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進まぬ遺骨収集112万柱今なお…

進まぬ遺骨収集112万柱今なお…
 先の大戦での戦没者は軍人・軍属約230万人、一般国民約80万人の計約310万人。
そのうち海外や沖縄などでの戦没者は計約240万人いる。今年7月末現在で、半数近い約112万柱の遺骨が現地に取り残されたままになっており、戦後73年を経ても収集が思うようにいかない現状がある。
 厚生労働省によると、遺骨収集事業は昭和27年から始まり、これまで計約128万柱を取り戻した。最近5年間に収集した遺骨は年881~1437柱。国交がない北朝鮮や、対日感情に配慮する必要がある中国などで収容困難な遺骨が約23万柱あるほか、海没した遺骨などを除くと、収容可能な遺骨は残り約60万柱とみられるという。
 平成28年には遺骨収集を「国の責務」と記した戦没者遺骨収集推進法が成立。36年度までの9年間を遺骨収集の「集中実施期間」と規定したが、埋葬地を知る関係者が高齢化したり死去したりして、情報が年々少なくなり、収集は想定通りに進んでいない。
 昨年は厚労省の遺骨収集事業で、職員が経費の領収証の金額を水増しするなどして、総額約4億6325万円の不適正な会計経理があることを会計検査院に指摘された。

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (34)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(34)統治四半世紀の「発展」 日韓併合で朝鮮民衆は救われた2018.9.1

 日本の朝鮮統治は、第6代朝鮮総督(昭和6~11年)、宇垣一成の時代に、「四半世紀」を超える。ある程度の“腕力”をもって朝鮮の近代化に道筋をつけた「武断政治」の時代、大規模な抗日・独立運動「三・一事件」(大正8年)以降の緩やかな「文化政治」の時代を経て、朝鮮統治は、安定成長期に入っていたといえるだろう。それ以降は、戦時体制の中で、朝鮮統治も皇民化政策が次第に色濃くなってゆく。

 四半世紀の日本統治によって朝鮮はどう変わったのか? この時期の『宇垣一成日記(一如庵随想録)』の記述を見てみたい。

 《日韓併合ができたればこそ、朝鮮民衆は暴虐の悪政から匡救(きょうきゅう)(悪を正し危難から救うこと)されて文化幸福に浴しつつある…》(昭和7年2月)

 多少の“上から目線”を感じないでもないが、それが「真実」であった。朝鮮のカネ・コネによる政治腐敗によって住民は苦しめられ、近代化が絶望的に立ち遅れていたことは、何度も書いてきた通りである。

 宇垣が「南綿北羊」の農業振興策を進めたことは前回(33回)書いた。朝鮮全土を混乱状態に陥らせた「三・一事件」は道路、鉄道、港湾などのインフラ整備、農、工、商、林業の振興、教育や衛生環境の改善を一時、頓挫させたが、「文化政治」以降、それらの施策は再び加速され、より充実度を増してゆく。

 ◆植林で禿げ山を緑化

 《山の多きは…国民の幸福である。水源の涵養(かんよう)、気候の調節…燃料および建築材の供給地…紙や人絹や綿の原料たらしむることを得るのみならず、羊、牛、馬の家畜類の放牧地ともなり得る…》(7年6月)

 「禿(は)げ山」は朝鮮の悪(あ)しきシンボルだった。11年発行の『25年!朝鮮は何を得たか?』によると、朝鮮は全国土の約4分の3を林野が占めるが、乱伐や火田民(焼畑農業)によって荒廃が激しく保水力の消失による災害も多発していた。

 日本は、朝鮮の植林・緑化に努め、8年までに行った植林事業は、国費経営事業だけで、造林面積約6万2千町(1町=約100アール)、植林本数約1億900万本に上った。
《朝鮮の工業は、現在においては幼稚である。しかしながら、繊維および軽金属工業の原料は豊富であり…石炭、水力発電、労力なども潤沢かつ安価に供給し得る…母国(日本)工業が圧迫を感ずる日もあまり遠き将来にあらざるべし》(8年7月)

 再び、『25年!朝鮮は何を得たか?』によれば、李朝末期の朝鮮の工業は、小規模で、産額は小さく、技術は幼稚、製品すこぶる粗悪…とひどい書きようである。潜在的なポテンシャルは高いのに、商工業は蔑(さげす)まれ、産業らしい産業もない。

 その朝鮮の工業が「日本を追い越す日も近い」というのだから、宇垣の“大風呂敷”かと思いきや、官民の積極的な投資によって紡績、製鉄、セメント、硫安などの大規模工場が次々と建設。8年の工場数は約4800、従業員数は約12万人、生産品価額は約3億6700万円…こちらも四半世紀で急成長する。

 ◆台湾並みは果たせず

 朝鮮経営の収支は常に「赤字」であり、日本は一般会計などから毎年巨額の“持ち出し”で支えた。

 《(天皇)陛下より…台湾のように財政の独立もできるのか、との御(ご)下問がありました。余(宇垣)は今後、大(おおい)に努力致しましたならば、あまり遠からざる将来において、台湾並みの財政独立は難事にあらずと存じます》(昭和8年12月)と“大見えを切った”が、こればっかりは、終戦まで果たせなかった。税率は低く抑えたのに、朝鮮近代化のための資金は、いくらでも必要だったからである。

 その成果をデータで見てみよう。日韓併合(明治43年)時と「文化政治」開始後の大正10年ないし11年との比較である。朝鮮全産業の生産額・約3億600万円→14億7千万円(約5倍)▽輸(移)出入額・約6千万円→約4億7千万円(約8倍)▽道路延長は約13倍となった。

 四半世紀となれば、さらに数値は跳ね上がる。
 李朝末期には、司法と行政の権限があいまいで、地方官吏が賄賂を受け取り恣意(しい)的に投獄されたりもする“人治主義”がまかり通っていた。その悪弊を駆逐するために、近代的な司法制度・警察制度を整備してゆく。司法では高等法院、覆審法院、地方法院の三審制を実施。朝鮮人の判事・検事や警察官の登用も積極的に行ったのである。

 ◆朝鮮は日満間の鎹

 宇垣の総督時代は、内外とも激動期にあった。就任直後(昭和6年9月)には、満州事変が勃発、関東軍主導で7年3月には満州国が建国されている。退任の年(11年)には、陸軍青年将校らによる「二・二六事件」が発生している。宇垣は、激動の時代こそゆえ、朝鮮のチャンスと見た。

 《朝鮮は実に今は時処(じしょ)を得ている…内地の不安、満支の紛々、世界の擾々裡(じょうじょうり)に超越して極めて平静に漸進しつつある…(朝鮮の)立場は大陸への桟橋であり、日満間の鎹(かすがい)であり…その心臓部に相当している。実に天与の処を得ている。(略)(これまでの「他力主導」の)陋習(ろうしゅう)を清算して…物心両方面の新建設に邁進(まいしん)せざるべからず!》(10年10月)と。=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

                   


【プロフィル】宇垣一成(うがき・かずしげ) 慶応4(1868)年、現在の岡山市生まれ。陸軍士官学校卒。陸軍大将。陸相、外相、戦後、参院議員。昭和12年には“陸軍を抑えられる首相”として、組閣の大命が下ったが、陸軍の抵抗に遭い、宇垣内閣は土壇場で実現しなかった。朝鮮総督は6年6月から5年余り務め、農業や商工業の振興を図り、内鮮融和を提唱した。31年、87歳で死去。

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (33)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(33)日本は「供与」し民生を安定・向上させた 「南綿北羊」の農業振興政策2018.8.25


 「文化政治」の朝鮮総督、斎藤実(まこと)の後任として第6代総督(昭和6~11年)に就任した宇垣一成(うがき・かずしげ)(1868~1956年)が進めた朝鮮の農業振興策に「南綿北羊」がある。

 南部では、綿花の栽培を促進。北部では、緬羊(めんよう)(家畜用の羊)を育て、付加価値の高い農、畜産品である綿糸・羊毛の生産拡大を図る政策だ。

 古来、朝鮮で栽培が行われていた綿花は、全羅南道、慶尚南道など南部6つの道を中心に大増産計画が進められたが、緬羊の飼育については、ほとんど実績がない(昭和8年の全朝鮮での緬羊の数は2700頭弱)。このため、緬羊の一大生産地であるオーストラリアから船便で輸入を図るプランが立てられた。

 緬羊を乗せた貨物船が、遠路はるばる太平洋を北上し、朝鮮東岸の雄基、清津、元山などの港に陸揚げ。鉄道で、北部・咸鏡北道の国策会社・東洋拓殖会社牧場などへ運んで飼育し、羊毛を刈る…。

 この朝鮮向けの緬羊の輸出を扱ったのは日豪貿易に実績があった総合商社の兼松だった。第1船の「朝陽丸」が約2700頭の緬羊を積んで豪シドニーを出発したのは、昭和9年4月24日のことである。

 初めてのことだけに、万全を期したのであろう。「朝陽丸」には当時、兼松の豪・現地法人で羊毛担当の責任者だった曽野近一(きんいち)(1899~1943年)が乗り込み、朝鮮まで付き添っている。

 品種は、羊毛の質こそ中程度ながら適応力に優れたコリデール種。近一の長男で、やはり兼松OBの曽野豪夫(たけお)(84)が書いた『写真で語る日豪史 昭和戦前編』によれば、苦労が多かったらしい。赤道直下を行く船のデッキで熱気にやられ、死んでしまう緬羊もいた。第2船以降は航海時の気候を考慮したり、デッキによしずを張ったりする工夫を重ねたという。

 こうしてスタートしたオーストラリアから朝鮮への緬羊の輸出は、順調に回を重ね、対英米戦争が始まった昭和16年に中断を余儀なくされるまで約4万5千頭が太平洋を越えてゆく。

 朝鮮で総督の宇垣に面会した近一は、こう力説したという。《(朝鮮)各地での羊牧場経営が衣料及(およ)び食料の両面から民生の安定と向上に大いに役立つ》(『写真で語る日豪史 昭和戦前編』)と。

◆収奪するものがない

 2年前、韓国のメディアは、この「南綿北羊」について、日本統治時代の記録映画『北鮮の羊は語る』(昭和9年)などの映像資料が見つかったというニュースを一斉に報じた。

 映画には、曽野近一が同行したルートそのままに、オーストラリアから船で輸入された緬羊が荷揚げされ牧場で飼育されたこと、毛を刈って生地を織る様子などが記録されていた。「羊毛輸入のために、毎年2億円が使われる。輸入代替のために努力しよう」という字幕もあったという。

 ただし、韓国メディアのトーンは、もちろん(?)ネガティブだ。内地(日本)でもほとんど羊毛の生産ができず、多くを輸入に頼るしかない。だから、朝鮮の安い労働力を利用して日本製造業の原料供給地にする目的で、南では綿花を、北では羊を育てるようにした…つまり、何でもかんでも“日帝による収奪”にしてしまうのだが、果たして本当にそうか?

 日韓併合(明治43年)以前の朝鮮には産業らしい産業もなかった。儒教の思想によって商工業は蔑視され、農業では森を焼いて肥料にする「火田民」(焼き畑農業)という前近代的な農法が多くみられた。つまり、「収奪」したくともするものがない。日本がやったのは「供与」して「育成」することだった。内地の一般会計からも巨額の資金を回し、優秀な人材と技術を供給し、せっせと近代化を進めたのである。

 第1次産業分野では、はげ山に植林をし、灌漑(かんがい)設備をつくり、干拓や開墾で耕地を増やす。東洋一の化学肥料工場を建て収量を上げる。とりわけ、米は「朝鮮産米増殖計画」を定めて増産に努め、大正10年の年産額は約1430万石(併合当時の約40%増)、品質も向上した。朝鮮の農業は効率化、近代化され、あらゆる指標が飛躍的に伸びたのである。

 そこに、朝鮮を兵站(へいたん)基地とする国策がなかったとは言わない。だが、日韓併合前のカネ・コネの政治腐敗によって、それこそ朝鮮の官吏らに「収奪」されていた農民の暮らしははるかに改善された。その証拠に日本統治時代の間に農民が約8割を占める朝鮮の人口は急増(2倍弱)している。

 人口増には、英国の女流旅行作家の『朝鮮紀行』で“中国の都市に次ぎ世界で2番目にひどい”と酷評されていた街や住民の「衛生環境改善」も貢献している。近代医学の医師などほとんどおらず、感染症の蔓延(まんえん)にたびたび苦しんでいた朝鮮全土に病院を建て、各都市に上水道を設けたのも日本である。例を挙げればキリがない。

◆父の「思い出の背広」

 朝鮮の牧場で育った初めての豪州緬羊の羊毛は、清津で入札が行われ、4社が応札したが、緬羊の輸出を請け負った兼松がメンツにかけて落札した。

 『写真で語る日豪史…』によれば、その羊毛は内地で紡出され、茶、緑など4系統の毛織物となって、朝鮮総督らに贈られたという。第1船に同乗したシドニーの曽野近一にも、その生地が送られてきた。

 後に、商社マンとなった長男の豪夫は、その生地で仕立てた背広を着て、世界を駆け回った。平成2年に豪州兼松が100周年を迎えたときの記念式典にもその背広を着ていったという。豪夫はいう。「海軍の軍属として父が戦死(昭和18年)したときはまだ国民学校(小学)生でした。父の思い出があまりない私にとって、この背広は本当に大切なもので、“長生き”してくれましたよ」

 “海峡を越えて”朝鮮の近代化に貢献したのは人だけではなかった。=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)


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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (32)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(32)思う存分生き、いい詩をつくりたかった スパイとして処刑された林和2018.8.18

 人気作家、松本清張に『北の詩人』(昭和38年)という作品がある。主人公の詩人、林和(イムファ)(1908~53年)は実在の人物だ。詩集『玄海灘』などで知られ、日本統治時代の朝鮮で、左翼色が強い「朝鮮プロレタリア芸術同盟」(カップ、大正14年結成)の中心人物として活躍、戦後の昭和22年、北朝鮮へ渡ったが、28年8月の軍事裁判でアメリカのスパイと認定され、処刑された。

 『北の詩人』で、林はカップ解散(10年)前後から“転向し”密(ひそ)かに軍部などに協力していた「暗い過去」の発覚に怯(おび)える人物として描かれる。戦後、それを米諜報機関に弱みとして握られ、スパイとして北朝鮮へ渡ることを余儀なくされてしまう…という設定だ。小説なのか、実録なのか判然としないが、巻末には長大な軍事裁判の判決文まで掲載されている。

 作品の中で、林の「暗い過去」のひとつとして挙げられている仕事に、昭和16年7月に、日本陸軍の朝鮮軍報道部が製作した国策映画『君と僕』への協力があった。朝鮮人志願兵として最初の戦死者となった李仁錫上等兵をモデルに、志願兵制度や内鮮一体をPRするために製作された映画で、平成21年に、フィルムの一部が見つかり、ニュースにもなった。

 主役は、テノールの人気歌手、永田絃次郎(げんじろう)(金永吉)、相手役は満映出身の大スター、李香蘭という豪華キャスト(ほかに、三宅邦子、大日向伝、小杉勇らが共演)。監督の日夏(ひなつ)英太郎(許泳)も朝鮮出身である。林は映画の校正を担当したという。

 それが事実であったとしても戦時体制下で、林や永田ら朝鮮人でも軍部への協力を求められれば拒否するのは難しかっただろう…というより当時、多くの朝鮮人は同じ側として戦争熱に取りつかれていた。陸軍の朝鮮人志願兵制度がすさまじい競争倍率(昭和18年の採用予定約5300人に対し30万人以上が殺到)になっていたことは以前(25回)書いた通りである。

 林は、在日コリアンの活動家らに大人気だった『人民抗争歌』の作詞者としても知られている。テンポがよく、宴席などでは必ず飛び出したという。ところが林の粛清後、特に朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会、昭和30年結成)関係者の中では『人民抗争歌』はタブーになった。作曲者の金順男もまた北朝鮮へ渡った後、粛清され、行方知れずになっている。

 ■「二度殺された」詩人

 だが、林和が「米のスパイだった」という認定はかなり疑わしい。北朝鮮の初代権力者、金日成(キム・イルソン)(首相、国家主席)は独裁体制を確立するためにさまざまな罪状をデッチ上げ政敵を次々と粛清していったからである。林は、金日成のライバルであった朴憲永(元北朝鮮副首相、米スパイとして処刑)ら南朝鮮労働党一派の排除に連座させられたとみるのが妥当であろう。

 昨年12月に80歳で死去したジャーナリストの萩原遼(はぎわら・りょう)は、月刊『正論』平成18年6月号に、「北朝鮮にはめられた松本清張 『北の詩人』の奇怪な成り立ち」のタイトルで、同作における日本のスパイ→米のスパイという林の設定に異議を唱え、「北朝鮮側の主張をうのみにした」として、清張を厳しく批判した。

 《(林らの処刑は)金日成の判断の誤りによって朝鮮戦争が勝利できなかった責任を転嫁するための粛清裁判・殺人裁判であったことは今日では大方の認めるところです。…(清張は)金日成の殺人裁判に追随して林和をもう一度作品の上で抹殺しました》。そして、《金日成は朝鮮が生んだ優れた詩人を抹殺しただけでなく、日本の作家を使って文学の名の下に林和を抹殺させ、殺人裁判をあたかも事実であるかのように装わせた》のだと…。

■金正日の略奪愛の末に

 林が在籍したカップは、日本統治下の朝鮮で結成。前述した朴憲永らによる朝鮮共産党の影響を受け、ブルジョア文学に対抗するプロレタリア文学の牙城として、7つの支部、約300人の同盟員を擁し、文学のみならず映画、音楽、演劇、美術を包括する芸術団体に発展してゆく。

 世界的な舞踊家、崔承喜(チェ・スンヒ)の夫で戦後、北朝鮮の文化省次官を務めた作家の安漠(アンマク)、ザ・フォーク・クルセダーズの名曲「イムジン河」(北朝鮮では「リムジン江(ガン)」)や北朝鮮の国歌(愛国歌)の作詞者である朴世永(パク・セヨン)も、カップのメンバーとして活躍した。

 戦後、彼らの多くが北朝鮮へ渡るが、重用されたのは一時で、派閥争いに巻き込まれたり、独裁者の機嫌を損なったりして、林和と同じように、粛清されたケースが少なくない。

 とばっちりともいえる厄災が降りかかったのは作家の李箕永だろう。2代目の金正日(ジョンイル)が、女優の成(ソン)●(=くさかんむりに惠)琳(ソン・ヘリム)を見初めたとき、すでに彼女は人妻であった。その夫だったのが李の息子で、金正日は夫妻を離婚させ、強引に自分の妻にしてしまう。2人の間に生まれた長男が、マレーシアで暗殺された金正男(ジョンナム)である。

 金正日の略奪愛は絶対のタブーである。李は、北朝鮮の文学芸術総同盟委員長などの要職に就いたが、2000年代に金正日の指示で、北朝鮮の文学人名事典が編まれたとき、李の扱いの大きさに金正日が不快感を示し、やり直しを命じたという。以来、文学人名事典が刊行されることはなくなった。
カップのメンバーが「社会主義の理想郷」と夢見た北朝鮮は、独裁者の指先一つで簡単に命さえ奪われてしまう悪夢のような国だった。日本時代の残滓(ざんし)を思わせる彼らの居場所など最初からなかったのである。

 『北の詩人』に印象的な林の独白があった。《思う存分生きて、いい詩をつくりたい。革命とか、思想とか、共産主義とかを離れて、自然の中に純粋な人生を凝視したい…》と。

 カップの活動は約10年間だった。内紛が絶えず、最後は日本の官憲によって相次いでメンバーが検挙され、解散している。

 だが、逆の見方をすれば、これほど左翼的な団体が曲がりなりにも約10年間、日本統治下の朝鮮で活動できたのだ。その時期は日本が世界に類を見ない緩やかな統治を行った「文化政治」の時代に重なる。近代文学も大きく発展した。=敬称略

 (文化部編集委員喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (31)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(31)朝鮮の文化と習慣を尊重せよ 驚くべき「文化政治」の緩さ2018.8.11

 “緩やかな朝鮮統治”である「文化政治」を推し進めた斎藤実(まこと)が第3代朝鮮総督に就任したのは大正8(1919)年8月のことである。海軍の先輩である山本権兵衛内閣で海軍大臣を務めていたが、海軍を舞台にした4年前の疑獄事件「シーメンス事件」で引責辞任、予備役編入…つまり軍人として「クビ」を宣告された境遇にあった。

 《暇な体でもあるし北海道にでも行って畑作りでもしようと…その間に持ち上がったのが朝鮮総督の話である。(略)断ったら、加藤友三郎(原敬(たかし)内閣の海相、後に首相)が来て「何だか朝鮮がごたごたしているようで誰か面倒を見てやらなければ困る」…今度は原総理自身がやってきて…詰め寄られ、のっぴきならなくなり…》(昭和16年『子爵斎藤実伝』から)

 原首相とは、同郷(岩手)の知己であった。結局、斎藤は、現役の海軍大将に復帰し、朝鮮総督就任を受諾する。陸軍大将以外の総督は、後にも先にも斎藤だけであった。

 このとき、加藤海相が言った「ごたごた」とはもちろん、大正8年3月1日に端を発した大規模な朝鮮の抗日・独立運動「三・一事件」のことである。まだ騒然とした雰囲気が残っていた中で、9月2日、京城駅に到着した斎藤を待ち受けていたのが、独立派活動家による“爆弾テロの洗礼”(斎藤は無事)だったことは前回も書いた。

 斎藤は難しい判断に迫られる。軍人主導の「武断政治」を、さらに強め、力で、くすぶり続けている抗日・独立の動きを押さえ込むか? それとも…。当時の日本の世論は、武断政治続行が優勢であった。

 ◆外国人宣教師も絶賛

 「三・一事件」は、米ウィルソン大統領らが掲げた世界的な「民族自決主義」に煽(あお)られて始まった。その朝鮮人の抗日・独立運動の背後には、李朝末期から朝鮮に浸透しているキリスト教の外国人宣教師らの存在があったとされる。斎藤に爆弾を投げつけた男もキリスト教信者だった。

ところが、斎藤は赴任早々、総督府学務局に「宗教課」を設けて“敵方”ともいえる外国人宣教師との意思疎通を進め、布教の便宜を図る目的で財団法人の設立を認める策に出た。

 これには、外国人宣教師も驚いたのだろう。メソジスト教会監督牧師、ハーバート・ウエルチの「斎藤評」が残っている。

 《当時、(朝鮮の)住民は武器なき「独立運動」のため、前総督により、強制的弾圧を受けたため、不穏・不安・怨嗟(えんさ)が国内に漲(みなぎ)る状態であった。かくの如(ごと)き陰険にして困難な状況に、子爵(斎藤)は温和にして温情的精神を…真に朝鮮人を愛撫(あいぶ)し、彼らの権益を保護する…子爵の施策を緩に過ぎると非難した者もあったが…反抗する者を心服させる程に誠意と親切を尽すは偉大なりというべき…》

 後には、朝鮮各地に神社が建てられ、参拝問題でキリスト者は反発を強めてゆくのだが、こうした“蜜月期”もあったのである。

 ◆近代文学・映画も発展

 斎藤は、内外の“雑音”をものともせず、どんどん新政策を進めてゆく。

 「武断政治」の象徴であった軍主導の憲兵警察の廃止▽朝鮮人官吏への待遇格差の是正▽朝鮮語(ハングル併用)新聞(東亜日報、朝鮮日報など)発行の許可▽朝鮮人児童が通う普通学校(小学校)の増設▽外地初の帝国大学(京城帝大)の設置▽農業・工業振興、鉄道・道路・病院の整備▽集会・結社の制限緩和など枚挙にいとまがない。

 折しも日本では自由・民主主義を標榜(ひょうぼう)する大正デモクラシーの時代。「政党政治」の原内閣だったのも無関係でなかったろう。

 斎藤はさらに、朝鮮固有の伝統文化・慣習の保護・奨励という思い切った施策にまで踏み込んでゆく。大正15年に朝鮮総督府が編纂(へんさん)・発行した「普通学校補充唱歌集」(60曲)に朝鮮の偉人や名所旧跡を題材にした、台湾・満州でも例がない「公募・現地(朝鮮)語の唱歌」が、数多く盛り込まれたことは、以前(27回)紹介した。

日本人への朝鮮語学習奨励は、公務員への手当支給や、主に日本人が通う小学校での朝鮮語教育(随意科目)方針に表れる。教育機関や博物館・図書館を整備し、朝鮮の古文書や古跡、民俗品の調査・研究、収集作業も進めさせた。

 これに後押しされるようにして、朝鮮では、近代文学、映画、音楽といった芸術が花開かせてゆく。   連載初回でも触れたが、朝鮮映画の代表作『アリラン』(大正15年、羅雲奎(ナ・ウンギュ)監督・主演)は、三・一事件で拷問を受けて精神を病んだ男が主人公だ。“親日派”の朝鮮人悪徳地主と主人公らが対決するストーリーは朝鮮人観客に大ヒットし、2年以上もロングラン上映されたが、こんな「抗日色」が強い作品が、よくも検閲をパスできたものだと驚かされる。

 この映画のラストシーンで流れる「アリラン」は当初、「新アリラン」「羅雲奎のアリラン」などと呼ばれたが、メロディーやテンポをすこしずつ変えながらその後「本調アリラン」として定着。朝鮮民族の命ともいえる歌で、星の数ほど存在する「アリラン」の中で現在、最も親しまれているのが、日本統治時代の映画から生まれたこの曲なのである。

 今年の平昌五輪開会式で、南北朝鮮の選手団が合同で入場したとき流された「アリラン」もそう。失われたこの映画のフィルムを、現在も南北ともがやっきになって探しているのもむべなるかなだ。

 大正9年1月1日付談話で斎藤はこう語っている。《…朝鮮の文化と習慣とを尊重して、その長をとり、短を除き、利を興し、害を除き、もって時代の推進に適合せしめん…》と。=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

                  


【用語解説】斎藤実(さいとう・まこと) 安政5(1858)年、現在の岩手県奥州市生まれ。海軍兵学校卒。海軍大臣、内大臣、首相(昭和7~9年)などを歴任。朝鮮総督は、第3代(大正8~昭和2年)、第5代(昭和4~6年)の2度務め、緩やかな統治、朝鮮の自主性を重んじる「文化政治」を推進した。内大臣を務めていた昭和11年、二・二六事件に遭い、凶弾に倒れた。

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(30)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(30)政治腐敗蔓延の李朝末期 日本は「誠意」を持って「奮闘」した
2018.8.4


 《北京を見るまで私はソウル(漢城・京城)こそ、(当初は)この世で一番不潔な街だと思っていたし、紹興へ行くまではソウルの悪臭こそ、この世で一番ひどい臭いだと考えていたのであるから! 都会であり首都であるにしては、そのお粗末さは実に形容しがたい。礼節上2階建ての家は建てられず、従って推定25万人の住民は主に迷路のような横町の「地べた」で暮らしている…》

 19世紀末に李朝末期の朝鮮を訪れたイギリスの女流旅行作家、イザベラ・バードが書いた『朝鮮紀行』の〈首都の第一印象〉の項にこう記されている。

 街の汚れは後に改善されたというが、政治腐敗はひどかった。

 《政治腐敗はソウルが本拠地であるものの、どの地方でもスケールこそ小さいとはいえ、首都同様の不正がはびこっており、勤勉実直な階層を虐げて私腹を肥やす悪徳官吏が跋扈(ばっこ)していた…堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、困難極まりなかった…朝鮮には階層が2つしかなかった。盗む側と盗まれる側である》

 イザベラ女史は、当時の日本についても、国土の美しさや治安の良さを称賛する一方で、貧相な外見などを辛辣(しんらつ)に指摘しているから、西洋人の「視線」があったかもしれない。

 では、ほぼ同時期に日本人の本間九介が記した『朝鮮雑記』も紹介しておこう。

 《(朝鮮の)官人に盗賊でないものはいない…あとを引き継いでやってくる官人もまた盗賊なのである…ああ、彼ら(農民ら)の境遇は、まったく憐(あわ)れむべきものだ》(「官人は、みな盗賊」から)

 本間は、中国のみをひたすら信奉する朝鮮の知識人の姿も揶揄(やゆ)している。

 《朝鮮の士人(知識人)は、支那を呼ぶのに、常に中華と称し、その一方で自らを小華と称している。そこで私が…大華の人であると答えたら、彼らは、それを咎(とが)めて傲大(ごうだい)だと言うけれども、傲大であることと卑小であることの、いずれがましだというのだろう》(「大中小華」から)
2つの見聞録は、いくつも共通しているのだ。絶望的なほど、立ち遅れた近代化、蔓延(まんえん)する腐敗と不正、硬直した封建社会…。イザベラ女史は、朝鮮の良さや愛着も示しつつ、こう結論付けた。《朝鮮には、その内部から自らを改革する能力がないので、外部から改革されねばならない》

 その外部の担い手になりつつあった李朝末期の日本の対応について、イザベラ女史は閔妃(みんぴ)殺害事件などを痛烈に非難する一方で、次のように見ていた。《私は日本が徹頭徹尾誠意を持って奮闘したと信じる。経験が未熟で、往々にして荒っぽく、臨機応変の才に欠けたため、買わなくともよい反感を買ってしまったとはいえ、日本には朝鮮を隷属させる意図はさらさらなく、朝鮮の保護者としての、自立の保証人としての役割を果たそうとしたのだと信じる》と。

 ◆武断政治は法治主義

 このように、極めて困難な状況から始まった日本の朝鮮統治(日韓併合は1910~45年)は、その政策的な方針から、おおむね3つの時期に分けられる。

 朝鮮の改革・近代化に道筋をつけた、いわゆる「武断政治」の時期(1910年代まで)▽大規模な抗日・独立運動「三・一事件」(大正8年)後に、緩やかな統治政策に舵(かじ)を切った、いわゆる「文化政治」の時期(1920年代から30年代半ばころ)▽日中戦争が始まり(昭和12年~)、いや応なく、日本が戦時体制に入り、皇民化政策を浸透させてゆく時期(終戦まで)の3つだ。

 初期の「武断政治」はその言葉から“悪辣(あくらつ)な”イメージを抱きがちだが、事実はそうではない。

 冒頭の見聞録にあったように政治腐敗が横行し、近代化から取り残された当時の朝鮮を根本から立て直すために、日本は巨額の資金を投入して、ほとんど「ゼロ」からインフラ(鉄道、道路、港湾など)を整備、学校や病院を建て、農業や産業を振興させてゆく。その道筋をつけるのに、ある程度の“腕力”も必要だったということだろう。
昭和3年発行の『総督政治史論』(青柳綱太郎著)は、初代朝鮮総督を務めた寺内正毅(まさたけ)(1852~1919年、陸軍大将、陸軍大臣、首相など歴任)の「武断政治」をこう評価している。

 《朝鮮民族にとりては過分の文明政治であった…4方面(教育、衛生、農業、交通・通信)より、朝鮮の社会に貢献せし…》

 さらには、《寺内伯の武断主義は、即(すなわ)ち法治主義の別名とでも言い得る…朝鮮民族政治の改革には、民族心理の根本的改革が必要であると信じたからだ》と。権力者の意向で政治がゆがめられる“人治主義”を正そうとしたというのだ。

 ◆日本版「太陽政策」

 さて、「文化政治」である。世界的な民族自決主義の波に煽(あお)られ、朝鮮全土に広がった「三・一事件」の直後(大正8年8月)に、第3代朝鮮総督に就任した斎藤実(まこと)(1858~1936年、海軍大臣、首相、内大臣など歴任)は、京城到着早々、爆弾テロに遭っている(斎藤は無事)。

 朝鮮の抗日・独立運動家らは戦々恐々としていたのだ。何しろ、三・一事件の嵐が吹き荒れた後である。今度は、どんな強圧的な総督が来るのか? と。ところが、斎藤は「北風」を吹かすのではなく、「暖かい太陽」で、旅人のコートを脱がすがごとく、さらに緩やかな統治に舵を切る。

 軍主導の憲兵警察→普通警察の転換▽朝鮮の伝統文化、風習、言葉の奨励・保護▽集会・結社の規制緩和といった諸政策のみならず、斎藤は日鮮を同一視する(一視同仁(いっしどうじん))内地延長主義を掲げ、最終的に「朝鮮の自治州化」まで念頭に置いていたというのだから、血気にはやっていた朝鮮人も腰を抜かした。

 まさしく、イザベラ女史が指摘した「誠意を持って」「朝鮮を隷属させる意図なく」「自立の保証人」として、である。

 すると、今度は日本の世論が沸騰する。「生ぬるい」「(朝鮮の近代化は)まだそこまで成熟していない」…等々。だが、斎藤の度量が、朝鮮の新たな文化や近代化の花を咲かせることになる。=敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(29)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(29)清楚たる風姿の妓生 「朝鮮旅行案内記」をたどる2018.7.28

 前回、紹介した朝鮮総督府鉄道局(鮮鉄)の元技術者、横山左武郎(さぶろう)(1917~43年)の遺品の中に、昭和9年鮮鉄発行の『朝鮮旅行案内記』がある。当時の観光ガイドブックだ。

 日本が統治時代の朝鮮に敷いた鉄道網は終戦までに5千キロ以上。同書では京釜線、京義線など沿線別に詳細な観光ガイドが写真と文で書かれている。巻頭に、《本案内記は朝鮮を旅行される方々に朝鮮の概念を得て戴(いただ)く…》とあるように単なる観光ガイドにとどまらず、記述は朝鮮の風俗や文化、政治、歴史におよびなかなか興味深い。

 同書の発行は、日本に「大陸ブーム」が起き、新天地への夢を描いた移住者や観光客が内地から続々と「海峡を越えて」行ったころ。横山もその一人だった。同書は、彼らの必読書だったのだろう。

 ◆モデルコースは7日間

 同書には当時の、朝鮮旅行のモデルコースがいくつか紹介されている。標準的なプランは「朝鮮廻覧(かいらん)7日間」。下関(山口)と朝鮮の釜山を結ぶ関釜連絡船から鮮鉄・満鉄を乗り継ぐルートだ。その行程と見どころを同書から追ってみよう。

 【1日目】関釜連絡船で朝、釜山着。鮮鉄・京釜線に乗り、一路、京城へ。朝8時発の急行「のぞみ」なら所要時間は、8時間45分だ。その日は京城泊。鮮鉄直営の朝鮮ホテルは、客室数80あまりで食堂、酒場、演芸室完備。1泊3食付きで9円以上だが、内地と比べて「頗(すこぶ)る低廉」とあった。日本式の旅館、朝鮮式の宿ならさらに格安。

 【2日目】京城市内見物。朝鮮の政治、経済、文化の中心地・京城の見どころは盛りだくさんだ。李朝の旧王宮・景福宮、徳寿宮、南大門。京城の表玄関・京城駅は、ルネサンス式建築で1日の乗降客は約1万人。“京城の銀座”本町通には、三越、丁子屋、三中井の百貨店が立ち並び、昼食は、そこの食堂を使うのも「便利」とある。
市内遊覧の足は「遊覧乗合自動車」が便利(大人2円20銭)。タクシーは市内均一80銭。夕食は、朝鮮料理、日本料理、中国料理と何でもそろう。遊郭で遊ぶならば新町、弥生町。京城の街をたっぷり堪能した後は夜行列車に乗り込み北上。この日は車中泊。

 【3日目】早朝、平壌着。1日の乗降客は4千人弱。朝鮮北西部の中心都市で平安南道庁所在地、現在は北朝鮮の首都だ。名所・旧跡は京城に引けをとらない。市内を流れる大同江、大同門、七星門、牡丹台…。ユニークな見どころとしては妓生(キーセン)学校。「古来、官妓の産地として美妓嬌妓(びぎきょうぎ)が多く輩出せられ…最近養成機関として設立、主に歌謡舞踊国語書画等(とう)を教授している」とある。

 市内見物の後は、鮮鉄線でさらに北上、夜に鮮満国境の街、新義州着・泊。

 【4日目】国境にかかる鴨緑江鉄橋を渡り、満州の安東へ。鴨緑江に架かる橋梁(きょうりょう)は日本の手によって明治44年に完成(全長約950メートル)、これによって朝鮮-満州をつなぐ国際列車の運行が可能になった。昭和18年には第二橋梁が完成。最初の橋は、朝鮮戦争(1950~53年)中に爆撃で破壊されている。

 安東市内見物の後は、再び、夜行列車で一気に南下。この日は車中泊。

 【5日目】朝鮮南東部・慶尚北道の中心都市・大邱で下車。9世紀新羅時代に創建された朝鮮きっての古刹(こさつ)「海印寺」は大邱の西南約70キロにあり、乗合自動車が便利。高麗八万大蔵経の版木が保管されている大蔵経板殿は現在、世界遺産に登録されている。市内見物の後、大邱泊。

 【6日目】大邱は、新羅の旧都で東海岸に近い慶州方面への乗換駅。東海中部線で約2時間の汽車の旅だ。慶州は現在の韓国旅行でもハイライトのひとつ。市内に点在する新羅遺跡を探訪し、現在は世界遺産に登録されている「仏国寺」へ向かう。同泊。
【7日目】新羅時代の石仏が安置されている「石窟庵」(世界遺産)は、長い仏教弾圧の時代に埋もれていたのを20世紀初頭、郵便配達員が偶然発見、日本時代に整備が進んだ。そこで日本海からの日の出を拝した後、釜山の東莱温泉で湯につかる。再び夜行の関釜連絡船で内地へ。車中泊2回、内地との連絡船も往復夜行だから、なかなかのハードスケジュールだ。

 ◆朝鮮語の単語集も

 同書には、あいさつや日常会話に必要な朝鮮語の単語集も載っている。「朝鮮料理」というコラムには《昔から伝わっている上流家庭の料理はそれは手のかかった美味なるものが多い。(それに比べて)今日、朝鮮の料理店で味わう料理は、妓生を呼んで幾分でも朝鮮の情緒を味わうに過ぎないところである》

 その妓生の写真と説明もあった。《朝鮮名物のひとつとして妓生がある。内地より見物などに来る人は、大抵酒席に妓生を招く…その宴席を斡旋(あっせん)することにおいては、何ら内地の芸妓(げいぎ)に異なるところはないが、清楚(せいそ)たる風姿は、むしろそれに優(まさ)っている》と。先の単語集によれば妓生-芸妓。娼婦はカルボである。

 現在は、北朝鮮の地域にある朝鮮きっての名勝「金剛山」についても多くのページが割かれている。スキー場や夏のキャンプ場も写真入りで紹介されており、こうしたレジャーが日本統治時代に定着していたことがうかがえる。=敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(28)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(28)行け!朝鮮開発には人が要る 近代化に身を投じた若者の記録2018.7.21

 16歳の横山左武郎(さぶろう)が海峡を越えて、「朝鮮・満州旅行」へ出かけたのは、昭和9(1934)年5月のことであった。京都市立第一工業(当時)卒業を翌年に控えた修学旅行である。

 9年といえば、満州国建国から2年、新天地・大陸への夢や憧れが高まっていたころだ。修学旅行は他に「東京」を選ぶこともできたが、横山は迷わず、朝鮮・満州に決めている。

 18日間の旅は、横山の将来をも決定づける鮮烈な印象を与えたらしい。卒業後、横山は再び海峡を越え「朝鮮総督府鉄道局(鮮鉄)」に技術者として就職しているからだ。

 日本は莫大(ばくだい)なカネ、ヒト、モノ、技術をヨソの民族のためにつぎ込んだ。朝鮮の開発・近代化に貢献するため、どれほど多くの日本人が、情熱と志をもって海峡を越えていったことか。横山少年もまたその一人であったことは遺(のこ)された日記や手紙から、うかがい知ることができる。

 ◆夢想う憧れの朝鮮
 『昭和九年鮮満旅行日記』を追ってみたい。
 第一工業の一行は、京都駅を9年5月2日午後8時32分に夜行列車で出発、東海道・山陽線を走り、広島・宮島で厳島(いつくしま)神社に参拝した後、下関から夜行の関釜連絡船に乗り込む。

 《僕達は初めて見る植民地の風景をいろいろ頭に画(か)きつつ船が出るのを待った…大空を仰げば、平和の使者のごとき半月と宝玉を散(ち)りばめたような星が輝く…翌朝早朝4時半ごろに目が覚めた…多年、夢想(おも)う内に憧れていた朝鮮半島が海に浮かび出ているではないか》(同旅行日記から)

 初めて訪れる朝鮮の地に胸躍らせる若者の高ぶりが目に浮かぶようだ。

 釜山からは鮮鉄・京釜線に乗って北上する。《(朝鮮の)街は、あまりきれいとはいえないが、風情は全く内地(日本)と異にしている。住む人、家屋…われわれの好奇心を注がせる。(内地に比べて)汽車の広大なこと、視界の広いのは愉快。大邱、大田、天安、水原…朝鮮開発にはまだまだ人も要るし、機械も要る。「行け、開発せんとするものは唯(ただ)、満州に限らない!」》(同)

京城着は、5日の朝8時55分。京都からは2日半の行程だ。一行は、京城駅前の旅館へ入り、南大門や李朝の旧王宮・景福宮などを見学。南山にあった朝鮮神宮を参拝した。《南大門は市内四大門の一つで、誠に雄大なるものだ。朝鮮神宮の参道では、内地人、本島(朝鮮)人など種々見受けられ、ちょっと異国情緒がある》(同)

 横山少年は、いにしえの朝鮮の伝統文化と、急ピッチで進む近代化の波が入り交じった光景を目の当たりにする。《(略)終日、大朝鮮の民族、風習などを一見した私の頭にはさまざまな想いがかけめぐる…古典的な街にも文明開化の潮が押し寄せているのだ。(略)午後十時、思い出多き京城の街に別れを告げて、われらの列車は汽笛一声北上した》(同)

 一行は、鮮鉄の京義線に乗って平壌へ。さらに北上して鴨緑江を越え、南満州鉄道(満鉄)線で満州各地を回り、帰路は、朝鮮東海岸の元山などを訪問している。横山が買い求めた写真入りのはがきには当時の朝鮮の風俗や街の様子が刻まれていて興味深い。

 ◆道半ばでの無念の病死
 日本が、朝鮮に張り巡らせた鉄道網は終戦前に5000キロ以上。修学旅行で横山らが乗った関釜連絡船-鮮鉄-満鉄のルートは、大陸への「最短ルート」であり、その先のロシア、ヨーロッパへとつながる「西洋への扉」でもあった。

 横山は、卒業後の昭和10年3月、鮮鉄に入り、京城にあった工作課の車両係に配属されている。

 横山の日記は《近衛文麿内閣(第1次)総辞職》のニュースが飛び込んできた14年正月から再び、書き始められている。先行きの見えない日中戦争、迫りつつある対英米戦争の足音…。陸軍への入営を挟みながら横山は技術者として多忙な日々を送っていた。

 《朝鮮はまったく朝が鮮やかだ。わが第二のふるさとに汽車は走りぬ》(一時帰郷から朝鮮へ戻った14年1月24日付日記から)
(朝鮮南部の)光州へ出張し試運転列車に乗り込んだこと。人事異動のこと。休日に同僚と京城の動物園や桜の名所、昌慶苑に遊んだこと。仕事に悩み、満州(満鉄)への転職を考えたことも書いている。

 《内地(日本)と異なり、物資は豊かにあります…内地より帰城した人々の話を聞き、京城の有難味(ありがたみ)をつくづく感じました》(17年1月15日付手紙から)。物資が窮乏していた内地と比べて朝鮮はまだまだ恵まれていたのだろう。

 だが、横山は次第に体調を崩し、長い入院生活を余儀なくされてしまう。内地の病院へ転院したが、18年12月死去。まだ26歳、朝鮮開発へかけた若者の夢は、道半ばで終わった。

 めいのたか子(68)はいう。「内地へ戻ってきた叔父は『余命6カ月』と宣告されていたそうです。志を抱いて朝鮮へ渡ったであろう叔父はさぞかし無念だったでしょう。葬儀の香典帳(28日付)には仲良くしていたらしい朝鮮人同僚の名もありました」。カメラが得意だった横山のアルバムには、まだ戦争の影がない朝鮮の写真が多く残されている。部屋には若い朝鮮女性の笑顔の写真が飾ってあった。=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

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海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(27)

海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(27)「取り入れる」日本人 朝鮮語の唱歌までつくった 2018年7月14日


 朝鮮民族は「極端に走りすぎる」ときがあると前回書いた。

 一方の日本人は古来、和を尊び、争いを嫌い、曖昧、折衷、混在といったことをよしとしてきた。ただし、これにはプラス・マイナス両面がある。

 例えば、国益がぶつかり合う外交の場では間違いなくマイナスであろう。

 14年間のすったもんだの末にやっと決着した日韓会談(昭和40年、日韓基本条約に調印)。日本の領土と疑いようのない竹島の問題を摩擦を恐れて“タナ上げ”してしまい、韓国に実効支配され続けている。日本が「和」の心で譲っても、相手が同じような寛容な心で歩み寄ってくれるわけではない。

 互いの国・国民の財産、請求権を放棄し、完全かつ最終的に決着したことを確認した日韓請求権協定(同)もそうだ。韓国が主張していた徴用工の補償問題など8項目の要求も「含む」とした合意議定書まで交わし“完封”したはずだったのに、韓国側からのカネの要求はいまだにやむことがない。最終的には日韓双方が望んだ形とはいえ、「経済協力」という曖昧な折衷案でカネを支払ってしまったからだろう。

 ◆外国文化を「日本化」

 半面、文化や宗教などでは日本人の混在ぶり、曖昧さも悪くない。朝鮮人がどっぷり漬かった儒教(学)も日本人は全面的には取り入れはしなかった。仏教とごちゃ混ぜにしたり、その仏教も神道と混交させたりしている。朝鮮人が中国に倣った科挙(かきょ)(官吏登用試験)も導入しなかったし、実学や職人、商人を軽視せず、そろばんも身につけさせたから明治以降いち早く近代化を達成できた。

 15世紀に公布された朝鮮固有の文字、ハングルも本家本元の朝鮮人知識層が軽んじてあまり使わなかったのに、日本人は江戸時代から興味をもっていた。

 大阪大名誉教授、加地伸行(のぶゆき)(中国哲学史)の本紙連載コラム「古典個展」(平成26年1月26日付)によれば、江戸時代の天明4(1784)年発行の書物の中にサンスクリット語やオランダ語などと併せて、ハングルが「朝鮮国の文字」として紹介されている。しかも日本人に分かりやすいよう「いろは歌」で再構成する工夫が見られた。

 加地は《古代以来、中国は自分が世界の中心と思い、今もその態度を変えない。朝鮮半島は中国を主人とする属国根性が今も抜けていない。しかし、わが国は、歴代、外国文化を謙虚に受け入れ、しかも、日本化するという努力を続けてきた》と書いている。

 ◆朝鮮の偉人や旧跡も

 明治初期に日本の学校教育として取り入れられた「唱歌」も最初は、“日本人お得意”の和魂洋才、和洋折衷というべきものだった。『蛍の光』も『蝶々(ちょうちょ)』も外国の曲からメロディーだけを借りて、まったく違う日本語の歌詞をつけて作られている。

 さて、朝鮮ではどうやったのか。

 日本が朝鮮に、近代教育制度を整備したとき、やはり唱歌教育を導入している。これは“日朝折衷”というべきものだった。

 日韓併合(明治43年)直前の保護国時代、韓国統監府が監修し、大韓帝国学府が発行した「普通教育唱歌集 第一輯(しゅう)」(同年)は主に内地(日本)の唱歌を、そのまま朝鮮語に翻訳したのである。

 日本は、同じく統治した台湾や、日本が強い影響力をもっていた満州(現中国東北部)でも、土地の自然や名所旧跡などを取り入れたオリジナルの唱歌をつくっているが、「現地語の唱歌」をつくったのは意外なことに朝鮮だけだ。

 ところがこの“日朝折衷”唱歌の評判があまりよくない。当然だろう。なじみのない(日本の)山河や動植物、風習を織り込んだ歌が朝鮮の児童の心に響くはずがない。唱歌や童謡は、子供たちが、子守歌の次に触れる歌である。歌って楽しく、愛着を持ち、子供たちの情緒を育てるものでなくてはならない。

 そこで、朝鮮に渡った日本人教師や総督府の教育担当者は、「朝鮮の偉人や旧跡、自然、風俗を取り入れたオリジナルの唱歌をつくろう」と主張する。そして、その歌を朝鮮の子供たちに公募し、歌詞を書いてもらう。大正15年に朝鮮総統府が編纂(へんさん)・発行した「普通学校(小学校)補充唱歌集」(60曲)だ。

 公募によって採用された唱歌には、朝鮮民族誕生の神話の山である『白頭山』やハングルの制定に貢献した李朝時代の儒者を題材にした『成三問』、日本とつながりの深い新羅の王を歌った『昔脱解』などがある。前回、日本人が普及に貢献したと書いたハングルで表記された唱歌は低学年用に多い。「読みやすく」という配慮だろう。

 このほか、新羅王生誕の地である『鶏林』、中朝国境を流れる大河『鴨緑江』や天下の名勝『金剛山』…。きっと朝鮮の子供たちはこうした唱歌を歌いながら民族の偉人や歴史、自然を誇らしく感じたことであろう。こんな“お人よし”の統治者が日本の他にいるだろうか。

 ◆耕筰・露風の幻の唱歌

 “日朝折衷”唱歌はその後も続く。昭和7年に京城師範の音楽教育研究会がつくった「初等唱歌・第三学年用」には、山田耕筰作曲、三木露風(ろふう)作詞の大御所コンビによる『五月雨』『水車』『冬の朝』など、日本でもほとんど知られていない唱歌が収録されている。大正12年に大阪の出版社が発行した唱歌集に掲載されているが、耕筰の関係者も把握していなかったいわば“幻の唱歌”だ。

 耕筰は、満州唱歌である『ペチカ』や『待ちぼうけ』(大正13年の「満洲唱歌集・尋常科一、二年用」に収録)もつくっている。きっと、京城師範の教育者たちは、芸術性の高い耕筰の曲を朝鮮の子供たちに教えたかったのだろう。

 ただ、朝鮮の唱歌にも時期の濃淡があった。日中戦争翌年の昭和13年に改正された朝鮮教育令(第3次)によって、唱歌も一新され、以後、皇民化や軍国色の強い歌が増えてゆく。日本人教育者が愛情込めた自由な朝鮮の唱歌を知る人は今やほとんどいない。=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (26)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(26)ハングル普及に貢献した日本人 中国崇拝一辺倒を打破 2018.7.7

 朝鮮・韓国語を少しでも勉強した人は、よく分かると思うが、日本語との共通点が非常に多い。文法がほぼ同じだし、漢字由来の単語(漢字語)が多数を占めているから、やや発音は違うものの、日本人には何となく意味の予想がつく。

 のっぽ、おんぶ、デブ、ボロ(もうけ)、(腹)ぺこ、チョンガー、(ラクダの)パッチ…知らず知らずに使っている日本語の中にも、朝鮮語に関係があると思われる単語が少なくない(異説あり)。おそらく日本人にとって「最も習得しやすい外国語」であろう。逆もまた然(しか)りである。

 ただ、漢字は別にして、文字は全く違うから、とっつきにくい。初めて韓国へ行った日本人が、看板などに書かれた、見慣れない記号のような文字の洪水に頭がクラクラして、“ハングル酔い”になることもあるらしい。

 ハングルは、15世紀の半ば、李朝の王、世宗(セジョン)の時代に「訓民正音(フンミンジョンウム)」の名で公布された。母音と子音を組み合わせた合理的な表音文字で漢文を読めない庶民にも分かりやすいようにした画期的な発明であった。

 ところが、中国文化(漢文)ばかりをありがたがる朝鮮の支配者階級は、かたくなに「漢文」しか使おうとしない。せっかく独自の文字を発明したのに、それを「諺文(おんもん)」と呼び、知識のない者や女・子供の文字だとして、公的には使おうとしない向きもあったのである。ハングルは長らく“日陰の身”に置かれていた。

 ◆識字率を向上させよ

 李朝末期、朝鮮人の間でようやくハングルを再評価する動きが広がってきたが、そこには日本人の貢献もあった。

 福沢諭吉(1835~1901年)は、朝鮮の改革・進歩、文化の発展のためには、庶民にも読みやすいハングルを普及させて識字率を上げることが肝要だ、と考えた。福沢は、自らハングルの活字を特注して作らせ、門下の井上角五郎(かくごろう)(1860~1938年)を京城へ派遣する。

井上著の『福澤先生の朝鮮御経営と現代朝鮮の文化とに就いて』(昭和9年)を引いてみたい。《朝鮮には諺文(ハングル)がある。日本の「いろは」の如(ごと)くに用いられると知られて、(福沢)先生は、これさえあれば朝鮮も開化の仲間に入れることができる》

 福沢や井上の頭にあったのは、日本語の「漢字かな交じり文」だ。漢字のみの漢文や、ひらがな、カタカタのみの文は読みにくいが双方が交じると読みやすい。漢字は表意文字なので文意がつかめるからだ。

 ハングルは、表音文字であるため、同音異義語が多く、「防火」と「放火」が同じ表記になってしまう。そこへ漢字表記を交ぜると、文意がつかみやすくなるのは日本語と同じだ。福沢らは漢文志向が強かった当時の朝鮮に、漢字とハングルを交ぜた文を根付かせ、庶民にも読みやすくしようと考えたのである。

 再び前述書に拠(よ)る。《政治も法律も支那に模倣(略)官吏の文書に正音(ハングル)を交えることを禁じ…常民の全く学識なき者、婦女子のほかは、男子として諺文(同)を読んだり書いたりするのは一大恥辱…というのが朝鮮上流社会の思想であった》

 福沢と井上は、その思想を打破するために、ハングル入りの文を用いた新聞の発行を考えつく。《先生は「(新聞への)諺文使用は出来うるか」と言われました。私は、決して困難とは思いませんが、朝鮮上流社会の支那崇拝思想を打破せぬ限りは、これを社会に普及させられませぬ。これを打破するのが私の使命と思っています》

 そして、井上は、朝鮮人語学者の協力を得て、明治19(1886)年、形は少し違ったが、京城でハングルを入れた初の新聞『漢城周報』(週刊)の発刊にこぎつける。新聞は国王の認可を受け、政府の機関が発行所となったもので、朝鮮社会に与えたインパクトは大きかった。29年には朝鮮人の手によってハングルのみの独立新聞が発行される。

◆一村一校の小学校建設
ハングルの標識
福沢諭吉

 日本統治時代、ハングルは普通学校(小学校)の教科書に載り、朝鮮の子供たちに普及してゆく。

 日本が建てた初等教育の学校は、明治45年に500校あまり(児童数約6万6千人)だったが、「一面(村)一校」を合言葉に地方に広がり、昭和11年には、約2500校・児童数約93万人→16年、約3700校・約170万人と急増。終戦前の就学率が、5割を超えていたのは前回書いた通りである。

 初等教育機関は当初、日本人が主の小学校(一部の朝鮮人も通った)と朝鮮人児童の普通学校に分かれていた。昭和12年に名称はともに小学校となったが、学校の統一はされていない。「国語(日本語)能力」に差があったからである。

 朝鮮総督府は、普通学校で教える朝鮮語で、ハングルのつづりを統一するため、朝鮮語学者の協力を得て昭和5年に、諺文綴字(つづりじ)法を公布。正書法を完成させてゆく。

 前回、国語政策の「時代による濃淡」について触れた。大正8(1919)年の大規模な抗日運動(三・一事件)以降、日本は“緩やかな”「文化政治」にかじを切る。結社、集会の規制が緩められ、今も続く朝鮮日報や東亜日報といった朝鮮語の新聞も、この時期に創刊されている。

 だが、日中戦争開始(昭和12年)以降は、朝鮮でも戦時体制として皇民化政策が進められ、自由な雰囲気は失われてゆく。ハングルの普及活動を進めた朝鮮人の民間団体が、民族運動、独立運動の拠点とみなされ、治安維持法で検挙される事件も起きている(17年の「朝鮮語学会事件」)。

 ハングルは再び“日陰の身”とされたが、ハングル交じりの新聞(毎日新報)は終戦まで発行されている。

 戦後の韓国・北朝鮮は、一転して、民族意識の象徴としてのハングルを重んじ、漢字を排除するようになる。韓国では漢字教育をほとんど受けなかった「ハングル世代」が大多数を占め、自分の名前すら漢字で書けない人も多い。どうもこの民族は、極端に走りすぎる。=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (25)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(25)日本の官憲に朝鮮語奨励 国境警察隊の8割は日本語理解せず 2018.6.30

 先週書いた、朝鮮北部の国境警察隊の映画『望楼の決死隊』(昭和18年、今井正監督)の思い出は、朝鮮総督府の元キャリア官僚で戦後、埼玉県警本部長や大分県副知事を歴任した坪井幸生(さちお)(大正2年生まれ)も書き残している。
 《国境地帯では、百人近くの警察官が一つの駐屯地に集団で駐在していた(略)隊員は当番となり、二、三人の班を組んで戸口調査をし…情報を集めるのが常務であった、使う言葉は朝鮮語であり、朝鮮語ができなければ話にならなかった》(「ある朝鮮総督府警察官僚の回想」から)
 映画の中に、住民の説明会で日本語とハングルを併記して板書するシーンが出てくる。終戦前には普通学校(小学校)の就学率は50%を超え、日本語を解する朝鮮人の割合は年々増加していったが、全体から見れば「日本語ができる朝鮮人」はわずか15・6%(昭和15年、朝鮮総督府統計)にすぎない。終戦間際でも2割前後。特に、年配者や女性は低かった。
 日本語が分からない朝鮮人に対処するためには、日本人警察官の方が朝鮮語を勉強した。再び、坪井書に拠(よ)る。《(警察官志願者の)講習所で朝鮮語の教育をしなければならなかった。教習科目のなかでも、朝鮮事情とともに朝鮮語は重要視されていた》
 警察官だけではない。総督府は地方官吏を中心に朝鮮語習得を奨励し、「熟達せる者」に対しては手当まで支給している。
 坪井は、こうも書いている。《当時の朝鮮人の日常の市民生活では、当然のこととして朝鮮語が常用されていた。(略)汽車の切符も煙草(たばこ)も朝鮮語で買えた。郵便局でも片仮名以外にハングルを使って電報を打つことができた。「朝鮮語の使用禁止」があったというのは、当時の実情を知らない者の虚報か、タメにする作り話である》
 朝鮮人を対象とした徴兵令は18年に発せられ、19年になって、やっと実施されている。それまでは、13年からの陸軍特別志願兵制度などによって朝鮮人兵を集めていた。戦局悪化にともなって戦死者も増え、内地ではどんどん徴兵年齢が上げられてゆく。できるならば朝鮮人兵も早く徴兵したかったであろう。なぜ終戦間際になったのか?
 ひとつには「日本語能力」がネックになったからである。若い徴兵世代でも全体の7割弱は日本語ができない。そんな兵は訓練もままならないし、命令を伝えることもできない。実際、徴兵制を実施したものの、徴兵されたのは「全対象者の約4分の1」にとどまっている。戸籍が把握できなかった者らに加えて、日本語の能力で除外された者がいた。
 大多数の朝鮮人が日本語を理解できない現実の前では、坪井が書いているように、日常生活での「朝鮮語の禁止」など、できるはずがないのである。
 ◆日本語求めた朝鮮人
 総督府は、朝鮮人児童への初等教育を整備・拡大し、あまり使われていなかったハングルを教え、識字率向上に努めた。
 ただし、総督府の言語政策は時期によって濃淡がある。映画『望楼の決死隊』に登場する、もう一方の映像も紹介しなければ公平ではない。それは、国境警察隊の壁に張られた「国語常用」の標語である。
 日中戦争(昭和12年~)以後、戦時体制の中で朝鮮でも内鮮一体、一視同仁のスローガンのもと、皇民化政策が進められてゆく。
 映画が撮られた18年には、「日本語を使いましょう」という国語常用運動が総督府によって進められており、官公庁などには、先の標語を掲げるよう指示が出ていた。初等教育の科目としての「朝鮮語」も、16年を最後(随意科目)に姿を消している。
だから、他民族統治の中で国語政策についても強圧的なやり方がなかった、というつもりはないが、一方で、多くの朝鮮人が「日本語を求めた」側面を見逃すべきではない。日本語を身につけることは、教育を受けたり、仕事を得たりするのに有利になったし、“同じ日本人”としての意識も次第に高まっていたからだ。
 先の陸軍特別志願兵には、初等教育で、日本語を学んだ農村出身者らが多かった。昭和17年には、採用予定人数4500人に対し、志願者が約25万人、18年は、採用予定約5300人に対し、30万人以上の志願者が殺到した。すさまじい人気ぶりである。
 批判する側がいう「皇民化政策の影響」だけで、ここまで高倍率になったであろうか? やはり朝鮮人の日本への同化が進み、「ともに戦う」という意識の高揚が、この数字につながったのではないか。
 『前進する朝鮮』(17年、朝鮮総督府情報課編)に、当時の朝鮮人の日本語学習熱についての記述がある。《今日では、すでに国語(日本語)の習得は朝鮮人にとっても国民常識であり…正規の教育機関ばかりでなく、各村落に設けられた短期の国語講習所等(とう)には50、60歳の老翁、あるいは30、40歳の主婦たちの子どもをおんぶした手習い姿も見られて…》と。
 批判する側は、この国語講習所についても、「そこまでして日本語を強要した証拠ではないか」と主張する。では、終戦当時旧制中学3年生の朝鮮人少年だった男性(88)の証言を聞いてみたい。
 「朝鮮ではますます、日本語の使用が広まり、朝鮮語の書物や朝鮮語の新聞の購読者が減少していった。満州(現中国東北部)へ進出した朝鮮人たちも可能な限り、(有利になるように)日本人のふりをしていた。もちろん、朝鮮人の日本化を促進させるための総督府の政策も、そこにはあった。だから、日本語の普及・朝鮮語の教育の退潮は、政策面と(日本語を身につけたい)需要面の両面によって進んだのです」
 公平で率直な見方だと思うが、どうだろう。=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (24)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(24)警察官の半数近くが朝鮮人だった 映画『望楼の決死隊』に見る実相 2018.6.23

 戦後の日本映画を代表する巨匠の一人、今井正(ただし)(1912~91年)がメガホンをとり、昭和18年に公開された映画『望楼の決死隊』(東宝)は、10年ごろの満州国(現中国東北部)との国境に近い朝鮮北部の村を舞台にしている。“永遠の処女”原節子(1920~2015年)が、匪賊(ひぞく)と対決する国境警察隊所長の若妻役を演じ、戦闘シーンで拳銃をぶっ放す派手なアクションが話題になった。
 撮影当時、国境にある朝鮮・咸鏡北道知事を務めていた古川兼秀(かねひで)(1901~74年)は、現地ロケにやってきた原など、撮影隊に会ったことを、よく家族に話していたという。
 映画のストーリーを簡単に紹介しよう。朝満国境を流れる鴨緑江や豆満江が凍結する厳冬期には、満州から匪賊が河を渡って朝鮮へ攻撃を仕掛けてくる。
 匪賊には馬賊、土匪、宗(教)匪などがあるが、映画に登場するのは、共産主義者勢力による「共匪」。北朝鮮の初代最高権力者となる金日成も参加していた「抗日パルチザン」と称する武装ゲリラ集団である。朝鮮人住民とともに土地を警備する国境警察隊は、厳寒のなか不眠不休で任務にあたり、共匪との激闘で殉職者を出しながら、ついには村を守り抜く…。
 映画の中で、朝鮮人の住民の心情は、日本側にある。朝鮮総督府後援の作品だから、多少のプロパガンダ色はあるものの、実感情に近いだろう。共匪の「抗日」宣伝に共感する住民もなくはなかったが、多くの朝鮮人住民は、民間人への襲撃、放火、略奪、誘拐…と非道の限りを尽くす共匪を恐れ、嫌っていた。
 映画の国境警察隊には朝鮮人警察官もおり、共匪側の凶弾に倒れ殉職する。日本人警察官は悔しさをにじませ、仲間の仇(かたき)をとるべく銃弾が飛び交う最前線に飛び出してゆく。古川は、北部の平安北道や黄海道で警察部長(現在の県警本部長に相当)を務めた経験があり、匪賊掃討の陣頭指揮もとっていたから、映画には、感慨深いものがあったに違いない。
■日本時代に刷新改善
 朝鮮で、近代的な警察制度が整備されたのは日本統治時代である。
 『25年 朝鮮は何を得たか?』(昭和11年、京城日報社編)にこうあった。《韓国(大韓帝国)時代における警察制度は、名あるも実なく、常に権門の手足となり…弊害百出混沌(こんとん)たる状態であった。(略)その後露、仏などによる顧問を聘(へい)したが、徒(いたずら)に政争の爪牙たるに過(す)ぎなかった。明治37年帝国政府(日本)より推薦せる警察顧問によって刷新改善を図り、ここに初めてその体をなすに至った》
 同書によれば、明治43年に107だった警察署は、昭和8年に251に。駐在所は、269→2334▽警察官数は、5694人→1万9228人(いずれも前記期間比較)と急増している。注目すべきは、朝鮮人警察官の人数が、全体の「4割強」(昭和8年)を占めていることだ。総督府の役人の数も約半数を朝鮮人が占めている。彼らの目を盗んで)、同胞の少女を慰安婦として無理やり連れ去ることなどまず、できなかっただろう。
 キャリア官僚として朝鮮総督府に入った古川は、警察畑が長かった。主に警備・公安畑で活躍し、道の警察部長のほか、政治犯や防諜を担当する総督府警務局の保安課長、メディアの検閲などを担当する図書課長も務めている。
 昭和13年発行の『ヂャーナリズム時代の部隊の戦士』〈話題の人〉に、図書課長時代の古川の人物評が載っていた。《血の気が多い…総督府内きっての革新派…次のイスは道知事か警務局長か…》と。
 古川は、朝鮮人の登用に積極的な官僚だった。次男の武郎(たけお)(80)のもとには、平成元年に古川が重用した朝鮮人警察官が亡くなったとき、息子から届いたお礼の手紙が残っている。「父の日記には、故古川殿と友子様(さま)(古川の妻)の数々の思い出があふれていました。1934年に古川殿とお付き合いを始めて、親子関係よりももっと深い思いやりであった、と書かれていました…」
一方、古川が残した一文には、この朝鮮人警察官が一度、酒の上での不祥事を起こしたものの「『見どころがある男だ』として罪一等を減じた…果たして、拳銃強盗事件の捜査で凶弾を左ほほに受けながらも犯人を逮捕した」というエピソードが綴(つづ)られている。
 古川と朝鮮人部下との交流は、終戦後に、古川の家族が日本へ引き揚げるときまで続く。
 ■日朝住民の交流描く
 映画『望楼の決死隊』は戦後、軍国主義の国策映画として批判も浴びた。戦時下という時代もあったろうが、その後は、左翼色の強い監督というイメージが強まってゆく今井にとっては、確かに異色の作品かもしれない。
 ただ、この映画の見どころは、匪賊と国境警察隊の派手な戦闘アクションだけではない。むしろ私には、雄大な朝鮮北部の大自然や、当時の朝鮮人の生活、風俗、日本人と朝鮮人との交流の“息づかい”といったものを丹念に描いたシーンの方が興味深い。
 雪と氷に包まれた急峻(きゅうしゅん)な山を見れば、「こんな奥深い辺鄙(へんぴ)な地に日本人はよく巨大な水力発電所などを造ったな」と感心する。凍った河を、すいすいとスケートで滑ってゆく朝鮮人住民らのシーンでは、ここが今なお、中朝混在の地であり、密貿易や脱北者が逃げるルートになっていることがよく分かる。原節子が隣家の朝鮮人の奥さんのお産を手伝いにいったり、殉職した朝鮮人警察官の遺影に日本人の同僚がお雑煮を供えたりするところなどは心温まる場面だ。
 2つの民族は反目しあっていたのではない。映画に登場するような国境警察隊や日朝の警察官の不断の努力によって、朝鮮の治安は改善され、人口は約2倍に増加し、農業・商工業の飛躍的発展を見たのである。=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

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朝鮮統治の真実 ほんとうは「日韓併合」が韓国を救った! 「七奪」はすべてねつ造

 朝鮮統治の真実   松木國俊 元豊田通商ソウル事務所駐在員

ほんとうは「日韓併合」が韓国を救った! 「七奪」はすべてねつ造
韓流ブームに乗って韓国礼賛に走るマスコミもある。だが、ちょっと待て。”憂情”をもって言う ー ウソと詭弁で塗り固めた歴史の握造を正さないかぎり、貴国の将来は危うい! 

■「遊びに来て」が災いのもと
 私は1972年に学生として初めて韓国に行きました。クルマといえばトヨタのコロナばかりが走っているころで、裸電球が灯ったりし、初めてなのに、どこか懐かしい気がしました。韓国語は欧米の言語と違って語順が日本語と同じだし、顔も日本人と似ている。けれど、表面はそっくりでも中味は大違いです。
 大学卒業後豊田通商に入社。1980年にソウルに駐在しましたが、日韓の文化の違いに驚かされました。
 日本でも「忠孝の倫理」とか言いますが、韓国では忠より孝が大事。会社の大事なお客が来るときに、韓国人のパートナーが休んでしまう。「お父さんの誕生日だから」と言うのです。
仕事のあとで駆けつければいいじゃないかと言うと、「そんなことをしたら周りから白い目で見られる」。考え方が日本とは根本的に違う。言葉の意味も違う。例えば「約束」。ある程度できそうだという見込みがあれば「できる」と約束してしまい、状況が変わると守れなくてもしかたがないという考え方です。「予定」も違う。「明日お客が空港に何時に着く予定だか
ら迎えを頼む」と言っておいたのに、予定の時間に会社にいるので焦って事情を聞くと、「あれは予定でしよ。
決定するのを待っていました」との答えがかえってきました。
 人と人の間の距離感も違います。韓国人は親しくなってある線を越えると、その内側の相手は身内ということになる。身内ならお金も貸すし、いつ家に遊びに行ってもいい。相手の都合なんかおかまいなしです。私の日本人の友だちが韓国人の女性と結婚しましたが、当時夜間外出禁止令があって、夜、家に帰れなくなった親戚がしょっちゅう泊まりに来る。プライバシーなんかあったものじゃなくて閉口していました。
 ある日本人の夫婦が韓国のアパートに入居したとき、エレベーターで隣家の人に会ったので「いつでも遊びに来て」と挨拶したら、その晩に家族五人でやって来て、食事中だから待ってと言ってもかまわず上がりこみ、テレビを勝手につけたり冷蔵庫を開けて飲み物を出したりで、嫁さんが「こんなところにはいられない。日本に帰る」と叫んだなどということもありました。
 ジャーナリストの室谷克実さんは慶応大学時代の二年先輩ですが、その室谷さんに聞いた話です。-ソウルのホテルの鮨カウンターで食べていたら、ウエイトレスが「(そのホテルの)社長様がいらっしゃいましたので席を譲ってください」と言う。
こっちが客だよ、と窘めても、「私は社長様から給料をもらっていますから」と平気な顔だったそうです。日本と逆で、外部の人に話すときに身内のものに敬語をつけるんです。「父上様は今いらっしゃいません」「課長様は今いらっしゃいません」という調子です。一番大切な身内にすら敬語を使わない日本人は極めて不道徳となるのです。

■身分格差
 韓国人は大げさな表現が好きで、すぐ話がふくらんでしまう。造船輸出が急激に増えた時期にはドックで修理したものまで新造船に数えて統計をふくらませたと聞いたことがあり、実態とは違った数字だったようです。韓国としてはライバル日本に負けないよう精一杯背伸びしたのかもしれません。規模と利益で日本企業を圧倒する韓国のサムスンを模範企業のように言う論調がありますけれど、まだ問題はあるようです。
 「サムスン電子は、技術パクリを常とし、世界のさまざまな家電・半導体メーカーから特許権侵害で提訴されている企業です。2011年4月には、アップル社がついにスマートフォンに関する特許権侵害でサムスン電子を告発しました。(略)サムスン電子はアップルに半導体や液晶を納入している、いわばお得意先。そこの製品をパクつたのですから、その度胸は賞賛ものです。(略)社員は使い捨てで下請け泣かせ、オーナーの一族は金銭スキャンダルに塗れ、オーナー自身、脱税で有罪判決を受けました。売上高は世界的規模でも、韓国型悪辣・不道徳企業の代表です」〈室谷克実・三橋貴明『韓国人がタブーにする韓国経済の真実』(PHP研究
所刊)より〉
 サムスンは、以前は日本人を雇って、役員会も時々日本語でやっていたとのことです。研究開発費も、他社から図面やノウハウを買うのにかなり使われているようです。韓国では身分格差が大きくて、サムスン電子のオーナー会長は2011年春、株の配当金だけで101億円を受け取ったが、勤労者の45%は2010年中の平均月収が15万円以下だったそうです。企業はオーナー一族のものという意識が強く、企業トップが公私混同して背任罪に問われるケースもよくあります。一人が出世すると一族が頼って来て、出世した当人もみんなを養う義務があると考える。一族の者だから金を貸せと突然言って来て、貸さないと門前で「一族なのに貸さないのを皆さんどう思うか」と騒ぎ立てる。大統領ほどの権力者となるとこれにたかろうとする人が後を絶ちません。某大統領が「聞いたこともない親戚が三倍増えた」と嘆いたことがありました。だから辞職した歴代大統領がみんな汚職で追及されることになるのです。

■人の親切につけこむ
 こういう韓国社会の様相は百年前に朝鮮を観察したイサベラ・バードの『朝鮮紀行』(講談社学術文庫 時岡敬子訳)にも描かれています。
 「朝鮮の重大な”宿痾”は、何千人もの五体満足な人間が自分たちより暮らし向きのいい親戚や友人にのうのうとたかっている、つまり『人の親切につけこんでいる』その体質にある。そうすることをなんら恥とはとらえず、それを非難する世論もない。ささやかながらもある程度の収入のある男は、多数いる自分の親族と妻の親族、自分の友人、自分の親族の友人を扶
養しなければならない。……おおもとはほとんど揺るがない」
 おおもとが揺るがないと言えば、韓国では「過去を水に流す」ということがありません。そういう日本的な美意識は絶対通じません。人を責めるのに、その父、祖父が何をしたかにまでさかのぼって責める。「親日法(日帝下の親日・反民族行為真相糾明に関する特別法)」でも、親日派だった者の子孫の財産を没収するというのですから、不遡及という近代法の原則も何もあったものではありません。だから、過去は自分に都合のいいものでなければならない。実際にあった過去ではなく、「あるべき過去」を主張して、でっち上げてでも押し通さないと生きて行けないのです。
 それゆえ、大韓民国の正統性を主張するために、上海にあった大韓民国臨時政府が日本に対する独立戦争をやって勝ったのだと教科書に書き、教えている。近代において日韓が戦ったことなどはないのです。臨時政府が国家として承認されていたのなら、日本の敗戦ですぐ民国ができてもよかったはずですが、実際には南北の軍政下に置かれ、1948年にアメリカの軍政下から独立したのです。

■いわれなき非難に謝罪
 韓国にいて歴史認識がおかしいと思い始めたのは、1982年の、日本の教科書が「侵略」を「進出」と書き換えたと騒がれたときです。事実ではなかったわけですが、韓国人が興奮状態で、新聞の一面に「日本の軍国主義がまた始まる」と書いて自衛隊観艦式の写真を載せたりした。実態を知らぬまま思い込みだけで非難するのかとびっくりしました。新聞は反日記事を書けば売れる。先日もハンギョレ新聞の論説委員が「日本の右翼勢力をただすには日本を韓国の植民地にするしかない」と書きました。
 韓国の非難は的外れだと思って歴史の勉強を始めたのですが、日本では鈴木善幸、宮沢喜一の両元首相が韓国に謝罪してしまい、これでは歴史のウソを認めることになると切歯挺腕しました。
 50歳で会社を早期退職した理由の一つは、日本語教師になり、韓国人に日本語を教えながら日本の本当の姿を伝えて誤解を解きたいと思ったことでした。専門学校に通って教師の資格を取りました。韓国人が日本に来ても、一年ならいい印象を持つ。「韓国人はいじめられる」と聞かされていたがそんなことはなかったと。しかし二年目に文化の壁にぶつかります。友人の家に夜、突然遊びに行ったら嫌な顔をされた、差別じゃないかとか。学校や課外活動を通じて日韓の文化的な違いを教える必要がありますが、なかなか容易じゃない。教師の口が少なく、非常勤講師を二、三コマやっても週に1万円にしかならないなどということもあって、また商売を始めました。
 それが可能だったのは、私か前の会社をやめても付き合いを続けてくれた韓国人の友人たちのおかげです。
これは有難かった。今度はまず日本人の意識を変えようと、日本会議などに大って情報交換をしていました。
 そこへ、ある老人が資料を見せてくれた。かつての朝鮮総督府の年鑑や日本統治下の朝鮮で使われた教科書など。「日本が朝鮮から強奪した」として韓国が主張するいわゆる「七奪」がねつ造であることを示す一次資料で、私は目からうろこが落ちる思いでした。
 この資料によれば「七奪」非難は完全に否定されます。

一、「韓国国王を奪った」……
 日本は李王家を日本の皇族の一員としてお迎えし、併合時の純宗皇帝は李王となられて日韓の皇室が融合したのです。日本は李王家を手厚く保護しました。朝鮮総督府『施政三十年史』(国立国会図書館蔵)には歳出項目の最上段に「李王家歳費」とあり、毎年180万円か計上されています。
 現在の価値で約二百億円になります。他の宮家の皇族費とは格段に差のある巨額です。さらに梨本宮方子(まさこ)女王が李王家の王世子・李垠(りぎん)殿下に嫁がれました。このこと一つをとっても、日本の「朝鮮統治」は、植民地の王室をことごとく廃止した欧米列強の「植民地支配」とは根本的に違っていることが明らかです。終戦時、李垠殿下’は密航してでも朝鮮に帰ろうとされましたが、韓国の李承晩大統領が許さなかった。李王朝を復活させず、共和制国家をつくったのは韓国自身です。

二、「主権を奪った」……
 李氏朝鮮は清の属国であり、国家主権はもともとなかったのです。朝鮮が近代国家として独立し、共に欧米列強の侵略に対抗することを望んだのは日本であり、それを許さぬ清との間で戦争になったのです。日本が勝利し、清と結んだ講和条約(下関条約)第一条には「清国(朝鮮国ノ完全無欠ナル独立自主ノ国タルコトヲ確認ス因テ右独立自主ヲ損害スヘキ朝鮮国ヨリ清国二対スル貢献典礼等「将来全ク之ヲ廃止スヘシ」と朝鮮の独立が明確に謳われています。

■日韓合邦の嘆願書
 ところが、ロシア、ドイツ、フランスの三国による干渉で日本が遼東半島の放棄を強いられると、国内改革によって専制権力を奪われつつあった国王・高宗はロシアと組んで巻き返しに出ました。国内の親日・改革派を葬り、ロシアに朝鮮の利権を売り渡し、馬山にはロシア海軍の基地が建設されて、日本の独立が脅かされる事態に至りました。そして日露開戦。大韓帝国内では李容九が「一進会」を結成し、日本との一体化こそが国を救う道であると朝鮮民衆に説きました。白人大国ロシアに対する日本の勝利はアジアーアフリカの有色人種を狂喜させた。戦後、李容九は一進会百万人会員の名前で全国民への合邦声明書を発表、さらに韓国皇帝、曾彌統監、李完用首相に対し「日韓合邦」の請願書を提出しました。日韓併合は日本が一方的に進めたのではなく、大韓帝国の中にも日本との合邦を推進した人々が多くいたのです。
 1910年に日韓は「韓国併合二関スル条約」を締結しました。このときの韓国皇帝の詔勅には、「韓日両国の親密なる関係をさらに進めて一家をなすことがお互いの幸福に通じる」と
して内閣総理大臣李完用に全権を委任し、大日本帝国統監寺内正毅との両国併合交渉に当らせると記されています。日韓併合条約は国家同士が当時の国際法や国内法に基づいて平和裏に締結した正式な条約なのです。日本が一方的に主権を奪ったのではありません。

■ヘレン・ミアーズの証言
 『アメリカの鏡・日本』の著者ヘレン・ミアーズも「日本が韓国を併合したのは、新皇帝が懇願したからだ。日本は一つ一つ手続きを外交的に正しく積み上げていた、そして宣言ではな
く条約で最終的な併合を達成した。列強の帝国建設はほとんどの場合、日本の韓国併合ほど合法な手続きを踏んでいなかった」と記しています。
J・クロフォード英国ケンブリッジ大教授も、2001年の国際学術会議で「自分で生きて行けない国について、周辺の国が国際的秩序の観点からその国を取り込むというのは当時よくあったことであり、日韓併合条約は国際法上不法なものではなかった。強制されたから不法であるという議論は第一次大戦以降のもので、当時としては問題になるものではない」と述べて、韓国側の主張は完全に崩れました。イザベラ・バードも夙(つと)にこう書いていたのです。
 「わたしは朝鮮人の前途をまったく憂えてはいない。ただし、それには左に掲げたふたつの条件が不可欠である。
I、 朝鮮にはその内部からみずからを改革する能力がないので、外部から改革されねばならない。
Ⅱ、 国王の権限は厳重かつ恒常的な憲法上の抑制を受けねばならない」

三、「土地を奪った」……
 1974年以来、韓国の国定教科書には「全国農地の40%を日本人に収奪された」と記載されてきました。
とんでもない。李氏朝鮮時代は所有権の概念があいまいなために、土地をめぐる争いが絶えませんでした。
そこで朝鮮総督府は1910年から8年かけ、近代的測量技術を使って土地調査を行いました。朝鮮総督府『施政二十五年史』(国立国会図書館蔵)には「抑々土地調査は地税の負担を公平にし、地籍を明らかにして其の所有権を確立し、その売買譲渡を簡捷確実にして以て土地の改良及び利用を自由にし、かつその生産力を増進せしめんとするものである」と目的がはっきり書いてあります。調査の結果、270万町歩と言われていた耕地が、実際には487万町歩にも上ることが明らかになりました。耕地全体の45%もが当時の貴族階級であった両班らによって隠匿されていたのです。
 韓国では土地調査について「日本人が小高い丘に登ってあたりを見回し、土地を指さして手当り次第良田を奪った」と非難していますが、これは李氏朝鮮時代の話なのです。李朝末期にダレ神父は『朝鮮事情』(平凡社)の中でこう書いています。

■両班の暴君ぶり
 「両班は、いたるところで支配者か暴君のようにふるまっている。彼らが強奪に近い形で農民から田畑や家を買うときは、殆どの場合、支払なしですませてしまう。しかも、この強盗行為を阻止できる守令(現在の知事に相当)は1人もいない」。
 実際に朝鮮総督府が接収した土地(李朝時代の国有地等)は耕地全体の三%でした。接収の過程で朝鮮人の私有地を奪った事実は全くありません。一九二二年時点で朝鮮半島における国有地及び日本の個人、法人が保有していた土地は合わせて二十五万五千町歩、全耕地面積の六%にすぎません(『朝鮮における内地大』朝鮮総督府、大正十三年発行)。農民たちは自分の土地が測量され地籍に上がるのを見て、測量事業に積極的に協調しました。しかし中には一時の利益に目がくらみ祖先伝来の土地を売ろうとするものもありました。一方、一握千金を夢見る日本人が大挙、朝鮮にやってきました。当時の寺内総督は、一旗組によって朝鮮の土地が買いたたかれては百害あって一利なしとし、朝鮮農家が日本人に土地を売るとの情報をつかむと憲兵を派遣し、日本人には売らないよう説得させました。そこまで総督府は朝鮮人の利益を守ろうとしていたのです。

四、「国語を奪った」……
 韓国の国定中学校教科書には「我々の言葉を禁止し日本語だけを使うようにして、我々の歴史の教育も禁じた。ハングルで刊行された新聞も廃刊させ、我々の言葉と歴史に対する研究も禁止させた」と書いてあります。
そもそもハングルは十五世紀に李朝四代世宗が学者を集めて作らせたと言われていますが、当初より諺文として忌み嫌われ、公文書では一切使われませんでした。イザベラ・バードも「諺文は軽蔑され、知識階級では書きことばとして使用しない」と記しています。そのハングルを再発見したのが日本人の福沢諭吉でした。
 「日本の漢字仮名まじり文同様、ハングルを駆使すれば難解な漢文を朝鮮語式に自由に読み下すことが可能となり、大衆啓発のために大いに役立つはずだ」と考え、漢字(ングル混交文を提唱し、ハングル活字を私費で作りました。
 朝鮮総督府は日本と朝鮮の学者を集めてハングルを近代的文字体系にまで高め「普通学校用諺文綴法」を決定して教科書に採用しました。さらにソウルとその近郊で話されている言葉を標準語と定め、学校教育を通し全土にこれを広めました。現在の韓国語は、このときに成立したのです。
 1920年には総督府によって初めて本格的朝鮮語辞典が完成、刊行され、1924年には京城帝国大学に朝鮮語・朝鮮文学の口座が開設されました。半島における日本語の普及にも力を入れましたが、これは共通語の普及が目的であり、朝鮮語廃止など毛頭考えていなかったのです。
 日本が朝鮮を植民地と考えていたのなら日本語など教えないほうが支配しやすかったはずです。1941年からは朝鮮語の科目が廃止されましたが、これは戦争の激化によって朝鮮語教育に力を入れる余裕がなくなったためです。また科目が廃されたからと言って、朝鮮語の使用が禁
止されたわけではありません。当時の日本人は半島の人口の2%程度であり、禁止など不可能です。朝鮮語の新聞も、京城では終戦まで二紙が発行されていました(中村梨『韓国併合とは何だったのか』)。むしろ朝鮮の知識人の中に朝鮮語廃止と日本語常用を唱える人々が大勢いたのです。

■朝鮮語廃止にストップ
南次郎総督が「朝鮮語を廃止するのは良くない。国語(日本語)普及運動も朝鮮語廃止運動に誤解されることがあるくらいであるからそれはできない相談である」と拒否した経緯があります(杉本幹夫『「植民地朝鮮」の研究』)。日本が朝鮮語を奪ったのなら、当時の朝鮮人は全員日本語を話せたはずですが、『朝鮮総督府施政年報 昭和十六年版』には日本語を「や
や解しうるもの」「普通会話に差し支えなき者」合わせて約390万人、当時の朝鮮の人口の16%に過ぎないと記載されています。同資料には「内地人職員に対する朝鮮語の奨励」なる項目があり、日本人官吏が朝鮮語を必死で学ぶ様子がうかがえます。
 近代においては日本が西洋の用語を日本語に翻訳して新たな漢語を創造したのですが、朝鮮の人々は日本製の漢語を借用して今日の韓国語を形成しました。韓国語の名詞の70%程度が漢語であり、政治、経済、科学、哲学、医学分野はほぽ100%が日本語の借用です。「社長、副社長、専務、常務、部長、課長、係長」も、「株式会社」「合弁会社」「水素」「酸素」「電気」「手術」もみんな日本語の韓国読みです。日本は統治期間中に朝鮮語の標準語を定め、近代社会に必要な単語を提供しました。奪うどころか、まったく逆のことをやっているのです。
 歴史教育についても、朝鮮総督府大正13年発行『朝鮮語読本 巻五』には「(慶州為先陳列館では)この地方において発見された各種の遺物が保存されており、新羅文明の卓越した様子が明らかに分かる」「石窟庵に入れば穹窿(きゅうりゅう)たる石窟の中に29体の仏像を周壁に彫刻してあり、その彫刻の優美さは東洋芸術の誇りである」などの記述があり、朝鮮の卓越した歴史を学童たちに教えるべく努力していたことがよくわかります。

五、「姓名を奪った」……
 1939年に朝鮮総督は朝鮮戸籍法を改正し、朝鮮人が日本名を名乗ることを可能としました。「創氏改名」と呼ばれるこの政策によって朝鮮人の姓名を奪われ、無理やり日本人に同化させられたとして韓国は日本を非難します。しかし、朝鮮人が日本名を名乗ることで日本人が何か得をしたでしょうか。実は、日韓併合直後の1911年に朝鮮総督府は総督府令第214号「朝鮮人の姓名改称に関する件」を施行し、朝鮮人が日本式姓名を名乗ることを禁止していたのです。朝鮮の伝統風俗を尊重すると同時に、日本人と朝鮮人を名前で区別できなくなることで発生するであろう不都合に配慮したものでした。

■日本名をくれないのは差別
 それが変更されたきっかけは、朝鮮人満州開拓団からの強い要望です。
朝鮮人に対する中国人や満州人の侮蔑意識が強く、朝鮮人の村々は略奪、放火、虐殺など甚大な被害を受けていた。日本名を名乗れば名実ともに日本臣民となり、侮蔑されなくなるというわけです。半島の朝鮮人の間でも「日本人になって三十年近く経つても日本式姓名を名乗れないのは朝鮮人への差別である」との不満が高まってきました。しかし朝鮮総督府警務部は日本への密航増加や治安上の問題を憂慮して反対し、内地人も 朝鮮人も平等であるという「一視同仁」の考えから賛成する文部部とすったもんだの議論の末、ようやく1936年に戸籍法改正に至ったのです。
 総督府では朝鮮の文化伝統を尊重する立場から「姓」を戸籍簿上に残し、新たにファミリーネームとしての「氏」を創設することにしました。これは朝鮮人が「姓」を変えることなく合法的に日本式の苗字を持てる妙案でした。さらに「せっかく日本人の苗字が名乗れるようになっても、下の名前が朝鮮式のままでは意味がない。
名前も変えさせて欲しい」という要望が多く、これに応えるために、裁判所に申請し正当な事由があると認められた場合に限り、手数料を払って名前を変えることも可能としました。
これによって「創氏改名」が実現したのです。
 この法律が施行されるや町や村の議会で「全員日本名とする」ことを決議するケースも続出しました。朝鮮人官吏が点数稼ぎのために日本名を勧めたこともあったようです。日本名を名乗らないものが朝鮮人の問で非難されることもあったでしょう。
改名を拒否して自殺したという話も残っています。しかしそれはあくまで朝鮮人社会内部での問題であり、日本側が強制したわけではありません。南総督は三度も「強制してはならない」という通達を出しています。
 また、日本名を名乗らなくても不利益を被ることがなかった証拠に、軍人や政治家、スポーツ選手のなかに朝鮮名を通した人たちもかなりいました。結果的に80%の朝鮮人が日本名の「氏」を選択したのは、当時世界五大強国の一つであった日本の臣民になることを望んだということです。朝鮮では本貫(一族始祖の発祥地)を同じくする同姓同士の結婚はできず、異姓を婿養子にすることもできない規定がありましたが、創氏改名に伴う民事令の改正で異姓の婿養
子を迎えることができるようになり、喜ばれたという事実もありました。

■あまりの歴史歪曲
六、「命を奪った」……
 日清戦争の原因となった東学党の乱から1945年までの50年間、日韓は戦争状態にあり、この期間中に残虐な日本軍は朝鮮人数十万人を虐殺したと韓国では教えています。
これが世界中で韓国だけに存在する「日韓五十年戦争」論です。この主張は、朴殷植が1920年に書いた『朝鮮独立運動之血史』という本がベースになっています。朴は上海臨時政府の2代目。大統領‘になった人物であり、この本は日本を攻撃するために悪意をもって著述したもので、日本の官憲や軍隊の蛮行がこれでもかとばかり書き連ねてあり、私もこれを読んであまりの偏見と事実歪曲、数字の誇張に絶句しました。しかし韓国ではこれが史実として教えられています。
 「東学党は、政府軍や日清軍と交戦すること9ヵ月以上にも及んだ。死者30万人を数え、民族史の上に古今未曾有の惨状を極めた」というのですが、日本軍の本隊が朝鮮半島に上陸したのは東学党の乱が朝鮮政府軍や清国軍隊によって鎮圧されたあとで、それまでは二個小隊しかいませんでした。また、「わが民衆を日露戦争の軍用務労働者として徴用しはじめ、これを拒否したものはロシアの間諜として罪におとしいれ、あるいは拘束し、あるいは拷問を加え、甚
だしくは斬殺した。」とあります。しかし日本で国民徴用令が制定されたのは1939年であり、1904年に他国の国民を徴用できるはずがありません。
 韓国の民族独立運動である「三一運動」を日本が残虐な手段で弾圧し、多くの朝鮮人を虐殺したと韓国は主張しています。1919年三月一日、京城(ソウル)の公園に宗教家33人が集まり、非暴力・無抵抗主義を標榜して「万歳デモ」に移ったのが始まりですが、これが瞬く間に全国的暴動に発展し、地方では農民たちが武装して村役場、警察・憲兵事務所、富裕地主等を襲撃する凶悪な行動へ転化しました。在朝鮮日本人に「日本へ帰れ」と投石して脅迫した事実はテロそのものであり、決して一般大衆から支持されたものではなかったのです。黄色人種間の分裂を図る欧米宣教師に煽られた朝鮮人キリスト教徒たちが暴徒と化し、これに近代化で特権を喪失した両班や旧軍人らの不満分子が乗っかって広がった破壊活動であり、警察や憲兵が鎮圧するのに武器を使用したのもやむをえざるところでした。
 『朝鮮独立運動血史』には日本官憲が各地で悪逆非道な弾圧を行ったと記されています。ところがそのほとんどは裏付けのない伝聞にすぎません。
唯一、西洋人が視察して公に伝えたとする水原岩里事件では婦女子が犠牲になったとしていますが、英国紙「モーニングーアドバタイザ」の京城特派員は「殺害された37名全員が男性」と記述しており(木原悦子『万歳事件を知っていますか』)、朴の創作が明らかです。

■日本の裁判の公正に感激
 実際の日本の対応は、金完雙『親日派のための弁明2』によれば送検された被疑者1万2668人、6417人が起訴され、一審で39167人が有罪判決を受けましたが、日本人憲兵6名と警官2名が虐殺され、多くの建物が放火されたにもかかわらず、死刑は1人もなく、15年以上の実刑もなく、3年以上の懲役がわずか80人で、しかも減刑と赦免で刑期が半分以下とな
りました。この時逮捕された三一運動の主要リーダー崔麟、李光洙、崔南善、朴煕道たちは日本の裁判のあまりの公正さに感激し、やがて強烈な日本ファンとなって、1930年代の言論界をリードすることになります。
 李朝末期における農民の生活は悲惨で、毎年多数の餓死者が出ていました。この改善が朝鮮総督府の最大の目標であり、一九二六年に「朝鮮産米増殖計画」が施行されました。併合当初、朝鮮の水田は八〇%が天水に依存していましたが、この計画により七〇%以上が天水依存から脱し、その他の改良と相まって朝鮮農業は飛躍的に発展しました。1910年に朝鮮全土で約1000万石程度だった米の生産高は1930年代には2000万石を越え、大豆と雑穀の生産高も
併合時より60%増えました。1931年に朝鮮総督となった宇垣一成は「朝鮮農山漁村振興運動」を展開し、朝鮮農民の意識を近代化に向けて大きく前進させました。1933年から38年にかけての農家収入は二倍に増えています。
 李氏朝鮮時代は劣悪な衛生環境のなかでしばしば10万人以上の死者を出す疫病が流行していました。西洋医学が普及しておらず、東洋医学のみに頼る状態でした。本格的に近代医療システムの導入が始まったのは併合後、朝鮮総督府が改善に取り組んでからです。京城大学附属病院、各道の慈恵病院が作られ、1910年には120万人に種痘が施されました。このような日本の努力の結果、朝鮮人の平均寿命は、1910年の25歳から1944年には45歳まで伸びました。日本が朝鮮人の寿命を伸ばし、命を救ったのが歴史的事実だったのです。

七、「資源を奪った」……
 韓国の中学校歴史教科書には「日帝は金、銀、タングステン、石炭など産業に必要な地下資源を略奪した」と書いてありますが、実際には朝鮮半島にそれほど魅力的な資源はありませんでした。石炭は無煙炭であり、オンドル部屋の暖房用練炭が主用途で、金、銀、タングステンなどは日本の会社が厖大な開発費を投じながら、結局大赤字でした。東南アジアから輸入したほうがよほど安上がりだったのです。収奪どころか、日本は逆に税金をつぎ込み、産業を育成
しました。大韓帝国が1906年に初めて作成した国家予算は748万円にすぎなかったのに対し、日本は1007年から1910年まで毎年2千万円から3千万円を補助しています。日本の国家予算の20%を越えたこともあります。併合後も毎年2千万円前後の資金を持ち出し、昭和14年になっても日本からの補充金と公債を合わせると全予算額の四分の一を占めていました。日本統治期間を通して日本政府が朝鮮半島につぎ込んだ金額は、累計で20億7千892万円、当時の一円が平均して現在の3万円とすると63兆円という天文学的な数字になります。また、大韓帝国時代から日本は鉄道建設に力を注ぎ、その総経費は現在の価値にして10兆円以上になります。民間資金もダム建設に投入され、有名な水豊ダムだけでもその額は現在の価値で3兆円近いものです。これによって生み出された豊富な電力を利用するために日本の多くの大企業が朝鮮北部に投資しました。
それによって朝鮮人の雇用を創出するとともに、付加価値の高い製品を日本へ移出することで朝鮮経済を豊かにしたのです。
 いまや韓国はG20に名を連ねる大国です。「日本への恨」を持ち続けて何の意味があるのでしょう。日本民族と韓民族が互いに誤解と偏見を克服し、それぞれの先人を誇りに思えるとき、初めて日韓間に互恵平等の関係が樹立できると思います。日の丸と太極旗が並び立ってアジアの繁栄と安定を築くことを願っています。

「この一冊で韓国問題まるわかり」 歴史通2014 5月号増刊から引用


松木國俊 元豊田通商ソウル事務所駐在員
1950年、熊本県生まれ。73年、慶応義塾大学法学部政治学科卒業。
同年、豊田通商株式会社入社。
80年~84年、豊田通商ソウル事務所駐在。秘書室次長、機械部次長を経て
2000年、豊田通商退社。01年、松木商事株式会社設立、代表取締役。現在に至る。
日本会議東京本部調布支部副支部長、
新しい歴史教科書をつくる会三多摩支部副支部長も務める。

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (23)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(23)日本官憲を代表して責を負う 平安南道「最後の知事」が残した回想録 2018.6.16

 人間の真価は、ギリギリの土壇場に追い込まれたときにこそ、問われるものであろう。とりわけ、国を背負って立つ政治家や高級官僚には「覚悟」が求められる。己の身をなげうって国を、国民を守り抜く覚悟があるのかどうか、だ。
 前の大戦末期には、その覚悟もないリーダーが、保身に走ったり、家族を先に逃がしたり、と醜悪な本性をさらけ出してしまった例が少なからずあった。
 一方で、“貧乏くじ”を承知で「死地」へと赴き、多数の住民を逃がした後に、凜(りん)として死んでいった最後の官選沖縄県知事、島田叡(あきら)のような人もいる。
 同時期に、日本統治時代最後の平安南道知事を務めた古川兼秀(かねひで)も、そんな覚悟を持った官僚ではなかったか。戦後、残された回想録にはソ連軍(当時)侵攻によって追い詰められた日本人を守ろうとして、あらゆる手段を繰り出した知事の苦闘が綴(つづ)られている。
 古川が平安南道知事に就任したのは終戦2カ月前の昭和20年6月。すでに敗色は濃厚であり、朝鮮北部の中心都市・平壌がある平安南道には不穏なムードが漂っていた。回想録にはこうある。《平安南道はキリスト教の本拠と言ってよい地方であって古くからその影響を受けて独立思想が激しい。しかも民族意識が強く凶暴性も秘めており大変だろうとは思った》
 実はこのとき、古川は殖産銀行理事や全羅南道知事になる可能性もあった。《もし家族の意見を聞けば、気候が良くて、内地(日本)にも近い全羅南道を希望したであろうが…、これが最後のご奉公である、とひとり深く期するところがあったのである》
 果たして、20年8月9日、ソ連軍は150万を超える大軍で、満州(現中国東北部)へ侵攻。南下を続け、24日には平壌へ先遣部隊が入ってくる。ソ連軍兵士や一部朝鮮人による非道な行為、国境からは満州の日本人避難民が雪崩を打って押し寄せ、平壌の混乱は頂点に達した。
◆幻の●晩植担ぎ出し
 この短期間で(ソ連参戦から終戦まで)古川は、何をやろうとしたか?
 第1に、平壌や周辺の日本人住民の生命・財産を守ること。そして、行政への朝鮮人有力者の登用。さらには満州からの避難民の引き受け、である。
 朝鮮人登用は敗戦後をもにらんで、スムーズに政権移譲を進め、日本人の生命・財産の保全を図るため、であった。古川は、そのターゲットを、抗日運動の中心人物だった民族主義者でキリスト者の●晩植(チョ・マンシク)に置く。軍部は反対したが、古川は「人心安定には不可欠」と軍を説得し、終戦間際から、●の担ぎ出し工作に取りかかる。
 《こういう事態にあっては、過去の経歴や現在の思想等(とう)を超越して、とにかく道内で最も信望のある朝鮮人の協力を求め、例えばその説話の形式でも民心宣撫(せんぶ)の工作を講じる…場合によってはこちら(日本人)が陰になっても構わない》
 「抗日」運動のリーダーであっても、行政の主導権を渡しても…それで日本人の安全が保障されるのであれば構わない、という捨て身の戦略である。
 だが、すでに日本の敗戦を見越していた●は、古川の誘いに乗らなかった。朝鮮人による建国準備委員会、人民政治委員会を結成し、11月には朝鮮民主党を結成して党委員長に就任。新生・朝鮮のリーダー候補とも目されたが、ソ連と対立し失脚してしまう。古川は共産主義者の玄俊赫(ヒョン・ジュンヒョク)とも秘密裏に接触するが、玄も暗殺されてしまった。

◆避難民は引き受けた
 一方、ソ連軍の侵攻を聞いて満州から南下してきた日本人避難民は増える一方だった。《8月12日に現地師団を通じて満州からの避難民を大量に引き受けてほしいとの申し出があり総督府に連絡したところ、「京城に収容能力がないから、平壌以北で引き受けてくれ、南下は困る。これは(日本陸軍の朝鮮)軍司令部とも打ち合わせ済みである」とのことであった》
 古川は怒り心頭に発したが、手をこまねいてはいられない。《私は義憤を感じ、平壌府民の同情心に訴えて受け入れることにした…当時平壌には3カ月分の食糧しかなく、越冬用の燃料も乏しかったが、朝鮮人有力者に依頼して、地方にある食糧や物資を搬入する努力をした。…平壌に3万人、(付近を走る)京義線沿線に1万人、(平壌南西の)鎮南浦に1万人、という受け入れ割り当てを決め、全部日本人家庭に入れることとした…》
 ソ連軍の平壌入城後の8月27日、行政権は、朝鮮人の人民政治委員会へと移譲される。占領下で命を失ったり、塗炭の苦しみを味わったりした朝鮮北部の日本人は数知れない。状況は、米軍占領下の南部よりもはるかに厳しかったが、古川がこれ以上、策を講じることはかなわなかった。9月7日、ソ連軍によって逮捕され、まもなくシベリアへ送られたからである。
以来、約5年間にわたって抑留生活が続く。実はこのとき、古川ら3人の幹部のみがシベリア行きの飛行機に乗せられたと思い込み、覚悟を決めた。回想録にはこうある。《私たちが日本官憲を代表して責を負い、(シベリアへ)送られたと思い、以(もっ)て瞑(めい)すべし、と考えていた》と。
 次男の武郎(たけお)(80)は思う。「父は、曲がったことが大嫌いだった。青雲の志を抱いて朝鮮へ渡り、私は、すごくいい政治をやったと思う。そして、最後までそれを貫いたんです」=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)
                   

【プロフィル】古川兼秀(ふるかわ・かねひで) 日本統治時代最後の平安南道知事(官選)。明治34年、会津の名刀鍛冶、古川兼定(かねさだ)の家に生まれる(12代兼定の次男)。旧制一高から東京帝大法学部卒、高等試験行政科に合格し、大正14年朝鮮総督府へ。黄海道、平安北道警察部長、総督府保安課長、図書課長、咸鏡北道、平安南道知事を歴任した。昭和20年8月、朝鮮へ侵攻してきたソ連軍に拘束され、シベリアに5年間抑留。昭和49年、73歳で死去。駐韓国大使を務めた前田利一(としかず)は女婿(長女の夫)にあたる。
●=恵の心を日に

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (22)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(22)まだまだある北の「日本遺産」 一企業がつくった興南工場 2018.6.9

 日窒(にっちつ)コンツェルンの野口遵(したがう)(1873~1944年)が昭和2年6月、朝鮮東海岸の興南に工場の建設を始めた頃、同地は20、30の家屋が点在する寒村だった。野口はここに化学肥料、金属、燃料、火薬、宝石などによる東洋一の化学コンビナートを建設。従業員約4万5千人、家族らを含めた総人口約18万人の近代都市を造り上げる。
 しかも、短期間でやり遂げねばならない理由があった。やはり、野口が進めた朝鮮北部の水力発電所群の大電力を消費するためには「セット」になる大工場群が不可欠となる。電力はためておくことができない。使い道がなければ“宝の持ち腐れ”になってしまうからだ。野口の回想だ。
 《赴戦江の発電所(昭和4年末第一期完工)が送電を始めるまでには何としてもここに工場を完成しなければならない。道路や鉄道の工事から始めなければならなかったのだが、冬の寒さの格別な北鮮で、昼夜兼行の大奮闘を続けたのである。昭和2年、工を起こしてから、わずか2年8カ月で…硫安の製造を始めることができた》(『今日を築くまで』から)
 ほぼ一私企業が造り上げた興南の近代都市ぶりを紹介してみたい。工場・住宅地などの敷地面積は、五百数十万坪。そこに、多数の従業員を住まわせる社宅、病院、学校、警察署、郵便局、図書館、運動・娯楽施設、供給所(スーパーマーケット)を造った。施設は、れんが造りで完全電化、水洗トイレ、蒸気によるスチーム暖房、朝鮮人従業員の社宅はオンドル(床暖房)を備えていた。
 「洋風の広い社宅はスチーム暖房で冬もポカポカ、お風呂には、いつも熱いお湯が流れ、電気炊飯器でご飯を炊いた。内地(日本)よりも、はるかにモダンで、いい生活でした」と元従業員の妻は懐かしむ。
隣接する興南港は、1万トン級の船舶数隻が停泊でき、約1万坪の大倉庫、50トンクレーンなどを備えた朝鮮屈指の良港になった。この港は後に、終戦直前に侵攻してきたソ連(当時)軍が“火事場泥棒”のごとく満州(現中国東北部)などから持ち去った日本の設備や機械類を運び去るのに、また、日本人をシベリアに抑留するのに、さらには、日本人が内地へ引き揚げるときにも使われ、明暗さまざまなドラマを目撃することとなる。
 ■徴用工に旅費まで支給
 昭和20年8月19日、ソ連軍は、朝鮮東海岸の元山に上陸、それを後ろ盾にして朝鮮人共産主義者らによる人民委員会が結成され、日鮮の立場が逆転する。殺害、暴行、略奪、レイプ…地獄のような行為が続くなかで、興南工場も接収され、日本人従業員は社宅から追い出された。
 こうした混乱の中でも律義な日本人は、朝鮮人徴用工に旅費まで渡して帰郷させている。ところが、不埒(ふらち)な朝鮮人警備係が旅費の一部を持ち逃げしてしまい、責任を問われた日本人の担当者は拘束され、やっと、自前で弁償して釈放されたという記録もあった。
 また、軍部などからは「敵に渡す前に工場を破壊せよ」という指示があったにもかかわらず、工場側は「われわれの事業は朝鮮に有益なものだ。戦争に負けても必ず必要とされる」と主張し、破壊しなかった。まさに“お人よし日本人”の面目躍如である。
 朝鮮人共産主義者の手に渡った興南工場はその後どうなったのか?
 5年後の朝鮮戦争(1950~53年)で工場設備の多くが破壊されたが、まもなく復興し、日本人がつくった水力発電所群とともに北朝鮮の化学工業発展の原動力となった。一部工場は、北朝鮮“自慢”の合成繊維「ビナロン(ビニロン)」工場になった。実際にはビナロンは戦前、京都帝大で朝鮮人と日本人研究者が共同で開発したものである。
現在、興南工場は「興南肥料連合企業所」として名前を変え、今も窒素肥料などを生産する主力工場であり続けているが、《1990年代の大規模な設備破壊と事実上の放置により、実際の生産能力は大幅に低いものと推定される》(韓国産業銀行統計)。
 ■日本時代の製鉄所や鉱山
 日本統治時代に朝鮮北部に建設され、戦後北朝鮮の鉱工業発展に寄与した施設は他にもたくさんある。
 現在も、同国最大の生産能力を誇る総合製鉄所「金策製鉄連合企業所」(東海岸の清津市)は、日本時代の日本製鉄清津製鉄所が母体だ。そこへ、鉄鉱石を供給する約100キロ離れた「茂山鉱山」は戦前、三菱鉱業が開発している。さらに、北朝鮮第2の製鉄所である「黄海製鉄連合企業所」や「城津製鋼連合企業所」も、日本時代の製鉄所から発展した。
 金山の開発も進んだ。朝鮮全土にある金山は、19世紀末の大韓帝国時代に、欧米人によって始まった。日韓併合後に朝鮮の産金額は順調に増加し、昭和14年には最高の約31トンを記録している。金産出には多量の電力が必要で、山深い金山まで送電線を張り巡らさねばならない。このため、朝鮮総督府は巨額の公債を発行して予算を付け、「産金送電線」と変電所を朝鮮各地に建設していった。その普及が、奥地の集落にまで電灯をともしてゆく。さらに、戦後、朝鮮戦争の勃発によって、北朝鮮から韓国への送電がストップされた際にも、韓国内の送電線ネットワークが最大限有効に機能し、電力危機緩和に貢献したという。
昭和40年の日韓国交正常化に向けた日韓会談の中で、当初韓国側は、日本統治時代に産出された金や銀の代金返還を請求権として求めた。だがそれは、日本人が資本、技術、労力を投入して開発し正当な取引としての商行為であり、不法に略奪したものではない。そして、日本時代の鉱工業開発が奥地にまで電気を普及させ、戦後の経済発展につながったことはいつの間にか忘れられている。
 他にも、銀、銅、石炭など日本統治時代に開発された北朝鮮の鉱山は今も多くが稼働中だ。だが、設備は老朽化に任せ、電力も決定的に不足し、稼働率は平均で30%程度だという。=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (21)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(21)日本人が築いた「電力遺産」を食い潰す北朝鮮 2018.6.2

 衛星写真で今の朝鮮半島をとらえたら、「真っ暗」な北朝鮮と「煌々(こうこう)と明るい」韓国の対比が、くっきりと表れる。
 2014年の発電設備容量は北朝鮮が約725万キロワットで韓国のわずか約7・8%でしかない(韓国産業銀行統計)。実際の総発電量で比べると、さらに減って韓国の4・3%(2013年)にとどまる。首都・平壌では多少の改善も伝えられるが、北朝鮮の電力不足は相変わらずのようだ。
 ところが、日本統治時代の朝鮮北部は“発電所銀座”とでも呼びたくなるほどの「電力王国」だった。大正末期以降、日本人は、人が容易に立ち入れない急峻(きゅうしゅん)な山地に奥深く分け入り、赴戦江、長津江、虚川江といった川に、次々と巨大な水力発電所を建設していったからである。
 中でも、満州国(現・中国東北部)と朝鮮の国境を流れる鴨緑江に水力発電用として建設された「水豊ダム」は、ケタ外れのスケールだった。高さ約106メートル、幅約900メートル、総貯水容量116億立方メートル、人造湖の表面積は、琵琶湖の約半分に相当した(※昭和38年完成の「黒部ダム」は、高さ186メートル、幅492メートル)。
 昭和16(1941)年から電力供給を始めた水力発電所の発電機は、1基あたりの出力が、世界最高(当時)の10万キロワット。それが最終的に7基(最大出力計70万キロワット)備えられ、朝鮮と満州国に供給された。
 水豊の巨大さは、当時の内地(日本)の水力発電所の規模と比べると、よく分かる。1発電所で出力が8万キロワットを超えるのは、信濃川(16・5万キロワット)▽千手(12万キロワット)▽奥泉(8・7万キロワット)▽黒部川第3(8・1万キロワット)の4カ所しかなかった。それが同時期の朝鮮では、水豊のほかにも、虚川江第一、長津江第一、赴戦江第一など6カ所も完成していたのである。
朝鮮北部の発電力は終戦時に計173万キロワット、工事中の発電所を加えると、300万キロワットを超える。発電コストは内地より安く、廉価な電力が、京城や平壌などの主要都市や、やはり朝鮮北部に建設された一大化学コンビナートの興南工場群に供給されていった。
 ■急伸した電灯普及率
 京城の電気事業は、日韓併合前の明治32(1899)年、李朝王家の保護下で米国人企業家がつくった漢城電気(後に韓美電気)によって営業がスタートしている。だが、高額の電気代に加えて設備費も徴収されたため、契約者は京城約5万戸のうち、わずか493戸にすぎなかった。
 経営不振の同社の電気事業を、日本資本の日韓瓦斯(ガス)電気(後に京城電気)が路面電車事業とともに買収し、一般家庭にも広く電気を普及させてゆく。
 昭和5年には京城とその周辺で、約9万5千戸、14年には約14万8千戸と急増。朝鮮全体では、16年度末の主要21都市の電灯普及率が66%に達し、全土でも17・4%になっている。3年度末の数値が6%だったことを考えると、13年間で電灯普及率が約3倍に伸びたことが分かる。
 もっとも、主要21都市の日本人家庭の普及率が、ほぼ100%だったのに対し、朝鮮人家庭は約23%にとどまっており、日鮮間に格差があったことも、否定はできないが…。
 朝鮮北部の「水力資源」に目をつけ、朝鮮総督府の認可を受けて、周囲には無謀とも思われた発電所群の建設に乗り出したのは日本の民間の経営者、技術者であった。日窒(にっちつ)コンツェルンの創始者、野口遵や、久保田豊、森田一雄といった先駆的な技術者たちである。
彼らの慧眼(けいがん)は“逆転の発想”というべきユニークなアイデアに表れていた。朝鮮北部の大河川は、おおむね西部に流れており、勾配が少なく、冬季には渇水が続く。このため水力発電には不適だと考えられていたのを、「西流する河川をせき止め、逆方向の東に向け日本海側へ落とす」という発想で、不可能と思われた巨大水力発電所を次々と建設していったのである。
 電力の用途も“逆転”だった。100万キロワット単位の電力は、当時の一般需要(昭和初期の朝鮮全土の電力需要は数万キロワット)をカバーしてあまりある。そこで野口は昭和2年、朝鮮窒素肥料会社を設立、電力の活用先として、先に触れた興南工場群を建設してゆく。《むしろ中心は大肥料工場の建設にあり、電力開発は、興南工場の付帯事業とすらいっても過言ではあるまい》(『野口遵』から)と。
 ■発電所は今も稼働中
 野口らが建設した水豊ダムの発電所は今も稼働中だ。現在の出力は80万キロワット、北朝鮮発電の「主力」である水力発電所の中でも最大を誇り、供給電力は中国と折半している。関係者によれば、発電機を製作した日本の重電メーカーが戦後も、保守・修理にあたっていたが、今は経済制裁のために、それも難しくなり、老朽化による稼働率の低下も見られるという。
 虚川江、長津江、赴戦江の発電所も「現役」だ。これら日本統治時代以外の水力発電所も、1960年代以前にソ連(当時)・東欧の支援で建設されたものが主で《設備は老朽化し、エネルギー管理技術も遅れている(略)1990年代半ばの大洪水により、水力発電設備の85%が損傷を受けたとみられる》(韓国産業銀行統計)という惨状だ。これでは北朝鮮が「電力遺産」を“食い潰している”といわれても仕方がない。
朝鮮に戸籍を移してまでその近代化に尽くした野口は昭和19年、70歳で亡くなる。死後、寄付した全財産は、生涯をささげた化学研究と、朝鮮留学生のための奨学金に充てられた。=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)
                   

【プロフィル】野口遵(のぐち・したがう) 明治6(1873)年、石川県出身。帝国大学工科大学(現・東京大工学部)卒。日本窒素肥料(同チッソ)を中核とする日窒コンツェルンを一代で築き、鮎川義介、森矗昶(のぶてる)とともに、財閥系ではない「財界の新三羽烏(がらす)」とうたわれる。朝鮮へ進出し、朝鮮北部(北朝鮮)の水力の電源開発や化学コンビナート・興南工場建設などに力を尽くした。同コンツェルンの系譜に連なる企業として旭化成、積水化学工業、信越化学工業などがある。

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (20)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(20)借金を返さない北朝鮮 理不尽なカネの要求は拒否すべし2018.5.26

 朝鮮半島の動きに関して日本の出遅れを懸念し前のめりになっている向きが気になって仕方がなかった。ここにきて米国側が6月の米朝首脳会談の中止を発表するなど不穏なムードも出てきたが、それまでは経済界でも日朝国交正常化をにらんで小泉純一郎首相(当時)が訪朝し、日朝平壌宣言に調印した平成14年以来の「好機が来た」と期待が膨らんでいたという。

 少し頭を冷やした方がいい。前回も書いたが、北朝鮮が先に過去の悪行を認めてわび、日本人拉致被害者を帰し、核開発を完全にやめ、改革開放経済にも舵(かじ)を切るというならば、南北統一も、日本との国交正常化もどんどん進めればいい。

 ただし、日本に対する「理不尽なカネの要求」には断固として拒否の姿勢を貫くべきだ。日朝平壌宣言には、国交正常化の際に経済的な支援を日本が行うことや、日朝双方の請求権の放棄方針などがうたわれている。昭和40年の日韓国交正常化の例を踏襲したものであろうが、慰安婦問題や徴用工問題をめぐって、いまだに「カネの要求」がやまないではないか。

 その轍(てつ)を踏まないために過去から現在の「事実」をしっかりと踏まえておくべきだろう。まずは現在の北朝鮮への「貸し」についての話から始めたい。

 戦後の日本の商社やメーカー側による、北朝鮮へのプラントや機械類の輸出は、1970年代後半にピークを迎える。だが、北が83年に起こしたラングーン(現ミャンマー・ヤンゴン)の爆破テロ事件で、国際社会から孤立を深めたことを逆手にとって、それ以来北朝鮮はビタ一文、支払いをしなくなった。

 関係者によれば、北の未払い額は、元本だけで約400億円。利子や延滞分を合わせると、計2200億円に上る、と日本側は試算している。日本の関係機関が毎年6月と12月末に、郵送とファクスで「請求書」を北側へ送り続けているが、返済どころか、受け取ったという返事すらなく、ナシの礫(つぶて)だという。
平成14年の際には、日本の経済支援として、1兆円規模という話もささやかれていた。もしも、国交正常化交渉を行い、政治決着を図るのならば、この「未払い分」相当の減額を考慮するよう日本側ははっきりと主張すべきだろう。

 ■久保田発言の意外な反応

 一方、韓国との国交正常化へ向けた交渉は何度も暗礁に乗り上げて中断を繰り返し、昭和40年に妥結するまで14年間もかかった。日韓双方の請求権問題。いわゆる「李承晩(イ・スンマン)ライン」内での日本漁船の拿捕(だほ)・漁民の抑留。北朝鮮への帰国事業など多くの課題が持ち上がったが、双方の対立は結局「日韓併合」に対する評価の違いに行き着く。

 第3次会談(昭和28年)での「久保田発言」は象徴的な例だろう。互いが相手側にある財産の請求権を主張し合う中で、日本側首席代表の久保田貫一郎(外務省参与)が朝鮮統治における日本の貢献を主張したことに対して、韓国側が「妄言だ」と猛反発、会談は決裂した。

 興味深いのは、当時の日本国内での反応である。“後ろから弾が飛んでくる”ような反発は、さほどなく、むしろ、韓国側への批判が少なくない。当時は終戦からまだ10年たっておらず、日本統治の実相を知る国民が多かった。さらに、韓国が日本の領土・竹島を含めた李ラインを一方的に設定した上、武装した韓国の警備艇が丸腰の日本漁船に銃撃を加えたり、片っ端から拿捕・抑留したりしたことに日本の世論は沸騰していたのである。

 朝日新聞の記事を追ってみよう。10月22日付朝刊社説は「遺憾なる日韓会談の決裂」の見出しで、決裂の経緯に触れた上、《(日本)政府声明にもある通り、韓国側の態度には、「ささ(些々)たる言辞をことさらに曲げ会談全般を一方的に破棄した」ものとみられる節があるのは誠に遺憾である》とし、会談再開で日本人漁民問題の解決を図ることこそが喫緊の課題だと主張している。
翌23日付朝刊では、「韓国のいい分は無理ではないか-財産請求権の問題」とする国際法の東大法学部助教授・高野雄一の寄稿も掲載。朝鮮内の日本資産について終戦後、米軍政が接収し、韓国に譲渡したという韓国側主張に対し国際法上、無理があるのではないか、と疑義を呈した。同じページで「右翼進出を憂(うれ)う」とした池島信平(文芸春秋編集長)の談話も載せているところが朝日らしいとはいえるが…。

 ■反日沸騰は80年代以降

 日韓会談に携わった関係者によれば、当時の韓国側代表には、日本留学組や京城帝大出身者も多く、一応通訳は同席させていたが、「日本語で話した方が早い。『慰安婦』など理不尽な問題を持ち出す人も少なかった」と振り返る。「反日」が韓国で沸騰するのは“日本発”の歴史教科書問題などが起きた1980年代以降である。

 日韓会談で、日本側がこだわった朝鮮に残した財産の請求権問題は結局、政治的判断で撤回された。だがもし日朝国交正常化交渉を始めるならば、日本統治時代に残した資産の事実は少なくとも念頭に置いておくべきだ。GHQ(連合国軍総司令部)の試算では、日本が朝鮮の北半分に残した総資産額(終戦時)は約8兆8千億円相当に上る。

 これらには、朝鮮北部の奥深い山に分け入り、ダムや発電所、鉱山、工場を築いていった日本人の血と汗が染みついている。それを次週に書く。=敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)

【用語解説】久保田発言
 昭和28年10月15日の第3次日韓会談の財産請求権委員会で、韓国側の「日本側が36年間の蓄積を返せというのならば、韓国側としても36年間の被害を償却せよというほかない」という発言に対し、日本側首席代表の久保田貫一郎が「日本としても朝鮮の鉄道や港をつくったり、農地を造成したりしたし、大蔵省は当時、多い年で2000万円も持ち出している」と主張。反発した韓国側が「あなたは日本人が来なければ韓国人は眠っていたという前提で話しているのか」と返すと、久保田は「私見としていうが、日本が行かなかったら中国かロシアが入っていたかもしれない」と発言した。

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(19)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(19)
イムジン河と北の国歌 「日本人は統一に反対」の嘘 2018.5.19

 「日本人はわれわれの統一に反対なんだろう」
 「えっ?」
 「だって、(南北統一で)強力なライバルが誕生すると困るじゃないか」
 韓国に住んでいるとき、よく、こんな話を韓国人から聞かされた。
 先月末に行われた約10年ぶりの南北首脳会談。北朝鮮の「悪行」を忘れたかのような友好ムードを演出し、今度こそ悲願の南北統一が実現する、ノーベル平和賞ではないか、と世界中、大盛り上がりである。
 ところが、ネット上では相変わらず、韓国から「日本は統一に反対!」の声が飛び交っている。曰(いわ)く、「核・ミサイルを持った統一朝鮮が怖い(非核化するのでは?)」「南北が敵対していた方が都合がいい」「統一のコストを日本が負担させられる」(これはあるかも)。世論調査などを見ていると、むしろ韓国の若い世代の方が統一に慎重な気がするのだが…。
もちろん、北朝鮮主導の赤化統一や在韓米軍撤退論、カネをめぐる理不尽な要求には断固反対すべきだ。ただ、基本的に統一によって東アジアが安定するのは日本の安全保障上も好ましい事態だし、北が“開かれた国”となって拉致被害者を帰し、改革開放経済の道を歩むのならば、多くの日本人は反対しないだろう。あるいは、さほど関心がないか、だ。
 心情的な面もある。南北分断が、米ソ(当時)の戦後戦略によって生まれたものとはいえ、日本が戦争に負けなければ、その後、分断のない形での独立になったかもしれない。分断の悲劇をわがことのように痛み、大衆運動や文化・芸術に込めてきた日本人はこれまでも星の数ほどいた。
■分断の悲劇痛む若者
 『イムジン河(がわ)』という名曲がある。半世紀前の昭和43(1968)年2月、加藤和彦、きたやまおさむ、はしだのりひこ、の「ザ・フォーク・クルセダーズ」がレコードを出そうとしたが、朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)の抗議で発売中止になった歌だ。
 イムジン河(臨津江)は北緯38度線を横切って「北」から「南」へ流れる川。その歌詞は、川の清流や水鳥に、引き裂かれた民衆の悲しみを託し、いつの日にか…と統一を願う内容だ。
 3番までの歌詞のうち、1番は、メンバーの友人だった松山猛(たけし)(71)が京都の朝鮮学校に通う友人の在日コリアンから教わったもの。2、3番は松山のオリジナルである。多感な若者がまさしく、わがことのように「分断の悲劇を思って」書いたのだ。
 ではなぜ、朝鮮総連が抗議したのか?
 この歌はもともと、北朝鮮で1957年につくられた。題名は「リムジン江(ガン)」(臨津江の北朝鮮風発音)。歌詞は、朴世永(パク・セヨン)(1902~89年)という南から北へ渡った有名な詩人が書いた。彼にとっては、(分断のために)今は帰ることができない懐かしい「故郷(南)」を思う歌だ。
だが、フォーク・クルセダーズのメンバーやレコード会社は“その出自”を詳しく知らず、レコード発売の際に「朝鮮民謡」とクレジットした。それを知った総連側が作詞作曲者名と北朝鮮の正式国名の2つをクレジットすることを求めて抗議。政治問題化を懸念したレコード会社と親会社の家電メーカーが発売中止を決めたのが真相である。
 朴が書いたオリジナルの歌詞は2番までだが、実は南北統一を願う「幻の3番」があったという。日本の「イムジン河」も長いオクラ入りから2000年代に復活。今や“アジアのイマジン”と呼ばれ、日朝韓の多くのアーティストによって歌われている。
■北朝鮮への巨額の“貸し”
 この歌の作詞者・朴世永が、北朝鮮の国歌である「愛国歌」(1947年、作曲は金元均)の作者でもあることは日本ではあまり知られていない。
 朴は、日本統治時代の京城(現・韓国ソウル)で育ち、左派色が強い「朝鮮プロレタリア芸術家同盟」に参加、終戦後の46年に越北し、北朝鮮の文学家同盟書記長などの要職についた大物作家だ。「愛国歌」や「リムジン江」のほか、国歌の座を争った「輝く祖国」「椿の花」など、作詞した歌は数え切れない。
 「リムジン江」だけでなく、朴の書く歌詞には、南の故郷や残してきた母親への強い思いがにじんでいる。同曲の作曲者である高宗煥(コ・ジョンファン)(1930~2002年)もまた南から北へ渡った人だった。その制作秘話を「(朴世永先生と)いつしか故郷(南)の話になり、残してきた家族への思いを、リムジン江に託して歌を作ろうということになったのです」と関係者に打ち明けている。
朴が書いた北の国歌には、時代が早い(終戦後2年)こともあって、北の歌に多い金一族を賛美するような内容にはなっていない。朝鮮の美しい山河や歴史をたたえる歌詞だ。
 韓国にも「国歌」と位置づけられる別の「愛国歌」があり、南北統一の暁には、韓国とともに、新たな「国歌」を作ろうと願う人たちがいることは、以前書いた通りである。
 北朝鮮が過去の悪行をわび、本当に非核化を行うのであれば、南北統一に反対する理由などない。あるとすれば、統一を望まない勢力によるためにするウソであろう。「リムジン江」を書いた泉下の朴世永も、「イムジン河」を歌う多くのアーティストたちも同じ思いに違いない。
 ただし、“バスに乗り遅れるな”とばかりに日朝首脳会談や国交正常化を急がせる動きは要警戒だ。拉致問題など北朝鮮に解決してもらわねばならない課題が山積していることに加えて、日本統治時代などに巨額な“貸し”がある。そのことは次週に書きたい。=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(18)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(18)
 キリスト教と音楽家の平壌 金日成や永田絃次郎の足跡 2018.5.12

 北朝鮮の首都・平壌の牡丹峰地区に、パリの凱旋門よりも10m高いのが自慢の巨大なモニュメントがそびえ立っている。「1945」の数字は、初代最高権力者・金日成がこの街へ凱旋してきた年を指す。
 終戦の年の10月14日、金が初めて朝鮮の民衆の前に姿を見せたことは以前(11回)書いた。その場所がこの近くにあった平壌府の総合運動場で、「実際に金の演説を聴いた」という男性(88)がいる。当時は平壌の旧制中学3年生、15歳の朝鮮大少年たった。
 「朝鮮人の住民組織から呼集がかかったんですよ。『キムーイルソン将軍の凱旋演説会』が行われるから皆、参加するようにとね。運動場には公設プールがあってよく水泳を習いに行った場所だった。会場には、
数千人から1万人近い聴衆が集まっていたかな」
 聴衆は、伝説の抗日将軍「キムーイルソン」の登場を心待ちにしていた。ところが演壇に上がっだのは、30歳そこそこの若い男。 
「トヨーハダ」。平壌がある平安道の方言で、おかしいぞ、というささやきが聴衆から漏れたかと思うと(次第に会場はざわつきはじめ、「カチヤ(偽物)ヤ」の叫び声が・・・  「(金日成は)日帝の支配からの解放や新たな国づくり、ソ連(当時)軍の功績などについて話したと記憶しているが、どうみても若すぎるって周囲の大人らが騒ぎ出したんだ」
■「芸術好き」金一族
 平壌は、李朝時代から政治・経済の中心都市だった京城(旧漢城)とはいっぶう違った文化を持つ街だった。李朝末期の19世紀からキリスト教が浸透し、欧米の宣教師によって多くの教会やミッションスクールが
つくられ。”東洋のエルサレム”と呼ばれたことも。平壌生まれの金日成の母親もキリスト教徒で、その父親(金日成の母方祖父)は、プロテスタント長老派の牧師だったという。
 その長老派が、1897年に平壌につくった「崇実(スンシル)学堂」という学校がある。後に、中学校、専門学校(ともに旧制)へと発展、有能な多くの朝鮮人の若者を送り出すことになるが、とりわけ、音楽分野には逸材が多い。韓国の「国歌」と位置づけられる愛国歌を作曲した安益泰は、大正7年に崇実中学に入学、3年後に東京の正則中学に移っている。さらには、韓国初となる高麗交響楽団の創殼者、玄済明や平壌交響楽団の前身・中央交響楽団をつくった金東振。
 そして、「日本一の美声」とうたわれたテノール歌手の永田絃次郎(本名・金永吉、1909~85年)も崇実の出身だ。永田は昭和3年、内地の陸軍戸山学校音楽隊の軍楽生徒として入学。首席の”銀時計組”で卒業した後、11年、オペラ・蝶々夫人でソプラノ・三浦環の相手役(ピンカートン役)に抜擢された。戦後は藤原歌劇団などで活躍し、35年、帰国事業で北朝鮮へ渡っている。このとき、帰国事業の「広告塔」として、永田に目をつけたのが、”同郷・同世代”の金目成だった。
 実は、金の一族は3代にわたって「芸術好き」である。孫の朝鮮労働党委員長・金正恩が平昌五輪を利用して、芸術団を派遣したことは記憶に新しいが、祖父は北朝鮮建国直後から「世界一流の音楽家を集めよ」
と大号令をかけ、国立の交響楽団・合唱団をいち早くつくっている。その長男・金正日も、映画や音楽、演劇に入れ込み、妻たちは女優や舞踊家だった。
 永田にあこがれ、平壌から後を追うように日本に渡ってきたのが、紅白歌合戦に3度出場した人気歌手の小畑実(1923~79年、本名・康永詰)である。苦労を重ねた末、小畑は「湯島の白梅」「勘太郎月夜唄」などのヒット曲を次々に飛ばし、スターの座に駆け上がってゆく。
■和風の家にオンドルも
 日本人にとって平壌はどんな街だったのか。日本統治時代末期の昭和17年の人口統計によれば、平壌府の大口約39万のうち、日本人は約3万2千人。
 祖父の代に朝鮮へ移り住んだ大潭昭夫(87)は6年、平壌生まれ。終戦時は平壌一中(旧制)の3年生、同級生には、陸軍中将の息子や父親が高級官吏である朝鮮人もいた。自宅は和風で畳だが、朝鮮風のオンドル(床暖房)の部屋もあった。冬になるとスケートを楽しみ、凍った大同江(平壌の中心を流れる川)を滑ってゆくと中学まで5分で行けたという。
 「自宅のすぐ近くが朝鮮人の集落でよく一緒に遊んだ。とにかく”同じ日本人”という感覚しかないんだなあ。隣の病院の女医さんも朝鮮人でキレイな人だった。向かいは、おいしい平壌冷麺の名店でしたね」
 戦争が始まると、中学生も空襲警報などの連絡要員などとして動員され、大澤は「賑町」という遊郭がある地域の担当となった。
 「朝鮮人や日本人の娼妓がいて、よくお茶を飲みにいって、お喋りしましたよ。みんな明るくてね」
 思い出の中には、朝鮮人と反目したり、ましてや「少女を強制連行して慰安婦にした」などという行為はまるで出てこない。
 後年、大洋が観光ツアーで平壌を再訪したとき、懐かしい街はすっかり様変わりしていた。そこで不思議な出来事に巡り会う。「われわれのグループが食事中、ひとりの女性に、よど号乗っ取り事件の犯人と名乗る男が接触しできた。
 『子供を日本へ帰したいので身元引受人になってもらえないか』という。怖くなってテーブルから離れましたけどね…」
 空港から市内へ向かう道ではあの巨大なモニュメントを通った。ガイドは、「金日成将軍様が凱旋されたところに建てられたものです」と恭しく説明したという。川敬称略、土曜掲載
  (文化部編集委員 喜多由浩)

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【歴史戦・第20部 孔子学院(1)】

【歴史戦・第20部 孔子学院(1)】
「文化スパイ機関」発言で解任 「中国」を発信 日本には14私大 管轄あいまい「あまりに無防備」2018.4.11 

 世界遺産に登録されている京都・金閣寺から十数分歩くと、閑静な地域の一角に白い大きな建物が姿を現す。戦争や平和をテーマにした展示をしている「立命館大学国際平和ミュージアム」だ。2階に上がると、「立命館孔子学院」の看板が目に入る。
 室内には赤提灯(ちょうちん)など中国の伝統的な装飾が施され、壁には平成19年に中国の前首相、温家宝が立命館大を訪れた際の写真パネルも掲示されている。
 「ご自由にお持ち帰りください」との案内とともに、中国共産党の機関紙「人民日報」(海外版)の束が置かれている。
 孔子学院は中国語と中国文化教育を世界に普及することを目的として、中国政府が海外の教育機関内に設置している非営利教育機構で、16年に始まった。
 中国では1970年代前半、文化大革命中の「批林批孔(林彪と孔子を批判する)」運動で、孔子を始祖とする儒教は大打撃を受けた。最近では中国文化のシンボルとして利用しており、学院にも「孔子」の名前を冠したとみられる。
設置には、日本の大学を運営する学校法人と中国教育省傘下の国家漢語国際推進指導小組弁公室(漢弁)との調印が必要で、日本の学校法人とパートナーとなる中国側の大学との共同運営の形を取る。カリキュラムや教材は孔子学院が提供し、資金は中国政府と日本の学校法人が折半するのが原則という。
 講師は中国の大学から派遣され、講師の給与は漢弁が支給する。中国の大学への留学支援のための奨学金制度もある。
× × ×
 現在、日本には14の私大で「孔子学院」が設置され、小中高などには「孔子課堂」「孔子学堂」が8カ所ある。
 日本の「第一号」にあたる「立命館孔子学院」は、学校法人立命館と北京大の共同運営で17年10月に設置された。地域貢献、国際交流、国際相互理解への寄与を目的とし、約300人が中国語などを学ぶために通っている。
 学院長の宇野木洋は「孔子学院を中国の出先機関と見る方もいると思う。しかし、僕らは中国とは切っても切れない関係の中で、相互関係は絶対に必要だと考えている」と語る。
 それでも、孔子学院に対しては中国共産党思想の政治宣伝や中国政府のスパイ活動に利用されているとの指摘は絶えない。米連邦捜査局(FBI)長官、クリストファー・レイは2月の上院情報特別委員会で、孔子学院が「捜査対象」になっていることを明かした。
日本でも22年に大阪産業大の当時の事務局長が組合との団体交渉で孔子学院について「(中国の)文化スパイ機関」と発言し、職を辞す事態となった。
 元事務局長は産経新聞の取材に「インフォーマルな組合の話し合いの時に、孔子学院に関してインターネットなどで流布されていたことを話したら騒がれた」と語った。役職だけでなく、大学まで追われることになったため、元事務局長は大学側を提訴、裁判は和解となった。元事務局長は「(当時)言った通りのことにはなっている」と語った。
 大阪産業大は元事務局長の解任の理由について「(他にもいろいろあったと思う」とだけ語り、詳細は明かさなかった。
× × ×
 日本にある孔子学院はどのような活動をしているのか。学院関係者は「学生や地域住民を対象に中国語教室を中心としたカルチャースクールのようなもの」と口をそろえて説明する。
 中国語のほか太極拳、書道、ギョーザやちまきといった中国の家庭料理などを教えている。
 昨年1年間をみても、春節を記念した「針灸特別講座」(神戸東洋医療学院孔子課堂)、「日中キッズふれあいコーナー」(福山大学孔子学院)、「全日本青少年中国語カラオケコンテスト」(桜美林大学孔子学院が上海外国語大学で主催)などのイベントが開催された。
10月には大阪市で、「2017年度日本孔子学院協議会」が開催され、在日中国大使館の公使参事官、胡志平が2018年の日中平和友好条約締結40周年をとらえた孔子学院の発展に向けた大使館からの協力について述べた。
 仮に孔子学院の狙いがカルチャースクールのようなものだったら、教育機関との共同運営といった仕掛けは大規模すぎる。
 岡山商科大孔子学院(岡山)の学院長、蒲和重は、「(パートナー校の)大連外大は優秀な生徒を派遣してくれる。それなら、関係を保つためにも、開設していた方がいい」と説明する。
 日本国内では18歳人口が減少して大学進学者が減っていく「2018年問題」に直面している。中国からの学生派遣や資金提供は大学にとって運営上プラスになっている面もある。孔子学院を設置したある大学の担当者も「一番のメリットは、中国の学生の受け入れだ」ともらす。
 日本の孔子学院は現在のところ閉鎖の動きはないが、過去には平成26年に福山銀河孔子学堂(広島)が閉鎖した。運営していた銀河学院(同)の関係者は「ニーズがなく、希望者が少なかった。中国からの補助も出ていたが、わずかなもので、ほとんどこちらの持ち出しだった」と語る。
中国の文化を普及し、相互理解を深めることを目的としている孔子学院だが、中国公船や航空機は尖閣諸島(沖縄県石垣市)周辺の接続水域や、防空識別圏への侵入を繰り返している。
 「立命館孔子学院」の学院長、宇野木洋は「そういうことを打破し、等身大の中国人を理解する意味での相互理解を深める必要がある。その役割を孔子学院は果たせると思っている」と強調した。
× × ×
 日本ではどの省庁が「孔子学院」を管轄しているのか。文科省国際企画室によると、孔子学院は大学間での取り組みであり、設置や認可の届け出は必要ではないという。
 文科省で所管する部署を問い合わせたが、電話をたらい回しされるだけだった。文科省だけでなく外務省にも問い合わせたが、所管部署はなかった。
 自民党衆院議員、杉田水脈は2月26日の衆院予算委員会分科会で、日本国内での孔子学院の設置数を質問した。
 文部科学省高等教育局長の義本博司が答弁した。
 「孔子学院のホームページおよび日本孔子学院協議会の本年度の幹事校、関西外語大のホームページによると、平成29年12月31日現在、日本には14校の孔子学院があるとされているところでございます」
杉田は「ホームページによるという答弁だったが、(文部科学省からの事前説明で)きちっと把握をしている部署がないということだった。あまりにも無防備である。文部科学省でしっかりと対応してほしい」と苦言を呈した。
× × ×
 2004(平成16)年から始まった孔子学院(孔子課堂も含む)は昨年末の段階で、世界138カ国(地域)に約1600カ所の拠点を置くようになった。最も多いのが米州で735拠点、このうち米国には611拠点がある。次いで欧州480拠点、アジア219拠点、大洋州120拠点と続く。
 中国当局は普及を急ぐため、時間がかかる政府間協定ではなく、自由裁量で開設できる「大学間協力」という方式を採用している。
 外国人の中国語教師育成にも力を入れており、大学卒業後、3年間は海外で中国語教師として働くことを条件に、奨学金などを提供している。こうした好条件に各地の若者が飛びつき、5年間で約1万人の教師を輩出している。
 ある公安関係者は「多くの国が孔子学院に対する懸念を共有しているが、効果的な対策を取れていないのが現状だ」ともらす。

 中国の経済力増大とともに、世界各地に影響力を及ぼすための手段として増え続けている孔子学院。一方で欧米などでは警戒感も急速に広まっている。各地の状況を報告する。(敬称略)

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【歴史戦・第20部 孔子学院(2)】

【歴史戦・第20部 孔子学院(2)】
欧州の沿線国で関連行事急増 一帯一路に「奉仕」求められ 2018.4.12

 昨年12月12、13の両日、中国の古都・西安で「第12回孔子学院大会」が開かれた。13日の中国共産党機関紙、人民日報のウェブサイトによると、「協力を強め、イノベーションによる成長を促し、人類の運命共同体の構築に貢献する」をテーマとした大会には、世界約140カ国・地域の大学学長や孔子学院代表ら2500人近くが出席した。
 挨拶に立ったのは、孔子学院本部理事会主席を務めていた副首相(当時)の劉延東。孔子学院について「言語交流を紐帯(ちゅうたい)として親善増進の懸け橋、協力・ウィンウィンの推進装置となるべく努力する必要がある」と語り、「人類運命共同体の構築に新たな貢献を」と呼びかけたという。
 中国政府は、「人類運命共同体」と国家主席、習近平が提唱する広域経済圏構想「一帯一路」を重ね合わせる。中国の影響力や思想を世界に広げるための機関と位置付けられる孔子学院は、その最前線で「一帯一路」への“奉仕”を求められている。
 日本では北海道・釧路で孔子学院設置の動きがあった。「一帯一路」構想の一環として北極海航路の活用を検討するなかで、釧路港に注目しているとみられる。平成26(2014)年3月には札幌大学孔子学院の院長らを講師として、釧路で短期中国語・中国文化集中講座が開催された。
ある国の情報機関の調べによると、孔子学院側が世界各地で「一帯一路」を推進する目的で開催した行事は、把握できているだけで2015年に7だったが、17年には37にまで増えた。孔子学院のある地域と「一帯一路」を関連付けたシンポジウムや講演会が中心となっている。
 特に目を引くのは、37の行事のうち21が欧州で開催されたことだ。
 セルビアでは中国語を勉強する小学生や大学生ら約100人による「『一帯一路』・私と中国語の物語」作文コンクールがあった。
 なかでもマケドニアの聖シリル・メソディウス大学孔子学院は、2月に講演会「マケドニアの『一帯一路』構想と16+1協力における関係と発展」を開き、10月にも「中国-中東欧フォーラム 『一帯一路』構想における人的資本の作用」を開催した。ポーランドでも2回、クラクフ大学孔子学院で一帯一路に関する行事が開かれた。
 3カ国は「一帯一路」構想の「沿線国」。中国は旧ソ連崩壊後、疎遠になっていた中東欧諸国との経済関係を強化するため「16プラス1協力」の枠組みで、2012年から毎年首脳会議を開いている。
 ボスニア・ヘルツェゴビナでは18年1月にバニャルカ大学で2つ目の孔子学院が設置されており、中国がこの地域を重視していることは明らかだ。
■独首相お膝元で一致した思惑
 バルト海に面するドイツ北東部シュトラールズントは、中心部一帯が世界文化遺産に登録された街だ。石畳の通りを進むと、中世に歴史を遡(さかのぼ)る巨大なレンガ造りの市庁舎や教会が威容を誇る。「孔子学院」が入居するのは広場を挟んだ向かいの建物で、目立たない造りだが、観光スポットである市内の「一等地」だ。
 「私の地元に学院ができてうれしい。学院は両国民の交流と理解の促進に貢献できる」
 2016年8月末、開設式に出席した地元選出の独首相、アンゲラ・メルケルは挨拶で歓迎の意を示すとともに、こうも述べた。
 「学院は中国の伝統医学を紹介する点でも重要だ」
 シュトラールズントの学院は言語や文化とともに、「世界3カ所」(地元紙)しかない中国医学にも重点を置いた施設だ。実現の中心役は大学元学長で学院運営協会会長のファクル・ヘーン。長年かけて築いた中国との関係を生かし、メルケルの15年の訪中を好機に設立契約の署名にこぎ着けた。
 背景にはドイツ統一後、旧西側との経済格差が残る旧東側の事情もある。ヘーンは当時、学院設置に伴う「国際化」により、若者の流出で難しくなる学生確保を図り、中国医学を中心とした健康増進の「ヘルスツーリズム」を季節変動が大きい主要産業の観光の新たな柱にしようと考えた。
 大学と別に設置された学院は今、地域の学校にも中国語を教え、イベントや地元医療機関との協力を通じて中国医学の普及も図る。ヘーンは「今のところ活動は成功だ」と語る。
大学周辺で市民にたずねると、孔子学院の認知度は高いとはまだいえないが、イベントなどで協力もする隣の薬局の男性店長は「一歩一歩だ。期待はとても大きい」と語る。
 市長のアレクサンダー・バドロウも「1年で文化的豊かさをもたらした。ヘルスツーリズムは大きなチャンス」と評する。
>× × ×
 孔子学院本部のホームページによると、ロシアを含む欧州の学院数(孔子課堂は除く)は約170カ所。英国(23カ所)、ドイツ(19カ所)をはじめ各国をほぼ網羅する。中国の台頭ぶりを示すが、一方でその動きは警戒も生む。
 「独裁主義者の進行」
 ドイツのシンクタンク「国際公共政策研究所」と「メルカトル中国問題研究所」は2月、こんな表題の下、政治的な影響力の拡大のため、さまざまなレベルで行われる中国の試みに焦点をあてた報告書を発表した。
 報告書はその舞台を(1)政策決定を担う政治・経済エリート(2)メディア(3)市民社会と学術界-に分類。中国と関係を持つシンクタンクや留学生・学者団体などと並び、孔子学院は市民社会・学術界に働きかける手段の一つとの位置づけだ。
 共同執筆者の一人、メルカトル研究所のルクレチア・ポゲッティはその役割について「学術的議論に影響を与え、中国政府に不快な問題の議論を制限する」ことと指摘する。
英国のブリティッシュ・カウンシルやドイツのゲーテ・インスティトゥートなどの国際交流機関とは「独裁主義国家の指示や資金を受ける点で大きく違う」とした。
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 懸念を裏付ける動きはある。14年7月、ポルトガルで孔子学院も関わり、中国に関する学会が開かれた際、訪問した学院本部トップが、冊子に掲載された台湾の学術交流基金の紹介に反発した。
 スウェーデンのストックホルム大学は15年、欧州初だった学院を閉鎖した。大学幹部は当時、「他国の資金を受ける機関を大学内に設けるのは問題だ」と現地紙に語った。
 欧州は今、メディアを通じた偽情報の拡散など、ロシアが欧州に影響を及ぼそうと仕掛ける「ハイブリッド戦争」に直面するが、ポゲッティは「ロシアはやり方が破壊的で目標も短期的。中国は責任あるグローバル・プレーヤーとみなされたいため、戦略は長期的で、ソフトな手法をとっている」と分析する。
 欧州では現時点で孔子学院に対し、米国ほどの反発は起きていない。だが、学院が中国政府の影響下にあるとの認識は関係者に広がっている。
 ポゲッティは孔子学院などを通じた中国の影響力増大への対処にも欧州連合(EU)の連携は重要とし、「中国国家に付随する機関が介入しようとする試みに関し、加盟国間で情報を共有することも手段だ」と述べた。(敬称略)

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【歴史戦・第20部 孔子学院(3)】

【歴史戦・第20部 孔子学院(3)】
「豪州学術界へのマルウエア」 多額援助に中国人留学生… 2018.4.13

 1850年に創立されたオーストラリア最古のシドニー大学は名門8大学の連盟「Go8」に属している。歴史を感じさせる石造りの建物が並ぶキャンパスの一角に、まだ新しそうな孔子の石像が立っていた。2008年に学内に設立された「孔子学院」の象徴だ。
 学院のサイトによると、16年度に中国語の授業に600人を募集した。中国語や文化講習だけでなく学外での催事にも取り組み、11年10月には上海・交通大学からカナダ出身の教授を招いて「儒教の観点から見た中国の政治的正統性」と題する公開講座も行っている。
 学院事務局を訪れると、院長の金杏は名刺交換に応じずに、流暢(りゅうちょう)な北京語と英語で「とても忙しい」「最近は取材依頼が多いが、応じていない」などと取材を拒否した。学院理事への取材要請も「みんな国外にいる」と応じず、「そんなに孔子学院のことが知りたければ、日本にもあるので、そちらを取材したらどうか」とかわした。
 なぜ、取材に応じようとしないのか。背景には、豪州社会で中国に対する警戒感が強まっていることがある。孔子学院を含む学術界もその対象の一つだ。
 豪州全土の大学41校のうち孔子学院が設立されている大学は14校に上り、うち6カ所はシドニー大学を含む名門8校の中にある。
豪州の政界や学術界への中国の浸透について、警鐘を鳴らす豪チャールズ・スタート大学教授のクライブ・ハミルトンは今年2月に出版した著作『サイレント・インベージョン(静かなる侵略)』で、孔子学院のことをこう記した。
 「学術界へのマルウエア(悪意のあるソフト)」
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 ハミルトンは著作で、シドニー大学孔子学院の理事、祝敏申に注目した。上海生まれで豪州国籍を持つ祝は1996年、シドニーで親中派の中国語紙「オーストラリア時報」を設立した。法輪功など「反中勢力」を批判し、2008年には、北京五輪の聖火リレーをチベット独立派らから守る中国人留学生の動員に資金提供もした。
 14年3月には中国の国政助言機関、全国政治協商会議(政協)の定例会議に招待されて出席した。南シナ海問題で中国寄りの発言をするなどして今年1月に辞任に追い込まれた野党、労働党の上院議員、サム・ダスティアリに政治献金も行っていた。
 ハミルトンは産経新聞の取材に、孔子学院は中国共産党に対する批判を許さないが、「それを検閲する方法は極めて巧妙だ」と指摘する。
 中国が嫌がる人権問題などを取り上げないよう直接要求するのではなく、多額の資金提供を行い、豪州側に「忖度(そんたく)させる」というのだ。しかも孔子学院を置く大学当局は5カ年の協定を孔子学院本部と締結するが、協定は大学の教員にも公開されていないという。
 産経新聞は事実関係の確認と協定の開示をシドニー大学に求めたものの、12日までに回答はなかった。
シドニー大学では17年8月、インド系の講師が、中国が領有を主張する地域をインド側に含めた地図を使ったとして、中国人留学生の集団から謝罪を求められた。大学当局は講師を批判し謝罪した。
 大学は同月末には、上海・交通大学と共同プロジェクトへの資金拠出を含む「戦略的パートナー」締結を発表した。学長のマイケル・スペンスは、ターンブル政権が進める外国からの諜報監視強化にも「中国恐怖症的な無駄口を止めよ」と反対している。
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 豪州の大学における中国の影響は孔子学院にとどまらない。豪州の教育・訓練省の統計によると、17年の海外からの留学生62万人のうち、中国人は約18万5千人と全体の約30%で首位を占める。
 留学生が豪州経済にもたらす価値は286億豪ドル(約2兆3千億円)で、豪州の「輸出」項目の3位に相当し、13万人の雇用を生み出している。その3割が中国人に握られている計算になる。
 防衛大学校教授の福嶋輝彦(オセアニア地域研究)によると、奨学制度で学費の支払い猶予がある豪州人と異なり、現金で学費を支払う中国人留学生は「大学にとって大きな収入源になっている」という。
 ハミルトンは「豪州の大学が学内に孔子学院を置き続けるのは、中国の資金の影響を受けているからだ。完全に北京になびき、学問の自由を損なっている大学もある。金銭の力に屈し、いま起きていることに目をつぶっている」とため息をついた。(敬称略)

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【歴史戦・第20部 孔子学院(4)】

【歴史戦・第20部 孔子学院(4)】
「中国政府と共犯だ」米で警戒拡大、関係見直す動き 2018.4.14

 米南部ケンタッキー州の人口約6万5000人の都市、ボーリンググリーンの市内を見下ろす丘の上にウェスタンケンタッキー大学(WKU)はある。キャンパスの一角に昨年5月、「WKU孔子学院」の建物が完成した。
 約750平方メートルのレンガ模様の平屋建てで、隣には庭園も造られた。総工費約300万ドル(約3億1千万円)は、中国教育省傘下の国家漢語国際推進指導小組弁公室(漢弁)と大学側で折半した。開設式典には中国の孔子学院本部の幹部も出席した。
 中に入ると、ホテルのロビーのような趣で、上海から直輸入した中国様式の家具や調度品が飾られる。20-30人収容可能な教室が4つあり、システムキッチンも完備している。
 「全世界に500以上ある孔子学院の中で、トップ15のモデル校に選ばれた」
 院長を務める潘偉平は誇らしげにこう語った。
 WKU孔子学院は2010年に開設された。地域の中国語教育に力を入れたい大学側の協力と、漢弁からの潤沢な資金提供を受け、順調に規模を広げてきた。
 その一例が、漢弁が推進する地域の小、中、高校などへの中国語教員の派遣だ。初年度の派遣数は11人だったが、今年は47校に52人を派遣する。学院職員のテリル・マーティンは「教員を新たに雇うと、福利厚生を含めて年間約6万ドルかかるが、孔子学院の教員の場合、学校側の負担は4分の1以下になる。手頃で質の高いプログラムは好評だ」と話した。
図書館棟には「中国文化展示センター」が併設され、孔子像や兵馬俑を見学できるなど大学内での孔子学院の存在感は際立つ。
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 米国には世界で最も多い約110の孔子学院が存在するが、中国政府の「プロパガンダ機関」と化しているとの批判は強い。論争は米政界にも発展した。
 「中国はよく仕組まれた長期戦略により、米国に取って変わって、世界で最も力強く影響力のある国家になろうとしている」
 2月13日の上院情報特別委員会公聴会で、共和党上院議員マルコ・ルビオは、こう切り出した。ルビオは学院が中国に有利な世論形成や歴史教育を行っているとして「(中国政府の)共犯だ」と言い切った。
 答弁した米連邦捜査局(FBI)長官、クリストファー・レイも「孔子学院への懸念はわれわれも共有しており、注意深くみている」と同調した。レイは、中国が学生や教授らを情報収集員として使い、「米国の開かれた研究機関を悪用している」と批判した。
ルビオは3月21日に孔子学院を念頭に、外国代理人登録法(FARA)に基づく登録を義務付け、監視の強化を目指す法案を共同で提出した。孔子学院がスパイ活動や「親中派」の育成の場としても使われているのではないかとの疑念は強まる一方だ。
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 ルビオは2月5日、地元フロリダ州で、孔子学院がある5つの大学などに契約を打ち切るよう要請。ウエストフロリダ大学が契約を更新しない方針を明らかにした。テキサス州でも民主、共和両党の下院議員が声を上げ、テキサスA&M大学が契約打ち切りを発表するなど、大学側にも関係を見直す動きが出始めた。
 これまでも中国共産党がタブーとする政治テーマを扱わないなどの問題が取り沙汰され、米大学教授協会は04年、孔子学院が「学問の自由」を脅かしているとして各大学に関係断絶を勧告した。シカゴ大など一部で廃止が決まったが、多くの大学で存在したままだ。
 シカゴ大学名誉教授、マーシャル・サーリンズは00年以降の州政府などによる大学予算の削減と、中国留学生の増加が背景にあると説明する。そのうえで「経営が厳しい大学にとって、中国人留学生の学費は貴重な収入源だ。孔子学院を拒否して、中国政府の機嫌を損ないたくない」と話す。
昨年末には、米シンクタンク「全米民主主義基金」が、世論操作する中国の強引な対外戦略を「シャープパワー」と命名した。約10年前にペンシルベニア大学で孔子学院設立に反対した教授のビクター・メアは「中国の帝国主義」への警戒は強まっており、「政治家の発信などで形勢は変わりつつある」と分析する。
 ただ同時に、メアは「あらゆる手段で大学に近づく中国の意思は固く、巧みであり、手ごわい」とも語る。拡大路線を掲げる孔子学院への対策は、緒についたばかりだ。(敬称略)
=第20部おわり

 この連載は有元隆志、今仲信博、上塚真由、田北真樹子、田中靖人、宮下日出男が担当しました。

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (17)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(17)京城はなぜ100万都市に 「泥濘」から発展した日本人街 2018.5.6

 韓国の首都ソウルは人口約1千万人、政治・経済の中心、文化・情報の先端。今やアジアのみならず世界の主要都市のひとつだ。この街は、14世紀末以来、李朝の都(漢城)として500年。日本統治時代(1910~45年)は「京城(けいじょう)」と呼ばれ、近代的な都市として発展し、人口(京城府)は終戦前ですでに100万人を超えていた。
 京城帝国大教授として、約15年間暮らした哲学者の安倍能成(よししげ)(1883~1966年、後に旧制一高校長、文相、学習院院長)は、この美しくもきらびやかな都を描いたエッセーをたくさん残している。
 「京城とアテーネ」(昭和3年)には、こうあった。《初めて京城に来た時(とき)私はすぐに何処(どこ)やら希臘(ギリシャ)のアテーネに似て居(い)るな、と思った…(朝鮮)神宮の前から漢江を見おろした景色は、私には、アクロポリスの上から(略)海を望んだ記憶を呼び起こす…》
 安倍が京城に赴任したのは日韓併合から15年以上が過ぎた大正15(1926)年のことだ。もしも、安倍が「前近代的」な因習や伝統を城壁の中に、そのまま閉じ込めたような李朝末期や大韓帝国時代のこの街に来ていたら、果たしてどう感じただろうか?
日韓併合前の明治38(1905)年、ジャーナリストで後に貴族院議員を務めた加藤政之助(まさのすけ)がこの街を綴(つづ)った一文がある。《大通だけは比較的に清潔なりき、ただし市街の裏通りに至りては道幅8、9尺(2メートル半前後)、車馬通せざる所もあり、下水及(およ)び塵芥(じんかい)の腐敗により起こる臭気鼻を衝(つ)いてきたり…城内の見るべき建築物は、景福及び昌徳の二宮、日本の兵営、列国公使館位(くらい)に過ぎず》(『韓国経営』から)
 京城の電気や水道、市内電車を初期に手掛けた欧米人から事業を引き継ぎ、数度の都市計画を経てインフラ(社会資本)を整備し、モダンな大都市に変身させたのは日本人だった。
■朝鮮人が敬遠した土地
 19世紀末、日本人がこの街に住み始めたとき、最初の居留地となったのが、南山北麓の「泥●(やまへんに見)(チンコゲ)」と呼ばれた所だ。文字通りの低湿地で雨が降れば南山から水が流入し、泥濘(ぬかるみ)になってしまう。朝鮮人もあまり住んでいない地域だった。
 この土地を日本人はせっせと改良して道路をつくり、住宅や商店、公的機関を建てた。そこを起点に本町(後の忠武路(チュンムノ))、明治町(明洞(ミョンドン))といった繁華街が広がり、市内を横断する清渓川の南側は日本人、北側は朝鮮人の街として色分けされてゆく。
再び加藤の筆に頼ろう。《(日本人居留地の)家屋は西洋作もあり日本風の二階屋もあり、店は広く小奇麗(ぎれい)に往来繁(しげ)く…日本人の移住する者年毎(ごと)に増加し…明治38年4月の人口は6296人なり…》(同)
 日本人街には、三越、丁子屋(ちょうじや)、三中井(みなかい)といった百貨店が進出、ホテルやレストラン、カフェ、映画館が次々と開業した。モダンガール・ボーイと呼ばれた、おしゃれな若者たちが押し寄せ、中心の繁華街・本町で遊ぶことを、東京や大阪の“銀(座)ブラ”“心(斎橋)ブラ”になぞらえて「本ブラ」と呼んだ。
 父親が朝鮮総督府の建築技師などを務めた正木千代子(91)は、昭和2年京城生まれ、高等女学校を卒業した後は、京城の中心地にあった水産会社に就職している。「本町は内地にも負けない賑(にぎ)やかな繁華街でね。三越、丁子屋などの百貨店にも、よく買い物に行きました。休日はレコードを聴いたり、昌慶苑の桜見物も覚えている。(終戦までは)物資は豊かだったし、空襲もない。ホントにいい街でしたよ」
 清渓川北側の朝鮮人の居住地にも、朝鮮人経営による和信百貨店ができたが、鐘路を中心とした伝統的な商店などは次第に廃れてゆく。朝鮮人の若者たちも、流行の先端で、小ぎれいな日本人街に足を向けるようになったからだ。
日韓併合直後に25万人前後だった京城府の人口は市域の拡張もあって倍々ゲームで膨れ上がり、総督府の昭和17年末統計では約111万4千人(朝鮮人約94万1千人、日本人約16万7千人)の大都市に成長する。朝鮮全体の増加率は2倍強だったから、京城への集中がよく分かる。
 日朝の近代化の差はどこにあったのだろうか。ひとつは儒教の「受容度の違い」だった気がしてならない。李朝500年間にどっぷりつかった朝鮮では、儒学の勉強に勤(いそ)しみ、科挙(官吏登用試験)に合格した者が最上位であり、武人や医者・技術者など実学に携わる者は低く見られ、労働や商行為は蔑まれた。
 京城の商業の中心が鐘路から本町へ移っていったことを、姜在彦は「ソウル」の中でこう書いている。《長い間の町人文化の中で鍛え抜かれた日本人商人との競争で敗北した…》と。
 ただし、私は李朝の王宮(景福宮)正面を遮るように西洋式の朝鮮総督府を建てたり、各地に神社を設けたりしたのはやりすぎだったと思う。90歳に近い朝鮮の古老は「日本統治で朝鮮人が最も拒否感をもったのは、神社参拝と宮城遥拝(ようはい)だった」と打ち明けている。
■楽しげな娼妓の思い出
 京城のもうひとつの日本人街は、南山の南に形成されていった「龍山」だ。日本陸軍の朝鮮軍司令部が置かれ、軍関係者が多い。
 龍山で祖父母が洋品店を経営していた齊藤雄一(86)には興味深いエピソードがある。その店に買い物にやってきた朝鮮人娼妓たちとの思い出だ。京城最大の遊郭は本町東端の新町にあったが、龍山にも小さな花街があり、そこの娼妓がよく店に来ていた。
 「20代くらいで洋装の朝鮮人女性たちが楽しそうに買い物をしていた。(戦時下で)衣料切符が必要だったのに、(慰安婦として)戦地へ行く人には特配があったらしい。まだ(旧制)中学の1年生だった私に『僕ちゃんも早く兵隊さんになりなさいよ』って、笑いながら、からかわれたことを覚えていますよ」
 なるほど、韓国が主張する“強制連行されたいたいけな少女”などとは随分、イメージが違う。=敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(16)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(16)
(16)陸上、野球、ラグビー…日本時代に花開いた近代スポーツ 2018.4.29

 儒教思想にどっぷりと漬かった朝鮮社会では、伝統的に「文」が「武」よりも上位に位置づけられ、運動やスポーツ的な行為も長く蔑(さげす)まれてきた。朝鮮において、近代スポーツが浸透し、大きく発展するのは日本統治時代のことである。
 独立・抗日を訴えて1919(大正8)年に起きた大規模な騒乱事件「三・一運動(万歳事件)」をきっかけに日本は、それまでの武力・警察力を前面に出した「武断政治」から、緩やかな「文化政治」へと朝鮮統治の方針の舵(かじ)を切る。本格化は、20年代から30年代にかけてだ。
 「東亜日報」「朝鮮日報」など民族系の新聞の発刊が認められ、学校建設が進み、文化・芸術が花開く。外地初の帝国大学となる京城帝大の設立(24年・予科)や朝鮮映画の名作「アリラン」の製作・公開(26年)もこの時期だ。
 そして、陸上、野球、ラグビー、サッカー、テニス…といった近代スポーツもこの波に乗る。体育の協会が組織され、京城(現・韓国ソウル)には、大規模な総合運動場を建設。25(大正14)年からは、陸上、野球、テニスなど5種目(後に20種目超)による「朝鮮神宮競技大会」がスタートしている。
 そのわずか7年後には、米ロサンゼルス五輪(32年)に3人の朝鮮人選手を送り出し、次の独ベルリン五輪(36年)では、マラソンの孫基禎(ソン・ギジョン)(1912~2002年=当時は日本語読みで「そん・きてい」)ら金・銅のメダリストまで誕生させているから、朝鮮民族の運動能力の高さがよく分かる。
◆スター揃いの養正高普
 孫の長距離ランナーとしての才能が大きく花開いたのは、京城の養正高等普通学校(旧制中学に相当)に入ってからだ。「陸上の名門」として名を轟(とどろ)かせていた同校には、朝鮮のスター選手が揃(そろ)っていた。ロス五輪マラソン6位入賞の金恩培やベルリン五輪マラソン銅メダルの南昇龍も一時、籍を置いている。
 同校は、朝鮮神宮競技大会など朝鮮内での活躍はもちろん、現在の全国高校駅伝の前身の一つとされる大会でも内地の強豪校を退けて3連覇を達成した。
 19歳で入学した孫はロス五輪代表の座は惜しくも逃したが、ベルリン五輪の前年には“戦前の国体”というべき内地の明治神宮競技大会のマラソンに出場して、当時の世界記録で優勝。ベルリン五輪の“希望の星”として躍り出る。
 このころ、スポーツ熱に取りつかれたのは朝鮮人だけではない。朝鮮に住む日本人も同様だった。日朝混成メンバーで、京城師範ラグビーが全国大会を3連覇(1930〈昭和5〉年~)したことは以前書いた通りである。野球の夏の甲子園・朝鮮地区予選も大正年間に始まり、京城中(旧制)や徽文高等普通ら、日朝のチームが出場を果たした。
 朝鮮神宮競技大会に出場した選手の内訳を見れば、日朝ほぼ半々である。新聞社や専門学校が主催する競技大会も次々と誕生し、日朝の選手がしのぎを削りながら、競技によっては内地をも上回るレベルを短期間に築いていった。
 孫と同世代で、やはり朝鮮の陸上界を沸かせた日本人の名ランナーがいる。マラソンの瀬古利彦や佐々木七恵らを育てた名伯楽・中村清(1913~85年)だ。自伝「心で走れ マラソン、わが人生」によれば、中村は《(京城の)南大門のたもとで生まれた。父親は土建業を営んでおり、数軒隣の金物屋が作曲家・古賀政男さんの家だった》という。
 京城の日本人中学の名門校・龍山中(旧制)に入学して本格的に陸上競技を始めた中村は、龍山鉄道管理局所属で1500メートルの日本記録保持者、土屋甲子雄の目に留まり、頭角を現す。《土屋さんの指導を受けた私は、急速に力をつけ、翌年には朝鮮でトップを占め、(龍中)5年生の夏には、東京の神宮外苑競技場で開かれるインターミドル(中学の全国選手権)の出場権を得た》(同書)
 早稲田大に進んだ中村は、師・土屋の1500メートルの日本記録を破り、36年のベルリン五輪には、マラソンの孫らとともに出場(1500メートル)することになるのである。
◆舞踊の崔承喜も祝福
 この頃、マラソン金メダリストの孫と並ぶ、朝鮮人の「超」有名人がいた。「半島の舞姫」と呼ばれた世界的な女流舞踊家、崔承喜(チェ・スンヒ)(1911~69年=日本語読みは「さい・しょうき」)だ。170センチの長身とエキゾチックな美貌で、ピカソやコクトー、川端康成ら内外の文化人を虜(とりこ)にした。ベルリン五輪が開催された年には映画「半島の舞姫」(今日出海監督)が大ヒット、化粧品やお菓子の広告にも登場し、アイドル並みの人気を博している。
 孫が金メダルに輝いた後、京城で開かれた祝賀会に崔が駆けつけ、笑顔で撮った写真が残されている。2人は朝鮮人だけでなく、日本人の中でも「世界に誇る大スター」になった。
 もうひとり、意外な人物も2人のことを書き残している。当時、満州(現・中国東北部)で抗日パルチザン活動をしていたらしい北朝鮮の初代最高権力者、金日成(キム・イルソン)(1912~94年)。彼も同世代である。
 「金日成回顧録5巻」には〈民族の魂を守って〉の見出しでベルリン五輪の表彰台に立つ孫の写真が掲載されている。金は、民族紙「東亜日報」が日章旗を消した孫の写真を掲載して処分された事件に触れ、《孫基禎の競技成果と日章旗抹消事件について、部隊の隊員に話をした。すべての隊員は「東亜日報」編集局のとった愛国愛族の立場と英断に熱烈なる支持を贈った》(同書)と。
 それが事実かどうかは確かめようがない。ただ、この時期の「スポーツ発展の申し子」といえる孫が成し遂げた偉業が同世代の朝鮮人の若者たちを熱狂させ、強烈な印象を刻んだことだけは間違いない。=敬称略、日曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(15)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(15)
(15)私が会った孫基禎 「過去」よりも「未来」が大事 2018.4.22

 日本統治下の朝鮮人マラソンランナーとして、1936(昭和11)年のベルリン五輪で金メダルに輝いた孫基禎(ソン・ギジョン)(当時は、日本語読みで「そん・きてい」)に会ったのは、88年に開催された韓国・ソウル五輪のときだった。
 ソウル五輪当時、70代半ばになっていた孫は、マル秘だった開会式の聖火リレー最終走者の有力候補に挙げられ、“時の人”となっていた。国内外のメディアが孫のインタビューを取りたがっていたのは言うまでもない。「会えるはずがない」といわれながらダメもとで電話を入れると、孫は意外な条件を示した。
 「会ってもいいが、時間を指定させてもらう。次の日曜日の朝7時に、●×までおいで!」
 いささか常識外れの日時かとは思ったが、孫がそういうのなら仕方がない。当時、20代の若手記者だった私は早起きして、同い年の韓国人通訳と指定の場所へ向かったが、天気はあいにくの雨。本当に現れるのか、と半信半疑のわれわれの前に、トレーニングウエアでジョギングをする孫が姿を見せた。
 孫は開口一番、ちゃめっ気たっぷりに、こう言ったものだ。「ホントに来たのかね。こんな日時(日曜の朝7時)でおかしいと思わなかったのかい? 実は、君たちが熱心な記者かどうか試したんだよ」
■世界制覇歌まで登場
 孫といえば、思い出されるのが「日章旗抹消事件」だろう。ベルリン五輪で金メダルをとった後、朝鮮の民族紙「東亜日報」が表彰台に上る孫の胸の日章旗を消した写真を掲載。同紙は、朝鮮総督府から発刊停止処分を受け、多くの社の幹部、記者らが拘束されたり、退社を余儀なくされたりしたという事件である。
 75年に刊行した同社の社史にはこうあった。《1936年8月28日に本報(東亜日報)は無期停刊処分を受け、関係人士の拘束にまで至った…留置場6房(室)がすべて東亜日報記者で超満員になり、まるで東亜日報が移動してきたようだった…主筆、編集局長は即時辞任…拘束された8名は40日間にわたって峻烈(しゅんれつ)な問招(ムンチョ)(厳しく問いただすこと)を受け…》
 厳しい処分の理由として、現在では(朝鮮の)民族意識の高揚を抑えるためだったと解説されることが多い。孫の金メダルは、どれだけ朝鮮の民衆を熱狂させたのか。社史の前段にその一端がつづられている。
《…世界人類の夢だった2時間30分の壁を破る2時間29分19秒で、われらの孫基禎選手が堂々1位でゴールインしたとの報道に接するや本社内外の人士、本社前の広場に雲集した民衆の万歳の声が一時に爆発、ソウル(京城)の夜空を埋め尽くした…》。さらに、同社では「オリンピック世界制覇歌」を公募▽感激の瞬間を届けるためにベルリン五輪の記録映画会を3日間9回にわたって上映、大盛況を得た、とある。
 つまり、現代の日本の東京・渋谷で、サッカーの代表が勝った後に繰り広げられるような“大騒ぎ”が朝鮮全土で繰り広げられたということだろう。異様な高揚感の中で同社の記者はつい写真に細工してしまった。総督府は、予想を超える盛り上がりに恐れをなして厳しい処分をした-それ以上でも、それ以下でもない。過酷な言論弾圧の象徴として、戦後無理やり「政治的な意味合い」などつける必要はなかった。
■事件について語らず
 話を88年に戻そう。私が会った孫は、頭髪が真っ白になっていたが、がっしりとした体と、鋭い眼光は健在だった。早朝ジョギングはこの日だけではなく、聖火ランナーに選ばれても恥ずかしくないよう毎朝、トレーニングを続けていたのだという。
私は「日章旗抹消事件」の話を聞きたかった。事件後、“危険人物”として日本の公安当局からつきまとわれたとも聞く。自伝では、金メダルに輝いたときでさえ、亡国民の悲哀に涙したとつづられている。
 だが、孫は多くを語ろうとしない。過去はのみ込んで「そりゃ、つらかったし、いろいろあったさ」とだけ話したかと思うと、孫は大きな手で私と韓国人通訳の手を包み込んだ。
 そして、「そんな昔の話よりも、もっと大事なことがあるじゃないか。(日韓の)未来は君たちのような若者たちにかかっているのだぞ」と力を込めた。手の温かさと驚きを今もはっきり覚えている。
 別れ際に私と韓国人青年の通訳の2人にそろいのサイン入り記念品をくれた。そこにはベルリン五輪で優勝し、ゴールテープを切ったときの有名な写真をプリントしてあった。
 それから数日…。大観衆で埋まったメインスタジアムに、聖火を掲げて登場した孫は、事前の予想を裏切り、“ラス前(最終ランナーの前)”という役割だった。組織委員会が、日本統治時代の選手にスポットライトが集まるのを嫌ったとも言われている。
 それでも、ソウル五輪のシンボルマークを胸にして、ピョンピョンと跳びはねるようにトラックを駆けた孫の表情は、とてもうれしそうだった。
韓国人青年はその後、日本語の能力を生かして財閥企業に入社、途中で起業して社長になった。私はこうして今も2つの民族にかかわる記事を書いている。孫の大きな手で託された日韓のよき未来に少しでも貢献できると信じて。=敬称略、日曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)
                   

 孫基禎 1912(大正元)年、日本統治時代の朝鮮・新義州出身。京城の養正高等普通学校(旧制中学に相当)時代に長距離ランナーとして頭角をあらわし、35年の大会でマラソンの世界最高記録(当時)を樹立。翌年のベルリン五輪マラソンで「日本代表」として金メダル。3位には同校の先輩でもある南昇龍が入り、朝鮮全土が熱狂に包まれた。戦後は指導者として活躍。2002(平成14)年、90歳で死去した。

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (14)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(14)文化・芸術に政治絡める愚 「国歌」作曲者も親日派の事典に 2018.4.15

 「学内の親日派銅像は恥ずかしい…撤去を要求する韓国の大学生」。韓国の大手紙・中央日報電子版に最近、こんな見出しの記事が出ていた。名門私大・高麗大の設立者が「親日行為」を認定され、韓国政府が叙勲剥奪の手続きを行ったことを受けて、同大の総学生会が校内にある銅像の撤去や記念館の名称変更を求める声明を出した、という内容だ。同様の動きは、名門女子大の梨花女子大でも起きているという。
 戦後70年以上たった今も「売国・売族者」と先祖に遡(さかのぼ)って悪罵(あくば)を投げつけられ、財産や名誉を奪われる人たち。一族が親日派のレッテルを貼られ、身を縮めて生きていかねばならぬ人たち。民族を日帝に売り渡した親日派を正しく処断できねば、真の解放はありえない、だって? 到底理解できない恨みの強さ、あるいは執念深さ、というべきか。
 文在寅(ムン・ジェイン)政権下で進む「反日ナショナリズム」の高騰は自国民向けにはなっても日韓関係の未来にはつながりはしまい。日本人の心は離れていくばかりだが、親日派たたきは収まらない。特に文も政権幹部に就いていた2000年代の盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権下の韓国社会で熱を帯びた追及は異様だった。
■なぜ一転、親日派批判
 『鳳仙花(ほうせんか)』や『故郷の春』などの作曲者で、朝鮮を代表する音楽家、洪蘭坡(ホン・ナンパ)(1897~1941年)も、その一人であるのは先週書いた。“抗日・独立のシンボル”とされた『鳳仙花』を作曲した洪が、なぜ戦後、一転して親日派として批判されたのか?
 2000年代に韓国で刊行された「親日人名事典」の記述を見てみたい。
 洪は、朝鮮正楽伝習所西洋楽部などを経て、日本に留学。大正7(1918)年、東京音楽学校(現東京芸大)予科に入学、15年には、東京高等音楽学院(同国立音大)でバイオリンなどを学んでいる。昭和3年、東京のオーケストラで第1バイオリンを担当。9年には、日本ビクター京城支店音楽主任に就任。この間『鳳仙花』のもとになった「哀愁」や『故郷の春』をつくっている。
 「親日派」として問題視されるのはこの後だ。
 抗日運動にかかわって検挙された後に転向し、12年「思想転向に関する論文」を提出。さらには、朝鮮総督府の肝煎りで、組織された“親日文芸団体”『朝鮮文芸会』に文学者の李光洙(イ・グァンス)らとともに加入。軍部の宣伝に協力して「正義の凱歌(がいか)」「空軍の歌」などを作曲したという…。
声楽家で元聖学院大学教授の遠藤喜美子(90)は『鳳仙花 評伝・洪蘭坡』の著者。母校(国立音大)の先輩でもある洪を、日本の滝廉太郎や山田耕筰に匹敵する「朝鮮近代音楽の父」とたたえている。
 韓国で洪蘭坡の未亡人に会ったとき、住まいは小さなアパートで経済的にも困窮している様子に驚かされたという。著書を手渡すと、「病床にあった奥さんが『日本人のあなたがこんな本を書いてくれるなんて…』と涙を流して喜んでくださった」と話す。
 評伝を韓国で翻訳出版する話は、何度も持ち上がっては立ち消えになった。ようやく実現したのは生誕120年に当たる昨年である。この間、訪韓した際に何度か韓国のテレビ局が取材に来たが、実際に放送されたことは一度もなかったと振り返る。
 遠藤は思う。「反日教育を受けてきた今の韓国の若い人たちは、この偉大な音楽家について、本当のことを知らないのです」
 もちろん韓国にも、この国民的音楽家を擁護する人たちは少なくはない。
 「親日人名事典」には収録されたが、その後、韓国政府が発表した名簿からは、元大統領の朴正煕(パク・チョンヒ)らとともに外されている。言論界にも、洪を親日派と決めつけて、その人生や業績の全てを否定し、歴史から消し去ろうとするのは「極端な論理だ」とやんわり反論する主張も見られる。
■有能だからこそ重用
 ところで、遠藤の著書によれば、洪と同時期に、東京高等音楽学院に留学していた朝鮮人の中には、後に韓国の国歌と位置づけられる「愛国歌」を作曲した安益泰(アン・イクテ)(1906~65年)がいた。そのくだりを引いてみよう。《日本全国はもとより朝鮮や台湾などからも優秀な学生がこうして参集した。(略)彼(洪)に続いて翌1930年の韓国人卒業生の中には特筆すべき4人の逸材がいた…ピアニストの金元福、バイオリニストの洪盛裕、ピアノ科卒業の朴啓成、またチェリストで後に韓国国歌となる「愛国歌」を作曲した安益泰である》(『鳳仙花 評伝・洪蘭坡』から)
 安はその後、欧米で活躍、世界的な名声を得たが、戦時中、満州国建国10周年祝賀曲に関わっていたことや愛国歌の“流用疑惑”まで問題視されて「親日人名事典」に名前を載せられている。
 だが、当時、才能に恵まれた朝鮮の若者が日本へ留学するのは当たり前のコースだったし、優れた音楽家だからこそ、時の政権や軍部に重用されたのだ。
「国歌」をめぐっては、北朝鮮にも別の愛国歌があり、晴れて統一がなった暁には新たな国歌を制定したいという思いを描く人たちもいる。平昌五輪開会式で南北選手団が合同で入場したときに流されたのは朝鮮民謡の「アリラン」だった。だが、日本統治時代に関わるものが全てダメなら、この曲も日本統治時代の同名映画から生まれたことをこの連載の1回目で書いた通りである。
 韓国の愛国歌は、凜(りん)として格調高い名曲だ。私が韓国で暮らしたとき、朝一番でラジオ放送開始前に必ず流されるこの曲を聴くと背筋が伸びる思いがした。
 あるいは、哀愁を帯び、心に響く『鳳仙花』のメロディー、思わず口ずさみたくなる楽しい『故郷の春』を聴いてみればいい。文化・芸術に政治を絡ませる愚かさが分かるはずだ。=敬称略、日曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (13)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(13)歌には「抗日」も「親日」もない  「鳳仙花」歌う加藤登紀子 2018.4.8

 1枚の古い写真が残されている。1990(平成2)年12月、韓国で初のコンサートを行うため、ソウルを訪れた歌手の加藤登紀子が同国の国民的音楽家、洪蘭坡(ホン・ナンパ)の未亡人、李大亨(イ・デヒョン)と一緒に撮ったものだ。
 このとき、韓国で2つの大きな出来事があった。それは“騒ぎ”と言った方が正確かもしれない。
 ひとつは、洪の代表曲『鳳仙花(ほうせんか)』を歌うことを発表したコンサート1カ月前のソウルでの記者会見で、韓国メディアから、「日本人のあなたがこの歌を歌うことを誰もが許さないと思う」と止められたこと。もうひとつは、当時タブーだった「日本語の歌」を行き違いからコンサートで歌ってしまったことだ。
 『鳳仙花』は朝鮮初の芸術歌曲とされる。洪が日本留学時代の大正9年ごろ「哀愁」の題名で作曲、6年後に金亨俊が詞をつけて歌曲集に載り、世に出た。
 昭和17年には、白の民族衣装をまとったソプラノ歌手の金天愛が日比谷公会堂で朗々と歌い上げ、故郷を思う朝鮮の留学生らを感涙させた伝説の名曲だ。韓国では“抗日・独立のシンボル歌”のイメージが強く、記者会見での「日本人のあなたが…」という反発につながったわけである。
加藤が『鳳仙花』を知ったのは1970年代の後半、知人のギタリスト、原荘介(78)が口ずさんだのを聴いて、たちまち心を奪われた。韓国のコンサートで「一番大事な歌」と勢い込んでいただけに簡単には引き下がれない。“直談判”に持ち込んだ。
 「私がここで歌って、あなたたち(韓国記者)がどう感じるか? 正直に聞かせてほしい。イヤなら歌うのをやめます」と記者会見の場でギターを取り出し、会見用のマイクに向かって歌い始めたのである。
 記者たちは、じっと耳を傾けて聴いていた。だんだん、その場の空気が変わってゆく。歌い終わってから「もう少し韓国語の発音を正しく歌ってほしい」と注文がついたが、もはや強い拒否感はない。「じゃあ、ここで正しい発音を教えてください」と加藤が持ちかけると、10人以上の記者が、その場に残って即席のレッスンが始まった…。
■韓国での複雑な評価
 洪蘭坡夫人に会ったのはコンサートの直前。夫人は高齢なので、本番のコンサート会場には行けないという。ならば「直接聴いてほしい」と、加藤はソウル市内のレストランで夫人と向き合い、韓国記者からレッスンを受けた韓国語で『鳳仙花』を歌い始めた。
 じっと聴いていた夫人の目から涙がこぼれ、2人は、しっかりと抱き合った。そのとき、夫人の胸の中に去来したのは、韓国における洪蘭坡への相反する評価ではなかったか。
 洪蘭坡が、朝鮮を代表する音楽家の一人であったのは間違いない。『鳳仙花』や、韓国では誰もが知っている童謡『故郷の春』は日本のカラオケにも入っているくらい有名だ。
 一方で戦前・戦中、朝鮮独立運動に関わった後、日本の官憲に捕まって転向し、軍歌などをつくって「日帝」に協力したとされ“親日派”のレッテルを貼られてしまう。2000年代に韓国で発刊された「親日人名事典」にはその“悪行”がスペースを割いて書いてある。数年前には彼の名前を冠した音楽賞受賞者がそれらを理由に辞退したことでも話題になった。
 加藤はこう思う。「歌い手や音楽家には国籍も立場もあるけど、歌は自由に国境を越えてゆくんですよ。誰がどう感じ、どう受け止めようと自由でなければいけない。私の歌も人種も思想もジャンルも関係なく、誰にでも届く歌でありたいと思う。歌い手とか国とかの思惑を越えて歌は、人々のものなんです」
 『鳳仙花』が“抗日歌”として人々を支えたにもかかわらず、洪蘭坡へ親日派批判があったことにも驚かされた。「洪蘭坡は『抗日の歌』を意図してつくったわけじゃない。『鳳仙花』は心に響く美しい歌。歌い継がれているのは歌自体の力なのですよ」
■知らされなかったタブー
 韓国でのコンサートにはありがたくない“おまけ”がついた。加藤が日本語の歌を歌って“タブー破り”をしてしまったことだ。
 韓国で戦後初めて公式に日本語の歌(大衆歌謡)が許可されたのは、それから8年後、1998年、沢知恵(ともえ)が歌ったときだ。加藤もタブーのことを知っていたが、このときは「ぜひ日本語で歌ってほしい」というオファーがあった。だが直前になって「許可しない」との通達があったことを主催者が加藤に伝えなかったのである。
 予定のプログラム通りに歌って物議を醸してしまった加藤は、「ダメだと知っていたら歌わなかった。あるいは『鳳仙花』の記者会見のように直接、お客さんに向かって是非を問いかけたでしょうね。それが私のやり方ですから」
 韓国側にも、そうした日本の大衆文化制限を撤廃したいと考えていた人は少なからずいたらしい。帰国した加藤に韓国のテレビ局から出演のオファーがあり、東京でリハーサルまで行った。だが、放送1週間前に当局からストップがかかり、実現しなかった。それ以来、現在に至るまで加藤は韓国で一度もコンサートをやっていない。
 音楽、映画、マンガなど日本の大衆文化は段階的に開放された。だが、現在も地上波でのテレビドラマ、バラエティー番組などは解禁されていない。=敬称略、日曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

【プロフィル】加藤登紀子
 かとう・ときこ 昭和18年満州ハルビン生まれ。東京大文学部卒。40年日本アマチュアシャンソンコンクールで優勝、翌年デビュー。主なヒット曲に「ひとり寝の子守唄」「知床旅情」「百万本のバラ」。『花はどこへ行った 加藤登紀子コンサート』((電)03・3352・3875)は21日(土)東京・渋谷のBunkamuraオーチャードホールで。

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (12)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(12)
文武両道の京城師範 日朝ラガーで達成した3連覇
2018.4.1

 京城師範は、文武両道の名門校だった。大正10(1921)年創立の教員養成校。学費免除制度があり経済的に恵まれない家庭の秀才がそろった。以前も触れたが、韓国大統領になった朴正煕(パク・チョンヒ)も大邱師範に入学し、教職に就いている。
 「武」の方で名高いのはラグビー部の活躍だ。野球の「春夏の甲子園」と並ぶ「冬の花園」として、人気が高い現在の全国高校ラグビーの前身大会で、昭和5(1930)年から3連覇の偉業を達成、翌8年も準優勝を果たしている。
 優勝旗が玄界灘を渡ったのは、京城師範のときが初めて。3連覇以上は他に戦前の同志社中、戦後も秋田工、啓光学園(現・常翔啓光学園)、東福岡しか達成(両校優勝を含む)していない偉業であった。
 8年に京城師範の附属(ふぞく)小に入学した朴贊雄は『日本統治時代を肯定的に理解する』の中で当時の様子を振り返っている。《京師のラグビー部は殆(ほとん)ど毎日、放課後にグラウンドに集まって練習していた。このグラウンドは僕らの(小学校の)運動場と続いていた。僕らは彼らの練習を見守るのが好きだった(略)いつのまにか自分もひとかどの選手になった気分にとりつかれる》。スター選手をあこがれのまなざしで見つめた興奮ぶりが伝わってくる。
■内鮮一体を具現化
 同校にラグビー部が創設されたのは昭和3年、生みの親は東京高師(現筑波大)選手として活躍した教員、園部暢だった。全国大会優勝後、地元紙に語ったコメントには、朝鮮の教育にかけた日本人教師の志と情熱があふれている。
 《京師のメンバーの中には7人の朝鮮人がおり主将もまたそうである。15人の団結ぶりを見てください。将来、朝鮮教育に従事せんとする彼らが真に内鮮一体の第一線に立ち、理解の少ない内地の人々に朝鮮のいかなるものかを紹介し、内鮮人間の将来に光明を与えたことは京師ラグビー部フィフティーンの功労でなくてなんであろう》と。
 京城師範だけではなく当時のラグビー界は、外地のチームがとても強かった。9年は、鞍山(あんざん)中(旧制・以下同じ、満州)と台北一中(台湾)の両校優勝で京城師範はベスト4▽11年、朝鮮の培材高等普通学校(旧制中学に相当)が優勝▽12年、朝鮮の養正高等普通が準優勝▽13~15年、撫順中(満州)の連覇に台北一中が続き、外地のチームが3連覇を達成している。
だが、京城師範3連覇の後、あまりの強さにクレームがついたらしい。『京城師範学校史・大愛至醇(たいあいしじゅん)』に当時の教員がエピソードを書き残している。《年齢制限の問題が起こってきた…それは明らかに当時6年制(演習科を含む、他の旧制中学などは5年制)の京師があっという間に3連覇を成し遂げたことに対する羨望、嫉視、不満が重なったものと思われます》
 朝鮮で盛んだった学生スポーツはラグビーだけではない。野球も大正年間に夏の甲子園の朝鮮地区予選が始まり、京城中▽平壌中(後に一中)▽仁川商▽龍山中▽徽文高等普通などのチームが甲子園の土を踏んでいる。これら学校スポーツの興隆をはかったのが、日本人教師たちであり、キリスト教系学校の欧米人宣教師らであった。平昌五輪で韓国勢が大活躍したスケートも、日本統治時代の学校で奨励されたスポーツだったのである。
■好ライバル京中VS龍中
 日本統治時代の京城(現・韓国ソウル)は、多くの中・高等教育機関を擁する屈指の文教都市だった。
 大陸(満州・朝鮮)唯一の帝国大学にして総合大学の京城帝大。それに次ぐ、旧制専門学校として、官・公立では京城医学▽同法学▽同工業(旧高等工業)▽同経済(同高等商業)▽同鉱山などが、私立では普成▽延禧▽セブランス連合医科▽梨花女子などがあり、これらの多くは戦後、韓国の大学となった。
中学は、主に日本人が通う中学校と朝鮮人が通う高等普通学校、さらには内鮮共学校など多数の学校があった。中でも、京城中と龍山中はライバル関係にあり、上級学校へのエリートコースである京城帝大予科への進学者数でも、しのぎを削っていた。
 龍中25期生で昭和20年に城大予科(理科)へ進んだ山田卓良(たかよし)(89)は、「両校の違いは居住地によるところが大きかった。(陸軍第20師団司令部などがあった)龍中は軍人の子弟が多く、京中は、官僚や会社員の家庭が多い。よきライバルだったのは間違いないでしょうね」。野球の夏の甲子園出場回数では、京中5回(最高ベスト8)に対し、龍中は1回。戦後はともに韓国の名門高校となった。
 師範学校に高等女学校、実業学校…日本は、朝鮮各地に多くの中・高等教育機関をつくったが、戦後、個人的な関係を別にすれば、多くの学校で、彼我(ひが)の国同士の公式的なつながりはなくなってしまう。
 こうした中で、内鮮共学の京城旭丘中(公立)の日韓の同期生でつくった卒業アルバムに日本人卒業生の近況を知らせる写真や文章が掲載されているのは珍しいケースだろう。5期生の齊藤雄一(86)は、「(内鮮共学は)当時の国策だったと思う。クラスには何の差別もなく仲良くやっていましたよ。慰安婦像を建てては『反日』を掲げて騒ぐ今の方に、大いに違和感を覚えてなりません」=敬称略、日曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(11)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
◎家族と引き裂かれ友は殺された(11)「赤化・北朝鮮」に残された邦人
 北朝鮮の初代最高権力者、金日成が初めて公に朝鮮の民衆の前に姿を見せたのは、終戦直後の1945年10月14日、平壌で開かれた集会でのことだった。当時、33歳。伝説の抗日の闘士「キムーイルソン」の登場を待ちわびていた数万の民衆は、あまりの若さを訝(いぶか)しがり、「偽者じゃないか」と騒ぎになったのは有名な話である。
 金日成は、朝鮮半島の北半分を占領したソ連(当時)によって。”仕立てられた”リーダーだった。だが金は、ソ連派、中国派、国内派(南労党派)などの政敵を次々と粛清・排除し、’次第に唯一無二の独裁体制を固めてゆく。日帝の軍隊をさんざん打ち破った。百戦百勝の鋼鉄の霊将”などと神格化を図り、社会主義にはあるまじき「三代世襲」を正当化する荒唐無稽な物語が紡がれた…。
 金日成が登場したころ、朝鮮の北半分には、30万人を超える日本人がいた。技術者や工場労働者も多い。
朝鮮半島の南半分が「農」中心の地域とすれば、北は「鉱工業」の地域であったからである。
 朝鮮と満州(現中国東北部)の境を流れる鴨緑江水系の電源開発を進め、当時、東洋一と謳われた水豊ダム(発電容量70万キロワット)などを建設。その電力を利用して、やはり東洋一の化学コンビナート、興南工場がつくられた。さらに、戦前の日本の最高水準の技術・人員を投入して多くの鉱山、工場が北半分で開発・建設されている。
 終戦直前に侵攻してきたソ連軍は。火事場泥棒”のごとく、めぼしい設備や機械を、せっせと鉄道で持ち去ってゆく。
残された工場などは各地に設立された人民委員会の管理に移され、朝鮮人が日本人を使って稼働を続けさせた。
 米軍が占領した南半分との境界である「38度線」はすでに封鎖されており、残された日本人は動くに動けない。さらに、陸続きの満州からも大量の避難民が押し寄せていた。
 作家、新田次郎の妻、数学者の藤原正彦(74)の母である、藤原ていが書いた『流れる星は生きている』は、3人の幼子と満州の新京(現中国・長春)から朝鮮半島を経て日本へ引き揚げるまでの生き地獄のような日々を綴った不朽の名作である。暴行、略奪、飢餓、疫病、寒さ、疲労、避難民の対立…朝鮮北部だけで3万人以上の日本人が亡くなったという。
 そして、懸命に命をながらえながら引き揚げを待つ日本人も、赤化されてゆく社会で「南半分」とは違う恐怖と苦しみを味わわされることになる。
■「僕は生きたい」
 佐藤尚(86)は、日本海側の港町、清津の中学(旧制)2年生だった。両親と兄、妹の5人家族。ソ連軍が侵攻してきたのは昭和20年8月13日、関東州の旅順高(旧制)に通っていた兄を除き、4人が清津の自宅に残っていた。
 海上からの激しい艦砲射撃に続いて次々とソ連兵が上陸してくる。避難勧告が出されたその日の夕方。銃弾がビュンビュンと飛び交うギリギリの状況の中で、尚は、父親から。究極の選択”を迫られる。
 「私たちはここ(清津)に残る。お前はどうする、生きたいか?」
 母親の病が重く、動かせる状態ではなかった。すでに医師もいない。妹は逃げるには幼すぎた。つまり、1人で逃げられる可能性があるのは、13歳の尚だけだったのである。
 「僕は生きたい」と答えた尚に父は、幾ばくかのお金と食料、衣服をリュックに詰めて裏口から送り出してくれた。ひたすら歩き、何とか無蓋貨車に乗り込んで南下を続け、途中で親類の一家と合流。南との境にそびえる金剛山を、ようやく越えられたのは、翌年の6月のことだった。
 そして、尚は、ある避難民から家族の最期を聞かされることになる。別れた翌日の8月14日、父は、母と幼い妹に薬を飲ませて見送った後、ソ連兵に撃たれて亡くなっていたという。
 「ギリギリの判断だったと思う。私かもう少し、小さかったら、1人では帰れなかっだろう。あまりにもつらい経験なので長い間、誰にも話せなかった」
 両親と妹の遺骨がどこに眠っているのか。尚は、それを知るすべもない。
■子供のおもちゃなのに
 平壌一中(旧制)3年生だった藤澤俊雄(87)は同級生と一緒に突然、平壌の警察署から呼び出しを受けた。遊び道具として、車の廃品からつくった模造品の短刀を所持していた容疑だったという。
 「人民委員会傘下の保安隊だったのか、警察だったのか…短刀で朝鮮人を襲うつもりじゃないか、と疑われたようでした。殴る蹴るなどはなかったが、友人のことをしつこく聞かれた。
たまたまそこに中学の校長先生がいて『日本人だろ、毅然としろ』といわれたことを覚えています」
藤澤は半日で帰されたが、一緒に引っ張られた友人はいつまでたっても帰ってこない。やがてその友人が警察で殴り殺された、と人づてに聞き、藤澤は愕然とする。「たかが子供のおもちゃですよ。素直に話さなかったのか、態度がよくなかったのか、事情は分からない・・・私も紙一重の命だつたんでしょうね」
 満州との国境の街・新義州中(旧制)2年の太田房太郎(86)も、保安隊による銃撃事件に遭遇し、若い学生が殺されたところを目の当たりにする。後に「義挙事件」として知られることとなる、共産主義者に反発する朝鮮人学生が起こした蜂起事件だった。
 太田らは、事件の鎮圧にあたっていたであろうソ連兵に誰何される。「トラックの上で機関銃を構えたソ連兵に『ストーイ(止まれ)』といわれ、日本人か、朝鮮人か、と聞かれたんです。たまたま学生服を着ていて学生証を持っていたので解放されました」
 だがこのとき、一緒にいた朝鮮人の保安隊員から日本語で「行け、だが後はどうなっても知らんぞ」といわれたときは、生きた心地がしなかったという。「若い学生を容赦なく撃ち殺したのを見ていましたから。
 命からがら家にたどり着き、両親の姿を見たときは張り詰めた緊張が一瞬にして解けたようでした」=敬称略、日曜掲載
  (文化部編集委員 喜多由浩)

金日成・金正日の銅像に参拝する一般市民
朝鮮時代の佐藤尚さん

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