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【海峡を越えて「朝のくに」ものがたり】(45)

【海峡を越えて「朝のくに」ものがたり】
(45)朝鮮人強制連行載せた「広辞苑」 「発行者」は朝大認可の仕掛人11月17日

■朴慶植も吉田証言引用
 朝鮮人強制連行という言葉を拡散させた『朝鮮人強制連行の記録』(昭和40年)の著者、朴慶植(パク・キョンシク)(1922〜98年)は、「作り話」と知ってか知らずか、講演などで吉田清治の話をたびたび引用している。
 《暴力的な連行の例をあげます…吉田清治という人が…『朝鮮人慰安婦と日本人』という本を出した。(略)朝鮮人慰安婦というのは、日本の陸軍が戦線の兵隊に遊ばせる為(ため)にだまして連行した女性を言ったんですけれども、兵隊が女性を連れてゆくのは例がないと言(い)われています。中国の各地でそれからビルマまで朝鮮の女性を何万と連行しています。(略)日本人には吉田清治のような、強制連行をやった人が相当数いるはずです》(朴著『在日朝鮮人・強制連行・民族問題 古稀(こき)を記念して』収録の平成2年の講演から)
 「朝鮮人強制連行」という言葉を使って非難する人たちの主張には「タコ部屋」「奴隷労働」「小便汁」というおぞましい表現が並ぶ。まるで日本人が悪事の限りをし尽くしたかのような印象だ。何でもかんでも「強制連行」と言いくるめるケースも目立つ。
 朴慶植の追悼号として出された「在日朝鮮人史研究」10年10月号に掲載された『戦時下の日本人が報じた朝鮮人強制連行の視察記』を見てみたい。昭和19(1944)年に京城帝大教授が書いた「近畿の工場に敢闘する半島産業戦士達(たち)を訪ねて」という文をそこに引用しているのだが、原文の内容は『強制連行』のタイトルとは程遠い。
 原文の要旨は(1)労務動員計画(昭和14年〜)によって集団で朝鮮から渡ってきた若者は総じて熱心で評判がいい(2)月給は最高180円、送金は同800円と好成績(3)移動率が高いのはブローカーらに欺かれて自由労務市場に誘惑される者が多いため(4)半面、自由契約の労務者は食うに困って渡ってきた、いわゆる失業移民で評判もよくない−。
 「労務者にとって半強制的徴発の如(ごと)く感ぜられる場合が無(な)いでもない」というくだりがあるが、これは、国家の非常時(戦時)に国民の責務として動員に加わるという、この計画の理念が十分に理解されていないという文脈の中で語られているもので、前述した「タコ部屋」「奴隷労働」といったような過酷な状況はどこにも書かれていない。
 むしろ、純朴で、故郷の家族に多額の送金を行い、職場からも重宝されている若者たちの姿は、日本の高度経済成長期の「集団就職者」に似ている。

■政治問題化に便乗
 “日本叩(たた)き”のツールとして利用された「朝鮮人強制連行」や「従軍慰安婦」などの言葉は、政治・外交問題化が顕著になった1980年代から90年代にかけて教科書や辞典にも順次、掲載されてゆく。
 日本を代表する辞典『広辞苑(こうじえん)』(岩波書店)に「朝鮮人強制連行」の項目が登場したのは、平成3(1991)年発行の第4版から。《日中戦争・太平洋戦争期に百万人を超える朝鮮人を内地・樺太(サハリン)・沖縄などに強制的に連行し、労務者や軍夫として強制就労させたこと。女性の一部は日本軍の従軍慰安婦とされた》とある。
 この内容は、朴らの主張に近い。「従軍慰安婦」と関連づけているのは、朝日新聞報道などによって政治・外交問題化したことに“乗った”のだろう。
 同社辞典編集部では、4版から掲載した理由について、「当時の日本近現代史や朝鮮史の校閲者による選定と推測するが、詳しい資料は残っていない」などとコメントしているが、4版の発行者として、「植民地支配の清算」を求め、日本政府の姿勢を厳しく非難してきた、安江良介(やすえ・りょうすけ)(1935〜98年)の名前があるのは偶然だろうか。
 同社の総合雑誌『世界』の編集長を16年にわたって務めた安江は、北朝鮮の金日成(キム・イルソン)(首相、国家主席)や韓国の金大中(キム・デジュン)(後に大統領)らと近く、進歩的文化人とよばれた「左派人士」を代表するジャーナリスト・編集者。この前年(平成2年)には、岩波書店社長に就任している。

■まるで北の代弁者
 安江の主張や行動は、相当「北」に偏っていたと言わざるを得ない。
 昭和42年、美濃部亮吉(りょうきち)(1904〜84年、東京都知事通算3期)による初の革新都政が誕生した際、安江は、ブレーンとして知事特別秘書に就任。美濃部が就任早々に手がけた「朝鮮大学校(東京都小平市)の各種学校認可問題」も、安江の“耳打ち”がきっかけだったことを美濃部自身が書き残している。
 《朝鮮大学校を各種学校として認可するかどうかの問題が、(前任の)東(龍太郎)知事の時からタナざらしになったままであることを、特別秘書の安江良介君から知らされた。安江君は、岩波書店にいた時(とき)から朝鮮問題に詳しい。話を聞いて、初耳だった私も、その重要性を知った…》(美濃部著『都知事12年』から)
 美濃部は、政府・自民党の反対を押し切って翌昭和43年、朝大の認可に踏み切る。朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)幹部や朝鮮学校教員などを養成する朝大は、これによって固定資産税の免除などの恩恵にあずかることができた。
 46年に、都知事として初めて訪朝した美濃部は、金日成(当時・北朝鮮首相)と2度も面会。資本主義に対する「社会主義の勝利」をブチ上げるとともに、朝大認可に対して、金日成から、ねぎらいの言葉を掛けられている。安江自身も度々訪朝。60年、4度目に訪れたときは、金日成(当時・国家主席)との「解放四十年を迎えて」と題した会見記録を『世界』(同年8月号)に掲載。安江による「まえがき」にこうあった。《…日本政府は、四十年経ながらなお植民地支配の清算をせず、そのことを具体的課題として掲げていない。それのみか、韓国の軍事政権との一体化を進め、北朝鮮に対する敵対的関係を強めているのが現状である》。まるで、北朝鮮の代弁者かのようではないか。
 『広辞苑』は今年1月、10年ぶりの改訂となる、第7版が発行された。
 「朝鮮人強制連行」の記述はわずかに、人数が「労務者だけで約七〇万人」に、慰安婦から従軍の2文字を外した程度で、ほぼ変わっていない。一方で「従軍慰安婦」の項目は7版でも残されたままだ。
 韓国・北朝鮮などに政治利用されかねない記述は、そろそろ削除されたらどうか。=敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(44)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(44)「朝鮮人強制連行」一体誰が…日本たたきのツールにされた言葉 2018/11/17

 「朝鮮人強制連行」という言葉が戦前・戦中はもちろん、戦後しばらくも存在しなかったことは以前、書いた(連載42)。虚偽にもかかわらず、“日本の悪行のシンボル”のごとく使われるようになってしまった言葉は、いったい誰が言い始めたのだろうか。
 特定するのは難しいが、評論家・詩人の藤島宇内(うだい)(1924~97年)が岩波書店発行の雑誌『世界』昭和35(1960)年9月号に書いた論文の中で使用されたのが最初ではないか、という見方が多い。
 首都大学東京名誉教授の鄭大均(てい・たいきん)(70)は、著書『在日・強制連行の神話』で、1960年代以前にこの言葉がほとんど使われた例がないことを指摘した上で、「おそらくは(先行して1950年代半ばから使用されていた)『中国人強制連行』から得た発想なのだろう」と言う。
 この藤島の『世界』論文は「朝鮮人と日本人-極東の緊張と日・米帝国主義」のタイトルがつけられている。文字通り、内容は親北朝鮮、親中国のスタンスに立ち、対峙(たいじ)する日米を、「帝国主義」、韓国を「強圧的な悪政」と指弾したいのが趣旨であろう。
 その中で藤島は、4カ月前の『世界』昭和35年5月号に掲載された「戦時下における中国人強制連行の記録」に触発されたとし、《…「強制連行」は中国人に対してだけ行なったのではなく、朝鮮人に対してもより大規模に長期にわたって行われた犯罪である…しかもこれに対しては一かけらの反省もあらわれない》と日本の姿勢を痛罵する。
 そして、「朝鮮人強制連行の記録」とした第2章で、《一九三九年からは朝鮮人に対して強制的な「労務供出」政策が実施された(略)一九四〇年代の五年間に強制連行されてきた朝鮮人は一〇〇万人ちかいといわれ…》と主張。朝鮮人男性の寝込みを襲い、トラックに乗せて炭鉱に送り込んだ、とか街を歩いていた青年が突然、警官に捕まり、炭鉱へ送り込まれた-という信じがたいエピソードを挟み込んでいる。
 ただ、論文の趣旨からすれば、朝鮮人強制連行のくだりは、「現在」を語るのに「過去」の事例を持ち出し、無理に“ねじ込んだ感じ”が否めない。
 「寝込みを襲い…トラックに乗せて」のエピソードについても、原文にある、やったのは「朝鮮の官吏」という部分が削除されたことが分かっている。つまり、朝鮮人強制連行を“善玉(北朝鮮・中国)”を際立たせ、日本を糾弾する「印象操作のツール」として使ったのではないか。

■狙いは日韓条約阻止
 『世界』の「中国人強制連行の記録」を読んで朝鮮人強制連行に関心を持った人物がもう1人いる。後に、この言葉を大きく拡散させることになる『朝鮮人強制連行の記録』(昭和40年)の著者、朴慶植(パク・キョンシク)(1922~98年)だ。
 朴は、日本統治下の朝鮮慶尚北道に生まれ、6歳のとき一家で大分県に来た。もちろん“強制連行”などではない。ほとんどの朝鮮人がそうであったように、貧しい農民だった父親が新たな仕事を求めて自ら日本へ渡ってきたのである。
 戦後、東洋大学を出た朴は、東京朝鮮中高級学校(日本の中・高校)の社会科教員を経て、昭和35年、朝鮮大学校歴史地理学部の教員となった。
 そのころ、『世界』の論文を読み、朝鮮人強制連行問題に踏み込んでゆくのだが、『在日朝鮮人・強制連行・民族問題 古稀(こき)を記念して』(平成4年)に、その「きっかけ」が書かれている。
 《大学教員の立場から何をもって(在日朝鮮人の)運動に寄与しようかと考えました(略)『世界』五月号に「戦時下における中国人強制連行の記録」という調査報告がのったことに私は刺激を受けました…朝鮮人の強制連行については朝鮮人自身がやらなくてはと考えました》と前置きした上で、《「日韓(基本)条約」調印の少し前の(昭和40年)五月、それに反対する立場から『朝鮮人強制連行の記録』という単行本を出しました》(同書から)と綴(つづ)っている。
 日韓条約を阻止するためには、こんな“非道なこと(朝鮮人強制連行)”をやった日本。そして過去の反省・謝罪もないまま、そんな国と国交正常化をしようとしている韓国を糾弾することが必要だったのだ。

■慰安婦問題で致命的
 朴や藤島は、国家総動員法(昭和13年)に基づいて14年から20年まで実施された朝鮮人の内地(日本)南樺太などへの組織的な動員計画(年代によって「募集」「官斡旋(あっせん)」「徴用」)をすべて“強制連行”だと主張しているが、これは明らかにおかしい。強制力を伴う徴用令が朝鮮に適用されたのは19年9月以降で、内地への移送は半年あまりにすぎない。その徴用ですら応じなかった朝鮮人も少なくない。また、動員計画に従って、ちゃっかり“タダ”で日本へ来た揚げ句、より賃金の高い職場に移っていったケースは多々あった。
 繰り返しになるが、ほとんどは自らの意志で日本へ渡ったのである。それすらも朴らは、日本が朝鮮を侵略して植民地にし、政治・経済を支配し、土地を奪ったために日本へ来ざるを得なかったのだ-と主張するが、これも違う。日本統治下で豊かになったために朝鮮の人口が急増したのが本当の理由である。
 終戦後、戦時の動員計画で来た朝鮮人は優先的に帰国船に乗ることができた。200万人以上の朝鮮人のうち、自主的に日本へ残ったのは約60万人。朴もその一人である。そこへ朝鮮の戦後の混乱・貧困に耐えかねて再び、日本へ舞い戻ったり、新たに来た朝鮮人がない交ぜになって構成されたのが、戦後の「在日韓国・朝鮮人」社会だ。だから“強制連行された朝鮮人の子孫”などではない。
 ところが、朴らの「朝鮮人強制連行」に、日本を糾弾したがっていた日本人が飛びつき、煽(あお)った。1980年代以降、歴史教科書、慰安婦、徴用工…。日本人が火をつけ、韓国政府・メディアが反応・硬化するパターンで、次々と政治・外交問題化、日本は“理由なき謝罪・資金拠出”に追い込まれてゆく。先の韓国最高裁の理解不能な判断もその結果だろう。
 とりわけ慰安婦問題では致命的な影響を与えてしまう。世界中の軍隊に性の問題は存在しても、軍が関与し強制連行した慰安婦は「日本以外にはない悪行だ」というわけだ。ウソがウソを呼び、この言葉は日本をあしざまに罵るツールとして大衆化。やがて、教科書や日本を代表する辞書にも掲載されるようになる。=敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(43)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(43)今なお続く日本の資金拠出 「戦後補償」にすり替わった人道支援 2018.11.3

 先の大戦中、地上戦で民間人が犠牲になったのは沖縄だけではない。日露戦争以降、日本が領有していた南樺太(からふと)でも4千人以上の民間人が亡くなっている。しかも、北海道の北半分を、奪い取る目的で、昭和20年8月15日以降も侵攻をやめなかったソ連軍(当時)によって丸腰の女・子供・お年寄りらが殺され、略奪・レイプといった非道極まる行為の犠牲になった。

 日本統治下の朝鮮と同様、南樺太にインフラ(鉄道、道路、学校など)を整備し、製紙や炭鉱、水産といった産業を活性化させたのは日本である。
 北海道の北にある魚の尻尾のようなこの細長い島に当時、40万人以上の日本人が住んでいた。ソ連軍が来るまでに北海道へ逃れられたのは約11万人。残された約29万人の日本人の大部分も、翌21年の「米ソ引き揚げ協定」によって順次、帰国がかなったが、朝鮮人は留め置かれた。これが、「サハリン残留韓国人問題」と後に呼ばれるのだが、ソ連軍政下で行われたことであり、占領下にあった日本政府が決定に関与していないのは前回、書いた通りである。

■主張は「虚偽」ばかり
 この問題をめぐって、昭和50(1975)年に始まったサハリン裁判で、弁護団などが主張した、日本による強制連行▽日本が朝鮮人だけを置き去りにした▽残された朝鮮人は4万3千人-は、いずれも事実とはかけ離れている。
 日本統治下の朝鮮から南樺太へ渡った朝鮮人労務者の大部分は高賃金に惹(ひ)かれ、自らの意思で行った(その中で後に現地で徴用に切り替えられた者はいる)。
 14年からの労務動員(年代別に「募集」「官斡旋(あっせん)」「徴用」)を“強制連行”と主張する人たちには、その期間(18年)に渡樺し、戦後、サハリン残留韓国人問題に力を尽くした朴魯学(パク・ノハク)(63年、75歳で死去)の例を紹介したい。朝鮮で理髪師として1日2円程度の収入だった朴は同7円という樺太人造石油の好条件に魅力を感じた。「いずれ徴用される」という思いがあったにせよ、朴は給料から朝鮮の家族が家を建てられるほどの大金を送っている。
もとより、戦時下という非常事態において徴用されたのは、日本人も同様だ。
 「4万3千人」の人数は戦後、ソ連が朝鮮北部(後に北朝鮮)などから労働力として移した朝鮮人(約2万人)なども誤ってカウントしてしまったことに起因している。実際に残留した朝鮮人は多くても1万人前後だろう。
 「日本が朝鮮人だけを置き去りにした」というのもウソだ。ソ連軍政下で、日本人・朝鮮人は「無国籍者」とされたが、パスポルト(身分証)の民族欄には日・鮮の区分が明記され、これが明暗を分けた。ソ連が朝鮮人を帰さなかったのは多くが南部(後に韓国)出身者で、友好関係にある後の北朝鮮への配慮や、日本人引き揚げ後の労働力不足を懸念したからである。実際、北への帰還を希望した朝鮮人は、出国を認められているのだから。

■残留者に押し切られ…
 残留者問題は、朴と堀江和子夫妻らの粘り強い帰還運動などによって63年以降、韓国への永住帰国が実現する。“美談”で終わる話が、そこから奇っ怪な展開を見せてゆく。内外から圧力を受けた日本政府は「法的責任はないが、人道的な立場から支援を行う」として、巨額支援を余儀なくされてしまう。
 平成元年、日韓の赤十字を実施主体にする「在サハリン韓国人支援共同事業」(別項)がスタート。2年には、当時の中山太郎外相が国会答弁で韓国に謝罪。社会党の村山富市を首班とする内閣になって、韓国で永住帰国者が住むアパート群建設など、約40億円の巨額支援が一気に決定(7年)された。
10年ほど前に日本の支援でできた、そのアパート群(「故郷の村」)を訪ねたことがある。住んでいるのは「故郷に帰りたかった元労務者のお年寄り」ではなく、多くが若い2世たちであった。これは、朝鮮人の残留者団体が、終戦までに南樺太にいた者すべてを1世とし「補償すること」を強く求め、事業の枠組みに入れてしまったからである。つまり、当時0歳の赤ん坊でも支援対象なのだ。ロシア語しか話せない彼らにとって韓国は「父祖の地」という以外の意味はない。
 一旦、永住帰国してもサハリンに残した家族と再会するための旅費まで、日本が面倒を見てくれるため「暑い夏はサハリンへ帰る」と嘯(うそぶ)く居住者もいた。彼らは「日本が補償するのは当然ではないか」と一様に口をそろえる。韓国政府はことある度に、日本に追加支援を迫り、人道支援は「戦後補償」問題へと、すり替えられていった。

■菅談話で亡霊が復活
 帰れなかった朝鮮人の苦痛は察して余りある。戦争に起因した問題であり、日本の責任は「ゼロ」だと言うつもりもない。だが、虚偽を並べ立て、すべての責任を日本に押しつけ、政治・外交問題化させた日本人や、安易に謝罪し、「カネさえ出せば…」と譲歩してしまった日本の政治家や官僚らの行為は許し難い。
 それが、慰安婦、徴用工問題などでも韓国を勢いづかせ、「強い態度に出れば日本は折れる」と、今なお続く理不尽な“日本叩(たた)き・カネの要求”につながってしまったからだ。
 残留者問題での不可解な共同事業への日本の資金拠出は、戦後73年がたった今も続いている。民主党政権時代の事業仕分け(21年)で一旦は「見直し」が決まったが、翌22年、日韓併合100年に合わせて出された菅直人首相(当時)の談話の中に事業継続がうたわれ、「亡霊」が甦(よみがえ)った。その内閣の主要閣僚に、巨額支援を決定した村山内閣と同じ革新政党の出身者がいたのは偶然ではないだろう。
「この程度の予算で済む(韓国政府が文句を言わない)のなら…」と本音を漏らした外務官僚の言葉が忘れられない。これまでの日本の拠出額は80億円を超えた。人道的支援ならば、日本はもう十分にやったであろう。譲歩すればするほど相手がかさにかかってくるのは「慰安婦問題」や徴用工をめぐる今回の韓国最高裁の判決で思い知らされたではないか。=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)
               ◇
 ■在サハリン韓国人支援共同事業
 平成元~30年度の日本の拠出額は約84億円。サハリンから韓国への永住帰国支援(約3800人、アパート・療養院建設)▽一時帰国支援(延べ約1万7000人)▽永住帰国者のサハリン再訪支援(同約6900人)▽サハリン残留者支援(文化センターの建設など)。ほかに療養院のヘルパー代やサハリン残留者の医療相談、老朽化した施設の改修費などを負担。31年度予算の概算要求にも1億円あまりが盛り込まれている。

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【海峡を越えて「朝のくに」ものがたり】(42)

(42)慰安婦問題の原点「サハリン裁判」 “朝鮮人狩り”証言した吉田清治 2018.10.27

 軍の命令で朝鮮人女性を慰安婦とするために暴力で狩り出した-などという吉田清治の虚偽の話が、それをうのみにした朝日新聞の記事によってバラまかれ、今や世界中に慰安婦像が立ち並ぶ事態になってしまった経緯は、いまさら繰り返す必要もないだろう。
 吉田はもちろん、尻馬に乗って、さんざん日本の行為を非難した革新政党の政治家や、進歩的文化人とよばれた学者や、ジャーナリスト、弁護士たちの責任はあまりにも重い。この結果、「従軍慰安婦」「朝鮮人強制連行」など、戦時には存在しなかった言葉が、日本の悪行のシンボルのごとく使われるようになり、ウソがウソを呼んだ。

 その吉田がスポットライトを浴びることとなったのが昭和50(1975)年12月、東京地裁に起こされた「樺太(からふと)残留者帰還請求訴訟」(サハリン裁判)である。57年、法廷で朝鮮人の「強制連行」や「慰安婦狩り」を証言した吉田はメディアに大きく取り上げられ、翌年には同様の話を綴(つづ)った著書を出版。韓国で「謝罪碑」なるものを建てサハリン残留韓国人の遺家族の前で土下座パフォーマンスを行う。虚偽の話はどんどん拡散していった。
 日本叩(たた)きに狂騒する日本人たちにとって吉田の証言は貴重だったろう。何しろ“加害者側(日本人)”による具体的、詳細な告白だったのだから。社会の注目を集めたサハリン裁判に味を占めた彼らはそれ以降、「戦後補償」「戦後責任」という言葉を声高に掲げて日本政府を非難し、慰安婦問題をはじめとする補償請求訴訟などを次々に起こしてゆくことになる。

 ■「日本糾弾」が主目的
 そもそも、サハリン裁判は奇妙な性格をもっていた。残留韓国人問題(別項)の本来の目的は、ソ連(当時)が出国を認めないサハリンの朝鮮出身残留者を「故郷(主に韓国)の家族のもとへ帰したい」ということである。事実、残留者のひとりで、妻が日本人であったために一足先に日本へ帰国できた朴魯学(パク・ノハク)(昭和63年、75歳で死去)らは、韓・ソの国交がない時代に、外務省やソ連大使館などを回り、署名を集め、何とか堅い門をこじあけようとしていた。

 ところが、元日弁連会長を団長とする大弁護団は、サハリンに残っている朝鮮出身者4人を原告に仕立てた上、彼らは、日本政府の強制連行政策によって当地に送られ、戦後、置き去りにされた(つまり、すべては日本がやったこと)。当事者の責任として、日本政府は原状回復(日本への帰国)させる義務がある-と主張したのである。
原告サイドの中にも“無理筋”ではないか、と門前払いを危惧する声があったが、そうはさせじ、と、前述した事実ではないプロパガンダをメディアに訴えては世論を煽(あお)った。
 吉田自身もサハリンとは何の関係もない。すでに著作を出し、講演活動も行っていた吉田を法廷に連れ出した弁護団の思惑は朝鮮人「強制連行」の“非道ぶり”を印象づけることにあったのだろう。思惑通り、裁判開始から7年後の57年9、11月の2度の「吉田証言」は、裁判の流れに強いインパクトを与える。

 朴とともに帰還運動に取り組んだ新井佐和子(88)は著書『サハリンの韓国人はなぜ帰れなかったのか』にこう書く。《「強制連行」の事実は決定的なものとなって、裁判を継続するにあたっては有利に働いた。さらには日本人の意識のなかに日本の植民地支配の残酷さをすりこみ、加害者意識をかきたたせる結果となり…》。弁護団らは、朴らの運動に寄り添う姿勢を見せながらも、日本政府を糾弾し、謝罪を求め、やがては補償をさせる-ということに主たる目的があったとしか思えない。
 注目された裁判には、多くの支援が寄せられ、ボランティアや寄付金も集まってきた。裁判を支援するグループに加わった新井もその一人である。支援グループの主宰者の女性は学生運動の活動家らと密接な関係にあった。会の会計を担当した新井は、支援者から寄せられるカンパの振込先の通帳が著名な元活動家の名義になっていることを見て仰天する。「一般からのカンパを(主宰者の)独断で怪しげなところへ流用していた。公私混同というより『公』はゼロでした」

 裁判開始の時点で戦後30年、時間も経(た)ちすぎていた。新井によれば、裁判の証人として韓国から呼ばれた残留者の妻たちは法廷で「夫を返せ」と泣き叫び、コップを投げつける愁嘆場(しゅうたんば)を演じてみせたが、終わるとケロッとしていた。「箱根観光へも連れていきましたが、彼女たちは“タダで”日本に来られたことがうれしくて仕方がない様子でしたね」という。
 裁判に疑問を感じた新井は、やがて袂(たもと)を分かつ。

■「味を占めた」人々
 日本政府も国会議員も当初は、この問題に関心を持っていなかった。裁判で被告側(国)が主張した通り、終戦後のサハリンからの引き揚げは、連合国軍側(米ソ)によって決まったことで、(占領下にあった)日本政府は関与していない、法的責任はない-という立場である。関係国であるソ連と韓国の間には、まだ国交がない時代だ。社会党(当時)や公明党、共産党など野党側も、韓国より、北朝鮮と関係が深く、及び腰だった。

 こうした中で58年、公明党の衆・参院議員を務めた草川昭三(90)はサハリンへ乗り込んで、ソ連共産党の地元幹部と直談判。「帰りたい国民(朝鮮出身者)などいない」と怒鳴り付けられながらも、日本を舞台にした家族再会への道筋をつける。「人道問題じゃないですか。当時の党幹部からは『勝手なことをするな』と怒られましたが、安倍(晋太郎)外相や韓国の盧泰愚(ノ・テウ)大統領(いずれも当時)からは随分、感謝されましたよ」
 ところが、残留者の永住帰国のメドが立つようになってから、「オレがやったんだ」とばかりに多くの国会議員が割り込んできた。「味を占めた」人たちは“根拠なき巨額支援”に乗り出し、自・社・さ政権の村山富市内閣(平成6~8年)時代にそれはピークを迎える。 =敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)
                   

【用語解説】サハリン残留韓国人問題 
日本統治時代の朝鮮半島から南樺太(現在はロシアが「サハリン」として実効支配)へ、企業の募集や徴用によって渡った朝鮮半島出身者が終戦後もソ連(当時)によって当地に留め置かれた。当時占領下にあった日本政府は決定に関与していないが、一部勢力が「日本が強制連行しておきながら4万3000人(実際は多くて1万人)の朝鮮人を置き去りにした」などと事実でないことを喧伝(けんでん)し、政治問題化した。元残留者の朴魯学・堀江和子夫妻らによる粘り強い帰還運動などによって昭和63年には韓国への永住帰国が実現した。

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(41)

(41)「独裁の道具」にはさせない 死をも覚悟した訪朝 2018.10.20

 北朝鮮の金日成(キム・イルソン)・正日(ジョンイル)父子に側近として仕え、朝鮮労働党国際担当書記だった黄長燁(ファン・ジャンヨプ)の韓国への亡命(平成9年2月)は、世界中に衝撃を与えた。

 主体(チュチェ)思想を黄とともに研究してきた「同志」で、朝鮮大学校副学長(肩書は当時)の朴庸坤(パク・ヨンゴン)(90)にも、北朝鮮・朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)の追及の手が伸びるのは、避けがたい状況になった。

 朴著『ある在日朝鮮社会科学者の散策』に拠(よ)る。《黄長燁系列の余毒の清算は日本の朝鮮総連にも及んだ…ターゲットはこの私だと誰の目にもわかっていた。私には当時、朝鮮総連の社会科学者としての学位と学識の肩書(共和国科学院院士、在日朝鮮社会科学者協会会長など)がすべて冠せられていた》

 微妙な空気が続き、13年、ついに総連を通じて、朴に訪朝の招請状が届く。妻は猛反対した。「(訪朝すれば)二度と帰れない。殺されるかもしれない」。朴も“片道切符”を覚悟したが、「命を惜しんでいかないのは卑怯(ひきょう)だ」と覚悟し、黄から「決起」の計画を聞かされたとき以来、6年ぶりの訪朝を決意する。

 平壌では、そのまま北朝鮮に居残って主体思想の研究を行うことを勧められたが、日本のNIRA(政府系の総合研究開発機構)客員研究員として書いている論文がまだ執筆中であることを理由に断った。

 逆に、朴には何としてでも聞かねばならないことがあった。「最近、主体思想が強調されていないのではありませんか」と党中央の幹部に質(ただ)すと「今は『先軍政治(金正日が掲げた軍事中心の方針)』の時代だ」と返された。

■「人間のくず」の悪罵
 緊迫したやりとりの中で、朴は何とか“イエローカード”で踏みとどまる。帰国後、今度は総連議長の徐萬述(ソ・マンスル)(平成24年、84歳で死去)らから呼び出される。徐は、NIRAの論文を気にして、出版前に組織の承認を受けるよう迫ったが、朴はもはや、学者としての良心に逆らうつもりはなかった。生涯をかけて研究してきた主体思想が“独裁政治の道具”として歪(ゆが)められ、蔑(ないがし)ろにされている。朴には「先軍思想が主体思想の神髄になることなどありえないこと」だった。

16年3月に製本されたNIRAの論文には、《金正日政権の非理を論難するくだりがあった…反北朝鮮文書の意図的流布と解せられた。執行猶予は取り消された》(「同書」から)。朴は、23年間続けた朝大の副学長、総連中央委員などを解任された。

 さらに19年、テレビ番組に出演して、それまで極秘だった「朝大生200人の帰国(昭和47年)」の事実を公表したことにより、すべての勲章や称号の返還を求められたことは以前(連載38)に書いた通りである。北朝鮮の朝鮮中央通信は朴のことを「人間のくず」だと罵(ののし)った。

■消えた「主体思想」
 北朝鮮の国家と党の公式イデオロギーであったはずの「主体思想」という言葉は近年、あまり使われなくなった。一昨年、36年ぶりに開かれた朝鮮労働党の党大会でも、その言葉はどこにも見当たらない。

 朴自身は、『博愛の世界観』を使うことにした。「(主体思想は)人間があらゆるものの主人であり、あらゆるものを決定する。誰も解明できなかった問題を主体哲学は解明しました。未来の理想社会は、自由と幸福とが保障される人道主義社会であるべきです。世界を発展させる最も強い力は『愛』による統一ですから、『博愛の世界観』と呼ぶことにした。もう私は『主体思想』という言葉は使いません」

■朝大は国際化すべきだ
 平成12年には、韓国の左派政権下で朝鮮籍者の訪韓要件が緩和されたことで、昭和23年に“海峡を越えて”日本に密航して以来、52年ぶりに韓国全羅南道の故郷を訪ねた。5年後に再び訪韓したときには、韓国へ亡命した黄と、涙の再会を果たしている。

 総連組織を離れた今も、個人的つながりまでなくなったわけではない。長く教員として在籍した朝大の教え子は数千人、現在の総連幹部の中にも多い
朴が教員として赴任した朝大の草創期、校舎などは教職員と学生自らの手で建てられた。朴が慣れない講義に四苦八苦しているときも、若い学生たちは熱心に耳を傾けてくれた。1960年代の「金炳植(キム・ビョンシク)事件」の後、荒廃した朝大の再建を任されたときは、学校に泊まり込み、寝る間も惜しんで一人一人に改革を訴えた。再び朝大が正常化するまで3年の月日が必要だったという。朝大への思いはいまなお強い。

 在日コリアンは日本社会への同化が進み、若い世代の意識も急速に変わりつつある。こうした動きに耳を貸さず、依然、北朝鮮の独裁体制への“盲従”をやめようとしない総連組織は細り、求心力は低下、朝大の在校生も、全盛時から大きく減り、存続の危機に立たされている。

 朴の目に「朝大の現状」はどう映っているのか。
 「(朝鮮学校で行う)民族教育は必要だと思う。ただし、(北朝鮮の独裁体制を賛美するような)思想教育と一緒にするのはおかしい。僕は民族を愛し、世界を愛している。そういう思想教育に変えていかねばなりません。朝大はもっとオープンにすべきですよ。開放し、広く人材を受け入れる。そして、国際社会に通用する人材を育成してゆくために、もっと国際化すべきでしょうね」

 昨年出版した『ある在日朝鮮社会科学者の散策』は、激動の半生を赤裸々に振り返り、北朝鮮の独裁体制や総連組織への厳しい批判も綴(つづ)られている。朴は「信念を曲げずに書くことができた」という。

 まさに老学者による「頂門(ちょうもん)の一針(いっしん)」というべき本だったが、総連関係者からの反応はなかった。

 目を悪くし、体調は必ずしもよくない。それでも、朴は『博愛の世界観』を究めたい一心で思想的な格闘を続けている。=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (40)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(40)引き金となった「決起未遂」 黄長燁亡命事件の真相 2018.10.13

 「主体(チュチェ)思想」は、1950年代の中ソ対立のはざまで、北朝鮮の独自性を打ち出そうとした初代権力者、金日成(キム・イルソン)が提唱し、側近の黄長燁(ファン・ジャンヨプ)らによって体系化された。「革命と建設の主人は人民大衆である」などと規定した北朝鮮と朝鮮労働党の政治思想である。

 やがて、主体思想は、後継者となった金正日(キム・ジョンイル)によって、「金日成の絶対化・神格化」のツールとして利用され、変質してゆく。

 後に主体思想研究の日本での第一人者となる朝鮮大学校元副学長、朴庸坤(パク・ヨンゴン)(90)が“絶対化”の一端に触れるのは1974年7月、朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)の「第2次教育者代表団」の一員として初訪朝したときだ。

 朴らは、金日成総合大学の一室に案内され、通しナンバーがふられた赤い表紙の小冊子「党の唯一思想体系確立の10大原則」(別項)を受け取る。朝鮮労働党中央の指導員が読み上げた内容は、まさに衝撃的であった。

 朴の著書『ある在日朝鮮社会科学者の散策』を見てみよう。《後継者に内定した金正日が最初にやった仕事は、「党の唯一思想体系確立の10大原則」を定めたことだった…金日成の神格化、偶像化の宣言であり、疑似宗教国家への変質の道を開く宣言だった…》

 「(初めて聞いたとき)大変なショックを受け、思わず(指導員に)質問をした。『これは事実なのでしょうか?』と。マルクス主義の研究者だった私にとっては、『絶対化』『神格化』などは、あり得ないことでしたからね」

 約2カ月後に帰国した朴は、自宅に飾っていた金日成の肖像を庭にたたきつけ、一時は組織を離れる決意を固める。だが、周りの状況が許さなかった。初訪朝直前には、朝鮮総連の幹部を養成する朝大政経学部の学部長に就任したばかり。翌年5月には、ポーランドで開かれる世界教員大会に出席する総連の派遣団団長に選ばれていた。

 さらに、思わぬことが起きる。1977年9月、北朝鮮の平壌で開かれた「主体思想国際討論会(セミナー)」に総連代表団団長として参加した朴に、主体思想に関する基本演説をする役割が割り振られたのである。マルクス経済学が専門の朴にとって“畑違い”の分野だが、組織の決定を拒否することはできない。

 以来、朴はこの新しい思想・哲学に対して次第に魅了されてゆく。金日成総合大学付属の主体思想研究所研究員、総連傘下の社会科学者協会会長、朝大社会科学研究所長などの肩書を与えられ、黄長燁らとともに、体系化する仕事に熱中することになる。

◆神格化は認めがたい

 だが、主体思想を学問として究めようとする黄や朴と、それを、政治的に利用したい金正日らとは、いずれ衝突せざるを得ない「運命」にあった。

 朴が平壌に滞在していた1995年10月、黄から衝撃的な話を打ち明けられる。再び、朴書に拠(よ)る。《主体思想がマルクス・レーニン主義者に受け入れられないのは、マルクス主義思想を標榜(ひょうぼう)しながら唯物的弁証法とは縁もゆかりもない首領(金日成)の神格化、絶対化を唱え、現在の独裁体制を思想理論で支えているからだ、と黄長燁は自らの考えを述べた…》

 その上で黄は、翌96年2月にモスクワで開催される主体思想の国際セミナーの場で、その考えを世界の研究者の前で披露する、ついては、メインスピーチを朴にやってほしいという話であった。「私たちは、これほど深く、新しい真理を追究しているのに、広く受け入れられないのは『10大原則』が妨害しているからだ。『それと主体思想は全く違うんだ』と世界に広言すべきだと思いました。国(北朝鮮)に背くことになるが、学者としての良心の方が大事だった」

 黄の計画は、それだけではなかった。モスクワでの意見表明と呼応して平壌では金正日の義弟である張成沢(チャン・ソンテク)(2013年処刑)や軍幹部が決起し、独裁体制を終わらせようというのである。「勝つか、負けるか…命がけの計画でした。(黄は)党と軍の幹部、思想学者が立ち上がれば、大衆の支持を必ず得られると信じていたのだと思います」

 ところが、病気に倒れた朴がモスクワのセミナーに参加できなくなり、黄はひとり小さな集会の場で思いのたけを語った。そのスピーチが録音されて金正日に報告され、黄の立場は一気に悪化する。「決起」は行われなかった。

 ◆青酸カリを懐に忍ばせ

 1997年2月、すでに“イエローカード”を突きつけられていた黄が国際セミナーの団長として来日、東京・新宿のホテルで夜半、ひそかに朴と再会する。翌朝早く、人けのない公園で2人は語り合った。《(黄は)ポケットから小さな袋を取り出し…「金正日が私をこのまま放っておくはずがない。これ以上生きるのが苦しくなってきた。青酸カリがある。これを飲めば苦しまずに死ねるだろう…」。私たちは、かたく抱擁しあった。私の両頬は涙にぬれた》(「同書」から)

 黄は、日本から帰国の途に立ち寄った中国・北京で韓国大使館に駆け込み、政治亡命する。北朝鮮側は、悪罵(あくば)の限りをつくして黄を非難、家族ら係累は、政治犯収容所へ収監されたり、自ら命を絶ったりした。もしもモスクワのセミナーで、朴が多くの聴衆の前でスピーチできていたら、「決起」が行われていたら事態は違っていただろうか?
「黄長燁一派」と見なされていた朴にも、危険が迫っていた。=敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)
                  


【用語解説】黄長燁(ファン・ジャンヨプ)1923(大正12)年、日本統治下の朝鮮出身。戦前、日本の中央大学で法学を学ぶ。戦後、ソ連(当時)のモスクワ大学へ留学。北朝鮮の金日成総合大学総長、朝鮮労働党国際担当書記などの要職を歴任。主体思想を体系化し、金日成・金正日父子に重用されたが、1997(平成9)年、出張先の中国・北京で韓国大使館へ駆け込み、亡命した。2010年、韓国・ソウルで病気のため、87歳で死去。
                  


【用語解説】党の唯一思想体系確立の10大原則 
1974年に北朝鮮の朝鮮労働党が定めた全組織・国民の行動規範で、金日成の後継者に内定した金正日が主導した。「偉大なる首領金日成同志の革命思想によって全社会を一色化するために身を捧(ささ)げて闘わねばならない」(第1条)などと、金日成の権威の絶対化、金日成の思想以外を排除する唯一思想体系の確立を図ったもの。2013年「金日成・金正日主義」の文言が盛り込まれ、一部修正された。

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海峡を越えて「朝のくに」ものがたり (39)

海峡を越えて「朝のくに」ものがたり
(39)最後までトップに固執した総連議長 「政治の道具」にされた朝大

 朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)の初代議長として、亡くなるまでトップの座に君臨し続けた韓徳蛛が
戦前。”海峡を越えて”きた経緯や初期のころの日本での活動についてははっきりしない部分が多い。
 「歌が好きで音楽家を志していた」とか、トンネルエ事の肉体労働に就いていたときに、文字が書けない
同胞が朝鮮の家族に送る手紙を代筆してやり、「リーダーとして信望を集めていった」などというエピソー
ドも伝わっている。
 終戦直後の昭和20年10月に結成された在日朝鮮人の組織「在日本朝鮮人連盟(朝連)」から、10年後の
朝鮮総連発足に至る激動の中で、韓は、北朝鮮の権力者とのパイプをバックにして総連組織を掌握。在日同
胞の権利擁護よりも、北朝鮮の意向を代弁する機関へと変質させてゆく。
 その韓が、最後まで手放さなかったポストは、総連議長だけではない。総連コミュニティーの人材を育成
する各種朝鮮学校の頂点に位置する朝鮮大学校と、総連幹部の再教育機関である中央学院のトップ(名誉学
長)もそうである。
 朝大の副学長を23年間務めた朴庸坤(90)が書いた『ある在日朝鮮社会科学者の散策』を引いてみよう。
 《(韓は)総連議長として辣腕を振るったが、権力欲が強く、自分に対抗する力ある幹部を順次、北(朝
鮮)送し、地位の保全を図った。組織の要諦である人材育成機関、中央学院と朝大のトップの座は決して手
放さなかった》
 ただ、朴の。人間・韓徳鉄”への評価は少し違う。副学長として長く仕え、かわいがられたという思いが
強い。「(常任ではない韓が)朝大へやってくると必ず僕を探すんだよ。『朴庸坤はどこだ?』つてね。権
力を維持するために強引なこともやったでしょうが、リーダーとしての手腕や人をひきつける魅力があっだ
のは確かでしょう」
 ■日本人妻と離婚せよ 
 韓は、主体思想研究の日本での第一人者として、北朝鮮本国が認める輝かしい研究成果と肩書を持ちなが
ら長い間、朝大副学長に留め置かれたままの朴を何とか、学長にしたいと思っていた。ネックになっていた
問題は2つである。1つは、朴が、朝鮮の全羅道出身で、根深い地域感情から在日コリアンに多い慶尚道出身者からの反発(寄付金が集まらないことなど)が予想されたこと。
 2つ目にして最大のネックは、朴の妻が日本人であることだ。日本は、北朝鮮が、米国とともに。"打倒す
べき敵”などと位置づけていた存在である。韓自身をはじめ、歴代の朝大学長、総連幹部らは、日本人や外国人の妻をわざわざ離婚してまで。”身の証”を立てていた。朴も昭和35年、朝大教員になったとき、すでに大学校幹部から、日本人妻との離婚を忠告されていたが、ずっと従わずにいたのである。
 「(韓は)『故郷(全羅道出身)の問題は私か何とかしよう。だが(朝鮮学校の最高学府である)朝大の学長の奥さんが日本人では、さすがに示しがつかんじゃないか』というのです。私は『地位(学長)』は求めません。『役割』で仕事をします、とやんわり断りましたが…」
 朝大に通うのは、日本で生まれ、将来も日本社会で生きてゆくであろう在日コリアンである。そんな若者たちに、北朝鮮の政策・思想を押しつけ、いまだにその。”モノサシ”しか容認しようとしないところが、朝大の異常性であろう。「日本」で差別されたのは朴だけではない。母親が日本人だったというだけで、朝大での昇任を阻まれた研究者もいたという。
 結局、朴が朝大学長になることはなかった。北朝鮮の意向に沿わぬ論文執筆やテレビ番組で、朝大生200人を北朝鮮へ送った秘密を暴露したことによって、朝大副学長職など、平成19年までに、すべての肩書・称号を剥奪されたことは前回書いた通りである。
 ■叩いて腑抜けにしろ
 朴の著書には、1960年代後半、韓にとってかわろうとした金炳植(総連第一副議長、後に失脚して北朝鮮へ送還)とが、朝大を巻き込んだ激しい権力闘争を繰り広げたことが詳しく綴られている。((韓が拠点とする朝大への)金炳植の陰湿な攻撃が始まった・・・大学の教職員の思想点検が始まった。極左学生運動の内ゲバ的な自己批判だった・・・「まず徹底的に叩け。俯抜けにしろ。それから種を蒔け」》 (同書)
 教育機関にあるまじき暴力・監視・密告…。金炳植は、北朝鮮の初代最高権力者、金日成の思想だけを神のごとく崇めさせ、それをタテにして総連内の権力を掌握しようとした。
 根っからの学究肌で、若い学生に教えることに情熱を燃やしていた朴もまた夕ーゲットにされた。何日も自宅に帰れないまま、自己批判書を書かされてしまう。「(すべてを金日成の思想に関連づけるため)僕の担当講義もなくなったし、図書館からは『三国志』のような本までが消えていく。精神的に追い詰められて、自ら命を絶つことまで考えましたね」
 昭和47年に、金炳植が失脚すると、朝大内でも今度は。金一派の追い落とし”が始まる。教育機関が醜悪な政治の道具とされ、多くの優秀な教員が学校を去った。疑心暗鬼が支配し、学内は荒廃してゆく。
 混乱の中で、「朝大再建」の重責を担わされたのは朴だった。一時は自死まで覚悟した朴は、やがて、
生涯をかけることになる
「主体思想研究」とめぐり合い、再び、学問の道へとのめり込んでゆく。
   =敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)


 韓徳鎌(ハン・ドクス)
 朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)初代議長。朝鮮大学校初代学長。明治40(1907)年、朝鮮半島の慶尚北道(現・韓国)生まれ。戦前、日本に渡り、(1955)年に結成された朝鮮総連のトップ(議長)として、平
成13年、94歳で亡くなるまで強い権力を保持し続けた。

 ■朝鮮大学校 
 昭和31(1956)年に創設され、34年に現在の東京都小平市に移転。政治経済、理工、教育、外国語など、8学部や研究院、研究所などを備える。文部科学省所管の大学ではなく、東京都が認可する各種学校。北朝鮮が海外公民と位置づけている在日朝鮮人のための「民族教育の最高学府」「(北朝鮮の)唯一の海外同胞大学」と称している。全寮制で、卒業後の進路は、朝鮮総連関係団体の専従職員や朝鮮学校教員などが多かったが、現在の在校生数は、ピーク時の3分の1近くに減少している。

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (38)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(38)主体思想研究の第一人者 朝鮮大学校元副学長の慟哭 2018.9.29

 朝鮮大学校(東京都小平市)の副学長を23年にわたって務めた朴庸坤(パク・ヨンゴン)(90)が密航船に揺られ、“海峡を越えて”、朝鮮半島から日本へ渡って来たのは、戦後の昭和23(1948)年、6月18日のことである。

 北緯38度線を挟んで米ソ両国が進駐し、事実上、南北に分断された朝鮮半島は混乱状態が続いていた。民族の独立を目指し、南朝鮮労働党(後に北朝鮮・朝鮮労働党に統合)の活動家となった朴は、モスクワ留学も決まり、前途洋々に見えたが、ぬれぎぬのスパイ容疑をかけられ、故郷に居づらくなってしまう。

 20歳の朴はひそかに、日本へ渡ることを決心。小さな船に詰め込まれ、済州島を経て、瀬戸内海の広島・尾道に上陸した。「尾道は警戒が緩く、まったく怪しまれなかった」という。

 愛知県内の親類宅に身を寄せた朴は、20年10月に結成された在日朝鮮人団体「在日本朝鮮人連盟(朝連)」愛知県本部の仕事や朝連の民族学校の英語講師をして糊口(ここう)をしのぎ、愛知大に編入する。同大は上海にあった東亜同文書院の系譜を引き、外地から引き揚げた教員・学生の受け皿として戦後創設された学校で、優秀な人材がそろっていた。朴は、東京帝大出身のマルクス経済学者、林要(かなめ)らに師事。学部、研究科(大学院)を経て助手となり、11年にわたって同大に在籍し、研究に打ち込む。

 そのままいけば、同大の教授になるか、故郷(後に韓国)に帰って、経済学の研究者として穏やかな人生が待っていただろう。だが、ふとしたことで始まった朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)、そして北朝鮮との関わりが朴を激動の渦に巻き込み、「主体(チュチェ)思想」研究の日本における第一人者として、その学者人生をも大きく変えてゆく。

◆ない交ぜの在日社会
 朴の後半生をたどる前に、終戦後の在日社会について説明しておきたい。戦争が終わり、日本に200万人以上住んでいた朝鮮人のうち、約140万人が朝鮮半島に帰った。ところが、混乱と貧困によって再び日本へ舞い戻ったり、朴のように、新たに日本を目指したりした朝鮮人らが“ない交ぜ”になって形成されたのが後の「在日朝鮮・韓国人」という存在である。

 日本の行政機関も、混乱していたらしい。戦後にやってきた朴が後に外国人登録を行ったとき、「戦前から親類方に住んでいた」と申告すると、役所側は詳しく調べもせず、すんなり受理されたという。

 前述の「朝連」は在日の権利擁護、帰国支援を目的に結成された。故郷を目指しながら、朝鮮語ができない日本生まれの2世らのために国語講習所を各地に開設、その後身が現在、総連傘下となっている各種の朝鮮学校である。やがて、在日の志向は帰国→定住へ。団体は朝鮮半島の分断とともに韓国支持の在日本大韓民国民団(民団)と北朝鮮支持の総連に分かれ、政治的な性格を強めてゆく。

 ◆帰国事業参加から一転
 朴の人生を変えたのは、34年から始まり、約9万3千人の在日朝鮮人や日本人配偶者・子が北朝鮮へ渡った帰国事業である。

 朴には、交際中の日本人女性(現在の妻)がいたが、故郷に連れて帰ろうにも名家出身の父親が「日本人の嫁」を認めるはずがない。ならば一緒に帰国事業に参加して北朝鮮へ行き、社会主義国家建設に加わろう、と総連の窓口に申し込んだ。資本主義に対する「社会主義の優位」が信じられていた時代である。夫妻は、35年早々の帰国船に乗り込むはずだった。

 ところが、もう一度“賽(さい)の目”は転がる。

4年前(31年)に東京朝鮮中高級学校(日本の中・高に相当)に間借りして開校した「朝鮮大学校」が34年6月から、東京都小平市の約2万坪の新キャンパスに移転しており、規模の拡大にともなって教員の増員に迫られていた。

 総連は急遽(きゅうきょ)、朴の帰国を取りやめさせ、幹部教育機関である中央学院へ送った上、新装なった朝大教員となることを命じる。思いもかけないことだったが、組織(総連)の決定に逆らうことなどできないし、朴自身も若い学生たちを教えることに魅力を感じた。

 まさに、運命の分かれ目であったろう。帰国事業参加者は資本主義の毒に染まった日本からの帰国者として差別を受けただけでなく、スパイ容疑などの冤罪(えんざい)を着せられ、政治犯収容所に送られた人も珍しくない。監視・密告が横行し、“地上の楽園”という宣伝文句とは全く逆のひどい暮らしに疲れ、多くがボロボロになって死んでいった。

 ◆朝大生の帰国を暴露
 朴は49(1974)年に初めて訪朝するまで、その実態を知らなかった。だから47年に北朝鮮の初代最高権力者、金日成(キム・イルソン)の還暦祝いとして、朝大生200人を北へ帰国させるよう指示が来たとき、逡巡(しゅんじゅん)する学生・保護者を説得して回り、背中を押したのである。

 女性映画監督、ヤン・ヨンヒ(53)の長兄(当時朝大1年)も、このとき帰国した。長兄は、後に心身を病み、60歳を前にして亡くなったという。「朝大生200人帰国」の事実は長く秘密とされた。

朴が初めて訪朝したとき、ひそかに宿泊先まで会いに来た元朝大生は、恨み言ひとつ言わなかったという。朴はひとり慟哭(どうこく)する。取り返しのつかないことをしてしまった、と…。平成19年、テレビ番組で朴は、この事実を初めて公にする。そして北朝鮮からすべての称号などを剥奪された。「自責の念ですよ。いつか機会があれば、話すべきだとね。帰国事業は、総連最大の事業だった。ちゃんと総括すべきでした」=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)
                   


【プロフィル】パク・ヨンゴン 
昭和2(1927)年11月、日本統治下の朝鮮・全羅南道和順郡(現韓国)生まれ。23年、日本へ渡り、愛知大でマルクス経済学を学んだ。35年、朝鮮大学校の教員となり、政治経済学部長、副学長を歴任。朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)傘下の在日本朝鮮社会科学者協会(社協)会長、総連中央委員などの要職を務め、日本での「主体思想」研究の第一人者となった。

 2000年代になって主体思想が北朝鮮の金一族独裁に利用され、ゆがめられたことや、北朝鮮へ朝大生約200人が金日成の「還暦祝い」として帰国させられたことを論文やメディアで公表。北朝鮮から与えられた称号や20年以上務めた朝大副学長の役職などを剥奪された。主な著書に『ある在日朝鮮社会科学者の散策』『主体的世界観』など。

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (37)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(37)朝鮮初の女性パイロット 思いは遥か故郷の大空へ
2018.9.22

 『朝鮮交通史』(昭和61年、鮮交会)に、日本統治時代の「朝鮮出身操縦士名簿」(航空局発行、13年まで)が載っている。40人弱の朝鮮人の中で、女性パイロットが2人。その一人、朴敬元(パク・キョンウォン)(1901~33年)は、日本統治下の朝鮮で、初めて操縦士免許をとった女性であった。

 朝鮮・慶尚北道の大邱出身。東京の日本飛行学校を出て、3年5月に、操縦士2等の免許を取得している。当時の免許は、操縦の条件によって1~3等に分かれ、2等は、女性では最高の免許。日本人女性と合わせても3番目だった。翌4年7月には、朴を慕って来日した日本飛行学校の後輩女性、李貞喜(イ・ジョンヒ)がやはり2等免許を取得している。

 第1号となった朴の夢は故郷・朝鮮への凱旋(がいせん)飛行だった。8年8月7日、念願の愛機『青燕(あおつばめ)』(複葉単発機「サルムソン2A2型」)を手に入れた朴は勇躍、羽田を飛び立つ。大阪・福岡を経由して“海峡を越え”、朝鮮から満州へ向かうフライトだった。

 ところが、離陸後しばらくして通信が途絶え、現在の静岡県熱海市内にある玄岳の斜面に墜落してしまう。事故を知った付近の住民総出で捜索したが、朴の死亡が確認され、遺体は現地で荼毘(だび)に付された。事故は当時の新聞にも大きく取り上げられ、朴の夢は悲劇で終わった。

 2号の李貞喜もまた、朝鮮戦争(1950~53年)時に拉致され、北朝鮮へ渡ったと伝えられている。

 ■ワンパターンの反日

 朴敬元の物語は、戦後も続いてゆく。事故から70年近くたった平成12年、当時の首相、森喜朗(よしろう)と韓国大統領、金大中(キム・デジュン)による日韓首脳会談が静岡県熱海市で開かれる。2年後、その縁で熱海梅園に李朝時代の韓国庭園が造られ、その中に、日韓友好のシンボルとして「朴飛行士記念碑」が建てられることとなった。
「思いは遥(はる)か故郷の大空」と題された碑文には、日韓両国語で、朴の経歴や事故の経緯が刻まれている。こぢんまりとした韓国庭園内には、両首脳直筆を刻字した友好平和記念碑も設置された。朴飛行士の慰霊祭には、後輩である韓国の航空関係者も訪れ、先人の遺業を偲(しの)んだという。

 2000年代半ばには、朴を主人公とした韓国映画『青燕』が製作された。ところがその内容は“お決まりの反日”。産経新聞ソウル支局長(当時)の黒田勝弘が、コラム「ソウルからヨボセヨ」(平成18年1月21日付)に書いている。

 《…映画を見て失望した。親日映画どころか逆に反日映画なのだ。(略)「あるがままの歴史」より「あるべき歴史」が優先する“韓国人の歴史観”そのものでした》と。

 ■13年間の朝鮮定期航空

 日本統治下で、朝鮮の定期旅客航空網は大きく発展した。昭和13(1938)年の朝鮮航空路(日本航空輸送)は、東京・大阪・福岡の内地から、朝鮮(大邱・京城・平壌・新義州・清津など)を経て、日本の租借地であった、関東州の大連や満州国の奉天(現中国・瀋陽)・新京(同長春)にまで、翼を広げている。

 9年10月の鉄道省編纂(へんさん)航空時刻表の東京-大連のタイムテーブル(日本航空輸送)を見てみたい。東京を午前9時30分に離陸、名古屋・大阪に寄航して福岡着は夕方4時。さらに京城着は翌日昼の12時40分。最終目的地の大連着が夕方の4時(満州時間・日本の標準時マイナス1時間)。計約2100キロメートルを、1泊2日(各空港での待機時間を含む)で飛んだ。鉄道と日満航路の船を乗り継げば、4日かかる行程である。

 当初の航空機の利用客は少なく、4年から定期旅客航空営業をスタートさせた日本航空輸送の初年度の総旅客数は、わずか943人。8年の朝鮮内主要飛行場利用状況をみても、出発旅客数が1千人を超えたのは京城だけである。京城の飛行場は現在、国会議事堂や高層ビルが立ち並ぶ漢江の中洲・汝矣島(ヨイド)にあった。戦後しばらくも、軍民両用の空港として使用されている。
その後、同社は順調に路線を延ばしてゆく。朝鮮・満州のほか、中国(青島・天津・北京、上海・南京)、沖縄・台湾線など、総営業キロは計1万2837キロ(昭和13年10月、『日本航空輸送 10年史』から)に達した。これは4年の開業時の約5倍。総旅客数も5万5547人(12年10月~13年9月)と、実に60倍近くに膨れ上がった。

 朝鮮での定期旅客航空の輝きは短い。同社は13年12月、国策によって国際航空と統合し、新たに国策会社色が強い大日本航空が発足。16年12月、対英米戦争が始まると、民間機路線は次第に縮小されてゆく。

 『朝鮮交通史』にこうある。《大日航機は次々と軍に動員され、朝鮮関係の昭和17年冬ダイヤ以降は急激に縮小され、一般的には休航と告示された》。同年秋以降は、陸・海軍の徴用体制に組み込まれ、朝鮮関係は陸軍の担当となった。

 《(朝鮮の)実質的な民間航空輸送機関としての役割は昭和4年より昭和17年までのわずか13年間…17年以降の朝鮮関係の定期航空は減便され、主幹線でもせいぜい週3往復程度に止(とど)まったが、大邱-福岡間の特別航路のみが毎日3往復する程度であった》

 この定期旅客航空の歴史に、女性パイロットは登場しない。事業用航空機の操縦桿(かん)を握ることができる免許(1等)は当時、男性に限られていたからだ。もしも、制限がなければ、朴敬元が、「民間定期航空機」の朝鮮女性パイロット1号の栄誉も合わせて勝ち取っていたかもしれない。=敬称略、土曜掲載 (文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (36)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(36)蔚山(ウルサン)飛行場の栄枯盛衰 朝鮮の大空かけた旅客機 2018.9.15

 蔚山(ウルサン)は、釜山の北約70キロ、朝鮮半島南部東海岸にある港町。現在は、韓国を代表する財閥・現代グループの企業城下町として知られているが、昭和17(1942)年の朝鮮総督府統計によれば、人口(蔚山郡)約2万9千人、このうち日本人(内地人)は675人しかいない。

 宮崎市在住の岩下鎮生(しずお)(92)の父、久栄(ひさえい)(1894~1969年)は大正3(1914)年、宮崎師範を出て、12年に朝鮮へ渡った。昭和7年4月、釜山高等小学校から蔚山小学校の校長として赴任。翌年に同小に入学した鎮生は、「釜山に比べると蔚山はとても小さな街で、さびしい田舎に見えた」と振り返る。

 その蔚山郡の三山里に4万円の巨費を投じ、京城飛行場(汝矣島(ヨイド))と並ぶ「蔚山飛行場」が造られたのは3年のことである。約6万坪の敷地に600メートルの滑走路と格納庫、航空会社事務所などを備え、10年には約10万坪に拡張され、拠点空港のひとつとなった。

 政府の支援を受けた航空会社「日本航空輸送株式会社」の設立も3年の10月。翌4年4月から内地、朝鮮、満州間相互の貨物・郵便輸送を開始、同年10月からは、定期旅客便の営業もスタートさせている。路線は内地の東京-大阪、大阪-福岡のほか、京城-平壌、平壌-大連など。「蔚山」は京城-福岡ルート、その先の内地や大連への中継地となっていた。

 とはいえ、民間飛行機を利用できるのは、まだまだひと握りの人だけ。9年3月の民間航空事業概況によれば、朝鮮内の定期航空航路は計約670キロでしかない。就航している航空会社は、日本航空輸送と満洲航空の2社のみ。航空機は6機、パイロットは20人で、このうちの7人が朝鮮人パイロットとなっているのは興味深い。

◆ピカピカの陸軍献納機
 岩下一家が、7年8月に、蔚山飛行場で撮った記念写真が残っている。後ろに写っているのは同月、民間から陸軍に献納されたばかりのピカピカのプロペラ飛行機。機体には『愛国43(朝鮮)』の大文字と日の丸が、垂直尾翼には、機種を示す『九二式戦闘機』の小文字が書かれている。

 献納機は昭和初期に、国民による国防献金などで造られた軍用機。陸軍は「愛国号」、海軍は「報国号」と称した。日本全国のほか、外地の朝鮮、台湾、満州で行われ、企業や団体、女学生や児童のお小遣いなどで献納された飛行機もあったという。

 もうひとつの写真は8年3月、京城-蔚山-福岡便に就航していた日本航空輸送の「フォッカー・スーパーユニバーサル機」を蔚山飛行場で撮ったものである。同機は、3年から製造されたアメリカ製の単発プロペラ機(日本の中島飛行機でライセンス生産された)。約200機が製造されたが、日本航空輸送はうち二十数機を所有する最大のユーザーであった。

 全長約11メートル、420馬力の空冷9気筒エンジンを積み、最大速度は、時速約240キロ(巡航時約170キロ)。航続時間は、約5時間。パイロットら乗員2人、乗客は最大で6人しか乗れなかった。

 飛行機の前にちょうど6人の男女が写っているが、宣伝用にデモフライトで撮ったらしい。岩下鎮生の父、久栄も「一度、乗ったことがある」と鎮生は聞いたことがある。乗客数は年々増加したが、経営環境は厳しかったという。

 9年10月の時刻表によれば、蔚山-福岡間の運賃は18円(所要時間1時間50分)。船と鉄道を乗り継げば、蔚山-博多間は約14時間かかるものの、運賃は、約3分の1の計約6円30銭で済んだ。

◆飛行場長は後の日航社長
 もう一点、興味深い写真がある。

 8年4月、父、久栄が校長を務めていた蔚山小学校の奉安殿の前で撮った記念写真だ。奉安殿とは、天皇、皇后両陛下の御真影(ごしんえい)(写真)と教育勅語を納めていた建物のことである。

 奉安殿の前に整列した人の中に校長の久栄と並んで蔚山飛行場場長だった若手官僚の松尾静麿(しずま)(1903~72年)の顔がある。

 松尾は、旧制佐賀高から九州帝大機械工学科卒。民間企業を経て、逓信省に入省、朝鮮総督府航空官となり、蔚山飛行場長、大邱飛行場長などを歴任し、朝鮮とは縁が深い。戦後は、日本航空業界の復活に尽力し、日本航空の社長・会長などを務めた。

 岩下一家の写真には、自動車で到着した御真影を、たくさんの人々が道路に整列して恭しく迎えるところや、奉安殿の前に、教職員と児童が並んで立っている場面も残されている。この年に入学したばかりの鎮生もこの中にいたという。「奉安殿を新しくしたときの記念写真だと思う。松尾さんは当時30歳くらい。写真中央に写っているのを見ると、飛行場長の地位は高かったんでしょうね」

 民間の定期旅客便の中継地としての蔚山飛行場の“命”は短かった。

 12年、就航機の大型化にともない、中継地の役割は、慶尚北道の中心都市・大邱に移される。大邱飛行場は同年1月、約20万坪で開場、15年には約50万坪に拡張され、蔚山に取って代わる朝鮮内の拠点空港のひとつになった。

 蔚山飛行場は、定期旅客便が大邱に移った後は、陸軍の飛行場となった。600メートル滑走路と直角に交わる2本目の滑走路(600メートル)も建設されたが、戦後廃止され、住宅地となったという。=敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (35)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(35)日本が近代化した金融制度 高利貸に苦しむ朝鮮農民救う 2018.9.8

 拓殖大学は、明治33(1900)年、台湾協会学校として創設された。初代校長は後に3度首相を務める桂(かつら)太郎である。海外で活躍する有為な人材育成を目的とし、同40年には、東洋協会専門学校(改称)京城分校(後に官立の京城高等商業)を開校。朝鮮の近代化に尽くそうと多くの若者たちが“海峡を越えた”。

 その一人に、重松●修(まさなお)(1891~1975年)がいる。朝鮮発展に捧(ささ)げた無私の生涯は『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』(田中秀雄著)に詳しい。同校を卒業した重松は大正4(1915)年、朝鮮総督府の官吏になった後、同6年、朝鮮北部平安南道の陽徳地方金融組合理事に転じる。平壌から約150キロも離れた山深い厳寒の地であった。

 重松は、同8年3月に発生した大規模な抗日・独立運動「三・一事件」に巻き込まれて被弾。右足が不自由になりながらも、私財を投じて寒村に「養鶏」を根付かせ、「卵の代金を貯蓄させて耕牛を買う」というシステムを構築する。

 豊かになった朝鮮の農民たちは、やがて重松を「聖者」と呼び、功績を顕彰する頌徳(しょうとく)碑も建てられた。終戦まで朝鮮在任約30年。日本へ引き揚げたとき懐には、わずかな金しか残っていなかったという。

 ◆極めて幼稚な朝鮮経済

 重松がいた「金融組合」をつくったのは目賀田種太郎(めがた・たねたろう)(1853~1926年)である。

 米ハーバード法律学校(現大学)に留学、大蔵省主税局長などを務め、明治37年、第1次日韓協約の下で、大韓帝国の財政顧問に就任。紊乱(びんらん)の極にあった財政や金融システム、税制、貨幣制度の徹底改革・近代化に乗り出す。そのひとつが、農民に低利で資金を貸し付ける金融組合の設置(40年)だった。

 なぜ、金融組合が必要だったのか? 昭和11年発行の『25年!朝鮮は何を得たか?』(京城日報編)にはこうある。
《(大韓帝国時代は)経済の発達極めて幼稚で、貨幣制度乱雑を極め、高利の金貸し業者が跋扈(ばっこ)した…民衆は憐(あわ)れむべきもので、官吏と地主と高利貸の三大専制王に責められ…生き血を吸うもののために困殺(こんさつ)されんとしていた。かくして民衆の意気も、経済も、産業も、全く凋落(ちょうらく)衰微してしまっていた》と。

 農民を対象にする金融組合制度は、ドイツやベルギーの農村金融を参考に、相互扶助的な組織を目指したものだ。組合員は原則として朝鮮の小作農で、融資面では「成牛1頭分に相当する50円(後に100円)」を限度に低利資金を貸し付ける。当初は、農業の技術指導や種子や肥料、農機具の販売・貸与、農作物の委託販売なども行い、イメージとしては農協に近い。

 明治40年のスタート時には朝鮮全土に30の組合を設立、日本人理事に就任したのは30人全員が、後の重松のように東洋協会専門学校を出た若者たちだった。

 この低利融資は、荒廃していた朝鮮の農村を再生し、前近代的だった農業を大きく発展させる。

 『朝鮮金融組合史』(昭和4年、同金融組合協会刊)にある「貸付金を得て幸福に至る」という組合員・白仁順の例を紹介してみたい。いささか、講談調の記述で宣伝めくが、以下は、その大意である。

 《(朝鮮の)奸悪(かんあく)な地主の小作人であった白は13人の家族を抱えて生活費にも事欠き、地主に借りた金は積もり積もって大金に。その上、病気に罹(かか)り、地主から冷酷にも小作権を剥奪・退去を命じられてしまう…。困り切った白は紹介されて組合員となり、50円の貸し付けを受ける。一部を地主に返した後、牛や鶏卵などの商売を始めて貯蓄にも励んだ結果、数年後には牛10頭、田1町歩、資産500円を持つに至った》と。

 朝鮮全土に張り巡らされた金融組合網は、順調に組合数、組合員、貸付額を伸ばしてゆく。さらに、第一次大戦後の好景気を受けた大正7(1918)年の法令改正によって、農民だけでなく、「都市金融組合」として商工業者にも貸し付け(限度額300円)を行うようにもなった。
同じ頃、旺盛になった朝鮮産業界の資金需要に応えるため、大韓帝国時代からの各農工銀行を統合して、長期金融を主な目的とする「朝鮮殖産銀行」が新たに創設されている。金融組合との連携も密にしながら金融システムのネットワーク化を進め、“産業の血液”を供給していった。

 ◆長崎十八銀行の盛衰

 日本が関与した草創期、朝鮮の金融業発展に寄与したのは、彼らだけではない。長崎の地方銀行「十八銀行」は、国立銀行時代の明治19年、朝鮮にいち早く仁川出張所(後に支店)を開設している。

 長崎港は朝鮮貿易の拠点のひとつだった。十八銀行史『百年の歩み』(昭和53年)はこう書く。《日清戦争は清国商人を朝鮮から一掃し、軍需景気をもたらした。長崎港の日清貿易は衰退した反面(はんめん)、日鮮貿易が浮上した》。貿易量の増加に伴い、同行の朝鮮支店は元山、釜山、京城など次々と増設されてゆく。

 勢い込んだ同行は明治40年、不動産金融を目的とした韓国拓殖銀行の設立を企図したが、果たせずに終わる。翌41年に拓殖移民、殖産資金供給を行う国策会社の東洋拓殖株式会社が設立されたからである。

 昭和11年には、ついに朝鮮からの撤退を余儀なくされてしまう。金融組合の商工業者への事業拡大などによってシェアが低下。在鮮全9支店を、前述した総督府主導で設立された朝鮮殖産銀行へ譲渡・廃止することになったのだ。

 全行本支店24のうち9つの支店廃止は大事件である。『百年の歩み』には悔しさがにじむ。《当行は朝鮮支店の維持存続に努力したが、現地金融機関の発展整備や内鮮交易による長崎の地位など往時に比し著しい変遷を…》

 対して、朝鮮総督府は財務局長声明を出して同行の業績をたたえた。《その功績は没すべからず…(朝鮮)半島金融史上に長くその功績を留(とど)める》と。=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員  喜多由浩)

●=高の右に昇

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進まぬ遺骨収集112万柱今なお…

進まぬ遺骨収集112万柱今なお…
 先の大戦での戦没者は軍人・軍属約230万人、一般国民約80万人の計約310万人。
そのうち海外や沖縄などでの戦没者は計約240万人いる。今年7月末現在で、半数近い約112万柱の遺骨が現地に取り残されたままになっており、戦後73年を経ても収集が思うようにいかない現状がある。
 厚生労働省によると、遺骨収集事業は昭和27年から始まり、これまで計約128万柱を取り戻した。最近5年間に収集した遺骨は年881~1437柱。国交がない北朝鮮や、対日感情に配慮する必要がある中国などで収容困難な遺骨が約23万柱あるほか、海没した遺骨などを除くと、収容可能な遺骨は残り約60万柱とみられるという。
 平成28年には遺骨収集を「国の責務」と記した戦没者遺骨収集推進法が成立。36年度までの9年間を遺骨収集の「集中実施期間」と規定したが、埋葬地を知る関係者が高齢化したり死去したりして、情報が年々少なくなり、収集は想定通りに進んでいない。
 昨年は厚労省の遺骨収集事業で、職員が経費の領収証の金額を水増しするなどして、総額約4億6325万円の不適正な会計経理があることを会計検査院に指摘された。

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (34)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(34)統治四半世紀の「発展」 日韓併合で朝鮮民衆は救われた2018.9.1

 日本の朝鮮統治は、第6代朝鮮総督(昭和6~11年)、宇垣一成の時代に、「四半世紀」を超える。ある程度の“腕力”をもって朝鮮の近代化に道筋をつけた「武断政治」の時代、大規模な抗日・独立運動「三・一事件」(大正8年)以降の緩やかな「文化政治」の時代を経て、朝鮮統治は、安定成長期に入っていたといえるだろう。それ以降は、戦時体制の中で、朝鮮統治も皇民化政策が次第に色濃くなってゆく。

 四半世紀の日本統治によって朝鮮はどう変わったのか? この時期の『宇垣一成日記(一如庵随想録)』の記述を見てみたい。

 《日韓併合ができたればこそ、朝鮮民衆は暴虐の悪政から匡救(きょうきゅう)(悪を正し危難から救うこと)されて文化幸福に浴しつつある…》(昭和7年2月)

 多少の“上から目線”を感じないでもないが、それが「真実」であった。朝鮮のカネ・コネによる政治腐敗によって住民は苦しめられ、近代化が絶望的に立ち遅れていたことは、何度も書いてきた通りである。

 宇垣が「南綿北羊」の農業振興策を進めたことは前回(33回)書いた。朝鮮全土を混乱状態に陥らせた「三・一事件」は道路、鉄道、港湾などのインフラ整備、農、工、商、林業の振興、教育や衛生環境の改善を一時、頓挫させたが、「文化政治」以降、それらの施策は再び加速され、より充実度を増してゆく。

 ◆植林で禿げ山を緑化

 《山の多きは…国民の幸福である。水源の涵養(かんよう)、気候の調節…燃料および建築材の供給地…紙や人絹や綿の原料たらしむることを得るのみならず、羊、牛、馬の家畜類の放牧地ともなり得る…》(7年6月)

 「禿(は)げ山」は朝鮮の悪(あ)しきシンボルだった。11年発行の『25年!朝鮮は何を得たか?』によると、朝鮮は全国土の約4分の3を林野が占めるが、乱伐や火田民(焼畑農業)によって荒廃が激しく保水力の消失による災害も多発していた。

 日本は、朝鮮の植林・緑化に努め、8年までに行った植林事業は、国費経営事業だけで、造林面積約6万2千町(1町=約100アール)、植林本数約1億900万本に上った。
《朝鮮の工業は、現在においては幼稚である。しかしながら、繊維および軽金属工業の原料は豊富であり…石炭、水力発電、労力なども潤沢かつ安価に供給し得る…母国(日本)工業が圧迫を感ずる日もあまり遠き将来にあらざるべし》(8年7月)

 再び、『25年!朝鮮は何を得たか?』によれば、李朝末期の朝鮮の工業は、小規模で、産額は小さく、技術は幼稚、製品すこぶる粗悪…とひどい書きようである。潜在的なポテンシャルは高いのに、商工業は蔑(さげす)まれ、産業らしい産業もない。

 その朝鮮の工業が「日本を追い越す日も近い」というのだから、宇垣の“大風呂敷”かと思いきや、官民の積極的な投資によって紡績、製鉄、セメント、硫安などの大規模工場が次々と建設。8年の工場数は約4800、従業員数は約12万人、生産品価額は約3億6700万円…こちらも四半世紀で急成長する。

 ◆台湾並みは果たせず

 朝鮮経営の収支は常に「赤字」であり、日本は一般会計などから毎年巨額の“持ち出し”で支えた。

 《(天皇)陛下より…台湾のように財政の独立もできるのか、との御(ご)下問がありました。余(宇垣)は今後、大(おおい)に努力致しましたならば、あまり遠からざる将来において、台湾並みの財政独立は難事にあらずと存じます》(昭和8年12月)と“大見えを切った”が、こればっかりは、終戦まで果たせなかった。税率は低く抑えたのに、朝鮮近代化のための資金は、いくらでも必要だったからである。

 その成果をデータで見てみよう。日韓併合(明治43年)時と「文化政治」開始後の大正10年ないし11年との比較である。朝鮮全産業の生産額・約3億600万円→14億7千万円(約5倍)▽輸(移)出入額・約6千万円→約4億7千万円(約8倍)▽道路延長は約13倍となった。

 四半世紀となれば、さらに数値は跳ね上がる。
 李朝末期には、司法と行政の権限があいまいで、地方官吏が賄賂を受け取り恣意(しい)的に投獄されたりもする“人治主義”がまかり通っていた。その悪弊を駆逐するために、近代的な司法制度・警察制度を整備してゆく。司法では高等法院、覆審法院、地方法院の三審制を実施。朝鮮人の判事・検事や警察官の登用も積極的に行ったのである。

 ◆朝鮮は日満間の鎹

 宇垣の総督時代は、内外とも激動期にあった。就任直後(昭和6年9月)には、満州事変が勃発、関東軍主導で7年3月には満州国が建国されている。退任の年(11年)には、陸軍青年将校らによる「二・二六事件」が発生している。宇垣は、激動の時代こそゆえ、朝鮮のチャンスと見た。

 《朝鮮は実に今は時処(じしょ)を得ている…内地の不安、満支の紛々、世界の擾々裡(じょうじょうり)に超越して極めて平静に漸進しつつある…(朝鮮の)立場は大陸への桟橋であり、日満間の鎹(かすがい)であり…その心臓部に相当している。実に天与の処を得ている。(略)(これまでの「他力主導」の)陋習(ろうしゅう)を清算して…物心両方面の新建設に邁進(まいしん)せざるべからず!》(10年10月)と。=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

                   


【プロフィル】宇垣一成(うがき・かずしげ) 慶応4(1868)年、現在の岡山市生まれ。陸軍士官学校卒。陸軍大将。陸相、外相、戦後、参院議員。昭和12年には“陸軍を抑えられる首相”として、組閣の大命が下ったが、陸軍の抵抗に遭い、宇垣内閣は土壇場で実現しなかった。朝鮮総督は6年6月から5年余り務め、農業や商工業の振興を図り、内鮮融和を提唱した。31年、87歳で死去。

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (33)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(33)日本は「供与」し民生を安定・向上させた 「南綿北羊」の農業振興政策2018.8.25


 「文化政治」の朝鮮総督、斎藤実(まこと)の後任として第6代総督(昭和6~11年)に就任した宇垣一成(うがき・かずしげ)(1868~1956年)が進めた朝鮮の農業振興策に「南綿北羊」がある。

 南部では、綿花の栽培を促進。北部では、緬羊(めんよう)(家畜用の羊)を育て、付加価値の高い農、畜産品である綿糸・羊毛の生産拡大を図る政策だ。

 古来、朝鮮で栽培が行われていた綿花は、全羅南道、慶尚南道など南部6つの道を中心に大増産計画が進められたが、緬羊の飼育については、ほとんど実績がない(昭和8年の全朝鮮での緬羊の数は2700頭弱)。このため、緬羊の一大生産地であるオーストラリアから船便で輸入を図るプランが立てられた。

 緬羊を乗せた貨物船が、遠路はるばる太平洋を北上し、朝鮮東岸の雄基、清津、元山などの港に陸揚げ。鉄道で、北部・咸鏡北道の国策会社・東洋拓殖会社牧場などへ運んで飼育し、羊毛を刈る…。

 この朝鮮向けの緬羊の輸出を扱ったのは日豪貿易に実績があった総合商社の兼松だった。第1船の「朝陽丸」が約2700頭の緬羊を積んで豪シドニーを出発したのは、昭和9年4月24日のことである。

 初めてのことだけに、万全を期したのであろう。「朝陽丸」には当時、兼松の豪・現地法人で羊毛担当の責任者だった曽野近一(きんいち)(1899~1943年)が乗り込み、朝鮮まで付き添っている。

 品種は、羊毛の質こそ中程度ながら適応力に優れたコリデール種。近一の長男で、やはり兼松OBの曽野豪夫(たけお)(84)が書いた『写真で語る日豪史 昭和戦前編』によれば、苦労が多かったらしい。赤道直下を行く船のデッキで熱気にやられ、死んでしまう緬羊もいた。第2船以降は航海時の気候を考慮したり、デッキによしずを張ったりする工夫を重ねたという。

 こうしてスタートしたオーストラリアから朝鮮への緬羊の輸出は、順調に回を重ね、対英米戦争が始まった昭和16年に中断を余儀なくされるまで約4万5千頭が太平洋を越えてゆく。

 朝鮮で総督の宇垣に面会した近一は、こう力説したという。《(朝鮮)各地での羊牧場経営が衣料及(およ)び食料の両面から民生の安定と向上に大いに役立つ》(『写真で語る日豪史 昭和戦前編』)と。

◆収奪するものがない

 2年前、韓国のメディアは、この「南綿北羊」について、日本統治時代の記録映画『北鮮の羊は語る』(昭和9年)などの映像資料が見つかったというニュースを一斉に報じた。

 映画には、曽野近一が同行したルートそのままに、オーストラリアから船で輸入された緬羊が荷揚げされ牧場で飼育されたこと、毛を刈って生地を織る様子などが記録されていた。「羊毛輸入のために、毎年2億円が使われる。輸入代替のために努力しよう」という字幕もあったという。

 ただし、韓国メディアのトーンは、もちろん(?)ネガティブだ。内地(日本)でもほとんど羊毛の生産ができず、多くを輸入に頼るしかない。だから、朝鮮の安い労働力を利用して日本製造業の原料供給地にする目的で、南では綿花を、北では羊を育てるようにした…つまり、何でもかんでも“日帝による収奪”にしてしまうのだが、果たして本当にそうか?

 日韓併合(明治43年)以前の朝鮮には産業らしい産業もなかった。儒教の思想によって商工業は蔑視され、農業では森を焼いて肥料にする「火田民」(焼き畑農業)という前近代的な農法が多くみられた。つまり、「収奪」したくともするものがない。日本がやったのは「供与」して「育成」することだった。内地の一般会計からも巨額の資金を回し、優秀な人材と技術を供給し、せっせと近代化を進めたのである。

 第1次産業分野では、はげ山に植林をし、灌漑(かんがい)設備をつくり、干拓や開墾で耕地を増やす。東洋一の化学肥料工場を建て収量を上げる。とりわけ、米は「朝鮮産米増殖計画」を定めて増産に努め、大正10年の年産額は約1430万石(併合当時の約40%増)、品質も向上した。朝鮮の農業は効率化、近代化され、あらゆる指標が飛躍的に伸びたのである。

 そこに、朝鮮を兵站(へいたん)基地とする国策がなかったとは言わない。だが、日韓併合前のカネ・コネの政治腐敗によって、それこそ朝鮮の官吏らに「収奪」されていた農民の暮らしははるかに改善された。その証拠に日本統治時代の間に農民が約8割を占める朝鮮の人口は急増(2倍弱)している。

 人口増には、英国の女流旅行作家の『朝鮮紀行』で“中国の都市に次ぎ世界で2番目にひどい”と酷評されていた街や住民の「衛生環境改善」も貢献している。近代医学の医師などほとんどおらず、感染症の蔓延(まんえん)にたびたび苦しんでいた朝鮮全土に病院を建て、各都市に上水道を設けたのも日本である。例を挙げればキリがない。

◆父の「思い出の背広」

 朝鮮の牧場で育った初めての豪州緬羊の羊毛は、清津で入札が行われ、4社が応札したが、緬羊の輸出を請け負った兼松がメンツにかけて落札した。

 『写真で語る日豪史…』によれば、その羊毛は内地で紡出され、茶、緑など4系統の毛織物となって、朝鮮総督らに贈られたという。第1船に同乗したシドニーの曽野近一にも、その生地が送られてきた。

 後に、商社マンとなった長男の豪夫は、その生地で仕立てた背広を着て、世界を駆け回った。平成2年に豪州兼松が100周年を迎えたときの記念式典にもその背広を着ていったという。豪夫はいう。「海軍の軍属として父が戦死(昭和18年)したときはまだ国民学校(小学)生でした。父の思い出があまりない私にとって、この背広は本当に大切なもので、“長生き”してくれましたよ」

 “海峡を越えて”朝鮮の近代化に貢献したのは人だけではなかった。=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)


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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (32)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(32)思う存分生き、いい詩をつくりたかった スパイとして処刑された林和2018.8.18

 人気作家、松本清張に『北の詩人』(昭和38年)という作品がある。主人公の詩人、林和(イムファ)(1908~53年)は実在の人物だ。詩集『玄海灘』などで知られ、日本統治時代の朝鮮で、左翼色が強い「朝鮮プロレタリア芸術同盟」(カップ、大正14年結成)の中心人物として活躍、戦後の昭和22年、北朝鮮へ渡ったが、28年8月の軍事裁判でアメリカのスパイと認定され、処刑された。

 『北の詩人』で、林はカップ解散(10年)前後から“転向し”密(ひそ)かに軍部などに協力していた「暗い過去」の発覚に怯(おび)える人物として描かれる。戦後、それを米諜報機関に弱みとして握られ、スパイとして北朝鮮へ渡ることを余儀なくされてしまう…という設定だ。小説なのか、実録なのか判然としないが、巻末には長大な軍事裁判の判決文まで掲載されている。

 作品の中で、林の「暗い過去」のひとつとして挙げられている仕事に、昭和16年7月に、日本陸軍の朝鮮軍報道部が製作した国策映画『君と僕』への協力があった。朝鮮人志願兵として最初の戦死者となった李仁錫上等兵をモデルに、志願兵制度や内鮮一体をPRするために製作された映画で、平成21年に、フィルムの一部が見つかり、ニュースにもなった。

 主役は、テノールの人気歌手、永田絃次郎(げんじろう)(金永吉)、相手役は満映出身の大スター、李香蘭という豪華キャスト(ほかに、三宅邦子、大日向伝、小杉勇らが共演)。監督の日夏(ひなつ)英太郎(許泳)も朝鮮出身である。林は映画の校正を担当したという。

 それが事実であったとしても戦時体制下で、林や永田ら朝鮮人でも軍部への協力を求められれば拒否するのは難しかっただろう…というより当時、多くの朝鮮人は同じ側として戦争熱に取りつかれていた。陸軍の朝鮮人志願兵制度がすさまじい競争倍率(昭和18年の採用予定約5300人に対し30万人以上が殺到)になっていたことは以前(25回)書いた通りである。

 林は、在日コリアンの活動家らに大人気だった『人民抗争歌』の作詞者としても知られている。テンポがよく、宴席などでは必ず飛び出したという。ところが林の粛清後、特に朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会、昭和30年結成)関係者の中では『人民抗争歌』はタブーになった。作曲者の金順男もまた北朝鮮へ渡った後、粛清され、行方知れずになっている。

 ■「二度殺された」詩人

 だが、林和が「米のスパイだった」という認定はかなり疑わしい。北朝鮮の初代権力者、金日成(キム・イルソン)(首相、国家主席)は独裁体制を確立するためにさまざまな罪状をデッチ上げ政敵を次々と粛清していったからである。林は、金日成のライバルであった朴憲永(元北朝鮮副首相、米スパイとして処刑)ら南朝鮮労働党一派の排除に連座させられたとみるのが妥当であろう。

 昨年12月に80歳で死去したジャーナリストの萩原遼(はぎわら・りょう)は、月刊『正論』平成18年6月号に、「北朝鮮にはめられた松本清張 『北の詩人』の奇怪な成り立ち」のタイトルで、同作における日本のスパイ→米のスパイという林の設定に異議を唱え、「北朝鮮側の主張をうのみにした」として、清張を厳しく批判した。

 《(林らの処刑は)金日成の判断の誤りによって朝鮮戦争が勝利できなかった責任を転嫁するための粛清裁判・殺人裁判であったことは今日では大方の認めるところです。…(清張は)金日成の殺人裁判に追随して林和をもう一度作品の上で抹殺しました》。そして、《金日成は朝鮮が生んだ優れた詩人を抹殺しただけでなく、日本の作家を使って文学の名の下に林和を抹殺させ、殺人裁判をあたかも事実であるかのように装わせた》のだと…。

■金正日の略奪愛の末に

 林が在籍したカップは、日本統治下の朝鮮で結成。前述した朴憲永らによる朝鮮共産党の影響を受け、ブルジョア文学に対抗するプロレタリア文学の牙城として、7つの支部、約300人の同盟員を擁し、文学のみならず映画、音楽、演劇、美術を包括する芸術団体に発展してゆく。

 世界的な舞踊家、崔承喜(チェ・スンヒ)の夫で戦後、北朝鮮の文化省次官を務めた作家の安漠(アンマク)、ザ・フォーク・クルセダーズの名曲「イムジン河」(北朝鮮では「リムジン江(ガン)」)や北朝鮮の国歌(愛国歌)の作詞者である朴世永(パク・セヨン)も、カップのメンバーとして活躍した。

 戦後、彼らの多くが北朝鮮へ渡るが、重用されたのは一時で、派閥争いに巻き込まれたり、独裁者の機嫌を損なったりして、林和と同じように、粛清されたケースが少なくない。

 とばっちりともいえる厄災が降りかかったのは作家の李箕永だろう。2代目の金正日(ジョンイル)が、女優の成(ソン)●(=くさかんむりに惠)琳(ソン・ヘリム)を見初めたとき、すでに彼女は人妻であった。その夫だったのが李の息子で、金正日は夫妻を離婚させ、強引に自分の妻にしてしまう。2人の間に生まれた長男が、マレーシアで暗殺された金正男(ジョンナム)である。

 金正日の略奪愛は絶対のタブーである。李は、北朝鮮の文学芸術総同盟委員長などの要職に就いたが、2000年代に金正日の指示で、北朝鮮の文学人名事典が編まれたとき、李の扱いの大きさに金正日が不快感を示し、やり直しを命じたという。以来、文学人名事典が刊行されることはなくなった。
カップのメンバーが「社会主義の理想郷」と夢見た北朝鮮は、独裁者の指先一つで簡単に命さえ奪われてしまう悪夢のような国だった。日本時代の残滓(ざんし)を思わせる彼らの居場所など最初からなかったのである。

 『北の詩人』に印象的な林の独白があった。《思う存分生きて、いい詩をつくりたい。革命とか、思想とか、共産主義とかを離れて、自然の中に純粋な人生を凝視したい…》と。

 カップの活動は約10年間だった。内紛が絶えず、最後は日本の官憲によって相次いでメンバーが検挙され、解散している。

 だが、逆の見方をすれば、これほど左翼的な団体が曲がりなりにも約10年間、日本統治下の朝鮮で活動できたのだ。その時期は日本が世界に類を見ない緩やかな統治を行った「文化政治」の時代に重なる。近代文学も大きく発展した。=敬称略

 (文化部編集委員喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (31)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(31)朝鮮の文化と習慣を尊重せよ 驚くべき「文化政治」の緩さ2018.8.11

 “緩やかな朝鮮統治”である「文化政治」を推し進めた斎藤実(まこと)が第3代朝鮮総督に就任したのは大正8(1919)年8月のことである。海軍の先輩である山本権兵衛内閣で海軍大臣を務めていたが、海軍を舞台にした4年前の疑獄事件「シーメンス事件」で引責辞任、予備役編入…つまり軍人として「クビ」を宣告された境遇にあった。

 《暇な体でもあるし北海道にでも行って畑作りでもしようと…その間に持ち上がったのが朝鮮総督の話である。(略)断ったら、加藤友三郎(原敬(たかし)内閣の海相、後に首相)が来て「何だか朝鮮がごたごたしているようで誰か面倒を見てやらなければ困る」…今度は原総理自身がやってきて…詰め寄られ、のっぴきならなくなり…》(昭和16年『子爵斎藤実伝』から)

 原首相とは、同郷(岩手)の知己であった。結局、斎藤は、現役の海軍大将に復帰し、朝鮮総督就任を受諾する。陸軍大将以外の総督は、後にも先にも斎藤だけであった。

 このとき、加藤海相が言った「ごたごた」とはもちろん、大正8年3月1日に端を発した大規模な朝鮮の抗日・独立運動「三・一事件」のことである。まだ騒然とした雰囲気が残っていた中で、9月2日、京城駅に到着した斎藤を待ち受けていたのが、独立派活動家による“爆弾テロの洗礼”(斎藤は無事)だったことは前回も書いた。

 斎藤は難しい判断に迫られる。軍人主導の「武断政治」を、さらに強め、力で、くすぶり続けている抗日・独立の動きを押さえ込むか? それとも…。当時の日本の世論は、武断政治続行が優勢であった。

 ◆外国人宣教師も絶賛

 「三・一事件」は、米ウィルソン大統領らが掲げた世界的な「民族自決主義」に煽(あお)られて始まった。その朝鮮人の抗日・独立運動の背後には、李朝末期から朝鮮に浸透しているキリスト教の外国人宣教師らの存在があったとされる。斎藤に爆弾を投げつけた男もキリスト教信者だった。

ところが、斎藤は赴任早々、総督府学務局に「宗教課」を設けて“敵方”ともいえる外国人宣教師との意思疎通を進め、布教の便宜を図る目的で財団法人の設立を認める策に出た。

 これには、外国人宣教師も驚いたのだろう。メソジスト教会監督牧師、ハーバート・ウエルチの「斎藤評」が残っている。

 《当時、(朝鮮の)住民は武器なき「独立運動」のため、前総督により、強制的弾圧を受けたため、不穏・不安・怨嗟(えんさ)が国内に漲(みなぎ)る状態であった。かくの如(ごと)き陰険にして困難な状況に、子爵(斎藤)は温和にして温情的精神を…真に朝鮮人を愛撫(あいぶ)し、彼らの権益を保護する…子爵の施策を緩に過ぎると非難した者もあったが…反抗する者を心服させる程に誠意と親切を尽すは偉大なりというべき…》

 後には、朝鮮各地に神社が建てられ、参拝問題でキリスト者は反発を強めてゆくのだが、こうした“蜜月期”もあったのである。

 ◆近代文学・映画も発展

 斎藤は、内外の“雑音”をものともせず、どんどん新政策を進めてゆく。

 「武断政治」の象徴であった軍主導の憲兵警察の廃止▽朝鮮人官吏への待遇格差の是正▽朝鮮語(ハングル併用)新聞(東亜日報、朝鮮日報など)発行の許可▽朝鮮人児童が通う普通学校(小学校)の増設▽外地初の帝国大学(京城帝大)の設置▽農業・工業振興、鉄道・道路・病院の整備▽集会・結社の制限緩和など枚挙にいとまがない。

 折しも日本では自由・民主主義を標榜(ひょうぼう)する大正デモクラシーの時代。「政党政治」の原内閣だったのも無関係でなかったろう。

 斎藤はさらに、朝鮮固有の伝統文化・慣習の保護・奨励という思い切った施策にまで踏み込んでゆく。大正15年に朝鮮総督府が編纂(へんさん)・発行した「普通学校補充唱歌集」(60曲)に朝鮮の偉人や名所旧跡を題材にした、台湾・満州でも例がない「公募・現地(朝鮮)語の唱歌」が、数多く盛り込まれたことは、以前(27回)紹介した。

日本人への朝鮮語学習奨励は、公務員への手当支給や、主に日本人が通う小学校での朝鮮語教育(随意科目)方針に表れる。教育機関や博物館・図書館を整備し、朝鮮の古文書や古跡、民俗品の調査・研究、収集作業も進めさせた。

 これに後押しされるようにして、朝鮮では、近代文学、映画、音楽といった芸術が花開かせてゆく。   連載初回でも触れたが、朝鮮映画の代表作『アリラン』(大正15年、羅雲奎(ナ・ウンギュ)監督・主演)は、三・一事件で拷問を受けて精神を病んだ男が主人公だ。“親日派”の朝鮮人悪徳地主と主人公らが対決するストーリーは朝鮮人観客に大ヒットし、2年以上もロングラン上映されたが、こんな「抗日色」が強い作品が、よくも検閲をパスできたものだと驚かされる。

 この映画のラストシーンで流れる「アリラン」は当初、「新アリラン」「羅雲奎のアリラン」などと呼ばれたが、メロディーやテンポをすこしずつ変えながらその後「本調アリラン」として定着。朝鮮民族の命ともいえる歌で、星の数ほど存在する「アリラン」の中で現在、最も親しまれているのが、日本統治時代の映画から生まれたこの曲なのである。

 今年の平昌五輪開会式で、南北朝鮮の選手団が合同で入場したとき流された「アリラン」もそう。失われたこの映画のフィルムを、現在も南北ともがやっきになって探しているのもむべなるかなだ。

 大正9年1月1日付談話で斎藤はこう語っている。《…朝鮮の文化と習慣とを尊重して、その長をとり、短を除き、利を興し、害を除き、もって時代の推進に適合せしめん…》と。=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

                  


【用語解説】斎藤実(さいとう・まこと) 安政5(1858)年、現在の岩手県奥州市生まれ。海軍兵学校卒。海軍大臣、内大臣、首相(昭和7~9年)などを歴任。朝鮮総督は、第3代(大正8~昭和2年)、第5代(昭和4~6年)の2度務め、緩やかな統治、朝鮮の自主性を重んじる「文化政治」を推進した。内大臣を務めていた昭和11年、二・二六事件に遭い、凶弾に倒れた。

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(30)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(30)政治腐敗蔓延の李朝末期 日本は「誠意」を持って「奮闘」した
2018.8.4


 《北京を見るまで私はソウル(漢城・京城)こそ、(当初は)この世で一番不潔な街だと思っていたし、紹興へ行くまではソウルの悪臭こそ、この世で一番ひどい臭いだと考えていたのであるから! 都会であり首都であるにしては、そのお粗末さは実に形容しがたい。礼節上2階建ての家は建てられず、従って推定25万人の住民は主に迷路のような横町の「地べた」で暮らしている…》

 19世紀末に李朝末期の朝鮮を訪れたイギリスの女流旅行作家、イザベラ・バードが書いた『朝鮮紀行』の〈首都の第一印象〉の項にこう記されている。

 街の汚れは後に改善されたというが、政治腐敗はひどかった。

 《政治腐敗はソウルが本拠地であるものの、どの地方でもスケールこそ小さいとはいえ、首都同様の不正がはびこっており、勤勉実直な階層を虐げて私腹を肥やす悪徳官吏が跋扈(ばっこ)していた…堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、困難極まりなかった…朝鮮には階層が2つしかなかった。盗む側と盗まれる側である》

 イザベラ女史は、当時の日本についても、国土の美しさや治安の良さを称賛する一方で、貧相な外見などを辛辣(しんらつ)に指摘しているから、西洋人の「視線」があったかもしれない。

 では、ほぼ同時期に日本人の本間九介が記した『朝鮮雑記』も紹介しておこう。

 《(朝鮮の)官人に盗賊でないものはいない…あとを引き継いでやってくる官人もまた盗賊なのである…ああ、彼ら(農民ら)の境遇は、まったく憐(あわ)れむべきものだ》(「官人は、みな盗賊」から)

 本間は、中国のみをひたすら信奉する朝鮮の知識人の姿も揶揄(やゆ)している。

 《朝鮮の士人(知識人)は、支那を呼ぶのに、常に中華と称し、その一方で自らを小華と称している。そこで私が…大華の人であると答えたら、彼らは、それを咎(とが)めて傲大(ごうだい)だと言うけれども、傲大であることと卑小であることの、いずれがましだというのだろう》(「大中小華」から)
2つの見聞録は、いくつも共通しているのだ。絶望的なほど、立ち遅れた近代化、蔓延(まんえん)する腐敗と不正、硬直した封建社会…。イザベラ女史は、朝鮮の良さや愛着も示しつつ、こう結論付けた。《朝鮮には、その内部から自らを改革する能力がないので、外部から改革されねばならない》

 その外部の担い手になりつつあった李朝末期の日本の対応について、イザベラ女史は閔妃(みんぴ)殺害事件などを痛烈に非難する一方で、次のように見ていた。《私は日本が徹頭徹尾誠意を持って奮闘したと信じる。経験が未熟で、往々にして荒っぽく、臨機応変の才に欠けたため、買わなくともよい反感を買ってしまったとはいえ、日本には朝鮮を隷属させる意図はさらさらなく、朝鮮の保護者としての、自立の保証人としての役割を果たそうとしたのだと信じる》と。

 ◆武断政治は法治主義

 このように、極めて困難な状況から始まった日本の朝鮮統治(日韓併合は1910~45年)は、その政策的な方針から、おおむね3つの時期に分けられる。

 朝鮮の改革・近代化に道筋をつけた、いわゆる「武断政治」の時期(1910年代まで)▽大規模な抗日・独立運動「三・一事件」(大正8年)後に、緩やかな統治政策に舵(かじ)を切った、いわゆる「文化政治」の時期(1920年代から30年代半ばころ)▽日中戦争が始まり(昭和12年~)、いや応なく、日本が戦時体制に入り、皇民化政策を浸透させてゆく時期(終戦まで)の3つだ。

 初期の「武断政治」はその言葉から“悪辣(あくらつ)な”イメージを抱きがちだが、事実はそうではない。

 冒頭の見聞録にあったように政治腐敗が横行し、近代化から取り残された当時の朝鮮を根本から立て直すために、日本は巨額の資金を投入して、ほとんど「ゼロ」からインフラ(鉄道、道路、港湾など)を整備、学校や病院を建て、農業や産業を振興させてゆく。その道筋をつけるのに、ある程度の“腕力”も必要だったということだろう。
昭和3年発行の『総督政治史論』(青柳綱太郎著)は、初代朝鮮総督を務めた寺内正毅(まさたけ)(1852~1919年、陸軍大将、陸軍大臣、首相など歴任)の「武断政治」をこう評価している。

 《朝鮮民族にとりては過分の文明政治であった…4方面(教育、衛生、農業、交通・通信)より、朝鮮の社会に貢献せし…》

 さらには、《寺内伯の武断主義は、即(すなわ)ち法治主義の別名とでも言い得る…朝鮮民族政治の改革には、民族心理の根本的改革が必要であると信じたからだ》と。権力者の意向で政治がゆがめられる“人治主義”を正そうとしたというのだ。

 ◆日本版「太陽政策」

 さて、「文化政治」である。世界的な民族自決主義の波に煽(あお)られ、朝鮮全土に広がった「三・一事件」の直後(大正8年8月)に、第3代朝鮮総督に就任した斎藤実(まこと)(1858~1936年、海軍大臣、首相、内大臣など歴任)は、京城到着早々、爆弾テロに遭っている(斎藤は無事)。

 朝鮮の抗日・独立運動家らは戦々恐々としていたのだ。何しろ、三・一事件の嵐が吹き荒れた後である。今度は、どんな強圧的な総督が来るのか? と。ところが、斎藤は「北風」を吹かすのではなく、「暖かい太陽」で、旅人のコートを脱がすがごとく、さらに緩やかな統治に舵を切る。

 軍主導の憲兵警察→普通警察の転換▽朝鮮の伝統文化、風習、言葉の奨励・保護▽集会・結社の規制緩和といった諸政策のみならず、斎藤は日鮮を同一視する(一視同仁(いっしどうじん))内地延長主義を掲げ、最終的に「朝鮮の自治州化」まで念頭に置いていたというのだから、血気にはやっていた朝鮮人も腰を抜かした。

 まさしく、イザベラ女史が指摘した「誠意を持って」「朝鮮を隷属させる意図なく」「自立の保証人」として、である。

 すると、今度は日本の世論が沸騰する。「生ぬるい」「(朝鮮の近代化は)まだそこまで成熟していない」…等々。だが、斎藤の度量が、朝鮮の新たな文化や近代化の花を咲かせることになる。=敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(29)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(29)清楚たる風姿の妓生 「朝鮮旅行案内記」をたどる2018.7.28

 前回、紹介した朝鮮総督府鉄道局(鮮鉄)の元技術者、横山左武郎(さぶろう)(1917~43年)の遺品の中に、昭和9年鮮鉄発行の『朝鮮旅行案内記』がある。当時の観光ガイドブックだ。

 日本が統治時代の朝鮮に敷いた鉄道網は終戦までに5千キロ以上。同書では京釜線、京義線など沿線別に詳細な観光ガイドが写真と文で書かれている。巻頭に、《本案内記は朝鮮を旅行される方々に朝鮮の概念を得て戴(いただ)く…》とあるように単なる観光ガイドにとどまらず、記述は朝鮮の風俗や文化、政治、歴史におよびなかなか興味深い。

 同書の発行は、日本に「大陸ブーム」が起き、新天地への夢を描いた移住者や観光客が内地から続々と「海峡を越えて」行ったころ。横山もその一人だった。同書は、彼らの必読書だったのだろう。

 ◆モデルコースは7日間

 同書には当時の、朝鮮旅行のモデルコースがいくつか紹介されている。標準的なプランは「朝鮮廻覧(かいらん)7日間」。下関(山口)と朝鮮の釜山を結ぶ関釜連絡船から鮮鉄・満鉄を乗り継ぐルートだ。その行程と見どころを同書から追ってみよう。

 【1日目】関釜連絡船で朝、釜山着。鮮鉄・京釜線に乗り、一路、京城へ。朝8時発の急行「のぞみ」なら所要時間は、8時間45分だ。その日は京城泊。鮮鉄直営の朝鮮ホテルは、客室数80あまりで食堂、酒場、演芸室完備。1泊3食付きで9円以上だが、内地と比べて「頗(すこぶ)る低廉」とあった。日本式の旅館、朝鮮式の宿ならさらに格安。

 【2日目】京城市内見物。朝鮮の政治、経済、文化の中心地・京城の見どころは盛りだくさんだ。李朝の旧王宮・景福宮、徳寿宮、南大門。京城の表玄関・京城駅は、ルネサンス式建築で1日の乗降客は約1万人。“京城の銀座”本町通には、三越、丁子屋、三中井の百貨店が立ち並び、昼食は、そこの食堂を使うのも「便利」とある。
市内遊覧の足は「遊覧乗合自動車」が便利(大人2円20銭)。タクシーは市内均一80銭。夕食は、朝鮮料理、日本料理、中国料理と何でもそろう。遊郭で遊ぶならば新町、弥生町。京城の街をたっぷり堪能した後は夜行列車に乗り込み北上。この日は車中泊。

 【3日目】早朝、平壌着。1日の乗降客は4千人弱。朝鮮北西部の中心都市で平安南道庁所在地、現在は北朝鮮の首都だ。名所・旧跡は京城に引けをとらない。市内を流れる大同江、大同門、七星門、牡丹台…。ユニークな見どころとしては妓生(キーセン)学校。「古来、官妓の産地として美妓嬌妓(びぎきょうぎ)が多く輩出せられ…最近養成機関として設立、主に歌謡舞踊国語書画等(とう)を教授している」とある。

 市内見物の後は、鮮鉄線でさらに北上、夜に鮮満国境の街、新義州着・泊。

 【4日目】国境にかかる鴨緑江鉄橋を渡り、満州の安東へ。鴨緑江に架かる橋梁(きょうりょう)は日本の手によって明治44年に完成(全長約950メートル)、これによって朝鮮-満州をつなぐ国際列車の運行が可能になった。昭和18年には第二橋梁が完成。最初の橋は、朝鮮戦争(1950~53年)中に爆撃で破壊されている。

 安東市内見物の後は、再び、夜行列車で一気に南下。この日は車中泊。

 【5日目】朝鮮南東部・慶尚北道の中心都市・大邱で下車。9世紀新羅時代に創建された朝鮮きっての古刹(こさつ)「海印寺」は大邱の西南約70キロにあり、乗合自動車が便利。高麗八万大蔵経の版木が保管されている大蔵経板殿は現在、世界遺産に登録されている。市内見物の後、大邱泊。

 【6日目】大邱は、新羅の旧都で東海岸に近い慶州方面への乗換駅。東海中部線で約2時間の汽車の旅だ。慶州は現在の韓国旅行でもハイライトのひとつ。市内に点在する新羅遺跡を探訪し、現在は世界遺産に登録されている「仏国寺」へ向かう。同泊。
【7日目】新羅時代の石仏が安置されている「石窟庵」(世界遺産)は、長い仏教弾圧の時代に埋もれていたのを20世紀初頭、郵便配達員が偶然発見、日本時代に整備が進んだ。そこで日本海からの日の出を拝した後、釜山の東莱温泉で湯につかる。再び夜行の関釜連絡船で内地へ。車中泊2回、内地との連絡船も往復夜行だから、なかなかのハードスケジュールだ。

 ◆朝鮮語の単語集も

 同書には、あいさつや日常会話に必要な朝鮮語の単語集も載っている。「朝鮮料理」というコラムには《昔から伝わっている上流家庭の料理はそれは手のかかった美味なるものが多い。(それに比べて)今日、朝鮮の料理店で味わう料理は、妓生を呼んで幾分でも朝鮮の情緒を味わうに過ぎないところである》

 その妓生の写真と説明もあった。《朝鮮名物のひとつとして妓生がある。内地より見物などに来る人は、大抵酒席に妓生を招く…その宴席を斡旋(あっせん)することにおいては、何ら内地の芸妓(げいぎ)に異なるところはないが、清楚(せいそ)たる風姿は、むしろそれに優(まさ)っている》と。先の単語集によれば妓生-芸妓。娼婦はカルボである。

 現在は、北朝鮮の地域にある朝鮮きっての名勝「金剛山」についても多くのページが割かれている。スキー場や夏のキャンプ場も写真入りで紹介されており、こうしたレジャーが日本統治時代に定着していたことがうかがえる。=敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(28)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(28)行け!朝鮮開発には人が要る 近代化に身を投じた若者の記録2018.7.21

 16歳の横山左武郎(さぶろう)が海峡を越えて、「朝鮮・満州旅行」へ出かけたのは、昭和9(1934)年5月のことであった。京都市立第一工業(当時)卒業を翌年に控えた修学旅行である。

 9年といえば、満州国建国から2年、新天地・大陸への夢や憧れが高まっていたころだ。修学旅行は他に「東京」を選ぶこともできたが、横山は迷わず、朝鮮・満州に決めている。

 18日間の旅は、横山の将来をも決定づける鮮烈な印象を与えたらしい。卒業後、横山は再び海峡を越え「朝鮮総督府鉄道局(鮮鉄)」に技術者として就職しているからだ。

 日本は莫大(ばくだい)なカネ、ヒト、モノ、技術をヨソの民族のためにつぎ込んだ。朝鮮の開発・近代化に貢献するため、どれほど多くの日本人が、情熱と志をもって海峡を越えていったことか。横山少年もまたその一人であったことは遺(のこ)された日記や手紙から、うかがい知ることができる。

 ◆夢想う憧れの朝鮮
 『昭和九年鮮満旅行日記』を追ってみたい。
 第一工業の一行は、京都駅を9年5月2日午後8時32分に夜行列車で出発、東海道・山陽線を走り、広島・宮島で厳島(いつくしま)神社に参拝した後、下関から夜行の関釜連絡船に乗り込む。

 《僕達は初めて見る植民地の風景をいろいろ頭に画(か)きつつ船が出るのを待った…大空を仰げば、平和の使者のごとき半月と宝玉を散(ち)りばめたような星が輝く…翌朝早朝4時半ごろに目が覚めた…多年、夢想(おも)う内に憧れていた朝鮮半島が海に浮かび出ているではないか》(同旅行日記から)

 初めて訪れる朝鮮の地に胸躍らせる若者の高ぶりが目に浮かぶようだ。

 釜山からは鮮鉄・京釜線に乗って北上する。《(朝鮮の)街は、あまりきれいとはいえないが、風情は全く内地(日本)と異にしている。住む人、家屋…われわれの好奇心を注がせる。(内地に比べて)汽車の広大なこと、視界の広いのは愉快。大邱、大田、天安、水原…朝鮮開発にはまだまだ人も要るし、機械も要る。「行け、開発せんとするものは唯(ただ)、満州に限らない!」》(同)

京城着は、5日の朝8時55分。京都からは2日半の行程だ。一行は、京城駅前の旅館へ入り、南大門や李朝の旧王宮・景福宮などを見学。南山にあった朝鮮神宮を参拝した。《南大門は市内四大門の一つで、誠に雄大なるものだ。朝鮮神宮の参道では、内地人、本島(朝鮮)人など種々見受けられ、ちょっと異国情緒がある》(同)

 横山少年は、いにしえの朝鮮の伝統文化と、急ピッチで進む近代化の波が入り交じった光景を目の当たりにする。《(略)終日、大朝鮮の民族、風習などを一見した私の頭にはさまざまな想いがかけめぐる…古典的な街にも文明開化の潮が押し寄せているのだ。(略)午後十時、思い出多き京城の街に別れを告げて、われらの列車は汽笛一声北上した》(同)

 一行は、鮮鉄の京義線に乗って平壌へ。さらに北上して鴨緑江を越え、南満州鉄道(満鉄)線で満州各地を回り、帰路は、朝鮮東海岸の元山などを訪問している。横山が買い求めた写真入りのはがきには当時の朝鮮の風俗や街の様子が刻まれていて興味深い。

 ◆道半ばでの無念の病死
 日本が、朝鮮に張り巡らせた鉄道網は終戦前に5000キロ以上。修学旅行で横山らが乗った関釜連絡船-鮮鉄-満鉄のルートは、大陸への「最短ルート」であり、その先のロシア、ヨーロッパへとつながる「西洋への扉」でもあった。

 横山は、卒業後の昭和10年3月、鮮鉄に入り、京城にあった工作課の車両係に配属されている。

 横山の日記は《近衛文麿内閣(第1次)総辞職》のニュースが飛び込んできた14年正月から再び、書き始められている。先行きの見えない日中戦争、迫りつつある対英米戦争の足音…。陸軍への入営を挟みながら横山は技術者として多忙な日々を送っていた。

 《朝鮮はまったく朝が鮮やかだ。わが第二のふるさとに汽車は走りぬ》(一時帰郷から朝鮮へ戻った14年1月24日付日記から)
(朝鮮南部の)光州へ出張し試運転列車に乗り込んだこと。人事異動のこと。休日に同僚と京城の動物園や桜の名所、昌慶苑に遊んだこと。仕事に悩み、満州(満鉄)への転職を考えたことも書いている。

 《内地(日本)と異なり、物資は豊かにあります…内地より帰城した人々の話を聞き、京城の有難味(ありがたみ)をつくづく感じました》(17年1月15日付手紙から)。物資が窮乏していた内地と比べて朝鮮はまだまだ恵まれていたのだろう。

 だが、横山は次第に体調を崩し、長い入院生活を余儀なくされてしまう。内地の病院へ転院したが、18年12月死去。まだ26歳、朝鮮開発へかけた若者の夢は、道半ばで終わった。

 めいのたか子(68)はいう。「内地へ戻ってきた叔父は『余命6カ月』と宣告されていたそうです。志を抱いて朝鮮へ渡ったであろう叔父はさぞかし無念だったでしょう。葬儀の香典帳(28日付)には仲良くしていたらしい朝鮮人同僚の名もありました」。カメラが得意だった横山のアルバムには、まだ戦争の影がない朝鮮の写真が多く残されている。部屋には若い朝鮮女性の笑顔の写真が飾ってあった。=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

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海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(27)

海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(27)「取り入れる」日本人 朝鮮語の唱歌までつくった 2018年7月14日


 朝鮮民族は「極端に走りすぎる」ときがあると前回書いた。

 一方の日本人は古来、和を尊び、争いを嫌い、曖昧、折衷、混在といったことをよしとしてきた。ただし、これにはプラス・マイナス両面がある。

 例えば、国益がぶつかり合う外交の場では間違いなくマイナスであろう。

 14年間のすったもんだの末にやっと決着した日韓会談(昭和40年、日韓基本条約に調印)。日本の領土と疑いようのない竹島の問題を摩擦を恐れて“タナ上げ”してしまい、韓国に実効支配され続けている。日本が「和」の心で譲っても、相手が同じような寛容な心で歩み寄ってくれるわけではない。

 互いの国・国民の財産、請求権を放棄し、完全かつ最終的に決着したことを確認した日韓請求権協定(同)もそうだ。韓国が主張していた徴用工の補償問題など8項目の要求も「含む」とした合意議定書まで交わし“完封”したはずだったのに、韓国側からのカネの要求はいまだにやむことがない。最終的には日韓双方が望んだ形とはいえ、「経済協力」という曖昧な折衷案でカネを支払ってしまったからだろう。

 ◆外国文化を「日本化」

 半面、文化や宗教などでは日本人の混在ぶり、曖昧さも悪くない。朝鮮人がどっぷり漬かった儒教(学)も日本人は全面的には取り入れはしなかった。仏教とごちゃ混ぜにしたり、その仏教も神道と混交させたりしている。朝鮮人が中国に倣った科挙(かきょ)(官吏登用試験)も導入しなかったし、実学や職人、商人を軽視せず、そろばんも身につけさせたから明治以降いち早く近代化を達成できた。

 15世紀に公布された朝鮮固有の文字、ハングルも本家本元の朝鮮人知識層が軽んじてあまり使わなかったのに、日本人は江戸時代から興味をもっていた。

 大阪大名誉教授、加地伸行(のぶゆき)(中国哲学史)の本紙連載コラム「古典個展」(平成26年1月26日付)によれば、江戸時代の天明4(1784)年発行の書物の中にサンスクリット語やオランダ語などと併せて、ハングルが「朝鮮国の文字」として紹介されている。しかも日本人に分かりやすいよう「いろは歌」で再構成する工夫が見られた。

 加地は《古代以来、中国は自分が世界の中心と思い、今もその態度を変えない。朝鮮半島は中国を主人とする属国根性が今も抜けていない。しかし、わが国は、歴代、外国文化を謙虚に受け入れ、しかも、日本化するという努力を続けてきた》と書いている。

 ◆朝鮮の偉人や旧跡も

 明治初期に日本の学校教育として取り入れられた「唱歌」も最初は、“日本人お得意”の和魂洋才、和洋折衷というべきものだった。『蛍の光』も『蝶々(ちょうちょ)』も外国の曲からメロディーだけを借りて、まったく違う日本語の歌詞をつけて作られている。

 さて、朝鮮ではどうやったのか。

 日本が朝鮮に、近代教育制度を整備したとき、やはり唱歌教育を導入している。これは“日朝折衷”というべきものだった。

 日韓併合(明治43年)直前の保護国時代、韓国統監府が監修し、大韓帝国学府が発行した「普通教育唱歌集 第一輯(しゅう)」(同年)は主に内地(日本)の唱歌を、そのまま朝鮮語に翻訳したのである。

 日本は、同じく統治した台湾や、日本が強い影響力をもっていた満州(現中国東北部)でも、土地の自然や名所旧跡などを取り入れたオリジナルの唱歌をつくっているが、「現地語の唱歌」をつくったのは意外なことに朝鮮だけだ。

 ところがこの“日朝折衷”唱歌の評判があまりよくない。当然だろう。なじみのない(日本の)山河や動植物、風習を織り込んだ歌が朝鮮の児童の心に響くはずがない。唱歌や童謡は、子供たちが、子守歌の次に触れる歌である。歌って楽しく、愛着を持ち、子供たちの情緒を育てるものでなくてはならない。

 そこで、朝鮮に渡った日本人教師や総督府の教育担当者は、「朝鮮の偉人や旧跡、自然、風俗を取り入れたオリジナルの唱歌をつくろう」と主張する。そして、その歌を朝鮮の子供たちに公募し、歌詞を書いてもらう。大正15年に朝鮮総統府が編纂(へんさん)・発行した「普通学校(小学校)補充唱歌集」(60曲)だ。

 公募によって採用された唱歌には、朝鮮民族誕生の神話の山である『白頭山』やハングルの制定に貢献した李朝時代の儒者を題材にした『成三問』、日本とつながりの深い新羅の王を歌った『昔脱解』などがある。前回、日本人が普及に貢献したと書いたハングルで表記された唱歌は低学年用に多い。「読みやすく」という配慮だろう。

 このほか、新羅王生誕の地である『鶏林』、中朝国境を流れる大河『鴨緑江』や天下の名勝『金剛山』…。きっと朝鮮の子供たちはこうした唱歌を歌いながら民族の偉人や歴史、自然を誇らしく感じたことであろう。こんな“お人よし”の統治者が日本の他にいるだろうか。

 ◆耕筰・露風の幻の唱歌

 “日朝折衷”唱歌はその後も続く。昭和7年に京城師範の音楽教育研究会がつくった「初等唱歌・第三学年用」には、山田耕筰作曲、三木露風(ろふう)作詞の大御所コンビによる『五月雨』『水車』『冬の朝』など、日本でもほとんど知られていない唱歌が収録されている。大正12年に大阪の出版社が発行した唱歌集に掲載されているが、耕筰の関係者も把握していなかったいわば“幻の唱歌”だ。

 耕筰は、満州唱歌である『ペチカ』や『待ちぼうけ』(大正13年の「満洲唱歌集・尋常科一、二年用」に収録)もつくっている。きっと、京城師範の教育者たちは、芸術性の高い耕筰の曲を朝鮮の子供たちに教えたかったのだろう。

 ただ、朝鮮の唱歌にも時期の濃淡があった。日中戦争翌年の昭和13年に改正された朝鮮教育令(第3次)によって、唱歌も一新され、以後、皇民化や軍国色の強い歌が増えてゆく。日本人教育者が愛情込めた自由な朝鮮の唱歌を知る人は今やほとんどいない。=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (26)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(26)ハングル普及に貢献した日本人 中国崇拝一辺倒を打破 2018.7.7

 朝鮮・韓国語を少しでも勉強した人は、よく分かると思うが、日本語との共通点が非常に多い。文法がほぼ同じだし、漢字由来の単語(漢字語)が多数を占めているから、やや発音は違うものの、日本人には何となく意味の予想がつく。

 のっぽ、おんぶ、デブ、ボロ(もうけ)、(腹)ぺこ、チョンガー、(ラクダの)パッチ…知らず知らずに使っている日本語の中にも、朝鮮語に関係があると思われる単語が少なくない(異説あり)。おそらく日本人にとって「最も習得しやすい外国語」であろう。逆もまた然(しか)りである。

 ただ、漢字は別にして、文字は全く違うから、とっつきにくい。初めて韓国へ行った日本人が、看板などに書かれた、見慣れない記号のような文字の洪水に頭がクラクラして、“ハングル酔い”になることもあるらしい。

 ハングルは、15世紀の半ば、李朝の王、世宗(セジョン)の時代に「訓民正音(フンミンジョンウム)」の名で公布された。母音と子音を組み合わせた合理的な表音文字で漢文を読めない庶民にも分かりやすいようにした画期的な発明であった。

 ところが、中国文化(漢文)ばかりをありがたがる朝鮮の支配者階級は、かたくなに「漢文」しか使おうとしない。せっかく独自の文字を発明したのに、それを「諺文(おんもん)」と呼び、知識のない者や女・子供の文字だとして、公的には使おうとしない向きもあったのである。ハングルは長らく“日陰の身”に置かれていた。

 ◆識字率を向上させよ

 李朝末期、朝鮮人の間でようやくハングルを再評価する動きが広がってきたが、そこには日本人の貢献もあった。

 福沢諭吉(1835~1901年)は、朝鮮の改革・進歩、文化の発展のためには、庶民にも読みやすいハングルを普及させて識字率を上げることが肝要だ、と考えた。福沢は、自らハングルの活字を特注して作らせ、門下の井上角五郎(かくごろう)(1860~1938年)を京城へ派遣する。

井上著の『福澤先生の朝鮮御経営と現代朝鮮の文化とに就いて』(昭和9年)を引いてみたい。《朝鮮には諺文(ハングル)がある。日本の「いろは」の如(ごと)くに用いられると知られて、(福沢)先生は、これさえあれば朝鮮も開化の仲間に入れることができる》

 福沢や井上の頭にあったのは、日本語の「漢字かな交じり文」だ。漢字のみの漢文や、ひらがな、カタカタのみの文は読みにくいが双方が交じると読みやすい。漢字は表意文字なので文意がつかめるからだ。

 ハングルは、表音文字であるため、同音異義語が多く、「防火」と「放火」が同じ表記になってしまう。そこへ漢字表記を交ぜると、文意がつかみやすくなるのは日本語と同じだ。福沢らは漢文志向が強かった当時の朝鮮に、漢字とハングルを交ぜた文を根付かせ、庶民にも読みやすくしようと考えたのである。

 再び前述書に拠(よ)る。《政治も法律も支那に模倣(略)官吏の文書に正音(ハングル)を交えることを禁じ…常民の全く学識なき者、婦女子のほかは、男子として諺文(同)を読んだり書いたりするのは一大恥辱…というのが朝鮮上流社会の思想であった》

 福沢と井上は、その思想を打破するために、ハングル入りの文を用いた新聞の発行を考えつく。《先生は「(新聞への)諺文使用は出来うるか」と言われました。私は、決して困難とは思いませんが、朝鮮上流社会の支那崇拝思想を打破せぬ限りは、これを社会に普及させられませぬ。これを打破するのが私の使命と思っています》

 そして、井上は、朝鮮人語学者の協力を得て、明治19(1886)年、形は少し違ったが、京城でハングルを入れた初の新聞『漢城周報』(週刊)の発刊にこぎつける。新聞は国王の認可を受け、政府の機関が発行所となったもので、朝鮮社会に与えたインパクトは大きかった。29年には朝鮮人の手によってハングルのみの独立新聞が発行される。

◆一村一校の小学校建設
ハングルの標識
福沢諭吉

 日本統治時代、ハングルは普通学校(小学校)の教科書に載り、朝鮮の子供たちに普及してゆく。

 日本が建てた初等教育の学校は、明治45年に500校あまり(児童数約6万6千人)だったが、「一面(村)一校」を合言葉に地方に広がり、昭和11年には、約2500校・児童数約93万人→16年、約3700校・約170万人と急増。終戦前の就学率が、5割を超えていたのは前回書いた通りである。

 初等教育機関は当初、日本人が主の小学校(一部の朝鮮人も通った)と朝鮮人児童の普通学校に分かれていた。昭和12年に名称はともに小学校となったが、学校の統一はされていない。「国語(日本語)能力」に差があったからである。

 朝鮮総督府は、普通学校で教える朝鮮語で、ハングルのつづりを統一するため、朝鮮語学者の協力を得て昭和5年に、諺文綴字(つづりじ)法を公布。正書法を完成させてゆく。

 前回、国語政策の「時代による濃淡」について触れた。大正8(1919)年の大規模な抗日運動(三・一事件)以降、日本は“緩やかな”「文化政治」にかじを切る。結社、集会の規制が緩められ、今も続く朝鮮日報や東亜日報といった朝鮮語の新聞も、この時期に創刊されている。

 だが、日中戦争開始(昭和12年)以降は、朝鮮でも戦時体制として皇民化政策が進められ、自由な雰囲気は失われてゆく。ハングルの普及活動を進めた朝鮮人の民間団体が、民族運動、独立運動の拠点とみなされ、治安維持法で検挙される事件も起きている(17年の「朝鮮語学会事件」)。

 ハングルは再び“日陰の身”とされたが、ハングル交じりの新聞(毎日新報)は終戦まで発行されている。

 戦後の韓国・北朝鮮は、一転して、民族意識の象徴としてのハングルを重んじ、漢字を排除するようになる。韓国では漢字教育をほとんど受けなかった「ハングル世代」が大多数を占め、自分の名前すら漢字で書けない人も多い。どうもこの民族は、極端に走りすぎる。=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (25)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(25)日本の官憲に朝鮮語奨励 国境警察隊の8割は日本語理解せず 2018.6.30

 先週書いた、朝鮮北部の国境警察隊の映画『望楼の決死隊』(昭和18年、今井正監督)の思い出は、朝鮮総督府の元キャリア官僚で戦後、埼玉県警本部長や大分県副知事を歴任した坪井幸生(さちお)(大正2年生まれ)も書き残している。
 《国境地帯では、百人近くの警察官が一つの駐屯地に集団で駐在していた(略)隊員は当番となり、二、三人の班を組んで戸口調査をし…情報を集めるのが常務であった、使う言葉は朝鮮語であり、朝鮮語ができなければ話にならなかった》(「ある朝鮮総督府警察官僚の回想」から)
 映画の中に、住民の説明会で日本語とハングルを併記して板書するシーンが出てくる。終戦前には普通学校(小学校)の就学率は50%を超え、日本語を解する朝鮮人の割合は年々増加していったが、全体から見れば「日本語ができる朝鮮人」はわずか15・6%(昭和15年、朝鮮総督府統計)にすぎない。終戦間際でも2割前後。特に、年配者や女性は低かった。
 日本語が分からない朝鮮人に対処するためには、日本人警察官の方が朝鮮語を勉強した。再び、坪井書に拠(よ)る。《(警察官志願者の)講習所で朝鮮語の教育をしなければならなかった。教習科目のなかでも、朝鮮事情とともに朝鮮語は重要視されていた》
 警察官だけではない。総督府は地方官吏を中心に朝鮮語習得を奨励し、「熟達せる者」に対しては手当まで支給している。
 坪井は、こうも書いている。《当時の朝鮮人の日常の市民生活では、当然のこととして朝鮮語が常用されていた。(略)汽車の切符も煙草(たばこ)も朝鮮語で買えた。郵便局でも片仮名以外にハングルを使って電報を打つことができた。「朝鮮語の使用禁止」があったというのは、当時の実情を知らない者の虚報か、タメにする作り話である》
 朝鮮人を対象とした徴兵令は18年に発せられ、19年になって、やっと実施されている。それまでは、13年からの陸軍特別志願兵制度などによって朝鮮人兵を集めていた。戦局悪化にともなって戦死者も増え、内地ではどんどん徴兵年齢が上げられてゆく。できるならば朝鮮人兵も早く徴兵したかったであろう。なぜ終戦間際になったのか?
 ひとつには「日本語能力」がネックになったからである。若い徴兵世代でも全体の7割弱は日本語ができない。そんな兵は訓練もままならないし、命令を伝えることもできない。実際、徴兵制を実施したものの、徴兵されたのは「全対象者の約4分の1」にとどまっている。戸籍が把握できなかった者らに加えて、日本語の能力で除外された者がいた。
 大多数の朝鮮人が日本語を理解できない現実の前では、坪井が書いているように、日常生活での「朝鮮語の禁止」など、できるはずがないのである。
 ◆日本語求めた朝鮮人
 総督府は、朝鮮人児童への初等教育を整備・拡大し、あまり使われていなかったハングルを教え、識字率向上に努めた。
 ただし、総督府の言語政策は時期によって濃淡がある。映画『望楼の決死隊』に登場する、もう一方の映像も紹介しなければ公平ではない。それは、国境警察隊の壁に張られた「国語常用」の標語である。
 日中戦争(昭和12年~)以後、戦時体制の中で朝鮮でも内鮮一体、一視同仁のスローガンのもと、皇民化政策が進められてゆく。
 映画が撮られた18年には、「日本語を使いましょう」という国語常用運動が総督府によって進められており、官公庁などには、先の標語を掲げるよう指示が出ていた。初等教育の科目としての「朝鮮語」も、16年を最後(随意科目)に姿を消している。
だから、他民族統治の中で国語政策についても強圧的なやり方がなかった、というつもりはないが、一方で、多くの朝鮮人が「日本語を求めた」側面を見逃すべきではない。日本語を身につけることは、教育を受けたり、仕事を得たりするのに有利になったし、“同じ日本人”としての意識も次第に高まっていたからだ。
 先の陸軍特別志願兵には、初等教育で、日本語を学んだ農村出身者らが多かった。昭和17年には、採用予定人数4500人に対し、志願者が約25万人、18年は、採用予定約5300人に対し、30万人以上の志願者が殺到した。すさまじい人気ぶりである。
 批判する側がいう「皇民化政策の影響」だけで、ここまで高倍率になったであろうか? やはり朝鮮人の日本への同化が進み、「ともに戦う」という意識の高揚が、この数字につながったのではないか。
 『前進する朝鮮』(17年、朝鮮総督府情報課編)に、当時の朝鮮人の日本語学習熱についての記述がある。《今日では、すでに国語(日本語)の習得は朝鮮人にとっても国民常識であり…正規の教育機関ばかりでなく、各村落に設けられた短期の国語講習所等(とう)には50、60歳の老翁、あるいは30、40歳の主婦たちの子どもをおんぶした手習い姿も見られて…》と。
 批判する側は、この国語講習所についても、「そこまでして日本語を強要した証拠ではないか」と主張する。では、終戦当時旧制中学3年生の朝鮮人少年だった男性(88)の証言を聞いてみたい。
 「朝鮮ではますます、日本語の使用が広まり、朝鮮語の書物や朝鮮語の新聞の購読者が減少していった。満州(現中国東北部)へ進出した朝鮮人たちも可能な限り、(有利になるように)日本人のふりをしていた。もちろん、朝鮮人の日本化を促進させるための総督府の政策も、そこにはあった。だから、日本語の普及・朝鮮語の教育の退潮は、政策面と(日本語を身につけたい)需要面の両面によって進んだのです」
 公平で率直な見方だと思うが、どうだろう。=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (24)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(24)警察官の半数近くが朝鮮人だった 映画『望楼の決死隊』に見る実相 2018.6.23

 戦後の日本映画を代表する巨匠の一人、今井正(ただし)(1912~91年)がメガホンをとり、昭和18年に公開された映画『望楼の決死隊』(東宝)は、10年ごろの満州国(現中国東北部)との国境に近い朝鮮北部の村を舞台にしている。“永遠の処女”原節子(1920~2015年)が、匪賊(ひぞく)と対決する国境警察隊所長の若妻役を演じ、戦闘シーンで拳銃をぶっ放す派手なアクションが話題になった。
 撮影当時、国境にある朝鮮・咸鏡北道知事を務めていた古川兼秀(かねひで)(1901~74年)は、現地ロケにやってきた原など、撮影隊に会ったことを、よく家族に話していたという。
 映画のストーリーを簡単に紹介しよう。朝満国境を流れる鴨緑江や豆満江が凍結する厳冬期には、満州から匪賊が河を渡って朝鮮へ攻撃を仕掛けてくる。
 匪賊には馬賊、土匪、宗(教)匪などがあるが、映画に登場するのは、共産主義者勢力による「共匪」。北朝鮮の初代最高権力者となる金日成も参加していた「抗日パルチザン」と称する武装ゲリラ集団である。朝鮮人住民とともに土地を警備する国境警察隊は、厳寒のなか不眠不休で任務にあたり、共匪との激闘で殉職者を出しながら、ついには村を守り抜く…。
 映画の中で、朝鮮人の住民の心情は、日本側にある。朝鮮総督府後援の作品だから、多少のプロパガンダ色はあるものの、実感情に近いだろう。共匪の「抗日」宣伝に共感する住民もなくはなかったが、多くの朝鮮人住民は、民間人への襲撃、放火、略奪、誘拐…と非道の限りを尽くす共匪を恐れ、嫌っていた。
 映画の国境警察隊には朝鮮人警察官もおり、共匪側の凶弾に倒れ殉職する。日本人警察官は悔しさをにじませ、仲間の仇(かたき)をとるべく銃弾が飛び交う最前線に飛び出してゆく。古川は、北部の平安北道や黄海道で警察部長(現在の県警本部長に相当)を務めた経験があり、匪賊掃討の陣頭指揮もとっていたから、映画には、感慨深いものがあったに違いない。
■日本時代に刷新改善
 朝鮮で、近代的な警察制度が整備されたのは日本統治時代である。
 『25年 朝鮮は何を得たか?』(昭和11年、京城日報社編)にこうあった。《韓国(大韓帝国)時代における警察制度は、名あるも実なく、常に権門の手足となり…弊害百出混沌(こんとん)たる状態であった。(略)その後露、仏などによる顧問を聘(へい)したが、徒(いたずら)に政争の爪牙たるに過(す)ぎなかった。明治37年帝国政府(日本)より推薦せる警察顧問によって刷新改善を図り、ここに初めてその体をなすに至った》
 同書によれば、明治43年に107だった警察署は、昭和8年に251に。駐在所は、269→2334▽警察官数は、5694人→1万9228人(いずれも前記期間比較)と急増している。注目すべきは、朝鮮人警察官の人数が、全体の「4割強」(昭和8年)を占めていることだ。総督府の役人の数も約半数を朝鮮人が占めている。彼らの目を盗んで)、同胞の少女を慰安婦として無理やり連れ去ることなどまず、できなかっただろう。
 キャリア官僚として朝鮮総督府に入った古川は、警察畑が長かった。主に警備・公安畑で活躍し、道の警察部長のほか、政治犯や防諜を担当する総督府警務局の保安課長、メディアの検閲などを担当する図書課長も務めている。
 昭和13年発行の『ヂャーナリズム時代の部隊の戦士』〈話題の人〉に、図書課長時代の古川の人物評が載っていた。《血の気が多い…総督府内きっての革新派…次のイスは道知事か警務局長か…》と。
 古川は、朝鮮人の登用に積極的な官僚だった。次男の武郎(たけお)(80)のもとには、平成元年に古川が重用した朝鮮人警察官が亡くなったとき、息子から届いたお礼の手紙が残っている。「父の日記には、故古川殿と友子様(さま)(古川の妻)の数々の思い出があふれていました。1934年に古川殿とお付き合いを始めて、親子関係よりももっと深い思いやりであった、と書かれていました…」
一方、古川が残した一文には、この朝鮮人警察官が一度、酒の上での不祥事を起こしたものの「『見どころがある男だ』として罪一等を減じた…果たして、拳銃強盗事件の捜査で凶弾を左ほほに受けながらも犯人を逮捕した」というエピソードが綴(つづ)られている。
 古川と朝鮮人部下との交流は、終戦後に、古川の家族が日本へ引き揚げるときまで続く。
 ■日朝住民の交流描く
 映画『望楼の決死隊』は戦後、軍国主義の国策映画として批判も浴びた。戦時下という時代もあったろうが、その後は、左翼色の強い監督というイメージが強まってゆく今井にとっては、確かに異色の作品かもしれない。
 ただ、この映画の見どころは、匪賊と国境警察隊の派手な戦闘アクションだけではない。むしろ私には、雄大な朝鮮北部の大自然や、当時の朝鮮人の生活、風俗、日本人と朝鮮人との交流の“息づかい”といったものを丹念に描いたシーンの方が興味深い。
 雪と氷に包まれた急峻(きゅうしゅん)な山を見れば、「こんな奥深い辺鄙(へんぴ)な地に日本人はよく巨大な水力発電所などを造ったな」と感心する。凍った河を、すいすいとスケートで滑ってゆく朝鮮人住民らのシーンでは、ここが今なお、中朝混在の地であり、密貿易や脱北者が逃げるルートになっていることがよく分かる。原節子が隣家の朝鮮人の奥さんのお産を手伝いにいったり、殉職した朝鮮人警察官の遺影に日本人の同僚がお雑煮を供えたりするところなどは心温まる場面だ。
 2つの民族は反目しあっていたのではない。映画に登場するような国境警察隊や日朝の警察官の不断の努力によって、朝鮮の治安は改善され、人口は約2倍に増加し、農業・商工業の飛躍的発展を見たのである。=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

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朝鮮統治の真実 ほんとうは「日韓併合」が韓国を救った! 「七奪」はすべてねつ造

 朝鮮統治の真実   松木國俊 元豊田通商ソウル事務所駐在員

ほんとうは「日韓併合」が韓国を救った! 「七奪」はすべてねつ造
韓流ブームに乗って韓国礼賛に走るマスコミもある。だが、ちょっと待て。”憂情”をもって言う ー ウソと詭弁で塗り固めた歴史の握造を正さないかぎり、貴国の将来は危うい! 

■「遊びに来て」が災いのもと
 私は1972年に学生として初めて韓国に行きました。クルマといえばトヨタのコロナばかりが走っているころで、裸電球が灯ったりし、初めてなのに、どこか懐かしい気がしました。韓国語は欧米の言語と違って語順が日本語と同じだし、顔も日本人と似ている。けれど、表面はそっくりでも中味は大違いです。
 大学卒業後豊田通商に入社。1980年にソウルに駐在しましたが、日韓の文化の違いに驚かされました。
 日本でも「忠孝の倫理」とか言いますが、韓国では忠より孝が大事。会社の大事なお客が来るときに、韓国人のパートナーが休んでしまう。「お父さんの誕生日だから」と言うのです。
仕事のあとで駆けつければいいじゃないかと言うと、「そんなことをしたら周りから白い目で見られる」。考え方が日本とは根本的に違う。言葉の意味も違う。例えば「約束」。ある程度できそうだという見込みがあれば「できる」と約束してしまい、状況が変わると守れなくてもしかたがないという考え方です。「予定」も違う。「明日お客が空港に何時に着く予定だか
ら迎えを頼む」と言っておいたのに、予定の時間に会社にいるので焦って事情を聞くと、「あれは予定でしよ。
決定するのを待っていました」との答えがかえってきました。
 人と人の間の距離感も違います。韓国人は親しくなってある線を越えると、その内側の相手は身内ということになる。身内ならお金も貸すし、いつ家に遊びに行ってもいい。相手の都合なんかおかまいなしです。私の日本人の友だちが韓国人の女性と結婚しましたが、当時夜間外出禁止令があって、夜、家に帰れなくなった親戚がしょっちゅう泊まりに来る。プライバシーなんかあったものじゃなくて閉口していました。
 ある日本人の夫婦が韓国のアパートに入居したとき、エレベーターで隣家の人に会ったので「いつでも遊びに来て」と挨拶したら、その晩に家族五人でやって来て、食事中だから待ってと言ってもかまわず上がりこみ、テレビを勝手につけたり冷蔵庫を開けて飲み物を出したりで、嫁さんが「こんなところにはいられない。日本に帰る」と叫んだなどということもありました。
 ジャーナリストの室谷克実さんは慶応大学時代の二年先輩ですが、その室谷さんに聞いた話です。-ソウルのホテルの鮨カウンターで食べていたら、ウエイトレスが「(そのホテルの)社長様がいらっしゃいましたので席を譲ってください」と言う。
こっちが客だよ、と窘めても、「私は社長様から給料をもらっていますから」と平気な顔だったそうです。日本と逆で、外部の人に話すときに身内のものに敬語をつけるんです。「父上様は今いらっしゃいません」「課長様は今いらっしゃいません」という調子です。一番大切な身内にすら敬語を使わない日本人は極めて不道徳となるのです。

■身分格差
 韓国人は大げさな表現が好きで、すぐ話がふくらんでしまう。造船輸出が急激に増えた時期にはドックで修理したものまで新造船に数えて統計をふくらませたと聞いたことがあり、実態とは違った数字だったようです。韓国としてはライバル日本に負けないよう精一杯背伸びしたのかもしれません。規模と利益で日本企業を圧倒する韓国のサムスンを模範企業のように言う論調がありますけれど、まだ問題はあるようです。
 「サムスン電子は、技術パクリを常とし、世界のさまざまな家電・半導体メーカーから特許権侵害で提訴されている企業です。2011年4月には、アップル社がついにスマートフォンに関する特許権侵害でサムスン電子を告発しました。(略)サムスン電子はアップルに半導体や液晶を納入している、いわばお得意先。そこの製品をパクつたのですから、その度胸は賞賛ものです。(略)社員は使い捨てで下請け泣かせ、オーナーの一族は金銭スキャンダルに塗れ、オーナー自身、脱税で有罪判決を受けました。売上高は世界的規模でも、韓国型悪辣・不道徳企業の代表です」〈室谷克実・三橋貴明『韓国人がタブーにする韓国経済の真実』(PHP研究
所刊)より〉
 サムスンは、以前は日本人を雇って、役員会も時々日本語でやっていたとのことです。研究開発費も、他社から図面やノウハウを買うのにかなり使われているようです。韓国では身分格差が大きくて、サムスン電子のオーナー会長は2011年春、株の配当金だけで101億円を受け取ったが、勤労者の45%は2010年中の平均月収が15万円以下だったそうです。企業はオーナー一族のものという意識が強く、企業トップが公私混同して背任罪に問われるケースもよくあります。一人が出世すると一族が頼って来て、出世した当人もみんなを養う義務があると考える。一族の者だから金を貸せと突然言って来て、貸さないと門前で「一族なのに貸さないのを皆さんどう思うか」と騒ぎ立てる。大統領ほどの権力者となるとこれにたかろうとする人が後を絶ちません。某大統領が「聞いたこともない親戚が三倍増えた」と嘆いたことがありました。だから辞職した歴代大統領がみんな汚職で追及されることになるのです。

■人の親切につけこむ
 こういう韓国社会の様相は百年前に朝鮮を観察したイサベラ・バードの『朝鮮紀行』(講談社学術文庫 時岡敬子訳)にも描かれています。
 「朝鮮の重大な”宿痾”は、何千人もの五体満足な人間が自分たちより暮らし向きのいい親戚や友人にのうのうとたかっている、つまり『人の親切につけこんでいる』その体質にある。そうすることをなんら恥とはとらえず、それを非難する世論もない。ささやかながらもある程度の収入のある男は、多数いる自分の親族と妻の親族、自分の友人、自分の親族の友人を扶
養しなければならない。……おおもとはほとんど揺るがない」
 おおもとが揺るがないと言えば、韓国では「過去を水に流す」ということがありません。そういう日本的な美意識は絶対通じません。人を責めるのに、その父、祖父が何をしたかにまでさかのぼって責める。「親日法(日帝下の親日・反民族行為真相糾明に関する特別法)」でも、親日派だった者の子孫の財産を没収するというのですから、不遡及という近代法の原則も何もあったものではありません。だから、過去は自分に都合のいいものでなければならない。実際にあった過去ではなく、「あるべき過去」を主張して、でっち上げてでも押し通さないと生きて行けないのです。
 それゆえ、大韓民国の正統性を主張するために、上海にあった大韓民国臨時政府が日本に対する独立戦争をやって勝ったのだと教科書に書き、教えている。近代において日韓が戦ったことなどはないのです。臨時政府が国家として承認されていたのなら、日本の敗戦ですぐ民国ができてもよかったはずですが、実際には南北の軍政下に置かれ、1948年にアメリカの軍政下から独立したのです。

■いわれなき非難に謝罪
 韓国にいて歴史認識がおかしいと思い始めたのは、1982年の、日本の教科書が「侵略」を「進出」と書き換えたと騒がれたときです。事実ではなかったわけですが、韓国人が興奮状態で、新聞の一面に「日本の軍国主義がまた始まる」と書いて自衛隊観艦式の写真を載せたりした。実態を知らぬまま思い込みだけで非難するのかとびっくりしました。新聞は反日記事を書けば売れる。先日もハンギョレ新聞の論説委員が「日本の右翼勢力をただすには日本を韓国の植民地にするしかない」と書きました。
 韓国の非難は的外れだと思って歴史の勉強を始めたのですが、日本では鈴木善幸、宮沢喜一の両元首相が韓国に謝罪してしまい、これでは歴史のウソを認めることになると切歯挺腕しました。
 50歳で会社を早期退職した理由の一つは、日本語教師になり、韓国人に日本語を教えながら日本の本当の姿を伝えて誤解を解きたいと思ったことでした。専門学校に通って教師の資格を取りました。韓国人が日本に来ても、一年ならいい印象を持つ。「韓国人はいじめられる」と聞かされていたがそんなことはなかったと。しかし二年目に文化の壁にぶつかります。友人の家に夜、突然遊びに行ったら嫌な顔をされた、差別じゃないかとか。学校や課外活動を通じて日韓の文化的な違いを教える必要がありますが、なかなか容易じゃない。教師の口が少なく、非常勤講師を二、三コマやっても週に1万円にしかならないなどということもあって、また商売を始めました。
 それが可能だったのは、私か前の会社をやめても付き合いを続けてくれた韓国人の友人たちのおかげです。
これは有難かった。今度はまず日本人の意識を変えようと、日本会議などに大って情報交換をしていました。
 そこへ、ある老人が資料を見せてくれた。かつての朝鮮総督府の年鑑や日本統治下の朝鮮で使われた教科書など。「日本が朝鮮から強奪した」として韓国が主張するいわゆる「七奪」がねつ造であることを示す一次資料で、私は目からうろこが落ちる思いでした。
 この資料によれば「七奪」非難は完全に否定されます。

一、「韓国国王を奪った」……
 日本は李王家を日本の皇族の一員としてお迎えし、併合時の純宗皇帝は李王となられて日韓の皇室が融合したのです。日本は李王家を手厚く保護しました。朝鮮総督府『施政三十年史』(国立国会図書館蔵)には歳出項目の最上段に「李王家歳費」とあり、毎年180万円か計上されています。
 現在の価値で約二百億円になります。他の宮家の皇族費とは格段に差のある巨額です。さらに梨本宮方子(まさこ)女王が李王家の王世子・李垠(りぎん)殿下に嫁がれました。このこと一つをとっても、日本の「朝鮮統治」は、植民地の王室をことごとく廃止した欧米列強の「植民地支配」とは根本的に違っていることが明らかです。終戦時、李垠殿下’は密航してでも朝鮮に帰ろうとされましたが、韓国の李承晩大統領が許さなかった。李王朝を復活させず、共和制国家をつくったのは韓国自身です。

二、「主権を奪った」……
 李氏朝鮮は清の属国であり、国家主権はもともとなかったのです。朝鮮が近代国家として独立し、共に欧米列強の侵略に対抗することを望んだのは日本であり、それを許さぬ清との間で戦争になったのです。日本が勝利し、清と結んだ講和条約(下関条約)第一条には「清国(朝鮮国ノ完全無欠ナル独立自主ノ国タルコトヲ確認ス因テ右独立自主ヲ損害スヘキ朝鮮国ヨリ清国二対スル貢献典礼等「将来全ク之ヲ廃止スヘシ」と朝鮮の独立が明確に謳われています。

■日韓合邦の嘆願書
 ところが、ロシア、ドイツ、フランスの三国による干渉で日本が遼東半島の放棄を強いられると、国内改革によって専制権力を奪われつつあった国王・高宗はロシアと組んで巻き返しに出ました。国内の親日・改革派を葬り、ロシアに朝鮮の利権を売り渡し、馬山にはロシア海軍の基地が建設されて、日本の独立が脅かされる事態に至りました。そして日露開戦。大韓帝国内では李容九が「一進会」を結成し、日本との一体化こそが国を救う道であると朝鮮民衆に説きました。白人大国ロシアに対する日本の勝利はアジアーアフリカの有色人種を狂喜させた。戦後、李容九は一進会百万人会員の名前で全国民への合邦声明書を発表、さらに韓国皇帝、曾彌統監、李完用首相に対し「日韓合邦」の請願書を提出しました。日韓併合は日本が一方的に進めたのではなく、大韓帝国の中にも日本との合邦を推進した人々が多くいたのです。
 1910年に日韓は「韓国併合二関スル条約」を締結しました。このときの韓国皇帝の詔勅には、「韓日両国の親密なる関係をさらに進めて一家をなすことがお互いの幸福に通じる」と
して内閣総理大臣李完用に全権を委任し、大日本帝国統監寺内正毅との両国併合交渉に当らせると記されています。日韓併合条約は国家同士が当時の国際法や国内法に基づいて平和裏に締結した正式な条約なのです。日本が一方的に主権を奪ったのではありません。

■ヘレン・ミアーズの証言
 『アメリカの鏡・日本』の著者ヘレン・ミアーズも「日本が韓国を併合したのは、新皇帝が懇願したからだ。日本は一つ一つ手続きを外交的に正しく積み上げていた、そして宣言ではな
く条約で最終的な併合を達成した。列強の帝国建設はほとんどの場合、日本の韓国併合ほど合法な手続きを踏んでいなかった」と記しています。
J・クロフォード英国ケンブリッジ大教授も、2001年の国際学術会議で「自分で生きて行けない国について、周辺の国が国際的秩序の観点からその国を取り込むというのは当時よくあったことであり、日韓併合条約は国際法上不法なものではなかった。強制されたから不法であるという議論は第一次大戦以降のもので、当時としては問題になるものではない」と述べて、韓国側の主張は完全に崩れました。イザベラ・バードも夙(つと)にこう書いていたのです。
 「わたしは朝鮮人の前途をまったく憂えてはいない。ただし、それには左に掲げたふたつの条件が不可欠である。
I、 朝鮮にはその内部からみずからを改革する能力がないので、外部から改革されねばならない。
Ⅱ、 国王の権限は厳重かつ恒常的な憲法上の抑制を受けねばならない」

三、「土地を奪った」……
 1974年以来、韓国の国定教科書には「全国農地の40%を日本人に収奪された」と記載されてきました。
とんでもない。李氏朝鮮時代は所有権の概念があいまいなために、土地をめぐる争いが絶えませんでした。
そこで朝鮮総督府は1910年から8年かけ、近代的測量技術を使って土地調査を行いました。朝鮮総督府『施政二十五年史』(国立国会図書館蔵)には「抑々土地調査は地税の負担を公平にし、地籍を明らかにして其の所有権を確立し、その売買譲渡を簡捷確実にして以て土地の改良及び利用を自由にし、かつその生産力を増進せしめんとするものである」と目的がはっきり書いてあります。調査の結果、270万町歩と言われていた耕地が、実際には487万町歩にも上ることが明らかになりました。耕地全体の45%もが当時の貴族階級であった両班らによって隠匿されていたのです。
 韓国では土地調査について「日本人が小高い丘に登ってあたりを見回し、土地を指さして手当り次第良田を奪った」と非難していますが、これは李氏朝鮮時代の話なのです。李朝末期にダレ神父は『朝鮮事情』(平凡社)の中でこう書いています。

■両班の暴君ぶり
 「両班は、いたるところで支配者か暴君のようにふるまっている。彼らが強奪に近い形で農民から田畑や家を買うときは、殆どの場合、支払なしですませてしまう。しかも、この強盗行為を阻止できる守令(現在の知事に相当)は1人もいない」。
 実際に朝鮮総督府が接収した土地(李朝時代の国有地等)は耕地全体の三%でした。接収の過程で朝鮮人の私有地を奪った事実は全くありません。一九二二年時点で朝鮮半島における国有地及び日本の個人、法人が保有していた土地は合わせて二十五万五千町歩、全耕地面積の六%にすぎません(『朝鮮における内地大』朝鮮総督府、大正十三年発行)。農民たちは自分の土地が測量され地籍に上がるのを見て、測量事業に積極的に協調しました。しかし中には一時の利益に目がくらみ祖先伝来の土地を売ろうとするものもありました。一方、一握千金を夢見る日本人が大挙、朝鮮にやってきました。当時の寺内総督は、一旗組によって朝鮮の土地が買いたたかれては百害あって一利なしとし、朝鮮農家が日本人に土地を売るとの情報をつかむと憲兵を派遣し、日本人には売らないよう説得させました。そこまで総督府は朝鮮人の利益を守ろうとしていたのです。

四、「国語を奪った」……
 韓国の国定中学校教科書には「我々の言葉を禁止し日本語だけを使うようにして、我々の歴史の教育も禁じた。ハングルで刊行された新聞も廃刊させ、我々の言葉と歴史に対する研究も禁止させた」と書いてあります。
そもそもハングルは十五世紀に李朝四代世宗が学者を集めて作らせたと言われていますが、当初より諺文として忌み嫌われ、公文書では一切使われませんでした。イザベラ・バードも「諺文は軽蔑され、知識階級では書きことばとして使用しない」と記しています。そのハングルを再発見したのが日本人の福沢諭吉でした。
 「日本の漢字仮名まじり文同様、ハングルを駆使すれば難解な漢文を朝鮮語式に自由に読み下すことが可能となり、大衆啓発のために大いに役立つはずだ」と考え、漢字(ングル混交文を提唱し、ハングル活字を私費で作りました。
 朝鮮総督府は日本と朝鮮の学者を集めてハングルを近代的文字体系にまで高め「普通学校用諺文綴法」を決定して教科書に採用しました。さらにソウルとその近郊で話されている言葉を標準語と定め、学校教育を通し全土にこれを広めました。現在の韓国語は、このときに成立したのです。
 1920年には総督府によって初めて本格的朝鮮語辞典が完成、刊行され、1924年には京城帝国大学に朝鮮語・朝鮮文学の口座が開設されました。半島における日本語の普及にも力を入れましたが、これは共通語の普及が目的であり、朝鮮語廃止など毛頭考えていなかったのです。
 日本が朝鮮を植民地と考えていたのなら日本語など教えないほうが支配しやすかったはずです。1941年からは朝鮮語の科目が廃止されましたが、これは戦争の激化によって朝鮮語教育に力を入れる余裕がなくなったためです。また科目が廃されたからと言って、朝鮮語の使用が禁
止されたわけではありません。当時の日本人は半島の人口の2%程度であり、禁止など不可能です。朝鮮語の新聞も、京城では終戦まで二紙が発行されていました(中村梨『韓国併合とは何だったのか』)。むしろ朝鮮の知識人の中に朝鮮語廃止と日本語常用を唱える人々が大勢いたのです。

■朝鮮語廃止にストップ
南次郎総督が「朝鮮語を廃止するのは良くない。国語(日本語)普及運動も朝鮮語廃止運動に誤解されることがあるくらいであるからそれはできない相談である」と拒否した経緯があります(杉本幹夫『「植民地朝鮮」の研究』)。日本が朝鮮語を奪ったのなら、当時の朝鮮人は全員日本語を話せたはずですが、『朝鮮総督府施政年報 昭和十六年版』には日本語を「や
や解しうるもの」「普通会話に差し支えなき者」合わせて約390万人、当時の朝鮮の人口の16%に過ぎないと記載されています。同資料には「内地人職員に対する朝鮮語の奨励」なる項目があり、日本人官吏が朝鮮語を必死で学ぶ様子がうかがえます。
 近代においては日本が西洋の用語を日本語に翻訳して新たな漢語を創造したのですが、朝鮮の人々は日本製の漢語を借用して今日の韓国語を形成しました。韓国語の名詞の70%程度が漢語であり、政治、経済、科学、哲学、医学分野はほぽ100%が日本語の借用です。「社長、副社長、専務、常務、部長、課長、係長」も、「株式会社」「合弁会社」「水素」「酸素」「電気」「手術」もみんな日本語の韓国読みです。日本は統治期間中に朝鮮語の標準語を定め、近代社会に必要な単語を提供しました。奪うどころか、まったく逆のことをやっているのです。
 歴史教育についても、朝鮮総督府大正13年発行『朝鮮語読本 巻五』には「(慶州為先陳列館では)この地方において発見された各種の遺物が保存されており、新羅文明の卓越した様子が明らかに分かる」「石窟庵に入れば穹窿(きゅうりゅう)たる石窟の中に29体の仏像を周壁に彫刻してあり、その彫刻の優美さは東洋芸術の誇りである」などの記述があり、朝鮮の卓越した歴史を学童たちに教えるべく努力していたことがよくわかります。

五、「姓名を奪った」……
 1939年に朝鮮総督は朝鮮戸籍法を改正し、朝鮮人が日本名を名乗ることを可能としました。「創氏改名」と呼ばれるこの政策によって朝鮮人の姓名を奪われ、無理やり日本人に同化させられたとして韓国は日本を非難します。しかし、朝鮮人が日本名を名乗ることで日本人が何か得をしたでしょうか。実は、日韓併合直後の1911年に朝鮮総督府は総督府令第214号「朝鮮人の姓名改称に関する件」を施行し、朝鮮人が日本式姓名を名乗ることを禁止していたのです。朝鮮の伝統風俗を尊重すると同時に、日本人と朝鮮人を名前で区別できなくなることで発生するであろう不都合に配慮したものでした。

■日本名をくれないのは差別
 それが変更されたきっかけは、朝鮮人満州開拓団からの強い要望です。
朝鮮人に対する中国人や満州人の侮蔑意識が強く、朝鮮人の村々は略奪、放火、虐殺など甚大な被害を受けていた。日本名を名乗れば名実ともに日本臣民となり、侮蔑されなくなるというわけです。半島の朝鮮人の間でも「日本人になって三十年近く経つても日本式姓名を名乗れないのは朝鮮人への差別である」との不満が高まってきました。しかし朝鮮総督府警務部は日本への密航増加や治安上の問題を憂慮して反対し、内地人も 朝鮮人も平等であるという「一視同仁」の考えから賛成する文部部とすったもんだの議論の末、ようやく1936年に戸籍法改正に至ったのです。
 総督府では朝鮮の文化伝統を尊重する立場から「姓」を戸籍簿上に残し、新たにファミリーネームとしての「氏」を創設することにしました。これは朝鮮人が「姓」を変えることなく合法的に日本式の苗字を持てる妙案でした。さらに「せっかく日本人の苗字が名乗れるようになっても、下の名前が朝鮮式のままでは意味がない。
名前も変えさせて欲しい」という要望が多く、これに応えるために、裁判所に申請し正当な事由があると認められた場合に限り、手数料を払って名前を変えることも可能としました。
これによって「創氏改名」が実現したのです。
 この法律が施行されるや町や村の議会で「全員日本名とする」ことを決議するケースも続出しました。朝鮮人官吏が点数稼ぎのために日本名を勧めたこともあったようです。日本名を名乗らないものが朝鮮人の問で非難されることもあったでしょう。
改名を拒否して自殺したという話も残っています。しかしそれはあくまで朝鮮人社会内部での問題であり、日本側が強制したわけではありません。南総督は三度も「強制してはならない」という通達を出しています。
 また、日本名を名乗らなくても不利益を被ることがなかった証拠に、軍人や政治家、スポーツ選手のなかに朝鮮名を通した人たちもかなりいました。結果的に80%の朝鮮人が日本名の「氏」を選択したのは、当時世界五大強国の一つであった日本の臣民になることを望んだということです。朝鮮では本貫(一族始祖の発祥地)を同じくする同姓同士の結婚はできず、異姓を婿養子にすることもできない規定がありましたが、創氏改名に伴う民事令の改正で異姓の婿養
子を迎えることができるようになり、喜ばれたという事実もありました。

■あまりの歴史歪曲
六、「命を奪った」……
 日清戦争の原因となった東学党の乱から1945年までの50年間、日韓は戦争状態にあり、この期間中に残虐な日本軍は朝鮮人数十万人を虐殺したと韓国では教えています。
これが世界中で韓国だけに存在する「日韓五十年戦争」論です。この主張は、朴殷植が1920年に書いた『朝鮮独立運動之血史』という本がベースになっています。朴は上海臨時政府の2代目。大統領‘になった人物であり、この本は日本を攻撃するために悪意をもって著述したもので、日本の官憲や軍隊の蛮行がこれでもかとばかり書き連ねてあり、私もこれを読んであまりの偏見と事実歪曲、数字の誇張に絶句しました。しかし韓国ではこれが史実として教えられています。
 「東学党は、政府軍や日清軍と交戦すること9ヵ月以上にも及んだ。死者30万人を数え、民族史の上に古今未曾有の惨状を極めた」というのですが、日本軍の本隊が朝鮮半島に上陸したのは東学党の乱が朝鮮政府軍や清国軍隊によって鎮圧されたあとで、それまでは二個小隊しかいませんでした。また、「わが民衆を日露戦争の軍用務労働者として徴用しはじめ、これを拒否したものはロシアの間諜として罪におとしいれ、あるいは拘束し、あるいは拷問を加え、甚
だしくは斬殺した。」とあります。しかし日本で国民徴用令が制定されたのは1939年であり、1904年に他国の国民を徴用できるはずがありません。
 韓国の民族独立運動である「三一運動」を日本が残虐な手段で弾圧し、多くの朝鮮人を虐殺したと韓国は主張しています。1919年三月一日、京城(ソウル)の公園に宗教家33人が集まり、非暴力・無抵抗主義を標榜して「万歳デモ」に移ったのが始まりですが、これが瞬く間に全国的暴動に発展し、地方では農民たちが武装して村役場、警察・憲兵事務所、富裕地主等を襲撃する凶悪な行動へ転化しました。在朝鮮日本人に「日本へ帰れ」と投石して脅迫した事実はテロそのものであり、決して一般大衆から支持されたものではなかったのです。黄色人種間の分裂を図る欧米宣教師に煽られた朝鮮人キリスト教徒たちが暴徒と化し、これに近代化で特権を喪失した両班や旧軍人らの不満分子が乗っかって広がった破壊活動であり、警察や憲兵が鎮圧するのに武器を使用したのもやむをえざるところでした。
 『朝鮮独立運動血史』には日本官憲が各地で悪逆非道な弾圧を行ったと記されています。ところがそのほとんどは裏付けのない伝聞にすぎません。
唯一、西洋人が視察して公に伝えたとする水原岩里事件では婦女子が犠牲になったとしていますが、英国紙「モーニングーアドバタイザ」の京城特派員は「殺害された37名全員が男性」と記述しており(木原悦子『万歳事件を知っていますか』)、朴の創作が明らかです。

■日本の裁判の公正に感激
 実際の日本の対応は、金完雙『親日派のための弁明2』によれば送検された被疑者1万2668人、6417人が起訴され、一審で39167人が有罪判決を受けましたが、日本人憲兵6名と警官2名が虐殺され、多くの建物が放火されたにもかかわらず、死刑は1人もなく、15年以上の実刑もなく、3年以上の懲役がわずか80人で、しかも減刑と赦免で刑期が半分以下とな
りました。この時逮捕された三一運動の主要リーダー崔麟、李光洙、崔南善、朴煕道たちは日本の裁判のあまりの公正さに感激し、やがて強烈な日本ファンとなって、1930年代の言論界をリードすることになります。
 李朝末期における農民の生活は悲惨で、毎年多数の餓死者が出ていました。この改善が朝鮮総督府の最大の目標であり、一九二六年に「朝鮮産米増殖計画」が施行されました。併合当初、朝鮮の水田は八〇%が天水に依存していましたが、この計画により七〇%以上が天水依存から脱し、その他の改良と相まって朝鮮農業は飛躍的に発展しました。1910年に朝鮮全土で約1000万石程度だった米の生産高は1930年代には2000万石を越え、大豆と雑穀の生産高も
併合時より60%増えました。1931年に朝鮮総督となった宇垣一成は「朝鮮農山漁村振興運動」を展開し、朝鮮農民の意識を近代化に向けて大きく前進させました。1933年から38年にかけての農家収入は二倍に増えています。
 李氏朝鮮時代は劣悪な衛生環境のなかでしばしば10万人以上の死者を出す疫病が流行していました。西洋医学が普及しておらず、東洋医学のみに頼る状態でした。本格的に近代医療システムの導入が始まったのは併合後、朝鮮総督府が改善に取り組んでからです。京城大学附属病院、各道の慈恵病院が作られ、1910年には120万人に種痘が施されました。このような日本の努力の結果、朝鮮人の平均寿命は、1910年の25歳から1944年には45歳まで伸びました。日本が朝鮮人の寿命を伸ばし、命を救ったのが歴史的事実だったのです。

七、「資源を奪った」……
 韓国の中学校歴史教科書には「日帝は金、銀、タングステン、石炭など産業に必要な地下資源を略奪した」と書いてありますが、実際には朝鮮半島にそれほど魅力的な資源はありませんでした。石炭は無煙炭であり、オンドル部屋の暖房用練炭が主用途で、金、銀、タングステンなどは日本の会社が厖大な開発費を投じながら、結局大赤字でした。東南アジアから輸入したほうがよほど安上がりだったのです。収奪どころか、日本は逆に税金をつぎ込み、産業を育成
しました。大韓帝国が1906年に初めて作成した国家予算は748万円にすぎなかったのに対し、日本は1007年から1910年まで毎年2千万円から3千万円を補助しています。日本の国家予算の20%を越えたこともあります。併合後も毎年2千万円前後の資金を持ち出し、昭和14年になっても日本からの補充金と公債を合わせると全予算額の四分の一を占めていました。日本統治期間を通して日本政府が朝鮮半島につぎ込んだ金額は、累計で20億7千892万円、当時の一円が平均して現在の3万円とすると63兆円という天文学的な数字になります。また、大韓帝国時代から日本は鉄道建設に力を注ぎ、その総経費は現在の価値にして10兆円以上になります。民間資金もダム建設に投入され、有名な水豊ダムだけでもその額は現在の価値で3兆円近いものです。これによって生み出された豊富な電力を利用するために日本の多くの大企業が朝鮮北部に投資しました。
それによって朝鮮人の雇用を創出するとともに、付加価値の高い製品を日本へ移出することで朝鮮経済を豊かにしたのです。
 いまや韓国はG20に名を連ねる大国です。「日本への恨」を持ち続けて何の意味があるのでしょう。日本民族と韓民族が互いに誤解と偏見を克服し、それぞれの先人を誇りに思えるとき、初めて日韓間に互恵平等の関係が樹立できると思います。日の丸と太極旗が並び立ってアジアの繁栄と安定を築くことを願っています。

「この一冊で韓国問題まるわかり」 歴史通2014 5月号増刊から引用


松木國俊 元豊田通商ソウル事務所駐在員
1950年、熊本県生まれ。73年、慶応義塾大学法学部政治学科卒業。
同年、豊田通商株式会社入社。
80年~84年、豊田通商ソウル事務所駐在。秘書室次長、機械部次長を経て
2000年、豊田通商退社。01年、松木商事株式会社設立、代表取締役。現在に至る。
日本会議東京本部調布支部副支部長、
新しい歴史教科書をつくる会三多摩支部副支部長も務める。

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (23)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(23)日本官憲を代表して責を負う 平安南道「最後の知事」が残した回想録 2018.6.16

 人間の真価は、ギリギリの土壇場に追い込まれたときにこそ、問われるものであろう。とりわけ、国を背負って立つ政治家や高級官僚には「覚悟」が求められる。己の身をなげうって国を、国民を守り抜く覚悟があるのかどうか、だ。
 前の大戦末期には、その覚悟もないリーダーが、保身に走ったり、家族を先に逃がしたり、と醜悪な本性をさらけ出してしまった例が少なからずあった。
 一方で、“貧乏くじ”を承知で「死地」へと赴き、多数の住民を逃がした後に、凜(りん)として死んでいった最後の官選沖縄県知事、島田叡(あきら)のような人もいる。
 同時期に、日本統治時代最後の平安南道知事を務めた古川兼秀(かねひで)も、そんな覚悟を持った官僚ではなかったか。戦後、残された回想録にはソ連軍(当時)侵攻によって追い詰められた日本人を守ろうとして、あらゆる手段を繰り出した知事の苦闘が綴(つづ)られている。
 古川が平安南道知事に就任したのは終戦2カ月前の昭和20年6月。すでに敗色は濃厚であり、朝鮮北部の中心都市・平壌がある平安南道には不穏なムードが漂っていた。回想録にはこうある。《平安南道はキリスト教の本拠と言ってよい地方であって古くからその影響を受けて独立思想が激しい。しかも民族意識が強く凶暴性も秘めており大変だろうとは思った》
 実はこのとき、古川は殖産銀行理事や全羅南道知事になる可能性もあった。《もし家族の意見を聞けば、気候が良くて、内地(日本)にも近い全羅南道を希望したであろうが…、これが最後のご奉公である、とひとり深く期するところがあったのである》
 果たして、20年8月9日、ソ連軍は150万を超える大軍で、満州(現中国東北部)へ侵攻。南下を続け、24日には平壌へ先遣部隊が入ってくる。ソ連軍兵士や一部朝鮮人による非道な行為、国境からは満州の日本人避難民が雪崩を打って押し寄せ、平壌の混乱は頂点に達した。
◆幻の●晩植担ぎ出し
 この短期間で(ソ連参戦から終戦まで)古川は、何をやろうとしたか?
 第1に、平壌や周辺の日本人住民の生命・財産を守ること。そして、行政への朝鮮人有力者の登用。さらには満州からの避難民の引き受け、である。
 朝鮮人登用は敗戦後をもにらんで、スムーズに政権移譲を進め、日本人の生命・財産の保全を図るため、であった。古川は、そのターゲットを、抗日運動の中心人物だった民族主義者でキリスト者の●晩植(チョ・マンシク)に置く。軍部は反対したが、古川は「人心安定には不可欠」と軍を説得し、終戦間際から、●の担ぎ出し工作に取りかかる。
 《こういう事態にあっては、過去の経歴や現在の思想等(とう)を超越して、とにかく道内で最も信望のある朝鮮人の協力を求め、例えばその説話の形式でも民心宣撫(せんぶ)の工作を講じる…場合によってはこちら(日本人)が陰になっても構わない》
 「抗日」運動のリーダーであっても、行政の主導権を渡しても…それで日本人の安全が保障されるのであれば構わない、という捨て身の戦略である。
 だが、すでに日本の敗戦を見越していた●は、古川の誘いに乗らなかった。朝鮮人による建国準備委員会、人民政治委員会を結成し、11月には朝鮮民主党を結成して党委員長に就任。新生・朝鮮のリーダー候補とも目されたが、ソ連と対立し失脚してしまう。古川は共産主義者の玄俊赫(ヒョン・ジュンヒョク)とも秘密裏に接触するが、玄も暗殺されてしまった。

◆避難民は引き受けた
 一方、ソ連軍の侵攻を聞いて満州から南下してきた日本人避難民は増える一方だった。《8月12日に現地師団を通じて満州からの避難民を大量に引き受けてほしいとの申し出があり総督府に連絡したところ、「京城に収容能力がないから、平壌以北で引き受けてくれ、南下は困る。これは(日本陸軍の朝鮮)軍司令部とも打ち合わせ済みである」とのことであった》
 古川は怒り心頭に発したが、手をこまねいてはいられない。《私は義憤を感じ、平壌府民の同情心に訴えて受け入れることにした…当時平壌には3カ月分の食糧しかなく、越冬用の燃料も乏しかったが、朝鮮人有力者に依頼して、地方にある食糧や物資を搬入する努力をした。…平壌に3万人、(付近を走る)京義線沿線に1万人、(平壌南西の)鎮南浦に1万人、という受け入れ割り当てを決め、全部日本人家庭に入れることとした…》
 ソ連軍の平壌入城後の8月27日、行政権は、朝鮮人の人民政治委員会へと移譲される。占領下で命を失ったり、塗炭の苦しみを味わったりした朝鮮北部の日本人は数知れない。状況は、米軍占領下の南部よりもはるかに厳しかったが、古川がこれ以上、策を講じることはかなわなかった。9月7日、ソ連軍によって逮捕され、まもなくシベリアへ送られたからである。
以来、約5年間にわたって抑留生活が続く。実はこのとき、古川ら3人の幹部のみがシベリア行きの飛行機に乗せられたと思い込み、覚悟を決めた。回想録にはこうある。《私たちが日本官憲を代表して責を負い、(シベリアへ)送られたと思い、以(もっ)て瞑(めい)すべし、と考えていた》と。
 次男の武郎(たけお)(80)は思う。「父は、曲がったことが大嫌いだった。青雲の志を抱いて朝鮮へ渡り、私は、すごくいい政治をやったと思う。そして、最後までそれを貫いたんです」=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)
                   

【プロフィル】古川兼秀(ふるかわ・かねひで) 日本統治時代最後の平安南道知事(官選)。明治34年、会津の名刀鍛冶、古川兼定(かねさだ)の家に生まれる(12代兼定の次男)。旧制一高から東京帝大法学部卒、高等試験行政科に合格し、大正14年朝鮮総督府へ。黄海道、平安北道警察部長、総督府保安課長、図書課長、咸鏡北道、平安南道知事を歴任した。昭和20年8月、朝鮮へ侵攻してきたソ連軍に拘束され、シベリアに5年間抑留。昭和49年、73歳で死去。駐韓国大使を務めた前田利一(としかず)は女婿(長女の夫)にあたる。
●=恵の心を日に

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (22)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(22)まだまだある北の「日本遺産」 一企業がつくった興南工場 2018.6.9

 日窒(にっちつ)コンツェルンの野口遵(したがう)(1873~1944年)が昭和2年6月、朝鮮東海岸の興南に工場の建設を始めた頃、同地は20、30の家屋が点在する寒村だった。野口はここに化学肥料、金属、燃料、火薬、宝石などによる東洋一の化学コンビナートを建設。従業員約4万5千人、家族らを含めた総人口約18万人の近代都市を造り上げる。
 しかも、短期間でやり遂げねばならない理由があった。やはり、野口が進めた朝鮮北部の水力発電所群の大電力を消費するためには「セット」になる大工場群が不可欠となる。電力はためておくことができない。使い道がなければ“宝の持ち腐れ”になってしまうからだ。野口の回想だ。
 《赴戦江の発電所(昭和4年末第一期完工)が送電を始めるまでには何としてもここに工場を完成しなければならない。道路や鉄道の工事から始めなければならなかったのだが、冬の寒さの格別な北鮮で、昼夜兼行の大奮闘を続けたのである。昭和2年、工を起こしてから、わずか2年8カ月で…硫安の製造を始めることができた》(『今日を築くまで』から)
 ほぼ一私企業が造り上げた興南の近代都市ぶりを紹介してみたい。工場・住宅地などの敷地面積は、五百数十万坪。そこに、多数の従業員を住まわせる社宅、病院、学校、警察署、郵便局、図書館、運動・娯楽施設、供給所(スーパーマーケット)を造った。施設は、れんが造りで完全電化、水洗トイレ、蒸気によるスチーム暖房、朝鮮人従業員の社宅はオンドル(床暖房)を備えていた。
 「洋風の広い社宅はスチーム暖房で冬もポカポカ、お風呂には、いつも熱いお湯が流れ、電気炊飯器でご飯を炊いた。内地(日本)よりも、はるかにモダンで、いい生活でした」と元従業員の妻は懐かしむ。
隣接する興南港は、1万トン級の船舶数隻が停泊でき、約1万坪の大倉庫、50トンクレーンなどを備えた朝鮮屈指の良港になった。この港は後に、終戦直前に侵攻してきたソ連(当時)軍が“火事場泥棒”のごとく満州(現中国東北部)などから持ち去った日本の設備や機械類を運び去るのに、また、日本人をシベリアに抑留するのに、さらには、日本人が内地へ引き揚げるときにも使われ、明暗さまざまなドラマを目撃することとなる。
 ■徴用工に旅費まで支給
 昭和20年8月19日、ソ連軍は、朝鮮東海岸の元山に上陸、それを後ろ盾にして朝鮮人共産主義者らによる人民委員会が結成され、日鮮の立場が逆転する。殺害、暴行、略奪、レイプ…地獄のような行為が続くなかで、興南工場も接収され、日本人従業員は社宅から追い出された。
 こうした混乱の中でも律義な日本人は、朝鮮人徴用工に旅費まで渡して帰郷させている。ところが、不埒(ふらち)な朝鮮人警備係が旅費の一部を持ち逃げしてしまい、責任を問われた日本人の担当者は拘束され、やっと、自前で弁償して釈放されたという記録もあった。
 また、軍部などからは「敵に渡す前に工場を破壊せよ」という指示があったにもかかわらず、工場側は「われわれの事業は朝鮮に有益なものだ。戦争に負けても必ず必要とされる」と主張し、破壊しなかった。まさに“お人よし日本人”の面目躍如である。
 朝鮮人共産主義者の手に渡った興南工場はその後どうなったのか?
 5年後の朝鮮戦争(1950~53年)で工場設備の多くが破壊されたが、まもなく復興し、日本人がつくった水力発電所群とともに北朝鮮の化学工業発展の原動力となった。一部工場は、北朝鮮“自慢”の合成繊維「ビナロン(ビニロン)」工場になった。実際にはビナロンは戦前、京都帝大で朝鮮人と日本人研究者が共同で開発したものである。
現在、興南工場は「興南肥料連合企業所」として名前を変え、今も窒素肥料などを生産する主力工場であり続けているが、《1990年代の大規模な設備破壊と事実上の放置により、実際の生産能力は大幅に低いものと推定される》(韓国産業銀行統計)。
 ■日本時代の製鉄所や鉱山
 日本統治時代に朝鮮北部に建設され、戦後北朝鮮の鉱工業発展に寄与した施設は他にもたくさんある。
 現在も、同国最大の生産能力を誇る総合製鉄所「金策製鉄連合企業所」(東海岸の清津市)は、日本時代の日本製鉄清津製鉄所が母体だ。そこへ、鉄鉱石を供給する約100キロ離れた「茂山鉱山」は戦前、三菱鉱業が開発している。さらに、北朝鮮第2の製鉄所である「黄海製鉄連合企業所」や「城津製鋼連合企業所」も、日本時代の製鉄所から発展した。
 金山の開発も進んだ。朝鮮全土にある金山は、19世紀末の大韓帝国時代に、欧米人によって始まった。日韓併合後に朝鮮の産金額は順調に増加し、昭和14年には最高の約31トンを記録している。金産出には多量の電力が必要で、山深い金山まで送電線を張り巡らさねばならない。このため、朝鮮総督府は巨額の公債を発行して予算を付け、「産金送電線」と変電所を朝鮮各地に建設していった。その普及が、奥地の集落にまで電灯をともしてゆく。さらに、戦後、朝鮮戦争の勃発によって、北朝鮮から韓国への送電がストップされた際にも、韓国内の送電線ネットワークが最大限有効に機能し、電力危機緩和に貢献したという。
昭和40年の日韓国交正常化に向けた日韓会談の中で、当初韓国側は、日本統治時代に産出された金や銀の代金返還を請求権として求めた。だがそれは、日本人が資本、技術、労力を投入して開発し正当な取引としての商行為であり、不法に略奪したものではない。そして、日本時代の鉱工業開発が奥地にまで電気を普及させ、戦後の経済発展につながったことはいつの間にか忘れられている。
 他にも、銀、銅、石炭など日本統治時代に開発された北朝鮮の鉱山は今も多くが稼働中だ。だが、設備は老朽化に任せ、電力も決定的に不足し、稼働率は平均で30%程度だという。=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (21)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(21)日本人が築いた「電力遺産」を食い潰す北朝鮮 2018.6.2

 衛星写真で今の朝鮮半島をとらえたら、「真っ暗」な北朝鮮と「煌々(こうこう)と明るい」韓国の対比が、くっきりと表れる。
 2014年の発電設備容量は北朝鮮が約725万キロワットで韓国のわずか約7・8%でしかない(韓国産業銀行統計)。実際の総発電量で比べると、さらに減って韓国の4・3%(2013年)にとどまる。首都・平壌では多少の改善も伝えられるが、北朝鮮の電力不足は相変わらずのようだ。
 ところが、日本統治時代の朝鮮北部は“発電所銀座”とでも呼びたくなるほどの「電力王国」だった。大正末期以降、日本人は、人が容易に立ち入れない急峻(きゅうしゅん)な山地に奥深く分け入り、赴戦江、長津江、虚川江といった川に、次々と巨大な水力発電所を建設していったからである。
 中でも、満州国(現・中国東北部)と朝鮮の国境を流れる鴨緑江に水力発電用として建設された「水豊ダム」は、ケタ外れのスケールだった。高さ約106メートル、幅約900メートル、総貯水容量116億立方メートル、人造湖の表面積は、琵琶湖の約半分に相当した(※昭和38年完成の「黒部ダム」は、高さ186メートル、幅492メートル)。
 昭和16(1941)年から電力供給を始めた水力発電所の発電機は、1基あたりの出力が、世界最高(当時)の10万キロワット。それが最終的に7基(最大出力計70万キロワット)備えられ、朝鮮と満州国に供給された。
 水豊の巨大さは、当時の内地(日本)の水力発電所の規模と比べると、よく分かる。1発電所で出力が8万キロワットを超えるのは、信濃川(16・5万キロワット)▽千手(12万キロワット)▽奥泉(8・7万キロワット)▽黒部川第3(8・1万キロワット)の4カ所しかなかった。それが同時期の朝鮮では、水豊のほかにも、虚川江第一、長津江第一、赴戦江第一など6カ所も完成していたのである。
朝鮮北部の発電力は終戦時に計173万キロワット、工事中の発電所を加えると、300万キロワットを超える。発電コストは内地より安く、廉価な電力が、京城や平壌などの主要都市や、やはり朝鮮北部に建設された一大化学コンビナートの興南工場群に供給されていった。
 ■急伸した電灯普及率
 京城の電気事業は、日韓併合前の明治32(1899)年、李朝王家の保護下で米国人企業家がつくった漢城電気(後に韓美電気)によって営業がスタートしている。だが、高額の電気代に加えて設備費も徴収されたため、契約者は京城約5万戸のうち、わずか493戸にすぎなかった。
 経営不振の同社の電気事業を、日本資本の日韓瓦斯(ガス)電気(後に京城電気)が路面電車事業とともに買収し、一般家庭にも広く電気を普及させてゆく。
 昭和5年には京城とその周辺で、約9万5千戸、14年には約14万8千戸と急増。朝鮮全体では、16年度末の主要21都市の電灯普及率が66%に達し、全土でも17・4%になっている。3年度末の数値が6%だったことを考えると、13年間で電灯普及率が約3倍に伸びたことが分かる。
 もっとも、主要21都市の日本人家庭の普及率が、ほぼ100%だったのに対し、朝鮮人家庭は約23%にとどまっており、日鮮間に格差があったことも、否定はできないが…。
 朝鮮北部の「水力資源」に目をつけ、朝鮮総督府の認可を受けて、周囲には無謀とも思われた発電所群の建設に乗り出したのは日本の民間の経営者、技術者であった。日窒(にっちつ)コンツェルンの創始者、野口遵や、久保田豊、森田一雄といった先駆的な技術者たちである。
彼らの慧眼(けいがん)は“逆転の発想”というべきユニークなアイデアに表れていた。朝鮮北部の大河川は、おおむね西部に流れており、勾配が少なく、冬季には渇水が続く。このため水力発電には不適だと考えられていたのを、「西流する河川をせき止め、逆方向の東に向け日本海側へ落とす」という発想で、不可能と思われた巨大水力発電所を次々と建設していったのである。
 電力の用途も“逆転”だった。100万キロワット単位の電力は、当時の一般需要(昭和初期の朝鮮全土の電力需要は数万キロワット)をカバーしてあまりある。そこで野口は昭和2年、朝鮮窒素肥料会社を設立、電力の活用先として、先に触れた興南工場群を建設してゆく。《むしろ中心は大肥料工場の建設にあり、電力開発は、興南工場の付帯事業とすらいっても過言ではあるまい》(『野口遵』から)と。
 ■発電所は今も稼働中
 野口らが建設した水豊ダムの発電所は今も稼働中だ。現在の出力は80万キロワット、北朝鮮発電の「主力」である水力発電所の中でも最大を誇り、供給電力は中国と折半している。関係者によれば、発電機を製作した日本の重電メーカーが戦後も、保守・修理にあたっていたが、今は経済制裁のために、それも難しくなり、老朽化による稼働率の低下も見られるという。
 虚川江、長津江、赴戦江の発電所も「現役」だ。これら日本統治時代以外の水力発電所も、1960年代以前にソ連(当時)・東欧の支援で建設されたものが主で《設備は老朽化し、エネルギー管理技術も遅れている(略)1990年代半ばの大洪水により、水力発電設備の85%が損傷を受けたとみられる》(韓国産業銀行統計)という惨状だ。これでは北朝鮮が「電力遺産」を“食い潰している”といわれても仕方がない。
朝鮮に戸籍を移してまでその近代化に尽くした野口は昭和19年、70歳で亡くなる。死後、寄付した全財産は、生涯をささげた化学研究と、朝鮮留学生のための奨学金に充てられた。=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)
                   

【プロフィル】野口遵(のぐち・したがう) 明治6(1873)年、石川県出身。帝国大学工科大学(現・東京大工学部)卒。日本窒素肥料(同チッソ)を中核とする日窒コンツェルンを一代で築き、鮎川義介、森矗昶(のぶてる)とともに、財閥系ではない「財界の新三羽烏(がらす)」とうたわれる。朝鮮へ進出し、朝鮮北部(北朝鮮)の水力の電源開発や化学コンビナート・興南工場建設などに力を尽くした。同コンツェルンの系譜に連なる企業として旭化成、積水化学工業、信越化学工業などがある。

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (20)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(20)借金を返さない北朝鮮 理不尽なカネの要求は拒否すべし2018.5.26

 朝鮮半島の動きに関して日本の出遅れを懸念し前のめりになっている向きが気になって仕方がなかった。ここにきて米国側が6月の米朝首脳会談の中止を発表するなど不穏なムードも出てきたが、それまでは経済界でも日朝国交正常化をにらんで小泉純一郎首相(当時)が訪朝し、日朝平壌宣言に調印した平成14年以来の「好機が来た」と期待が膨らんでいたという。

 少し頭を冷やした方がいい。前回も書いたが、北朝鮮が先に過去の悪行を認めてわび、日本人拉致被害者を帰し、核開発を完全にやめ、改革開放経済にも舵(かじ)を切るというならば、南北統一も、日本との国交正常化もどんどん進めればいい。

 ただし、日本に対する「理不尽なカネの要求」には断固として拒否の姿勢を貫くべきだ。日朝平壌宣言には、国交正常化の際に経済的な支援を日本が行うことや、日朝双方の請求権の放棄方針などがうたわれている。昭和40年の日韓国交正常化の例を踏襲したものであろうが、慰安婦問題や徴用工問題をめぐって、いまだに「カネの要求」がやまないではないか。

 その轍(てつ)を踏まないために過去から現在の「事実」をしっかりと踏まえておくべきだろう。まずは現在の北朝鮮への「貸し」についての話から始めたい。

 戦後の日本の商社やメーカー側による、北朝鮮へのプラントや機械類の輸出は、1970年代後半にピークを迎える。だが、北が83年に起こしたラングーン(現ミャンマー・ヤンゴン)の爆破テロ事件で、国際社会から孤立を深めたことを逆手にとって、それ以来北朝鮮はビタ一文、支払いをしなくなった。

 関係者によれば、北の未払い額は、元本だけで約400億円。利子や延滞分を合わせると、計2200億円に上る、と日本側は試算している。日本の関係機関が毎年6月と12月末に、郵送とファクスで「請求書」を北側へ送り続けているが、返済どころか、受け取ったという返事すらなく、ナシの礫(つぶて)だという。
平成14年の際には、日本の経済支援として、1兆円規模という話もささやかれていた。もしも、国交正常化交渉を行い、政治決着を図るのならば、この「未払い分」相当の減額を考慮するよう日本側ははっきりと主張すべきだろう。

 ■久保田発言の意外な反応

 一方、韓国との国交正常化へ向けた交渉は何度も暗礁に乗り上げて中断を繰り返し、昭和40年に妥結するまで14年間もかかった。日韓双方の請求権問題。いわゆる「李承晩(イ・スンマン)ライン」内での日本漁船の拿捕(だほ)・漁民の抑留。北朝鮮への帰国事業など多くの課題が持ち上がったが、双方の対立は結局「日韓併合」に対する評価の違いに行き着く。

 第3次会談(昭和28年)での「久保田発言」は象徴的な例だろう。互いが相手側にある財産の請求権を主張し合う中で、日本側首席代表の久保田貫一郎(外務省参与)が朝鮮統治における日本の貢献を主張したことに対して、韓国側が「妄言だ」と猛反発、会談は決裂した。

 興味深いのは、当時の日本国内での反応である。“後ろから弾が飛んでくる”ような反発は、さほどなく、むしろ、韓国側への批判が少なくない。当時は終戦からまだ10年たっておらず、日本統治の実相を知る国民が多かった。さらに、韓国が日本の領土・竹島を含めた李ラインを一方的に設定した上、武装した韓国の警備艇が丸腰の日本漁船に銃撃を加えたり、片っ端から拿捕・抑留したりしたことに日本の世論は沸騰していたのである。

 朝日新聞の記事を追ってみよう。10月22日付朝刊社説は「遺憾なる日韓会談の決裂」の見出しで、決裂の経緯に触れた上、《(日本)政府声明にもある通り、韓国側の態度には、「ささ(些々)たる言辞をことさらに曲げ会談全般を一方的に破棄した」ものとみられる節があるのは誠に遺憾である》とし、会談再開で日本人漁民問題の解決を図ることこそが喫緊の課題だと主張している。
翌23日付朝刊では、「韓国のいい分は無理ではないか-財産請求権の問題」とする国際法の東大法学部助教授・高野雄一の寄稿も掲載。朝鮮内の日本資産について終戦後、米軍政が接収し、韓国に譲渡したという韓国側主張に対し国際法上、無理があるのではないか、と疑義を呈した。同じページで「右翼進出を憂(うれ)う」とした池島信平(文芸春秋編集長)の談話も載せているところが朝日らしいとはいえるが…。

 ■反日沸騰は80年代以降

 日韓会談に携わった関係者によれば、当時の韓国側代表には、日本留学組や京城帝大出身者も多く、一応通訳は同席させていたが、「日本語で話した方が早い。『慰安婦』など理不尽な問題を持ち出す人も少なかった」と振り返る。「反日」が韓国で沸騰するのは“日本発”の歴史教科書問題などが起きた1980年代以降である。

 日韓会談で、日本側がこだわった朝鮮に残した財産の請求権問題は結局、政治的判断で撤回された。だがもし日朝国交正常化交渉を始めるならば、日本統治時代に残した資産の事実は少なくとも念頭に置いておくべきだ。GHQ(連合国軍総司令部)の試算では、日本が朝鮮の北半分に残した総資産額(終戦時)は約8兆8千億円相当に上る。

 これらには、朝鮮北部の奥深い山に分け入り、ダムや発電所、鉱山、工場を築いていった日本人の血と汗が染みついている。それを次週に書く。=敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)

【用語解説】久保田発言
 昭和28年10月15日の第3次日韓会談の財産請求権委員会で、韓国側の「日本側が36年間の蓄積を返せというのならば、韓国側としても36年間の被害を償却せよというほかない」という発言に対し、日本側首席代表の久保田貫一郎が「日本としても朝鮮の鉄道や港をつくったり、農地を造成したりしたし、大蔵省は当時、多い年で2000万円も持ち出している」と主張。反発した韓国側が「あなたは日本人が来なければ韓国人は眠っていたという前提で話しているのか」と返すと、久保田は「私見としていうが、日本が行かなかったら中国かロシアが入っていたかもしれない」と発言した。

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(19)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(19)
イムジン河と北の国歌 「日本人は統一に反対」の嘘 2018.5.19

 「日本人はわれわれの統一に反対なんだろう」
 「えっ?」
 「だって、(南北統一で)強力なライバルが誕生すると困るじゃないか」
 韓国に住んでいるとき、よく、こんな話を韓国人から聞かされた。
 先月末に行われた約10年ぶりの南北首脳会談。北朝鮮の「悪行」を忘れたかのような友好ムードを演出し、今度こそ悲願の南北統一が実現する、ノーベル平和賞ではないか、と世界中、大盛り上がりである。
 ところが、ネット上では相変わらず、韓国から「日本は統一に反対!」の声が飛び交っている。曰(いわ)く、「核・ミサイルを持った統一朝鮮が怖い(非核化するのでは?)」「南北が敵対していた方が都合がいい」「統一のコストを日本が負担させられる」(これはあるかも)。世論調査などを見ていると、むしろ韓国の若い世代の方が統一に慎重な気がするのだが…。
もちろん、北朝鮮主導の赤化統一や在韓米軍撤退論、カネをめぐる理不尽な要求には断固反対すべきだ。ただ、基本的に統一によって東アジアが安定するのは日本の安全保障上も好ましい事態だし、北が“開かれた国”となって拉致被害者を帰し、改革開放経済の道を歩むのならば、多くの日本人は反対しないだろう。あるいは、さほど関心がないか、だ。
 心情的な面もある。南北分断が、米ソ(当時)の戦後戦略によって生まれたものとはいえ、日本が戦争に負けなければ、その後、分断のない形での独立になったかもしれない。分断の悲劇をわがことのように痛み、大衆運動や文化・芸術に込めてきた日本人はこれまでも星の数ほどいた。
■分断の悲劇痛む若者
 『イムジン河(がわ)』という名曲がある。半世紀前の昭和43(1968)年2月、加藤和彦、きたやまおさむ、はしだのりひこ、の「ザ・フォーク・クルセダーズ」がレコードを出そうとしたが、朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)の抗議で発売中止になった歌だ。
 イムジン河(臨津江)は北緯38度線を横切って「北」から「南」へ流れる川。その歌詞は、川の清流や水鳥に、引き裂かれた民衆の悲しみを託し、いつの日にか…と統一を願う内容だ。
 3番までの歌詞のうち、1番は、メンバーの友人だった松山猛(たけし)(71)が京都の朝鮮学校に通う友人の在日コリアンから教わったもの。2、3番は松山のオリジナルである。多感な若者がまさしく、わがことのように「分断の悲劇を思って」書いたのだ。
 ではなぜ、朝鮮総連が抗議したのか?
 この歌はもともと、北朝鮮で1957年につくられた。題名は「リムジン江(ガン)」(臨津江の北朝鮮風発音)。歌詞は、朴世永(パク・セヨン)(1902~89年)という南から北へ渡った有名な詩人が書いた。彼にとっては、(分断のために)今は帰ることができない懐かしい「故郷(南)」を思う歌だ。
だが、フォーク・クルセダーズのメンバーやレコード会社は“その出自”を詳しく知らず、レコード発売の際に「朝鮮民謡」とクレジットした。それを知った総連側が作詞作曲者名と北朝鮮の正式国名の2つをクレジットすることを求めて抗議。政治問題化を懸念したレコード会社と親会社の家電メーカーが発売中止を決めたのが真相である。
 朴が書いたオリジナルの歌詞は2番までだが、実は南北統一を願う「幻の3番」があったという。日本の「イムジン河」も長いオクラ入りから2000年代に復活。今や“アジアのイマジン”と呼ばれ、日朝韓の多くのアーティストによって歌われている。
■北朝鮮への巨額の“貸し”
 この歌の作詞者・朴世永が、北朝鮮の国歌である「愛国歌」(1947年、作曲は金元均)の作者でもあることは日本ではあまり知られていない。
 朴は、日本統治時代の京城(現・韓国ソウル)で育ち、左派色が強い「朝鮮プロレタリア芸術家同盟」に参加、終戦後の46年に越北し、北朝鮮の文学家同盟書記長などの要職についた大物作家だ。「愛国歌」や「リムジン江」のほか、国歌の座を争った「輝く祖国」「椿の花」など、作詞した歌は数え切れない。
 「リムジン江」だけでなく、朴の書く歌詞には、南の故郷や残してきた母親への強い思いがにじんでいる。同曲の作曲者である高宗煥(コ・ジョンファン)(1930~2002年)もまた南から北へ渡った人だった。その制作秘話を「(朴世永先生と)いつしか故郷(南)の話になり、残してきた家族への思いを、リムジン江に託して歌を作ろうということになったのです」と関係者に打ち明けている。
朴が書いた北の国歌には、時代が早い(終戦後2年)こともあって、北の歌に多い金一族を賛美するような内容にはなっていない。朝鮮の美しい山河や歴史をたたえる歌詞だ。
 韓国にも「国歌」と位置づけられる別の「愛国歌」があり、南北統一の暁には、韓国とともに、新たな「国歌」を作ろうと願う人たちがいることは、以前書いた通りである。
 北朝鮮が過去の悪行をわび、本当に非核化を行うのであれば、南北統一に反対する理由などない。あるとすれば、統一を望まない勢力によるためにするウソであろう。「リムジン江」を書いた泉下の朴世永も、「イムジン河」を歌う多くのアーティストたちも同じ思いに違いない。
 ただし、“バスに乗り遅れるな”とばかりに日朝首脳会談や国交正常化を急がせる動きは要警戒だ。拉致問題など北朝鮮に解決してもらわねばならない課題が山積していることに加えて、日本統治時代などに巨額な“貸し”がある。そのことは次週に書きたい。=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(18)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(18)
 キリスト教と音楽家の平壌 金日成や永田絃次郎の足跡 2018.5.12

 北朝鮮の首都・平壌の牡丹峰地区に、パリの凱旋門よりも10m高いのが自慢の巨大なモニュメントがそびえ立っている。「1945」の数字は、初代最高権力者・金日成がこの街へ凱旋してきた年を指す。
 終戦の年の10月14日、金が初めて朝鮮の民衆の前に姿を見せたことは以前(11回)書いた。その場所がこの近くにあった平壌府の総合運動場で、「実際に金の演説を聴いた」という男性(88)がいる。当時は平壌の旧制中学3年生、15歳の朝鮮大少年たった。
 「朝鮮人の住民組織から呼集がかかったんですよ。『キムーイルソン将軍の凱旋演説会』が行われるから皆、参加するようにとね。運動場には公設プールがあってよく水泳を習いに行った場所だった。会場には、
数千人から1万人近い聴衆が集まっていたかな」
 聴衆は、伝説の抗日将軍「キムーイルソン」の登場を心待ちにしていた。ところが演壇に上がっだのは、30歳そこそこの若い男。 
「トヨーハダ」。平壌がある平安道の方言で、おかしいぞ、というささやきが聴衆から漏れたかと思うと(次第に会場はざわつきはじめ、「カチヤ(偽物)ヤ」の叫び声が・・・  「(金日成は)日帝の支配からの解放や新たな国づくり、ソ連(当時)軍の功績などについて話したと記憶しているが、どうみても若すぎるって周囲の大人らが騒ぎ出したんだ」
■「芸術好き」金一族
 平壌は、李朝時代から政治・経済の中心都市だった京城(旧漢城)とはいっぶう違った文化を持つ街だった。李朝末期の19世紀からキリスト教が浸透し、欧米の宣教師によって多くの教会やミッションスクールが
つくられ。”東洋のエルサレム”と呼ばれたことも。平壌生まれの金日成の母親もキリスト教徒で、その父親(金日成の母方祖父)は、プロテスタント長老派の牧師だったという。
 その長老派が、1897年に平壌につくった「崇実(スンシル)学堂」という学校がある。後に、中学校、専門学校(ともに旧制)へと発展、有能な多くの朝鮮人の若者を送り出すことになるが、とりわけ、音楽分野には逸材が多い。韓国の「国歌」と位置づけられる愛国歌を作曲した安益泰は、大正7年に崇実中学に入学、3年後に東京の正則中学に移っている。さらには、韓国初となる高麗交響楽団の創殼者、玄済明や平壌交響楽団の前身・中央交響楽団をつくった金東振。
 そして、「日本一の美声」とうたわれたテノール歌手の永田絃次郎(本名・金永吉、1909~85年)も崇実の出身だ。永田は昭和3年、内地の陸軍戸山学校音楽隊の軍楽生徒として入学。首席の”銀時計組”で卒業した後、11年、オペラ・蝶々夫人でソプラノ・三浦環の相手役(ピンカートン役)に抜擢された。戦後は藤原歌劇団などで活躍し、35年、帰国事業で北朝鮮へ渡っている。このとき、帰国事業の「広告塔」として、永田に目をつけたのが、”同郷・同世代”の金目成だった。
 実は、金の一族は3代にわたって「芸術好き」である。孫の朝鮮労働党委員長・金正恩が平昌五輪を利用して、芸術団を派遣したことは記憶に新しいが、祖父は北朝鮮建国直後から「世界一流の音楽家を集めよ」
と大号令をかけ、国立の交響楽団・合唱団をいち早くつくっている。その長男・金正日も、映画や音楽、演劇に入れ込み、妻たちは女優や舞踊家だった。
 永田にあこがれ、平壌から後を追うように日本に渡ってきたのが、紅白歌合戦に3度出場した人気歌手の小畑実(1923~79年、本名・康永詰)である。苦労を重ねた末、小畑は「湯島の白梅」「勘太郎月夜唄」などのヒット曲を次々に飛ばし、スターの座に駆け上がってゆく。
■和風の家にオンドルも
 日本人にとって平壌はどんな街だったのか。日本統治時代末期の昭和17年の人口統計によれば、平壌府の大口約39万のうち、日本人は約3万2千人。
 祖父の代に朝鮮へ移り住んだ大潭昭夫(87)は6年、平壌生まれ。終戦時は平壌一中(旧制)の3年生、同級生には、陸軍中将の息子や父親が高級官吏である朝鮮人もいた。自宅は和風で畳だが、朝鮮風のオンドル(床暖房)の部屋もあった。冬になるとスケートを楽しみ、凍った大同江(平壌の中心を流れる川)を滑ってゆくと中学まで5分で行けたという。
 「自宅のすぐ近くが朝鮮人の集落でよく一緒に遊んだ。とにかく”同じ日本人”という感覚しかないんだなあ。隣の病院の女医さんも朝鮮人でキレイな人だった。向かいは、おいしい平壌冷麺の名店でしたね」
 戦争が始まると、中学生も空襲警報などの連絡要員などとして動員され、大澤は「賑町」という遊郭がある地域の担当となった。
 「朝鮮人や日本人の娼妓がいて、よくお茶を飲みにいって、お喋りしましたよ。みんな明るくてね」
 思い出の中には、朝鮮人と反目したり、ましてや「少女を強制連行して慰安婦にした」などという行為はまるで出てこない。
 後年、大洋が観光ツアーで平壌を再訪したとき、懐かしい街はすっかり様変わりしていた。そこで不思議な出来事に巡り会う。「われわれのグループが食事中、ひとりの女性に、よど号乗っ取り事件の犯人と名乗る男が接触しできた。
 『子供を日本へ帰したいので身元引受人になってもらえないか』という。怖くなってテーブルから離れましたけどね…」
 空港から市内へ向かう道ではあの巨大なモニュメントを通った。ガイドは、「金日成将軍様が凱旋されたところに建てられたものです」と恭しく説明したという。川敬称略、土曜掲載
  (文化部編集委員 喜多由浩)

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