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スターリンの犯罪訴えよう

スターリンの犯罪訴えよう
   産経新聞R1.5.12 日曜に書く 論説委員 河村直哉
◆金正恩のポーズ
 旧ソ連時代の独裁者、スターリンヘの肯定的な評価が、ロシアで高まっているという。4月に発表された世論調査でスターリンを「尊敬」「称賛」などと肯定する回答が5割を超えた。
 経済が低迷し国際的な影響力も低下する中で、ソ連時代の大国のイメージに引かれるロシア人が多いということだろうか。
 中村逸郎・筑波大教授の指摘で気付いたことだが、露朝首脳会談の際、ウラジオストク駅に着いた金正恩朝鮮労働党委員長はコートの前ボタンの間に右手を入れて現れた。スターリンがしていたポーズという。北朝鮮の建国を支えたのはスターリン時代のソ連だから、国際的な孤立が深まる中で金委員長には、露朝の関係をアピールする思惑があったのかもしれない。
 しかしそれにしても、である。スターリンはソ連に大粛清という悪夢をもたらした独裁者である。処刑された数は1937年から翌年にかけてだけでも約70万人とされる。
 自国民に対する暴虐だけではない。スターリン体制下のソ連は終戦直前、白ソ中立条約を破って参戦し、約60万人もの日本人をシベリアなどに抑留した。
日本がポツダム宣言を受諾した後、火事場泥棒的に北方領土に侵攻し、四島を不法に占拠させたのもスターリンである。これらは国家犯罪にほかならない。


◆カチンの森事件
 スターリンによる別の残虐な犯罪の一つに、1940年の力チンの森事件がある。
39年、ポーランドはドイツに、次いでソ連に侵攻され、分割された。多数のポーランド将校らが捕虜になった。
 12日までとなってしまったが、大阪市中央区のピースおおさかで「カティンの森事件」という展示会が開かれている。ソ連の捕虜となってからもしばらくは、家族と手紙のやりとりもできていた。「日がたつにつれて、君たちがもっと恋しくなっている」などとした文面も展示されている。
 以下、ヴィクトル・ザスラフスキー『カチンの森』なども参考にする。40年3月、スターリンらは証人喚問や予審なしに将校らを「処理」するよう命じた。
4月から5月、将校らは銃殺された。犠牲者は約2万2千人とされる。亡命ポーランド政府から行方を聞かれたスターリンは厚顔無恥にも「満州に逃げたか、ソ連のどこかに潜んでいる」と答えた。
 43年、ロシア西部のカチンの森で数千人の遺体が見つかったと、ドイツメディアが報じた。
ソ連はドイツの仕業とし、戦後も証拠を隠してしらを切り続けた。冷戦末期、ソ連の責任を問う声はポーランド内で公然のものとなった。ソ連末期の90年、当時の指導者であるゴルバチョフが非を認め、謝罪した。
 2010年にはロシアのプーチン首相(当時)が「スターリン体制の犯罪はいかなる形でも正当化されない」と述べた。
◆ポーランドと連携を
 カチンの森事件は、日本が北方領土を考える際の参考にもなる。領土問題もスターリン体制下でなされた犯罪行為である。
犯罪をなした者にこちらが低姿勢に出る必要はない。北方領土のうちの2島先行返還などが日本でも議論されたが、四島返還の原則は貫くべきだ。
 スターリン死後の1956年、ソ連共産党大会でフルシチョフ第1書記はこの独裁者を批判した。権力闘争の意味合いもあっただろうが、その口調は激烈である。
 スターリンの病的な疑い深さを指摘し、「野蛮な暴力」「大量弾圧」 「残忍」などの言葉も使った。フルシチョフは述べている。この問題を検討し分析するのは「スターリンのもとで起こったようなことを、たとえどんな形にせよ二度と再び繰り返さないため」だと(『フルシチョフ秘密報告「スターリン批判」全訳解説』)。
 そのような歴史をロシア人に周知することが必要である。世論調査では77%のロシア人が二島も引き渡すべきではない」と答えている。しかし四島の占拠が大粛清と同様、スターリン体制の犯罪によるものであったと知れば、ロシアの世論も変わるのではないか。
 今年は日本とポーランドが国交を樹立して100周年に当たる。経済や文化で交流を深めていくのもよいが、対「スターリンの犯罪」という点でも連携したい。ポーランドはカチンの森事件の非を相手に認めさせているのである。協力しない手はあるまい。
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サンゴ事件は朝日の体質そのもの

◆サンゴ事件は朝日の体質そのもの
 産経新聞 新聞に喝! 令和元年5月5日 元東京大学史料編纂所教授 酒井信彦

 今からちょうど30年前、天皇陛下の代替わりがあった平成元年(1989)の4月20日の朝日新聞夕刊1面に、カラー写真とともに「サンゴ汚したK・Yってだれだ」と題する記事が掲載された。
沖縄のサンゴが心ないダイバーにより、無残に損傷されたことを告発したものである。
 極めて印象的な末尾の文章は次のようであった。
 「日本人は、落書きにかけては今や世界に冠たる民族かもしれない。だけどこれは、将来の人たちが見たら、80年代日本人の記念碑になるに違いない。百年単位で育ててきたものを、瞬時に傷つけて恥じない、精神の貧しさの、すさんだ心の…にしても。一体『K・Y』つてだれだ。」
 この記事については、沖縄のダイバーから疑問の声が上がり、究明の結果、それは朝日新聞の写真部員が故意に傷つけたものであったことが判明した。その写真部員は免職になり、当時の社長は辞任に追い込まれた。
 このサンゴ事件は、日本の報道史において重大な事件であるのに、30周年の今年、全く回顧されていないようだ。
さらに問題なのは、この事件の根本的な悪質性が全く理解されていないことである。写真が完全な偽物であったために、この記事の極めて犯罪的な本質がかえって見逃されているのである。
 この写真が本物であったとしても、記事の文章は驚くほど間違ったことを主張している。
 第1に、誰だか不明なのに日本人の犯行と頭から決めつけている。アルファベットのイニシャルだから外国人の可能性もあり得る。
 そして第2に、日本人の犯行だとしても、それを日本民族全体の犯罪だーと途方もない拡大解釈をするのは、あまりにも異常な発想である。落書きをする不心得者は世界中にいくらでも存在する。
 この記事の筆者の意図は日本人の不道徳を、告発することではない。日本人を貶めることによって自己の道徳的優越感を満足させたいのである。究極の偽善であり、日本民族を標的としたヘイトスピーチと言うべきものである。
 「精神が貧しくて、心がすさんでいる」のは、この記事の筆者自身である。
 ただしこれは筆者だけの問題ではない。それを堂々と掲載したのだから、朝日新聞そのものの根本的な体質と考えるべきである。朝日新聞はこの体質を少しも反省することなく、90年代の慰安婦報道に突き進んだ。今からでも反省し、謝罪すべきである。

◇酒井信彦(さかい・のぶひこ)
 昭和18年、川崎市生まれ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。東京大学史料編纂所で『大日本史料』の編纂に従事。

風を読む 昭和25年の”元号攻撃” 

 産経論説副委員長 榊原智
 およそ70年前のことだ。日本がまだ連合国に占領されていた昭和25年2、3月の参院文部委員会で、廃止したい思惑のもと、元号に関する議論が行われた。議事録を読んで、その軽々しさにため息が出た。
 旧皇室典範の関連法令だった登極令(とうきょくれい)には改元の規定があったが、現憲法制定時に丸ごと廃止されていた。昭和の次の元号をたてる法的根拠が見当たらないという事情が当時あった。これは元号法制定(昭和54年)まで続く。
 当時の世論調査で分かるが、国民の大多数は元号の存続を当たり前と思っていた。だが、「天皇の元号」を嫌う「進歩派」にはチャンスと映ったのだろう。   。
 質疑に立った議員や参考人として呼ばれた有識者の多数派は、西暦の利便性や「天皇主権でなくなった」ことを理由に、元号廃止を唱えた。同年5月には、日本学術会議が「元号廃止、西暦採用」を決議して首相と衆参両院議長に申し入れている。
 参院文部委の田中耕太郎委員長は元東大法学部長、元文相で同年3月に最高裁長官に就く大物だった。元号廃止。
志向の田中は、同委で「新憲法の精神から見ても、一世一元の制が果たして妥当であるか」「我が国が国際社会の一員となるべき立場からも、この際文明諸国共通の年号計算に従ってはどうかという問題が起こって来る」と語った。
 他の議員や参考人の廃止論もこれと大同小異だった。70年たった今からみれば、廃止の理由とはなり得ない浅はかな議論である。
 日本国と国民統合の象徴である天皇がその御代を始める際に改元があるのはむしろ、国民の一体感を高める上で憲法の精神に沿っている。
。日本は東洋の時のものさしである元号を用いる唯一の国である。1300年以上も用い続けていることも含め国際社会で、元号をもつ日本の文化性、長い歴史は好意的にみられている。
 5月の新帝ご即位に伴って新しい御代を表す「令和」は今、国民に自然に受け入れられている。
 昭和25年の”元号攻撃”は同年6月の朝鮮戦争勃発などで立ち消えとなった。日本の国柄にそぐわない動きだったからというほかない。

韓国歴史教科書は反日教本か

韓国歴史教科書は反日教本か
    4/2 加藤達也の虎穴に入らずんば

 来年4月から日本の小学校で使われる5、6年用の社会科教科書のすべてが島根県隠岐の島町の竹島を「日本固有の領土」と明記したところ、韓国がこれに激しく反発した。政治、経済から軍事まで幅広く悪化する日韓関係だが、問題の根源として、韓国の教科書にもっと注目すべきだと考えるようになった。

 韓国の小6社会科の教科書に日本の朝鮮半島統治時代の徴用に関連するものだとして、上半身裸の男性10人が写った1枚の写真が載った。「強制労役に動員されるわが民族」という説明が付けられていた。

 実は、写真は1926年、北海道の旭川新聞が道路建設現場での虐待致死事件を報じたもので、朝鮮人の徴用とは時代的にも全く無関係なものだ。


 韓国の教育省は誤りを認め、写真の部分にシールを張ることも検討しているというが、教科書は既に配布済みで、すべてにシールを張れるのかはなはだ怪しい。そもそも左派の「全国教職員労働組合(全教組)」が幅をきかせる韓国の教育現場に、そんな指示が通るのかも疑問である。

 全教組は「親日派」の人物が関与した校歌を変更すべきだと主張したほか、日韓共通の知の基盤といえる漢字の教育にも反対し、北朝鮮の統治思想である主体思想を信奉する教師も所属。日韓分断と南北共闘の最前線といえる団体だ。

 実際にシールの張り付けを徹底できたら、韓国による対日関係改善へ向けた一定の努力とみなすこともできようが、いわゆる徴用工訴訟のパイオニアを自認する文在寅大統領が「徴用」の写真をシールで目隠ししろなどと、言えるのか。

 問題の写真は以前にも高校教科書に掲載されたことがあった。釜山の国立日帝強制動員歴史館でも「朝鮮人被害者」として展示されているといい、産経新聞は2017年4月に問題点を指摘していた。今回は教科書が「国定」である分、深刻なのだが、こうした間違いが放置され、改善されないあたりに日本軽視の一端が現れている。

 この問題をきっかけに最近、韓国の小中高の社会・歴史の教科書を取り寄せて読んでみたところ、暗澹(あんたん)たる気持ちになった。

 写真を誤掲載した小6社会科は歴史領域の71ページのうち、日本統治直前から独立までの「反日(抗日)」史におよそ4割、28ページも割いている。

 1章2節の「日本帝国の侵略と光復のための努力」では、韓国社会で頻繁に耳にする語句「日帝(イルチェ)」を《日本の「帝国主義」または「日本帝国」を短くした言葉で、自分の国の利益のために数カ国を侵略した日本を示す言葉》と説明。韓国では日韓について小6の子供から「日本を懲らしめる韓国」という勧善懲悪の構図でとらえさせるのだ。

 同じ教科書ではまた、慰安婦問題について《今日まで、日本は明確な事実認定と真心ある謝罪をしていない》と説明をするが、これは虚偽である。1992(平成4)年の宮沢喜一首相(当時)の謝罪をはじめこれまで幾度も、談話や手紙で謝罪の気持ちを伝えてきた事実が完全に無視され歪曲(わいきょく)されていることに愕然(がくぜん)とさせられる。日本側の努力は一体、何だったのか。

 在韓国日本大使館付近でのデモや慰安婦像の設置についても、気勢をあげるデモ参加者や慰安婦像の写真とともに、まるで成果を誇るように扱っている。外国公館の安全と品位を保護する義務を定めたウィーン条約違反の懸念などみじんも感じさせない。

 まるで反日の教本のような教科書で、未来を担うべき小学生に虚実ないまぜの“事実”を教え、反日を植え付ける韓国。その教育に、両国関係の先行きの暗さを覚えるのは筆者だけではあるまい。

地中海の港湾に対する中国投資攻勢

習主席欧州歴訪スタート
EU、強まる警戒感 【パリ=三井美奈、ベルリン=宮下日出男】

 中国の習近平国家主席は21日、欧州歴訪の最初の訪問地ローマに到着した。イタリア滞在中、港湾整備など経済協力で合意する予定。交通インフラを中心とする中国の投資攻勢に、欧州連合(EU)で警戒感が強まっている。
 習氏の訪欧には、経済界の約300人が同行。23日には中国の巨大経済圏構想「一帯一路」でイタリアと覚書を交わし、総額約70億行(約8700億円)の経済協力を打ち出すとみられる。ロイター通信によると、習氏は22日、マッタレッラ伊大統領と会談し、共同記者会見で「港湾整備や海上交通で、両国の協力を進めたい」と述べた。経済協力の目玉はトリエステ港、ジェノバ港への中国投資。習氏は23日、シチリア島を訪問予定で、現地イツフラヘの参入計画も浮上する。同島は地中海の中心にあり、アフリカに面する交通の要衝だ。
 仏シャッタートロール研究所の報告書によると、中国の対欧投資は2017年、交通インフラが51%を占めた。中国資本が参加する港湾は欧州で少なくとも14力所。地中海岸は特に活発で、中国遠洋海運集団(COSCO)はギリシヤのピレウス港を買収したほか、スペインのバレンシア港にも参入した。
 同報告書は港湾投資は貿易拠点となるだけでなく「軍事作戦の補給拠点となる」と分析する。中国はアフリカのジブチに軍事基地を建設。エジプトのスエズ運河再開発にも参加しており、イタリア沿岸に拠点を設ければ、東西をつなぐルートが出来上がる。
 EUは21、22日の首脳会議で、新たな対中政策「戦略見解十を協議した。域内では独仏が中国投資に警戒感を示す一方、南欧債務国のポルトガルやギリシャ、旧共産圏の13力国が既に「一帯一路」の覚書を結んでおり、分断が進む。
 イタリアと中国の覚書締結には米国も強く反発している。コンテ伊首相は「覚書に法的拘束力はない。経済協力を記しただけ」と主張し、EUや米国の不安払拭に努めている。習主席は26日までにモナコ、フランスも訪問する。
      ◇中国のIU投資額

 仏紙フィガロによると、マクロン仏大統領は26日、習主席の訪仏に合わせ、ドイツのメルケル首相、ユンケルEU欧州委員長とともにパリで4者会談を開く。気候変動や貿易が議題。対中外交でEUの共同歩調を示す狙いとみられる。

韓国「三・一独立運動」のウソ

韓国「三・一独立運動」のウソ 評論家 八幡和郎 【正論4月号】2019.3.9

※この記事は、月刊「正論4月号」から転載しました。ご購入はこちらへ。

 この『正論』4月号が発売される2019年3月1日は、日本の植民地時代に朝鮮半島で起こった「三・一独立運動」から百周年にあたる。彼の地においては史実とかけ離れた反日史観が炸裂し、事実の捏造を交えながらのキャンペーンが展開されることが予想されるので、この一月に出した『捏造だらけの韓国史』(ワニブックス)では次のように書いておいた。

 「どうせ、韓国では愛国的粉飾を加えて、『大虐殺があった』、『大韓民国の建国はこの時だ』などと言うに決まっています。しかし、『大虐殺』など幻ですし、むしろ、『三・一運動』を機に日本の朝鮮統治は安定し、皇民化へ向かって大きく舵が切られたのです」

 「今年のイベントを機に、韓国は得意の『歴史捏造』をしながら、さらに反日攻勢を加速していくことも予想されます。しかし、日本国民はそういう虚構に対して、毅然として立ち向かう覚悟をしなくてはなりません」

 ここに書いた「大韓民国の建国はこの時だ」という主張については、日本人に馴染みがないので、少し説明を加えておきたい。

 2017年12月、重慶を訪問した文在寅大統領は「大韓民国臨時政府」庁舎跡を視察し、「臨時政府は韓国の根っこだ」と述べ、韓国は中国での抗日活動を継承した国家だと強調した。

 三・一運動による混乱がまだ続いていた1919年4月13日(11日という人もいる)、李王家傍流(ハングルを創った世宗の兄の子孫)である李承晩(後の大韓民国初代大統領)らが上海で大韓民国臨時政府を樹立した。

 しかし、当時の世界はもちろん、朝鮮でもそれほど注目されたわけではなく、李承晩は1925年に内輪もめにより離脱し、そのあとは左派の一部が重慶で蒋介石の庇護の元、細々と活動しただけであった。ところが、戦後にアメリカが李承晩を南の指導者に就けたことから、彼によって「これが大韓民国の建国である」などという空想的な歴史観が生み出されたわけである。サンフランシスコ講和条約が締結される際に韓国は「戦勝国として参加させろ」と騒いだが、相手にされず、その腹いせもあって、竹島を占拠した。

 たしかに現在の韓国の憲法前文には、「大韓国民は三・一運動で成立した大韓民国臨時政府の法統」を継承すると書かれているが、あまり現実的な意味はないので、朴槿恵政権のもとでは、1948年をもって「大韓民国樹立」としていた。ところが、文在寅大統領は、前政権に対抗する意味からも、この臨時政府の活動を高く評価することで反日キャンペーン、媚中活動、国内における反保守勢力の歴史観への戦いの道具にしたがっているのである。

■皇族との良縁を喜んだ朝鮮国王
 日本は1905年の第2次日韓協約によって、韓国の外交権を回収、いわゆる保護国とした。伊藤博文が統監として赴任したこの時期も不完全ながら大韓帝国の内政に関与したため、日本統治時代の韓国については、次の4つに分けて論じるのが適当だ。
(1)統監府時代
(2)1910年の日韓併合後の武断統治期
(3)ソフトで比較的自由な雰囲気だった文化統治期
(4)日中戦争が始まってからの戦時体制期

 併合前の保護国だった時期には旧支配層の不満や朝鮮軍解散を原因として「義兵」という形の抵抗が頻繁にあった。日本の明治初期の「不平士族の乱」に似たものだったが、これはあくまで旧支配層の特権侵害への抵抗であり、一般民衆とは関係がないという限界もあったため、簡単に鎮圧できた。西南戦争における西郷隆盛のようなリーダーもいなかった。

 初代朝鮮総督の寺内正毅の時代は「武断統治期」といわれるが、これは統治体制が十分に整備されていなかったため、軍隊と一体化した憲兵制度や、言論や結社の厳しい制限によって臨むしかなかっただけだ。

 日本には憲兵という言葉を聞いただけで「強圧的だ」と飛びつく人がいるが、これはフランスで警察制度を学んだ寺内が当地の制度を導入しただけである。フランスは今も地方の治安維持は憲兵隊(ジャンダルムリ)が担っていて、警察より評判が良いくらいである。農村部では迅速に動ける軍隊が治安維持をするほうが合理的だという発想である。

ウイグル人弾圧 中国の言い逃れは通じぬ

ウイグル人弾圧 中国の言い逃れは通じぬ 産経新聞【主張】2019.3.16

◆中国はあくまで、シラを切るつもりなのか。

 新疆ウイグル自治区でのウイグル人弾圧のことである。大量に強制収容され、虐待や拷問により、「中国化」が進められていると、国際社会が問題視している。
 米国務省の2018年版国別人権報告書は、中国政府が同年、大量収容を「著しく強化した」とし、その規模は80万人から200万人以上に上ると指摘した。
 ポンペオ国務長官は記者会見で、「中国は宗教や民族の独自性を消そうとしている」と厳しく批判し、イラン、南スーダン、ニカラグアの名も挙げ、「人権侵害という点で中国は抜きんでている」と述べた。
 「新冷戦」の相手で世界第2の経済大国に対して、遠慮のない物言いである。中国の取るべき対応は、批判をかわすことでも米国の移民政策に話をすり替えることでもない。ウイグル人弾圧をやめ、汚名返上することだ。
 この問題は昨年来、国連人種差別撤廃委員会や国際人権団体が取り上げ、民族的に近いトルコも非難の声を上げている。
 驚かされるのは、ウイグル人の置かれた状況について、国際社会の認識と中国側の説明が、かけ離れているということだ。
 全人代(国会)では先に、収容施設は「寄宿制の学校」とされ、「過激主義の除去」に効果を上げていると報告された。

 中国のウイグル人は約1千万人である。その10人に1人が寄宿校で、反過激主義を学ぶ光景想像し難い。国際社会の批判からいつまでも耳をふさいでいられないと知るべきだ。
 習近平指導部は「宗教の中国化」を掲げる。だが、ウイグル人の文化、宗教を消すことなどあってはならない。他の少数派のイスラム教徒やチベットについても同様である。

 米中両国は、通商問題のほか、南シナ海や台湾など安全保障を含め全面対立の様相を呈している。米政権に求めたいのは、人権問題を駆け引きに使わないということだ。通商、安保で中国側の譲歩があっても、ウイグル人弾圧の非を鳴らし続けねばならない。

 安倍晋三首相は、日中関係は「完全に正常な軌道に戻った」と繰り返している。そういうなら、中国政府に対し、人権問題で率直に注文をつけてはどうか。

反捕鯨は日本たたきの感情論だ

反捕鯨は日本たたきの感情論だ 東京大学名誉教授・平川祐弘
2019.2.27

 中国や朝鮮の肩を持ったことがある。天安門事件の興奮のまださめやらぬ北京で教えていた私は、外国人教師の定宿の友誼賓館に泊まっていた。するとその食堂の一つで犬の肉を出すという。広告を見に行くと、目の前で一西洋人が「Dog meatとはけしからん」と掲示を引き裂いた。昨今のわが国もペット・ブームだ。この英国人の肩を持つ人もいるだろう。

 だが北京在住の日本人教師たちの反応は違った。掲示を破ったと聞いてその英国人の自己中心的正義感に鼻白んだ。ドッグ・ミートを食うのは野蛮、と決めつける西洋人に違和感を覚えた私たち日本人教師は、その晩、揃(そろ)ってその店へ出向くこととし、破られた掲示の残り半分に記された番号に電話で予約した。初めて食べたが、安い羊肉よりも狗肉(くにく)のシャブシャブの方がうまかった。料理長は「あんた方は朝鮮人か」と訊(き)いた。なんでも北朝鮮の要人が来たとき周恩来は狗肉でもてなしたという。

 ≪食の禁忌は宗教に由来する≫

 なぜこの話をまた持ち出すのか。地球が狭くなるグローバル化の世界では、少数派の文化や趣味に対し文句を言い正義面する主流派が増大するからだ。西洋人は犬が食用に供されることを嫌うが、同じ西洋でも馬肉を食べる国民と食べるのを忌み嫌う国民がある。

 食文化は歴史的に形成された。さまざまな禁忌(きんき)は多く宗教に由来する。蹄(ひづめ)が分かれず、反芻(はんすう)しない獣、鱗(うろこ)や鰭(ひれ)のない魚などもタブーとなった。徳川五代将軍綱吉の「生類憐れみの令」は動物生命維持のために他人の行動に干渉した先例だが、犬公方(くぼう)の令は22年後に廃止された。仏教信心の善意から出たにせよ、他人に強制するとなると、はた迷惑だ。

 グリーンピースとかシーシェパードの反捕鯨運動は執拗(しつよう)だが、環境保護に名を借りた反日活動で名を売っている。それが英語圏で支持されるのは旧約聖書レビ記にある鯨に対するタブーと無関係ではあるまい。19世紀米国人は盛んに鯨を殺し燈火用の油は採ったが肉は食べなかった。日本近海に来たメルヴィルの捕鯨小説『モービー・ディック』が出たのは1851年。その2年後にペリーは来日し捕鯨船の給水用にと開港を迫った。

 ≪寛容こそ平和共存の規範だ≫

 私は疎開先で、家内は戦後の給食で鯨肉を食べた。そんな世代だけに、反捕鯨を前提とする国際捕鯨委員会(IWC)の偏向は手前勝手で面白くない。脱退に賛成だ。ただし日本の捕鯨により鯨の生態系が脅(おびや)かされぬという統計結果を世界に周知させる広報活動が大切だ。というのも近年、日本についてのニュースでこの脱退ほど西洋で報道されたのは珍しい。だが露骨な反日報道の中で仏テレビは「食文化の問題」と報じた。

 この別の視点が大切だ。生態系を脅かさぬ限り、また海洋資源の保護が可能な限り、他人の食物に苦情は言わない、という食文化に関する地球社会の倫理規範を確立させることが急務だ。日本はノルウェー、アイスランドなどの捕鯨国とともに主張すべきだろう。

 世界には豚を食べぬイスラム教徒、牛を食べぬヒンズー教徒などがいる。だが反捕鯨の過激派と違って彼らはよその国まで押しかけて「豚を食べるな」「牛を殺すな」などとデモはしない。その寛容こそが平和共存のグローバル・スタンダードとなるべきだ。

 食文化は不変でなく、鯨でなくても栄養は取れる、という意見もある。だが鯨で譲れば次は海豚(いるか)を取るな、黒鮪(まぐろ)を取るな、と言い出すだろう。それが海洋資源保護の観点からの主張なら考慮に値するが、反捕鯨は一種のジャパン・バッシングだ。かつての黄禍論の一変形の感情論と見るべきだろう。

 ≪まずは討論で勝たねばならない≫

 富山の料亭で白魚を鉢に泳がせ二杯酢につけて食べた。この踊り食いの饗応(きょうおう)に西洋人の相客が「日本人は残酷だ」と言う。あいまいに同意したが、招待者に悪いから「でもおいしかった」と私は付け足した。すると相客は「日本人は鯨を食べる。残酷だ」と非難を強めた。こうしたことで目くじらを立てると、問題は食習慣を超え、国際間の感情摩擦の火種になる。

 他国の食い物を西洋文化の価値基準で判断するグリーンピースの騒ぎようを見かねて、それなら日本も各国のヒンズー教徒やイスラム教徒を誘ってイエローピースを組織し、西洋諸国の食肉処理場のまわりで反対デモでもしたらどうだろう、と二昔前に高知の新聞に書いた。土佐なら鯨の食文化弁護の説に理解があろうと思ったのだが、編集者は私を偏狭なナショナリストと目したと見え、コラムは没になり、1年間の連載予定が2カ月で打ち切られた。

 それでしつこく再論するが、日本の大学法学科ですべき訓練はこの種の論点について賛成反対のディベートだろう。英語でやれば外国人に負けるからまず日本語でやる。ただし日本語で討論に勝っても、日本の法学士の英語能力では国際的に通用しない。この言語文化的ハンディキャップをどう克服するかが日本の宿命的な問題だ。(ひらかわ すけひろ)

【主張】北方領土 四島返還明確に決意語れ 「スターリンの犯罪」が本質だ

【主張】北方領土 四島返還明確に決意語れ 「スターリンの犯罪」が本質だ
2019.2.8
日露首脳会談

 安倍晋三首相の口から、日本固有の領土である北方四島が、ソ連・ロシアによって不法占拠されてきたという歴史の真実と、四島を必ず取り戻すという明確な決意が語られることはなかった。残念というほかない。
 「北方領土の日」の7日、都内で開かれた返還要求全国大会での首相挨拶(あいさつ)のことである。
 元島民でつくる千島歯舞諸島居住者連盟の脇紀美夫理事長は大会で、政府から「四島返還というメッセージ」が影を潜めたと指摘し、「どうしてなんでしょうか」「元島民は365日が北方領土の日であるとの思いで、四島の返還を待ち望んでいる」と訴えた。
 政府と国民が共有すべき認識である。

 ≪不法占拠の認識あるか≫
 四島は日本の正当な領土であり日本人の古里だ。現代の日本人が返還をあきらめるようなことがあれば悔いを千載に残す。
 首相は、北方領土問題の解決と日露平和条約締結について「容易ではないが、やり遂げなければならない」との決意は語った。ならば、四島返還が問題解決のゴールであると発信すべきだった。
 対露外交の責任者である首相の言葉が弱ければ、大会アピールが四島を「わが国固有の領土」とし、「返還実現を目指す」とした意味が減じてしまう。このアピールにしても、不法占拠の事実を指摘しない不十分なものである。
 ロシアは、四島は第二次世界大戦の結果、自国領になったと偽りの主張を繰り返している。法と正義に反するロシアに迎合し、慮(おもんぱか)るような姿勢では、交渉の基盤は弱まるばかりではないか。
 安倍政権に求められるのは、ソ連の独裁者スターリンの「犯罪」である四島占拠の問題性と、それを返還によって是正する正当性をロシアに毅然(きぜん)として求め、国際社会へも訴えていくことだ。
 「北方領土の日」は、1855年の2月7日に日魯通好条約が調印されたことにちなむ。条約は択捉、国後、色丹、歯舞群島を日本の領土として国境線を定めた。北方四島はこれ以来、他国に帰属したことがない。
 ソ連は第二次大戦末期の1945年8月9日、スターリンの決定で日ソ中立条約を破り、対日参戦した。日本降伏後に占拠したのが北方四島である。
 四島奪取は、戦後の領土不拡大をうたった大西洋憲章(41年)やカイロ宣言(43年)に反する。
 ロシアでは北方領土問題の不当性への理解が足りていない。
 良識派とされる知識人が、北方領土は「ソ連兵が血で獲得した」などと語り、日本が千島列島全てを要求しているかのような事実誤認も目立つ。
 日本の外務省と在露日本大使館は、露国民に向けた広報活動に本腰を入れてもらいたい。

 ≪国際社会に広く訴えよ≫
 その際、四島奪取は「スターリン体制の犯罪」だという視点がロシア人に理解されやすい。スターリンによる弾圧がピークに達した36~37年だけで、ソ連では約150万人が逮捕され、うち約70万人が銃殺された。多くのロシア人に犠牲となった親族がいる。
 スターリンの犯罪は許されないと考えているロシアの広い層に、北方領土問題の本質を根強く訴える努力が必要だ。
 ソ連・ロシアに苦しめられた国々の行動にも学びたい。
 旧ソ連の秘密警察が大戦中の40年、ポーランド人将校ら約2万2000人を銃殺して隠蔽(いんぺい)した。「カチンの森事件」と呼ばれる。
 ソ連はこれを「ナチス・ドイツの仕業」と宣伝したが、ポーランドは粘り強く、国内外にソ連の犯罪だと訴え続けた。その結果、90年にはソ連は秘密警察の関与を認めた。2010年には、プーチン首相(当時)が慰霊行事に参加し、「スターリン体制の犯罪は正当化されない」と述べた。
 バルト三国は、独ソ不可侵条約の秘密議定書を受け、1940年にソ連に併合された。当事国を無視した密約は無効との認識が広がり、91年の独立回復につながった。ロシアが四島支配の根拠に挙げるヤルタ協定(45年)も日本と無関係の秘密合意にすぎない。
 ポーランドもバルト三国も、自ら「スターリンの犯罪」に声を上げ、結果を出した。ロシアに遠慮して黙っていたのなら成果はなかったはずだ。安倍政権はこれら対露交渉の成功例に学ぶべきだ。

阿比留瑠比の極言御免 日本は韓国に世話になったか

阿比留瑠比の極言御免
日本は韓国に世話になったか
 博覧強記の評論家、八幡和郎氏の31年2月2日付のフェイスブックの記事は、戦後最悪といわれる日韓関係を考えるうえで、示唆に富むものだった。八幡氏は新著『握造だらけの韓国史-レーダー照射、徴用工判決、慰安婦問題だけじゃない』を執筆しながら、改めてこう感じたのだという。
「日本が(文化で)韓国人から学んだとかお世話になったということなど古代から何もないということであり、一方、韓国人が日本から学んだことは多いのにほとんど研究もされずに不明だということだ」
 目からうろこが落ちる指摘である。多くの日本人は何となく、朝鮮半島からさまざまな文物や文化が伝えられたと思い込んでいる。
■「お世辞」の名残か
 例えば韓国紙によると、朝日新聞の木村伊量前社長は在職中の平成26年10月、東京で開催された日韓言論人フォーラムに出席した韓国人記者らに次のように語ったとされる。
「朝鮮半島の影響なしには日本の文化が豊かにならなかったと考える。そのような面で、韓国は日本の兄のようだ」
 似たようなことを言いたがる政治家や文化人は、今も少なくない。だが、それは錯誤で、明治43年の日韓併合以降の刷り込みではないかと八幡氏は論じる。
 八幡氏は、もともと韓国人を低くみる傾向があった日本人に対して、明治政府や朝鮮総督府が韓国を見下すなと諭すとともに、併合された韓国側を慰撫するために始めた「お世辞」と、「お世話になったキャンペーン」の名残とみている。
「日本は確かに百済には負っているが、実際に文化を伝えたのはほとんど中国人で韓国とは関係ない。論語を伝えたとされる王仁博士も百済から来たが中国人だ。そもそも百済は日本の友好国で、滅ぶ際に支配層は大量に日本に亡命して日本人に吸収された。韓国は百済の継承国といえない」
 われわれが韓国に一定の恩義や敬意を覚えたり、親しみを感じたりする大本自体、勘違いに基づく部分が大きいのかもしれない。
■繰り返す迎合
 ともあれ、開会中の国会に目を移すと、国民民主党(玉木雄一郎代表)と自由党(小沢一郎代表)の合併が大詰めを迎えている。
「日本の政治家なら(与野党関係なく)当然、韓国政府に強く抗議すべきことだ。黙っているなんて、絶対に許されない」
 玉木氏は韓国駆逐艦による海上自衛隊哨戒機への火器管制レーダー照射について、こう強調していた。それはいいが、合併後もその姿勢を継続できるだろうかと少々心配になった。
 パートナーとなる小沢氏といえば2009(平成21)年12月、韓国で講演し
た際に、日本の学界では誰も相手にしていない騎馬民族征服説を持ち出し、朝鮮半島南部の権力者が奈良盆地で政権を樹立して初代、神武天皇になったのは「歴史的な事実であろう」と放言している。
 また、同じ講演では大和朝廷と百済や新羅の交流で「通訳を使ったという記録は全くない」との事実誤認を堂々と語り、さらに「桓武天皇の生母は百済の王女さま」だと明言して韓国側を喜ばせた人物である。
 実際は、生母は百済の武寧王の子のはるかな子孫である帰化氏族、和(やまと)氏の出身であるにすぎず、王女だとは到底言えない。
 小沢氏の例は極端だとしても、日本人は史実を亡し無私・軽視した韓国への迎合リップサービスをずっとくり返してきた。中国には文句を言えない韓国が、日本に対しては居丈高で無礼な態度を取る現状も、日本自身が招いた部分が大きい
 (論説委員兼政治部編集委員)

ファーウェイ 排除される理由

【「中国点描」産経新聞 H31.01.23 】 矢板明夫・外信部次長

「弊社の社員、王偉晶(おおいしょう)はポーランドの法律に違反し、個人的な理由で逮捕されたため、雇用契約に関する社内規則に基づき労働契約を終了する」

1月12日、中国通信機器大手、華為技術(ファーウェイ)は、同社ポーランド支社の幹部、王偉晶氏を解雇するとの声明を発表した。王氏がスパイ容疑でポーランドの治安当局に拘束されてから、わずか4日後のことだった。

ポーランドメディなどによれば、王氏は中国政府のため違法な情報収集活動を行った疑いがある。元ポーランド内務省高官だった同国籍の男性も共犯として同時に逮捕された。王氏は容疑を否認しているという。事件の捜査が始まった直後に、華為がいきなり王氏を解雇するという結論を出したことに、中国国内では「早急すぎる」という批判が出ている。

王氏と比較されたのは、昨年12月にカナダ当局に逮捕された、同社の副会長、孟晩舟(もうばんしゅう)氏だ。米国の対イラン制裁に違反した容疑だが、逮捕後、華為は何度も「事実無根だ」と否定し、カナダに孟氏の釈放を求め続けている。

孟氏は華為の創業者の長女で主要幹部という立場があるとはいえ、同じく外国の治安当局に逮捕された王氏との対応の違いが注目された。

中国政治に詳しい専門家は「2つの事件はいずれも国家安全に関わっており、一企業として対応できるレベルを超えている。孟氏を守ることも、王氏を解雇することも、中国当局が決めたことだろう」と分析。その上で「孟氏は、中国のIT戦略など多くの重要な秘密を知っており、海外で裁判が開かれることをどうしても避けたい。これに対し王氏は“小物”で、華為のイメージのさらなる低下を避けるために切り捨てられた」との見方を示した。

華為の声明では、王氏が逮捕されたのは「個人的な理由」としているが、その経歴には中国当局の工作員と思わせるところがある。

2002年に北京外国語大学を卒業した王氏は、外交官としてポーランドの中国総領事館で06年から約5年間勤務。11年に転職し、華為のポーランド支社に入社した。

しかし、中国の全国人民代表大会(国会に相当)が09年に可決した「外国人員法」では、外交官について「海外赴任中に退職することはできない」と明記している。

ある中国の元外交関係者は「王氏は退職したのではなく、政府の指示で仕事しやすい身分に変えただけだと考えた方が自然だ」と指摘する。

華為は中国の国有企業ではないため、これまで民間企業として国際社会で活動し、シェアを拡大してきた。しかし、裏では中国政府とさまざまな潜在的なつながりがあることは孟氏と王氏の事件で一層浮き彫りになった。

また、中国には国家情報法という法律がある。「(中国の)機関や市民が同法に従って、国家の情報活動を支援し、協力する」ことを義務付けている。中国当局から「諜報活動への協力」を要請されれば、華為を含むすべての中国企業は拒否できないことになっている。

「孟晩舟事件」以降、欧米のみならず、アジア諸国でも、華為を排除する動きが高まっている。各国はようやく、中国企業の怖さに気づき始めたようだ。

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(51)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(51)「懸け橋」となったアリラン 古賀政男、力道山も魅了 2018.12.29
作曲家の古賀政男
 朝鮮出身の出自を隠しながら「日本人のヒーロー」であり続けたプロレスラーの力道山(昭和38年、39歳で死去)は故郷を懐かしみ、親しい人の前ではよく朝鮮民謡の『アリラン』を歌っていたという。
 朝鮮民族の魂というべきアリランは古来、地方ごとに歌い継がれたバージョンが星の数ほど存在する。力道山はどのアリランを歌っていたのだろうか。
 力道山は、大正13(1924)年=異説あり=に現在の北朝鮮に含まれる咸鏡南道で生まれている。その2年後(大正15年)に制作され、朝鮮全土で2年に及ぶロングランヒットとなった映画があった。

 羅雲奎(ナ・ウンギュウ)監督・主演の朝鮮映画『アリラン』だ。無声映画だが、ラストで弁士や歌手が劇場で歌ったアリランが「解説版」として多数のレコードに吹き込まれた。同じ頃、朝鮮でも実験放送が始まったラジオにも乗って普及してゆく。
 この日本統治時代の映画から誕生した歌がもとになって「本調アリラン」が整えられ、現在の韓国・北朝鮮のみならず、世界中で最も親しまれている“スタンダード”のアリランとなった。今年2月の韓国・平昌五輪開会式で南北選手団が統一旗を掲げて合同入場したときに流されたのも、このアリランである。
 力道山が、南北統一選手団を夢に描いた昭和39(1964)年の東京五輪。前年にスイス・ローザンヌで行われた南北体育会談では、統一選手団の団歌としてアリランを使用することで合意していた。結局、北朝鮮は東京五輪に参加せず、統一選手団も実現しなかったが、年代からみても力道山が愛唱していたのも、このアリランだったに違いないだろう。

■哀調は「涙のスープ」
 このアリランは、間もなく“海峡を越えて”日本でも大ヒットする。
 映画から5年後の昭和6年、日本初のアリラン・レコードが発売された。歌ったのは「金色仮面」という覆面歌手、後に『涙の渡り鳥』で知られる小林千代子である。日本語の詞は、詩人の西條八十(さいじょう・やそ)が書いた。

翌7年には、淡谷のり子と長谷川一郎(蔡奎●(=火へんに華、チェ・ギュウヨプ))のデュエットによる『アリランの唄(うた)』がヒットを飛ばす。こちらの詞は、詩人・作詞家の佐藤惣之助(そうのすけ)が書き、編曲を古賀政男が担当している。哀愁をかきたてる伴奏は、古賀の母校である、明治大学マンドリンオーケストラ・アコージョンが務めた。
 後に、日本を代表する作曲家となり、国民栄誉賞にも輝く古賀は、福岡県出身だが、少年時代を兄が事業を営んでいた日本統治時代の朝鮮で過ごしている。

 『アリランの唄』が発売された年の雑誌『改造』12月号には、朝鮮という土地の風土や伝統的な民謡の美しさに魅了されたのが、音楽に親しみ、作曲に興味を覚えたきっかけになったこと。さらには、清楚(せいそ)な装いをした妓生(キーセン)が哀調をもって歌うアリランの音楽的すばらしさを称賛する一文を寄せている。
 古賀は、戦後の25年には、朝鮮出身の歌手、小畑実(康永★(=吉を2つヨコに並べる、カン・ヨンチョル))にアリランをモチーフにした『涙のチャング』を提供している。
 『アリランの唄』に詞をつけた佐藤もアリランに強い印象を受けたらしい。朝鮮の訪問記にこうある。
 《アリラン歌は、三つ子でも知っているようである。そして内地の河端(かわばた)柳のように、どこか自暴自棄で、哀愁があって、非常に疲れているような味がある。安妓生が竹の箸で大きい鼓を鳴らし、アリラン・アラリーヨと唄い出すと、実際、神仙炉(※朝鮮の鍋料理)から立ちのぼる煙も、涙のスープになる》(昭和12年、『旅窓読本』から)

 この時期、他にも『アリラン・ブルース』『アリラン小唄』『アリラン夜曲』など、アリランにあやかった大衆歌謡が相次いでつくられている。8年には、宝塚キネマの映画『アリランの唄』も公開された
なぜ、アリランはこれほどまでに日本の作曲家、詩人、歌手の心を揺さぶったのか。もちろん、第一には歌が持つ「力」が理由であろう。さらに、時代背景として6年の満州事変、翌年の満州国建国と続く「大陸ブーム」があった。新天地に夢を描いた多くの日本人が“海峡を越えて”大陸へと渡った時代、満州・朝鮮にちなんだ「ご当地ソング」が続々とつくられ、ヒットを飛ばす。
 折しも朝鮮で「緩やかな統治」の文化政治の時代に入っていた。1920年代後半以降、日本のレコード会社が相次いで朝鮮へ進出し、大衆音楽文化も花開く。映画、レコード、ラジオといった当時のニューメディアによってアリランは一気に広まり、“海峡を越えた”人々によって日本にも伝えられた。世界的舞踊家の崔承喜(チェ・スンヒ)やテノール歌手の永田絃次郎(げんじろう)(金永吉(キム・ヨンギル))ら、日本統治時代にアリランにかかわった芸術家・音楽家は数知れない。

■戦後も続いたブーム
 日本での「アリラン」ブームは、形を変えて戦後も続いてゆく。『月がとっても青いから』などのヒット曲で知られる菅原都々子(つづこ)(91)にはエレジー(哀歌)の女王の異名がある。菅原は昭和26年、第1回のNHK紅白歌合戦に出場。同じ年には戦後初となる『アリラン』と朝鮮民謡『トラジ』のレコードを出し、日本のファンにこの歌の魅力を思い出させた。
 日本の伝統音楽の巨匠たちも魅力した。新内の岡本文弥(ぶんや)、津軽三味線の高橋竹山(ちくざん)、都々逸(どどいつ)の柳家三亀松(みきまつ)…多くの名人・上手が「アリラン」を取り込み、歌い、演奏している。
 日本統治時代にルーツを持つ歌(アリラン)が日本と朝鮮半島との「懸け橋」となり、いまなお世界中で愛されているのだ。そのことを噛(か)みしめて、この連載を終えたい。=本文敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)=おわり
                   

『海峡を越えて「朝のくに」ものがたり』は、産経新聞出版から書籍化の予定です。ご期待ください。

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◎ソ連に振り回された共同宣言

産経新聞 論説委員日曜に書く
              河村直哉 2019.1.20

 1956(昭和31)年の日ソ共同宣言に至った経緯を見ていると、日本はソ連に振り回されたという感が強い。日本として本意のものではなかった。

■抑留者を「人質」に
 宣言は平和条約締結後、北方領土のうち色丹島、歯舞群島を日本に引き渡すとしている。同年10月、鳩山一郎首相らがモスクワを訪ねて調印した。
 国論は割れていた。当時の産経新聞によるとこの前月には、財界首脳が鳩山首相の事実上の引退を要望した。また自民党の反主流派が訪ソに反対の動きを見せた。残る択捉島、国後島を実質的に失うことになる、という声は世間に強かった。
 昭和29年末に首相になった鳩山は、ソ連との復交に前のめりだった。ソ連はそこにつけこんだ。機を逃さず日本にアプローチし、まず駐英大使経験のある松本俊一を全権として、同30年6月から交渉が始まった。まだ多数の日本人がソ連に抑留されていたころである。
 松本の回想録『モスクワにかける虹』によると、松本は抑留者を交渉開始とともに送還することや、領土問題について意見交換することなどを提起した。
 ソ連側は、抑留者の送還は平和条約を調印して解決される、とした。抑留者はいわぱ人質に取られたわけである。
 領土問題についてソ連は当初、解決済みとして取り合わなかった。途中から色丹、歯舞を引き渡す意向を見せたが、ほかは頑として認めなかった。交渉は物別れに終わった。

■日本を手玉に
 その後もソ連は日本を手玉に取っている。松本の前掲書によると、ソ連は北洋の公海上に一方的に漁獲高の制限を設けた。
北洋漁業が打撃を受ける日本は、平和条約の発効などを前提とした漁業条約をソ連と結び、再び復交交渉に持ち込まれた。
 ソ連は日本の国連加盟にも反対していた。抑留者や国連という有利なカードを持つたまま、日本を交渉に引きずり出す魂胆だったと思われる。

 外相の重光葵を首席全権として交渉が再開された。ソ連は択捉、国後の返還は決して認めず、溝は埋まらなかった。
 鳩山の共産主義国への認識は甘かったといわざるをえない。
 戦後、反共路線を取った産経はソ連に厳しくものを言っている。昭和31年の社説(現在の「主張」)をいくつか見る。引用は大阪本社版による。
 復交を狙うソ連の意図を5月16日付の社説は次のように分析した。自由主義国から日本を引き離す、日本国内の親ソ連親中国勢力を勢いづかせる、多数のソ連人を日本に送り込み公然、隠然の活動を行わせる、など。その通りだっただろう。
 7月24日付では、ソ連は強国だからという「敗北主義の気分」が国内にあるとしたうえで、訴えた。「ソ連が国交を回復するというならば、まずその対日侵略の不当を自認し、侵略の成果のうち、少なくとも日本固有の領土だけは返せ、」と。
 いうまでもなく北方四島は日本がポツダム宣言を受諾した後、ソ連が占領した日本の固有領土であり、返還するのが当然である。抑留者の送還は国交回復以前の人道問題だ。

■国家の主権の問題
 重光交渉が難航していた8月9日付は、「無条約は一時多少の不利であっても、先方の反省を待つ方が独立国として永遠の利益一と打ち切りを提案した。
確かに、北方領土で問われているのは国家の主権をどう守るかという問題である。
 このように重光交渉が物別れに終わった後の、択捉、国後返還の見込みのない状態での鳩山訪ソだった。日本は領土を継続交渉にするという方針を打ち出した。社説は厳しく批判した。
 「国交回復を急ぐあまりに、わが民族的屈辱の跡を長く残すことは許し難い。その意昧において、そもそも領土をタナ上げにした復交などは、甚だ好ましくない」 (9月16日付)
 「目前の小利害と小功名心のために、わが固有の領土を永久にソ連に対して放棄する」「領土問題の継続審議とは・・・ソ連を相手とする限り、領土の永久放棄にほかならない」、「およそ領土はわが現代の国民が、千百年来祖先から受継いで、さらに後代の国民に伝うべき貴重な預りもの」(9月18日付)
 調印されると「民族的悲劇」(10月20日付)とした。

 さて、安倍晋三首相のロシア訪問である。昨秋、日ソ共同宣言を基礎に平和条約交渉を加速させることでプーチン大統領と合意した。主権をどう守るのか。
     (かわむら なおや)

海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(50)

海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(50)夢に終わった五輪統一チーム 南北で取り合った民族の英雄 2018.12.22

 昭和29(1954)年に本格的な日本デビューを飾った力道山が、「日本人のヒーロー」としてスターの階段を猛スピードで駆け上っていたころ、海峡を挟んだ朝鮮半島情勢は、刻一刻と変化していた。
 韓国では、李承晩(イ・スンマン)政権が倒れた後、36年5月、朴正煕(パク・チョンヒ)が軍事クーデターで実権を掌握。停滞していた日韓国交正常化のための交渉が加速してゆく(40年、日韓基本条約締結)。
 北朝鮮では、初代最高権力者、金日成(キム・イルソン)が次々と政敵を粛清して独裁体制を盤石に。34年12月からは日本から北朝鮮への帰国運動が始まり“地上の楽園”の宣伝文句に誘われて約9万3千人の在日コリアン・日本人配偶者らが海を渡った。

 南北は激しく対立し、日本国内では、それぞれを支持する在日組織が代理闘争を繰り広げる。力道山がいくら出自を隠しても、彼らにとっては「朝鮮生まれの民族の英雄」だ。30年代半ば以降、自陣営に取り込む綱引き合戦は、次第に熱を帯びてゆく。

◆北朝鮮へ帰国させよ
 力道山は、現在の北朝鮮(咸鏡南道)の出身だ。兄たちや幼いときに別れたきりの娘もそこにいる。肉親の情や望郷の念は、もちろんあっただろう。
 北の出先機関というべき朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)は副議長をヘッドとした“力道山獲得工作”を開始する。帰国事業のために日朝間を往来する船に力道山の兄と娘を乗り込ませ、新潟港停泊中、ひそかに力道山と再会させたエピソードや、力道山が金日成の50歳の祝い(37年4月)として高級車のベンツを贈った話も伝わっている。
 さらに、副議長の指令で総連傘下の芸術団所属の若い女性歌手が力道山のもとへ派遣された。2人を結婚させ、北朝鮮へ帰国させる計画だったという。

 『もう一人の力道山』の著者で、その女性にもインタビューを行った李淳●(スンイル)(57)はこう話す。「当初、力道山の周囲にいるのは圧倒的に『南側』の人が多かった。ところが、力道山はだんだんと北へ足を踏み出してゆく。望郷の念や新しい社会主義国家建設。自身の衰えもあって、帰国への流れはかなり進んでいたと思いますね」
 当時、北朝鮮への帰国事業は、開始当初の熱が失われつつあった。もしも、力道山が帰国することになれば格好の宣伝になったのは間違いない。
 南側も巻き返しに出る。38年1月、力道山は極秘裏に韓国を訪問した。当時日本との国交は、まだ結ばれていない。訪韓には、自民党の有力政治家や右翼の大物、在日の暴力団関係者などが関わったとされる。
 出発前日に婚約したばかりの妻、田中敬子(けいこ)(77)も詳しい事情は知らされていなかった。「『黙っていろよ』と口止めされただけ。後に、日韓交渉を手助けするために行った。反対する韓国内の勢力を抑えられるのは『力道山しかいなかったんだ』という話も聞きましたが…」

 敬子のもとには訪韓時に撮った多数の写真を収めたアルバムが残されている。韓国の情報機関KCIA(当時)部長や政府、スポーツ関係の要人の数々。敬子は同行者から、このとき力道山が南北を分かつ38度線近くへ行き、故郷の北へ向かって大声で叫び声を上げたという話も聞く。
 結局、力道山は、総連から派遣された女性と結婚することも北朝鮮へ帰国することもなく、総連の獲得工作は失敗に終わる。極秘訪韓についてもわずかなメディアが小さく報じただけ。もちろん、帰国船の中で、北の兄や娘と会った話が表に出ることもない。
 「日本人のヒーロー」を演じ続ける力道山は、水面下で南北双方とかかわりながら何を思い、何をやろうとしていたのか。

◆なに人でも関係ない
 ひとつのカギが、39年に開催が予定されていたアジアで初めての「東京オリンピック」だ。
 『もう一人の…』を書いた李は、このとき力道山が東京五輪で、韓国と北朝鮮の間で持ち上がっていた統一チームを実現させるために動いていた、という見方をしている。「実は韓国は、メダルが有力な選手を抱える北朝鮮の参加阻止に動いていた。力道山はそれを説得し、最低でも北の参加を、できうるならば統一チームを実現させたかったのだと思う」
敬子によれば、力道山は東京五輪のために、計1千万円の寄付も行っている。
 だが、力道山が東京五輪の開幕を見ることはなかった(38年12月死去)。北朝鮮選手団は来日したものの、選手の資格問題などがこじれ、結局、開会式前に帰国している(韓国は参加)。ただ、金メダル有力とされた北朝鮮の陸上女子選手と韓国からやってきた父親との日本での再会は大きな話題となった。
 力道山が生きていたら、スポーツ選手だったという北朝鮮の娘と日本で再会できたかもしれない。あるいは、南北の統一チームが実現し、力道山が好きだったという朝鮮を代表する民謡「アリラン」が流れる入場行進のシーンを見て涙しただろうか。

 敬子が思い出す力道山の言葉がある。「『オレは“なに人”でも関係ない。南も北もない』って。主人は、スポーツを通じた平和を望んでいたと思う。もし生きていたら日韓、日朝関係も現在とは違った形になったかもしれません」
 力道山の死後、北朝鮮の親族から、北での葬儀の写真と朝鮮語で書かれた手紙が送られてきた。後に訪朝した敬子は、力道山のことを市民がよく知っており、名前を冠した記念品があちこちで売られていることに驚かされたという。
 『力道山がいた』を書いた直木賞作家の村松友視(ともみ)(78)は、「当時の日本で、力道山ほどインターナショナルな価値観や視座を持っていた人はいなかったでしょうね」と話す。
 死して伝説となった力道山。「アジアに進出し、子供はアメリカで産み、スイスで暮らす…」。敬子に語っていた余生は夢と消えた。=本文敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)
                  


 『海峡を越えて「朝のくに」ものがたり』は、産経新聞出版から書籍化の予定です。ご期待ください。
●=馬へんに日

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(49)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(49)妻に見せた力道山の涙 昭和のヒーローの「光と影」 2018.12.15

 55年前の今日(昭和38年12月15日)、暴漢に刺され療養中だったプロレスラー、力道山が息を引き取った。39歳。再手術の前、妻の田中敬子(けいこ)(77)が聞いた最期の言葉は「オレは死にたくない」だったという。翌16日付本紙朝刊の扱いは、意外に小さい。社会面と運動面で事実関係と関係者のコメントなどを報じていた。
 半世紀以上過ぎた現在、戦後何度目かのプロレスブームに沸いている。試合会場には若い女性の姿も多い。アイドルのようにレスラーを見つめる若いファンたちは、すべての始まりが力道山だったことを知っているのだろうか?

 爆発的なブームを巻き起こして、日本人を熱狂の渦にたたき込み、「戦後最大のヒーロー」の一人に上り詰めた男のことを…。
 直木賞作家で、『力道山がいた』の著書がある村松友視(ともみ)(78)は、日本での本格的なお披露目試合、29年2月19日に東京・蔵前国技館で行われた「力道山・木村政彦対シャープ兄弟」のタッグマッチを、近所の電器店に置かれたテレビの生中継で見ている。
 当時、中学1年生。プロレスを誰も知らなかった時代に村松は、ほんの少し予備知識があった。力道山の力士時代の活躍をラジオで聞いていたこと。家で取っていた新聞がプロレス興行の主催者だった関係で、大相撲を辞めた力道山がプロレスラーとなり、アメリカ修業中の記事などが掲載されていたからである。
 ブラウン管に映った力道山は公称180センチ、トレードマークの黒タイツ、長めのガウンを羽織り、独特の無表情で少し上の方をにらみつけていた。パートナーの木村は柔道出身で“鬼の木村”と呼ばれたが、さらに小兵。2メートル近い大巨漢のシャープ兄弟に比べると、2人はあまりに小さい。

 「(体格差を見て)これは無理だろうなと思っていたら力道山が、でかい相手に空手チョップをたたき込んでぶっ飛ばしてしまった。僕はプレスリーの『ハートブレーク・ホテル』を初めて聴(き)いたときみたいにゾクッときた。『問答無用のヒーローの登場』だ、と夢中になったのです」
すっかり力道山に魅せられた村松少年は翌日の試合も電器店のテレビ桟敷に駆けつけた。同じ年の12月、力道山が木村を血だるまにした“巌流島の血闘”は会場で観戦している。
 大人たちの受け止め方は少し違う。約10年前の戦争で、完膚無きまでたたきのめされ、わが国を焦土にして占領したアメリカ人へのコンプレックスを、この日本人が吹き飛ばしてくれたという快感であった。

◆「書けない」タブー
 テレビが普及し始めると、プロレスは、プロ野球と並ぶ人気スポーツとなってゆく。力道山の空手チョップを見るために、街頭テレビには群衆が押し寄せ、漫画やドラマ、映画にも取り上げられた。メディアの取材は連日引きも切らない。

 34年に小学館へ入社したカメラマン、中島弘(83)は創刊間もない「週刊少年サンデー」のグラビアの撮影などでよく、力道山の取材に出かけた。
 「野球・巨人軍のON(王貞治と長嶋茂雄)や芸能人の取材にも行きましたが、何といっても一番人気は力道山。自宅で、分厚いステーキを頬張るところを撮らせてもらったこともあります。弟子には厳しかったらしいけど、僕たちには優しい人でしたね」
 スターとなった力道山はプロレスのみならず、政財界人や芸能人らとの華やかな交流、さまざまな事業への進出でもスポットライトを浴びた。一方で、「プロレスはショーだ」との冷ややかな視線や、暴力団など反社会勢力との交際など「影」もつきまとう。そのひとつが「朝鮮出身」という出自の噂である。
 だが、当時のメディアにとっては「書けない」タブーだった。力道山自身も決して公にすることはない。歌舞伎の荒事(あらごと)の主役のように悪役の外国人レスラーをコテンパンにやっつける「日本人のヒーロー」を演じ続けたのである。

 ◆自らの意思で日本へ
 北朝鮮で出版された評伝を邦訳した『力道山伝説』(平成8年、朝鮮青年社)には昭和13年、大相撲に誘われた力道山(金信洛)が、兄らの徴兵や徴用をちらつかせられて、その後、無理やり朝鮮から日本へ連れ去られたかのように書かれている。
これは明らかにおかしい。朝鮮での徴兵・徴用の実施は19年から。当時の朝鮮は日本の統治で豊かになって人口が急増。仕事を求めて日本へ渡る朝鮮人が相次いだために規制を設けたほどだ。妻の敬子も、力道山から自らの意思で“海峡を越えて”大相撲入りしたことを聞いている。
 もっとも、25年、関脇を最後に大相撲を辞めたのは、ひとつには出自が原因であった。敬子は「横綱になるために日本へ来たのに、純粋な日本人でないとなれないと聞いたようです。ならば、もうこんな所にいてもしようがない、となったんだと話していました」

 38年1月に婚約した敬子が力道山の涙を見たのは2度だけだ。敬子がプロポーズを承諾したとき。婚約が決まり、力道山から「オレが朝鮮で生まれたことを知っているか? それでもいいのか?」と初めて打ち明けられたときである。
 死の数年前…。日本と韓国・北朝鮮をめぐる国際情勢は急を告げようとしていた。アジアで初のオリンピック・東京五輪の開催を39年に控えている。
 「日本人のヒーロー」力道山も、その嵐の中に巻き込まれ、いや応なく出自や民族の問題と向き合うことになる。=本文敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)
                  

 『海峡を越えて「朝のくに」ものがたり』は、産経新聞出版から書籍化の予定です。ご期待ください。
                  

【用語解説】力道山(りきどうざん)
 大正13(1924)年(異説あり)、日本統治下の朝鮮咸鏡南道(現北朝鮮)出身。朝鮮名は、金信洛。昭和15年、大相撲の二所ノ関部屋へ入門。25年、関脇で廃業。プロレスラーとなり、29年2月、日本でのデビュー戦で、爆発的ブームを巻き起こし、一躍ヒーローに。38年6月、田中敬子さんと結婚。同12月、東京・赤坂のナイトクラブで刺され、15日に死去。

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海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(46)

海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(46)姜尚中 在日2世物語の終焉 もう国籍にこだわらない 2018.11.24

 姜尚中(カン・サンジュン)(68)にはいろんな「顔」がある。
 元東大教授、ベストセラー作家、美術番組司会者、テレビのコメンテーター…。そして、とりわけ強いイメージを残したのが、在日韓国人2世として生まれた苦悩を語る発言者としての「顔」であろう。
 戦後73年経(た)ったいま、在日コリアンは、3世が中核を担いつつあり、4世も数を増やしている。
 彼らの意識や、取り巻く社会環境も大きく変化した。総数は50万人を切り、在日中国人にトップの座を譲ってから久しい。日本への帰化者は毎年5千人前後を数え、日本人配偶者との間に生まれた子供たちの多くは日本国籍を選択する。結婚、進学、就職、スポーツにあった「壁」もどんどん取り払われてゆく…。

 姜は、こうした現状をどう見ているのか。
 「ぼやけてきていると思います」。そう表現した。外国籍を維持しながら日本社会で暮らす『在日』という存在や意味が曖昧になっていると言うのである。
 日本統治下の朝鮮半島から、成人として日本へ渡ってきて苦労を重ねた1世は、今やほとんど残っていない。日本生まれの2世も、そろそろ鬼籍に入り始めている。「3世、4世になると、韓国に戸籍の登録もしていないだろうし、日本人との結婚も当たり前になっている。彼らは、なぜ、自分が『在日』でいるのかすら分からない。親が韓国・朝鮮籍だから惰性で外国籍を維持している人が多いと思います」
 姜によれば、戦後「在日の物語」を紡いできたのは実は2世なのだという。1世と違い、文字を知り、高等教育を受けた者が多い。過去の記憶をたどり、国もない、よりどころもないアンビバレンツ(二律背反)な苦悩を、さまざまな表現方法で語ることができた。
 「2世もあと10年もすれば、かなりいなくなるでしょう。“遠心力”にかけられて、在日という存在はますます焦点がぼやけ、見えにくくなる。もちろん、過去の記憶にアイデンティティーを求め、強い民族意識を持ち続ける人もいるでしょうが、長い目で見れば、日本国籍を取るのが自然の流れでしょうね。ひとつの物語の終焉(しゅうえん)です」

■20年前から考えた帰化
 姜自身も、もはや「国籍にこだわるつもりはない」と話す。姜以外の家族はすでに日本国籍だ。
 「日本で生まれ、住み続け、日本で土に還(かえ)る。私は、日本以外へ出たいと思ったこともない。日本にいる以上、日本の流儀に従うべきでしょう。唯一、こだわりがあるとすれば、『姜尚中』という名前だけですね。それも、私の世代で終わる。後は、活字の中で『そんな名前の人がかつていたんだ』というくらいで残ればいいのです」

 姜が日本への帰化を考えたのは20年ほど前からだという。ちょうど、東大教授に就任したころだ。
 少年時代、なぜ、在日韓国人に生まれてきたのかと苦悩し、出自を隠して「永野鉄男」を名乗った。やがて、韓国の民主化運動に身を投じ、「姜尚中」として生きてゆくことを決意。初めての訪韓、埼玉県の「指紋押捺(おうなつ)拒否第一号」、そして、さまざまなメディアでスポットライトを浴びた華々しい活躍…。
 姜は、日本への帰化を「外来種から、本当の在来種への転換。その物語を完結させる儀式」と表現した。「あと10年…いや3、4年後には日本国籍を取ることになるでしょう。そして、日本人論を書いて終わりたいと思います」
 3世、4世にとって、もはや朝鮮半島は「父祖の土地」という以外の意味はない。日本人と同じような生活をし、民族意識は薄く、言葉もままならない…。毎年、減り続けているとはいえ、それでも、いまだ50万人近くが外国籍を維持している『在日』という存在は、アメリカや中国などのコリアン系住民にとっては奇異に映るらしい。

 「お前たち(在日)は、言葉もできないくせに、そんなに民族意識が強かったのか? 『シーラカンス』みたいじゃないか、ってね。ただ、彼らは『自分が誰なのか』を知っている。在日はそれがよく分からない。すがるものがないから『国籍』にしがみつく一面もあったのです」
姜は、日本社会がうまく“受け皿”をつくっていれば、同化はもっと早かっただろうと思う。「在日を負の遺産として日本政府は長い間、統制や公安上の対象としてみてきたからです。同化一辺倒ではなく『コリアン・ジャパニーズ』としての個性を重んずる社会を実現すべきでしょう」
 もうひとつ、日本への帰化が進まない理由として、姜が挙げたのが、手続きの煩雑さだ。「私の両親も帰化を考えていましたが、文字もろくに知らず、手続きが大変で、あきらめたのです。昔より簡素化されたとはいえ、まだまだ時間も(司法書士などへ支払う)費用もかかる。それで帰化に踏み切れない人も少なくないと思います」

■『在日』の歴史を鏡に
 ソフトバンクの創設者、孫正義(そん・まさよし)(61)は姜と同じ九州出身で、在日コリアンの出自を持つ(孫は3世で現在は日本へ帰化)。IT業界の大立者(おおだてもの)になった孫が「経団連会長」になるような日が来るのかもしれない、と姜は思う。
 「一代であれだけの企業をつくり、日本の経済発展に多大な貢献をしている人です。『在日』社会は今後、日本国籍を持った人がマジョリティーになってゆくでしょうが、国籍に関係なく、朝鮮半島に縁をもった人たち皆が、違和感なく『コリアン』だ、といえる時代になってほしい」
 折しも、外国人労働者へのさらなる門戸開放が議論となっている。
 「多くの外国人が日本にやってきて、大きな仕事をする時代が来るでしょう。そんなとき『在日』という存在を歴史的な材料として生かしてほしい。今後の『鏡』にしてほしいのです。東アジア諸国の“橋渡し役”としても『在日』をうまく使えばいい。彼らはきっとブリッジになれますよ」=本文敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)

                  

【プロフィル】姜尚中
 カン・サンジュン 政治学者、東大名誉教授、熊本県立劇場館長。昭和25(1950)年熊本県出身、在日韓国人2世。早稲田大大学院政治学研究科博士課程修了。ドイツ留学を経て、国際基督教大学准教授、東大社会情報研究所教授などを歴任。テレビ、新聞、雑誌など幅広いメディアで活躍。主な著書に『悩む力』『在日』『母-オモニ』など。新刊は『母の教え 10年後の「悩む力」』(集英社新書)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(48)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(48)「無法乱世」の大韓帝国時代
2018.12.8
 「先祖返り」した韓国最高裁判決

 韓国の大手紙の電子版に最近、韓国で「大韓帝国」時代(1897~1910年)を取り上げたテレビドラマや美術展などが相次いでいるという内容のコラムが掲載されていた。
 そのトレンドに共通するのは日本の朝鮮統治以前から朝鮮人による《自発的な近代化の努力があったという点》だという。つまり、“おせっかい”な日本にやってもらわなくとも、朝鮮人自身によって近代化はできたという主張だ。

 一方で、コラムは《同時にその試みが、なぜ限界にぶつかったかを冷静に分析することも重要だ》とし、大韓帝国建国の3年前に朝鮮を訪問したオーストリアの旅行作家、ヘッセが書いた『朝鮮、1894年夏』の記述を取り上げている。
要約すれば、(1)漢城(現韓国ソウル)の商人が扱っていたのは箱、帽子、たばこなどでしかない(2)腐敗官吏の存在は、朝鮮の没落とここに蔓延(まんえん)する悲惨さの最も大きな原因だ(3)かつて朝鮮の技術は先進的だったが、数百年間も同じ所にとどまっているうちに、日本人は多くの領域で産業を発展させた。外部から遮断された朝鮮は官吏の抑圧と搾取、無能力な政府のため産業はむしろ後退した-。
 李朝末期から大韓帝国にかけての政治腐敗のひどさや社会の停滞、それにともなう近代化の遅れについてはヘッセの他にも多くの外国人が書き残している。

 コラムの筆者は、《このような内容を読むほど、「朝鮮旧体制が日帝という外国勢力でなく内部の市民革命で転覆できていたなら」とため息が出る》としながら、「朝鮮についての民族主義の郷愁」や「今の大韓帝国に対する関心」に対してチクリとクギを刺しているのは興味深い。

■盗賊団が横行
 前回(47回)本欄に登場した「慰安婦問題のウソ」に抗議する韓国系アメリカ人の男性(88)の祖父は、地方の郡守(首長)を務めた名門の生まれだった。この祖父は、少年期を過ごした大韓帝国時代には苦い思い出しかない。
 当時、義兵と称しながら盗賊行為を働く一団が各地で跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)。裕福な家の子供を狙っては誘拐し、身代金をせしめる事件が相次いでいた。名門家の独り息子であった祖父は、「義兵盗賊」団から逃れるために毎夜、親類や小作人方に身を隠さねばならず、つらい思いをしたという。

 だから、1910(明治43)年の日韓併合で、大韓帝国が消滅したとき、祖父は、「これで『無法乱世』が終わる」と、随分ほっとしたらしい。そして、法治国家の重要性を改めて認識し、自分の息子を法律家にすべく、日本統治下で整備された高等教育機関に入れて学ばせている。
男性は、「祖父は、『無法』状態だった大韓帝国によほど懲り懲りしていたのでしょう。『国のカネはオレのカネ』という腐敗もひどかったから法律ほどありがたいものはない、と言っていたそうです。初期の日本統治は『武断政治』と呼ばれ、憲兵警察による強圧的な方法でしたが、朝鮮に『法と秩序』を取り戻したのは事実ですからね」
 祖父は、日本語を懸命に学び、息子が無事、法律家になったのを見届けて亡くなったが、日本統治への評価は最後まで変わることがなかった。そして、息子(韓国系アメリカ人男性の父)は、「たとえ『悪法』であったとしても『無法』には勝る」と語るのが口癖だったという。

■創氏改名歓迎した人も
 男性は、日本統治下で教育を受け、旧制中学在学中に終戦を迎えた。昭和15年に実施された「創氏改名」も経験している。
 「旧満州や中国、日本へ渡った朝鮮人は、もろ手を挙げて喜んだと思います。それまで中国風の名前だったために、“同じ日本人”だといっても低く見られていたからですよ。頑強にイヤだと抵抗感を持っていた人は全体の2割くらいだったと思いますね」
 男性は、日本に肩入れしているわけではない。日本統治時代の評価も、「良いものは良い。悪いものは悪い」だ。自身は、日本統治時代に朝鮮人であることで「差別」を受けたことはないが、周囲で差別を見聞きしたことはある。

 たとえば、官吏では、ある時期まで日本人だけに支給されていた「外地手当」や官舎の格差。戦時下で統制が進んだときは、食料配給や学童へのプレゼントにまで差があった。「日本軍の快進撃が続いていたとき、どこそこ陥落記念として子供たちに贈られる品物が、日本人の学校では(貴重な)運動靴だったけど、朝鮮人には、ゴム鞠(まり)だったことがありました」

■歴史を知らない韓国人
 韓国の最高裁で、日本企業に対し、元徴用工への賠償を命じるめちゃくちゃな判決が続いている。
 国際社会が認め、合法的に行われた日韓併合を不法と決めつけ、“強制連行”された徴用工への賠償は、昭和40年の日韓請求権協定などで「互いに放棄する」とうたったはずの請求権には含まれない、という国際法をまったく無視した身勝手な言い分。まさしく「無法乱世」の李朝末期や大韓帝国時代へ、“先祖返り”したかのようだ。

 男性は戦後の韓国・李承晩政権の「反日」や今アメリカで広がっている韓国・中国系住民らによる「反日」も経験している。
 「今の韓国人は、日本統治下で『搾取・略奪され、奴隷のように働かされた』と主張するが、アメリカの黒人奴隷や、ヨーロッパ人が南米やアフリカでやったこととは明らかに違う。朝鮮人は『奴隷』などではなかったからです。若い人たちは歴史を知らず、洗脳されてしまっている」
 だが日本は、韓国などに求められるまま理由なき謝罪や金銭供与を行い、「歴史戦」に負け続けた。
「これまで日本は、事なかれ主義の謝罪や金銭供与で問題をやり過ごそうとして、韓国側を増長させてしまった。今度こそ、断固たる対応を取らねば、韓国は、さらに冒険的になり、取り返しのつかない事態になるでしょうね」=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)
                   ※
 『海峡を越えて「朝のくに」ものがたり』は、産経新聞出版から書籍化の予定です。ご期待ください。

大韓帝国 
 日清戦争(1894~95年)で日本が勝利し、朝鮮の清からの独立が確認された。約500年続いた李朝の王、高宗は冊封(さくほう)体制から離脱したとして97年、皇帝に即位、新たに「大韓帝国」を国号とした。清からの独立を祝い独立門も建立している。1905年の第2次日韓協約に基づき韓国統監府が設けられて日本の保護国となり、10(明治43)年、日韓併合により消滅した。

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(47)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(47)慰安婦問題のウソに抗議 韓国系アメリカ人の孤軍奮闘 2018.12.1

 《私は1930年に朝鮮で生まれ、50年代の大学留学以降、アメリカに住んでいます…以前、あなたがグレンデールの公園にある『慰安婦』像を訪問するニュースを見ました》
 在米の韓国系アメリカ人の男性(88)が、米民主党の下院議員、アダム・シフ=カリフォルニア州=へ宛てて送った手紙は、こう始まっている。書いたのは、新たにサンフランシスコ市で、中国系団体による『慰安婦』像などの寄贈受け入れが議論になっていた昨年8月のことだ。

 シフは、元慰安婦への日本政府の謝罪などを求めた2007年の米下院決議の共同提案者の一人だ。報道によれば、前回の中間選挙を控えていた14年4月、シフは、選挙区であるカリフォルニア州グレンデール市に設置された『慰安婦』像を訪れて献花を行い、「何十万人もの女性が戦時中に性奴隷とされ…元慰安婦の女性が何十年も恥と怒りとともに生きてきた」などと口を極めて非難した。
 手紙の中で男性は、日本統治時代などの自身の体験を踏まえ、シフが口にしたような“虚構の物語”に疑問を呈していく。
《(日本統治下の朝鮮の)朝鮮語の新聞で、私は「軍隊のための性労働者」の求人広告を見たことを覚えています。もしも、日本軍が本当に自宅や路上で無理やり朝鮮の少女を連行したのならば、わざわざ、こんな新聞広告を出す必要があったでしょうか?》
 《1980年代に「吉田清治」という怪しげな背景を持つ男の本が韓国語にも翻訳されて出版されました。彼らは『戦争中に朝鮮女性が“性奴隷”として日本軍に強制連行された』と主張しましたが、それまで韓国で、そんな話はまったくなかった。果たして、日本軍が秘密裏に何十万もの朝鮮女性を連れ去ることなど可能でしょうか?》

 男性は、日本統治時代の朝鮮に生まれ、旧制中学在学中に終戦。戦後はソウル大学法学部を出て朝鮮戦争に従軍、米大学に留学して米国籍を取り、長年、アメリカの多国籍企業で国際金融関係の仕事に携わってきたビジネスマンだ。その2年前には、オバマ政権で駐日大使を務めたキャロライン・ケネディ宛てにも同様の手紙を送っている。
「本当は日本人がすべきことでしょう。だが、僕はウソを見過ごせない。戦時中、僕の街や親類でも、慰安婦にさせるため“軍に強制連行された若い女性”の姿なんて見た人は誰ひとりいないのだから」
 結局、どちらの手紙にも返事はなかった。サンフランシスコ市は昨年11月、像などの寄贈を受け入れ、シフは、先月行われた中間選挙で再選。民主党が下院で多数党になったため、下院情報委員長への起用が確実視されている。また、今回の選挙で、ニュージャージー州では、20年ぶりとなる韓国系下院議員(民主党)も誕生した。米政界の一部議員による理不尽な日本への非難は、今後も強まりこそすれ、緩むことは期待できないだろう。

■中・韓系ロビーが結託
 慰安婦問題や徴用工問題をめぐる“歴史戦”は、今やアメリカが主戦場になっている感がある。
 「反日」で結託する韓国系と中国系ロビーが政治家や地方自治体に圧力をかけて各地に『慰安婦』像や碑を建てさせ「性奴隷」「人身売買」などという言葉で煽(あお)り立てる。米公立高校で使われる一部の世界史教科書には「約20万人の女性を慰安所で働かせるために強制的に徴用した」などという虚偽の記述が堂々と掲載される。ニューヨーク・タイムズスクエアの電光掲示板には、徴用工問題をめぐって「軍艦島は地獄島」などという韓国映画の意見広告が流される…。

 ウソがウソを呼んでひとり歩きし、まるで人間の所業とは思えない“日本軍の悪行”が吹聴され、とどまることをしらない。なぜ、直接関係がないアメリカで、虚構の物語が、これほどまでに流布されるのか。
手紙を出した韓国系アメリカ人の男性はいう。「韓国側の行動は、組織的で非常に統制が取れている。政府や現地の在外公館が後ろでコントロールしているのは間違いないでしょう。彼らは、居留民や宗教の団体を通じて住民に浸透していく。元慰安婦のおばあさんを連れてきて、ワーワー泣かせる。組織だった献金をさせて政治家を動かす…。『反日』で一致する中国系とも連携しています」
 もともとは、こうした問題にさほど関心がなさそうな若い3世、4世らも取り込んでいく。「洗脳ですよ。鉦(かね)や太鼓をたたいて『あなた方の父祖は、日本にとてもひどい目に遭わされたんですよ』とあらゆる場所、機会を通じて『反日』を吹き込み続けるんです」
■「負け続け」の日本
 対して、日本側の動きは鈍く、負け続けているという。男性は、「何事にも事なかれ主義で、まとまった対応ができていないし、積極的な反論メッセージを発信できていない。その結果、多くのアメリカ人は『日本は知らん顔で、ほおかむりしている』と感じている」と手厳しい。
 サンフランシスコ市の問題をめぐっては、日本の政府関係者から、この男性に市議会の公聴会で反対意見の証言をしてほしい、という打診があったという。ところが、内情を聞いてみると「反対」はこの男性1人だけ。「日本の“根回し不足”を感じました。しかも、証言できる時間は2、3分しかないという。これでは最初から“負け”に行くようなものですよ」
男性は、身の安全も考えて出席はせず、反対意見を書面で提出するにとどめた。圧倒的多数の韓国系住民が「賛成」するなかで、実名で「反対」を表明することは家族や親類にまで累が及ぶ可能性がある。
 男性は、アメリカでの一連の「反日」行動を放置すれば、ますます世界へ広がってゆくだろう、という。それが、東アジアにおける米・日・韓の連携を弱体化させることになり、中国や北朝鮮の“思うツボ”になることを憂慮する。
 「『軍隊と性』の問題は世界中にあるが、軍隊が慰安婦にするために強制連行したのは日本しかない…アメリカでは、そこが問題視されている。その点を残したまま何度、謝罪してもダメ。むしろ“事実”だと認めたことになることを分かっていない。日本政府がそれに近いことを公式的に認めてしまった『河野談話』(平成5年)を勇断をもって否定するしかありません」=敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて「朝のくに」ものがたり】(45)

【海峡を越えて「朝のくに」ものがたり】
(45)朝鮮人強制連行載せた「広辞苑」 「発行者」は朝大認可の仕掛人11月17日

■朴慶植も吉田証言引用
 朝鮮人強制連行という言葉を拡散させた『朝鮮人強制連行の記録』(昭和40年)の著者、朴慶植(パク・キョンシク)(1922〜98年)は、「作り話」と知ってか知らずか、講演などで吉田清治の話をたびたび引用している。
 《暴力的な連行の例をあげます…吉田清治という人が…『朝鮮人慰安婦と日本人』という本を出した。(略)朝鮮人慰安婦というのは、日本の陸軍が戦線の兵隊に遊ばせる為(ため)にだまして連行した女性を言ったんですけれども、兵隊が女性を連れてゆくのは例がないと言(い)われています。中国の各地でそれからビルマまで朝鮮の女性を何万と連行しています。(略)日本人には吉田清治のような、強制連行をやった人が相当数いるはずです》(朴著『在日朝鮮人・強制連行・民族問題 古稀(こき)を記念して』収録の平成2年の講演から)
 「朝鮮人強制連行」という言葉を使って非難する人たちの主張には「タコ部屋」「奴隷労働」「小便汁」というおぞましい表現が並ぶ。まるで日本人が悪事の限りをし尽くしたかのような印象だ。何でもかんでも「強制連行」と言いくるめるケースも目立つ。
 朴慶植の追悼号として出された「在日朝鮮人史研究」10年10月号に掲載された『戦時下の日本人が報じた朝鮮人強制連行の視察記』を見てみたい。昭和19(1944)年に京城帝大教授が書いた「近畿の工場に敢闘する半島産業戦士達(たち)を訪ねて」という文をそこに引用しているのだが、原文の内容は『強制連行』のタイトルとは程遠い。
 原文の要旨は(1)労務動員計画(昭和14年〜)によって集団で朝鮮から渡ってきた若者は総じて熱心で評判がいい(2)月給は最高180円、送金は同800円と好成績(3)移動率が高いのはブローカーらに欺かれて自由労務市場に誘惑される者が多いため(4)半面、自由契約の労務者は食うに困って渡ってきた、いわゆる失業移民で評判もよくない−。
 「労務者にとって半強制的徴発の如(ごと)く感ぜられる場合が無(な)いでもない」というくだりがあるが、これは、国家の非常時(戦時)に国民の責務として動員に加わるという、この計画の理念が十分に理解されていないという文脈の中で語られているもので、前述した「タコ部屋」「奴隷労働」といったような過酷な状況はどこにも書かれていない。
 むしろ、純朴で、故郷の家族に多額の送金を行い、職場からも重宝されている若者たちの姿は、日本の高度経済成長期の「集団就職者」に似ている。

■政治問題化に便乗
 “日本叩(たた)き”のツールとして利用された「朝鮮人強制連行」や「従軍慰安婦」などの言葉は、政治・外交問題化が顕著になった1980年代から90年代にかけて教科書や辞典にも順次、掲載されてゆく。
 日本を代表する辞典『広辞苑(こうじえん)』(岩波書店)に「朝鮮人強制連行」の項目が登場したのは、平成3(1991)年発行の第4版から。《日中戦争・太平洋戦争期に百万人を超える朝鮮人を内地・樺太(サハリン)・沖縄などに強制的に連行し、労務者や軍夫として強制就労させたこと。女性の一部は日本軍の従軍慰安婦とされた》とある。
 この内容は、朴らの主張に近い。「従軍慰安婦」と関連づけているのは、朝日新聞報道などによって政治・外交問題化したことに“乗った”のだろう。
 同社辞典編集部では、4版から掲載した理由について、「当時の日本近現代史や朝鮮史の校閲者による選定と推測するが、詳しい資料は残っていない」などとコメントしているが、4版の発行者として、「植民地支配の清算」を求め、日本政府の姿勢を厳しく非難してきた、安江良介(やすえ・りょうすけ)(1935〜98年)の名前があるのは偶然だろうか。
 同社の総合雑誌『世界』の編集長を16年にわたって務めた安江は、北朝鮮の金日成(キム・イルソン)(首相、国家主席)や韓国の金大中(キム・デジュン)(後に大統領)らと近く、進歩的文化人とよばれた「左派人士」を代表するジャーナリスト・編集者。この前年(平成2年)には、岩波書店社長に就任している。

■まるで北の代弁者
 安江の主張や行動は、相当「北」に偏っていたと言わざるを得ない。
 昭和42年、美濃部亮吉(りょうきち)(1904〜84年、東京都知事通算3期)による初の革新都政が誕生した際、安江は、ブレーンとして知事特別秘書に就任。美濃部が就任早々に手がけた「朝鮮大学校(東京都小平市)の各種学校認可問題」も、安江の“耳打ち”がきっかけだったことを美濃部自身が書き残している。
 《朝鮮大学校を各種学校として認可するかどうかの問題が、(前任の)東(龍太郎)知事の時からタナざらしになったままであることを、特別秘書の安江良介君から知らされた。安江君は、岩波書店にいた時(とき)から朝鮮問題に詳しい。話を聞いて、初耳だった私も、その重要性を知った…》(美濃部著『都知事12年』から)
 美濃部は、政府・自民党の反対を押し切って翌昭和43年、朝大の認可に踏み切る。朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)幹部や朝鮮学校教員などを養成する朝大は、これによって固定資産税の免除などの恩恵にあずかることができた。
 46年に、都知事として初めて訪朝した美濃部は、金日成(当時・北朝鮮首相)と2度も面会。資本主義に対する「社会主義の勝利」をブチ上げるとともに、朝大認可に対して、金日成から、ねぎらいの言葉を掛けられている。安江自身も度々訪朝。60年、4度目に訪れたときは、金日成(当時・国家主席)との「解放四十年を迎えて」と題した会見記録を『世界』(同年8月号)に掲載。安江による「まえがき」にこうあった。《…日本政府は、四十年経ながらなお植民地支配の清算をせず、そのことを具体的課題として掲げていない。それのみか、韓国の軍事政権との一体化を進め、北朝鮮に対する敵対的関係を強めているのが現状である》。まるで、北朝鮮の代弁者かのようではないか。
 『広辞苑』は今年1月、10年ぶりの改訂となる、第7版が発行された。
 「朝鮮人強制連行」の記述はわずかに、人数が「労務者だけで約七〇万人」に、慰安婦から従軍の2文字を外した程度で、ほぼ変わっていない。一方で「従軍慰安婦」の項目は7版でも残されたままだ。
 韓国・北朝鮮などに政治利用されかねない記述は、そろそろ削除されたらどうか。=敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(44)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(44)「朝鮮人強制連行」一体誰が…日本たたきのツールにされた言葉 2018/11/17

 「朝鮮人強制連行」という言葉が戦前・戦中はもちろん、戦後しばらくも存在しなかったことは以前、書いた(連載42)。虚偽にもかかわらず、“日本の悪行のシンボル”のごとく使われるようになってしまった言葉は、いったい誰が言い始めたのだろうか。
 特定するのは難しいが、評論家・詩人の藤島宇内(うだい)(1924~97年)が岩波書店発行の雑誌『世界』昭和35(1960)年9月号に書いた論文の中で使用されたのが最初ではないか、という見方が多い。
 首都大学東京名誉教授の鄭大均(てい・たいきん)(70)は、著書『在日・強制連行の神話』で、1960年代以前にこの言葉がほとんど使われた例がないことを指摘した上で、「おそらくは(先行して1950年代半ばから使用されていた)『中国人強制連行』から得た発想なのだろう」と言う。
 この藤島の『世界』論文は「朝鮮人と日本人-極東の緊張と日・米帝国主義」のタイトルがつけられている。文字通り、内容は親北朝鮮、親中国のスタンスに立ち、対峙(たいじ)する日米を、「帝国主義」、韓国を「強圧的な悪政」と指弾したいのが趣旨であろう。
 その中で藤島は、4カ月前の『世界』昭和35年5月号に掲載された「戦時下における中国人強制連行の記録」に触発されたとし、《…「強制連行」は中国人に対してだけ行なったのではなく、朝鮮人に対してもより大規模に長期にわたって行われた犯罪である…しかもこれに対しては一かけらの反省もあらわれない》と日本の姿勢を痛罵する。
 そして、「朝鮮人強制連行の記録」とした第2章で、《一九三九年からは朝鮮人に対して強制的な「労務供出」政策が実施された(略)一九四〇年代の五年間に強制連行されてきた朝鮮人は一〇〇万人ちかいといわれ…》と主張。朝鮮人男性の寝込みを襲い、トラックに乗せて炭鉱に送り込んだ、とか街を歩いていた青年が突然、警官に捕まり、炭鉱へ送り込まれた-という信じがたいエピソードを挟み込んでいる。
 ただ、論文の趣旨からすれば、朝鮮人強制連行のくだりは、「現在」を語るのに「過去」の事例を持ち出し、無理に“ねじ込んだ感じ”が否めない。
 「寝込みを襲い…トラックに乗せて」のエピソードについても、原文にある、やったのは「朝鮮の官吏」という部分が削除されたことが分かっている。つまり、朝鮮人強制連行を“善玉(北朝鮮・中国)”を際立たせ、日本を糾弾する「印象操作のツール」として使ったのではないか。

■狙いは日韓条約阻止
 『世界』の「中国人強制連行の記録」を読んで朝鮮人強制連行に関心を持った人物がもう1人いる。後に、この言葉を大きく拡散させることになる『朝鮮人強制連行の記録』(昭和40年)の著者、朴慶植(パク・キョンシク)(1922~98年)だ。
 朴は、日本統治下の朝鮮慶尚北道に生まれ、6歳のとき一家で大分県に来た。もちろん“強制連行”などではない。ほとんどの朝鮮人がそうであったように、貧しい農民だった父親が新たな仕事を求めて自ら日本へ渡ってきたのである。
 戦後、東洋大学を出た朴は、東京朝鮮中高級学校(日本の中・高校)の社会科教員を経て、昭和35年、朝鮮大学校歴史地理学部の教員となった。
 そのころ、『世界』の論文を読み、朝鮮人強制連行問題に踏み込んでゆくのだが、『在日朝鮮人・強制連行・民族問題 古稀(こき)を記念して』(平成4年)に、その「きっかけ」が書かれている。
 《大学教員の立場から何をもって(在日朝鮮人の)運動に寄与しようかと考えました(略)『世界』五月号に「戦時下における中国人強制連行の記録」という調査報告がのったことに私は刺激を受けました…朝鮮人の強制連行については朝鮮人自身がやらなくてはと考えました》と前置きした上で、《「日韓(基本)条約」調印の少し前の(昭和40年)五月、それに反対する立場から『朝鮮人強制連行の記録』という単行本を出しました》(同書から)と綴(つづ)っている。
 日韓条約を阻止するためには、こんな“非道なこと(朝鮮人強制連行)”をやった日本。そして過去の反省・謝罪もないまま、そんな国と国交正常化をしようとしている韓国を糾弾することが必要だったのだ。

■慰安婦問題で致命的
 朴や藤島は、国家総動員法(昭和13年)に基づいて14年から20年まで実施された朝鮮人の内地(日本)南樺太などへの組織的な動員計画(年代によって「募集」「官斡旋(あっせん)」「徴用」)をすべて“強制連行”だと主張しているが、これは明らかにおかしい。強制力を伴う徴用令が朝鮮に適用されたのは19年9月以降で、内地への移送は半年あまりにすぎない。その徴用ですら応じなかった朝鮮人も少なくない。また、動員計画に従って、ちゃっかり“タダ”で日本へ来た揚げ句、より賃金の高い職場に移っていったケースは多々あった。
 繰り返しになるが、ほとんどは自らの意志で日本へ渡ったのである。それすらも朴らは、日本が朝鮮を侵略して植民地にし、政治・経済を支配し、土地を奪ったために日本へ来ざるを得なかったのだ-と主張するが、これも違う。日本統治下で豊かになったために朝鮮の人口が急増したのが本当の理由である。
 終戦後、戦時の動員計画で来た朝鮮人は優先的に帰国船に乗ることができた。200万人以上の朝鮮人のうち、自主的に日本へ残ったのは約60万人。朴もその一人である。そこへ朝鮮の戦後の混乱・貧困に耐えかねて再び、日本へ舞い戻ったり、新たに来た朝鮮人がない交ぜになって構成されたのが、戦後の「在日韓国・朝鮮人」社会だ。だから“強制連行された朝鮮人の子孫”などではない。
 ところが、朴らの「朝鮮人強制連行」に、日本を糾弾したがっていた日本人が飛びつき、煽(あお)った。1980年代以降、歴史教科書、慰安婦、徴用工…。日本人が火をつけ、韓国政府・メディアが反応・硬化するパターンで、次々と政治・外交問題化、日本は“理由なき謝罪・資金拠出”に追い込まれてゆく。先の韓国最高裁の理解不能な判断もその結果だろう。
 とりわけ慰安婦問題では致命的な影響を与えてしまう。世界中の軍隊に性の問題は存在しても、軍が関与し強制連行した慰安婦は「日本以外にはない悪行だ」というわけだ。ウソがウソを呼び、この言葉は日本をあしざまに罵るツールとして大衆化。やがて、教科書や日本を代表する辞書にも掲載されるようになる。=敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(43)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(43)今なお続く日本の資金拠出 「戦後補償」にすり替わった人道支援 2018.11.3

 先の大戦中、地上戦で民間人が犠牲になったのは沖縄だけではない。日露戦争以降、日本が領有していた南樺太(からふと)でも4千人以上の民間人が亡くなっている。しかも、北海道の北半分を、奪い取る目的で、昭和20年8月15日以降も侵攻をやめなかったソ連軍(当時)によって丸腰の女・子供・お年寄りらが殺され、略奪・レイプといった非道極まる行為の犠牲になった。

 日本統治下の朝鮮と同様、南樺太にインフラ(鉄道、道路、学校など)を整備し、製紙や炭鉱、水産といった産業を活性化させたのは日本である。
 北海道の北にある魚の尻尾のようなこの細長い島に当時、40万人以上の日本人が住んでいた。ソ連軍が来るまでに北海道へ逃れられたのは約11万人。残された約29万人の日本人の大部分も、翌21年の「米ソ引き揚げ協定」によって順次、帰国がかなったが、朝鮮人は留め置かれた。これが、「サハリン残留韓国人問題」と後に呼ばれるのだが、ソ連軍政下で行われたことであり、占領下にあった日本政府が決定に関与していないのは前回、書いた通りである。

■主張は「虚偽」ばかり
 この問題をめぐって、昭和50(1975)年に始まったサハリン裁判で、弁護団などが主張した、日本による強制連行▽日本が朝鮮人だけを置き去りにした▽残された朝鮮人は4万3千人-は、いずれも事実とはかけ離れている。
 日本統治下の朝鮮から南樺太へ渡った朝鮮人労務者の大部分は高賃金に惹(ひ)かれ、自らの意思で行った(その中で後に現地で徴用に切り替えられた者はいる)。
 14年からの労務動員(年代別に「募集」「官斡旋(あっせん)」「徴用」)を“強制連行”と主張する人たちには、その期間(18年)に渡樺し、戦後、サハリン残留韓国人問題に力を尽くした朴魯学(パク・ノハク)(63年、75歳で死去)の例を紹介したい。朝鮮で理髪師として1日2円程度の収入だった朴は同7円という樺太人造石油の好条件に魅力を感じた。「いずれ徴用される」という思いがあったにせよ、朴は給料から朝鮮の家族が家を建てられるほどの大金を送っている。
もとより、戦時下という非常事態において徴用されたのは、日本人も同様だ。
 「4万3千人」の人数は戦後、ソ連が朝鮮北部(後に北朝鮮)などから労働力として移した朝鮮人(約2万人)なども誤ってカウントしてしまったことに起因している。実際に残留した朝鮮人は多くても1万人前後だろう。
 「日本が朝鮮人だけを置き去りにした」というのもウソだ。ソ連軍政下で、日本人・朝鮮人は「無国籍者」とされたが、パスポルト(身分証)の民族欄には日・鮮の区分が明記され、これが明暗を分けた。ソ連が朝鮮人を帰さなかったのは多くが南部(後に韓国)出身者で、友好関係にある後の北朝鮮への配慮や、日本人引き揚げ後の労働力不足を懸念したからである。実際、北への帰還を希望した朝鮮人は、出国を認められているのだから。

■残留者に押し切られ…
 残留者問題は、朴と堀江和子夫妻らの粘り強い帰還運動などによって63年以降、韓国への永住帰国が実現する。“美談”で終わる話が、そこから奇っ怪な展開を見せてゆく。内外から圧力を受けた日本政府は「法的責任はないが、人道的な立場から支援を行う」として、巨額支援を余儀なくされてしまう。
 平成元年、日韓の赤十字を実施主体にする「在サハリン韓国人支援共同事業」(別項)がスタート。2年には、当時の中山太郎外相が国会答弁で韓国に謝罪。社会党の村山富市を首班とする内閣になって、韓国で永住帰国者が住むアパート群建設など、約40億円の巨額支援が一気に決定(7年)された。
10年ほど前に日本の支援でできた、そのアパート群(「故郷の村」)を訪ねたことがある。住んでいるのは「故郷に帰りたかった元労務者のお年寄り」ではなく、多くが若い2世たちであった。これは、朝鮮人の残留者団体が、終戦までに南樺太にいた者すべてを1世とし「補償すること」を強く求め、事業の枠組みに入れてしまったからである。つまり、当時0歳の赤ん坊でも支援対象なのだ。ロシア語しか話せない彼らにとって韓国は「父祖の地」という以外の意味はない。
 一旦、永住帰国してもサハリンに残した家族と再会するための旅費まで、日本が面倒を見てくれるため「暑い夏はサハリンへ帰る」と嘯(うそぶ)く居住者もいた。彼らは「日本が補償するのは当然ではないか」と一様に口をそろえる。韓国政府はことある度に、日本に追加支援を迫り、人道支援は「戦後補償」問題へと、すり替えられていった。

■菅談話で亡霊が復活
 帰れなかった朝鮮人の苦痛は察して余りある。戦争に起因した問題であり、日本の責任は「ゼロ」だと言うつもりもない。だが、虚偽を並べ立て、すべての責任を日本に押しつけ、政治・外交問題化させた日本人や、安易に謝罪し、「カネさえ出せば…」と譲歩してしまった日本の政治家や官僚らの行為は許し難い。
 それが、慰安婦、徴用工問題などでも韓国を勢いづかせ、「強い態度に出れば日本は折れる」と、今なお続く理不尽な“日本叩(たた)き・カネの要求”につながってしまったからだ。
 残留者問題での不可解な共同事業への日本の資金拠出は、戦後73年がたった今も続いている。民主党政権時代の事業仕分け(21年)で一旦は「見直し」が決まったが、翌22年、日韓併合100年に合わせて出された菅直人首相(当時)の談話の中に事業継続がうたわれ、「亡霊」が甦(よみがえ)った。その内閣の主要閣僚に、巨額支援を決定した村山内閣と同じ革新政党の出身者がいたのは偶然ではないだろう。
「この程度の予算で済む(韓国政府が文句を言わない)のなら…」と本音を漏らした外務官僚の言葉が忘れられない。これまでの日本の拠出額は80億円を超えた。人道的支援ならば、日本はもう十分にやったであろう。譲歩すればするほど相手がかさにかかってくるのは「慰安婦問題」や徴用工をめぐる今回の韓国最高裁の判決で思い知らされたではないか。=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)
               ◇
 ■在サハリン韓国人支援共同事業
 平成元~30年度の日本の拠出額は約84億円。サハリンから韓国への永住帰国支援(約3800人、アパート・療養院建設)▽一時帰国支援(延べ約1万7000人)▽永住帰国者のサハリン再訪支援(同約6900人)▽サハリン残留者支援(文化センターの建設など)。ほかに療養院のヘルパー代やサハリン残留者の医療相談、老朽化した施設の改修費などを負担。31年度予算の概算要求にも1億円あまりが盛り込まれている。

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【海峡を越えて「朝のくに」ものがたり】(42)

(42)慰安婦問題の原点「サハリン裁判」 “朝鮮人狩り”証言した吉田清治 2018.10.27

 軍の命令で朝鮮人女性を慰安婦とするために暴力で狩り出した-などという吉田清治の虚偽の話が、それをうのみにした朝日新聞の記事によってバラまかれ、今や世界中に慰安婦像が立ち並ぶ事態になってしまった経緯は、いまさら繰り返す必要もないだろう。
 吉田はもちろん、尻馬に乗って、さんざん日本の行為を非難した革新政党の政治家や、進歩的文化人とよばれた学者や、ジャーナリスト、弁護士たちの責任はあまりにも重い。この結果、「従軍慰安婦」「朝鮮人強制連行」など、戦時には存在しなかった言葉が、日本の悪行のシンボルのごとく使われるようになり、ウソがウソを呼んだ。

 その吉田がスポットライトを浴びることとなったのが昭和50(1975)年12月、東京地裁に起こされた「樺太(からふと)残留者帰還請求訴訟」(サハリン裁判)である。57年、法廷で朝鮮人の「強制連行」や「慰安婦狩り」を証言した吉田はメディアに大きく取り上げられ、翌年には同様の話を綴(つづ)った著書を出版。韓国で「謝罪碑」なるものを建てサハリン残留韓国人の遺家族の前で土下座パフォーマンスを行う。虚偽の話はどんどん拡散していった。
 日本叩(たた)きに狂騒する日本人たちにとって吉田の証言は貴重だったろう。何しろ“加害者側(日本人)”による具体的、詳細な告白だったのだから。社会の注目を集めたサハリン裁判に味を占めた彼らはそれ以降、「戦後補償」「戦後責任」という言葉を声高に掲げて日本政府を非難し、慰安婦問題をはじめとする補償請求訴訟などを次々に起こしてゆくことになる。

 ■「日本糾弾」が主目的
 そもそも、サハリン裁判は奇妙な性格をもっていた。残留韓国人問題(別項)の本来の目的は、ソ連(当時)が出国を認めないサハリンの朝鮮出身残留者を「故郷(主に韓国)の家族のもとへ帰したい」ということである。事実、残留者のひとりで、妻が日本人であったために一足先に日本へ帰国できた朴魯学(パク・ノハク)(昭和63年、75歳で死去)らは、韓・ソの国交がない時代に、外務省やソ連大使館などを回り、署名を集め、何とか堅い門をこじあけようとしていた。

 ところが、元日弁連会長を団長とする大弁護団は、サハリンに残っている朝鮮出身者4人を原告に仕立てた上、彼らは、日本政府の強制連行政策によって当地に送られ、戦後、置き去りにされた(つまり、すべては日本がやったこと)。当事者の責任として、日本政府は原状回復(日本への帰国)させる義務がある-と主張したのである。
原告サイドの中にも“無理筋”ではないか、と門前払いを危惧する声があったが、そうはさせじ、と、前述した事実ではないプロパガンダをメディアに訴えては世論を煽(あお)った。
 吉田自身もサハリンとは何の関係もない。すでに著作を出し、講演活動も行っていた吉田を法廷に連れ出した弁護団の思惑は朝鮮人「強制連行」の“非道ぶり”を印象づけることにあったのだろう。思惑通り、裁判開始から7年後の57年9、11月の2度の「吉田証言」は、裁判の流れに強いインパクトを与える。

 朴とともに帰還運動に取り組んだ新井佐和子(88)は著書『サハリンの韓国人はなぜ帰れなかったのか』にこう書く。《「強制連行」の事実は決定的なものとなって、裁判を継続するにあたっては有利に働いた。さらには日本人の意識のなかに日本の植民地支配の残酷さをすりこみ、加害者意識をかきたたせる結果となり…》。弁護団らは、朴らの運動に寄り添う姿勢を見せながらも、日本政府を糾弾し、謝罪を求め、やがては補償をさせる-ということに主たる目的があったとしか思えない。
 注目された裁判には、多くの支援が寄せられ、ボランティアや寄付金も集まってきた。裁判を支援するグループに加わった新井もその一人である。支援グループの主宰者の女性は学生運動の活動家らと密接な関係にあった。会の会計を担当した新井は、支援者から寄せられるカンパの振込先の通帳が著名な元活動家の名義になっていることを見て仰天する。「一般からのカンパを(主宰者の)独断で怪しげなところへ流用していた。公私混同というより『公』はゼロでした」

 裁判開始の時点で戦後30年、時間も経(た)ちすぎていた。新井によれば、裁判の証人として韓国から呼ばれた残留者の妻たちは法廷で「夫を返せ」と泣き叫び、コップを投げつける愁嘆場(しゅうたんば)を演じてみせたが、終わるとケロッとしていた。「箱根観光へも連れていきましたが、彼女たちは“タダで”日本に来られたことがうれしくて仕方がない様子でしたね」という。
 裁判に疑問を感じた新井は、やがて袂(たもと)を分かつ。

■「味を占めた」人々
 日本政府も国会議員も当初は、この問題に関心を持っていなかった。裁判で被告側(国)が主張した通り、終戦後のサハリンからの引き揚げは、連合国軍側(米ソ)によって決まったことで、(占領下にあった)日本政府は関与していない、法的責任はない-という立場である。関係国であるソ連と韓国の間には、まだ国交がない時代だ。社会党(当時)や公明党、共産党など野党側も、韓国より、北朝鮮と関係が深く、及び腰だった。

 こうした中で58年、公明党の衆・参院議員を務めた草川昭三(90)はサハリンへ乗り込んで、ソ連共産党の地元幹部と直談判。「帰りたい国民(朝鮮出身者)などいない」と怒鳴り付けられながらも、日本を舞台にした家族再会への道筋をつける。「人道問題じゃないですか。当時の党幹部からは『勝手なことをするな』と怒られましたが、安倍(晋太郎)外相や韓国の盧泰愚(ノ・テウ)大統領(いずれも当時)からは随分、感謝されましたよ」
 ところが、残留者の永住帰国のメドが立つようになってから、「オレがやったんだ」とばかりに多くの国会議員が割り込んできた。「味を占めた」人たちは“根拠なき巨額支援”に乗り出し、自・社・さ政権の村山富市内閣(平成6~8年)時代にそれはピークを迎える。 =敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)
                   

【用語解説】サハリン残留韓国人問題 
日本統治時代の朝鮮半島から南樺太(現在はロシアが「サハリン」として実効支配)へ、企業の募集や徴用によって渡った朝鮮半島出身者が終戦後もソ連(当時)によって当地に留め置かれた。当時占領下にあった日本政府は決定に関与していないが、一部勢力が「日本が強制連行しておきながら4万3000人(実際は多くて1万人)の朝鮮人を置き去りにした」などと事実でないことを喧伝(けんでん)し、政治問題化した。元残留者の朴魯学・堀江和子夫妻らによる粘り強い帰還運動などによって昭和63年には韓国への永住帰国が実現した。

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(41)

(41)「独裁の道具」にはさせない 死をも覚悟した訪朝 2018.10.20

 北朝鮮の金日成(キム・イルソン)・正日(ジョンイル)父子に側近として仕え、朝鮮労働党国際担当書記だった黄長燁(ファン・ジャンヨプ)の韓国への亡命(平成9年2月)は、世界中に衝撃を与えた。

 主体(チュチェ)思想を黄とともに研究してきた「同志」で、朝鮮大学校副学長(肩書は当時)の朴庸坤(パク・ヨンゴン)(90)にも、北朝鮮・朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)の追及の手が伸びるのは、避けがたい状況になった。

 朴著『ある在日朝鮮社会科学者の散策』に拠(よ)る。《黄長燁系列の余毒の清算は日本の朝鮮総連にも及んだ…ターゲットはこの私だと誰の目にもわかっていた。私には当時、朝鮮総連の社会科学者としての学位と学識の肩書(共和国科学院院士、在日朝鮮社会科学者協会会長など)がすべて冠せられていた》

 微妙な空気が続き、13年、ついに総連を通じて、朴に訪朝の招請状が届く。妻は猛反対した。「(訪朝すれば)二度と帰れない。殺されるかもしれない」。朴も“片道切符”を覚悟したが、「命を惜しんでいかないのは卑怯(ひきょう)だ」と覚悟し、黄から「決起」の計画を聞かされたとき以来、6年ぶりの訪朝を決意する。

 平壌では、そのまま北朝鮮に居残って主体思想の研究を行うことを勧められたが、日本のNIRA(政府系の総合研究開発機構)客員研究員として書いている論文がまだ執筆中であることを理由に断った。

 逆に、朴には何としてでも聞かねばならないことがあった。「最近、主体思想が強調されていないのではありませんか」と党中央の幹部に質(ただ)すと「今は『先軍政治(金正日が掲げた軍事中心の方針)』の時代だ」と返された。

■「人間のくず」の悪罵
 緊迫したやりとりの中で、朴は何とか“イエローカード”で踏みとどまる。帰国後、今度は総連議長の徐萬述(ソ・マンスル)(平成24年、84歳で死去)らから呼び出される。徐は、NIRAの論文を気にして、出版前に組織の承認を受けるよう迫ったが、朴はもはや、学者としての良心に逆らうつもりはなかった。生涯をかけて研究してきた主体思想が“独裁政治の道具”として歪(ゆが)められ、蔑(ないがし)ろにされている。朴には「先軍思想が主体思想の神髄になることなどありえないこと」だった。

16年3月に製本されたNIRAの論文には、《金正日政権の非理を論難するくだりがあった…反北朝鮮文書の意図的流布と解せられた。執行猶予は取り消された》(「同書」から)。朴は、23年間続けた朝大の副学長、総連中央委員などを解任された。

 さらに19年、テレビ番組に出演して、それまで極秘だった「朝大生200人の帰国(昭和47年)」の事実を公表したことにより、すべての勲章や称号の返還を求められたことは以前(連載38)に書いた通りである。北朝鮮の朝鮮中央通信は朴のことを「人間のくず」だと罵(ののし)った。

■消えた「主体思想」
 北朝鮮の国家と党の公式イデオロギーであったはずの「主体思想」という言葉は近年、あまり使われなくなった。一昨年、36年ぶりに開かれた朝鮮労働党の党大会でも、その言葉はどこにも見当たらない。

 朴自身は、『博愛の世界観』を使うことにした。「(主体思想は)人間があらゆるものの主人であり、あらゆるものを決定する。誰も解明できなかった問題を主体哲学は解明しました。未来の理想社会は、自由と幸福とが保障される人道主義社会であるべきです。世界を発展させる最も強い力は『愛』による統一ですから、『博愛の世界観』と呼ぶことにした。もう私は『主体思想』という言葉は使いません」

■朝大は国際化すべきだ
 平成12年には、韓国の左派政権下で朝鮮籍者の訪韓要件が緩和されたことで、昭和23年に“海峡を越えて”日本に密航して以来、52年ぶりに韓国全羅南道の故郷を訪ねた。5年後に再び訪韓したときには、韓国へ亡命した黄と、涙の再会を果たしている。

 総連組織を離れた今も、個人的つながりまでなくなったわけではない。長く教員として在籍した朝大の教え子は数千人、現在の総連幹部の中にも多い
朴が教員として赴任した朝大の草創期、校舎などは教職員と学生自らの手で建てられた。朴が慣れない講義に四苦八苦しているときも、若い学生たちは熱心に耳を傾けてくれた。1960年代の「金炳植(キム・ビョンシク)事件」の後、荒廃した朝大の再建を任されたときは、学校に泊まり込み、寝る間も惜しんで一人一人に改革を訴えた。再び朝大が正常化するまで3年の月日が必要だったという。朝大への思いはいまなお強い。

 在日コリアンは日本社会への同化が進み、若い世代の意識も急速に変わりつつある。こうした動きに耳を貸さず、依然、北朝鮮の独裁体制への“盲従”をやめようとしない総連組織は細り、求心力は低下、朝大の在校生も、全盛時から大きく減り、存続の危機に立たされている。

 朴の目に「朝大の現状」はどう映っているのか。
 「(朝鮮学校で行う)民族教育は必要だと思う。ただし、(北朝鮮の独裁体制を賛美するような)思想教育と一緒にするのはおかしい。僕は民族を愛し、世界を愛している。そういう思想教育に変えていかねばなりません。朝大はもっとオープンにすべきですよ。開放し、広く人材を受け入れる。そして、国際社会に通用する人材を育成してゆくために、もっと国際化すべきでしょうね」

 昨年出版した『ある在日朝鮮社会科学者の散策』は、激動の半生を赤裸々に振り返り、北朝鮮の独裁体制や総連組織への厳しい批判も綴(つづ)られている。朴は「信念を曲げずに書くことができた」という。

 まさに老学者による「頂門(ちょうもん)の一針(いっしん)」というべき本だったが、総連関係者からの反応はなかった。

 目を悪くし、体調は必ずしもよくない。それでも、朴は『博愛の世界観』を究めたい一心で思想的な格闘を続けている。=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (40)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(40)引き金となった「決起未遂」 黄長燁亡命事件の真相 2018.10.13

 「主体(チュチェ)思想」は、1950年代の中ソ対立のはざまで、北朝鮮の独自性を打ち出そうとした初代権力者、金日成(キム・イルソン)が提唱し、側近の黄長燁(ファン・ジャンヨプ)らによって体系化された。「革命と建設の主人は人民大衆である」などと規定した北朝鮮と朝鮮労働党の政治思想である。

 やがて、主体思想は、後継者となった金正日(キム・ジョンイル)によって、「金日成の絶対化・神格化」のツールとして利用され、変質してゆく。

 後に主体思想研究の日本での第一人者となる朝鮮大学校元副学長、朴庸坤(パク・ヨンゴン)(90)が“絶対化”の一端に触れるのは1974年7月、朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)の「第2次教育者代表団」の一員として初訪朝したときだ。

 朴らは、金日成総合大学の一室に案内され、通しナンバーがふられた赤い表紙の小冊子「党の唯一思想体系確立の10大原則」(別項)を受け取る。朝鮮労働党中央の指導員が読み上げた内容は、まさに衝撃的であった。

 朴の著書『ある在日朝鮮社会科学者の散策』を見てみよう。《後継者に内定した金正日が最初にやった仕事は、「党の唯一思想体系確立の10大原則」を定めたことだった…金日成の神格化、偶像化の宣言であり、疑似宗教国家への変質の道を開く宣言だった…》

 「(初めて聞いたとき)大変なショックを受け、思わず(指導員に)質問をした。『これは事実なのでしょうか?』と。マルクス主義の研究者だった私にとっては、『絶対化』『神格化』などは、あり得ないことでしたからね」

 約2カ月後に帰国した朴は、自宅に飾っていた金日成の肖像を庭にたたきつけ、一時は組織を離れる決意を固める。だが、周りの状況が許さなかった。初訪朝直前には、朝鮮総連の幹部を養成する朝大政経学部の学部長に就任したばかり。翌年5月には、ポーランドで開かれる世界教員大会に出席する総連の派遣団団長に選ばれていた。

 さらに、思わぬことが起きる。1977年9月、北朝鮮の平壌で開かれた「主体思想国際討論会(セミナー)」に総連代表団団長として参加した朴に、主体思想に関する基本演説をする役割が割り振られたのである。マルクス経済学が専門の朴にとって“畑違い”の分野だが、組織の決定を拒否することはできない。

 以来、朴はこの新しい思想・哲学に対して次第に魅了されてゆく。金日成総合大学付属の主体思想研究所研究員、総連傘下の社会科学者協会会長、朝大社会科学研究所長などの肩書を与えられ、黄長燁らとともに、体系化する仕事に熱中することになる。

◆神格化は認めがたい

 だが、主体思想を学問として究めようとする黄や朴と、それを、政治的に利用したい金正日らとは、いずれ衝突せざるを得ない「運命」にあった。

 朴が平壌に滞在していた1995年10月、黄から衝撃的な話を打ち明けられる。再び、朴書に拠(よ)る。《主体思想がマルクス・レーニン主義者に受け入れられないのは、マルクス主義思想を標榜(ひょうぼう)しながら唯物的弁証法とは縁もゆかりもない首領(金日成)の神格化、絶対化を唱え、現在の独裁体制を思想理論で支えているからだ、と黄長燁は自らの考えを述べた…》

 その上で黄は、翌96年2月にモスクワで開催される主体思想の国際セミナーの場で、その考えを世界の研究者の前で披露する、ついては、メインスピーチを朴にやってほしいという話であった。「私たちは、これほど深く、新しい真理を追究しているのに、広く受け入れられないのは『10大原則』が妨害しているからだ。『それと主体思想は全く違うんだ』と世界に広言すべきだと思いました。国(北朝鮮)に背くことになるが、学者としての良心の方が大事だった」

 黄の計画は、それだけではなかった。モスクワでの意見表明と呼応して平壌では金正日の義弟である張成沢(チャン・ソンテク)(2013年処刑)や軍幹部が決起し、独裁体制を終わらせようというのである。「勝つか、負けるか…命がけの計画でした。(黄は)党と軍の幹部、思想学者が立ち上がれば、大衆の支持を必ず得られると信じていたのだと思います」

 ところが、病気に倒れた朴がモスクワのセミナーに参加できなくなり、黄はひとり小さな集会の場で思いのたけを語った。そのスピーチが録音されて金正日に報告され、黄の立場は一気に悪化する。「決起」は行われなかった。

 ◆青酸カリを懐に忍ばせ

 1997年2月、すでに“イエローカード”を突きつけられていた黄が国際セミナーの団長として来日、東京・新宿のホテルで夜半、ひそかに朴と再会する。翌朝早く、人けのない公園で2人は語り合った。《(黄は)ポケットから小さな袋を取り出し…「金正日が私をこのまま放っておくはずがない。これ以上生きるのが苦しくなってきた。青酸カリがある。これを飲めば苦しまずに死ねるだろう…」。私たちは、かたく抱擁しあった。私の両頬は涙にぬれた》(「同書」から)

 黄は、日本から帰国の途に立ち寄った中国・北京で韓国大使館に駆け込み、政治亡命する。北朝鮮側は、悪罵(あくば)の限りをつくして黄を非難、家族ら係累は、政治犯収容所へ収監されたり、自ら命を絶ったりした。もしもモスクワのセミナーで、朴が多くの聴衆の前でスピーチできていたら、「決起」が行われていたら事態は違っていただろうか?
「黄長燁一派」と見なされていた朴にも、危険が迫っていた。=敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)
                  


【用語解説】黄長燁(ファン・ジャンヨプ)1923(大正12)年、日本統治下の朝鮮出身。戦前、日本の中央大学で法学を学ぶ。戦後、ソ連(当時)のモスクワ大学へ留学。北朝鮮の金日成総合大学総長、朝鮮労働党国際担当書記などの要職を歴任。主体思想を体系化し、金日成・金正日父子に重用されたが、1997(平成9)年、出張先の中国・北京で韓国大使館へ駆け込み、亡命した。2010年、韓国・ソウルで病気のため、87歳で死去。
                  


【用語解説】党の唯一思想体系確立の10大原則 
1974年に北朝鮮の朝鮮労働党が定めた全組織・国民の行動規範で、金日成の後継者に内定した金正日が主導した。「偉大なる首領金日成同志の革命思想によって全社会を一色化するために身を捧(ささ)げて闘わねばならない」(第1条)などと、金日成の権威の絶対化、金日成の思想以外を排除する唯一思想体系の確立を図ったもの。2013年「金日成・金正日主義」の文言が盛り込まれ、一部修正された。

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海峡を越えて「朝のくに」ものがたり (39)

海峡を越えて「朝のくに」ものがたり
(39)最後までトップに固執した総連議長 「政治の道具」にされた朝大

 朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)の初代議長として、亡くなるまでトップの座に君臨し続けた韓徳蛛が
戦前。”海峡を越えて”きた経緯や初期のころの日本での活動についてははっきりしない部分が多い。
 「歌が好きで音楽家を志していた」とか、トンネルエ事の肉体労働に就いていたときに、文字が書けない
同胞が朝鮮の家族に送る手紙を代筆してやり、「リーダーとして信望を集めていった」などというエピソー
ドも伝わっている。
 終戦直後の昭和20年10月に結成された在日朝鮮人の組織「在日本朝鮮人連盟(朝連)」から、10年後の
朝鮮総連発足に至る激動の中で、韓は、北朝鮮の権力者とのパイプをバックにして総連組織を掌握。在日同
胞の権利擁護よりも、北朝鮮の意向を代弁する機関へと変質させてゆく。
 その韓が、最後まで手放さなかったポストは、総連議長だけではない。総連コミュニティーの人材を育成
する各種朝鮮学校の頂点に位置する朝鮮大学校と、総連幹部の再教育機関である中央学院のトップ(名誉学
長)もそうである。
 朝大の副学長を23年間務めた朴庸坤(90)が書いた『ある在日朝鮮社会科学者の散策』を引いてみよう。
 《(韓は)総連議長として辣腕を振るったが、権力欲が強く、自分に対抗する力ある幹部を順次、北(朝
鮮)送し、地位の保全を図った。組織の要諦である人材育成機関、中央学院と朝大のトップの座は決して手
放さなかった》
 ただ、朴の。人間・韓徳鉄”への評価は少し違う。副学長として長く仕え、かわいがられたという思いが
強い。「(常任ではない韓が)朝大へやってくると必ず僕を探すんだよ。『朴庸坤はどこだ?』つてね。権
力を維持するために強引なこともやったでしょうが、リーダーとしての手腕や人をひきつける魅力があっだ
のは確かでしょう」
 ■日本人妻と離婚せよ 
 韓は、主体思想研究の日本での第一人者として、北朝鮮本国が認める輝かしい研究成果と肩書を持ちなが
ら長い間、朝大副学長に留め置かれたままの朴を何とか、学長にしたいと思っていた。ネックになっていた
問題は2つである。1つは、朴が、朝鮮の全羅道出身で、根深い地域感情から在日コリアンに多い慶尚道出身者からの反発(寄付金が集まらないことなど)が予想されたこと。
 2つ目にして最大のネックは、朴の妻が日本人であることだ。日本は、北朝鮮が、米国とともに。"打倒す
べき敵”などと位置づけていた存在である。韓自身をはじめ、歴代の朝大学長、総連幹部らは、日本人や外国人の妻をわざわざ離婚してまで。”身の証”を立てていた。朴も昭和35年、朝大教員になったとき、すでに大学校幹部から、日本人妻との離婚を忠告されていたが、ずっと従わずにいたのである。
 「(韓は)『故郷(全羅道出身)の問題は私か何とかしよう。だが(朝鮮学校の最高学府である)朝大の学長の奥さんが日本人では、さすがに示しがつかんじゃないか』というのです。私は『地位(学長)』は求めません。『役割』で仕事をします、とやんわり断りましたが…」
 朝大に通うのは、日本で生まれ、将来も日本社会で生きてゆくであろう在日コリアンである。そんな若者たちに、北朝鮮の政策・思想を押しつけ、いまだにその。”モノサシ”しか容認しようとしないところが、朝大の異常性であろう。「日本」で差別されたのは朴だけではない。母親が日本人だったというだけで、朝大での昇任を阻まれた研究者もいたという。
 結局、朴が朝大学長になることはなかった。北朝鮮の意向に沿わぬ論文執筆やテレビ番組で、朝大生200人を北朝鮮へ送った秘密を暴露したことによって、朝大副学長職など、平成19年までに、すべての肩書・称号を剥奪されたことは前回書いた通りである。
 ■叩いて腑抜けにしろ
 朴の著書には、1960年代後半、韓にとってかわろうとした金炳植(総連第一副議長、後に失脚して北朝鮮へ送還)とが、朝大を巻き込んだ激しい権力闘争を繰り広げたことが詳しく綴られている。((韓が拠点とする朝大への)金炳植の陰湿な攻撃が始まった・・・大学の教職員の思想点検が始まった。極左学生運動の内ゲバ的な自己批判だった・・・「まず徹底的に叩け。俯抜けにしろ。それから種を蒔け」》 (同書)
 教育機関にあるまじき暴力・監視・密告…。金炳植は、北朝鮮の初代最高権力者、金日成の思想だけを神のごとく崇めさせ、それをタテにして総連内の権力を掌握しようとした。
 根っからの学究肌で、若い学生に教えることに情熱を燃やしていた朴もまた夕ーゲットにされた。何日も自宅に帰れないまま、自己批判書を書かされてしまう。「(すべてを金日成の思想に関連づけるため)僕の担当講義もなくなったし、図書館からは『三国志』のような本までが消えていく。精神的に追い詰められて、自ら命を絶つことまで考えましたね」
 昭和47年に、金炳植が失脚すると、朝大内でも今度は。金一派の追い落とし”が始まる。教育機関が醜悪な政治の道具とされ、多くの優秀な教員が学校を去った。疑心暗鬼が支配し、学内は荒廃してゆく。
 混乱の中で、「朝大再建」の重責を担わされたのは朴だった。一時は自死まで覚悟した朴は、やがて、
生涯をかけることになる
「主体思想研究」とめぐり合い、再び、学問の道へとのめり込んでゆく。
   =敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)


 韓徳鎌(ハン・ドクス)
 朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)初代議長。朝鮮大学校初代学長。明治40(1907)年、朝鮮半島の慶尚北道(現・韓国)生まれ。戦前、日本に渡り、(1955)年に結成された朝鮮総連のトップ(議長)として、平
成13年、94歳で亡くなるまで強い権力を保持し続けた。

 ■朝鮮大学校 
 昭和31(1956)年に創設され、34年に現在の東京都小平市に移転。政治経済、理工、教育、外国語など、8学部や研究院、研究所などを備える。文部科学省所管の大学ではなく、東京都が認可する各種学校。北朝鮮が海外公民と位置づけている在日朝鮮人のための「民族教育の最高学府」「(北朝鮮の)唯一の海外同胞大学」と称している。全寮制で、卒業後の進路は、朝鮮総連関係団体の専従職員や朝鮮学校教員などが多かったが、現在の在校生数は、ピーク時の3分の1近くに減少している。

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (38)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(38)主体思想研究の第一人者 朝鮮大学校元副学長の慟哭 2018.9.29

 朝鮮大学校(東京都小平市)の副学長を23年にわたって務めた朴庸坤(パク・ヨンゴン)(90)が密航船に揺られ、“海峡を越えて”、朝鮮半島から日本へ渡って来たのは、戦後の昭和23(1948)年、6月18日のことである。

 北緯38度線を挟んで米ソ両国が進駐し、事実上、南北に分断された朝鮮半島は混乱状態が続いていた。民族の独立を目指し、南朝鮮労働党(後に北朝鮮・朝鮮労働党に統合)の活動家となった朴は、モスクワ留学も決まり、前途洋々に見えたが、ぬれぎぬのスパイ容疑をかけられ、故郷に居づらくなってしまう。

 20歳の朴はひそかに、日本へ渡ることを決心。小さな船に詰め込まれ、済州島を経て、瀬戸内海の広島・尾道に上陸した。「尾道は警戒が緩く、まったく怪しまれなかった」という。

 愛知県内の親類宅に身を寄せた朴は、20年10月に結成された在日朝鮮人団体「在日本朝鮮人連盟(朝連)」愛知県本部の仕事や朝連の民族学校の英語講師をして糊口(ここう)をしのぎ、愛知大に編入する。同大は上海にあった東亜同文書院の系譜を引き、外地から引き揚げた教員・学生の受け皿として戦後創設された学校で、優秀な人材がそろっていた。朴は、東京帝大出身のマルクス経済学者、林要(かなめ)らに師事。学部、研究科(大学院)を経て助手となり、11年にわたって同大に在籍し、研究に打ち込む。

 そのままいけば、同大の教授になるか、故郷(後に韓国)に帰って、経済学の研究者として穏やかな人生が待っていただろう。だが、ふとしたことで始まった朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)、そして北朝鮮との関わりが朴を激動の渦に巻き込み、「主体(チュチェ)思想」研究の日本における第一人者として、その学者人生をも大きく変えてゆく。

◆ない交ぜの在日社会
 朴の後半生をたどる前に、終戦後の在日社会について説明しておきたい。戦争が終わり、日本に200万人以上住んでいた朝鮮人のうち、約140万人が朝鮮半島に帰った。ところが、混乱と貧困によって再び日本へ舞い戻ったり、朴のように、新たに日本を目指したりした朝鮮人らが“ない交ぜ”になって形成されたのが後の「在日朝鮮・韓国人」という存在である。

 日本の行政機関も、混乱していたらしい。戦後にやってきた朴が後に外国人登録を行ったとき、「戦前から親類方に住んでいた」と申告すると、役所側は詳しく調べもせず、すんなり受理されたという。

 前述の「朝連」は在日の権利擁護、帰国支援を目的に結成された。故郷を目指しながら、朝鮮語ができない日本生まれの2世らのために国語講習所を各地に開設、その後身が現在、総連傘下となっている各種の朝鮮学校である。やがて、在日の志向は帰国→定住へ。団体は朝鮮半島の分断とともに韓国支持の在日本大韓民国民団(民団)と北朝鮮支持の総連に分かれ、政治的な性格を強めてゆく。

 ◆帰国事業参加から一転
 朴の人生を変えたのは、34年から始まり、約9万3千人の在日朝鮮人や日本人配偶者・子が北朝鮮へ渡った帰国事業である。

 朴には、交際中の日本人女性(現在の妻)がいたが、故郷に連れて帰ろうにも名家出身の父親が「日本人の嫁」を認めるはずがない。ならば一緒に帰国事業に参加して北朝鮮へ行き、社会主義国家建設に加わろう、と総連の窓口に申し込んだ。資本主義に対する「社会主義の優位」が信じられていた時代である。夫妻は、35年早々の帰国船に乗り込むはずだった。

 ところが、もう一度“賽(さい)の目”は転がる。

4年前(31年)に東京朝鮮中高級学校(日本の中・高に相当)に間借りして開校した「朝鮮大学校」が34年6月から、東京都小平市の約2万坪の新キャンパスに移転しており、規模の拡大にともなって教員の増員に迫られていた。

 総連は急遽(きゅうきょ)、朴の帰国を取りやめさせ、幹部教育機関である中央学院へ送った上、新装なった朝大教員となることを命じる。思いもかけないことだったが、組織(総連)の決定に逆らうことなどできないし、朴自身も若い学生たちを教えることに魅力を感じた。

 まさに、運命の分かれ目であったろう。帰国事業参加者は資本主義の毒に染まった日本からの帰国者として差別を受けただけでなく、スパイ容疑などの冤罪(えんざい)を着せられ、政治犯収容所に送られた人も珍しくない。監視・密告が横行し、“地上の楽園”という宣伝文句とは全く逆のひどい暮らしに疲れ、多くがボロボロになって死んでいった。

 ◆朝大生の帰国を暴露
 朴は49(1974)年に初めて訪朝するまで、その実態を知らなかった。だから47年に北朝鮮の初代最高権力者、金日成(キム・イルソン)の還暦祝いとして、朝大生200人を北へ帰国させるよう指示が来たとき、逡巡(しゅんじゅん)する学生・保護者を説得して回り、背中を押したのである。

 女性映画監督、ヤン・ヨンヒ(53)の長兄(当時朝大1年)も、このとき帰国した。長兄は、後に心身を病み、60歳を前にして亡くなったという。「朝大生200人帰国」の事実は長く秘密とされた。

朴が初めて訪朝したとき、ひそかに宿泊先まで会いに来た元朝大生は、恨み言ひとつ言わなかったという。朴はひとり慟哭(どうこく)する。取り返しのつかないことをしてしまった、と…。平成19年、テレビ番組で朴は、この事実を初めて公にする。そして北朝鮮からすべての称号などを剥奪された。「自責の念ですよ。いつか機会があれば、話すべきだとね。帰国事業は、総連最大の事業だった。ちゃんと総括すべきでした」=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)
                   


【プロフィル】パク・ヨンゴン 
昭和2(1927)年11月、日本統治下の朝鮮・全羅南道和順郡(現韓国)生まれ。23年、日本へ渡り、愛知大でマルクス経済学を学んだ。35年、朝鮮大学校の教員となり、政治経済学部長、副学長を歴任。朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)傘下の在日本朝鮮社会科学者協会(社協)会長、総連中央委員などの要職を務め、日本での「主体思想」研究の第一人者となった。

 2000年代になって主体思想が北朝鮮の金一族独裁に利用され、ゆがめられたことや、北朝鮮へ朝大生約200人が金日成の「還暦祝い」として帰国させられたことを論文やメディアで公表。北朝鮮から与えられた称号や20年以上務めた朝大副学長の役職などを剥奪された。主な著書に『ある在日朝鮮社会科学者の散策』『主体的世界観』など。

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (37)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(37)朝鮮初の女性パイロット 思いは遥か故郷の大空へ
2018.9.22

 『朝鮮交通史』(昭和61年、鮮交会)に、日本統治時代の「朝鮮出身操縦士名簿」(航空局発行、13年まで)が載っている。40人弱の朝鮮人の中で、女性パイロットが2人。その一人、朴敬元(パク・キョンウォン)(1901~33年)は、日本統治下の朝鮮で、初めて操縦士免許をとった女性であった。

 朝鮮・慶尚北道の大邱出身。東京の日本飛行学校を出て、3年5月に、操縦士2等の免許を取得している。当時の免許は、操縦の条件によって1~3等に分かれ、2等は、女性では最高の免許。日本人女性と合わせても3番目だった。翌4年7月には、朴を慕って来日した日本飛行学校の後輩女性、李貞喜(イ・ジョンヒ)がやはり2等免許を取得している。

 第1号となった朴の夢は故郷・朝鮮への凱旋(がいせん)飛行だった。8年8月7日、念願の愛機『青燕(あおつばめ)』(複葉単発機「サルムソン2A2型」)を手に入れた朴は勇躍、羽田を飛び立つ。大阪・福岡を経由して“海峡を越え”、朝鮮から満州へ向かうフライトだった。

 ところが、離陸後しばらくして通信が途絶え、現在の静岡県熱海市内にある玄岳の斜面に墜落してしまう。事故を知った付近の住民総出で捜索したが、朴の死亡が確認され、遺体は現地で荼毘(だび)に付された。事故は当時の新聞にも大きく取り上げられ、朴の夢は悲劇で終わった。

 2号の李貞喜もまた、朝鮮戦争(1950~53年)時に拉致され、北朝鮮へ渡ったと伝えられている。

 ■ワンパターンの反日

 朴敬元の物語は、戦後も続いてゆく。事故から70年近くたった平成12年、当時の首相、森喜朗(よしろう)と韓国大統領、金大中(キム・デジュン)による日韓首脳会談が静岡県熱海市で開かれる。2年後、その縁で熱海梅園に李朝時代の韓国庭園が造られ、その中に、日韓友好のシンボルとして「朴飛行士記念碑」が建てられることとなった。
「思いは遥(はる)か故郷の大空」と題された碑文には、日韓両国語で、朴の経歴や事故の経緯が刻まれている。こぢんまりとした韓国庭園内には、両首脳直筆を刻字した友好平和記念碑も設置された。朴飛行士の慰霊祭には、後輩である韓国の航空関係者も訪れ、先人の遺業を偲(しの)んだという。

 2000年代半ばには、朴を主人公とした韓国映画『青燕』が製作された。ところがその内容は“お決まりの反日”。産経新聞ソウル支局長(当時)の黒田勝弘が、コラム「ソウルからヨボセヨ」(平成18年1月21日付)に書いている。

 《…映画を見て失望した。親日映画どころか逆に反日映画なのだ。(略)「あるがままの歴史」より「あるべき歴史」が優先する“韓国人の歴史観”そのものでした》と。

 ■13年間の朝鮮定期航空

 日本統治下で、朝鮮の定期旅客航空網は大きく発展した。昭和13(1938)年の朝鮮航空路(日本航空輸送)は、東京・大阪・福岡の内地から、朝鮮(大邱・京城・平壌・新義州・清津など)を経て、日本の租借地であった、関東州の大連や満州国の奉天(現中国・瀋陽)・新京(同長春)にまで、翼を広げている。

 9年10月の鉄道省編纂(へんさん)航空時刻表の東京-大連のタイムテーブル(日本航空輸送)を見てみたい。東京を午前9時30分に離陸、名古屋・大阪に寄航して福岡着は夕方4時。さらに京城着は翌日昼の12時40分。最終目的地の大連着が夕方の4時(満州時間・日本の標準時マイナス1時間)。計約2100キロメートルを、1泊2日(各空港での待機時間を含む)で飛んだ。鉄道と日満航路の船を乗り継げば、4日かかる行程である。

 当初の航空機の利用客は少なく、4年から定期旅客航空営業をスタートさせた日本航空輸送の初年度の総旅客数は、わずか943人。8年の朝鮮内主要飛行場利用状況をみても、出発旅客数が1千人を超えたのは京城だけである。京城の飛行場は現在、国会議事堂や高層ビルが立ち並ぶ漢江の中洲・汝矣島(ヨイド)にあった。戦後しばらくも、軍民両用の空港として使用されている。
その後、同社は順調に路線を延ばしてゆく。朝鮮・満州のほか、中国(青島・天津・北京、上海・南京)、沖縄・台湾線など、総営業キロは計1万2837キロ(昭和13年10月、『日本航空輸送 10年史』から)に達した。これは4年の開業時の約5倍。総旅客数も5万5547人(12年10月~13年9月)と、実に60倍近くに膨れ上がった。

 朝鮮での定期旅客航空の輝きは短い。同社は13年12月、国策によって国際航空と統合し、新たに国策会社色が強い大日本航空が発足。16年12月、対英米戦争が始まると、民間機路線は次第に縮小されてゆく。

 『朝鮮交通史』にこうある。《大日航機は次々と軍に動員され、朝鮮関係の昭和17年冬ダイヤ以降は急激に縮小され、一般的には休航と告示された》。同年秋以降は、陸・海軍の徴用体制に組み込まれ、朝鮮関係は陸軍の担当となった。

 《(朝鮮の)実質的な民間航空輸送機関としての役割は昭和4年より昭和17年までのわずか13年間…17年以降の朝鮮関係の定期航空は減便され、主幹線でもせいぜい週3往復程度に止(とど)まったが、大邱-福岡間の特別航路のみが毎日3往復する程度であった》

 この定期旅客航空の歴史に、女性パイロットは登場しない。事業用航空機の操縦桿(かん)を握ることができる免許(1等)は当時、男性に限られていたからだ。もしも、制限がなければ、朴敬元が、「民間定期航空機」の朝鮮女性パイロット1号の栄誉も合わせて勝ち取っていたかもしれない。=敬称略、土曜掲載 (文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (36)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(36)蔚山(ウルサン)飛行場の栄枯盛衰 朝鮮の大空かけた旅客機 2018.9.15

 蔚山(ウルサン)は、釜山の北約70キロ、朝鮮半島南部東海岸にある港町。現在は、韓国を代表する財閥・現代グループの企業城下町として知られているが、昭和17(1942)年の朝鮮総督府統計によれば、人口(蔚山郡)約2万9千人、このうち日本人(内地人)は675人しかいない。

 宮崎市在住の岩下鎮生(しずお)(92)の父、久栄(ひさえい)(1894~1969年)は大正3(1914)年、宮崎師範を出て、12年に朝鮮へ渡った。昭和7年4月、釜山高等小学校から蔚山小学校の校長として赴任。翌年に同小に入学した鎮生は、「釜山に比べると蔚山はとても小さな街で、さびしい田舎に見えた」と振り返る。

 その蔚山郡の三山里に4万円の巨費を投じ、京城飛行場(汝矣島(ヨイド))と並ぶ「蔚山飛行場」が造られたのは3年のことである。約6万坪の敷地に600メートルの滑走路と格納庫、航空会社事務所などを備え、10年には約10万坪に拡張され、拠点空港のひとつとなった。

 政府の支援を受けた航空会社「日本航空輸送株式会社」の設立も3年の10月。翌4年4月から内地、朝鮮、満州間相互の貨物・郵便輸送を開始、同年10月からは、定期旅客便の営業もスタートさせている。路線は内地の東京-大阪、大阪-福岡のほか、京城-平壌、平壌-大連など。「蔚山」は京城-福岡ルート、その先の内地や大連への中継地となっていた。

 とはいえ、民間飛行機を利用できるのは、まだまだひと握りの人だけ。9年3月の民間航空事業概況によれば、朝鮮内の定期航空航路は計約670キロでしかない。就航している航空会社は、日本航空輸送と満洲航空の2社のみ。航空機は6機、パイロットは20人で、このうちの7人が朝鮮人パイロットとなっているのは興味深い。

◆ピカピカの陸軍献納機
 岩下一家が、7年8月に、蔚山飛行場で撮った記念写真が残っている。後ろに写っているのは同月、民間から陸軍に献納されたばかりのピカピカのプロペラ飛行機。機体には『愛国43(朝鮮)』の大文字と日の丸が、垂直尾翼には、機種を示す『九二式戦闘機』の小文字が書かれている。

 献納機は昭和初期に、国民による国防献金などで造られた軍用機。陸軍は「愛国号」、海軍は「報国号」と称した。日本全国のほか、外地の朝鮮、台湾、満州で行われ、企業や団体、女学生や児童のお小遣いなどで献納された飛行機もあったという。

 もうひとつの写真は8年3月、京城-蔚山-福岡便に就航していた日本航空輸送の「フォッカー・スーパーユニバーサル機」を蔚山飛行場で撮ったものである。同機は、3年から製造されたアメリカ製の単発プロペラ機(日本の中島飛行機でライセンス生産された)。約200機が製造されたが、日本航空輸送はうち二十数機を所有する最大のユーザーであった。

 全長約11メートル、420馬力の空冷9気筒エンジンを積み、最大速度は、時速約240キロ(巡航時約170キロ)。航続時間は、約5時間。パイロットら乗員2人、乗客は最大で6人しか乗れなかった。

 飛行機の前にちょうど6人の男女が写っているが、宣伝用にデモフライトで撮ったらしい。岩下鎮生の父、久栄も「一度、乗ったことがある」と鎮生は聞いたことがある。乗客数は年々増加したが、経営環境は厳しかったという。

 9年10月の時刻表によれば、蔚山-福岡間の運賃は18円(所要時間1時間50分)。船と鉄道を乗り継げば、蔚山-博多間は約14時間かかるものの、運賃は、約3分の1の計約6円30銭で済んだ。

◆飛行場長は後の日航社長
 もう一点、興味深い写真がある。

 8年4月、父、久栄が校長を務めていた蔚山小学校の奉安殿の前で撮った記念写真だ。奉安殿とは、天皇、皇后両陛下の御真影(ごしんえい)(写真)と教育勅語を納めていた建物のことである。

 奉安殿の前に整列した人の中に校長の久栄と並んで蔚山飛行場場長だった若手官僚の松尾静麿(しずま)(1903~72年)の顔がある。

 松尾は、旧制佐賀高から九州帝大機械工学科卒。民間企業を経て、逓信省に入省、朝鮮総督府航空官となり、蔚山飛行場長、大邱飛行場長などを歴任し、朝鮮とは縁が深い。戦後は、日本航空業界の復活に尽力し、日本航空の社長・会長などを務めた。

 岩下一家の写真には、自動車で到着した御真影を、たくさんの人々が道路に整列して恭しく迎えるところや、奉安殿の前に、教職員と児童が並んで立っている場面も残されている。この年に入学したばかりの鎮生もこの中にいたという。「奉安殿を新しくしたときの記念写真だと思う。松尾さんは当時30歳くらい。写真中央に写っているのを見ると、飛行場長の地位は高かったんでしょうね」

 民間の定期旅客便の中継地としての蔚山飛行場の“命”は短かった。

 12年、就航機の大型化にともない、中継地の役割は、慶尚北道の中心都市・大邱に移される。大邱飛行場は同年1月、約20万坪で開場、15年には約50万坪に拡張され、蔚山に取って代わる朝鮮内の拠点空港のひとつになった。

 蔚山飛行場は、定期旅客便が大邱に移った後は、陸軍の飛行場となった。600メートル滑走路と直角に交わる2本目の滑走路(600メートル)も建設されたが、戦後廃止され、住宅地となったという。=敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (35)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(35)日本が近代化した金融制度 高利貸に苦しむ朝鮮農民救う 2018.9.8

 拓殖大学は、明治33(1900)年、台湾協会学校として創設された。初代校長は後に3度首相を務める桂(かつら)太郎である。海外で活躍する有為な人材育成を目的とし、同40年には、東洋協会専門学校(改称)京城分校(後に官立の京城高等商業)を開校。朝鮮の近代化に尽くそうと多くの若者たちが“海峡を越えた”。

 その一人に、重松●修(まさなお)(1891~1975年)がいる。朝鮮発展に捧(ささ)げた無私の生涯は『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』(田中秀雄著)に詳しい。同校を卒業した重松は大正4(1915)年、朝鮮総督府の官吏になった後、同6年、朝鮮北部平安南道の陽徳地方金融組合理事に転じる。平壌から約150キロも離れた山深い厳寒の地であった。

 重松は、同8年3月に発生した大規模な抗日・独立運動「三・一事件」に巻き込まれて被弾。右足が不自由になりながらも、私財を投じて寒村に「養鶏」を根付かせ、「卵の代金を貯蓄させて耕牛を買う」というシステムを構築する。

 豊かになった朝鮮の農民たちは、やがて重松を「聖者」と呼び、功績を顕彰する頌徳(しょうとく)碑も建てられた。終戦まで朝鮮在任約30年。日本へ引き揚げたとき懐には、わずかな金しか残っていなかったという。

 ◆極めて幼稚な朝鮮経済

 重松がいた「金融組合」をつくったのは目賀田種太郎(めがた・たねたろう)(1853~1926年)である。

 米ハーバード法律学校(現大学)に留学、大蔵省主税局長などを務め、明治37年、第1次日韓協約の下で、大韓帝国の財政顧問に就任。紊乱(びんらん)の極にあった財政や金融システム、税制、貨幣制度の徹底改革・近代化に乗り出す。そのひとつが、農民に低利で資金を貸し付ける金融組合の設置(40年)だった。

 なぜ、金融組合が必要だったのか? 昭和11年発行の『25年!朝鮮は何を得たか?』(京城日報編)にはこうある。
《(大韓帝国時代は)経済の発達極めて幼稚で、貨幣制度乱雑を極め、高利の金貸し業者が跋扈(ばっこ)した…民衆は憐(あわ)れむべきもので、官吏と地主と高利貸の三大専制王に責められ…生き血を吸うもののために困殺(こんさつ)されんとしていた。かくして民衆の意気も、経済も、産業も、全く凋落(ちょうらく)衰微してしまっていた》と。

 農民を対象にする金融組合制度は、ドイツやベルギーの農村金融を参考に、相互扶助的な組織を目指したものだ。組合員は原則として朝鮮の小作農で、融資面では「成牛1頭分に相当する50円(後に100円)」を限度に低利資金を貸し付ける。当初は、農業の技術指導や種子や肥料、農機具の販売・貸与、農作物の委託販売なども行い、イメージとしては農協に近い。

 明治40年のスタート時には朝鮮全土に30の組合を設立、日本人理事に就任したのは30人全員が、後の重松のように東洋協会専門学校を出た若者たちだった。

 この低利融資は、荒廃していた朝鮮の農村を再生し、前近代的だった農業を大きく発展させる。

 『朝鮮金融組合史』(昭和4年、同金融組合協会刊)にある「貸付金を得て幸福に至る」という組合員・白仁順の例を紹介してみたい。いささか、講談調の記述で宣伝めくが、以下は、その大意である。

 《(朝鮮の)奸悪(かんあく)な地主の小作人であった白は13人の家族を抱えて生活費にも事欠き、地主に借りた金は積もり積もって大金に。その上、病気に罹(かか)り、地主から冷酷にも小作権を剥奪・退去を命じられてしまう…。困り切った白は紹介されて組合員となり、50円の貸し付けを受ける。一部を地主に返した後、牛や鶏卵などの商売を始めて貯蓄にも励んだ結果、数年後には牛10頭、田1町歩、資産500円を持つに至った》と。

 朝鮮全土に張り巡らされた金融組合網は、順調に組合数、組合員、貸付額を伸ばしてゆく。さらに、第一次大戦後の好景気を受けた大正7(1918)年の法令改正によって、農民だけでなく、「都市金融組合」として商工業者にも貸し付け(限度額300円)を行うようにもなった。
同じ頃、旺盛になった朝鮮産業界の資金需要に応えるため、大韓帝国時代からの各農工銀行を統合して、長期金融を主な目的とする「朝鮮殖産銀行」が新たに創設されている。金融組合との連携も密にしながら金融システムのネットワーク化を進め、“産業の血液”を供給していった。

 ◆長崎十八銀行の盛衰

 日本が関与した草創期、朝鮮の金融業発展に寄与したのは、彼らだけではない。長崎の地方銀行「十八銀行」は、国立銀行時代の明治19年、朝鮮にいち早く仁川出張所(後に支店)を開設している。

 長崎港は朝鮮貿易の拠点のひとつだった。十八銀行史『百年の歩み』(昭和53年)はこう書く。《日清戦争は清国商人を朝鮮から一掃し、軍需景気をもたらした。長崎港の日清貿易は衰退した反面(はんめん)、日鮮貿易が浮上した》。貿易量の増加に伴い、同行の朝鮮支店は元山、釜山、京城など次々と増設されてゆく。

 勢い込んだ同行は明治40年、不動産金融を目的とした韓国拓殖銀行の設立を企図したが、果たせずに終わる。翌41年に拓殖移民、殖産資金供給を行う国策会社の東洋拓殖株式会社が設立されたからである。

 昭和11年には、ついに朝鮮からの撤退を余儀なくされてしまう。金融組合の商工業者への事業拡大などによってシェアが低下。在鮮全9支店を、前述した総督府主導で設立された朝鮮殖産銀行へ譲渡・廃止することになったのだ。

 全行本支店24のうち9つの支店廃止は大事件である。『百年の歩み』には悔しさがにじむ。《当行は朝鮮支店の維持存続に努力したが、現地金融機関の発展整備や内鮮交易による長崎の地位など往時に比し著しい変遷を…》

 対して、朝鮮総督府は財務局長声明を出して同行の業績をたたえた。《その功績は没すべからず…(朝鮮)半島金融史上に長くその功績を留(とど)める》と。=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員  喜多由浩)

●=高の右に昇

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進まぬ遺骨収集112万柱今なお…

進まぬ遺骨収集112万柱今なお…
 先の大戦での戦没者は軍人・軍属約230万人、一般国民約80万人の計約310万人。
そのうち海外や沖縄などでの戦没者は計約240万人いる。今年7月末現在で、半数近い約112万柱の遺骨が現地に取り残されたままになっており、戦後73年を経ても収集が思うようにいかない現状がある。
 厚生労働省によると、遺骨収集事業は昭和27年から始まり、これまで計約128万柱を取り戻した。最近5年間に収集した遺骨は年881~1437柱。国交がない北朝鮮や、対日感情に配慮する必要がある中国などで収容困難な遺骨が約23万柱あるほか、海没した遺骨などを除くと、収容可能な遺骨は残り約60万柱とみられるという。
 平成28年には遺骨収集を「国の責務」と記した戦没者遺骨収集推進法が成立。36年度までの9年間を遺骨収集の「集中実施期間」と規定したが、埋葬地を知る関係者が高齢化したり死去したりして、情報が年々少なくなり、収集は想定通りに進んでいない。
 昨年は厚労省の遺骨収集事業で、職員が経費の領収証の金額を水増しするなどして、総額約4億6325万円の不適正な会計経理があることを会計検査院に指摘された。

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