「領土買収は武器なき戦争」 

 【栃木『正論』友の会】宮本雅史編集委員が講演 2017.11.19
 栃木から日本のあるべき姿を考える「栃木『正論』友の会」の第10回講演会が19日、宇都宮市陽西町の県護国会館で開かれた。産経新聞東京本社編集局の宮本雅史編集委員が「爆買いされる日本の領土~他人事ではすまされない中国の経済侵攻」と題して講演。中国資本に土地が自由に買われ、規制する法律がないまま、主権が脅かされている実態について指摘した。

 講演会には、産経新聞社の「正論」路線に賛同する読者ら約100人が参加。

 宮本編集委員は取材した北海道での中国資本の進出状況を説明。「土地を買われ、拠点作りをされ、教育現場まで進出され、最終的には主権まで脅かされる可能性がある。武器を持たない戦争を仕掛けられている」と強調。外国資本による土地売買に対する法規制がないことを最大の問題として、「国際協調が大事だと言っても、ルールがあって初めて成り立つ。(日本は)何でもありの丸腰だ。少しずつ浸食されているのが現実で、一日でも早く対応しないといけない」と警鐘を鳴らした。

 講演の詳報は次の通り。

 ◆領土問題は他人事?
 憲法改正は絶対実現しないといけないと思っているが、素晴らしい憲法ができても、国土がなくなってしまう、あるいは国民がいなくなってしまうとなると憲法をつくる意味がない。早急に、領土問題は対応しないといけない。ただ、(日本人は)どうしても自分のこととして捉えない。政治家も同じで、口では大変だと言うが誰一人動かない。

 ◆過疎化につけこむ?
 先月、長崎・対馬に行ったが、日本語が聞こえず、韓国語ばかりだった。土地も買われている。佐渡や北海道も取材して回ったが、背景に過疎化や高齢化がある。誰が悪いかではない。国が悪い。お年寄りが増え、跡継ぎがいない。仕事がない。どうやって食べていくかというところに巨大な外国資本が入ってきて、土地を売ってくれとなったら売ってしまう。全ての地域に共通する話。それに対して日本政府は何もしていない。売った人を責めるわけにはいかない。生きていくためにはしようがない。

 平成27年に北海道で外国資本に買われた場所は26市町村で1878ヘクタール。東京ドームにすれば400個分。28年末には、2411ヘクタール、東京ドーム500個分になっていた。1年間で100個分買われている。そのうちのほとんどが中国資本だ。

 最初は温泉地とかリゾート地をスポット的に買っていたが、最近は100ヘクタール単位で買うような傾向がある。素晴らしいリゾート施設をつくるとか説明するが、買った後はなしのつぶて。何のために買ったのか分からない。その後何年も放置しているケースが結構ある。ゴルフ場や農地も買っており。外から中は全然見えず、何をしているか分からない。

 27年に中国資本に買収された北海道の有名なホテルでは、付近を再開発して村ができていた。単にスポット的に観光地を買うのではなくて、買い方が大まかになり、従業員が増えている。疲弊した地域に外国人の観光客が来るのは素晴らしいことだが、中国人の従業員が増えると、チャイナタウンが現実化しかねない。

 ◆本当は怖い住民投票条例
 住民投票条例があり、住民が手を挙げると、即住民投票ができるケースがある。18歳以上の外国人もOKという地域もある。住民投票条例は首長をリコールできる。地方自治体の事業を反対しようとすればいくらでもできる。地方行政が根本的にゆがめられ、地方参政権問題よりも怖いことが起きる可能性がある。

 ◆観光ビザで永住権獲得
 中国資本の不動産買収で懸念されるのは永住権獲得だ。北海道で土地を買い、永住権を取ろうというのは、北海道の中国系の大手企業や大手不動産の合言葉となっている。観光ビザで土地を買えるからだ。民主党政権時代に中国人の観光ビザは緩和され、90日間滞在できる。滞在中にまず法人をつくる。段取りをつけるのは、北海道にある中国系の大手不動産で、銀行もバックアップしている。資本金500万円以上、常勤社員2人以上で会社ができる。その名義で土地を買える。90日すると本国に帰る。ところが、資本金500万円以上、常勤社員2人以上で中長期型のビザに替えることができる。1、2年と更新でき、10年たつと永住権を申請できる。法務省に取材したら、永住権を取ったケースはまだないというが、法的には永住権申請はできるという。日本の法律はそういうふうになっている。

 観光ビザで土地が買えるなんて知らなかったが、中国人は知っており、着々と形にしている。

 ◆教育現場にも浸食
 中国の一連の行動をみていると、最初に観光客が来る。その次に土地を買い始め、拠点作りをする。次は何か。北海道釧路市近くの漁村の小中学校では、中国語の勉強をしている。そこの道立高校では年に何十時間と中国語の授業がある。中国人の講師が来て、中国の文化、歴史を子供たちに教えている。最終的には教育の場まで、中国人は何年もかけて出てきている。

 次は何かというと、主権だ。中国のこうした行動の意図は別にして、客観的に言動行動をみていると武器を持たない戦争を仕掛けられている。

 北海道が狙われる理由は、津軽海峡を通過して太平洋に出たいからだ。北朝鮮で使用権を得た港湾を拠点に、佐渡があり、対馬があり、津軽海峡がある。空母を配置されると日本海は内海になる。苫小牧や釧路など全てに中国の資本が入っている。いつでも寄港できることになりかねない。日本人は1年、2年先のことを気にするが、中国は、100年先まで見ている。現実に形になって動き始めている。対馬を押さえ、佐渡を押さえ、津軽海峡を押さえ、北海道を押さえ、日本海は中国人の手の中に入ってしまう。中国人はそこまで考えている。

 ◆法律なしで手立てなし
 何で手を打てないかというと、日本には法律がないからだ。北海道富良野町で自由に土地が買えると中国人が宣伝している。実際そうで、日本には外国資本を規制する法律がない。誰でも買える。太陽光発電所もそうだし、ゴルフ場もそうだし、農地もそう。他の国はどうか。米国の場合は、政権内に委員会をつくり、安全保障上やエネルギー関係で問題があるところは、外国資本が買収する場合に調査をして、危なかったら大統領が拒否できる。連邦法や州法でもチェックしている。韓国やタイなどアジア太平洋のほとんどの国は、チェックをして最終的にノーと言える。全く誰でも買ってよいのは日本だけだ。

 グローバル化とか国際協調が大事だといわれるが、それはルールがあって初めて成り立つものだ。ルールもなく、法律もない。(日本は)何でもありの丸腰だ。そこで国際協調はありえないし、やられっぱなしだ。憲法改正は大事だが、(領土問題は)それと同等に身に迫った問題だ。
 (楠城泰介)
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中国による紅い統一工作(上中下)

【紅い統一工作(上)】
「中国が2020年までに台湾侵攻の準備を終える」 暴かれた習近平指導部の計画 「尖閣諸島奪還は2040~45年」

 今年10月、米国で出版された一冊の書籍によって、中国の習近平指導部が準備を進めている「計画」が暴かれた。
 「大規模なミサイル攻撃の後、台湾海峡が封鎖され、40万人の中国人民解放軍兵士が台湾に上陸する。台北、高雄などの都市を制圧し、台湾の政府、軍首脳を殺害。救援する米軍が駆けつける前に台湾を降伏させる…」
 米シンクタンク「プロジェクト2049研究所」で、アジア・太平洋地域の戦略問題を専門とする研究員、イアン・イーストンが中国人民解放軍の内部教材などを基に著した『The Chinese Invasion Threat(中国侵略の脅威)』の中で描いた「台湾侵攻計画」の一節だ。
 イーストンは「世界の火薬庫の中で最も戦争が起きる可能性が高いのが台湾だ」と強調した。その上で「中国が2020年までに台湾侵攻の準備を終える」と指摘し、早ければ、3年後に中台戦争が勃発する可能性があると示唆した。
 衝撃的な内容は台湾で大きな波紋を広げた。中国国内でも話題となった。
 「具体的な時間は分からないが、台湾当局が独立傾向を強めるなら、統一の日は早く来るだろう」
 国務院台湾弁公室副主任などを歴任し、長年、中国の対台湾政策制定の中心となってきた台湾研究会副会長、王在希は中国メディアに対し、イーストンの本の内容を半ば肯定した

 その上で「平和手段か、それとも戦争か、台湾当局の動きを見てから決める」と踏み込んだ。近年、中国の当局関係者が台湾への武力行使に直接言及するのは極めて異例だ。
 10月24日に閉幕した共産党大会で、党総書記の習近平(国家主席)は「3つの歴史的任務の達成」を宣言した。「現代化建設」「世界平和の維持と共同発展の促進」とともに掲げられた「祖国統一の完成」とは、台湾を中国の地図に加えることにほかならない。
 党大会終了後、北京市内で開かれた政府系シンクタンクが主催するシンポジウムで、軍所属の研究者が「中国近未来の6つの戦争」と題する発表をした。
 その研究者は、習近平指導部が隠してきた、中国が主権を主張する領土を奪還するための2050年までの予定表を明かした。台湾統一の時期は20~25年。イーストンの指摘と一致する。
 習近平は、東シナ海や南シナ海、インド、ロシアとの国境周辺などにも版図を広げる心づもりだという。同発表では、尖閣諸島(沖縄県石垣市)を奪還する時期は40~45年とされている

 心は大中国」台湾軍をスパイ侵略
 中国の情報機関はここ数年、台湾軍の内情を探るため深く潜り始めている。
 「台湾の蔡英文政権が2016年5月に発足して、中国国内の各情報機関の台湾担当部署の予算も人員も大幅に増加した」
 ある中国共産党関係者は、こうした変化も台湾への軍事侵攻に向けた準備だととらえている。
 今年5月、台湾軍中枢の参謀本部ミサイル防衛指揮部(当時)の前指揮官、謝嘉康(少将)が、中国側に重要な軍事情報を漏らしたとして、「国家安全法」違反容疑で拘束された。
 同指揮部は陸上配備のミサイル部隊を統括しており、米国製の地対空誘導弾パトリオット(PAC3)などの防空網や、上海を射程に収めるとされる自主開発の巡航ミサイル「雄風2E」の情報が漏れた可能性がある。
 謝嘉康を中国側につないだのは退役後、旅行業を営んでいた元上官の男だった。男は、中国の国家安全部門に籠絡されて、その手先となっていた。09年と10年、元上官からタイやマレーシアへの家族連れの無料旅行に招待された謝嘉康は、たくらみに気付かず、誘いに乗ってしまった。
 11年には、陸軍少将の羅賢哲が、指揮通信情報(C4ISR)を統合するシステムの情報を漏洩(ろうえい)した疑いなどで逮捕された。

 羅賢哲は武官として駐在したタイで、歓楽街での買春現場を中国の工作員に撮られて脅された。04年から情報提供を始め、毎回10万~20万ドル(約1120万~2240万円)の報酬を受け取っていた。羅賢哲は12年、無期懲役となった。
 台湾当局はスパイ事件の詳細や判決を公表していない。それ自体が手の内を明かすことになるからだ。
 台湾軍内部には中国側の協力者が数多くおり、明るみに出たのは氷山の一角と指摘する声がある。ある現役将校は「中国側や軍内部の協力者に見せつけるため、逮捕案件自体を選別している可能性がある」と指摘した。
 台湾軍幹部の中には、中国大陸から来た「外省人」とその子孫が多い。特に年齢層の高い退役軍人や高級幹部は「大中国」意識が強い。退役・現役軍人の中には「台湾人意識」を支持基盤とする民主進歩党に反感を持つ者も多く、もともと中国に利用される素地があるという。
 昨年11月には、北京の人民大会堂で開かれた孫文の生誕150周年記念式典に、台湾の退役将官32人が出席した。中国の国歌斉唱時に起立し、国家主席、習近平の演説を神妙に聞き入る姿が問題となった。

 危機感を抱いた蔡英文政権は今年7月、改正法案を提出し、退役した軍高官が中国で政治活動に参加することを禁じたが、後手に回っていることは否めない。
 「世界一流の軍隊」の建設を目指す習近平は共産党大会で、20年までの「機械化、情報化の実現による戦略能力の大幅な向上」を宣言した。台湾軍は「内と外」からの脅威にさらされている。
    

 「習近平は中国が領有権を主張する領土を取り戻すことで、歴史的英雄になろうとしている」-。ある共産党関係者が習近平の“野望”を看破した。台湾を紅く染めるため、すでに始まった「一つの中国」への工作の実態を探る。
    

■「一つの中国」 台湾は中国の不可分の一部であり、中華人民共和国が中国唯一の正統政府であるとする中国の主張のことを示す。台湾はこの主張を受け入れていない。中国は台湾の問題を核心的利益と位置付け、米国などに対して干渉しないよう要求。1972年の日中共同声明では、日本は「一つの中国」に対して同意を避け、「理解し、尊重する」との立場にとどめている。


【紅い統一工作(中)】
習政権、台湾孤立へシフト 札束外交で友好国奪取 独立派への暴力「よくやった」

 米大統領ドナルド・トランプがアジア歴訪最後の訪問国、フィリピンに到着した11月12日、中国国営新華社通信傘下の中国紙、参考消息の電子版に短いニュースが掲載された。

 〈中国がドミニカ共和国に8・2億ドルを投資し、水力発電所などを建設する〉

 たったそれだけの記事だったが、台湾の外交関係者は大きな衝撃を受けた。「北京の新しい外交攻勢が始まった」-。

 習近平政権は昨年から、台湾と外交関係のある国を奪い取り、国際社会から蔡英文政権を孤立させる工作をはじめた。

 今年6月には長年の友好国パナマが、中国に奪われた。今や、台湾が外交関係を持つ国は20カ国しか残っていない。ドミニカ共和国はその一つだ。

 「次はドミニカではないか」。警戒する台湾は、7月に外交部長(外相に相当)の李大維を、8月と10月に外交部次長(外務次官)の劉徳立を、相次いでドミニカに派遣。10月下旬には、ドミニカの国防相を台湾に招待し、総額3500万ドルの軍用物資を提供することで双方が合意したばかりだった。

 「最近3、4カ月、中国側に目立った動きがなかったので安心していたのだが…。今思えば、共産党大会とトランプ訪中の準備をしていただけかもしれない」

 台湾の外交関係者がつぶやいた。

 台湾にとって、8億ドルはとうてい払える金額ではない。巻き返す手立てはない。「ドミニカと中国の国交樹立は時間の問題だ…」。外交関係者が顔を曇らせた。

 11月8日に訪中したトランプにとって、米中首脳会談の優先課題は北朝鮮問題だった。それに対し、中国国家主席、習近平がもっとも重要視していたのは台湾問題だ。習近平は会談中、何度も台湾問題について言及し、米国による台湾への武器輸出を牽制したという。

 米中首脳会談後、中国外務省の外務次官、鄭沢光は中国メディアに対し「トランプが会談で、一つの中国政策を継続すると表明した」と語った。大統領当選直後、「一つの中国政策」を疑問視したトランプだが、すっかり中国に丸め込まれてしまった。

 10月24日に閉幕した中国共産党大会で、習近平は「両岸(中台)の同胞と共同で一切の国家分裂活動に反対する」と宣言し、台湾の内政への干渉を公言した。

 党大会後に決まった人事に、その布石がうかがえる。国連大使などを務めた大物外交官で、習近平から厚い信頼を得ている劉結一が、閣僚級の次期台湾事務弁公室主任に内定した。新しい政治局員には習氏の福建省勤務時代の部下が多く登用された。いずれも第一線で対台湾工作に携わった経験者だ。

 「2期目の習近平政権は台湾シフトの政権だ。統一工作はこれから本格的に始まる」。こう証言する共産党幹部もいる。
     ◇
 「台北を中国の一都市にしようとする試みだ」「中国の統一戦線は受け入れない」

 9月24日、台北の台湾大学の運動場に設置されたステージ周辺は、抗議に詰めかけた百人を超す学生や「台湾独立」派の怒号で異様な雰囲気に包まれた。中国・上海市との交流の一環で行われた、中国の歌謡オーディション番組「中国新歌声」の収録現場。激高した学生らがステージになだれ込み、収録は中止となった。だが、騒動は、対抗する中年の男らが現れて4人を棒で殴りつけ、1人が流血する事態に発展した。

 男らは、中国との統一を掲げる政治団体「中華統一促進党」の構成員だ。中国の国旗「五星紅旗」を堂々と掲げ、日本統治時代の銅像やこま犬を破壊するなどの違法行為も平然と行う。一部が「黒道(やくざ)」であることは周知の事実。「党総裁」の張安楽(69)自身が暴力団「竹聯幇」の元構成員で、中国で逃亡生活を送ったことがある。張安楽は事件翌日、メディアの前に姿を現し、「よくやった」と暴力を正当化した。

 事件5日後の台湾紙、自由時報は中国当局が台湾の暴力団を「操っている」と報じた。記事は、中国で対台湾政策を担当する国務院(政府)台湾事務弁公室が福建省アモイに置く出先機関の「外聯弁事処」が、実際には情報機関「国家安全省」の工作拠点であり、竹聯幇などに指示を出していると指摘した。

 台湾当局が中国の関与を疑うのは急進統一派だけではない。1993年に中国国民党からの離党者で結成された政党「新党」もその一つだ。立法院(国会)で21議席を占め「第三勢力」と呼ばれた時期もある。現在は地方議会の2議席にまで勢いは衰えているが、2016年の立法委員選には候補者を擁立した。

 主席の郁慕明(77)は産経新聞の取材に「統一促進党とは目標が同じ。われわれは兄弟だ」と話す。郁慕明は上海生まれで、中台分断で台湾に移った「外省人」。何度も訪中して中国共産党のイベントに参加している。「台湾と中国大陸は運命共同体。中華民族の一員として統一を望まない方がおかしい。政治体制は重要ではない」と語る。郁慕明は20年の総統選に候補者を出す準備を進めている。目的は当選でなく「中台統一の宣伝のため」という。

 郁慕明のような高齢世代の外省人だけでなく、戦前から台湾に住む「本省人」の若年層にも中国との統一を主張する声が出始めている。いわゆる「南京大虐殺」をモチーフにした楽曲で名前を売ったシンガー・ソングライター、張穆庭(38)は3月、政治団体「民生党」を発足させた。統一を目指す理由を「経済のため」と断言する。張穆庭によれば、与党、民主進歩党も野党、中国国民党も大企業重視で、労働者や若者向けの政策を打ち出していない。「台湾経済は中国大陸に頼らなければ立ちゆかない。台湾独立を主張して腹一杯になるなら、独立を主張しますよ」

 民生党は18年末の統一地方選に参戦する方針だ。候補者は40歳以下に限定し「中間票を狙う」。すでに中国の台湾事務弁公室からの接触があるという。(敬称略)

【紅い統一工作(下)】
 クリミア併合を研究せよ 台湾支配へハイブリッド戦争

 7月、中国広東省東莞で開かれた台湾の学生向け就職説明会。約190人のために広大な会場が準備された(台湾誌「商業週刊」)

 中国の習近平指導部が昨年春、中国社会科学院など複数の政府系シンクタンクや対外交流団体などに、内部指令を出した。
 「ロシアによるクリミア併合を研究せよ」
 中国共産党総書記、習近平(国家主席)とその周辺は、2014年にロシアがクリミアを実効支配した経緯や国際社会から受けた制裁の実態、露大統領ウラジーミル・プーチンの支持率の推移などを、詳しく知りたがった。
 当局指定のプロジェクトであるため、研究には潤沢な経費がついた。研究成果は外部に発表せず、内部資料として党中央に提出するよう厳命された。
 ある中国のシンクタンク関係者は、内部指令に隠された目的を読み解いた。
 「指令が下った時期は、台湾独立志向の蔡英文政権の発足とほぼ重なる。習近平は台湾をクリミアのように併合することを念頭に置いている」
 習近平指導部は、ロシアがクリミア併合で用いた「ハイブリッド戦争」にも高い関心を示しているという。「ハイブリッド戦争」とは、特殊部隊や民兵を駆使し、情報操作や政治工作、経済的圧力など、さまざまな非軍事的手段で相手を攪乱する新しい作戦形態を指す。
 ある台湾の外交関係者は「中国が本格的に台湾にハイブリッド戦争を仕掛け始めている」と指摘し、3種類の実例を挙げた。
 中国は今年5月、世界保健機関(WHO)総会への台湾代表の出席を阻止した。11月18日に閉幕した国連気候変動枠組み条約第23回の締結国会議(COP23)でも、会議事務局に圧力をかけ、台湾の閣僚の参加を阻んだ。
 これらは、政治力を行使して台湾を国際会議から締め出し、孤立させようという外交面での工作だ。
 軍事面での挑発も増えている。中国は1月に空母「遼寧」を台湾周辺で航行させた。中国の軍用機による台湾の防空識別圏への侵入も急増した。台湾の民衆に心理的圧力を加える目的がうかがえる。
 そして最近、執拗に行われているのが、ロシアがウクライナに頻繁に仕掛けたサイバー攻撃だ。
 台湾の「国家安全局」の統計によると、同局が昨年受けたサイバー攻撃は前年の30倍以上の約63万回に上った。そのうち約61万回は、蔡英文政権が発足した昨年5月20日以降に集中している。「蔡英文政権になってから、サイバー攻撃の傾向は情報の盗み出しからインフラ破壊へと変化している」と分析する台湾の専門家もいる。
 台湾は中国の攻撃を防ぐため、国防部(国防省に相当)に6千人規模のサイバー部隊を立ち上げた。6月の編成式典では、総統の蔡英文が「有形の国土を守り抜く。サイバー空間でも決して譲歩しない」と宣言した。
 しかし、中国による台湾へのサイバー攻撃はまだ、実験段階にすぎない。中国人民解放軍のサイバー部隊は少なくとも十数万人とされる。「将来、台湾攻略を念頭に本格的な攻撃を仕掛けられたら、今の力ではとても対応できない」。台湾の専門家の口から悲観的な言葉が漏れた。
就活の費用全額負担で若者懐柔
 台湾の若者への懐柔も中国の統一工作の重要な一環である。
 「私は台湾独立派だけど、中国大陸はチャンスが多い。機会があれば中国で就職したい」
 台北大学4年の葉依●(21)は、あっけらかんと話した。7月に中国広東省政府と中台の起業家らが共同で開いた、台湾の学生向け就職説明会に参加した。副総統などを務めた野党、中国国民党の蕭万長が団長を務め、大学や高等専門学校20校から学生約190人が広東省東莞を訪れた。
 2泊3日で高級ホテルに宿泊。東莞の国際展示場では、家電大手ハイアールや大手銀行、航空会社など中国企業約280社が訪問団のためだけにブースを準備した。滞在中の費用は主催者が全額負担した。
 葉は民主化後の台湾で育ち「天然独(生まれながらの台湾独立派)」を自任していた。台湾人は中国当局や中台統一派が主張するような「中華民族の一員」ではなく、「文化、価値観から生活習慣まで全て異なる、中国人とは別の民族」とまで言い切る。それでも説明会には「心を動かされた」という。
 北京で企業研修を体験した台湾大学4年の李政軒(21)は「中国にいくことにリスクはあるが、能力さえあれば給料が上がるのが魅力的だ」と語り、真剣に就職を検討しているという。
 中国とのサービス貿易協定に反対する台湾の学生らが立法院(国会に相当)を占拠した2014年春の「ヒマワリ学生運動」は、中国当局に衝撃を与えた。学生らを突き動かしたのは、中国一辺倒の国民党・馬英九政権への反発だけでなく、協定で自分たちの就職先が失われるという焦燥感だった。若年世代の反中感情は昨年の政権交代の原動力ともなった。
 これを受けて共産党は今年3月、対台湾工作の重点を「一代一線(青年世代と末端の民衆)」とする方針を発表。10月の党大会前後には、台湾政策を主管する国務院台湾事務弁公室トップの事実上の更迭を明らかにした。総書記の習近平は政治報告で、学習、創業、就業、生活の4分野で「大陸同胞と同様の待遇を提供する」と述べ、中国で暮らす台湾住民の「内国民化」を宣言した。
 台湾のシンクタンク「国家政策研究基金会」の研究員、盧宸緯によると、中国当局は台湾の若者の起業をワンストップで支援する「青年創業基地」を2015年6月から設立し始め、わずか1年間で53カ所まで急増させた。昨年10月には、台湾人の大学入学基準を現地の学生と同水準に緩和。「一つの中国」を認めることを条件に台湾人向けの奨学金も拡充した。こうした優遇策は「(台湾側に)何かを強制する度合いが小さく、台湾社会への影響が少ない」と盧は指摘する。習政権が「ヒマワリ」から学習した成果だ。
 台湾人の若者を「吸収」する一方で、中国は台湾への留学生を減らしている。今年度、台湾の大学に留学を申請した中国人学生は以前と比べ約半分の1千人以下に減った。盧はこうした“輸出超過”が続けば「台湾から優秀な人材が流出してしまう」と懸念する。(敬称略)

 この連載は産経ニュース田中靖人、矢板明夫が担当しました。
 ●=雨かんむりに文の旧字体

防人の島・対馬 家も土地も…「もはや韓国領」

【異聞 防人の島・対馬(上)】 産経新聞2017.10.29
対馬で増える韓国人観光客、不動産買収も「有事の避難用か」 家も土地も…「もはや韓国領」


【緊迫 朝鮮半島】
対馬と韓国・釜山を結ぶ高速船の出航を待つ韓国人観光客でにぎわう比田勝港国際ターミナル =長崎県対馬市

 「朝鮮半島情勢が緊迫して以来、韓国人観光客がさらに増え、不動産買収にも拍車がかかっているようだ。有事の際、難民であふれ、島民の居場所がなくなる…」。長崎県対馬市の観光業者からこんな情報が届いた。対馬で何が起きているのか。対馬の現状を報告する。 (編集委員 宮本雅史)


 対馬の北の玄関口・比田勝(ひたかつ)港から釜山港までは約75キロ。JR九州など3社が、1日1、2往復、直航便を運航、高速船だと片道1時間半前後で行き来できる。対馬を訪れる韓国人は年々増加し、昨年は前年比121・6%の約26万人で、このうち約70%は比田勝港から入国している。

 観光客の増加は、町並みを大きく変貌させた。初めて訪ねた9年前と比べ、比田勝港国際ターミナル周辺には、レンタルサイクル店やカフェ、飲食店など韓国語の看板が並ぶ。新築中の建物は韓国人目当てのホテルだという。歩いているのは韓国人だけで、日本人の姿はない。若いカップルや短パンにサンダル履きという軽装の家族連れも多い。観光バスが着くたびに韓国人の団体が大きく動く。

◆飲食店経営者によると、週末には韓国人であふれかえるという。

 観光名所、三宇田海水浴場も、至る所に韓国語の説明が。ここも、韓国人だけで、日本人の姿はない。近くに建つバンガローは韓国人専用。日本海を望む温泉「渚の湯」は、1日200人から300人の韓国人が来ることもあるという。

 地元の不動産会社社長は「観光客の増加と同時に民宿や釣り宿などはほとんど韓国資本に買われとっと。比田勝は今、韓国一色だ」と話した。

 対馬市の中心、厳原(いづはら)町も韓国語が飛び交う。今年1月から7月までに対馬を訪れた韓国人はすでに21万人を超え、昨年同期と比べて7万2千人増加、年内には30万人を優に超す勢いだ。

 飲食店やホテルが並ぶ川端通りは、韓国人が道路を占拠、路地裏の居酒屋では、日本人がひっそりと杯を重ねている。飲食店経営者は「島民は3万人だからおるのは韓国人だけ。川端通りはすでにアリラン通りだ」と話し、こうぼやいた。

 「観光バスは90台以上あるが、全て韓国人観光客御用達。韓国人観光客は、韓国人が経営する飲食店や免税店には行くが、日本人の店には金を落とさない。対馬は場所を貸しているだけ」


◆観光客の増加と並行して、不動産買収がこれまで以上に活発化している。

 「シャッターが開いている所は韓国人が買った所。飲食店も半分以上は韓国人が買収して経営している。数年後には川端通りは全て韓国人に買収されてしまうだろう」とホテル関係者。一戸建ての民家や民宿も激しい勢いで買収され、広い土地を買って建物を建てるケースも目立ってきているといい、複数の不動産関係者は「ここ3、4年で買っている量は半端ではない。対馬の土地が全部、韓国資本に買われてしまうのは時間の問題」と口をそろえる。市議会関係者も「韓国資本が増えてきたからこっそり買う必要がなく、堂々と買い始めた。島民も慣れてきて、昔のように厳しい目で見ないようになった。時代の流れに逆らえなくなってしまった」という。
市は、韓国資本による不動産の買収件数を把握していないというが、実数は想像をはるかに超え、韓国資本は今や名実共に島民の生活に深く浸透し、“市民権”さえも得ているのだ。

 韓国人相手の免税店の女性店員は「家も土地も買われて、人口より観光客の方が多い。対馬はもはや韓国領です。そのうち韓国の国旗が立つのでは」とまで言い切った。

◆韓国資本による大規模な不動産買収は、新たな不安も生んでいる。

 前出の観光業者は、朝鮮半島情勢に触れながら危機感をあらわにした。

 「朝鮮半島で何かが起きた場合、避難するために土地や建物を買っているふしもあり、買収がスピードアップしているように感じる。有事の際、数十万人の難民が押し寄せてくると、われわれ島民の居場所がなくなる。想像を絶することが起きそうで不安だ」

◆コリアンタウン増殖「点と点結ばれたら」

 美津島町竹敷地区は、9年前、海上自衛隊対馬防備隊本部に隣接する土地が韓国資本に買収され、リゾートホテルが建設されたことで、国民の注視を集めた。

 訪ねると、くだんのリゾートホテルは今も営業しており、住民によると、韓国の政治家がお忍びで来ることもあるという。その先の道路は行き止まりになっていて、浅茅湾に面してプレハブのロッジが十数軒新たに営業している。韓国人が島民から土地を買収、建設したという。韓国語でロッジの説明が書かれているが、日本語の記述はない。

防備隊本部に隣接する広大な土地が2カ所買収されて、韓国人専用のホテルやロッジが建つ。さらに、そばには10年ほど前から韓国人が経営している民宿が1軒ある。

 防備隊本部の金網には韓国語で「立ち入り禁止」という注意書きがあるが、地元住民は「観光客は、ほぼ毎日、数十人単位で来て、3軒合わせると月に1千人ぐらいにはなる。大型バスで来て宿泊場所まで歩いて行くが、自衛隊の敷地内に入りそうになったこともあった」と話した。

 竹敷地区では、このほか民宿が5カ所買収され、いずれも韓国人専用。日本人が営業する民宿はないという。「観光バスから、200人、300人と、竹敷の人口より多い韓国人が降りてきて歩き回るばい。乗っ取られたようになる」と住民の表情は暗い。

 竹敷地区はもともと軍港。旧海軍の施設が置かれた“要衝”だが、その地域が韓国資本に買収され韓国人専用の施設が並ぶ。不動産業者らによると、浅茅湾の民宿はすべて韓国人が経営しているという。自衛隊施設を監視するかのように建てられているだけに、住民からも「無線が傍受されない保証はない」と不安の声がもれる。


 竹敷の反対側の浅茅湾の一角、洲藻(すも)湾では、韓国人専用の民宿が5棟建てられ、さらに2棟の建設工事が進んでいる。地元建設業者やホテル関係者によると、200人は宿泊できるという。

 古参の建設業関係者は「韓国人が島民から土地を買収、2億円ぐらいかけて建てているらしい。最終的には11棟になると聞いている。昔はホテルや民宿を買って改造していたが、今は土地を買って建物を建てるようになった」といい、こう付け加えた。

 「厳原と比田勝の間の地域でも、民宿や一軒家が手広く買われていて、きりがない。5年以内にはあちこちにコリアンタウンができるだろう。最終的に点と点を結ぶとどうなるのか。それを考えると不安だ」

韓国資本の買収後の対応も変化してきているという。厳原町の不動産業者はこう解説する。

 「例えば民宿をリフォームするとき、建築基準法や消防法上の規制がある。韓国人はそれが分かってきたようで、日本人の左官や大工、電気屋を使わず、韓国から職人を連れてきて工事をするようになった。大胆になってきている」

 不動産の売買情報の入手方法も少しずつ明らかになってきた。不動産業者らの話を総合すると、対馬に住む韓国人が情報を韓国のスポンサーに流し、スポンサーと島民の間で直接、売買話を進める。最終段階や交渉が込み入ったとき、日本語が話せる韓国人の行政書士が仲介、売買をとりまとめるという。

 土地勘、人脈のあるガイドも当然、情報収集の一翼を担っているが、前出の不動産業者によると、知人の韓国人ガイドはこうも話していたという。

 「10回、20回と来るリピーターは、島民の知人が増え、空き家情報や不動産の売買情報が簡単に入ってくるようになる」

 観光業関係者によると、韓国人ツアーが港に着くと、韓国人ガイドはまず「対馬はもともと韓国領。いずれきっちり韓国の領土になる」と話し、観光案内を始めるのが恒例になっているという。対馬は韓国領だから買って当然という思いが植え付けられているのだろう。観光客の増加は不動産買収の温床にもなっているのだ。

 9年前、当時の財部能成市長は「10年かかるか20年かかるか分からないが、島全体が韓国色に染まってしまう可能性がある」と危機感を示していた。今、まさに現実味を帯びてきている。

【異聞 防人の島・対馬(下)】
「日本海の要塞」対馬に中国の影 不動産爆買いは時間の問題「韓国も中国も対馬欲しい」


 「新しいホテルが建ってよかったばい。観光客をいっぱい連れて来られるけん」

 「一時ですよ。中国人が来だしたら、韓国人は来られなくなってしまう。私たちの仕事もなくなる。すでに福岡に中国人が押し寄せているから、対馬も時間の問題です」
 「中国人と一緒に来ればいい」
 「中国人が来だすと、対馬中全部押さえてしまう。韓国人の出番はありません」

 今春、対馬の玄関口、厳原(いづはら)港の近くに国内の大手ホテルチェーンが進出した。増加する韓国人観光客を狙ったものだった。ところが、50歳代の建設会社社長によると、それ以降、韓国人観光客を相手に通訳をしている韓国人ガイドとの間でこんな会話が頻繁に交わされるようになった。

 韓国人ガイドは慣れた日本語で「すでに中国人の出入りがあります。今日も中国人を何人か見ました。中国人は対馬に興味を持っているようで、厳原で土地と建物を買ったという話を聞きました。下見に来ているようでした」とまくしたてたという。中国人の対馬進出に危機感を持ち、ぼやく韓国人ガイドは一人や二人ではなかった。

 「『韓国も中国も対馬が欲しいのです。しかし中国人が乗り出してくると、韓国は太刀打ちできない』と暗い表情で話していた」

このガイドの言葉を裏付けるように、厳原町のタクシー運転手は「中国人観光客はすぐに分かる。大きなかばんや袋を持っていて、爆買いするから。韓国人と買い物の仕方が違う」という。

 厳原町のホテル事情に詳しい男性は「全国展開するホテルの関係者から、中国人観光客の増加を見込んで宿泊施設を建てる-という話を聞いた」と明かし、「中国が本格的に出てくるのは時間の問題だ」と断言した。
                 
×   ×

 対馬の表玄関・厳原港は大規模な改修工事の真っ最中だ。長崎県によると、現在国内フェリーの接岸工事をしている段階で最終的な改修規模は検討中だという。

 だが、対馬の複数の財界関係者の話を総合すると、3年をめどに水深を掘り下げるなどして大型豪華客船が停泊できるように改修する計画が進められているという。県は、この点について「検討対象」というにとどめているが、ある観光業者は、博多港に中国の豪華客船が入港、2千人から3千人の中国人観光客が上陸していることを挙げ、「改修されると、韓国人観光客だけでなく中国人観光客も大挙してやってくるだろう。そうすると、北海道のように、韓国資本が押さえている不動産をすべて中国人が買収にかかる可能性が出てくる」と指摘する。

 十数年にわたって対馬で韓国資本の進出を注視している男性は「対馬には中国人に売ってもいいと考えている人もいる。韓国人も中国人が不動産を売れと言ったら売るでしょう。中国と韓国が重なって対馬を買いあさり、その後、韓国が買い占めた土地を中国が買うということも十分にありうる」と危機感を表す。

 こうした危機感はじわじわと広がりつつある。厳原町のある財界幹部は「対馬自体が要塞。対馬を押さえると、日本海を押さえることにもつながる。日本海を内海にして自由に航行できることを目指す中国は当然、対馬を狙ってくる」と話した上で、「私はすでに韓国資本の裏で中国資本が動いて、不動産を買いあさっているのではないかと疑っている」と不安を口にした。

 こうした危惧を裏付けるように日本に帰化した中国ウオッチャーは「要衝である対馬は中国にとってはのど仏のような存在で、どうしても拠点にしたい場所。すでに韓国人名義や島民名義で買収している可能性は高い」と、警告した。

◆止まらぬ過疎・高齢化 「日本守る国民守れ」
 対馬が韓国資本の標的にされる理由は、歯止めが利かない過疎化と高齢化にある。
 対馬の不動産業者はこう話す。
 「過疎化がスピードアップしている。住民票は対馬にあるが、誰も住んでいない家も増えてきた。夜9時頃、車で走ると、電気がついていない家が多く、その数の多さに驚く」

 総務省によると、対馬の人口は平成12(2000)年に約4万1千人だったのが平成27年には約3万1千人に減少。だがこれは住民登録している数字で実数はさらに低いという。減少率は28年10月現在で全国1741市区町村中120番目だ。また、27年現在で、総人口に占める65歳以上の割合は33・9%で、全国平均(26・6%)より7・3ポイント高い。2040年までには10・7ポイント上昇し、44・6%に達し、10人に4人が高齢者になるという。
 過疎化と高齢化は対馬の慣例を壊し、それがさらに韓国資本による不動産買収に拍車をかけているという。前出の不動産業者は語る。

 「5、6年前までは、先祖代々の墓を守らなければならないから島を出て行けなかった。ところが、最近は墓を守るのは自分の代までという島民が増えてきた。先祖代々伝わる土地建物を自分の代で絶やしてはいけないという伝統が変わっている。だから家が断絶するスピードも速まっている」

ある運送業者は身近な出来事として、こう話した。

 「60歳で定年になると、すぐに家を売って、本土にいる子供の所に行こうという島民も目立つようになってきた」

 市議会関係者も、こうした事情を踏まえて「相手は誰でも手っ取り早く売れて現金が入ればいい。観光客らからそういう情報が流れ、韓国資本もそれを狙っている。この流れは変えられない」と表情は硬い。
                 
×   ×

 国境離島が抱える問題を打ち破ろうと、今年4月、有人国境離島法が施行され、目玉の一つとして、離島住民を対象とした航空運賃や航路運賃が引き下げられた。例えば、対馬から福岡へ行く場合、航空運賃はこれまで片道1万1200円だったのが7300円に、海路も厳原(いづはら)-博多間を結ぶ高速船ジェットフォイルは片道6330円が4450円に、フェリーも片道3660円から2620円に引き下げられ、6割負担で済むようになった。

 だが、ここに大きな落とし穴があった。島民の多くは口をそろえてこう指摘する。「新法は島民だけが対象だ。離島振興の意味からみると本末転倒だ」

これはどういうことか。朝一番のジェットフォイルで厳原港を出発すると、博多で終日、買い物などをして夜には対馬に帰れる。ジェットフォイルの運賃が安くなって以降、「買い物や美容院にかかるために福岡に行く島民が増え、対馬の商店の売り上げが下がってきた」(厳原の商店主)というのだ。

 地元地方議員も「本土の人が気軽に対馬に来られるような制度ではないから、島の繁栄にはつながらない。今のままでは過疎化は防げないし、対馬の経済復興もままならない」と、新法の“弊害”を訴える。

 タクシー運転手も「皆さんに補助して、交通費が安くなれば本土からも人が来るとですよ。日本人が大勢来られるようになれば対馬も進展があろうばってん、韓国人じゃ相手にならん」と話す。

 新法は一歩前進と評価する声もある。一方で、対馬の経済活性化にはほど遠く、国境離島を守ることにはならないという見方も根強いのだ。

 厳原ではこんな声が多い。「今のままでは過疎化が進み、国を守る国境離島の意味をなさない。今、きっちりと対策を練らないと、問題は対馬だけにとどまらなくなる」

 ある地方議員はこう訴える。
 「国境の島は、日本を守る島という特区にすべきだ。土地や山は売ってはいけない。そのかわり政府が、日本を守る島民を守るという政策が必要だ」

 (編集委員 宮本雅史)

台湾独立の戦い

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地球史探訪: 台湾独立の戦い

「日本が本当に反省しなければならないのは、戦前ではなくて戦後である」
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■1.「とうとう、本当の自分に戻ることができた!」

「昭和36(1961)年4月、羽田空港に降り立った私は、人目がなければ、地面に跪(ひざまづ)いてキスをしたいくらいにうれしかった」 台湾から東京大学に留学した周英明さんはこう思った。翌日井の頭線に乗って渋谷に向かう車中、笑いがこみ上げて、我慢できなくなってしまった。

__________
 とうとう、本当の自分、周英明に戻ることができた! もう誰に対しても自分を偽る必要はない。台湾を支配する国民党の連中、ざまあみろ。私はお前たちの手中から逃れて、自由な国に来ることができた。もう二度と、絶対におまえたちには捕まるものか! ざまあみろ。[1, p77]
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 戦後、日本が引き上げた後で、台湾では蒋介石の国民党により恐怖政治が行われた。周さんはそこから脱出してきたのだった。


■2.台湾人の怒り

「遵法観念なし、衛生観念なし、教養なし、文化レベル最低の中国人が警察・軍隊・役所など、権力を全部掌握して、好き勝手なことを始めたからたまらない」[1, p38] これが終戦直後の台湾だった。

 日本統治時代の台湾は米は豊作、一級品の砂糖の生産も盛んだった。その砂糖や米穀を、中国兵のトラックが次から次に運び出して、中国大陸に売ってしまった。軍や政府の上層部が、金儲けのために勝手に持ち出すのである。その結果、飢饉を知らなかった台湾で米不足になり、極度のインフレが生活を直撃した。

 また中国海軍が香港あたりから密輸してきた外国たばこを、元締めから仕入れた台湾人が街頭で売る光景が見られるようになった。国民党政府は専売で売っている台湾たばこの売り上げが落ちるので、これに目を光らせていた。警官が来ると、たばこの密売人は一斉に路地裏や物陰に隠れてやり過ごす。

 1947(昭和22)年2月27日夕方、たばこの密売で生計を立てている未亡人が逃げ遅れて捕まってしまった。「子供がいるんです」「生活に困っているのでどうかお見逃しを」と土下座して懇願するその未亡人から、取締官は密売たばこを取り上げ、ジープで連行しようとした。抵抗する未亡人は取締官に小銃の台座で殴られ、頭から血を流した。

 一部始終を見ていた群衆は、はじめは「許してやれよ」というヤジを飛ばしていたが、それが「やっちまえ」にかわり、危険を感じた取締官は群衆に向かって発砲し、けが人が出る騒ぎになった。

 民衆の怒りは収まらず、翌28日朝、膨れあがった群衆は「発砲してけがをさせた警官を処罰しろ」と専売局前の広場に押し寄せた。2階のバルコニーにいた警備兵が広場の群衆に向かって機銃掃射し、数人の死者が出た。この事件で、これまで我慢していた台湾人の怒りが爆発し、各地で暴動が起きた。


■3.血の海のなかの先輩の遺体 

 この時、周さんは高尾中学1年生だった。周の兄たち上級生は小銃で武装し、「中国人を追い出そう」と演説をして、校舎の守りを固めた。

 数日後、高尾中学は中国軍に包囲された。銃撃戦が起こり、双方で死傷者を出した末に、校舎は中国軍に占拠された。中国軍に追い詰められて最後に残った兄たち数人は、銃を捨てて塀の崩れたところから、かろうじて逃げのびた。

 しばらくして、中学校が再開されることとなり、周が朝、家を出ると駅前広場で黒山の人だかりができていた。なかの様子を窺った周さんは、ショックで顔面が蒼白になった。公開処刑が行われた直後で、3人の遺体が血の海の中で横たわっていた。そのうちの一人は周さんの知っている先輩だった。

 その光景を見た瞬間、周さんの体の中にあった道徳心や勇気、正義感は凍りついてしまった。もう金輪際、政治に関わったりはすまいと心に誓った。その後、高校に入り、台湾大学の受験をめざして勉学に打ち込み、政治に関わることを避け続けた。

 台湾大学に入学し、大学のそばの学寮で生活を始めた。国民党政権によるテロが続いており、少し不用意な発言した人はいつの間にか学校から消えていなくなった。しばらくすると近くの河原で銃殺死体で見つかる。

 大学を卒業すると、1年半の義務兵役が始まった。炎天下に来る日も来る日も演習ばかりさせられた。蒋介石を頭とする一族郎党のために、辛い軍事訓練を受けて、「毛沢東をやっつけろ、それがお前たちの使命」だって? 腹の中では憤懣でいっぱいだった。

 やっとのことで兵役を終えて、台湾大学に助手として戻った。腹の中で膨れ上がる反逆心がいつ爆発するか、もう限界に来ていた。そのころ日本の文部省が国費留学制度を開始した。この道しかない! 周さんは猛勉強して試験に合格し、東京への切符を手にしたのである。


■4.「台湾?」

 東京について、とうとう本当の自分に戻ることができたと舞い上がったが、一ヶ月も経つと別の思いが頭をもたげてきた。

__________
 学者になりたいという道は開け、私は前途洋々である。しかしそれは個人的な問題が解決されただけではないか。・・・
 両親や兄妹、親戚、学友はみんな、今も台湾で苦しんでいる。蒋介石を頭とする国民党政府の圧政は、少しも改善されていないではないか。[1, p78]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 自分は一体、どうすべきなのか。頭を抱えながら、時間が過ぎていった。そんなある日、留学生会館の図書室で『台湾青年』という雑誌が目に留まった。「台湾?」 台湾と名前をつける事は、反体制・独立を意味することから、台湾国内では絶対にタブーだった。

 なかを読んで驚いた。口にするのも憚られる「台湾独立」や「蒋介石の独裁体制」という言葉が並んでいる。しかもよく読めば、日本にいる留学生たちが作っているようだ。

 たぶん自分と年格好もそう違わない留学生、ほんの一握りの台湾人青年たちがこんなにも勇敢に戦ってるのだ。その夜、周は興奮して一睡もできなかった。「怖い、怖い」と逃げている自分が、ひどく小さな、卑怯な人間に思われた。

 そして今まで自分が受けた台湾の人々や台湾社会からの恩義を想うと、台湾の最高学府を出た自分が何もしなければ、一体この台湾は誰が救うのか、このままではいけない、という気持ちが高まっていった。


■5.「独立運動に加わろう」

『台湾青年』を読んだ感激を何とか伝えたいと思って、匿名で編集部に投書した。すぐには彼らの仲間にならなかったが、匿名で政府批判の文書を作成し、あちこちに配るようになった。

 ある日、在日中華民国大使館からで呼び出し状が届いた。ギクッとしたが、行かなければかえって怪しまれると思って、恐る恐る出かけて行った。大使館の文化参事官は周さんを家に連れて行ってご馳走し、最後に「いろいろ仕事を手伝ってもらいたい」と切り出してきた。

 毎月、金を支給するので、台湾からの留学生たちがどこで何を言ったか、定期的に報告してもらいたいという。スパイになって友達を売るなどという真似ができない事ははっきりしていた。しかし断れば「政府の言うことが聞けないのか」となるだろう。

 悩みに悩み、そして決心した。「大使館の要請は断ろう。エイ、毒をくらわば皿までだ、独立運動に加わろう。もう自分の心に嘘つくをよそう」

 台湾国内で独立運動すれば命がけ、国外ならパスポート剥奪、親兄弟をはじめ一族郎党がブラックリストに載る運命が待っていた。年老いた父母の顔が目に浮かんだ。 「これで台湾には、帰れなくなります。いろいろ心労をおかけする親不幸をお許しください」と、唇を噛みながら、周さんは心の中でわびた。


■6.「『台湾青年』で小説を書いている孫明海ってあなたでしょう」

 そんなある日、周さんは会合で紹介された一人の女性に一目惚れした。そばにいた友人に「何者だ」と尋ねると「ああ、彼女はね、大使館の特務四天王だから、あんなのに近づいたらダメダメ! いつも大使館に雇われて通訳をやってるし」と教えてくれた。特務とは大使館の手先として諜報活動するスパイで、その四天王の一人だという。周さんはがっかりした。

 その女性、金美齢さんは通訳をやっているのはアルバイトのためだけで、密かに『台湾青年』を読んでいた。何度か二人で顔を合わせて話をするうちに、金さんは周さんの考え方や話し方から「独立派」との「信号」をキャッチしていた。たまたま二人だけで話す機会があった時、「『台湾青年』で小説を書いている孫明海ってあなたでしょう」と切り出した。

 金さんは日本統治時代の台湾に生まれ育ち、やはり国民党政権に反発して、ある日本人の助けで日本に留学した。日本では学生運動のまっただ中で、金さんは、若者がこれほど自由に政治的な発言ができることに衝撃を受けていた。

 ある日『台湾青年』という雑誌が届き、みんなが恐れおののいている台湾の政治や社会の問題をはっきり指摘する勇気のある人々がいることに驚いた。やがて得意の語学を使って大使館の通訳を務めるようになったが、仕事は仕事と割り切り、その陰で『台湾青年』の編集者たちと接触していた。

「孫明海ってあなたでしょう」とズバリと指摘され、周さんは「いやー、ハッ、ハッ、ハッ」とごまかしたが、「よくわかったなぁ」と内心、舌を巻いた。そのうちひょんなことから彼女の自宅で食事に招待され、二人だけでずっと話した。

 翌日の朝、周さんは彼女に電話した。「僕と結婚してください」といきなりプロポーズした。「はい」と言う返事が、電話線を通してすぐに戻ってきた。


■7.パスポート没収

 二人が結婚して数ヶ月後、周さんのパスポートが更新時期を迎え、大使館で更新の申請をしたが、その後、いくら待っても連絡がない。独立派と旗幟を鮮明にしたので、パスポートを没収されたのだ。周さんは残念に思うこともなく、国民党政府と縁が切れた事に心からの開放感を味わっていた。

 当時、日本政府は国民党政府と取引して、日本国内の独立運動家一人を引き渡せば、麻薬密輸で捕まった台湾人8人を引き取らせるという密約をしていた。実際に周さんの仲間の一人は大学を卒業して、滞在理由がなくなったので、勾留されて、台湾に送還される事になった。

 仲間たちが阻止しようと、羽田空港の歓送迎デッキから飛び降りて、警官隊と大乱闘になったが、奪還できずに、台湾に送られた事もあった。しかし、日本でこれだけの大騒ぎになった事で、台湾では死刑を免れた。

 やがて子供もできたが、強制送還の恐怖は常に身近にあった。二人は万が一に備えて遺書を準備し、死に方を考え、子供の行く先を考えた。その覚悟をもとに、勉強しながら生活費を稼ぎ、子供を育て、独立運動を続けた。

 やがて周は博士号を取得し、指導教授が粘り強くいろいろな大学にあたってくれて、東京理科大学の非常勤講師の職を見つけてくれた。さらに1年後は学科の主任教授や学部長が動いてくれて、常勤の助教授に昇格した。外国人の専任教員は前例がない時代だった。

 それまでは毎年、滞在許可を更新しなければならなかったが、ようやく永住資格を与えられた。二人は台湾には帰れないと思っていたが、台湾独立のために最後までやる覚悟でいたので、日本の国籍はとらなかった。


■8.「日本が本当に反省しなければならないのは、戦前ではなくて戦後である」

 2000(平成12)年3月、李登輝総統の後任として陳水扁総統が誕生した。台湾人で、しかも独立を標榜する民進党から生まれた総統だった。ようやく台湾に帰れるようになった。 8月28日、二人と長女を乗せた中華航空機が台湾の大地に着陸した。周さんにとっては40年ぶりの帰国である。

 前総統の李登輝氏は二人を自宅に招いて温かくもてなし、ねぎらってくれた。周さんは「李登輝総統が勇気を持ってこの民主化、自由化の改革を行われたおかげで、私は生きてるうちに台湾に戻ることができました」と挨拶した。

 日本統治時代に育った李登輝氏は「日本人がその理想をつぎ込んで育成したのが、私と言う人間なのです」と語っている。言わば戦前の「日本精神」が李登輝氏の体を借りて、台湾の民主化と自由化を進めたとも言える。

 「日本精神」とは戦後の国民党政治への不満と恐怖の中で日本統治時代の公正な巡査、教育熱心な先生などの生きざまを懐かしんで生まれた言葉である。その反対が、不公正、無責任、欺瞞、金が万事、を意味する「中国式」である。

 敗戦で台湾を放棄した日本は、中国と国交回復した昭和47(1972)年にも「台湾は中国の一部」との中国の主張を認めてしまった。日本は二度、台湾を捨てたことになる。「日本が本当に反省しなければならないのは、戦前ではなくて戦後である」と金美齢さんは言う。

 そして今、台湾と日本は同じく大陸からの過去最大の脅威にさらされている。蒋介石政権からの「台湾独立」を成し遂げた台湾人から、現代の日本人は「日本精神」を学んで、ともに力を合わせて独立を守らなければならない。
(文責 伊勢雅臣)

朝鮮総督府の「一視同仁」チームワーク

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地球史探訪: 朝鮮総督府の「一視同仁」チームワーク

 日本人官吏と朝鮮人官吏の和気藹々としたチームワークが朝鮮の高度成長を支えた。
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■1.「大和系日本人」と「朝鮮系日本人」のチームワーク

 朝鮮総督府で官吏をされていた人が、当時の体験を語った貴重な本がある。本年7月、102歳で亡くなられた西川清氏の『朝鮮総督府官吏、最後の証言』だ。表紙の帯には「おそらく総督府の実態を語れるのは私が最後だと思います」との発言がある。

 この本の裏表紙にある写真が、西川さんの証言のすべてを物語っている。そこでは4人の若い男性が桜の木の下で、肩を組んでいる。キャプションには「1934年 官吏仲間と楽しく花見する西川氏」とある。

 一人は着物を着ているので日本人と分かるが、他の3人は洋服だ。そのうちの一人が西川さんで「大和系日本人」、残る2人の青年には「朝鮮系日本人」と注意書きされている。

 仲良く肩を組んでいるので、そのような注意書きがなければ、誰が日本人で誰が朝鮮人だか全くわからない。西川さんの朝鮮総督府での業務体験を読んでいくと、日本人と朝鮮人が一体となったチームワークで仕事をしていたことがよく窺われる。

■2.町の周囲の山が禿山だった

 西川さんは昭和8(1933)年18歳で和歌山県の熊野林業学校を卒業し、校長の斡旋で朝鮮総督府に就職した。朝鮮といっても、当時は内地(国内)、外地(朝鮮、台湾)とも同じ日本だったので、日本国内の遠い地方に行くという感覚だった。任地は江原道(こうげんどう)。「道」は日本で言えば「県」にあたり、江原道は朝鮮半島の東海岸、南北ではちょうど中程にあった。

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 朝鮮に行ってまず驚いた事は、釜山(プサン)や京城(ケイジョウ、現ソウル)など町の周囲の山が禿山だったことです。

・・・朝鮮にはオンドルという薪(まき)を焚いて床を暖める設備がどこの家にもありました。朝鮮は非常に寒くなりますから、このオンドルには大量の薪が必要です。しかし、朝鮮には植林をするという技術もなく、指導者もいなかったので、街に近い山々にはほとんど樹木がなくなっていました。
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 西川さんの最初の仕事は、この禿山に植林をすることだった。まず土が流れないよう、7、80センチの段々を作り、そこに木を植える。植林は土砂崩れや洪水防止のために急務であった。また海の近くに植林することで、漁場に栄養が行き渡る。西川さんは日本の林業学校で「樹のない国は滅ぶ」と教えられていた。

 朝鮮総督府は1911年からの30年間で、5億9千万本もの植林を行った。朝鮮全人口の一人あたり約25本という膨大な数である。西川さんはその一翼を担ったのである。

■3.日本人官吏と朝鮮人官吏の給与も出世も平等だった

 昭和11(1936)年に朝鮮総督府は地方官吏養成所を設け、西川さんはその第1期生として京城で1年間学んだ。江原道からは5人が送られたが、そのうちの2人は朝鮮人だった。養成所の第1期から朝鮮人も選ばれて、幹部候補生として育てられたのである。幹部ともなれば、日本人の上司となることも、ごく普通であった。

 昭和18(1943)年、西川さんは江原道の21の郡の一つ、寧越郡の内務課長に昇進した。寧越郡は7つほどの村を管轄しており、全体で60名ほどの職員がいた。どこの郡でも郡守はほとんど朝鮮人で、寧越郡も例外ではなかった。西川さんは朝鮮人郡守の下で内務課長を務めたわけである。

 給与も出世についても、日本人も朝鮮人も全く差別はなかった。ただ内地から来た日本人には外地手当が支給された。したがって内地に働く日本人官吏と、朝鮮で働く朝鮮人官吏は同じ給与だったようだ。これは現在の多くの日本企業の海外法人よりも公平である。

 その後、西川さんは道庁に移って課長補佐になったが、そこでも朝鮮人の方がずっと日本人よりも多く、また道庁の部長もほとんど朝鮮人であった。ここでも朝鮮人の上司に仕えたのだが、石川さんは全く違和感はなかったという。朝鮮人の上司は、西川さんをとても可愛がってくれた。

 朝鮮統治では、「皇民化」で当時の朝鮮人を軍国主義に染め上げようとした、などとの批判が現在されているが、それについて西川さんはこう答える。
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 皇民化政策について勘違いしている方が多いのです。日本人も朝鮮人も皇民だったということです。皇民化とは日本と朝鮮の格差や差別をなくすためのものだったと思います。
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 道庁内では各課ごとに野球チームを作り、野球大会をやっていた。朝鮮人は野球がとてもうまく、朝鮮人だけのチームもあったが、そこが一番強いかというと、そうではなかった。なぜか朝鮮人と日本人の混合チームがいちばん強かったと言う。個人の能力の高い朝鮮人とチームワークに優れた日本人の強みがうまく補完し合うからだろう。

 朝鮮は、日韓併合後の最初の20年で、人口も米の生産量も2倍となるなどの高度成長期を迎えるが、その原動力の一つが、この日本人と朝鮮人のチームワークだった。


■4.朝鮮人は日本名を名乗る権利があった

 朝鮮人に日本名を名のらせる創氏改名が強制されたというのも、戦後の神話である。
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 道庁の朝鮮人官吏の人でも、創氏改名しない人はたくさんいました。はっきりと覚えていませんが、私の周りでは半数以上といったところでしょうか。「創氏改名しろ」と言う命令があったのなら、朝鮮人の官吏は、真っ先に改名しなければならなかったでしょう。

 総督府の組織の人間である官吏の朝鮮人が、国の言うことを聞かないと言う事はできません。それが名前を変えなかったという事は、創氏改名は自由だったということです。
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 むしろ朝鮮人が日本名を欲しがったと言う話も聞いたくらいだった。「あの当時は同じ日本人なのだから、したかったらしたらという感じでした。無理にしろということではありません」と西川さんは回想する。実際に「氏の創設は自由 強制と誤解するな」という総督からの注意が新聞記事でも残っている。

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 もし、創氏改名が出来なければ差別になります。日本人と同じと言っておきながら、朝鮮人が日本名に変えることができないとなると、これは一つの矛盾となります。朝鮮人は日本名を名乗る権利があったのです。
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■5.「徴用は、強制というより納得するように話すんです」
 現在、朝鮮人労働者を日本内地で働かせた「徴用」は「強制労働」とレッテルを貼られ、当時の日本企業に損害賠償を求める裁判まで起こされている。

 西川さんは寧越郡の内務課長時代にこの「徴用」に取り組んだ。徴用とは戦時下の労働力不足に対応するための国民に対する勤労動員である。内地では昭和14(1939)年から実施されていたが、朝鮮では昭和19(1944)年9月に開始された。

 朝鮮総督府が各道庁に朝鮮人男子青年の人数を割り当て、道庁は郡に、郡は面(村)に人数を割り当てる。ただし、西川さんの前任者は、10人の割り当てがあっても、5、6人しか集められなかった。

 西川さんは10人の割り当てに10人集めた。その成績が非常に良いと言うことで総督府の事務官が理由を聞きに、西川さんの所にやってきた。逆に言えば、徴用は法律上は強制であっても、実際には言うことを聞かない朝鮮人も多かった、ということである。
__________
 どうやって集めたかと言うと、面長(村長)とか、関係の人にきちんと説明して、本人にも納得するように説明してもらう事でした。・・・

 徴用は、強制というより納得するように話すんです。それをしっかりと話をしないで、集めようとするから、皆、嫌がって日本に行かないことがわかりました。

私はきちんと、日本に行って、日本人と同じ仕事をして、賃金もきちんともらえると、係官に説明をしてもらったのです。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 これが「強制労働」の実態だった。


■6.「従軍慰安婦」の強制連行はなかった

「従軍慰安婦」の強制連行などは無かった、と西川さんは断言する。もし「従軍慰安婦」の強制連行があったら、徴用と同じように人数の割り当てがあり、内務課長がその人数を集める責任を負うはずだ。内務課長であった西川さんがそれをしてなかったという事は、強制連行の事実がなかったと言うことになる。

 百歩譲って、西川さんが嘘をついていたとしても、まだまだ反証がある。西川さんの周囲には、郡長や部長レベルも含め多くの朝鮮人官吏がいた。もし朝鮮人女性をトラックで無理矢理連行するような事があったら、それらの朝鮮人官吏が黙って見ていたはずがない。必ず大騒動が各地に起こったであろう。

 さらにもう一つの証拠として、当時の行政の厳格な文書主義がある。戦後、西川さんが帰国して、再就職する際に、政府から履歴書を再発行してもらった。そこには朝鮮に渡った18歳からの経歴、役職、給与までが克明に記録されていた。コンピューターもない時代に、総督府は一人ひとりの官吏にまで、このような詳細な記録を残していたのである。

 終戦後の引き揚げの混乱の中でも、総督府は「特別輸送乗車船証明書」を発行している。これは引き揚げの交通費を免除するためのもので、印刷された用紙に名前を書き、公印まで押している。

 もし総督府が行政命令として慰安婦を集めていたら、その命令書や執行報告書、そして集められた慰安婦たちの一人ひとりの記録が残されていたはずだ。西川さんは引き揚げ時には書類はすべて道庁に残してきたというから、もし慰安婦の強制連行があったら、その膨大な証拠書類が出てこないわけがないのである。

■7.朝鮮人志願兵への応募30万人

「従軍慰安婦」とは対照的に、朝鮮人志願兵の記録は詳細に残っている。朝鮮人の第一回志願兵募集が始まったのは昭和13(1938)年だった。応募者は2,976人と倍率が7倍を超えたので、採用者を増やして480人が採用された。

 志願者は年々増え続け、昭和18(1943)年には30万人にも達した。採用予定者は5,300人で、倍率は約57倍だった。この年にはさらに幹部候補の募集も行われた。

 日本の軍隊の特徴は、日本人と朝鮮人を混在させた点にあった。そのため朝鮮人上官の下に日本人兵が配置されることもあった。そこでは朝鮮人上官が日本人の部下を怒鳴りつけたり、殴ったり、靴を磨かせていた事も、当時の軍として普通に見られたようだ。

 アメリカでは、白人部隊と黒人部隊が完全に分かれ、黒人の上官の下に白人の部下がつくことなど、ありえなかった時代の話である。

 靖国神社には、日本軍として戦った朝鮮人兵士約2万1千人以上が英霊として祀られている。「一視同仁」、すなわち、日本人も朝鮮人も同じ「皇民」である、とする精神が軍隊内での処遇においても、慰霊においても実践されていたということである。

■8.「私たちは、恥ずべきことは何一つしておりません」

 終戦の玉音放送を、西川さんは自分の机で聞いた。よくは聞き取れなかったが、「忍び難きを忍び」などの天皇陛下のお言葉を聞いて負けたということがわかった。道庁の中で、朝鮮人官吏の様子については特に変わった様子もなかったようで、記憶に残っていないという。

 西川さんは翌日も、職場に行った。
__________
 私は机の身近なものなど片付けて、それ以上はもう自分は必要ないから触らずに帰ってきたわけです。何も朝鮮と戦争した訳でもないから、朝鮮を差別したこともないし、内鮮一体でやってきたわけだし、私たちは、恥ずべきことは何一つしておりません。

 朝鮮人と日本人と一緒になって、一生懸命やりましょうということだけで、仕事をしてきたわけです。江原道庁で、見られて都合の悪い書類なんて何もありませんでした。総督府は善政を敷いたのです。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 日本の朝鮮統治は「植民地化」ではなく、「合邦」、企業で言えば「合併」であった[b]。そして西川さんたち朝鮮総督府官吏は、日本人も朝鮮人も「一視同仁」、「内鮮一体」の理想に忠実に、良きチームワークを発揮してきたのである。

 玉音放送の2,3日後、日本人が一人二人とコソコソと引き揚げてることを聞いて石川さんは人事課長の所へ行って、提案した。
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 戦争に負けて国は三等国以下になったとしても、我々国民はそのまま世界の一等国民ではありませんか、こそこそと逃げて帰るような事はしたくないです。現在、春川(シュンセン)に約一千人位いると思われる日本人全員が一カ所に整然と引き揚げて、流石(さすが)日本国民だ、綺麗な引き揚げ方だったと、朝鮮人から言われるような引き揚げをしませんか。
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 その言葉通り、在留邦人たちは一体となって、西川さんが仕立てた列車で釜山に行き、収容所で1ヶ月、船を待って、日本に帰り着いた。「一等国民」として、誇りに満ちた引き揚げ方だった。
(文責 伊勢雅臣)



1. 桜の花出版編集部『朝鮮総督府官吏 最後の証言』★★★、H26、星雲社
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4434194453/japanontheg01-22/

韓国軍が数千人ベトナム女性を強姦し、慰安婦にしていた

米国メディア「日本より先に謝罪すべきだ」 産経新聞 2017.4.30

ベトナム戦争時、韓国軍がベトナム人女性に行った極悪非道の数々について、韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領は国際社会に向けて謝罪すべきだと訴える2015年10月13日付の米FOXニュースのオピニオン面(電子版)

 さて、本コラムはこれまで、欧米の音楽や映画にとどまらず、国際政治や経済、IT(情報技術)、宇宙開発、食(グルメ)、健康、動物愛護、環境保護、UFO&地球外生命体騒ぎに至るまで、国内外を騒がせるニュースをすべて“エンターテインメント”ととらえ、他のメディアと違った視点でご紹介してきました。

 なので、やはりこの問題についてもご紹介せねばなりません。昨年末に韓国・釜山の日本総領事館前に慰安婦像が設置された一件についてです。

 ご存じの通り、日韓両政府は一昨年末の合意で慰安婦問題を「最終的かつ不可逆的に解決されたことを確認した」との認識で一致。

 日本側はこの合意に基づき昨年、元慰安婦支援などに10億円を拠出するといった合意内容を着実に履行しました。

 ところが韓国側はソウルの日本大使館前の慰安婦像は「地方自治体の責任」などと主張し、撤去に動かなかったどころか、釜山の日本総領事館前に2つ目の慰安婦像が設置されたことを容認したのでした。

 こうした韓国側の一連の行為や対応は、外国公館前での侮辱行為を禁じたウィーン条約を無視する立派な国際法違反に当たります、なので当然ながら日本政府は駐韓大使を一時帰国させるといった対抗措置に出ました。

 これに対し、当の韓国側や日本在住の反日勢力、そして、なんちゃって左翼の連中が、真面目に反論するレベルに至らない低レベル過ぎる屁理屈を並べ立てています。

 こう書くと反日勢力などから「偉そうなことをほざくな」と言われそうですが、当の韓国政府を含め、こうした連中は、この問題に対して意見できる立場にないのです。なぜか。理由は簡単。少しばかり世界の物事の裏を分かっている人々の間では既に有名な話なのですが、慰安婦問題について国際社会に深く深く謝罪せねばならないのは、実は韓国の方なのです。今回の本コラムでは、その理由についてご説明いたします。

■13歳少女をも韓国軍が強姦…“ライダイハン”混血児は約3万人
 今年1月で5年目に突入した本コラムのネタ探しで海外メディアの電子版を巡回していて、このニュースを見つけたときは、本当に驚いたのと同時に、自分のモノの知らなさに恥じ入ったものでした。そして“いつか絶対このコラムで書いてやる!!”と思っていたのですが、遂にその日が来ました。

 2015年10月13日付の米FOXニュースのオピニオン面(電子版)です。見出しはこうです。「朴(槿恵=パク・クネ)大統領は韓国がベトナムで行った性暴力について公に謝罪すべきである」

 どういうことかと言いますと、このFOXニュースのほかにもさまざまな欧米、そして当の韓国のメディアが報じているのですが、ベトナム戦争(1960年代後半から1970年代初め)時、米の同盟軍としてこの戦争に参戦した韓国軍が多くのベトナム女性を強姦(ごうかん)し、彼女たちを韓国兵のための慰安婦として強制的に働かせていたというのです。

前述のFOXニュースによると、約40年前、現(韓国)大統領の父親で(当時の軍の)司令官、朴正煕(パク・チョンヒ)は32万人以上の米同盟軍(つまり韓国兵のことですね)をベトナムに派兵したといい、この戦争の間、韓国兵は13歳から14歳(の女性)を含む数千人のベトナム女性に対し激しい強姦または性的暴行を行ったと明言。

 そして、強姦されたことによって多くの女性が妊娠・出産し、彼女たちが産んだ混血児が現在、ベトナムには5000人から3万人存在すると説明します。

 そして、韓国軍がベトナムで行ったこうした極悪非道な行為に対し<朴大統領は世界で最もパワフルな女性の1人である。父親が率いた兵士たちが膨大な数にのぼる罪のない女性たちに対し、犯した犯罪を公に謝罪することは、間違いなく彼女の権限の範囲内にある。なのに、そうした謝罪をしないで、日本に対し、第二次世界大戦時の韓国の慰安婦に対する性的暴力について謝罪を求めることは、朴大統領の道徳的権威を傷付けるだけである>と警告しています。

 平たく言えば“日本に謝罪を求めるなら、自分たちもベトナムでやらかした残虐行為について世界に向けて謝罪しろ”ということですね。

 ちなみにこのFOXニュースのオピニオン記事の投稿者であるノーム・コールマン氏(67)は2003~09年に米ミネソタ州選出の上院議員(保守・共和党)を務め、現在、国家安全保障や外交政策の専門家らで組織する米のNGO(非営利団体)「米グローバルリーダーシップ連合(USGLC)」で要職を務めています。

■韓国軍は「トルコ風呂」という名の慰安所を
 そして、ベトナム戦争に従軍し、捕虜になったことで知られる保守・共和党の重鎮、ジョン・マケイン上院議員(アリゾナ州選出)が友人といい、この投稿記事でも<私の良き友人、ジョン・マケイン上院議員はベトナム戦争時、捕虜になった際の恐ろしい日々を振り返る際、戦争は人々の生活に深い感情的・物理的傷あとを残すとしばしば語っていた。韓国兵の手によって無垢(むく)を奪われた多くの(ベトナム人)女性たちは、ベトナム戦争における(誰にも)語られない大きな悲劇である>と記しています。

しかし、この投稿記事では、ベトナム人女性は強姦・性的暴行を受けただけのような書き方ですね。だがしかし。実態は違います。2015年に米国立公文書記録管理局(NARA)の公文書で明らかになったのですが、韓国軍はベトナム人女性を強姦しただけでなく、彼女たちを韓国兵のために設置した「トルコ風呂」(Turkish Bath)という名称の慰安所に集め、韓国兵相手に売春を強要していたのです。

 つまり、軍がむりやりベトナム人女性たちを慰安婦にしていたというわけですね。

 この件について、2015年4月25日付の韓国の左派日刊紙ハンギョレ(英字電子版)は「日本の反韓感情を鼓舞する主要な力のひとつ、週刊文春が4月2日の“春の特大号”で明らかにした。執筆者は東京放送(TBS)のワシントン支局長Noriyuki Yamaguchi(山口敬之氏、現在フリー記者)で…」とその内容や経緯を伝えました。

 そして、最後のくだりで、山口氏が文春で「慰安婦問題は国内政治や外交の道具としてではなく、人権問題として真剣に取り組んでいる」と述べた朴槿恵(パク・クネ)大統領がこの件で調査に及び腰になるなら、韓国は自国にとって不都合な真実を無視し、歴史と対峙(たいじ)することを拒否する国だと国際社会に証明することになる、と書いた一文を引用し、こう締めくくりました。

 <(朴大統領にとって、この一件の調査に乗り出すことは)恐らく不快なことであると思われるが、(文春の記事の)主張に反論するのは困難である。ベトナム戦争中に起きた民間人への虐殺だけでなく、韓国軍が(ベトナム戦争時の)慰安所の運営・管理に関与していたかどうかについて、韓国政府はベトナム当局と協力して真実を見つける時がきたのだ>

 韓国の大手左派メディアも「これ、さすがにシカトはマズイやろ」というニュアンスで伝えているわけです。

この問題に関しては、2012年に米多国籍バイオ化学メーカー、モンサント(欧米の左派系環境保護団体が目の敵にする企業のひとつ)を批判する公共広告キャンペーンを展開した米左派系NPO(非営利団体)「ネイション・オブ・チェンジ」(本部・ニューメキシコ州アルバカーキ)も、自分たちが運営する同名ニュースサイトで2015年12月11日に韓国政府を厳しく批判する記事をアップしました。

 「戦争の傷あと:ベトナムの慰安婦」と題されたその記事、なかなかに辛辣(しんらつ)です。

 <ベトナム戦争時、韓国軍の多くの部隊がベトナム人女性を強姦したり、農民や老人を虐殺するといった残虐行為に手を染め、多くの女性たちが韓国兵のための売春婦として強制的に働かされた…韓国政府は今日に至るまで、この問題をほぼ無視しているが、日本に対しては(当時の)慰安婦のための財政的補償を要求し続けている。(こうした)韓国側の行動は偽善的であり、慰安婦問題を政治的な道具に使っていると言うものもいる。事実、韓国側は日本(の動き)に対抗するため、米大陸で韓米による政治主導のキャンペーン隊を編成した>

 <ベトナム戦争中、韓国軍は反共勢力を支援し、自分たちの慰安所設置のため軍の部隊を送り込んだ。当初、韓国兵たちは多くのベトナム人女性を強姦し、その後、慰安所で働くよう強制した。多くの場合、強姦によって子供が生まれ、その子供たちもベトナムの慰安婦という性奴隷として働くよう強制された…ベトナムでの慰安所設置とベトナム女性への強姦に加え、韓国軍は非武装のベトナム民間人、主に女性と子供の虐殺という戦争犯罪も犯している。しかし韓国側は韓国兵による強姦で混血児が生まれたことも、性奴隷としてのベトナム慰安婦(の存在)も無視し続けている…>

<日本人の手にかかった(韓国の)慰安婦の命や苦しみを称える彫像が建てられている間、(韓国側は)日本が慰安婦に対する公的責任を負うよう圧力をかけているが、朝鮮戦争とベトナム戦争時に韓国(軍)に(モノのように)使われた慰安婦の窮状は、ほとんど無視されている>

 どうですか?。この左派系サイトも前述のFOXニュースのオピニオン記事と同様、日本に謝罪や補償を要求するなら、自分たちがベトナムで行った戦争犯罪を含む極悪非道の行為についてまず国際社会に謝罪すべきだと訴えているわけです。

 まあFOXはバリバリの右翼ですが、ハンギョレや、モンサントを目の敵にするネイション・オブ・チェンジといった、日本のなんちゃってではなく、バリバリのダイ・ハードな左翼までが、自分のことは棚に上げ、日本に謝罪を要求し続ける韓国の卑怯なやり口に愛想を尽かしているのです。

 しかし、韓国はこれからも自分たちがベトナムでやった悪行の数々については徹底無視を決め込むでしょう。2015年4月7、8の両日付のハンギョレ(英字電子版)によると、ベトナム戦争時の韓国軍による民間人虐殺事件の生存者を招いたイベントが、ベトナム退役軍人協会(VVAK)や韓国のエージェントオレンジ(枯れ葉剤)後遺症戦友会(KAOVA)といった団体の反発を恐れ、直前になって会場をキャンセルし、イベントを中止したのでした。その後、KAOVAのメンバー約300人が、当初予定されていた会場周辺でデモ行進し気勢を上げたのでした…。

 この問題について、韓国のソウル大学校国際大学院のパク・デギュン教授は2015年4月7日付ハンギョレ(英字電子版)に「自国のベトナム戦争問題を解決できなければ、日本との歴史問題を解決することはできない」と述べました。全くもってその通りです。

今回の韓国・釜山の日本総領事館前の慰安婦像設置問題について日本政府は、かつてない強行措置で徹底抗戦すべきだと思います。なぜなら、前述したネイション・オブ・チェンジの記事のコメント欄には、こんな書き込みがありました。

 「この記事は完全な作り事だ。ベトナム戦争時の韓国軍には慰安婦などいなかったし、韓国政府も(ベトナムの)女性を性奴隷になどしていない。この記事の執筆者が日本人なのは明らかで、自分たちが韓国の慰安婦問題で非難されないよう、こんな作り事を書いたのだ」

 こんな反吐がでるほど卑怯な連中には、常識は一切通用しませんからね。(岡田敏一 1月20日掲載)



【プロフィル】岡田敏一(おかだ・としかず) 1988年入社。社会部、経済部、京都総局、ロサンゼルス支局長、東京文化部、編集企画室SANKEI EXPRESS(サンケイエクスプレス)担当を経て大阪文化部編集委員。ロック音楽とハリウッド映画の専門家。京都市在住。

本当に女性にいやさしいのか 

本当に女性にいやさしいのか  29.9.17付け   産経論説委員 瀬湖口 敏
 8月23日付のコラム「国語逍遥」で「苅萱道心と石童丸(かるかやどうしん いしどうまる)」の
話を取り上げた。その昔、高野山(和歌山県)が女人禁制だったため母子が父との。再ふ芒を果たせなかった物語で、子供の頃に聴いたときは「女人禁制でなかったらこと悲しみが胸に突き刺さったと書いた。
 すると知人から「じゃ、この島も女人禁制を解いた方がいいと考えるのか」と問われるはめになった。関連の遺産群とともにこの7月、世界文化遺産に登録された沖ノ島(福岡県宗像市)のことである。否、と答えはしたものの、明確な根拠は持ち合わせていなかった。

◆「神宿る島」
 宗像大社の沖津宮がある沖ノ島は「神宿る島」といわれ、今も女人禁制が守られている。男でも上陸できるのは年に1日だけだが、登録を受けて同大社は来年以降の参加者募集を行わない方針を決めた。
 山でも大峰山(奈良県)のように女性の立ち入りをいまだに認めていない所もある。明治5年に政府が禁制解除の布告を出すまで、わが国の霊山はほとんどが女人禁制だった。女性を穢れとみたり、山には女の神が住み、人間の女性が入ると女神が嫉妬し災いが起きると信じられたりしたことなど、いわれはさまざまだ。沖津宮をはじめ宗像大社の3つの宮に祀られているのも、みな女神である。
 苅萱の話を聴き、女人禁制は許せないと子供心に思ったのは確かだが、長じて信仰や伝統、文化といったものには合理的な理解の及ばない部分もあることを知った。科学的知見や現実的思考から物事を合理的に捉える風潮が強い現代でも女人禁制が残っているのは、合理性が全てではないことを物語る。
◆契機は「京都博」
大相撲の土俵や歌舞伎の舞台における。女人禁制は言うに及ばず、酒造りの蔵などでも長らく女性の立ち入りが嫌われてきた。女性芸能者が創始したにもかかわらず、風紀上の理由から女芸人への禁令が出るなどした歴史をもっ歌舞伎が現在、圧倒的多数の女性客に支えられている一事に徴しても、女人禁制を男女同権といった現代の価値観だけにあてはめて論じることはいかにも無意味であろう。
  信仰や伝統、文化は守られることに価値がある一方で、常に変化し続けているのも歴史に見る通りだ。明治5年の解禁布告は、同年開催の京都博覧会を訪れる欧米の観光客に対し、比叡登山を夫人だけ拒むのは難しいと考えだのが直接の契機だったらしい。夫婦で教会に通う西洋の習慣に配慮したもので、解禁はいわぱ政府の欧風化政策の一環だった。高野山では翌6年、女性が登るようになったが、強い反発が続き、完全な解禁は38年まで待つことになる(『比較家族史研究』第31号)。
  沖ノ島の女人禁制が今後、どうなっていくかは分からない。
 やはり信仰と伝統を重んじる京都の祇園祭では平成13年、一部の山鉾で。公認”の女性囃子方
が巡行に加わることになり、話題を呼んだ。移りゆく世情に応じて伝統や文化に対する人々の共通理解も変わる。要は、変えてはならぬものと変えてもよいものとの、また合理と非合理との折り合いをどうつけるかであり、女人禁制についても多方面からの議論が必要である。
◆「女人歓迎」だった
 民俗学の柳田国男は『老女化石譚』に、女人禁制は女人歓迎の意味だったと記す。高山の途中に女人結界の地があるのは、足弱の女性にとって頂上を極めずに済むから、むしろ妬しかろう。結界は、山への参拝を断念せんとする女性を、せめてそこまではと誘引する一手段だったかもしれない。柳田説はどこまでも女性にやさしいのだ。
 作家の玉岡かおるさんに宗像大社への珠玉の紀行がある。
「だめと言われればよけい行きたくなる」沖ノ島だが、中津宮の神職に「玄界灘は荒海で、航海は命がけ。だから、女性を危険な目にさらさないため、女性は行くな、と女人禁制になった」と教わると、「女が生き残れば子孫はつながり国も続くと考え、女を敬った古代人は、しんどいこと危険なことは男性が、と分担したのであろうか。
ならば素直に従い(中略)遥拝所から沖ノ島を拝ませてもらおう」 「行けなかった沖ノ島を銘
柄にした地酒で乾杯。さいはての海から、この国よ幸せであれと守り立つ三女神がほほえんで
くれた気がした」 (『PHP』2012年9月号)
  「沖ノ島」に、こんな愛で方もあったとは…。
     (せこぐち さとし)









若い世代の中国人と日本

以下抜粋 「中国壊死」百年変わらない腐敗の末路 p195~202
◆本当は日本に憧れる中国人
宮崎 反日教育は危険なことなんだけど、しかし、一方において中国人の末端にはぜんぜん その効き目がないという二律背反がありますね。
宮脇 まあね。中国人は人の言うことなんか信用しないから。どうせ政府が言ってることだから、と。皮肉ですよね。
宮崎 ものすごい皮肉だよね。あれだけ毎日毎晩抗日映画をやってて、戦争映画になったら必ず、悪い日本軍人が出てくる。
宮脇 変な日本語で(笑)。
宮崎 「このバカ」「進め」それから何だっけね、ともかくあれだけ毎日反日の宣伝映画を見ていながら、なんて日本に来たがるかわからない。NHKの日本語のテキストブックを撒いたらたちまち百万部、とか。一時みんな日本語を狂ったように習った日本ブームがあったし、いまでも日本の小説家の翻訳なんて、よく売れるしね。だから、ものすごく矛盾してるよね。
宮脇 政府の言ってることは半分しか聞かない、というか、やっぱりさっき言ったように信用はしない。だから日本人が心配するほどには行き届いてはいない。でも「反日」は言い訳には使えるでしょう。それをやったって政府に捕まらないっていうふうなことにだけ、免罪符には使う。
宮崎 愛国無罪ですからね。
宮脇 そういう人だちなんです。福島香織さんの『本当は日本が大好きな中国人』(二〇一五年、朝日新書)によると「ドラえもんは日本の世界戦略じゃないか」というアホな説が出たという。
宮崎 自衛隊のVTRにガンダムの映像を流したり。
宮脇 中国の若い子たちは、単純にのび太のだめっぷりをみて「いいなあ、日本って。こんないい加減なのでも暮らしていける」つて癒されるらしい。
宮崎 あと「クレヨンしんちゃん」も、全面的にガキが失礼なことを言って、「それでもいいんだって、この社会は」と誤解してしまう。
宮脇 中国人の目を開くようですね。莫言(ばくげん)さんも、夏目漱石の『吾輩は猫である』を読んで、「ネコでも小説の主人公になるんだ」と驚いたと言っていた。
宮崎 村上春樹だのなんだの、二百万部も三百万部も売れてね。
宮脇 渡辺淳一さんと東野圭吾さんとがすごく売れているらしいですね。渡辺淳一さんのは、男と女がする前にこんなにいっぱい考えろってことが新鮮だったと言っています。
宮崎 それから山岡荘八『徳川家康』が中国人のビジネスマンの間ですごい人気です。不思議でしょう。要するに、日本は千年以上続いている金剛組をはじめとして、とにかく三百年以上続いている企業が五百社ぐらいある。中国は百五十年続いてる企業は五社しかない。それだけ激動につぐ激動のなかをくぐりぬけてきたので、日本の鎌會武士のいう「一所懸命」という発想なんかないんだ、常に移動してるから。で、そのなかで、徳川はなぜこれだけの長期政権ができたか、というのが中国人にとって魅力がある。全巻翻訳されていますよ、長い二十五巻ぐらいあるやつを。
宮脇 もともと漢字はコミュニケーション手段として大変不十分な言語で、目に見えないものを表す語彙がとても少なく、そして全国に通じる共通の音がない。音というものをあきらめて、広いところのコミュニケーションを図ってきたせいで、耳で聞いてわかる言葉というのが彼らにとって非常に範囲がせまい。だいたいいまの普通語(プートン)のもとになった北京官話、北京語でも、地名、固有名詞は耳で聞いたって絶対にわかりません。同音異義語が多すぎて、「それどこの地名なの」つて、漢字で書いて初めてわかる。
宮崎 人の名前だってそう。
宮脇 漢字で書かないとわからないですよね。だから耳元で愛を囁く文化がない。日本の銀座やどこかで長いこと時間をかけて女と遊ぶなんて、「あんなことありえない」(笑)。
宮崎 銀座紳士というのは中国人では絶対に考えられない。高いお金を払って、隣の美女とは手も握らないで和歌の話をするとか。
宮脇 高尚な話をしてね。女と一緒にね。それはもう中国にはない文化。だからもし本当の中国を描いたら、日本では小説が絶対に売れない。面白くもなんともない無味乾燥なものになるから。

◆「日本化」か? 中国人も世代で違う 
宮崎 日本人にとっては中国人の人生観があまりにもドライなんだよね。若い中国大なんて「愛人稼業」つてビジネスがある。自分のパトロンがいくらくれる、マンションを買ってくれた、ベンツを持っているとか、その自慢をし合う。あけすけにね。そういう面妖な
   世界がありますよ。考えてみれば昔からそうなんだ、中国は。ナイトクラブへ行っても「愛人になるか、ならないか」「いくらくれるのか」という話ばかり。
宮脇 それで、北京大学の学生同士とか中国のエリート中のエリートのカップルでも、片方がアメリカの留学試験に受かったら 婚約解消です。階層が違うという理由で。だから同じランクの高級幹部同士の子弟が、親が決めた婚約をするのはごく当たり前です。われわれ日本人だったら普通は恋とか愛とかはお金に関係がない、相手がぜんぜん金持ちでなくても好きになったら一生大事にする。そういうことは中国じゃありえないですからね。
宮崎 北京の天安門広場のちょっと北北東のほうに中山公園がある。少し広い。日曜日の午後二時にうじゃうじゃ人が来て、見合いの話。
宮脇 親が?
宮崎 親だけ。本人いないんだ。「あんたの息子収入いくら?」「自家用車何台持ってる?」「マンション何軒?」つていきなりそんな話をする。すべて無機質に。それで年収いくらで、ローンが何年ぐらい残ってるとか、それから決めていって、ランクが合うところに親同士が納得したら、初めて本人同士が会う。そこには恋愛感情はないんですよ。

宮脇 それを本人同士も「べつに」と思ってるわけ。つまり男と女の間に気持ちの通い合いが必要だという意識が最初からないことがすごいでしょう。それはもう人生というのはそういうもんだと思ってる。
宮崎 だから渡辺淳一の『失楽園』(一九九七年、講談社)にみんな驚いたんだよ。
宮脇 新しい世界だった。一部の中国人が憧れるようになって、日本に来て、撮影の現場に行きたいとか、ここで出会った同じところで写真を撮りたい、とか。おそらく追体験してるつもりなんでしょう。それでいま、中国でもソックリな恋愛ドラマをけっこうつくっています。
宮崎 ぽんと全部パクリ。
宮脇 韓国もすごいけど。面白いのは留学先の東京とか、わざわざ外国で出会うシチュエーションにする。北京だとリアリティがなさすぎるというよりも、ありえないから。それでその背景までそっくりにして、『101回目のプロポーズ』とか、日本の一時のトレンディドラマの型をものすごく真似てるわけ。
宮崎 もっと面白いのは、ドラマで主演を演じる米倉涼子とか酒井法子とか松嶋奈々子にそっくりな中国人女優を必ず見つけてくること。
宮脇 山口百恵もみんな好きでしたもんね。けっこう香港Λがイカれてたみたいだけど。ああいうやわらかい感じの女の子を好きになるのは日本に対する憧れなのね。自分たちのまわりにはいなかったから。中国でも映画人とか一部の人はそういうのをわかって映画に取り入れたりしてますね。
宮崎 うん、世代によってぜんぜん変わる。
宮脇 すこしは日本化してるわけですよ。日本の真似をするということは。
宮崎 福島香織さんの報告では、最近の中国の美人局も非常に巧妙になって、わざと親しくくっついて愛人になったと思いきや、別れ話になったら一千万円単位の要求が始まった。一方において、本当にこれが恋愛だと思って、日本人の男が黙って日本へ帰ると失望のあまり自殺するホステスもたくさんいる。
宮脇 ほお。新しい、それ。
宮崎 そんな新しい現象がけっこうあるらしい。
宮脇 一昔前だったら中国人ではありえない。自殺と心中はないはずの国だったんですけど。
宮崎 だから急速に海外に出始めてから、この五年くらいの話ですよ。こんなに中国人が世界中に出かけてね。
宮脇 自戒するのはよいことですよね。外国を見てね。内部から腐るというのは政治家から見て腐ることであって、外国のものを取り入れて文化が変わるのは良いことでしょう。

差別や排外主義ではない 蓮舫氏の国籍問題、その見識と責任感欠如に驚く

産経新聞 主張 29.07.19

 二重国籍の問題を指摘され続けてきた民進党の蓮舫代表が、日本国籍の選択宣言をしたことを証明するため、戸籍謄本の一部を公表した。
 台湾籍離脱を示す台湾当局の「国籍喪失許可証書」と、離脱手続きの際に提出した台湾旅券のコピーも公開した。
 台湾との二重国籍の解消について、一応の説明をした格好だが、25年以上も国籍法が定める義務を果たしていなかった。
 蓮舫氏は平成16年に参院議員に当選し、民主党政権時代には複数の閣僚を歴任した。国民に対する背信というべき態度である。
 会見で蓮舫氏はこの点について反省を述べた。しかし、野党党首という公人の立場であるのに、ここまで事態を長引かせたのは、リーダーとしての資質を疑わせるものだ。
 国籍問題は、昨年9月の民進党代表選の際に浮上した。国籍選択の宣言をしたのは、表面化した後の10月7日だったという。
 国籍法は、日本国籍と外国籍を併せ持つ人に対し、22歳に達するまでにいずれかの国籍を選択するよう求めている。
 蓮舫氏は、「指摘があるまで台湾籍を持っているとは考えたことも思ったこともなかった」とも釈明した。
 しかし、参院議員になる前には、朝日新聞や雑誌で「中国国籍の者として」「自分の国籍は台湾なんですが」などと語っていた。「(ハーフである)キャラクターを際立たせるためだった」などと会見で語った点は、信じがたい軽率さと受け止めざるを得ない。戸籍謄本公開をめぐる考え方にも疑問がある。
 国籍法を守っていなかった疑惑について、説明責任を果たすために公開したはずだ。ところが、蓮舫氏は、「こうした開示は私で最後にしてほしい」と述べた。
 今月13日の会見では「差別主義者、排外主義者に言われて公開することは絶対にあってはいけない」とも語っていた。
 差別や排外主義がいけないのは当たり前だが、差別や排外主義に強いられ、不承不承公開したという思いがもし蓮舫氏にあるとしたら、とんだ考え違いだ。
 蓮舫氏が、戸籍謄本の一部を公開し、公人としての当たり前の責務を果たすことになったのは、身から出たさびである。責任転嫁の姿勢が信を失わせている。

北海道が危ない 第5部(上・中・下)苫小牧駒沢大が中国化する

【北海道が危ない 第5部(上)】2017.6.19
苫小牧駒沢大が中国化する 譲渡先法人理事「中国共産党員」系列高は田中将大投手ら卒業の名門

 大リーグ・ヤンキースで活躍する田中将大投手やスピードスケートなどでオリンピックに7回出場した橋本聖子参院議員らを輩出した名門、駒澤大付属苫小牧高校を擁する学校法人駒澤大学(須川法昭理事長)が今年1月、傘下の苫小牧駒澤大学(以下苫駒大)を中国と関係が深い京都市の学校法人に無償で移管譲渡することを決めた。すでに協定書を交わし、文部科学省に設置者変更を申請、認可されれば、来年4月1日から、苫駒大の名前が消える。一部大学関係者や寄付行為者である曹洞宗の関係者の間では、移管譲渡までの経緯が不透明なうえ、苫駒大が“中国人大学”になり、駒大グループが“中国化”するのではないかという不安が広がっている。一体、何が起きているのか?
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 移管譲渡を受けるのは「学校法人京都育英館」(松尾英孝理事長)。平成25年4月に設立され、京都看護大学や苫小牧市に隣接する白老町で北海道栄高校(生徒数371人)の運営を手がけている。同法人を設立した「学校法人育英館」(同理事長)は、京都ピアノ技術専門学校や関西語言学院(京都市)、四万十看護学院(高知県四万十市)を運営、中国・瀋陽市では、東北育才外国語学校を設立、経営している。

 ホームページによると、関西語言学院は、中国の高校や大学を卒業した学生を日本の大学や大学院に進学させるための日本語学校。在籍する学生は昨年7月現在で540人で、全員が中国人だ。東北育才外国語学校は東北育才学校(瀋陽市)と共同で設立した中高一貫校で、日本語教育を展開。東北育才外国語学校から関西語言学院、そして日本国内の大学へというルートを構築してきた。

民間調査機関によると、27年5月8日現在、「学校法人育英館」には、中国人2人が理事に名前を連ねている。この理事について、駒大関係者はこういう。

 「調査した結果、1人は中国共産党員だった。東北育才外国語学校の終身校監で、東北育才学校の顧問をしている。過去に全国先進的従事者(全国模範労働者)として表彰されるなど有力な人物だと分かった」

 業務内容や理事の顔ぶれから、中国との関係が相当強いのが分かる。

 譲渡されるのは、苫駒大の敷地15ヘクタール(10ヘクタールは苫小牧市からの無償譲渡で、5ヘクタールは無償貸与)と校舎、図書館(蔵書数10万4千冊)、備品類で、全て無償だ。総資産は約40億円で雑書類や備品を加えると50億円を超えるという。

 協定書案によると、移管日は30年4月1日で、「新たな学校名称に『駒澤』『駒沢』『KOMAZAWA』の文字は使用しない」「教職員の人事異動や給与、その他の変更等、管理運営については一切駒大は関与しない」などとなっており、全て京都育英館主導で運営されることになる。
 現金を伴わない完璧な“買収”だ。
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 中国による他国の教育機関の買収は韓国でも行われている。
 昨年6月28日付の韓国の全国紙ハンギョレ(電子版)は、中国の武昌理工学院が廃校の危機にある韓国・韓中大学(江原道東海市)の買収計画を伝え、「自国の戦略と要求の中で韓国の大学を対象とした買収が行われているため、韓国の高等教育の発展に役立つかは疑問だ」という識者の見解を紹介している。

 京都育英館の進出で、苫駒大が中国化する懸念が十分に予想される。苫駒大関係者は「中国名の大学になる可能性もある」と前置きした上で、こう話した。

 「文科省の認可を受けてから生徒を募集しても集めるのは難しい。結局、中国の留学生を受け入れることになるでしょう。教職員や語学留学生を含め中国人がドッと入ってきて、大規模な中国人大学になる可能性がある」

 岩倉博文苫小牧市長は「少子化の中で、苫駒大の現状を考えると、一定の定員を確保しながら存続していくのは難しい。廃校を避けたいという思いが強く、やむを得ない選択だった」と苦しい胸の内を明かす。

 駒大の理事の一人はこう言って眉をひそめた。
 「日本の有名大学を卒業した中国人エリートに聞くと『間違いなく乗っ取りだ。それに駒大が協力したということ』という答えが返ってきた」

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 京都育英館に移管譲渡されることで、苫小牧駒澤大はどう変わるのか? 地元メディアは、文部科学省への設置者変更の認可申請が認められるのを前提に、京都育英館と中国との深い関係を好意的に捉え、新大学設立に期待を寄せる。一方で苫駒大関係者からは「情報が錯(さく)綜(そう)していて、実際にはどうなるのか分からない」(元職員)と不安の声が。
学校法人京都育英館はどう考えているのか?
 松尾英孝理事長は産経新聞の取材に「文科省の認可が出れば大学名を決め、来年度からの学生募集を始める」とした上で「運営理念は地域貢献で地元に貢献するのは日本人でも中国人でも構わない。躍動感のある大学にするために、系列の中国の語学学校などからの受け入れを進めるが、当面は日本人学生だけを募集する」「来年度から四年制大学を造る。平成31年度から看護学部など学部、学科を増やしていき、単科大学から総合大学への移行を目指す」-と構想を述べた。

 苫駒大の川島和浩学長(54)も「松尾理事長は説明会で『ビジネスの視点から経営がしっかりできる大学に立て直したい。3年後ぐらいにはプランを持っている。文科省の認可が下りた段階で公表していく』と強調していた」という。
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 だが、こうした構想に懐疑的な見方も根強く、苫駒大や曹洞宗の宗門の関係者の間では、さまざまな臆測が流れている。
 その一つが、中国人留学生の大量流入だ。

 川島学長によると、松尾理事長は「日本人が集まらない場合は、中国とのルートで留学生を受け入れることも一つの案としてあり得る」と話したといい、同理事長は地元紙のインタビューでも「学生全体の2割程度を外国人学生とし、積極的に受け入れる。東北育才外国語学校の生徒が苫小牧の大学に進学することもあり得る」と述べるなど、中国人留学生の受け入れには前向きだ。

 苫駒大の元職員は「苫駒大は以前、中国人留学生を大量に受け入れたことがある。その際、いろいろな問題が起きた。中国人留学生が増えると、苫小牧がどういうことになるか」と表情は暗い。

北海道栄高校の移転の有無も不安材料の一つだ。京都育英館は、栄高校を苫駒大の敷地内に移転、新しい大学の付属高校化を検討しているとされるからだ。

 駒大は記者会見などで、付属苫小牧高校は駒大が運営を続けるとしているが、松尾理事長は産経新聞の取材でも「栄高校は、連携すれば面白いことができる」と移転をにおわせており、苫駒大関係者からは「栄高校が移転してくると、付属苫小牧高校と競合し、経営は圧迫される」と、存続を危ぶむ声が聞かれる。

 さまざまな臆測が飛び交う中、京都育英館の今後の方針について、岩倉博文苫小牧市長は「全て認可されてからのこと。今後のことは非公式には聞いているが、現段階でそれを明らかにすることはない」と口は堅い。
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 移管譲渡については、曹洞宗関係者は強硬に反対している。譲渡決定への過程が不透明だからだ。

 京都育英館への移管譲渡が公にされたのは、今年1月26日の法人諸学校管理運営検討委員会と理事会、評議員会だった。
 出席した理事の一人はこう振り返る。
 「事前に配布された案内状では『苫小牧駒澤大学の経営方針について』が議題となっていた。ところが、須川法昭理事長が突然、京都育英館へ移管するという声明文を読み上げ、移管協定書案や記者会見などのスケジュールがまとめられた分厚い資料が配られた。全員、寝耳に水の話で、こんなに準備がそろっているのか、と唖(あ)然(ぜん)とした」

 この理事はさらに、「本来、駒澤大学の寄付行為については、重要な案件に関しては資料を1週間前に配布することになっている。緊急の場合はこの限りではないが、今回のケースは緊急でも何でもない。苫駒大の再生の道はある」と不満を募らせた。

 全てが極秘裏に進められたようだ。

 川島学長も「理事会の翌日、急(きゅう)遽(きょ)、招集がかかり、理事会の決定を聞いた。どうしてこのタイミングなのか? どうして京都なのか? なぜ、こんなに急ぐのか? と教職員全員が驚いた」という。

 どういう経緯で移管譲渡が決まったのか? 須川理事長は、記者会見で、入学者減による財政状況の悪化を挙げたが、その後は沈黙を守り、産経新聞の個別取材にも「現在、認可申請中のため、取材をお受けすることをご遠慮いただいております」(駒大広報課)としている。

駒大は、再建のためとはいえ、どうして突然、中国との関係が強い京都育英館への移管譲渡を決めたのか? しかも、無償で。苫駒大の教育理念はどうなるのか? 宗門関係者はいう。

 「疑問が膨らむばかりだ。中国は京都育英館を通して、駒大本校にも進出してくるのでは…という不安もある」
 曹洞宗寺院の最高議決機関、宗議会は、移管譲渡の白紙撤回を求めている。
 (編集委員 宮本雅史)

【北海道が危ない 第5部(中)】
中国資本が苫小牧にも触手…「二束三文の土地を10倍の値段で」

 豊富な水と木材資源に恵まれ製紙業で知られる北海道苫小牧市は東西39・9キロ、南北23・6キロと、東西に細長く広がる。苫小牧港は札幌市に最も近い太平洋岸の港で、新千歳空港にも近接しているため、釧路市同様、北海道を代表する工業・港湾都市でもある。

 同時に、千歳市との境界には三重式活火山の樽前山がそびえ、市東部にはラムサール条約湿地に指定されるウトナイ湖があり、樽前山を含む周辺の10万ヘクタールは支笏洞爺国立公園に指定されている。
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 平成20年、この支笏洞爺国立公園に隣接する1千ヘクタールの森林地帯(苫小牧市植苗)に大規模なリゾート施設の建設構想が持ち上がった。

 当初は森林の4%を開発してリゾート施設にし、収益は残り96%の森林保護に充てる計画だったが、その後、計画は紆余曲折。開発候補地の所有権と開発権は、不動産開発やホテル運営などを手がける森トラストの関連会社、MAプラットフォームに移転した。地元紙などによると、同社は330室のホテル3棟と別荘用コテージ40棟を建設するほか、商業施設や高度医療施設の整備など、富裕層を対象に長期滞在型リゾートを開発、32年の一部開業を目指していたが、統合型リゾート(IR)誘致の予定地が計画地に近いことからIR誘致の動向を見極めながら計画を練り直すことにしたという。
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 実は、この計画に、中国人女性実業家が土地の売買段階から関係していた。女性は目黒雅叙園(東京)の買収、売却劇にも登場する。

 中国と関係の強い学校法人京都育英館に譲渡されることが決まった苫小牧駒澤大の関係者や市関係者によると、苫小牧は北海道でも気候は温和で積雪量も少ないことから、中国資本は買収、開発に関心を持ってきたという。彼女もその中の1人だった。

 開発候補地の森林は、この女性の会社が所有者から購入、MAプラットフォームに転売しており、巨額の転売益を得たとされる。経緯を知る人物によると、女性は「アリババの会長らを連れてきて、中国人の集落をつくりたい」と話していたという。

 女性を知る道内の不動産業関係者によると、彼女は、千歳市の高級住宅街に別荘を持ち、富良野市をはじめ道内の不動産に関心を見せていたという。実際、昨年1月、苫小牧市ウトナイに札幌地方木材林産協同組合連合会が所有していた土地約1万5千平方メートルを会社名義で1億5千万円で購入している。抵当権はついていない。新千歳空港とJR苫小牧駅のほぼ真ん中にあり、新千歳空港までは車で約20分と、立地条件はいい。四方を道路で囲まれ、住宅地として区画整理されているため、いつでも、ホテルなどの建設は可能だ。

女性は購入の際、「これから中国人の人口が増えるから学校が欲しい。富裕層の子供を連れてきて、中国人と日本人のインターナショナルスクールを造りたい」「150室ぐらいの中国人用のホテルを建てたい」と土地購入の理由を話していたという。

 彼女は、昨年2月18日に行われた日本貿易振興機構(ジェトロ)と北海道主催の「北海道観光投資誘致セミナー」に登壇、苫小牧のリゾート開発について魅力と可能性を語っているが、苫小牧市は新千歳空港と港が近いため、中国資本にとってはおいしい地域なのだろう。苫小牧市民や同市関係者によると、市の周辺は中国資本に買収されている可能性のある土地が多いという。
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 手つかずの自然が残り、空港や港に近い苫小牧は拠点にするには最適だ。苫小牧駒澤大の関係者や市議会関係者らによると、苫駒大が所有する15ヘクタールもの土地が京都育英館に譲渡されることに、一部市民からは苫駒大の移譲移管が中国の“苫小牧拠点化”に拍車をかけるのではという不安がくすぶり始めているという。

 中国資本が道東の社会、経済、文化の中心的機能を担っている釧路市とその周辺に、陰に陽に関心を寄せていることはこれまで報告してきたが、苫小牧の宗教関係者は釧路町の寺院を例に挙げ、こう話した。

「中国人が、二束三文の土地を10倍ぐらいの値段で買いたいと来るらしい。お寺の土地は檀家のものなので、売買できないが、単価はかなり高くなっているようで、『売ってくれ、売ってくれ』としつこいと聞いた。お寺の土地にまで関心があるのには驚く」

 釧路は、習近平国家主席が提唱した「一帯一路」構想ではアジアの玄関口と位置付けられており、中国の激しい“拠点構築計画”を象徴している。防衛省関係者の話では、中国は、苫小牧も釧路と同様に太平洋に出る玄関口と捉えているという。

 土地問題に詳しい小野寺秀前道議はこう話す。

 「イメージ的には、北海道の南部が押さえられている。北側はロシアがいるからか、不思議と押さえられていない。昔から、北はロシア、南は中国と線引きされていた。釧路や苫小牧を押さえれば、太平洋沿岸の拠点になり、津軽海峡から太平洋に抜け自由に動けるようになる」
 (編集委員 宮本雅史)

【北海道が危ない 第5部(下)】
中国大使の釧路訪問がきっかけか トマム、スイス牧場、豊糠…何かが一斉に動き出した

 本連載を始めて1年余り。中国資本の影が見え隠れする地域の現状を報告してきた。1年がたち、どうなっているのか? 4月下旬、何カ所かを訪ねた。

 一昨年、中国の商業施設運営会社「上海豫園旅游商城」に買収された「星野リゾートトマム」(北海道占冠村)。名前はそのままだが、代表者は上海豫園旅游商城に変わり、星野リゾート(長野県軽井沢町)は運営管理だけだ。

 上海豫園旅游商城の大株主の中国民営投資会社「復星集団」(フォースン・グループ)は隣のリゾート地「サホロリゾートエリア」(北海道新得町)で宿泊施設を所有するフランスのリゾート施設運営会社「クラブメッド」も買収しており、星野リゾートトマムもサホロリゾートも完全に中国資本の傘下に入っている。

 そのトマムの西エリア地区を訪ねると瀟洒(しょうしゃ)なホテルやコンドミニアムが建ち、新しいホテルの建設も始まっている。一つの集落だ。

 占冠村によると、同地区は、星野リゾートトマムと村が賃貸借契約を交わしていたが、営業を停止していた。今回、星野リゾートトマムが休眠状態だった3棟の施設を約300室の宿泊施設に改造。センター棟を建設し、今年12月をめどに経営を再開、クラブメッドが運営するという。

 同村は、土地を含めた全ての不動産を星野リゾートトマムに売却する方針だ。

 長年、道内での中国資本の動向を注視してきた小野寺秀前道議は、「中国資本が買うという話は聞いていたが、これほど進んでいるとは思わなかった」とした上で、「中国資本がこれほど大規模に動いているとなると、1万人規模の大規模なチャイナタウンができる可能性がある」と驚きを隠さない。          
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 日高山脈・十勝幌尻岳山麓のスイス牧場はどうなっているのか?
昨年初夏、訪ねたときは森林に覆われ、“牧場”内を見ることはできなかった。ところが、その雑木林が切り取られ、森林に埋もれていた「帯広南の丘 スイス牧場 Shouwa 95nen beginnen」と書かれた看板は裸同然だ。入り口には「私有地につき立入厳禁」の看板があり、監視カメラがにらんでいる。入り口から30メートルほど先は山にぶつかり、斜面に沿って道路が山頂に延びている。車の通行跡が人の出入りの激しさを物語っている。

 山の上で何が行われているのか? 航空写真で確認すると、山の頂は平らで、台形のような形なのが分かる。広さは0・5ヘクタールほどだ。高台では牛を飼っても放牧できない。わざわざ、高い所を買うメリットはあるのだろうか?

 JA帯広かわにしと大正農協、帯広市農政課に確認すると、昨年と同様、「知らない。スイス牧場の名前も聞いたことはない」。

 一体、だれが何をしているのか? なぜ、突然、動き始めたのか? 看板にある「昭和95年」を目指しているとすると、あと3年しかない。だから、急いでいるのか。     
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 中国と関係があるとされる農業生産法人に村がほぼ丸ごと買収された平取町豊糠はどうか?

 昨年は買収から5年たったにもかかわらず雑草や雑木が伸び放題だったが、再訪すると、雑草が刈り取られ、管理が行き届いているように見える。
 だが、地元住民はいう。 「雑草をただ刈っただけ。非耕作地であることには間違いない」
 柳を避けて周りの雑草だけを刈っているところもある。

「雑木を残して荒れ放題にしておくと雑種地に地目変更できる。変更すれば、自由に売買できるし、住宅や建物も建てられる。変更を狙っているのではないか」

 別の男性住民はこう言うと「農業委員会に申請すれば変えられるが、委員会の中には農業生産法人の関係者も入っている。最初から、地目変更を考えていた節がある」と続けた。
 こんな証言も耳にした。

 「卵形の旧式のヘリが低空飛行で行ったり来たりしている。普通はヘリの下に会社名などを書いているが何も書いていない」

 「スーツ姿の中国人のような若い男女が何人か2台の車に乗り、豊糠方面に来た」

 買収したものの、そのまま放置し、沈黙を保っていた何かが一斉に動き出しているのを感じる。小野寺前道議は答えを探すようにこう言った。

 「昨年5月の中国大使の釧路訪問に引っ張られるように、全てのことが同時並行に動き始めたようだ。これから何が起きるのか。不安に思っていたことが、形となってくるのが怖い」(編集委員 宮本雅史)

【共産党研究(1/2/3)】

【共産党研究(1)】 2017.5.9  産経新聞

日本共産党の「日米安保廃棄」「自衛隊解消」…「軍事力を忌避」では北朝鮮問題は解決できない 筆坂秀世

 シリアへのミサイル攻撃を行ったドナルド・トランプ米政権が、北朝鮮への圧力を強めている。トランプ大統領は4月6日、安倍晋三首相との電話首脳会談で、北朝鮮の核・ミサイル開発への対応として、「すべての選択肢がテーブルの上にある」と述べ、軍事力行使をも選択肢とすることを表明した。(夕刊フジ)

 これはレックス・ティラーソン米国務長官が3月17日、韓国を訪問した際、北朝鮮が非核化に向けた具体的な行動を起こさない限り、対話には応じないというオバマ前政権の「戦略的忍耐」政策の終了を明言したように、対北朝鮮への対応を転換するものである。

 日本共産党も「戦略的忍耐」には批判的なようで、志位和夫委員長は「その間に、北朝鮮は、核兵器・ミサイル開発をどんどん進めてしまいました。結果を見れば、この方針が失敗だったということは明らかです」(2月19日)と記者団に語ったという。

 ただ、「すべての選択肢がテーブルの上にある」というトランプ政権の方針に対し、志位氏は13日公表の談話で、「米国トランプ政権が、北朝鮮に対する軍事力行使を公然と選択肢とし、軍事的威嚇を強めていることは、きわめて危険な動きである」と批判した。

 さらに、「米国は、国際社会と協調して、経済制裁の厳格な実施・強化を行いながら、北朝鮮との外交交渉に踏み切り、外交交渉のなかで北朝鮮の核・ミサイル開発の手を縛り、それを放棄させるという選択肢こそとるべきである」と、軍事力行使を選択肢から外せと主張している。

 他方の北朝鮮は、「金日成(キム・イルソン)主席の生誕105周年」を祝う軍事パレードに、ICBM(大陸間弾道ミサイル)まで登場させた。弾道ミサイルも次々と発射し、「6回目の核実験」の準備も進めている。

 核と弾道ミサイルは、金正恩(キム・ジョンウン)体制の中核である。もちろん外交交渉も必要である。だが、最初から軍事的圧力を除外しては、北朝鮮を外交交渉の場に引きずり出すことも不可能であろう。

 そもそも、「軍事的圧力」と「外交交渉」は矛盾するものではなく、車の両輪である。

 共産党は現在、「日米安保廃棄」「自衛隊の解消」を掲げている。在日米軍も、自衛隊もいない日本ということだ。社会党が以前、「非武装中立」論を掲げていたが、それとまったく同じだ。

 かつて共産党は「中立・自衛」論だった。軍事同盟には入らないが、自前の自衛力は持つというのが共産党の安全保障論だった。それが軍事力を忌避するようになった現在では、安全保障論を持たないという無責任な政党に変質してしまった。

【共産党研究(2)】
日本共産党はまだ朝鮮労働党や金正恩委員長との関係正常化を目指しているのか 正直に話してほしい 筆坂秀世

 共産党と北朝鮮の朝鮮労働党は、もともとは友好関係にあった。だが、1983年、ビルマ(現ミャンマー)のラングーン(現ヤンゴン)で、公式訪問中だった韓国の全斗煥(チョン・ドゥファン)大統領一行に爆弾テロを仕掛けたことをめぐり、朝鮮総連と論争になった。北朝鮮は「野蛮な覇権主義」だとして、83年以降、関係を断絶してきた。(夕刊フジ)

 だが、98年、中国共産党と32年ぶりに関係正常化を果たした当時の不破哲三委員長は、次は朝鮮労働党との関係正常化を模索していた。

 2002年8月、不破氏や私が訪中した際、最初に会談した中国共産党の戴秉国中央対外連絡部部長に対し、不破氏が北朝鮮の事情や金正日(キム・ジョンイル)総書記はどういう人物かなどと質問したことにも、北朝鮮への関心の深さが現れていた。ちなみに戴氏は、正日氏について「クレバー(賢い)だ」と回答した。

 北朝鮮との関係正常化に前のめりになった不破氏は、拉致問題で失策を犯すことになる。

 不破氏は、北朝鮮による犯行とみられていた拉致について、「疑惑」に過ぎず、「(北朝鮮の犯行と)証明ずみ」ではないとして、当時、行われていた日朝国交正常化交渉から拉致問題を外せと要求していた。

ところが、02年9月、小泉純一郎首相の電撃訪朝があり、正日氏が「北朝鮮特殊機関の一部」の犯行と認めた。これに慌てたのが不破氏である。“まさか特殊機関が関わっていたとは分からなかった”と弁解したが、独裁国家に特殊機関が存在していることは常識だ。

 この弁解のために当時開かれた党の会議で、不破氏は拉致犯罪を「国際犯罪」とは呼ぶが、「国家犯罪」とはついに呼ばなかった。拉致犯罪を正日氏の責任ではなく、特殊機関の一部の責任に矮小(わいしょう)化するためである。

 朝鮮労働党との関係正常化をあきらめてはいなかったからだ。

 事実、05年5月の朝鮮総連50周年には不破氏が出席し、ここでもあいさつで「拉致協議前進のカギは『特殊機関』の問題の解決にある」と述べている。

 この問題をめぐって共産党から除籍された元「赤旗」平壌特派員の萩原遼氏は「朝鮮総連は紛れもない拉致の下手人」だと指摘するとともに、無原則に朝鮮総連と和解し、総連大会で祝辞を述べている不破氏らの方こそ規律違反を犯していると指摘している。

 北朝鮮の「野蛮な覇権主義」は悪質化しており、この批判は正鵠(せいこく)を射ている。総連60周年にも党幹部を参加させた共産党は、まだ朝鮮労働党や金正恩(キム・ジョンウン)委員長との関係正常化を目指しているのか。正直に語るべきだろう。

 【共産党研究(3)】
「赤旗」記者らが追及チームに 日本共産党のスキャンダル追及は民進党とここが違う 筆坂秀世

 産経新聞とFNNが4月15、16日に行った世論調査が興味深い。政党支持率の前月比で、民進党が1・8ポイント減の6・6%と、昨年3月の結党以来最低だったのに対し、共産党は1・1%増の4・9%になっている。両党の支持率の差は、わずか1・7%でしかない。(夕刊フジ)

 この結果について、産経新聞は、これを従来の支持層であった無党派層が戻っておらず、一部は共産党に流れていると分析している。

 学校法人「森友学園」問題の追及で、共産党が大いに目立ったことは間違いない。本来、入手しがたい資料を次々と暴露した。鴻池祥肇(こうのいけ・よしただ)参院議員事務所の「陳情整理報告書」や、籠池(かごいけ)泰典・森友学園理事長(当時)が首相夫人付政府職員にあてた手紙などが、それである。

 イラだった麻生太郎副総理兼財務相が、共産党議員の追及に対し、「偉そうに人指さして…」と答弁して物議を醸したものである。他方、民進党はこうした資料をほとんど入手できなかった。

 ここに共産党と民進党の差がある。

 共産党の場合、こうした問題が発生すると、議員と秘書、「赤旗」記者などを集めてプロジェクトチームを結成し、チームで調査し、情報を一元化する。チームとして追及する材料、テーマなども決める。民進党が衆院厚労委員会で、介護保険改正案の審議中に森友問題を取り上げ、与党の採決を誘発したが、こんな愚かなことはやらない。

ただはっきり言うが、こうした疑惑やスキャンダルの追及は、実は選挙には結びつかない。かつて「首相の犯罪」と言われ、田中角栄元首相が逮捕されたロッキード事件があった。当時、私は秘書として、この追及のためのプロジェクトチームに加わっていたが、訪米調査など間違いなく共産党の追及が群を抜いていた。

 だが、次の衆院選では惨敗を喫した。有権者は、ロッキード事件に高い関心を持っていたが、同時に自分の生活とは直結しない問題だったからだ。

 今回の世論調査で、安倍内閣の支持率は1・9%増えている。自民党の支持率は4・5%も増えている。共産党の支持率の増加は、民進党が減った分の一部だということに過ぎない。

 確かに、8億円もの値引きで国有地が売却されたことに、国民が憤ったことは間違いない。だが、その売却額で国が買い取ることに決まった。森友学園そのものも民事再生法を申請するまでになっている。国会での追及も、もはや収束の時期を迎えている。森友問題の追及が売り物だからといって、いつまでも拘泥していると足元をすくわれることになると警告したい。

 ■(ふでさか・ひでよ) 1948年、兵庫県生まれ。高校卒業後、三和銀行に入行。18歳で日本共産党に入党。25歳で銀行を退職し、専従活動家となる。議員秘書を経て、1995年に参院議員に初当選。共産党のナンバー4の政策委員長を務める。2003年に議員辞職し、05年に離党。評論・言論活動に入る。著書に『日本共産党と中韓』(ワニブックスPLUS新書)、『野党という病い』(イースト新書)など。

【弁護士会第1部(1)】政治集団化する日弁連 産経新聞

 日ごろ日弁連は何を基準に考えているのだろうとか、すべてにおいて共産党か社民党の極左的発言しか聞こえてこないし、常に中国・韓国朝鮮の側に立って活動をしており、これが日本の知識層がすることかと考えていました。
また人権問題に関しては被害者の立場ではなく加害者擁護の立場に立って主張をする。防衛問題は現場を見ずに現実を直視しようとしない。まるで小・中・高・大学とただ勉強に明け暮れた世間知らずの社会常識のない自称エリート集団にしか見えないのは私だけであろうか。
 今回たまたま産経新聞の朝刊で「戦後72年 弁護士会」の特集をやっており、彼らがいかに偏見に満ちた反日集団であるかを分析し、読者に知らしめてくれたので敢て紹介する。

【弁護士会第1部(1)】政治集団化する日弁連
「安倍政権、声を大にして糾弾」…反安保で振り回した「赤い旗」

集団的自衛権の限定行使を柱とする安全保障関連法案の成立前、村越進会長(中央、当時)を先頭に「安保法案は憲法違反です」との横断幕を掲げて国会周辺をデモ行進した日本弁護士連合会。すさまじい熱量の反対運動を展開した=平成27年8月26日

 「安保法制は憲法違反であり、無効。総力を結集し、未来の世代のために反対しよう」
 「安倍政権、とんでもない。声を大にして糾弾する。労働者人民と手を組んで打倒すべきだ」
 平成28年10月、福井市内で開かれた日本弁護士連合会(日弁連)の人権擁護大会。集団的自衛権の限定行使を柱とする安全保障関連法に反対する執行部提案の大会宣言案について、同調する弁護士らが次々とマイクを握り、安倍晋三政権批判を繰り広げた。
◆反安保で「赤い旗」「安保法案は憲法違反」
 戦後間もない昭和24年、すべての弁護士を統括する全国規模の組織として、弁護士法に基づき設立された日弁連。監督官庁がなく、各地の単位弁護士会や弁護士らの指導・監督を目的とする法人だ。そんな弁護士の〝総本山〟が、特定秘密保護法とそれに続く安保法制の制定過程で、「憲法違反」としてすさまじい熱量の反対運動を展開した。
 大会の前日に開かれた日弁連のシンポジウムで、実行委員会がまとめた報告書(第1分科会基調報告書)によると、安保法制と集団的自衛権、秘密保護法に関連する日弁連の意見表明(宣言、決議、意見書など)の件数は、平成28年8月末現在で39件に上っていた。新法制定を提言したものを除けば、大半が反対・廃止を訴えるものだった。
 単位弁護士会も軒並み反対をアピール。関東や近畿など各ブロックの弁護士会連合会と合わせた意見表明件数は、25年以降で約570件に達する。うち確認できた548件は、集団的自衛権の政府解釈変更や立法を批判する内容だった。
 安保法案が国会審議中の27年7月24日には、朝日、読売両新聞に意見広告も出している。
 平和を維持し、戦争を抑止するための安保法案に「憲法9条に反する」「戦争を招き寄せる」と激しく反対し、廃止法案まで提出した民主党(当時)や共産党などの野党と軌を一にする意見。日弁連の一連の動きは、だれの目にも「政治闘争」と映るものだった。
◆「強制加入団体なのに…」
 弁護士法8条は「弁護士となるには、日本弁護士連合会に備えた弁護士名簿に登録されなければならない」と規定している。日弁連が「強制加入団体」といわれるゆえんだ。
 安保法案への賛否を含めて、さまざまな思想・信条を持つ会員を強いて一つの器におさめる団体が、自ら厳正中立の姿勢を捨て、一方的な「政治的意見」を叫んでいいのか。
 一連の司法改革で弁護士人口は増加し、いまや3万9015人(3月1日現在)と過去20年で約2・5倍に跳ね上がっている。
 「日弁連は強制加入制の法律団体ではあるが、立憲主義の破壊だけは認めることができない。その一点で一致し、安保法案に反対している」。法案成立間際の27年8月26日、記者会見に臨んだ当時の日弁連会長、村越進(66)は「政治闘争」批判を意識してか、あくまで「憲法論に立った行動」と強調した。
 先の第1分科会基調報告書は、政治から距離を置くべきだとの指摘があることに言及しながら「立憲主義を無視するような場合」には「果敢に行動することが求められている」とした。
 同じ報告書は「ナチズムは、その独裁を正当化するために、しばしば『民意』を援用した」「今後自衛隊は、その局面に備えた武器使用基準や部隊行動基準に則って、人を殺し、他国を破壊する訓練を行い、さらには実戦に臨むことになる」とも書いている。

彼らは今の日本にヒトラーの影を見て、軍靴の足音を聞いているのだ。
元日弁連副会長も批判
 集団的自衛権の限定行使容認を自民党内でリードしたのは、副総裁で弁護士出身の高村正彦(75)とされる。高村が在籍する山口県の法律事務所代表で、日弁連副会長も務めた末永汎本(ひろもと)(77)は「それこそ十何年も前から高村は限定行使を考えていたようだ」と話し、「集団的自衛権を保有するが行使できない」としてきた憲法解釈を高村が突破したことを評価した上で、日弁連が今やるべきなのはそんな議論ではないと嘆いた。
 「会員も増え、それぞれの経済的基盤が非常に弱くなっている。『赤い旗』を振り回している場合じゃない」(敬称略)
× × ×
 わが国の法曹界で大部分を占める弁護士の胸に輝く記章(バッジ)は、外側に自由と正義を表す向日葵(ひまわり)、中央に公正と平等を意味する天秤(てんびん)がデザインされている。自由と公正の守護者であるべき弁護士会はしかし、公然と「政治闘争」を繰り広げている。内部からですら疑問が出る左傾的闘争体質の根には何があるのか。戦後70年を超えた今、考えたい。 =(2)に続く

 【用語解説】日弁連 弁護士法に基づき設立され、各地にある52の単位弁護士会や弁護士らの指導・監督など完全な自治権を持つ法人。強制加入団体で、単位会を通じて日弁連の弁護士名簿に登録されなければ法律業務ができない。会員の資格審査に加え、組織・運営の会則を定めるほか、単位会とともに会員への懲戒権を有する。役員は会員の直接選挙で選ぶ会長(任期2年)、副会長(同1年)、理事(同1年)など。
▼(2)社民・福島、民主・辻元、共産・市田…弁護士会の名前入り「のぼり」導かれデモ行進

◆「あくまで憲法論上の行動」内部から「独善」批判も
 「若者頑張ってるよねとか、SEALDS(シールズ)もっとやれとか、よく言われます。でも頑張らないといけないのは、俺らだけじゃないですよね」
 平成27年8月26日、日比谷野外音楽堂(東京都千代田区)。日本弁護士連合会(日弁連)が主催者として開いた集会で、国会審議が大詰めを迎えていた安全保障関連法案に反対する学生団体シールズ (解散)の奥田愛基が屁(闘”を呼びかけると、約4千人(主催者発表)の聴衆がやんやの喝采で応じた。
 「安保法案廃案ヘー 立憲主義を守り抜く大集会&パレード~法曹・学者・学生・市民総結集!~」と銘打たれた集会。社民党の福島瑞穂(61)、民主党(当時)の辻元清美(56)、共産党の市田忠義(74)ら安保法案に反対する野党の国会議員も応援に駆け付けていた。
 壇上に上がった「安保関連法案に反対するママの会」のメンバーは子供らとともに「だれの子どももころさせない。」とする横断幕を掲げた。日弁連副会長の伊藤茂昭(当時)は「何としても安保法案を廃案に追い込みたい。日弁連は法律家団体の責務として先頭に立ち、最後までこの行動を継続する」と宣言した。
 集会終了後、参加者は各地の弁護士会名が入ったのぽりに導かれ、デモ行進へ。シュプレヒコールで「安倍「晋言首相は直ちに退陣を」と迫った。

◆「人権侵害」と会員
 この8・26集会とパレードは、日弁連が展開した一連の反安保キャンペーンのハイライトだった。
 特定秘密保護法と集団的自衛権の行使容認、安保法制に関連して、日弁連が開いたイベントは昨年8月末現在で46件に上る。
  「戦争法制反対!」 「あなたの子や孫を戦争に行かせないために」。そんなテーマで、各地の単位弁護士会が実施した集会や街宣活動などに至っては、実に800件を超えている。
 大阪弁護士会が27年6月に大阪市内で開いた野外集会は、参加者約4千人の多くは左派系団体のメンバーで、一斉に「アカン」と書かれた黄色い紙を掲げるパフォーマンスもあった。
 当時の同会会長は「安保法制に対しては会員の間にもさまざまな意見があるところだが、閣議決定による解釈改憲は立憲主義に反するという一点において弁護士会は一致し、反対する行動に出た」との見解を示した。これに対し、弁護士会の安保法案反対運動について「多様な意見を切り捨てた独善」と批判する同会所属の弁護士が、インターネットのブログで反論した。
 「寝ぼけたことを言うものではありません。少なくとも私はそのような意見には与しておらず、(中略)人権侵害というほかありません。

◆「何でもありか」
 《各政党に共同街宣を呼びかけたところ、民主党、日本共産党、社民党、新社会党の各党の皆様にご参加いただけることになりました》。安保法案が国会審議中だった頃、弁護士の南出喜久治(67)は京都弁護士会から事務所に届いたファクスに嘆息した。この前後、反対署名の要請を含む文書が一方的に送られてきたという。
 中立性などどこ吹く風、日弁連と単位弁護士会は完全に 「政治集団」と化していると感じた。脱退の自由がない 「強制加入団体」に許されることなのかI。
 実は日弁連が30年前に行った国家秘密法反対決議に対し、一部会員が思想・信条の自由への侵害を理由に無効確認と反対運動の差し止めを求めた訴訟で、{特定意見を会}員に強制していることにならない」として日弁連が勝訴した司法判断がある。
それでも南出は27年7月、日弁連と京都弁護士会を相手取り、政治的中立性を損なうとして、ホームページ上に掲載された意見表明の文書削除などを求めて東京地裁に提訴した。訴訟で日弁連側は「法理論的な見地から安保法制に反対する趣旨の意見を表明した。特定の政治上の主義、主張、目的によるものではないと強調した。
  同地裁は今年2月97日の判 決で、強制加入団体の性格を踏まえ一政治的中立性を損なうような活動をしたりすることがあってはならないと判示。その上で一連の意見表明が一法理論上の見地から出たとする日弁連の主張を認め、南出の請求をいずれも退けた。
「法理論に絡めれば、どんな政治活動も『何でもあり』なのか。非常識すぎる判決だ」。南出は控訴した。
          
■(平成28年10月7日憲法の恒久平和主義を堅持し、立憲主義一民主主義を回復するための宣言) 
日本を取り巻く安全保障の環境が一層厳しさを増していることを理由に、解釈で憲法を改変し安保法制を整備するための閣議決定がなされ、憲法に違反する安保法制が制定されるに至った。立憲主義国家が破壊され、この国が再び戦争の破局へと向かうことの決してないよう、憲法の恒久平和主義を堅持し、損なわれた立憲主義と民主主義を回復するために、全力を挙げることをここに表明する。
■安全保障関連法 
安倍政権が平成26年7月に閣議決定した憲法解釈変更による集団的自衛権の行使容認や、他国軍への後方支援拡大などを盛り込んだ法律。 27年9月に成立、28年3月に施行された。自衛隊法や国連平和維持活動(PKO)協力法など10の法改正を一括した「平和安全法制整備法」と、他国軍の後方支援目的で自衛隊を海外に随時、派遣可能にする恒久法「国際平和支援法」で構成する。
密接な関係にある他国への攻撃で日本の存立が脅かされる「存立危機事態」、日本の平和に重要な影響を与えるに重要影響事態。国際社会が脅威に共同で対処する二国際平和共同対処事態」を新設した。

【弁護士会第1部(3)】
「もし中国が尖閣占領を…」〝日本有事〟直視しない反安保決議 少数派が主導権握る日弁連執行部

 「納得できないというより、理解できない」。平成26年5月30日、仙台市で開かれた日本弁護士連合会(日弁連)の第65回定期総会。マイクを握って質問した安永宏(77)は、執行部の答弁にいらだちを隠せなかった。

 議題は「重ねて集団的自衛権の行使容認に反対し、立憲主義の意義を確認する決議(案)」。安永は、軍事的拡張を強める中国による尖閣諸島(沖縄県石垣市)周辺での動向などを踏まえ、「日本有事」の際にどう行動すべきなのか、執行部の見解をただした。

 「もし中国が尖閣諸島を占領にかかってきたとき、自衛隊は抵抗することができるのか。アメリカに支援を求めるということはできるのか」「きちっと結論を出した上で、ご提案をなさっておられるのか」と。

 当時の副会長は「日弁連として個別の方向性、考え方を示していることは今までない。日弁連という団体の性格からして、示すべきであるか否かも問題があるところであろうかと思う」と回答。「検討することは必要」としつつも、「今どのように考えるか回答することは適切ではない」とした。安永は「今そこにある危機」を直視しようとしない抽象論だと感じた。

 当時は一介の会員だった安永だが、24年4月に佐賀県弁護士会長に就任、翌年3月まで日弁連理事も兼任した。集団的自衛権などに反対する意見表明が理事会で議事に上ると、現実の国際情勢から「目をそらすな」と批判したが、完全に孤立した。「私の意見はいつも圧倒的多数で否定される。理事会の後に『本当は先生の意見に賛成』と耳打ちしてくる人はいたが…」安永は、政治も根本は法律で動く以上、法律家集団の意見が政治性を帯びることはある意味当然と考えている。問題は最初から一方向で結論が決まり、議論にならないことだと訴える。

◆「議論しなければ自滅の道」
 同じ26年の日弁連総会に出席し、安永と正反対の立場で決議案への賛成討論を行ったのが鈴木達夫(76)だった。「安倍(晋三)の戦争政治をみんなの力で断ち切る。それが今の戦争が起ころうとしている情勢の中における人民の態度ではないか」

 鈴木によると、東京大在学中に60年安保闘争に参加した後、NHKに入局し、配属先の長崎で米海軍原子力空母エンタープライズの佐世保入港阻止闘争にも加わった。当局に身柄を一時拘束された経験もあり、自らの裁判を担当した弁護士への敬意から法律を学び、48歳で司法試験に合格したという異色の経歴を持つ。

 鈴木は、昨年の日弁連会長選に立候補して敗れた「反主流派」の高山俊吉(76)らとともに「憲法と人権の日弁連をめざす会」を結成している。「主流派」で構成する日弁連執行部が集団的自衛権に反対したことは評価しつつ、法曹人口拡大など一連の司法改革については執行部と意見を異にする立場だ。

 総会で質問に立った安永とは考え方は水と油だが、執行部がまともに答えずに採決したことには疑問を持つ。「日弁連は議論しないといけない。それをしないのは自滅の道だ」
 採決の結果、決議案は賛成多数で可決された。

◆委任状集めて場を支配
 日弁連の会員弁護士(3月1日現在で3万9015人)には、右から左までさまざまな思想・信条を持つ人がいる。なぜ集団的自衛権の行使容認への反対など政治色の濃い決議案が簡単に可決されるのか。

大阪弁護士会所属のある弁護士は「少数派である左翼系の弁護士が日弁連や単位弁護士会を事実上仕切っている」と吐露する。多くの弁護士は日常業務に追われ、会の運営に無関心か、反体制的な活動を嫌って一定の距離を置く。一方で会務に熱心に取り組む少数派が組織の主導権を握り、最高意思決定機関である総会にも委任状を集めて大挙して出席、場を支配するというのだ。

「重ねて-」決議案が可決された総会の進行手続きに瑕疵(かし)はない。ただ、出席者は691人、委任状による代理出席は8782人。当時の全会員の3分の1に満たない人数でまたも「反安保」の旗が振られた。それは日弁連の「総意」といえるのか。(敬称略)  =(4)に続く

     ◇
【用語解説】日弁連総会
 日弁連の最高意思決定機関。毎年5月に定期総会が行われ、予算や決算報告のほか、宣言や決議が議題となる。必要に応じて臨時総会が開催される。弁護士個人と各単位弁護士会がそれぞれ議決権を持ち、総会に出席しなくても委任状を提出すれば議題について意思表明ができる。これまでの総会には定足数の定めがなかったが、3月の臨時総会で定足数を5千以上とする会則改正案が可決された。

▼(4)朝日新聞も記事を取り消した「慰安婦」、日弁連は論点すり替え…

【弁護士会第1部(4)】
証拠なしに「慰安婦強制連行」「性的奴隷」 日本貶(おとし)める声明を訂正せず…〝野蛮な国〟認知の背景に日弁連活動

 ソウルの日本大使館前に設置された慰安婦像を囲み、日韓両政府の慰安婦合意に抗議して謝罪や賠償を求める元慰安婦や支持団体のメンバーら。日弁連もこれまでに慰安婦問題に関して宣言や声明を積極的に公表してきた=2015年12月30日(名村隆寛撮影)

▼(3)日弁連を「少数派の左翼系が仕切っている」…から続く

 平成28年11月、保守団体「慰安婦の真実国民運動」幹事で拓殖大客員教授の藤岡信勝(73)らが、元参院外交防衛委員長の片山さつき(57)のもとを訪れた。国際連合(国連)女子差別撤廃委員会の委員長を務める弁護士、林陽子(60)の解任を求める約1万1千人分の署名を手渡すためだ。

 この年の3月、同委員会は日韓両政府が慰安婦問題の最終的かつ不可逆的解決を確認した「慰安婦合意」(27年12月)について「被害者中心ではない」と批判する見解を公表。官房長官の菅義偉(すが・よしひで)(68)は「主要各国や潘基文(パン・ギムン)国連事務総長(当時)も合意を歓迎している。同委員会の見解は日本の説明を一切踏まえていない」と反論していた。

 同団体は林の解任を求める署名活動を開始した。署名を呼びかける文書は「日本弁護士連合会は国連で長年、反日活動を続けてきた。外務省は日弁連に属する林氏を同委員に推薦した」と指摘した。
 片山は藤岡らに「今後は外務省の推薦者に注意を払う」と話したという。

◆国連委に提起
 日弁連は4年、慰安婦への賠償実現を目指して国連人権委員会に慰安婦問題を初めて提起した。その後も慰安婦に関する宣言や声明を積極的に公表してきた。

 日弁連関係者によると、これを主導した一人が6、7年に会長を務めた土屋公献(こうけん)=21年死去=だ。土屋は朝鮮総連中央本部売却事件(19年)で総連の代理人を務め、慰安婦問題などで日本の責任を追及してきた。

 13年3月、北朝鮮の首都・平壌で、慰安婦だったとされる女性たちと面談し、涙を浮かべながら「みなさんがお元気なうちに何とか謝罪と賠償を実現させる」と約束したこともある。

日弁連会長時代の7年10月の宣言では「慰安婦は強制連行された」と規定。同11月の会長声明でこう述べた。「日弁連を含むNGOは、慰安婦問題は『性的奴隷』として政府に賠償を要求してきた」「性的奴隷制という国連用語は、日本軍に組織的に誘拐され、売春を強制された問題をさす」

◆論点すり替え
 政府や学者らの調査で朝鮮半島での「強制連行」を証拠立てる文書は見つかっていない。〝強制性〟を認めた「河野談話」(5年)にも強制連行という用語はない。当時の官房長官、河野洋平(80)が談話発表時の記者会見で「(強制連行は)事実だ」と述べたが、根拠は不明のままだ。学者らからは「性的奴隷」という表現の定義や正確性にも疑問が呈されている。

 慰安婦問題でキャンペーンを張ってきた朝日新聞は26年、「朝鮮で女性を強制連行した」とする吉田清治(12年死去)の虚偽証言に基づく記事を取り消し、「慰安婦の実態は不明な点が多い」と認めた。こうした動きに連動するように、日弁連の声明や宣言も質的に変化を見せる。

 22年の日弁連と大韓弁護士協会の共同宣言や提言では、慰安婦問題を「軍の直接的あるいは間接的な関与のもとに、女性に対し組織的かつ継続的な性的行為の強制を行ったこと」と定義。27年の報告書では「募集・移送・管理などがいかなる様態であれ、自由が拘束された状態の下で、性的性質を有する行為を強制されていたことだ」とした。
「強制連行」「性的奴隷」と断定した過去の声明に比べトーンダウンし、論点もすり替えられている。

 ソウルの日本大使館前に設置された慰安婦像を囲み、日韓両政府の慰安婦合意に抗議して謝罪や賠償を求める元慰安婦や支持団体のメンバーら。日弁連もこれまでに慰安婦問題に関して宣言や声明を積極的に公表してきた=2015年12月30日(名村隆寛撮影)

◆法律家の良心は…
 「何を証拠に『強制連行』と断定したのか。“証拠に基づいた事実の追究”のプロであるべき弁護士が、証拠がない、あるいは不確かな証拠に基づいた会長声明を出したことは大きな問題だ」。日本の伝統と文化を守る「創の会」世話人で弁護士の堀内恭彦(51)は「客観的事実はあやふやでも、日本の責任追及と賠償実現ができればそれで良いという風潮が、当時の日弁連内にあったのではないか」と指摘する。

 慰安婦がここまで国際問題化し、「日本は性奴隷を用いた野蛮な国」と認知されるに至った原因の一つは、間違いなく日弁連の活動にある。

 「弁護士の良心があるなら、誤りが判明した声明は訂正や見直し、取り消しを検討すべきだ」。堀内はそう提案している。(敬称略)

▼(5)「直ちに廃止」先鋭化した〝脱原発〟 「政治でなく法的スキームの問題」…科学、国益考慮せず

【用語解説】慰安婦問題 
戦時中、日本や朝鮮などの女性が施設で日本軍将兵の性の相手をしていた。一部の元慰安婦が「強制連行された」と主張、朝日新聞などメディアが継続的に報じ、日弁連なども加わって人権侵害として国内外で問題視された。日本政府は一貫して強制連行の証拠は見つかっていないとしている。韓国などでは反日運動の象徴とされ、平成27年12月の日韓合意後も慰安婦像の設置が相次いでいる。

 この年の3月、同委員会は日韓両政府が慰安婦問題の最終的かつ不可逆的解決を確認した「慰安婦合意」(27年12月)について「被害者中心ではない」と批判する見解を公表。官房長官の菅義偉(すが・よしひで)(68)は「主要各国や潘基文(パン・ギムン)国連事務総長(当時)も合意を歓迎している。同委員会の見解は日本の説明を一切踏まえていない」と反論していた。

 同団体は林の解任を求める署名活動を開始した。署名を呼びかける文書は「日本弁護士連合会は国連で長年、反日活動を続けてきた。外務省は日弁連に属する林氏を同委員に推薦した」と指摘した。

 片山は藤岡らに「今後は外務省の推薦者に注意を払う」と話したという。

◆国連委に提起

 日弁連は4年、慰安婦への賠償実現を目指して国連人権委員会に慰安婦問題を初めて提起した。その後も慰安婦に関する宣言や声明を積極的に公表してきた。

 日弁連関係者によると、これを主導した一人が6、7年に会長を務めた土屋公献(こうけん)=21年死去=だ。土屋は朝鮮総連中央本部売却事件(19年)で総連の代理人を務め、慰安婦問題などで日本の責任を追及してきた。

 13年3月、北朝鮮の首都・平壌で、慰安婦だったとされる女性たちと面談し、涙を浮かべながら「みなさんがお元気なうちに何とか謝罪と賠償を実現させる」と約束したこともある。

日弁連会長時代の7年10月の宣言では「慰安婦は強制連行された」と規定。同11月の会長声明でこう述べた。「日弁連を含むNGOは、慰安婦問題は『性的奴隷』として政府に賠償を要求してきた」「性的奴隷制という国連用語は、日本軍に組織的に誘拐され、売春を強制された問題をさす」

【弁護士会第1部(5)】
「直ちに廃止」先鋭化した〝脱原発〟 「政治でなく法的スキームの問題」…科学、国益考慮せず

日弁連が平成23年7月に表明した「原子力発電と核燃料サイクルからの撤退を求める意見書」(複写)。「直ちに廃止」などと原発に対する厳しい表現が並ぶ

▼(4)証拠なしに「慰安婦強制連行」「性的奴隷」…から続く

 東京電力福島第1原発の事故を引き起こした東日本大震災の大津波から2週間。平成23年3月25日、民主党政権の官房長官(当時)、枝野幸男(52)が記者会見で同原発から30キロ圏外への自主避難を促し、混乱は収まるどころか拡大の気配が漂っていた。この日、日本弁護士連合会(日弁連)は会長(当時)の宇都宮健児(70)が会長声明を出した。

《原発の新増設を停止し、既存の原発については電力需給を勘案しつつ、危険性の高いものから段階的に停止すること》

 折しも同日、東電は夏場の電力需給予測を発表。福島第1、2原発などの停止で、850万キロワットもの深刻な電力不足になることが予測された。元経済産業省幹部(61)は振り返る。

 「《電力需給を勘案しつつ》は、むしろ常識的な線。
電力不足で国民が困っていなかったら、『即時停止』の主張があったのかもしれない」

 しかしその後、短期間に繰り出された日弁連の意見は、原発に対する厳しい姿勢を急速に強めていく。同年5月6日付の「エネルギー政策の根本的な転換に向けた意見書」では「電力需給を勘案しつつ」の文言は消え、運転開始後30年を経過した原発や、付近で巨大地震が予見されている原発の「運転停止」を求めた。

 さらに5月27日付の宣言では「速やかに運転を停止」に変わり、7月15日付の意見書は、前記の原発については「直ちに廃止」、その他の原発も「10年以内にすべて廃止」と、表現を先鋭化させた。

◆法律家集団がなぜ
 実は日弁連は約40年前、昭和51年10月の人権擁護大会で既に原子力の利用を問題視する決議をしている。ただ、日弁連関係者によると、原発への姿勢を強めた契機は、平成12年の人権擁護大会で採択された「エネルギー政策の転換を求める決議」だという。

 日弁連はここで原発の新増設の停止や既存原発の段階的廃止を明記。現在まで続く意見の土台となり、たびたび引用もされている。

 同決議は11年に発生した福井の日本原電敦賀2号機での1次冷却水漏れや、作業員2人が死亡した茨城・東海村JCO臨界事故が背景にあった。福島第1原発事故は、さらに厳しく「脱原発」を求める第2の転換点となった。

 なぜ弁護士組織が、純然たる法律問題とはいえない「原発」の是非に踏み込むのか。ある弁護士は「12年決議の題名『エネルギー政策の』は、原発が極めて政策的・政治的案件だということを図らずも認めている」と指摘する。

◆環境問題の延長
 原発問題の多くは、日弁連の公害対策・環境保全委員会にあるエネルギー・原子力部会で議論される。同部会に数年前から携わる弁護士、浅岡美恵(69)は京都大を卒業後に弁護士登録。京都弁護士会長、日弁連副会長を歴任し、消費者保護や地球温暖化などの環境問題に関わってきた。

 浅岡にとって、原発は環境問題の延長線上にあるという。「私たちにとって原発は政治的な話ではない。例えば規制基準はどうあるべきかといった法的なスキームの問題だ。法的な問題に意見を言わないということはあり得ない」

安全保障関連法案への反対運動を展開する日弁連が主張した「憲法論に立った行動」と同様、すべて法的問題に結びつける趣旨の主張だろう。こうした論法には「我田引水」や「論点すり替え」も透けて見える。

◆結論ありき
 北海道大の特任教授、奈良林直(ただし)(原子炉工学)は、かねて日弁連の意見に疑問を感じていた。「少なくとも原子炉の仕組みを知っている人の意見ではない。『反対』の意見ばかりではなく、科学や技術の進歩の話も聞いてもらいたい」

 国のエネルギー政策は、最新の科学・技術的知見を踏まえ、国益や国民生活への影響を含め総合的な政治判断で決められるものだ。原発の運転を止めた一部地裁の仮処分決定にも色濃くにじむ「絶対的な安全」という不可能なゼロリスクを求め、「直ちに廃止」と踏み込む“脱原発”は結論ありきではないか-。ただ、こうした異論も「私たちは科学者ではない。法的観点からの意見だ」と断じられると、永遠に議論はかみ合わない。(敬称略)  =(6)に続く
     ◇
【用語解説】国のエネルギー政策
 日本の中長期的なエネルギー政策の指針となっているのは「エネルギー基本計画」。ほぼ3年ごとに改定され、前回は平成26年4月に閣議決定されている。原発を「重要なベースロード電源」と位置づけ、原発の活用方針を明記。原子力規制委員会が規制基準に適合すると認めれば、「その判断を尊重し原発の再稼働を進める」としている。今年はこの基本計画の改定時期に当たる。

【弁護士会第1部(6完)】
出席2.1%で死刑廃止宣言 
「被害者の権利根こそぎ奪う」渦巻く批判…組織に深刻な亀裂

死刑廃止宣言を採択した日弁連の第59回人権擁護大会。会員の間では宣言に反対する意見も多い=平成28年10月7日、福井市

 「遺族は生きて償ってほしいとは思っていません。生きていること自体が苦痛でしかないからです」

 平成28年12月17日に東京都内で開かれたシンポジウム。磯谷富美子(65)の声が会場に響いた。磯谷は闇サイト殺人事件(19年)で3人組の男に娘を拉致、殺害され、極刑を求めたが、死刑確定は1人。残る2人は無期懲役だった。

 日本弁護士連合会(日弁連)は10月7日の人権擁護大会で「2020年までに死刑制度の廃止を目指す」との宣言を採択していた。磯谷の言葉には、世論調査で8割が容認する死刑について、日弁連が廃止を提言したことへの憤りも漂う。

 隣に座るのは弁護士の小川原優之(62)=第二東京弁護士会。オウム真理教教祖で死刑囚の麻原彰晃=本名・松本智津夫(62)=の1審弁護人を務め、日弁連の死刑廃止検討委員会事務局長として宣言採択に尽力した一人だ。この日は死刑廃止に反対する「犯罪被害者支援弁護士フォーラム」のシンポジウムに死刑廃止派として単身、参加した。

 「弁明できるならしてください」。司会の弁護士、高橋正人(60)=同=の問いに、小川原は死刑廃止宣言の趣旨を説明した。

 「生きて償うとか死んで償うという考え方を議論した結果ではない。どういう刑罰制度が民主主義社会として望ましいのか。死刑に代わる刑罰が考えられないかということ」

 その後も弁護士らから小川原への厳しい言葉が続いた。「被害者のために活動している弁護士がたくさんいる。宣言は乱暴だ」「死刑廃止活動をやるなら自費でやってほしい」。聴衆からは拍手も起こった。

◆「京都」では否決
 宣言は死刑廃止の必要性をこう説く。

 《生まれながらの犯罪者はおらず、人は適切な働き掛けと本人の気付きにより変わり得る存在である》《冤(えん)罪(ざい)で死刑となり執行されてしまえば、二度と取り返しがつかない》

 これまで「死刑廃止についての全社会的議論を呼びかける」との立場にとどめてきた日弁連。宣言に踏み切った背景には、死刑が確定していた「袴(はかま)田(だ)事件」などの再審開始決定に加え、2020年に刑事司法の国際会議が日本で開かれるのを好機とみたこともある。

 ただ、日弁連はすべての弁護士に登録を義務づけた強制加入団体だ。意見を二分する問題に特定の立場を示すことには反対も根強い。被害者支援を手弁当で行う弁護士からすれば、死刑廃止運動に会費が使われることへの反発もある。

 実際、京都弁護士会は平成24年、単位弁護士会で初の死刑廃止決議採択を目指したが、「被害者の気持ちを理解していない」などの反論が出され、激論の末に反対多数で否決された。

 これまでも死刑執行のたびに会長名で抗議声明を出すなど、日弁連の中立性を疑問視する声もあった中での宣言。被害者支援弁護士の一人は話す。

 「日弁連はルビコン川を渡った」

◆なぜ人権擁護大会で宣言を…亀裂は深く
 28年の人権擁護大会で扱う宣言案について、日弁連は「委員会や理事会の議論を経て決まった」と正当な手続きを強調するが、異論は強かった。特に犯罪被害者支援委員会は、会員の思想・良心の自由への侵害に加え、会員アンケートで死刑廃止に否定的な意見が相当数出されたことなどから、強い反対を表明。7、8月の理事会も紛糾した。

人権擁護大会当日、採決に先立つ討論では宣言案に反対する弁護士を中心に批判が相次ぎ、高橋も執行部にこう迫った。「あなた方のやっていることは被害者の権利を根こそぎ奪い取ることだ」

 当時の会員3万7千人超のうち、開催地の福井市に足を運び、採決に参加したのは、約2.1%にあたる786人。賛成546人、反対96人、棄権144人となり、賛成多数で宣言が採択された。

 参加者が過去の大会と比べて多いか少ないかは一概には言えない。ただ、今回の賛成は全会員の約1.4%。多くの参加が見込めない遠方の開催地、しかも委任状も認められない大会で、50人に1人にも満たない賛成で死刑廃止を宣言した日弁連の意見決定手法は適切といえるのだろうか。実際、会員からの批判は多く、深刻な亀裂を生んだ。

 なぜ、こんな偏向がまかり通り、一般感覚とのずれが生じるのだろう。その理由を考えるため、第2部では日弁連や単位弁護士会の組織にひそむ要因を探る。(敬称略) =第1部おわり


 【用語解説】人権擁護大会 
日弁連の人権擁護活動として、昭和33年に始まった。毎年1回、全国の弁護士が開催地に集まり、性差別や貧困格差などの人権問題に関する宣言や決議を採択す るほか、一般市民が参加できるシンポジウムも開かれる。最高意思決定機関である日弁連総会とは異なり、委任状による議決権の代理行使を認めていない。採決に参加できるのは現地に足を運んだ会員で、議決は出席者の過半数で決める。

ロシア人・朝鮮人に「性奴隷に」された日本人女性の悲劇

ロシア人・朝鮮人に「性奴隷に」された日本人女性の悲劇
              歴史通 17-April 大高未貴
「北鮮二侵入セル『ソ』兵ハ白昼街道ニテ通行中ノ婦女ヲ犯ス」(高松宮日記)
◆封印された日本婦女子の悲劇
 数年前、私は埼玉県大宮市の墓地「青葉園」に立つ青葉地蔵尊で行われた供養に参加した。拙著『強欲チャップル 沖縄集団自決の真実』に詳しいが、集団自決の真相について取材を進める中、戦時中、渡嘉敷島に赴任していた皆本義博元中尉から「沖縄の集団自決は決して軍命令ではなく、人間としての尊厳を守るため、ある意味自発的なものでした。あの不幸な時代、集団自決は沖縄だけの現象ではなく、ソ連軍の侵略をうけた満洲や朝鮮半島、そして樺太でも起こったものなのです。来週、満洲で自決という非業の死を遂げた従軍看護婦二十二人の供養があるから取材に来ませんか?」とお声掛けいただいたのがきっかけだった。
 恥ずかしながら、皆本氏からそのことを聞くまでソ連軍の蛮行といえばせいぜいシベリア抑留程度だったので、あらためて青葉地蔵尊の由来を調べながら震え上がった。
  「昭和二十一年六月二十日の満洲・ 新京(長春)。旧ソ連軍に留め置かれ、長春第八病院で働いていた松 岡喜身子さん(七七)ら二十数人の従軍看護婦は、絶望のどん底にいた。
  その夜、ソ連軍の要請で軍の救護所へ仲間六人と”応援”に行っていた人鳥はなえ看汲婦(二二)が、十一発もの銃創を受けながら一人逃げ帰り、救護所の実態を伝えて息を引き取った。「日本人看護婦の仕事はソ連将校の慰安婦。もう人
を送ってはいけません」
 大島さんの血みどろの姿に、喜身子さんはぼうぜんとし、涙も出なかった。「ロシア人は日本人を人間とすら扱わないのか……」。だが、悪夢はその翌朝も待っていた。二十一日月曜日午前九時すぎ、病院の門をくぐった喜身子さんは、病
院の人事課長、張宇孝さんに日本語でしかられた。「患者は米ているのに、看護婦は一人も来ない。婦長のしつけが悪い」「そんなはずはありません。見てきます」胸騒ぎがして、看護婦の大部屋がある三階に駆け上がった。ドアをノックしても返事はない。中へ飛び込むと、たたきには靴がきち人とそろえてあった。線香が霧のように漂う暗い部屋に、二十二人の看護婦が二列に並んで横たわっていた。(略)「死んでいる……」。
 満州赤十字の看護婦は終戦時、軍医から致死量の青酸カリをもらい、制帽のリボン裏に隠し持っていた。机上には、二十二人連名の遺書が残されていた。〈私たちは敗れたりとはいえ、かつての敵国人に犯されるよりは死を選びます〉」(産経新聞 平成七年六月二十九日)
 悲劇は朝鮮半島にも及んだ。『高松宮日記』にもこう書かれている。
「北鮮二侵入セル『ソ』兵(白昼街道ニテ通行中ノ婦女ヲ犯ス。汽車ノ通ラヌタメ歩イテ来ル途中、一日数度強姦セラル。二人ノ娘ヲ伴フ老婦人(カクシテ上娘(妊娠、下ノ娘(性病二罹ル。元山力清津ニテ(慰安婦ヲ提供ヲ強ヒラレ人数不足セルヲ籤引ニテ決メタリ、日本婦人ノ全部「強姦セラル。強要セラレ自殺セルモノ少ガラス」(『高松宮日記 第八巻 昭和二十年十月二十三日』中央公論社)

 こうして満洲、朝鮮半島から心身ともに傷を負った日本人女性が駆け込んだ先の一つが福岡の二日市保養所だった。いまは当時の悲劇を鎮魂するための水子供養地蔵を中心とした二日市保養所跡があり、跡地建立趣旨にはこうある。
「昭和二十∇二年の頃 博多港には毎日のように満州からの引揚船が入っていた。其の中に不幸にしてソ連兵に犯されて妊娠している婦女子の多い事を知った旧京城帝国大学医学部関係の医師達は、これら女性を此処-旧陸軍病院二日市保養所―に連れてきて善処した。(略)児島敬三」
 父親もわからぬ青い目をした異国の赤ん坊を産んで育てることもできず、上陸寸前に博多湾に身投げした女性もいたという。そこで不遇な女性の自殺を防ぐため、引き揚げ船には医師も同乗し、傷を負った女性たちに、。上陸したら二日市で手術できますから心配しなさんな‘と声をかけてまわっていたのだ。この行為は当時、堕胎が禁じられていた日本で、超法規的措置として秘密裏に引揚女性の堕胎が認められたという。とはいえ、終戦直後の物資不足で麻酔すらない状態での手術だった。
 この悲劇を裏付けるため、引き揚げ船内で配られた一枚の呼びかけ文を紹介する。
 「不幸なるご婦人方へ至急御注意口‥ 皆さんここまで御引揚になれば、この船は懐かしき母国の船でありますから先づご安心下さい。さて、今日まで数々の厭な想い出も御ありでせうが茲で一度顧みられて、万一これまでに『生きんが為
に≒故国へ還らんが為に』心ならずも不法な暴力と脅迫に依り身を傷つけられたり、またはその為身体に異常を感じつつある方には再生の祖国日本上陸の後、速やかにその憂診に終止符を打ち、希望の出を建てられる為に乗船の船医へこれまでの経緯を内密に忌憚なく打ち開けられて相談してください。本会はかかる不幸なる方々のために船医を乗船させ、上陸後は知己にも故郷へも知れないやうに博多の近く二日市の武蔵温泉に設備した診療所へ収容し健全なる身殼として故郷へご送還するやうにしておりますから、臆せず、惧れず、ご心配なくただちに船医の許まで御申し出ください。財団法人 在外同胞援護 救療部派遣船医」千田夏光氏が書いた『皇后の股肱』の中にご一日市・堕胎医病院々という章があり、当時の様子がよく描写されている。妊娠六ヵ月、七ヵ月の中絶手術は母体へのダメージも大きく、手術後命を落とした女性もいた。中には泣き声をあげる胎児もいて、その声を聞くと母性が目覚めかねないので医師たちの手で胎児の息をひきとらせている。昭和二十三年に閉鎖されるまで約九百名もの女性が門をくぐり、手術を受けた女性は四百六十二名、うち十名が命を落としているというのだ。
 二日市保養所跡に慰霊碑を児島敬三氏が建立したきっかけも、上述した千田夏光氏のルポを読んで衝撃を受けたからだという。貴重なルポルタージュだと思うが、南京については東京裁判史観そのもので、臼井勝美電気通信大学教授の「日中戦争」などを孫引きしながら『日本軍の通過した後に処女なしと言われる』などといった針小棒大な証言をサラリと織
り込んでいるところに千田氏の視点が伺える。又、従軍慰安婦に関して千田氏は麻生徹男軍医を慰安所発案の責任者であるとはのめかすように描いている。その件に関して私は麻生軍医の娘である天児郁氏に福岡で取材し、千田氏が天児氏に謝罪した話や彼女に宛てた手紙なども見せてもらったことがある。彼女は「千田氏の不正確な執筆や検証もない孫引きによって書かれた本がジョージーヒックスなどによって引用され、さらにクマラスワミ報告に採用され、国際社会に慰安婦問題が歪んだかたちで広まってしまった」と怒りを隠さなかった。
 ともあれ二日市保養所について調べてゆくうち、意外なことに気付かされた。保養所に駆け込んだ女性達への加害者の大半はソ連兵だと思っていたのだが、なんと朝鮮人の方が多かったというのだ。
「二日市保養所の医務主任だった橋爪将の報告書によると、施設の開設から二ヵ月間で強姦被害者の加害男性の国籍内訳は、朝鮮二十八人、ソ連八人、支那六人、米国三人、台湾・フィリピンが各一人だった。一九四七年の施設閉鎖までに五百件の堕胎手術をおこなった』(『戦後五十年引き揚げを思う』)
 また終戦直後、朝鮮北部の興南にいた鎌田正二氏はこんな証言をしている。「ソ連兵や朝鮮保安隊の掠奪と横暴は、残酷をきわめた。
 夜なかに雨戸を蹴やぶって侵入してきたソ連兵は、十七になる娘を父親からひったくるように連行。
 娘は明け方になり無残な姿で、涙もかれはてて幽鬼のごとく帰ってきたという。みなソ連兵を朝鮮人が案内したのだった」(『潮』一九七一年八月号)
 日本が敗戦国となったと同時に、一部の朝鮮人は手のひらを返すように残忍な加害者と化して日本人に危害を加えたのだ。余談になるが″慰安婦強制連行‘について朝日新聞ですら虚偽と認めた吉田清治氏は福岡県出身で、戦後は山口県下関の門司港を拠点に活動をしていた。吉田氏は労務報国会で朝鮮人狩りをしていたのではなく、日雇い労務者の仕事の振り分けをしていたに過ぎない。引揚船の割合は福岡の博多港と長崎の佐世保が最多で、門司港は使用されず近くの仙崎港が使用されていたが、いずれにせよ北九州に押し寄せてきた引揚者の悲劇は吉田氏も聞き知っていた筈だ。にも関わらず。私か朝鮮人女性を強制連行して慰安婦にした”などという創作話を、一体どんな心境で吹聴していたのだろう。
 日韓合意後、韓国人慰安婦の中には日本からの見舞金を二重取りした女性もいる。アジア女性基金から約五百万、和解金約一千万、合計一千五百万もの大金だ。方や近現代史家・秦郁彦氏の推計によると従軍慰安婦の約四割をしめていた日本人慰安婦には何の補償もされていない。ちなみに朝鮮人慰安婦は約二割。つまり慰安婦問題の本質とは、女性の人権問題ではなく、外交問題に発展させて。戦後補償産業”の恩恵に預かろうとした活動家たちが、吉田清治や韓国人慰安婦などを利用したということにつきるのではなかろうか? こうした倒錯した歴史の担造の罪深さの陰で、日本人婦女子の受難は封印されてきたのだ。
 日本婦女子の悲劇の痕跡は北方の地・樺太にも刻まれていた。一九四五年戦争末期の八月八日、ソ連は日ソ中立条約を破棄して対日宣戦。翌九日、突然ソ満国境線を破り日本軍への攻撃を開始した。その最たるものはソ連軍が迫る中、九人の電話交換手だった女性が集団自決した真岡事件が有名だ。
 大本営は一九四四年三月「決戦非常措置要綱」を発令し、電信電話部門に関しても徹底的な強化推進の方針を打ち出していた。真岡郵便局でも非常体制が取られ、残留の募集に応じた二十一人の交換手が交代で二十四時間業務にあたっていたという。八月二十日、真岡沖に現れたソ連艦が艦砲削撃を開始し、真川の町は幟火に包まれた。その直後、九人が青酸
カリを飲んで集団自決を果たしたのだ。彼女たちは、生きたままソ連兵に見つかったら、どのような陵辱を受けるかわかっていたのであろう。
 私か彼女たちの苦渋の選択が、決して妄想に起因するものなどではなかったことを確信したのは、終戦直後、満洲から朝鮮半島経由で引き揚げてきた開勇氏の壮絶な証言を聞いたからだ。

◆皇軍兵士が見たソ連軍の蛮行
 「東は虎頭 北黒河 興安嶺の峰越えて 襲ひきたれしソ連軍 げに恐ろしやその姿鉄輪迫る修羅の途 避難する身 に襲ひきて 縦横無尽に踏みにじり 悲惨の極みに血は流る 聞くも語るも血の涙 屍は積りて 山を築き 血汐は流れて川をなす修羅の巷か 地獄谷(略)我をあざむき襲ひくる ソ連の蛮行 許すまじ 恨みつくさん時くるや 恨 み返さん 時くるや」(日本人避難民悲歌)
 この歌は元陸軍憲兵伍長の故開勇氏からいただいた資料の中にあったものだ。
 初めて開氏を知ったのは、。靖國神社に参拝中の元日本軍兵士(開勇)が中国人の暴漢に襲われる、といったニュースがきっかけだった。
 二〇〇八年、開氏が靖國神社を訪れた際、突如中国人の暴漢に襲われ、持っていた日の丸を奪われ、国旗を足で踏まれた上に竿を折られたという。開氏は自らの命を顧みず、奪われた国旗を取り戻すために中国人に歯向かった。何故ならその日の丸には鬼籍に入った戦友たちの名前が記されていたからだ。
 日本の老人に対する中国人の暴挙は産経新聞やチャンネル桜などで報道された程度で、中国に抗議した政治家もおらず、うやむやとなってしまった。この事件後、私は開氏の戦友たちへの想いや彼が体験した戦争を記録せねばと思い、彼の元を訪ねた。横浜の自宅の部屋には天皇皇后両陛下の写真が飾られ、居住いも正しく、矍鑠(かくしゃく)たる様は、さすが元皇軍兵士と思わせるに十分だった。
 開氏は大正十五年、富山県生まれ。昭和十九年に陸軍憲兵学校を卒業し、その年の十二月に北朝鮮の羅南地区・清津の憲兵分隊に赴任している。
 悲劇が始まったのは翌年、昭和二十年八月九日、ソ連軍侵攻により、南方に主力兵を取られていた慶興分隊、清津守備隊は瞬く間に全滅。北朝鮮では天皇の玉音放送がなされた十五日以降もソ連軍の爆撃が続き、日本軍が正式に武装解除したのは、その数日後で、開氏が語る地獄絵図は、その混乱の中で生じていたのだ。
しかし、ソ連の正規軍がやってきても、北朝鮮にいる日本人の受難が終わったわけではない。

◆ケダモノ以下の囚人ロシア兵
「敗戦と同時に北朝鮮に南下してきたロシア兵(ソ連軍)はケダモノ以下でした。当時、日本人は民間人も含め、我々兵士と共に、家を朝鮮人に奪われて、学校や工場などで避難民生活をしていたのですが、ロシア兵は。ヤポンスキー・マダムーダワイ(日本女性はいるか?)と、若い女性を捜し回り、見つければ、その場に押し倒し、集団強姦です。しかも物陰でなどという配慮など一切ありません。当然、目の前で娘や妻が犯されるのですから、父親や夫は止めに入ります。そ
うした場合、即、射殺です。我々兵士も武器を取り上げられており、如何ともしがたく、それはもう地獄絵図でした。だから、顔に泥をなすりつけ、頭を丸刈りにする日本女性もいましたが、奴らの目から逃れるのは難しかったようです。
 この先遣隊は、殺人犯や強盗犯で編成されたいわゆる。”囚人部隊゛だったようで、その後、正規軍が入ってきて、状況は少し改善されました。日本軍もロシア兵も同様ですが、正規軍は厳しい軍律がありますから、民間人に不法な事をしたら軍法会議にかけられ極刑です。だから、人前で強姦するような乱暴なことはしません。とにかく囚人兵レベルの低さといったら……。人相は凶悪そのもの、やることなすこと人間ではないのです。なにしろ日本人の前でズボンをおろして平気な顔で排泄するのですからあきれるばかりです。正規軍のロシア兵は。あいつらは、死ぬ運命にあった死刑囚もたくさんいる。ここまで生きられただけもうけものだ”と吐き捨てるように言いました。まあそれでも、正規軍がきてからは、目にあまる強姦や殺戮が減り、我々日本人が少しは助かったのも事実です……」
 元憲兵伍長・開勇氏は、そこまで一気に語り、大きく息をついた。満洲や朝鮮半島にいた多くの日本兵がソ連に捕えられシベリア抑留となったが、開氏はアルチョム収容所から南の古茂山収容所に送られるため五百キロ歩かされている時に、ソ連軍警備兵の目をかいくぐって必死の脱走を試みて成功したのだが、南下する際、朝鮮人の保安隊に、日本軍の敗残兵と見破られ、再びソ連軍に引き渡されてしまった。下着に所属部隊と名前が書かれていた(戦死した際の認識票代わりに日本兵は皆そうしていた)のが致命的だった。ちなみに当川りの北仙川では、人民似安隊だの特別警備隊と名乗る朝鮮大武装自警団が践厄し、街道に関所のようなものを設け、日本人避難民から通行料だといっては金目のものを強奪したり、日本兵を一人当たり約五十円でソ連軍に売り飛ばしたという。私は三百人の日本兵とともに、再びソ連兵に連行されることになったのですが、その道中でのことです。山道を芋虫のように地べたを這いながらこちらに進んでくる奇妙な人間の姿を日にしました。近付いてみると、両手と膝に草履をひざにも草履をくくりつけ、四つん這いになってそろりそろりと歩む老婆でした。゛おばあさん、どうしたのですか?”と問うと、”息子夫婦は先に逃げたのですが、匿ってもらっていた朝鮮人に家を追い出され、私一人、南鮮へ行くところです。腰が悪いので、こうして進むしかありませんや”と言います。さすがに我々は絶句しました。助けてやりたくても、連行される身の我々にはどうしてやることもできません。
堪り兼ねた兵隊の一人が。”親を捨てて逃げるだなんて”と呟くと、”息子夫婦には私か頼んで逃げてもらったのです。無事に内地に帰ってくれればいいんです。恨んでなんかいません。戦争に負けたのですから゛と言い残し、やがて老婆は見下ろす私たちを後に、南に向かって、そろりそろりと這って行き、私たちも無言のまま北へ歩き出しました。しばらくして思わず後ろを振り返ると、黒い豆粒のようになった老婆が、峠の向こうに消えてゆくのが見えました。涙なんて出ませんが。戦争に負けるとは! 心も死ぬことなのだとつくづく思い、足だけでなく心までずっしりと重くなりました。

◆平壌で三百体の死体処理
 開氏は、北へ向かう行軍の最中、再び脱走を試み、成功。運よく平壌まで逃れた。
「平壌には下平避難民団(関東軍野戦貨物部及び、その指揮部隊家族約八百名)と、横内清津避難民団(下平方面在住者の約二百八十名)の二つの避難民集団がありました。私は清津避難民団に紛れ込みました。
しかし、ここでも十月下旬になると船橋里警察署から。十七歳以上の日本男子はただちに出頭せよ‘と通達がありました。ソ連軍に引き渡され、シベリア送りになるのは当然予測されましたが、男達は皆観念して、警察署に出頭しました。そうしなければ老人や女子供に迷惑がかかるからです。私も。今度こそシベリア送りだ”と覚悟しました。ところが日が暮れ始めた頃。”今日は帰っていい。後日の呼び出しまで待機せよ”といわれ、拍子ぬけしたものです。どうやら、船橋里警察署の署長の奥さんが日本女性で、裏からなんらかの工作をしてくれたようです。あの戦争を生き延びた者は、皆、そうした僥倖(ぎょうこう)に恵まれた者だけです。
 それはともかく、冬の訪れとともに、バタバタと避難民達が死に始めました。劣悪な環境下で栄養失調、腸チフス、アメーバー赤痢、マラリアが蔓延し始めたのです。私は平壌日本人会東平壌支部奉仕葬儀班に参加し、毎日のように死体を大八車に乗せ、十キロ程離れた瀧山共同墓地へと運びました。冬場は雪で轍が凍結し、道がでこぼこでなので、遺体が踊りだします。何しろ遺体をくくりつける紐すら入手困難だったのです。でもそれはまだましでした。春が来て夏が近くなると、遺体の腐乱が速くなり、荷台が揺れるたびにチャポン、チャポンと体液が飛び散り顔や体にかかります。そしてどこからともなく、銀バエがやってきて、我々の周囲を飛び回って離れません。朝鮮人に。日本人、臭いぞ! あっちいけ”と罵られ、石まで投げつけられました。こうした毎日を繰り返していると、人間は少々のことでは動じなくなります。
 しかし、そんな私でも脳裏に焼き付いて離れない遺体がありました。あれはたしか女性の遺体でしたが、死体置き場に行くと、顔全体が筋肉体操でもしているかのように、グリグリと激しく動いているのです。よく見ると、目・耳・鼻・口、穴という穴に巨大な姐が庭いており、その姐が皮膚の下の腐肉を食い荒らしていたのです。それでも、四人の仲間と手足を持って、掛声もろとも遺体を大八車に引き揚げようとしました。その瞬間です。だわだわだわわと尻の穴から赤黒い得体の知れない体液とともに腐った内臓やウジ虫、回虫が滝のように流れ出し、その臭いといったら半端でなく本当に卒倒しそうになりました。
 当然、私もアメーバー赤痢にかかってしまいました。そうはいっても休むことはできません。なにしろ避難所の状況は日に日に悪化してゆきます。死んだ赤ん坊を三日間も抱き続け放心状態の母親、”うどん、うどんはいらんかね~”と、自らの口から吐いた川虫を洗面器にいれて徘徊する気が触れてしまった青年。毎日のように人が死んでゆく光景が日常風景となり心も動かなくなってゆくのです」
 三百体ほど遺体処理をした頃、疲労困信した開氏の様子を見かねた先輩が、ソ連軍将校の集会場となった桜町ホテルを紹介してくれ、そこの住み込みボイラー焚きとなって精神の小康を得たという。
「とはいえ、そこも大変なところでした。日本人の避難民が毎日やってきて、残飯漁りをするのです。もっとも私自身もボイラー焚きの傍ら、肉や魚の骨を誰よりもはやく漁ってしゃぶりついていたのですから浅ましいものです。その頃のことです。
ソ連兵の将校に。日本人女性の家政婦を紹介してくれないか?ぷと頼まれました。。朝鮮人はダメだ。来るたびに必ず、かが無くなる。それも、砂糖一杯とか、じゃがいも一個とかだが、盗まれていると思うと家の中でくつろぐことができない。その点、日本人女性はどんなに貧しくとも、盗むことは決してしない‰その言葉を聞き、私は。戦争に負け、こんな悲惨な状況になっても、日本女性は凛として生きているんだ々と嬉しくなり、何故か故郷の老いた母に無性に会いたくなり、決死の覚悟で釜山を目指しました。どうにか三十八度線にたどりつくと、そこに待ち構えていたソ連兵に、わずかに隠し持っていた時計や地図など、それこそ身ぐるみはがされました。北と西のわずか三、四キロですが、方角もわからず、三日三晩山中を彷徨いました。至るところに死体が転がり、死臭が蔓延していたのを覚えています。
 そして精も根も尽き果てた頃、誰かが。南だ! 漢城(現ソウル)の灯がみえるぞ!と叫びました。ふらつく足で小高い丘に登ると、確かに眼下遥かに街の灯が広かっていました。。助かった! 俺達は助かったんだぞ”避難民達は皆、感極まって泣きました。山を降り、米軍基地の天幕村にはいって、私たちはようやく人間の世界に生還できたのです。釜山から船に乗って博多に復員したのは昭和二十一年九月三日。故郷に帰ると痩せ衰え、死に神のようになった私を抱きしめて、母はさめざめと泣きました。私も泣きました。あの時、再び母にあえてどんなにうれしかったことか、私には生涯忘れられません」。

◆日本人よ、沈黙するな
 その開氏は十年近くかかって仕上げた、一冊の本と分厚いノートと二枚の地図を宝物のように保存していた。ノートには満洲、朝鮮で死亡した軍人千六十八柱の氏名・階級・本籍・処刑場所や自決場所がぎっしりと書きこまれている。自ら政府機関や関連場所を訪ね歩いてまとめたものだという。満洲・朝鮮の二枚の地図には、民間人の死者数がびっしり書き込まれている。その数、満洲・三十五万八千八百人、朝鮮三万四千六百余名。

「気が遠くなるような作業でしたね」と私か問うと、開氏は子供のように照れた笑顔を見せ「無事に復員できた私のせめてもの償いです。この人たちのお陰で、私はいまも生きていられるのですから。最後の使命です」
 開氏にインタビューした数週間あと、私は、(ハルビン、長春、瀋陽、大連と旧満洲の街々を旅した。それらの各都市の抗日記念館には、明らかに握造と思われる写真や蝋人形で、日本軍が悪魔か狂人のように表現されていた。中国共産党が外に敵を作り、国内に不満を封じ込めようとするための施設とはいえ、いかにも常軌を逸したものだった。
 開氏だが冒頭で述べたように、正規の軍人は、たとえソ連兵であっても、民間人に悪魔のような所業は組織だってはしないものなのだ。そんなことを許したら秩序や軍規はバラバラになり、軍としての機能もしないし、敵との戦いもできなくなる。そんなわかりきったことを忘れている日本人がなんと多いことか。
 ベトナム戦争で韓国軍がベトナムに参戦した際、ベトナム人女性を強姦して産まれた混血児が釜山日報によると最少五千人・最大三万人(釜山日報)。又、第二次世界大戦の際、ドイツに侵略したソ連兵に、約半数近くのドイツ人女性が強姦され、そのうち約二〇%の女性から混血児が産まれたという。
 一方、日本軍が駐屯していた東南アジアで現地女性への強姦による日本人の混血児が産まれたという事例はあまり聴いたためしがない。慰安婦制度は、そういった悲劇を防ぐためにも取り入れられたものだった。にも関わらず、″日本軍はアジアの女性約二十万人を性奴隷にした”などといったデマが世界に喧伝されている。
すでにほとんどが鬼籍に入ってしまった日本軍兵士と、性奴隷に既められた慰安婦達、握造された不名誉な歴史を背負わされかねない日本の子供達、彼らの尊厳を守るため、日本人はこれ以上沈黙してはならない。

≪大高未貴≫
一九六九年生まれ。フェリス女学院大学卒業。世界百力国以上を訪問。チベットのダライラマ十四世、台湾の李登輝元総統、世界ウイグル会議総裁ラビアーカーディル女史などにインタビューする。『日韓。円満々断交はいかが? 女性キャスターがみた慰安婦問題の真実』(ワニ新書)、『イスラム国残虐支配の真実』(双葉社)など著書多数。『テレビ・タックル≒ニュース女子』『DHCニュース虎の門テレビ』などに出演している。

教育勅語 (原文)と現代口語訳

教育勅語 (原文)
朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ

我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ
此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス
爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ
博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ
進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ
一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ
是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス
又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所
之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス
朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日
御 名 御 璽
 
現代口語訳
私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。
 そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。
 国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や秩序を守ることは勿論のこと、国家に非常事態発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。
 そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるだけでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。
 このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。
教育勅語の十二徳  
孝行
子は親に孝養をつくしましょう
友愛
兄弟・姉妹は仲良くしましょう
夫婦の和
夫婦はいつも仲むつまじくしましょう
朋友の信
友達はお互いに信じあって付き合いましょう
謙遜
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義勇
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【北海道が危ない 第4部(上・中・下)】

【北海道が危ない 第4部(上・中・下)】2017.2.24
中国、釧路を“北のシンガポール”に 「孔子学院」開設計画、不動産の買収…拠点化へ攻勢

 北海道の東部、太平洋岸に位置し、「釧路湿原」と「阿寒」の2つの国立公園を擁する釧路市は、国際バルク戦略港湾に選定された釧路港や釧路空港を抱え、東北海道(道東)の社会、経済、文化の中心的機能を担っている。
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 この釧路市を昨年5月21日、中国の程永華駐日大使が訪問、7カ月後の12月9日には張小平1等書記官(経済担当)も足を運んだ。張1等書記官は、釧路空港上空まで来たものの降雪のため着陸できず、羽田空港まで引き返したが、即日、釧路に向かっていた。
 大使は蝦名大也釧路市長との会談で、「釧路市が民間・地方外交を積極的に進め、中日関係の改善と発展を後押しするためにさらなる努力をされるよう期待している」とラブコールを送った。
 その後、中国大使としては初めて、中国人らの研修生を受け入れている石炭生産会社、釧路コールマイン本社(釧路市興津)を訪問。「交流を強化し、両国の経済協力に力を注ぎ続けてほしい」と要望した。
 程大使は、平成26年10月に札幌市で行われた北海道日中友好協会創立50周年記念講演でも、「北海道の対中協力には非常に大きな潜在力がある。特に若者が中日友好事業に参加するよう導くことを希望する」と北海道に強い関心を示している。
一方、張1等書記官は、釧路日中友好協会(中村圭佐会長)の28年12月例会で、習近平国家主席が提唱した経済圏構想「一帯一路」に触れ、「中国は北極海航路の試験運用を本格化している。釧路はアジアの玄関口として国際港湾物流拠点としての成長が期待できる」と強調。同月13日付の釧路新聞でも「釧路は北米にも近い。将来は(中略)南のシンガポール、北の釧路といわれるような魅力がある」と語っている。
 1等書記官の訪問にあわせ、中国財界人も釧路市を視察。国際チャーター便の乗り入れや銀聯(ぎんれん)カードの決済店の普及・拡大を求めている。
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 釧路を拠点にしたい、という中国の思いは想像以上に強い。釧路日中友好協会の上見国敏事務局長によると、駐日大使館の重鎮が23年以降、頻繁に釧路を訪ねているといい「釧路に興味があるのは間違いない」と断言する。蝦名市長には大使館関係者から直接、中国政府系の文化機関「孔子学院」開設の打診があり、開設計画が現実的に検討されているという。
 道東は自衛隊の基地も密集する、国防上の要衝でもある。
 釧路市は「中国が北極海航路に関心を持っているのは聞いているが、中国資本が急に活発化したという実感はない」と悠長に構えるが、防衛省関係者らは、「国防面でも経済面でも海洋進出をもくろむ中国がまず、中央突破しなければいけないのは、太平洋に出ること。その拠点として釧路を押さえるのが狙いだ」と分析、「すべて習主席の指示を受けた国家戦略なのは間違いない」と危機感を隠さない。
 危機感を煽(あお)るつもりはない。だが、連載第1部で、新千歳空港近くの高台に、中国人専用の別荘地を開発した家具・インテリア販売会社が、当初、同地に1万人の中国人が住めるよう1千棟の別荘を建設する予定だったことを報告した。この計画を調査した小野寺秀前道議によると、同社は当時、釧路に同規模の別荘を建設する計画を立てていたという。前道議は「なぜ、釧路なのかと疑問を持ったが、今から考えると、釧路を拠点にするという計画は当時からあったのかもしれない」と振り返る。そして釧路市や隣の白糠町で、不動産が買収され中国系の企業が進出していることをあげて、こう話した。
 「すべてがつながっているようだ」

◆学校、産業…浸透する影
 北海道・釧路地方は寒冷地だが積雪が少なく、日照時間も長いことから、メガソーラー(出力が1メガワット以上の太陽光発電所)の稼働に適しているといわれる。
 釧路市役所から国道38号を西に約15分。星が浦地区の工業団地に太陽光パネルが整然と並ぶ。4万平方メートルの敷地に1万200枚のパネル。平成25年3月竣工(しゅんこう)の「星が浦ソーラーウェイ」(出力1・5メガワット)だ。
 同市音別町の音別工業団地でも、1万7500平方メートルの敷地に4680枚のパネルを擁する「音別ソーラーウェイ」が稼働している。2カ所とも、日本アジアグループ(東京)傘下のJAG国際エナジー(同)が、施工・監理業務を手がけた
同グループは、JAG国際エナジーのほか、航空写真の有力会社・国際航業や宮崎ソーラーウェイ、おきなわ証券…など28の企業を抱え、北京など7カ所に海外拠点を置く。グループ設立当時、社長だった中国人が現在も役員に名前を連ね、国際航業の会長を兼務する。北海道での太陽光発電事業は、JAG国際エナジーが6カ所、国際航業が3カ所で展開しており、さらに増える計画だという。
 一方、釧路市愛国では韓国企業が太陽光発電事業に進出している。ホームページによると、この企業は中国とも関係が深く「中国市場でのビジネス機会がいっそう拡大していくことを期待している」としている。
                 
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 釧路市の隣にある白糠町。国道38号沿いに広がる「釧路・白糠工業団地」(308・1ヘクタール)は、釧路空港や釧路西港、釧路駅まで、車で20分圏内にある。その一角に、瀟洒(しょうしゃ)な低層の建物が数棟立っている。札幌市に本社を置く中国系貿易会社の白糠工場だ。ホームページによると、エゾシカ肉の製造販売を行っているという。敷地面積は2万5千平方メートルで、敷地内にはヘリポートもある。
 同町によると、もともとは前橋市の織物会社の絹工場だったが、撤退したため、中国系企業が約2億5千万円で買収した。
 町の担当者によると、いずれは、中国人観光客を呼びレストランなどを経営したいと話していたという。だが、事業内容を確認しようと社長に連絡をとったところ、中国語なまりの日本語で「中国の企業ではない。日本の企業で中国とは全く関係ない」と一気にまくし立てられた。
この工業団地では、業務用食品販売会社が、木質バイオマス発電施設を建設するために1万3千平方メートルの土地を購入している。販売会社は、中国に子会社を持っており、関連会社の農業生産法人は、日高山脈の麓にある平取町豊糠で全農地の半分余りの123万3754平方メートルを買収している。
 計画では今年4月に事業を開始するはずだったが、訪ねてみると、木材は山積みされているものの工事は始まっていない。
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 大使の訪問後、釧路日中友好協会の北京事務所が開設されたほか、釧路では協会などの主催で「『一帯一路』構想と釧路について勉強会」(9月10日)や「釧路の重要性確認のため北京訪問」(9月24日)、「中国経済から見える釧路の未来」(10月13日)…などの行事が行われている。
 中国語教育にも熱が入っており、札幌大孔子学院が集中講座を開いたほか、白糠町では22年度から、小中学校を対象に中国人講師による中国の歴史、文化の紹介に加え、年間10回から15回、中国語教育を取り入れている。
 学校関係者によると、同町では数年前から幼稚園や小中学校の職員室を中国語表記するなど、中国語の掲示も多いという。北海道白糠高校では、毎週月曜日に1年生を対象に中国人講師による中国文化の勉強会を開いていたが、26年度からは中国語を学校設定科目に指定。28年度は、2年生は基礎中国語を、3年生は応用中国語を選択科目に指定しているという。
 中国が拠点と捉えている釧路市とその周辺地域では、水面下で中国の姿が浸透しているのを実感する。
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 長崎県・対馬の不動産が韓国資本に買収されていることが表面化して8年。新たに北海道が中国資本の“標的”となっていることで、自民党や日本維新の会はようやく、外国資本の不動産買収に対する法規制強化に向けて動き出した。だが、中国資本の勢いは衰えていない。改めて、現状を報告する。

【北海道が危ない 第4部(中)】2017.2.25
中国資本の影が忍び寄る「北海道人口1000万人戦略」のワナ “素性”不明の発電所が多数存在…跡地は誰も把握せず

 平成17年5月9日、JR札幌駅近くの札幌第1合同庁舎で、国土交通省と北海道開発局の主催で「夢未来懇談会」なる会合が開かれた。懇談会では通訳や中国語教室などを手がける北海道チャイナワーク(札幌市)の張相律社長が、「北海道人口1000万人戦略」と題して基調講演し、参加者を驚かせた。

 北海道開発局によると、張氏は、今後、世界は「資源無限から資源限界に」「自由競争社会から計画競争社会に」「国家競争から地域競争に」なると分析。北海道は世界の先進地域のモデルになる可能性が高いとし、「北海道の人口を1千万人に増やせる」と提言した。そのための戦略として
(1)農林水産業や建築業を中心に海外から安い労働力を受け入れる
(2)北海道独自の入国管理法を制定し、海外から人を呼び込む
(3)授業料の安いさまざまな大学を設立し、世界から学生を募集する-などの持論を展開した。

 なかでも入管法については、「北海道に限定し、ノービザ観光を実施し、観光客を増やす」「住宅など不動産を購入した裕福な外国人には住民資格を与える」「留学生を積極的に受け入れ、北海道に残る仕組みを作る」「研修制度を廃止し、正式な労働者として労働力を受け入れる」「北海道から日本のほかの地域に行くときは日本の入管法に適応させる」…と、北海道を限定とする具体的な制度見直しを提示した。その上で札幌中華街を建設し、国際都市の先進地域として地位を確立する、などと強調したという。

関係者によると、1千万人のうち200万人は移住者とすべきだと力説したとも言われる。

 本連載の第3部で、「一部中国メディアの間では、北海道は10年後には、中国の第32番目の省になると予想されている」という在日中国人のチャイナウオッチャーの言葉を紹介したが、張氏は昨年、筆者との電話でのやりとりの中で「32番目の省の話は大陸でも言われている」と語った。

 中国資本の動向を検証している複数の専門家の話を総合すると、北海道で中国資本に買収された森林や農地などは推定で7万ヘクタール。山手線の内側の11倍以上の広さにのぼり、うち2、3割は何らかの意図があるという。専門家らは「残りの7、8割の中国人や中国資本の動向にも当然、影響を与える」と危惧する。

 水、電力(太陽光発電、バイオマス発電)、港湾、流通基地…などのライフラインは、中国へ資源を輸出するためだけではなく、道内で中国人集落が自給自足するためにも欠かすことはできない。人口1千万人構想、1万人規模の別荘構想、並行するように展開される不動産買収、そして、駐日大使や1等書記官の来訪。先のチャイナウオッチャーは「中国は北海道を20年前から、沖縄は25年前から狙っていた」という。

 人気コミック「ゴルゴ13シリーズNo.194」に気になる題材が取り上げられている。

 2011年、金融危機にあえぐアイスランドに、中国の投資会社から、全国土の0・3%にあたる3万ヘクタールを買収して、世界最大の人工リゾートゾーンを造るという計画が持ち込まれる。だが、計画は方便だったという設定だ。

(1)土地買収を継続して実効支配し、中国の欧州の拠点にする
(2)中国との間の北極海シーレーンを確保して買収地の一角に中国の貿易拠点を建設する
(3)買収した土地に40万人を移住させ、人民元を流通させ、五星紅旗を掲げ、計画的に中華州を造る
(4)国籍を取得させ、選挙権や被選挙権を取らせる。そして立候補して議席を獲得、議会を押さえる。

 物語では、政府が土地の売買を認めず中国資本は退散したが、投資計画が持ち込まれたのは実際の話だった。報道などによると、現地では当時、政治的、軍事的な分野からさまざまな臆測を呼んだという。

 情報関係者や中国資本の動向を知る道民らは「今、北海道で起きていることに似ている。物語では法律を盾に拒否できたが、北海道の場合は法律がなく、そうはいかない」と、アイスランドケースと重ねあわせた。

 もう少し、中国資本の動向を追うことにする。

 広い北海道で車を走らせると、太陽光発電所の多さに驚く。

 太陽光発電協会(東京)によると、北海道の太陽光発電所の数は、昨年7月現在で、約3万件余り。うち住宅用以外の発電所は約4500件だが、日本の場合、発電所を設置する企業は国籍を問わないため、“素性”は不明だという。経済産業省新エネルギー課でも、国別の統計はないという。

 道内の太陽光発電所の設置企業を個別に調べると、中国資本が関係しているのでは、とみられる太陽光発電所は50件前後。その中の1社は、東京千代田区内に本社を置き、全国規模で太陽光発電ビジネスを展開している。平成21年設立で、代表をはじめ役員は中国人が占める。この企業は25年から28年までに北海道に23件の太陽光発電所を建設、今年2月にも新たに1件稼働させている。

地元紙によると、登別市上登別町のテーマパーク「登別中国庭園・天華園」跡地には、中国系企業が来年6月の稼働を目指し、メガソーラーの建設を計画。関連企業がすでに敷地と周辺林地約70ヘクタールを取得したという。
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 北海道電力によると、発電所用の土地が、どれぐらい買収されているかは、チェック機関がなく不明だという。稼働実態について、同社の担当者は「個別案件については公にできない」としながらも、「事業計画通りに進まないため、需給契約を取り消すケースは多々ある」と話す。1千キロワット以下の発電所については売電しているかどうか分からないという。

 太陽光発電施設の寿命は、平均約20年ともいわれる。20年後、太陽光パネルは廃棄物として処理されるが、跡地はどうなるのか?

 経産省新エネルギー課によると、土地の後利用は企業側が決めるが、「個別の問題なので把握していない」という。

 太陽光発電協会も、実態は分からないが、広大な森林地帯を買い取って伐採したものの発電所を設置していないケースもあるだろうという。こうした土地は何に使われるのか。

 結局、太陽光発電の実態は曖昧な点が多い。

 農地や牧場にも中国資本の影が忍び寄っている。日高山脈の山間に開ける平取町・豊糠地区では、中国と関係が深いとされる業務用食品販売会社の子会社の農業生産法人が、全農地の半分余りの123万3754平方メートルを買収した。この法人は、道内で東京ドーム336個分の土地を取得したという。だが、豊糠地区の農地は今も、非耕作状態が続き、ホームページでは他の農場の実態は分からない。

この業務用食品販売会社も4カ所で太陽光発電所を設置しているが、関係者によると、湧別町でも買収しようとしたが、計画は止まったままだという。小野寺秀前道議は「太陽光発電所も農地も分からないことが多すぎる」と話す。
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 かつて炭鉱の町として知られた夕張市は2月8日、ホテルやスキー場など観光4施設を不動産会社、元大リアルエステート(東京)に2億2千万円で売却する契約を締結。4月1日、現地法人「元大夕張リゾート」に引き渡すという。同社は22年に設立。代表は中国人で、長野県や道内でリゾート開発の経験があるとされる。

 中国系企業への売却について、同市の担当者は、「日本の会社として認識している」と説明。同社は2~3年で100億円を投資し、中国などからの集客で「第二のニセコのようなリゾートを造る」という。

 中国資本がニセコやトマムリゾートなど観光地に進出していることは知られているが、洞爺湖温泉でも、昨年12月、中国企業が経営するホテルがオープン、さらに、日本企業の保養地を買収した中国企業がホテル経営に乗り出すという。

 北海道での中国資本の活動は、規模が大きく盛んになってきている。

 在日中国人のチャイナウオッチャーは、「中国は移民のために、これからもどんどん土地を買っていく」と述べ、「集落を造り、病院や軍隊用の事務所も設置する可能性は高い。太陽光発電はその集落で使え、水源地や農地では、農産物を作れる。北海道の場合、中国人はドンドン増えるから、農産物や水が占領される可能性が高い」と忠告する。

【北海道が危ない 第4部(下)】2017.2.26
日本の領土を国交省が“斡旋”…外国人向けにマニュアル作成 中国資本の不動産買収に“お墨付き”

 国土交通省が、日本国内で外国人が不動産を購入したりアパートを借りたりするなど、不動産取引(売買、管理、賃貸)をする場合、手続きを円滑化する実務マニュアルを作成している。今年度内の実用化を目指しているという。

 訪日外国人や外国人留学生の増加で、外国人による国内不動産の取引が増加していることを受け、さらに取引が順調に行われるようにと、マニュアルを作成して不動産インバウンドへの対応を底上げするのが狙いらしい。

 マニュアルには、不動産取引の手続きや税制などでの日本と海外の違いの解説や本人確認の手法、物件の引き渡し方法、不動産管理-など外国人向けに不動産取引のポイントが盛り込まれている。また、不動産取引の手順や、外国人に説明する際に使える2カ国語のフローチャート、多言語パンフレットへのリンク集、不動産用語の英訳リスト一覧なども備えるという。

 これまで、北海道の森林やゴルフ場、観光施設、土地などが、中国資本に大がかりに買収されている現実を紹介、わが国が今、“経済侵攻”する中国資本と対峙(たいじ)していることを報告してきた。国会でも、ようやく、外国資本の不動産買収に規制を設けようという議論が起きている。

 そういう流れに逆行するように「どんどん買ってください」と言わんばかりにマニュアルを作成して、日本の“領土”である不動産を外国資本に斡旋(あっせん)するような国交省の姿勢には唖然(あぜん)とする。

国交省はマニュアル作成について、「現在、個人レベルの取引が増え、トラブルが起きているため、ルールを作ろうというのが狙い」と説明。「安全保障面での不動産売却は検討すべきで、情報の共有はしている。取引を促進しているものではない。まず立法が本筋だが、(売買が)許されている取引が円滑に進むようにするためで、国防とは別の次元の話」という。

 だが、マニュアルには、日本が国際人権B規約や人種差別撤廃条約に批准・加入していることや、憲法のいう法の下の平等の趣旨は特段の事由がない限り外国人にも類推適用されるという最高裁判決をあげ、外国人であることを理由に取引や賃貸を拒絶することは、「人権に基づく区別や制約となることから人種差別となる」と明示している。条約や憲法は不動産取引という民間の権利関係を直接決めるものではないとしながらも、「外国人を理由に取引や賃貸を拒絶すると、不動産の所有者等が、損害賠償請求を提起される可能性がある」と“脅し”まがいの文言が躍っている。

 マニュアルでは、外国人であることを理由に賃貸借契約を拒否され、損害賠償が認められたケースを数例あげているが、すべて賃貸借の場合だ。外国人による不動産売買について明確な法規制が整備されていないわが国にあって、国交省が外国資本に不動産売買を斡旋するようなマニュアルを作成することに、国を売ることにつながりかねないとの批判も出ている。

諸外国では、外国資本の不動産売却の法規制はどうなっているのか?

 元東京財団上席研究員の平野秀樹氏によると、中国▽ベトナム▽タイ▽インドネシア▽フィリピン▽イスラエル▽イラン▽ナイジェリアは外国人の土地所有は基本的には「不可」だという。インド▽韓国▽シンガポール▽マレーシア▽バングラデシュ▽パキスタン▽サウジアラビア▽トルコ▽ケニア▽コートジボワールは審査・許可・地区限定などの規制付きで可能としているという。国境・海岸部や離島に外国人規制を設けている国もある。
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 米国の場合、包括通商法のなかに「エクソン・フロリオ修正条項」が盛り込まれている。これは、政権内に航空、通信、海運、発電、銀行、保険、地下資源、国防、不動産など、安全保障上懸念のある国内資本の買収案件を審査する外国投資委員会(CFIUS)を置き、大統領に対して、米国の安全保障をそこなう恐れのある取引を停止、または禁止する権限を与えている。

 また、平野氏によると、州法で各州が独自に外国資本の不動産買収を規制しているほか、連邦法の「農業外国投資開示法」は、外国人の土地の取得、移転の際は、90日以内に連邦政府に届けることを義務づけ、怠ったり、虚偽の届けをしたりすると、市場価格の最大25%の罰金を科すと定めている。そのため農務省は、全国から土地情報を収集し、買収した国別の所有面積、増減傾向、地図、州ごとの地目別所有面積などを公表しているという。

韓国にも「外国人土地法」があり、外国人や外国資本が文化財保護区域や生態系保護区域、軍事施設保護区域などを取得する際には、事前の許可が必要であると定めている。

 一方、日本は外国人土地法の第1条で「その外国人・外国法人が属する国が制限している内容と同様の制限を政令によってかけることができる」と定められている。さらに4条では「国防上必要な地区においては、政令によって外国人・外国法人の土地に関する権利の取得を禁止、または条件もしくは制限を付けることができる」としているが、これまで規制する政令が制定されたことはない。

 韓国資本が長崎県・対馬の土地買収などを展開した際、法的効力の有効性が確認されたにすぎず、その後、具体的な検討は行われていない。

 わが国と比べて、諸外国は共通して不動産が買いあさられることの危険性を認識していることが分かる。外国資本による不動産買収に法の網をかぶせている諸外国と比べ、全く法規制をしいていないわが国では、国籍を問わず、だれでも、自由に土地を購入できる。そんな法体制でのマニュアル。「どんどん日本を買ってください」ということにつながるのは目に見えている。
 北海道での外国資本による不動産買収を監視している小野寺秀前北海道議は、「今、世界は難民政策や外国人の受け入れと向き合っている。そういう時期に、外国資本を受け入れるマニュアルを作る意味が分からない。こうしたマニュアルができると、不動産買収にもっと拍車がかかる。外国資本への対応は、法整備の後になされるべきものなのに危険だ。整合性がとれなくなる」と国土交通省の意図を訝(いぶか)る。

 在日のチャイナウオッチャーは「中国は、領土拡大のために数百年かけて静かな侵略を行ってきた。中国人は一度住み着くと、排他的なチャイナタウンをつくる。気がつくと、山も水も電力も中国のものになっているかもしれない」と警告する。

 国家の安全保障は、軍事面だけでなく、食糧面、エネルギー面、流通面、医療面、金融面、対自然災害…と多岐にわたる。中国はその全ての面で日本に攻勢をかけている-ともいえるが、国交省のマニュアルはそうした戦略にお墨付きを与えることになりはしないか。
 (産経新聞 異聞 北の大地 編集委員 宮本雅史)

『炭鉱の真実と栄光-朝鮮人強制連行の虚構』の推薦

 諺に「一犬虚に吠えて万犬実を伝う」とある。一匹の犬がものの影におびえて吠えると他の多くの犬も吠え出す。転じて一人が嘘をつくと、多くの人はそれをよく確かめもしないで事実として語り継いでいくとの謂である。今日歴史教科書にも登場する「朝鮮人強制連行」はその一つである。

 そもそも戦前に「強制連行」という言葉はない。この言葉の初出は昭和40年に出版された朴慶植著の『朝鮮人強制連行の記録』と言われている。平成15年川口外務大臣(当時)は、国会で山谷えり子議員の「強制連行はあったのですか」との質問に対し、「そのような事実はございません。国民徴用令が一時期朝鮮半島に適用されたことがありましたが、それは合法的なものでした。そして大部分が、自由渡航、自由契約でした」と答弁している。即ち、日本政府も強制連行については否定しているのである。

 我が国は昭和13年に国家総動員法が成立し、翌14年に「朝鮮人内地移送計画」が策定された。以後終戦までの約6年間、同計画に基づき、多数の朝鮮人労働者が日本に集団的に渡航した。これを労務動員という。労務動員は形態により自由募集(14年7月~)、斡旋(17年2月~)、徴用(19年9月~20年5月)の三期に分けられるが、いずれも合法的に進められた。国会で議決し国家の法に基づき実施される行為が、どうして今日強制連行のイメージで流布されている人権蹂躙や恐喝、人攫いのような悪逆非道な手段で行なわれるはずがあろうか。もしそれが実行されたならば、連行された被害者の親や家族、地域の住民が黙っているはずはない。逆に朝鮮独立の好機として、民族の誇りと威信をかけて朝鮮人が各地で蜂起し、我が国の朝鮮統治を根底から覆す大事件に発展しているはずである。しかしそのような痕跡は存在しない。

 昭和14年7月から終戦までの約6年間に労務動員で我が国に渡航した者は、66万7千人と記録されている。これだけでも相当な渡航者数である。しかし自由渡航者と言われる人々はそれよりも遥かに多い。労務動員が敷かれる(昭和14年)前に我が国に自分の意思で渡航した者は約80万人、労務動員が敷かれた後も120万人余りの朝鮮人が自由に渡航している。これだけの人々が我が国に渡ってきた背景には、当時朝鮮から見て日本は如何に魅力的であったか、また生活の糧を得る場があったかを証明するものである。もし我が国に辿り着いて、朝鮮人の虐待や迫害、虐殺、強制労働、極端な差別、不当な使役などが行なわれていれば、とても200万人以上の人々が自分の意思で渡航してくることはあり得ない。

 本書(A5版 108頁)は、元炭鉱マンであった著者(佐谷正幸氏)が自らの経験と関係資料を広く渉猟して記したものである。当時、その噂すら耳にしなかった朝鮮人の強制連行、強制労働、虐待、虐殺の話が今日まことしやかに流布され、また戦後の我が国の復興を支えた花形産業であった炭鉱のイメージが「暗い、汚い、危険、きつい」等の最低の産業に貶められたことに、著者を含め当時の炭鉱マンの人々の悲憤が伝わってくる。  

 本書を手にして戴ければ、炭鉱における朝鮮人強制連行の話が如何に歪曲され、捏造されているかが判明する。このような虚構が実話として喧伝され続けることは日韓にとって不幸なことであり、両国の将来に多大な悪影響を及ぼすことは必至である。既にその兆候は顕われ始めている。今は一日も早く真実が多くの人々に解されることを期待したい。
 ご参考までに、本書の「はじめに」と「目次」を掲載する。ご高覧願えれば幸いである。


≪はじめに≫ 
 朝鮮人強制連行については、昭和40年に朝鮮総連の朴慶植氏が著書に書いたことを端を発し、これが次第に蔓延して中学の歴史教科書にまで引用、掲載され、更にこれが虚構であることが判明した後も、平成16年1月の全国大学入試センター試験の世界史で、「日本への強制連行があった」を正解とする問題が出題され、受験生の一人が採点の除外を求める仮処分の命令を申し立て、国会議員団が文部科学省にその不見識を糾弾する事件が起きた。
 一方今、旧産炭地の筑豊地方では、巷の本屋や地方自治体の図書館には、強制連行論作家やその共鳴者による朝鮮人強制連行に関する書籍が溢れ、講演会や記念碑見学会も行われ、新聞やテレビは、これらや強制連行犠牲者追悼のニュースを流し続けている。特に平成12年12月に、在日韓国人のぺ・レソン氏等が飯塚市に納骨式追悼堂「無窮花堂」を建立して以来、新聞は事ある毎に朝鮮人強制連行犠牲者追悼の記事を書きたて、テレビも放映するようになった。又、たまたまこれとほぼ同じ時期の平成12年1月、強制連行論者の武富登巳男、林えいだい両氏の共編で海鳥社より『異郷の炭鉱-三井山野炭鉱強制労働の記録』という極めてセンセーショナルな表題の本が刊行された。
 しかし、戦前は朝鮮人も日本国民であり、自国民に対し、強制連行のような野蛮な行為が果たして行われたであろうか。体制として朝鮮人強制連行がなかったことは、日本政策研究センターの『強制連行はあったのか-朝鮮人・中国人「強制連行」論の虚構』や在日2世から帰化した東京都立大教授・鄭大均著『在日・強制連行の神話』にまとめられており、明らかであり、又元朝鮮総督府警察部長・坪井幸男氏と同地方課長・太子堂経慰氏の対談(正論2003年3月号)でも明らかにされている。更に国の立場としては、平成15年9月、国連における北朝鮮の「800万人強制連行」非難に関し、後に詳述するが川口外務大臣は国会答弁で「強制連行はなかった」と明言している。
 このように、既に体制として強制連行はなく、内地と同じく合法的な戦時労務動員であった事は明白であり、送り出す側の元朝鮮総督府職員も強制連行がなかったことを証言しているが、今度は労務動員を受け入れた筑豊の現場において、果たして強制連行に相当するような受け入れ方をしたのか、強制連行論者がいうような朝鮮人のみを差別する苛酷な強制労働があったのか否か、筑豊で究明し、発信していかなければならない。これは筑豊人に課せられた義務である。
 そこで、先ず内地への労務動員の実態の概要を前記文献『強制連行はあったのか』、『在日・強制連行の神話』、『正論』を中心に整理し、次に筑豊の現場における資料や証言により、朝鮮人の就労状況を究明して行く。
 これまでは、炭鉱に何の寄与もせず、責任も持たない言わば余所者の作家や元教師が朝鮮人強制連行を喧伝し、筑豊と炭鉱を非難してきたが、本稿では戦時中炭鉱で働いた炭鉱マンの証言や炭鉱の資料に基づいて朝鮮人強制連行の虚構を解き明かすものである。特に前述『異郷の炭鉱』については、元三井山野炭鉱マン達の反論の遺稿が見つかったので、これを現場からの証言に加えた。
 この「強制連行」と共に筑豊のイメージを暗くしているのが「炭鉱犠牲者」という言葉であり、あたかも炭鉱が人をあやめる場であるかのように聞こえる。本書はこの2つに光を当て、炭鉱の真実を明らかにせんとするものである。≫

≪目次≫  
 Ⅰ、戦前、戦中の朝鮮人の内地渡航、就労状況
 Ⅱ、朝鮮人強制連行とは
 Ⅲ、就労先における朝鮮人強制連行の虚構究明
 Ⅳ、飯塚市庄司の納骨堂「無窮花堂」建立の経緯と問題点
 Ⅴ、労務動員者遺骨の処理
 Ⅵ、強制連行論の害毒
 Ⅶ、郷土筑豊のイメージアップのために 


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アイヌの保護政策について「旧土人保護法」解説

北海道のアイヌの保護政策について「旧土人保護法」というのがあった。
この保護法については鈴木宗男氏をはじめとする政治家・官僚・メディア等はもちろんのこと一般国民は内容を知らずして「旧土人」という言葉の意味を知らずして国会において満場一致で廃止された。当時は私も内容を知らずしてずいぶんひどい法律があったものだと誤解していた。

先日”「アイヌ先住民族」その真実” 著 的場光昭 展転社を手に入れ、詳しく読んでみて我々は日本政府のアイヌ政策を誤解していると気づいたのだ。
この本は的場氏の力作であり北海道ばかりではなく全国民に是非読んでほしいと思い一部紹介する。

以下引用
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
〈問十五〉 明治政府は具体的にどんなアイヌ保護政策をしたのですか?
答: 明治政府はこ貝してアイヌ保護政策をとり、彼等に対して授産と教化を進めてきましたが、充分な成果は上げられませんでした。それは物々交換経済のアイヌが貨幣経済に馴染めなかったことが最大の理由でした。明治二十四(一八九二)年、道庁が授産指導を廃止すると、彼等は再び耕地を捨て放浪する者が現れ、その結果、彼らの耕作地は、焼酎一本、酒1升で人手にわたり、政府が与えた彼らの生活基盤の多くが失われてしまいました。こうしたアイヌの窮状を救う目的で、明治二十六年、加藤正之助によって第五回帝国議会に北海道土人保護法案が提出、アイヌ自身も代表を送り法案成立を目指して国会に陳情しました。
 この法案がなんら差別的でないことは、「北海道の旧土人即ちアイヌは、同じく帝国の臣民でありながら、北海道の開くるに従って、内地の営業者が北海道の土地に向つて事業を進むるに従ひ、旧土人は優勝劣敗の結果段々と圧迫せられて同じく帝国臣民たるものが、斯の如き困難に陥らしむるのは、即ち一視同仁の聖旨に副はない次第と云ふ所よりして、此の法律を制定して旧土人アイヌも其所を得る様に致し度いと云ふに、外ならぬことでございます」という提案理由からも明らかです。

〈問十六〉旧土人保護法とはどんな法律ですか?
答: 明治三十二年に制定された北海道旧土人保護法は、先に示したその提案理由「北海道の旧土人すなわちアイヌは、同じく日本の国民でありながら、北海道の開拓にしたがって、内地の営業者が北海道の土地に向って事業を進め、旧土人は優勝劣敗の結果段々と圧迫せられて、同じく日本国民でありながら、このような困難に陥ったことは、国民は平等だという天皇陛下のおぼしめしにそぐわない。よってこの法律を制定して旧土人アイヌも幸せに休らせるようにしたいという目的に外ならぬことでございます」からも差別的な法律ではありません。文意を損ねることなく分りやすいように現代語に訳して全文を紹介し、一部解説(※)を加えます。

◆北海道旧土人保護法
 第一条 北海道旧土人で農業をしたいと志す者には一戸につき土地一万五千坪(五町歩:約五ヘクタール)を無償で与える。
   ※無償下付五町歩は民間開拓に下付された面積と同じ、屯田開拓は三町五反でした。
 第二条 前条で与えられた土地の所有権には以下の制限に従うこと。
  一 相続以外は他に譲渡することはできない。
   ※契約に不慣れなアイヌが土地を和人に馴し取られることを防ぐためです。
  二 質権・抵当権・地上権・永小作権は設定できない。
   ※和人に借金のかたとして取られたり、占有されてしまうことを防ぐためです。
  三 北海道庁長官の許可がなければ地役権を設定することはできない。
   ※地役権は他人の土地を自分の土地の便宜のために使用する権利。例えば通路としたり水路を掘ったりすること。
  四 留置権・先取特権の目的とすることはできない。
   ※留置権は借金の返済までその占有をすること。先取権は他の債権者より優先してその所有を主張できること。
    前条で与えられた土地はその年より起算して三十年間は固定資産税と地方税を課さない。また登録税を徴収しない。旧土人で以前より所有した土地は北海道庁長官の許可なく相続以外の譲渡や質権・抵当権・地上権・永小作権・地役権は設定できない。
   ※上記の和人からの保護に加え、三十年間も免税という直接保護政策がなされています。
 第三条 第一条によって与えられた土地でもその年より起算して十五年しても開墾されない部分は没収する。
 第四条 旧土人で貧困の者には農具及び種子を給付する。
 第五条 旧土人で傷病者や病気で自費治療することができぬ者はこれを救済して薬代を支給する。

 第六条 旧土人で怪我・病気・身体障害・老衰・幼少のため自活することができない者は従来の規則により救済するほか、死亡した場合には埋葬料を支給する。
  ※アイヌの生活に関しては特別の配慮がなされていました。
 第七条 旧土人の貧困者の子弟で就学する者には授業料を支給する。
  ※今でいう奨学資金制度です。現在でも道はアイヌ系日本人の子弟に対して特別の奨学資金を出しています。
   アイヌ修学資金一昭和五十七年からの二十五年間で道は九百八十九人に対して二十四億九千百四十一万円を貸付け、二十一億千六百十二万円を減免、さらに返還に応じたのはたった一人百五十九万円でした。年収五百八十五万円以下で返済免除。大学の通信教育の受講生に十四年間で千二百十三万円を貸し付け、返還を免除したという例もあります。私や私の姉兄も皆高校・大学と日本育英会の奨学金を借りましたがちゃんと返済を終えています。開拓農家の四代目である私たち姉弟からすると途方もなく優遇された制度だと思います。
 第八条 第四条と第七条に要する費用は北海道旧土人共有財産の収益をあて、不足のときは国庫より支出する。
  ※旧土人共有財産は明治政府がアイヌ授産のために与えた居留地・農地・漁場など。
 第九条 旧土人の集落のある場所には国庫によって小学校を設置する。
  ※労働力として子弟を家業に使用したり、子守に出して酒代を稼がせたりするアイヌの子弟に学校教育を受けさせるために、学資や弁当を支給したり通学生に対して奨学金を与えたりしました。
  ※マラリアをはじめ疥癬(七・二%)・トラホーム(三(・四%)など風土病や伝染病の罹患率が高く、これを改善するために学校で入浴させたり散髪したりと現場の先生は大変苦労しかことが記録に残っています。
  ※後にアイヌ子弟と和人子弟を分けて教育したことを差別とする向きもありますが、その理由として入学前にある程度家庭で教育されている和人と同列教育できないことや、朝食を遅くとるアイヌ家庭の習慣に合わせて授業開始を遅くする必要、さらには学校での入浴や学用品支給・給食などを考え合わせると同じ課程での授業は困難でした。
 第十条 北海道庁長官は北海道旧土人共有財産を管理する。
    北海道庁長官は内務大臣の認可を経て共有者の利益の為に共有財産の処分をし、必要と認めるときにはその分割を拒むことができる。北海道庁長官の管理する共有財産は北海道庁長官がこれを指定する。

 第十一条 北海道庁長官は北海道旧土人に関しては警察令を廃して、これに二円以上二十五円以下の罰金、若しくは十一日以上二十五日以下の禁固の罰則を与えることができる。
   ※警察令は軽微な犯罪に対しては裁判なしで最寄の警察署長が処罰することができた制度です。
 付則
 第十二条 この法律は明治三十二年四月一日より施行する。
 第十三条 この法律の施行に関する細則は内務大臣がこれを定める。

 いかがでしょうか。差別どころか、アイヌの保護を目的とした法律だったことは明らかです。事実、この法律の成立を願ってアイヌ自身が代表を議会に送り陳情したことは何度記しても強調しすぎることはありません。




韓国の国民性

日本はこれ以上韓国に深入りしないほうが賢明

2016.12.12 ※SAPIO 2017年1月号
空間創造の専門部隊があえてトレンドを無視する理由は[PR]
 韓国の歴代大統領は悲惨な末路を辿り、朴槿恵(パククネ)政権も民衆の怒りで追い込まれ、条件付きの辞意を表明した。ジャーナリストの櫻井よしこ氏と拓殖大学教授の呉善花氏は朴政権スキャンダルの先にある「日本の危機」を指摘する。

* * *
 櫻井よしこ(以下、櫻井):韓国の歴代大統領は退任後、死刑判決や有罪判決を受けたり、自殺に追い込まれたりと、多くが悲惨な末路を迎えました。もちろん権力を利用して私腹を肥やしたにせよ、権力の座を下りたとたんに国民が手の甲を返す。これも韓国の民族性と関係があるのでしょうか?

 呉善花(以下、呉):朝鮮王朝時代に取り入れた朱子学の影響で、若々しく輝いているものには従うけれど、廃れゆくものは穢れたものであり背を向けるという価値観が韓国人にはあります。死は穢れなので、亡くなった人が身につけていたものはすべて燃やします。日本のように形見分けという考え方はありません。

 歴史も同様で、前の政権のものはすべて壊してしまう。だから韓国には歴史的なものがあまり残っていないのです。高麗時代に栄えた仏教の遺跡も朝鮮王朝時代にことごとく破壊されて、発掘で出てくる仏像は壊されたものがほとんどです。

櫻井:中国の易姓革命によく似ていますね。新しくできた王朝が歴史も全部書き換えてしまう。

 呉:そうです。金泳三(キムヨンサム)元大統領は日本的なものはすべて壊すということで、桜の木さえも「日本の匂いがする」という理由で伐採してしまいました。

 櫻井:そうやって歴史の連続性が失われると、どこに立脚点を置くべきかがわからず、自分たちの未来を描けなくなってしまうのではないでしょうか。自分たちが何者なのかがわからない。それで韓国の人たちは本当に幸せなのかと疑問に思います。

 呉:ですから韓国の人は韓国が嫌いなのです。2006年のアンケート調査では「生まれ変わっても韓国人として生まれたいですか?」との質問に「生まれたくない」と答えた人が67.8%もいました。日本の同様の調査では「日本に生まれてよかった」が94%ですから正反対です。

 櫻井:世界は今、劇的な変化の時を迎えています。アメリカが内向きになり、トランプ新大統領はどの国が同盟国なのかの区別さえついていないように見えます。

アメリカが後退した空白に付け入ってくるのが中国であり、ロシアです。私は、韓国は日本やアメリカの側に立たなければ健全な生き残りはできないと考えますが、盧武鉉大統領の元側近で北朝鮮シンパの文在寅(ムンジェイン)氏のような人を大統領に選んだら、韓国は本当になくなる可能性は高い。

 呉:すでにその方向に動いていますね。文在寅氏は北朝鮮と一緒になって、日本やアメリカとは距離を置き、慰安婦問題や徴用工問題でさらに日本を激しく攻撃してくるでしょう。もちろんいずれも「虚構の物語」なのですが……。

 盧武鉉政権は、世界の中心は東アジアに移り、その中央にいる朝鮮民族が世界をリードしていくのだと言っていました。文在寅氏も同じように韓国人の民族主義を煽り、北朝鮮との融和・統一を図っていくと思われます。もちろん中国はその隙を逃さず、朝鮮半島全体を影響下に置こうとするでしょう。

櫻井:まさに日本にとっても最大の危機です。しかし日本がどう対応すればいいのか、できるのかというと、非常に難しいですね。

 呉:いくら日本側が韓国に歩み寄っても、侮日に根ざした反日民族主義は変わることはありません。私は日本はこれ以上、韓国に深入りしないほうが賢明だと思います。

 ●さくらい・よしこ/新潟県長岡市出身。ハワイ州立大学卒業。元日本テレビ「きょうの出来事」キャスター。1995年、『エイズ犯罪 血友病患者の悲劇』で大宅賞受賞。執筆・講演活動を続ける一方、インターネット放送「言論テレビ」を運営中。

 ●オ・ソンファ/1956年韓国済州島生まれ。東京外国語大学大学院修士課程修了。現在、拓殖大学国際学部教授。『「反日韓国」の苦悩』(PHP研究所刊)、『朴槿恵の真実』、『侮日論』(いずれも文春新書)など著書多数。

 

なぜブラジルの国土は大きいのか、 その成り立ちは?

なぜブラジルの国土は大きいのか?   
【南米に横たわる、巨大国家の秘密】 「ワケありな国境 」  彩図社 著 武田知弘 

 世界第5位の面積を持つブラジル。
 ブラジルは、南米の中でも特異な国である。南米の地図を見ると、東(右側)のどてっ腹にブラジルが大きく横だわっているのがわかる。ブラジルだけがひときわ大きい。その面積は南米の半分を占めるほどだ。
 また南米のほとんどの諸国は、主にスペイン語を話すが、ブラジルだけはポルトガル語である。
 南米の中で、なぜブラジルだけがこんなに大きな国土を持つのか?
 なぜブラジルだけがポルトガル語を話すのか?
 そこには、ヨーロッパの中世から近代にかけての複雑な事情が絡んでいる。
 西欧諸国が南米に進出したのは、あの有名なコロンブスがアメリカ大陸に到着してからのことである。
 コロンブスは、もともとジェノバ出身のイタリア人。だが、スペイン女王イサベルの援助を受け、インド航路開拓の航海に出発した。
 結局 コロンブスはインド航路を開拓することができなかった。だが代わりにアメリカ大陸発見の報をもたらす。足がかりを得たスペインは、いち早くアメリカ大陸に進出。
スペインは一躍、大航海時代の主役に躍り出たのである。
 そこに待ったをかけだのが、ポルトガルだった。
 ポルトガルは、スペインと並び立つ大航海時代の雄。アメリカがスペインに独り占めされるのは、面白くない。
 そこで、ローマ教皇に働きかけ、「アメリカ大陸は、スペインとポルトガルの2国で半分ずつ分け合いなさい」というトリデシャス条約という命令を出させたのだ。
 アメリカ大陸の先住民こそいい面の皮である。
 ローマ教皇の一存で、先住民が住んでいる土地を勝手に分割してしまうのだ。聖職者にあるまじき言動のように思われるが、当時のキリスト教徒にとっては、キリスト教を広めることが責務だったので、さして不道徳なこととも思っていなかったのである。
 さて大航海時代は隆盛を誇ったスペイン、ポルトガルだが、近代になってからはだんだんふるわなくなってきた。特に産業革命以降は、完全にイギリス、フランスにおくれを取るようになっていった。
 スペイン、ポルトガルは、冒険心に富んだ国民性。未開の地を発見することにかけては右に出るものはなかったが、未開の地を組織的に開発したり、富を生み出すための細かいシステムを作る作業には向かなかった。
 そのうち、スペインとポルトガルはみるみる凋落し、ポルトガルなどは一時期、イギリスの保護国同然の身分にまで落ち込んだこともあった。
 ヨーロッパでのその力関係は、アメリカ大陸にもそのまま持ち込まれた。
 18世紀、まず北アメリカでイギリスとフランスによる植民地の奪い合いが起こる。
 メキシコだけがなんとかスペインの領土として持ちこたえていたが、19世紀までには他の地域はほぼイギリスとフランスの手に渡ってしまった。
 そして時代は下り19世紀初頭、ヨーロッパでは大変な戦乱が起きる。
 ナポレオンの登場である。
 1807年、ナポレオンはポルトガルに侵攻。ポルトガルの王室は、まだ植民地として持っていた、南米のブラジルに逃げ込んだ。(イギリスにより半ば強制的に疎開させられた)。
 ポルトガル王室は、ナポレオンが敗れる1821年までブラジルに滞在した。そして国王ジョアン6世はポルトガルに戻るとき、皇太子のドン・ペドロを摂政としてブラジルに残していった。
 この皇太子ドン・ペドロが、翌1822年、ブラジルを独立させてしまうのである。この要因は、ドン・ペドロがポルトガルの植民地政策に反発した、ともいわれているが、イギリスの入れ知恵もあったようだ。イギリスは、ブラジルをポルトガルから切り離し、利権を得ようとしたのである。
 ポルトガルとしても、皇太子の国に攻め込むわけにはいかないし、もはや遠くの南米に軍を派遣する力もない。このためブラジルは大した戦乱もなく独立できたわけである。その後、ブラジルは、1889年の革命で共和制に移行している。
 ブラジルは、植民地から共和制国家になるまで手際よくソフトランディングしたために、分裂せずにあのような広大な国ができたといえる。それこそが、あの南米にあって、広大な国土を持つ秘密なのである。
 一方、スペインの植民地はそうはいかなかった。
 南米のスペインの植民地でも、スペインが力を失っていくにしたがって、独立の機運が高まっていった。しかしスペインの植民地では、各地にクリオーリョと呼ばれるボスがいて、それぞれが独立を目指して闘争をした。
 だから、植民地全体が一つの国を作るようなことにはならず、三々五々独立することになった。その結果、南米のスペイン側の植民地は、細切れ状態になり多くの国が生まれたのである。


※正式名称は「ブラジル連邦共和国」。
南米随一の領土を誇り、ロシアを除くヨーロッパ全土よりも大きい。
近年は経済も好調で、新興経済地域「BRICS」の一角を占める。
人口‥約1・9億人
面積‥約851万㎢
首都‥ブラジリア
言語‥ポルトガル語
通貨‥レアル

※「トリデシャス条約」
1949年にスペインとポルトガルの間で締結された「トリデシャス条約」のこと。ローマ教皇アレクサンドル6世が承認した同条約では、ヨーロッパ以外の地球上の大地は北緯46度36分を境に両国で分割することに決められた。

※スペインとポルトガルの凋落
代わって世界史の主役の座についたのが、産業革命を成し遂げたイギリスと、ナポレオン率いるフランスだった。とくに本国が小さいポルトガルの凋落ぶりは甚だしく、植民地が奪われるたびに国力が縮んでいった。

※クリオーリョ
南米生まれのスペイン系住民。富と力を持っていた彼らは本国スペインと対立、独立運動の中心となったが、独立後も国の中心に居座ったため、南米諸国の住民の貧富の差を生んだといわれている。

在日朝鮮人による密入国の歴史

「在日朝鮮人による密入国の歴史」
強制連行という言葉は朝鮮総連の活動家によって作られました

終戦直後(1945年)の日本には、朝鮮人が約200万人いましたが、翌年の(1946年)には60万人にまで減っています。
つまり約140万人はすべて帰国

さらに朝鮮総連は、1959年から帰国運動を大々的にやっており、この際に10万人が朝鮮半島に帰国しました。
しかし、朝鮮半島の経済状況が悪かったこともあり、その後の帰国事業は失敗し、在日が日本に居座るための理由が必要になりました。
そのときに作られた言葉が「強制連行」です。善良な朝鮮人を農作業中にトラックに詰め込み日本に拉致したという作り話です。
この言葉は朝鮮総連活動家の朴慶植が書いた本に出てくる話です。


在日は、強制連行がウソであることが知れ渡ると強制連行とは戦時中の徴用のことであるとひそかに定義を変更し、
トラック連行説との違いを曖昧にするために「強制徴用」という言葉を作り上げました。

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(朝鮮人による密入国事件一覧) ~強制連行のウソ


 「朝鮮人密航」に関する新聞記事・・・ 「密航」の検索結果 1件目から 599件目を表示しています。


・『鮮人内地密航/発見されて説諭』 大阪朝日 1921/7/15 鮮満 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・又も帆船で密航した不逞鮮人四名逮捕さる』 大阪朝日 1922/5/20 〔7/4〕 下関・兵庫 【社会】
・『北鮮から密航の怪鮮人/新羅丸の石炭庫に潜伏/労働者には不似合の所持品が不審』 福岡日日 1922/5/21 〔1/2〕 下関・山口 【渡航】
・『鮮人十名密航』 大阪朝日 1922/7/2 夕 〔2/1〕 下関・山口 【社会】
・『鮮人十名の密航者/京畿丸に潜伏』 京城日報 1922/7/4 〔4/8〕 下関・山口 【渡航】
・『ブロ-カ-の手で密航する鮮人が多い/大部分は山口福岡両県に上陸/北九州一帯では特に警戒を厳にして居る』 九州日報 1923/4/17 〔1/5〕 ・福岡・山口 【渡航】
・『密航鮮人発見(遠賀郡芦屋町)』 門司新報 1923/11/7 〔1/5〕 遠賀郡・福岡 【渡航】
・『内地密航と取締』 大阪朝日 1923/12/6 鮮満 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『鮮人の内地密航に警戒の眼が光る/釜山水上署の取締』 京城日報 1923/12/20 〔2/5〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『発動船で密航/鮮人九名発見』 福岡日日 1924/2/21 〔1/2〕 下関・山口 【渡航】
・『潜入を企つ/立神丸に忍んで(舞鶴~元山定期航路・立神丸で自称島根県人が密航企図。「不逞鮮人」と連絡ある者と見込み取調中)』 大阪朝日 1924/4/20 京附 〔1/9〕 舞鶴・京都 【警備】
・『丗名の鮮人欺されて密航/山口特牛港に』 福岡日日 1924/5/2 〔1/3〕 ・山口 【渡航】
・『五十余名の密航団/難船して露見に及ぶ』 京城日報 1924/5/9 夕 〔2/4〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『鮮人渡来制限撤廃/密航は取締る』 福岡日日 1924/6/7 〔1/7〕 下関・福岡 【渡航】
・『密航の鮮人』 門司新報 1924/7/11 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『極左傾の不逞鮮人が日本へ密行した/手配が廻つて警視庁活動(青山爆弾事件。在ウラジオストクの活動家が日本に密航した形跡があるという朝鮮総督府の打電により活動開始)』 京都日出 1924/8/15 〔〕 東京・東京 【警備】
・『巧妙な鮮人の密航/当局も取締りに悩まさる』 京城日報 1925/5/15 〔3/7〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『鮮人労働者を内地へ密航させる/大仕掛な企て暴露』 京城日報 1925/5/21 〔3/6〕 ・朝鮮 【渡航】
・『四十二名の密航者検挙/第一回の小手調べ/募集人は厳重処分』 京城日報 1925/10/11 夕 〔5/1〕 慶南・朝鮮 【渡航】
・『労働者釣りの悪玉縮み上る/密航者は次第に減少の傾向がある』 京城日報 1925/10/16 〔6/1〕 慶南・朝鮮 【渡航】
・『鮮人丗五六名を乗せた奇怪な密航船来る/白木署に上陸して行衛不明/其筋では頗る重大視(門司市)』 福岡日日 1926/3/12 〔1/3〕 北九州・福岡 【渡航】
・『小発動機船で鮮人の密航団/三十名釜山から門司に上陸し行方を晦す』 大阪毎日 1926/3/14 夕 〔2/5〕 門司・福岡 【渡航】
・『長さ四間の発動機船で/鮮人三十余名密航す/氏名も目的も行先も判らぬ/時節柄厳戒を加ふ』 中国 1926/3/14 〔〕 門司・福岡 【渡航】
・『密航鮮人一部発見さる/小倉駅頭にて(小倉市)』 福岡日日 1926/3/14 〔1/3〕 北九州・福岡 【渡航】
・『鮮人密航団を発見/同勢三十六名の内/十六名を捕へて送還』 中国 1926/3/23 〔〕 下関・山口 【渡航】
・『朝鮮から内地へ/内地から朝鮮へ/虻蜂とらずに終った/密航鮮人団三十余名』 大阪朝日 1926/4/7 朝鮮朝日 〔〕 下関・山口 【渡航】
・『大胆な鮮人団帆船で密航/玄海を横切って鐘崎へ/福岡署に知れて取調らる(宗像郡岬村)』 福岡日日 1926/4/11 夕 〔1/2〕 宗像郡・福岡 【渡航】
・『怪しき汽船に/六十名が潜伏/大規模な密航団が/釜山署の手で逮捕』 大阪朝日 1926/4/13 朝鮮朝日 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航団鮮人取押へらる』 大阪毎日 1926/4/16 〔11/7〕 門司・福岡 【渡航】
・『七十余名の密航船/下関で発見』 京城日報 1926/4/17 〔3/3〕 下関・山口 【渡航】
・『密航鮮人の/乗込船が沈没/海上を漂流中救はれ/四国宇和島に上陸』 大阪朝日 1926/4/17 朝鮮朝日 〔〕 宇和島・愛媛 【渡航】
・『密航者七十余名が/釜山に送還さる/警察で保護を加へ/渡航或は帰郷さす』 大阪朝日 1926/4/20 朝鮮朝日 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『鮮人の密航団/又また津屋崎へ上陸す(宗像郡津屋崎町)』 九州日報 1926/4/21 〔1/5〕 宗像郡・福岡 【渡航】
・『鮮人の密航に/頭を悩ます山口県/悪周旋業者に過られた/哀れな彼らの心情』 大阪朝日 1926/4/24 広島 〔〕 ・山口 【渡航】
・『鮮人の密航続出/行啓を控へた山口県へ/既に三百名に達した』 大阪朝日 1926/4/29 〔5/9〕 下関・山口 【渡航】
・『又も鮮人の密航団/山口へ六十名』 福岡日日 1926/4/29 〔1/2〕 山口・山口 【渡航】
・『六十名の密航団/山口県の北海岸で発見』 京城日報 1926/4/30 夕 〔2/4〕 ・山口 【渡航】
・『鮮人の密航続出/行啓を控へた山口県三百名(東宮行啓を控え県警察部は漫然渡航者を乗船地で阻止しているが、密航を企てる者も増加。近頃も大津郡深川村に60名上陸)』 京都日出 1926/4/30 〔〕 長門・山口 【渡航】
・『大密航バレる』 大阪朝日 1926/5/1 朝鮮朝日 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『鮮人が帆船で渡っても密航でない、つまらぬ取締りをされては思想上面白くないと朝鮮総督府から横槍』 神戸新聞 1926/5/3 〔6/3〕 釜山・朝鮮 【社会】
・『又も糸島に密航団/朝鮮から渡航六十余名(糸島郡芥屋村)』 福岡日日 1926/5/4 〔1/2〕 糸島郡・福岡 【渡航】
・『密航朝鮮人は/既に二百に上る/行啓後に対策を/赤木特高課長の沿岸視察』 大阪朝日 1926/5/5 広島 〔〕 ・山口 【渡航】
・『生き残った/密航者送還/厳原警察から/釜山に向けて』 大阪朝日 1926/5/20 朝鮮朝日 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『二十余名の密航者団逮捕/下関水陸両署活動/時節柄とて重大視す』 中国 1926/5/26 〔〕 下関・山口 【渡航】
・『依然と困る密航者/釜山署の大弱』 大阪朝日 1926/5/28 朝鮮朝日 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『怪しい鮮人密航者/夜陰に乗じ門司海岸に上陸/大部分を取押へ取調中』 神戸新聞 1926/5/29 〔8/4〕 門司・福岡 【社会】
・『大里に又密航団/十九名の鮮人(門司市)』 福岡日日 1926/5/29 〔1/2〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人団逮捕/募集した鮮人男女を/売り飛ばすつもり』 中国 1926/6/6 〔〕 徳山・山口 【渡航】
・『密航者体裸で泳ぐ/鮮人が陸岸目蒐けて/泳ぎ上つた処を引捕ふ(遠賀郡岡垣村)』 福岡日日 1926/6/12 〔1/2〕 遠賀郡・福岡 【渡航】
・『鮮人青年が密航企つ/上海から乗船』 神戸新聞 1926/6/20 〔8/10〕 神戸・兵庫 【社会】
・『戦慄を感じる/あぶない密航/産業の過渡期に立ち/生活に悩む下層鮮人』 大阪朝日 1926/8/14 朝鮮朝日 〔〕 ・朝鮮 【渡航】
・『鮮人密航の/首魁を逮捕/釜山警察署で』 大阪朝日 1926/8/25 朝鮮朝日 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『さても現金な/密航者が絶える/渡航阻止者に対しては/釜山で就職口を周旋(水電工事にも)』 大阪朝日 1926/10/6 朝鮮朝日 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『渡航鮮人の/素質が向上/密航者の群もだんだんと減少』 大阪朝日 1926/11/17 朝鮮朝日 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『朝鮮から五六十名/御大喪に参列さしたい/不逞団の取締は厳重にする/湯浅総監下関で語る(浦塩或は上海方面から密航、十分警戒)』 大阪毎日 1927/1/15 朝鮮 〔9/2〕 下関・山口 【警備】
 ・『警備船で密航者取締』 京城日報 1927/2/24 〔6/3〕 釜山・朝鮮 【渡航】
 ・『三名の鮮人怪漢繋留中の発動船を盗み出す/機関長を脅迫して運転を初め舵を操り沖合に逃げ去る(内地密航鮮人の所為と睨み厳重捜査中)』 大阪毎日 1927/3/2 朝鮮 〔9/3〕 釜山・朝鮮 【窃盗】
 ・『密航鮮人/八十名/北浦海岸に上陸(豊浦郡川棚村)』 大阪朝日 1927/3/3 朝鮮朝日 〔〕 豊浦・山口 【渡航】
・『六十名の密航鮮人/下関吉見海岸に上陸(山口県吉見村)』 九州日報 1927/3/7 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『鮮人丗四名内地へ密航途中暴風にあひ対馬に漂着す』 大阪毎日 1927/3/8 朝鮮 〔9/7〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『怪帆船の中から百名の密航者現はる/下関市外吉見海岸で発見され釜山へ送還さる』 京城日報 1927/3/9 〔7/5〕 下関・山口 【渡航】
・『密航発覚頻々(吉見村)』 大阪毎日 1927/3/11 朝鮮 〔9/8〕 ・山口 【渡航】
・『密航団また捕はる』 京城日報 1927/4/8 夕 〔6/8〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『夜陰に乗じ/密航を企つ/鮮人を発見(五十余名)』 大阪朝日 1927/4/9 朝鮮朝日 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航ブロ-カ-鮮人/取押へらる(糸島郡前原町)』 九州日報 1927/4/15 〔1/5〕 前原・福岡 【犯罪】
・『船底に潜む怪鮮人/密航者と判る』 神戸新聞 1927/4/16 夕 〔2/8〕 敦賀・福井 【社会】
・『密航鮮人/十余名捕る(田の浦海岸)』 大阪朝日 1927/4/20 朝鮮朝日 〔〕 門司・福岡 【渡航】
・『七十名を内地へ密航させんとした四人捕はる』 大阪毎日 1927/4/27 朝鮮 〔10/1〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『<慶尚南道>密航幇助で取調べ』 京城日報 1927/5/10 〔4/9〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人/蘆屋に上陸/目下取調中』 大阪朝日 1927/5/15 朝鮮朝日 〔〕 芦屋・福岡 【渡航】
・『怪機船/密航鮮人の輸送を企つ』 大阪朝日 1927/5/18 朝鮮朝日 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『検挙された富士丸/三回に亘つて密航/犯行を自白す』 京城日報 1927/5/19 〔4/1〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航団を利用し一儲け志願オヂヤン』 京城日報 1927/5/19 〔7/8〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人が/積み帰さる』 大阪朝日 1927/5/20 朝鮮朝日 〔〕 芦屋・福岡 【渡航】
・『密航鮮人少年を/船中で殺害か/伏木入港の鮮海丸の怪事』 北國 1927/7/8 〔5〕 伏木・富山 【社会】
・『三人組の密航詐欺/横浜水上署で検挙す』 京城日報 1927/7/20 夕 〔2/8〕 横浜・神奈川 【渡航】
・『米国の母を尋ねて密航した十四歳の鮮童/新聞売子をして苦学した果/アリゾナ号にて送還さる』 福岡日日 1927/7/30 夕 〔1/2〕 横浜・神奈川 【社会】
・『密航者送還(支那労働者)』 京城日報 1927/8/2 〔5/4〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『慶尚南道/女房に化けて内地へ密航/際どい処で発見さる』 京城日報 1928/1/19 〔4/3〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『三鮮人密航/石炭庫にひそんで』 福岡日日 1928/1/25 夕 〔1/2〕 下関・山口 【渡航】
・『密航鮮人難破し西戸崎で救はる(糟屋郡志賀島村)』 福岡日日 1928/2/19 〔1/3〕 福岡・福岡 【渡航】
・『十一名の密航者送還せらる』 大阪毎日 1928/2/21 朝鮮 〔9/5〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『北日本汽船の「以智丸」が多数の密航鮮人を乗せて神戸に帰る/水上署、厳重取調べの歩を進む』 神戸新聞 1928/3/6 夕 〔2/4〕 神戸・兵庫 【渡航】
・『船長が首謀で鮮人を密航させる/一人から十一円とった/南鮮航路の以智丸』 大阪毎日 1928/3/6 〔7/9〕 神戸・兵庫 【社会】
・『背任罪その他の罪名で三名を司法係りに/以智丸鮮人密航事件』 神戸新聞 1928/3/7 夕 〔2/8〕 神戸・兵庫 【渡航】
・『密航の鮮人(門司市)』 福岡日日 1928/6/29 夕 〔1/2〕 北九州・福岡 【渡航】
・『帆船で内地密航/三十余名の一団で』 京城日報 1928/9/12 〔4/4〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『怪しまれた密航の鮮人/手続不備と判る』 神戸又新日報 1928/9/29 〔5/8〕 神戸・兵庫 【渡航】
・『鮮人の密航/対州からが多い』 福岡日日 1928/10/12 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『支那人の密航を企つ/発動汽船で準備中を/釜山水上署で検挙』 京城日報 1928/10/25 夕 〔2/1〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航を種に/詐欺を働く』 大阪朝日 1928/11/28 西北 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航料三百円/支那人から捲上げる』 京城日報 1928/11/29 〔5/3〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『長崎県(対馬)対州にて密航鮮人/五名発見さる』 福岡日日 1929/1/25 夕 〔1/2〕 ・長崎 【渡航】
 ・『石炭庫内に密航鮮人/横浜から大阪へ』 大阪毎日 1929/1/29 夕 〔2/4〕 大阪・大阪 【社会】
・『密航支那人失敗して送還/草梁からぬけ出し福岡で上陸禁止』 京城日報 1929/1/30 〔7/6〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『怪朝鮮少年/密航成功を申立つ(門司)』 門司新報 1929/3/20 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航して内地見物』 京城日報 1929/3/27 〔4/3〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『二十余名の密航鮮人/西唐津で発見』 福岡日日 1929/4/10 夕 〔1/2〕 唐津・佐賀 【渡航】
・『内地に密航し/送り還さる』 大阪朝日 1929/4/11 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『内地密航を企つ』 大阪朝日 1929/4/11 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『旱害農民の/生血を吸ふ/内地密航の悪周旋業者』 大阪朝日 1929/5/2 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『朝鮮人四十名山口県へ密航/上陸し捕はる』 大阪朝日 1929/5/2 夕 〔2/9〕 豊浦郡・山口 【密航】
・『内地へ密航/張本人捕る』 京城日報 1929/5/3 〔4/4〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『<全羅南道>命懸けの内地密航/無人島に集り帆船で』 京城日報 1929/5/10 〔4/13〕 木浦・朝鮮 【渡航】
・『五十余名内地へ密航/仮泊中捕る』 京城日報 1929/5/13 〔3/4〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『鮮人二十六名内地密航/西戸崎を徘徊(粕屋郡志賀島村)』 門司新報 1929/5/14 〔1/5〕 福岡・福岡 【渡航】
・『内地密航者/卅名送還さる』 大阪朝日 1929/5/17 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『釜山から密航した挙動不審の二鮮人、きのふ長城丸で水上署員に発見/同署で引続き取調中』 神戸新聞 1929/5/28 〔5/8〕 神戸・兵庫 【社会】
・『密航者と/誤られて/福岡県から釜山へ送還さる』 大阪朝日 1929/5/28 南鮮 〔〕 前原・福岡 【渡航】
・『内地官憲と/協力し/朝鮮人の密航を極力ふせぐ』 大阪朝日 1929/6/4 朝鮮朝日 〔〕 ・日本 【渡航】
・『鮮人密航者/十五名上陸/糸島海岸に(糸島郡北崎村)』 九州日報 1929/6/25 〔1/7〕 糸島郡・福岡 【渡航】
・『姪浜海岸に密航鮮人/十八名上る』 福岡日日 1929/6/29 夕 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航専門の怪発動汽船/船長等遂に捕はる』 京城日報 1929/7/8 〔3/4〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『石炭庫の中の密航者二名/新舞鶴で検挙(島谷汽船大成丸で木浦から敦賀へ密航企図)』 大阪朝日 1929/7/11 京版 〔9/7〕 舞鶴・京都 【渡航】
・『密航鮮人廿五名山林に潜伏中を取押へらる(遠賀郡島郷村)』 福岡日日 1929/8/4 夕 〔1/2〕 北九州・福岡 【渡航】
・『鮮人廿五名の密航団押へらる/妙齢の婦人や社会主義青年/遠賀郡下の海岸で(遠賀郡島郷村)』 九州日報 1929/8/5 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人十四五名捕はる/姪浜海岸で』 九州日報 1929/8/12 〔1/7〕 福岡・福岡 【渡航】
・『鮮人十三名密航して捕はる』 福岡日日 1929/8/12 〔1/3〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航者一杯喰ふ』 京城日報 1929/8/31 〔5/1〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航を/企てた一味/十余名検挙』 大阪朝日 1929/8/31 西北 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『内地に密航鮮人検挙』 大阪毎日 1929/8/31 朝鮮 〔9/8〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『内地密航の/帆船が/時化に遭ひ/全部救はる』 大阪朝日 1929/9/12 西北 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『鮮人多数溺死か/内地への密航中遭難す(対馬比田勝沖)』 大阪毎日 1929/9/13 〔7/9〕 上県郡・長崎 【渡航】
・『遭難の/密航者/送り還さる』 大阪朝日 1929/9/14 西北 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人(神戸へ送還)』 大阪毎日 1929/9/28 神毎 〔9/7〕 神戸・兵庫 【社会】
・『密航常習者/出発間際に逮捕』 京城日報 1929/10/5 〔4/2〕 南海郡・朝鮮 【渡航】
・『内地密航に/飛行機/利用せんとして取押へらる』 大阪朝日 1929/10/24 西北 〔〕 慶州・朝鮮 【渡航】
・『強ひて罪人にして鮮人少年を保護さす/複雑な家庭の事情から死出の旅の密航哀話』 大阪朝日 1929/11/21 神版 〔9/6〕 神戸・兵庫 【社会】
・『密航鮮人少年/船で使ってくれと哀願す』 大阪毎日 1929/11/21 神毎 〔9/7〕 神戸・兵庫 【社会】
・『密航鮮人十数名取押へらる(門司市)』 福岡日日 1929/12/25 夕 〔1/2〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航上陸の十三鮮人/それゞゝに斡旋(門司)』 門司新報 1929/12/26 〔1/2〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人十九名西戸崎に上陸し寒さにふるふ(糟屋郡志賀島村)』 福岡日日 1929/12/27 夕 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『関釜連絡船で怪しい鮮人/密航を企て逮捕さる』 大阪毎日 1929/12/29 朝鮮 〔9/8〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『寒風にふるえて鮮人の密航団/叉もブローカーに騙される/発動船で玄海横断(糟屋郡志賀島村)』 福岡日日 1930/1/7 〔1/3〕 福岡・福岡 【渡航】
・『内地渡航を望む鮮人を食物にする不正船員/叉も密航団十二名下関に現る/怪発動船の行方を厳重捜索』 福岡日日 1930/1/8 〔1/2〕 下関・山口 【渡航】
・『密航卅八名逆戻り』 京城日報 1930/1/9 〔4/4〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航船の行方捜査』 京城日報 1930/1/10 〔4/2〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『卅二名の密航団送還』 京城日報 1930/1/11 〔4/8〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『二鮮人の密航』 門司新報 1930/1/12 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『西戸崎に密航鮮人/子供を混つて十数名』 九州日報 1930/2/13 夕 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人団十三名を発見(糟屋郡志賀島村)』 福岡日日 1930/2/13 夕 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人八十八名を逮捕/遠賀郡岡垣村に上陸/炭坑方面に潜入(遠賀郡水巻村)』 福岡日日 1930/3/5 〔1/2〕 遠賀郡・福岡 【渡航】
・『又も鮮人密航/けさ、西公園へ三名』 九州日報 1930/3/19 夕 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『多数の密航鮮人/西公園付近から上陸し三十名は検挙さる』 福岡日日 1930/3/19 夕 〔1/4〕 福岡・福岡 【渡航】
・『又も西戸崎鮮人密航(糟屋郡志賀島村)』 福岡日日 1930/3/24 〔1/3〕 福岡・福岡 【渡航】
・『姪浜にも密航鮮人(早良郡姪浜町)』 福岡日日 1930/3/24 〔1/3〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航超特作/マストの先端に隠る』 京城日報 1930/5/2 〔4/4〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『命がけの密航/関釜連絡船の数十尺の/マストによぢ登り』 大阪朝日 1930/5/2 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『<慶尚南道>生血を吸ふ悪ブローカー/内地密航を種にして近く大々的検挙する』 京城日報 1930/5/3 〔4/9〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『二十八名を密航させて/手数料を取った/三名遂に捕る』 大阪朝日 1930/5/3 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『雑魚寝の密航鮮人/六名門司老松公園に』 九州日報 1930/5/4 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『鮮人九名密航/発動機船に便乗』 門司新報 1930/5/14 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『密航支那人送還(朝鮮の草梁海岸から門司に上陸)』 京城日報 1930/5/20 〔4/4〕 北九州市門司区・福岡 【渡航】
・『密航朝鮮人を/船中で脅迫/所持金を全部巻上ぐ/海賊動揺の密航ブローカー』 大阪朝日 1930/5/21 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『潜航、密航斡旋の首犯原田捕はる/一味の蛭子丸船員も悉く検挙さる』 大阪毎日 1930/5/22 朝鮮 〔9/7〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人発見』 門司新報 1930/6/5 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『密航を企て/大時化に逢ふ』 大阪朝日 1930/6/17 西北 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人泣く/飲まず食はずに』 福岡日日 1930/8/25 〔1/7〕 ・佐賀 【渡航】
・『密航労働者を/脅迫の船長らに/それぞれ懲役を求刑』 大阪朝日 1930/10/16 西北 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航の鮮人/七尾で保護さる』 北國 1930/11/19 夕 〔2〕 七尾市・石川 【渡航】
・『朝鮮人四十三名/内地密航を企つ/漁業会社の船員と詐称/下関入港発見さる』 大阪朝日 1931/2/27 広島 〔〕 下関・山口 【渡航】
・『四十二名の鮮人密航団/鮮魚運搬船へ潜伏/下関署に発見さる(川尻町で漁業従業のため雇入れて来たものと訂正あり、三月一日付け記事)』 中国 1931/2/27 〔〕 下関・山口 【渡航】
・『四十三名の鮮人密航/下関入港の機帆船にて』 門司新報 1931/2/27 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『男女三十九名が/密航詐欺にかかる/犯人は姿を晦ます』 大阪朝日 1931/3/12 南鮮 〔〕 対馬・長崎 【渡航】
・『欺かれた鮮人密航団/四日間玄界灘を漂流し厳原で置き去らる』 大阪朝日 1931/3/19 夕 〔2/7〕 長崎・長崎 【密入国】
・『石炭庫にかくれていた/密航者発見さる/怪しいトランクを所持』 中国 1931/3/25 〔〕 呉・広島 【渡航】
・『丗名の密航者又朝鮮から/花見酒宴中の騒ぎ(糸島郡北崎村)』 福岡日日 1931/3/31 〔1/3〕 糸島郡・福岡 【渡航】
・『四十二名の鮮人密航/中には甘い道行きもある』 門司新報 1931/4/1 〔1/5〕 ・山口 【渡航】
・『密航の朝鮮女に鮮人土工連が暴行/説得する親方等を負傷さす/女房にすると頑張て』 福岡日日 1931/4/10 〔1/3〕 ・佐賀 【社会】
・『朝鮮人の密航団/一人あたり十五円の料金で/三十二人山口県へ』 中国 1931/4/30 〔〕 下関・山口 【渡航】
・『密航鮮人四十名の上陸』 門司新報 1931/5/10 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『丗六名の密航鮮人糸島の北崎海岸に上陸/前原署で取調の上送還(糸島郡北崎村)』 福岡日日 1931/5/17 夕 〔1/2〕 糸島郡・福岡 【渡航】
・『密航の二鮮人』 大阪朝日 1931/5/27 神版 〔9/7〕 神戸・兵庫 【密入国】
・『密航発見さる』 大阪毎日 1931/5/27 神毎 〔9/5〕 神戸・兵庫 【社会】
・『下関署で/密航鮮人/厳重取締る』 大阪朝日 1931/6/13 南鮮 〔〕 下関・山口 【渡航】
・『朝鮮を本拠に密航の周旋/不正の戸籍謄本を所持した男の口から暴露す』 神戸新聞 1931/6/22 〔7/5〕 神戸・兵庫 【社会】
・『全鮮に網を張る密航の大周旋団/内地居住朝鮮人の謄本を盗用/本拠を仁川に置く』 大阪朝日 1931/6/22 神版 〔9/6〕 神戸・兵庫 【密入国】
・『西戸崎に密航鮮人(糟屋郡志賀島村)』 福岡日日 1931/6/24 〔1/3〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航朝鮮人領事館へ自首(在神戸)』 大阪朝日 1931/7/4 神版 〔9/7〕 神戸・兵庫 【密入国】
・『密航鮮人二十三名発見さる(早良郡藤島村)』 福岡日日 1931/7/7 夕 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『廿八名の鮮人若松に密航(若松市)』 福岡日日 1931/8/17 〔1/3〕 北九州・福岡 【渡航】
・『夫恋ひしさに鮮人密航(糸島郡北崎村)』 九州日報 1931/8/18 〔1/7〕 ・福岡 【渡航】
・『鮮人の密航』 福岡日日 1931/8/20 〔1/3〕 福岡・福岡 【渡航】
・『三日不飲不食の密航二人鮮人(門司)』 門司新報 1931/11/22 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『朝鮮人二十三名密航/糸島へ上陸(糸島郡芥屋村)』 九州日報 1931/12/4 〔1/7〕 糸島郡・福岡 【渡航】
・『鮮人内地密航団/釜山に送還さる』 大阪朝日 1932/3/3 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『内地密航団/釜山で検挙』 大阪朝日 1932/3/13 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『五十余名の密航鮮人/北崎と志賀島に』 福岡日日 1932/3/29 夕 〔1/2〕 糸島郡、福岡・福岡 【渡航】
・『朝鮮から十四名発動船で密航/小倉海岸に上陸す(門司)』 門司新報 1932/3/30 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『神天丸に密航者(大阪摂津汽船)』 大阪朝日 1932/4/2 広島 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『密航鮮人二十五名小戸海岸に上陸/九名は行方不明』 福岡日日 1932/4/3 夕 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『又も廿二名の鮮人密航団(門司市)』 福岡日日 1932/4/8 夕 〔1/2〕 北九州・福岡 【渡航】
・『鮮人密航者十五名/門司駅で捕はる(門司)』 門司新報 1932/4/9 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『発動船による/内地への密航/最近またも増加す』 大阪朝日 1932/4/12 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『頓に劇増した鮮人の内地密航/一月以降千名に上らん』 門司新報 1932/4/14 〔1/5〕 ・佐賀 【渡航】
・『朝鮮人の/内地密航/絶滅計画』 大阪朝日 1932/4/26 南鮮 〔〕 ・朝鮮 【渡航】
・『又も戸畑に鮮人の密航/内三名を門司水上署で逮捕(門司)』 門司新報 1932/4/26 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『最近非常に多い鮮人の内地密航/発見護送された者の外潜入した者もかなり多数(門司市)』 福岡日日 1932/5/13 夕 〔1/2〕 北九州・福岡 【渡航】
・『発動船で密航の鮮人十九名/門司市大久保に上陸(門司)』 門司新報 1932/5/13 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『取締上厄介千万な朝鮮人の内地密航/内鮮協力して研究/池田総督府警務局長語る』 福岡日日 1932/5/14 〔1/4〕 下関・山口 【渡航】
・『密航鮮人四十名/豊浦郡へ上陸』 門司新報 1932/5/15 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『四十名の密航鮮人』 福岡日日 1932/5/16 〔1/3〕 ・山口 【渡航】
・『またも密航鮮人/不逞の徒の潜入を警戒し福岡県警察部大緊張(糸島郡福吉村)』 福岡日日 1932/5/25 〔1/3〕 ・福岡 【渡航】
・『八十五名の密航鮮人/門司水陸両署大活動開始(門司)』 門司新報 1932/5/25 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『大仕掛の/密航ブローカー/釜山で検挙される』 大阪朝日 1932/5/28 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人大検挙/昨朝下関両署が』 門司新報 1932/6/3 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『又も密航鮮人十一名神ノ湊海岸に上陸 東郷署に連行取調べ 首謀者二名も逮捕(宗像郡神湊町)』 福岡日日 1932/6/4 夕 〔1/2〕 宗像・福岡 【渡航】
・『五人連の鮮人/丗余名の密航一味と判る(門司市)』 福岡日日 1932/6/5 夕 〔1/2〕 北九州・福岡 【渡航】
・『また下関へ鮮人密航/一部は逃走す』 門司新報 1932/6/11 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『不穏文書を持った密航鮮人/新韓会幹部からの重要指令/下関署色めく(山口県川中村)』 九州日報 1932/6/12 〔1/7〕 下関・山口 【共産主義】
・『密航の検挙から鮮人の陰謀暴露/朝鮮独立運動の不穏文書現れ/下関署異常な緊張』 門司新報 1932/6/12 〔1/5〕 下関・山口 【民族運動】
・『又々九名の密航鮮人(糸島郡野北村)』 福岡日日 1932/6/14 夕 〔1/2〕 糸島郡・福岡 【渡航】
・『密航団三十余名/釜山で検挙/ブローカー二名も取押へ』 大阪朝日 1932/8/7 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『鮮人密航団又も姿を現はす/昨日門司日野海岸に(門司)』 九州日報 1932/8/30 〔1/4〕 北九州・福岡 【渡航】
・『鮮人の密航者/時節柄門水署大活動(門司)』 門司新報 1932/8/30 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『「赤手」防御の陣/但馬海岸を警戒/朝鮮方面の密航者に備ふ/警官十名を増派し』 大阪朝日 1932/10/16 神版 〔1/13〕 城崎郡・兵庫 【警戒】
・『下関方面に続々鮮人密航す/陸軍大演習を前に/愈よ警戒を固む』 福岡日日 1932/11/1 〔1/3〕 下関・山口 【警備】
・『大演習を機に鮮人不穏計画/発動機船で密航下関署に挙らる』 九州日報 1932/11/5 〔1/7〕 下関・山口 【警備】
・『密航鮮人取押表彰(宗像郡津屋崎町)』 福岡日日 1932/11/13 〔1/7〕 宗像郡・福岡 【渡航】
・『労働者の/内地密航/を企て一味検挙さる』 大阪朝日 1933/1/20 南鮮 〔〕 馬山・朝鮮 【渡航】
・『証明書を偽造/鮮人の密航』 門司新報 1933/2/3 〔1/5〕 下関・福岡 【渡航】
・『大規模な内地密航/釜山で捕はる』 大阪毎日 1933/2/5 朝鮮 〔5/7〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人三名発見送還さる/他の一味を捜査中』 福岡日日 1933/2/10 夕 〔1/2〕 下関・福岡 【渡航】
・『密航鮮人の方割れ捕はる/門司水上署員に(門司)』 門司新報 1933/2/10 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『十六名の密航鮮人/五名発見送還される(糸島郡加布里村)』 福岡日日 1933/2/21 夕 〔1/2〕 前原・福岡 【渡航】
・『神ノ湊に密航鮮人/十九名上陸(宗像郡神湊町)』 福岡日日 1933/3/16 〔1/3〕 宗像郡・福岡 【渡航】
・『夜雨を衝いて密航鮮人/大捕物の幕』 福岡日日 1933/3/28 〔1/3〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人三十名/又も糸島へ上陸(糸島郡加布里村)』 福岡日日 1933/3/29 夕 〔1/2〕 前原・福岡 【渡航】
・『密航鮮人送還(糸島郡前原町)』 九州日報 1933/3/30 〔1/7〕 前原・福岡 【犯罪】
・『密航者満載の/怪船捕はる/僅か十五トンの小舟に/密航者六十六名潜伏(福岡へ)』 大阪朝日 1933/4/5 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航を企て難破す』 大阪毎日 1933/4/9 朝鮮 〔5/5〕 浦項・朝鮮 【渡航】
・『警戒網を潜る密航鮮人/門司水上署手配(門司市)』 福岡日日 1933/4/10 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人逮捕』 福岡日日 1933/4/12 〔1/3〕 下関・山口 【渡航】
・『子供も交つて十三名が密航/下関署に一網打尽』 門司新報 1933/4/13 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『朝鮮人の密航周旋/二人共謀して手数料をとる』 大阪毎日 1933/4/17 西部 〔7/13〕 宇部・山口 【渡航】
・『二鮮人密航』 大阪毎日 1933/4/17 西部 〔7/13〕 唐津・佐賀 【渡航】
・『下関にも密航鮮人現はる(山口県川中村)』 九州日報 1933/4/22 夕 〔1/2〕 下関・山口 【渡航】
・『またも鮮人の密航/糸島海岸に上陸(糸島郡芥屋村)』 九州日報 1933/4/22 夕 〔1/2〕 糸島郡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人(糸島郡芥屋村)』 福岡日日 1933/4/22 〔1/3〕 糸島郡・福岡 【渡航】
・『八名の密航/釜山で逮捕』 大阪毎日 1933/4/30 朝鮮 〔5/10〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人十二名』 福岡日日 1933/4/30 〔1/3〕 下関・山口 【渡航】
・『密航鮮人/十一名中一名逮捕』 福岡日日 1933/5/10 〔1/3〕 福岡・福岡 【渡航】
・『廿三名の密航鮮人逮捕』 福岡日日 1933/5/13 〔1/3〕 下関・山口 【渡航】
・『またも密航鮮人/けさ西戸崎にて十五名取押へらる(糟屋郡志賀島村)』 福岡日日 1933/5/24 夕 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『又復密航鮮人』 福岡日日 1933/5/31 〔1/3〕 下関・山口 【渡航】
・『またも密航鮮人(若松市)』 福岡日日 1933/6/7 〔1/3〕 北九州・福岡 【渡航】
・『四十余名の大密航/釜山で検挙』 大阪毎日 1933/6/10 朝鮮 〔5/5〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人四名/吉隈坑で逮捕』 大阪毎日 1933/6/11 西部 〔6/6〕 嘉穂郡桂川町・ 【渡航】
・『鮮人十七名またも密航』 福岡日日 1933/7/11 夕 〔1/2〕 下関・山口 【渡航】
・『鮮人の密航』 門司新報 1933/7/12 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『六百円を盗んで靴の下にかくして密航』 福岡日日 1933/7/16 夕 〔1/2〕 下関・山口 【渡航】
・『密航ブローカー二名検挙さる』 大阪毎日 1933/8/27 朝鮮 〔5/10〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『赤の密航、新潟港で監視』 社会運動通信 1933/9/16 〔2/5〕 新潟・新潟 【治安】
・『十数名の鮮人密航』 福岡日日 1933/10/4 〔1/3〕 下関・山口 【渡航】
・『下関に密航鮮人』 門司新報 1933/11/2 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『釜山から釜山へ/喜劇“内地密航”/一人十五円宛絞られ/馬鹿を見た十一名』 大阪毎日 1933/11/24 朝鮮 〔?/7〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航団三十一名/ブローカー四名も検挙』 大阪朝日 1933/11/28 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人をつんだ怪発動機船(糟屋郡志賀島村)』 福岡日日 1933/12/7 〔1/3〕 福岡・福岡 【渡航】
・『炭坑景気を慕ひ/鮮人密航最近相つぐ(糟屋郡志賀島村)』 福岡日日 1933/12/22 〔1/3〕 福岡・福岡 【渡航】
・『又も密航鮮人』 福岡日日 1933/12/30 〔1/5〕 福岡・福岡 【渡航】
・『 「景気」に釣られた鮮人五十名/密航して捕はれすぐさま送還(宗像郡岬村)』 福岡日日 1934/1/16 〔1/3〕 宗像郡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人の上陸を厳重監視/前原署の取締(糸島郡芥屋村)』 福岡日日 1934/1/19 〔1/3〕 糸島郡・福岡 【警備】
・『三十名中の密航鮮人六名/門司で検挙』 福岡日日 1934/1/26 〔1/3〕 北九州・福岡 【渡航】
・『鮮人の密航/二十二名補る』 九州日報 1934/3/3 〔1/7〕 ・佐賀 【渡航】
・『朝鮮人の密航者/各方面へ潜入/済州島で手数料をとり斡旋/中の四名は検挙さる(岩白石粉工場)』 芸備日日 1934/3/4 〔〕 木江・広島 【渡航】
・『密航珍風景/門司に辿りついた七勇士?』 大阪毎日 1934/3/4 朝鮮 〔5/9〕 北九州市門司区・福岡 【渡航】
・『密航鮮人三名/木ノ江町で発見された(岩白石粉工場)』 中国 1934/3/4 〔〕 木江・広島 【渡航】
・『十円廿円で鮮人に密航周旋/主魁下関署に捕はる』 門司新報 1934/3/20 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『糸島今津海岸に密航鮮人八名(糸島郡今津村)』 福岡日日 1934/3/21 〔1/5〕 福岡・福岡 【渡航】
・『警官も舌を巻いた/新手の密航法/ナンセンス偽狂人』 大阪毎日 1934/3/22 朝鮮 〔5/9〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航の青年、朝鮮から二名』 大阪朝日 1934/3/31 神版 〔4/19〕 神戸・兵庫 【密入国】
・『六十名の密航団/渡航料一人四円づゝ徴収して出帆の間際検挙さる』 大阪毎日 1934/4/1 朝鮮 〔5/6〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『丗余名の鮮人が密航/下関で検挙』 門司新報 1934/4/10 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『宇部に密航鮮人』 九州日報 1934/4/18 〔1/7〕 宇部・山口 【渡航】
・『間一髪/取押へた密航者百名/赤崎半島から内地へ』 大阪朝日 1934/4/18 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『またも下関へ鮮人が密航す』 門司新報 1934/4/18 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『密航首謀者/海中に姿を晦す/寸前警官隊に追はれ/密航料を握ったまま』 大阪朝日 1934/4/20 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航ブローカー/検挙が端緒に/釜山署警官不正事件』 大阪朝日 1934/5/10 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『一人十円で朝鮮人の密航/下関に上陸して発見』 門司新報 1934/5/13 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『密航鮮人か/阿品海岸へ発動船/十数名夜陰に上陸』 中国 1934/5/16 〔〕 廿日市・広島 【渡航】
・『朝鮮の大密航団/広島県特高課と加計署が/検挙に大活動を開始(下山発電所の間組飯場)』 中国 1934/5/18 〔〕 ・広島 【渡航】
・『五十名の密航者/発見され逃走』 大阪毎日 1934/5/24 朝鮮 〔5/8〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『またも鮮人が下関に密航』 門司新報 1934/5/24 〔1/5〕 下関・福岡 【渡航】
・『下関市外に鮮人の密航頻々/六十余名を検挙』 福岡日日 1934/6/2 夕 〔1/2〕 下関・山口 【渡航】
・『一人十円で密航の斡旋/門司で主魁御用(門司)』 門司新報 1934/6/7 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『着流しの朝鮮人/何と堂々と密航/気狂ひを装ふ手もある/“釜山ケ関”の富樫も顔負け』 大阪毎日 1934/6/21 朝鮮 〔5/6〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『五十名の密航団/部落民の応援で遂に逮捕』 大阪朝日 1934/6/26 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航者を世話し航海中に巻上ぐ/恐ろしいブローカー逮捕さる』 大阪毎日 1934/6/27 朝鮮 〔5/6〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『六十余名の/密航団捕る/漕ぎ寄せた密航船長/ブローカーら四名も』 大阪朝日 1934/6/30 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航ブローカー/またも検挙』 大阪朝日 1934/7/5 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『内地人に化け鮮人が密航』 門司新報 1934/7/10 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『密航鮮人六名検挙さる(門司市)』 福岡日日 1934/7/30 夕 〔1/2〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航の鮮人四十名上陸/広島方面に潜入の形跡/門司では二人を逮捕(門司)』 門司新報 1934/7/30 〔1/3〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人上陸』 門司新報 1934/8/2 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『密航者泣かせのブローカの一団/一味十名逮捕さる』 大阪毎日 1934/8/3 朝鮮 〔5/7〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人三十名上陸』 門司新報 1934/8/21 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『密航鮮人発見』 門司新報 1934/8/26 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『臭ひ密航(門司)』 門司新報 1934/8/26 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『八幡へ密航鮮人(八幡)』 門司新報 1934/8/30 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『門司和布刈へ鮮人が密航/門司署憲兵隊で十九名逮捕/逃亡者目下捜査中(門司)』 門司新報 1934/9/2 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航者送還(下関の彦島より)』 大阪朝日 1934/9/28 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『慰問金を割き密航料を払ふ/下関で発見された三十二名連絡船で送還さる』 大阪毎日 1934/9/28 朝鮮 〔5/7〕 下関・朝鮮 【渡航】
・『密航の阻止にブローカー掃蕩/水害罹災者を口車に乗せて絞り取る奸策』 大阪毎日 1934/10/7 朝鮮 〔5/7〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航ブローカー/大征伐に着手/跋扈いよいよ甚だし』 大阪朝日 1934/10/20 南鮮 〔〕 ・朝鮮 【渡航】
・『卅余名密航談/またも捕る』 大阪朝日 1934/10/24 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『月明の海上で密航船捕り物陣/三十余名を逮捕』 大阪毎日 1934/10/25 朝鮮 〔5/8〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『鮮人の密航/志賀島に二十九名上陸(粕屋郡志賀島村)』 九州日報 1934/11/2 〔1/7〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航船転覆し三十余名溺死/三トンの帆船に六十余名/玄界灘闇夜の風浪で』 大阪朝日 1934/11/21 夕 〔2/5〕 釜山・朝鮮 【密航】
・『密航の朝鮮人三十余名溺死/遭難曳船中に沈没』 大阪毎日 1934/11/21 夕 〔2/1〕 釜山・朝鮮 【社会】
・『憧れの内地へ、が生む密航の悲劇/玄海を越える月百名の潜航者/頭を悩ます取締当局』 大阪毎日 1934/11/22 朝鮮 〔5/6〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『広島市を中心に鮮人大量の密航/県特高課、俄然動き/昨夜首魁ら一斉検挙』 芸備日日 1934/11/29 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『無知を利用し/種々な奸策/阻止する当局の眼を逃れて/鮮人密航事件余聞』 芸備日日 1934/11/29 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『朝鮮からの密航者/首魁等百八十名検挙/県特高東西両署特高課/昨夜から今暁への大捕物』 呉日日 1934/11/29 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『首魁遂に捕る/多数を内地に密航させた大掛り鮮人密航団』 神戸又新日報 1934/11/29 〔7/7〕 広島・広島 【渡航】
・『県下に上陸した/多数の密航朝鮮人/下関で借りた発動機船に/百五十名乗せて玖波港へ(大竹海岸埋立工事や可部鉄道工事場)』 大阪朝日 1934/11/29 広島 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『鮮人密航団へ/一斉に大手入れ/広島県警察部が/県下各警察署を督励(大竹海岸埋立工事や可部鉄道工事場)』 中国 1934/11/29 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『汽船を傭ひ切って/鮮人の大密航/金を巻きあげ素裸かにし/トラックで工事場へ売る』 中国日報 1934/11/29 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『鮮人を密航させ濡手に粟の儲け/六名が共謀して広島に多数潜入さす』 福岡日日 1934/11/29 〔1/3〕 ・広島 【渡航】
・『二百名の大量密航/広島県へ鮮人が潜入』 門司新報 1934/11/29 〔1/5〕 ・広島 【渡航】
・『広島県下密航鮮人/引続き検挙/今後徹底的取締り』 芸備日日 1934/11/30 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『密航者の取調/各飯場を捜査(可部線)』 大阪朝日 1934/11/30 広島 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『本県にも張る/密航警戒網/先づ漁業組合と連絡』 大阪朝日 1934/11/30 広島 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『海上にも怖い目/内地密航者を徹底的に取締る/警察網も大に拡充』 大阪毎日 1934/11/30 朝鮮 〔5/3〕 ソウル(京城)・朝鮮 【渡航】
・『全面的検挙は困難/県の密航鮮人狩り/今後は取締りを厳重に』 中国 1934/11/30 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『見張が厳重で/密航者広島へ転向/福岡山口両県へ見切りをつけて/県当局密航防止に大童は』 呉日日 1934/12/1 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『密航鮮人の第二次検挙/更に十三名を発見/可部署は満員すし詰(可部線)』 芸備日日 1934/12/2 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『またまた密航鮮人/十四名を検挙/安佐郡飯室付近で/なほ数十名もゐる(可部線)』 中国 1934/12/2 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『密航鮮人五十数名を/第一次に送還/警官十数名を乗り込ませ/七日に広島港出帆』 中国 1934/12/4 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『密航鮮人の/第二次検挙/更に十三名を発見(可部線工事場)』 中国日報 1934/12/4 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『モダーン留置場/いよいよ店開き/最初のお客さんは密航鮮人(可部線)』 芸備日日 1934/12/5 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『慌てちゃいけない/便器で洗面/モダン留置場に入れられ/大喜びの密航朝鮮人(可部線)』 大阪朝日 1934/12/5 広島 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『県庁留置場へ/いと賑々しく初のお客様/例の鮮人密航団』 中国 1934/12/5 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『密航鮮人五十名/先づ故国へ送還/更に全面的に検挙』 中国日報 1934/12/5 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『門司雨ヶ窪へ密航鮮人上陸/何れも悪船頭に欺されて(門司)』 門司新報 1934/12/5 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航者送還』 大阪朝日 1934/12/7 広島 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『とてもものものしい/密航鮮人の送還/警護の警察官へは/拳銃も携帯さして』 中国 1934/12/7 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『帰りは大っぴらに/ピストル警官隊に護られて/密航鮮人団の送還』 中国 1934/12/8 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『物々しく警戒/密航鮮人送還/拳銃も携帯さして/船内の暴動化をも』 中国日報 1934/12/8 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『内地密航送還さる/高興の五十七名』 大阪毎日 1934/12/11 朝鮮 〔5/10〕 高興・朝鮮 【渡航】
・『鮮人四十名密航/若松に上陸』 九州日報 1934/12/12 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『若松築港へ密航鮮人(若松)』 門司新報 1934/12/12 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『下関市外へ密航鮮人』 門司新報 1934/12/13 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『二度目の密航/香川県の発動船』 大阪朝日 1934/12/16 広島 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『密航鮮人下関市外へ上陸』 門司新報 1934/12/19 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『四十四名の鮮人密航(小倉市)』 福岡日日 1934/12/27 夕 〔1/2〕 北九州・福岡 【渡航】
・『貨物船に隠れて/朝鮮青年の密航/吉浦に入港検閲中に発見/身柄を大阪税関に』 中国日報 1935/1/19 〔〕 呉・広島 【渡航】
・『今津海岸に密航鮮人(糸島郡今津村)』 福岡日日 1935/2/14 〔1/3〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人捕る/頻りに暗躍』 神戸新聞 1935/2/16 〔6/8〕 神戸・兵庫 【社会】
・『又も密航/ブローカー捕る』 大阪毎日 1935/2/28 朝鮮 〔7/9〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『鮮人又も密航』 福岡日日 1935/3/1 夕 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人西公園下に上陸』 福岡日日 1935/3/6 〔1/3〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人/三田尻署へ』 中国 1935/3/10 〔〕 三田尻・山口 【渡航】
・『密航鮮人に/光る鋭い眼/思想的黒幕あるか』 中国日報 1935/3/11 〔〕 広島・広島 【警備】
・『発動機船満載の/密航団捕はる/釜山水陸両署の活動』 大阪朝日 1935/3/20 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『またまた大懸りな/密航鮮人募集計画/検挙に大活動開始』 中国 1935/3/24 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『又も密航鮮人』 福岡日日 1935/3/24 〔1/3〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航の土方(帝国人絹三原工場建設)』 中国 1935/3/25 〔〕 三原・広島 【渡航】
・『大規模な鮮民の/団体密航計画暴露/危機一髪宇品署に検挙さる』 芸備日日 1935/3/27 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『大規模な鮮民の/団体密航計画暴露/危機一髪宇品署に検挙さる/驚くべきその全貌』 中国日報 1935/3/28 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『性懲りなき密航鮮人』 福岡日日 1935/3/28 夕 〔1/2〕 ・福岡、佐賀、長崎 【渡航】
・『三日間一食もせず/密航鮮人丗名芦屋で捕はる(遠賀郡芦屋町)』 福岡日日 1935/3/29 夕 〔1/2〕 遠賀郡・福岡 【渡航】
・『悪ブローカーを厳重に監視/当局の密航者取締』 大阪毎日 1935/4/14 朝鮮 〔5/6〕 ソウル(京城)・朝鮮 【渡航】
・『姪浜小戸海岸に密航鮮人上陸』 福岡日日 1935/4/21 〔1/3〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人』 中国 1935/4/22 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『海のギャング/十四名を密航させる途中短刀を揮ひ裸にす』 大阪朝日 1935/5/1 〔11/8〕 対馬・長崎 【密航】
・『出帆後気づく密航者の取締り/警備船新造を申請』 大阪毎日 1935/6/7 朝鮮 〔5/4〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『警察の名で偽電/鮮人が密航企つ(林田)』 大阪毎日 1935/6/13 神版 〔8/13〕 神戸・兵庫 【密入国】
・『鮮人の密航/門司を徘徊(門司)』 九州日報 1935/6/17 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『映画もどきで密航者を逮捕/豪勢な主謀者』 大阪毎日 1935/7/11 朝鮮 〔5/7〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『六銭で密航』 大阪毎日 1935/7/21 朝鮮 〔5/9〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『糸島海岸に密航鮮人(糸島郡北崎村)』 福岡日日 1935/8/6 〔1/7〕 ・福岡 【渡航】
・『またゝゝ密航鮮人/ 釜山署から門水署へ手配(門司市)』 福岡日日 1935/8/15 夕 〔1/2〕 北九州・福岡 【渡航】
・『他人の戸籍謄本を用ゐて密航/鮮人渡来の裏面に怪しい事情の者が多い』 福岡日日 1935/8/24 〔1/7〕 福岡・福岡 【渡航】
・『廿名の密航鮮人/釜山の密航団本部から九州へ 時節柄重大視さる(門司)』 九州日報 1935/9/7 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人四十数名/下水署に捕はる』 門司新報 1935/10/20 〔1/3〕 下関・山口 【渡航】
・『密航鮮人四十三名/一斉に逮捕(山口県川中村)』 九州日報 1935/10/21 〔1/7〕 下関・山口 【渡航】
・『密航鮮人五十名』 福岡日日 1935/10/22 夕 〔1/2〕 下関・山口 【渡航】
・『鮮人の密航』 九州日報 1935/11/5 〔1/7〕 福岡・福岡 【渡航】
・『「妻が見たい」/哀号・哀号/密航男還さる』 大阪朝日 1935/12/7 広島 〔〕 尾道・広島 【渡航】
・『女房恋しさに密航/貨物船に潜伏中発見』 中国 1935/12/7 広島 〔〕 尾道・広島 【渡航】
・『密航朝鮮人/宇品署の取調べで/大胆な組織判明』 大阪朝日 1936/1/23 広島 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『鮮人密航団発覚/ブローカーが全鮮に散在/宇品署が手配活動』 中国 1936/1/23 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『鮮人の内地密航/又増加の傾向/ブローカーの手で至極巧妙/一名宇品署員に捕る』 呉日日 1936/1/24 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『両県下に潜在する/鮮人の大密航団/陰に踊るブローカーの魔手/宇品署活動を開始』 中国日報 1936/1/24 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『大掛りの密航鮮人/広島県下で発覚』 福岡日日 1936/1/24 夕 〔1/2〕 ・広島 【渡航】
・『小倉に密航鮮人』 九州日報 1936/3/4 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人/門司で五名逮捕(門司)』 九州日報 1936/3/9 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人捕る/大里松原海岸で/七名逮捕十三名逃亡(門司)』 門司新報 1936/3/9 〔1/3〕 北九州・福岡 【渡航】
・『大掛りの鮮人密航/約八十名が上陸四十八名を門司署で補ふ(門司)』 九州日報 1936/3/15 夕 〔1/2〕 北九州・福岡 【渡航】
・『四十七名の密航鮮人門司で捕はる』 福岡日日 1936/3/15 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『厳戒を潜り大挙密航鮮人/和布刈に七十名上陸(門司)』 門司新報 1936/3/15 〔1/3〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人と判る』 福岡日日 1936/3/20 〔1/7〕 ・大分 【渡航】
・『密航朝鮮少年/水上署に保護』 神戸新聞 1936/3/26 〔6/8〕 神戸・兵庫 【社会】
・『大久保海岸に密航鮮人/一名だけ捕る(門司)』 門司新報 1936/4/19 〔1/3〕 北九州・福岡 【渡航】
・『又も密航鮮人』 福岡日日 1936/4/20 〔1/7〕 下関・山口 【渡航】
・『密航者の水先案内/鮮人二名を京で取押ふ(東九条上殿田町、玄海灘の密航船に関与)』 京都日出 1936/4/22 〔〕 京都南区・京都 【渡航】
・『百余名の密航を企つ/発動船を借つて』 大阪毎日 1936/4/25 朝鮮 〔5/9〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人二十七名』 福岡日日 1936/4/25 〔1/7〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人丗名の内四名だけ捕はる/下関署で厳探開始』 門司新報 1936/4/28 〔1/3〕 下関・山口 【渡航】
・『密航鮮人(門司市)』 福岡日日 1936/5/5 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人丗名香椎に上陸/二名は門司で取押へらる(粕屋郡香椎村)』 福岡日日 1936/5/31 夕 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『釜山へ巧みに連絡/密航鮮人の媒介/発動機船の両船長が結託/一人十円乃至十五円で』 中国 1936/6/6 〔〕 下関・山口 【渡航】
・『鮮人密航船/海上で拿捕(門司)』 九州日報 1936/6/7 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『無燈火発動船/果して密航鮮人積載/門司港内で拿捕さる(門司)』 門司新報 1936/6/7 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人取締/関門両水署対策協議』 門司新報 1936/6/9 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『救命ボートに/潜んで密航/はるびん丸の怪青年』 大阪朝日 1936/6/14 広島 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『密航ブローカーは船員の留守宅荒し』 大阪毎日 1936/7/21 朝鮮 〔5/10〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航者検挙』 大阪毎日 1936/7/30 朝鮮 〔5/1〕 釜山(東莱)・朝鮮 【渡航】
・『半島の密航少年/広島駅前で検挙/他にも数名県下へ潜入』 中国 1936/8/14 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『数年間捜し廻つた密航ブローカー/隠れ家で逮捕さる』 大阪毎日 1936/9/13 朝鮮 〔5/5〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人の一味数名/宇品署へ検挙/思想的背景も追及(錦華人絹工事場)』 中国 1936/9/18 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『数年間に二千人世話し一万数千円を捲あぐ/十人の妾をもち住所を転々/密航ブローカーの巨頭、犯行自白』 大阪毎日 1936/9/26 朝鮮 〔5/5〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人又も志賀島へ(糟屋郡志賀島村)』 福岡日日 1936/9/30 夕 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航ブローカーで二万数千円捲あぐ/釜山水上署が検挙』 大阪毎日 1936/10/23 朝鮮 〔5/5〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『鮮人密航ブローカーの一味を捕ふ/思想犯人として手配中の者/宇品署警官に即賞』 芸備日日 1936/10/31 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『朝鮮人密航の/首魁逮捕/宇品署の手柄』 中国 1936/10/31 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『朝鮮から密航』 中国日報 1936/11/1 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『徘徊中の密航鮮人』 門司新報 1936/12/5 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『鮮人の密航周旋発覚』 九州日報 1936/12/18 〔1/7〕 直方・福岡 【渡航】
・『冷雨を衝いて鮮人六十名密航/彦島田ノ首海岸へ上陸』 門司新報 1936/12/23 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『半島人密航団/宇部に上陸か/下関港では二十名位いが上陸/目下厳重行方捜査中』 芸備日日 1936/12/24 〔〕 下関・山口 【渡航】
・『密航鮮人逮捕(若松)』 九州日報 1936/12/26 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人十三名を検挙(若松市)』 福岡日日 1936/12/26 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人(遠賀郡遠賀村)』 九州日報 1936/12/27 〔1/7〕 遠賀郡・福岡 【渡航】
・『下関市外海岸へ/多数の密航鮮人!/正月の手薄に乗じて混れ込み/十二名を逮捕、残る一味厳探』 中国 1937/1/5 〔〕 下関・山口 【渡航】
・『内地密航団八十名検挙/長崎県下で』 大阪毎日 1937/1/7 朝鮮 〔5/10〕 松浦・長崎 【渡航】
・『七十余名の鮮人が密航』 福岡日日 1937/1/9 〔1/7〕 下関・山口 【渡航】
・『密航鮮人の一名/広島で逮捕/盛り場徘徊中宇品署員に』 中国 1937/1/14 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『密航ブローカー一味を検挙/前科数犯の強者のみ』 大阪毎日 1937/1/17 朝鮮 〔5/7〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『門司に密航鮮人(門司)』 九州日報 1937/1/23 夕 〔1/2〕 北九州・福岡 【渡航】
・『大量の密航鮮人/和布刈天ヶ窪に上陸(門司)』 門司新報 1937/1/23 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航を企つ/資産家の息子』 大阪毎日 1937/2/6 朝鮮 〔5/10〕 大邱・朝鮮 【渡航】
・『四十五名の密航鮮人(宗像郡津屋崎村)』 福岡日日 1937/2/24 夕 〔1/2〕 宗像郡・福岡 【渡航】
・『数十名の鮮人を堂々と密航さす/宇部署に十数名引致して極秘裡に取調ぶ』 福岡日日 1937/2/24 〔1/7〕 ・佐賀 【渡航】
・『佐渡航許可証を偽造/密航鮮人に売る/森永巡査懲戒処分に付さる/佐賀県警察界の不祥事』 福岡日日 1937/2/28 夕 〔1/2〕 ・佐賀 【渡航】
・『警官に応援の二人帰途袋叩きに逢ふ/彦島本村鮮人飯場の密航鮮人/下水署で厳重取調べ』 門司新報 1937/3/9 〔1/5〕 下関・山口 【喧嘩】
・『鮮人密航船/門司に上陸(門司)』 九州日報 1937/3/11 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人逮捕/田地を売つてきた農夫たち/田野浦海岸へ上陸(門司)』 門司新報 1937/3/11 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航の半島人/広島で発見/炭鉱生活に耐えず九州から潜入』 中国 1937/3/12 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『密航鮮人捕はる』 福岡日日 1937/3/18 〔1/7〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人(若松市)』 福岡日日 1937/3/24 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航者二名発見』 大阪毎日 1937/3/25 朝鮮 〔5/10〕 上県郡上対馬町・長崎 【渡航】
・『密航鮮人(京都郡行橋町)』 九州日報 1937/3/26 〔1/7〕 行橋・福岡 【渡航】
・『密航船検挙』 大阪毎日 1937/3/30 朝鮮 〔5/5〕 釜山(東莱)・朝鮮 【渡航】
・『深夜の若松へ密航鮮人群上陸/水陸より包囲されその儘逃走(若松)』 門司新報 1937/3/31 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人相手の不良団(門司市)』 福岡日日 1937/4/6 〔1/7〕 北九州・福岡 【社会】
・『密航の癩病鮮人? 三十八名中二十名を検挙/十八名は上陸逃走(門司)』 門司新報 1937/4/6 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『対馬に密航鮮人ブローカー(門司市)』 福岡日日 1937/4/7 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航団検挙』 大阪毎日 1937/4/8 朝鮮 〔5/10〕 釜山(東莱)・朝鮮 【渡航】
・『山に逃込んだ密航鮮人/山狩りして引捕ふ(門司市)』 福岡日日 1937/4/21 夕 〔1/2〕 北九州・福岡 【渡航】
・『喜多久海岸に密航鮮人三十名/天然痘続発の折柄重大視/逃走者を厳重に捜索(門司)』 門司新報 1937/4/21 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『鮮人密航(門司市)』 福岡日日 1937/4/22 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人(小倉)』 九州日報 1937/5/1 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『入学証を購入/新手密航鮮人』 門司新報 1937/5/12 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『密航鮮人一網打尽』 福岡日日 1937/5/20 〔1/7〕 ・山口 【渡航】
・『二組の密航団/一味六十名検挙』 大阪毎日 1937/6/8 朝鮮 〔5/11〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航(江波町埋立工事人夫)』 中国 1937/7/1 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『六十名の密航鮮人/廿名は行方不明(宗像郡岬村)』 福岡日日 1937/8/31 夕 〔1/2〕 ・福岡 【渡航】
・『十八名の密航鮮人/東郷署と折尾署で取押へ(宗像郡岬村)』 福岡日日 1937/9/17 〔1/5〕 ・福岡 【渡航】
・『密航鮮人博多湾へ/十一名捕はる(粕屋郡志賀島村)』 福岡日日 1937/11/2 〔1/5〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人盗む』 福岡日日 1937/11/20 〔1/7〕 福岡・福岡 【社会】
・『大密航団検挙/ブローカー五名と外に六十六名』 大阪毎日 1937/12/18 朝鮮 〔5/9〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人大量送還』 大阪毎日 1937/12/21 朝鮮 〔3/11〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『四百廿余名の密航鮮人/内地へ続々と侵入』 福岡日日 1938/1/30 〔1/2〕 ・福岡 【渡航】
・『鮮人密航団/西戸崎に大挙上陸(粕屋郡志賀島村)』 九州日報 1938/2/17 夕 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『レプラ患者の密航鮮人団/奈多海岸より上陸(粕屋郡和白村)』 福岡日日 1938/2/17 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『鮮人七十二名西戸崎に密航(粕屋郡志賀島村)』 九州日報 1938/3/3 〔1/7〕 福岡・福岡 【渡航】
・『福岡沿岸に密航鮮人頻々/ブローカーと連絡/本年に入つて五百名』 福岡日日 1938/3/3 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『また密航鮮人/西戸崎で六十五名逮捕』 福岡日日 1938/3/3 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人百七十/姪濱小戸海岸に上陸』 九州日報 1938/3/15 〔1/7〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航者送還』 大阪毎日 1938/3/17 朝鮮 〔3/11〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航ブローカー/一味五名を逮捕/風を食つて首魁逃走』 大阪毎日 1938/3/20 朝鮮 〔3/11〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航団検挙/殺人の前科者ら/ブローカー七名を逮捕』 大阪毎日 1938/3/27 朝鮮 〔5/5〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人四十名西戸崎に上陸(粕屋郡志賀島村)』 福岡日日 1938/3/29 〔1/7〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航者に化け密航船を検挙/船上の大活劇』 大阪毎日 1938/4/3 朝鮮 〔5/10〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『四十数名の密航鮮人(粕屋郡和田村)』 九州日報 1938/4/30 夕 〔1/2〕 糟屋郡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人団上陸/トラック運転手の気転で大半は逮捕される(遠賀郡水巻村)』 福岡日日 1938/5/2 〔1/5〕 遠賀郡・福岡 【渡航】
・『密航者送還』 大阪毎日 1938/5/14 朝鮮 〔?/12〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『変装して乗込み/密航一味七十一名を逮捕/海中に飛入るものさへあつて/映画さながらの活劇』 大阪毎日 1938/5/18 朝鮮 〔5/7〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『鮮人の内地密航あの手この手/驚くべき大胆な玄海突破や九ヶ月苦心の方法』 神戸新聞 1938/5/21 〔7/6〕 神戸・兵庫 【社会】
・『半島少年が密航』 大阪毎日 1938/5/21 神版 〔12/13〕 神戸・兵庫 【密入国】
・『意外、密航船は行方不明中の第二照丸と判明/船長らの悪事暴露』 大阪毎日 1938/5/25 朝鮮 〔5/9〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『半島少年仏国への密航を自白』 神戸新聞 1938/5/29 〔7/11〕 神戸・兵庫 【社会】
・『密航一味逮捕』 大阪毎日 1938/6/1 朝鮮 〔?/12〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『警官隊が乗込み密航船内で大格闘/船は沈没、百余名の密航者警備船に救はる』 大阪毎日 1938/6/8 朝鮮 〔5/8〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航ブローカー/大物が殆ど捕はる/大掛りな密航根を断つ?』 大阪毎日 1938/6/10 朝鮮 〔5/6〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『鮮人十五名が小倉へ密航(小倉市)』 福岡日日 1938/7/24 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航団捕る』 大阪毎日 1938/7/30 朝鮮 〔5/12〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人六十名/八幡署に捕る』 九州日報 1938/8/18 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人団四十二名 悉く逮捕さる(宗像郡津屋崎町)』 福岡日日 1938/8/26 〔1/7〕 宗像郡・福岡 【渡航】
・『・こ奴怪しい・六感的中/果して密航半島人!/海田市署の槍玉へ』 中国 1938/9/1 〔〕 海田・広島 【渡航】
・『鮮人百名密航(小倉)』 九州日報 1938/9/9 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航団検挙』 大阪毎日 1938/9/22 朝鮮 〔6/12〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人仲介首魁捕はる/苦心の折尾署に凱歌(門司)』 九州日報 1938/10/14 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人の一味捕はる(門司市)』 福岡日日 1938/10/27 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航船座礁 半島人六十名を乗せた儘/船長は逸早く逃走(若松)』 九州日報 1938/12/5 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人唐津大島に』 福岡日日 1938/12/6 夕 〔1/2〕 唐津・佐賀 【渡航】
・『又も密航鮮人(小倉)』 九州日報 1938/12/13 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航の半島人』 大阪朝日 1938/12/15 広島 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『神湊に密航半島人(宗像郡神湊町)』 九州日報 1938/12/17 〔1/7〕 宗像郡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人丗一名一網打尽に(宗像郡神湊町)』 福岡日日 1938/12/17 〔1/5〕 宗像郡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人上陸を企つ(宗像郡津屋崎町)』 九州日報 1938/12/20 夕 〔1/2〕 宗像郡・福岡 【渡航】
・『津屋崎沖に不敵な密航船/鮮人十八名を逮捕す(宗像郡津屋崎町)』 福岡日日 1938/12/20 〔1/5〕 宗像郡・福岡 【渡航】
・『又も密航鮮人/怪船行方を晦ます』 福岡日日 1938/12/21 〔1/2〕 ・佐賀 【渡航】
・『密航船検挙』 大阪毎日 1938/12/3(?) 朝鮮 〔?/12〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『五百人を密航させ五千円を捲あぐ/密航船坐礁、船長逃走』 大阪毎日 1939/1/21 朝鮮 〔5/9〕 北九州市若松区・福岡 【渡航】
・『持てあます密航鮮人(南田平海岸に208名上陸)』 大阪毎日 1939/1/22 長崎 〔5/12〕 北松浦郡・長崎 【渡航】
・『密航料詐取/袋叩きに廿余名を欺く』 大阪毎日 1939/1/25 朝鮮 〔?/12〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『九十余名の鮮人が密航/五十余名を検挙す(宗像郡岬村)』 福岡日日 1939/2/3 〔1/7〕 ・福岡 【渡航】
・『密航団検挙』 大阪毎日 1939/2/7 朝鮮 〔?/12〕 釜山(東莱)・朝鮮 【渡航】
・『海上時余の猛追撃/鈴なりの密航船捕る(103名)』 大阪毎日 1939/2/11 北九州 〔5/10〕 小倉・福岡 【渡航】
・『五千人を密航さす常習ブローカー(昭和9年ころより5000名)』 大阪毎日 1939/2/11 北九州 〔5/11〕 小倉・福岡 【犯罪】
・『密航半島人二名/倉橋島村で検挙す/発動機船で二十五名潜入/一味検挙に着手』 呉日日 1939/2/12 〔〕 倉橋・広島 【渡航】
・『半島から密航船/倉橋島方面へ出現』 芸備日日 1939/2/13 〔〕 倉橋・広島 【渡航】
・『半島人密航団か/怪機船倉橋島に出没/呉、江田島署が厳重捜査中』 中国日報 1939/2/13 〔〕 倉橋・広島 【渡航】
・『密航鮮人使役/関係者を調ぶ(戸畑市)』 福岡日日 1939/2/13 〔1/7〕 北九州・福岡 【労働】
・『密航半島人/戸畑署で取調べ(60名検束)』 大阪毎日 1939/2/13 全九州 〔5/7〕 戸畑・福岡 【渡航】
・『密航者逮捕』 大阪毎日 1939/3/9 朝鮮 〔5/12〕 釜山(東莱)・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人逮捕(28名)』 大阪毎日 1939/3/15 大分 〔5/12〕 北海部郡・大分 【渡航】
・『密航半島人を検挙/船長以下廿五名を一網打尽/唐津署で連累者取調べ』 大阪毎日 1939/3/18 佐賀 〔5/7〕 唐津・佐賀 【渡航】
・『海上活劇演じ密航発動船拿捕/平戸署殊勲の大捕物(今まで一千余名上陸)』 大阪毎日 1939/4/12 長崎 〔5/10〕 北松浦郡・長崎 【渡航】
・『密航半島人の激増/きのふ五十余名姿を晦す/今春すでに二百五十名(唐津署)』 大阪毎日 1939/4/28 佐賀 〔5/7〕 東松浦郡・佐賀 【渡航】
・『密航者根絶に/五十余名検挙(唐津署)』 大阪毎日 1939/4/30 佐賀 〔5/12〕 東松浦郡・佐賀 【渡航】
・『密航の半島人高鍋署に引致(児湯郡木城村小丸川県営電気工事場人夫)』 大阪毎日 1939/5/6 宮崎 〔5/12〕 高鍋・宮崎 【渡航】
・『密航者丗八名八幡で捕はる(八幡市)』 福岡日日 1939/5/18 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航半島人(糸島郡野北村)』 福岡日日 1939/5/20 〔1/5〕 糸島郡・福岡 【渡航】
・『密航六十名を一人で逮捕/腕きゝの金刑事』 大阪毎日 1939/5/27 朝鮮 〔5/11〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航を仲介/不届きな船長逮捕さる』 大阪毎日 1939/5/31 山口 〔5/11〕 下関・山口 【犯罪】
・『密航半島人遠賀へ十九名(遠賀郡岡垣村)』 福岡日日 1939/6/5 〔1/7〕 遠賀郡・福岡 【渡航】
・『六十名を乗せ密航船漂流/救助、送還さる(比田勝)』 大阪毎日 1939/6/7 朝鮮 〔5/12〕 上県郡対馬町・長崎 【渡航】
・『密航者百廿名送還』 大阪毎日 1939/6/7 朝鮮 〔5/12〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人補る(八幡)』 九州日報 1939/6/10 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『お尋ね者をはじめ/密航ブローカー続々検挙/捜査陣に凱歌あがる』 大阪毎日 1939/6/17 朝鮮 〔5/10〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航はしたけれど/途方に暮れる気の毒な鮮人/今度は逆戻り失敗(兵庫)』 神戸又新日報 1939/6/20 夕 〔2/7〕 神戸・兵庫 【渡航】
・『密航青年を半島へ送還(兵庫協和会)』 大阪毎日 1939/6/20 神版 〔5/13〕 神戸・兵庫 【融和】
・『密航者送還』 大阪毎日 1939/7/8 朝鮮 〔5/12〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『(小型世間)密航が判明し(林田)』 大阪毎日 1939/7/11 神版 〔7/12〕 神戸・兵庫 【密入国】
・『卅五人が密航(宇部市の中原炭坑の労務係から「鮮人稼動者の斡旋を依頼」)』 大阪毎日 1939/7/11 山口 〔5/12〕 宇部・山口 【渡航】
・『前科六犯を持つ密航ブローカー捕はる/若松市で豪遊中を』 大阪毎日 1939/7/18 北九州 〔5/9〕 若松・福岡 【犯罪】
・『大格闘の末密航団逮捕/ブローカー九名とともに』 大阪毎日 1939/7/23 朝鮮 〔5/10〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『又も密航(若松)』 九州日報 1939/8/1 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『半島人密航/豊西海岸(山口)に』 福岡日日 1939/8/2 〔1/7〕 ・山口 【渡航】
・『又も密航』 九州日報 1939/8/4 〔1/7〕 宗像郡・福岡 【渡航】
・『密航ブローカー/麗水で逮捕』 大阪毎日 1939/8/13 朝鮮 〔5/11〕 麗水・朝鮮 【渡航】
・『また密航群』 大阪毎日 1939/9/8 朝鮮 〔5/12〕 馬山・朝鮮 【渡航】
・『又も密航』 九州日報 1939/9/13 夕 〔1/2〕 下関・山口 【渡航】
・『密航(25名)』 大阪毎日 1939/9/15 山口 〔5/12〕 下関・山口 【渡航】
・『団体密航の失敗/半島人職工を内地人に仕立て/出帆間際に捕はる』 大阪毎日 1939/9/16 朝鮮 〔5/7〕 清津・朝鮮 【渡航】
・『八十名が密航/四十余名を捕ふ』 大阪毎日 1939/9/23 山口 〔5/11〕 下関・山口 【渡航】
・『密航半島人大検挙』 九州日報 1939/10/6 夕 〔1/2〕 下関・山口 【渡航】
・『釜山署を舞台にした密航ブローカー/見破られて御用』 大阪毎日 1939/10/14 朝鮮 〔5/10〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航ブローカー廿三名検挙/北釜山署の手入れ』 大阪毎日 1939/10/15 朝鮮 〔5/1〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航団検挙』 大阪毎日 1939/10/25 朝鮮 〔5/12〕 釜山(東莱)・朝鮮 【渡航】
・『大格闘の末/密航親分逮捕』 大阪毎日 1939/10/26 朝鮮 〔5/11〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航者を乗せ出港直前御用』 大阪毎日 1939/10/12(?) 朝鮮 〔?/12〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航団検挙』 大阪毎日 1939/11/1 朝鮮 〔5/10〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航(宗像郡津屋崎町)』 福岡日日 1939/11/5 〔1/5〕 宗像郡・福岡 【渡航】
・『半島人密航五十名』 大阪毎日 1939/11/10 佐賀 〔5/12〕 松浦郡・佐賀 【渡航】
・『密航半島人』 九州日報 1939/11/14 夕 〔1/2〕 下関・山口 【渡航】
・『密航団逮捕』 大阪毎日 1939/11/17 朝鮮 〔5/10〕 釜山(東莱)・朝鮮 【渡航】
・『全面的検挙は困難/県の密航鮮人狩り/今後は取締りを厳重に』 中国 1939/11/30 〔〕 ・広島 【渡航】
・『密航団検挙/釜山港口で』 大阪毎日 1939/12/2 朝鮮 〔5/10〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航団検挙』 大阪毎日 1939/12/8 朝鮮 〔5/12〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航者検挙』 大阪毎日 1939/12/15 朝鮮 〔5/11〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『釜山の強盗が内地へ密航/福岡県下で逮捕』 大阪毎日 1939/12/20 朝鮮 〔5/12〕 甘木・福岡 【渡航】
・『博多に密航』 福岡日日 1939/12/27 〔1/5〕 福岡・福岡 【渡航】
・『百十余名溺死(?)の密航船の正体判明/常習ブローカー阿比留も悪運つく』 大阪毎日 1940/1/8 朝鮮 〔?/1〕 上県郡対馬町・長崎 【渡航】
・『運命をさとり密航の親分激浪中に大金を投出す/兄弟三人とも溺死』 大阪毎日 1940/1/8 朝鮮 〔?/1〕 上県郡対馬町・長崎 【渡航】
・『遭難密航船のその後/まだ死体一個も発見されぬ』 大阪毎日 1940/1/9 朝鮮 〔5/10〕 上県郡対馬町・長崎 【渡航】
・『密航船検挙/神仙台海岸で』 大阪毎日 1940/1/11 朝鮮 〔5/12〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『内地の夫と連絡し/密航の手引き/大胆な女捕はる』 大阪毎日 1940/1/12 朝鮮 〔5/7〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『手荷物の箱詰め人間/密航?の半島人、小倉で発見さる』 大阪毎日 1940/1/14 夕 〔2/5〕 北九州・福岡 【密入国】
・『猟奇!箱詰め密航/釜山の山中で荷造り小倉駅止で発送/頼まれた朴の細工』 大阪毎日 1940/1/14 北九州 〔5/1〕 小倉・福岡 【渡航】
・『猟奇!箱詰め密航/釜山の山中で荷造り/小倉駅止で発送/頼まれた朴の細工』 大阪毎日 1940/1/15 朝鮮 〔5/1〕 小倉・福岡 【渡航】
・『半島人百廿余名乗る/密航船伊万里へ/上陸してが発覚・検挙』 大阪毎日 1940/1/20 佐賀 〔5/9〕 伊万里・佐賀 【渡航】
・『鮮人密航の悪ブローカー退治』 大阪毎日 1940/1/21 佐賀 〔5/10〕 唐津・佐賀 【渡航】
・『箱詰密航結末編/李鶴祚けふ郷里へ』 大阪毎日 1940/1/26 北九州 〔5/10〕 小倉・福岡 【渡航】
・『密航の半島人一網打尽捕る/船長のみ逃走』 大阪毎日 1940/1/31 山口 〔5/11〕 下関・山口 【渡航】
・『朝鮮で雇入れた船員密航者として送還/内地に連れ帰って』 大阪毎日 1940/2/2 大分 〔5/10〕 津久見・大分 【渡航】
・『密航者百余名/一人残らず逮捕/巧みに連絡とつて』 大阪毎日 1940/2/9 朝鮮 〔5/9〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航青年検挙』 中国 1940/2/19 〔〕 ・広島 【渡航】
・『密航団検挙』 大阪毎日 1940/2/27 朝鮮 〔5/11〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『行方捜査中の密航ブローカー自宅で御用』 大阪毎日 1940/3/1 朝鮮 〔?/11〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『約五十回にわたり千名を密航さす/常習の船長ら出帆間際に捕る』 大阪毎日 1940/3/5 朝鮮 〔5/11〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航土工逮捕』 大阪毎日 1940/3/29 長崎 〔5/12〕 佐世保・長崎 【渡航】
・『密航新戦術二つ/一は帰還勇士に化け/一は内地人の息子に』 大阪毎日 1940/3/12(?) 朝鮮 〔?/11〕 下関・山口 【渡航】
・『密航者に化けブローカーを逮捕/船頭姿を晦す』 大阪毎日 1940/4/14 朝鮮 〔?/12〕 釜山(東莱)・朝鮮 【渡航】
・『密航船検挙/お尋ねものも捕はる』 大阪毎日 1940/4/24 朝鮮 〔?/10〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航船逮捕』 大阪毎日 1940/5/3 朝鮮 〔5/9〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航防止の新取締/廿トン未満の船舶による旅客輸送を禁止』 大阪毎日 1940/5/19 朝鮮 〔5/7〕 ・朝鮮 【渡航】
・『密航新取締/最初の違反/人命救助した天神丸』 大阪毎日 1940/5/26 朝鮮 〔5/10〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『公文書を偽造/密航詐欺/四名検挙さる』 大阪毎日 1940/5/30(?) 朝鮮 〔?/12〕 ・朝鮮 【渡航】
・『一警官の篤行に妾狂ひの父が更生/密航少年に絡る佳話』 大阪毎日 1940/6/1 朝鮮 〔5/6〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航手数料を詐取して豪遊/一味釜山署に御用』 大阪毎日 1940/6/21 朝鮮 〔5/12〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人脱走/汽車で護送途中(13名中の1名)』 大阪毎日 1940/6/28 山口 〔5/10〕 下松・山口 【渡航】
・『密航船機関長唐津で捕はる』 大阪毎日 1940/7/2 佐賀 〔5/9〕 唐津・佐賀 【渡航】
・『密航の悪計発覚』 大阪毎日 1940/10/4 朝鮮 〔5/12〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『内地密航に失敗』 大阪毎日 1940/11/? 朝鮮 〔?/12〕 木浦・朝鮮 【渡航】
・『内地密航増加/釜山水上署で厳罰』 大阪毎日 1943/6/15 朝鮮 〔4/9〕 釜山・朝鮮 【渡航】

◆在日朝鮮人の来日の歴史

(国民徴用令)・・・1944年8月8日、国民徴用令の適用を免除されていた朝鮮人にも実施するとした閣議決定がなされる。
朝鮮人の徴用は1944年9月より実施され、1945年8月の終戦までの11ヶ月間実施される。日本本土への朝鮮人徴用労務者の派遣は1945年3月の下関-釜山間の連絡線の運航が止まるまでの7ヵ月間であった。

朝鮮大学校60年の闇 第3部(上・中・下)

【朝鮮大学校60年の闇 第3部(上・中・下)】2016.12.8~10
◆「美濃部知事の英断」誇示 認可見直しに危機感…男女交際の制限も緩和して学生確保に躍起

 「KO KO(ここ)からたしかな未来へ」。11月13日、秋晴れの日曜日。東京都小平市の朝鮮大学校で、創立60周年記念の学園祭が開かれた。掲げたテーマの2つの「KO」は、地元の「小平市」と「コリアユニバシティ」の頭文字から取ったものだ。
 朝大正門脇に警察車両が横付けされたが、朝大関係者の目は光っていない。普段は出入りの監視が厳しい朝大も、この日ばかりはチェックが行き届かないようだ。朝大関係者によると、校舎内は若者や家族連れでにぎわい、焼き肉やビビンバの模擬店が並んだ。民族舞踊や在校生バンドのステージなどのイベントも繰り広げられた。
 これだけなら、日本の大学の学園祭の風景と変わらない。だが、会場内には、お祭りムードにはそぐわない異質な一角があった。60周年記念特別展と銘打った政治宣伝のコーナーだ。
 「ヘイトスピーチ」「民族教育弾圧」「朝鮮学校補助金支給問題」などのパネルを展示。参加者に配布されたパンフレットでは、昭和43年に都知事の美濃部亮吉(りょうきち)(当時)が朝大を各種学校として認可した正当性がアピールされ、「美濃部東京都知事の英断」の大見出しが躍る。
 また、朝大の認可を「朝日友好親善の貴重な結実」とうたい、2千人以上の日本の著名な学者や文化人が当時、認可を求める署名運動に参加した-ともつづっていた。

実は、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)と朝大は最近、こうした主張を懸命に訴えている。現在の知事、小池百合子の都政下で、朝大の認可見直し機運が高まっていることへの強い危機感の表れだ。
 ただ、正当性をアピールする一方で、核・ミサイルで国際社会に恫喝(どうかつ)を繰り返し、反日・反米を訴える北朝鮮の金(キム)正恩(ジョンウン)朝鮮労働党委員長ら一族へ絶対忠誠を誓わせる教育は、現在も何ら変わっていない。実際、学園祭で盛り上がる朝大校舎の片隅にある施錠された部屋では、金一族の肖像画が恭しく飾られていた。これでは学園祭で掲げたスローガン「友好親善」もむなしく響くばかりだ。
□  ■  □
 
 「朝大創立60周年の今年は民族教育跳躍の年だ」
 「(来年4月の入校者は)何としても200人の目標を達成せよ」
 今年2月、朝鮮総連本部が国内で教育合同会議を開いた。朝大は未来の朝鮮総連幹部を輩出する教育機関だ。組織維持のため人材確保が最優先課題となっているため、朝鮮総連本部幹部らは、集まった地方本部・商工会幹部を前に強い口調で指示した。だが、出席者の表情はさえない。

無理もない。日本の高校に相当する全国の朝鮮高級学校から日本の大学へ進学が容易になった昨今、金一族へ忠誠を誓う思想教育を変えず就職も困難な朝大を希望する在校生が集まらない。200人は高いハードルだった。
 朝大学園祭で配布されたパンフレットを読むと、今年4月現在の在校生数は「約600人」とある。約20年前の最盛期の3分の1ほどだ。8学部と研究院などを擁する大学の規模としては少なすぎる。
 とりわけ、来春の進学希望者約500人を対象にした今夏の全国朝高アンケート結果は、朝大関係者にショックを与えた。朝大進学希望者は全体の2割、約100人で、朝鮮総連が掲げた目標の200人の半数にしかならないからだ。
 入校者の減少はそのまま、朝大の財政危機につながる。教職員は現在、最盛期の半数以下で給与は漸減中だ。寄付金も激減した。学園祭のテーマ「たしかな未来」を見据えるのは困難だ。
□  ■  □
 
 危機感を強めた朝鮮総連は朝大入校者確保に向け、硬軟を絡めた一大キャンペーンに乗り出す。「軟」では卒業後の弁護士や税理士への道筋やサッカーやラグビーなどの強豪クラブの魅力を前面に出して入学者を誘うソフト戦略に打って出た。朝大のスカウトが今年7月、全国各地の朝高のサッカー、ラグビー両部の合宿地に赴き、部員に朝大進学を勧めた。

また、以前は厳しかった男女交際やアルバイト、全寮制の在校生の外出制限は近年、大幅に緩和された。ネットの就職サイトに自由に登録できるようになり、日本の大学院への進学者も増えてきた。日本の大学では当然のように享受できるライフスタイルを朝大だけが無視することはできず、ソフト化路線を選択せざるを得なかったのだ。
 それでも、30代の朝大出身男性は「卒業後に強制される朝鮮総連傘下組織に就職しても、まともに給料は払われなかった。いくらソフト化しても、朝大へ行きたがる希望者が少ないのは仕方のないことだ」と顔を曇らせた。
□  ■  □
 
 「硬」の面での締め付けも怠りない。朝高・朝大在校生など若年層の訪朝を積極的に推し進めているのだ。朝高は修学旅行として、朝大では祖国短期研修の名目で訪朝する。朝大の場合、訪朝は長ければ数カ月にも及ぶ。特に祖国研修は思想教育の総仕上げで、感動を呼ぶさまざまな“仕掛け”が用意されている。
 「少女だけの高射砲部隊を訪問したんです。けなげな姿を見て、僕も祖国(北朝鮮)を守るんだ、という気にさせられた」
 「教育実習先の子供が純粋なんですよ。貧しいけれど社会主義建設のために頑張っているんです。私も『祖国はここなんだ』と泣いてしまった。金一族崇拝とは次元が違う感覚でした」
 祖国研修を終えた朝大出身者が、自らの情動を介した思想教育の魅力を目を輝かせて熱心に語っていたのが印象的だった。
 ソフト化路線で入校者をかき集める一方、訪朝を通じて北朝鮮に盲従する姿勢や思想をたたき込む-。朝大は泥縄式ともいえる二極策で延命を画策している。
 (敬称略)

  在校生の減少に歯止めがかからない朝大。生き残りをかけて、もがく実像に迫る

◆朝鮮総連と一体…不適正運営、是正できぬ都

 東京都は昭和43年、知事の美濃部亮吉(りょうきち)の下で政府の慎重姿勢を押し切り、半ば強引な形で朝鮮大学校(東京都小平市)を各種学校として認可した。朝大に各種税制優遇措置が施される発端となった。
 認可した都は、朝大の運営に目を光らせなくてはならない立場であるにもかかわらず、実は不適正な運営を放置している。朝大の財産管理の問題点を把握しながらも3年以上、ずっと是正できずにいるのだ。朝大が都を軽んじているともいえる。
 きっかけは、都が平成25年11月にまとめた「朝鮮学校調査報告書」だ。
 都内で朝大を設置・運営する東京朝鮮学園の教育や財務実態を調べ上げ、学園が「朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)と密接な関係にあり、教育内容や学校運営について強い影響を受ける状況にある」と認定。
 さらに「朝鮮総連関係団体に経済的便宜を図るなど、朝鮮学園は準学校法人として不適正な財産の管理・運用を行っている」と断じた。つまり、朝鮮総連のために朝大の資産を使うことを「不適正」と認定したのだ。
 都は、学園が小平市にある朝大のグラウンドを朝鮮総連関連企業の債務のため、担保に入れていたことを調査中の同年9月ごろに把握。慌てた都は、すぐに学園側に抵当権の抹消を求めた。調査途中での都による是正要請は、調査報告書で朝大側が問題点を指摘されないようにするための「事前の配慮」と受け取られかねない。

ただ、こうした都の配慮を無視するかのように学園は25~26年、グラウンドを分割して相次ぎ売却。売却益のほとんどを関連企業の債務返済のため活用してしまった。
 学園は都の是正要請を無視し、関連企業の借金を肩代わりしたことになる。朝鮮総連と朝大が一心同体なのは明白だった。
 27年11月、関連企業から朝大への返済を促したい都担当者と、学園の幹部が都庁内でひざを交えた。
 「この状況は是正されなくてはならない」
 「情報があれば都に提供する」
 のれんに腕押しだ。以来、是正されないまま1年が経過し、都が有効打を放てないでいる。
□  ■  □
 
 朝大の用地取得の経緯についても疑問がつきまとう。
 産経新聞が都から入手した『朝鮮大学校設置認可申請書』(昭和42年8月25日付、申請者・東京朝鮮学園)に、朝大が建つ小平市のキャンパス(約5万5千平方メートル)の土地が、そもそも共立産業が地主から譲り受けたものだったとする登記記録が見つかった。
 当時の地主らは共立産業が「トランジスタラジオ工場を建設する」と言いはやしたので、土地を売った。だが、結局、共立産業はダミー会社にすぎず、完成した建物に北朝鮮国旗が翻っているのを見て住民は仰天した。でたらめだったのだ。

だまし討ちともみなされる手法で土地取得にこぎ着けた朝大では平成11年、在校生の女性暴行容疑で、新潟県警によって教育現場にはあるまじき家宅捜索が行われている。さらに今年2月、同大の元経営学部副学部長が詐欺容疑で警視庁公安部に逮捕された。公安当局は北朝鮮から直接指令を受けた元副学部長が韓国での工作活動に関わったとみて事件化に踏み切ったが、東京地検は起訴猶予とした。
 たとえ、多くの在校生が日本人との友好親善を願っても、北朝鮮と朝鮮総連に盲従していれば近隣住民の目には“物騒な隣人”としか映らないだろう。都は朝大の認可の適否を早急に検証する必要性に迫られている。(敬称略)

◆エリートこそ独善に嫌気、衰退に歯止めかからず…「朝鮮総連と手を切らねば」
 「英語を使う仕事がしたい。世界へ出たいんです」

 「『したい』と『しなければならない』は違う。個人の夢よりも在日朝鮮人全体のことを考えろ」

 日本の高校に相当する朝鮮高級学校に朝鮮大学校在校生が泊まり込みで訪問する恒例の「進路指導合宿」の一幕だ。優秀な朝高生に目を付け、朝大進学を熱心に働きかけるのが目的だ。

 進路指導を受けた朝大人文系学部出身の30代の男性は「生徒同士で相互批判させて、最後は『朝大へ行く』と言わざるを得ないように仕向けてゆく。今思うと怖いことでした」と振り返る。

 男性は朝大で在日本朝鮮青年同盟(朝青)朝大委員会で役員も務め、エリートコースを歩んだ。朝青は、在校生ら約1万人が会員の青年組織で、金正恩朝鮮労働党委員長崇拝の思想教育が施される。結局、男性は日本の大学院進学を希望したが、説得されて在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)傘下の在日本朝鮮留学生同盟(留学同)の専従職員に甘んじた。

 留学同は日本の大学に在籍する在日朝鮮人を誘い、親北思想に染めていくのが仕事だ。しかし、「朝鮮文化を伝える活動は楽しかった。でも、僕には金一族の偉大性はどうしても教えられなかった」と本音を漏らす。

一方、政経学部出身の40代の男性は朝高時代、パチンコの不正操作で荒稼ぎし、けんかや飲酒に明け暮れた。ただ、学校の成績は抜群に良かった。進路指導が始まる高2の終わり、地元の朝鮮総連地方本部員から喫茶店に呼び出された。
 「『組織委託』をして組織で仕事をしないか」
 「いや僕は日本の大学へ行きたいのです」
 「大学なら働いた後に朝大へ行けばいい」
 「組織委託」とは、朝鮮総連に進路を全面的に委ねることを意味する。2、3年、朝鮮総連内の組織で働き、学費免除の「朝大給費生」となれば朝鮮総連幹部としてのエリートコースが約束される。

 だが、組織に必要以上に縛られたくなかった男性は申し出を断り、一般の朝大生として進学。卒業後、組織に残ったが、運営資金をめぐる幹部の不正に嫌気が差し、今は朝鮮総連とは距離を置いている。

 ただ、朝大や朝鮮学校への愛着だけは消えない。男性はこう断言する。

 「どんな悪でも、差別を受けても朝鮮学校に行けば『居場所』があった。学校だけは何とか残したい。そのためには朝鮮総連と手を切らねばならない」

□  ■  □

 朝鮮総連関係者によると、北朝鮮の初代権力者、金日成は朝鮮革命成就のため、拠点を北、世界、南(韓国)の3つに分類。在日朝鮮人を「南で革命を起こす一員」と位置づけ、日本人拉致を含むさまざまな工作を行った。だが、在日朝鮮人が3世、4世となった現在、革命に向けた貢献意識など、もはや皆無に等しい。その乖離を朝鮮総連や朝大は理解しないから、朝大の衰退に歯止めがかけられないのだ。

リ・ナナのペンネームで朝鮮学校時代の体験を綴る女性は、関西の朝高で学業優秀者や朝鮮総連幹部の子弟しか入れない「熱誠者学習班」のメンバーに選ばれながら、朝大へ進学しなかった。どうしても米国の大学へ行きたかったからだ。

 それでも朝鮮総連との関係は切れなかった。米国から帰国して日本の大学へ編入した際、留学同へ誘われた。「半ば自動的に加入させられた。ネットワークの力には抗えなかった」

 「ハングルを教える」と言って学生を誘い込み、親北思想を植え付ける-。そんな留学同の活動に嫌気が差したナナの心は、次第に朝鮮総連から離れていった。

 産経新聞の取材に応じた男性OBやナナは、朝鮮総連を頂点とする在日社会のエリート候補として活躍が期待されていたのに、いずれも組織に幻滅していった。彼らが離れざるを得なかった朝鮮総連と朝大の独善に衰退の根本原因があるようだ。(敬称略)

 この企画は喜多由浩、比護義則が担当しました。

イスラム国の蛮行で暴かれる「韓国が知られたくない恥史」

 【野口裕之の軍事情勢】
 イスラム過激武装集団《イスラム国》と韓国が、小欄の頭の中で混ざり合った。両者に共通するのは「民主主義とは異質な法治体系」の他「歴史への常軌を逸した執着」ではないか。片や歴史を遡り、現代の主権国家枠を否定。片や歴史を遡り、主権を捏造し人権否定を覆い隠す。と、考えを整理していた1月23日、イスラム国の蛮行がきっかけで、日韓併合(1910年)の正統性や、百ウン十万と報じられてもいる韓国政府が行った自国民大虐殺など、「韓国が知られたくない哀史/恥史」へと筆を走らせる仕儀と成った。

 ■独立認めなかった米国

 1月23日。イスラム国が拘束したジャーナリスト、後藤健二氏(47)のご母堂(78)は会見で、父親が日韓併合時代、朝鮮・馬山(マサン)に駐屯した大日本帝國陸軍の部隊長だった旨示唆した。調べると、朝鮮軍管区の馬山駐屯直轄部隊指揮官(中佐)がご母堂と同姓だったが、追加取材はしなかった。小欄の興味は、会見が誘った朝鮮軍管区を通して思い出した「韓国の哀しい生い立ち」にある。

 大日本帝國は1945年8月15日、大東亜戦争(1941~45年)敗戦を国民に知らせた。無政府状態を憂う朝鮮総督府は《朝鮮建国準備委員会》設置を比較的冷静・公平に対処できる朝鮮人指導者に要請した。ソ聯軍侵攻→朝鮮人政治・思想犯の釈放・流出→朝鮮共産化→日本人への掠奪・暴行…が想定され、朝鮮人釈放や治安維持への協力を取り付ける意図もあった。だが、自治組織に過ぎぬ委員会は45年9月6日《朝鮮人民共和国》を樹立し“独立”を宣言してしまう。

 一連の流れの中で、朝鮮総督の阿部信行・陸軍大将(元首相/1875~1953年)や朝鮮軍管区司令官の上月良夫・陸軍中将(1886~1971年)が総督府はじめ主要な建物から日章旗を降ろし、太極旗(現韓国国旗)を掲揚させる。
しかし“独立宣言”直後、進駐した米軍は太極旗を降ろさせ、日章旗を再び掲揚させた。米軍の軍政が本格的に始まるや、日章旗が星条旗へと付け替えられた。なぜか-

 米国は日章旗掲揚で朝鮮=日本だと公認。軍政に正当性を持たせた。朝鮮が別国家ならば解放したことになり、解放後は統治を朝鮮に任せる過程を生む。従って終戦直後、米軍上陸前の統治を総督府に密命した。治安も朝鮮軍管区や日本の官憲に担わせた。上陸後も、日本人官吏は相当期間軍政を支援、治安も軌道に乗るまで日本側が協力した。日本側の統治能力や軍紀を大いに評価していた背景も在った。反面、米国は当初、朝鮮人を軍政より徹底的に遠ざけた。朝鮮人の軍政登用は牛歩で進められた。なぜか-

 ■強弁だけの「抗日戦」

 統治能力欠落や、度を超した自己主張、激高しやすい民族性に加え、偏狭な民族主義者や共産主義者が入り乱れ、一致団結して建国に邁進するまとまりに欠けている…など。こと朝鮮人に関し米国の学習能力は高かった。実際45年秋、30もの朝鮮人軍閥が警察署や新聞社、企業・工場・商店を勝手に接収。米軍は武装解除を強制したが効果は限られた。政党や政治結社も200近くにのぼり、指導者は内部抗争を繰り返し暗殺・テロが横行した。そも朝鮮人民共和国ですら中華民国に建てた韓国臨時政府と対立。2つの“政府”それぞれの内部でも抗争に明け暮れた。米国は朝鮮人の政党も政治活動も全く認めなかったのに、この有り様。

 斯くなる混乱では、38度線の北側に陣取るソ聯軍に対する力の均衡維持は覚束ない。米国の最重要課題はソ聯の半島支配阻止で、南朝鮮独立は副次程度の認識だった。米国は、曲がりなりにも内閣・政府を通じ権力を行使した日本と同じ統治形態ではなく、韓国に直接軍政を敷いた正解を噛み締めた。
しかも朝鮮人は戦前~戦中~戦後と、日本に向けまともなゲリラ抗戦も民族蜂起も起こしていない。むしろ帝國陸軍内の朝鮮人高級軍人の武勇は目覚ましく、触発された朝鮮人が志願兵募集に殺到した。42年と43年の場合、募集各4000/6000名に25万5000と30万人超が受験。競争倍率63/50倍が裏付ける朝鮮人の戦意に日本=朝鮮一体を確信する米国専門家もいた。

 韓国が「日帝を打ち負かして独立を勝ち取った」と強弁しようと、独立は日本敗戦3年後。米国は聯合国による長期の半島信託統治を描いたが、北朝鮮に統一国家を建設する動きを見せたソ聯に対抗、韓国の独立実施を大きく前倒しした。日本ではなく、日本に勝った米国に棚ぼた式で譲ってもらったのだ。

 ■無辜の民を大虐殺

 哀れ韓国は「歴史の不完全燃焼」に身悶えるだけでコンプレックスを癒やせない。制御不能な嫉妬の炎は“歴史の新作”を次々ひねり出すエネルギー源と化す。半面、取り憑かれたような情念で日本を「口撃」している間は、不都合な史実は目立たない。韓国の為政者の反日カードは国家戦略であり続ける。

 《国民保導連盟事件》も反日の激しさで埋没させたい超弩級の傷。会見で具体名が出た「馬山」も事件の舞台だった。
保導連盟とは、共産主義者が転向し、韓国に忠誠を誓う人々と家族を再教育・統制すべく立ち上げられた思想保護観察組織。ところが、朝鮮戦争(1950~53年休戦)勃発で連盟加入者名簿は虐殺リストに変わる。北朝鮮軍がソウルに迫るや初代大統領・李承晩(イ・スンマン)大統領(1875~1965年)は国民や韓国軍将兵を見捨てて逃亡。その際、連盟登録者を“危険分子”として処刑するよう軍・官憲に命じた。北朝鮮側間諜が紛れた可能性は有るが、大多数は無辜の民。食料の優先受給目的で登録した人もいた。政治犯ら政権に目障りな人々もついでに抹殺された。韓国紙によれば60万~120万人、政府も《子供を含む最低10万人以上》の国民を虐殺し、排水溝や海に遺棄した暴挙を認めた。馬山でも廃坑や刑務所内で殺戮が行われた。

 おびただしい数の韓国人が難を逃れ、日本に密入国し、大半が居座った。そうか。(南北)朝鮮とイスラム国の最大の共通項は凶暴で残忍。であるが故に大量の死者・棄民を輩出しても心痛まぬ思考回路。まだある。日本を歴史捏造でいたぶり、つきまとって離さぬ韓国。日本人を拉致・誘拐する北朝鮮とイスラム国。わが国を「解放」でじらす外道ぶりはソックリだ。
(政治部専門委員 野口裕之)

移民問題、二つの進路 (上・下)「洗国」への道

■1.「洗国」

「洗国」という恐ろしい言葉があるのを知った。三橋貴明氏は近著『移民亡国論』で、こう説明している。

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 洗国とは、支那大陸において、「他国」を乗っ取る際に多用される(多用された)手法である。まずは、国内の流民を数十万人規模で「対象国」に移住させる。当初は「外国人労働者」として、いずれは「移民」として、膨大な支那人を送り込み、現地に同化させていくのだ。・・・

 いわば人口を利用した外国侵略だ。
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「今この瞬間も、チベットやウイグル(東トルキスタン)で行われているのが、まさにこの洗国なのである」と氏は指摘する。

 チベットはヨーロッパに匹敵する面積の国土を持っていたが、第二次大戦後にシナに侵略され、600万の人口のうち120万人が殺され、今や750万人のシナ人が移住して多数派を占めている。

 ウイグルもトルコ系民族の国だったが、第二次大戦後、やはりシナに併呑され、国土の一部は核実験場とされ、いまや2千万人の人口の41%はシナ人となっている[c]。ウイグル人の子供はシナに送られて洗脳され、女性もシナ沿岸部で漢族との婚姻を強いられている。ウイグル民族を漢族に同化吸収させる政策が取られている。

■2.「毎年20万人の外国人移民を受け入れる」

洗国の第一ステップ「国内の流民を数十万人規模で『対象国』に移住させる」と符合する動きが日本国内にある。平成26(2014)年3月に政府の経済財政諮問会議の「成長・発展ワーキング・グループ」が発表した「毎年20万人の外国人移民を受け入れる」という提言だ。

 外国人と言っても、来るのはほとんどがシナ人である。「在日外国人」を国籍別に見ると、平成19(2007)年に韓国・朝鮮人を抜いてシナ人がトップに躍り出て、すでに70万人に達した。この上に毎年20万人も受け入れると、そのほとんどがシナ人となり、十数年のうちに3百万人規模となろう。

 シナ人を3百万人規模で抱えた日本がどんな社会になるのか、欧米の移民先進国の実態を参考に考えてみよう。


■3.シナ人の「集住」する町

 どこの国からの移民も固まって暮らす傾向が強い。世界中に広がっているチャイナ・タウンが良い例だ。これを「集住化」という。

 日本国内に3百万人のシナ人が住むということは、大都市の一部、あるいはその周辺に、数万人から数十万人規模のチャイナ・タウンが数多くできる、という事である。すでにこの現象は起きている。

 埼玉県南部には、住民の40パーセントがシナ人という団地がある。階段には汚物がまき散らされ、窓からは生ゴミが降ってくる。これはシナ人にとっては普通の生活スタイルだ。

 カナダのバンクーバーは、人口210万人のうち約18パーセントがシナ系住民で、いまや香港にひっかけて「ホンクーバー」と呼ばれている。周辺のリッチモンド市にいたっては半数以上がシナ系で、街の看板もシナ語の方が英語より多い。シナ人は運転も荒く、交通事故は増加中。カードや紙幣の偽造事件も多発している。

 日本でも集住地区では、小中学校にシナ人の生徒が多数通うようになり、学校によっては日本人生徒が少数派になる。シナ人生徒による日本人生徒へのいじめも多発するだろう。

 ドイツの一部地域ではトルコ系移民が集住しており、外国人生徒が三分の一を超えると、クラスが「ひっくり返る」と言われている。言葉のハンディキャップや文化の違いで、クラス一体の授業がほとんど不可能になる。

 こういう地域からは、日本人家庭はどんどん逃げ出す。しかし、逃げ出せない日本人家族はシナ人が支配する市内で、チベット人やウイグル人のように少数民族として、差別の下で生きていかねばならない。


■4.「税金泥棒」

 日本語が自由に話せない多くのシナ移民の間では、当然、失業率が高まり、生活保護を求めるようになる。

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 2009年8月には、門真市で所得を低く申告し、生活保護547万円を不正受給し、親に「仕送り」までしていた中国人夫婦が逮捕された。2013年1月には、大阪市で生活保護費を不正受給しつつ、なんと4100万円もの大金を貯蓄していた60代の中国人夫婦がやはり逮捕された。とはいえ、これらのケースは、しょせんは氷山の一角にすぎないのだろう。]
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「ホンクーバー」では「シナ移民は税金泥棒」との声があがっている。夫は中国で稼いでいるので所得税をカナダに納めないのに、母子と両親はカナダ暮らしで、カナダ国民として教育や医療を受けているからだ。
 生活保護の不正受給は日本人の間にもあるが、シナ移民となると話が違ってくる。シナ移民が集住する地域では、彼らの票を目当てにシナ移民の便宜を図ろうとする市町村長や議員が増える。やがてはカリフォルニアのようにシナ系市長、シナ系議員まで生まれる。彼らは市町村役場の職員にも、シナ人を優先して採用する。

 今日でも、いくつかの自治体で国籍条項がないために、在日の人間が福祉担当者となっているが、シナ系移民が簡単に国籍をとれるようになったら、大手を振って生活保護の不正支給が行われる恐れがある。


■5.無法シナ社会の出現

 一般的に移民が集住する地域では、犯罪も多発する。シナでは犯罪を犯すと自転車泥棒でも死刑になったりするが、「人権社会」の日本では、たとえ捕まっても、冷暖房完備の留置所や刑務所で三食昼寝付きで遇され、病気や怪我もタダで治療してくれる。

 不法滞在者が勤めるシナ料理店などでは、ケンカや傷害事件が発生しても、110番通報されることはまずない。店が不法就労者を雇っていて、警察に通報されたら、不法就労助長罪で店の方が危ないからだ。こういう地域ではシナ・マフィアが取り仕切る。こうして日本の警察も手が出せない無法シナ社会が出現する。

 三橋氏の著書では、スウェーデンでは人口の約20%が中東などからの移民とその子孫であり、ストックホルム郊外には彼らが多数派を占めている街もある。そして約20%の移民がスウェーデンの犯罪の約45%を引き起こしているという。

 5人に1人の移民が約45%の犯罪を行っているのに対して、残りの4人のスウェーデン人が55%、すなわち一人あたりでは14%分で、移民の犯罪率は3倍以上である。スウェーデンはスウェーデン人だけが住む豊かで安全な民族国家というイメージがあったが、その犯罪発生率は移民が押し上げて、日本の13倍にもなっている。

 日本で犯罪を犯して検挙された人員の国籍別のデータを見ても、在日・来日合計のシナ人は約6千人で、日本人も含めた総人数の2%。シナ人はまだ人口では0.54%だから、人口当たりにすると日本人の4倍近い犯罪検挙率となり、スウェーデンと同様の傾向が見てとれる。


■6.シナ人の土木・建設会社で災害に対応できるのか

「毎年20万人の外国人移民を受け入れる」という提言の主目的は、労働力の不足を補うためだ。特に東日本大震災の復興需要や次期東京オリンピック関連工事で、土木・建築分野での労働力確保に向けて、外国からの技能実習生の受け入れ期間を3年から5年に延長する時限措置もとられた。

 しかし、三橋氏が全国の建設業の経営者にインタビューすると、例外なく「外国人は難しい。理由は、危ないから」という答えが返ってきたという。危険な高所作業や重量物運搬の多い建設現場で、日本語がよく通じないシナ人労働者を数多く抱えては、日本人の現場監督たちは安全確保だけで一苦労だろう。

 やや古いデータだが、1998年のシナでの「建設その他の産業」での災害件数は2万件以上、死亡者数は5,439人にのぼった[3]。わが国で、1件でも災害を起こすと、国土交通省から会社にペナルティが課される状況とは全く違うのである。

 シナ人建設労働者をさらに大量に導入しようとすれば、現場監督者もシナ人にしなければならなくなる。そんな企業からは日本人監督者も労働者も逃げ出すだろう。こうしてドイツのように3K(きつい、汚い、危険)作業は外国人労働者がやるものとされ、日本人は敬遠するようになる。

 平時はそれでも良いだろうが、いざ地震や台風などの災害時はどうなるのか。東日本大震災での原発事故の時には、東京都内にいた多くのシナ人、韓国人が姿を消した。彼らは生活のために日本に来ているのだから、日本と心中する気が無いのは当然である。

 地震後の倒壊寸前の建物を解体撤去したり、台風の中を河川の氾濫を防ぐ、などの危険な作業をしてくれるのは、同胞を護ろうとする日本人ならではの仕事である。災害大国のわが国において、危険な作業から逃げ出してしまう恐れのあるシナ人中心の土木・建築会社だけになったら、日本国民の安全は護れるのか。


■7.シナ政府の指示で暴動が起こせる

 危機の時に逃げ出すだけならまだしも、シナ人移民は危機を作り出す恐れもある。

 平成20(2008)年の長野オリンピックで、3~4千人のシナ人留学生が集まって、巨大なシナ国旗を林立させた光景を覚えているだろう。その一部が暴徒化して、チベット・ウイグルを支援する日本人グループを襲撃し、数十人の日本人が負傷したと言われている。

 シナ共産党政府は「外国に居住する中国人民」を含めたすべての人民を国防のために動員できる「国防動員法」を2010年に定めている。政府が動員令を発したら、成年男女はそれに従わねばならない。

 この法律を運用する組織化も進んでいる。オーストラリアに政治亡命したシナの元外交官によれば、日本には数千人規模の工作員がおり、さらに彼らから金銭を受けとって工作に協力する者は、その数倍から10倍いる。日本の主要な大学では、シナ人留学生の組織が作られ、年に1~2回、東京のシナ大使館から幹部が派遣されて、指示を与えている。

シナ河南省にある日本向け技能実習生の職業訓練施設では、軍事教練が行われていることが写真入りでレポートされている。シナは技能実習制度を突破口に、軍事教練した「移民」を日本に送り込んでいるのである。

 2012年、野田政権が尖閣諸島を国有化した際に、シナの各地で反日デモが起き、多くの日系企業が暴徒に襲われた。ある学校の男子学生全体にデモ参加が命じられた、とか、千円程度の日当を貰って参加した、という証言がなされている。シナ政府の工作であった事は間違いないだろう。

 この時は、シナ政府は、デモが反政府暴動にまで広がることを恐れて、途中でストップをかけたようだが、同様の暴動を日本国内で起こす場合は、そんな心配は無用である。欧州各国で移民暴動は頻発しているが、それらはあくまで自然発生的である。しかし日本ではシナ政府の指示に従って、シナ移民が暴動を起こす危険がある。


■8.世界中の国が移民政策を見直しているなかで

 わが国で移民受け入れ論が始まったのは1980年代からだが、その理由は次々に変わっていった。最初の「アジア諸国にも日本の繁栄を分かち与えなければならない」から、2009年頃には「人口減小時代に日本の活力を維持する」、そして2014年には「人口を100年後に1億人に維持するため」という珍妙な理由まで提唱された。

 三橋氏は、理由が頻繁に変わる裏には、大っぴらには言えない真の理由があるからだ、と喝破する。それは「みなさんの給与引き上げを防ぐために外国人労働者を大々的に受け入れます」という本音だ。

 移民労働力による低賃金を享受できるのは企業だけで、一般国民は賃金の低下を強いられるばかりか、上述のような移民社会のコストとリスクをすべて負わされる。

 いまや世界中が移民政策を見直しつつある時代である。カナダは移民受け入れの条件を厳しくした。スウェーデンでも「スウェーデンをわれわれの手に取り戻そう」とのスローガンを掲げる民主党が勢力を伸ばしている。イギリスがEUからの離脱を決めた理由の一つが、無制限な移民流入にストップをかける事である。

 EUの本家ドイツのメルケル首相ですら「(移民受入れの)多文化主義は完全に失敗した」と発言している。「メキシコ国境に壁を」というトランプ米共和党候補の強硬発言が一定の支持を受けているのも、不法移民が米国社会の大きな負担になっているからだ。

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 あなたの周囲に移民賛成論者がいたら、こう聞いて欲しい。「移民政策がうまく行っている国があったら教えてくれ。移民政策で失敗して困っている国なら、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、カナダなどいくらでも教えて上げるから」と。我が日本も、その一つになりつつある。
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 と、かつて弊誌は書いた。これだけ世界中の国々が移民問題に悩まされているのに、いまだに「毎年20万人の受け入れを」などと言っている向きは、国民を犠牲にしても、産業界の私利私欲を追求する確信犯だとしか考えられない。

 そして、もう一つ、忘れてならないのは、わが国が直面する移民問題とは、欧米諸国とは全く違った危険があることだ。それは十数億もの人口を持つ巨大な隣国が「洗国」の戦略をもって、わが国を狙っているという事である。


移民問題、二つの進路 (下)「大御宝」への道

■1.少子化の原因は未婚者の増加

 前号[a]では「洗国」というシナの恐るべき戦略を紹介して、安易な移民受け入れが、国民生活にどのようなコストとリスクをもたらすかを考察した。

 しかし、それだけでは移民受入れ論者の説得には不十分だ。彼らが「移民は必要」と主張する人口減少や労働力不足などの問題をどう解決するのかを、提案しなければならない。この問題を三橋貴明氏の『移民亡国論』[1]や政府の統計を参考に本号で考えてみよう。

 まずは人口減少の問題を先に取り上げよう。人口減少が食い止められれば、そもそも労働力不足の問題も相当に緩和されるからだ。

 人口減少の理由は、少子化、すなわち生まれる子供の数の減少である。昭和46(1971)年から3年間の第二次ベビーブームでは、出生数は年間200万人を超えていたが、昭和59(1984)年には150万人を割り込み、平成25(2013)年は約103万人まで落ち込んだ。

 出生数の減少には、以下の二つの仮説が考えられる。

(1) 晩婚化、女性の職場進出などで既婚女性が産む子供数が減っている。
(2) 未婚の男女が増えている。

 統計的に見れば、(1)ではなく、(2)が真の原因となっていることは明らかである。既婚女性が生む子供の数(有配偶出生率)は90年代に千人あたり66人と最低を記録したが、その後は緩やかに回復し、2010年代は79.4人と80年代をも上回っている。

 (2)を未婚率で見ると、「30?34歳」男性の未婚率は1970年にはわずか11.7%だったのが、2010年には47.3%にもなっている。すなわち、1970年代には30代前半で独身だった男性は10人に一人強だったのが、今や半分近くにも達している。女性の未婚率も同様に上昇している。

 すなわち未婚者が増えているから、子供の数も減っている、という、ごく当然の現象が起きているのだ。


■2.結婚したくともできない多くの成年男女がいる

 未婚が増えた理由は種々考えられるが、有力な原因は実質賃金の低下や雇用の不安定である。厚生省の調査によると、現在の日本で約600万人の男性が年収200万円以下で暮らしているという。その多くはパート、アルバイト、派遣などで雇用自体が不安定だ。

 女性では年収200万円以下は1180万人もいるが、パートタイムの主婦も相当含まれているので、以下、男性を対象に考える。

 男性で月収十数万円、それもいつ失業するか分からない状況で、結婚して家庭を持とうとするのは難しい。未婚男性の約85%は「いずれ結婚するつもり」と答えながら、結婚への障害として挙げられているトップが「結婚資金」、2位が「結婚のための住居」である[3]。その結果が「30?34歳」男性で半数近くが未婚という結果なのである。

 わが国は皇室が国民を「大御宝」と呼んで、その安寧を代々祈られてきた。そういう国で、結婚したくともできない多くの成年男女がいる、という事自体が大問題ではないか。


■3.「移民400万人」より「日本国民400万人出生増」

 仮に、何らかの政策によって、これらの人々の所得を上げ、雇用が安定したとしよう。そして独身男性6百万人のうちの三分の一の2百万が結婚して、平均2人の子供を持ったとすると、4百万人の子供が生まれることになる。

 4百万人の子供が増えたら、政府が受け入れようと提言した移民20万人の20年分に相当する。日本語もよく話せない、文化も習慣も異なる移民400万人と、日本で生まれ日本人として育った400万人のどちらが良いかは言うまでもない。

 さらに大きな違いが、その裏にある。移民を受け入れれば、国内の賃金ベースがさらに下がり、雇用も不安定になるので、未婚率が今以上に悪化し、少子化が加速する。移民を増やした結果、日本人の少子化が進んだのでは、さらに移民を増やさなければない、という悪循環にはまることになる。

 逆に、未婚率を下げることで出生数が増えれば、その出産、教育、結婚、家庭作りと、新たな消費需要が生まれ、経済発展の原動力となる。さらに彼らが成人して仕事につけば、税金を払って国家財政にも寄与する。まさに「子は国の宝」である。

 多くの未婚者の生活水準をあげて、結婚できるようにすることで、善循環を生み出すことができる。どのように彼らの収入を上げるかは、後で考察しよう。


■4.子供を産みたくても産めない

 経済的理由が少子化を招いている事を示唆するデータがまだある。

 子供一人を持つ夫婦が、「もう一人子供が欲しい」という出産願望は、「25?29歳 89.8%」「30?34歳 79.0%」と非常に高い。すでに子供二人を持つ夫婦でも「もう一人欲しい」という夫婦は「25?29歳 47.5%」「30?34歳 28.3%」もいる。
 しかし、実際の夫婦の出生児数は2人を割っている[4]。上記の強い出産願望と現実の出生数のギャップを見ると、子供を産みたいのに産めない、という夫婦が相当数いることが窺われる。理由はやはり経済的理由や住居の制約だろう。

 弊誌633号「『明るい農村』はこう作る ? 長野県川上村の挑戦」では、「信州のチベット」と呼ばれていた寒村が、高級レタスの栽培で農家の平均年収が25百万円にもなり、東京から多くの女性も嫁いできて、平均出生率(一人の女性が一生に生む子どもの人数)は1.83と全国平均より0.5人も多い、という事例を紹介した。

 産みたいのに産めない、という状況を示すもう一つのデータが、人工妊娠中絶である。近年は毎年20万件程度で推移しており、その理由の多くが「経済的理由」である。もちろん母体保護など別の理由もあるが、出産と育児・教育の負担を減らせば、せっかく授かった赤ちゃんを産めないという悲劇は大きく減らせるだろう。

 わが国は経済大国といいながら、低収入から結婚できない、結婚しても子供を作れない、子供を授かっても産めない、という点で、経済力が国民の幸せに結びついていない面があり、その結果が少子化となっているようだ。こういう国民の不幸を差しおいて、移民による穴埋めを図ろうとするのは、政治として本末転倒ではないか。


■5.30万人の生活保護受給者を再教育する

 次に、労働力不足の問題を考えてみよう。国内には、労働力として活躍できていない層がある。たとえば、30万人近くもいる「働けるにも関わらず、生活保護を受けている日本国民」。三橋氏は、こういう層をなぜ教育して、資格を取得させ、労働市場に送り出さないのか、と問う。

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 労働市場から退出したままの「日本国民」を「人材」(即席であっても)に育成するためならば、それこそ政府はいくらお金を使っても構わない。

 たとえば、働けるにもかかわらず生活保護を受けている30万人の「人材予備軍」に対し、1人100万円のコストをかけたとしても、「わずか」3000億円の支出ですむ。・・・

 3000億円のコストで、即席ではあっても「人材」に成長した、あるいは人材に成長する可能性がある「日本語が堪能」でコミュニケーション上の問題も起きない「専門職30万人」を、需要が拡大している分野に送り出すことができるのだ。

 仮に生活保護費用が、1人あたり平均月10万円だとすると、年間で120万円。人材育成に100万円を投じたとしても、それで彼らが職を得て、生活保護を脱することができれば、10ヶ月で回収できる。さらにこれらの人々の多くは税金を払うようにもなるだろう。

 金銭的な問題だけでなく、人は誰でも世間のお荷物になるより、自分の力を十分に発揮して、世のため人のために貢献したいという気持をもっている。そういう充実感を30万人の人が味わえるようになるだけでも、大きな価値がある。


■6.高齢者の活躍

 もう一つ、未開拓の人材のプールが高齢者層である。平成26(2014)年の日本人女性の平均寿命は86.83歳で3年連続世界一。男性は80.50歳で3位。長寿国として世界に誇れる記録である。我々の周囲には70代、80代で元気なご老人をよく見かける。

 平成25(2013)年の統計では、65歳以上70歳未満の高齢者人口は869万人[5]。この大半は定年後で無職と思われるが、たとえば70歳まで働けるようにすれば、その半分のみが就業したとしても、やはり400万人以上が生産労働人口に加わる。

 移民を毎年20万人、20年間受け入れるのと同数の労働力人口がすぐに生まれるのである。それも日本語に不自由しないだけでなく、人生経験も職業経験も豊かな人々なのだ。しかも高齢者が働ける環境を作れば、それだけ元気になって医療費も減るだろうし、年金の原資不足も緩和されるだろう。

 現代医学の急速な進歩により、2045年には平均寿命は100歳に到達しているだろうと予測されている。そういう時代に60代半ばで定年退職して、あとは暇を持てあましつつ、年金暮らしをする、という事自体が、時代にあわなくなってきている。

 弊誌926号「『寿命100歳』時代の生き方」でも紹介したように、高齢者の雇用を生み出す会社も健闘している[b]。我が国は高天原の神々でさえ、田畑を耕したり機織りをしたりして働いている。体が動く限りは働いて世の中のお役に立つことが幸せなのだ、というのが、我が国の労働観である。

 高齢者が働ける環境作りを進めることは、国家にとっても、企業にとっても、そしてお年寄りの生き甲斐のためにも良い施策である。


■7.労働人口不足が呼んだ高度成長

 以上は、人口減少を食い止め、生産年齢人口を増やすための余地がまだまだある事を示したが、それでもまだ人手不足の状態であったら、どうするのか、という反論が寄せられるかもしれない。

 人手不足が日本経済の縮小をもたらすのだろうか。三橋氏はその可能性を明確に否定する。かつての高度経済成長時代は、人手不足の中で、いや、人手不足だったからこそ実現した、と氏は主張する。

 昭和31(1956)年から48(1973)年までの20年近くもの間、日本のGDP(国内総生産)の平均実質成長率は9.22%にも達している。しかし、この間の生産年齢人口は平均で1.7%程度しか伸びていない。慢性的な人手不足で、地方の中学卒業生が都会に集団就職をして、「金の卵」と大切にされた時代だった。

 人口が1.7%増えれば、それに伴い経済規模も1.7%は膨らむ。逆にいえば、9.22%の経済成長のうち、人口増による部分は1.7%に過ぎない。残りの7.5%はコンピュータ化、自動化などを含む一人あたりの生産性向上によるものである。高度成長期の民間企業設備投資は、実質年平均17.33%もの率で伸びていた。

 人手不足だから、賃金が上昇する。企業は賃金上昇をカバーしようと、自動化設備やコンピュータ投資によって生産性を上げようとする。すると設備メーカーやコンピュータメーカーの売上げが増える。そしてそれらの企業に部品材料を売ったり、サービスを提供したりする企業も売上げが増大する。

 一方、就業者の方は高い賃金を貰って、結婚して家や車、家電製品を買う。こうした生活水準の上昇によって、消費需要が増大する。それがまた人手不足を呼び、賃金を上げる。

 人手不足が、生産性向上のための投資需要を呼び、賃金上昇によって消費需要も増やす。かつての高度成長は供給と需要が両輪となって、人も企業も、そして社会全体も豊かになっていったのである。これこそ国民を大御宝として、その安寧を実現する道だろう。

 高度成長時代に「人手不足だから外国人労働力の導入を」という安易な逃げ道に行かなかったのは幸いだった。この時、外国人労働力を入れていれば、設備投資は冷え込んで投資需要は増えず、賃金は下降して消費需要も冷え込み、高度成長は腰砕けになっていただろう。


■8.「洗国」への道か、「大御宝」への道か

 85%近くもの結婚願望を持つ青年が経済的制約に縛られずに結婚できる社会、2人、3人と子供を産みたい夫婦が自由に産める社会、そして70代、80代でも働きたい老人が働ける社会。それが国民を大御宝として大切にする国のあり方だろう。

 労働移民により人件費を安くして企業の利益を上げたいという近視眼的な政策だけでは、どういう国家を作りたいのか、という国家観が全く見えない。多くの国々の移民導入失敗から見れば、その道は移民による無法地帯を作り、国民の安定した生活を破壊する道だ。わが国では、さらにシナの「洗国」工作に乗ぜられる危険も大きい。

 外国人労働者を入れるかどうか、というのは、短期的な政策的選択の問題ではなく、長期的にどういう国家をめざすのか、という次元で考えなければならない。企業の目先の利益だけでなく、国民が労働者として、消費者として、そして生活者として、物言いをすべき問題なのである。
(文責:伊勢雅臣)


【北海道が危ない 第3部(上・下)】

【北海道が危ない 第3部(上)】2016.10.6
小樽を見下ろす中国系の“要塞”は高台の元国有地 米軍の重要港が丸見えだった
http://www.sankei.com/politics/news/161006/plt1610060004-n1.html

 JR函館線小樽築港駅にほど近い高台にある「平磯公園」は小樽市内でも観光名所の一つだ。標高約70メートルの公園からは、小樽港や小樽市の中心街が一望でき、「重要眺望地点」にも指定されている。

 この平磯公園から1段下がった高台に6月上旬、日本料理専門のレストランがオープンした。高台は、草木に覆われた高さ3メートルほどの土砂の壁を背に、3方を崖と森林に囲まれ、外から様子を知ることはできない。崖の一部は城壁のように石垣が組まれ“要塞”のように見える。

 レストラン入り口のインターホンを押したが、故障しているようで反応がない。屋根には防犯カメラが不気味に見据えている。裏庭にまわると、バーベキュー用の施設があり、その先は急勾配の傾斜地で眼下に小樽湾が広がっていた。

×   × 

 登記簿によると、一帯はもともとは国有地だったが、平成20年1月に札幌市内の不動産会社に移転登記されている。その後、別の不動産会社(札幌市)を経由して、今年3月25日、農産物の生産、販売業などを行う札幌市内の中国系企業が購入している。敷地面積は約3831平方メートルで、建物は約292平方メートル。レストランは、この中国系企業が開業、運営していた。
周囲の森林地帯は国有地で、民間企業が管理を委託されているという。国有地に囲まれた“要塞”のような土地が、中国系企業に買収されたわけだ。
 
×   × 

 小樽市は明治、大正期の石造倉庫群などレトロな町並みを生かした観光地として、26年度は744万7800人だった観光客が27年度には794万9300人と、4年連続で増加。外国人観光客の宿泊客数も9万8610人から12万8223人となり、3年連続で過去最多を更新した。国別では、中国からの観光客が、26年度は前年度比273・9%の2万7169人、27年度も同134・3%の3万6482人と2年連続でトップとなっている。

 レストランを経営する中国系企業の担当者は、「立地条件もいいので、遊ばせておくのはもったいないから狙っていた。今はランチが中心で、夜は予約客だけだが、来年からは手広く営業していく」と意欲的だ。
 
×   × 

 小樽港は、米軍艦船や海上自衛艦の重要拠点でもある。米軍艦船は26年7月の米第7艦隊旗艦「ブルーリッジ」をはじめ、21年2月から7回寄港。海上自衛隊も、ヘリコプター搭載護衛艦「いずも」が、今年4月19日、熊本地震の被災地支援のため、この港から出発している。
防衛省関係者や情報関係者は、「買収された高台は、港を監視するには最適の場所だ。米軍艦船や自衛隊艦船が寄港する埠頭(ふとう)や航路を見渡せる場所を外国資本に簡単に買われるのはいかがなものか。軍港や防衛施設周辺の不動産管理をもっと厳しくする必要がある」と警告する。

 地方議員経験者は、小樽には中国系企業や中国と関係があるとされる企業が相当数進出しているという。元議員は、「中国人観光客や中国系企業が増えると、その意図は別として、要塞のようなレストランが中国人の拠点になる可能性もある」と危惧する。

 買って放置 見えぬ意図

 北海道・洞爺湖温泉は、今年で温泉開湯100年を迎えた。その温泉街から西に約3キロ離れた洞爺湖町月浦地区で7月下旬、中国を拠点に不動産投資を展開する企業グループ「永同昌集団」の現地法人(札幌市)が、約7万7千平方メートルの土地を買収した。

 同グループは、ホームページに買収地の写真などを掲載し、リゾート型別荘を建設すると公表。グループオーナーの張宗真氏が地元紙に語ったところによると約100億円を投入し、約500室、最大1500人を収容できる高級宿泊施設を中心とする大規模リゾートを開発、中国本土やマカオに住む富裕層や中間層を対象に平成30年3月頃をメドに約100室を先行開業する方針だという。
張氏は地元紙に、「日本への投資に強い関心があった。北海道は世界に名だたる観光地。観光客誘致を通じ、中国本土やマカオとの経済、文化の交流を深めたい」と語り、「プロジェクトが成功すれば、さらに、道内でリゾート開発や投資を進める余地が出てくると考えている。現地法人が中心となり、道内の行政関係者とも協力的な関係を築きたい」と、北海道進出に意欲を見せている。
 
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 だが、この壮大な構想は、地元・洞爺湖町に大きな波紋を広げている。

 同町の担当者は開口一番「土地の買収、開発計画は新聞報道で初めて知った。全く寝耳に水の話だった」と戸惑いをあらわにし、こう続けた。

 そもそも、買収された月浦地区は国立公園特別地域で、開発行為は法律で制限されており、開発するには自然公園法で環境省に認可申請を、さらに特定開発行為にあたるため北海道にも認可申請をしなければいけない。しかし、同社はいずれからも許認可を受けていないというのだ。

 担当者によると、現地法人の責任者は同町の聞き取り調査に、「(法規制については)知らなかった。リゾート構想については、オーナーが地元紙の記者に話しただけで、詳細は聞いていない」と説明したといい、その後も連絡はないという。産経新聞社は、この現地法人の責任者に取材を申し込んだが、連絡はない。
同町の担当者らは「現地は山林原野なので開発は難しい。日本企業の場合は、開発可能な場所なのかどうかを調査した上でスタートするが、そうした基本的なことをしないで、土地を買って花火をあげるだけ。自然環境は破壊される恐れがあるし、今後、どう展開していくのか全く予想がつかない」と憤りを隠さない。

 洞爺湖温泉観光協会も、「協会には全く接触はなかった」と不信感を表した上で、「土地の売買自体も分からなかった。土地を買っただけで、その後は何も動いていない。コンセプトも規模も説明を受けておらず雲をつかむような話なので何とも言えないが、景観が崩れる恐れがある」と厳しく批判する。
 
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 第2部で羊蹄山の麓、喜茂別の中国人専用のプライベートゴルフ場や赤井川村の270ヘクタールに及ぶ森林買収を紹介した。洞爺湖畔の森林、土地、それに小樽市の元国有地などが買収される現実を見ると、ニセコから始まった不動産買収は、着実に放射線状に伸びてきているのが分かる。

 100ヘクタール単位で買収され、しかも、森林や川、道路などで外部と遮断される環境にあるため、中国人による中国人のための閉鎖的な集落が形成されるのではないかという危惧はこれまで、証言を交えて報告してきた。
だが、不動産買収の真の意図は別として、月浦地区のケースに見られるような環境破壊への危惧と計画の不透明さが、新たな問題として浮上している。

 小樽市ではこんな問題が起きている。

 札幌市の中国系不動産会社が25年3月、小樽市で3100平方メートルの高台を購入。約30億円を投じて、地上9階、地下2階の高級リゾートマンションを建設、分譲することを発表した。ところが3年たった今、工事はおろか、買収した土地は荒れ、開発は頓挫したままだという。

 洞爺湖町の職員は、「まず土地を買うが、その後は動かない。そんなケースは北海道ではたくさんある」と話す。大きな目標を掲げるが、意図は不透明なままで、とどまるところを知らない中国資本の“侵攻”に「このままでは虫食い状態に買われてしまう」と不安を隠さない。

 長年、道内の外国資本による不動産買収を検証している小野寺秀・前道議は、「中国以外の国の資本も入っていれば、北海道は投資対象の価値があるのかと納得できるが、こうも中国資本が多いと、なぜ、中国資本ばかりと考えてしまう。何か意図があるのではと勘ぐらざるを得なくなる」と、中国資本進出の背景に疑問を投げかける。



 これまで、2部にわたって北海道での中国資本の動向を報告してきた。その後も「〇〇のホテルが買収された」「××の森林が買われた」という情報が飛び込んでくる。日本の土地はいつまで外国資本の餌食になるのか? 政府は4日の衆院予算委員会で、外資の土地買収に対処することを明言した。改めて、北の大地の現状を報告する。(編集委員 宮本雅史、写真も)

【北海道が危ない 第3部(下)】永住権狙い不動産物色 危機感なく「買ってくれるなら中国でも…」
http://www.sankei.com/politics/news/161007/plt1610070007-n1.html
2016.10.7

日本国内の不動産情報が満載されている中国語新聞

札幌市中心街にある札幌市資料館近くのビルの合間に、中国人専用のゲストハウスの建設工事が進んでいる。
土地を買ったのは上海出身の中国人男性。約3千万円で購入したとされる。
札幌市内の不動産会社関係者によると、この中国人男性は、北海道への移住の下準備のため観光ビザで来日。滞在中に札幌市内の大手中国系不動産会社を通して、同市内の雑居ビルの一室に資本金約1千万円で法人を設立した。同時に、法人名義で土地を購入しゲストハウスの建設手続きを済ませたという。
「契約書は本人が交わしたようだが、売買手続きなどは不動産会社のトップが代わって署名した。銀行口座も、実力がある中国人が仲介すると簡単に開設できる」と関係者は話す。このように不動産を購入する中国人は多いという。
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道内の中国系不動産会社で働いたことがあるという札幌市内の男性は、「不動産を購入する中国人の多くは、日本での永住権を得るのが目的。不動産を持っていると永住権を得られやすいということが半ば常識化している」と明かす。
どういうことか-。
中国人観光客が日本を訪れる際、「相当の高所得を有する者とその家族」には、特定の訪問地要件をもうけない数次ビザ(有効期間5年、1回の滞在期間90日以内)が発給される。
入国管理局によると、外国人が日本国内で会社を設立し、事業所が確保され、資本金が500万円以上か常勤従業員が2人以上いると、中長期在留のための経営・管理ビザを取得できる。このビザを一度取得すると、事業実績などに応じて在留期間を1年、3年、5年と更新でき、継続して10年以上在留すると、永住権を申請できるという。
先の中国系不動産会社の元男性社員は「彼らは数次ビザで北海道に入り、90日間に法人を立ち上げ、めぼしい不動産を探してまわる。土地を買って一度本国に戻り、今度は長く滞在できる経営・管理ビザで北海道に戻ってくるのです」と話す。「ゲストハウスを経営する中国人の場合は、経営・管理ビザを取得し、更新する資格がある。何度も更新して永住権を狙うのです」
入国管理局も「不動産を取得したからといって、即座に永住権に結びつくわけではない」としながらも、「不動産収入につながればプラスの条件になる」と含みを持たせた。
札幌市内の中国系不動産会社で働いていたという女性は「私が働いていた会社では、『中国人に不動産を斡旋(あっせん)する最終目標は永住だ』と社長らが話しているのを何度も聞いた。実際、その手配をしていた」と明かした。
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札幌市で、直木賞作家の渡辺淳一氏に関する資料を展示している渡辺淳一文学館を運営していた大王製紙が、8月1日付で同館を中国・青島市の出版社「青島出版集団」に売却した。その調印式が9月20日に行われた。
地元メディアなどは中国人観光客の増加を期待するが、札幌にある日本の不動産会社に勤める男性は「道民の間には、中国にあまり抵抗感がないようだ。他にだれも買ってくれない、使ってくれない。なら、中国でもいいじゃないか…と」と話し、こう続けた。
「中国人観光客が増えれば増えるほど、観光ビザで来日して、不動産を買いあさるという流れに拍車がかかることは否定できない。中国人が、さまざまな形で北海道に大量に押し寄せてくるのは時間の問題だ」
10年後は「中国32番目の省」
都内で多くの中国人が訪れる地域の中華料理店には、中国人向けの新聞が十数種類、配布されている。北海道から沖縄までの不動産情報が満載だ。
在日中国人のチャイナウオッチャーは、「北海道、沖縄、大阪、東京と、全国の不動産情報が掲載されている。それだけ、日本の不動産に関心を持っている中国人がいるということ。特に北海道は注目の的だ」と言う。
道内の中国系不動産会社に勤務したことがある札幌市の女性は、北海道の不動産買収に関心がある中国人が増えていることを踏まえ、「道内には中国人観光客を誘致したり、中国人に不動産を斡旋(あっせん)する中国系企業は増えている。いずれもネットワークが確立されていて、情報を共有している」と言う。
富裕層向けの旅行会社「プレミアム北海道」(札幌市、張相律代表)もそうした企業の一つだという。
同社は昨年1月に設立。張社長は、「これまでの1年間は富裕層の北海道へのインバウンド旅行を中心に事業を展開してきた。今後は、アジア諸国の企業の北海道への投資コンサルティングや高級道産品のアジア諸国への輸出に力を入れていく」と事業拡大に意欲を見せ、「北海道はますます観光面で伸びていく。うちは不動産会社ではないので、土地などの不動産の売買は扱わないが、ホテルや宿泊施設の売買仲介は展開していく」と続けた。
同社は、一般中国人を対象にした旅行業や通訳、翻訳業などを展開する「北海道チャイナワーク」(札幌市)の系列会社。平成11年12月に設立され、張氏が代表を務める。
そのプレミアム北海道に、北海道銀行と北海道ベンチャーキャピタルが7月28日、道内の18信金、3信組と共同で設立した「ほっかいどう地方創生ファンド」の第4号投資案件として1千万円を出資。北洋銀行も同日付で、北洋イノベーションファンドを通じて1千万円を出資した。
北海道銀行は「同社の事業面の優位性と今後の成長性を高く評価」、北洋銀行も「道内観光の活性化に果敢に挑戦する姿勢を評価」と出資理由を説明、両行ともに「オール北海道で同社の成長を支援していく」としている。
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張代表は「不動産会社ではない」と強調したが、プレミアム北海道を知る札幌の不動産会社の関係者は、「プレミアム北海道は富裕層をインバウンドで受け入れて、不動産の紹介もしている」と明かす。
張代表の言い分と異なるが、仮に、前出の不動産会社関係者の証言が事実だとすると、金融機関が、不動産買収に関与する中国系企業に資金援助をし、お墨付きを与えたことになる。
割り切れないものを感じるが、北海道銀行の担当者は「もともと富裕客のための基盤を作るのが第一目的。将来的には不動産売買ということもありうるかもしれないが、事業内容については密接な付き合いのなかで相談していく」と説明。北洋銀行も「旅行代理店だから不動産売買は関係ないのでは…。あくまで出資なので、資金指導していないし、使途は限定していない」(広報担当者)と、両行とも危機感はない。
元地方議員はこうした証言を受け、「中国系企業に北海道を代表する金融機関が資金援助する。もし、将来的にプレミアム北海道や関連会社のチャイナワークが北海道の不動産買収に乗り出したとしたら、銀行側はどう対応するのか?」と疑問を投げかける。
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組織ぐるみの大がかりな不動産買収に、永住権をも視野に入れた個人的な不動産買収…。そして銀行支援を背景にしたビジネス展開。中国資本の北海道進出は陰に陽にとどまるところを知らないようだ。
冒頭のチャイナウオッチャーは、未確定な数字だと前置きしながら、「日本に住んでいる中国人は150万人以上、観光客は年間300万人以上、日本人妻は11万~12万人、中国人と日本人との間に生まれた子供12万~13万人。中国は日本を狙っている」と前置きした後、「特に北海道には関心が集まり、積極的に進出計画を進めている。一部中国メディアの間では、北海道は10年後、中国の第32番目の省になると予想されているほどだ」と言う。
前道議の小野寺秀氏は、「土地問題や森林問題、それに水源地問題は、管轄が国土交通省、環境省、総務省、外務省、農林水産省、防衛省と各省にまたがるため一元化されていない。なかでも、外務省は『内外人無差別』の姿勢だから足並みがそろわない。各省横断的な、総括的な巨大な力を持ったプロジェクトチームを作るほかない。それも急がないと時間がない」と提言する。
(編集委員 宮本雅史、写真も)

同窓の権力者に粛正された満州人脈は…「同徳台」=満州国軍官学校の光と影

【満州文化物語(31)特別編】2016.9.4  産経新聞

■クーデター先陣は後輩
 1961年5月16日、韓国陸軍第2軍副司令官、朴正煕(パクチョンヒ=当時少将、満州国陸軍軍官学校2期、後に韓国大統領)が主導した軍事クーデターが勃発する。

 同日早朝、決起部隊の先陣を切って首都ソウルへ突入したのは軍官学校の後輩で、第1海兵旅団を率いる准将、金潤根(キムユングン、90)=軍官学校6期、後に韓国海兵隊中将=であった。

 決起には軍官学校の先輩、李東河(イドンハ)、朴林恒(パクイムハン)、李周一(イジュイル)=いずれも1期=らも参画。クーデターを成功させた朴は国家再建最高会議議長に就任、63年には韓国大統領の座に就く。満州人脈は主要勢力の1つだった。

 金潤根は『韓国現代史の原点-朴正煕軍事政権の誕生』にこう書いている。

 《満州国軍官学校は、その所在地から同徳台(どうとくだい)の通称があった。ソウル近辺に勤務する同徳台出身の将校達は、週末になると中華料理屋に集まって…憂国の悲憤慷慨(ひふんこうがい)を吐露する会合に変わっていった》。朴正煕も軍官学校の後輩をかわいがり、「同徳台」の会合にはポケットマネーを惜しみなく出していたという。

 ただし、金潤根がクーデターの先陣を切ることになったのは同徳台のつながりがあったとはいえ、いくつかの偶然が重なった結果であった。金はこう振り返る。《政治的野心を見せたこともないし、朴正煕将軍と親しい間柄でもない…どうしてクーデターの先陣をきってソウルに突入したのか…筆者自身、不思議に思っている》(同書より)

 だが、その行動は否応なく金を「政治の世界」に引き込んでしまう。

■同志とて例外でない
 新たな権力が生まれると、それをめぐるせめぎ合いが起こるのは世の常である。朴の決起を支えた同志も例外ではない。

 やがて、反革命容疑という名目などで朴の政敵やライバルが次々と逮捕されることになる。主導したのは新設された中央情報部(KCIA、現国家情報院)。初代部長は朴の腹心、金鐘泌(キムジョンピル、後に首相)であった。

 同徳台出身者にも暗雲が立ち込める。粛清の嵐は、クーデターの先陣を務めた金潤根や、他の同徳台のメンバーにも及んだ。

 満州国軍系に多かった「北部」出身者のグループに朴が警戒感を抱いていたこと。軍に遅く入った朴には“年下の先輩”が目障りだったこと…さまざまな理由がささやかれた。

 もちろん、満州人脈だけがターゲットになったわけではないし、朴政権で首相や閣僚に引き立てられた人も少なくはない。あるときは、権力に取り込み、あるときは排除する…結局、同窓の絆など、政界での激しい権力闘争の前では儚いものに過ぎなかったということであろう。

■突然、刑務所独房へ
 「上の方がお話ししたいと言っています」

 満州国陸軍軍官学校で朴正煕の後輩にあたる最後(7期生)の韓国人生徒、金光植(キムグァンシク、88)の自宅を突然、怪しげな男たちが訪ねてきたときには夜の12時を過ぎていた。

「あなた方は誰だ?」

 「言えません」

 答えはなくとも、KCIAの人間であろうことは容易に想像がついた。金は有無を言わさず車に押し込められ、権力者の自宅へと連行されてしまう。

 いったい何の嫌疑をかけられているのか? 金には理解ができなかった。

 終戦直後、軍事英語学校(韓国陸軍士官学校の前身)に入校。朝鮮戦争(1950~53年)を経て、米陸軍士官学校に留学したが、交通事故に遭い、そのときはすでに軍を退いていたからである。 

 夜中にもかかわらず、トレードマークの黒いサングラス姿で現れた彼はこう告げた。「国がおかしくなっている。(KCIAの)逮捕予定者名簿にお前の名前があったので直接、話を聞いてみたかったんだ」

 約1時間半に及ぶ“尋問”の末、午前2時ごろになってやっと金は解放される。翌日の新聞には、多くの軍関係者が逮捕されたことが書かれていた。結局、金もその後、容疑がはっきりしないまま、政治犯が収容されるソウル西大門刑務所の独房に1カ月以上も入れられてしまう。

 金光植はこう振り返る。「(権力者)との個人的な関係は決して悪くなかったと思う。(軍官学校の)仲間の情報を私から聞き出そうとしたのでしょう」

 つまり、容赦なく同窓生を切り捨てた権力者自身が同徳台のつながりの強さを信じていたのである。

■朴氏への複雑な思い
 朴は79年、18年に及ぶ「長期政権」の末、腹心のKCIA部長の凶弾に斃(たお)れた。同徳台出身者の朴への思いは複雑だ。自身に降りかかったことだけではない。

 かつて、軍に巣くう左翼思想者を一斉検挙した粛軍時(1948年~)に北朝鮮とつながる南労党(ナムノダン)員とされた朴の命を救ったのは満州人脈の先輩らではなかったか。その思想的影響を強く受けたとされる何人かの後輩は結局、見捨てられたのではなかったか…と。

 今も健在な韓国人の軍官学校の出身者は、95歳の(ペクソンヨプ=前身の陸軍中央訓練所9期生、韓国陸軍初の大将)を筆頭に、わずか数人だけとなった。

 最後の7期生は4人のうち、2人が満州に残り、昭和21(1946)年、国共内戦で戦死したとみられている。祖国へ戻った金光植と、もう1人は、長く病の床に就いたままだ。

 金光植は軍を去った後、学問の世界に転じ、機械力学の専門家として、ソウルの私大、漢陽(ハニャン)大学などいくつかの学長を歴任した。韓国内だけでなく、日本の同徳台同窓生との交友は今も欠かさない。

 そして、「過去の歴史」を堂々と語れるのは、何らやましいことがないからだろう。「私のように平凡な人生を歩んでいる者は問題ありません。何の野心もありませんしね」      =敬称略、隔週掲載

         (文化部編集委員 喜多由浩)

朝鮮戦争、軍事クーデターにも関与した「人脈」とは…

【満州文化物語(29)特別編】2016.8.7 産経新聞

 終戦とともに、うたかたのごとく消え去った満州国。日、満、漢、鮮、蒙の5族で構成される国軍幹部を養成した陸軍軍官学校(日本の陸軍士官学校に相当)に後の韓国軍主要メンバーが名を連ねる「満州人脈」があった。

 その数、約50人(新京の軍官学校のみ)。日本統治時代の選び抜かれたエリートであった若き将校や士官候補生は戦後、韓国軍の創設に加わり、同胞が血で血を洗った朝鮮戦争(1950~53年)を戦い抜く。

 やがて、彼らの中心円には大統領(1963~79年)に上り詰めた朴正煕(パクチョンヒ、軍官学校2期→日本陸士留学)が座る。朝鮮戦争前、北と繋がる南労党員とされた朴の命を救ったのも、朴が政権を奪取した軍事クーデター(61年)にも満州人脈は息づいていた。

 金光植(キムグァンシク、88)は、その軍官学校、最後の生徒(7期生)である。

 終戦後、日本人上官の機転でシベリア抑留を免れた17歳の金は、韓国軍創設メンバーが集まった軍事英語学校(後に韓国陸軍士官学校)に入校。朝鮮戦争にも従軍した。金の体験と証言は、満州を源流とする、ひとつの「韓国軍裏面史」と言えるだろう。

■祖国のために尽くせ
 71年前の昭和20年8月末の新京(現中国・長春)。ソ連軍(当時)の満州侵攻から約3週間が過ぎた、かつての満州国首都には約8カ月前に軍官学校に入校したばかりの日系(日本人と朝鮮出身者)7期生約370人が残されていた。

 満州国軍5族のうち、満系(中国人、満州人)、蒙系(モンゴル人)の軍人や生徒は反逆したり、とっくに姿をくらましている。

日系生徒らはソ連軍によって武装解除され、旧日本軍施設に軟禁されていた。このときは知るよしもなかったが、間もなく彼らはシベリアの収容所へ送られ、地獄のような抑留生活を強いられることになる。

 朝鮮出身の7期生は4人で、軍医、獣医を除く地上兵科の生徒は金光植1人だけだった。

 「お前は、一刻も早くここを抜け出して国(朝鮮)へ帰れ。新しい国造りに力を尽くすんだ」

 金は満州国陸軍軍官学校予科6連長(中隊長)の及川正治に呼ばれ、意外な言葉を告げられる。9月1日にはソ連軍による最終点呼があり、それ以降はもう離脱するのが難しい。

 学校幹部は満州内に縁者を持つ日本人生徒にも離脱を認め、点呼直前の同日未明、約60人が夜陰に紛れて新京の街へ散った。ただ、多くの生徒は「残った方が安全だ」と判断し、明暗を分けることになる。

 「及川連長の言葉は胸にしみた。私は3度鉄条網をくぐり抜けて脱出した」

 金には、行くあてがあった。新京の朝鮮出身者ネットワークである。彼らはすでに20年の早い時期から日本の敗戦を見越して、秘密裏に会合を重ね、金も何度か呼ばれていた。

 金は軍官学校先輩の手引きによって新京中心街に本拠を置く「朝鮮保安隊」(約400人)に合流する。リーダーは軍官学校の前身、陸軍中央訓練処出身(5期)の丁一権(チョンイルグォン、後に韓国陸軍参謀総長、首相)。金は中尉の階級をもらい、行動隊長格として、朝鮮独立を訴える街頭デモや軍事訓練の指揮を執った。

同年9月末、金は満州に残っていた約2000人の朝鮮出身の避難民とともに列車で京城(現韓国ソウル)に向かう。

■帰還が遅れた朴正煕
 京城を目指していた朝鮮出身軍人・生徒の一群は満州からだけではない。

 終戦直後、日本からは姜文奉(カンムンボン、軍官学校5期、日本陸士に留学中。後に韓国陸軍中将)がリーダーとなった朝鮮出身の一団が帰路を急いでいた。日本陸士に在籍していた生徒や、姜のように満州国軍官学校予科から日本陸士本科へ留学していた約20人である。

 一方、中国にいた朴正煕は引き揚げが遅れてしまう。満州国軍将校(終戦時は中尉)として同国南西部の熱河省で関東軍部隊と八路軍討伐作戦にあたっていた朴は終戦後、北京へ行き「大韓民国臨時政府光復軍」に加わる。だが、米国は光復軍の帰還を認めず、引き揚げ者として朝鮮南部・釜山へ着いたときは終戦から1年近く(1946年5月)が過ぎていた。

 韓国軍創設の主要メンバーとなったのは満州国軍系、日本軍系、中国系の3つである。発足時の「地位」は旧組織での階級や年齢ではなく、基本的に“早い者勝ち”であった。

 もともと朴には年齢的なハンディがある。師範学校卒業後、教員を経て軍官学校入校は異例に遅い22歳。さらに引き揚げが遅れたために、46年9月に改めて入った警備士官学校(軍事英語学校の後身)は2期の入校となってしまい、後の思想問題もあってずっと“年下の上官”に仕える悲哀を味わう。
そのことが朴に、軍事クーデターを起こさせるひとつの要因になった。

 それぞれの地から引き揚げてきた若き将校や士官候補生は軍事英語学校や警備士官学校の門をたたく。金光植も誘われるまま、軍事英語学校に入る。米軍が不偏不党の方針を打ち出したために、そこには共産主義者も交じっていた。彼らは20代、30代の若さで創設間もない韓国軍のリーダーとなり、満足な装備もないまま1950年6月25日、突然攻め込んできた北朝鮮軍と対峙することになる。

 ◇金光植(キム・グァンシク) 昭和2(1927)年、日本統治時代の朝鮮全羅南道・麗水(ヨス)出身。88歳。光州西中学(旧制)から19年12月、満州国陸軍軍官学校に7期生(最後の入校生)として入校。戦後、韓国・軍事英語学校、海軍士官学校を経てソウル大学卒。漢陽大学長などを務めた。


 ◇満州国陸軍軍官学校
 日、満、漢、鮮、蒙の5族からなる満州国(昭和7年3月建国)の国軍軍官(士官)を養成する学校として昭和14年、新京に創設。終戦まで5族のうち、蒙(モンゴル人、興安軍官学校に在籍)を除く4族の若者が学んだ。
   =敬称略、隔週掲載
         (文化部編集委員 喜多由浩)

ハイグレードな日本人の暮らし…水戸黄門「格さん」一家3代の夢

【満州文化物語(1)】2015.7.5 産経新聞

■東西の十字路・大連
 戦前の大連(だいれん)は、西洋とアジアが交差するクロスロード(十字路)だった。

 日本からヨーロッパへ向かう鉄道の出発点であり、逆方向からは外国人が大連を通って日本、アメリカへと旅立ってゆく。このエキゾチックなムードをたたえた美しい国際都市に、かつて、東京や大阪よりもハイグレードな「日本人の暮らし」があったことを、現代人たちは知らない。

 都市計画でできた街に並ぶヨーロッパ風の荘厳な建物。トイレは水洗、電話の自動交換機の導入は内地よりも早く、大連が一番だった。男性は子供も洋服。自由港のおかげで舶来のカメラや時計も安く手に入る。世界最高級を誇る満鉄の特急「あじあ」は大連駅から発車、食堂車では青い目、金髪のロシア人ウエートレスの少女が乗客に笑顔を振りまいていた。

 戦後は、「戦争」「侵略」といったネガティブなイメージでしか語られることがなくなった満州の、玄関口の街に確かにあった独特の香り。新天地に可能性を求めた農家の次男や三男坊、あるいは広い世界で一旗揚げたい野心家にとってそこはキラキラと輝いて見えたに違いない。

 明治の終わりから終戦にかけ、満州を目指し、海を渡った日本人とその子孫は、最盛期に155万人(軍人、軍属を除く)を数えた。

■祖父はハーレーの販売業
 テレビの人気時代劇「水戸黄門」の格さん役で知られる俳優の横内正(よこうちただし)は昭和16(1941)年7月、大連に生まれている。愛媛県から大陸へ渡ったのは祖父、政太郎(まさたろう=昭和10年、61歳で没)の代だ。

 政太郎は、大連でアメリカの大型バイク、ハーレー・ダビッドソンの販売業を始める。店のバイクを駆って満州の大地を走り回っていた息子の澤二(さわじ=横内の父、51年、74歳で没)は音楽の道に進み、バイオリニストになった。

 「祖父は新天地で一旗揚げようと大陸へ渡ったんでしょうね。オヤジ(澤二)は『カミナリ族』のはしり、というのかな。ハーレーに乗って競争に明け暮れていたらしい。音楽は当初、クラシック志向だったけど、そのうちにダンスホールのオーナー兼バンドマスターになったんです」

 昭和13年~15年ごろの大連の街を再現した地図にその“ダンスホール”は「バーカジノ」の名で残されている。大連の銀座というべき繁華街・浪花町(なにわちょう)から北の吉野町(よしのちょう)に挟まれた通りの角地。ジャズミュージシャンや流行歌の歌手がステージに上がり、生演奏を聞かせ、ダンスもできる大きなバーだったらしい。

 店には一流の人気歌手、ミュージシャンが出入りしていた。ブルースの女王、淡谷のり子、“直立不動”の東海林(しょうじ)太郎、和製サッチモ(ルイ・アームストロング)のニックネームで呼ばれた日本人ジャズトランペッターの第一人者、南里(なんり)文雄らである。
「食客のような人たちが大勢いたらしい。戦後『お父さんに世話になりました』といろんな人が訪ねてきて、父の人脈に驚いたことがある。母(静子、平成20年101歳で没)は淡谷さんと仲が良く、僕が俳優になって共演したとき『カジノの息子です』とあいさつしたら、『おー、そうなの』って、とても喜んでくださいましてね」

 当時の大連は、アジアでは上海に次ぐ、「ジャズの聖地」であった。

■引き揚げで奪われた名器
 戦争が激しくなってからも大連は別世界だった。内地では物資や食糧が不足し、生活や文化に対する当局の締め付けが厳しくなってゆく中で、空襲もめったになかった大連へ、新京(現中国東北部・長春)、奉天(同瀋陽)、ハルビンへ、と芸術家、文化人が流れてゆく。

 すべてを打ち壊したのが突然のソ連軍(当時)侵攻である。昭和20年8月9日、ソ連の大軍は日ソ中立条約を破って満州へなだれ込む。そして、日本人が築き上げてきた営みを蹂躙(じゅうりん)し尽くした。

 横内の幼い記憶に残るのは、地下に大きなホールがあった「バーカジノ」が避難所として使われていたこと。ソ連軍の戦車が轟音(ごうおん)を響かせて大連の街に入ってきた姿だ。一家の引き揚げは翌21年。そのとき、父、澤二は命にも等しいストラディバリウスのバイオリンをソ連兵に没収されてしまう。

 「終戦後、父は食いぶちがなくて、キャバレーを回ったり、無声映画の伴奏もやった。浮き沈みが激しいからと、息子たちが芸能の世界に進むのには大反対。でもいざそうなってみると、一番喜んだのは父だったなぁ」
戦後、俳優になった横内。兄の章次(しょうじ)と弟の弘(ともに故人)はジャズのギタリストになった。後に章次は、やはり大連でジャズに目覚めたドラマーのジョージ川口(平成15年、76歳で死去)らと何度も共演することになる。

 「そのルーツはね、やっぱり(大連の)『カジノ』にある気がするんですよ」

=敬称略、隔週で掲載します。

◇日本が満州に関わったのは約40年間、昭和7(1932)年の満州国建国でより深く関与してからなら、わずか十年余に過ぎない。短い期間に華やかに咲き乱れ、うたかたのように消えた日本人の足跡を戦後70年の年に振り返ってみたい。(文化部編集委員 喜多由浩)



 ■大連 現・中国遼寧省大連市。明治38(1905)年、日露戦争に勝利した日本が租借地(関東州)とした遼東半島にある港町。ロシアが描いた青写真をもとに日本が都市計画を行い、インフラ整備を行った。最盛期の日本人人口は約20万人。

居留民の引き揚げ時期に「大きな差」ができたのは…

【満州文化物語(13)】2015.12.20 産経新聞

 昭和20年8月から9月にかけ、約270人の居留民(在留邦人)を連れて、満州国・興●(=隆の生の上に一)(こうりゅう)から北京へ「奇跡の脱出」行を成功させた関東軍・満州881部隊第1大隊長の下道重幸(げどうしげゆき)大尉(昭和53年、78歳で死去)は自分の家族を別の場所に残したままだった。

 長男の下道重治(したみちしげはる、78)=戦後、姓の読みを「したみち」に改名=は12年、父の任地であった満州北部のハイラルで生まれている。終戦時には、母と妹と3人で、興●(=隆の生の上に一)から約80キロ離れた連隊本部がある承徳(しょうとく)の官舎にいた。

 「(興●(=隆の生の上に一)にいた)父はたまに帰ってくるだけで、めったに顔を見なかった。軍人らしく寡黙な人でね。現代風の父子関係とは、まるで違っていました」

 20年8月9日にソ連軍(当時)が満州へ侵攻、14日に当番兵が重治らの官舎へ来て、「すぐに荷物をまとめる」よう伝えた。真夏なのに重治は着られるだけ服を重ね着して軍家族ら100人と一緒に列車に乗り奉天へ向かう。翌15日、奉天駅のホームで若い兵隊が涙を流しているのを見て日本の敗戦を知った。

 重治らは一転、南下するが、満州国と朝鮮の国境の街・安東(現中国・丹東)で足止めされてしまう。結局、安東で1年あまりを過ごし、日本へ引き揚げてきたのは21年10月である。

「父の消息はまったくなかった。八路軍(中国共産党軍)から懸賞金を掛けられていたような人で、『もう死んでいるのだろう』と諦めていたんです」

 ところが、その父親が家族よりも早く、祖国の土を踏んでいたのだから運命は分からない。

 「奇跡の脱出」行を終えた下道部隊は9月9日、三河で約270人の居留民と別れ、武器を持ったまま北支軍(日本軍)から北京城の警備を命じられる。八路軍と対立する中国国民党軍(重慶軍)の主力が北京に到着するまで代わりに警備を依頼されたのだ。

 アメリカの支援を受けた国民党軍の主力が北上し、北京へ着いたのが11月。“守備交代”し、ようやく下道らが武装解除となったのが12月である。

 満州に比べて北支からの居留民引き揚げがスムーズに進んだのは、こうして日本軍の武装解除が遅れたためと言っていい。中国内の居留民は日本軍の武器に守られて比較的安全に移動することができたからだ。

 “お役御免”となった下道部隊の約730人はその年(昭和20年)の12月17日、長崎・佐世保に引き揚げる。復員式を行い、隊長の下道は妻の実家がある札幌へ向かう。日本着は満州で苦労を重ねた家族よりも1年近くも早かったのだ。

■平穏だった北京の生活
 一方、下道部隊に命を助けられた居留民はどんな道をたどったのか。

 水野喜久夫(79)は当時、興●(=隆の生の上に一)の国民学校(小学校)の3年生。父親は興●(=隆の生の上に一)の税関長で、脱出行では、母親と幼い妹も一緒だった。「(脱出行では)河を渡るのに兵隊さんに肩車してもらったり、最初は遠足気分でしたね。ところが突然、銃声が聞こえて、最後尾の兵隊さんが銃で撃たれたのを覚えています」

 無事、北京へ着いた居留民は20年9月12日に北京の日本人女学校に収容される。水野一家はその後、日系企業の社宅に移った。食事は十分ではないが、配給があり、父親は店番の仕事を見つける。学齢期の児童のためには「青空教室」も開かれたという。

 「(北京の)日本人の生活は平穏でしたね。父の仕事で得たお金で、お正月を迎えたときにピーナツを買って食べたことを覚えています。危険な目に遭ったことは一度もなかった」

 水野一家を含めて興隆から脱出した約270人の居留民は昭和21年2月下旬、長崎・佐世保へ引き揚げた。この間、伝染病で約10人の幼児らが命を失う悲劇があり、不自由な生活や略奪の被害などが、なかったわけではない。

 だが、軍人、警察官、官吏などが悉(ことごと)くシベリアへ抑留され、ソ連軍による民間人への暴虐な行為が続出した満州と比べれば、はるかに状況は良かった。

満州からの日本人の集団引き揚げは、北支からのそれがほぼ終わった昭和21年半ばからやっと始まり、ソ連支配下の大連はさらに遅く21年暮れからスタート。約6万人が死亡し、地獄のような苦難に耐えたシベリア抑留者が祖国の土を踏むのはもっと後である。

 この間、理不尽な殺戮(さつりく)や人民裁判、病気、飢餓などによっておびただしい日本人の命が戦争が終わった後に奪われていったのだ。

■民間人も抑留の犠牲に
 881部隊の連隊本部があり、下道部隊が当初向かおうとした承徳も「明暗」を分けた。

 下道の家族が奉天へ去った後、ソ連軍が入ったのは8月19日。承徳にはまだ約3000人の居留民が残されていた。日本軍側は、ソ連軍との交渉で居留民の「奉天への脱出」を条件に武装解除に応じる。

 居留民がトラックで承徳を出た後、ソ連軍は日本軍人の拘束を始めた。そして、共同作戦を取っていたモンゴル軍(外蒙軍)への“恩賞”としてモンゴルの首都・ウランバートル近くの収容所などへ抑留させることを認める。

 さらには、予定した人数に足らないことを理由に、一般の民間人までをも一緒に抑留してしまう。モンゴル抑留者の総数は約1万3千人。残された女性や子供は引き揚げまで満州で苦労を重ねることになった。

下道の長男、重治がいう。「父の部隊(下道部隊)もあのとき、(連隊本部がある)承徳へ戻る決断をしていたら同じ運命をたどっていたでしょう。本当にタッチの差でした」

 下道部隊の戦友会は昭和50年代に発足、その後、居留民や家族らが加わり、現在は有志らによって毎年、会が開かれている。 

 水野が言う。「子供だった私がいろんな事実を知ったのは戦後もだいぶたってからでした。(下道部隊には)本当に感謝するほかない。われわれは特別だったんですね」=敬称略、隔週掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

妊婦ら在留邦人270人はなぜ助かったのか? 「奇跡の脱出行」…関東軍部隊の決断と伝統

【満州文化物語(12)】2015.12.6 産経新聞

 駐蒙軍(日本軍)司令部や日本と関係が深い蒙古連合自治政府があった張家口(ちょうかこう)。そこへ集結していた約4万人の居留民(在留邦人)を救うために、駐蒙軍司令官の根本博中将(昭和41年、74歳で死去)がソ連軍(当時)の武装解除要求をはねつけ、昭和20年8月15日以降も戦い続けた話はよく知られている。

 居留民は、根本らの懸命の抗戦を「盾」に、まだ友軍(北支軍)がいた北京方面へ脱出する。避難者の中には民俗学者の梅棹(うめさお)忠夫(平成22年、90歳で死去)や少年だった画家、作家の池田満寿夫(ますお)(同9年、63歳で死去)らがいた。

 8月9日に満州へ侵攻したソ連軍は、居留民に対して非道な行為を繰り返し、軍人や警察官、官吏らは後に悉(ことごと)くシベリアへ送られ、抑留されてしまう。もし、根本が正直に武装解除要求に従い、停戦に応じていれば、同様の悲劇が待っていたかもしれない。

 今回書くのは、その話ではない。駐蒙軍の隣、満州国熱河(ねっか)省・興●(=隆の生の上に一)(こうりゅう)にあった関東軍第108師団歩兵第240連隊(通称・満州881部隊)第1大隊(下道(げどう)部隊)による「奇跡の脱出」行のことだ。

 「居留民を置き去りにしてさっさと後退した」と非難を浴びた関東軍にも勇猛果敢に戦い、民間人の救出に死力を尽くした部隊は少なからずあった。

 20年8月31日、ソ連軍と中国共産党軍(八路軍)に挟まれ、豪雨のために孤立していた下道部隊は窮余の策で北京へと向かう。この決断が居留民約270人の命を救うことになる。

■居留民を置いていけない
 8月末、興●(=隆の生の上に一)の第1大隊を率いる下道重幸大尉(昭和53年、78歳で死去)は苦悩していた。本来、下道部隊が向かうべき連隊本部がある承徳(しょうとく)までは約80キロ。だが、数日来の豪雨で道路や通信手段が寸断され、合流したり、指示を仰ごうにも連絡がつかない。

 承徳にはすでにソ連軍が入ったという。偵察に出した兵は攻撃に遭い、負傷して戻ってきた。さらに、大きな問題があった。興●(=隆の生の上に一)にはまだ会社員や自営業者、公務員らと家族約270人の居留民が残っている。ここにもソ連軍が来るのは時間の問題であろう。

 「置いてはいけない」。下道はソ連侵攻後に連隊長が行った訓示を思い出していた。881部隊は関東軍のルーツである独立守備隊の魂を受け継ぐ部隊であり、本来の任務である「居留民保護に全力を尽くせ」という内容だった。

 日露戦争に勝利し、関東州(大連、旅順など)や東清鉄道の南部分(後の満鉄線)と鉄道や駅周辺の土地(鉄道付属地)の権利を獲得した日本は満州経営に乗り出す。

 そして、鉄道線と租借地に住む居留民(日本人)を守るために発足したのが関東軍の前身である。

 それは、関東軍固有の独立守備隊と内地から2年交代で来る駐●(=答にりっとう)(ちゅうさつ)師団で構成され、881部隊は第9独立守備隊(承徳)の系譜を引く。「関東軍発祥の精神を忘れるな」というのは、そういうことだ。

「こうなったら居留民を連れて北京へ(西へ)向かうしかありません」。部下の幹部将校らは死中に活を求めるべく、連隊がある承徳とは反対方向、約120キロ離れた北京へ抜けることを進言した。

 簡単な道ではない。大隊には終戦で崩壊した満州国軍の日系将校も加わり、軍人が約750人。居留民と合わせて約1000人の大所帯で年寄りや女性、子供が多く、妊婦もいる。数倍、数十倍の八路軍が待ち構えている危険地帯を隊の前後を武装した軍人が守りながら道なき道を行き、万里の長城を越えるのだ。

 下道はついに決断する。8月31日夜、軍民一体となった「苦難の脱出行」が始まった。

■満州に憧れた15歳の少年
 戦後、新潟県議を務めた清田(せいだ)三吉(90)は下道部隊で糧秣(りゅうまつ)を担当する一等兵であった。

 清田は“宝石箱”を夢見て満州へ渡った少年のひとりである。16年4月、地元・新潟の農林学校を出て、新京の興農合作社(農協のような組織)へ入る。まだ15歳だった。

 「当時は、日本中が『満州へ満州へ』という雰囲気だった。私も満州のでっかい夕日や大地に憧れてね。そこで農業をやってみたい、『満州の土と化さん』という情熱と志に燃えていましたね」。四平省の農村などに約3年半。19年11月、現地召集で入隊し、1年足らずでソ連の満州侵攻に遭遇したのである。

■約1000人の隊列の先頭付近に清田はいた。
「難路が続き、トラックや馬車、ロバなども途中で放棄するしかない。日中は猛烈な暑さになり、日射病のために何人かの幼児が息を引き取った。八路軍との散発的な銃撃戦は依然続いており、裏道を探してゆくので1日で10キロぐらいしか進めなかった」

そして、最大の危機がやってくる。隊列は万里の長城を越し、清朝の歴代皇帝稜(東稜)近くに差し掛かっていた。ソ連軍追撃の危機からようやく逃れられた、という安心感から、2日間の休息をとっていた矢先の9月4日、八路軍の軍使がきて、部隊の武装解除を要求したのである。

 軍使は、武器を引き渡せば、北京までの安全は保証するという。だが、大隊長の下道は厳然と相手の要求を一蹴した。「武装解除はできない。どうしても通さないというのなら、一戦交えることも辞さない」

 大きな賭けだった。清田はいう。「下道大隊長は八路軍から何万元もの懸賞金を掛けられていたほどの人物。兵隊の数では劣っていても武器(火力)では負けない、という自信があったのでしょうね」

 凛(りん)とした下道の態度に八路軍の軍使はそのまま引き下がったが、一行が出発した直後に攻撃を仕掛けてくる。部隊の2人が銃撃を浴び、戦死を遂げるが、それ以上の追撃はなかった。

 9月9日、一行は川の対岸に北支軍が待つ三河へ到達する。そこで下道部隊と別行動となった居留民は12日、無事に北京の日本人女学校校舎へ入ることができた。10日あまりの「奇跡の脱出」行。犠牲者は最小限度にとどまった。

 下道の決断が居留民の運命を「天と地」ほど変えたと分かるのは後になってからである。次回、それを書きたい。敬称略、隔週掲載。

(文化部編集委員 喜多由浩)

級友の多くがソ連軍に殺されたなんて…生死分けた「紙一重」 助かった者たちのトラウマ

【満州文化物語(11)】2015.11.22 産経新聞

■紙一重の差だった。生死を分けたのは…。
 時事通信解説委員長、日銀副総裁を務めた藤原作弥(さくや)(78)はソ連軍(当時)が満州に侵攻してきた昭和20年夏、興安街(こうあんがい)の国民学校(小学校)3年生だった。

 葛根廟(かっこんびょう)事件で、同じ学校に通っていた約270人の児童の多数が亡くなっていたことを知ったのは戦後40年近くが過ぎた40代半ばになってからである。

 「本当に驚きました。私のクラスメートの多くが、ソ連軍によって銃殺刑のように殺されたなんて。爆弾で集団自決したり、親子で刺し合ったり、青酸カリをあおって亡くなった人もいる。8歳だった自分だって、そこに入っていたかもしれない。残留孤児になっていた可能性もあった。そんなことも知らずにおめおめと…」

 ソ連軍が3方面から国境を越えたのは8月9日、興安街には13日に、そして、葛根廟事件は14日に起きている。藤原の父親は興安街にあった満州国軍の軍官学校の教官(文官)だった。危うく難を逃れたのは軍関係者として、いち早くソ連侵攻の情報を知り、10日午後発の列車で興安街を離れることができたからだ。

 「自分たちだけが助かった」。その後ろめたさがトラウマになって藤原に重くのし掛かった。犠牲者のほとんどは、藤原一家が住んでいた同じ「東半分地域」の住民だったのである。

 興安街には、満州北西部に位置する興安総省の総省公署(役所)が置かれていた。ソ連の侵攻に備えた避難計画を含む「興蒙(こうもう)対策」は総省公署が中心になって作成済みだったが、守ってくれるはずの関東軍(日本軍)は侵攻時期を読み誤った上、早々と南への後退を決めてしまう。共同作戦を行う、満州国軍も助けてはくれない。モンゴル系の将兵はソ連侵攻を知ると、反乱を起こしたり、逃亡したからである。

国際善隣協会常務理事の岡部滋(しげる)(75)は当時4歳。総省公署の幹部(参事官)だった父親の理(ただし=昭和62年、77歳で死去)は混乱の中でモンゴル人の総省長や日系トップの参与官家族を逃す任務を命じられる。

 夫がいなくなった岡部の母は、5人の幼子を抱えて自分たちで逃げねばならない。幸いにも後の列車に乗ることができ、夫とも9月になって新京(現中国・長春)で再会したが、母や1歳になっていない末妹は後に病気になってしまう。そして、父も助かった者の苦悩を味わうことになる。

 「(4歳だった)私に当時の記憶はほとんどありません。だが、4つ上だった兄や父は戦後、満州のことは一切話さなかった。母は母で、放っておかれた恨み言を父にぶつけていましたが…。父は、満州関係の就職の口を断り、集まりにも出なかった。役所の幹部としての責任を感じていたのだと思いますね」

■関東軍は後退伝えず
 関東軍は後退を総省公署幹部にさえ伝えなかった。役所や民間企業、自営業者、さらには近郊の開拓団農民の間でも情報の時間差が生まれ、わずかな遅れが運命を変えてゆく。

 葛根廟事件で犠牲になった約1000人のほとんどは、興安街の東半分の住民で、自営業者や会社員などが多かった。「情報」の入手やトラック・馬車の調達にハンデがあったために、出発が遅れ(11日夜)、移動手段を奪われていたために徒歩で逃げるしかない。

 さらに避難計画を変更して葛根廟へ向かったのは、そこで列車を捕まえるためであり、葛根廟にいた日本人ラマ僧らの支援を期待していたからだった。ところが、連絡は錯綜(さくそう)し、わずか1時間前にラマ僧らは葛根廟を離れてしまう。そこへソ連軍の戦車軍団が牙を剥(む)いて襲いかかったのだ。

さらに悲惨だったのは開拓団の農民(約27万人)であろう。多くが、ソ満国境に近い僻地(へきち)にいた上、情報の伝達も遅れた。“見捨てられた”に等しい人々は自力で逃げるしかなく、ソ連軍や匪賊(ひぞく)に襲われ、あるいは伝染病や集団自決などで約8万人もの人たちが命を落としたのである。

 興安街の近郊5キロにあった「東京荏原(えばら)開拓団」は終戦前の“根こそぎ動員”で成人男子の多くを召集で奪われ、老人や女性、子供ら主体の約800人で逃げる途中に匪賊に襲撃され、大半が死亡した。やはり近郊にあった満州国立農事試験場興安支場の集団では、逃避行中に追い詰められ、幼子約20人を自ら射殺する悲劇も起きている。

 同じ興安街や近郊から避難しながら、8月中に日本へたどり着けた人がいた一方で、藤原一家のように興安街からは逃げ出せたものの、国境の街に長く閉じ込められた者、シベリアへ抑留されたり、親を亡くして残留孤児になった者。そして命を奪われた、おびただしい数の人たち…。

■飲み込んだ言葉
 葛根廟事件の悲劇を知った後、藤原は取材で、まだ存命だった関東軍の元参謀に会う。

 元参謀は「(住民らを置き去りにして関東軍や軍家族は先に逃げた、といった)批判は甘んじて受ける。ただ、軍人は命令に従うしかない」とだけ話した。後退は大本営の方針であり、軍の機密を軽々に伝えることはできなかった。さらには、主力を南方にとられ、もはや戦う力がなかったのだ、と言いたかったのかもしれない。

 「それにしてもひどいじゃないかっ」。藤原はのどまで出かかった言葉を飲み込んだ。“助かった者の後ろめたさ”が、どうしても消えなかったのだ。

戦後、藤原は慰霊のために現地を度々訪問し、自分がその立場になっていたかもしれない残留孤児の来日の際にはボランティアを務めている。日銀副総裁を打診されたとき「任にあらず」と感じつつ重責を引き受けたのも「生かされた身。お国のためにご奉公をしなければならない」との思いからだった。

 葛根廟事件に代表されるように関東軍の後退は、結果として数え切れない一般住民の悲劇を生んだ。

 だが、すべての部隊がそうだったわけではない。独自の判断で「奇跡の脱出」と呼ばれた在留邦人の救出を成功させた部隊があった。それを次回に書く=敬称略、隔週掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

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