賊、土匪、宗(教)匪などがあるが、映画に登場するのは、共産主義者勢力による「共匪」。北朝鮮の初代最高権力者となる金日成も参加していた「抗日パルチザン」と称する武装ゲリラ集団である。朝鮮人住民とともに土地を警備する国境警察隊は、厳寒のなか不眠不休で任務にあたり、共匪との激闘で殉職者を出しながら、ついには村を守り抜く…。
 映画の中で、朝鮮人の住民の心情は、日本側にある。朝鮮総督府後援の作品だから、多少のプロパガンダ色はあるものの、実感情に近いだろう。共匪の「抗日」宣伝に共感する住民もなくはなかったが、多くの朝鮮人住民は、民間人への襲撃、放火、略奪、誘拐…と非道の限りを尽くす共匪を恐れ、嫌っていた。
 映画の国境警察隊には朝鮮人警察官もおり、共匪側の凶弾に倒れ殉職する。日本人警察官は悔しさをにじませ、仲間の仇(かたき)をとるべく銃弾が飛び交う最前線に飛び出してゆく。古川は、北部の平安北道や黄海道で警察部長(現在の県警本部長に相当)を務めた経験があり、匪賊掃討の陣頭指揮もとっていたから、映画には、感慨深いものがあったに違いない。
■日本時代に刷新改善
 朝鮮で、近代的な警察制度が整備されたのは日本統治時代である。
 『25年 朝鮮は何を得たか?』(昭和11年、京城日報社編)にこうあった。《韓国(大韓帝国)時代における警察制度は、名あるも実なく、常に権門の手足となり…弊害百出混沌(こんとん)たる状態であった。(略)その後露、仏などによる顧問を聘(へい)したが、徒(いたずら)に政争の爪牙たるに過(す)ぎなかった。明治37年帝国政府(日本)より推薦せる警察顧問によって刷新改善を図り、ここに初めてその体をなすに至った》
 同書によれば、明治43年に107だった警察署は、昭和8年に251に。駐在所は、269→2334▽警察官数は、5694人→1万9228人(いずれも前記期間比較)と急増している。注目すべきは、朝鮮人警察官の人数が、全体の「4割強」(昭和8年)を占めていることだ。総督府の役人の数も約半数を朝鮮人が占めている。彼らの目を盗んで)、同胞の少女を慰安婦として無理やり連れ去ることなどまず、できなかっただろう。
 キャリア官僚として朝鮮総督府に入った古川は、警察畑が長かった。主に警備・公安畑で活躍し、道の警察部長のほか、政治犯や防諜を担当する総督府警務局の保安課長、メディアの検閲などを担当する図書課長も務めている。
 昭和13年発行の『ヂャーナリズム時代の部隊の戦士』〈話題の人〉に、図書課長時代の古川の人物評が載っていた。《血の気が多い…総督府内きっての革新派…次のイスは道知事か警務局長か…》と。
 古川は、朝鮮人の登用に積極的な官僚だった。次男の武郎(たけお)(80)のもとには、平成元年に古川が重用した朝鮮人警察官が亡くなったとき、息子から届いたお礼の手紙が残っている。「父の日記には、故古川殿と友子様(さま)(古川の妻)の数々の思い出があふれていました。1934年に古川殿とお付き合いを始めて、親子関係よりももっと深い思いやりであった、と書かれていました…」
一方、古川が残した一文には、この朝鮮人警察官が一度、酒の上での不祥事を起こしたものの「『見どころがある男だ』として罪一等を減じた…果たして、拳銃強盗事件の捜査で凶弾を左ほほに受けながらも犯人を逮捕した」というエピソードが綴(つづ)られている。
 古川と朝鮮人部下との交流は、終戦後に、古川の家族が日本へ引き揚げるときまで続く。
 ■日朝住民の交流描く
 映画『望楼の決死隊』は戦後、軍国主義の国策映画として批判も浴びた。戦時下という時代もあったろうが、その後は、左翼色の強い監督というイメージが強まってゆく今井にとっては、確かに異色の作品かもしれない。
 ただ、この映画の見どころは、匪賊と国境警察隊の派手な戦闘アクションだけではない。むしろ私には、雄大な朝鮮北部の大自然や、当時の朝鮮人の生活、風俗、日本人と朝鮮人との交流の“息づかい”といったものを丹念に描いたシーンの方が興味深い。
 雪と氷に包まれた急峻(きゅうしゅん)な山を見れば、「こんな奥深い辺鄙(へんぴ)な地に日本人はよく巨大な水力発電所などを造ったな」と感心する。凍った河を、すいすいとスケートで滑ってゆく朝鮮人住民らのシーンでは、ここが今なお、中朝混在の地であり、密貿易や脱北者が逃げるルートになっていることがよく分かる。原節子が隣家の朝鮮人の奥さんのお産を手伝いにいったり、殉職した朝鮮人警察官の遺影に日本人の同僚がお雑煮を供えたりするところなどは心温まる場面だ。
 2つの民族は反目しあっていたのではない。映画に登場するような国境警察隊や日朝の警察官の不断の努力によって、朝鮮の治安は改善され、人口は約2倍に増加し、農業・商工業の飛躍的発展を見たのである。=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

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朝鮮統治の真実 ほんとうは「日韓併合」が韓国を救った! 「七奪」はすべてねつ造

 朝鮮統治の真実   松木國俊 元豊田通商ソウル事務所駐在員

ほんとうは「日韓併合」が韓国を救った! 「七奪」はすべてねつ造
韓流ブームに乗って韓国礼賛に走るマスコミもある。だが、ちょっと待て。”憂情”をもって言う ー ウソと詭弁で塗り固めた歴史の握造を正さないかぎり、貴国の将来は危うい! 

■「遊びに来て」が災いのもと
 私は1972年に学生として初めて韓国に行きました。クルマといえばトヨタのコロナばかりが走っているころで、裸電球が灯ったりし、初めてなのに、どこか懐かしい気がしました。韓国語は欧米の言語と違って語順が日本語と同じだし、顔も日本人と似ている。けれど、表面はそっくりでも中味は大違いです。
 大学卒業後豊田通商に入社。1980年にソウルに駐在しましたが、日韓の文化の違いに驚かされました。
 日本でも「忠孝の倫理」とか言いますが、韓国では忠より孝が大事。会社の大事なお客が来るときに、韓国人のパートナーが休んでしまう。「お父さんの誕生日だから」と言うのです。
仕事のあとで駆けつければいいじゃないかと言うと、「そんなことをしたら周りから白い目で見られる」。考え方が日本とは根本的に違う。言葉の意味も違う。例えば「約束」。ある程度できそうだという見込みがあれば「できる」と約束してしまい、状況が変わると守れなくてもしかたがないという考え方です。「予定」も違う。「明日お客が空港に何時に着く予定だか
ら迎えを頼む」と言っておいたのに、予定の時間に会社にいるので焦って事情を聞くと、「あれは予定でしよ。
決定するのを待っていました」との答えがかえってきました。
 人と人の間の距離感も違います。韓国人は親しくなってある線を越えると、その内側の相手は身内ということになる。身内ならお金も貸すし、いつ家に遊びに行ってもいい。相手の都合なんかおかまいなしです。私の日本人の友だちが韓国人の女性と結婚しましたが、当時夜間外出禁止令があって、夜、家に帰れなくなった親戚がしょっちゅう泊まりに来る。プライバシーなんかあったものじゃなくて閉口していました。
 ある日本人の夫婦が韓国のアパートに入居したとき、エレベーターで隣家の人に会ったので「いつでも遊びに来て」と挨拶したら、その晩に家族五人でやって来て、食事中だから待ってと言ってもかまわず上がりこみ、テレビを勝手につけたり冷蔵庫を開けて飲み物を出したりで、嫁さんが「こんなところにはいられない。日本に帰る」と叫んだなどということもありました。
 ジャーナリストの室谷克実さんは慶応大学時代の二年先輩ですが、その室谷さんに聞いた話です。-ソウルのホテルの鮨カウンターで食べていたら、ウエイトレスが「(そのホテルの)社長様がいらっしゃいましたので席を譲ってください」と言う。
こっちが客だよ、と窘めても、「私は社長様から給料をもらっていますから」と平気な顔だったそうです。日本と逆で、外部の人に話すときに身内のものに敬語をつけるんです。「父上様は今いらっしゃいません」「課長様は今いらっしゃいません」という調子です。一番大切な身内にすら敬語を使わない日本人は極めて不道徳となるのです。

■身分格差
 韓国人は大げさな表現が好きで、すぐ話がふくらんでしまう。造船輸出が急激に増えた時期にはドックで修理したものまで新造船に数えて統計をふくらませたと聞いたことがあり、実態とは違った数字だったようです。韓国としてはライバル日本に負けないよう精一杯背伸びしたのかもしれません。規模と利益で日本企業を圧倒する韓国のサムスンを模範企業のように言う論調がありますけれど、まだ問題はあるようです。
 「サムスン電子は、技術パクリを常とし、世界のさまざまな家電・半導体メーカーから特許権侵害で提訴されている企業です。2011年4月には、アップル社がついにスマートフォンに関する特許権侵害でサムスン電子を告発しました。(略)サムスン電子はアップルに半導体や液晶を納入している、いわばお得意先。そこの製品をパクつたのですから、その度胸は賞賛ものです。(略)社員は使い捨てで下請け泣かせ、オーナーの一族は金銭スキャンダルに塗れ、オーナー自身、脱税で有罪判決を受けました。売上高は世界的規模でも、韓国型悪辣・不道徳企業の代表です」〈室谷克実・三橋貴明『韓国人がタブーにする韓国経済の真実』(PHP研究
所刊)より〉
 サムスンは、以前は日本人を雇って、役員会も時々日本語でやっていたとのことです。研究開発費も、他社から図面やノウハウを買うのにかなり使われているようです。韓国では身分格差が大きくて、サムスン電子のオーナー会長は2011年春、株の配当金だけで101億円を受け取ったが、勤労者の45%は2010年中の平均月収が15万円以下だったそうです。企業はオーナー一族のものという意識が強く、企業トップが公私混同して背任罪に問われるケースもよくあります。一人が出世すると一族が頼って来て、出世した当人もみんなを養う義務があると考える。一族の者だから金を貸せと突然言って来て、貸さないと門前で「一族なのに貸さないのを皆さんどう思うか」と騒ぎ立てる。大統領ほどの権力者となるとこれにたかろうとする人が後を絶ちません。某大統領が「聞いたこともない親戚が三倍増えた」と嘆いたことがありました。だから辞職した歴代大統領がみんな汚職で追及されることになるのです。

■人の親切につけこむ
 こういう韓国社会の様相は百年前に朝鮮を観察したイサベラ・バードの『朝鮮紀行』(講談社学術文庫 時岡敬子訳)にも描かれています。
 「朝鮮の重大な”宿痾”は、何千人もの五体満足な人間が自分たちより暮らし向きのいい親戚や友人にのうのうとたかっている、つまり『人の親切につけこんでいる』その体質にある。そうすることをなんら恥とはとらえず、それを非難する世論もない。ささやかながらもある程度の収入のある男は、多数いる自分の親族と妻の親族、自分の友人、自分の親族の友人を扶
養しなければならない。……おおもとはほとんど揺るがない」
 おおもとが揺るがないと言えば、韓国では「過去を水に流す」ということがありません。そういう日本的な美意識は絶対通じません。人を責めるのに、その父、祖父が何をしたかにまでさかのぼって責める。「親日法(日帝下の親日・反民族行為真相糾明に関する特別法)」でも、親日派だった者の子孫の財産を没収するというのですから、不遡及という近代法の原則も何もあったものではありません。だから、過去は自分に都合のいいものでなければならない。実際にあった過去ではなく、「あるべき過去」を主張して、でっち上げてでも押し通さないと生きて行けないのです。
 それゆえ、大韓民国の正統性を主張するために、上海にあった大韓民国臨時政府が日本に対する独立戦争をやって勝ったのだと教科書に書き、教えている。近代において日韓が戦ったことなどはないのです。臨時政府が国家として承認されていたのなら、日本の敗戦ですぐ民国ができてもよかったはずですが、実際には南北の軍政下に置かれ、1948年にアメリカの軍政下から独立したのです。

■いわれなき非難に謝罪
 韓国にいて歴史認識がおかしいと思い始めたのは、1982年の、日本の教科書が「侵略」を「進出」と書き換えたと騒がれたときです。事実ではなかったわけですが、韓国人が興奮状態で、新聞の一面に「日本の軍国主義がまた始まる」と書いて自衛隊観艦式の写真を載せたりした。実態を知らぬまま思い込みだけで非難するのかとびっくりしました。新聞は反日記事を書けば売れる。先日もハンギョレ新聞の論説委員が「日本の右翼勢力をただすには日本を韓国の植民地にするしかない」と書きました。
 韓国の非難は的外れだと思って歴史の勉強を始めたのですが、日本では鈴木善幸、宮沢喜一の両元首相が韓国に謝罪してしまい、これでは歴史のウソを認めることになると切歯挺腕しました。
 50歳で会社を早期退職した理由の一つは、日本語教師になり、韓国人に日本語を教えながら日本の本当の姿を伝えて誤解を解きたいと思ったことでした。専門学校に通って教師の資格を取りました。韓国人が日本に来ても、一年ならいい印象を持つ。「韓国人はいじめられる」と聞かされていたがそんなことはなかったと。しかし二年目に文化の壁にぶつかります。友人の家に夜、突然遊びに行ったら嫌な顔をされた、差別じゃないかとか。学校や課外活動を通じて日韓の文化的な違いを教える必要がありますが、なかなか容易じゃない。教師の口が少なく、非常勤講師を二、三コマやっても週に1万円にしかならないなどということもあって、また商売を始めました。
 それが可能だったのは、私か前の会社をやめても付き合いを続けてくれた韓国人の友人たちのおかげです。
これは有難かった。今度はまず日本人の意識を変えようと、日本会議などに大って情報交換をしていました。
 そこへ、ある老人が資料を見せてくれた。かつての朝鮮総督府の年鑑や日本統治下の朝鮮で使われた教科書など。「日本が朝鮮から強奪した」として韓国が主張するいわゆる「七奪」がねつ造であることを示す一次資料で、私は目からうろこが落ちる思いでした。
 この資料によれば「七奪」非難は完全に否定されます。

一、「韓国国王を奪った」……
 日本は李王家を日本の皇族の一員としてお迎えし、併合時の純宗皇帝は李王となられて日韓の皇室が融合したのです。日本は李王家を手厚く保護しました。朝鮮総督府『施政三十年史』(国立国会図書館蔵)には歳出項目の最上段に「李王家歳費」とあり、毎年180万円か計上されています。
 現在の価値で約二百億円になります。他の宮家の皇族費とは格段に差のある巨額です。さらに梨本宮方子(まさこ)女王が李王家の王世子・李垠(りぎん)殿下に嫁がれました。このこと一つをとっても、日本の「朝鮮統治」は、植民地の王室をことごとく廃止した欧米列強の「植民地支配」とは根本的に違っていることが明らかです。終戦時、李垠殿下’は密航してでも朝鮮に帰ろうとされましたが、韓国の李承晩大統領が許さなかった。李王朝を復活させず、共和制国家をつくったのは韓国自身です。

二、「主権を奪った」……
 李氏朝鮮は清の属国であり、国家主権はもともとなかったのです。朝鮮が近代国家として独立し、共に欧米列強の侵略に対抗することを望んだのは日本であり、それを許さぬ清との間で戦争になったのです。日本が勝利し、清と結んだ講和条約(下関条約)第一条には「清国(朝鮮国ノ完全無欠ナル独立自主ノ国タルコトヲ確認ス因テ右独立自主ヲ損害スヘキ朝鮮国ヨリ清国二対スル貢献典礼等「将来全ク之ヲ廃止スヘシ」と朝鮮の独立が明確に謳われています。

■日韓合邦の嘆願書
 ところが、ロシア、ドイツ、フランスの三国による干渉で日本が遼東半島の放棄を強いられると、国内改革によって専制権力を奪われつつあった国王・高宗はロシアと組んで巻き返しに出ました。国内の親日・改革派を葬り、ロシアに朝鮮の利権を売り渡し、馬山にはロシア海軍の基地が建設されて、日本の独立が脅かされる事態に至りました。そして日露開戦。大韓帝国内では李容九が「一進会」を結成し、日本との一体化こそが国を救う道であると朝鮮民衆に説きました。白人大国ロシアに対する日本の勝利はアジアーアフリカの有色人種を狂喜させた。戦後、李容九は一進会百万人会員の名前で全国民への合邦声明書を発表、さらに韓国皇帝、曾彌統監、李完用首相に対し「日韓合邦」の請願書を提出しました。日韓併合は日本が一方的に進めたのではなく、大韓帝国の中にも日本との合邦を推進した人々が多くいたのです。
 1910年に日韓は「韓国併合二関スル条約」を締結しました。このときの韓国皇帝の詔勅には、「韓日両国の親密なる関係をさらに進めて一家をなすことがお互いの幸福に通じる」と
して内閣総理大臣李完用に全権を委任し、大日本帝国統監寺内正毅との両国併合交渉に当らせると記されています。日韓併合条約は国家同士が当時の国際法や国内法に基づいて平和裏に締結した正式な条約なのです。日本が一方的に主権を奪ったのではありません。

■ヘレン・ミアーズの証言
 『アメリカの鏡・日本』の著者ヘレン・ミアーズも「日本が韓国を併合したのは、新皇帝が懇願したからだ。日本は一つ一つ手続きを外交的に正しく積み上げていた、そして宣言ではな
く条約で最終的な併合を達成した。列強の帝国建設はほとんどの場合、日本の韓国併合ほど合法な手続きを踏んでいなかった」と記しています。
J・クロフォード英国ケンブリッジ大教授も、2001年の国際学術会議で「自分で生きて行けない国について、周辺の国が国際的秩序の観点からその国を取り込むというのは当時よくあったことであり、日韓併合条約は国際法上不法なものではなかった。強制されたから不法であるという議論は第一次大戦以降のもので、当時としては問題になるものではない」と述べて、韓国側の主張は完全に崩れました。イザベラ・バードも夙(つと)にこう書いていたのです。
 「わたしは朝鮮人の前途をまったく憂えてはいない。ただし、それには左に掲げたふたつの条件が不可欠である。
I、 朝鮮にはその内部からみずからを改革する能力がないので、外部から改革されねばならない。
Ⅱ、 国王の権限は厳重かつ恒常的な憲法上の抑制を受けねばならない」

三、「土地を奪った」……
 1974年以来、韓国の国定教科書には「全国農地の40%を日本人に収奪された」と記載されてきました。
とんでもない。李氏朝鮮時代は所有権の概念があいまいなために、土地をめぐる争いが絶えませんでした。
そこで朝鮮総督府は1910年から8年かけ、近代的測量技術を使って土地調査を行いました。朝鮮総督府『施政二十五年史』(国立国会図書館蔵)には「抑々土地調査は地税の負担を公平にし、地籍を明らかにして其の所有権を確立し、その売買譲渡を簡捷確実にして以て土地の改良及び利用を自由にし、かつその生産力を増進せしめんとするものである」と目的がはっきり書いてあります。調査の結果、270万町歩と言われていた耕地が、実際には487万町歩にも上ることが明らかになりました。耕地全体の45%もが当時の貴族階級であった両班らによって隠匿されていたのです。
 韓国では土地調査について「日本人が小高い丘に登ってあたりを見回し、土地を指さして手当り次第良田を奪った」と非難していますが、これは李氏朝鮮時代の話なのです。李朝末期にダレ神父は『朝鮮事情』(平凡社)の中でこう書いています。

■両班の暴君ぶり
 「両班は、いたるところで支配者か暴君のようにふるまっている。彼らが強奪に近い形で農民から田畑や家を買うときは、殆どの場合、支払なしですませてしまう。しかも、この強盗行為を阻止できる守令(現在の知事に相当)は1人もいない」。
 実際に朝鮮総督府が接収した土地(李朝時代の国有地等)は耕地全体の三%でした。接収の過程で朝鮮人の私有地を奪った事実は全くありません。一九二二年時点で朝鮮半島における国有地及び日本の個人、法人が保有していた土地は合わせて二十五万五千町歩、全耕地面積の六%にすぎません(『朝鮮における内地大』朝鮮総督府、大正十三年発行)。農民たちは自分の土地が測量され地籍に上がるのを見て、測量事業に積極的に協調しました。しかし中には一時の利益に目がくらみ祖先伝来の土地を売ろうとするものもありました。一方、一握千金を夢見る日本人が大挙、朝鮮にやってきました。当時の寺内総督は、一旗組によって朝鮮の土地が買いたたかれては百害あって一利なしとし、朝鮮農家が日本人に土地を売るとの情報をつかむと憲兵を派遣し、日本人には売らないよう説得させました。そこまで総督府は朝鮮人の利益を守ろうとしていたのです。

四、「国語を奪った」……
 韓国の国定中学校教科書には「我々の言葉を禁止し日本語だけを使うようにして、我々の歴史の教育も禁じた。ハングルで刊行された新聞も廃刊させ、我々の言葉と歴史に対する研究も禁止させた」と書いてあります。
そもそもハングルは十五世紀に李朝四代世宗が学者を集めて作らせたと言われていますが、当初より諺文として忌み嫌われ、公文書では一切使われませんでした。イザベラ・バードも「諺文は軽蔑され、知識階級では書きことばとして使用しない」と記しています。そのハングルを再発見したのが日本人の福沢諭吉でした。
 「日本の漢字仮名まじり文同様、ハングルを駆使すれば難解な漢文を朝鮮語式に自由に読み下すことが可能となり、大衆啓発のために大いに役立つはずだ」と考え、漢字(ングル混交文を提唱し、ハングル活字を私費で作りました。
 朝鮮総督府は日本と朝鮮の学者を集めてハングルを近代的文字体系にまで高め「普通学校用諺文綴法」を決定して教科書に採用しました。さらにソウルとその近郊で話されている言葉を標準語と定め、学校教育を通し全土にこれを広めました。現在の韓国語は、このときに成立したのです。
 1920年には総督府によって初めて本格的朝鮮語辞典が完成、刊行され、1924年には京城帝国大学に朝鮮語・朝鮮文学の口座が開設されました。半島における日本語の普及にも力を入れましたが、これは共通語の普及が目的であり、朝鮮語廃止など毛頭考えていなかったのです。
 日本が朝鮮を植民地と考えていたのなら日本語など教えないほうが支配しやすかったはずです。1941年からは朝鮮語の科目が廃止されましたが、これは戦争の激化によって朝鮮語教育に力を入れる余裕がなくなったためです。また科目が廃されたからと言って、朝鮮語の使用が禁
止されたわけではありません。当時の日本人は半島の人口の2%程度であり、禁止など不可能です。朝鮮語の新聞も、京城では終戦まで二紙が発行されていました(中村梨『韓国併合とは何だったのか』)。むしろ朝鮮の知識人の中に朝鮮語廃止と日本語常用を唱える人々が大勢いたのです。

■朝鮮語廃止にストップ
南次郎総督が「朝鮮語を廃止するのは良くない。国語(日本語)普及運動も朝鮮語廃止運動に誤解されることがあるくらいであるからそれはできない相談である」と拒否した経緯があります(杉本幹夫『「植民地朝鮮」の研究』)。日本が朝鮮語を奪ったのなら、当時の朝鮮人は全員日本語を話せたはずですが、『朝鮮総督府施政年報 昭和十六年版』には日本語を「や
や解しうるもの」「普通会話に差し支えなき者」合わせて約390万人、当時の朝鮮の人口の16%に過ぎないと記載されています。同資料には「内地人職員に対する朝鮮語の奨励」なる項目があり、日本人官吏が朝鮮語を必死で学ぶ様子がうかがえます。
 近代においては日本が西洋の用語を日本語に翻訳して新たな漢語を創造したのですが、朝鮮の人々は日本製の漢語を借用して今日の韓国語を形成しました。韓国語の名詞の70%程度が漢語であり、政治、経済、科学、哲学、医学分野はほぽ100%が日本語の借用です。「社長、副社長、専務、常務、部長、課長、係長」も、「株式会社」「合弁会社」「水素」「酸素」「電気」「手術」もみんな日本語の韓国読みです。日本は統治期間中に朝鮮語の標準語を定め、近代社会に必要な単語を提供しました。奪うどころか、まったく逆のことをやっているのです。
 歴史教育についても、朝鮮総督府大正13年発行『朝鮮語読本 巻五』には「(慶州為先陳列館では)この地方において発見された各種の遺物が保存されており、新羅文明の卓越した様子が明らかに分かる」「石窟庵に入れば穹窿(きゅうりゅう)たる石窟の中に29体の仏像を周壁に彫刻してあり、その彫刻の優美さは東洋芸術の誇りである」などの記述があり、朝鮮の卓越した歴史を学童たちに教えるべく努力していたことがよくわかります。

五、「姓名を奪った」……
 1939年に朝鮮総督は朝鮮戸籍法を改正し、朝鮮人が日本名を名乗ることを可能としました。「創氏改名」と呼ばれるこの政策によって朝鮮人の姓名を奪われ、無理やり日本人に同化させられたとして韓国は日本を非難します。しかし、朝鮮人が日本名を名乗ることで日本人が何か得をしたでしょうか。実は、日韓併合直後の1911年に朝鮮総督府は総督府令第214号「朝鮮人の姓名改称に関する件」を施行し、朝鮮人が日本式姓名を名乗ることを禁止していたのです。朝鮮の伝統風俗を尊重すると同時に、日本人と朝鮮人を名前で区別できなくなることで発生するであろう不都合に配慮したものでした。

■日本名をくれないのは差別
 それが変更されたきっかけは、朝鮮人満州開拓団からの強い要望です。
朝鮮人に対する中国人や満州人の侮蔑意識が強く、朝鮮人の村々は略奪、放火、虐殺など甚大な被害を受けていた。日本名を名乗れば名実ともに日本臣民となり、侮蔑されなくなるというわけです。半島の朝鮮人の間でも「日本人になって三十年近く経つても日本式姓名を名乗れないのは朝鮮人への差別である」との不満が高まってきました。しかし朝鮮総督府警務部は日本への密航増加や治安上の問題を憂慮して反対し、内地人も 朝鮮人も平等であるという「一視同仁」の考えから賛成する文部部とすったもんだの議論の末、ようやく1936年に戸籍法改正に至ったのです。
 総督府では朝鮮の文化伝統を尊重する立場から「姓」を戸籍簿上に残し、新たにファミリーネームとしての「氏」を創設することにしました。これは朝鮮人が「姓」を変えることなく合法的に日本式の苗字を持てる妙案でした。さらに「せっかく日本人の苗字が名乗れるようになっても、下の名前が朝鮮式のままでは意味がない。
名前も変えさせて欲しい」という要望が多く、これに応えるために、裁判所に申請し正当な事由があると認められた場合に限り、手数料を払って名前を変えることも可能としました。
これによって「創氏改名」が実現したのです。
 この法律が施行されるや町や村の議会で「全員日本名とする」ことを決議するケースも続出しました。朝鮮人官吏が点数稼ぎのために日本名を勧めたこともあったようです。日本名を名乗らないものが朝鮮人の問で非難されることもあったでしょう。
改名を拒否して自殺したという話も残っています。しかしそれはあくまで朝鮮人社会内部での問題であり、日本側が強制したわけではありません。南総督は三度も「強制してはならない」という通達を出しています。
 また、日本名を名乗らなくても不利益を被ることがなかった証拠に、軍人や政治家、スポーツ選手のなかに朝鮮名を通した人たちもかなりいました。結果的に80%の朝鮮人が日本名の「氏」を選択したのは、当時世界五大強国の一つであった日本の臣民になることを望んだということです。朝鮮では本貫(一族始祖の発祥地)を同じくする同姓同士の結婚はできず、異姓を婿養子にすることもできない規定がありましたが、創氏改名に伴う民事令の改正で異姓の婿養
子を迎えることができるようになり、喜ばれたという事実もありました。

■あまりの歴史歪曲
六、「命を奪った」……
 日清戦争の原因となった東学党の乱から1945年までの50年間、日韓は戦争状態にあり、この期間中に残虐な日本軍は朝鮮人数十万人を虐殺したと韓国では教えています。
これが世界中で韓国だけに存在する「日韓五十年戦争」論です。この主張は、朴殷植が1920年に書いた『朝鮮独立運動之血史』という本がベースになっています。朴は上海臨時政府の2代目。大統領‘になった人物であり、この本は日本を攻撃するために悪意をもって著述したもので、日本の官憲や軍隊の蛮行がこれでもかとばかり書き連ねてあり、私もこれを読んであまりの偏見と事実歪曲、数字の誇張に絶句しました。しかし韓国ではこれが史実として教えられています。
 「東学党は、政府軍や日清軍と交戦すること9ヵ月以上にも及んだ。死者30万人を数え、民族史の上に古今未曾有の惨状を極めた」というのですが、日本軍の本隊が朝鮮半島に上陸したのは東学党の乱が朝鮮政府軍や清国軍隊によって鎮圧されたあとで、それまでは二個小隊しかいませんでした。また、「わが民衆を日露戦争の軍用務労働者として徴用しはじめ、これを拒否したものはロシアの間諜として罪におとしいれ、あるいは拘束し、あるいは拷問を加え、甚
だしくは斬殺した。」とあります。しかし日本で国民徴用令が制定されたのは1939年であり、1904年に他国の国民を徴用できるはずがありません。
 韓国の民族独立運動である「三一運動」を日本が残虐な手段で弾圧し、多くの朝鮮人を虐殺したと韓国は主張しています。1919年三月一日、京城(ソウル)の公園に宗教家33人が集まり、非暴力・無抵抗主義を標榜して「万歳デモ」に移ったのが始まりですが、これが瞬く間に全国的暴動に発展し、地方では農民たちが武装して村役場、警察・憲兵事務所、富裕地主等を襲撃する凶悪な行動へ転化しました。在朝鮮日本人に「日本へ帰れ」と投石して脅迫した事実はテロそのものであり、決して一般大衆から支持されたものではなかったのです。黄色人種間の分裂を図る欧米宣教師に煽られた朝鮮人キリスト教徒たちが暴徒と化し、これに近代化で特権を喪失した両班や旧軍人らの不満分子が乗っかって広がった破壊活動であり、警察や憲兵が鎮圧するのに武器を使用したのもやむをえざるところでした。
 『朝鮮独立運動血史』には日本官憲が各地で悪逆非道な弾圧を行ったと記されています。ところがそのほとんどは裏付けのない伝聞にすぎません。
唯一、西洋人が視察して公に伝えたとする水原岩里事件では婦女子が犠牲になったとしていますが、英国紙「モーニングーアドバタイザ」の京城特派員は「殺害された37名全員が男性」と記述しており(木原悦子『万歳事件を知っていますか』)、朴の創作が明らかです。

■日本の裁判の公正に感激
 実際の日本の対応は、金完雙『親日派のための弁明2』によれば送検された被疑者1万2668人、6417人が起訴され、一審で39167人が有罪判決を受けましたが、日本人憲兵6名と警官2名が虐殺され、多くの建物が放火されたにもかかわらず、死刑は1人もなく、15年以上の実刑もなく、3年以上の懲役がわずか80人で、しかも減刑と赦免で刑期が半分以下とな
りました。この時逮捕された三一運動の主要リーダー崔麟、李光洙、崔南善、朴煕道たちは日本の裁判のあまりの公正さに感激し、やがて強烈な日本ファンとなって、1930年代の言論界をリードすることになります。
 李朝末期における農民の生活は悲惨で、毎年多数の餓死者が出ていました。この改善が朝鮮総督府の最大の目標であり、一九二六年に「朝鮮産米増殖計画」が施行されました。併合当初、朝鮮の水田は八〇%が天水に依存していましたが、この計画により七〇%以上が天水依存から脱し、その他の改良と相まって朝鮮農業は飛躍的に発展しました。1910年に朝鮮全土で約1000万石程度だった米の生産高は1930年代には2000万石を越え、大豆と雑穀の生産高も
併合時より60%増えました。1931年に朝鮮総督となった宇垣一成は「朝鮮農山漁村振興運動」を展開し、朝鮮農民の意識を近代化に向けて大きく前進させました。1933年から38年にかけての農家収入は二倍に増えています。
 李氏朝鮮時代は劣悪な衛生環境のなかでしばしば10万人以上の死者を出す疫病が流行していました。西洋医学が普及しておらず、東洋医学のみに頼る状態でした。本格的に近代医療システムの導入が始まったのは併合後、朝鮮総督府が改善に取り組んでからです。京城大学附属病院、各道の慈恵病院が作られ、1910年には120万人に種痘が施されました。このような日本の努力の結果、朝鮮人の平均寿命は、1910年の25歳から1944年には45歳まで伸びました。日本が朝鮮人の寿命を伸ばし、命を救ったのが歴史的事実だったのです。

七、「資源を奪った」……
 韓国の中学校歴史教科書には「日帝は金、銀、タングステン、石炭など産業に必要な地下資源を略奪した」と書いてありますが、実際には朝鮮半島にそれほど魅力的な資源はありませんでした。石炭は無煙炭であり、オンドル部屋の暖房用練炭が主用途で、金、銀、タングステンなどは日本の会社が厖大な開発費を投じながら、結局大赤字でした。東南アジアから輸入したほうがよほど安上がりだったのです。収奪どころか、日本は逆に税金をつぎ込み、産業を育成
しました。大韓帝国が1906年に初めて作成した国家予算は748万円にすぎなかったのに対し、日本は1007年から1910年まで毎年2千万円から3千万円を補助しています。日本の国家予算の20%を越えたこともあります。併合後も毎年2千万円前後の資金を持ち出し、昭和14年になっても日本からの補充金と公債を合わせると全予算額の四分の一を占めていました。日本統治期間を通して日本政府が朝鮮半島につぎ込んだ金額は、累計で20億7千892万円、当時の一円が平均して現在の3万円とすると63兆円という天文学的な数字になります。また、大韓帝国時代から日本は鉄道建設に力を注ぎ、その総経費は現在の価値にして10兆円以上になります。民間資金もダム建設に投入され、有名な水豊ダムだけでもその額は現在の価値で3兆円近いものです。これによって生み出された豊富な電力を利用するために日本の多くの大企業が朝鮮北部に投資しました。
それによって朝鮮人の雇用を創出するとともに、付加価値の高い製品を日本へ移出することで朝鮮経済を豊かにしたのです。
 いまや韓国はG20に名を連ねる大国です。「日本への恨」を持ち続けて何の意味があるのでしょう。日本民族と韓民族が互いに誤解と偏見を克服し、それぞれの先人を誇りに思えるとき、初めて日韓間に互恵平等の関係が樹立できると思います。日の丸と太極旗が並び立ってアジアの繁栄と安定を築くことを願っています。

「この一冊で韓国問題まるわかり」 歴史通2014 5月号増刊から引用


松木國俊 元豊田通商ソウル事務所駐在員
1950年、熊本県生まれ。73年、慶応義塾大学法学部政治学科卒業。
同年、豊田通商株式会社入社。
80年~84年、豊田通商ソウル事務所駐在。秘書室次長、機械部次長を経て
2000年、豊田通商退社。01年、松木商事株式会社設立、代表取締役。現在に至る。
日本会議東京本部調布支部副支部長、
新しい歴史教科書をつくる会三多摩支部副支部長も務める。

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (23)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(23)日本官憲を代表して責を負う 平安南道「最後の知事」が残した回想録 2018.6.16

 人間の真価は、ギリギリの土壇場に追い込まれたときにこそ、問われるものであろう。とりわけ、国を背負って立つ政治家や高級官僚には「覚悟」が求められる。己の身をなげうって国を、国民を守り抜く覚悟があるのかどうか、だ。
 前の大戦末期には、その覚悟もないリーダーが、保身に走ったり、家族を先に逃がしたり、と醜悪な本性をさらけ出してしまった例が少なからずあった。
 一方で、“貧乏くじ”を承知で「死地」へと赴き、多数の住民を逃がした後に、凜(りん)として死んでいった最後の官選沖縄県知事、島田叡(あきら)のような人もいる。
 同時期に、日本統治時代最後の平安南道知事を務めた古川兼秀(かねひで)も、そんな覚悟を持った官僚ではなかったか。戦後、残された回想録にはソ連軍(当時)侵攻によって追い詰められた日本人を守ろうとして、あらゆる手段を繰り出した知事の苦闘が綴(つづ)られている。
 古川が平安南道知事に就任したのは終戦2カ月前の昭和20年6月。すでに敗色は濃厚であり、朝鮮北部の中心都市・平壌がある平安南道には不穏なムードが漂っていた。回想録にはこうある。《平安南道はキリスト教の本拠と言ってよい地方であって古くからその影響を受けて独立思想が激しい。しかも民族意識が強く凶暴性も秘めており大変だろうとは思った》
 実はこのとき、古川は殖産銀行理事や全羅南道知事になる可能性もあった。《もし家族の意見を聞けば、気候が良くて、内地(日本)にも近い全羅南道を希望したであろうが…、これが最後のご奉公である、とひとり深く期するところがあったのである》
 果たして、20年8月9日、ソ連軍は150万を超える大軍で、満州(現中国東北部)へ侵攻。南下を続け、24日には平壌へ先遣部隊が入ってくる。ソ連軍兵士や一部朝鮮人による非道な行為、国境からは満州の日本人避難民が雪崩を打って押し寄せ、平壌の混乱は頂点に達した。
◆幻の●晩植担ぎ出し
 この短期間で(ソ連参戦から終戦まで)古川は、何をやろうとしたか?
 第1に、平壌や周辺の日本人住民の生命・財産を守ること。そして、行政への朝鮮人有力者の登用。さらには満州からの避難民の引き受け、である。
 朝鮮人登用は敗戦後をもにらんで、スムーズに政権移譲を進め、日本人の生命・財産の保全を図るため、であった。古川は、そのターゲットを、抗日運動の中心人物だった民族主義者でキリスト者の●晩植(チョ・マンシク)に置く。軍部は反対したが、古川は「人心安定には不可欠」と軍を説得し、終戦間際から、●の担ぎ出し工作に取りかかる。
 《こういう事態にあっては、過去の経歴や現在の思想等(とう)を超越して、とにかく道内で最も信望のある朝鮮人の協力を求め、例えばその説話の形式でも民心宣撫(せんぶ)の工作を講じる…場合によってはこちら(日本人)が陰になっても構わない》
 「抗日」運動のリーダーであっても、行政の主導権を渡しても…それで日本人の安全が保障されるのであれば構わない、という捨て身の戦略である。
 だが、すでに日本の敗戦を見越していた●は、古川の誘いに乗らなかった。朝鮮人による建国準備委員会、人民政治委員会を結成し、11月には朝鮮民主党を結成して党委員長に就任。新生・朝鮮のリーダー候補とも目されたが、ソ連と対立し失脚してしまう。古川は共産主義者の玄俊赫(ヒョン・ジュンヒョク)とも秘密裏に接触するが、玄も暗殺されてしまった。

◆避難民は引き受けた
 一方、ソ連軍の侵攻を聞いて満州から南下してきた日本人避難民は増える一方だった。《8月12日に現地師団を通じて満州からの避難民を大量に引き受けてほしいとの申し出があり総督府に連絡したところ、「京城に収容能力がないから、平壌以北で引き受けてくれ、南下は困る。これは(日本陸軍の朝鮮)軍司令部とも打ち合わせ済みである」とのことであった》
 古川は怒り心頭に発したが、手をこまねいてはいられない。《私は義憤を感じ、平壌府民の同情心に訴えて受け入れることにした…当時平壌には3カ月分の食糧しかなく、越冬用の燃料も乏しかったが、朝鮮人有力者に依頼して、地方にある食糧や物資を搬入する努力をした。…平壌に3万人、(付近を走る)京義線沿線に1万人、(平壌南西の)鎮南浦に1万人、という受け入れ割り当てを決め、全部日本人家庭に入れることとした…》
 ソ連軍の平壌入城後の8月27日、行政権は、朝鮮人の人民政治委員会へと移譲される。占領下で命を失ったり、塗炭の苦しみを味わったりした朝鮮北部の日本人は数知れない。状況は、米軍占領下の南部よりもはるかに厳しかったが、古川がこれ以上、策を講じることはかなわなかった。9月7日、ソ連軍によって逮捕され、まもなくシベリアへ送られたからである。
以来、約5年間にわたって抑留生活が続く。実はこのとき、古川ら3人の幹部のみがシベリア行きの飛行機に乗せられたと思い込み、覚悟を決めた。回想録にはこうある。《私たちが日本官憲を代表して責を負い、(シベリアへ)送られたと思い、以(もっ)て瞑(めい)すべし、と考えていた》と。
 次男の武郎(たけお)(80)は思う。「父は、曲がったことが大嫌いだった。青雲の志を抱いて朝鮮へ渡り、私は、すごくいい政治をやったと思う。そして、最後までそれを貫いたんです」=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)
                   

【プロフィル】古川兼秀(ふるかわ・かねひで) 日本統治時代最後の平安南道知事(官選)。明治34年、会津の名刀鍛冶、古川兼定(かねさだ)の家に生まれる(12代兼定の次男)。旧制一高から東京帝大法学部卒、高等試験行政科に合格し、大正14年朝鮮総督府へ。黄海道、平安北道警察部長、総督府保安課長、図書課長、咸鏡北道、平安南道知事を歴任した。昭和20年8月、朝鮮へ侵攻してきたソ連軍に拘束され、シベリアに5年間抑留。昭和49年、73歳で死去。駐韓国大使を務めた前田利一(としかず)は女婿(長女の夫)にあたる。
●=恵の心を日に

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (22)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(22)まだまだある北の「日本遺産」 一企業がつくった興南工場 2018.6.9

 日窒(にっちつ)コンツェルンの野口遵(したがう)(1873~1944年)が昭和2年6月、朝鮮東海岸の興南に工場の建設を始めた頃、同地は20、30の家屋が点在する寒村だった。野口はここに化学肥料、金属、燃料、火薬、宝石などによる東洋一の化学コンビナートを建設。従業員約4万5千人、家族らを含めた総人口約18万人の近代都市を造り上げる。
 しかも、短期間でやり遂げねばならない理由があった。やはり、野口が進めた朝鮮北部の水力発電所群の大電力を消費するためには「セット」になる大工場群が不可欠となる。電力はためておくことができない。使い道がなければ“宝の持ち腐れ”になってしまうからだ。野口の回想だ。
 《赴戦江の発電所(昭和4年末第一期完工)が送電を始めるまでには何としてもここに工場を完成しなければならない。道路や鉄道の工事から始めなければならなかったのだが、冬の寒さの格別な北鮮で、昼夜兼行の大奮闘を続けたのである。昭和2年、工を起こしてから、わずか2年8カ月で…硫安の製造を始めることができた》(『今日を築くまで』から)
 ほぼ一私企業が造り上げた興南の近代都市ぶりを紹介してみたい。工場・住宅地などの敷地面積は、五百数十万坪。そこに、多数の従業員を住まわせる社宅、病院、学校、警察署、郵便局、図書館、運動・娯楽施設、供給所(スーパーマーケット)を造った。施設は、れんが造りで完全電化、水洗トイレ、蒸気によるスチーム暖房、朝鮮人従業員の社宅はオンドル(床暖房)を備えていた。
 「洋風の広い社宅はスチーム暖房で冬もポカポカ、お風呂には、いつも熱いお湯が流れ、電気炊飯器でご飯を炊いた。内地(日本)よりも、はるかにモダンで、いい生活でした」と元従業員の妻は懐かしむ。
隣接する興南港は、1万トン級の船舶数隻が停泊でき、約1万坪の大倉庫、50トンクレーンなどを備えた朝鮮屈指の良港になった。この港は後に、終戦直前に侵攻してきたソ連(当時)軍が“火事場泥棒”のごとく満州(現中国東北部)などから持ち去った日本の設備や機械類を運び去るのに、また、日本人をシベリアに抑留するのに、さらには、日本人が内地へ引き揚げるときにも使われ、明暗さまざまなドラマを目撃することとなる。
 ■徴用工に旅費まで支給
 昭和20年8月19日、ソ連軍は、朝鮮東海岸の元山に上陸、それを後ろ盾にして朝鮮人共産主義者らによる人民委員会が結成され、日鮮の立場が逆転する。殺害、暴行、略奪、レイプ…地獄のような行為が続くなかで、興南工場も接収され、日本人従業員は社宅から追い出された。
 こうした混乱の中でも律義な日本人は、朝鮮人徴用工に旅費まで渡して帰郷させている。ところが、不埒(ふらち)な朝鮮人警備係が旅費の一部を持ち逃げしてしまい、責任を問われた日本人の担当者は拘束され、やっと、自前で弁償して釈放されたという記録もあった。
 また、軍部などからは「敵に渡す前に工場を破壊せよ」という指示があったにもかかわらず、工場側は「われわれの事業は朝鮮に有益なものだ。戦争に負けても必ず必要とされる」と主張し、破壊しなかった。まさに“お人よし日本人”の面目躍如である。
 朝鮮人共産主義者の手に渡った興南工場はその後どうなったのか?
 5年後の朝鮮戦争(1950~53年)で工場設備の多くが破壊されたが、まもなく復興し、日本人がつくった水力発電所群とともに北朝鮮の化学工業発展の原動力となった。一部工場は、北朝鮮“自慢”の合成繊維「ビナロン(ビニロン)」工場になった。実際にはビナロンは戦前、京都帝大で朝鮮人と日本人研究者が共同で開発したものである。
現在、興南工場は「興南肥料連合企業所」として名前を変え、今も窒素肥料などを生産する主力工場であり続けているが、《1990年代の大規模な設備破壊と事実上の放置により、実際の生産能力は大幅に低いものと推定される》(韓国産業銀行統計)。
 ■日本時代の製鉄所や鉱山
 日本統治時代に朝鮮北部に建設され、戦後北朝鮮の鉱工業発展に寄与した施設は他にもたくさんある。
 現在も、同国最大の生産能力を誇る総合製鉄所「金策製鉄連合企業所」(東海岸の清津市)は、日本時代の日本製鉄清津製鉄所が母体だ。そこへ、鉄鉱石を供給する約100キロ離れた「茂山鉱山」は戦前、三菱鉱業が開発している。さらに、北朝鮮第2の製鉄所である「黄海製鉄連合企業所」や「城津製鋼連合企業所」も、日本時代の製鉄所から発展した。
 金山の開発も進んだ。朝鮮全土にある金山は、19世紀末の大韓帝国時代に、欧米人によって始まった。日韓併合後に朝鮮の産金額は順調に増加し、昭和14年には最高の約31トンを記録している。金産出には多量の電力が必要で、山深い金山まで送電線を張り巡らさねばならない。このため、朝鮮総督府は巨額の公債を発行して予算を付け、「産金送電線」と変電所を朝鮮各地に建設していった。その普及が、奥地の集落にまで電灯をともしてゆく。さらに、戦後、朝鮮戦争の勃発によって、北朝鮮から韓国への送電がストップされた際にも、韓国内の送電線ネットワークが最大限有効に機能し、電力危機緩和に貢献したという。
昭和40年の日韓国交正常化に向けた日韓会談の中で、当初韓国側は、日本統治時代に産出された金や銀の代金返還を請求権として求めた。だがそれは、日本人が資本、技術、労力を投入して開発し正当な取引としての商行為であり、不法に略奪したものではない。そして、日本時代の鉱工業開発が奥地にまで電気を普及させ、戦後の経済発展につながったことはいつの間にか忘れられている。
 他にも、銀、銅、石炭など日本統治時代に開発された北朝鮮の鉱山は今も多くが稼働中だ。だが、設備は老朽化に任せ、電力も決定的に不足し、稼働率は平均で30%程度だという。=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (21)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(21)日本人が築いた「電力遺産」を食い潰す北朝鮮 2018.6.2

 衛星写真で今の朝鮮半島をとらえたら、「真っ暗」な北朝鮮と「煌々(こうこう)と明るい」韓国の対比が、くっきりと表れる。
 2014年の発電設備容量は北朝鮮が約725万キロワットで韓国のわずか約7・8%でしかない(韓国産業銀行統計)。実際の総発電量で比べると、さらに減って韓国の4・3%(2013年)にとどまる。首都・平壌では多少の改善も伝えられるが、北朝鮮の電力不足は相変わらずのようだ。
 ところが、日本統治時代の朝鮮北部は“発電所銀座”とでも呼びたくなるほどの「電力王国」だった。大正末期以降、日本人は、人が容易に立ち入れない急峻(きゅうしゅん)な山地に奥深く分け入り、赴戦江、長津江、虚川江といった川に、次々と巨大な水力発電所を建設していったからである。
 中でも、満州国(現・中国東北部)と朝鮮の国境を流れる鴨緑江に水力発電用として建設された「水豊ダム」は、ケタ外れのスケールだった。高さ約106メートル、幅約900メートル、総貯水容量116億立方メートル、人造湖の表面積は、琵琶湖の約半分に相当した(※昭和38年完成の「黒部ダム」は、高さ186メートル、幅492メートル)。
 昭和16(1941)年から電力供給を始めた水力発電所の発電機は、1基あたりの出力が、世界最高(当時)の10万キロワット。それが最終的に7基(最大出力計70万キロワット)備えられ、朝鮮と満州国に供給された。
 水豊の巨大さは、当時の内地(日本)の水力発電所の規模と比べると、よく分かる。1発電所で出力が8万キロワットを超えるのは、信濃川(16・5万キロワット)▽千手(12万キロワット)▽奥泉(8・7万キロワット)▽黒部川第3(8・1万キロワット)の4カ所しかなかった。それが同時期の朝鮮では、水豊のほかにも、虚川江第一、長津江第一、赴戦江第一など6カ所も完成していたのである。
朝鮮北部の発電力は終戦時に計173万キロワット、工事中の発電所を加えると、300万キロワットを超える。発電コストは内地より安く、廉価な電力が、京城や平壌などの主要都市や、やはり朝鮮北部に建設された一大化学コンビナートの興南工場群に供給されていった。
 ■急伸した電灯普及率
 京城の電気事業は、日韓併合前の明治32(1899)年、李朝王家の保護下で米国人企業家がつくった漢城電気(後に韓美電気)によって営業がスタートしている。だが、高額の電気代に加えて設備費も徴収されたため、契約者は京城約5万戸のうち、わずか493戸にすぎなかった。
 経営不振の同社の電気事業を、日本資本の日韓瓦斯(ガス)電気(後に京城電気)が路面電車事業とともに買収し、一般家庭にも広く電気を普及させてゆく。
 昭和5年には京城とその周辺で、約9万5千戸、14年には約14万8千戸と急増。朝鮮全体では、16年度末の主要21都市の電灯普及率が66%に達し、全土でも17・4%になっている。3年度末の数値が6%だったことを考えると、13年間で電灯普及率が約3倍に伸びたことが分かる。
 もっとも、主要21都市の日本人家庭の普及率が、ほぼ100%だったのに対し、朝鮮人家庭は約23%にとどまっており、日鮮間に格差があったことも、否定はできないが…。
 朝鮮北部の「水力資源」に目をつけ、朝鮮総督府の認可を受けて、周囲には無謀とも思われた発電所群の建設に乗り出したのは日本の民間の経営者、技術者であった。日窒(にっちつ)コンツェルンの創始者、野口遵や、久保田豊、森田一雄といった先駆的な技術者たちである。
彼らの慧眼(けいがん)は“逆転の発想”というべきユニークなアイデアに表れていた。朝鮮北部の大河川は、おおむね西部に流れており、勾配が少なく、冬季には渇水が続く。このため水力発電には不適だと考えられていたのを、「西流する河川をせき止め、逆方向の東に向け日本海側へ落とす」という発想で、不可能と思われた巨大水力発電所を次々と建設していったのである。
 電力の用途も“逆転”だった。100万キロワット単位の電力は、当時の一般需要(昭和初期の朝鮮全土の電力需要は数万キロワット)をカバーしてあまりある。そこで野口は昭和2年、朝鮮窒素肥料会社を設立、電力の活用先として、先に触れた興南工場群を建設してゆく。《むしろ中心は大肥料工場の建設にあり、電力開発は、興南工場の付帯事業とすらいっても過言ではあるまい》(『野口遵』から)と。
 ■発電所は今も稼働中
 野口らが建設した水豊ダムの発電所は今も稼働中だ。現在の出力は80万キロワット、北朝鮮発電の「主力」である水力発電所の中でも最大を誇り、供給電力は中国と折半している。関係者によれば、発電機を製作した日本の重電メーカーが戦後も、保守・修理にあたっていたが、今は経済制裁のために、それも難しくなり、老朽化による稼働率の低下も見られるという。
 虚川江、長津江、赴戦江の発電所も「現役」だ。これら日本統治時代以外の水力発電所も、1960年代以前にソ連(当時)・東欧の支援で建設されたものが主で《設備は老朽化し、エネルギー管理技術も遅れている(略)1990年代半ばの大洪水により、水力発電設備の85%が損傷を受けたとみられる》(韓国産業銀行統計)という惨状だ。これでは北朝鮮が「電力遺産」を“食い潰している”といわれても仕方がない。
朝鮮に戸籍を移してまでその近代化に尽くした野口は昭和19年、70歳で亡くなる。死後、寄付した全財産は、生涯をささげた化学研究と、朝鮮留学生のための奨学金に充てられた。=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)
                   

【プロフィル】野口遵(のぐち・したがう) 明治6(1873)年、石川県出身。帝国大学工科大学(現・東京大工学部)卒。日本窒素肥料(同チッソ)を中核とする日窒コンツェルンを一代で築き、鮎川義介、森矗昶(のぶてる)とともに、財閥系ではない「財界の新三羽烏(がらす)」とうたわれる。朝鮮へ進出し、朝鮮北部(北朝鮮)の水力の電源開発や化学コンビナート・興南工場建設などに力を尽くした。同コンツェルンの系譜に連なる企業として旭化成、積水化学工業、信越化学工業などがある。

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (20)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(20)借金を返さない北朝鮮 理不尽なカネの要求は拒否すべし2018.5.26

 朝鮮半島の動きに関して日本の出遅れを懸念し前のめりになっている向きが気になって仕方がなかった。ここにきて米国側が6月の米朝首脳会談の中止を発表するなど不穏なムードも出てきたが、それまでは経済界でも日朝国交正常化をにらんで小泉純一郎首相(当時)が訪朝し、日朝平壌宣言に調印した平成14年以来の「好機が来た」と期待が膨らんでいたという。

 少し頭を冷やした方がいい。前回も書いたが、北朝鮮が先に過去の悪行を認めてわび、日本人拉致被害者を帰し、核開発を完全にやめ、改革開放経済にも舵(かじ)を切るというならば、南北統一も、日本との国交正常化もどんどん進めればいい。

 ただし、日本に対する「理不尽なカネの要求」には断固として拒否の姿勢を貫くべきだ。日朝平壌宣言には、国交正常化の際に経済的な支援を日本が行うことや、日朝双方の請求権の放棄方針などがうたわれている。昭和40年の日韓国交正常化の例を踏襲したものであろうが、慰安婦問題や徴用工問題をめぐって、いまだに「カネの要求」がやまないではないか。

 その轍(てつ)を踏まないために過去から現在の「事実」をしっかりと踏まえておくべきだろう。まずは現在の北朝鮮への「貸し」についての話から始めたい。

 戦後の日本の商社やメーカー側による、北朝鮮へのプラントや機械類の輸出は、1970年代後半にピークを迎える。だが、北が83年に起こしたラングーン(現ミャンマー・ヤンゴン)の爆破テロ事件で、国際社会から孤立を深めたことを逆手にとって、それ以来北朝鮮はビタ一文、支払いをしなくなった。

 関係者によれば、北の未払い額は、元本だけで約400億円。利子や延滞分を合わせると、計2200億円に上る、と日本側は試算している。日本の関係機関が毎年6月と12月末に、郵送とファクスで「請求書」を北側へ送り続けているが、返済どころか、受け取ったという返事すらなく、ナシの礫(つぶて)だという。
平成14年の際には、日本の経済支援として、1兆円規模という話もささやかれていた。もしも、国交正常化交渉を行い、政治決着を図るのならば、この「未払い分」相当の減額を考慮するよう日本側ははっきりと主張すべきだろう。

 ■久保田発言の意外な反応

 一方、韓国との国交正常化へ向けた交渉は何度も暗礁に乗り上げて中断を繰り返し、昭和40年に妥結するまで14年間もかかった。日韓双方の請求権問題。いわゆる「李承晩(イ・スンマン)ライン」内での日本漁船の拿捕(だほ)・漁民の抑留。北朝鮮への帰国事業など多くの課題が持ち上がったが、双方の対立は結局「日韓併合」に対する評価の違いに行き着く。

 第3次会談(昭和28年)での「久保田発言」は象徴的な例だろう。互いが相手側にある財産の請求権を主張し合う中で、日本側首席代表の久保田貫一郎(外務省参与)が朝鮮統治における日本の貢献を主張したことに対して、韓国側が「妄言だ」と猛反発、会談は決裂した。

 興味深いのは、当時の日本国内での反応である。“後ろから弾が飛んでくる”ような反発は、さほどなく、むしろ、韓国側への批判が少なくない。当時は終戦からまだ10年たっておらず、日本統治の実相を知る国民が多かった。さらに、韓国が日本の領土・竹島を含めた李ラインを一方的に設定した上、武装した韓国の警備艇が丸腰の日本漁船に銃撃を加えたり、片っ端から拿捕・抑留したりしたことに日本の世論は沸騰していたのである。

 朝日新聞の記事を追ってみよう。10月22日付朝刊社説は「遺憾なる日韓会談の決裂」の見出しで、決裂の経緯に触れた上、《(日本)政府声明にもある通り、韓国側の態度には、「ささ(些々)たる言辞をことさらに曲げ会談全般を一方的に破棄した」ものとみられる節があるのは誠に遺憾である》とし、会談再開で日本人漁民問題の解決を図ることこそが喫緊の課題だと主張している。
翌23日付朝刊では、「韓国のいい分は無理ではないか-財産請求権の問題」とする国際法の東大法学部助教授・高野雄一の寄稿も掲載。朝鮮内の日本資産について終戦後、米軍政が接収し、韓国に譲渡したという韓国側主張に対し国際法上、無理があるのではないか、と疑義を呈した。同じページで「右翼進出を憂(うれ)う」とした池島信平(文芸春秋編集長)の談話も載せているところが朝日らしいとはいえるが…。

 ■反日沸騰は80年代以降

 日韓会談に携わった関係者によれば、当時の韓国側代表には、日本留学組や京城帝大出身者も多く、一応通訳は同席させていたが、「日本語で話した方が早い。『慰安婦』など理不尽な問題を持ち出す人も少なかった」と振り返る。「反日」が韓国で沸騰するのは“日本発”の歴史教科書問題などが起きた1980年代以降である。

 日韓会談で、日本側がこだわった朝鮮に残した財産の請求権問題は結局、政治的判断で撤回された。だがもし日朝国交正常化交渉を始めるならば、日本統治時代に残した資産の事実は少なくとも念頭に置いておくべきだ。GHQ(連合国軍総司令部)の試算では、日本が朝鮮の北半分に残した総資産額(終戦時)は約8兆8千億円相当に上る。

 これらには、朝鮮北部の奥深い山に分け入り、ダムや発電所、鉱山、工場を築いていった日本人の血と汗が染みついている。それを次週に書く。=敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)

【用語解説】久保田発言
 昭和28年10月15日の第3次日韓会談の財産請求権委員会で、韓国側の「日本側が36年間の蓄積を返せというのならば、韓国側としても36年間の被害を償却せよというほかない」という発言に対し、日本側首席代表の久保田貫一郎が「日本としても朝鮮の鉄道や港をつくったり、農地を造成したりしたし、大蔵省は当時、多い年で2000万円も持ち出している」と主張。反発した韓国側が「あなたは日本人が来なければ韓国人は眠っていたという前提で話しているのか」と返すと、久保田は「私見としていうが、日本が行かなかったら中国かロシアが入っていたかもしれない」と発言した。

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(19)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(19)
イムジン河と北の国歌 「日本人は統一に反対」の嘘 2018.5.19

 「日本人はわれわれの統一に反対なんだろう」
 「えっ?」
 「だって、(南北統一で)強力なライバルが誕生すると困るじゃないか」
 韓国に住んでいるとき、よく、こんな話を韓国人から聞かされた。
 先月末に行われた約10年ぶりの南北首脳会談。北朝鮮の「悪行」を忘れたかのような友好ムードを演出し、今度こそ悲願の南北統一が実現する、ノーベル平和賞ではないか、と世界中、大盛り上がりである。
 ところが、ネット上では相変わらず、韓国から「日本は統一に反対!」の声が飛び交っている。曰(いわ)く、「核・ミサイルを持った統一朝鮮が怖い(非核化するのでは?)」「南北が敵対していた方が都合がいい」「統一のコストを日本が負担させられる」(これはあるかも)。世論調査などを見ていると、むしろ韓国の若い世代の方が統一に慎重な気がするのだが…。
もちろん、北朝鮮主導の赤化統一や在韓米軍撤退論、カネをめぐる理不尽な要求には断固反対すべきだ。ただ、基本的に統一によって東アジアが安定するのは日本の安全保障上も好ましい事態だし、北が“開かれた国”となって拉致被害者を帰し、改革開放経済の道を歩むのならば、多くの日本人は反対しないだろう。あるいは、さほど関心がないか、だ。
 心情的な面もある。南北分断が、米ソ(当時)の戦後戦略によって生まれたものとはいえ、日本が戦争に負けなければ、その後、分断のない形での独立になったかもしれない。分断の悲劇をわがことのように痛み、大衆運動や文化・芸術に込めてきた日本人はこれまでも星の数ほどいた。
■分断の悲劇痛む若者
 『イムジン河(がわ)』という名曲がある。半世紀前の昭和43(1968)年2月、加藤和彦、きたやまおさむ、はしだのりひこ、の「ザ・フォーク・クルセダーズ」がレコードを出そうとしたが、朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)の抗議で発売中止になった歌だ。
 イムジン河(臨津江)は北緯38度線を横切って「北」から「南」へ流れる川。その歌詞は、川の清流や水鳥に、引き裂かれた民衆の悲しみを託し、いつの日にか…と統一を願う内容だ。
 3番までの歌詞のうち、1番は、メンバーの友人だった松山猛(たけし)(71)が京都の朝鮮学校に通う友人の在日コリアンから教わったもの。2、3番は松山のオリジナルである。多感な若者がまさしく、わがことのように「分断の悲劇を思って」書いたのだ。
 ではなぜ、朝鮮総連が抗議したのか?
 この歌はもともと、北朝鮮で1957年につくられた。題名は「リムジン江(ガン)」(臨津江の北朝鮮風発音)。歌詞は、朴世永(パク・セヨン)(1902~89年)という南から北へ渡った有名な詩人が書いた。彼にとっては、(分断のために)今は帰ることができない懐かしい「故郷(南)」を思う歌だ。
だが、フォーク・クルセダーズのメンバーやレコード会社は“その出自”を詳しく知らず、レコード発売の際に「朝鮮民謡」とクレジットした。それを知った総連側が作詞作曲者名と北朝鮮の正式国名の2つをクレジットすることを求めて抗議。政治問題化を懸念したレコード会社と親会社の家電メーカーが発売中止を決めたのが真相である。
 朴が書いたオリジナルの歌詞は2番までだが、実は南北統一を願う「幻の3番」があったという。日本の「イムジン河」も長いオクラ入りから2000年代に復活。今や“アジアのイマジン”と呼ばれ、日朝韓の多くのアーティストによって歌われている。
■北朝鮮への巨額の“貸し”
 この歌の作詞者・朴世永が、北朝鮮の国歌である「愛国歌」(1947年、作曲は金元均)の作者でもあることは日本ではあまり知られていない。
 朴は、日本統治時代の京城(現・韓国ソウル)で育ち、左派色が強い「朝鮮プロレタリア芸術家同盟」に参加、終戦後の46年に越北し、北朝鮮の文学家同盟書記長などの要職についた大物作家だ。「愛国歌」や「リムジン江」のほか、国歌の座を争った「輝く祖国」「椿の花」など、作詞した歌は数え切れない。
 「リムジン江」だけでなく、朴の書く歌詞には、南の故郷や残してきた母親への強い思いがにじんでいる。同曲の作曲者である高宗煥(コ・ジョンファン)(1930~2002年)もまた南から北へ渡った人だった。その制作秘話を「(朴世永先生と)いつしか故郷(南)の話になり、残してきた家族への思いを、リムジン江に託して歌を作ろうということになったのです」と関係者に打ち明けている。
朴が書いた北の国歌には、時代が早い(終戦後2年)こともあって、北の歌に多い金一族を賛美するような内容にはなっていない。朝鮮の美しい山河や歴史をたたえる歌詞だ。
 韓国にも「国歌」と位置づけられる別の「愛国歌」があり、南北統一の暁には、韓国とともに、新たな「国歌」を作ろうと願う人たちがいることは、以前書いた通りである。
 北朝鮮が過去の悪行をわび、本当に非核化を行うのであれば、南北統一に反対する理由などない。あるとすれば、統一を望まない勢力によるためにするウソであろう。「リムジン江」を書いた泉下の朴世永も、「イムジン河」を歌う多くのアーティストたちも同じ思いに違いない。
 ただし、“バスに乗り遅れるな”とばかりに日朝首脳会談や国交正常化を急がせる動きは要警戒だ。拉致問題など北朝鮮に解決してもらわねばならない課題が山積していることに加えて、日本統治時代などに巨額な“貸し”がある。そのことは次週に書きたい。=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(18)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(18)
 キリスト教と音楽家の平壌 金日成や永田絃次郎の足跡 2018.5.12

 北朝鮮の首都・平壌の牡丹峰地区に、パリの凱旋門よりも10m高いのが自慢の巨大なモニュメントがそびえ立っている。「1945」の数字は、初代最高権力者・金日成がこの街へ凱旋してきた年を指す。
 終戦の年の10月14日、金が初めて朝鮮の民衆の前に姿を見せたことは以前(11回)書いた。その場所がこの近くにあった平壌府の総合運動場で、「実際に金の演説を聴いた」という男性(88)がいる。当時は平壌の旧制中学3年生、15歳の朝鮮大少年たった。
 「朝鮮人の住民組織から呼集がかかったんですよ。『キムーイルソン将軍の凱旋演説会』が行われるから皆、参加するようにとね。運動場には公設プールがあってよく水泳を習いに行った場所だった。会場には、
数千人から1万人近い聴衆が集まっていたかな」
 聴衆は、伝説の抗日将軍「キムーイルソン」の登場を心待ちにしていた。ところが演壇に上がっだのは、30歳そこそこの若い男。 
「トヨーハダ」。平壌がある平安道の方言で、おかしいぞ、というささやきが聴衆から漏れたかと思うと(次第に会場はざわつきはじめ、「カチヤ(偽物)ヤ」の叫び声が・・・  「(金日成は)日帝の支配からの解放や新たな国づくり、ソ連(当時)軍の功績などについて話したと記憶しているが、どうみても若すぎるって周囲の大人らが騒ぎ出したんだ」
■「芸術好き」金一族
 平壌は、李朝時代から政治・経済の中心都市だった京城(旧漢城)とはいっぶう違った文化を持つ街だった。李朝末期の19世紀からキリスト教が浸透し、欧米の宣教師によって多くの教会やミッションスクールが
つくられ。”東洋のエルサレム”と呼ばれたことも。平壌生まれの金日成の母親もキリスト教徒で、その父親(金日成の母方祖父)は、プロテスタント長老派の牧師だったという。
 その長老派が、1897年に平壌につくった「崇実(スンシル)学堂」という学校がある。後に、中学校、専門学校(ともに旧制)へと発展、有能な多くの朝鮮人の若者を送り出すことになるが、とりわけ、音楽分野には逸材が多い。韓国の「国歌」と位置づけられる愛国歌を作曲した安益泰は、大正7年に崇実中学に入学、3年後に東京の正則中学に移っている。さらには、韓国初となる高麗交響楽団の創殼者、玄済明や平壌交響楽団の前身・中央交響楽団をつくった金東振。
 そして、「日本一の美声」とうたわれたテノール歌手の永田絃次郎(本名・金永吉、1909~85年)も崇実の出身だ。永田は昭和3年、内地の陸軍戸山学校音楽隊の軍楽生徒として入学。首席の”銀時計組”で卒業した後、11年、オペラ・蝶々夫人でソプラノ・三浦環の相手役(ピンカートン役)に抜擢された。戦後は藤原歌劇団などで活躍し、35年、帰国事業で北朝鮮へ渡っている。このとき、帰国事業の「広告塔」として、永田に目をつけたのが、”同郷・同世代”の金目成だった。
 実は、金の一族は3代にわたって「芸術好き」である。孫の朝鮮労働党委員長・金正恩が平昌五輪を利用して、芸術団を派遣したことは記憶に新しいが、祖父は北朝鮮建国直後から「世界一流の音楽家を集めよ」
と大号令をかけ、国立の交響楽団・合唱団をいち早くつくっている。その長男・金正日も、映画や音楽、演劇に入れ込み、妻たちは女優や舞踊家だった。
 永田にあこがれ、平壌から後を追うように日本に渡ってきたのが、紅白歌合戦に3度出場した人気歌手の小畑実(1923~79年、本名・康永詰)である。苦労を重ねた末、小畑は「湯島の白梅」「勘太郎月夜唄」などのヒット曲を次々に飛ばし、スターの座に駆け上がってゆく。
■和風の家にオンドルも
 日本人にとって平壌はどんな街だったのか。日本統治時代末期の昭和17年の人口統計によれば、平壌府の大口約39万のうち、日本人は約3万2千人。
 祖父の代に朝鮮へ移り住んだ大潭昭夫(87)は6年、平壌生まれ。終戦時は平壌一中(旧制)の3年生、同級生には、陸軍中将の息子や父親が高級官吏である朝鮮人もいた。自宅は和風で畳だが、朝鮮風のオンドル(床暖房)の部屋もあった。冬になるとスケートを楽しみ、凍った大同江(平壌の中心を流れる川)を滑ってゆくと中学まで5分で行けたという。
 「自宅のすぐ近くが朝鮮人の集落でよく一緒に遊んだ。とにかく”同じ日本人”という感覚しかないんだなあ。隣の病院の女医さんも朝鮮人でキレイな人だった。向かいは、おいしい平壌冷麺の名店でしたね」
 戦争が始まると、中学生も空襲警報などの連絡要員などとして動員され、大澤は「賑町」という遊郭がある地域の担当となった。
 「朝鮮人や日本人の娼妓がいて、よくお茶を飲みにいって、お喋りしましたよ。みんな明るくてね」
 思い出の中には、朝鮮人と反目したり、ましてや「少女を強制連行して慰安婦にした」などという行為はまるで出てこない。
 後年、大洋が観光ツアーで平壌を再訪したとき、懐かしい街はすっかり様変わりしていた。そこで不思議な出来事に巡り会う。「われわれのグループが食事中、ひとりの女性に、よど号乗っ取り事件の犯人と名乗る男が接触しできた。
 『子供を日本へ帰したいので身元引受人になってもらえないか』という。怖くなってテーブルから離れましたけどね…」
 空港から市内へ向かう道ではあの巨大なモニュメントを通った。ガイドは、「金日成将軍様が凱旋されたところに建てられたものです」と恭しく説明したという。川敬称略、土曜掲載
  (文化部編集委員 喜多由浩)

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【歴史戦・第20部 孔子学院(1)】

【歴史戦・第20部 孔子学院(1)】
「文化スパイ機関」発言で解任 「中国」を発信 日本には14私大 管轄あいまい「あまりに無防備」2018.4.11 

 世界遺産に登録されている京都・金閣寺から十数分歩くと、閑静な地域の一角に白い大きな建物が姿を現す。戦争や平和をテーマにした展示をしている「立命館大学国際平和ミュージアム」だ。2階に上がると、「立命館孔子学院」の看板が目に入る。
 室内には赤提灯(ちょうちん)など中国の伝統的な装飾が施され、壁には平成19年に中国の前首相、温家宝が立命館大を訪れた際の写真パネルも掲示されている。
 「ご自由にお持ち帰りください」との案内とともに、中国共産党の機関紙「人民日報」(海外版)の束が置かれている。
 孔子学院は中国語と中国文化教育を世界に普及することを目的として、中国政府が海外の教育機関内に設置している非営利教育機構で、16年に始まった。
 中国では1970年代前半、文化大革命中の「批林批孔(林彪と孔子を批判する)」運動で、孔子を始祖とする儒教は大打撃を受けた。最近では中国文化のシンボルとして利用しており、学院にも「孔子」の名前を冠したとみられる。
設置には、日本の大学を運営する学校法人と中国教育省傘下の国家漢語国際推進指導小組弁公室(漢弁)との調印が必要で、日本の学校法人とパートナーとなる中国側の大学との共同運営の形を取る。カリキュラムや教材は孔子学院が提供し、資金は中国政府と日本の学校法人が折半するのが原則という。
 講師は中国の大学から派遣され、講師の給与は漢弁が支給する。中国の大学への留学支援のための奨学金制度もある。
× × ×
 現在、日本には14の私大で「孔子学院」が設置され、小中高などには「孔子課堂」「孔子学堂」が8カ所ある。
 日本の「第一号」にあたる「立命館孔子学院」は、学校法人立命館と北京大の共同運営で17年10月に設置された。地域貢献、国際交流、国際相互理解への寄与を目的とし、約300人が中国語などを学ぶために通っている。
 学院長の宇野木洋は「孔子学院を中国の出先機関と見る方もいると思う。しかし、僕らは中国とは切っても切れない関係の中で、相互関係は絶対に必要だと考えている」と語る。
 それでも、孔子学院に対しては中国共産党思想の政治宣伝や中国政府のスパイ活動に利用されているとの指摘は絶えない。米連邦捜査局(FBI)長官、クリストファー・レイは2月の上院情報特別委員会で、孔子学院が「捜査対象」になっていることを明かした。
日本でも22年に大阪産業大の当時の事務局長が組合との団体交渉で孔子学院について「(中国の)文化スパイ機関」と発言し、職を辞す事態となった。
 元事務局長は産経新聞の取材に「インフォーマルな組合の話し合いの時に、孔子学院に関してインターネットなどで流布されていたことを話したら騒がれた」と語った。役職だけでなく、大学まで追われることになったため、元事務局長は大学側を提訴、裁判は和解となった。元事務局長は「(当時)言った通りのことにはなっている」と語った。
 大阪産業大は元事務局長の解任の理由について「(他にもいろいろあったと思う」とだけ語り、詳細は明かさなかった。
× × ×
 日本にある孔子学院はどのような活動をしているのか。学院関係者は「学生や地域住民を対象に中国語教室を中心としたカルチャースクールのようなもの」と口をそろえて説明する。
 中国語のほか太極拳、書道、ギョーザやちまきといった中国の家庭料理などを教えている。
 昨年1年間をみても、春節を記念した「針灸特別講座」(神戸東洋医療学院孔子課堂)、「日中キッズふれあいコーナー」(福山大学孔子学院)、「全日本青少年中国語カラオケコンテスト」(桜美林大学孔子学院が上海外国語大学で主催)などのイベントが開催された。
10月には大阪市で、「2017年度日本孔子学院協議会」が開催され、在日中国大使館の公使参事官、胡志平が2018年の日中平和友好条約締結40周年をとらえた孔子学院の発展に向けた大使館からの協力について述べた。
 仮に孔子学院の狙いがカルチャースクールのようなものだったら、教育機関との共同運営といった仕掛けは大規模すぎる。
 岡山商科大孔子学院(岡山)の学院長、蒲和重は、「(パートナー校の)大連外大は優秀な生徒を派遣してくれる。それなら、関係を保つためにも、開設していた方がいい」と説明する。
 日本国内では18歳人口が減少して大学進学者が減っていく「2018年問題」に直面している。中国からの学生派遣や資金提供は大学にとって運営上プラスになっている面もある。孔子学院を設置したある大学の担当者も「一番のメリットは、中国の学生の受け入れだ」ともらす。
 日本の孔子学院は現在のところ閉鎖の動きはないが、過去には平成26年に福山銀河孔子学堂(広島)が閉鎖した。運営していた銀河学院(同)の関係者は「ニーズがなく、希望者が少なかった。中国からの補助も出ていたが、わずかなもので、ほとんどこちらの持ち出しだった」と語る。
中国の文化を普及し、相互理解を深めることを目的としている孔子学院だが、中国公船や航空機は尖閣諸島(沖縄県石垣市)周辺の接続水域や、防空識別圏への侵入を繰り返している。
 「立命館孔子学院」の学院長、宇野木洋は「そういうことを打破し、等身大の中国人を理解する意味での相互理解を深める必要がある。その役割を孔子学院は果たせると思っている」と強調した。
× × ×
 日本ではどの省庁が「孔子学院」を管轄しているのか。文科省国際企画室によると、孔子学院は大学間での取り組みであり、設置や認可の届け出は必要ではないという。
 文科省で所管する部署を問い合わせたが、電話をたらい回しされるだけだった。文科省だけでなく外務省にも問い合わせたが、所管部署はなかった。
 自民党衆院議員、杉田水脈は2月26日の衆院予算委員会分科会で、日本国内での孔子学院の設置数を質問した。
 文部科学省高等教育局長の義本博司が答弁した。
 「孔子学院のホームページおよび日本孔子学院協議会の本年度の幹事校、関西外語大のホームページによると、平成29年12月31日現在、日本には14校の孔子学院があるとされているところでございます」
杉田は「ホームページによるという答弁だったが、(文部科学省からの事前説明で)きちっと把握をしている部署がないということだった。あまりにも無防備である。文部科学省でしっかりと対応してほしい」と苦言を呈した。
× × ×
 2004(平成16)年から始まった孔子学院(孔子課堂も含む)は昨年末の段階で、世界138カ国(地域)に約1600カ所の拠点を置くようになった。最も多いのが米州で735拠点、このうち米国には611拠点がある。次いで欧州480拠点、アジア219拠点、大洋州120拠点と続く。
 中国当局は普及を急ぐため、時間がかかる政府間協定ではなく、自由裁量で開設できる「大学間協力」という方式を採用している。
 外国人の中国語教師育成にも力を入れており、大学卒業後、3年間は海外で中国語教師として働くことを条件に、奨学金などを提供している。こうした好条件に各地の若者が飛びつき、5年間で約1万人の教師を輩出している。
 ある公安関係者は「多くの国が孔子学院に対する懸念を共有しているが、効果的な対策を取れていないのが現状だ」ともらす。

 中国の経済力増大とともに、世界各地に影響力を及ぼすための手段として増え続けている孔子学院。一方で欧米などでは警戒感も急速に広まっている。各地の状況を報告する。(敬称略)

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【歴史戦・第20部 孔子学院(2)】

【歴史戦・第20部 孔子学院(2)】
欧州の沿線国で関連行事急増 一帯一路に「奉仕」求められ 2018.4.12

 昨年12月12、13の両日、中国の古都・西安で「第12回孔子学院大会」が開かれた。13日の中国共産党機関紙、人民日報のウェブサイトによると、「協力を強め、イノベーションによる成長を促し、人類の運命共同体の構築に貢献する」をテーマとした大会には、世界約140カ国・地域の大学学長や孔子学院代表ら2500人近くが出席した。
 挨拶に立ったのは、孔子学院本部理事会主席を務めていた副首相(当時)の劉延東。孔子学院について「言語交流を紐帯(ちゅうたい)として親善増進の懸け橋、協力・ウィンウィンの推進装置となるべく努力する必要がある」と語り、「人類運命共同体の構築に新たな貢献を」と呼びかけたという。
 中国政府は、「人類運命共同体」と国家主席、習近平が提唱する広域経済圏構想「一帯一路」を重ね合わせる。中国の影響力や思想を世界に広げるための機関と位置付けられる孔子学院は、その最前線で「一帯一路」への“奉仕”を求められている。
 日本では北海道・釧路で孔子学院設置の動きがあった。「一帯一路」構想の一環として北極海航路の活用を検討するなかで、釧路港に注目しているとみられる。平成26(2014)年3月には札幌大学孔子学院の院長らを講師として、釧路で短期中国語・中国文化集中講座が開催された。
ある国の情報機関の調べによると、孔子学院側が世界各地で「一帯一路」を推進する目的で開催した行事は、把握できているだけで2015年に7だったが、17年には37にまで増えた。孔子学院のある地域と「一帯一路」を関連付けたシンポジウムや講演会が中心となっている。
 特に目を引くのは、37の行事のうち21が欧州で開催されたことだ。
 セルビアでは中国語を勉強する小学生や大学生ら約100人による「『一帯一路』・私と中国語の物語」作文コンクールがあった。
 なかでもマケドニアの聖シリル・メソディウス大学孔子学院は、2月に講演会「マケドニアの『一帯一路』構想と16+1協力における関係と発展」を開き、10月にも「中国-中東欧フォーラム 『一帯一路』構想における人的資本の作用」を開催した。ポーランドでも2回、クラクフ大学孔子学院で一帯一路に関する行事が開かれた。
 3カ国は「一帯一路」構想の「沿線国」。中国は旧ソ連崩壊後、疎遠になっていた中東欧諸国との経済関係を強化するため「16プラス1協力」の枠組みで、2012年から毎年首脳会議を開いている。
 ボスニア・ヘルツェゴビナでは18年1月にバニャルカ大学で2つ目の孔子学院が設置されており、中国がこの地域を重視していることは明らかだ。
■独首相お膝元で一致した思惑
 バルト海に面するドイツ北東部シュトラールズントは、中心部一帯が世界文化遺産に登録された街だ。石畳の通りを進むと、中世に歴史を遡(さかのぼ)る巨大なレンガ造りの市庁舎や教会が威容を誇る。「孔子学院」が入居するのは広場を挟んだ向かいの建物で、目立たない造りだが、観光スポットである市内の「一等地」だ。
 「私の地元に学院ができてうれしい。学院は両国民の交流と理解の促進に貢献できる」
 2016年8月末、開設式に出席した地元選出の独首相、アンゲラ・メルケルは挨拶で歓迎の意を示すとともに、こうも述べた。
 「学院は中国の伝統医学を紹介する点でも重要だ」
 シュトラールズントの学院は言語や文化とともに、「世界3カ所」(地元紙)しかない中国医学にも重点を置いた施設だ。実現の中心役は大学元学長で学院運営協会会長のファクル・ヘーン。長年かけて築いた中国との関係を生かし、メルケルの15年の訪中を好機に設立契約の署名にこぎ着けた。
 背景にはドイツ統一後、旧西側との経済格差が残る旧東側の事情もある。ヘーンは当時、学院設置に伴う「国際化」により、若者の流出で難しくなる学生確保を図り、中国医学を中心とした健康増進の「ヘルスツーリズム」を季節変動が大きい主要産業の観光の新たな柱にしようと考えた。
 大学と別に設置された学院は今、地域の学校にも中国語を教え、イベントや地元医療機関との協力を通じて中国医学の普及も図る。ヘーンは「今のところ活動は成功だ」と語る。
大学周辺で市民にたずねると、孔子学院の認知度は高いとはまだいえないが、イベントなどで協力もする隣の薬局の男性店長は「一歩一歩だ。期待はとても大きい」と語る。
 市長のアレクサンダー・バドロウも「1年で文化的豊かさをもたらした。ヘルスツーリズムは大きなチャンス」と評する。
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 孔子学院本部のホームページによると、ロシアを含む欧州の学院数(孔子課堂は除く)は約170カ所。英国(23カ所)、ドイツ(19カ所)をはじめ各国をほぼ網羅する。中国の台頭ぶりを示すが、一方でその動きは警戒も生む。
 「独裁主義者の進行」
 ドイツのシンクタンク「国際公共政策研究所」と「メルカトル中国問題研究所」は2月、こんな表題の下、政治的な影響力の拡大のため、さまざまなレベルで行われる中国の試みに焦点をあてた報告書を発表した。
 報告書はその舞台を(1)政策決定を担う政治・経済エリート(2)メディア(3)市民社会と学術界-に分類。中国と関係を持つシンクタンクや留学生・学者団体などと並び、孔子学院は市民社会・学術界に働きかける手段の一つとの位置づけだ。
 共同執筆者の一人、メルカトル研究所のルクレチア・ポゲッティはその役割について「学術的議論に影響を与え、中国政府に不快な問題の議論を制限する」ことと指摘する。
英国のブリティッシュ・カウンシルやドイツのゲーテ・インスティトゥートなどの国際交流機関とは「独裁主義国家の指示や資金を受ける点で大きく違う」とした。
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 懸念を裏付ける動きはある。14年7月、ポルトガルで孔子学院も関わり、中国に関する学会が開かれた際、訪問した学院本部トップが、冊子に掲載された台湾の学術交流基金の紹介に反発した。
 スウェーデンのストックホルム大学は15年、欧州初だった学院を閉鎖した。大学幹部は当時、「他国の資金を受ける機関を大学内に設けるのは問題だ」と現地紙に語った。
 欧州は今、メディアを通じた偽情報の拡散など、ロシアが欧州に影響を及ぼそうと仕掛ける「ハイブリッド戦争」に直面するが、ポゲッティは「ロシアはやり方が破壊的で目標も短期的。中国は責任あるグローバル・プレーヤーとみなされたいため、戦略は長期的で、ソフトな手法をとっている」と分析する。
 欧州では現時点で孔子学院に対し、米国ほどの反発は起きていない。だが、学院が中国政府の影響下にあるとの認識は関係者に広がっている。
 ポゲッティは孔子学院などを通じた中国の影響力増大への対処にも欧州連合(EU)の連携は重要とし、「中国国家に付随する機関が介入しようとする試みに関し、加盟国間で情報を共有することも手段だ」と述べた。(敬称略)

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【歴史戦・第20部 孔子学院(3)】

【歴史戦・第20部 孔子学院(3)】
「豪州学術界へのマルウエア」 多額援助に中国人留学生… 2018.4.13

 1850年に創立されたオーストラリア最古のシドニー大学は名門8大学の連盟「Go8」に属している。歴史を感じさせる石造りの建物が並ぶキャンパスの一角に、まだ新しそうな孔子の石像が立っていた。2008年に学内に設立された「孔子学院」の象徴だ。
 学院のサイトによると、16年度に中国語の授業に600人を募集した。中国語や文化講習だけでなく学外での催事にも取り組み、11年10月には上海・交通大学からカナダ出身の教授を招いて「儒教の観点から見た中国の政治的正統性」と題する公開講座も行っている。
 学院事務局を訪れると、院長の金杏は名刺交換に応じずに、流暢(りゅうちょう)な北京語と英語で「とても忙しい」「最近は取材依頼が多いが、応じていない」などと取材を拒否した。学院理事への取材要請も「みんな国外にいる」と応じず、「そんなに孔子学院のことが知りたければ、日本にもあるので、そちらを取材したらどうか」とかわした。
 なぜ、取材に応じようとしないのか。背景には、豪州社会で中国に対する警戒感が強まっていることがある。孔子学院を含む学術界もその対象の一つだ。
 豪州全土の大学41校のうち孔子学院が設立されている大学は14校に上り、うち6カ所はシドニー大学を含む名門8校の中にある。
豪州の政界や学術界への中国の浸透について、警鐘を鳴らす豪チャールズ・スタート大学教授のクライブ・ハミルトンは今年2月に出版した著作『サイレント・インベージョン(静かなる侵略)』で、孔子学院のことをこう記した。
 「学術界へのマルウエア(悪意のあるソフト)」
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 ハミルトンは著作で、シドニー大学孔子学院の理事、祝敏申に注目した。上海生まれで豪州国籍を持つ祝は1996年、シドニーで親中派の中国語紙「オーストラリア時報」を設立した。法輪功など「反中勢力」を批判し、2008年には、北京五輪の聖火リレーをチベット独立派らから守る中国人留学生の動員に資金提供もした。
 14年3月には中国の国政助言機関、全国政治協商会議(政協)の定例会議に招待されて出席した。南シナ海問題で中国寄りの発言をするなどして今年1月に辞任に追い込まれた野党、労働党の上院議員、サム・ダスティアリに政治献金も行っていた。
 ハミルトンは産経新聞の取材に、孔子学院は中国共産党に対する批判を許さないが、「それを検閲する方法は極めて巧妙だ」と指摘する。
 中国が嫌がる人権問題などを取り上げないよう直接要求するのではなく、多額の資金提供を行い、豪州側に「忖度(そんたく)させる」というのだ。しかも孔子学院を置く大学当局は5カ年の協定を孔子学院本部と締結するが、協定は大学の教員にも公開されていないという。
 産経新聞は事実関係の確認と協定の開示をシドニー大学に求めたものの、12日までに回答はなかった。
シドニー大学では17年8月、インド系の講師が、中国が領有を主張する地域をインド側に含めた地図を使ったとして、中国人留学生の集団から謝罪を求められた。大学当局は講師を批判し謝罪した。
 大学は同月末には、上海・交通大学と共同プロジェクトへの資金拠出を含む「戦略的パートナー」締結を発表した。学長のマイケル・スペンスは、ターンブル政権が進める外国からの諜報監視強化にも「中国恐怖症的な無駄口を止めよ」と反対している。
× × ×
 
 豪州の大学における中国の影響は孔子学院にとどまらない。豪州の教育・訓練省の統計によると、17年の海外からの留学生62万人のうち、中国人は約18万5千人と全体の約30%で首位を占める。
 留学生が豪州経済にもたらす価値は286億豪ドル(約2兆3千億円)で、豪州の「輸出」項目の3位に相当し、13万人の雇用を生み出している。その3割が中国人に握られている計算になる。
 防衛大学校教授の福嶋輝彦(オセアニア地域研究)によると、奨学制度で学費の支払い猶予がある豪州人と異なり、現金で学費を支払う中国人留学生は「大学にとって大きな収入源になっている」という。
 ハミルトンは「豪州の大学が学内に孔子学院を置き続けるのは、中国の資金の影響を受けているからだ。完全に北京になびき、学問の自由を損なっている大学もある。金銭の力に屈し、いま起きていることに目をつぶっている」とため息をついた。(敬称略)

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【歴史戦・第20部 孔子学院(4)】

【歴史戦・第20部 孔子学院(4)】
「中国政府と共犯だ」米で警戒拡大、関係見直す動き 2018.4.14

 米南部ケンタッキー州の人口約6万5000人の都市、ボーリンググリーンの市内を見下ろす丘の上にウェスタンケンタッキー大学(WKU)はある。キャンパスの一角に昨年5月、「WKU孔子学院」の建物が完成した。
 約750平方メートルのレンガ模様の平屋建てで、隣には庭園も造られた。総工費約300万ドル(約3億1千万円)は、中国教育省傘下の国家漢語国際推進指導小組弁公室(漢弁)と大学側で折半した。開設式典には中国の孔子学院本部の幹部も出席した。
 中に入ると、ホテルのロビーのような趣で、上海から直輸入した中国様式の家具や調度品が飾られる。20-30人収容可能な教室が4つあり、システムキッチンも完備している。
 「全世界に500以上ある孔子学院の中で、トップ15のモデル校に選ばれた」
 院長を務める潘偉平は誇らしげにこう語った。
 WKU孔子学院は2010年に開設された。地域の中国語教育に力を入れたい大学側の協力と、漢弁からの潤沢な資金提供を受け、順調に規模を広げてきた。
 その一例が、漢弁が推進する地域の小、中、高校などへの中国語教員の派遣だ。初年度の派遣数は11人だったが、今年は47校に52人を派遣する。学院職員のテリル・マーティンは「教員を新たに雇うと、福利厚生を含めて年間約6万ドルかかるが、孔子学院の教員の場合、学校側の負担は4分の1以下になる。手頃で質の高いプログラムは好評だ」と話した。
図書館棟には「中国文化展示センター」が併設され、孔子像や兵馬俑を見学できるなど大学内での孔子学院の存在感は際立つ。
× × ×
 米国には世界で最も多い約110の孔子学院が存在するが、中国政府の「プロパガンダ機関」と化しているとの批判は強い。論争は米政界にも発展した。
 「中国はよく仕組まれた長期戦略により、米国に取って変わって、世界で最も力強く影響力のある国家になろうとしている」
 2月13日の上院情報特別委員会公聴会で、共和党上院議員マルコ・ルビオは、こう切り出した。ルビオは学院が中国に有利な世論形成や歴史教育を行っているとして「(中国政府の)共犯だ」と言い切った。
 答弁した米連邦捜査局(FBI)長官、クリストファー・レイも「孔子学院への懸念はわれわれも共有しており、注意深くみている」と同調した。レイは、中国が学生や教授らを情報収集員として使い、「米国の開かれた研究機関を悪用している」と批判した。
ルビオは3月21日に孔子学院を念頭に、外国代理人登録法(FARA)に基づく登録を義務付け、監視の強化を目指す法案を共同で提出した。孔子学院がスパイ活動や「親中派」の育成の場としても使われているのではないかとの疑念は強まる一方だ。
× × ×
 ルビオは2月5日、地元フロリダ州で、孔子学院がある5つの大学などに契約を打ち切るよう要請。ウエストフロリダ大学が契約を更新しない方針を明らかにした。テキサス州でも民主、共和両党の下院議員が声を上げ、テキサスA&M大学が契約打ち切りを発表するなど、大学側にも関係を見直す動きが出始めた。
 これまでも中国共産党がタブーとする政治テーマを扱わないなどの問題が取り沙汰され、米大学教授協会は04年、孔子学院が「学問の自由」を脅かしているとして各大学に関係断絶を勧告した。シカゴ大など一部で廃止が決まったが、多くの大学で存在したままだ。
 シカゴ大学名誉教授、マーシャル・サーリンズは00年以降の州政府などによる大学予算の削減と、中国留学生の増加が背景にあると説明する。そのうえで「経営が厳しい大学にとって、中国人留学生の学費は貴重な収入源だ。孔子学院を拒否して、中国政府の機嫌を損ないたくない」と話す。
昨年末には、米シンクタンク「全米民主主義基金」が、世論操作する中国の強引な対外戦略を「シャープパワー」と命名した。約10年前にペンシルベニア大学で孔子学院設立に反対した教授のビクター・メアは「中国の帝国主義」への警戒は強まっており、「政治家の発信などで形勢は変わりつつある」と分析する。
 ただ同時に、メアは「あらゆる手段で大学に近づく中国の意思は固く、巧みであり、手ごわい」とも語る。拡大路線を掲げる孔子学院への対策は、緒についたばかりだ。(敬称略)
=第20部おわり

 この連載は有元隆志、今仲信博、上塚真由、田北真樹子、田中靖人、宮下日出男が担当しました。

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (17)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(17)京城はなぜ100万都市に 「泥濘」から発展した日本人街 2018.5.6

 韓国の首都ソウルは人口約1千万人、政治・経済の中心、文化・情報の先端。今やアジアのみならず世界の主要都市のひとつだ。この街は、14世紀末以来、李朝の都(漢城)として500年。日本統治時代(1910~45年)は「京城(けいじょう)」と呼ばれ、近代的な都市として発展し、人口(京城府)は終戦前ですでに100万人を超えていた。
 京城帝国大教授として、約15年間暮らした哲学者の安倍能成(よししげ)(1883~1966年、後に旧制一高校長、文相、学習院院長)は、この美しくもきらびやかな都を描いたエッセーをたくさん残している。
 「京城とアテーネ」(昭和3年)には、こうあった。《初めて京城に来た時(とき)私はすぐに何処(どこ)やら希臘(ギリシャ)のアテーネに似て居(い)るな、と思った…(朝鮮)神宮の前から漢江を見おろした景色は、私には、アクロポリスの上から(略)海を望んだ記憶を呼び起こす…》
 安倍が京城に赴任したのは日韓併合から15年以上が過ぎた大正15(1926)年のことだ。もしも、安倍が「前近代的」な因習や伝統を城壁の中に、そのまま閉じ込めたような李朝末期や大韓帝国時代のこの街に来ていたら、果たしてどう感じただろうか?
日韓併合前の明治38(1905)年、ジャーナリストで後に貴族院議員を務めた加藤政之助(まさのすけ)がこの街を綴(つづ)った一文がある。《大通だけは比較的に清潔なりき、ただし市街の裏通りに至りては道幅8、9尺(2メートル半前後)、車馬通せざる所もあり、下水及(およ)び塵芥(じんかい)の腐敗により起こる臭気鼻を衝(つ)いてきたり…城内の見るべき建築物は、景福及び昌徳の二宮、日本の兵営、列国公使館位(くらい)に過ぎず》(『韓国経営』から)
 京城の電気や水道、市内電車を初期に手掛けた欧米人から事業を引き継ぎ、数度の都市計画を経てインフラ(社会資本)を整備し、モダンな大都市に変身させたのは日本人だった。
■朝鮮人が敬遠した土地
 19世紀末、日本人がこの街に住み始めたとき、最初の居留地となったのが、南山北麓の「泥●(やまへんに見)(チンコゲ)」と呼ばれた所だ。文字通りの低湿地で雨が降れば南山から水が流入し、泥濘(ぬかるみ)になってしまう。朝鮮人もあまり住んでいない地域だった。
 この土地を日本人はせっせと改良して道路をつくり、住宅や商店、公的機関を建てた。そこを起点に本町(後の忠武路(チュンムノ))、明治町(明洞(ミョンドン))といった繁華街が広がり、市内を横断する清渓川の南側は日本人、北側は朝鮮人の街として色分けされてゆく。
再び加藤の筆に頼ろう。《(日本人居留地の)家屋は西洋作もあり日本風の二階屋もあり、店は広く小奇麗(ぎれい)に往来繁(しげ)く…日本人の移住する者年毎(ごと)に増加し…明治38年4月の人口は6296人なり…》(同)
 日本人街には、三越、丁子屋(ちょうじや)、三中井(みなかい)といった百貨店が進出、ホテルやレストラン、カフェ、映画館が次々と開業した。モダンガール・ボーイと呼ばれた、おしゃれな若者たちが押し寄せ、中心の繁華街・本町で遊ぶことを、東京や大阪の“銀(座)ブラ”“心(斎橋)ブラ”になぞらえて「本ブラ」と呼んだ。
 父親が朝鮮総督府の建築技師などを務めた正木千代子(91)は、昭和2年京城生まれ、高等女学校を卒業した後は、京城の中心地にあった水産会社に就職している。「本町は内地にも負けない賑(にぎ)やかな繁華街でね。三越、丁子屋などの百貨店にも、よく買い物に行きました。休日はレコードを聴いたり、昌慶苑の桜見物も覚えている。(終戦までは)物資は豊かだったし、空襲もない。ホントにいい街でしたよ」
 清渓川北側の朝鮮人の居住地にも、朝鮮人経営による和信百貨店ができたが、鐘路を中心とした伝統的な商店などは次第に廃れてゆく。朝鮮人の若者たちも、流行の先端で、小ぎれいな日本人街に足を向けるようになったからだ。
日韓併合直後に25万人前後だった京城府の人口は市域の拡張もあって倍々ゲームで膨れ上がり、総督府の昭和17年末統計では約111万4千人(朝鮮人約94万1千人、日本人約16万7千人)の大都市に成長する。朝鮮全体の増加率は2倍強だったから、京城への集中がよく分かる。
 日朝の近代化の差はどこにあったのだろうか。ひとつは儒教の「受容度の違い」だった気がしてならない。李朝500年間にどっぷりつかった朝鮮では、儒学の勉強に勤(いそ)しみ、科挙(官吏登用試験)に合格した者が最上位であり、武人や医者・技術者など実学に携わる者は低く見られ、労働や商行為は蔑まれた。
 京城の商業の中心が鐘路から本町へ移っていったことを、姜在彦は「ソウル」の中でこう書いている。《長い間の町人文化の中で鍛え抜かれた日本人商人との競争で敗北した…》と。
 ただし、私は李朝の王宮(景福宮)正面を遮るように西洋式の朝鮮総督府を建てたり、各地に神社を設けたりしたのはやりすぎだったと思う。90歳に近い朝鮮の古老は「日本統治で朝鮮人が最も拒否感をもったのは、神社参拝と宮城遥拝(ようはい)だった」と打ち明けている。
■楽しげな娼妓の思い出
 京城のもうひとつの日本人街は、南山の南に形成されていった「龍山」だ。日本陸軍の朝鮮軍司令部が置かれ、軍関係者が多い。
 龍山で祖父母が洋品店を経営していた齊藤雄一(86)には興味深いエピソードがある。その店に買い物にやってきた朝鮮人娼妓たちとの思い出だ。京城最大の遊郭は本町東端の新町にあったが、龍山にも小さな花街があり、そこの娼妓がよく店に来ていた。
 「20代くらいで洋装の朝鮮人女性たちが楽しそうに買い物をしていた。(戦時下で)衣料切符が必要だったのに、(慰安婦として)戦地へ行く人には特配があったらしい。まだ(旧制)中学の1年生だった私に『僕ちゃんも早く兵隊さんになりなさいよ』って、笑いながら、からかわれたことを覚えていますよ」
 なるほど、韓国が主張する“強制連行されたいたいけな少女”などとは随分、イメージが違う。=敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(16)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(16)
(16)陸上、野球、ラグビー…日本時代に花開いた近代スポーツ 2018.4.29

 儒教思想にどっぷりと漬かった朝鮮社会では、伝統的に「文」が「武」よりも上位に位置づけられ、運動やスポーツ的な行為も長く蔑(さげす)まれてきた。朝鮮において、近代スポーツが浸透し、大きく発展するのは日本統治時代のことである。
 独立・抗日を訴えて1919(大正8)年に起きた大規模な騒乱事件「三・一運動(万歳事件)」をきっかけに日本は、それまでの武力・警察力を前面に出した「武断政治」から、緩やかな「文化政治」へと朝鮮統治の方針の舵(かじ)を切る。本格化は、20年代から30年代にかけてだ。
 「東亜日報」「朝鮮日報」など民族系の新聞の発刊が認められ、学校建設が進み、文化・芸術が花開く。外地初の帝国大学となる京城帝大の設立(24年・予科)や朝鮮映画の名作「アリラン」の製作・公開(26年)もこの時期だ。
 そして、陸上、野球、ラグビー、サッカー、テニス…といった近代スポーツもこの波に乗る。体育の協会が組織され、京城(現・韓国ソウル)には、大規模な総合運動場を建設。25(大正14)年からは、陸上、野球、テニスなど5種目(後に20種目超)による「朝鮮神宮競技大会」がスタートしている。
 そのわずか7年後には、米ロサンゼルス五輪(32年)に3人の朝鮮人選手を送り出し、次の独ベルリン五輪(36年)では、マラソンの孫基禎(ソン・ギジョン)(1912~2002年=当時は日本語読みで「そん・きてい」)ら金・銅のメダリストまで誕生させているから、朝鮮民族の運動能力の高さがよく分かる。
◆スター揃いの養正高普
 孫の長距離ランナーとしての才能が大きく花開いたのは、京城の養正高等普通学校(旧制中学に相当)に入ってからだ。「陸上の名門」として名を轟(とどろ)かせていた同校には、朝鮮のスター選手が揃(そろ)っていた。ロス五輪マラソン6位入賞の金恩培やベルリン五輪マラソン銅メダルの南昇龍も一時、籍を置いている。
 同校は、朝鮮神宮競技大会など朝鮮内での活躍はもちろん、現在の全国高校駅伝の前身の一つとされる大会でも内地の強豪校を退けて3連覇を達成した。
 19歳で入学した孫はロス五輪代表の座は惜しくも逃したが、ベルリン五輪の前年には“戦前の国体”というべき内地の明治神宮競技大会のマラソンに出場して、当時の世界記録で優勝。ベルリン五輪の“希望の星”として躍り出る。
 このころ、スポーツ熱に取りつかれたのは朝鮮人だけではない。朝鮮に住む日本人も同様だった。日朝混成メンバーで、京城師範ラグビーが全国大会を3連覇(1930〈昭和5〉年~)したことは以前書いた通りである。野球の夏の甲子園・朝鮮地区予選も大正年間に始まり、京城中(旧制)や徽文高等普通ら、日朝のチームが出場を果たした。
 朝鮮神宮競技大会に出場した選手の内訳を見れば、日朝ほぼ半々である。新聞社や専門学校が主催する競技大会も次々と誕生し、日朝の選手がしのぎを削りながら、競技によっては内地をも上回るレベルを短期間に築いていった。
 孫と同世代で、やはり朝鮮の陸上界を沸かせた日本人の名ランナーがいる。マラソンの瀬古利彦や佐々木七恵らを育てた名伯楽・中村清(1913~85年)だ。自伝「心で走れ マラソン、わが人生」によれば、中村は《(京城の)南大門のたもとで生まれた。父親は土建業を営んでおり、数軒隣の金物屋が作曲家・古賀政男さんの家だった》という。
 京城の日本人中学の名門校・龍山中(旧制)に入学して本格的に陸上競技を始めた中村は、龍山鉄道管理局所属で1500メートルの日本記録保持者、土屋甲子雄の目に留まり、頭角を現す。《土屋さんの指導を受けた私は、急速に力をつけ、翌年には朝鮮でトップを占め、(龍中)5年生の夏には、東京の神宮外苑競技場で開かれるインターミドル(中学の全国選手権)の出場権を得た》(同書)
 早稲田大に進んだ中村は、師・土屋の1500メートルの日本記録を破り、36年のベルリン五輪には、マラソンの孫らとともに出場(1500メートル)することになるのである。
◆舞踊の崔承喜も祝福
 この頃、マラソン金メダリストの孫と並ぶ、朝鮮人の「超」有名人がいた。「半島の舞姫」と呼ばれた世界的な女流舞踊家、崔承喜(チェ・スンヒ)(1911~69年=日本語読みは「さい・しょうき」)だ。170センチの長身とエキゾチックな美貌で、ピカソやコクトー、川端康成ら内外の文化人を虜(とりこ)にした。ベルリン五輪が開催された年には映画「半島の舞姫」(今日出海監督)が大ヒット、化粧品やお菓子の広告にも登場し、アイドル並みの人気を博している。
 孫が金メダルに輝いた後、京城で開かれた祝賀会に崔が駆けつけ、笑顔で撮った写真が残されている。2人は朝鮮人だけでなく、日本人の中でも「世界に誇る大スター」になった。
 もうひとり、意外な人物も2人のことを書き残している。当時、満州(現・中国東北部)で抗日パルチザン活動をしていたらしい北朝鮮の初代最高権力者、金日成(キム・イルソン)(1912~94年)。彼も同世代である。
 「金日成回顧録5巻」には〈民族の魂を守って〉の見出しでベルリン五輪の表彰台に立つ孫の写真が掲載されている。金は、民族紙「東亜日報」が日章旗を消した孫の写真を掲載して処分された事件に触れ、《孫基禎の競技成果と日章旗抹消事件について、部隊の隊員に話をした。すべての隊員は「東亜日報」編集局のとった愛国愛族の立場と英断に熱烈なる支持を贈った》(同書)と。
 それが事実かどうかは確かめようがない。ただ、この時期の「スポーツ発展の申し子」といえる孫が成し遂げた偉業が同世代の朝鮮人の若者たちを熱狂させ、強烈な印象を刻んだことだけは間違いない。=敬称略、日曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(15)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(15)
(15)私が会った孫基禎 「過去」よりも「未来」が大事 2018.4.22

 日本統治下の朝鮮人マラソンランナーとして、1936(昭和11)年のベルリン五輪で金メダルに輝いた孫基禎(ソン・ギジョン)(当時は、日本語読みで「そん・きてい」)に会ったのは、88年に開催された韓国・ソウル五輪のときだった。
 ソウル五輪当時、70代半ばになっていた孫は、マル秘だった開会式の聖火リレー最終走者の有力候補に挙げられ、“時の人”となっていた。国内外のメディアが孫のインタビューを取りたがっていたのは言うまでもない。「会えるはずがない」といわれながらダメもとで電話を入れると、孫は意外な条件を示した。
 「会ってもいいが、時間を指定させてもらう。次の日曜日の朝7時に、●×までおいで!」
 いささか常識外れの日時かとは思ったが、孫がそういうのなら仕方がない。当時、20代の若手記者だった私は早起きして、同い年の韓国人通訳と指定の場所へ向かったが、天気はあいにくの雨。本当に現れるのか、と半信半疑のわれわれの前に、トレーニングウエアでジョギングをする孫が姿を見せた。
 孫は開口一番、ちゃめっ気たっぷりに、こう言ったものだ。「ホントに来たのかね。こんな日時(日曜の朝7時)でおかしいと思わなかったのかい? 実は、君たちが熱心な記者かどうか試したんだよ」
■世界制覇歌まで登場
 孫といえば、思い出されるのが「日章旗抹消事件」だろう。ベルリン五輪で金メダルをとった後、朝鮮の民族紙「東亜日報」が表彰台に上る孫の胸の日章旗を消した写真を掲載。同紙は、朝鮮総督府から発刊停止処分を受け、多くの社の幹部、記者らが拘束されたり、退社を余儀なくされたりしたという事件である。
 75年に刊行した同社の社史にはこうあった。《1936年8月28日に本報(東亜日報)は無期停刊処分を受け、関係人士の拘束にまで至った…留置場6房(室)がすべて東亜日報記者で超満員になり、まるで東亜日報が移動してきたようだった…主筆、編集局長は即時辞任…拘束された8名は40日間にわたって峻烈(しゅんれつ)な問招(ムンチョ)(厳しく問いただすこと)を受け…》
 厳しい処分の理由として、現在では(朝鮮の)民族意識の高揚を抑えるためだったと解説されることが多い。孫の金メダルは、どれだけ朝鮮の民衆を熱狂させたのか。社史の前段にその一端がつづられている。
《…世界人類の夢だった2時間30分の壁を破る2時間29分19秒で、われらの孫基禎選手が堂々1位でゴールインしたとの報道に接するや本社内外の人士、本社前の広場に雲集した民衆の万歳の声が一時に爆発、ソウル(京城)の夜空を埋め尽くした…》。さらに、同社では「オリンピック世界制覇歌」を公募▽感激の瞬間を届けるためにベルリン五輪の記録映画会を3日間9回にわたって上映、大盛況を得た、とある。
 つまり、現代の日本の東京・渋谷で、サッカーの代表が勝った後に繰り広げられるような“大騒ぎ”が朝鮮全土で繰り広げられたということだろう。異様な高揚感の中で同社の記者はつい写真に細工してしまった。総督府は、予想を超える盛り上がりに恐れをなして厳しい処分をした-それ以上でも、それ以下でもない。過酷な言論弾圧の象徴として、戦後無理やり「政治的な意味合い」などつける必要はなかった。
■事件について語らず
 話を88年に戻そう。私が会った孫は、頭髪が真っ白になっていたが、がっしりとした体と、鋭い眼光は健在だった。早朝ジョギングはこの日だけではなく、聖火ランナーに選ばれても恥ずかしくないよう毎朝、トレーニングを続けていたのだという。
私は「日章旗抹消事件」の話を聞きたかった。事件後、“危険人物”として日本の公安当局からつきまとわれたとも聞く。自伝では、金メダルに輝いたときでさえ、亡国民の悲哀に涙したとつづられている。
 だが、孫は多くを語ろうとしない。過去はのみ込んで「そりゃ、つらかったし、いろいろあったさ」とだけ話したかと思うと、孫は大きな手で私と韓国人通訳の手を包み込んだ。
 そして、「そんな昔の話よりも、もっと大事なことがあるじゃないか。(日韓の)未来は君たちのような若者たちにかかっているのだぞ」と力を込めた。手の温かさと驚きを今もはっきり覚えている。
 別れ際に私と韓国人青年の通訳の2人にそろいのサイン入り記念品をくれた。そこにはベルリン五輪で優勝し、ゴールテープを切ったときの有名な写真をプリントしてあった。
 それから数日…。大観衆で埋まったメインスタジアムに、聖火を掲げて登場した孫は、事前の予想を裏切り、“ラス前(最終ランナーの前)”という役割だった。組織委員会が、日本統治時代の選手にスポットライトが集まるのを嫌ったとも言われている。
 それでも、ソウル五輪のシンボルマークを胸にして、ピョンピョンと跳びはねるようにトラックを駆けた孫の表情は、とてもうれしそうだった。
韓国人青年はその後、日本語の能力を生かして財閥企業に入社、途中で起業して社長になった。私はこうして今も2つの民族にかかわる記事を書いている。孫の大きな手で託された日韓のよき未来に少しでも貢献できると信じて。=敬称略、日曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)
                   

 孫基禎 1912(大正元)年、日本統治時代の朝鮮・新義州出身。京城の養正高等普通学校(旧制中学に相当)時代に長距離ランナーとして頭角をあらわし、35年の大会でマラソンの世界最高記録(当時)を樹立。翌年のベルリン五輪マラソンで「日本代表」として金メダル。3位には同校の先輩でもある南昇龍が入り、朝鮮全土が熱狂に包まれた。戦後は指導者として活躍。2002(平成14)年、90歳で死去した。

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (14)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(14)文化・芸術に政治絡める愚 「国歌」作曲者も親日派の事典に 2018.4.15

 「学内の親日派銅像は恥ずかしい…撤去を要求する韓国の大学生」。韓国の大手紙・中央日報電子版に最近、こんな見出しの記事が出ていた。名門私大・高麗大の設立者が「親日行為」を認定され、韓国政府が叙勲剥奪の手続きを行ったことを受けて、同大の総学生会が校内にある銅像の撤去や記念館の名称変更を求める声明を出した、という内容だ。同様の動きは、名門女子大の梨花女子大でも起きているという。
 戦後70年以上たった今も「売国・売族者」と先祖に遡(さかのぼ)って悪罵(あくば)を投げつけられ、財産や名誉を奪われる人たち。一族が親日派のレッテルを貼られ、身を縮めて生きていかねばならぬ人たち。民族を日帝に売り渡した親日派を正しく処断できねば、真の解放はありえない、だって? 到底理解できない恨みの強さ、あるいは執念深さ、というべきか。
 文在寅(ムン・ジェイン)政権下で進む「反日ナショナリズム」の高騰は自国民向けにはなっても日韓関係の未来にはつながりはしまい。日本人の心は離れていくばかりだが、親日派たたきは収まらない。特に文も政権幹部に就いていた2000年代の盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権下の韓国社会で熱を帯びた追及は異様だった。
■なぜ一転、親日派批判
 『鳳仙花(ほうせんか)』や『故郷の春』などの作曲者で、朝鮮を代表する音楽家、洪蘭坡(ホン・ナンパ)(1897~1941年)も、その一人であるのは先週書いた。“抗日・独立のシンボル”とされた『鳳仙花』を作曲した洪が、なぜ戦後、一転して親日派として批判されたのか?
 2000年代に韓国で刊行された「親日人名事典」の記述を見てみたい。
 洪は、朝鮮正楽伝習所西洋楽部などを経て、日本に留学。大正7(1918)年、東京音楽学校(現東京芸大)予科に入学、15年には、東京高等音楽学院(同国立音大)でバイオリンなどを学んでいる。昭和3年、東京のオーケストラで第1バイオリンを担当。9年には、日本ビクター京城支店音楽主任に就任。この間『鳳仙花』のもとになった「哀愁」や『故郷の春』をつくっている。
 「親日派」として問題視されるのはこの後だ。
 抗日運動にかかわって検挙された後に転向し、12年「思想転向に関する論文」を提出。さらには、朝鮮総督府の肝煎りで、組織された“親日文芸団体”『朝鮮文芸会』に文学者の李光洙(イ・グァンス)らとともに加入。軍部の宣伝に協力して「正義の凱歌(がいか)」「空軍の歌」などを作曲したという…。
声楽家で元聖学院大学教授の遠藤喜美子(90)は『鳳仙花 評伝・洪蘭坡』の著者。母校(国立音大)の先輩でもある洪を、日本の滝廉太郎や山田耕筰に匹敵する「朝鮮近代音楽の父」とたたえている。
 韓国で洪蘭坡の未亡人に会ったとき、住まいは小さなアパートで経済的にも困窮している様子に驚かされたという。著書を手渡すと、「病床にあった奥さんが『日本人のあなたがこんな本を書いてくれるなんて…』と涙を流して喜んでくださった」と話す。
 評伝を韓国で翻訳出版する話は、何度も持ち上がっては立ち消えになった。ようやく実現したのは生誕120年に当たる昨年である。この間、訪韓した際に何度か韓国のテレビ局が取材に来たが、実際に放送されたことは一度もなかったと振り返る。
 遠藤は思う。「反日教育を受けてきた今の韓国の若い人たちは、この偉大な音楽家について、本当のことを知らないのです」
 もちろん韓国にも、この国民的音楽家を擁護する人たちは少なくはない。
 「親日人名事典」には収録されたが、その後、韓国政府が発表した名簿からは、元大統領の朴正煕(パク・チョンヒ)らとともに外されている。言論界にも、洪を親日派と決めつけて、その人生や業績の全てを否定し、歴史から消し去ろうとするのは「極端な論理だ」とやんわり反論する主張も見られる。
■有能だからこそ重用
 ところで、遠藤の著書によれば、洪と同時期に、東京高等音楽学院に留学していた朝鮮人の中には、後に韓国の国歌と位置づけられる「愛国歌」を作曲した安益泰(アン・イクテ)(1906~65年)がいた。そのくだりを引いてみよう。《日本全国はもとより朝鮮や台湾などからも優秀な学生がこうして参集した。(略)彼(洪)に続いて翌1930年の韓国人卒業生の中には特筆すべき4人の逸材がいた…ピアニストの金元福、バイオリニストの洪盛裕、ピアノ科卒業の朴啓成、またチェリストで後に韓国国歌となる「愛国歌」を作曲した安益泰である》(『鳳仙花 評伝・洪蘭坡』から)
 安はその後、欧米で活躍、世界的な名声を得たが、戦時中、満州国建国10周年祝賀曲に関わっていたことや愛国歌の“流用疑惑”まで問題視されて「親日人名事典」に名前を載せられている。
 だが、当時、才能に恵まれた朝鮮の若者が日本へ留学するのは当たり前のコースだったし、優れた音楽家だからこそ、時の政権や軍部に重用されたのだ。
「国歌」をめぐっては、北朝鮮にも別の愛国歌があり、晴れて統一がなった暁には新たな国歌を制定したいという思いを描く人たちもいる。平昌五輪開会式で南北選手団が合同で入場したときに流されたのは朝鮮民謡の「アリラン」だった。だが、日本統治時代に関わるものが全てダメなら、この曲も日本統治時代の同名映画から生まれたことをこの連載の1回目で書いた通りである。
 韓国の愛国歌は、凜(りん)として格調高い名曲だ。私が韓国で暮らしたとき、朝一番でラジオ放送開始前に必ず流されるこの曲を聴くと背筋が伸びる思いがした。
 あるいは、哀愁を帯び、心に響く『鳳仙花』のメロディー、思わず口ずさみたくなる楽しい『故郷の春』を聴いてみればいい。文化・芸術に政治を絡ませる愚かさが分かるはずだ。=敬称略、日曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (13)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(13)歌には「抗日」も「親日」もない  「鳳仙花」歌う加藤登紀子 2018.4.8

 1枚の古い写真が残されている。1990(平成2)年12月、韓国で初のコンサートを行うため、ソウルを訪れた歌手の加藤登紀子が同国の国民的音楽家、洪蘭坡(ホン・ナンパ)の未亡人、李大亨(イ・デヒョン)と一緒に撮ったものだ。
 このとき、韓国で2つの大きな出来事があった。それは“騒ぎ”と言った方が正確かもしれない。
 ひとつは、洪の代表曲『鳳仙花(ほうせんか)』を歌うことを発表したコンサート1カ月前のソウルでの記者会見で、韓国メディアから、「日本人のあなたがこの歌を歌うことを誰もが許さないと思う」と止められたこと。もうひとつは、当時タブーだった「日本語の歌」を行き違いからコンサートで歌ってしまったことだ。
 『鳳仙花』は朝鮮初の芸術歌曲とされる。洪が日本留学時代の大正9年ごろ「哀愁」の題名で作曲、6年後に金亨俊が詞をつけて歌曲集に載り、世に出た。
 昭和17年には、白の民族衣装をまとったソプラノ歌手の金天愛が日比谷公会堂で朗々と歌い上げ、故郷を思う朝鮮の留学生らを感涙させた伝説の名曲だ。韓国では“抗日・独立のシンボル歌”のイメージが強く、記者会見での「日本人のあなたが…」という反発につながったわけである。
加藤が『鳳仙花』を知ったのは1970年代の後半、知人のギタリスト、原荘介(78)が口ずさんだのを聴いて、たちまち心を奪われた。韓国のコンサートで「一番大事な歌」と勢い込んでいただけに簡単には引き下がれない。“直談判”に持ち込んだ。
 「私がここで歌って、あなたたち(韓国記者)がどう感じるか? 正直に聞かせてほしい。イヤなら歌うのをやめます」と記者会見の場でギターを取り出し、会見用のマイクに向かって歌い始めたのである。
 記者たちは、じっと耳を傾けて聴いていた。だんだん、その場の空気が変わってゆく。歌い終わってから「もう少し韓国語の発音を正しく歌ってほしい」と注文がついたが、もはや強い拒否感はない。「じゃあ、ここで正しい発音を教えてください」と加藤が持ちかけると、10人以上の記者が、その場に残って即席のレッスンが始まった…。
■韓国での複雑な評価
 洪蘭坡夫人に会ったのはコンサートの直前。夫人は高齢なので、本番のコンサート会場には行けないという。ならば「直接聴いてほしい」と、加藤はソウル市内のレストランで夫人と向き合い、韓国記者からレッスンを受けた韓国語で『鳳仙花』を歌い始めた。
 じっと聴いていた夫人の目から涙がこぼれ、2人は、しっかりと抱き合った。そのとき、夫人の胸の中に去来したのは、韓国における洪蘭坡への相反する評価ではなかったか。
 洪蘭坡が、朝鮮を代表する音楽家の一人であったのは間違いない。『鳳仙花』や、韓国では誰もが知っている童謡『故郷の春』は日本のカラオケにも入っているくらい有名だ。
 一方で戦前・戦中、朝鮮独立運動に関わった後、日本の官憲に捕まって転向し、軍歌などをつくって「日帝」に協力したとされ“親日派”のレッテルを貼られてしまう。2000年代に韓国で発刊された「親日人名事典」にはその“悪行”がスペースを割いて書いてある。数年前には彼の名前を冠した音楽賞受賞者がそれらを理由に辞退したことでも話題になった。
 加藤はこう思う。「歌い手や音楽家には国籍も立場もあるけど、歌は自由に国境を越えてゆくんですよ。誰がどう感じ、どう受け止めようと自由でなければいけない。私の歌も人種も思想もジャンルも関係なく、誰にでも届く歌でありたいと思う。歌い手とか国とかの思惑を越えて歌は、人々のものなんです」
 『鳳仙花』が“抗日歌”として人々を支えたにもかかわらず、洪蘭坡へ親日派批判があったことにも驚かされた。「洪蘭坡は『抗日の歌』を意図してつくったわけじゃない。『鳳仙花』は心に響く美しい歌。歌い継がれているのは歌自体の力なのですよ」
■知らされなかったタブー
 韓国でのコンサートにはありがたくない“おまけ”がついた。加藤が日本語の歌を歌って“タブー破り”をしてしまったことだ。
 韓国で戦後初めて公式に日本語の歌(大衆歌謡)が許可されたのは、それから8年後、1998年、沢知恵(ともえ)が歌ったときだ。加藤もタブーのことを知っていたが、このときは「ぜひ日本語で歌ってほしい」というオファーがあった。だが直前になって「許可しない」との通達があったことを主催者が加藤に伝えなかったのである。
 予定のプログラム通りに歌って物議を醸してしまった加藤は、「ダメだと知っていたら歌わなかった。あるいは『鳳仙花』の記者会見のように直接、お客さんに向かって是非を問いかけたでしょうね。それが私のやり方ですから」
 韓国側にも、そうした日本の大衆文化制限を撤廃したいと考えていた人は少なからずいたらしい。帰国した加藤に韓国のテレビ局から出演のオファーがあり、東京でリハーサルまで行った。だが、放送1週間前に当局からストップがかかり、実現しなかった。それ以来、現在に至るまで加藤は韓国で一度もコンサートをやっていない。
 音楽、映画、マンガなど日本の大衆文化は段階的に開放された。だが、現在も地上波でのテレビドラマ、バラエティー番組などは解禁されていない。=敬称略、日曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

【プロフィル】加藤登紀子
 かとう・ときこ 昭和18年満州ハルビン生まれ。東京大文学部卒。40年日本アマチュアシャンソンコンクールで優勝、翌年デビュー。主なヒット曲に「ひとり寝の子守唄」「知床旅情」「百万本のバラ」。『花はどこへ行った 加藤登紀子コンサート』((電)03・3352・3875)は21日(土)東京・渋谷のBunkamuraオーチャードホールで。

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (12)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(12)
文武両道の京城師範 日朝ラガーで達成した3連覇
2018.4.1

 京城師範は、文武両道の名門校だった。大正10(1921)年創立の教員養成校。学費免除制度があり経済的に恵まれない家庭の秀才がそろった。以前も触れたが、韓国大統領になった朴正煕(パク・チョンヒ)も大邱師範に入学し、教職に就いている。
 「武」の方で名高いのはラグビー部の活躍だ。野球の「春夏の甲子園」と並ぶ「冬の花園」として、人気が高い現在の全国高校ラグビーの前身大会で、昭和5(1930)年から3連覇の偉業を達成、翌8年も準優勝を果たしている。
 優勝旗が玄界灘を渡ったのは、京城師範のときが初めて。3連覇以上は他に戦前の同志社中、戦後も秋田工、啓光学園(現・常翔啓光学園)、東福岡しか達成(両校優勝を含む)していない偉業であった。
 8年に京城師範の附属(ふぞく)小に入学した朴贊雄は『日本統治時代を肯定的に理解する』の中で当時の様子を振り返っている。《京師のラグビー部は殆(ほとん)ど毎日、放課後にグラウンドに集まって練習していた。このグラウンドは僕らの(小学校の)運動場と続いていた。僕らは彼らの練習を見守るのが好きだった(略)いつのまにか自分もひとかどの選手になった気分にとりつかれる》。スター選手をあこがれのまなざしで見つめた興奮ぶりが伝わってくる。
■内鮮一体を具現化
 同校にラグビー部が創設されたのは昭和3年、生みの親は東京高師(現筑波大)選手として活躍した教員、園部暢だった。全国大会優勝後、地元紙に語ったコメントには、朝鮮の教育にかけた日本人教師の志と情熱があふれている。
 《京師のメンバーの中には7人の朝鮮人がおり主将もまたそうである。15人の団結ぶりを見てください。将来、朝鮮教育に従事せんとする彼らが真に内鮮一体の第一線に立ち、理解の少ない内地の人々に朝鮮のいかなるものかを紹介し、内鮮人間の将来に光明を与えたことは京師ラグビー部フィフティーンの功労でなくてなんであろう》と。
 京城師範だけではなく当時のラグビー界は、外地のチームがとても強かった。9年は、鞍山(あんざん)中(旧制・以下同じ、満州)と台北一中(台湾)の両校優勝で京城師範はベスト4▽11年、朝鮮の培材高等普通学校(旧制中学に相当)が優勝▽12年、朝鮮の養正高等普通が準優勝▽13~15年、撫順中(満州)の連覇に台北一中が続き、外地のチームが3連覇を達成している。
だが、京城師範3連覇の後、あまりの強さにクレームがついたらしい。『京城師範学校史・大愛至醇(たいあいしじゅん)』に当時の教員がエピソードを書き残している。《年齢制限の問題が起こってきた…それは明らかに当時6年制(演習科を含む、他の旧制中学などは5年制)の京師があっという間に3連覇を成し遂げたことに対する羨望、嫉視、不満が重なったものと思われます》
 朝鮮で盛んだった学生スポーツはラグビーだけではない。野球も大正年間に夏の甲子園の朝鮮地区予選が始まり、京城中▽平壌中(後に一中)▽仁川商▽龍山中▽徽文高等普通などのチームが甲子園の土を踏んでいる。これら学校スポーツの興隆をはかったのが、日本人教師たちであり、キリスト教系学校の欧米人宣教師らであった。平昌五輪で韓国勢が大活躍したスケートも、日本統治時代の学校で奨励されたスポーツだったのである。
■好ライバル京中VS龍中
 日本統治時代の京城(現・韓国ソウル)は、多くの中・高等教育機関を擁する屈指の文教都市だった。
 大陸(満州・朝鮮)唯一の帝国大学にして総合大学の京城帝大。それに次ぐ、旧制専門学校として、官・公立では京城医学▽同法学▽同工業(旧高等工業)▽同経済(同高等商業)▽同鉱山などが、私立では普成▽延禧▽セブランス連合医科▽梨花女子などがあり、これらの多くは戦後、韓国の大学となった。
中学は、主に日本人が通う中学校と朝鮮人が通う高等普通学校、さらには内鮮共学校など多数の学校があった。中でも、京城中と龍山中はライバル関係にあり、上級学校へのエリートコースである京城帝大予科への進学者数でも、しのぎを削っていた。
 龍中25期生で昭和20年に城大予科(理科)へ進んだ山田卓良(たかよし)(89)は、「両校の違いは居住地によるところが大きかった。(陸軍第20師団司令部などがあった)龍中は軍人の子弟が多く、京中は、官僚や会社員の家庭が多い。よきライバルだったのは間違いないでしょうね」。野球の夏の甲子園出場回数では、京中5回(最高ベスト8)に対し、龍中は1回。戦後はともに韓国の名門高校となった。
 師範学校に高等女学校、実業学校…日本は、朝鮮各地に多くの中・高等教育機関をつくったが、戦後、個人的な関係を別にすれば、多くの学校で、彼我(ひが)の国同士の公式的なつながりはなくなってしまう。
 こうした中で、内鮮共学の京城旭丘中(公立)の日韓の同期生でつくった卒業アルバムに日本人卒業生の近況を知らせる写真や文章が掲載されているのは珍しいケースだろう。5期生の齊藤雄一(86)は、「(内鮮共学は)当時の国策だったと思う。クラスには何の差別もなく仲良くやっていましたよ。慰安婦像を建てては『反日』を掲げて騒ぐ今の方に、大いに違和感を覚えてなりません」=敬称略、日曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(11)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
◎家族と引き裂かれ友は殺された(11)「赤化・北朝鮮」に残された邦人
 北朝鮮の初代最高権力者、金日成が初めて公に朝鮮の民衆の前に姿を見せたのは、終戦直後の1945年10月14日、平壌で開かれた集会でのことだった。当時、33歳。伝説の抗日の闘士「キムーイルソン」の登場を待ちわびていた数万の民衆は、あまりの若さを訝(いぶか)しがり、「偽者じゃないか」と騒ぎになったのは有名な話である。
 金日成は、朝鮮半島の北半分を占領したソ連(当時)によって。”仕立てられた”リーダーだった。だが金は、ソ連派、中国派、国内派(南労党派)などの政敵を次々と粛清・排除し、’次第に唯一無二の独裁体制を固めてゆく。日帝の軍隊をさんざん打ち破った。百戦百勝の鋼鉄の霊将”などと神格化を図り、社会主義にはあるまじき「三代世襲」を正当化する荒唐無稽な物語が紡がれた…。
 金日成が登場したころ、朝鮮の北半分には、30万人を超える日本人がいた。技術者や工場労働者も多い。
朝鮮半島の南半分が「農」中心の地域とすれば、北は「鉱工業」の地域であったからである。
 朝鮮と満州(現中国東北部)の境を流れる鴨緑江水系の電源開発を進め、当時、東洋一と謳われた水豊ダム(発電容量70万キロワット)などを建設。その電力を利用して、やはり東洋一の化学コンビナート、興南工場がつくられた。さらに、戦前の日本の最高水準の技術・人員を投入して多くの鉱山、工場が北半分で開発・建設されている。
 終戦直前に侵攻してきたソ連軍は。火事場泥棒”のごとく、めぼしい設備や機械を、せっせと鉄道で持ち去ってゆく。
残された工場などは各地に設立された人民委員会の管理に移され、朝鮮人が日本人を使って稼働を続けさせた。
 米軍が占領した南半分との境界である「38度線」はすでに封鎖されており、残された日本人は動くに動けない。さらに、陸続きの満州からも大量の避難民が押し寄せていた。
 作家、新田次郎の妻、数学者の藤原正彦(74)の母である、藤原ていが書いた『流れる星は生きている』は、3人の幼子と満州の新京(現中国・長春)から朝鮮半島を経て日本へ引き揚げるまでの生き地獄のような日々を綴った不朽の名作である。暴行、略奪、飢餓、疫病、寒さ、疲労、避難民の対立…朝鮮北部だけで3万人以上の日本人が亡くなったという。
 そして、懸命に命をながらえながら引き揚げを待つ日本人も、赤化されてゆく社会で「南半分」とは違う恐怖と苦しみを味わわされることになる。
■「僕は生きたい」
 佐藤尚(86)は、日本海側の港町、清津の中学(旧制)2年生だった。両親と兄、妹の5人家族。ソ連軍が侵攻してきたのは昭和20年8月13日、関東州の旅順高(旧制)に通っていた兄を除き、4人が清津の自宅に残っていた。
 海上からの激しい艦砲射撃に続いて次々とソ連兵が上陸してくる。避難勧告が出されたその日の夕方。銃弾がビュンビュンと飛び交うギリギリの状況の中で、尚は、父親から。究極の選択”を迫られる。
 「私たちはここ(清津)に残る。お前はどうする、生きたいか?」
 母親の病が重く、動かせる状態ではなかった。すでに医師もいない。妹は逃げるには幼すぎた。つまり、1人で逃げられる可能性があるのは、13歳の尚だけだったのである。
 「僕は生きたい」と答えた尚に父は、幾ばくかのお金と食料、衣服をリュックに詰めて裏口から送り出してくれた。ひたすら歩き、何とか無蓋貨車に乗り込んで南下を続け、途中で親類の一家と合流。南との境にそびえる金剛山を、ようやく越えられたのは、翌年の6月のことだった。
 そして、尚は、ある避難民から家族の最期を聞かされることになる。別れた翌日の8月14日、父は、母と幼い妹に薬を飲ませて見送った後、ソ連兵に撃たれて亡くなっていたという。
 「ギリギリの判断だったと思う。私かもう少し、小さかったら、1人では帰れなかっだろう。あまりにもつらい経験なので長い間、誰にも話せなかった」
 両親と妹の遺骨がどこに眠っているのか。尚は、それを知るすべもない。
■子供のおもちゃなのに
 平壌一中(旧制)3年生だった藤澤俊雄(87)は同級生と一緒に突然、平壌の警察署から呼び出しを受けた。遊び道具として、車の廃品からつくった模造品の短刀を所持していた容疑だったという。
 「人民委員会傘下の保安隊だったのか、警察だったのか…短刀で朝鮮人を襲うつもりじゃないか、と疑われたようでした。殴る蹴るなどはなかったが、友人のことをしつこく聞かれた。
たまたまそこに中学の校長先生がいて『日本人だろ、毅然としろ』といわれたことを覚えています」
藤澤は半日で帰されたが、一緒に引っ張られた友人はいつまでたっても帰ってこない。やがてその友人が警察で殴り殺された、と人づてに聞き、藤澤は愕然とする。「たかが子供のおもちゃですよ。素直に話さなかったのか、態度がよくなかったのか、事情は分からない・・・私も紙一重の命だつたんでしょうね」
 満州との国境の街・新義州中(旧制)2年の太田房太郎(86)も、保安隊による銃撃事件に遭遇し、若い学生が殺されたところを目の当たりにする。後に「義挙事件」として知られることとなる、共産主義者に反発する朝鮮人学生が起こした蜂起事件だった。
 太田らは、事件の鎮圧にあたっていたであろうソ連兵に誰何される。「トラックの上で機関銃を構えたソ連兵に『ストーイ(止まれ)』といわれ、日本人か、朝鮮人か、と聞かれたんです。たまたま学生服を着ていて学生証を持っていたので解放されました」
 だがこのとき、一緒にいた朝鮮人の保安隊員から日本語で「行け、だが後はどうなっても知らんぞ」といわれたときは、生きた心地がしなかったという。「若い学生を容赦なく撃ち殺したのを見ていましたから。
 命からがら家にたどり着き、両親の姿を見たときは張り詰めた緊張が一瞬にして解けたようでした」=敬称略、日曜掲載
  (文化部編集委員 喜多由浩)

金日成・金正日の銅像に参拝する一般市民
朝鮮時代の佐藤尚さん

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(10)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
「日本がつくった」と、なぜ言わない?! (10)鉄道と水道の密接な関係
2018.3.18

 『時刻表でたどる特急・急行史』(JTB発行)に掲載されている昭和17(1942)年10月の時刻表を見ると、「のぞみ」は、関釜連絡船(下関-釜山)が着く釜山(桟橋)を午前8時に出発、鮮鉄・京釜線の大邱、大田などを経て午後4時45分に京城(現韓国・ソウル)到着。京義線に入って、平壌着が夜の9時43分。満州との国境・鴨緑江を渡って終着の新京(現中国・長春)は翌日昼の1時50分着となっている。

 一方の「ひかり」は、昼夜逆の運行で、釜山を夜の7時45分出発、新京着は翌日深夜の11時6分(終着駅はハルビン)。鮮鉄部分(釜山-新義州)が約950キロメートル、満鉄部分(安東-新京)が約580キロメートル、計約1530キロメートルをいずれも一昼夜と少しで結んだ。どちらも1、2、3等車、食堂車、寝台車などを備えた豪華編成列車。さらに昼間走る特急として「あかつき」があり、釜山-京城間を約7時間で走った。
当時、内地と満州を結ぶルートは主に3つ。他に、日本海側の敦賀(つるが)まで鉄道で行き、船で日本海を横断する▽神戸・門司から日満航路の船で大連(関東州)へ着く-方法があったが、朝鮮経由が最も早かった。鮮鉄は、日本から満州やその先のヨーロッパへ向かう足がかりとなったのである。また、京城、平壌などの都市には路面電車も順次、整備され、市民には欠かせない足となってゆく。

 19世紀末から始まった朝鮮の鉄道網建設は急ピッチで進められ、終戦までに総延長約5000キロメートルに達した。鉄道事業収入は、慢性的な歳入不足に悩む朝鮮の財政に大いに貢献したが、新線建設や運営コストも重くのしかかり、費用調達のために巨額の公債を発行せねばならなかった。

 昭和8年度の朝鮮総督府特別会計予算を見ると、鉄道収入約6500万円(歳入全体の28%)に対し、経費は約6900万円で、約400万円の赤字。経費から鉄道建設・改良費を除いた数字でやっと約1500万円の黒字となる。

 この鉄道と水道は一見無関係のようで実は不可分のつながりがあった。

■劣悪だった水環境
 当時の鉄道は蒸気機関車(SL)だ。ボイラーで大量の水を石炭で燃やし、蒸気の力で駆動させる。だから沿線各所に給水所がないとSLは走れない。

 朝鮮の上水道整備も鉄道建設と合わせて日本統治時代に急速に進んでいる。それまでの、水をめぐる環境は劣悪であった。

 昭和12年の業界誌に開城(現北朝鮮)の上水道事業について書いた一文が残っている。

 《朝鮮の開城府は高麗朝500年間の都…昭和5年の府制実施時には鮮内有数の都市にして人口約5万(略)市街一体井(戸)水に乏しく且(か)つ飲料に適するもの稀(まれ)なるを以(もっ)て一朝(いっちょう)悪疫の発生あらんか、その惨害蓋(けだ)し戦慄すべきもの…上水道の建設は亦(また)実(じつ)に喫緊の急務なりとす》

 日本の水道技術は当時からトップレベルにあった。世界でも少ない「飲める水」を蛇口から供給できるのが今も昔も日本の水道技術の自慢である。そのために良質の水源を見つけて取水し、導水し、浄水施設で濾過(ろか)しなければならない。こうした技術と資金を投入し、12年の段階で、朝鮮の約60都市に、上水道を建設。住民の衛生環境も飛躍的に改善した。

■戦後も日本の技術で
 日本が関与した水道の話は戦後も続く。
 日韓の国交が正常化した昭和40(1965)年、当時の韓国国家予算を上回る5億ドル(有償・無償)の巨費が日本から供与されたことはすでに書いた。この資金を利用して、老朽化や供給量不足に陥っていた韓国約10都市の上水道を再整備する計画が持ち上がる。

 実際には、新日鉄(現新日鉄住金)が全面協力した韓国東海岸・浦項(ポハン)製鉄所の建設にも、その資金が回されたため、水道整備計画は縮小されたが、これを担当したのもまた日本の技術者だった。当時の韓国にはこうした技術がなく、日本に頼るほかなかったからである。

 東大名誉教授(衛生工学)の藤田賢二(83)は当時、水道メーカーの技術者として、1960年代後半から70年代にかけて韓国での事業を担当した。大田(韓国中部)、光州(同南部)2都市の取水・導水・浄水施設の計画、設計、建設に携わり、冷却水などに大量の水を使う浦項製鉄所の案件も担当した。渡韓は数十回に及ぶ。「当時はまだ日本語をできる人がたくさんいて、鳶(とび)職人のかけ声などは、日本とまったく同じだったので驚きました」と懐かしむ。
ただ残念なのは、こうした水道施設が日本の資金・技術でできた事実を韓国では“封印”されてしまうことだった。

 光州の通水式で、あいさつに立った市長は「われわれだけの力で水道建設が行われたことはまことに喜ばしい」と話し、日本のにの字も口にしなかった。また、藤田が数年前に大田で開かれた水道関係の国際会議に出席したときも、市の浄水施設ができた経緯を参加者の誰も知らなかった様子だったという。

 藤田は言う。「(光州の市長のあいさつを聞いたときは)苦笑いでやり過ごしたが、じゃあ、なぜ通水式の場に日本の技術者が出席してるのかってね。僕がメーカーを退職した後も、後輩たちが韓国の水道事業に貢献しています。だけど記念碑もないし、(技術者の)名前も残らない。まぁわれわれ技術者は、ちゃんとものが動きさえすればいいんですけれど…」=敬称略、日曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (9)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(9)日本がつぎ込んだ巨額資金 「痛い目」を何度見れば… 2018.3.11
 競技よりも当初は「南北」による政治ショーの方に注目が集まった平昌五輪。「行かぬ」と、一旦は決めたはずの日本首相が開会式に出席したのは、アメリカの圧力か、与党内の一部の意見に妥協した結果か、は知らない。だが、案の定というべきか。韓国大統領との首脳会談で改めて慰安婦問題の合意履行を迫ったものの、相手側は“馬の耳に念仏”のごとし。さりとて、日本政府が拠出した10億円を返す気配もない…。
 国同士の約束事をいとも簡単にホゴにしてしまう不誠実な態度に、多くの日本人は怒り心頭だが、日本と朝鮮半島の「お金」をめぐる、これまでの歴史を振り返れば、相手側の対応も別段、驚くには当たらない。
 今さら言うまでもないが、そもそも「戦後補償」なる問題は、昭和40年の日韓請求権・経済協力協定によって、すべて「解決済み」である。日本は、5億ドルという当時の韓国国家予算を上回る巨額の資金供与(有償・無償)を約束し、お互いの請求権問題は、完全かつ最終的に解決していたからだ。
 つまりこのとき、韓国側だけが、請求権を放棄したのではなくて、日本も、公的資産のみならず、朝鮮の地で個人が築き上げた私的財産まで、すべて最終的に放棄させられたことを忘れてはならない。
韓国が、日本から得た資金やベトナム戦争に韓国軍を派兵する“見返り”としてのアメリカからの援助などによって、1960年代後半以降、「漢江(ハンガン)の奇跡」と呼ばれる高度経済成長を成し遂げたのはよく知られている通りだ。
 だが、韓国側はその後、司法も加わって、「個人の請求権は消滅していない」とか、「(国交正常化した日韓基本条約の交渉時に)慰安婦などの問題は明らかになっていなかった」などと主張し、いっこうに矛を収めようとしない。日本政府側の「詰めの甘さ」も相まって、ウンザリするようなマネーバトルが繰り返されてきたのである。
 実は、「お金」をめぐるゴタゴタは、日本が朝鮮に関わりはじめたときからすでに起きていた。
▲内地より安かった税金
 日韓併合(明治43=1910年)前の、大韓帝国時代の財政は、中央・地方とも予算が組めないほどの破綻状態。このため日本政府は、それまでの借金を“棒引き”にした上、毎年の歳入不足分を、保護国時代は「立替(たてかえ)金」、併合後は「補充金」などとして、一般会計から補填(ほてん)し、帳尻を合わせねばならなかった。朝鮮開発のインフラ整備の原資となった公債の多くを引き受けたのもまた、日本(金融機関など)である。
いったいどれだけの額を日本が負担してきたか。朝鮮総督府財務局長を務めた水田直昌監修の本『総督府時代の財政』から、昭和8(1933)年度の「朝鮮総督府特別会計予算」の例を挙げてみたい。
 歳入総額は、約2億3200万円(現価で4兆6千億円前後)。
 このうち、最も多いのが、官業および官有財産による収入だ。鉄道収入約6500万円▽専売収入約4千万円▽通信収入約1500万円-などで、歳入総額の約55%を占めている。一方、租税収入は、約5千万円で、全体の2割強でしかない。通例、先進国では、全収入の半分以上を租税が占めるケースが多いのだが、当時の朝鮮の経済力は、それだけの税負担に耐えうるまでに発達していなかった。
 時代劇では、悪辣(あくらつ)な領主が高い年貢をかけて農民を苦しめる、と相場が決まっている。だが、統治者・日本はこうした状況を鑑みて、朝鮮の税金を基本的に内地よりも低めに設定せざるを得なかった。昭和17年度朝鮮総督府予算に就(つ)いてという講演の中で、水田はこう語っている。《(内地の)所得に対する税負担の割合は約1割4、5分。(朝鮮の)割合は1割に満たないのであります》
いったいどれだけの額を日本が負担してきたか。朝鮮総督府財務局長を務めた水田直昌監修の本『総督府時代の財政』から、昭和8(1933)年度の「朝鮮総督府特別会計予算」の例を挙げてみたい。
 歳入総額は、約2億3200万円(現価で4兆6千億円前後)。
 このうち、最も多いのが、官業および官有財産による収入だ。鉄道収入約6500万円▽専売収入約4千万円▽通信収入約1500万円-などで、歳入総額の約55%を占めている。一方、租税収入は、約5千万円で、全体の2割強でしかない。通例、先進国では、全収入の半分以上を租税が占めるケースが多いのだが、当時の朝鮮の経済力は、それだけの税負担に耐えうるまでに発達していなかった。
 時代劇では、悪辣(あくらつ)な領主が高い年貢をかけて農民を苦しめる、と相場が決まっている。だが、統治者・日本はこうした状況を鑑みて、朝鮮の税金を基本的に内地よりも低めに設定せざるを得なかった。昭和17年度朝鮮総督府予算に就(つ)いてという講演の中で、水田はこう語っている。《(内地の)所得に対する税負担の割合は約1割4、5分。(朝鮮の)割合は1割に満たないのであります》
税金が取れず、歳入が不足する分を、日本の一般会計から補っていたのが「補充金」だ。8年度は、1285万円(同2600億円前後)で、歳入総額の5・5%。この補充金は、大正8年にいったんは中止されたが、すぐに財政が立ち行かなくなって翌年には復活。終戦までの総額は、約4億2020万円(同8兆4千億円前後)の巨額に上っている。
 そして、昭和8年度の公債が、3300万円(歳入総額の14・2%)。主に日本人が購入した公債によって朝鮮の鉄道、道路、港湾、電信電話などが、着々と整備されていった。
▲17兆円の日本の資産
 前述書は、こう結論づけている。《昭和20年8月15日、朝鮮が独立国として立ち上がった時(とき)の日本内地と朝鮮との貸借対照表は、政府、民間を通じ資金において日本からの多額の流入、すなわち朝鮮の「借」が計上される状態にあったという事実は、植民地搾取という抽象的概念の当たらないことを示している》と。
 日本が終戦時に朝鮮に残した総資産は、実に計約17兆円に上るという試算もある。韓国が理不尽な主張を繰り返すのであれば、「日本人の資産を返せ」と言い返すぐらいの気迫がなければ永遠に解決しないだろう。=敬称略、日曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(8)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(8)感謝された初等教育 「北の2人の母」も日本と関わり
   2018.3.4

 北朝鮮・朝鮮労働党委員長、金正恩(キム・ジョンウン)の母親は、昭和27年、大阪に生まれた高英姫(コ・ヨンヒ)とされている。過去には日本生まれの経歴に触れないまま、何度か「偶像化」が図られたが、うまくはいかなかった。最近、北朝鮮を訪れた在日コリアンは彼女の名前を出したとき、監視役を兼ねる案内員から「その名前は絶対に口にしてはいけない」と厳しくとがめられたという。
 なぜ、「日本との関わり」を隠そうとするのだろうか。抗日パルチザンとして、日帝の軍隊をさんざん打ち破った百戦百勝の将軍などという“盛りに盛った”祖父、金日成の経歴に今さらキズがつくというわけでもあるまいに…。
 昨年2月、マレーシアの空港で金正恩の兄、正男(ジョンナム)が猛毒のVXを浴びせられて死亡した事件の「背景」にも、母親の“出自コンプレックス”があったという見方が出た。正男の母親、成蕙琳(ソン・ヘリム)は、映画女優出身で夫がいたのに、兄弟の父親である金正日が強引に略奪したとされている。
 だが、実は幼時における「日本との関わり」という点で、兄弟の母親たちは戦中、戦後の違いはあるが、2人とも同じなのだ。
■反目やいさかいなし
 日本統治時代の朝鮮随一の名門校であった京城師範附属(ふぞく)小学校。この学校は同じ敷地内に、主に日本人が通う第一小と、朝鮮人の第二小があった。
 説明が必要だろう。朝鮮の教育近代化を進めた日本は学校建設にあたって、「国語(日本語)能力の違い」によって初等教育を小学校(日本人)と普通学校(朝鮮人)に分けた。朝鮮人児童は、学齢期になるまで家庭では朝鮮語しか使っていないからである。
 もっとも、軍人や官吏、名家の子弟など一部の朝鮮人児童は日本人の小学校に通っていたから「差別」と映ったかもしれない。2つの学校名称はその後、「小学校」→「国民学校」と統合されたが、内鮮の区別は最後までそのままだった。
 京城師範附属小にも2つの学校が存在した。昭和12年生まれとされている、金正男の母、成蕙琳は終戦時、その第二小に通う児童だったのである。
 同小で成蕙琳の兄と同級生だった金昌國(昭和8年生まれ)が『ボクらの京城師範附属第二国民学校』の中で、彼女の思い出に触れている。《私はずっと副級長だった…級長になれない理由はただ一つ、クラスには成田君(※成蕙琳の兄)がいたからである。(略)成田君にはかわいらしい妹が二人いて、兄妹三人で登校していた。学校でも時どき兄である成田君に会いにきた…見当たらないと「お兄ちゃんは、どこ」と聞いてきた。かわいらしい妹たちであった》
 この末妹が成蕙琳であった。戦後、一家は北へ渡り、成蕙琳の姉は正男の家庭教師をしていたと伝えられる。
『日本統治時代を肯定的に理解する 韓国の一知識人の回想』を書いた朴贊雄(大正15年生まれ)も同小の卒業生だ。いい思い出が圧倒的に多い。《(第一、第二小は)それぞれの運動場を中にして隔たっていた。しかし、僕らは六年間を通して第一附属の日本人学生と反目や諍(いさか)いに及んだ覚えはない》
 また、4年生のときに新築された校舎が当時、京城帝大にもなかった水洗トイレだったことを記した上で、朴はこう書く。《その新築校舎を日本人児童にあてがって、朝鮮人の方にはお古の校舎を授けたところで何ら問題はなかったはずである。しかし新築の校舎をチャンと(朝鮮人の)児童らに渡したのは、当たり前と言(い)えばそれまでだが、僕は内心感心した》
 まさに、“お人よし”の日本統治をしのばせるエピソードではないか。
■お人よし日本人児童
 今年1月、98歳の誕生日を迎えた上野瓏子(ろうこ)は、日本人と朝鮮人児童の両方の小学校で教壇に立った貴重な証言者だ。2年前、その思い出を『おばあちゃんの回想録 木槿(むくげ)の国の学校 日本統治下の朝鮮の小学校教師として』に書いた。
大正9年、朝鮮南部の全羅南道生まれ、高等女学校を出て、昭和14年、朝鮮人児童が通う榮山浦南小学校の代用教員に。月給40円(現価で8万円前後)は翌年、正式な教員となって、外地手当や住宅手当など約30円も加えられた。
 朝鮮人児童の月謝は55銭(同1千円前後)で、低く抑えられていたという。小学校への入学者は年々増加し、《入学児童数は、男子の方が多く、年齢も揃(そろ)っていて、ほぼ全入に近い状態でした》(同書)と書いている。校長は日本人で、教頭職は朝鮮人。教員は両者半々である。
 19年、今度は日本人児童の月見小学校へ。朝鮮人児童との気質の違いにふれたくだりが興味深い。《日本人の子どもたちの一番の特徴は、闘争心に欠けるということです。しかも、大変お人よしでした。よくいえば、寛容ともいえます》。何やら現在の日韓、日朝関係を思い起こさせる。
 一方で、父親が朝鮮人で成績優秀だった児童を、上野が級長にしようとしたところ、日本人校長が難色を示したというエピソードも記している。統治民族と被統治民族が「イコール」だったわけではない。
上野は実際、どう感じていたか。高齢のため筆談によるインタビューで、「日本の教育を一般の朝鮮人がどう受け取ったかについては、よく分かりません。ただ、戦後の韓国の教育改革に尽くした方(※韓国人)は、統治下の日本の教育が韓国の教育制度の根幹をなしていることや人材の育成の大切な土台となっていることに感謝されています」と。韓国人でも、分かっている人は分かっている。=敬称略、日曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(7)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(7)
京城帝大の「終戦」 なごやかに引き継いだ日朝師弟
2018.2.25

 東亜同文書院は、近衛篤麿(あつまろ)(首相を務めた近衛文麿の父)の提案で、上海につくられた。明治34(1901)年から終戦まで外交官やビジネスマン、研究者など多くの中国のエキスパートを送り出している。同じようにロシアの専門家を育成する目的で後藤新平(初代満鉄総裁、東京市長)の肝煎りで満州に創設されたのが哈爾濱(ハルビン)学院(後にいずれも大学に昇格)だ。「命のビザ」の杉原千畝(ちうね)は同学院で学び、教鞭(きょうべん)も執っている。
 日本が外地(台湾、朝鮮、満州など)に設けた学校は終戦で順次、閉鎖を余儀なくされた。愛知大学は、それらの学校から引き揚げてきた教員・学生の受け皿となるべく、東亜同文書院最後の学長だった本間喜一が中心になって昭和21年、愛知県豊橋市につくった学校である。
 愛知大草創期の教員名簿を見ると、東亜同文書院出身者と並んで、台北、京城の両帝国大学の元教授が多い。最高裁判事を務めた園部逸夫(いつお)(88)の父親で台北帝大教授(行政法)だった園部敏もそのひとりだ。逸夫は昭和4年、父が京城法学専門学校で教えていた関係で朝鮮で生まれ、旧制台北高校から終戦後、四高(金沢)へ転入、京大へ進んでいる。
京城帝大(城大、予科を含む)教授→愛知大への転出組は10人以上だ。民法などを担当した松坂佐一(さいち)(監事、予科長、教授)は後に名古屋大総長、経済原論などを受け持った四方(しかた)博(理事、教授)も後に岐阜大、愛知県立大の学長になった。“京城帝大人脈”が、多くの枢軸ポストについていたことが分かる。
 ◆引き揚げ時期で明暗
 京城帝大予科に在籍していた学生も内地(日本)の旧制高校などへの転入を迫られる事態となった。
 昭和20年4月、約14倍の高い競争率をくぐりぬけてせっかく入ったばかりの城大予科(理科)1年の山田卓良(たかよし)(89)は4カ月で終戦を迎え、翌年、旧制佐賀高へ転入、大阪帝大へと進んでいる。やはり、終戦の年に予科(文科)へ入学した船越一郎(89)は、旧制松江高→九州帝大へ進学した。
 山田の集計によれば、終戦時、城大予科に在籍していた日本人463人のうち、内地の旧制高校へ転入したのは313人。山田は、「六高(岡山)など空襲で校舎が焼けて受け入れられなかった学校もあったが、ほぼ全国の高校が受け入れた。特に朝鮮と近い九州の高校(五高、七高、福岡高、佐賀高)は多かった」という。
ただ、米軍が占領した朝鮮半島の南半分(現在の韓国)のように、終戦翌年にほぼ引き揚げができた地域はよかったが、ソ連(当時)軍占領地域(満州=現中国東北部や朝鮮北半分=現北朝鮮)は引き揚げが遅れたり、シベリア抑留によって大きなハンディを背負わされたりした。日本へようやく戻れたときには、受け入れてくれる学校がなく涙をのんだ人も少なくない。
 福岡の旧制中学、伝習館から昭和17年に城大予科(文科)へ入学した宮本弘道(94)は、法文学部在学中に入隊、終戦後4年間、ソ連に抑留され、ようやく引き揚げてきたときには、GHQ(連合国軍総司令部)によって旧制→現在の新制への学制改革が進められていた。「城大法文学部の先生が東大法学部へ移っていて声をかけてくださったが、今さら新制大学かと思い、行かなかった。戦争がなかったら、高等試験(現在の公務員上級試験に相当)を受けて官僚になっていただろうね」
 ◆朝鮮学生も悲痛の涙
 終戦時の城大の様子については多くの記録が残されている。「紺碧(こんぺき)遙(はる)かに-京城帝国大学創立五十周年記念誌」は、《終戦の日、教授・職員・学生約二百名が集まってラジオ放送をきいた。約百名の学生中、朝鮮人学生もいたが、ともに「君が代」を合唱し、敗戦に悲痛の涙をしぼった。しかしその翌日には、大学内の朝鮮人職員をもって「京城大学自治委員会」が結成され、朝鮮人学生も参加した。山家(信次)総長に学内の警備、文化財の保管責任の委譲を要求し、学内の室の鍵(かぎ)を求めた。十七日には大学の門に太極旗が掲げられ、表札には、新しく「京城大学」と書いた紙がはられ、医学部の表札からは「帝国」の二文字が消された》と記している。
終戦を予科の寮で迎えた船越は翌日、汽車で実家があった朝鮮中部の群山へ帰った。「終戦の日も寮で夕食を食べ、みんなで雑談をしていたくらい。群山へ行くと、暴動もなく街は落ち着いていた」と話す。
 11月初めには城大の日本人教授の解任式が行われた。後任には朝鮮人の助手や教え子が就くケースが多く、《なごやかな師弟愛の中に、教授は後継者にノートや資料を渡し、自分の図書の保管を依頼した》(同記念誌)とある。
 こうした「事実」を知る関係者も少なくなった。城大の関東地域のOBが毎月1回集まっている「一水会」は現在も続いているが、往時数十人の出席者も今では、宮本、船越、山田ら数人のみである。=敬称略、日曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて「朝のくに」ものがたり】(6)

【海峡を越えて「朝のくに」ものがたり】(6)
卒業生が新しい国造与に貢献 韓国に息づいた城大人脈
2018.2.18

 韓国の朴槿恵の母で、朴正煕元大統領の妻、陸英修は「国母」と呼ぼれ、国民に愛された。1974年8月15日、陸は、ソウルの国立劇場で朴正煕大統領の暗殺を狙った在日朝鮮人、文世光の銃弾に当たって死亡する。夫の朴正煕もまた5年後、同郷の腹心であった韓国中央情報部(KCIA、当時)部長の金載圭に宴席で撃たれ、非業の死を遂げている。
 京城帝国大学予科で戦揃、教官を務めていた陸芝修(1906~67年)は、陸英修の親類だ。旧制八高(名古屋)から東京帝大卒。戦後はソウル大教授(経済地理学)となった。
朴正煕も日本がつくった学校と縁が深い。大邱師範を出て教職に就いた後に軍人
を志し、新京(現中国・長春)にあった満州国軍の陸軍軍官壬官)学校の受験を決意。年齢制限を超えていたが、強い熱意を訴えて特別に認められ、当時の新
聞に載ったほどである。
 朴は、満州の軍官学校(2期)予科を首席で修了、本科は日本の陸軍士官学校(57期)への留学を許される。終戦時は、満州国軍中尉だった。
 長々と書いたのは彼らの「親日」ぶりをアピールする意図ではない。優秀な研
究者、軍人であった彼らの進学コースが当時は当たり前だった、ということを分
かってほしいのである。
■ソウル大が「後身」
 終戦後、連合国軍総司令部(GHQ)民間情報教育局の仕事をするため、。日本に滞在していた陸芝修は、昭和27(1952)年3月付で、京城帝大同窓会誌に、「その後の城大(京城帝大の略称)」という一文を寄せている。
 《終戦後の城大の変貌をお話しましょう。城大は1946年の(米)軍政時代に、文字通りの発展的解消をとげました。即ち軍令により(同年)「国立ソウル
大学校」が設立されました。城大の法文学部のうち、法科は京城法専と合併して法科大学(学部のこと)に、医学部と医専が医科大学に・・・これらの単科大学
が総合大学たるソウル大学校になったのです》
 この文が書かれた昭和27年は、朝鮮戦争(1950~53年)の最中、日韓国交
正常化(昭和40年)の13年前である。陸は、戦争による爆撃で、懐かしい予科の校舎がなくなったこと。戦後の韓国で、かつて専門学校だった「延禧(現・延世大)」「普成(同高麗大)」などが大学へ昇格したことを報告しているが、中でもソウル大の人気が格別なのは「45万以上の蔵書を持っていること」が原因だと誇らしげに書いている。
 陸が言うように、ソウル大は、京城帝大の校舎・教員・蔵書などを引き継いで
できたのだ。韓国建国(1948年)直後にソウル大へ入学した80代のOBは。
 「当時は京城帝大の影響が色濃く残っており、ソウル大の前身であることは言わずもがなでした。城大などつくってもらわずとも朝鮮人の手で民立大学ができたというひとがいるけど、実際には、そんな力はなかったと思いますよ」。
■一番良かった時代
 京城帝大の日韓のOBは戦後もわだかまりなく交流を続けてきた。日本側の同
窓会誌には、昔を懐かしむ韓国人OBによる投稿も数多く寄せられている。
 予科(理科)に在籍した閔建植は《終戦後、日本の級友に出合うとこちらは何
とも思っていないのに相手側はよそよそしい態度をとったのはとても変な気分だ
った(略)僕らの一生で一番良かった時代…ただ残念なことは今は国が違い、自
由に同窓会に参加できないこと、後続者のいない淋しさ。最後の一人になるまで
懐かしい同窓会が続いてゆくことを切望している》
 戦後、日韓会談の首席代表や高麗大総長を務めた兪鎮午(1906~87年)は創設時に予科に入学した1期生(法文学部卒)だ。兪は、朝鮮人による民立大学
運動を総督府が邪魔をした、と指摘しながらも。
 《・・・朝鮮内に初めて大学ができた、その予科に初めて入るのだというので、ただうれしいだけだったのは本当の話です。総督府が民立大学を邪魔して、代わりに入れというから不愉快だったというような気持ちは別になかった訳です》
 さらに終戦後には、《京城大学の卒業生がー技術的な方面で新しい国をつくる
際に大変働いた。まあ、貢献した訳です。特にその中でも、韓国の大学教育を建
設する事業に、卒業生が大挙して参加した訳です)
 (『紺碧遥かにー京城帝国大学創立五十周年記念誌』から)とふりかえっている。
 もちろん、被統治民族ゆえの葛藤や差別、苦しみを書き残しているOBもい
る。だが、それは旧友への思いや勉学ができた喜びを打ち消すものではない。
 平成8年には、韓国OBの招きによって、日本の同窓生が訪韓し、ソウルで約
70人による合同の同窓会も開かれている。参加した予科(文科)出身の船越一郎(89)は、「てっきり向こう(韓国)では『京城』や『帝国大学』の言葉を使っちゃいけないのか、と思っていたら、歓迎の垂れ幕に『京城帝国大学』の文字が書いてあり、感激しましたね。会話はもちろん日本語、政治家や弁護士になっていた人もいましたよ」と懐かしむ。
 だが、高齢化によって交流は次第に途絶えていく。現在、日本のOBとソウル
大との間には何のつながりもない。韓国では、これから「京城帝国大学」のこと
を誰が語り継いでいくのだろうか。
   =敬称略、日曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(5)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(5)
「外地初」となった京城帝大 豪華な教授陣と恵まれた設備
2018.2.11


 京城帝国大学とは、どんな学校だったのか。
 大正13(1924)年、帝国大学では6番目の創設、外地としては初めての帝大で、大陸(満州、朝鮮)唯一の総合大学…。大学本部、法文・医・理工の3学部、予科、付属病院、各種研究所、図書館、運動場などを合わせた敷地面積は計約40万坪に及ぶ。
 教授陣の顔ぶれも豪華だった。15年に学部が発足したときの医学部長は、赤痢菌の発見で知られる志賀潔(きよし)(後に総長)、法文学部長は、哲学者の安倍能成(よししげ)(後に旧制一高校長、文相、学習院長)。学校運営に年間300万円(現価で60億円前後)以上(昭和16年度)の予算が組まれた。
 朝鮮よりも15年早く、日本の統治が始まった台湾は、先を越されて悔しがったらしい。予科の国語教授(生徒監)だった近藤時司は同窓会誌で次のようなエピソードを披露している。「(朝鮮総督府の)政務総監が台湾総督府の総務長官と一緒になり、京城に帝大をつくるのだと、得意になって話した。当時予算は台湾が黒字で、朝鮮は赤字(※歳入の不足分を日本政府が補填(ほてん)した)だった。赤字の朝鮮がやるのなら台湾も…」。台北帝国大学の創設は遅れること4年、昭和3年のことだった。
同じ大陸で日本が強い影響力を行使した満州など現中国東北部には、奉天(現瀋陽)に満鉄がつくった満州医大や、旅順工大などいくつも名門単科大学があったが、帝国大学も総合大学もできなかった。
■全朝鮮青年の登竜門
 京城帝大の「特色と使命」について、学部開設を目前に控えた大正15年3月の帝国議会答弁で、湯浅倉平総長(事務取扱)はこう答弁している。
 《朝鮮の古代に発達しております支那大陸の文化、これを朝鮮がわが国に紹介し伝達をいたしました。(略)京城に設置されます帝国大学におきましては特に朝鮮の文学、朝鮮の歴史、これ等(ら)の点につきまして内地の各大学と異なった点に格別の注意をなすことになっております》(『紺碧(こんぺき)遙(はる)かに-京城帝国大学創立五十周年記念誌』)
 朝鮮の伝統を生かしつつ、朝鮮に生まれ、朝鮮の近代化に尽くす人材を育成する-この方針は、予科設置時にも貫かれた。基本的に上部の大学(この場合、京城帝大)にのみ進学する大学予科ではなく、当初はどこの帝大にも進学可能な高等学校(旧制)を設立する話があった。だが、それでは「内地(日本)からの受験生が殺到してしまい、朝鮮の学生の教育機会が奪われてしまう」として、予科(2年制、後に3年制)になった経緯がある。
伝統的に「文科」優位の意識が強い朝鮮においては特に法文学部の人気が高く、高級官僚の登竜門であった法学科の昭和4~17年の卒業生数は、日本人350人▽朝鮮人339人とほぼ拮抗(きっこう)。高等試験(現在の公務員上級職試験に相当)に合格して、朝鮮総督府の官僚や判事・検事の道へ進んだ朝鮮人も多かった。ちなみに同時期の医学部卒業生数は日本人647人▽朝鮮人240人で、こちらは圧倒的に日本人が多い。
 内地から京城帝大を受験し、朝鮮建設に身を投じた日本人も少なくない。
 戦後、警察官僚となり、埼玉県警本部長、大分県副知事などを歴任した坪井幸生(さちお)は、大正2年生まれ。大分の中津中学(旧制)から京城の親類を頼って予科に入学、京城帝大法文学部法学科に進学し、昭和11年の高等試験行政科に合格。キャリア官僚として、朝鮮総督府に採用された。同期生は13人。うち朝鮮人は2人、出身大学は多くが東京帝大だったという。
 坪井が京城帝大の思い出を書き残している。《朝鮮における唯一の大学であり、全朝鮮の青年学徒の登竜門…朝鮮全域から数多くの俊秀が集中してこの予科の入学を志願して殺到した》《法(学)科の教授の陣容は充実していた…関係職員の数は在学生の総数をはるかに超えていたのではあるまいか。整備された物的設備と充実していた人的構成は、当時の他の大学にもあまり類例を見ない恵まれたものであった》(『ある朝鮮総督府 警察官僚の回想』から)
■自分の力でできた?
 “お人よし、おせっかい”の日本にしてみれば、「ここまでやってあげた」感がにじみ出ている。だが、統治された側はそうは取らない。当時、朝鮮人の手によって、民立大学成立の動きがあったのに、「京城帝大によって潰された」。入試においても、「日本語能力に劣る朝鮮人学生には不利な科目(古典など)があった」「朝鮮人入学者に一定の制限が設けられていた」などと、虚実織り交ぜた非難が当時からあったのである。
 こうした感情面の行き違いはある程度は仕方がないと思うが、では、京城帝大はなかった方がよかったのか? そうではないだろう。朝鮮側の当事者たちの経験と思いを次週に書きたい。=敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (4)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(4)
「最後の総督府官吏」の“遺言” 朝鮮人とは仲良くやっていた
2018.2.4

 昨年8月、102歳で亡くなった西川清(きよし)は、「最後の朝鮮総督府官吏」というべき貴重な証人だった。

 大正4(1915)年、和歌山県出身。地元の林業学校を出て昭和8年に、日本統治下の朝鮮へ渡った。複数の郡の内務課長を歴任し、朝鮮人の徴用などに直接、関わった経歴から、慰安婦や徴用工問題をめぐる今の「韓国人らの言い分」が、どれほどウソとデタラメにまみれているか、身をもって知っている。

 虚偽のことが世界中に流布されてゆくことを黙って見過ごせなかった西川は100歳近くになって、安倍晋三首相宛てに事態を憂う手紙を送り、自身の体験をつづった本(『朝鮮総督府官吏 最後の証言』桜の花出版)も書いた。私が昨年6月に取材に訪れたときは耳が遠いくらいで元気そうに見えたのだが、西川は「秋にはもう私はいないだろう」と語り、残念ながら現実になってしまった。

 西川は、日本人に何を訴えたかったか。生前インタビューを行った一人として、それを伝える義務と責任がある。西川が遺(のこ)したメッセージは、慰安婦や徴用工問題だけではない。戦後、70年以上が過ぎた現在では、日本人も韓国人も、うかがい知ることができなくなった日本統治時代の朝鮮社会の「雰囲気」というべきものだった。

 そのひとつが、「日本人と朝鮮人は、ごく当たり前のように仲良くやっていた」ということである。

▲平穏だった社会生活
 朝鮮に渡り、中部日本海側にある江原道(県に相当)産業部に配属された西川は昭和11年、朝鮮総督府の地方官吏養成所の1期生に選ばれる。13の道から計50人、江原道からは西川ら5人、うち2人は朝鮮人だった。「各道を代表してきた若手の秀才ばかり。九州帝大を出た人も2人いました。朝鮮人は全体の半分近くを占め、極めて優秀な人がそろっていました」

 養成所を優秀な成績で卒業した西川は、兵役を経て、28歳の若さで江原道寧越郡の内務課長に任命される。人事や総務を司(つかさど)る枢要ポストで本来は“たたき上げ”が定年前に就くことが多い。上司の郡守(首長)は朝鮮人、郡の上部組織である道の部長クラスも、ほとんどが朝鮮人だった。

 「上司にも部下にも朝鮮人はいましたね。見かけは変わらないし本当に仲良くやっていました。当時を知らない今の人が『怖い、恐ろしい時代だった』などというのはウソですよ。戦争が始まってからも空襲はなく犯罪も少なく物資は豊富で穏やかな生活がずっと続いていたのが真相です。独立運動は“地下”で続いていたのかもしれないが、少なくとも表面に現れることはありませんでした」
西川が持ち帰った写真には、朝鮮人の同僚と一緒に花見や野球を楽しんだり、親しげに肩を組んだりしたカットがたくさん残されている。「日本は立派な統治をしたと思う。(略奪が酷(ひど)かった)西欧の植民地支配とは違い、日本は朝鮮に多大な投資をした。『土地を奪った』という非難も当たらない。従来、あいまいだった朝鮮の土地を、日本が測量・登記し、権利関係を整理したのが本当です」

▲耳に入らないわけが…
 くどいようだが、統治する側とされる側が同じ歴史観を持つことはできない。旧制六高から東京帝大法学部を出て昭和9年の高等試験(行政科)に合格、「キャリア組」として総督府に入った任文桓(戦後、韓国農林相)は戦後出版した自著で、日本人の同期とは出世、待遇などで差別を受けたとした上で、日本に従うフリをする“曲芸師”だったと書いている。

 ひとつには、中央の総督府と、朝鮮人の官吏が多かった地方官庁(西川は道や郡の官吏だった)との雰囲気の違いがあったのかもしれない。

 だがコト、慰安婦問題や徴用工問題に対する見解となると、西川は一歩も引かない。インサイダー(内務課長)として、詳しく実情を知る立場にあったからだ。
西川は、寧越郡の後、さらに規模が大きい原州郡でも内務課長を務めている。

 例えば、戦時の労働動員である「徴用(募集、官斡旋(あっせん)の段階を含む)」は総督府→道→郡→邑(ゆう)・面(町村に相当)のラインで実施された。その“真ん中”にいた西川は募集にかかわり、日本へ向かう朝鮮人労働者を釜山まで送っていった経験もある。「殴る、蹴るで無理やり連行したなんて、とんでもない。ちゃんと面談し、労働条件を示した上で、納得ずくで日本へ働きに行った。給与などの待遇も悪くなかったでしょう」

 西川によれば、当時の朝鮮には、カルボチブ(売春宿)、スルチブ(居酒屋だが、売春婦を置いている店もあった)と呼ばれる店が街ごとにあった。慰安婦になったのはそうした女性が多い。民間人が需要に応じて連れて行ったのである。「もし、日本の官憲が、朝鮮人の若い娘たちを強制連行したならば、通達文書が残っているはずですが、そんなものはないし、私の耳に入らないわけがない。警察官には朝鮮人も多かったんですよ。無理やりそんなことをすれば、大騒ぎになっていたでしょうね」

 終戦時、江原道庁勤務だった西川は道庁所在地の春川に住んでいたが、朝鮮人の民衆から自宅の扉をたたかれることがあったくらいで、略奪や暴行の被害を受けることはなかった。
戦後、和歌山県庁に勤めた西川は1980年代以降、降って湧いたような慰安婦問題などの騒ぎを信じられない思いで見ることになる。平成25年、安倍首相宛てに手紙を認(したた)めたのは、真実を知る者の“遺言”というべきものだったが、返事は来なかった。世界中にばらまかれたウソやデタラメは一向に収まる気配はない。泉下の西川の無念はいかばかりか。=敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (3)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(3)
朝鮮人慰安婦は陽気に声掛け 検診した95歳の元軍医高地俊介 2018.1.28

 旧制平壌一中に「ばい江」という同窓会誌がある。昨年秋に発行した続編第一号で『”従軍慰安婦”虚報・払拭のための朝鮮在住者の意見具申書』を募集した。
 冒頭に趣旨が書かれている。《私たちは戦前、戦中、戦後を通じ、現在の韓国及び北朝鮮に在住しておりました。当時の真実と事実を知るものとして、今のように。”慰安婦”に関する嘘や握造がまかり通っている現状は見るに忍びず、看過することは出来ません。祖国日本の名誉を回復し、子・孫まで誇りある日本の歴史を伝えるためにも、最後のご奉公として、真実と事実を具申します》と。
 平壌は現在の北朝鮮首都だ。同中は日本統治下の大正4(1915)年、京城中(場所は現在の韓国ソウル)の平壌分校として創立。平壌中、平壌一中と名前を変えながら終戦で幕を閉じるまで、京城中などと並ぶ朝鮮の名門中学として多くの人材を輩出してきた。ばい江は平壌の中心を流れる大同江の別名である。
 高齢化によって同窓会は3年前に解散したが、交流の場を残したいという思いで、昨年、有志によって続編が発行された。「慰安婦問題」に関する意見具申を盛り込んだのは、昨今のあまりにもひどいウソやデタラメが世界中で喧伝され、日本人の名誉が毀損され続けていることに強い憤りを
感じていたからだ。
 編集を担当した長尾周幸(88)=30回生=は「世界中に慰安婦像が建ち、事実でないことがまかり通っていることは到底容認できない。今こそ実際に当時のことを見聞きしている人間が立ち上がり、声を上げねばならないと思った」と力を込める。
 そして、この呼びかけに、元軍医の先輩から興味深い証言が寄せられた。
■経営者は民間人業者
 高地俊介(95)は同中の20回生。卒業後の昭和14年、平壌医専へと進む。高地が入学したときの医専は1学年の定員70人のうち、朝鮮人が25人、日本人が45人。
教授陣は外科が東大系、内科・小児科は九大系で、レベルが高かったという。
 高地は17年秋に卒業、陸軍の短期現役軍医試験を受けて合格した。短い教育期間を経て、翌18年1月には、中支・漢口(現中国武漢市の一部)近くの陸軍第39師団へ軍医として派遣される。「戦争が激しくなるにつれ軍医も不足し、私たちはインスタント養成され、すぐに前線へやられた。戦死したら補う″消耗軍医”だったわけですよ」
 軍医少尉となった高地はまだ20歳、同師団野砲兵第39連隊に配属となり、4人の軍医で兵士の健康ケアや、前線で負傷者の治療にあたった。19年3月には中尉に昇進、戦死した軍医の後任として歩兵連隊へと移っている。
 高地によれば、「慰安所」は、各部隊ごとに設置されていた。軍がつくったのではない。「女街のような年配の日本人が経営していました。日本人、朝鮮人、中国人の慰安婦がいたが、連れてきたのはその経営者。民間人の業者が仕切り商売でやったということです。軍が関与したのは性病の蔓延を防ぐために、軍医が定期的に慰安婦の検診を行うことだけです」
 初めて検診に訪れたとき、高地は、朝鮮人慰安婦から明るい調子で誘われたことを覚えている。「遊びに来てえ、タダでいいから!」。20代半ばの慰安婦の方が高地よりも年上で、からかわれたことに心穏やかでなかったが、若い高地には婦人科検診のやり方すら分からない。平壌医専の先
輩だった高級軍医に頼み込んで初回のみ手ほどきを受け、手順を覚えるのに懸命だった。検診は週に1回。
病気の発生が分かれば、程度によって営業停止を命じるケースもあったという。
■日本への非難は不当
 「軍隊と性」の問題は、今さら言うまでもなく、古今東西、あらゆるところに存在している。1991年の韓国映画『銀馬将軍は来なかった』 (張吉秀監督)は、朝鮮戦争を舞台に米軍兵士を相手にする韓国人売春婦を主人公にした名作だ。韓国軍は、ベトナム戦争に参加し、現地女性との間に「ライダイハン」と呼ばれる多数の混血児をもうけ、国際問題を起こしている。先の大戦の終戦直前、満州(現中国東北部)へなだれ込んできたソ連軍(当時)は、邦人女性を見境なくレイプし、塗炭の苦しみを味わわせた…。
 日本軍に慰安婦は存在した。ただし、高地の証言にあるように民間業者が連れてきた慰安婦を使って商売をし、軍はそれを監督した。それ以下でもそれ以上でもない。もとより、恥ずべきダークサイドの問題であり、大っぴらに語るべき話ではない。80年代以降、朝日新聞や一部の日本の政
治家、知識人らか火をつけて煽るまでは韓国でもそうだった。悲惨な話だが、貧しい家の娘たちがお金のために身を売られ、慰安婦となったのは朝鮮人だけではない。日本人にもいた。
 平壌一中の同窓会誌のように日本統治時代の朝鮮で過ごした当事者から、真実を求める声が上がったことは遅まきながら評価していい。他の旧制中学の同窓会からも追随する動きが出てきている。
 実は高地が慰安婦のことを書いたのは今回の同窓会誌が初めてではない。2000年代後半に自身のブログでも軍医としての思い出を何度かに分けてつづっている。「子や孫のためですよ。私も年をとって記憶が薄れてゆく。ちゃんと戦争のこと、自分のことを書き残しておきたいと思って」 日本人によって世界にばらまかれたデタラメ、毀損された名誉は、日本人自身の手によって打ち消す、取り返すしかない。=敬称略  (文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (2)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(2)
創氏改名は「強制ではない」 是々非々貫いた朝鮮人検事 2018.1.21

 朝鮮で近代的司法制度を整えたのは日本である。高等法院(京城=現・韓国ソウル)-覆審法院(京城・平壌・大邱)-地方法院の三審制、それぞれに対応する検事局が設けられた。

 起訴や捜査、法務行政を握る検事が強大な権力を持っていたのは日本統治下の朝鮮でも変わりはない。

 検事の中で朝鮮人として出世頭のポジションにあったのが、大和田元一(げんいち)(朝鮮名・李炳瑢=1905~92年)である。九州帝国大学を出て昭和9年の高等試験司法科(現在の司法試験に相当)に合格。30代で朝鮮人としては異例の平壌覆審法院検事局検事(現在の高検検事に相当、ランクは高等官四等)に出世した。

 19年1月の司法部職員録を見れば、京城覆審法院検事局の朝鮮人検事として大和田より上位(高等官三等)に閔丙晟の名前がある。ただ、明治23年生まれの閔はこのとき50代。京城専修学校出身の“たたき上げ”であり、「キャリア組」の大和田が朝鮮人検事のリーダー格だったと言って差し支えないだろう。

 大和田の前半生は日本の朝鮮統治と重なっている。出身は、朝鮮半島南東部の慶尚北道・金泉の名家(両班(ヤンバン))、父親は日韓併合前の大韓帝国時代、郡守(首長)を務めていた。生後5年で日韓併合(明治43年)となり、朝鮮の教育環境は日本によって急ピッチで整備が進む。具体的なデータを挙げてみたい。

▲開かれた高等教育
 当時、朝鮮人の初等教育は、寺子屋にたとえられる書堂(ソダン)が主だった。日韓併合直後の明治44年の統計によれば、朝鮮人が通う普通学校(小学校)が173校(児童数2万121人)に対し書堂は1万6540校(同14万1604人)。それが昭和8年には普通学校2100校(同56万1920人)▽書堂8630校(同14万2668人)と児童数で逆転している。

 法律や医学の高等教育機関である専門学校は明治44年に5校(学生数409人)だったが、昭和8年には15校(同3785人)へと急増。1校もなかった大学は京城帝大が創設(大正13年予科)された。

 大和田は、地元の普通学校→京城の高等普通学校(中学)→官立の京城法学専門学校と進み、京城帝大はまだ開設されていなかったため(学部は大正15年設置)、朝鮮から最も近い帝国大学である九州帝大法文学部法律学科へ進学した。

 高等試験司法科に合格した大和田は、検事の道を選び、光州地方法院検事局・長興支部検事(昭和14年)→新義州地方法院同(15年)→平壌覆審法院同(18年)と検事として順調に出世の階段を上る。朝鮮人の司法職員数も、明治44年・364人→昭和8年・1232人へと増加した。

 朝鮮人に高等教育の機会が開かれ、法を司(つかさど)る検事や判事(裁判官)のポストに就くことができたことは注目すべきであろう。

▲親日派として指弾
 だが、大和田の輝かしい経歴も戦後の韓国ではマイナスとなった。
 日本統治時代の“協力者”をリストアップし、韓国で2009年に出版された『親日人名辞典』の大和田の項では、「創氏改名」(昭和15年実施)の記述に大きなスペースを割き、大和田が当時の新聞や雑誌に発表した見解を紹介した上で、同制度を積極的に支持したと書いている。

 確かに《栄光的な大日本帝国の兵站(へいたん)基地としての2300万の(朝鮮)半島民衆》などと刺激的な記述はあるものの、《古代的氏族の代名詞である「姓」を止揚(※古い物は保存し、より高い段階で生かすという意味)させ、それに代わって創氏制度が新たに制定される》と法律家らしく明快に説明しており、どこが問題なのか分からない。

 創氏改名ほど誤解が多い政策もないだろう。大和田の言う通り、これは朝鮮伝統の金、朴、李などの「姓」(儒教文化的男系一族の象徴)は戸籍に残したまま、日本風の山田、田中といった家族的な「氏」を新たに創設する制度だ。朝鮮人の「姓」は数が少なく混乱の原因になる上、女性は結婚後もその姓には加われない。古代→近代、一族→家族化を図り「内鮮一体」の同化も進めましょう…というのが目的だった。
本貫と呼ばれる出身地と併せて「姓」を一族の誇りにしてきた名家には、いらぬ“おせっかい”だったかもしれないが、日本人と同等になれる、差別がなくなる…と歓迎した朝鮮人も多い。一方、日本には朝鮮人の犯罪抑止を理由に反対する意見もあったのである。

 重要なのは強制でなかったことであろう。日本風の氏を創設したのは約8割。期間中に届け出なければ、金や朴など従来の「姓」をそのまま「氏」として使うことができた。陸軍中将になった洪思翊や世界的なダンサー崔承喜も、前述の検事、閔も日本風創氏をしていない。もとより「改名」は任意(申請制)である。

▲日本に阿(おもね)ることなく
 大和田の家族は「(大和田は)日本の統治に対して『良い物は良い、悪い物は悪い』という是々非々の態度を毅然(きぜん)と貫いた。そもそも『創氏改名』は強制ではなかったし、同姓同名による混乱を避けるために考慮すべきだという意見だった」と話す。大和田は、保身のために日本に阿(おもね)るような朝鮮人ではなかった。家族の記憶には、民族衣装を着た母親を日本の官憲に侮辱され、敢然と怒鳴り返した姿が鮮明に残っている。

 大和田は、韓国誕生後の1948年11月、大田地方検察庁検事正に就任するも翌年には退職を余儀なくされてしまう。まだ44歳。

 大和田のような優秀な法律家こそ、戦後の新国家建設に生かすべきでなかったか。=敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(1)

(1)日本ほど「お人よし」の統治者はいない 産経新聞 2018.1.14

 他民族の統治において、日本ほど、お人よしで、おせっかいで、一生懸命にがんばった国はない。かつての朝鮮、台湾の統治、あるいは日本が強い影響力を行使した満州(現中国東北部)の経営。当時の日本の国力からすれば、過重な負担に耐えて莫大(ばくだい)な資本を投入し、近代化を助けた。資源や労働力を極限まで搾り取ったり、現地人にロクな教育を与えない愚民化政策も行ったりしなかった。鉄道や道路を敷き、鉱工業を興し、商業、農業、林業を活性化させ生活を富ませた。学校や病院を建て、近代教育制度、衛生環境を著しく向上させたことは疑いようがない。

 日本が朝鮮統治時代につくった鉱工業施設や発電所の多くは現在の北朝鮮地域にある。日本が残した資産は現価で8兆円以上。戦後、北朝鮮は、それを「居抜き・タダ」でもらったおかげで1970年代初めまで経済面で韓国より優位に立つことができた。

 外地初の帝国大学として大正13(1924)年=予科開設、学部は2年後、現在の韓国ソウルに創設された京城帝国大学は、東京帝大や京都帝大よりは遅いが、大阪帝大や名古屋帝大よりも早くつくられている。高等教育を受けた卒業生は戦後、韓国の政、官、財界リーダーとして活躍した。韓国軍草創期の将官も日本の陸軍士官学校や満州国軍軍官学校出身者が多い。まだまだある。朝鮮総督府が同15年につくった公的な唱歌集「普通学校(小学校)補充唱歌集」には朝鮮語(ハングル表記)の歌がたくさん収録されている。主に公募によってつくられたオリジナル歌詞は朝鮮の偉人や名所旧跡、景勝地を歌ったものが多い。唱歌は子供たちが、子守歌の次に触れる音楽であり、情緒育成に大きな影響がある。学校で唱歌を教えられた朝鮮の子供たちは「僕たちの先人にはこんな立派な人たちがいた。自然や歴史的遺産もたくさんあるんだ」と感じたに違いない。現地言語をつかったオリジナルの学校唱歌は、親日的な台湾や、満州でも例がなく、朝鮮だけだ。

 これはどうだ。南北を問わず朝鮮民族にとって最も親しみを感じる歌「アリラン」が同じ、大正15年に公開された同名の映画の主題歌が元になっていることを現代人は知っているのだろうか。しかも、映画の内容は、「日本の威を借りた悪徳地主に抵抗して処刑とされる男」が主人公。それが検閲をパスし堂々と現地で公開されているのだ。唱歌も映画も、緩い文化政治という時代の出来事とはいえ、やはり、日本の統治は“お人よし”と言わざるを得ない。もちろん、統治者と被統治者が同じ歴史観を共有することなどあり得ない。韓国は、この時代を日帝時代と呼び教科書には数々の“悪行”を言葉を極めて罵(ののし)り「民族抹殺」と書いて子供たちに教えた。

 何しろ、華夷秩序の中華思想(小中華)が染みついた民族である。儒教文化的に劣っている連中だ、と「上から目線」で見ていた日本人に支配されてしまったのだから怒りは倍加する、悪いことは全部「日本のせい」となって事実でないことまで妄想は膨らんでしまう。揚げ句、「日帝」に関わったというだけで子々孫々まで指弾され、財産も取り上げられた。慰安婦問題や徴用工問題など、国同士で約束したことを平気でホゴにし、世界中に日本の悪口を言いふらし続ける…。

 もうウンザリではないか。確かに日本が必要以上に“がんばった”のは単なる善意ではなく当時の為政者が「日本の国益にかなう」と判断したからだろう。他民族を統治する上では強圧的な行為や差別がなかったとは言わない。つらい目に遭ったり、屈辱を感じたりした人も多かったと思う。

 だが、すべてを「ゼロ」、あるいは「マイナス」としてバッサリ斬り捨ててしまうのは、お互いのためにはならないし、未来志向でもない。日本統治時代、飛躍的に豊かになった朝鮮の人口は倍増した。海峡を越えて、日本へやってきた朝鮮人には、戦後のスーパースターのひとりに数えられるプロレスラーの力道山、紅白歌合戦にも出場した歌手の小畑実、日本一の美声とうたわれたテノールの永田絃次郎(げんじろう)ら文化・スポーツ関係者も多い。反対に、情熱と志を胸に抱いて海を渡り、朝鮮の近代化に尽くした日本の民間人も数知れない。

 亡くなった後に、祖国から名誉を傷つけられ、親族が身を縮めている姿を見るのは切ないし、タブー視して功績がなかったことにされてしまうのはしのびない。
               
■  □  ■

 本欄は、証言と史料によって、こうした人たちの生涯や出来事を追い「真実」に近づきたいと思っている。

 最初に取り上げるのは日本統治時代の朝鮮で、異例の覆審法院検事局検事(現在の高検検事に相当)になった大和田元一(げんいち)(朝鮮名・李炳瑢=1905~92年)だ。

 九州帝大を出て、昭和9年の高等試験(現在の公務員上級職試験)司法科(同司法試験に相当)合格。30代で、平壌覆審法院検事局検事(三席)になった。役人としてのランクは、天皇の裁可を受け、内閣総理大臣が任命する「奏任官」である高等官四等。軍人ならば、佐官クラスである。
キャリア官僚の登竜門である高等試験は、当時も難関中の難関だった。大和田の同期(昭和9年)合格者(行政科も含む)には、最高裁判事になった団藤重光や日銀総裁・前川春雄、大蔵(当時)事務次官・石野信一らがいる。

 朝鮮人の合格者は少数だが、珍しくはなかった。法を司(つかさど)る判事や検事になる司法科では、合格者名簿を見ると、約330人中、朝鮮人ら外地人とみられる名前は20人近い。戦後、韓国の農林相になった任文桓(旧制六高-東京帝大法学部)は行政科で合格している。昭和2年の朝鮮総督府及所属官署・職員録を見れば、朝鮮の13の道(日本の県に相当)の知事のうち、5人が朝鮮人だ。

 大和田がどんな思いで、検事の仕事を務め、そして戦後、韓国でどんな仕打ちをうけたか…。それは次週に書きたい。=敬称略

 日本と朝鮮半島は、海峡を越えて古来、深い縁(えにし)を結んできた。近いが故の葛藤、もつれた糸をほどいてみたい。(文化部編集委員 喜多由浩)

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アジアの歴史と各民族性の相違を理解するために!


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