【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (14)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(14)文化・芸術に政治絡める愚 「国歌」作曲者も親日派の事典に 2018.4.15

 「学内の親日派銅像は恥ずかしい…撤去を要求する韓国の大学生」。韓国の大手紙・中央日報電子版に最近、こんな見出しの記事が出ていた。名門私大・高麗大の設立者が「親日行為」を認定され、韓国政府が叙勲剥奪の手続きを行ったことを受けて、同大の総学生会が校内にある銅像の撤去や記念館の名称変更を求める声明を出した、という内容だ。同様の動きは、名門女子大の梨花女子大でも起きているという。
 戦後70年以上たった今も「売国・売族者」と先祖に遡(さかのぼ)って悪罵(あくば)を投げつけられ、財産や名誉を奪われる人たち。一族が親日派のレッテルを貼られ、身を縮めて生きていかねばならぬ人たち。民族を日帝に売り渡した親日派を正しく処断できねば、真の解放はありえない、だって? 到底理解できない恨みの強さ、あるいは執念深さ、というべきか。
 文在寅(ムン・ジェイン)政権下で進む「反日ナショナリズム」の高騰は自国民向けにはなっても日韓関係の未来にはつながりはしまい。日本人の心は離れていくばかりだが、親日派たたきは収まらない。特に文も政権幹部に就いていた2000年代の盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権下の韓国社会で熱を帯びた追及は異様だった。
■なぜ一転、親日派批判
 『鳳仙花(ほうせんか)』や『故郷の春』などの作曲者で、朝鮮を代表する音楽家、洪蘭坡(ホン・ナンパ)(1897~1941年)も、その一人であるのは先週書いた。“抗日・独立のシンボル”とされた『鳳仙花』を作曲した洪が、なぜ戦後、一転して親日派として批判されたのか?
 2000年代に韓国で刊行された「親日人名事典」の記述を見てみたい。
 洪は、朝鮮正楽伝習所西洋楽部などを経て、日本に留学。大正7(1918)年、東京音楽学校(現東京芸大)予科に入学、15年には、東京高等音楽学院(同国立音大)でバイオリンなどを学んでいる。昭和3年、東京のオーケストラで第1バイオリンを担当。9年には、日本ビクター京城支店音楽主任に就任。この間『鳳仙花』のもとになった「哀愁」や『故郷の春』をつくっている。
 「親日派」として問題視されるのはこの後だ。
 抗日運動にかかわって検挙された後に転向し、12年「思想転向に関する論文」を提出。さらには、朝鮮総督府の肝煎りで、組織された“親日文芸団体”『朝鮮文芸会』に文学者の李光洙(イ・グァンス)らとともに加入。軍部の宣伝に協力して「正義の凱歌(がいか)」「空軍の歌」などを作曲したという…。
声楽家で元聖学院大学教授の遠藤喜美子(90)は『鳳仙花 評伝・洪蘭坡』の著者。母校(国立音大)の先輩でもある洪を、日本の滝廉太郎や山田耕筰に匹敵する「朝鮮近代音楽の父」とたたえている。
 韓国で洪蘭坡の未亡人に会ったとき、住まいは小さなアパートで経済的にも困窮している様子に驚かされたという。著書を手渡すと、「病床にあった奥さんが『日本人のあなたがこんな本を書いてくれるなんて…』と涙を流して喜んでくださった」と話す。
 評伝を韓国で翻訳出版する話は、何度も持ち上がっては立ち消えになった。ようやく実現したのは生誕120年に当たる昨年である。この間、訪韓した際に何度か韓国のテレビ局が取材に来たが、実際に放送されたことは一度もなかったと振り返る。
 遠藤は思う。「反日教育を受けてきた今の韓国の若い人たちは、この偉大な音楽家について、本当のことを知らないのです」
 もちろん韓国にも、この国民的音楽家を擁護する人たちは少なくはない。
 「親日人名事典」には収録されたが、その後、韓国政府が発表した名簿からは、元大統領の朴正煕(パク・チョンヒ)らとともに外されている。言論界にも、洪を親日派と決めつけて、その人生や業績の全てを否定し、歴史から消し去ろうとするのは「極端な論理だ」とやんわり反論する主張も見られる。
■有能だからこそ重用
 ところで、遠藤の著書によれば、洪と同時期に、東京高等音楽学院に留学していた朝鮮人の中には、後に韓国の国歌と位置づけられる「愛国歌」を作曲した安益泰(アン・イクテ)(1906~65年)がいた。そのくだりを引いてみよう。《日本全国はもとより朝鮮や台湾などからも優秀な学生がこうして参集した。(略)彼(洪)に続いて翌1930年の韓国人卒業生の中には特筆すべき4人の逸材がいた…ピアニストの金元福、バイオリニストの洪盛裕、ピアノ科卒業の朴啓成、またチェリストで後に韓国国歌となる「愛国歌」を作曲した安益泰である》(『鳳仙花 評伝・洪蘭坡』から)
 安はその後、欧米で活躍、世界的な名声を得たが、戦時中、満州国建国10周年祝賀曲に関わっていたことや愛国歌の“流用疑惑”まで問題視されて「親日人名事典」に名前を載せられている。
 だが、当時、才能に恵まれた朝鮮の若者が日本へ留学するのは当たり前のコースだったし、優れた音楽家だからこそ、時の政権や軍部に重用されたのだ。
「国歌」をめぐっては、北朝鮮にも別の愛国歌があり、晴れて統一がなった暁には新たな国歌を制定したいという思いを描く人たちもいる。平昌五輪開会式で南北選手団が合同で入場したときに流されたのは朝鮮民謡の「アリラン」だった。だが、日本統治時代に関わるものが全てダメなら、この曲も日本統治時代の同名映画から生まれたことをこの連載の1回目で書いた通りである。
 韓国の愛国歌は、凜(りん)として格調高い名曲だ。私が韓国で暮らしたとき、朝一番でラジオ放送開始前に必ず流されるこの曲を聴くと背筋が伸びる思いがした。
 あるいは、哀愁を帯び、心に響く『鳳仙花』のメロディー、思わず口ずさみたくなる楽しい『故郷の春』を聴いてみればいい。文化・芸術に政治を絡ませる愚かさが分かるはずだ。=敬称略、日曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (13)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(13)歌には「抗日」も「親日」もない  「鳳仙花」歌う加藤登紀子 2018.4.8

 1枚の古い写真が残されている。1990(平成2)年12月、韓国で初のコンサートを行うため、ソウルを訪れた歌手の加藤登紀子が同国の国民的音楽家、洪蘭坡(ホン・ナンパ)の未亡人、李大亨(イ・デヒョン)と一緒に撮ったものだ。
 このとき、韓国で2つの大きな出来事があった。それは“騒ぎ”と言った方が正確かもしれない。
 ひとつは、洪の代表曲『鳳仙花(ほうせんか)』を歌うことを発表したコンサート1カ月前のソウルでの記者会見で、韓国メディアから、「日本人のあなたがこの歌を歌うことを誰もが許さないと思う」と止められたこと。もうひとつは、当時タブーだった「日本語の歌」を行き違いからコンサートで歌ってしまったことだ。
 『鳳仙花』は朝鮮初の芸術歌曲とされる。洪が日本留学時代の大正9年ごろ「哀愁」の題名で作曲、6年後に金亨俊が詞をつけて歌曲集に載り、世に出た。
 昭和17年には、白の民族衣装をまとったソプラノ歌手の金天愛が日比谷公会堂で朗々と歌い上げ、故郷を思う朝鮮の留学生らを感涙させた伝説の名曲だ。韓国では“抗日・独立のシンボル歌”のイメージが強く、記者会見での「日本人のあなたが…」という反発につながったわけである。
加藤が『鳳仙花』を知ったのは1970年代の後半、知人のギタリスト、原荘介(78)が口ずさんだのを聴いて、たちまち心を奪われた。韓国のコンサートで「一番大事な歌」と勢い込んでいただけに簡単には引き下がれない。“直談判”に持ち込んだ。
 「私がここで歌って、あなたたち(韓国記者)がどう感じるか? 正直に聞かせてほしい。イヤなら歌うのをやめます」と記者会見の場でギターを取り出し、会見用のマイクに向かって歌い始めたのである。
 記者たちは、じっと耳を傾けて聴いていた。だんだん、その場の空気が変わってゆく。歌い終わってから「もう少し韓国語の発音を正しく歌ってほしい」と注文がついたが、もはや強い拒否感はない。「じゃあ、ここで正しい発音を教えてください」と加藤が持ちかけると、10人以上の記者が、その場に残って即席のレッスンが始まった…。
■韓国での複雑な評価
 洪蘭坡夫人に会ったのはコンサートの直前。夫人は高齢なので、本番のコンサート会場には行けないという。ならば「直接聴いてほしい」と、加藤はソウル市内のレストランで夫人と向き合い、韓国記者からレッスンを受けた韓国語で『鳳仙花』を歌い始めた。
 じっと聴いていた夫人の目から涙がこぼれ、2人は、しっかりと抱き合った。そのとき、夫人の胸の中に去来したのは、韓国における洪蘭坡への相反する評価ではなかったか。
 洪蘭坡が、朝鮮を代表する音楽家の一人であったのは間違いない。『鳳仙花』や、韓国では誰もが知っている童謡『故郷の春』は日本のカラオケにも入っているくらい有名だ。
 一方で戦前・戦中、朝鮮独立運動に関わった後、日本の官憲に捕まって転向し、軍歌などをつくって「日帝」に協力したとされ“親日派”のレッテルを貼られてしまう。2000年代に韓国で発刊された「親日人名事典」にはその“悪行”がスペースを割いて書いてある。数年前には彼の名前を冠した音楽賞受賞者がそれらを理由に辞退したことでも話題になった。
 加藤はこう思う。「歌い手や音楽家には国籍も立場もあるけど、歌は自由に国境を越えてゆくんですよ。誰がどう感じ、どう受け止めようと自由でなければいけない。私の歌も人種も思想もジャンルも関係なく、誰にでも届く歌でありたいと思う。歌い手とか国とかの思惑を越えて歌は、人々のものなんです」
 『鳳仙花』が“抗日歌”として人々を支えたにもかかわらず、洪蘭坡へ親日派批判があったことにも驚かされた。「洪蘭坡は『抗日の歌』を意図してつくったわけじゃない。『鳳仙花』は心に響く美しい歌。歌い継がれているのは歌自体の力なのですよ」
■知らされなかったタブー
 韓国でのコンサートにはありがたくない“おまけ”がついた。加藤が日本語の歌を歌って“タブー破り”をしてしまったことだ。
 韓国で戦後初めて公式に日本語の歌(大衆歌謡)が許可されたのは、それから8年後、1998年、沢知恵(ともえ)が歌ったときだ。加藤もタブーのことを知っていたが、このときは「ぜひ日本語で歌ってほしい」というオファーがあった。だが直前になって「許可しない」との通達があったことを主催者が加藤に伝えなかったのである。
 予定のプログラム通りに歌って物議を醸してしまった加藤は、「ダメだと知っていたら歌わなかった。あるいは『鳳仙花』の記者会見のように直接、お客さんに向かって是非を問いかけたでしょうね。それが私のやり方ですから」
 韓国側にも、そうした日本の大衆文化制限を撤廃したいと考えていた人は少なからずいたらしい。帰国した加藤に韓国のテレビ局から出演のオファーがあり、東京でリハーサルまで行った。だが、放送1週間前に当局からストップがかかり、実現しなかった。それ以来、現在に至るまで加藤は韓国で一度もコンサートをやっていない。
 音楽、映画、マンガなど日本の大衆文化は段階的に開放された。だが、現在も地上波でのテレビドラマ、バラエティー番組などは解禁されていない。=敬称略、日曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

【プロフィル】加藤登紀子
 かとう・ときこ 昭和18年満州ハルビン生まれ。東京大文学部卒。40年日本アマチュアシャンソンコンクールで優勝、翌年デビュー。主なヒット曲に「ひとり寝の子守唄」「知床旅情」「百万本のバラ」。『花はどこへ行った 加藤登紀子コンサート』((電)03・3352・3875)は21日(土)東京・渋谷のBunkamuraオーチャードホールで。

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (12)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(12)
文武両道の京城師範 日朝ラガーで達成した3連覇
2018.4.1

 京城師範は、文武両道の名門校だった。大正10(1921)年創立の教員養成校。学費免除制度があり経済的に恵まれない家庭の秀才がそろった。以前も触れたが、韓国大統領になった朴正煕(パク・チョンヒ)も大邱師範に入学し、教職に就いている。
 「武」の方で名高いのはラグビー部の活躍だ。野球の「春夏の甲子園」と並ぶ「冬の花園」として、人気が高い現在の全国高校ラグビーの前身大会で、昭和5(1930)年から3連覇の偉業を達成、翌8年も準優勝を果たしている。
 優勝旗が玄界灘を渡ったのは、京城師範のときが初めて。3連覇以上は他に戦前の同志社中、戦後も秋田工、啓光学園(現・常翔啓光学園)、東福岡しか達成(両校優勝を含む)していない偉業であった。
 8年に京城師範の附属(ふぞく)小に入学した朴贊雄は『日本統治時代を肯定的に理解する』の中で当時の様子を振り返っている。《京師のラグビー部は殆(ほとん)ど毎日、放課後にグラウンドに集まって練習していた。このグラウンドは僕らの(小学校の)運動場と続いていた。僕らは彼らの練習を見守るのが好きだった(略)いつのまにか自分もひとかどの選手になった気分にとりつかれる》。スター選手をあこがれのまなざしで見つめた興奮ぶりが伝わってくる。
■内鮮一体を具現化
 同校にラグビー部が創設されたのは昭和3年、生みの親は東京高師(現筑波大)選手として活躍した教員、園部暢だった。全国大会優勝後、地元紙に語ったコメントには、朝鮮の教育にかけた日本人教師の志と情熱があふれている。
 《京師のメンバーの中には7人の朝鮮人がおり主将もまたそうである。15人の団結ぶりを見てください。将来、朝鮮教育に従事せんとする彼らが真に内鮮一体の第一線に立ち、理解の少ない内地の人々に朝鮮のいかなるものかを紹介し、内鮮人間の将来に光明を与えたことは京師ラグビー部フィフティーンの功労でなくてなんであろう》と。
 京城師範だけではなく当時のラグビー界は、外地のチームがとても強かった。9年は、鞍山(あんざん)中(旧制・以下同じ、満州)と台北一中(台湾)の両校優勝で京城師範はベスト4▽11年、朝鮮の培材高等普通学校(旧制中学に相当)が優勝▽12年、朝鮮の養正高等普通が準優勝▽13~15年、撫順中(満州)の連覇に台北一中が続き、外地のチームが3連覇を達成している。
だが、京城師範3連覇の後、あまりの強さにクレームがついたらしい。『京城師範学校史・大愛至醇(たいあいしじゅん)』に当時の教員がエピソードを書き残している。《年齢制限の問題が起こってきた…それは明らかに当時6年制(演習科を含む、他の旧制中学などは5年制)の京師があっという間に3連覇を成し遂げたことに対する羨望、嫉視、不満が重なったものと思われます》
 朝鮮で盛んだった学生スポーツはラグビーだけではない。野球も大正年間に夏の甲子園の朝鮮地区予選が始まり、京城中▽平壌中(後に一中)▽仁川商▽龍山中▽徽文高等普通などのチームが甲子園の土を踏んでいる。これら学校スポーツの興隆をはかったのが、日本人教師たちであり、キリスト教系学校の欧米人宣教師らであった。平昌五輪で韓国勢が大活躍したスケートも、日本統治時代の学校で奨励されたスポーツだったのである。
■好ライバル京中VS龍中
 日本統治時代の京城(現・韓国ソウル)は、多くの中・高等教育機関を擁する屈指の文教都市だった。
 大陸(満州・朝鮮)唯一の帝国大学にして総合大学の京城帝大。それに次ぐ、旧制専門学校として、官・公立では京城医学▽同法学▽同工業(旧高等工業)▽同経済(同高等商業)▽同鉱山などが、私立では普成▽延禧▽セブランス連合医科▽梨花女子などがあり、これらの多くは戦後、韓国の大学となった。
中学は、主に日本人が通う中学校と朝鮮人が通う高等普通学校、さらには内鮮共学校など多数の学校があった。中でも、京城中と龍山中はライバル関係にあり、上級学校へのエリートコースである京城帝大予科への進学者数でも、しのぎを削っていた。
 龍中25期生で昭和20年に城大予科(理科)へ進んだ山田卓良(たかよし)(89)は、「両校の違いは居住地によるところが大きかった。(陸軍第20師団司令部などがあった)龍中は軍人の子弟が多く、京中は、官僚や会社員の家庭が多い。よきライバルだったのは間違いないでしょうね」。野球の夏の甲子園出場回数では、京中5回(最高ベスト8)に対し、龍中は1回。戦後はともに韓国の名門高校となった。
 師範学校に高等女学校、実業学校…日本は、朝鮮各地に多くの中・高等教育機関をつくったが、戦後、個人的な関係を別にすれば、多くの学校で、彼我(ひが)の国同士の公式的なつながりはなくなってしまう。
 こうした中で、内鮮共学の京城旭丘中(公立)の日韓の同期生でつくった卒業アルバムに日本人卒業生の近況を知らせる写真や文章が掲載されているのは珍しいケースだろう。5期生の齊藤雄一(86)は、「(内鮮共学は)当時の国策だったと思う。クラスには何の差別もなく仲良くやっていましたよ。慰安婦像を建てては『反日』を掲げて騒ぐ今の方に、大いに違和感を覚えてなりません」=敬称略、日曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(11)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
◎家族と引き裂かれ友は殺された(11)「赤化・北朝鮮」に残された邦人
 北朝鮮の初代最高権力者、金日成が初めて公に朝鮮の民衆の前に姿を見せたのは、終戦直後の1945年10月14日、平壌で開かれた集会でのことだった。当時、33歳。伝説の抗日の闘士「キムーイルソン」の登場を待ちわびていた数万の民衆は、あまりの若さを訝(いぶか)しがり、「偽者じゃないか」と騒ぎになったのは有名な話である。
 金日成は、朝鮮半島の北半分を占領したソ連(当時)によって。”仕立てられた”リーダーだった。だが金は、ソ連派、中国派、国内派(南労党派)などの政敵を次々と粛清・排除し、’次第に唯一無二の独裁体制を固めてゆく。日帝の軍隊をさんざん打ち破った。百戦百勝の鋼鉄の霊将”などと神格化を図り、社会主義にはあるまじき「三代世襲」を正当化する荒唐無稽な物語が紡がれた…。
 金日成が登場したころ、朝鮮の北半分には、30万人を超える日本人がいた。技術者や工場労働者も多い。
朝鮮半島の南半分が「農」中心の地域とすれば、北は「鉱工業」の地域であったからである。
 朝鮮と満州(現中国東北部)の境を流れる鴨緑江水系の電源開発を進め、当時、東洋一と謳われた水豊ダム(発電容量70万キロワット)などを建設。その電力を利用して、やはり東洋一の化学コンビナート、興南工場がつくられた。さらに、戦前の日本の最高水準の技術・人員を投入して多くの鉱山、工場が北半分で開発・建設されている。
 終戦直前に侵攻してきたソ連軍は。火事場泥棒”のごとく、めぼしい設備や機械を、せっせと鉄道で持ち去ってゆく。
残された工場などは各地に設立された人民委員会の管理に移され、朝鮮人が日本人を使って稼働を続けさせた。
 米軍が占領した南半分との境界である「38度線」はすでに封鎖されており、残された日本人は動くに動けない。さらに、陸続きの満州からも大量の避難民が押し寄せていた。
 作家、新田次郎の妻、数学者の藤原正彦(74)の母である、藤原ていが書いた『流れる星は生きている』は、3人の幼子と満州の新京(現中国・長春)から朝鮮半島を経て日本へ引き揚げるまでの生き地獄のような日々を綴った不朽の名作である。暴行、略奪、飢餓、疫病、寒さ、疲労、避難民の対立…朝鮮北部だけで3万人以上の日本人が亡くなったという。
 そして、懸命に命をながらえながら引き揚げを待つ日本人も、赤化されてゆく社会で「南半分」とは違う恐怖と苦しみを味わわされることになる。
■「僕は生きたい」
 佐藤尚(86)は、日本海側の港町、清津の中学(旧制)2年生だった。両親と兄、妹の5人家族。ソ連軍が侵攻してきたのは昭和20年8月13日、関東州の旅順高(旧制)に通っていた兄を除き、4人が清津の自宅に残っていた。
 海上からの激しい艦砲射撃に続いて次々とソ連兵が上陸してくる。避難勧告が出されたその日の夕方。銃弾がビュンビュンと飛び交うギリギリの状況の中で、尚は、父親から。究極の選択”を迫られる。
 「私たちはここ(清津)に残る。お前はどうする、生きたいか?」
 母親の病が重く、動かせる状態ではなかった。すでに医師もいない。妹は逃げるには幼すぎた。つまり、1人で逃げられる可能性があるのは、13歳の尚だけだったのである。
 「僕は生きたい」と答えた尚に父は、幾ばくかのお金と食料、衣服をリュックに詰めて裏口から送り出してくれた。ひたすら歩き、何とか無蓋貨車に乗り込んで南下を続け、途中で親類の一家と合流。南との境にそびえる金剛山を、ようやく越えられたのは、翌年の6月のことだった。
 そして、尚は、ある避難民から家族の最期を聞かされることになる。別れた翌日の8月14日、父は、母と幼い妹に薬を飲ませて見送った後、ソ連兵に撃たれて亡くなっていたという。
 「ギリギリの判断だったと思う。私かもう少し、小さかったら、1人では帰れなかっだろう。あまりにもつらい経験なので長い間、誰にも話せなかった」
 両親と妹の遺骨がどこに眠っているのか。尚は、それを知るすべもない。
■子供のおもちゃなのに
 平壌一中(旧制)3年生だった藤澤俊雄(87)は同級生と一緒に突然、平壌の警察署から呼び出しを受けた。遊び道具として、車の廃品からつくった模造品の短刀を所持していた容疑だったという。
 「人民委員会傘下の保安隊だったのか、警察だったのか…短刀で朝鮮人を襲うつもりじゃないか、と疑われたようでした。殴る蹴るなどはなかったが、友人のことをしつこく聞かれた。
たまたまそこに中学の校長先生がいて『日本人だろ、毅然としろ』といわれたことを覚えています」
藤澤は半日で帰されたが、一緒に引っ張られた友人はいつまでたっても帰ってこない。やがてその友人が警察で殴り殺された、と人づてに聞き、藤澤は愕然とする。「たかが子供のおもちゃですよ。素直に話さなかったのか、態度がよくなかったのか、事情は分からない・・・私も紙一重の命だつたんでしょうね」
 満州との国境の街・新義州中(旧制)2年の太田房太郎(86)も、保安隊による銃撃事件に遭遇し、若い学生が殺されたところを目の当たりにする。後に「義挙事件」として知られることとなる、共産主義者に反発する朝鮮人学生が起こした蜂起事件だった。
 太田らは、事件の鎮圧にあたっていたであろうソ連兵に誰何される。「トラックの上で機関銃を構えたソ連兵に『ストーイ(止まれ)』といわれ、日本人か、朝鮮人か、と聞かれたんです。たまたま学生服を着ていて学生証を持っていたので解放されました」
 だがこのとき、一緒にいた朝鮮人の保安隊員から日本語で「行け、だが後はどうなっても知らんぞ」といわれたときは、生きた心地がしなかったという。「若い学生を容赦なく撃ち殺したのを見ていましたから。
 命からがら家にたどり着き、両親の姿を見たときは張り詰めた緊張が一瞬にして解けたようでした」=敬称略、日曜掲載
  (文化部編集委員 喜多由浩)

金日成・金正日の銅像に参拝する一般市民
朝鮮時代の佐藤尚さん

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(10)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
「日本がつくった」と、なぜ言わない?! (10)鉄道と水道の密接な関係
2018.3.18

 『時刻表でたどる特急・急行史』(JTB発行)に掲載されている昭和17(1942)年10月の時刻表を見ると、「のぞみ」は、関釜連絡船(下関-釜山)が着く釜山(桟橋)を午前8時に出発、鮮鉄・京釜線の大邱、大田などを経て午後4時45分に京城(現韓国・ソウル)到着。京義線に入って、平壌着が夜の9時43分。満州との国境・鴨緑江を渡って終着の新京(現中国・長春)は翌日昼の1時50分着となっている。

 一方の「ひかり」は、昼夜逆の運行で、釜山を夜の7時45分出発、新京着は翌日深夜の11時6分(終着駅はハルビン)。鮮鉄部分(釜山-新義州)が約950キロメートル、満鉄部分(安東-新京)が約580キロメートル、計約1530キロメートルをいずれも一昼夜と少しで結んだ。どちらも1、2、3等車、食堂車、寝台車などを備えた豪華編成列車。さらに昼間走る特急として「あかつき」があり、釜山-京城間を約7時間で走った。
当時、内地と満州を結ぶルートは主に3つ。他に、日本海側の敦賀(つるが)まで鉄道で行き、船で日本海を横断する▽神戸・門司から日満航路の船で大連(関東州)へ着く-方法があったが、朝鮮経由が最も早かった。鮮鉄は、日本から満州やその先のヨーロッパへ向かう足がかりとなったのである。また、京城、平壌などの都市には路面電車も順次、整備され、市民には欠かせない足となってゆく。

 19世紀末から始まった朝鮮の鉄道網建設は急ピッチで進められ、終戦までに総延長約5000キロメートルに達した。鉄道事業収入は、慢性的な歳入不足に悩む朝鮮の財政に大いに貢献したが、新線建設や運営コストも重くのしかかり、費用調達のために巨額の公債を発行せねばならなかった。

 昭和8年度の朝鮮総督府特別会計予算を見ると、鉄道収入約6500万円(歳入全体の28%)に対し、経費は約6900万円で、約400万円の赤字。経費から鉄道建設・改良費を除いた数字でやっと約1500万円の黒字となる。

 この鉄道と水道は一見無関係のようで実は不可分のつながりがあった。

■劣悪だった水環境
 当時の鉄道は蒸気機関車(SL)だ。ボイラーで大量の水を石炭で燃やし、蒸気の力で駆動させる。だから沿線各所に給水所がないとSLは走れない。

 朝鮮の上水道整備も鉄道建設と合わせて日本統治時代に急速に進んでいる。それまでの、水をめぐる環境は劣悪であった。

 昭和12年の業界誌に開城(現北朝鮮)の上水道事業について書いた一文が残っている。

 《朝鮮の開城府は高麗朝500年間の都…昭和5年の府制実施時には鮮内有数の都市にして人口約5万(略)市街一体井(戸)水に乏しく且(か)つ飲料に適するもの稀(まれ)なるを以(もっ)て一朝(いっちょう)悪疫の発生あらんか、その惨害蓋(けだ)し戦慄すべきもの…上水道の建設は亦(また)実(じつ)に喫緊の急務なりとす》

 日本の水道技術は当時からトップレベルにあった。世界でも少ない「飲める水」を蛇口から供給できるのが今も昔も日本の水道技術の自慢である。そのために良質の水源を見つけて取水し、導水し、浄水施設で濾過(ろか)しなければならない。こうした技術と資金を投入し、12年の段階で、朝鮮の約60都市に、上水道を建設。住民の衛生環境も飛躍的に改善した。

■戦後も日本の技術で
 日本が関与した水道の話は戦後も続く。
 日韓の国交が正常化した昭和40(1965)年、当時の韓国国家予算を上回る5億ドル(有償・無償)の巨費が日本から供与されたことはすでに書いた。この資金を利用して、老朽化や供給量不足に陥っていた韓国約10都市の上水道を再整備する計画が持ち上がる。

 実際には、新日鉄(現新日鉄住金)が全面協力した韓国東海岸・浦項(ポハン)製鉄所の建設にも、その資金が回されたため、水道整備計画は縮小されたが、これを担当したのもまた日本の技術者だった。当時の韓国にはこうした技術がなく、日本に頼るほかなかったからである。

 東大名誉教授(衛生工学)の藤田賢二(83)は当時、水道メーカーの技術者として、1960年代後半から70年代にかけて韓国での事業を担当した。大田(韓国中部)、光州(同南部)2都市の取水・導水・浄水施設の計画、設計、建設に携わり、冷却水などに大量の水を使う浦項製鉄所の案件も担当した。渡韓は数十回に及ぶ。「当時はまだ日本語をできる人がたくさんいて、鳶(とび)職人のかけ声などは、日本とまったく同じだったので驚きました」と懐かしむ。
ただ残念なのは、こうした水道施設が日本の資金・技術でできた事実を韓国では“封印”されてしまうことだった。

 光州の通水式で、あいさつに立った市長は「われわれだけの力で水道建設が行われたことはまことに喜ばしい」と話し、日本のにの字も口にしなかった。また、藤田が数年前に大田で開かれた水道関係の国際会議に出席したときも、市の浄水施設ができた経緯を参加者の誰も知らなかった様子だったという。

 藤田は言う。「(光州の市長のあいさつを聞いたときは)苦笑いでやり過ごしたが、じゃあ、なぜ通水式の場に日本の技術者が出席してるのかってね。僕がメーカーを退職した後も、後輩たちが韓国の水道事業に貢献しています。だけど記念碑もないし、(技術者の)名前も残らない。まぁわれわれ技術者は、ちゃんとものが動きさえすればいいんですけれど…」=敬称略、日曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (9)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(9)日本がつぎ込んだ巨額資金 「痛い目」を何度見れば… 2018.3.11
 競技よりも当初は「南北」による政治ショーの方に注目が集まった平昌五輪。「行かぬ」と、一旦は決めたはずの日本首相が開会式に出席したのは、アメリカの圧力か、与党内の一部の意見に妥協した結果か、は知らない。だが、案の定というべきか。韓国大統領との首脳会談で改めて慰安婦問題の合意履行を迫ったものの、相手側は“馬の耳に念仏”のごとし。さりとて、日本政府が拠出した10億円を返す気配もない…。
 国同士の約束事をいとも簡単にホゴにしてしまう不誠実な態度に、多くの日本人は怒り心頭だが、日本と朝鮮半島の「お金」をめぐる、これまでの歴史を振り返れば、相手側の対応も別段、驚くには当たらない。
 今さら言うまでもないが、そもそも「戦後補償」なる問題は、昭和40年の日韓請求権・経済協力協定によって、すべて「解決済み」である。日本は、5億ドルという当時の韓国国家予算を上回る巨額の資金供与(有償・無償)を約束し、お互いの請求権問題は、完全かつ最終的に解決していたからだ。
 つまりこのとき、韓国側だけが、請求権を放棄したのではなくて、日本も、公的資産のみならず、朝鮮の地で個人が築き上げた私的財産まで、すべて最終的に放棄させられたことを忘れてはならない。
韓国が、日本から得た資金やベトナム戦争に韓国軍を派兵する“見返り”としてのアメリカからの援助などによって、1960年代後半以降、「漢江(ハンガン)の奇跡」と呼ばれる高度経済成長を成し遂げたのはよく知られている通りだ。
 だが、韓国側はその後、司法も加わって、「個人の請求権は消滅していない」とか、「(国交正常化した日韓基本条約の交渉時に)慰安婦などの問題は明らかになっていなかった」などと主張し、いっこうに矛を収めようとしない。日本政府側の「詰めの甘さ」も相まって、ウンザリするようなマネーバトルが繰り返されてきたのである。
 実は、「お金」をめぐるゴタゴタは、日本が朝鮮に関わりはじめたときからすでに起きていた。
▲内地より安かった税金
 日韓併合(明治43=1910年)前の、大韓帝国時代の財政は、中央・地方とも予算が組めないほどの破綻状態。このため日本政府は、それまでの借金を“棒引き”にした上、毎年の歳入不足分を、保護国時代は「立替(たてかえ)金」、併合後は「補充金」などとして、一般会計から補填(ほてん)し、帳尻を合わせねばならなかった。朝鮮開発のインフラ整備の原資となった公債の多くを引き受けたのもまた、日本(金融機関など)である。
いったいどれだけの額を日本が負担してきたか。朝鮮総督府財務局長を務めた水田直昌監修の本『総督府時代の財政』から、昭和8(1933)年度の「朝鮮総督府特別会計予算」の例を挙げてみたい。
 歳入総額は、約2億3200万円(現価で4兆6千億円前後)。
 このうち、最も多いのが、官業および官有財産による収入だ。鉄道収入約6500万円▽専売収入約4千万円▽通信収入約1500万円-などで、歳入総額の約55%を占めている。一方、租税収入は、約5千万円で、全体の2割強でしかない。通例、先進国では、全収入の半分以上を租税が占めるケースが多いのだが、当時の朝鮮の経済力は、それだけの税負担に耐えうるまでに発達していなかった。
 時代劇では、悪辣(あくらつ)な領主が高い年貢をかけて農民を苦しめる、と相場が決まっている。だが、統治者・日本はこうした状況を鑑みて、朝鮮の税金を基本的に内地よりも低めに設定せざるを得なかった。昭和17年度朝鮮総督府予算に就(つ)いてという講演の中で、水田はこう語っている。《(内地の)所得に対する税負担の割合は約1割4、5分。(朝鮮の)割合は1割に満たないのであります》
いったいどれだけの額を日本が負担してきたか。朝鮮総督府財務局長を務めた水田直昌監修の本『総督府時代の財政』から、昭和8(1933)年度の「朝鮮総督府特別会計予算」の例を挙げてみたい。
 歳入総額は、約2億3200万円(現価で4兆6千億円前後)。
 このうち、最も多いのが、官業および官有財産による収入だ。鉄道収入約6500万円▽専売収入約4千万円▽通信収入約1500万円-などで、歳入総額の約55%を占めている。一方、租税収入は、約5千万円で、全体の2割強でしかない。通例、先進国では、全収入の半分以上を租税が占めるケースが多いのだが、当時の朝鮮の経済力は、それだけの税負担に耐えうるまでに発達していなかった。
 時代劇では、悪辣(あくらつ)な領主が高い年貢をかけて農民を苦しめる、と相場が決まっている。だが、統治者・日本はこうした状況を鑑みて、朝鮮の税金を基本的に内地よりも低めに設定せざるを得なかった。昭和17年度朝鮮総督府予算に就(つ)いてという講演の中で、水田はこう語っている。《(内地の)所得に対する税負担の割合は約1割4、5分。(朝鮮の)割合は1割に満たないのであります》
税金が取れず、歳入が不足する分を、日本の一般会計から補っていたのが「補充金」だ。8年度は、1285万円(同2600億円前後)で、歳入総額の5・5%。この補充金は、大正8年にいったんは中止されたが、すぐに財政が立ち行かなくなって翌年には復活。終戦までの総額は、約4億2020万円(同8兆4千億円前後)の巨額に上っている。
 そして、昭和8年度の公債が、3300万円(歳入総額の14・2%)。主に日本人が購入した公債によって朝鮮の鉄道、道路、港湾、電信電話などが、着々と整備されていった。
▲17兆円の日本の資産
 前述書は、こう結論づけている。《昭和20年8月15日、朝鮮が独立国として立ち上がった時(とき)の日本内地と朝鮮との貸借対照表は、政府、民間を通じ資金において日本からの多額の流入、すなわち朝鮮の「借」が計上される状態にあったという事実は、植民地搾取という抽象的概念の当たらないことを示している》と。
 日本が終戦時に朝鮮に残した総資産は、実に計約17兆円に上るという試算もある。韓国が理不尽な主張を繰り返すのであれば、「日本人の資産を返せ」と言い返すぐらいの気迫がなければ永遠に解決しないだろう。=敬称略、日曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(8)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(8)感謝された初等教育 「北の2人の母」も日本と関わり
   2018.3.4

 北朝鮮・朝鮮労働党委員長、金正恩(キム・ジョンウン)の母親は、昭和27年、大阪に生まれた高英姫(コ・ヨンヒ)とされている。過去には日本生まれの経歴に触れないまま、何度か「偶像化」が図られたが、うまくはいかなかった。最近、北朝鮮を訪れた在日コリアンは彼女の名前を出したとき、監視役を兼ねる案内員から「その名前は絶対に口にしてはいけない」と厳しくとがめられたという。
 なぜ、「日本との関わり」を隠そうとするのだろうか。抗日パルチザンとして、日帝の軍隊をさんざん打ち破った百戦百勝の将軍などという“盛りに盛った”祖父、金日成の経歴に今さらキズがつくというわけでもあるまいに…。
 昨年2月、マレーシアの空港で金正恩の兄、正男(ジョンナム)が猛毒のVXを浴びせられて死亡した事件の「背景」にも、母親の“出自コンプレックス”があったという見方が出た。正男の母親、成蕙琳(ソン・ヘリム)は、映画女優出身で夫がいたのに、兄弟の父親である金正日が強引に略奪したとされている。
 だが、実は幼時における「日本との関わり」という点で、兄弟の母親たちは戦中、戦後の違いはあるが、2人とも同じなのだ。
■反目やいさかいなし
 日本統治時代の朝鮮随一の名門校であった京城師範附属(ふぞく)小学校。この学校は同じ敷地内に、主に日本人が通う第一小と、朝鮮人の第二小があった。
 説明が必要だろう。朝鮮の教育近代化を進めた日本は学校建設にあたって、「国語(日本語)能力の違い」によって初等教育を小学校(日本人)と普通学校(朝鮮人)に分けた。朝鮮人児童は、学齢期になるまで家庭では朝鮮語しか使っていないからである。
 もっとも、軍人や官吏、名家の子弟など一部の朝鮮人児童は日本人の小学校に通っていたから「差別」と映ったかもしれない。2つの学校名称はその後、「小学校」→「国民学校」と統合されたが、内鮮の区別は最後までそのままだった。
 京城師範附属小にも2つの学校が存在した。昭和12年生まれとされている、金正男の母、成蕙琳は終戦時、その第二小に通う児童だったのである。
 同小で成蕙琳の兄と同級生だった金昌國(昭和8年生まれ)が『ボクらの京城師範附属第二国民学校』の中で、彼女の思い出に触れている。《私はずっと副級長だった…級長になれない理由はただ一つ、クラスには成田君(※成蕙琳の兄)がいたからである。(略)成田君にはかわいらしい妹が二人いて、兄妹三人で登校していた。学校でも時どき兄である成田君に会いにきた…見当たらないと「お兄ちゃんは、どこ」と聞いてきた。かわいらしい妹たちであった》
 この末妹が成蕙琳であった。戦後、一家は北へ渡り、成蕙琳の姉は正男の家庭教師をしていたと伝えられる。
『日本統治時代を肯定的に理解する 韓国の一知識人の回想』を書いた朴贊雄(大正15年生まれ)も同小の卒業生だ。いい思い出が圧倒的に多い。《(第一、第二小は)それぞれの運動場を中にして隔たっていた。しかし、僕らは六年間を通して第一附属の日本人学生と反目や諍(いさか)いに及んだ覚えはない》
 また、4年生のときに新築された校舎が当時、京城帝大にもなかった水洗トイレだったことを記した上で、朴はこう書く。《その新築校舎を日本人児童にあてがって、朝鮮人の方にはお古の校舎を授けたところで何ら問題はなかったはずである。しかし新築の校舎をチャンと(朝鮮人の)児童らに渡したのは、当たり前と言(い)えばそれまでだが、僕は内心感心した》
 まさに、“お人よし”の日本統治をしのばせるエピソードではないか。
■お人よし日本人児童
 今年1月、98歳の誕生日を迎えた上野瓏子(ろうこ)は、日本人と朝鮮人児童の両方の小学校で教壇に立った貴重な証言者だ。2年前、その思い出を『おばあちゃんの回想録 木槿(むくげ)の国の学校 日本統治下の朝鮮の小学校教師として』に書いた。
大正9年、朝鮮南部の全羅南道生まれ、高等女学校を出て、昭和14年、朝鮮人児童が通う榮山浦南小学校の代用教員に。月給40円(現価で8万円前後)は翌年、正式な教員となって、外地手当や住宅手当など約30円も加えられた。
 朝鮮人児童の月謝は55銭(同1千円前後)で、低く抑えられていたという。小学校への入学者は年々増加し、《入学児童数は、男子の方が多く、年齢も揃(そろ)っていて、ほぼ全入に近い状態でした》(同書)と書いている。校長は日本人で、教頭職は朝鮮人。教員は両者半々である。
 19年、今度は日本人児童の月見小学校へ。朝鮮人児童との気質の違いにふれたくだりが興味深い。《日本人の子どもたちの一番の特徴は、闘争心に欠けるということです。しかも、大変お人よしでした。よくいえば、寛容ともいえます》。何やら現在の日韓、日朝関係を思い起こさせる。
 一方で、父親が朝鮮人で成績優秀だった児童を、上野が級長にしようとしたところ、日本人校長が難色を示したというエピソードも記している。統治民族と被統治民族が「イコール」だったわけではない。
上野は実際、どう感じていたか。高齢のため筆談によるインタビューで、「日本の教育を一般の朝鮮人がどう受け取ったかについては、よく分かりません。ただ、戦後の韓国の教育改革に尽くした方(※韓国人)は、統治下の日本の教育が韓国の教育制度の根幹をなしていることや人材の育成の大切な土台となっていることに感謝されています」と。韓国人でも、分かっている人は分かっている。=敬称略、日曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(7)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(7)
京城帝大の「終戦」 なごやかに引き継いだ日朝師弟
2018.2.25

 東亜同文書院は、近衛篤麿(あつまろ)(首相を務めた近衛文麿の父)の提案で、上海につくられた。明治34(1901)年から終戦まで外交官やビジネスマン、研究者など多くの中国のエキスパートを送り出している。同じようにロシアの専門家を育成する目的で後藤新平(初代満鉄総裁、東京市長)の肝煎りで満州に創設されたのが哈爾濱(ハルビン)学院(後にいずれも大学に昇格)だ。「命のビザ」の杉原千畝(ちうね)は同学院で学び、教鞭(きょうべん)も執っている。
 日本が外地(台湾、朝鮮、満州など)に設けた学校は終戦で順次、閉鎖を余儀なくされた。愛知大学は、それらの学校から引き揚げてきた教員・学生の受け皿となるべく、東亜同文書院最後の学長だった本間喜一が中心になって昭和21年、愛知県豊橋市につくった学校である。
 愛知大草創期の教員名簿を見ると、東亜同文書院出身者と並んで、台北、京城の両帝国大学の元教授が多い。最高裁判事を務めた園部逸夫(いつお)(88)の父親で台北帝大教授(行政法)だった園部敏もそのひとりだ。逸夫は昭和4年、父が京城法学専門学校で教えていた関係で朝鮮で生まれ、旧制台北高校から終戦後、四高(金沢)へ転入、京大へ進んでいる。
京城帝大(城大、予科を含む)教授→愛知大への転出組は10人以上だ。民法などを担当した松坂佐一(さいち)(監事、予科長、教授)は後に名古屋大総長、経済原論などを受け持った四方(しかた)博(理事、教授)も後に岐阜大、愛知県立大の学長になった。“京城帝大人脈”が、多くの枢軸ポストについていたことが分かる。
 ◆引き揚げ時期で明暗
 京城帝大予科に在籍していた学生も内地(日本)の旧制高校などへの転入を迫られる事態となった。
 昭和20年4月、約14倍の高い競争率をくぐりぬけてせっかく入ったばかりの城大予科(理科)1年の山田卓良(たかよし)(89)は4カ月で終戦を迎え、翌年、旧制佐賀高へ転入、大阪帝大へと進んでいる。やはり、終戦の年に予科(文科)へ入学した船越一郎(89)は、旧制松江高→九州帝大へ進学した。
 山田の集計によれば、終戦時、城大予科に在籍していた日本人463人のうち、内地の旧制高校へ転入したのは313人。山田は、「六高(岡山)など空襲で校舎が焼けて受け入れられなかった学校もあったが、ほぼ全国の高校が受け入れた。特に朝鮮と近い九州の高校(五高、七高、福岡高、佐賀高)は多かった」という。
ただ、米軍が占領した朝鮮半島の南半分(現在の韓国)のように、終戦翌年にほぼ引き揚げができた地域はよかったが、ソ連(当時)軍占領地域(満州=現中国東北部や朝鮮北半分=現北朝鮮)は引き揚げが遅れたり、シベリア抑留によって大きなハンディを背負わされたりした。日本へようやく戻れたときには、受け入れてくれる学校がなく涙をのんだ人も少なくない。
 福岡の旧制中学、伝習館から昭和17年に城大予科(文科)へ入学した宮本弘道(94)は、法文学部在学中に入隊、終戦後4年間、ソ連に抑留され、ようやく引き揚げてきたときには、GHQ(連合国軍総司令部)によって旧制→現在の新制への学制改革が進められていた。「城大法文学部の先生が東大法学部へ移っていて声をかけてくださったが、今さら新制大学かと思い、行かなかった。戦争がなかったら、高等試験(現在の公務員上級試験に相当)を受けて官僚になっていただろうね」
 ◆朝鮮学生も悲痛の涙
 終戦時の城大の様子については多くの記録が残されている。「紺碧(こんぺき)遙(はる)かに-京城帝国大学創立五十周年記念誌」は、《終戦の日、教授・職員・学生約二百名が集まってラジオ放送をきいた。約百名の学生中、朝鮮人学生もいたが、ともに「君が代」を合唱し、敗戦に悲痛の涙をしぼった。しかしその翌日には、大学内の朝鮮人職員をもって「京城大学自治委員会」が結成され、朝鮮人学生も参加した。山家(信次)総長に学内の警備、文化財の保管責任の委譲を要求し、学内の室の鍵(かぎ)を求めた。十七日には大学の門に太極旗が掲げられ、表札には、新しく「京城大学」と書いた紙がはられ、医学部の表札からは「帝国」の二文字が消された》と記している。
終戦を予科の寮で迎えた船越は翌日、汽車で実家があった朝鮮中部の群山へ帰った。「終戦の日も寮で夕食を食べ、みんなで雑談をしていたくらい。群山へ行くと、暴動もなく街は落ち着いていた」と話す。
 11月初めには城大の日本人教授の解任式が行われた。後任には朝鮮人の助手や教え子が就くケースが多く、《なごやかな師弟愛の中に、教授は後継者にノートや資料を渡し、自分の図書の保管を依頼した》(同記念誌)とある。
 こうした「事実」を知る関係者も少なくなった。城大の関東地域のOBが毎月1回集まっている「一水会」は現在も続いているが、往時数十人の出席者も今では、宮本、船越、山田ら数人のみである。=敬称略、日曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて「朝のくに」ものがたり】(6)

【海峡を越えて「朝のくに」ものがたり】(6)
卒業生が新しい国造与に貢献 韓国に息づいた城大人脈
2018.2.18

 韓国の朴槿恵の母で、朴正煕元大統領の妻、陸英修は「国母」と呼ぼれ、国民に愛された。1974年8月15日、陸は、ソウルの国立劇場で朴正煕大統領の暗殺を狙った在日朝鮮人、文世光の銃弾に当たって死亡する。夫の朴正煕もまた5年後、同郷の腹心であった韓国中央情報部(KCIA、当時)部長の金載圭に宴席で撃たれ、非業の死を遂げている。
 京城帝国大学予科で戦揃、教官を務めていた陸芝修(1906~67年)は、陸英修の親類だ。旧制八高(名古屋)から東京帝大卒。戦後はソウル大教授(経済地理学)となった。
朴正煕も日本がつくった学校と縁が深い。大邱師範を出て教職に就いた後に軍人
を志し、新京(現中国・長春)にあった満州国軍の陸軍軍官壬官)学校の受験を決意。年齢制限を超えていたが、強い熱意を訴えて特別に認められ、当時の新
聞に載ったほどである。
 朴は、満州の軍官学校(2期)予科を首席で修了、本科は日本の陸軍士官学校(57期)への留学を許される。終戦時は、満州国軍中尉だった。
 長々と書いたのは彼らの「親日」ぶりをアピールする意図ではない。優秀な研
究者、軍人であった彼らの進学コースが当時は当たり前だった、ということを分
かってほしいのである。
■ソウル大が「後身」
 終戦後、連合国軍総司令部(GHQ)民間情報教育局の仕事をするため、。日本に滞在していた陸芝修は、昭和27(1952)年3月付で、京城帝大同窓会誌に、「その後の城大(京城帝大の略称)」という一文を寄せている。
 《終戦後の城大の変貌をお話しましょう。城大は1946年の(米)軍政時代に、文字通りの発展的解消をとげました。即ち軍令により(同年)「国立ソウル
大学校」が設立されました。城大の法文学部のうち、法科は京城法専と合併して法科大学(学部のこと)に、医学部と医専が医科大学に・・・これらの単科大学
が総合大学たるソウル大学校になったのです》
 この文が書かれた昭和27年は、朝鮮戦争(1950~53年)の最中、日韓国交
正常化(昭和40年)の13年前である。陸は、戦争による爆撃で、懐かしい予科の校舎がなくなったこと。戦後の韓国で、かつて専門学校だった「延禧(現・延世大)」「普成(同高麗大)」などが大学へ昇格したことを報告しているが、中でもソウル大の人気が格別なのは「45万以上の蔵書を持っていること」が原因だと誇らしげに書いている。
 陸が言うように、ソウル大は、京城帝大の校舎・教員・蔵書などを引き継いで
できたのだ。韓国建国(1948年)直後にソウル大へ入学した80代のOBは。
 「当時は京城帝大の影響が色濃く残っており、ソウル大の前身であることは言わずもがなでした。城大などつくってもらわずとも朝鮮人の手で民立大学ができたというひとがいるけど、実際には、そんな力はなかったと思いますよ」。
■一番良かった時代
 京城帝大の日韓のOBは戦後もわだかまりなく交流を続けてきた。日本側の同
窓会誌には、昔を懐かしむ韓国人OBによる投稿も数多く寄せられている。
 予科(理科)に在籍した閔建植は《終戦後、日本の級友に出合うとこちらは何
とも思っていないのに相手側はよそよそしい態度をとったのはとても変な気分だ
った(略)僕らの一生で一番良かった時代…ただ残念なことは今は国が違い、自
由に同窓会に参加できないこと、後続者のいない淋しさ。最後の一人になるまで
懐かしい同窓会が続いてゆくことを切望している》
 戦後、日韓会談の首席代表や高麗大総長を務めた兪鎮午(1906~87年)は創設時に予科に入学した1期生(法文学部卒)だ。兪は、朝鮮人による民立大学
運動を総督府が邪魔をした、と指摘しながらも。
 《・・・朝鮮内に初めて大学ができた、その予科に初めて入るのだというので、ただうれしいだけだったのは本当の話です。総督府が民立大学を邪魔して、代わりに入れというから不愉快だったというような気持ちは別になかった訳です》
 さらに終戦後には、《京城大学の卒業生がー技術的な方面で新しい国をつくる
際に大変働いた。まあ、貢献した訳です。特にその中でも、韓国の大学教育を建
設する事業に、卒業生が大挙して参加した訳です)
 (『紺碧遥かにー京城帝国大学創立五十周年記念誌』から)とふりかえっている。
 もちろん、被統治民族ゆえの葛藤や差別、苦しみを書き残しているOBもい
る。だが、それは旧友への思いや勉学ができた喜びを打ち消すものではない。
 平成8年には、韓国OBの招きによって、日本の同窓生が訪韓し、ソウルで約
70人による合同の同窓会も開かれている。参加した予科(文科)出身の船越一郎(89)は、「てっきり向こう(韓国)では『京城』や『帝国大学』の言葉を使っちゃいけないのか、と思っていたら、歓迎の垂れ幕に『京城帝国大学』の文字が書いてあり、感激しましたね。会話はもちろん日本語、政治家や弁護士になっていた人もいましたよ」と懐かしむ。
 だが、高齢化によって交流は次第に途絶えていく。現在、日本のOBとソウル
大との間には何のつながりもない。韓国では、これから「京城帝国大学」のこと
を誰が語り継いでいくのだろうか。
   =敬称略、日曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(5)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(5)
「外地初」となった京城帝大 豪華な教授陣と恵まれた設備
2018.2.11


 京城帝国大学とは、どんな学校だったのか。
 大正13(1924)年、帝国大学では6番目の創設、外地としては初めての帝大で、大陸(満州、朝鮮)唯一の総合大学…。大学本部、法文・医・理工の3学部、予科、付属病院、各種研究所、図書館、運動場などを合わせた敷地面積は計約40万坪に及ぶ。
 教授陣の顔ぶれも豪華だった。15年に学部が発足したときの医学部長は、赤痢菌の発見で知られる志賀潔(きよし)(後に総長)、法文学部長は、哲学者の安倍能成(よししげ)(後に旧制一高校長、文相、学習院長)。学校運営に年間300万円(現価で60億円前後)以上(昭和16年度)の予算が組まれた。
 朝鮮よりも15年早く、日本の統治が始まった台湾は、先を越されて悔しがったらしい。予科の国語教授(生徒監)だった近藤時司は同窓会誌で次のようなエピソードを披露している。「(朝鮮総督府の)政務総監が台湾総督府の総務長官と一緒になり、京城に帝大をつくるのだと、得意になって話した。当時予算は台湾が黒字で、朝鮮は赤字(※歳入の不足分を日本政府が補填(ほてん)した)だった。赤字の朝鮮がやるのなら台湾も…」。台北帝国大学の創設は遅れること4年、昭和3年のことだった。
同じ大陸で日本が強い影響力を行使した満州など現中国東北部には、奉天(現瀋陽)に満鉄がつくった満州医大や、旅順工大などいくつも名門単科大学があったが、帝国大学も総合大学もできなかった。
■全朝鮮青年の登竜門
 京城帝大の「特色と使命」について、学部開設を目前に控えた大正15年3月の帝国議会答弁で、湯浅倉平総長(事務取扱)はこう答弁している。
 《朝鮮の古代に発達しております支那大陸の文化、これを朝鮮がわが国に紹介し伝達をいたしました。(略)京城に設置されます帝国大学におきましては特に朝鮮の文学、朝鮮の歴史、これ等(ら)の点につきまして内地の各大学と異なった点に格別の注意をなすことになっております》(『紺碧(こんぺき)遙(はる)かに-京城帝国大学創立五十周年記念誌』)
 朝鮮の伝統を生かしつつ、朝鮮に生まれ、朝鮮の近代化に尽くす人材を育成する-この方針は、予科設置時にも貫かれた。基本的に上部の大学(この場合、京城帝大)にのみ進学する大学予科ではなく、当初はどこの帝大にも進学可能な高等学校(旧制)を設立する話があった。だが、それでは「内地(日本)からの受験生が殺到してしまい、朝鮮の学生の教育機会が奪われてしまう」として、予科(2年制、後に3年制)になった経緯がある。
伝統的に「文科」優位の意識が強い朝鮮においては特に法文学部の人気が高く、高級官僚の登竜門であった法学科の昭和4~17年の卒業生数は、日本人350人▽朝鮮人339人とほぼ拮抗(きっこう)。高等試験(現在の公務員上級職試験に相当)に合格して、朝鮮総督府の官僚や判事・検事の道へ進んだ朝鮮人も多かった。ちなみに同時期の医学部卒業生数は日本人647人▽朝鮮人240人で、こちらは圧倒的に日本人が多い。
 内地から京城帝大を受験し、朝鮮建設に身を投じた日本人も少なくない。
 戦後、警察官僚となり、埼玉県警本部長、大分県副知事などを歴任した坪井幸生(さちお)は、大正2年生まれ。大分の中津中学(旧制)から京城の親類を頼って予科に入学、京城帝大法文学部法学科に進学し、昭和11年の高等試験行政科に合格。キャリア官僚として、朝鮮総督府に採用された。同期生は13人。うち朝鮮人は2人、出身大学は多くが東京帝大だったという。
 坪井が京城帝大の思い出を書き残している。《朝鮮における唯一の大学であり、全朝鮮の青年学徒の登竜門…朝鮮全域から数多くの俊秀が集中してこの予科の入学を志願して殺到した》《法(学)科の教授の陣容は充実していた…関係職員の数は在学生の総数をはるかに超えていたのではあるまいか。整備された物的設備と充実していた人的構成は、当時の他の大学にもあまり類例を見ない恵まれたものであった》(『ある朝鮮総督府 警察官僚の回想』から)
■自分の力でできた?
 “お人よし、おせっかい”の日本にしてみれば、「ここまでやってあげた」感がにじみ出ている。だが、統治された側はそうは取らない。当時、朝鮮人の手によって、民立大学成立の動きがあったのに、「京城帝大によって潰された」。入試においても、「日本語能力に劣る朝鮮人学生には不利な科目(古典など)があった」「朝鮮人入学者に一定の制限が設けられていた」などと、虚実織り交ぜた非難が当時からあったのである。
 こうした感情面の行き違いはある程度は仕方がないと思うが、では、京城帝大はなかった方がよかったのか? そうではないだろう。朝鮮側の当事者たちの経験と思いを次週に書きたい。=敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (4)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(4)
「最後の総督府官吏」の“遺言” 朝鮮人とは仲良くやっていた
2018.2.4

 昨年8月、102歳で亡くなった西川清(きよし)は、「最後の朝鮮総督府官吏」というべき貴重な証人だった。

 大正4(1915)年、和歌山県出身。地元の林業学校を出て昭和8年に、日本統治下の朝鮮へ渡った。複数の郡の内務課長を歴任し、朝鮮人の徴用などに直接、関わった経歴から、慰安婦や徴用工問題をめぐる今の「韓国人らの言い分」が、どれほどウソとデタラメにまみれているか、身をもって知っている。

 虚偽のことが世界中に流布されてゆくことを黙って見過ごせなかった西川は100歳近くになって、安倍晋三首相宛てに事態を憂う手紙を送り、自身の体験をつづった本(『朝鮮総督府官吏 最後の証言』桜の花出版)も書いた。私が昨年6月に取材に訪れたときは耳が遠いくらいで元気そうに見えたのだが、西川は「秋にはもう私はいないだろう」と語り、残念ながら現実になってしまった。

 西川は、日本人に何を訴えたかったか。生前インタビューを行った一人として、それを伝える義務と責任がある。西川が遺(のこ)したメッセージは、慰安婦や徴用工問題だけではない。戦後、70年以上が過ぎた現在では、日本人も韓国人も、うかがい知ることができなくなった日本統治時代の朝鮮社会の「雰囲気」というべきものだった。

 そのひとつが、「日本人と朝鮮人は、ごく当たり前のように仲良くやっていた」ということである。

▲平穏だった社会生活
 朝鮮に渡り、中部日本海側にある江原道(県に相当)産業部に配属された西川は昭和11年、朝鮮総督府の地方官吏養成所の1期生に選ばれる。13の道から計50人、江原道からは西川ら5人、うち2人は朝鮮人だった。「各道を代表してきた若手の秀才ばかり。九州帝大を出た人も2人いました。朝鮮人は全体の半分近くを占め、極めて優秀な人がそろっていました」

 養成所を優秀な成績で卒業した西川は、兵役を経て、28歳の若さで江原道寧越郡の内務課長に任命される。人事や総務を司(つかさど)る枢要ポストで本来は“たたき上げ”が定年前に就くことが多い。上司の郡守(首長)は朝鮮人、郡の上部組織である道の部長クラスも、ほとんどが朝鮮人だった。

 「上司にも部下にも朝鮮人はいましたね。見かけは変わらないし本当に仲良くやっていました。当時を知らない今の人が『怖い、恐ろしい時代だった』などというのはウソですよ。戦争が始まってからも空襲はなく犯罪も少なく物資は豊富で穏やかな生活がずっと続いていたのが真相です。独立運動は“地下”で続いていたのかもしれないが、少なくとも表面に現れることはありませんでした」
西川が持ち帰った写真には、朝鮮人の同僚と一緒に花見や野球を楽しんだり、親しげに肩を組んだりしたカットがたくさん残されている。「日本は立派な統治をしたと思う。(略奪が酷(ひど)かった)西欧の植民地支配とは違い、日本は朝鮮に多大な投資をした。『土地を奪った』という非難も当たらない。従来、あいまいだった朝鮮の土地を、日本が測量・登記し、権利関係を整理したのが本当です」

▲耳に入らないわけが…
 くどいようだが、統治する側とされる側が同じ歴史観を持つことはできない。旧制六高から東京帝大法学部を出て昭和9年の高等試験(行政科)に合格、「キャリア組」として総督府に入った任文桓(戦後、韓国農林相)は戦後出版した自著で、日本人の同期とは出世、待遇などで差別を受けたとした上で、日本に従うフリをする“曲芸師”だったと書いている。

 ひとつには、中央の総督府と、朝鮮人の官吏が多かった地方官庁(西川は道や郡の官吏だった)との雰囲気の違いがあったのかもしれない。

 だがコト、慰安婦問題や徴用工問題に対する見解となると、西川は一歩も引かない。インサイダー(内務課長)として、詳しく実情を知る立場にあったからだ。
西川は、寧越郡の後、さらに規模が大きい原州郡でも内務課長を務めている。

 例えば、戦時の労働動員である「徴用(募集、官斡旋(あっせん)の段階を含む)」は総督府→道→郡→邑(ゆう)・面(町村に相当)のラインで実施された。その“真ん中”にいた西川は募集にかかわり、日本へ向かう朝鮮人労働者を釜山まで送っていった経験もある。「殴る、蹴るで無理やり連行したなんて、とんでもない。ちゃんと面談し、労働条件を示した上で、納得ずくで日本へ働きに行った。給与などの待遇も悪くなかったでしょう」

 西川によれば、当時の朝鮮には、カルボチブ(売春宿)、スルチブ(居酒屋だが、売春婦を置いている店もあった)と呼ばれる店が街ごとにあった。慰安婦になったのはそうした女性が多い。民間人が需要に応じて連れて行ったのである。「もし、日本の官憲が、朝鮮人の若い娘たちを強制連行したならば、通達文書が残っているはずですが、そんなものはないし、私の耳に入らないわけがない。警察官には朝鮮人も多かったんですよ。無理やりそんなことをすれば、大騒ぎになっていたでしょうね」

 終戦時、江原道庁勤務だった西川は道庁所在地の春川に住んでいたが、朝鮮人の民衆から自宅の扉をたたかれることがあったくらいで、略奪や暴行の被害を受けることはなかった。
戦後、和歌山県庁に勤めた西川は1980年代以降、降って湧いたような慰安婦問題などの騒ぎを信じられない思いで見ることになる。平成25年、安倍首相宛てに手紙を認(したた)めたのは、真実を知る者の“遺言”というべきものだったが、返事は来なかった。世界中にばらまかれたウソやデタラメは一向に収まる気配はない。泉下の西川の無念はいかばかりか。=敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (3)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(3)
朝鮮人慰安婦は陽気に声掛け 検診した95歳の元軍医高地俊介 2018.1.28

 旧制平壌一中に「ばい江」という同窓会誌がある。昨年秋に発行した続編第一号で『”従軍慰安婦”虚報・払拭のための朝鮮在住者の意見具申書』を募集した。
 冒頭に趣旨が書かれている。《私たちは戦前、戦中、戦後を通じ、現在の韓国及び北朝鮮に在住しておりました。当時の真実と事実を知るものとして、今のように。”慰安婦”に関する嘘や握造がまかり通っている現状は見るに忍びず、看過することは出来ません。祖国日本の名誉を回復し、子・孫まで誇りある日本の歴史を伝えるためにも、最後のご奉公として、真実と事実を具申します》と。
 平壌は現在の北朝鮮首都だ。同中は日本統治下の大正4(1915)年、京城中(場所は現在の韓国ソウル)の平壌分校として創立。平壌中、平壌一中と名前を変えながら終戦で幕を閉じるまで、京城中などと並ぶ朝鮮の名門中学として多くの人材を輩出してきた。ばい江は平壌の中心を流れる大同江の別名である。
 高齢化によって同窓会は3年前に解散したが、交流の場を残したいという思いで、昨年、有志によって続編が発行された。「慰安婦問題」に関する意見具申を盛り込んだのは、昨今のあまりにもひどいウソやデタラメが世界中で喧伝され、日本人の名誉が毀損され続けていることに強い憤りを
感じていたからだ。
 編集を担当した長尾周幸(88)=30回生=は「世界中に慰安婦像が建ち、事実でないことがまかり通っていることは到底容認できない。今こそ実際に当時のことを見聞きしている人間が立ち上がり、声を上げねばならないと思った」と力を込める。
 そして、この呼びかけに、元軍医の先輩から興味深い証言が寄せられた。
■経営者は民間人業者
 高地俊介(95)は同中の20回生。卒業後の昭和14年、平壌医専へと進む。高地が入学したときの医専は1学年の定員70人のうち、朝鮮人が25人、日本人が45人。
教授陣は外科が東大系、内科・小児科は九大系で、レベルが高かったという。
 高地は17年秋に卒業、陸軍の短期現役軍医試験を受けて合格した。短い教育期間を経て、翌18年1月には、中支・漢口(現中国武漢市の一部)近くの陸軍第39師団へ軍医として派遣される。「戦争が激しくなるにつれ軍医も不足し、私たちはインスタント養成され、すぐに前線へやられた。戦死したら補う″消耗軍医”だったわけですよ」
 軍医少尉となった高地はまだ20歳、同師団野砲兵第39連隊に配属となり、4人の軍医で兵士の健康ケアや、前線で負傷者の治療にあたった。19年3月には中尉に昇進、戦死した軍医の後任として歩兵連隊へと移っている。
 高地によれば、「慰安所」は、各部隊ごとに設置されていた。軍がつくったのではない。「女街のような年配の日本人が経営していました。日本人、朝鮮人、中国人の慰安婦がいたが、連れてきたのはその経営者。民間人の業者が仕切り商売でやったということです。軍が関与したのは性病の蔓延を防ぐために、軍医が定期的に慰安婦の検診を行うことだけです」
 初めて検診に訪れたとき、高地は、朝鮮人慰安婦から明るい調子で誘われたことを覚えている。「遊びに来てえ、タダでいいから!」。20代半ばの慰安婦の方が高地よりも年上で、からかわれたことに心穏やかでなかったが、若い高地には婦人科検診のやり方すら分からない。平壌医専の先
輩だった高級軍医に頼み込んで初回のみ手ほどきを受け、手順を覚えるのに懸命だった。検診は週に1回。
病気の発生が分かれば、程度によって営業停止を命じるケースもあったという。
■日本への非難は不当
 「軍隊と性」の問題は、今さら言うまでもなく、古今東西、あらゆるところに存在している。1991年の韓国映画『銀馬将軍は来なかった』 (張吉秀監督)は、朝鮮戦争を舞台に米軍兵士を相手にする韓国人売春婦を主人公にした名作だ。韓国軍は、ベトナム戦争に参加し、現地女性との間に「ライダイハン」と呼ばれる多数の混血児をもうけ、国際問題を起こしている。先の大戦の終戦直前、満州(現中国東北部)へなだれ込んできたソ連軍(当時)は、邦人女性を見境なくレイプし、塗炭の苦しみを味わわせた…。
 日本軍に慰安婦は存在した。ただし、高地の証言にあるように民間業者が連れてきた慰安婦を使って商売をし、軍はそれを監督した。それ以下でもそれ以上でもない。もとより、恥ずべきダークサイドの問題であり、大っぴらに語るべき話ではない。80年代以降、朝日新聞や一部の日本の政
治家、知識人らか火をつけて煽るまでは韓国でもそうだった。悲惨な話だが、貧しい家の娘たちがお金のために身を売られ、慰安婦となったのは朝鮮人だけではない。日本人にもいた。
 平壌一中の同窓会誌のように日本統治時代の朝鮮で過ごした当事者から、真実を求める声が上がったことは遅まきながら評価していい。他の旧制中学の同窓会からも追随する動きが出てきている。
 実は高地が慰安婦のことを書いたのは今回の同窓会誌が初めてではない。2000年代後半に自身のブログでも軍医としての思い出を何度かに分けてつづっている。「子や孫のためですよ。私も年をとって記憶が薄れてゆく。ちゃんと戦争のこと、自分のことを書き残しておきたいと思って」 日本人によって世界にばらまかれたデタラメ、毀損された名誉は、日本人自身の手によって打ち消す、取り返すしかない。=敬称略  (文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (2)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(2)
創氏改名は「強制ではない」 是々非々貫いた朝鮮人検事 2018.1.21

 朝鮮で近代的司法制度を整えたのは日本である。高等法院(京城=現・韓国ソウル)-覆審法院(京城・平壌・大邱)-地方法院の三審制、それぞれに対応する検事局が設けられた。

 起訴や捜査、法務行政を握る検事が強大な権力を持っていたのは日本統治下の朝鮮でも変わりはない。

 検事の中で朝鮮人として出世頭のポジションにあったのが、大和田元一(げんいち)(朝鮮名・李炳瑢=1905~92年)である。九州帝国大学を出て昭和9年の高等試験司法科(現在の司法試験に相当)に合格。30代で朝鮮人としては異例の平壌覆審法院検事局検事(現在の高検検事に相当、ランクは高等官四等)に出世した。

 19年1月の司法部職員録を見れば、京城覆審法院検事局の朝鮮人検事として大和田より上位(高等官三等)に閔丙晟の名前がある。ただ、明治23年生まれの閔はこのとき50代。京城専修学校出身の“たたき上げ”であり、「キャリア組」の大和田が朝鮮人検事のリーダー格だったと言って差し支えないだろう。

 大和田の前半生は日本の朝鮮統治と重なっている。出身は、朝鮮半島南東部の慶尚北道・金泉の名家(両班(ヤンバン))、父親は日韓併合前の大韓帝国時代、郡守(首長)を務めていた。生後5年で日韓併合(明治43年)となり、朝鮮の教育環境は日本によって急ピッチで整備が進む。具体的なデータを挙げてみたい。

▲開かれた高等教育
 当時、朝鮮人の初等教育は、寺子屋にたとえられる書堂(ソダン)が主だった。日韓併合直後の明治44年の統計によれば、朝鮮人が通う普通学校(小学校)が173校(児童数2万121人)に対し書堂は1万6540校(同14万1604人)。それが昭和8年には普通学校2100校(同56万1920人)▽書堂8630校(同14万2668人)と児童数で逆転している。

 法律や医学の高等教育機関である専門学校は明治44年に5校(学生数409人)だったが、昭和8年には15校(同3785人)へと急増。1校もなかった大学は京城帝大が創設(大正13年予科)された。

 大和田は、地元の普通学校→京城の高等普通学校(中学)→官立の京城法学専門学校と進み、京城帝大はまだ開設されていなかったため(学部は大正15年設置)、朝鮮から最も近い帝国大学である九州帝大法文学部法律学科へ進学した。

 高等試験司法科に合格した大和田は、検事の道を選び、光州地方法院検事局・長興支部検事(昭和14年)→新義州地方法院同(15年)→平壌覆審法院同(18年)と検事として順調に出世の階段を上る。朝鮮人の司法職員数も、明治44年・364人→昭和8年・1232人へと増加した。

 朝鮮人に高等教育の機会が開かれ、法を司(つかさど)る検事や判事(裁判官)のポストに就くことができたことは注目すべきであろう。

▲親日派として指弾
 だが、大和田の輝かしい経歴も戦後の韓国ではマイナスとなった。
 日本統治時代の“協力者”をリストアップし、韓国で2009年に出版された『親日人名辞典』の大和田の項では、「創氏改名」(昭和15年実施)の記述に大きなスペースを割き、大和田が当時の新聞や雑誌に発表した見解を紹介した上で、同制度を積極的に支持したと書いている。

 確かに《栄光的な大日本帝国の兵站(へいたん)基地としての2300万の(朝鮮)半島民衆》などと刺激的な記述はあるものの、《古代的氏族の代名詞である「姓」を止揚(※古い物は保存し、より高い段階で生かすという意味)させ、それに代わって創氏制度が新たに制定される》と法律家らしく明快に説明しており、どこが問題なのか分からない。

 創氏改名ほど誤解が多い政策もないだろう。大和田の言う通り、これは朝鮮伝統の金、朴、李などの「姓」(儒教文化的男系一族の象徴)は戸籍に残したまま、日本風の山田、田中といった家族的な「氏」を新たに創設する制度だ。朝鮮人の「姓」は数が少なく混乱の原因になる上、女性は結婚後もその姓には加われない。古代→近代、一族→家族化を図り「内鮮一体」の同化も進めましょう…というのが目的だった。
本貫と呼ばれる出身地と併せて「姓」を一族の誇りにしてきた名家には、いらぬ“おせっかい”だったかもしれないが、日本人と同等になれる、差別がなくなる…と歓迎した朝鮮人も多い。一方、日本には朝鮮人の犯罪抑止を理由に反対する意見もあったのである。

 重要なのは強制でなかったことであろう。日本風の氏を創設したのは約8割。期間中に届け出なければ、金や朴など従来の「姓」をそのまま「氏」として使うことができた。陸軍中将になった洪思翊や世界的なダンサー崔承喜も、前述の検事、閔も日本風創氏をしていない。もとより「改名」は任意(申請制)である。

▲日本に阿(おもね)ることなく
 大和田の家族は「(大和田は)日本の統治に対して『良い物は良い、悪い物は悪い』という是々非々の態度を毅然(きぜん)と貫いた。そもそも『創氏改名』は強制ではなかったし、同姓同名による混乱を避けるために考慮すべきだという意見だった」と話す。大和田は、保身のために日本に阿(おもね)るような朝鮮人ではなかった。家族の記憶には、民族衣装を着た母親を日本の官憲に侮辱され、敢然と怒鳴り返した姿が鮮明に残っている。

 大和田は、韓国誕生後の1948年11月、大田地方検察庁検事正に就任するも翌年には退職を余儀なくされてしまう。まだ44歳。

 大和田のような優秀な法律家こそ、戦後の新国家建設に生かすべきでなかったか。=敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(1)

(1)日本ほど「お人よし」の統治者はいない 産経新聞 2018.1.14

 他民族の統治において、日本ほど、お人よしで、おせっかいで、一生懸命にがんばった国はない。かつての朝鮮、台湾の統治、あるいは日本が強い影響力を行使した満州(現中国東北部)の経営。当時の日本の国力からすれば、過重な負担に耐えて莫大(ばくだい)な資本を投入し、近代化を助けた。資源や労働力を極限まで搾り取ったり、現地人にロクな教育を与えない愚民化政策も行ったりしなかった。鉄道や道路を敷き、鉱工業を興し、商業、農業、林業を活性化させ生活を富ませた。学校や病院を建て、近代教育制度、衛生環境を著しく向上させたことは疑いようがない。

 日本が朝鮮統治時代につくった鉱工業施設や発電所の多くは現在の北朝鮮地域にある。日本が残した資産は現価で8兆円以上。戦後、北朝鮮は、それを「居抜き・タダ」でもらったおかげで1970年代初めまで経済面で韓国より優位に立つことができた。

 外地初の帝国大学として大正13(1924)年=予科開設、学部は2年後、現在の韓国ソウルに創設された京城帝国大学は、東京帝大や京都帝大よりは遅いが、大阪帝大や名古屋帝大よりも早くつくられている。高等教育を受けた卒業生は戦後、韓国の政、官、財界リーダーとして活躍した。韓国軍草創期の将官も日本の陸軍士官学校や満州国軍軍官学校出身者が多い。まだまだある。朝鮮総督府が同15年につくった公的な唱歌集「普通学校(小学校)補充唱歌集」には朝鮮語(ハングル表記)の歌がたくさん収録されている。主に公募によってつくられたオリジナル歌詞は朝鮮の偉人や名所旧跡、景勝地を歌ったものが多い。唱歌は子供たちが、子守歌の次に触れる音楽であり、情緒育成に大きな影響がある。学校で唱歌を教えられた朝鮮の子供たちは「僕たちの先人にはこんな立派な人たちがいた。自然や歴史的遺産もたくさんあるんだ」と感じたに違いない。現地言語をつかったオリジナルの学校唱歌は、親日的な台湾や、満州でも例がなく、朝鮮だけだ。

 これはどうだ。南北を問わず朝鮮民族にとって最も親しみを感じる歌「アリラン」が同じ、大正15年に公開された同名の映画の主題歌が元になっていることを現代人は知っているのだろうか。しかも、映画の内容は、「日本の威を借りた悪徳地主に抵抗して処刑とされる男」が主人公。それが検閲をパスし堂々と現地で公開されているのだ。唱歌も映画も、緩い文化政治という時代の出来事とはいえ、やはり、日本の統治は“お人よし”と言わざるを得ない。もちろん、統治者と被統治者が同じ歴史観を共有することなどあり得ない。韓国は、この時代を日帝時代と呼び教科書には数々の“悪行”を言葉を極めて罵(ののし)り「民族抹殺」と書いて子供たちに教えた。

 何しろ、華夷秩序の中華思想(小中華)が染みついた民族である。儒教文化的に劣っている連中だ、と「上から目線」で見ていた日本人に支配されてしまったのだから怒りは倍加する、悪いことは全部「日本のせい」となって事実でないことまで妄想は膨らんでしまう。揚げ句、「日帝」に関わったというだけで子々孫々まで指弾され、財産も取り上げられた。慰安婦問題や徴用工問題など、国同士で約束したことを平気でホゴにし、世界中に日本の悪口を言いふらし続ける…。

 もうウンザリではないか。確かに日本が必要以上に“がんばった”のは単なる善意ではなく当時の為政者が「日本の国益にかなう」と判断したからだろう。他民族を統治する上では強圧的な行為や差別がなかったとは言わない。つらい目に遭ったり、屈辱を感じたりした人も多かったと思う。

 だが、すべてを「ゼロ」、あるいは「マイナス」としてバッサリ斬り捨ててしまうのは、お互いのためにはならないし、未来志向でもない。日本統治時代、飛躍的に豊かになった朝鮮の人口は倍増した。海峡を越えて、日本へやってきた朝鮮人には、戦後のスーパースターのひとりに数えられるプロレスラーの力道山、紅白歌合戦にも出場した歌手の小畑実、日本一の美声とうたわれたテノールの永田絃次郎(げんじろう)ら文化・スポーツ関係者も多い。反対に、情熱と志を胸に抱いて海を渡り、朝鮮の近代化に尽くした日本の民間人も数知れない。

 亡くなった後に、祖国から名誉を傷つけられ、親族が身を縮めている姿を見るのは切ないし、タブー視して功績がなかったことにされてしまうのはしのびない。
               
■  □  ■

 本欄は、証言と史料によって、こうした人たちの生涯や出来事を追い「真実」に近づきたいと思っている。

 最初に取り上げるのは日本統治時代の朝鮮で、異例の覆審法院検事局検事(現在の高検検事に相当)になった大和田元一(げんいち)(朝鮮名・李炳瑢=1905~92年)だ。

 九州帝大を出て、昭和9年の高等試験(現在の公務員上級職試験)司法科(同司法試験に相当)合格。30代で、平壌覆審法院検事局検事(三席)になった。役人としてのランクは、天皇の裁可を受け、内閣総理大臣が任命する「奏任官」である高等官四等。軍人ならば、佐官クラスである。
キャリア官僚の登竜門である高等試験は、当時も難関中の難関だった。大和田の同期(昭和9年)合格者(行政科も含む)には、最高裁判事になった団藤重光や日銀総裁・前川春雄、大蔵(当時)事務次官・石野信一らがいる。

 朝鮮人の合格者は少数だが、珍しくはなかった。法を司(つかさど)る判事や検事になる司法科では、合格者名簿を見ると、約330人中、朝鮮人ら外地人とみられる名前は20人近い。戦後、韓国の農林相になった任文桓(旧制六高-東京帝大法学部)は行政科で合格している。昭和2年の朝鮮総督府及所属官署・職員録を見れば、朝鮮の13の道(日本の県に相当)の知事のうち、5人が朝鮮人だ。

 大和田がどんな思いで、検事の仕事を務め、そして戦後、韓国でどんな仕打ちをうけたか…。それは次週に書きたい。=敬称略

 日本と朝鮮半島は、海峡を越えて古来、深い縁(えにし)を結んできた。近いが故の葛藤、もつれた糸をほどいてみたい。(文化部編集委員 喜多由浩)

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◎中国軍には相互主義で対応せよ

◎中国軍には相互主義で対応せよ
 金沢工業大学虎ノ門大学院教授 伊藤 俊幸

 1月11日、日本政府は「宮古島や尖閣諸島周辺の接続水域を全没潜水艦と中国フリゲート艦が通過」と発表した。「日中関係改善に冷や水」といっせいに報道されることになった。

 ▲「測深航法訓練」を実施か 
 接続水域とは「領海の外縁にあり、基線から24カイリの範囲で沿岸国が設定する水域」で、通関・財政・出入国管理・衛生について、沿岸国が権利を主張する海域である。国際空港で、着陸後入国手続きを済ませるまでのエリア、と考えれば分かりやすいだろう。
 空港と違うのは、あくまで領海12カイリ(約22km)の外側にある「国際水域」だということだ。つまり外国船舶は、軍艦か商船かにかかわらず「航行は自由」だ。通過するだけなら沿岸国への通告も許可も必要なく、外国海軍の潜水艦も全没状態での通航が許される。
 今回の中国潜水艦の行動は、元潜水艦艦長だった筆者からみると、典型的な「測深航法訓練」にみえる。太平洋から第一列島線を越え、東シナ海を北上するため、宮古島東側の接続水域をかすめてそのまま左に変針し尖閣諸島大正島北東の接続水域に入った。
 例えば2つの島の裾野の等高線を利用し、その接線が交差するように航路を設定し、航海中は海底深度を測りながら運航する。マストで衛星利用測位システム(GPS)などの電波信号を受信しなくても、全没のまま海中を進むことができる。今回はその訓練をしていたのだろう。

 ▲「航行の自由」に挑戦する国家 
 よく混同されるのが無害通航権である。今回も「接続水域は無害通航」という人がいたが、間違いだ。この権利は領海の通過においてのみ用いられる。領海とは陸地側の基線から沖合12カイリまでの海域で、沿岸国の主権の全てが及ぶ。その一方で、軍艦を含む外国の船舶は「沿岸国の平和、秩序または安全を害さない」限り、「無害」とされ領海内を通航できる。このように一定の条件があるものの、領海であっても「航行の自由」が確保されているのである。
 ところが中国は、1992年の領海法において、軍艦の無害通航権を否定し、違反行為に対しては軍が追跡できる権限を付与した(ちなみにこの領海法こそ台湾、尖閣諸島、南シナ海の島々を領土と規定した法律だ)。外国の軍艦に対しては、領海内通航について「事前許可」を義務付けている。
 さらに、「接続水域」も含めた沿岸国から200カイリの排他的経済水域や大陸棚を「海洋国土」と称し、「国家が管理すべき領域」と捉え、「外国軍艦が立ち入る際には届け出よ」と、事前通告制度を主張している。
 今回のケースでも「海自艦艇2隻が接続水域に入ったから追跡・監視した」と述べている。海自艦艇は「国際水域」を活動中の中国艦艇を監視していたのであって、接続水域入域を理由として、外国軍艦の行動を制限しようとする国は中国だけである。自由主義陣営とは異なったこの国連海洋法条約の理解が、「航行の自由」に挑戦する国家と捉えられるゆえんだ。
 2016年6月に中国フリゲート艦が尖閣諸島接続水域へ初入域して以来、中国情報収集艦の鹿児島県口永良部島西方の領海通過や、沖縄県北大東島北方の接続水域侵入、そして今回と、一連の中国の動きは、まるで日本に対し「航行の自由というが、領海や接続水域で外国軍艦にうろうろされるのは困るだろう」といわんばかりである。「航行の自由」に対する挑発、意趣返しをしているとみることができる。

▲武器を持った徘徊者に等しい
 抗議の仕方を誤ると、日本も「航行の自由」を認めない国になってしまう。今回の日本政府の抗議は、「新たな形での一方的な現状変更で、事態の重大なエスカレーションだ」としたが、接続水域での軍艦の法的な取り扱いには一切言及していない。付言するならば、尖閣諸島の接続水域での活動に対して抗議したのであって、宮古島での活動は言及していないともいえる。
 日本の国有化宣言以降、中国は、尖閣諸島周辺海域に中国海警局の政府公船「海警」を遊戈させ、時には領海侵入さえしている。これは「この家は自分のものだ」と主張する他人が、家の前の道を頻繁に徘徊し、時々庭に入ってくる状態だといえる。
 他人が公道を歩くことは違法ではないが、この徘徊者が武器を持って公道を歩きだし、いずれは武器を持つたまま庭に入ってくるかもしれないと考えると、今回の中国の潜水艦と艦艇の行動を黙って見過ごすことはできない。
 では、どうすればよいか。それは「相互主義」で対応することである。「相互主義」とは「2国間で相手国内で認められた権利を自国内でも認める」考え方だ。日本政府も中国に対しては、領海内では「事前許可」を、接続水域や排他的経済水域では「事前通告」を求めることである。もちろん中国以外の国に対しては何もする必要はない。今こそ中国には「相互主義」の適応を宣言すべきである。
                      (いとう としゆき)

◎中国に運営権「植民地同然」スリランカのハンバントタ港

◎中国に運営権「植民地同然」スリランカのハンバントタ港中国の罠に嵌まったスリランカ
中国の罠に嵌まったスリランカ
中国の罠に嵌まったスリランカ
 融資→多額の債務→99年間貸与 産経新聞2018.1.18 付け

 中国の援助で建設されたスリランカ南部ハンバントタ港。中国からの多額の債務に追い詰められたスリランカが運営権を中国に差し出したいわく付きの港だ。一帯では解雇を懸念する労働者によるストライキが断続的に起きており、異様なまでの警戒態勢が敷かれている。港は地域に何をもたらしたのか。中国が進める現代版シルクロード経済圏構想「一帯一路」が生み出す摩擦の現場を歩いた。(ハンバントタ 森浩)

■商業港が一変、厳戒 
 「そこで何をしていた。お前は誰だ」
 高台から港の全景をカメラに収めて離れようとした際、警備員が近づいてきた。「ここは敏感なエリアだ。写真を撮ることは受け入れられない」と、強い口調で迫られ写真を削除せざるを得なかった。中国とスリランカが主張する「商業的な港」とはかけ離れた実態がうかがい知れた。
 5カ所ほどの出入り口があるが、どこにも警備員が立ち、目を光らせている。「かつて港は誰でも自由に入れたんだ。小さい頃はよく魚釣りをした。中国が来てから窮屈になった」と話すのはタクシー運転手のハトタさん(50)だ。海岸沿いに立ち並ぶ住居は空き家が目立ち、すべて港の拡大計画に伴って立ち退きを要求されたという。
 コロンボの南東250キロに位置するハンバントタはかつては漁村で、今でも野生の象やイグアナが生息する自然豊かな場所だ。港が建設されたのは2010年、親中派ラジャパクサ前政権下でのことだった。費用約13億ドル(約1440億円)の多くは中国からの融資。「当時は地元を潤してくれると思った」とハトタさんは振り返る。
 だが、スリランカ側に重くのしかかったのは中国側が設定した最高6・3%の金利だ。最終的には株式の70%を中国国有企業に99年間貸与せざるを得なくなった。リース料として11億2千万ドル(約1240億円)が支払われるが、事実上の“売却”といえる。
 「債務によるわなだ。植民地になったと同然だ」。野党系国会議員は憤りを隠さないが後の祭りだ。
■「99」に隠された意味 
 憤りを抱えているのは政治家だけではない。
 港の正門から200メートルほど手前の地点では、ストライキを起こしている港湾労働者が集会を開いていた。僧侶も参加し、シンハラ語で「職か?死か?」と書かれた横断幕を掲げ、シュプレヒコールを上げた。
 労働者側によると、中国側に運営権が移り、地元労働者が大量解雇される危険性が生じているという。スト参加者の一人は「解雇の計画があると聞いているが、政府や中国側からは満足のいく説明がない」と不安と憤りを口にした。
一方、港湾開発を主導したラジャパクサ前大統領の支持者からは中国側への株式貸与などで「国の財産が外国に移った」として、現シリセナ政権に抗議する活動も起きている。「確かに港が完成して、ある程度雇用は生まれた。それ以上に地域に混乱も生み出された」とは地元記者の言葉だ。
 正門前での騒動とは裏腹に、港の中は行き交う車両も見えず、静まりかえっていた。寄港する船は数日に1隻程度とされ、とても商業的に機能しているとは思えない状況だ。
 ようやく接触できた中国人技師の男性は、港の貸与年数「99」という数字の発音が、中国語の「久久」(長い期間)と同じだと話し、「将来にわたってハンバントタを管理するという中国政府の意思の表れだ」と解説した。地元の反発については「100年後にここが香港のような大都市になっているかもしれない。それなら地元も幸せなんじゃないか」と話した。

紅い侵入 一帯一路の陰で ◎カンボジア経済特区に積極援助

紅い侵入 一帯一路の陰で ㊦
◎カンボジア経済特区に積極援助
良港の街、拠点化に躍起

 人口増が続くカンボジアの首都プノンペン。市街地と郊外のベッドタウンはトンレサップ川に隔たれ、全長約700mの「チュルイ・チョンバー橋」が結ぶ。
通称は「日本友好橋」。日本が1960年代に完成させ、一度は内戦で破壊されたが94年に修復した。たもとには白本の援助を記す碑文も建つが喧噪に埋もれ、誰も見向きすらしない。
 その日本橋が昨年10月、約2年間の大規模改修のため閉鎖された。現在、市民が頼るのはすぐ横に架かる
「中国友好橋」だ。中国が2014年に完成させ、たもとには中国国旗が入った看板が輝く。
 日本橋と中国橋はともに2車線で、それぞれ下りと上りの専用道として運用されてきた。当面は中国橋が片側1車線の対面通行で、大動脈を一手に担う。
 カンボジア支援では日本が伝統的に存在感を示してきた。だが、援助額では中国が10年に日本を抜いて1位となり、影響力を増している。カンボジアヘの国別投資認可額の累計(1994~2016年、日本貿易振興機構資料)でも、中国が122億ドル(約1兆3600億円)と首位で日本はそ
の8分の1にすぎない。ある日本政府関係者は言う。
 「援助か商売か実態は不明だが、地方の水力発電や道路整備でも中国からの投資は圧倒している。金額やスピードで張り合える状況では、もはやない」
▲「第2のマカオ」
 先月、中国の習近平国家主席が北京でカンボジアのフン・セン首相と会談したときのことだ。中国は70億ドルの支援を発表し、カンボジアの取り込みを図った。
 今月10日には、中国の李克強首相がメコン川流域5力国との首脳会議のためプノンペンを訪れ、「カンボジアと開発戦略を深める用意がある」と秋波を送った。南西部シアヌークビル港経済特区に言及し、さらなる技術移転や観光開発を約束した。
 シアヌーク前国王にちなみ命名されたシアヌークビルは、1960年代に開発された行楽地。再開発が進み、中国は工場などに積極投資した。李氏は中国と前国王の歴史的な友好関係にも触れながら「中国から100社以上が参加し、2万人以上の雇用を創出した一と誇示する。
 ロイター通信によると、人口25万のうち中国人は数万人ともみられる。市内には中国語の表示があふれ、中国人向けホテルやカジノが建設され、・[第2のマカオ]との異名も。中国の援助で、プノンペンからの高速道路も計画されている。 中国がシアヌークビルにこだわる理由は、この地がカンボジア唯一の深水港を擁することにある。隣国ラオスからプノンペンを経由しタイ湾に抜ける要衝でもある。現代版シルクロード経済圏構想「一帯一路一を推進するため、影響下に置いておきたい拠点なのだ。
▲ 進む″米国排除“ 
30年以上権力の座にある
フン・セン氏は、今年7月の総選挙を前に「今後も10年間は首相にとどまる」と豪語している。中国寄りの姿勢とともに独裁色を鮮明にし、昨年6月の地方選で躍進した野党カンボジア救国党を解散させるなど基盤固めに躍起だ。
 一部メディアや団体も閉鎖に追い込んだが、「狙われたものの多くは、米国と何らかのつながりがあった団体や個人だった」(英誌エコノミスト)という。米国は報復措置として、入国ビザ(査証)発給制限などカンボジアヘ制裁措置を連発。昨年11一月には、プノンペンの「カンボジア地雷対策センター」(CMAC)へ、年間200万ドルの支援打ち切りも通告した。
 米国の援助打ち切り通告から数日後の]11月中旬、フン・セン氏は中国側から地雷除去支援の申し出があったと発表した。米国が支援に後ろ向きな態度を見せれば、中国がすぐさま取って代わろうとするのだ。
 ただカンボジア内では、中国への傾斜に警戒も強まる。調整役として期待されるのが日本だ。そもそもCMACは内戦時代に埋設された地雷などの除去に当たる政府組織で、日本が1992年に初めて国連平和維持活動(PKO)として派遣した陸上自衛隊の活動を受け継いでいる。
 中国が圧倒的なヒトとカネでカンボジアヘ”浸入”すればするほど、フン・セン氏は強権化する。日本が民主主義のもとで「質」や「信用」を武器に「自由で開かれたインド太平洋戦略」をどう展開するのか。
その手腕が問われている。
      ◇
 この連載は、佐藤貴生、矢板明夫、森浩、吉村英輝が担当しました。

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紅い侵入 一帯一路の陰で ◎パキスタンの商業港に巨額投資

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◎パキスタンの商業港に巨額投資
中国マネー「風の門」一変
  
 パキスタン南西部グワダル港に着くと、アラビア海から強い南風が吹き付けてきた。グワダルが、地元バローチ語で「風の門」を意味するとされる理由だ。
 この地は日頃、周辺の不安定な治安状況などを理由に外国人の立ち入りが規制されている。昨年12月、当局の特別な許可を得て入る機会を得た。
 何世紀にもわたって小さな村にすぎなかうたその景観は、中国の巨額マネーで一変しようとしていた。習近平政権が推進する現代版シルクロード経済圏構想 二帯一路」の戦駱的要衝のひとつだからだ。
 「ここに隠しているものは何もない。すべてを見てほしい」。地元港湾局のドスタインージャマルディニ代表はこう説明した。
 穏やかな漁村や市場の風景が広がる中、港付近には高さ20長ほどの大きなクレーンがいくつも立ち並ぶ。
中国語の看板に「中巴友誼」(中国とパキスタン友好)との文字も見えた。

 中国は、西部の新禧ウイグル自治区カシュガルからグワダルに至る約3千kmに沿う地域を一帯一路のもとで「中国・パキスタン経済回廊」(CPEC)として開発支援し、中国からパキスタン全体に落ちるカネは、約600億ドル(6兆7千億円)といわれる。
 「この1年半で港の風景が急速に変わったのは、中国からの投資のおかけだ。CPECによって、われわれは電力危機からも解放された」とジャマルディニ氏は断言した。今後は診療所や職業訓練センターも設けられ、「地元は大いに発展していく」という。
 港側は”バラ色の未来”を強調する。ただし、今後の発展は未知数だ。整備対象となる海岸線51kmのうち、完成しているのは港のほんの一部の500mほどで、巨大クレーンも活発に稼働している様子は見受けられない。船の着岸も2週間に1度程度だという。
 何より目に入るのは配備された警備員だ。地元バルチスタン州で続発するイスラム過激派などによるテロ事件を反映してか、全員が銃を抱えて周囲を警戒する。港に出入りする船も海上警備艇がほとんどだ。現状は活気よりも、ものものしさが漂う。
 グワダル港側は一貫して「純粋に商業的な港一であることを強調している。
 「グワダルに安全確保名目で中国軍が展開する可能性がある」(インドのPTI通信)、「中国はジブチに続き、グワダル港近くに海軍基地を建設する計画だ」 (香港紙サウスチャイナ・モーニング・ポスト)…。こうした報道が相次いでいることを念頭に置いた発言だ。
 「ここに基地が造られるわけではない」。ジャマルディニ氏は語気を強めるが、既に2015年11月に中国国営企業が港中心部帝約40年間管理する権利を獲得しており、パキスタン側の説明通りに推移するかどうかは不透明だ。
「パキスタンは中国に占領されようとしている」。地元記者はこう嘆息した。

 グワダルの東に位置するパキスタン最大の商業都市カラチの環状鉄道も、中国の存在感を示している。かつては地元住民の足だったが、経営が悪化したため1999年に運行が停止。今や線路に近隣住民が不法に住み着いている。
 日本の国際協力機構(JICA)が10年の工期で再建させる計画があり、調査まで行っていた。だが、最終的には昨年10月に中国が事業費2075億パキスタンルピー(2225億円)の大半をCPECの一部として支払うことで合意した。
 「それについては、われわれは選択の余地はなかった。投資してくれるところが中国だったということだ」と地元シンド州のフサイン・シャー鉄道相は説明する。支援国が中国になった内幕は定かではないが、関係者は「シャリフ前政権時代に流れが変わった。
(JICAが関わることに)中国から相当な横やりが入ったようだ」と明かす。

?パキスタンを基点に中央アジアに伸長し、インド洋や中東、アフリカヘの海の玄関口を得たい中国。CPECは、カシミール地方のパキスタンとインドの紛争地域も縦走し、インドをいらだたせる。中印は、カシミール地方の別の地域や印北東部アルナチャルプラデシュ州の領有権を争ってい
る。対インドで蜜月にある中パの一層の連携は、核武装する3力国の危険な。火薬庫”に火種を与えている。
 地域で存在感を保ちたいインドは、グワダルに対抗するように昨年12月、イラン南東部チャバハルに5億ドル(約560億円)を投資して港を開いた。グワダルから距離にしてわずか100km。中央アジアヘの物流活性化を狙っており、CPECに対抗する意図が透けてみえる。
 日本も通関設備やコンテナ装置などで資金協力を行っており、周辺地域は安倍晋三首相が米印とともに推進する「自由で開かれたインド太平洋戦略」と中国が真正面からぶつかり合っている場所とも言える。
 パキスタンのある研究者は、苦しげにこう話した。「本音で言えば中国は信用できない。投資の先にあるのは支配かもしれない。それでもインフラが立ち遅れたこの国にカネを出してくれる。何かよく、どこに付くのが正解か誰にも分からない」

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紅い侵入 一帯一路の陰で ◎人民解放軍ジブチに拠点

紅い侵入 一帯一路の陰で
◎人民解放軍ジブチに拠点
「玄関口」の基地真意は

 国際海運の要衝、アフリカ東部ソマリア沖のアデン湾に面する小国ジブチ。港に向かうゲートから脇道に入ると間もなく、荒れ地の中に高さ 3mほどの壁と鉄条網が姿を現した。
「そろそろ戻ろう。これ以上は行かないほうがいい」。地元の労働者の姿が消えると、タクシー運転手が不安げに言った。
 灰色の壁に囲まれた広大な敷地のあちこちに監視塔が建つ。正門からは中国の国章が入った堅牢そうな建物が見える。一帯はひっそりと静まり返り、内部の雰囲気はうかがえない。
 昨年8月1日、ジブチ市街から西へ約10kmのこの場所で正式稼働した中国人民解放軍の基地だ。

 中国軍が外国に長期的な駐留拠点を設けたのは、1958年に北朝鮮から撤退して以来とされる。中国政府は基地建設の目的について、艦船などの停泊や物資供給のほか、国際軍事協力や緊急救助などを挙げる。
 中国軍系シンクタンクの研究員によれば「中国は2015年、8千人規模の平和維持部隊を発足させた。数年以内に3万人規模に拡大する構想がある。この基地はその拠点で、戦略的に大きな前進だ」という。
 アデン湾近海は日本関連商船も年間約2千隻航行。
日本にも航行の安全に関わる重要な航路だ。海賊対処活動を展開するため、日本もい11年からジブチ国際空港北西の敷地12鉛を借り上げ、自衛隊初の本格的な海一外拠点として運用している。
 中国も国際的な海賊対策に名を連ねる一員であり。
 現地の自衛隊幹部は「必要なら情報交換などを行うべき間柄だ」と語った。しかし、中国軍の基地建設をめぐっては、さまざまな臆測が飛び交っている。
 中国軍は昨年11月、ジブチで火力演習を実施した。
 対戦車装甲車両も加わり、砲弾も発射された。軍幹部は中国英字紙チャイナーデリーに「戦闘能力を確かめ、現地情勢への適応能力を高めることが目的だ」と述べ、軍備増強との見方を否定したが、自衛隊関係者は「基地建設の理由が中国のいう通りであればなぜ実弾を使った軍事演習が必要
なのか」と首をかしげた。
 アフリカで獲得した膨大な天然資源を中国に運び込むため、ジブチ周辺の航行の安全を確保するとの主張は一見理にかなっている。
 実は自衛隊の活動拠点に隣り合うように、米軍のレモニア基地がある。基地は米軍がアフリカに有する唯一の常駐施設。中国軍の基地とは車で30分の近さだ。
 欧米メディアは中国軍が盗聴やドローン(小型無人機)によって、米軍基地の様子を探ろうとしていると疑う。長期的には、スエズ運河に通じるこの海域一帯で軍事的影響力を強化するのではーとの観測もある。
 中国軍系シンクタンクの同研究員は「周辺地域に対する影響力も、国際社会での中国の発言権も大きくなる。イエメン、オマーン、ケニアでも基地の建設を準備している」と指摘した。
 そうした状況は、米国が日本、インドと「自由で開かれた海」を目指すインド太平洋戦略と相いれない。東アフリカと歴史的に結びつきの強いインドや米国と連携を強める日本にとっても、ゆゆしき事態となる。
      ◇
 ジブチは中国の習近平政権が掲げる現代版シルクロード経済圏構想「一帯一路」の欧州やアフリカヘの玄関口。】帯一路のルートに沿って、パキスタンやカンボジアなど、各地で水が入り込むように影響力を広げる中国の策略を探った。

◎要衝の小国 米中基地が近接
港湾、鉄道中国主導でインフラ整備
 ジブチはスエズ運河に至る紅海の南の入り口に位一置する。インド洋と地中海、いわばアジアと欧州の懸け橋であるアデン湾は、世界の船舶の3割が通過するといわれる要衝に当たる。
 ほかにアデン湾に面する国は、内戦が続くイエメンと、イスラム過激派が暗躍するソマリアだ。沈静化の傾向にあるものの、海賊の商船襲撃が続き、国内情勢が安定している国はジブチしかない。
 四国の1・3倍程度の小国に、米中が基地を置く理由の一つはここにある。

 ジブチ市街に近い米軍のレモニア基地には、海軍主導の4千人余りの人員が配置されている。米軍はここを拠点に、中東・アフリカのイスラム過激派に対して、ドローン(小型無人機)を活用して反テロ作戦を展開している。
 一方、中国軍の基地にも数千人が駐留するとみられている。基地に入ったことがある現地男性(29)によると、中の施設は9割がすでに完成している。残る1割の建設にジブチ人が従事しているという。
 「軍服姿の中国の軍人が多数活動している。基地の外周に車が止まったら、30秒もしないうちに警備担当者が数人飛んでくる」。厳しい警戒態勢は、地元の人々も近づくことをためらうほどだ。
 中国の「一帯一路」と、その対抗軸として日米印が連携する「インド太平洋戦略」が交錯するジブチ。至近距離に出現した中国軍の基地について、米紙ニューヨークタイムズは「ライバルのアメリカンフットボールチームが隣り合う練習場を使うようなものだ」と懸念する専門家の談話を紹介している。

 ジブチの国内総生産(GDP)は2015年で約17億ドル(約1900億円)と推定されている。欧米メディアによると、中国はジブチの経済改革のため、実に10億ドル以上を貸与する方針を示している。
 1人当たりの国民所得は推定約1800ドル(約20万円)にとどまる。市街を離れれば、荒れ地の上にトタンやシートで造られた粗末な家が並んでいる通りもある。
 中国はこの国でエネルギー開発などを手がけるほか、基地に隣接するドラレ港の開発にも関わっている。街中では「中国鉄建」 「中国土木」などの中国企業のロゴがいくつも目に留まる。
 「中国人はここにたくさん住んでいる」。中国雑貨の店や中華料理店が入った低層ビルの前に通りかかると、タクシー運転手が指さした。
 中国は経済支援でインフラ整備などを進め、雇用を創出していると主張する。
ただ、その恩恵を受けるのはジブチの人々ではない。送り込まれた中国人が仕事も奪ってしまう。アフリカにおける「中国式外交術」は、ジブチでも踏襲されている。

 ジブチと隣国エチオピアの間では昨年、中国主導で鉄道が建設された。内陸国のエチオピアの総貿易量の大半がジブチ経由とされる。
 将来、この鉄道をセネガルまで延長し、アフリカ大陸の東西を結ぶ「大動脈」にする計画もささやかれている。
 「中国が造った道路も建物も完璧だ」
 「中国が来たおかけで経済がよくなる」
 ジブチ市街で話した大学生たちは一様に、中国を歓迎し、警戒感はみじんも感じられない。
 中国軍基地の土地賃借料は年間2千万ドル(約22億円)という。数年前に跳ね上がった米軍の賃借料の6300万ドル(約70億円)の3分の1以下に抑えられている。
 こうした優遇ぶりからは、ジブチ政府もまた、隠された思惑に気付かず、中国の”浸入”を許していることがうかがえる。

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【実録 韓国のかたち 番外編】

【実録 韓国のかたち 番外編】産経ニュース / 2017年12月28日
なぜ日韓合意検証 左派政権、底流に反日…反日は善、方便、自己肯定手段

日韓合意骨子

 慰安婦問題をめぐる日韓合意の検証結果が発表されたが、「問題の再燃は避けられない」と否定的な見解が盛り込まれたのは予想通りだった。それにしてもなぜ検証は必要だったのか。左派政権の底流に反日姿勢があるからだろう。
 韓国の左派にとって反日は善であり、方便でもあり、自己肯定の手段であるともいえる。それは韓国という国の成り立ちをめぐる論争と関係している。
「建国は1919年」
 左派は日本統治下で独立を目指した「三・一運動」が起きた1919年3月1日が、大韓民国政府が樹立された日であると主張。保守派は民主的な手続きにのっとって政府樹立を宣布した1948年8月15日としている。 
 大統領の文在寅(ムン・ジェイン)は就任直後、「大韓民国の建国は1948年」と記述した朴槿恵(パク・クネ)政権時代の「国定教科書」の廃止を発表した。
 左派勢力が「1948年8月」を否定する理由はおもに2つある。
 ひとつは韓国で建国の主体となったのは日本の植民地統治に協力した官僚、資本家らだったという事実だ。しかし、北朝鮮では親日勢力を人民裁判で裁いた後、国をつくったので正当性があるとみる。左派の一部が北朝鮮に連帯感を覚える理由はここにある。
 もうひとつは、1948年樹立の韓国政府は米国や反共主義など「外部勢力」に依存してきた政府という主張だ。一方の北朝鮮は「民族・自主」を国是とする。左派にとって今の保守勢力の多くは親日派の子孫であり、独裁政権に“寄生”してきた人々。清算すべき「積弊(長年積もっと弊害)」対象は「親日」に集約されている。
 左派政権の正当性を文はかつて上海フランス租界に拠点を置いていた「大韓民国臨時政府」にあると言ってきた。
 1919年3月、上海でつくられた臨時政府が中国各地を転々としながら重慶にたどりつき拠点を構えたのは1940年。蒋介石の国民党政府は臨時政府を正式には認めなかったが、主席の金九(キム・グ)をはじめ独立運動家らと家族に居場所を提供、活動資金を提供した。
 12月13日からの訪中の締めくくりに文は重慶市の臨時政府庁舎跡を韓国大統領として初めて訪れた。文は、金九が使ったとされる筆や机、寝具を見て回ったあと独立運動家の子孫らとの懇談会でこう話した。
 「ここに来てみてわが先烈たちが中国各地を転々としながら抗日独立運動にささげた血と涙、魂と息吹を感じました。(中略)臨時政府はわが大韓民国の根っこです」
 韓国経済新聞の主筆、鄭奎載(チョン・ギュジェ)は「臨時政府は領土、国民、主権を持っていなかった。左派が建国を1919年だと強弁するのは政治的な意図がある」と主張する。
 しかし、左派政権は反日を国内的には保守崩しに、対外的には植民地統治を受けた側の「道徳的優位性」を示す手段に利用する。
 それは、今回の訪中での「中韓は近代史の苦難をともに経て克服した同志だ」「韓国人は中国人が経た苦しく痛ましい事件に深い同質感を持っている」との文の発言によく表れている。
 このような文政権の価値観は慰安婦合意の検証作業だけでなく、朝鮮半島有事の対応にも暗い影を落としている。
半島有事に影
 文は訪中で日米韓の安保協力を軍事同盟に発展させないと中国側へ「約束」した。これも半島有事の際の国益より左派的な価値観を優先した言動といえる。
 韓国には、旅行者も含め約5万7千人の日本人が滞在しているが、半島有事の際の日本人の退避方法などについて、文政権は日本との事前協議に応じていない。 
 半世紀近く韓国現代史を研究、数多くの歴史書を執筆した元大学教授はこう嘆く。「文政権は現実誤認、歴史誤認がはなはだしい。これでは未来はない」
              =敬称略
         (龍谷大学教授 李相哲)

【実録 韓国のかたち 第3部(9・10)】

【実録 韓国のかたち 第3部(9)】2017.12.28
左派メディア、「詐欺常習犯」の告発掲載 清廉潔白候補の“フェイクニュース”、選挙戦左右

「息子二人の兵役逃れの事実を隠蔽」の偽情報
 左派政権の継続を阻止すべく野党ハンナラ党は清廉潔白でクリーンなイメージを持つ元最高裁判事、李会昌(イ・フェチャン)を大統領選の公認候補に選んだ。金大中(キム・デジュン)の側近や親族の腐敗が国民の怒りを買う中、対照的な李を出して勝負に出たのだ。
 李はソウル大在学中に司法試験に合格。空軍将校として兵役を終えた後、最高裁判事などを経て金泳三(キム・ヨンサム)政権では国務総理を歴任したエリート。盧武鉉(ノ・ムヒョン)とは対照的な経歴と経験を有するうえ、公職に就いていた40年間、賄賂を受け取ったこともなかった。軍政下でも原則を曲げない判決を出したことでも有名だった。
 02年5月21日、市民参加型の左派メディア「オーマイニュース」は、李に関する衝撃的な記事を掲載した。「兵役不正専門捜査官」(後に詐称が判明)と称する金大業(キム・デオブ)の告発によれば「李は、息子二人の兵役逃れの事実を隠蔽するため対策会議を開き、関連資料を破棄した」というのだ。
偽造テープも 後に判明も支持率ガタ落ちのまま大統領選は終わり…
 一報が出たあと盧陣営は「特権層の代弁者、李会昌を審判せよ」との論評を発表する。

その後、金は「李候補の夫人が息子の兵役を免除させるため兵務庁職員に1000万ウォン以上を渡した」「その時交わされた会話を録音したテープがある」とと暴露した。
 後にテープは偽造したものだったことが判明するが、“物証”が出たことで一部メディアは、李はそういうことをしないかもしれないが、夫人ならありうるかもしれないとの論調をはる。実はこのテープは、テープ製造日が会話を録音した日より後だったことが判明するが、それは大統領選挙が終わったあとのことだった。
 裁判記録によれば金は、詐欺の常習犯で軍病院に在職していた1985年に診断書を偽造する方法で約20人から賄賂をうけとったとして懲役一年の実刑判決を受けていた。
 李の息子は二人とも体重が規定に達していないとの正当な理由で兵役が免除されたが、有権者にはそのような説明は通用しなかった。
 結果的に金の「世紀の偽暴露」は選挙の行方を大きく変え、李の支持率は二桁近くも落ちた。
金大中政権の組織的、陰湿な裏工作 政治は下手だが宣伝術に長け
 当時、ハンナラ党選挙対策委員長を務めた徐清源(ソ・チョンウォン)は、こう振り返った
 「2002年の大統領選は金大中政権が組織的に陰湿な裏工作を繰り広げた選挙だった。(中略)工作選挙に対してわれわれが未熟だったのは事実だ」

李を熱烈に支持した国会議員、イ・ウォンチャンは「盧を支持した左派勢力は、政治は下手だったけれど宣伝術にはたけていた。新聞に『戦争か平和か』と広告を出し、李会昌が大統領になれば戦争になるという高度な宣伝術を展開して一般庶民を攻略した」
 選挙戦の途中までリードしていた李は終盤にきて失速、金大中の路線を継承する盧が僅差で大統領に当選した。李の得票率は46・59%、盧の得票率は48・91%だった。
 大統領に当選したものの盧は、前任者の金大中のように「派閥」をもっていなかった。与党公認候補になったときは現役議員でもなかった。
 盧の支持基盤は政治圏外にいる「ノサモ」に加え、学生運動出身者、湖南地域の有権者に限られていた。彼らは政治的に分け合える権力や権益がなかった分、政治的理想を共有しており、結束力も強かった。
 このような「アマチュア政権」に保守勢力は当初から拒否反応を示した。盧は回顧録「成功と挫折」で「政権をスタートさせてみると、私を認めてもくれないし、いろいろ努力しても対話を開く(反対層との話し合い)のがむずかしかった」と振り返っている。
=敬称略
(龍谷大学教授 李相哲)

【実録 韓国のかたち 第3部(10)】2017.12.29
盧武鉉、偽りの「親米」-金正日を呼び捨てにしたブッシュに「敬称」を使えと要求、信頼得られず

寝室まで監視されたことへの鬱憤

 大統領に就任してまもない2003年5月11日、盧武鉉(ノ・ムヒョン)は米国を訪問するが、それまでの反米姿勢とは打って変わって親米的な発言を連発し世間を驚かせた。

 ニューヨーク滞在中の13日、「53年前(朝鮮戦争時に)米国が助けてくれなかったら、私は今ごろ政治犯収容所にいたかもしれません」と発言、さらに「米国に来るときは頭の中で好感を持ったが、来て2日のうちに心で好感を抱くようになった」とまで述べた。

 翌日には「米国は他人のために犠牲を払った人々が生活する国だ。自由と正義が常に勝利してきた国、本当にうらやましい。良い国だ」と絶賛した。

 これに「ノサモ(盧武鉉を愛する集い)」と左派団体は一斉に反発した。後日、一連の発言について、盧に近い人物はこう擁護した。「大統領には金日成の思想を信奉する側近らが同行していた。大統領の一挙手一投足はもちろんのこと寝室まで彼らに監視されていることへの鬱憤を(親米発言という形で)吐きだしたのだと思う」

 盧自身は初訪米での親米発言の理由を回顧録でこう記した。「南北問題を解決するためには親米もし、親北もし、親中も、親ロ、親日、すべてやらなければならない」

しかし、初訪米後は当初のように北朝鮮を擁護する発言を躊躇(ちゅうちょ)せず繰り出した。

 04年11月、南米歴訪の途中で立ち寄った米ロサンゼルスで盧は「北韓(北朝鮮)の核保有は体制の安全を保障しようという理由がある。理にかなう」と理解を示した。

「何を考えているかわからない」「反米的で少しクレイジー」

 チリで行われたアジア太平洋経済協力会議(APEC)の合間の米韓首脳会談でブッシュは「私は、本当に金正日を信頼しません」と切り出し、その理由をこう語った。「彼(金正日)は私の前任者に嘘をつきました。わたしは自国民を飢え死にさせるいかなる人も信頼しません」。

 盧は、ブッシュの説明に納得するどころか北指導者の名を呼び捨てしたことに反感を持ち、後に「(ミスターなど)敬称を使ってほしい」と要求した。

 05年9月、米財務省は北朝鮮によるマネーロンダリング(資金洗浄)の疑いでマカオの銀行、バンコ・デルタ・アジア(BDA)への制裁を発動、北朝鮮関連口座を凍結した。これは現在に至るまで北に最も打撃を与えた制裁となった。

 同年11月、韓国南部の古都、慶州で米韓首脳は再び会談を行う。側近によると、盧は不満を隠さず、BDAに対する制裁を解いてほしいと強く要請した。

そのような盧を米国政府が信頼できるはずはない。ブッシュ政権で国務長官を務めたコンドリーザ・ライスは、回顧録のなかで盧を「到底何を考えているかわからない人だった」と酷評。国防長官を務めたロバート・ゲーツも回顧録で「彼は反米的でおそらく少しクレイジーだと結論づけた」と記した。

 盧は回顧録で自身についてこう記した。「私は教養もありません。私なんかが大統領になることがわかっていたら前もって練習すればよかったのですが、体質的に腰をよく曲げるほう(権力にこびるという意)なので、上座に座ると不安でならない」

国内政治でも失敗

 在任中に盧は対外政策だけでなく国内政治でも失敗を重ね、任期を1年余り残した06年末の「国政運営支持度調査」では、5・7%の最低支持率をたたきだした。金大中(キム・デジュン)同様、親族や側近の不祥事が相次いで明らかになり、国民の非難を浴びた。

 退任後に捜査が始まり、家族が取り調べを受けている最中、故郷の村の岩山から飛び降りて自ら命を絶った。大きなダメージを受けた左派勢力の復権は当面困難とみられていたが、保守系の前大統領、朴(パク)槿(ク)恵(ネ)の失政で「盧政権2期」と呼ばれる文在寅(ムン・ジェイン)政権が2017年に誕生した。

=敬称略

(龍谷大学教授 李相哲)

【実録 韓国のかたち 第3部(6・7・8)】

【実録 韓国のかたち 第3部(6)】2017.12.25
「金で買った」南北首脳会談 金大中政権、金正日秘密口座に4億5千万ドル、軍事費転用の疑惑

政権とるや対北朝鮮政策を大幅修正、融和政策へ
 4度目の挑戦で大統領の座を手に入れた金大中(キム・デジュン)はすぐさま、それまでの対北朝鮮政策を大幅修正した。南北間の交流を増やし、経済支援を拡大、ひいては平和統一を実現するとの融和政策へとかじを切ったのだ。
 1998年4月には「南北経済協力活性化措置」を発表、企業の対北朝鮮事業を積極的に奨励する。
 そこに一番乗りしたのが、北朝鮮南東部、江原道生まれの鄭周永(チョン・ジュヨン)が率いる現代グループだった。北朝鮮は金剛山観光など7つの大型事業の独占的な権利を現代に与える代わりに巨額の見返りを要求した。
 投資効果の疑わしい現代の事業を金大中政権は資金面の融通などで支え、同時にこれを南北首脳会談の足掛かりに利用した。 
 現代の仲介で史上初の南北首脳会談が実現するのは2000年6月。ところが、世界の注目を浴びたこの会談は2年もたたないうちに、「金で買った」との疑惑が持ち上がる。
「送金疑惑」、有力紙は報道を拒否、やむなくとった策は…
 保守系雑誌「月刊朝鮮」は、02年5月号で米国議会調査局が作成した「米韓関係報告書」をもとに「南北会談のため、政権は国家情報院を使って金正日(ジョンイル)の海外の秘密口座に4億5千万ドルを送金した」と報じた。

韓国国会で疑惑が追及されるのは報道から4カ月後。保守系の野党ハンナラ党議員の嚴虎聲(オム・ホソン)と証人として出席した韓国産業銀行元総裁、嚴洛鎔(ナギョン)との間でこんなやり取りがあった。
 議員 「米議会の報告書によれば、現代グループは北に事業代価として支払ったお金の他に、秘密裏にさらに4億ドル余(米議会報告書では5億ドル。現金4億5千万ドルと、5千万ドル相当の現物)を支払った。これが軍事費に転用された可能性があるとの指摘があったが、追跡の結果事実と判明した。(中略)産業銀行が現代商船(現代の子会社)に4億ドルを貸した当時、あなたはまだ総裁職にはいなかったですね」
 証人 「はい」
 議員 「総裁就任後、(4億ドルを回収しようとすると)現代側は『このお金はわれわれではなく、政府が責任をもつべきだ』と返済を拒否したというが」
 証人 「その通りです」
 議員 「では、そのお金は誰がどこへ使ったか」
 証人 「それはわかりません。ただ、『政府が返すべきお金だ』という説明がありました」
 実は、この国会質問は疑惑を暴露するため、2人が計画したものだったことが最近明かされた。
 今年3月に出版された回顧録で嚴洛鎔は、「現代グループの資金の流れをみたがとても混乱していた。こんな状況でまた資金要請があった。私は使途不明の支援要請に対し『口頭ではなく文書で要請しろ』と突っぱねた。すると、政府関係者らが激怒していると聞いた。結局、私は公職(総裁)を去るしかなかった」

暴露したのは「隠したままだと、心のがんになりそうだったから」という。
 そのきっかけは、02年6月、韓国の延坪島付近で起きた南北艦船の軍事衝突で韓国軍兵士6人が戦死したことだった。
 「延坪海戦で北朝鮮が使った装備にわれわれが提供した資金が使われたかもしれないと思うと黙っているわけにはいかなかった」
 嚴洛鎔は有力紙の記者に連絡をとり、資料を渡して送金疑惑を暴露してほしいと頼んだが、記者は「今はまだその時期ではない」と断ってきた。
 このため、旧知のハンナラ党議員、嚴虎聲に国会での追及を依頼したのだ。
南北会談の半年後、金大中がノーベル平和賞 対北政策への“お墨付き”
 首脳会談の直前、現代が北に支払った巨額の現金の他に、金大中政権が金正日の秘密口座に4億5千万ドルを送金していたという事実はその後、韓国の特別検察の調査でも明らかになる。
 南北首脳会談から半年後。金大中は見事にノーベル平和賞を受賞した。金の支持勢力からすれば、それは対北政策に対するお墨付きでもあった。
=敬称略
(龍谷大学教授 李相哲)


【実録 韓国のかたち 第3部(7)】2017.12.26
金大中3人の息子全員が不正…左派の牙城での大会、ヤジが飛ぶ中、空気変えた「盧武鉉演説」

保守勢力に渡った場合の政治報復恐れ、素早く動く
 左派政権もまた、腐敗とは無縁でなかった。金大中(キム・デジュン)は政権末期に連続して起きた側近と家族の不正事件に悩まされた。任期1年を切った2002年5月、三男弘傑(ホンゴル)が36億円にのぼる賄賂を受け取った疑いで、6月には次男、弘業(ホンオブ)が脱税などの疑いで逮捕された。国会議員だった長男、弘一(ホンイル)も人事をめぐって賄賂を受け取ったとして金の退任直後に在宅起訴された。
 次男の逮捕直後に金は声明を発表し次のように謝罪した。「生涯さまざまな苦難を経験しましたが、こんなに悲惨なことが起きるとは思っていませんでした。これはすべて私の間違いであり、至らなかったからです」
 3人の息子全員が不正に関与しているとの噂は逮捕前からあった。週刊誌「時事ジャーナル」は、01年12月30日、「金大中の3人息子」の疑惑を報じる記事で「世間では、『これから大統領を選ぶときは子供がいないか未成年者を選んだほうがいい』という言葉がはやっている」とつづった。
 次期政権が保守勢力に渡った場合の政治報復を恐れたのだろう。金の与党、新千年民主党の動きはこれらの報道よりも早かった。
 01年8月、金の支持基盤であり、左派の牙城として知られる韓国南部の都市、光州で新千年民主党は「国政弘報大会」を開いた。

「地域感情」に火をつけ…会場は歓呼のるつぼに
 この大会には党内の次期大統領候補とみられていた韓和甲(ハン・ファガップ)、鄭東泳(チョン・ドンヨン)、盧武鉉(ノ・ムヒョン)らが顔をそろえた。
 真っ先に演説に立ったのは金の側近中の側近で「リトルDJ」(DJは金の略称で小さい金大中の意)と呼ばれる韓だったが、会場からはヤジが飛んだ。
 金をうまく補佐できなかったとの不満の表れだった。次に立ったのは、キャスター出身の鄭だったが感動のない演説だった。
 しらけた空気のなか、登場したのが盧だった。盧はこう口火をきった。
 「私は何より義理を大事にする人間です。DJに巡りあったおかげで損をしたこともあります。それでも私は義理を守ります」
 会場の空気が変わり始めた。盧はこう続けた。 「DJが失政をしたとして多くの人が罵(ののし)っていますが、そんなことをしたらDJも終わりです。他のところでDJを罵倒するのは仕方ないですが、ここ光州市民は絶対そんなことをしてはなりません。私は釜山(湖南地域)のヤツだからこんなことを言うんです」
 そのとき会場にいた現首相、李洛淵(イ・ナギョン)はこう振り返る。「盧の演説が終わった途端、会場はひっくり返りました。ひとことでいうと歓呼のるつぼでした。そのとき、私は彼の可能性を感じました」
 盧の演説は韓国の「地域感情」に火をつけたのだ。

金大中、予備選始まる前から盧武鉉に好感
 盧は1946年、韓国南部の慶尚南道金海で生まれたが、本籍は金大中とおなじ全羅道だ。学縁、地縁を大事にする韓国ではどこの生まれで、本籍がどこかは重要だ。
 66年に釜山商業高校を卒業して農業協同組合の就職試験をうけるが不合格。定職につけず日雇い労働をしながら9年間の独学の末に司法試験に合格した。盧は当時の気持ちを「その瞬間ほど幸せを感じたことはなかった。妻は私の膝に顔を埋め、ワンワン泣いた」。
 02年の大統領選を取材したソウル放送記者、オム・グァンソクは著書、「大選(大統領選)陰謀」で「金大中は予備選が始まる前から盧武鉉に好感を抱いていた」と記した。
 オムによれば、金は「保守系候補に勝てる人、自分を裏切らない人を選んだ」。湖南地域の支持は必須だった。与党の予備選には7人が立候補したが、02年4月、盧が公認を射止めたのだった。
=敬称略
(龍谷大学教授 李相哲)

【実録 韓国のかたち 第3部(8)】2017.12.27
盧武鉉「突飛な行動」 虐殺荷担の左翼活動家の義父問題に開き直り?「親北」隠さなくなり…

直球発言に熱烈ファン 「愛する会」まで
 与党公認の大統領候補になるまで盧武鉉は左派系列の政党でも主流に属していなかったが、突飛な行動に出る政治家として有名だった。
 1988年、国会議員に初当選した盧は、翌年秋に行われた国会聴聞会で全斗煥(チョン・ドゥファン)政権の不正を調査する特別委員会の委員として現代グループ会長の鄭周永(チョン・ジュヨン)を追い詰めるが、その場面がテレビで生中継され一躍有名になった。
 国会議員の多くが畏敬の念をもって質問にたつなか、盧は鄭を厳しく追及した。強い訛りに、庶民的な言い回し。直球を好む盧の熱弁に熱烈なファンができた。
 さらに盧は突飛な行動に出た。当選の可能性の高いソウル鍾路(チョンノ)区の公認を拒否して釜山から出馬したのだ。盧の落選直後、ネットでは「落選に涙が止まらなかった」という書き込みが殺到、市民参加型のニュースサイト、「オーマイニュース」は、その現象を「鬱憤が豪雨の如く降り注いだ」と報じた。
 その後、光州地域を中心にインターネットを通じて結成されたのが「ノサモ(盧武鉉を愛する会の頭文字)」だ。200人で始まったが瞬く間に全国に広がり、7月には、有名俳優のミョン・ゲナムを代表に選出。「盧武鉉を大統領に」とのスローガンを掲げた。
「愛する妻を捨てろと言うのか」
 一方で盧だけは駄目だという人々も多かった。保守派が問題にしたのは彼の「対北朝鮮観」だった。義父の権五石は1949年に南朝鮮労働党に加入、朝鮮戦争中に慶尚南道昌原郡労働党副委員長として一般市民の虐殺に加担したとして殺人などの疑いで逮捕歴のある左翼活動家だった。
 2002年4月6日、光州から始まる予備選挙に立った盧は義父の経歴を問題視して攻撃してくる人々にこうまくし立てた。
 「私は、義理の父が左翼活動前歴のあることを承知のうえ、妻と結婚しました。妻は子供たちも立派に育てたし、私たちは愛しあいながら生活してきました。そんな妻を捨てろと言うんですか? そうすれば大統領の資格があって、妻を愛し続ければ資格がないと言うんですか?」
 この演説以降、盧は親北姿勢を隠そうとしなくなる。5月の仁川地域の遊説で「(私は)南北対話だけ成功させられたら、他のことはすべてダメにしても構わないと思っている」と発言した。
北対応批判する他候補には論点すりかえ
 韓国では、北朝鮮という壁、地域という壁をうまく乗り越えなければ大統領にはなれない。この選挙では特に対北方針が重要な判断基準となっていた。

当時の米大統領、ジョージ・W・ブッシュはこの年の一般教書演説で、国際原子力機関(IAEA)査察団を追放し、国際条約を破棄して核開発を続けようとする北朝鮮を「悪の枢軸国」と非難した。韓国国内では、保守勢力を中心に「カネとモノ」を北朝鮮に「貢いだ」左派政権に反感が広がっていた。
 盧は選挙遊説中に北をめぐって批判してくる他の候補に「ならば戦争をするつもりなのか」と強く反論して論点をうまくすりかえた。
 韓国では全羅道を中心とする湖南地域の票だけでも、慶尚道を中心とする嶺南地域の票だけでも大統領にはなれない。忠清道の票をだれが取るかが肝心だ。 02年の選挙では、嶺南地域の支持を得ている野党ハンナラ党候補の李会昌、忠清道が支持する与党系の李仁済が出馬したが、過剰な自信に陥っていたハンナラ党は忠清道出身の李仁済を積極的に抱き込もうとしなかった。
 この選挙を取材したソウル放送のオム・グァンソク記者は「李候補がもう少し李仁済を取り込んでいたら結果は違っていたのに」と話した。
=敬称略
(龍谷大学教授 李相哲)


【実録 韓国のかたち 番外編】

【実録 韓国のかたち 番外編】なぜ日韓合意検証 左派政権、底流に反日…反日は善、方便、自己肯定手段
産経ニュース / 2017年12月28日

日韓合意骨子

 慰安婦問題をめぐる日韓合意の検証結果が発表されたが、「問題の再燃は避けられない」と否定的な見解が盛り込まれたのは予想通りだった。それにしてもなぜ検証は必要だったのか。左派政権の底流に反日姿勢があるからだろう。
 韓国の左派にとって反日は善であり、方便でもあり、自己肯定の手段であるともいえる。それは韓国という国の成り立ちをめぐる論争と関係している。
「建国は1919年」
 左派は日本統治下で独立を目指した「三・一運動」が起きた1919年3月1日が、大韓民国政府が樹立された日であると主張。保守派は民主的な手続きにのっとって政府樹立を宣布した1948年8月15日としている。 
 大統領の文在寅(ムン・ジェイン)は就任直後、「大韓民国の建国は1948年」と記述した朴槿恵(パク・クネ)政権時代の「国定教科書」の廃止を発表した。
 左派勢力が「1948年8月」を否定する理由はおもに2つある。
 ひとつは韓国で建国の主体となったのは日本の植民地統治に協力した官僚、資本家らだったという事実だ。しかし、北朝鮮では親日勢力を人民裁判で裁いた後、国をつくったので正当性があるとみる。左派の一部が北朝鮮に連帯感を覚える理由はここにある。
 もうひとつは、1948年樹立の韓国政府は米国や反共主義など「外部勢力」に依存してきた政府という主張だ。一方の北朝鮮は「民族・自主」を国是とする。左派にとって今の保守勢力の多くは親日派の子孫であり、独裁政権に“寄生”してきた人々。清算すべき「積弊(長年積もっと弊害)」対象は「親日」に集約されている。
 左派政権の正当性を文はかつて上海フランス租界に拠点を置いていた「大韓民国臨時政府」にあると言ってきた。
 1919年3月、上海でつくられた臨時政府が中国各地を転々としながら重慶にたどりつき拠点を構えたのは1940年。蒋介石の国民党政府は臨時政府を正式には認めなかったが、主席の金九(キム・グ)をはじめ独立運動家らと家族に居場所を提供、活動資金を提供した。
 12月13日からの訪中の締めくくりに文は重慶市の臨時政府庁舎跡を韓国大統領として初めて訪れた。文は、金九が使ったとされる筆や机、寝具を見て回ったあと独立運動家の子孫らとの懇談会でこう話した。
 「ここに来てみてわが先烈たちが中国各地を転々としながら抗日独立運動にささげた血と涙、魂と息吹を感じました。(中略)臨時政府はわが大韓民国の根っこです」
 韓国経済新聞の主筆、鄭奎載(チョン・ギュジェ)は「臨時政府は領土、国民、主権を持っていなかった。左派が建国を1919年だと強弁するのは政治的な意図がある」と主張する。
 しかし、左派政権は反日を国内的には保守崩しに、対外的には植民地統治を受けた側の「道徳的優位性」を示す手段に利用する。
 それは、今回の訪中での「中韓は近代史の苦難をともに経て克服した同志だ」「韓国人は中国人が経た苦しく痛ましい事件に深い同質感を持っている」との文の発言によく表れている。
 このような文政権の価値観は慰安婦合意の検証作業だけでなく、朝鮮半島有事の対応にも暗い影を落としている。
半島有事に影
 文は訪中で日米韓の安保協力を軍事同盟に発展させないと中国側へ「約束」した。これも半島有事の際の国益より左派的な価値観を優先した言動といえる。
 韓国には、旅行者も含め約5万7千人の日本人が滞在しているが、半島有事の際の日本人の退避方法などについて、文政権は日本との事前協議に応じていない。 
 半世紀近く韓国現代史を研究、数多くの歴史書を執筆した元大学教授はこう嘆く。「文政権は現実誤認、歴史誤認がはなはだしい。これでは未来はない」
              =敬称略
         (龍谷大学教授 李相哲)

韓国のかたち 【李相哲氏講演詳報】

【李相哲氏講演詳報(1)】2017.8.30
北朝鮮ミサイル“標的”は韓国 権力闘争…金政権「3つの本質」とは

 日本上空を通過するミサイルの発射など、度し難い挑発を北朝鮮はなぜ続けるのか-。アジア近代史などが専門の李相哲・龍谷大学教授は、北朝鮮の本質は「3つの要素」に分類できると指摘する。中国という社会主義国で生まれ育ったからこそ深く理解できる金ファミリー政権の「かたち」を8月23日に大阪市内で行われた講演会(主催・ウェーブ産経)から読み解く。(発言はすべて23日時点)



■北朝鮮に核兵器を放棄させる、国際的圧力…カギ握るのは結局、金正恩委員長

 8月21日から韓国では米韓合同軍事演習「乙支(ウルチ)フリーダム・ガーディアン」を実施しています。兵器を実際に動かしての演習ではなくて、戦争が起こった場合のさまざまな場面、約35パターンを想定して、対応をシミュレーションする訓練です。

 31日までやるのですが、韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領は、この10日間に金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長が何もしなければ、対話局面に入るのではないかと述べていた。

 つまり金委員長が今までいろんなことをやってきたが、それは不問にして10日間だけ静かにしてくれたらわれわれは話し合う用意があると言ったのです。

 これは非常に問題です。今まで米国や国際社会が金委員長に求めてきたのは、核兵器を放棄しなさいということです。少なくともその意志があれば話し合いには応じると言っていた。

 それがなかなか上手くいかないので、ならば核兵器とミサイル開発を凍結すれば話し合っていいのではないかと。しかし、なお金委員長は聞く耳をもたないので、ミサイルや核実験などの挑発をしなければ話し合ってもいいとなった。

 そして今回の文氏の発言です。「10日間何もしなかったら話し合う」と。ずるずるとトーンダウンしていて、金委員長が思う通りに展開しています。米国のティラーソン国務長官も最近、「さらなる挑発をしなければ話し合う用意がある」とハードルを低くしています。

 残念ながら、この局面をコントロールするというか、キーを握っているのは金委員長なのですね。

金委員長は1週間ほど前に、韓国の最も西の延坪(ヨンピョン)島から1キロしか離れていない場所で軍の部隊を視察し、その映像が流されている。つまり米国がここまで圧力をかけても、金委員長は全く恐れていない、という大胆さをアピールした。

 こうした金委員長の行動パターン、また北朝鮮が一体何を考えているのかということを多くの方たちが疑問に思っていると思う。そこで、金正恩政権とはどのような政権かを中心にお話をしようと思います。

 この政権の本質は3つあると僕は想定しています。その3つの基準で、金委員長の行為を見ています。

 まず北朝鮮という国は「力」しか怖がらないという国です。これは社会主義国の哲学でもあり、中国もそうです。毛沢東はかつて「権力は銃口から生まれる」と言いましたが、(北朝鮮の)金正日(キム・ジョンイル)総書記も全く同じことを言っている。力から政権が生まれるし、力がなければ政権は維持できないと。

 北朝鮮の場合は、国家目標として70年間、軍事力増強に邁進(まいしん)し、力を蓄えています。経済建設はないがしろにして首都の平壌(ピョンヤン)をショーウインドーと見なし、ここには大きな建物などがあるが、国民は非常に惨めな生活をしている。経済は全て軍事力に注いでいる。

 金正日総書記の著作には「私の力の源泉は軍事力にある」とあります。彼は長らく「先軍政治」、つまり軍がすべてに優先するという政治をやってきた。それは彼の父の金日成(キム・イルソン)国家主席のころからです。

 金日成主席は、朝鮮戦争で1950年6月25日に韓国を一気に制覇しようとして韓国に攻め込み、わずか3日で韓国の首都ソウルを占領するのですが、ここからが問題でした。

最近、旧ソビエト連邦(現ロシア)の3大資料館のひとつ、社会政治史資料保管所から見つかった資料から、なぜ金日成が一気に韓国南部の都市、釜山(プサン)まで攻め込まなかったかが分かりました。一言で言うと、当時の北朝鮮にはそこまでの力がなかった。

 当時、北朝鮮が頼りにしたのはソ連の武器であったのに、ソ連の最高指導者のスターリンは武器を約束通りに送らなかった。これに関して、金日成は後に直筆の文書を残しています。その3日間が自分の人生で痛恨のミスだったと。一気に釜山まで攻め込み韓国全土を占領していたら、米国は以後、朝鮮半島に介入できなかったのに、と。

 さらに、こうも記しています。ソ連はなんでもわれわれに対価を求めて支援をしてきた。日本が撤退したあとソ連が入ってきて発電所や製鉄所の設備を全て撤去し、設計図面まで奪っていった。鉄道のレールまで奪っていこうとしているのを私が阻止した、というのです。

 そこから金日成は悟ったのでしょう。国家の方針を国防建設に全て注ぎ込むことを決めます。

■「社会主義の優等生」正当化…韓国ソウル五輪に対抗し“借金”

 北朝鮮の歴史を概観してみると、内部での権力闘争は国防・軍備を優先するか、国民生活を優先するかで起こっている。

 金日成は1912年生まれなので1972年には還暦を迎えました。韓国、朝鮮の人たちにとって60歳の還暦はとても大事な節目の年なのです。彼は常に周辺に「72年の還暦祝いはソウルでやる」と言っていた。

 当時、米国はベトナム戦争で苦戦し、ニクソン大統領はアジアから軍備を縮小するとの方針を打ち出していた時期です。朝鮮戦争後金日成は中国の周恩来首相と何度も話し合い、もう一度ソウルに攻め込みたいと主張していた。

 北朝鮮は国民経済の30%以上をつぎ込んで武器をつくり、ソ連からも武器を買ったが、1970年代後半から80年代にかけて経済状態が韓国と逆転し、このままでは韓国に負けるのではないかという状況になった。

 決定的なきっかけは1988年のソウル五輪です。それまで北朝鮮は社会主義経済の優等生とされ、韓国と競う国とみられていた。そこで、豊かさで韓国に勝っていることをアピールするため、金日成は1989年に「世界学生青年祭典」というものを首都の平壌で開催します。金日成は、とにかくソウル五輪より大きくしろということで、15万人を収容できるスタジアムを造ったり、凱旋(がいせん)門を造ったり、世界190以上の国・地域から1万2千人以上を無料で招待した。推定で約50億ドルを使ったといわれています。

 北朝鮮経済は当時、国民総生産(GNP)が300億ドルもない国です。なのに50億ドルもの現金を祭典につぎ込んだため、一気に経済が悪化してしまった。これ以降、経済発展は完璧に韓国に負けます。

 このため、韓国に勝ってきた武器システム-潜水艦や戦車の数、戦闘機の質などでも、勝ち続けるのは到底無理になった。

 そこで彼らが注力したのが非対称武器、つまり生物化学兵器です。これは貧者の武器といわれる、とても恐ろしい兵器です。そして核兵器とミサイルの開発に邁進する。

 今日の北朝鮮の問題の根源は、韓国に優位に立とうと突っ走ってきた結果です。北朝鮮のミサイル開発は米軍に対抗するためのものだというような一部の評論家の声がありますが、これは全く間違っています。 1にも2にも3にも、ミサイルの目標は韓国です。

 ではなぜ長射程の大陸間弾道ミサイルを開発するかというと、彼ら北朝鮮は、自分たちのやり方で韓国を軍事的に制覇できるのに、米国が邪魔をするとみている。だから米国をこの朝鮮半島問題から切り離すために弾道ミサイルを開発、実験しているのです。

 関与すればミサイルを打ち込まれる可能性があるぞと。米国は駐留軍を韓国から撤収することもありえる岐路に立っている。

 そういう意味で彼らは核開発をしてきたが、政権の力の源泉もまた核兵器にあるともいえる。だから金委員長が命綱である核兵器を放棄することは全くない。


 【プロフィル】李相哲(り・そうてつ) 中国黒竜江省生まれ。中国で新聞記者を経て1987年に来日。上智大学大学院博士課程修了(新聞学博士)。主な著書に産経新聞に「秘録金正日」として連載した「金正日秘録 なぜ正恩体制は崩壊しないのか」(産経新聞出版)、「朴槿恵の挑戦」(中央公論新社)。


【李相哲氏講演詳報(2)】2017.8.31
人命軽視の北朝鮮…「国民3年分の食費」で金日成の遺体保存施設を改修、その裏で200万人餓死

 日本上空を通過するミサイルの発射など、度し難い挑発を北朝鮮はなぜ続けるのか-。李相哲・龍谷大学教授が読み解く北朝鮮の本質「3つの要素」とは。



 北朝鮮をみるときに看過できない2番目の特質は、人命を大切にしないということです。これは社会主義国に共通することでもあります。

 北朝鮮の歴史を振り返ればよくわかるのですが、1994年に(国家主席の)金日成(キム・イルソン)が亡くなり、その1年後くらいから北朝鮮は洪水や災害に見舞われ、苦難の行軍といわれる大変な時期を迎えます。この96年から99年までの間に約200万人の国民が飢え死にした。北朝鮮の人口のほぼ10%です。

 この数字に関してはいろいろな議論があり、97年に北朝鮮から韓国に亡命した(朝鮮労働党書記の)黄長●(=火へんに華)(ファン・ジャンヨプ)は、当時北朝鮮の権力構造のなかで序列21番目の党の幹部ですが、彼の見積もった数字が200万人です。

 また、彼と一緒に亡命した秘書の金徳弘(キム・ドッコン)という人。私は直接会って話を聞いたこともあります。彼は亡命するまでに北朝鮮の党中央資料室という、党の秘密資料を扱う部署の室長をやっていました。そこで見た資料ではだいたい250万人が飢え死にしたと証言している。

 国民が数百万人単位で亡くなっている、そういうときに北朝鮮政権は何をしたか。(総書記の)金正日(キム・ジョンイル)は父親の遺体を安置する太陽宮殿という宮殿を改修するんです。そこに推定9億6千万ドルをつぎ込んだ。9億ドルという金額は、北朝鮮の2400万人の国民が3年間、延命できるだけのトウモロコシなどの食料を買える額です。北朝鮮の国民は国にお金がなくて死んだわけではありません。

北朝鮮という国は人の命を大事にしない。これは彼らの論理からすると強みでもある。例えばわれわれはいま北朝鮮を包囲し、制裁を科して追い込もうとしていますが、困るのは一般の人たち。周辺の人たちから飢え死にするわけです。北朝鮮の中枢部にいる人たちに影響が来るのはじわじわとであって時間がかかる。ですからいま制裁があまり効かないのはそういった面もある。

■国民を51の身分に割り統治、強制収容所…

 普通の国では、国際的な制裁が科されて餓死者が出れば、その政権は倒れる。でも北朝鮮では必ずしもそうではない。北朝鮮に国家安全省という、日本でいえば警察組織があるんですが、数年前にあるルートから、その国家安全省が出している秘密資料を入手して読んだことがあります。

 資料によれば、北朝鮮は国民を51の「出身成分」に分類します。これをさらに3階層にわける。まず、政権を支える核心階層というものがあります。これは軍属や抗日闘争で貢献した抗日パルチザン家族で、こうした人々はほとんど首都の平壌に住んでいます。

 それから動揺階層が地方に住んでいる。敵対階層というものもある。この敵対階層はだいたい隔離地域、韓国との国境の38度線近くや炭鉱がある地域、山間の僻地(へきち)に隔離している。少しでも政権に不満を表出しそうな人たちは、強制収容所に監禁します。

 北朝鮮の強制収容所を撮影した衛星写真から分析すると、推定で16万人から25万人が強制収容所にいるといわれています。

 敵対階層は彼ら北朝鮮指導部にとっては国民ではないというか、死んでも心が痛むわけではない。彼らの階級闘争論からすれば、敵対階層は淘汰(とうた)する対象であって国民ではない。

 ですから北朝鮮は人権といった概念からはほど遠い国であって、人命を尊いとは思わないのです。そうすると何が起こるか。

例えば、核戦争で金正恩が核兵器の発射ボタンを押すのではないかと私に質問する人もいるのですが-私は正直なところ想像もしたくないが-、社会主義の階級闘争論や敵対階層に対する哲学からすると、あり得るんですね。

 核兵器にまつわる中国でのこんなエピソードがあります。米国の高官が中国の最高指導者の●(=登におおざと)小平に会って米国の軍備状況を誇示したところ、●小平は平然とした態度で「中国は米国など全く怖くない。中国人を1日200万人殺してみなさい。1年間続けても6億人だ。つまり中国人の半分も殺せないのだから、全く怖くない」と言ったという話があります。

 また金正日は韓国に対する野心を捨てず、こんなことを言っています。「韓国に攻め込めば、韓国人のうち1千万人は逃げるだろう。逃げなかった者のうち、1千万人は粛正する。残りの2千万人と、北朝鮮の2千万人とで国家を建設する」。

 一般の国民に対する感覚はわれわれの感覚とはこれほど違うんですね。彼らの論理からすれば怖いものなし。彼らの強みでもあります。北朝鮮を人権問題で追及したとしても意味はないのだ、と認識したうえであの国とつきあわなければならないということです。 =(3)に続く

(李教授の発言は、8月23日、大阪市内で行われたウェーブ産経主催の講演会の時点)



 【プロフィル】李相哲(り・そうてつ) 中国黒竜江省生まれ。中国で新聞記者を経て1987年に来日。上智大学大学院博士課程修了(新聞学博士)。主な著書に産経新聞に「秘録金正日」として連載した「金正日秘録 なぜ正恩体制は崩壊しないのか」(産経新聞出版)、「朴槿恵の挑戦」(中央公論新社)。


【李相哲氏講演詳報(3)】2017.9.1
手段を選ばぬ北朝鮮…約束を破り核実験、逃げ癖、2代目の誕生神話も嘘

 日本上空を通過するミサイルの発射など、挑発を続ける北朝鮮。アジア近代史など専門の李相哲・龍谷大学教授が読み解く北朝鮮の本質「3つの要素」とは。



■日本が忘れやすい点…「国際情勢は、どれだけ自国の国益を考えて行動するかが全て」

 3番目の彼ら(北朝鮮)の特徴は、これも社会主義国の共通点ですが、目的達成のためには手段を選ばない。一言で言うとルールを守らない、約束を守らないのです。

 北朝鮮が歩んできた道、米国と交わした約束、韓国と交わした約束、それらの内容とその後を照らしてみると、約束はほとんど守られていないんですね。例えば1994年10月にジュネーブで米朝枠組み合意が交わされました。その内容は北朝鮮が核兵器開発を放棄し、代わりに米国が軽水炉を作ってあげるというもの。軽水炉が完成するまでは毎年50万トンの重油を提供するという約束でした。

 しかし後になって北朝鮮はウラニウム型の核兵器をずっと開発しているということがわかったんですね。ここで合意は破棄されましたが、その後も2005年9月19日、これは919合意と言いますが、(米日中露と北朝鮮、韓国の)6カ国で話し合い、北朝鮮が核兵器を放棄する、その代わり米国は「敵対行為」を止める。

 例えば米韓軍事演習の中止です。また将来的な平和協定などの含みを残していたんです。ところが、皆さんご存じの通り北朝鮮は翌年に第1回の核実験を行いました。

 北朝鮮は、敵が怖いとき、自分の力が尽きたとき、へとへとになったときには約束を交わします。そして時間をかせぎ、状況が好転するとまた挑発し、約束を破るのです。

 私は中国で育ったので、中国という社会主義国のやり方と北朝鮮のやり方を照らし合わせるといろんなことがわかるのです。毛沢東はかつて「持久戦を論じる」という論文を書いていまして、私は大学時代に読みました。その戦術と全く同じです。敵が怖いときは逃げる、敵が弱いところを捕らえて攻撃する、困ったときは話し合う、というものです。

 ですから、彼ら北朝鮮が話し合いに出てくるときは、もう困って困り果てて出るしかないという状況にある、と見た方がよい。

国際関係論や国際政治では、この国は良い国とか、この国は悪い国という考え方はない。国際情勢のなかで、自国の国益をどれだけ考えて行動するかが全てです。でも北朝鮮の問題というのは、国民の利益を優先するのではなく、政権を維持するためにどうすべきかということを最優先している点にあります。

 北朝鮮、この国の成り立ちは1945年9月、日本が終戦で撤退したあとソビエト連邦(当時、現ロシア)が北朝鮮に進軍したときに始まります。北朝鮮に続々と戻ってきた政治勢力の中には、延安で毛沢東たちと一緒に革命に参加した人たち、韓国国内で日本に反抗して活動していた民族主義者、ソ連から戻った社会主義派がいた。

 金日成(キム・イルソン、後の北朝鮮国家主席)は1940年くらいからソ連のハバロフスクの近郊にあるビャツッコエという遊撃隊訓練キャンプで大尉の階級にいたソ連兵です。当時33歳の若い金日成の周りに人材を集めなければならないので、個人崇拝を始めた。

 近年になってソ連の資料館から発掘された資料から、ソ連の進駐軍将軍たちが金日成をどうやって偉い英雄に仕立てたかという工作の過程がありありと描かれています。

 それは金日成がかわいいからではなくて、ソ連が北朝鮮という国(の国民)を思い通りに動かすためです。ソ連が操る金日成の言う通りに北朝鮮国民を動かすためには、金日成を偉大な将軍に仕立てなければならない。

 そこから、北朝鮮は、一人の英雄がいて、「この人の周囲に団結すれば全てうまくいくよ」というストーリーを作っていく。その次に後継者になる金正日(キム・ジョンイル)は1942年生まれですから抗日も何もしていないため、英雄譚(たん)がない。朝鮮戦争にすら参加していない。そこで何をしたかというと、神話を作るんですね。

例えば金正日が生まれたのは(本当は1941年)ソ連なんですが、北朝鮮は白頭山という、金日成が日本軍と戦った戦火の中で生まれた子供だと、しかも彼が生まれた場所に近い山の高さが216メートル、彼の誕生日の2月16日とぴったり一致する。山の麓にあった金正日が出生した丸太小屋と山の距離は42メートル、つまり生まれ年と一致したらしい。

 現在の金正恩(キム・ジョンウン)は、そういう神話がなかなか作りにくいようだ。彼の母親が在日朝鮮人だということは誰もが知っている。

 多くいる妻の中の一人で、彼女は踊り子だった。朝鮮のしきたりや文化からすれば、踊り子は昔、少し下にみられる風潮があったので、このことからも明らかにできない。そこで彼らが言い出したのは、金正恩は血筋がいいんだと、「白頭山血筋」を受け継いだのだとしました。こうして後継者にはなったが、金正恩にとっては「自分は偉い」とみせる必要がある。

 大胆で戦略家だというストーリーを作るため、大胆にも朝鮮戦争後初めて韓国の領土、延坪島(ヨンピョンド)に砲撃を加えた。北朝鮮の魚雷攻撃で46人の韓国人兵士が亡くなった哨戒艦・天安の事件(2010年3月)も金正恩の指示といわれている。これは北朝鮮国内では彼の英雄譚として残ってます。

 1回目の長距離弾道ミサイル発射を行ったときも、北朝鮮の宣伝では、偉大な将軍様がアメリカの陰謀を砕いたと書き立てた。かように彼は実績作りに一生懸命です。

(李教授の発言は、8月23日、大阪市内で行われたウェーブ産経主催の講演会の時点)



 【プロフィル】李相哲(り・そうてつ) 中国黒竜江省生まれ。中国で新聞記者を経て1987年に来日。上智大学大学院博士課程修了(新聞学博士)。主な著書に産経新聞に「秘録金正日」として連載した「金正日秘録 なぜ正恩体制は崩壊しないのか」(産経新聞出版)、「朴槿恵の挑戦」(中央公論新社)。


【李相哲氏講演詳報(4)】2017.9.4
北朝鮮問題、長期化の背景は…韓国を狙う核・ミサイル、開発資金は韓国から

 日本上空を通過するミサイルの発射など、度し難い挑発を北朝鮮はなぜ続けるのか-。アジア近代史などが専門の李相哲・龍谷大学教授は、北朝鮮の本質は「3つの要素」に分類できると指摘する。中国という社会主義国で生まれ育ったからこそ深く理解できる金ファミリー政権の「かたち」を8月23日に大阪市内で行われた講演会(主催・ウェーブ産経)から読み解く。(発言はすべて23日時点)


■金正恩政権…いずれ決着、この際に問題となるのが「韓国」

 しかし北朝鮮には変化が生じています。昔の北朝鮮は全てを国が与えていました。食べ物、洋服の生地など配給券を配っていた。小学生は鉛筆からかばんまで国が与える。新学期が始まる際は子供を集め「偉大な将軍様が皆さんに文具を与えるのです」というような儀式を行い、子供は皆、涙ぐんで受け取る。そうして忠誠心を植え付けていたのですが、これが最近できなくなった。

 1994年に金日成(キム・イルソン)が死去し、経済がどんどん悪化したことで、地方から配給が少しずつなくなっていった。今は一部の特権階級を除いてこの制度は崩壊してしまった。その代わりに生まれたのがチャンマダンという野外市場です。

 その市場で、お金も物もない人は何をするかというと、北朝鮮では上下水道が完備されていないので、川に行って水をくみ、市場で金持ちに売ってその日を延命する。チャンマダンがあるため国民はかろうじて飢え死にしていない。現在は衛星写真で確認した場所だけで、北朝鮮全土にだいたい700カ所くらいあります。

 経済学者の統計によると、北朝鮮は経済の8割方をチャンマダンに依存していると。そうすると、これまで金日成や金正日(キム・ジョンイル)のために、つまり一人のために頑張れば何でもあるし、国も問題ないんだと思っていた人たちが、「市場にいったらもっといいことがある」と思うようになり、お金が全てだと思うようになる。

 ただ金正恩(キム・ジョンウン)も若いですし、周辺に若いスタッフもいるので、やはり改革の試みは行っている。従来、工場などの生産物は全部国が買い取って分配していたが、金正恩政権では30%は国に納め、残りは自分たちで売りなさいと、そういうことをやっています。

 しかし金正恩政権のジレンマというのは、改革はしても開放はできないという点にある。

開放なしに北朝鮮は立て直せない。電気がまずない。上下水道もそうですし、生活の基盤施設がほぼ壊滅状態にある。資本や技術を韓国から取り入れなければならないが、それでは情報が入ってくる。金一族の一人のためにやってきた北朝鮮の政治体制が良くないとわかってしまう。

 最近特徴的なのは、金正恩の統治体制というのは国民が勝手に自給自足をしているため、上層部は集中してミサイルと核の開発に注力しているということだ。

■制裁が“金正恩のカネ”直撃、困ってる北朝鮮

 国際社会もそれがわかってきたため、金正恩に入るおカネに焦点を合わせて制裁を始めた。

 私は以前から中国を頻繁に訪ね、北朝鮮と貿易している業者たちとよく話をします。半年前までは、北朝鮮の貿易関係者たちは全く困らないんだと言っていると聞きました。北の貿易業者が中国の銀行で口座を作るのは非常に簡単で、数年前はパスポートを持っていけばどこの銀行でも口座を作れたんですね。

 ですから北朝鮮は稼いだカネは全部中国にプールして、その口座(のカネ)から中国で必要なものを買って北朝鮮に運ぶ。北朝鮮の銀行口座が制裁で取引できなくなっても問題はなかった。

 それが今年の6月から金融実名制となり、世界的に誰のお金でどれだけのお金があるか全部見られるようになった。北朝鮮はいま、お金を全く動かせなくなっています。

 3週間ほど前に同じ貿易関係者に話を聞くと、北朝鮮は本当に困っているといいます。「希望が見えない、どうすればいいんだ」と。これが政権内部でじわじわと広がっているわけです。

 私は国際社会の制裁を続けていけば、金正恩政権は間違いなくどんどん悪くなって、決着が付くと思います。

ただ、ここで問題になるのが韓国です。北朝鮮問題がここまで長引いている背景には韓国の問題があるのです。韓国が毅然(きぜん)とした態度で北朝鮮問題を解決する強い意志を持っていれば、とっくに解決していた。

 韓国の保守政権も左派政権も含めて、韓国の政権というのは、かつての朴正煕(パク・チョンヒ)大統領時代と違い、5年間の政権の安全を考えてきた。北朝鮮を韓国に編入させるいう方針で北朝鮮問題に取りかかるのではなく、分断したままの朝鮮半島を管理するという発想でやってきた。問題が起こらなければいい、ということです。

 1992年の金泳三(キム・ヨンサム)大統領のころからほぼ20年間、金大中(キム・デジュン)を通して、盧武鉉(ノ・ムヒョン)まで、韓国は北朝鮮をなだめるために、約8兆ウォン(約8千億円)を支援しています。北朝鮮が核兵器とミサイルを開発するには巨額の資金が必要だが、その資金は韓国から渡っているんですね。

 本当に皮肉な話ですが、韓国を狙っている核兵器とミサイルは、韓国が助けて作ったと言っても過言ではない。



 【プロフィル】李相哲(り・そうてつ) 中国黒竜江省生まれ。中国で新聞記者を経て1987年に来日。上智大学大学院博士課程修了(新聞学博士)。主な著書に産経新聞に「秘録金正日」として連載した「金正日秘録 なぜ正恩体制は崩壊しないのか」(産経新聞出版)、「朴槿恵の挑戦」(中央公論新社)。

2017.9.5 11:00
更新

【李相哲氏講演詳報(5)】
北朝鮮とあの国は「唇と歯」、米国が中国に問題解決を期待するのは間違いだ

 日本上空を通過するミサイルも発射、度し難い挑発を北朝鮮はなぜ続けるのか-。李相哲・龍谷大学教授が北朝鮮の本質を読み解く。

■北朝鮮の核兵器を認めるか、あるいは力ずくで…
 現在、これほど国際社会が北朝鮮を包囲して金正恩の態度を変えさせようと努力しているなかで、(韓国の)文在寅(ムン・ジェイン)大統領は8月21日、韓国を訪問した米国の上下院議員団に会って、(南北協力事業の)開城(ケソン)工業団地を再開するという意志を表明した。
 開城工業団地とは金大中(キム・デジュン)政権の2000年に着工して、60平方キロくらいある、北朝鮮領内に造った工業団地です。それが稼働し始めたのが2005年で、韓国から150社くらいの企業、加工業者が入って、毎年だいたい1億ドルくらいのお金が北朝鮮に渡っていたんですね。
 そのお金はもちろん金正恩(キム・ジョンウン)の統治に使われる。また金剛山問題もある。金剛山は北朝鮮側にある、朝鮮半島で最も美しいとされる観光地なんですが、当初は入山料だけで1人300ドルも払っていた。これは高いから半分は国(当時は金大中政権)が補助金を出していた。このお金も当然ながら金正恩の懐に入っていた。
 最近、話題になっているように、北朝鮮の1年間の貿易収入がだいたい30億ドルですね。今回の国連制裁で10億ドルは減るのではないかと計算しています。こうした数字を見れば、開城工業団地での1億ドルは、北朝鮮にとって大きな金額です。いまだに北朝鮮の国民総所得は300億ドルくらい。そんな国に(開城工業団地だけで)年1億ドルは渡っていた。
 そのお金で北朝鮮の一般国民の生活が向上したり、北朝鮮が少しでも開放的になったりすればいいことです。しかし一向に北朝鮮の一般国民の生活が改善したという話はきかないですね。それは北の政権が核兵器開発などに使ったからではないか。

加えて少しだけ。恐らく皆さん気になっていると思うんですが、北朝鮮問題が一向に解決しないのは韓国が毅然(きぜん)とした態度を見せなかったからだと申し上げましたが、根本的にはやはり中国が北朝鮮を支えているということがあります。
 中国の影響力がどれだけあるかというと、北朝鮮の人たちが使っているありとあらゆるものが中国から入っている。
 彼ら(中国)の言い方からすると、民生に関わる制裁は避けるべきだと言っています。最近ミサイルに使われているといわれるコンピューター部品についてもそうです。コンピューターは一般の人たちが使う物でもあるけれども彼らはそこから部品を解体して軍事産業に転用するわけですから、なかなか中国が本気にならないと北朝鮮は止められない。
 北朝鮮と中国の国境は1400キロくらいあり、そのなかに税関が6カ所くらいある。税関だけ止めても北朝鮮は大変な状況に追い込まれるんですが、中国はそれをしないんですね。

中国には「唇がなくなると歯が寒い」ということわざがあるんです。つまり中国にとって北朝鮮は唇のような大事な存在であって、この70年間、中国からすれば北朝鮮の100万を超える軍人(推定の総兵力は119万人)が良くも悪くも米軍の北上を阻止しているわけです。だから中国にとってはとてもありがたいことで、それを中国がなくすということはあり得ないわけです。
 なので、中国に期待してこの問題を解決しようとする米国の考えは間違っていると思います。
■「米トランプ政権の選択肢2つ…戦略3段階、今は…」
 そこでいまトランプ米大統領がどうしようとしているかを見ると、米国はテーブルの上にはさまざまなオプションがあり、そのなかには軍事的なものも含まれると言っていますが、私は2つしか残っていないとみているんですね。
 北朝鮮の核兵器を認めるか、あるいは力ずくでそれを奪うかということなんです。
 米国の今の戦略は3段階くらいあって、最初は世論を作り制裁を強めるというものですが、中国が積極的に参加しないと効果がないということがわかったので、中国を巻き込み、中国がさらに圧力をかければ変化があるんじゃないかと、そこまでやってみたが駄目だった。そこでいまやっているのはセカンダリー・ボイコット。つまり中国に強制的に(制裁を)させる手段として、万全の軍事的準備を進め、中国に圧力をかけているのが現状なんですね。

私が聞いた韓国の高官の話では、いま釜山港にこの半年間、毎日のように米国からすごい量の軍事物資が入ってきている。最近話題になっている米国の現場指揮官の3人、太平洋司令官と戦略軍司令官、防衛システムを管轄する局長の3人が韓国に来た。
 そのなかでも私が注目しているのは、戦略軍のトップが韓国に来て演習に参加したということです。これが何を意味するかというと、戦略軍とは簡単に言うと核兵器を扱う部隊です。爆撃機や原子力潜水艦など核兵器を使う部隊の司令官です。この人が来たというのは、恐らく金正恩(キム・ジョンウン)に対し「妙なことはするな」と(いうメッセージ)。
 北朝鮮は言葉でいつでも核で何かやりそうなことをチラつかせるんですね。それに対する警告があります。さらに、こういうことは万分の一の確率もないかもしれませんが、核兵器を使わざるを得ない場合のシミュレーションをしてるのではないかと思っています。

そのような状況下でいま、危機は高まっているんですが、全ては金正恩が10日間の演習と、そのあとどれくらい静かにしてくれるか、つまり残念ながら金正恩が朝鮮半島のキーを握っている。そこに文在寅政権が金正恩を応援するかのようなことをしているので、金正恩は安心しきっていろんなことをやっているという状況です。 =完
(李教授の発言は、8月23日、大阪市内で行われたウェーブ産経主催の講演会の時点)
▼再び(1)韓国ソウル五輪に対抗し“借金”、ミサイルやっぱり発射…から読む

 【プロフィル】李相哲(り・そうてつ) 中国黒竜江省生まれ。中国で新聞記者を経て1987年に来日。上智大学大学院博士課程修了(新聞学博士)。主な著書に産経新聞に「秘録金正日」として連載した「金正日秘録 なぜ正恩体制は崩壊しないのか」(産経新聞出版)、「朴槿恵の挑戦」(中央公論新社)。

【実録 韓国のかたち】第二部

【実録 韓国のかたち】第二部(1)
 晴れの日の演説 弾劾の材料に

 2014年3月28日。この日は韓国大統領(当時)、朴(パク)槿(ク)恵(ネ)の人生でもっとも輝かしい一日となった。国賓としてドイツを訪問した朴は、「エルベ川の真珠」と呼ばれる旧東独の古都、ドレスデンで「韓半島(朝鮮半島)統一のための構想」と称する「ドレスデン宣言」を発表したのだ。

 ドレスデン工科大学で行われた演説で朴は、「ドレスデンはドイツの分断克服と統合の象徴。ドイツ民族はここ、ドレスデンを自由な空気が満ち、豊かさあふれる希望の都市に作りあげました」と切り出した。同大から名誉博士号を授与され、黒いガウンに身を包んだ朴は「ドイツは統一という大きな夢をかなえ、さらにはヨーロッパの未来すら変えた」とたたえた後、3項目からなる対北朝鮮基本政策を打ち出した。

 それは(1)南北分断により苦痛を強いられる離散家族再会の定例化(2)農業支援など民生インフラ構築への協力(3)南北統合のための交流拡大-だった。ただし、「北韓(北朝鮮)が核を捨てる決断をすれば」という前提つきだった。

 宣言に北朝鮮は激しく反発した。「海外に出かけ、ふしだらな女のように化粧までして女気をふりまいた」と攻撃。朴が追求する統一は「わが制度を壊す体制統一だ」(14年4月1日付「労働新聞」)と非難した。

 演説の達人として知られるオバマ米前大統領が、文章の格調の高さを絶賛したという「ドレスデン宣言」は、後に朴の対北基本政策として定着するが、この演説文が、朴弾劾の引き金をひく材料に使われるとは当時誰が予想し得ただろうか。

ドレスデン宣言から2年9カ月後の16年10月24日、韓国の左派系有線テレビJTBCは、ドレスデン宣言文を含め朴の演説文の多くは、「秘線実勢(影の権力者)」で長年の友人の崔(チェ)順(スン)実(シル)が直したものと“暴露”した。

 JTBCの看板番組「ニュースルーム」は、「崔はおおよそ44にのぼる演説文を大統領が公表する前に受け取っていた」と報道、キャスターはこう続けた。  「いわゆるドレスデン宣言。朴槿恵政権の国政哲学がもっともよく反映されたと評価される文章ですよね。この演説文は、本当は極度の保秘を要する資料だったのです。なのに、この宣言文も、やはり崔氏が1日前に事前に閲覧したことが確認されたわけです」

 JTBCは、崔氏が常に持ち歩き、朴の演説文を直したとするタブレット端末が「偶然崔のオフィスから見つかった」と説明。手直しの赤字が入ったドレスデン宣言文の画面をを視聴者にみせ、「崔氏のタブレット端末は大統領府の各種書類でいっぱいでした。ファイルは200にも上ります」とも解説した。

 この日のニュースルームは有線テレビのニュース番組視聴率としては異例の高さである8%を記録した。
韓国の有線テレビJTBCのスクープに刺激された韓国メディアは、一斉に朴槿恵への攻撃を開始した。「朴は一般人女性(崔順実)に魂を売った。しかも怪しげな宗教家の娘だ」、「われわれは、実は、崔順実という女に支配されていたのではないか」。

 事態の深刻さに気づいた朴は翌25日、「対国民談話」を発表、「大統領選挙中(崔順実氏は)私の選挙運動が国民にどのように伝わるのかについて、個人的な意見や感想を伝達してくれる役割をしたことはあるが、(大統領府の)補佐体制が完備されてからは辞めた」と釈明した。しかし、談話は報道内容を認めたものと解釈され、国民の憤怒を呼び起こした。

 人々はデモに繰り出し、巨大な断頭台の模型には朴に見立てた人形がつるされた。韓国の歴史ドラマに登場する宮女の格好をした女性らが朴に賜薬(毒薬)をのませる合成写真を手にもつ人々もいた。

 子供たちもデモ隊に紛れこみ、朴の頭部にみたてて作られたボールを蹴る姿まで見受けられた。

 それからほぼ1年が経過した今年9月、検察は問題のタブレット端末の通信履歴や保存データなどを調べた報告書を裁判所に提出。そこには「端末には意味のある内容は何にもない」から鑑定の必要はないとの意見書がつけられていた。

 「朴槿恵大統領公正裁判のための法律支援団」(有志の弁護士を中心に発足)が、報告書を分析して発表したのは9月17日だ。

 支援団によれば、検察は、端末を入手した翌日の2016年10月25日にすでに報告書を作成していたという。事実なら1年ものあいだ隠し通したことになる。

 報告書から分かった事実は驚愕すべきものだった。端末は13年1月から16年10月までネット回線につながれた痕跡はなく、別人名義のものだった。

中に入っていた1800枚以上の写真、その他ファイルに国政介入をうかがわせるものは皆無だったとされている。

 しかし、なぜか「ドレスデン宣言文」だけは、端末に入っていた。

 「JTBCが端末を拾った」(JTBCの説明)後、検察に証拠として提出するまでの間に流し込んだ可能性が濃厚という。

 しかも端末には、文書を修正する際に使うソフトも入っていなかった。

 逆にJTBCが端末を手に入れた後は40回ほどネットに接続されていたことが判明、検察も手を加えた痕跡があるという。

 「支援団」は、「国政介入報道は事前に徹底的に操作され、弾劾に使用された妖物だった」「国政監査と特別検察の任命を強力に要求する」との声明を発表したが、左派系の文在寅政権下でその要求が聞き入れられる見込みはほぼない。

 韓国憲法裁判所で弾劾の是非が審議されていた最中に朴はメディアのインタビューにこう話した。

 「この騒ぎは誰かが私をはめようとして企画した気がする」

 しかし弾劾必至の空気のなかで彼女の言葉はむなしく響くだけだった。

=敬称略(龍谷大学教授 李相哲)

    ◇

 大統領という絶対権力者を通してみる「韓国のかたち」。第2部は同国初の女性トップとなりながら、刑事裁判の被告に転落した朴槿恵の誤算を取り上げる。


2017.10.17 17:30
【実録 韓国のかたち】
第二部(2)独房前ですすり泣いた前大統領…弱点「崔一家との関係」に報道の嵐

 韓国前大統領、朴槿恵(パク・クネ)が逮捕、拘束されたのは韓国の左派系有線テレビJTBCの報道から約5カ月後の3月31日だった。

 ソウル拘置所で朴に与えられたのは、トイレと洗面台などをいれてわずか12・1平方メートルの独房だった。

 「房に入るまえに前大統領はすすり泣きをし、しばらく入ろうとしなかった」(韓国日報)

屈辱の拘置所

 65歳になる彼女がこのような屈辱を味わうのは生まれて初めてだった。元大統領、朴正煕(パク・チョンヒ)の娘として「お姫様」のように扱われ、韓国憲政史上初の女性大統領として権力の座にいた彼女が、強盗や殺人犯らが収容される拘置所に入れられたのだから動揺するのも無理はない。

 朴にかけられた容疑は職権乱用、秘密漏洩(ろうえい)、収賄など10を超えたが、世間の関心は、朴がなぜ崔順実(チェ・スンシル)一家と縁をきらずに関係を保ち続けたのかに集中した。韓国メディアの嵐のような報道は、瞬く間に朴を「崔に魂まで奪われた人物」に仕立て上げた。

 「朴は『永世教』というカルト宗教にはまり、(崔順実の父で宗教家の)崔太敏(チェ・テミン)の信徒だとの疑惑がある」「青瓦台(大統領府)でグッパン(シャーマニズムの儀式)までやっていたとの疑惑もある」(JTBCなどの報道)

 朴は再び対国民談話を発表。「青瓦台でシャーマニズムの儀式を行ったという報道は事実無根」と釈明したが、興奮した韓国国民には「弁明」にしか聞こえなかった。

大統領が崔に操られてきたとするJTBCの報道は、朴の弱点を実に正確に射ぬいたものだった。朴にとって崔一家はアキレス腱(けん)だった。朴の生涯を概観してみれば、それが唯一といっていい「闇の部分」であったことがわかる。

冷静な小学生

 朴は、小学生時代までは腕白(わんぱく)坊主のような女の子だったという。学校の成績は常に全科目で「秀」をもらった。

 小学時代の朴がどんな子供だったかは彼女が通った長忠洞初等学校の学籍簿に残された「性格評価欄」を見ればわかる。

 低学年のときは「親切、礼儀、社会性、正直性、正義感」などすべての項目で最高の評価をもらっているが、高学年になるにつれ、変化が生じる。評価欄には「若干冷静すぎる」「自尊心の強い生徒」と書かれるようになった。

 軍人になる前は小学校教師だった父、正煕と元教師の母、陸英修(ユク・ヨンス)は長女の朴に厳格な教育を心がけた。

 1964年1月に陸は、韓国メディアのインタビューに、「大人っぽくなってきた6年生の長女(槿恵)は、自分の不注意と過ちが両親に影響を及ぼすことを頭に入れているらしく、すべての面において気をつけ、努力しています」と語っている。

 朴も後に「私が失敗でもしようものなら両親の顔に泥を塗るかもしれないという心配でいつも緊張して過ごすのが癖になっていた」と語っている。
独裁体制で政敵も多かった正煕に比し、国民からも広く慕われ、「国母」と呼ばれた陸が凶弾の犠牲になったのは74年8月15日。当時フランスに留学し、韓国では味わうことのできなかった自由を満喫していた朴は母の死を知らされた瞬間をこうつづった。

 「全身に数万ボルトの電流が流れるような衝撃を受けた。心臓に鋭い刃物を深く刺されたような痛みを感じ、目の前が真っ暗になって何も見えなかった」

 そんな彼女に「あなたのお母さんが私の夢に出てきた。娘を助けてほしいと言われた」と近づいてきたのが宗教家を名のる崔太敏だった。=敬称略

(龍谷大学教授 李相哲)

2017.10.18 16:40
【実録 韓国のかたち】
第二部(3)父の死後、側近は去り…韓国政治の「非情さ」誰よりも知りながらなぜ政界へ?

背筋がぞくっとしながら、発した言葉は「前線は大丈夫ですか」

 1979年10月27日の未明。朴槿恵(パク・クネ)は電話のベルの音に起こされた。受話器の向こうからは父、朴正煕(チョンヒ)の秘書官の震える声が聞こえた。「早く支度をしてください」

 朴は背筋がぞくっとした。母が亡くなったときの記憶が稲妻のようによみがえった。しばらくして大統領府秘書室長がやってきた。

 「閣下(朴正煕)が亡くなられました」

 まだ、完全に目がさめないまま、彼女が発した第一声は「前線(南北軍事境界線)は大丈夫ですか」だったという。

 16歳の誕生日を2週間後に控えた68年1月、北朝鮮特殊部隊員31人が青瓦台(大統領府)近くまで侵入してきたことがあった。74年に北朝鮮に思想教育された在日韓国人の銃撃で母を失っていた朴は、今度もまた北朝鮮の仕業だと思ったのかもしれない。

父の遺体の前で凍りつく そして1カ月もたたないうちに…

 朴正煕は、青瓦台近くの安家で側近中の側近だった中央情報部長に撃たれ死亡した。朴はその日のことをこう回想する。

 夜明けごろ、父の遺体は青瓦台に移された。ひつぎの前にはびょうぶをたてた。「私は凍りついた。誰かが私の背中に短刀を突き立てたとしてもなんの痛みも感じなかったことだろう」「子供のように泣いて取りすがりたかった。目の前には泣きじゃくる妹と弟がいた。泣き声が漏れないように口を結んで泣く弟の姿に胸が引き裂かれそうだった」 

事件から1カ月もたたない11月21日。朴が妹と弟の手を引いて青瓦台を去るとき、父の側近の多くはすでに彼らから離れていた。

 こうした中でも、いやこうした状況下だったからこそか崔親子は朴のそばに居続けた。

国家破綻の危機、「自分だけが安易な生活をおくることはできなかった」

 韓国政治の非情さをだれよりも知る朴はなぜ政治の世界に入ったのだろうか。

 彼女を動かしたのは97年に韓国を襲った通貨危機だった。国家破綻の危機に見舞われた韓国は国際通貨基金(IMF)の管理下に置かれたが、愛国心から多くの人が金の指輪やネックレスを国に差し出し、大人からもらった小遣いを献金する子供もいた。

 自叙伝で朴は「青瓦台を離れてから私は悲しさを忘れ、心の平和を手に入れようとした。しかし国の根幹が揺らいでいるのに私だけが安易な生活をおくることはできなかった。私は“政治家・朴槿恵”の道を歩む決心をした」

 97年12月。大統領選投票日を8日後に控え、朴は保守系政党ハンナラ党の李会昌(イ・フェチャン)候補の支持を宣言、応援演説を始めた。

 翌年2月、朴はハンナラ党に入党、大邱市の国会議員補欠選挙に立候補した。長い沈黙を破って政治の世界に現れた朴は、メディアの話題を独占し続け、行く先々には人だかりができて彼女を取り囲んだ。「アイゴ(あら)、こんなに立派になって。よく耐えてきたね」と慰める人や千ウォン(100円相当)札を小さく丸めて朴の手に握らせるおばあさんもいた。多くが朴正煕を知っている高齢の世代だった。朴は相手候補に24%の差をつけ勝利した。

 父の存在は彼女にとって力の源泉であると同時に弱点でもあった。

 朴が大統領選挙に立候補を表明したとき、左派系のハンギョレ新聞はこう書いた。「わが国の現代史が歪曲されずに教えられていたら、こんなめちゃくちゃな現象(朴槿恵人気)が現れただろうか! 朴正煕が親日派であった事実が教科書に記され、クーデターを起こし、人権を蹂躙(じゅうりん)したという事実が知らされていたなら、その娘が大統領候補になることなどあり得るだろうか?!」

 朴と左派との戦争は、朴が政治家を目指した日から避けられないものだった。

=敬称略

(龍谷大学教授 李相哲)

2017.10.20 11:13
【実録 韓国のかたち】
第二部(4)亡き父の“亡霊”に悩まされ…「朴槿恵だけはだめだ」と主張する左派の抱き込みを優先 

凶弾で倒れた「朴正煕の娘」を売り物にしている-左派の攻撃

 2012年8月、朴槿恵(パク・クネ)は保守系セヌリ党(当時)の大統領候補に確定した。

 出馬宣言で朴は「私の人生は大韓民国と一緒でした」と語り始めた。「母は凶弾に撃たれて亡くなりました。耐えがたい苦痛と困難を私が克服できたのは、母が残した空白を埋めなければという責任感と使命感があったからです。そして国民の皆さんが一緒にいてくれたからです」

 党内予備選で84%の票を獲得。圧倒的な強さを見せたが、対立する左派陣営は「凶弾で両親を亡くした、朴正煕(チョンヒ)(元大統領)の娘を売り物にしているからだ」(ハンギョレ新聞)とこきおろした。

 この日朴は父についても口を開いた。「父を亡くし苦痛に耐えていた私は平凡な生活を望んだが、(父の世代が汗と涙でつくった)国家が危機にさらされるのを座視できなかった」

 ところが、選挙期間中に朴を悩ませ続けたのは、ほかならぬ「父」であった。左派陣営は、朴正煕が日本の陸軍士官学校に通い、関東軍支配下の満州軍将校として服役した「親日経歴」や、軍事クーデターをおこした前歴を問題にし、朴に「立場の表明」を迫った。

革命前夜の混乱 父の軍事クーデターは「不可避、最善の選択だった」

 予備選挙を1カ月前に控えた12年7月、ソウルのプレスセンターで開催された討論会でも朴に集中した質問は「父に対する立場」だった。

 「1961年に朴正煕が起こした軍事クーデターをどう思うか」という記者の質問に朴はこう答えた。
「当時を振り返ってみてください。わが国民は、草や木の皮を食べながら飢えをしのぎました。世界で下から2番目に貧しい国で、安保的にもとても危険な状況にありましたので、父としては不可避の最善の選択をしたと思います」

 朴正煕がクーデターをおこしたのは、初代大統領の李承晩(イ・スンマン)が不正選挙の責任をとり下野を余儀なくされた約一年後のことだ。李退陣後の韓国は革命前夜を迎えたかのように混迷の度合いを深めていた。

 米中央情報局(CIA)報告書など米国が近年公開した資料を基に書かれた「韓国での国づくり」(グレッグ・ブレジンスキー著)によれば、当時警察幹部の多くが組織を離れた結果、社会秩序は乱れ、治安は悪化の一途をたどっていた。 

 左派系の学生民族統一連盟が北朝鮮との直接対話を唱え、軍事境界線を目指してデモ行進するなど過激な行動にでた。保守団体がそれに反発、両陣営は熾烈な攻防を繰り広げた。まさに内戦状態だった。

誤算だった左派の取り込み

 選挙に詳しい漢陽大学教授、李英作(イ・ヨンザク)博士によれば、韓国の有権者は保守系、左派・進歩系、無党派に3分される。保守系は朴正煕を肯定的に評価するが、左派・進歩勢力は朴正煕の経歴のみならず、経済発展の実績も否定する。

 「誰が大統領になっても構わないが、朴槿恵だけはだめだ」(12年6月10日付「ハンギョレ新聞」)というのが左派の主張だった。

朴が大統領選に勝つためには無党派層のみならず左派・進歩勢力の一部を取り込む必要があった。

 朴は「理念、階層、世代、進歩と保守を区分けせず、100%の大韓民国を作るつもりだ」と公約に挙げ、遊説では左派系の抱き込みを優先した。 

 政敵であった盧武鉉(ノ・ムヒョン)元大統領(09年5月に自殺)のお墓まいりをして献花し、未亡人のグォン・ヤンスクを訪ねた。

 12年12月の大統領選で朴は51・6%の票を獲得。韓国憲政史上初めて過半数の票を得た大統領、東アジア初の女性大統領と国内外の期待を一身にあびたが、左派系までを取り込もうとした政治姿勢は誤算であったことがすぐに判明する。

=敬称略

(龍谷大学教授 李相哲)

第二部(5)朴VS文ら左派の死闘-TV討論会で「血はごまかせない」と面罵、スパイ映画並み世論操作疑惑も


敵意むき出しで「覚えておきなさい、私はあなたを落選させるために出た」

 2012年の韓国大統領選挙は左派・進歩勢力と保守勢力がそれぞれの存在をかけた戦いとなった。

 当初、左派・進歩系からは民主統合党の文在寅(ムン・ジェイン)、進歩正義党からは沈相●=女へんに丁=(シム・サンジョン)、統合進歩党からは李正姫(イ・ジョンヒ)、無所属の安哲秀(アン・チョルス)らが立候補したが、土壇場で野党側は候補一本化へ傾いた。

 12月4日、大統領候補者による第1回目のテレビ討論がおこなわれた。朴槿恵(パク・クネ)は裏では文との候補一本化を進めながら討論会に出てきた李にこう言った。

 「候補一本化を口にしながら討論会に出た理由が理解できない」

 すると李は「これだけは覚えておきなさい。私はあなたを落選させるために出たのよ」と敵意を露わにした。そしてこう続けた。「あなたの父は日本軍将校になった(正確には満州軍)高木正雄こと朴正煕(チョンヒ)ではないか。血はごまかせないのよ」

 討論会の視聴率は34・9%を記録した。

 事実上、朴と文の一騎打ちとなった12年の大統領選は最後の最後まで結果が読めない状況が続いた。

“秘密工作”暴露劇、テレビで中継

 投票日が近づき、両陣営とも予期せぬミスが起きるのではないかと戦々恐々としていたところへ「(情報機関である)国家情報院(国情院)が朴を当選させるため世論操作をしている。朴への投票を促す“テックル(インターネット上の各種サイトに書き込んだ文をさす)″を組織的に大量に流布している」という内部告発が文陣営に寄せられた。

 民主統合党が疑惑を「暴露」したのは12月11日。大統領選挙は8日後に迫っていた。

 情報源は元国情院幹部を名乗る金(キム)某だった。後に明らかになるが、国情院内部にも3人の協力者がいた。

 金某は国情院の心理戦部門で“テックル”を専門とする女性職員の身分を割り出して尾行。マンションを特定した後、駐車場に止めてあった職員の車とわざと接触事故を起こす方法で、部屋番号まで特定して通報したという。スパイ映画の秘密工作を連想させるやり方だ。

 11日夜、民主統合党所属の国会議員らが取材陣をつれ、職員の家を急襲。職員が逃げられないよう35時間にわたって出入り口を封鎖した。マスクで顔を隠し、ドアを開けようとする職員を押し込み、部屋の中に突進しようとする国会議員と女性がもめる場面はテレビ中継を通じて有権者に伝えられた。

16日夜、文と朴の最後のテレビ討論が行われた。選挙戦は事実上、二人の一気討ちだった。

 朴 「文候補は、自ら人権派弁護士を名乗りながら、国情院女性職員の件について一言も謝罪の言葉がない」

 文 「女性だろうが男性だろうが選挙法を違反したか(しなかったか)が問題だ。

 テレビ討論が終わってから1時間後の同日深夜、警察は“テックル事件”に関する中間捜査結果を発表、「(女性のパソコンには)“テックル″などの痕跡はなかった」と明らかにした。

“テックル事件”再調査

 しかし、文陣営は反発。朴の当選が確定した後も国情院長、捜査を指揮した警察関係者らを選挙法違反などで告発、左派・進歩系市民団体は「朴槿恵下野(退陣)運動」を開始した。

 「朴政権発足後ずっとその正当性に疑問を抱かせるものとなった」(17年3月10日付「韓国日報」)テックル事件は朴政権に影のようについてまわった。

 そして文政権は今年8月、テックル事件に関連したとされる30数人に対する再調査を開始した。

=敬称略

(龍谷大学教授 李相哲)


【実録 韓国のかたち】2017.10.24
第二部(6)親北国会議員が内乱計画、チラつく文在寅の影…朴槿恵は左派排除のためルビコン川を渡った

一度“いや”と言ったら融通が利かない朴槿恵の性格

 朴槿恵(パク・クネ)が大統領に就任した2013年、北朝鮮は米韓合同軍事演習に際し、例年になく厳しい態度をとった。3月30日、北朝鮮は「政府・政党・団体特別声明」を発表して「この時刻より南北関係は戦時状況に突入する」と宣言、南北の和解と協力を象徴する事業として元大統領、金大中(キム・デジュン)時代に造った開城(ケソン)工業団地を「容赦せず閉鎖」すると威嚇、10日後には5万人に上る北の労働者全員を工業団地から撤収させた。

 発足したばかりの朴政権に揺さぶりをかけるのが狙いとみられたが、朴は「(北朝鮮が)危機をあおって脅しをかけると(われわれは)妥協し、支援するという悪循環を繰り返した」と述べ、断固としてあしき「慣習」を断ち切る意向を表明した。

 しかし7月に入って、北側は開城再開について話し合いたいと提案してきていた。北側が「折れた理由」について当時の韓国統一部高官は筆者に「一度“いや”と言ったら融通が利かない朴槿恵の性格を北が知ったからではないか」と解説した。

「基幹施設破壊を」国会議員の特権利用し機密資料を閲覧

 南北の緊張は高まり、軍事衝突が心配されるなか、韓国国内では「内乱」を企てる集会が秘密裏に開かれていたことが発覚した。

韓国の情報機関、国家情報院(国情院)の関係者が、現職国会議員が率いる地下革命組織RO(Revolutionary Organization)が南北間で戦争が勃発した場合、韓国国内の基幹施設を破壊する準備をせよ、と指示を出していたことを突き止めたのだ。

 国情院が入手した録音記録によれば、5月10日から12日の間、左派・革新系の統合進歩党(統進党)所属の国会議員、李石基がRO組織員約130人を集めて次のような指示を出した。

 「戦争が勃発したら大韓民国体制を転覆し、自主的民主政府を樹立して統一革命を完遂する」「そのために首都圏(ソウル)地域にある電話局2カ所を攻撃する計画と京畿道平澤(キョンギドピョンタク)にある油貯蔵庫など主要基幹施設を攻撃できるよう準備せよ。私製爆弾をいつでも作れるようインターネットの爆弾製造の内容を熟知するように」

 集会で李は、米帝国主義、宗派分子といった北朝鮮式言葉を多用しながら、「いま、(朝鮮半島情勢は)危機だ、危機だ、というが何が危機だ。戦争なんだ」と気勢を上げる一幕もあった。

 李は国会議員の特権を利用して、電力供給が中断された場合の放送通信産業の対応マニュアルや使用済み核燃料処理方法に関する研究状況などの機密資料を関係当局に提出させ、閲覧していた。

盧武鉉政権、公安事件で異例の「特別赦免」、被選挙権も回復…

 李は1990年代、北朝鮮の指示で創設された韓国最大級の親北地下組織「民族民主革命党」の地方幹部を務めた。2002年5月に逮捕され、懲役2年6月の実刑判決を受け服役したが03年、元大統領、盧武鉉(ノ・ムヒョン)の「特別赦免」を受けた。公安事件での赦免は異例だった。しかも、その2年後には被選挙権回復を果たす。盧政権の大統領秘書室長を務めた文在寅(ムン・ジェイン)の措置だったとされる。

 国情院が李に対する内部調査を始めたのは元大統領、李明博(イ・ミョンバク)時代の10年だったが、野党勢力の反発を恐れたことや決定的な証拠がなかったため、李が国会議員になるのを座視するしかなかった。朴が大統領に就任した後、国情院は「盗聴許可」をとりつけ、ROに対する捜査網を狭めていった。

 国情院と検察が行動に出たのは8月28日。ROの幹部および統進党関係者の家宅捜索に乗り出した。

 朴が李の逮捕同意案に署名したのは9月2日。国会本会議で投票が行われ、賛成多数で可決された。

 左派の排除に乗り出した朴はルビコン川を渡ったのだった。

=敬称略(龍谷大学教授 李相哲)



【実録 韓国のかたち】2017.10.25
第二部(7)巨大左派団体に戦争を仕掛けた朴槿恵 傘下にマスコミ、教員労組、73万人組合員…

韓国をむしばむ「がんのような存在」

 内乱を扇動した極左政党、統合進歩党(統進党)議員、李石基(イ・ソクキ)に対する逮捕同意案には野党の重鎮であった文在寅(ムン・ジェイン)を含む国会議員のほぼ1割が反対または棄権に回った。

 統進党代表、李正姫(イ・ジョンヒ)は抗議の断食を始めたが、朴槿恵(パク・クネ)は「従北」勢力を「大韓民国をむしばむがんのような存在。早く取りのぞく必要がある」と断固とした姿勢を示し、統進党の解散請求にも署名した。

 「統進党の綱領は、党内の核心勢力、RO(地下革命組織)が内乱陰謀を企てたことからもわかるように北韓(北朝鮮)の対南革命戦略を追従するもの、すなわち“従北″姿勢が明確になったから」というのが主な理由だった。

 李正姫は朴退陣運動を展開すると宣言した。李正姫の呼びかけに真っ先に応じ、援護射撃をしたのは「全国民主労働組合総連盟(民労総)」だった。

 民労総は韓国プレスセンターで記者会見を開き、「朴政権は民主・進歩勢力に対する弾圧を即刻中断せよ。統進党に“従北″のレッテルを貼ることで弾圧に成功すれば、労働者の権利を主張する労働組合、民主と進歩を主張する市民が弾圧の対象になりかねない」との声明を発表した。

「進歩」政党、市民団体のとりで「民労総」

 民労総が激しく反発するのには理由があった。統進党は、金大中(キム・デジュン)時代の2000年に発足した「民主労働党」の流れをくむ政党だが、民主労働党の母体となるのは民労総の傘下組織だった。

 韓国でいわゆる「進歩」を自任する政党は例外なく民労総と持ちつ持たれつの関係にある。李石基が「私の心のなかの同志たち」(12年4月20日の李のツイッター)と称した「韓国進歩連帯」とする組織もそうだ。

 進歩連帯の正体について保守系紙、朝鮮日報の元記者はこう説明する。

 「国家保安法撤廃、米軍撤収、(北朝鮮との)平和協定締結、連邦制統一を唱え、反米デモを主導した団体だ。彼らのいう連邦制統一はひとことでいえば北韓による吸収統一だ」

 この団体は年間800回以上の集会、デモ、記者会見を主催する政治闘争を専門とする組織でもある。

 民労総はこのような「進歩」政党、市民団体のとりでと言ってよい。

 傘下に数千人に上る大手テレビ局、新聞社の記者、編集者からなる言論労組(労働組合)、7万余人が所属する小中高校教師の全国教員労組(全教組)、15万人の公務員を有する公務員労組を含む73万人あまりの組合員を抱える巨大組織でもある。

 大統領に就任した朴は「勇敢」にも、真っ先に民労総に戦争を仕掛けた。

「李明博前大統領が左派を排除をしなかったから国がこんなざまになった」

 李石基の検挙に続いて間もなく、民労総の核心的な組織ともいえる全教祖を非合法団体に指定。組合の不法デモには厳正に対処する姿勢を見せた。

 朴政権で政務首席秘書官をつとめた朴俊雨(ジュンウ)によれば2013年12月、朴槿恵は与党議員との晩餐(ばんさん)でこう述べたという。

 「李明博前大統領が左派の摘発や排除をしなかった。だから国がこんなざまになった」

 同じころ、民労総は激烈なデモ行進を敢行、大規模ストライキに踏み切ったが、朴は5千人に上る警察官を動員してストライキを主導した民労総幹部の強制拘引に乗り出した。

 韓国憲法裁判所が統合進歩党の解散決定を下したのは、朴が当選2周年を迎えた14年12月19日だった。

 その翌日、朴は「民主主義を確固として守ってくれた歴史的な決定だ」とのコメントを発表した。しかし、「従北」勢力がそれで完全に排除されたわけではなかった。

 奇しくも決定から2年3カ月後、朴は同じ憲法裁判所から罷免を言い渡されることになる。   =敬称略   (龍谷大学教授 李相哲)

【実録 韓国のかたち 第3部(1~5)

【実録 韓国のかたち 第3部(1)】2017.12.18
◆“法治破壊”する文政権-「積弊清算」の美名の下、盧武鉉自殺への政治的報復・保守壊滅作戦
文政権の法治破壊、「黙認できない」 国会副議長の訴え

 「“積弊(長年積もった不正腐敗)”清算という美名のもと、占領軍の如く国家機密に接近し、標的を決めて過去を蒸し返す。それを根拠に検察に捜査を指示、検察が従うという事態が発生している」

 11月27日。韓国国旗と国会の旗に囲まれた演台に立った国会副議長、沈在哲(シム・ジェチョル)は神妙な表情を浮かべていた。沈は大統領の文在寅(ムン・ジェイン)、大統領秘書室長の任鍾●(=析の下に日)(イム・ジョンソク)、情報機関である国家情報院(国情院)院長の徐勲(ソ・フン)、ソウル中央地検長のユン・ソクヨルを、法治破壊など「内乱の罪」で刑事告発せよと呼びかけた。

 沈は、大学在学中の1980年5月、ソウル大学総学生会長として全斗煥(チョン・ドゥファン)の軍事政権に反対するデモを主導したとして逮捕、投獄されたが、90年代に転向。2000年に保守政党ハンナラ党から国会議員に立候補して5選を果たした保守系の重鎮だ。

 沈は、政府の各部署に各種の「過去史真相調査委員会」が作られ、適法な手続きなしに大統領府をはじめ国情院の機密情報まで勝手に荒らされていると批判、次のように述べた。

 「文政権の法治破壊を黙認できない」

「明らかに憲法と刑法違反」の朴槿恵裁判

 与党「共に民主党」は「(朴槿恵=パク・クネ=前大統領の)弾劾に不服で文大統領を認めようとしない傲岸不遜な行為だ」と即刻反発、沈に副議長辞任と謝罪を要求した。

 沈は続いて次のような声明を出した。「与党は私の真意を歪曲すべきでない」「文在寅の半年の国政運営を概観する限り、内乱の罪から自由ではいられない」

 拘束中の前大統領、朴については、週4回の公判が半年間も開かれた。弁護人が裁判の進め方に抗議して辞任するなど結審のめどは立っていない。朴の拘束はさらに半年間延長された。

 朴槿恵裁判を1回も欠かさず傍聴してきた「月刊朝鮮」元記者、ウ・ジョンチャンはこう憤る。

 「明らかに憲法と刑法違反。推定無罪の原則にも反する不当な拘束だ。韓国国民は、政権ににらまれたら誰であれ、いつでも逮捕され、証拠がそろうまで監禁されるのだろう」

「日韓合意」立役者が逮捕

 文在寅政権下で拘束されているのは前大統領の朴槿恵だけではない。サムスングループの事実上のオーナーである李在鎔(イ・ジェヨン)、元大統領秘書室長の金淇春(キム・ギチュン)、最近では朴政権で駐日大使や国情院院長などを歴任した李丙●(=王へんに其)(ビョンギ)が逮捕された。

 李丙●(=王へんに其)は2015年の慰安婦問題をめぐる日韓合意を実らせた立役者としても知られる人物だが、国情院長時代に「特殊活動費」を大統領府に「上納」したとの疑いがもたれている。

韓国政府の特殊活動費はおおむね9000億ウォン(900億円)。その半分が国情院に配分される。しかし、特殊活動費をめぐって国情院長が罪に問われるということはこれまでなかった。 

「過去のどの政権も前政権に報復をこんなふうにはしていない」

 盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権時代の2007年7月、韓国政府はイスラム原理主義勢力タリバンに人質として捕らえられた23人(うち2人は殺害)を釈放するため2000万ドルを特殊活動費から払った。

 しかし、国情院が実際に引き出した金額は3000万ドル。韓国紙中央日報(07年11月6日付)は、そのうち1000万ドルはこの年の10月に開かれた南北首脳会談の代価として北朝鮮に渡されたと報じた。

 しかし、この1000万ドルに関しては追及もなく、今回も調査対象からは除外されている。

 当時、首脳会談準備委員長を務めたのは大統領秘書室長、文在寅だった。

 野党の自由韓国党は、文政権が現在やっていることは「盧武鉉の自殺に対する政治的報復、保守壊滅作戦だ」と批判する。

 特定犯罪加重処罰の対象として10月に拘束された国情院の元心理戦担当官は、逮捕される直前にメディアにこう語った。

 「積弊清算の名目でつくられた民間人からなる国情院改革委員会は国情院のメインサーバーを開けている。メインサーバーには国情院のすべての情報活動に関する文書が入っている。過去のいかなる政権も前政権に対する報復をこんなふうにはしていない」野党議員の一人は険しい表情で筆者にこう語った。 「韓国は完全に左派・従北(北朝鮮同調勢力)勢力の世になってしまった。文政権がこんな無理筋を行っているのは、保守・右派の再起を封じ込み、左派政権を永続させるためだ。積弊清算の各種委員会には従北勢力が含まれている。事態はとても深刻だ」
(龍谷大学教授 李相哲)
     ◇

 文在寅政権は、保守政権時代の高官らを「積弊清算」として相次いで逮捕している。しかし左派政権には何の積弊もないのだろうか。左派政権の実像に迫る。


【実録 韓国のかたち 第3部(2)】2017.12.19
◆日韓合意も処罰の対象に 文在寅政権「近衛兵」による“韓国の文化大革命”の無慈悲

 韓国の与党「共に民主党」は11月、今後徹底的な調査が必要だとする「積弊(長年積もった不正腐敗)リスト73件」を文書にまとめ、121人の所属議員に回覧した。

 聯合ニュースによれば、清算すべき積弊対象には慰安婦問題をめぐる日韓合意も含まれている。外交部(日本の外務省に相当)内に設置された特別委員会の活動結果を土台に関連した者を“処罰”するという。

左派政権の問題には蓋をしたまま…

 韓国野党議員の一人は「革命政権を看板とする文(在寅)=ムン・ジェイン=政権は、李明博(イ・ミョンバク)・朴槿恵(パク・クネ)政権時代の“不正”をあぶりだし、恥をかかせ、保守勢力が復権できないようにするつもりだ。盧武鉉(ノ・ムヒョン)、金大中(キム・デジュン)の左派政権の問題には蓋をしたままだ」と話す。

 保守系の論客、趙甲済(チョ・カプチェ)は韓国で起こっている現象を中国の文化大革命に例え、文大統領を支持する元学生運動家ら「運動圏」の勢力を「紅衛兵」と呼ぶ。

 1966年より10年あまり中国全土を席巻した文化大革命の狂風のなか、中学、高校生らで組織された「紅衛兵」は、国家主席、劉少奇をはじめ多くの共産党幹部を捕らえ、市中を引きまわし、殴り殺すこともあった。政権各部署には最高指導者、毛沢東の庇護をうける「革命委員会」と称する組織が進駐、無慈悲な粛清を敢行したのだ。

韓国経済新聞主筆の鄭奎載(チョン・ギュジェ)は、「文政権が進める“積弊清算”は腐敗を一掃し、正義を実現するためではない」と断言する。

「北朝鮮が一番怖がる軍人」を拘束

 11月11日、韓国検察は李・朴政権で国防長官を歴任、後に大統領府で国家安保室長をつとめた金寛鎮(キム・グワンジン)を拘束した。2012年の大統領選期間中、朴に有利な世論を形成するためサイバー司令部傘下530心理戦団に“テックル(インターネット上の書き込み)”工作を指示したという疑いだった。

 野党院内代表(国会対策委員に相当)の鄭宇澤(チョン・ウテク)は「彼は北朝鮮が一番怖がる軍人だった」とし、こう続ける。「金国防長官がサイバー司令部を大幅に強化したのは、当時、北韓(北朝鮮)が電子戦兵士3万人を育成していたからだ」

 2015年、南北軍事境界線の韓国側に北朝鮮が地雷を埋設して韓国軍兵士2人が大けがを負う事件が起きたとき、金は北朝鮮向けの拡声器放送を再開するよう命じた。金を憎んだ北は、金に見立てた人形を猛犬が噛みちぎる映像をテレビで流した。

 韓国紙中央日報は「金正日(ジョンイル)・金日成(イルソン)時代をふくめ、金寛鎮ほど北韓指導者にストレスを与えた長官はいない。そんな人が拘束された。金正恩(ジョンウン)が快哉(かいさい)をさけぶだろう」(11月13日付)と嘆き、こう続けた。

「罰は罪の重さに比例してはじめて正義となる。正義が度をすぎると残忍になる。金寛鎮を監房に送った本当の理由が李明博元大統領を拘束するためであるとすれば、政治報復、標的捜査だとの批判を受けても仕方ないだろう」

鬱憤晴らしか、政治報復か…

 金が拘束された翌日、李は「“積弊清算”という名目でやっていることが(文の)鬱憤晴らしなのか、それとも政治報復かと疑うようになった」と発言。

 李の側近とされる元高官は「政権を握って半年しかたっていない彼らが李前大統領のことを知っていると言っても限界がある。私たちは5年間も政権にいた。われわれのほうが、盧政権(の積弊)について知っていることは多い。(中略)先にけんかを売るつもりはないが、検察が無理筋の捜査をするなら対応するしかない」と語った。

 これらの発言から一週間後、金は保釈された。

 韓国の左派と右派の対決は今に始まったものではない。そのルーツは金大中という、左派・進歩勢力の元祖にさかのぼる。   =敬称略(龍谷大学教授 李相哲)

     ◇
【実録 韓国のかたち 第3部(3)】
◆左派政権スキャンダル、秘密資金3千億ウォンはどこへ 金大中政権幹部告発を韓国メディアは黙殺

「3千億ウォン」指示下したのは青瓦台

 韓国検察が朴槿恵(パク・クネ)・李明博(イ・ミョンバク)政権時代の高官を次から次へと逮捕している最中の今月8日、金大中(キム・デジュン)政権(1998年~2003年)で国家情報院(国情院)2次長(次官級、大統領が任命)を務めた金銀星(キムウンソン)が左派政権にまつわる前代未聞のスキャンダルを暴露した。

 金銀星は、金大中政権時代の2001年、当時の国情院長、辛建(シン・ゴン)の指示で6つの市中銀行から総額3000億ウォンの秘密資金を工面したが、それがどこへ使われたかは知らないと明かしたのだ。金銀星によれば、3千億ウォンの指示を下したのは青瓦台(大統領府)だった。

 金の証言はかなり具体的だ。「2001年上半期のある日だった。辛院長が青瓦台で週例報告を終えた後の午後3時半から4時の間に私に電話をかけてきました。『市中銀行を使って3千億ウォンを準備しろ。青瓦台の会議で決まった』との指示でした」。

 金によれば当初国情院は、ひとつの市中銀行で3千億ウォンを工面しようとしたが、一銀行だけでは難しいことが分かり、6つの銀行から集めることにした。

金は部下を直ちに某銀行に派遣した。しかし、頭取は「一つの銀行で用立てるには金額が大きすぎる」と難色を示した。「これは青瓦台の指示だ」と言うと、6つの銀行で500億ウォンずつ借りられるよう仲介してくれたという。

 青瓦台から戻ってきた辛に金が、「銀行からは誰が(お金を)取りに来るのかと聞かれましたが…」と尋ねると、辛は「青瓦台がやるだろう。私たちの仕事はここまでだ」と答えた。

巨額の金、いったい何に使ったのか

 数日後、金はソウル市中心部の光化門近くのレストランでこの件を取り仕切った中心人物とされる金大中の側近に会い、次のような会話を交わしたという。

 金 「政権後半期に銀行からそんな巨額のお金を引き出せば政治問題になる。6つの銀行が関与しているので秘密保持も難しい。頭取以下の担当者らも知っているはずだ」

 側近 「私一人でやったことではない」

 金 「大統領も知っているか(大統領の指示か)」

 側近 「…」

 最大の疑問は、金大中政府が3千億ウォンを何に使ったかだ。

 金銀星にインタビューした『週刊東亜』はつぎのように記す。

 「3千億ウォンを工面する1年ほど前、金大中政権が(2000年7月の)南北首脳会談のために約5千億ウォンを工面したという事実を思い起こせば、3千億ウォンも北朝鮮と関連のあるお金ではないかという推測が可能だ」

2万人の記者、多くが左派寄り言論労働組合に牛耳られ…

 01年当時、金大中政権は北朝鮮に対する融和政策に腐心していた。

 金大中政権末期に韓国産業銀行総裁をつとめたオム・ナギョンは、回顧録で「当時(01年ごろ)、金大中政権は財閥企業のSグループにも対北朝鮮事業に参加せよと圧迫していると聞いた」と話す。

 金が、秘密資金疑惑を暴露してから10日近くたったが、韓国大手メディアはこぞって沈黙を貫き、野党も問題提起をせずにいる。

 韓国メディア事情に詳しい大学教授は匿名を条件にこう話した。「韓国には2万人ほどの記者がいるが、多くが左派寄りの言論労働組合に牛耳られている。金大中という名前を触りたくないんだ」

=敬称略

(龍谷大学教授 李相哲)

【実録 韓国のかたち 第3部(4)】2017.12.21
左派のルーツ・金大中 「不屈の闘士」、一方で「アカ」のレッテル、「北から秘密資金」の証言も

金大中ほど韓国人に憎まれ、愛された政治家はいない

 韓国の左派・進歩勢力は頻繁に離合集散を繰り返したため理念や主義主張だけでその系譜をさかのぼるのは至難の業だが、今日の政権与党「共に民主党」のルーツが金大中(キム・デジュン、1924~2009)にあることは間違いないだろう。

 金大中ほど韓国人に憎まれ、愛された政治家はいない。独裁権力と戦った民主化の闘士とたたえられる一方、“大統領病患者”と呼ばれたように権力の亡者だったとの批判も絶えない。金大中に対する支持不支持は韓国では左派と右派、進歩と保守を分けるリトマス試験紙にもなっている。

 韓国南部全羅南道出身の金が政治の世界に足を踏み入れたのは朝鮮戦争休戦翌年の1954年だ。以後、複数回の落選などさまざまな曲折を経て、63年の選挙でようやく安定した国会議員の地位を手に入れた。

 71年に大統領選に出馬するが、当時では考えられない選挙公約を打ち出した。北朝鮮と交流を始めること、郷土予備軍を廃止すること、大衆が参加する福祉分配政策を実施するとの内容だった。

 東西冷戦の真っただ中、北朝鮮を擁護するような発言で金には「アカ」のレッテルがはられる。

ベールに包まれた「民主化闘争」の実態

 大統領選で金は朴正煕(パク・チョンヒ)と熾烈な戦いを展開した。二人の戦いは、金の出身地の全羅道(湖南)地域と朴の出身地の慶尚北道(嶺南地域)との対決の様相を呈し、この選挙を機に湖南地域は左派・進歩、嶺南地域は右派・保守の牙城となり、地域間対立は左派と右派との対立へと発展するのである。

 再選を果たした朴は翌年10月、非常戒厳令を発令、国会を解散して憲法を停止することを骨子とする「大統領特別宣言」、いわゆる「維新」を発表した。 

 当局に仕組まれた交通事故の後遺症治療のため日本を訪問中だった金は、朴政権を非難する記者会見を東京で開いたあと米国への亡命を決意。73年7月金は、ワシントンで韓国民主回復統一促進国民会議(78年に韓国では反国家団体に指定)を結成、8月に日本支部結成のため訪日した。

 金の秘密資金を追跡しつづけた国際ジャーナリスト、孫忠武はこの時期の前後、金は北朝鮮から秘密裏に資金提供を受け、国外の親北朝鮮団体・人物との連携を強化したと証言する。金日成(イルソン)と親密な関係にあった音楽家の尹伊桑(ユン・イサン)らと連帯していたというのだ。金の国外における「民主化闘争」の実態についてはベールに包まれた部分が多く、真相は北朝鮮の資料が公開されるのを待たねばならないだろう。

 73年8月、金は都内のホテルから拉致された。「金大中拉致事件」だ。

 いったんは死のふちに追い込まれながら生還したこの事件によって金大中は瞬く間に「独裁政権と戦う不屈の闘士」として名をとどろかせた。

拉致事件に朴大統領は関与せず

 朴の司正秘書官などを務めた元側近の董勲(ドン・フン)は筆者にこう証言した。

 「朴大統領は拉致事件に関与していない。部下の忠誠競争によるものだ。大統領はわれわれに『余計なことをして、彼を有名にしてしまったのだ』とおっしゃったことがある」

 その後、数々の政治の修羅場をくぐりぬけた金は87年、91年の大統領選挙に新党を結成して挑むが落選。

 直後に「私は今日をもって国会議員職を辞退し、普通の市民に戻ります」と政界引退宣言した。

 ところが97年に引退宣言を翻し、3度目の正直ならぬ4度目の大統領選に出馬、当選を果たした。

 このときは政治生命をかけて戦ってきたはずの朴の支持勢力と手を組み、連立政権樹立を持ちかけたことが功を奏した。

 韓国に左派・従北勢力が跋扈(ばっこ)するようになるのは、これ以降のことだ。

=敬称略

(龍谷大学教授 李相哲)


【実録 韓国のかたち 第3部(5)】2017.12.22
韓国「民主化」、市民団体「左傾化」の影に北の工作 光州事件“首謀者”金大中は死刑を宣告され…

「南南葛藤」の対南戦略 北と韓国の市民団体は持ちつ持たれつの関係

 韓国の市民団体が北朝鮮寄りの姿勢へ傾き、「左派」へと変質していくのは、北朝鮮の工作によるところが大きい。北朝鮮の対南戦略の基本は「南南葛藤(韓国人同士の葛藤、政府と市民団体との対立)」を誘発し、決定的な時期をとらえて一気に韓国を乗っ取ることだった。

 そのため、北は韓国の「民主化運動」を積極的に支持、支援する。市民団体は北朝鮮の支援を闘争の動力にする。両者は持ちつ持たれつの関係にあり、金大中(キム・デジュン)はこの両者から頼りにされ続ける存在だった。

 北朝鮮が待っていた「決定的な時期」は意外とあっけなく訪れた。1979年10月26日、16年もの間絶大な権力を握っていた大統領、朴正煕(パク・チョンヒ)が部下の中央情報部(KCIA、現国家情報院)長に暗殺された。

 南北の体制競争で北朝鮮の敗色が色濃く出始めた70年代末期、北朝鮮の対南工作はより大胆になっていった。秘密裏に対南工作活動を繰り広げる一方、77年に統一戦線部を作り、堂々と韓国の著名人、市民団体の抱き込み攻勢を始めた。

 日本人拉致事件が頻発するのもこの時期と重なる。日本人になりすまして堂々と工作活動を行うためだった。

激化するデモ、労働者による炭鉱占拠事件、「北が攻めてくる」の噂…

 朴暗殺後、大統領代行に就任したのは首相の崔圭夏(チェ・ギュハ)だったが、力の空白を埋めることはできず、政局は混乱の渦に吸い込まれていった。崔は、従来の憲法の規定により実施された12月の選挙で大統領に当選するが在野勢力は新憲法を制定してからの大統領選挙を求めた。

 翌年2月、崔は朴政権時代に逮捕・拘束された政治犯を赦免、金らに政治への参与権を与え、事態の沈静化を図るが各種集会やデモはますます盛んになった。

 時を同じくして労働争議も増え、のべ20万人あまりの労働者がデモに参加。5月にはいると韓国北部、江原堂東原炭鉱で4千人余りの炭鉱労働者とその家族が4日間にわたり炭鉱一帯を占拠する事件がおこった。巷では北朝鮮が攻めてくるとの噂でもちきりだった。

 こうした状況に危機感を募らせ、クーデターで軍の実権を握った全斗煥らを中核とする新軍部は、5月17日午前に全軍主要指揮官会議を招集し、戒厳令を強化(戒厳令の全土拡大)することを決議、非常戒厳令拡大措置(それまで済州道は対象外であった)を発表した。 

 政治活動を禁止し、全国の大学は休校措置が採られた。そして金を戒厳令布告違反で逮捕、金鍾泌や李厚洛(元中央情報部部長)ら朴政権の主要政治家も不正蓄財容疑で連行した。

光州事件は本当に民主化のための平和デモだったのか

 金の出身地の湖南地域では、光州を中心に激烈なデモがおきる。5月18日、デモを鎮圧するため光州に進駐した陸軍空挺部隊は大学を封鎖するが、それに抗議する学生との間でもみ合いとなった。

 武装した市民に鎮圧のために軍隊が投入された。27日まで続いた光州事件は「民間人165人が死亡した」とされる。(5・18事件、検察捜査記録による)

 「5・18」は韓国が民主化へと大きくかじをきる契機を提供した一方、左派・進歩勢力に大きな政治的な空間をつくるきっかけとなった。

 全は回顧録で当時の状況をこう記す。「多くの人々が知らないことは、光州事件が本当に民主化のための平和デモだったかという点だ。デモ隊は、軍需業者の自動車工場を襲撃して戦車と軍用車両を奪い、4時間のうちに38カ所の武器庫を襲撃して銃器5400余丁、弾薬28万8千発、爆薬2180トンを奪取した」

 この事件の首謀者とされた金は、軍事裁判で死刑を宣告され(2004年に無罪)、82年12月再び米国亡命への途に就くが、民主化運動はむしろ勢いを増していく。

=敬称略

(龍谷大学教授 李相哲)

「フィリピン慰安婦像」現地ルポ 日本側に動き察知されぬようステルス化する中華系団体

「フィリピン慰安婦像」現地ルポ 日本側に動き察知されぬようステルス化する中華系団体 大統領府も「寝耳に水」
【歴史戦】2017.12.16

 フィリピンのマニラ湾に臨む約3キロの遊歩道には、元大統領や人気俳優らの銅像が立ち、市民に親しまれている。そこに唯一、実在した人物ではない像が加わった。中華系団体が、フィリピンの人権団体を巻き込みひそかに準備を進め、マニラ市や政府機関の“お墨付き”を得て、8日に除幕した「慰安婦像」だ。設置までの工作には、日本側に事前に動きを察知されないようにする手法の“ステルス化”が浮かび上がる。(マニラ 吉村英輝)

◆責任のなすり付け合い
 台座正面の碑文には「日本占領下の1942~45年に虐待を受けたフィリピン人女性犠牲者の記憶」などとある。タガログ語で書かれ表現は穏当だ。「慰安婦」の言葉もない。政府機関であるフィリピン国家歴史委員会が作成した。
 ある委員は、慰安婦像作製は現地の人権団体「リラ・ピリピーナ」などが2014年から始め、今年10月に碑文作成を要請してきたとした。1990年代の韓国での慰安婦運動をフィリピンに導入した団体だ。
 歴史委員会は、年間約30件の碑文を全国の歴史建築物などに設置しているが、新設の銅像が対象となるのは「異例」という。「マニラ市からの協力要請」を受け、歴史家らからなる委員6人で決めたと強調した。
 この委員は、日本政府の反発に「銅像は民間団体からの寄贈で、私たちの責任は碑文のみ。除幕式も招かれただけだ」と困惑した。6日にホームページで除幕式を公表したが、その後「騒ぎを受け削除した」。
 だが、遊歩道を管轄するマニラ市側の担当者は、慰安婦像の設置や除幕式を行政的に主導したのは、歴史委員会だと反論した。エストラーダ市長宛てに11月16日付で届いた除幕式の招待状は確かに歴史委員会から出されており、「招かれた」との説明とは食い違う。
 市長代理として除幕式に参加した幹部は、日中間の懸案事項に関わる式典に違和感を覚え、用意された祝辞の代読前に「問題になりませんように」と挨拶。歴史委員会の担当者に外務省の承諾を確認したが、「即答がなかった」と説明しているという。委員会と市側が責任をなすり付け合っている。

◆「慰安婦」を知らない現地市民
 フィリピンの慰安婦像の台座裏には、寄贈者の5個人・団体名が刻まれている。ほぼ全て華人だ。英語で「フィリピン人慰安婦の像」と記され、フィリピン人作製者名もある。もっとも、慰安婦像前で足を止めた市民数人に聞いたが、「慰安婦」を知る人はいなかった。
 慰安婦像を警備していた男性によると、像の建造が始まったのは今夏。銅像のはす向かいにある「アロハ・ホテル」に雇われているという。同ホテル経営者は台座裏に名がある華人、マニュエル・チュア氏。「マニラ市役所にも人脈を持つ」(地元記者)という。
 関係者によると、除幕式出席者らは、同ホテルに待機して式典に向かった。呼ばれたメディアは、中国国営新華社通信など中国系のみ。式典を報じたのも中国系だけで、現地メディアはほぼ伝えていない。当事者であるはずの元慰安婦や日本も“除外”された。
「日本メディアの取材は受けない」
 ほかの寄贈者名には、日本占領期に抗日ゲリラだった華人のほか、比華人団体「トゥライ財団」も。同財団は路上孤児救済などで実績がある。なぜ急に慰安婦問題に関与したかは不明だが、「日本メディアの取材は受けない」という。最後の「ワイ・ミン(惠明)慈善基金有限会社」は、香港が拠点で、創設者の鍾惠明氏は、中国本土の慰安婦救済や日本への賠償請求支援を行ってきたとされる。
 「慰安婦」をキーワードに海外の華人ネットワークを駆使する中国の反日プロパガンダは、オーストラリアでも2015年に行われたが、公共の場への慰安婦像設置の嘆願は、当該市が地方自治体の判断の範囲外だとして認めなかった。

豪州では問題が表沙汰になったこともあって日本政府も動き対抗した。だが今回、在フィリピン日本大使館は、除幕式翌日の9日の報道で動きを知った。連絡を密にしている大統領府や外務省へ問い合わせたが「向こうも寝耳に水」(幹部)で、後の祭りだった。

◆日比の友好に中国がくさび
 隠れて既成事実を積み重ね開き直る中国の手法は、南シナ海の人工島の軍事拠点化でも実証済みだ。
 人権派弁護士として慰安婦問題にも携わってきた、フィリピンのロケ大統領報道官は11日、今回の慰安婦像について「支持もしないし、反対の立場もとらない」と述べた。
 日比が戦後に築いてきた友好関係に、中国の新たなくさびが打ち込まれた。

【用語解説】フィリピンの慰安婦問題
 日本とフィリピン両政府は、先の大戦の賠償問題などはサンフランシスコ平和条約で解決済みとしているが、フィリピンで、日本軍占領下(1942~45年)に慰安婦だったという女性らが90年代に名乗り出た。村山内閣当時の95年に発足した「アジア女性基金」が「償い金」などとしてフィリピンの元慰安婦211人に1人320万円を支払った。これを拒否し日本政府に「公式な謝罪と賠償」を求める動きもある。

「中国の尖閣攻撃」 中国が用意する3つの軍事作戦はこれだ

【古森義久の緯度経度】2017.12.16
「中国の尖閣攻撃」に日本の備えは? 中国が用意する3つの軍事作戦はこれだ

 中国が日本の尖閣諸島を軍事攻撃で奪取する作戦計画を進めているという警告が米国議会機関から発せられた。日本にとっての真の国難は北朝鮮の核の脅威よりもむしろ中国の尖閣攻撃の危険ともいえるようだ。

 この警告は米国議会の超党派の「米中経済安保調査委員会」が11月に公表した2017年度報告書に明記されていた。同委員会は上下両院の共和、民主両党議員が指名する12人の専門家の委員を中心に「米中経済関係が米国の安全保障に及ぼす影響」を精査して政府と議会に政策勧告することを目的とする。このためとくに中国の軍事動向を広範に調査する。

 尖閣問題について同報告書はまず中国が現状を日本側による不当な支配とみなし、軍事力を使ってでも自国領にしようとしていることが日中緊迫の最大要因だという見解を記していた。その当面の証拠として中国海警の大型武装艦艇が4隻の艦隊を組み、毎月平均2、3回、日本側の領海や接続水域に一方的に侵入してくる事実をあげていた。

 同報告書は中国側がすでに尖閣諸島の日本側の施政権を骨抜きにしたとみなしているようだ、と述べ、その根拠として中国人民解放軍の国防大学戦略研究所の孟祥青所長による最近の「中国側は日本が長年、主張してきた尖閣諸島の統治の実権をすでに奪った」という見解を示していた。

 同報告書はさらに尖閣への中国のこの軍事がらみの攻勢が米中全面衝突にまでエスカレートする潜在的な危険をも強調していた。だが同報告書は中国が日本から尖閣を物理的、軍事的に奪う作戦を少なくとも3種類、実際に立案しているとして、その内容を米海軍第7艦隊の諜報情報部長を務めたジェームズ・ファネル大佐らの証言として発表していた。その骨子は次のようだった。

 ▽第一は「海洋法規の執行作戦」と呼べる中国海警主体の尖閣上陸である。この方法は中国海警が尖閣を自国領とみなしての巡視や陸地接近を拡大し続け、日本の海上保安庁巡視船を消耗戦で疲弊させ、隙を突き、軍事攻撃ではなく視察や監視という形で上陸する。

中国側は近くに海軍部隊を配備させておくが、あくまで戦闘は避ける姿勢をみせ、尖閣諸島に中国側としての公共施設などを建て始める。日本側はその時点で中国のその行動を許して、尖閣を放棄するか、軍事的行動でその動きを阻止するか、という重大な選択を迫られる。

 ▽第二は「軍事演習の偽装作戦」である。第一の方法が成功しなかった場合の作戦で、中国軍は尖閣近くで中国海警を含めて大規模な陸海空の合同演習を実施し、日米側にはあくまで演習と思わせ、その意表をついて一気に尖閣に奇襲をかけて占拠する。実態は「短期の鋭利な戦争」とする。

 ▽第三は「水陸両用の正面上陸作戦」である。台湾侵攻のような正面からの尖閣上陸作戦で、中国軍は尖閣規模の離島への上陸用舟艇も、空挺作戦用の戦略的空輸能力も、ヘリでの急襲能力もみな十分に保持している。その総合戦力を正面から投入し、尖閣の完全占領を図る。日米両国部隊との正面衝突も辞さない。

 中国側には以上のような準備があるというのだ。では日本側にはどんな準備があるのだろうか。(ワシントン駐在客員特派員)

歴史戦・第19部 結託する反日(上・中・下)

【歴史戦・第19部 結託する反日(上)】2017.12.12
「南京」の嘘、カナダで拡散 慰安婦像の増殖が止まらない 女性議員、大虐殺信じ「ネバー・アゲイン」


【「慰安婦」日韓合意】
 「80年前、旧日本軍はおよそ2万~8万人の中国人女性や少女をレイプし、30万人余りが殺害された。当時南京にいた欧米人の目撃者はこの世の地獄のような虐殺だったと証言している」

 11月30日のカナダ連邦議会下院。西部ブリティッシュコロンビア州選出で香港出身の女性議員、ジェニー・クワンの熱のこもった発言に議場から拍手が起きた。

 クワンはこう続けた。

 「南京大虐殺の後、旧日本軍の軍性奴隷システムは急速に拡大した。韓国、フィリピン、中国、ビルマ、インドネシアやその他、日本の占領地域から20万人ほどの女性がだまされたり、誘拐されたりして、売春施設で強制的に『慰安婦』として、旧日本軍兵士のために働かされた」

 クワンは国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界の記憶」(世界記憶遺産)に「南京大虐殺文書」が登録されたことも紹介したうえで、ある団体に言及し発言を締めくくった。

 「カナダALPHAの献身に感謝したい」

 クワンは連邦議会での発言について、産経新聞の取材に「いかなる歴史的な残虐行為も記憶にとどめるべきだと信じている。『ネバー・アゲイン』の精神だ」とメールで回答した。

 南京事件と慰安婦。嘘と知らずに聞けば、その衝撃は強烈に違いない。

日中戦争時の昭和12(1937)年に旧日本軍による南京占領で起きたとされる「南京事件」から80年となる12月13日を控え、中国系住民が170万人を超える移民大国のカナダで「反日運動」が近年に例を見ないほど盛り上がっている。

 その運動の中心にいるのが、クワンが語った反日団体「カナダALPHA」(第二次世界大戦アジア史保存カナダ連合)だ。

 1997年に、香港出身の医師、ジョセフ・ウォンが東部オンタリオ州トロントで設立したのが最初で、カナダ各地に支部を持つ。米西部カリフォルニア州に本部を置く反日団体「世界抗日戦争史実維護連合会」(抗日連合会)の下部組織としても知られる。

 ウォンはこの年に、「南京大虐殺」の嘘を世界に拡散した『ザ・レイプ・オブ・南京』の著者で中国系米国人ジャーナリスト、故アイリス・チャンをカナダに招待し、同書を宣伝した。チャンは抗日連合会の支援を受けて同書を執筆した。

 ウォンは70年代後半、ベトナム難民の受け入れに尽力。現在は複数の老人ホームを運営する「慈善家」としての顔を持ち、地元トロントでは尊敬を集める。だが、日本への“追及”は容赦ない。

「ホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)に対するユダヤ人の努力に感銘を受けて中国人は今まで何をしてきたんだと突き動かされた」

 ウォンは周囲にALPHA設立の理由をこう語っているという。

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 「カナダALPHA」が近年、力を注いでいるのは、中国などアジア系議員を動かし、12月13日を「南京大虐殺記念日」として制定する活動だ。オンタリオ州では昨年12月、香港系女性議員、スー・ウォンが法案を提出した。ウォンはALPHAとともに頻繁に集会を開き、計9万人以上の署名を集めた。

 法案は日本側の働きかけもあり、可決は難しくなった。代わりにウォンは10月26日、法的拘束力のない動議を提出し、出席議員わずか15人ほどで採択された。

 東部マニトバ州でもフィリピン系女性議員が記念日制定に奔走したが、賛同は広がらなかった。それでも記念日制定の動きが収まったわけではない。

 ALPHAは中国系住民が4割を占めるトロントのスカボロー地区で「アジア太平洋平和記念館」の建設計画を進める。「アジアの第二次大戦の歴史を学ぶ機会を提供する」とうたう記念館は、2019年の開館を目指す。無料で地元の学生らを招待する計画という。トロント教育委員会とは歴史資料の提供などを盛り込んだ覚書を結ぶなど、嘘の刷り込みに余念がない。

× × ×

 米国だけでなくカナダにも慰安婦像がある。トロント市中心部から北東に約25キロ離れた「韓国カナダ文化協会」会館の正面玄関前に15年11月、設置された。除幕式にはALPHA設立者のウォンをはじめ、国会議員らも出席したが、現地日本人は「反対運動をする時間もなく、設置されてしまった」と憤る。

 関係者によると、この慰安婦像は、15年春にブリティッシュコロンビア州バーナビー市での設置が失敗したため、トロントに移送された。人通りがない私有地で注目されない慰安婦像だが、協会側は市街地の韓国系店舗が並ぶ地区にある公園に、移転させようと水面下で動いているとされる。

 オンタリオ州では韓国系議員、レイモンド・チョーが、毎年10月を「韓国の遺産月間」とする法案の成立を目指している。チョーは「慰安婦問題に焦点を当てるのではなく、韓国の文化全体をたたえるものだ」と説明する。

 同時に「日本人ももっと日本以外のことを考えた方がよい。同じ歴史を繰り返さないよう、子供たちに伝えるのは、われわれの共通の利益だ」と繰り返した。
海外での中国や韓国の歴史戦の主戦場となっている米国には12基の慰安婦像・碑が立っている。今年に設置されたのはサンフランシスコやジョージア州ブルックヘブンなどの4基で、10年に最初の慰安婦碑が設置されて以降、単年では最多となった。

 今年は米連邦議会下院が慰安婦問題で日本政府に謝罪を求める決議を採択してから10年になる。下院決議をきっかけにニューヨーク、ニュージャージー、イリノイの3州議会、イリノイ州シカゴ市とカリフォルニア州サンフランシスコ市の議会などが相次いで同趣旨の決議を採択した。慰安婦に関する嘘や誤った認識は10年前より確実に米国内で浸透しているといえる。

 米国内の慰安婦像は、13年にカリフォルニア州グレンデール市に初めて設置された。翌年に現地在住の日本人らが撤去を求める訴訟を起こしたものの敗訴した。政府は訴訟と距離を置き続けたが、2月に米連邦最高裁に原告を支持する意見書を提出した。しかし、訴訟の流れを覆す決定打にはならなかった。

 今年は北米だけでなく、ドイツでも慰安婦像設置を目指す動きが顕著になった。3月には南部バイエルン州ウィーゼントの公園に慰安婦像が設置された。韓国の市民団体が欧州にも広げようと設置を進めた。
こうした反日活動を支える日本人も少なくない。今月3日にカナダALPHAがトロントで開催した行事には1980年代末から「南京大虐殺」の調査活動をすすめてきた「日本の有名な学者で70歳の元教師」(華僑向けメディア)という松岡環が参加した。

 松岡は自ら制作したドキュメンタリー映画「太平門 消えた1300人」を上映した。南京の太平門で「虐殺」があったとの証言を記録したものだ。

 松岡については、「南京大虐殺はなかった」と主張する勢力、「あった」と主張する勢力の双方から「事実誤認が多い」との指摘が出ているが、ALPHAは関心がないようだ。(敬称略)



 世界各地で「反日運動」が止まらない。日本の「責任」を追及する共通テーマは南京事件、慰安婦問題、徴用工問題だ。運動は拡大し定着化し、先鋭化している。第19部では日本を含め各地での動きを追う。


【歴史戦・第19部 結託する反日(中)】2017.12.13 07:16
「徴用工」に注がれる科研費 前文部科学事務次官の前川喜平氏は韓国と同調


 「KAKEN」という題字が書かれたデータベースがある。文部科学省および同省所管の独立行政法人・日本学術振興会が交付する科学研究費助成事業(科研費)により行われた研究の記録を収録したものだ。

 ここには次のような情報が掲載されている。

 「市民による歴史問題の和解をめぐる活動とその可能性についての研究」(東京大教授 外村大ら、経費3809万円)、「戦時期朝鮮の政治・社会史に関する一次資料の基礎的研究」(京都大教授 水野直樹ら、同1729万円)、「朝鮮総動員体制の構造分析のための基礎研究」(立命館大准教授 庵逧〈あんざこ〉由香、同286万円)=肩書は当時。単年度もあれば複数年にまたがる研究もある。

 外村、水野、庵逧の3人に共通しているのは、3月25日に長野県松本市で開かれた「第10回強制動員真相究明全国研究集会」で「強制連行・強制労働問題」について基調講演などを行ったということだ。

 この場で外村は平成27年に国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録された長崎市の端島(通称・軍艦島)を含む「明治日本の産業革命遺産」について論じた。

 「ごく一部の新聞、産経新聞だが、(軍艦島で)楽しく暮らしていた。朝鮮人とも仲良くしていた(と報じた)。個人の思い出は尊重するが、朝鮮人は差別を感じていた。強制かそうではないかの議論は不毛だ。本人が強制と考えたらそれは強制だ」

研究会は徴用工問題に取り組んでいる「強制動員真相究明ネットワーク」などが主催した。同ネットワークは11月末、韓国の市民団体「民族問題研究所」とともに「『明治日本の産業革命遺産』と強制労働」というガイドブックを作成した。産業革命遺産の登録申請は従来の文化庁主導と違って「官邸主導ですすめたという点が特徴」としたうえで、こう指摘した。

 「誇らしい歴史だけを記憶するという、反省のない歴史認識は、再び日本を戦争ができる国にするためのプロジェクトと連動しています。『明治日本の産業革命遺産』の物語もこの一環とみられます」

 文科省関係者によると、科研費の審査は3人一組で行い、総合点で上位の申請が選ばれる。「自然科学分野と違い、歴史学はどうしても思想的な偏りがある」とこの関係者はもらす。

 28年度には九州大教授、三輪宗弘の研究「第二次世界大戦期の労働力動員ー朝鮮人の炭鉱への徴用を中心にして」(377万円)が認められた。徴用問題について長年研究している三輪は「炭鉱現場などで制度上、日本人と朝鮮半島出身者の間に差別はなかった」と語るなど、外村らとは立場が異なる。

 「KAKEN」にあるデータのなかで、三輪の研究のようなケースは少数である。むしろ、韓国や同ネットワークに同調する人物が今年1月まで文科省の事務方トップだった。

11月28日付の韓国紙、東亜日報に前文部科学事務次官、前川喜平のインタビューが掲載された。見出しは「安倍首相側、文科省の反対にも『情報センターの東京設置』で押し切った」。

 情報センターの設置は、一昨年の国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界遺産委員会で、日本政府が「徴用政策を実施していたことについて理解できるような措置を講じる」と表明した。平成31年をめどに東京都内に設置する方針だ。労働者の賃金記録などの1次史料や元島民の証言などの公開を検討している。

 インタビューによると、前川は次官時代の昨年9月、首相補佐官、和泉洋人に呼び出された。官邸に行くと、和泉から東京・六本木にある国立新美術館に情報センターを建設するのはどうかと聞かれたという。いったん持ち帰り、文科相、松野博一(当時)らの意見も踏まえ、「東京ではなく、遺産の大半が位置する九州に建設するのが良いというのが文科省の意見」と伝えたとしている。

 そもそも前川は「明治日本の産業革命遺産」をユネスコの世界文化遺産として申請することに反対だった。「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」を候補とするよう働きかけてきたが明治日本に先を越された。

前川は「遺産の肯定的、否定的な面を正しく説明しなければならない。日本政府は今からでも(情報センターについて)韓国と議論しなければならない」と強調。さらに、来年以降、小中学校で道徳の授業が本格実施されることについても「個人よりも国が重要であるという国家主義的な方向に動いている。危険だと感じる」と批判した。

   
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 前川同様に情報センターの東京設置に反対しているのが韓国政府であり、韓国の「民族問題研究所」と日本の「強制動員真相究明ネットワーク」などの市民団体だ。

 両団体は今年7月、他の市民団体とともに共同で声明を出し、「犠牲者を記憶するための情報センターの設置」を求めた。

 両団体が作成したガイドブック「『明治日本の産業革命遺産』と強制労働」には、「明治日本の産業革命遺産」に含まれた山口県萩市の松下村塾について、こう記述している。

 「日本は、松下村塾を、産業化をすすめる人物を育てた場所として、『明治日本の産業革命遺産』に組み込みました。しかし、松下村塾は、アジア侵略の思想と歴史を正当化する歴史観が形成されたところであり、産業革命遺産ではありません」

 両団体とともに、松下村塾を開いた吉田松陰批判を展開したのが「日本の加害責任」を訴え、戦後補償を実現しようと活動し、4月に死去した長崎大名誉教授の高實康稔だった。高實は昨年1月の論文「長崎と朝鮮人強制連行」(大原社会問題研究所雑誌)でこう記した。

 「近代日本の侵略思想の原点は吉田松陰と福沢諭吉にあるといって過言でない。(中略)松下村塾を世界文化遺産にふさわしいとすることは、これを推薦した日本政府が松陰の侵略思想を肯定することであり、ユネスコにしても『人類の普遍的な価値を保護する』(世界遺産条約)使命に反して不見識かつ重大な過ちを犯した」

 そのうえで、高實は松下村塾を「(ユダヤ人収容所の)アウシュビッツやリバプール(奴隷貿易港)のように、教訓とすべき負の世界遺産として位置づける可能性は追求されてよい」との考えを示した。ガイドブックでも「歴史の反面教師とするべき遺産を『負の遺産』と呼ぶ」とした。

   
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 高實が理事長を務めていたのが、長崎市内にある「岡まさはる記念長崎平和資料館」(以下、資料館)だった。この資料館は朝鮮人被爆者問題を取り上げた岡正治の遺志を継いで平成7年に設立された。

 資料館では友好館として提携している中国・南京の「南京大虐殺記念館」から提供された写真も展示している。旧日本軍の関東軍防疫給水部(通称731部隊)に関する資料を展示しているハルビン市の「侵華日軍第731部隊罪証陳列館」とも友好館となった。

資料館では展示だけでなく、講演活動も積極的に行っており、11月には陳列館館長の金成民を招いた。

 10月に上映したのが映画「太平門 消えた1300人」だった。映画の監督は松岡環。11月下旬にカナダの反日団体ALPHAの招待でトロント大で同じ映画を上映した松岡だ。資料館の近況案内には上映会についてこう記してある。

 「猛々しい言葉が飛び交う現在、あらためて大虐殺生存者の貴重な声に耳を傾け、共に知り、考えていきましょう」(敬称略)
     


【強制労働】端島など「明治日本の産業革命遺産」のユネスコ世界文化遺産登録をめぐり、韓国側は「強制労働」という言葉を盛り込もうとした。徴用は国民徴用令に基づいており、当時有効であった国際法上違法ではなかった。そもそも請求権問題は、1965年の日韓請求権協定で最終的に完全に解決済みである。ただ、日本側は韓国に配慮し「朝鮮半島などから多くの人が意思に反して連れてこられ、厳しい環境で労働を強いられた」と表明した。


【歴史戦・第19部 結託する反日(下)】 2017年12月14日
「南京」に「慰安婦」絡め…欧米巻き込み対日包囲網 華僑ネット数千万人、世界208カ所で式典


 「国家主席も出席する見通しで、大使が参列すれば追悼式典の後に非公式の面談を行う可能性がある」
 複数の関係筋によると、中国政府の外交当局は11月下旬から12月初旬にかけ、米英仏独など欧米諸国、タイやシンガポール、韓国などアジア各国、ロシアやベトナムも合わせ、少なくとも16カ国の北京駐在の外国大使らに、「南京大虐殺記念館」での13日の追悼式典へ出席を招請したという。
 国家主席、習近平と直接、面談できる場は各国の中国大使にとっても数少ない機会だ。
 結果的に何カ国の大使らが13日の式典に参加したか判明していないが、中国中央テレビ(CCTV)が映し出した中継映像では、外交団とみられる複数の人物の参列が確認された。当然のことながら、日本は招待されていない。
 日中外交筋はこうした動きを「歴史問題に関する“対日包囲網”の構築と共闘を急ぐ中国の作戦の一環」とみなしている。
× × ×
 海外との「共闘作戦」は外交以外でも多面的に進められている。「南京大虐殺記念館」が中心となって11月に行われた「南京国際安全区」跡地をめぐる歴史散歩もそのひとつだ。
 1937年12月の旧日本軍による南京占領では、米国人宣教師や英国人らに加え、ドイツ人までもが、南京市内にあった各国の領事館や、金陵大学や金陵神学院、金陵女子文理学院などの学校、医療機関を含む約4平方キロメートルのエリアを「南京国際安全区」として、旧日本軍の攻撃から中国人を保護したとされている。
 江蘇省南京市のテレビ局の取材によると、跡地を巡る散歩には、南京市内の大学などに留学中の外国人約150人が招かれた。外国語が話せる地元住民らと合わせて約300人が参加し、「約25万人の“難民”がこの国際安全区で救われた」との説明を受けた。
 南京大に留学中というポーランド出身の女性は同テレビの取材に「中国の大衆を救った当時の人々に感謝の念を抱いた」と答えた。
 80年前の南京事件をめぐり、中国と海外の連帯を印象づけるイベントとして、内外に報じられた。
 匿名を条件に応じた中国の歴史研究家は、「国際安全区で保護された約25万人の多くの命が守られ、大虐殺が始まってから数日後に南京から上海に船で逃れた米国人や英国人の記者によって、世界に事件が報じられた」と話した。
 虐殺されたという人数30万人に、保護されたという25万人を加えると55万人になる。当時の南京の人口を大きく超えるとの指摘もある。もっとも中国にはそうした「事実関係」にこだわりはない。
 「南京大虐殺記念館」によると、南京と同様の追悼式典は米国やカナダ、台湾も含む世界9カ国・地域の208カ所で行われた。いずれも「海外の華僑団体」が関与したという。海外移住者や子孫など数千万人に上る華僑と華人のネットワークが、対日包囲網に使われている。
 香港や台湾を経由し、中国当局から水面下の資金が海外の華僑団体に流れているとの情報もある。
× × ×
 江蘇省南京市の「南京大虐殺記念館」が約10年ぶりの改修を経て14日から再び公開される。
 「南京の慰安婦が日本軍に使用させられた避妊具や浴室の道具など“鉄証(動かぬ証拠)”を数多く展示する見通しだ」
 匿名を条件に取材に応じた中国の歴史研究家は、新たな展示は南京事件に「慰安婦」を密接にからませた内容になる、と指摘した。以前は「軍人に妊娠させられた」とする慰安婦が困惑した表情を浮かべている写真や、慰安所の入り口をかたどった模型など付属的で小さな展示のみだった。
 この歴史研究家は南京事件から80年という節目の年に慰安婦問題を結びつけるねらいについて、次のように説明した。
 「南京での日本軍の虐殺は(1937年12月13日から)40日間に及んだ。その後の8年間、南京占領時に強制された『慰安婦』問題が深刻化したため、両者は切り離せない」
 2015年12月に南京市内の慰安所跡地に資料を集めて作られた陳列館や、16年10月に上海師範大学キャンパスに置かれた中国慰安婦歴史博物館は、いずれも「南京大虐殺記念館」の分館扱いとなっている。
 展示だけではない。中国中央テレビ(CCTV)は13日の南京事件の追悼式典に合わせて、「日本軍による“慰安婦”への制度暴行を暴露する」と題した5回の特集番組の放映を11日に始めた。
 旧日本軍が強制的に朝鮮半島、中国各地などから若い女性を集めて慰安婦に仕立て、軍医が感染症など健康面を管理し、将兵らに“性奴隷”として提供した、とする非人道的な“組織ぐるみ”の暴行とする一方的な番組だ。
 中国はかねて「30万人の中国人女性が強制的に慰安婦として旧日本軍に連れ去られた」と主張している。被害者数として、なぜか符合する「30万人が虐殺された」との「南京大虐殺」と関連づけて内外に訴え、日中戦争の被害を誇張する戦術を一段と強めている。
× × ×
 南京事件80年をめぐっては、北京に本部を置く民間団体「中国民間対日賠償請求連合会」(会長・童増)が産経新聞の取材に対し、日本政府に謝罪と賠償を求める書簡を、12月7日付で北京の日本大使館あてに送ったことを明らかにした。
 書簡では南京事件について、「日本のファシストは人間地獄の製造者だ」と激しい言葉遣いで批判。「30多万人」との表現で、30万人を超える中国人の命が南京で奪われたとした。
 さらに、「憲法改正によって来年夏に日本は軍国主義を復活させようとしている」と的外れな論旨も展開した上で、「日本政府に南京大虐殺への謝罪と被害者への賠償を強烈に要求」との文面で締めくくった。
 この民間団体は戦時中に強制連行されて労働させられたという中国人や遺族を集め、日本企業に対する訴訟を相次ぎ起こしている。関係者は「生存者が100人を切っている南京大虐殺の生存者や遺族、元慰安婦や遺族に代わり、民間で訴訟を起こすことも検討していくだろう」と明かした。
 中国国営新華社通信は14年4月、1972年の日中共同声明で中国が放棄した戦争賠償請求に「民間や個人の請求権は含まない」との論評を配信している。この民間団体を通じて被害者や遺族らが、個人として賠償を請求する裁判を中国国内で起こす懸念もある。
× × ×
 南京事件を“象徴”とする対日批判のエスカレートぶりについて、冒頭の歴史研究家は、「昨年12月に首相、安倍晋三が日米戦争を引き起こしたハワイの真珠湾を慰霊に訪れたが、南京大虐殺については謝罪どころか否定する動きも日本にある」と不満を口にした。
 別の関係者は、「日本は対米和解を演出したつもりだろうが逆に中国人被害者の感情を傷つけたことに気付いていない」と、安倍の「真珠湾慰霊」こそが反発を招いたとする中国人特有の「理屈」を展開した。
 2015年10月、国連教育科学文化機関(ユネスコ)は中国などが申請した南京事件の資料を世界の記憶に登録したが、今年10月には、中国による慰安婦関連資料の登録を先送りした。歴史研究家は「双方あわせてユネスコに登録してもらうよう中国人は最大限の努力を続ける」と語気を強めた。
 中国などが官民連携で仕掛ける日本との「歴史戦」は激しさを増す一方で、静まる気配はまったくない。(敬称略)

 この連載は有元隆志、上塚真由、河崎真澄、田北真樹子、時吉達也、原川貴郎が担当しました。

相撲界のヤラセ疑惑

◆週刊アサヒ芸能「創刊60年の騒然男女」スポーツ界「波乱のウラ舞台」<相撲篇/葬られた「確執」>(1)北の富士「横綱昇進ヤラセ告発」で関係者が急死

 大相撲を揺るがせた最大のスキャンダル──。八百長告発をした親方と後援者が同じ日、同じ病院、同じ病名で死亡した「疑惑の事件」である。
 事件の原因となった大鳴戸親方(元関脇・高鐵山)の八百長告発は、週刊ポスト誌上で96年に連載され、「元大鳴戸親方 相撲協会一刀両断」のタイトルで、単行本としても発売された。
 その書き出しからして衝撃的である。

〈料亭「おきみ」に一同が会したのはそれなりの理由があった。前場所、昭和44年11月の九州場所、北の富士は優勝した。昭和45年1月の初場所。ここで優勝すれば、横綱昇進のための連続優勝という条件を満たす。「我々の手で北の富士を横綱にしようではないか」と提案している面々は「今場所こそ勝負だ」とばかり気合十分。その結束を固めるための会合でもあった〉
「おきみ」には北の富士、北の富士の名古屋後援会副会長で相撲界の闇将軍として君臨した橋本成一郎氏、そして大鳴戸親方と栃王山、四季の花、龍虎、睦奥嵐の面々が集まった。北の富士以外の力士は、八百長力士の「仲間」として北の富士を迎え入れようという勢力である。
 そこで「兄弟盃」を交わすと、本場所とともにさまざまな「裏工作」に走り回った。結果、北の富士は2場所連続優勝し、横綱審議委員会から「文句なく横綱昇進の条件を満たした」のお墨付きをもらう。
 大鳴戸親方の告発連載は反響を呼び、外国人記者クラブで講演する予定だった。ところが、講演を12日後に控えた4月14日、事態は急展開を迎える。大鳴戸親方と、その告発を証言者として側面支援した橋本氏が、愛知県内の藤田保健衛生大学病院で、ともに帰らぬ人となったのだ。死因もそろって、肺の機能が低下するレジオネラ菌による重症肺炎ということだった。
 ちなみに、死の前日、2人は連れ立ってゴルフに出かけているが、体調不良を訴えて入院。わずか1日で2人とも謎の死を遂げたことになる。
 大鳴戸親方の弟子で、現在は東京・吉祥寺でどりんくばぁー「維新力の店」を経営する維新力はこう証言する。
「あの時はね、自分もプロレスに転向し、大鳴戸親方も武蔵川親方(元横綱・三重ノ海)に株を売却し、協会を離れていた。僕自身は元後援者と『こんな不可思議なことはない』と話していたけど、結局、事件は闇から闇へと葬られた。真相と言われても、わかりませんね。ただ、自分の師匠がこんなことになるなんて、まさに青天の霹靂だったことは事実ですよ」
 世間は「2人とも殺されてしまった」と受け止め、マスコミは騒ぎ立てた。「やはり相撲協会は怖い。暴力団を使ったのか」と詮索もされた。
 相撲ジャーナリストの中澤潔氏が言う。
「偶然にしてはできすぎている気はします。今から思えば、あの時、相撲協会が姿勢を正していれば、(11年に発覚した)十両力士の八百長騒動もなかったはずです。私は大関の魁皇と千代大海の対戦をしばらく記録したことがあるんです。奇妙なことに、一方がカド番になると、もう一方が負けてやるという結果がはっきり出ていた。大関同士の助け合いはひどいものでした。はっきり意識して負けてやったわけではないかもしれないが、十両の力士からすれば、大関がやっているのだから自分たちもと、八百長がエスカレートした可能性はあると思いますね」
 とすれば、大鳴戸親方が告発を開始した時期は、力士たちに八百長根絶の警鐘を鳴らす時期だったとも言える。
 もしあの時、「臭い物には蓋」式の対応を取ることなく毅然と対応していれば、もっと風通しのよい相撲協会になったはずである。


◆週刊アサヒ芸能「創刊60年の騒然男女」スポーツ界「波乱のウラ舞台」<相撲篇/葬られた「確執」>(2)「若貴絶縁」を決定づけた親方の「わかってるな」命令

 昭和63年の春場所で初土俵を踏んだ力士は95人いる。その中から3横綱1大関を含め11人の関取を輩出したため、その年デビューした力士を「花の63組」と呼ぶ。この同期会に一度も現れない人物がいる。元横綱・若乃花こと花田虎上である。元力士が言う。
「お兄ちゃんはアレを気にして、金輪際、顔を見せない。若貴の絶縁は『あの一番』が原因。永遠に復縁なんてないでしょうね」
 大相撲を揺るがせた歴史的スキャンダルの一つに、この力士が言う「あの一番」がある。元力士が続ける。

「95年、九州場所千秋楽の前夜、師匠で父親でもある二子山親方(元大関・貴ノ花)が4連覇を狙う横綱・貴乃花を宿舎の自室に訪ねた。そして『光司(貴乃花の本名)、明日はわかってるな』と念を押したんです」
 相撲界では珍しい、兄弟対決が目前に控えていたのである。
「貴乃花は一瞬、何のことかわからず、『ハイ?』と答えましたが、親方は承諾したものと受け取った。意味を聞こうとした貴乃花が付け人から、親方が去ったあとで、『光司、負けてやれって意味だよ』と言われ、愕然としたんです。そしてこの親方命令によって、貴乃花の中の父親像がガラガラと崩れていった。二子山親方は若乃花に『光司も承諾したから』と伝えたといいます」(前出・元力士)
 勝負はファンの熱戦の予想を裏切り、四つに組んでから若乃花が左からしぼり、右四つに。
「土俵際に寄りたて、左から下手投げを打つと、貴乃花は右膝からあっさり崩れ落ちた。若乃花の2場所連続優勝で、兄弟横綱誕生を決めた瞬間でした」(相撲ライター)
 あまりにあっけない勝負に、「片八百長」ではないかと指摘された「疑惑の一番」である。これを機に、2人の間柄は、マスコミで大きく報道された「若貴兄弟絶縁騒動」へと発展。兄弟の確執が大きくなるにつれ、沈黙を守り続ける若乃花に対し、貴乃花はマスコミで積極的に発言した。
 そして兄弟対決から10年が経過した05年6月の「スーパーモーニング」(テレビ朝日系)の番組上、貴乃花は漫画家のやくみつる氏の質問に「片八百長」を事実上認めたとも言える発言を行ったのだ。
やく「軋轢の原点は、ハタ目に見てもちょっと力が入っていない一番に見えたが、あそこだったのか」
貴乃花「それは間違いじゃあないですね」
 すかさず、他の出演者が畳みかける。
「(あの一番が兄との)相撲観の差を決定するに至ったのか」
貴乃花「そうですね。私の至らなさだと思っています」
 相撲人生でただ一度、力を抜いてしまった大一番。ベテランの相撲記者が解説する。
「二子山親方は情が厚いどころか、むちゃくちゃ濃い人でしてね。相撲にも全身全霊で打ち込むが、我が子の若乃花に訪れた優勝のチャンスを何とか引き寄せられるよう援護したかったということだと思いますよ」
 しかし当時、平成の大横綱と言われた貴乃花も、まだ23歳。正面から受け止めるには重い事実だった。
「父親の性格や相撲道を最も強く受け継いだのが貴乃花。が、彼は天才で難なく横綱に昇進したというのは間違いです。素質だけで取っていたのはむしろ、若乃花。貴乃花は死ぬ思いと不断の努力で頂点に立った」(前出・ベテラン相撲記者)
 2人のこの差が「相撲観」の違いになって表れたと言えなくもない。そしてそれが、兄弟の確執に──。後年、貴乃花は部屋に集まった報道陣を前に、こう語っている。
「“若貴兄弟”と取り上げてくれるのはうれしかったが、あまりにもきれいに映りすぎていた。必ずこういう時が来るなと、幼心にもわかっていた」

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