在日コリアンと本国人との対立

 最近発行された『日本の論点2012』(文芸春秋)を購読。

 710~713頁に、梁石日さんの「南北の相克を乗り越える鍵は、在日文化のさらなる創造にある」と題する論文が掲載されています。

 私には疑問のある部分がありますが、それはともかく、在日の現状を記すなかで、本国人との断絶というか、対立があるところに興味が引かれました。

「(東京の)大久保通りと職安通りにいくつもある狭い通り‥‥韓国の飲食店が並び、休日もなると日本の若い女性が飲食にくるのである。飲食店のオーナーも韓国からやってきた者が多く、日本の若い女性たちは、いわば韓国のソウルあたりの飲食街を散策しているような気分になる‥‥二〇年ほど前から職安通りに面した場所で飲食店を営んでいた七〇歳くらいの女店主は、『‥そのころは店が数えるほどしかなかった。ところが今では、韓国からきた連中にみんな取られた』と嘆いていた。この女店主は、自分の経営している周辺は自分の縄張りと思っていたのに、その縄張りを韓国から来た、いわゆるニューカマーたちに土足で踏み込まれたと嘆いているのであった。」(711頁上段~下段)

「昔から暮らしている旧在日コリアンと、数年前から日本にきて生活しているニューカマーとの間には、ほとんど交流がない。」(711頁下段)

「旧在日コリアンはニューカマーを上からの目線で見ているところがあり、逆にニューカマーは旧在日コリアンを、母国語を知らない日本人化した人間として見ているところがある。」(712頁上段)

「在日コリアンが韓国に旅行した場合、韓国語が話せない在日コリアンに対して、韓国人なのに、なぜ韓国語ができないのか?と問われる。そこで在日コリアンは深く傷つき、そもそも在日コリアンとは何か、という歴史的な経緯に対してまったく無知な本国の韓国人に強く反発する。韓国が日本の植民地になったのは誰の責任なのか。その根源的な問いを不問にして、在日コリアンを母国語もろくに話せない非民族的な存在であるかのようにみなす言説は容認できないのが、在日コリアンの立場なのである。」(712頁上段)

「在日コリアンは、いわば歴史のはざまに産み落とされた子供のようなようなものである。その子供が親を求めて彷徨しているのだ。そのことについて本国や組織の人間はほとんど理解していない。(712~713頁)

 このように、梁さんの所論には在日コリアンと本国人との対立について、かなりの分量を割いています。

 在日が、自分たちは韓国人であると名乗るなら、本国の人から、だったら何故韓国語ができないの、という疑問は自然だと思うのですが、梁さんによれば、それは歴史を知らないトンデモナイ言説となるようです。

 梁さんの言う「歴史」を在日が知っていれば、民族の言葉を勉強しようとする熱意は大きくなるはずですが、梁さんによれば在日はどんどん韓国語を忘れていきます。民族にとって極めて重要な言葉がこんな状況ですから、標題にあるような「在日文化の創造」とは一体どういうものなのでしょうか。

 梁さんが論じる「在日文化」とは、国籍は韓国・朝鮮でありながら本国人とは断絶し、中身は全くの日本人が創る文化と言えるようです。彼らの自民族文化へのまなざしは、日本人が異民族文化である韓国文化を見る目と変わりなくなります。

 そして韓流ブームで韓国文化に関心を寄せる日本人が非常に多くなりましたが、こういった人に「在日文化」を宣伝しても、異文化ではなく、日本文化の一つとして捉えられることでしょう。

 本国からも日本からも違いを持った「在日文化」が果たして成立するのか、疑問とするところです。

http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/burogu
                         tsujimoto blogから抜粋

ある在日の体験談

私が中学1年生の時、ハラボジ(祖父)が亡くなりお葬式がありました。
喪主であるアボジ(父)は一世のですので、当然の如く朝鮮人丸出しの葬儀をしました。
次の日、私が学校に行ったときの教室の空気たるや、あれは忘れる事も出来ません。通名(日本名)で生活をしていた私はその時以来、朝鮮人という事がばれてしまいました。まさにこれが「チョンバレ」です。約一年後、我が家はその街を離れました。>

 在日一世は通名を名乗りながらも朝鮮人であることを隠さなかったということです。自らの民族性を隠すという性向は、1950~1970年代に成長期を過ごした二世以降の世代の特有の現象です。彼の体験談はこれを裏付けるものです。 在日が自らの民族性を隠すというのは、一部であって全部ではありません。

「在日」の指紋押捺反対運動は、何も指紋押捺という一般的な意味における問題性を指摘しているのではありません。 15才の子どもが、5本の指にベットリ黒い墨を塗られて一本、一本、ただ、ポンと押すのではなく、側面から白い紙の上に載せて、次の側面までゆっくり回転させながら押していくのです。親指の次は人差し指、その次は中指、薬指、そして小指、白い紙に押捺している所を想像してみてください。そういうリアリティーから、「指紋押捺反対」という声を上げたのです。>

 これには重要部分に間違いがあります。「15才」と「5本の指」です。実際は14才で、左手人差し指の一本指だけです。つまりこの体験談には元々リアリティはないにも拘わらず、彼は指紋押捺反対の運動に加わったということです。なお彼自身は間違いを認めました。 私は拙論第47題にあるように、この運動に疑問というか胡散臭さを感じていました。従って彼の間違いの体験談は、私には参考になるものでした。  tsujimoto blogからの抜粋

『在日一世の記憶』

集英社新書『在日一世の記憶』 tsumoto blogからの抜粋

 『在日一世の記憶』(小熊英二・姜尚中編 集英社新書 2008年10月)という本がでた。新書でありながら、800頁近い厚さの本である。  有名無名の在日韓国・朝鮮人52人からの体験談を記録したもので、なかなか興味深いものだ。いわゆる「身世打令(身世打鈴)」である。
 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/09/01/507081

 年寄りの体験談なので、勘違いや思い込みなどあって、混乱する部分があるのは仕方ないところである。また後に得た知識で、過去を語ることも少なくない。従って、これを歴史資料とするには、裏付けをとらないといけないものである。

 それはともかく、この本のなかで、ちょっと疑問な点が幾つかある。

 360頁に、朴明寿さんという方の経歴がある。そのなかで

 「石炭採掘鉱業所に就職するが、事故のため二ヶ月で退職」

という部分がある。ところが彼自身の実際の体験談では次のように記されている。

 「次の日からその鉱業所に働くことになりました。 ‥‥わたしの仕事というのは、採炭夫が地の底か運んできたトロッコ一杯分の石炭を、所定のくぼ地に空けるごとに、帳面に印鑑を捺して彼らの仕事量を記録することでした。ある程度仕事にも慣れ、彼らと冗談の一つもいえるほど親密になってきたとき、彼らのなかの一人から“ハンコをもう一つ捺してくれ”と頼まれると、わたしも若かったし同情もしていたので“わかった”と捺してあげました。すると次の人にも“俺にも”ということで、頼む人みんなにおまけのハンコを捺すようになってしまいました。一ヵ月も経つか経たないうちに噂になるし、また捺されたハンコの数と積み上げられた石炭量とがずいぶんとかけ離れていることが明白になったので、事務所に呼びつけられ即刻クビになりました。」(363・364頁)

 要するに不正行為をしたから解雇されたのであって、経歴にあるような「事故で退職」ではない。この間違いはうっかりミスではあり得ず、作為的なものとしか考えようがない。 この経歴は取材者である成大盛なる人物が書いたようだが、どういう意図で、このような虚偽の経歴を作成したのだろうか?

 金徳玉さんという方の体験談に、次のような一文がある。

「アボジは『サンノム クル ペウミョアンデンダ(日本の字を学んではダメだ)』って、そういうの。だからわたしもそれで学校に行かれなかった。」(407頁)

 アボジ(父)の言葉のうち「サンノム」とは漢字で「常奴」と書き、身分の低い男性を指す。日本語では「下郎」「野郎」に相当する言葉である。従ってアボジは、下郎のような奴は字を勉強しなくていいい、という意味で言ったのである。

 これは当時の朝鮮社会の身分差別思想に基づくものであり、特に両班(朝鮮の上流階層)が有していた考えである。

 ところが体験談の執筆者(高秀美)は、これを「日本の字を学んではダメだ」と訳し、この節の小見出しにまでしてしまった。日本の差別語は「ウェノム」であり、朝鮮社会において下層階級を貶めて言う差別語が「サンノム」なのである。下司の勘ぐりかも知れないが、アボジを反日民族活動家に仕立てようとしたのだろうか?という感想を持ってしまう。

 なお当時の朝鮮社会では女性差別が厳しく、女は字を知らなくていい、学校に行かなくていい、とするのが一般的であった。植民地時代でも女性の就学率は1割程度であった。

 この本は、52人の在日一世の体験談を集めたものである。この本の表紙カバーの見返し部分に、一世たちの由来を次のように記している。

「朝鮮半島に生を受けながらも日本の植民地政策に起因して渡日し、そのまま残留せざるを得なくなった人々」

 つまり来日の原因が「日本の植民地政策」であるとしている。ところが、52人のうち下記の方たちは戦後(解放後)の来日である。来日方法も合わせて、まとめてみた。

 3、梁義憲(38頁)1948年以降・「密航」  4、李錫玄(59頁)1946年頃・「闇船」  6、沈孝男(84頁)1950年・「ビザ」取得  10、朴勝子(140頁)1954年頃・「密航」  19、朴進山(277頁)1950年・「密貿易の漁船」  35、朴容徹(505頁)1948年・(前後の文から推測すると密航)  39、金時鐘(571頁)1949年・(前後の文から密航と分かる)  42、高泰成(612頁)1947年頃・「密入国」  46、韓在淑(675頁)1948年・(前後の文から推測すると密航)  49、高基秀(708頁)1951年・「密航」  52、高仁鳳(750頁)1957年・「密航」

 以上の11人の方は、戦後(解放後)に来日しており、うち正規の手続きを経た方はたった一人である。他はすべて不法に来日した方たちである。 こういった方々は「日本の植民地政策に起因して渡日」とは、決して言えないのは当然であろう。しかも52人中11人であるから、かなりの割合である。

 この本の782頁に≪読者の皆様へ≫のなかに次のような一文がある。

「本書には、『京城』『日韓併合』という言葉が頻出します。京城は、1910年から1945年にかけての、いわゆる大日本帝国による朝鮮半島の植民地時代、それまでの首都だった漢城を改めた呼称で、現在のソウルの大部分を示してはいますが、必ずしも同じ都市名ではありません。‥‥‥右に例示した言葉や表現は、歴史事実を曲解させたり、差別を拡大、助長させる恐れがあり、本来ならば使用をさけるべきです。」

 1910年に漢城を京城と改称したのは歴史的事実であり、また解放後の韓国が首都ソウルの市域を拡大していったので、京城とソウルは市域が違うのも当然である。従って「歴史を曲解させ」るという理由にはならない。

 また李朝時代に諺文(ハングル)の「ソウル」を漢字語で言い表すのが「京城」であることは、原田環氏の「近代朝鮮における首都名の表記について」という論文のなかで証明されているし、現在の韓国で発行されている総合雑誌『月刊朝鮮』理事の趙南俊氏も、「京城」は口語で使われる「ソウル」を漢字で書くときに使う文語であることを明言している。
 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dairokujuunidai
 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/hyaku11dai

 「京城」を「歴史を曲解させ、差別を拡大助長させる」とする考えは、誤りとしか言いようがない。

(参考)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainanajuukyuudai

 この本は52人の在日一世の体験談とされているが、次の二人は「在日一世」ではない。

 22、平野八重子(315頁~)  50、石梨香(718頁~)

 平野さんは元々日本人で、日本で生まれ育ち、在日朝鮮人男性と戦後の1947年に結婚している。

 石さんも元々日本人で、日本で生まれ育ち、在日朝鮮人男性と出会って5年経て1959年に結婚している。

 彼女らは結婚後は日本人ではなく朝鮮人として生きてきたが、朝鮮の地で暮した事がない。結婚後も生活の場所はすべて日本であった。

 この本では在日一世を「植民地時代から南北分断時代にいたる民族受難の歴史を異国で生き抜いた在日韓国・朝鮮人」(761頁)としている。従ってこの二人が「在日一世」でないことは明白である。

 在日一世でない者を二人も『在日一世の記憶』という本のなかに入れたのは何故なのだろうか? その理由・意図は、この本のどこにも記されていない。

 この本の編者である小熊英二は、「あとがき」のなかで在日の将来について次のように述べる。

「一世たちは、明らかに日本社会における『異物』であったが、現在の三・四世の在日はもはや言語的・文化的に日系日本人と差異はあまりない。日系日本人との通婚率も高くなり、国籍法が男女両系主義に変更していらい、生まれる子供は日本国籍になる可能性も高まっている。したがって、在日六・七世は存在しうるのか、存在するとしてもきわめて少数になるのではないかという疑念はでてきても不思議ではない‥‥‥

わたしは『在日』の存在は今後もなくならないと思う。‥‥

日本社会と『在日』の人びとが『在日』というカテゴリーを必要とするかぎり、どれほど文化や国籍の同化が進もうとも、『在日』は残りつづけるだろう。それは差別対象としてであるかもしれないし、日本社会を批判する足場としてかもしれないし、社会的権利を集団的に求めるためのいわば便宜的団結としてかもしれない。そうした必要がある限り、『在日』の存在はなくならず‥‥」(779~781頁)

 果たして日本社会が在日というだけで彼らを「必要」とすることがあるのだろうか?しかも「必要」というのが、「差別対象」であり「日本社会を批判する足場」としての必要性であるという。こんな必要性を有する日本人は、よほどの偏見に満ちたというか、人間性に問題のある人だ。 日本社会にとって必要な在日とは、日本社会に寄与・貢献してくれる人たちである。そういう存在ならば、在日が「異物」であろうが、「同化」していようが、まったく関係のない話である。

 また在日自身が「社会的権利を集団的に求めるためのいわば便宜的団結」のために「在日」を必要とするとある。 しかし小熊自身が書いているように、在日は日本国籍を取得していくのである。日本国籍を有せば、他の日本人たちと「社会的権利」の差はなくなる。差のないものを「在日」という理由だけで権利を求めることは、それは特権要求でしかない。

 小熊の論理では、「在日」のアイデンティティの源泉は、朝鮮半島や民族文化になく、日本との関係のなかだけにある。しかもそれは被差別・受難・被害という関係である。 小熊は在日を第二の部落問題にしようとしているようだ。




中隊長としての戦場体験と教訓⑧

支那事変間中隊長として百数十回の戦闘を体験、そこから得た「戦場心理」「戦場における指揮統率の秘訣」を学ぶ最適な書
            高杉善治(陸士37期)支那駐屯軍中隊長、歩兵22連隊大隊長等
■戦場における指揮官の責任観念

 戦闘が開始されると、各級指揮官は如何にしてこの戦闘を有利に進展させ、勝利に導こうかということで頭が一杯であろう。特に直接戦闘にたずさわる中隊長以下の指揮官は、死傷者を身近かに見ながら指揮をするので、自分の指揮の巧拙が直ちに結果として現われ、時によっては全軍勝利の基を開くことになり、また時によっては取り返しのつかぬ悲惨な結果を招くことになるのでその責任は極めて重大であり、できるだけ損害を少なくして勝つのが戦闘指揮の上手なやり方である。

 しかし、状況によっては、全軍の犠牲となり、損害をかえりみず無理な戦闘をせねばならぬこともあるが、その場合でも戦闘の指揮をうまくやれば、最少限の損害で目的を達成することができるのである。中隊長以下の指揮官は、戦闘の勝敗の鍵を握る直接の責任者であると同時に、数百名の貴い部下の生命を預る責任者であることを心に銘じ、上手な指揮をすることに全力を注がねばならない。実際私共も、いざ戦闘が始まるということになると、最初の展開(部署)を命じ、攻撃前進を開始するまでは随分心配するが、一度展開が終り、攻撃前進が始まると一安心するものである。
 
 そして戦闘間は、死生の問題などは忘れて、どうしたら速くこの戦闘を勝利に導けるか、どうしたら損害を最も少なくできるか、そのためにはどんな処置をしたらよいか、ということで頭が一杯である。そのために、ついわが身の危険を忘れ、無謀な行動をして死傷することも多々あることである。指揮官は自己の責任の重大なることを考え、軽挙盲動してはならないのと同時に、必要な場合には危険を冒かしても勇敢な行動をぜねばならぬこともある。常に慎重な行動ばかりしていると、憶病に見えて部下に馬鹿にされるおそれがある。

 戦場では勇敢にして、戦闘指揮の上手な指揮官は部下に信頼され、憶病でへまな戦闘指揮をやり、いつも損害が多く、不利な戦闘ばかりしている指揮官は、全く部下から信頼されなくなるものである。

 某大隊長が、太原の突撃の際、途中で敵の射撃を受けたため付近にあった便所の中に入って一時避難し、第一線の突撃が終ってからやって来たことがあったが、すぐに兵隊たちの噂となり、憶病者のそしりを受けた。この大隊長は、いつも鉄かぶとをかぶっていた。戦闘間は無論であるが、行軍間でも馬上でかぶっている。部下の将兵は誰一人かぶっていないのに自分一人だけかぶっている。理由は、戦場ではいつ、どこから敵の不意な射撃をうけるかわからないからだそうだ。しかし鉄かぶとというものは相当重く、誰でもなるべくかぶりたくないもので、なれてくると少々の戦闘ではかぶらない者もいる位である。大隊士気の中心である大隊長が、馬上豊かに鉄かぶとをかぶっているのではちょっとおかしな話で、兵隊達は、「大隊長が転任のときには、記念品として鉄かぶとを贈呈しようか」などと冷かし気分で話し合っていた。

 私は兵の心得として次のように指導していた。一旦戦闘が始まったら、各人は全知全能をつくして自己の任務達成に努力しなければならないが、犬死してはならない。死なずに目的を達成できるのが一番よいのである。そうすれば永く御奉公ができ、自他共に幸いを受けるのである。不注意や空元気のために戦死したり、負傷したりすれば自分の損ばかりでなく、中隊の戦力を低下することになり、戦いに戦ける原因となる。戦闘は一回だけではない。生き残っていつまでもお国のために戦わねばならないのであるから、細心の注意をもって臨まなければならない。と教えた。

 特別な場合を除き、戦闘では損害を最少限にして勝利を得るように指揮をすることか大切である。戦場では指揮官の功名心や、他部隊との競争心から無理な戦闘をすることが多々ある。中隊長以下の指揮官は、直接部下と苦楽を共にし死生を同じくしているので、そんなことは割合少ないが、連隊長以上の上級指揮官になると、直接戦闘の悲惨さを目撃する機会が少ないので、落ちついて冷静な作戦指導ができる反面、功名心とか、競争意識が働らくことがあり得ると思われる。

 武漢戦のとき、どの部隊が武漢三鎮に一番乗りをするかというので、ある部隊は健脚先遣隊を出し、またある部隊は落伍者続出を覚悟して昼夜兼行の強行軍をした。某連隊の如きは、軍旗を翻えしながら士気を鼓舞していたのもあった。こういうことは一面必要なことで、どうせやるからには立派な手柄をたてたいと願うのは人情であり、士気の上でも大いに効果がある。余り慎重過き、いつも他部隊のあとから進み、却って損害を多く出し手柄もたてられぬというのでは士気も阻喪し、指揮官への信頼もなくなってしまうから、同じ苦労をするなら、或果のあがるような戦闘指導をした方がよいと思う。ただそれが程度を越し、無益な損害を出すようなことは慎しまねばならぬと思う。

 英国のモントゴメリー元帥の回顧録を見ると、彼は損害を極力少くして目的を達成することを主義とし実行して、いる。第二次世界大戦のノルマンジー作戦の際、米軍と並んでドイッに反攻作戦をした際、米軍の進撃は非常に迅速であったが損害も多かった。英軍の進撃は慎重で遅かったが損害は少なかった。それで進撃が遅いといってアイゼンハワー総司令官からしばしば督捉を受けていたが、彼は彼自身の信念に基づいて行動し、損害を少なくして目的を達成することにつとめたといっている。アルジェリアの作戦においてもまた然りであった。

 これは、国民性から来る考え方の相違であるかも知れないが、旧日本軍は、どちらかというと人命尊重ということをやや軽視した感があったように思われる。あるいはそのため強かったのかも知れないが、将来の戦争の場合には大いに学ぶべきことであると思われる。私の中隊は初陣の広安門出動のとき、中隊長以下六十八名であったが、直接指揮をした戦闘は百数十回におよんだ。その中戦死者は兵三名、負傷者は将校一名、兵四名の極めて少数で連隊中で一番損害が少なかった。私が中隊を去ってから聞くところによると他に将校二名、准士官一名、兵十名が死傷し、六十八名中の無傷は四十七名であったらしい。

 私は前述のように、必要なときには思い切って大胆勇敢に行動させたが、必要時以外は、人命尊重ということを念頭に置いいて細心の注意をもって指揮した。しかしそれがため他部隊に迷惑をかけたり、卑怯な振舞をしたことはない積りである。

立派に目的を達成して来た。のみならず太原攻略のときには一番乗りの光栄を担うことさえでき、部下の士気は常に上がっていた。私の経験から考えて見ても、人命尊重に力を入れても戦力が鈍ることもなく、寧ろ常に充分な戦力を保つことができ、立派な戦果をあげることができると確信するものである。

 あれだけ多くの戦闘をしながら、これ程少ない損害で済んだのは天佑神助があり、運がよかったのだと思うが、また一面、中隊幹部の適切な指揮と、一兵に至るまで私の主義が徹底していて、皆がよくそれを守ってくれれたお蔭であると思い感謝に耐えないのであり、一同と共に喜んだ次第であった。

中隊長としての戦場体験と教訓⑦

支那事変間中隊長として百数十回の戦闘を体験、そこから得た「戦場心理」「戦場における指揮統率の秘訣」を学ぶ最適な書
            高杉善治(陸士37期)支那駐屯軍中隊長、歩兵22連隊大隊長等
   
■戦力のバランスを破る

 「戦捷の要は有形無形の各種戦闘要素を総合して、敵に優る威力を要点に集中発揮せしむるにあり」と旧作戦要務令では教えていた。これは、上は軍司令官から、下一兵に至るまでよく味わい、実行すべきことだと思う。

 ここでは主として第一線の中隊長以下の行動について述べて見たいと思う。
 敵との戦闘が開始されたとき、特に遭遇戦においては咄嵯の判断で決心をし、戦闘を開始せねばならないのが常である。戦闘に慣れないと型の如く正面に展開して漫然と射撃を開始する者が多い。特に未経験な若い幹部に多く見られるところである。決心がつかずに遅疑逡巡して戦機を逸するよりはましであるが、決心をする前には必ず戦術的判断をする余裕がほしいものである。任務、敵情、地形を大観し、如何にして彼我戦力のバランスを破り、敵に勝る戦力をもって戦うことができるか、ということを考えることが必要である。戦争に限らず、何事でも競争して勝敗を決する場合にはこの着意が必要である。戦略、戦術の根本原理は、戦力のバランスを破り、敵に勝る戦力をもって戦うことができるように、あらゆる手段を講ずることであると私は思っている。この根本原理をわきまえていれば、あとは常識でもできるものである。

 戦闘の諸原則も結局この大原則から生れ出たものである。典範令の原則はもちろん修得し応用せねばならぬものであるが、枝葉の原則に拘泥して、根本原則を忘れ、千変万化の戦況において創意と工夫に欠け、不覚をとることがある。
 私は戦後英国のモントゴメリー元帥の回顧録を翻訳したことがあったが、元帥の回顧録の中にも同じような意見が出ているのを発見して大いに意を強くしたものである。この考えをもって戦闘に当たれば、わかり切った失敗を繰り返すようなことはないと思う。

 平素の演習では、戦関関始前に指導官から「このときにおける指揮官の決心、処置」を問われるだろうが、戦場では指導官はいない。自分の判断で行動せねばならない。こんなことを聞くと諸君は、そんなこと当たり前ではないか、いつも演習でやっていることだから戦場だってきっとその通りできる、というであろうが、しかしなかなかそれができないのが戦場心理というものである。応召幹部が多くなり、訓練が精到でないためでもあろう。

 私は初めて敵弾を受け、戦闘がまさに開始されんとする時には、先ず軽機関銃一分隊位をもって正面に対する 準備を命じ、自らは職場付近の敵情と地形を大観し得る 地点に進出し、一ぷく煙草に火をつけて心を落ち着け、この状況で最も有利に戦力のバランスを破って勝つ方法はどうしたらよいかを考えた。そして極力正面攻撃を避け、側面あるいは背後から敵の意表に出て攻撃することにつとめた。これは戦術原則上当然のことである。ところが、内地から補充で来たばかりの幹部候補生や、応召の小隊長のやり方を見ていると、敵を見ると猪突猛進、型の如く正面攻撃をしていたずらに死傷者を出しており、自らも戦死する例が非常に争い。

 武漢攻略戦の折、某中隊(中隊長は現役)か予備隊か ら第一線の増援に出された。前方ハ○○米位のところに ある高地(高さ約二〇〇米)帯で、第一線が苦戦をしていたのでその増援のためであった。前面高地には敵が進出して占領しているのが双眼鏡でよく見える。この場合左右に友軍がおり、中隊は正面攻撃より他に方法はなかった。中隊は勇躍して正面からの攻撃を開始した。ところが、高地の中腹まで進むと敵の十字火特に手榴弾の狭撃をうけ、死傷続出して前進困難となり、午前十一時頃から攻撃を開始したのであるが、日没になるまで進退きわまり、進むことも、退くこともできなくなってしまった。夜暗を利用してようやく死傷者を収容することができたが攻撃は失敗に終った。

 この失敗の原因は、昼間山地の正面攻撃に際して、この中隊は谷間を前進したので、稜線(尾根)上から、重軽機関銃や手榴弾の十字火を受け、文字通り進退きわまって失敗したのであった。山地の昼間攻撃では、稜線伝いに商い所を占領しつつ攻撃するのが原則であり、常識であるのに、無思慮に猪突猛進して大きな損害を受け攻撃に失敗したのである。指揮官というものは、一度へまな戦闘指揮をやると沢山の部下の尊い生命を失うばかりでなく、その後部下の信用を失うことになるから特に注意を要する。

 同じで武漢戦の折、大令山という高さ約三〇〇米の高地の攻撃があった。これは第一連隊の小岩井中隊が攻撃に当たった。私は隣接連隊の本部にいたので、四〇〇栄位の距離でその奮戦振りを手にとるように見ることができた。敵は山の中腹から頂上にかけて十数名毎に分散して壕によって占領していた。小岩井中隊は各稜線伝いに歩々の攻撃を進めている。第一戦の兵もよく訓練されていて、岩かげを利用して一歩一歩敵に近づき手榴弾を投げては突撃している。最前線のところには日の丸の小旗が見える。第一線の位置を標示するためであろう。小隊長が軍力をかざして敵陣に切り込むのも見える。実に整然とした堅実な攻撃振りであり、あせらず、迫らず、悠々として一歩一歩と敵陣を攻略していく。指揮もうまいが、兵の訓練もよくできていた。実に立派な戦闘であった。これは山地攻撃で成功した例である。

 同じ武漢戦のとき、丁度秋の末で、満山紅葉の錦に包まれていた頃である。某大隊が標高二〇〇栄位の高地を攻撃していた。あたりは同じ位の高地帯であった。午後三時頃であったろう。山頂の敵が頑強でなかなかぬけなかった。するを山の麓の方から一条の煙が上がったと見ている中に煙は山肌に沿い頂上に向かって這うように登っていった。発煙筒をたいたのである。連隊長は電話で命令をして下から火をつけて山火事を起こし、山頂の敵を火攻めにせよといっていた。たちまち火の手が上がり全山山火事となり、さしもに頑強な敵も灰と化してしまった。戦わずして勝利を得たのである。楠正成の戦法みたいであるが、煙の這い上がる気象を見て直ぐ火攻めに気のついた連隊長の着意に敬服したものである。こんな戦法は平素の演習ではできないことであるが、戦場では勝つための手段として、適当なものは何んでも工夫し採用する着意が必要である。

 同じ武漢戦のとき、連隊は深い谷間の道路を追撃していた。両側は高さ四〇〇米位の高地がそびえ立っており、谷の幅は四、五百米位あった。谷に入ってしばらくすると右側の高地上に敵兵が現われ、続々増加をして射撃を開始した。連隊は真側面から、しかも行軍縦隊のままで約一コ連隊の敵から不意の攻撃を受けたので、一時はどうなることかと心配したが、連隊長は、落ち着いて部署し、一部をもって当面の敵に対せしめ、主力をして右側の山を迂回して、敵の左側背を攻撃させることによって有利な態勢に挽回し、苦境を突破し戦闘を有利に導くことができた。

 戦場では、警戒のための斥候、個所等を出すのをいやがるものである。連絡がとれなくなり迷子にしてしまうことがあったり、これらの行動を待っているため、主力の行動が遅れることかあるので、小部隊の分割派遣を極力避けたがるものである。私なども、中隊長のときには、目視し得る箆囲以外には斥候は或るべく出さなかった。その代り直接警戒を厳重にしていた。前記の場合も側衛の前進が遅れ、本隊の方が先に前進していたので、側面の警戒が不備であったのであろう。しかしこんな不利な情況でも、沈着適切な処置をとれば、彼我戦力のバランスを破り、戦闘を有利に導くことができるものである。

 要するに、直接第一線に出る指揮官は、戦闘開始前は勿論、戦闘間でも絶えず彼我戦力のバランスを如何にして破るかということを考えて戦闘を指揮することが必要である。これはいうことは易いが、いざ戦闘となると、特に第一線の弾の中では実行がむずかしいことである。

中隊長としての戦場体験と教訓⑥

支那事変間中隊長として百数十回の戦闘を体験、そこから得た「戦場心理」「戦場における指揮統率の秘訣」を学ぶ最適な書
            高杉善治(陸士37期)支那駐屯軍中隊長、歩兵22連隊大隊長等

■地形地物の利用

 日本軍の旧歩兵操典には、射撃と遮蔽のため些細な地物もこれを利用することを要求している一方、顕著な地物付近にい集しないように戒しめてあった。ところが実際戦場で弾の中を前進するときには、自然に顕著な地物の付近に集まるのが人情である。従って敵に対して、有利な目標となって損害を受けることが多いから特に注意すべきである。また敵から狙撃されていることを知ったときには、速かに位置を変換することが大切である。

 敵弾というものは、なかなか一発で命中するものではなく、身近に危険な弾が数発集まって来るものである。そのときには狙われているなと思い、速かに位置を変換するとよい。また戦闘間に遮蔽に適した地隙とか、提防のようなものがあるとそこに集まり停止するようになるのも人情である。これがまたすこぶる危険な場所であることを知らねばならない。敵は戦場の著名な地物に対しでは予め試射して置き、攻撃軍がその地物に集まったときに集中火をあびせ、大きな損害を与えようと待ちかまえていることが多い。

 前記山西のセッ口鎮の戦闘で、第一線大隊(私は第二線攻撃部隊にいた)が攻撃前進を開始し、ちょうど平素の演習のように勇敢に攻撃前進していた。すると敵前二〇〇米位のところに、敵陣地に平行するようになっている大きな地隙があった。攻撃部隊がこの地際に飛び込み、一息ついているなと見ていると敵迫撃砲の弾幕射撃が巡続数回行なわれた。地隙の内外は文字通り弾幕で覆われてしまった。どうなることかとかたづを呑んで見ていたが、果せるから死傷続出、前進は頓坐し、某中隊の如きは殆んど全滅に近く、無傷の者は数名しか残っていないということであった。あとで五師団の者に聞くと、この地隙は五師団がしばしば同じ方法でやられたところで「地獄谷」と呼んでいたところだったそうである。

 攻撃開始前に、隣接部隊(第五師団)の第一線幹部相互の連絡を密にし、事前に事情を知ることが必要であると思う。セッ日鎮の場合の事前連絡は一応したのだが、第五師団は再度の攻撃で死傷続出し、幹部の戦死も多く、これ以上の攻撃は不可能であるとし、駐屯軍の1コ連隊が来て突破できるならやってご覧なさいという態度だったので、地獄谷のことまでは言及しなかったのではないかと思われる。事前に中隊長以上全員が五師団の第一線に行き、連大隊長と会って連絡をしたのであるがそんな話は聞かなかった。当方としてもなぜ五師団がこんなに死傷者を出し、攻撃が不成功でおったかの原因を充分に検討することが不充分であったので、同じ失敗をくりかえすことになったのである。

 要するに戦場では、地形、地物の利用は最大限にすべきではあるが、目標となりやすいものの付近に行かぬことと、著名な地形地物の付近に長く留まらないことが極めて必要である。

中隊長としての戦場体験と教訓⑤

支那事変間中隊長として百数十回の戦闘を体験、そこから得た「戦場心理」「戦場における指揮統率の秘訣」を学ぶ最適な書
            高杉善治(陸士37期)支那駐屯軍中隊長、歩兵22連隊大隊長等 
 
「三不打(サンプータ)」ということ
 昭和十二年の秋、山西の戦線もようやく進み、第五師団は大道の嶮(けん)を突破して大原を目ざして前進したが、その前方セッロ鎮の堅陣にぶつかり、死傷者続出、前進困難な状態に立ち至った。それでわれわれ駐屯軍の萱島部隊は増援のために北京、通州の警備を後続部隊に委ね、セッ口鎮に向かって出発した。大道を過ぎて礦山用軽便鉄道で、平地泉というセッ日鎮の手前の部落に進んだ。

 その途中は行きちがう台車の中には、セッロ鎮で負傷をした将兵が一杯乗っていて、見るも気の毒な状態であり、目をそむけさせるものかあり、セッロ鎮の戦闘がいかに激戦であるかを物語っていた。途中ですれ違いの台車が共に小休止をした。その折近くの台車の中に乗っていた四十がらみの老大尉がいた。頭と足に包帯をし、左腕は骨折したらしくてギブスを当てて肩からつっていた。彼は私に声をかけて、これからセッ日鎮へ行くのですか、御武運の長久を祈りますよ、気をつけて下さい。旅順のような戦場ですからね。ついては一つあなた方に大事なことを教えてあげましょう。あそこの職場では支那軍に「三不打」という射撃法がある。

「三不打」とは
 一、敵が射撃をしている間は射たない。
 二、昼は射たずに夜射て。
 三、遠い敵は射たずに近よった敵を射て。
 ということである。

一、は敵が射撃している間は、敵の所在をよく見て置くために射撃をしないでいる。そして敵が前進を始めた
 ときに猛射をあびせるやり方である。
ニ、は日本軍は昼間は攻撃して来ないが、夜襲をして来るから、昼は射たずにいて夜射撃せよというやり方で
 ある。
三、は敵が遠い間は射撃をしても当らないら、最も効果的な近距離で射撃せよ、というやり方である。
 これは弾薬を節約し、効果的な射撃をさせるためにとった方法と思われる。
 このような経験談をしてくれた。なるほどと思っていざセッロ鎮の戦場に行って見ると、全くこの話と同様で非常に参考になった。

 日本軍は、とかく弾薬を浪費しがちであったが学ぶべきところがあろう。、
 セッ日鎮では敵味方が遠くても数十米、近きは二、三米で対峙した山岳地帯の攻防戦で、五師団か約二十日、われわれも約十日間、毎日毎夜、とったりとられたりを繰り返し、死傷七千と称し、全滅に近い中隊も相当あった由である。

 支那車の「三不打」戦法はよく徹底しており、このために随分損害をうけた。昼間の狙撃は実に上手で、壕から頭を出すと必ずといってよいくらいやられる。また壕に銃眼をつくって銃口だけ出して狙撃している日本兵のその銃眼の中を狙撃して命中させている。昼の戦場は朝食、昼食、タ食で、食事の分配(麓で炊事したものを山に持って来て各壕に分配していた)で壕から兵が出るときを狙って迫撃砲の集中射撃を約一時間やり、毎日これをくり返す。夜は日本軍の夜襲に際してはあらゆる火器、特に軽機関銃(チエコ)、手榴弾の弾幕をつくって阻止するというやり方である。

 日本軍の小銃射撃は制圧にはなったが、狙撃は下手だった。これはセッ口鎮ではなく武漢戦のときのことであったが、連隊本部の近くの民家から、敗残兵が二人(男に女の兵隊)突然逃げ出した。それっというので予備隊の一小隊で、距離約五十米先を逃げて行く二人を猛射したがさっぱり当たらぬ。二人はどんどん逃げて行く、一小隊が近距離で射ちまくったが遂に当たらず二人は逃げおおせてしまった。これはあわてて射撃したので、照準が不正確であったのと、だんだん遠ざかって行く目標に対して、照尺変換を忘れたためであったろう。

 戦場で不意に敵と遭遇した場合に、指揮官も兵もあわてて距離照尺を号令することを忘れ、ただ射てと号令することがしばしばある。初心者に多い。必ず照尺を示すこと、要すれば二重照尺(半数宛距離の異なった照尺)で射撃させるくらいの余裕がほしいものである。

中隊長としての戦場体験と教訓④

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 戦闘に経験のない幹部の現地教育
 私は内地から新たに補充されて来た幹部に対しては、最初から戦闘指揮をとらせず、初めて戦闘に参加させるときには、中隊長の手許に置いて、戦闘を見学させながら教育することにしていた。この戦闘は、なるべく軽い戦闘を選び、充分に勝算のある討伐戦のようなものがよい。一例をあげると、昭和十二年の秋に、私が北支の通州(通州事変のあった地)の守備に当たっていた頃、殆んど毎日のように討伐戦があった。そこへ士官学校を卒業したばかりの若い元気なY見習士官が着任して来た。
 
 一応口頭で初陣の心得を教えて置き、翌日もちょうど手頃な討伐があったので、見習士官を指揮班付として中隊長の手許に置いて出動した。夜中に出発して夜明けに某部落の前方四〇〇米位に到達したとき不意に敵の射撃を受けた。私は一時部隊に停止を命じて煙草に火をつけ、一ぷくしながら墓地のかげに入り、敵情、地形を観察して攻撃方針を定め、見習士官を呼んで問題を与えた。

   問  題
 この時における中隊長の決心
Y見習士官は顔色やや青ざめ、興奮した口調で。
   決  心
 中隊は一部をって正面から、主力をもって右方から敵の左側背を攻撃します。

と答えた。それから決心に伴う部署をきいて大体同意を与えた。私は予備隊の軽機関銃二銃をもって正面から牽制射撃をさせ、中隊主力は右側の高梁畑の中を遮蔽しながら前進し、敵の左側背に出て約二〇〇米の距離から不意に射撃を開始した。すると敵は狼狽してどんどん後退を始めた。そこでY見習士官に新任務を与え、「貴官は予備隊の残余を指揮し、敵の退路に迫りこれを射撃せよ」と命じた。但し余り深追いをしないこと、突撃まではしなくてもよいから射撃で敵をいためつければよい、という注意をつけ加えて置いた。

 Y見習士官は生れて初めての戦闘であり、初めの中はかなり興奮と緊張の様子が見えたが、中隊の勝ち戦を見て沈着と安心観をとりもどし、「中隊長殿!もういいでしょう、早く第一線に出して下さい」といきり立っていた。私共は、これ迄たびたびの戦闘で慣れているが、彼は初陣である。いくら軽い戦闘であっても、あなどってはならない。全力をつくして真剣にやらねばならぬことを諭し、持っていた恩賜の煙草一本をとり出して彼に与え、「しっかりやるのだぞ!」といって出発させた。すると彼は勇猛果敢、弦をはなれた矢のように、部落の右から背後を迂回して敵の退路に迫り、退却しつつある敵に猛射をあびせ、大きな損害を与え胸のすくような戦闘をし勝ち戦さの味を満喫することができた。

 戦闘も一段落したので、中隊は部落の西北端で前進を停止し隊伍を整理した。当方死傷者なし。しかし見習士官の部隊だけがまだ帰って来ない。心配になったので曹長を捜しにやってようやくつれ戻し、無事であったのでほっとした。彼は初陣の勝ち戦さにすっかり有頂天になって、中隊長の注意も忘れて敵を深追いしていたのであった。お目王を頂戴して引き下がった。

 補充兵の現地教育は、数も多いしこんなわけには行かないが、出発前には充分に戦闘の教訓を教え、事前に現地で古年兵のやりかたを見せつつ訓練して実戦的に焼を入れ直して置くようにした。内地での平素の訓練では、どうしても、敵の弾が来るという観念が充分でなく、あるいは極度に弾を恐れるようになったり、あるいはぼんやりしていて無益の損害を受けたりすることが多い。平素の訓練をもっと実戦的にすることが必要である。

中隊長としての戦場体験と教訓③

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 徴候判断
 戦線ではいろいろな徴候が現われる。特に幹部はこの徴候を迅速に把握し、正鵠に判断する能力が必要である前方の部落に敵がいるか否かは五、六百米手前で双眼鏡でよく見るとわかることか多い。農夫が畑に出て仕事をしていないとか、住民が部落のあちこちにかたまって何か話し合っているとか、全然人気がないとかいうようなところには敵兵がいることが多い。だんだんなれてくると第六感というか、敵がいるぞという殺気を感ずるようになるものである。ここまで行けば大丈夫。

 私の連隊長は、頭のよい戦術の上手な人だったが、中支作戦の追撃の時、約七〇〇米位の広々とした水田にぶつかった。ふと見ると向う岸には敵が相当数陣地を占領していて、閑散な射撃をしていた。このまま前進をしたならば、水田の中で相当な損害を受けやしないかと考えていた。すると前岸の敵兵の若干名が、あちこちで後退するのが見えた。連隊長は直ちに疎開前進を命じた結果は大きな抵抗もなく、前岸にとりつくことができた。このやり方は、追撃戦の性質から見て当然なやり方ではあるが、なかなか思い切れない場面であろう。速かに徴候を発見し、これに戦術的判断を下し、果敢な行動に出られた処置に感心したものだ。
 敵の靴跡、車両の轍痕、敵の捕虜や戦死者の隊号等は敵の退却方面を知り、如何なる部隊が前面に来ているかを知るために大切な徴候であることをしばしば体験した。

中隊長としての戦場体験と教訓②

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 弾の音と弾筋
 小銃や機関銃弾の音には「トン」「パン」「シュン」の三種があるとわれわれは射撃教範で学んだ。そして下志津の闘種射撃のとき一度だけ「トン」音と「パン」音を聞く体験をしたことがあった。「トン」音は発射音で「パン」音は弾が自分の頭上高く通過するときの通過音である。「パン」音は通過音であるが、音も大きくあたかも自分の頭上で破裂したような感じを受け、弾の音としては一番恐ろしい音で、ちょっと危険に思う音であるが、実際は一番安全な音である。私は戦闘問「パン」音が聞えるようになったら敵を制圧した証拠であり、前進の時機だと部下に教えていた。それは、敵がわが銃砲弾によって制圧され、二頭を濠の中にひっこめ、手元を下げて射撃しているときであり弾は高いところを通るので決してあたらないからである。旧歩兵操典に、分隊の前進の時機は、わが火力をもって敞を制圧した瞬時というのがあったが、それが具体的に現われた現象は、全く弾が来なくなるか、あるいは、この「パン」音が聞える状態になったときをいうのだと思う。激烈な戦闘間でも、敵の射撃には波があって、この「パン」音が出てくる。あるいは、わが方としては、この「パン」音を出させるように敵を制圧して前進の時機をつくることが必要なのである。

 次に一番恐ろしい音は「シュン」音である。これは地上1米前後の高さで、自分の身辺を通過する弾の音であり、ちょうど秋のススキの葉が風に揺られて出す音によく似ており、音は小さいが、敵に胆われていることが明らかであり、命中する公算の最も大きな弾である。この弾は、音が小さいので、うっかりしていると聞き逃してしまうから注意を要する。この音を聞いたときは、前進を見合わせるか、前進路を変更するか、あるいは敵を制圧する手段を講ずるか、いずれにしても、細心の注意と充分な準備をしてかからねば不覚をとることがある。

 これらの弾の音は、初めはなかなか聞きわけられないが、回数をかけ慣れてくるとすぐ聞きわけることができるようになり、「パソ」音のときには大きな姿勢で前進することもできるようになる。
 また弾には弾筋というものがある。地形や光線等の関係で、よく目立った地物の付近や、日光に暴露した目標の近くには敵弾が集中してくる。狙い易いからである。戦闘が始まって敵味方の射合いが起こり、彼我両軍の間にはタ立ちのように弾が落ち、一寸の隙間もないようにえるが、よく落ちついて弾着の様子を見ていると、友軍の前後に落下する弾着が土煙をあげてよく見えるようになる。その弾着状況がおる地点では疎になるものである。

戦闘に慣れた者は、この弾筋を絶えず見極めて進路を選ぶことができるようになるものである。弾着の濃いところを避けて疎なところを前進するようにする。ときには全く弾の来ないところもあるのである。この弾筋を見極められるようになれば一人前の戦闘員ということができよう。もちろん全体の中の個人として、自分の行動を許される範囲は制限されているが、その制限された行動範囲の中においても、おちついてよく見ると、弾筋は発見することができる。
特に直接戦闘に従事する中隊長以下の下級幹部は、絶えずこの弾筋を見極めて自己に許される範囲内で部下部隊を誘導し、無益の損害を避けることに努力せねばならないと思う。もちろん任務が最も重要であるから、任務を遂行するためには水火もなお辞せずという決意は必要であるが、その達成の手段方法については、極力損害を避けて効果をあげるように工夫することこそ、特に幹部の責任である。

 死傷者の一番多いのは、内地から初めて戦線に補充されてくるまったく戦闘経験のない兵や若い幹部と、少し戦闘に慣れて弾を馬鹿にしてかかる者である。前者は敵弾の威力を無視して平素の演習と同じ型で戦闘に加入するからであり、後者は敵弾の威力を軽視して油断をし地形地物の利用を怠り、不必要に大きな姿勢をするからである。初めて戦闘に参加する者が任務達成に忠実で、猪突猛進する勇気は壮とするも、戦争では実弾がくる。この実弾を如何に処理し、損害を最少限度にして任務を達成するかという思慮と、工夫に欠くるところが多いからである。戦争に慣れないのでカッとなり、沈着と冷静とを失い、工夫をする余裕がないせいでもある。内地から来たばかりの小隊長の指揮振りを見ていると、敵情、地形の如何にかかわらず、常に正面に展開して攻撃する者が多い。地形、敵特に応じて極力包囲迂回をし、戦力のバランスを破り、有利に戦うという工夫が足りない。

 武漢戦の最中に近衛師団から補充された新任少尉(幹部候補生)が、二十数名戦場に到着したことがある。夜間到着したのと戦場が激戦中であり、戦場での準備訓練をする余裕もなかったので、私は連隊本部の岩かげに彼等を集め、激烈な前線の銃砲声を開きながら初心者の心得を敢えてやり、直ぐに前線の中隊に配属した。夜明けになると前線から負傷者が担架に乗っかり、あるいは歩いて包帯に包まれて続々と下がってくる。一人一人顔と部除名を見てねぎらってやったが、その負傷者の大部分が昨夜補充されて来た人達で、特に小隊長が多かった。新しい服に新しい背嚢を鮮血に染めて担架に乗って下がってくる様を見ると胸がつまる思いがした。この場合は戦場での予備訓練をする余裕もなく、いきなり戦闘に参加させなければならぬ状況であったが、できる限り戦場での予備訓練をして、敵弾の性質をよく認識させてから本戦に参加させた方がよいと思う。

 また山西のセッ口鎮の戦闘中に、事変開始以来歴戦の兵が油断し、敵弾を馬鹿にし塹壕の上に仁王立ちとなり、敵方に向かって小便をしていた。たちまち敵の狙撃をうけ戦死したという馬鹿げたこともあった。戦友と度胸比べをして何! 弾なんかあたるもんかと力んでやったことらしいが決してこんな空元気を出すものではない。戦場では大敵たりともおそれず、小敵たりともあなどらず、どんな場合でもいやしくも戦闘をするときには細心の注意と全知全能をつくして事に当らなければならないのである。

 平素の演習訓練も、われわれが一度戦闘の経験をしてから見ると、敵弾を無視した形だけの訓練であったと思う。平素実際に弾の来ないところで、戦闘に経論のない幹部が教えているのだから無理もないが、これら無経験者には戦場の実相をよく知らしめ、実戦的な真剣な教育訓練をしておく必要があると思う。私は戦争中補充兵が来ると、戦争に経験のある老練な兵に各個戦闘教練をやらせて模範を見せ、両方を比較してここに隙がある、あそこに油断があると指摘して教育したものだ。戦闘は剣道の試合のようなもので、こちらに油断があり隙があると、敵弾はすかさず打ち込んでくる。一寸も隙のないようにしていなければならないのである。

 大東亜戦争中、満州部隊ではときどき実弾を使用した演習を行なって幹部に見せていた。これは内地の散開射撃に似たやり方ではあるが、トーチカ等の攻撃には本物の手榴弾を使用してやり、敵弾は来ないが、友軍の方は大砲も機関銃も全部実弾を使用して、実戦さながらの感を呈していた。内地ではこんな場所がないかも知れないが、危害予防に充分に注意して、在営間に少なくも1度はこんな体験をさせておくとよいと思う。

中隊長としての戦場体験と教訓①

支那事変間中隊長として百数十回の戦闘を体験、そこから得た「戦場心理」「戦場における指揮統率の秘訣」を学ぶ最適な書
           高杉善治(陸士37期)支那駐屯軍中隊長、歩兵22連隊大隊長等
死 生 観 
 人間は、誰でもできるだけ長く生きたいと願うのが本能であり人情である。戦争に従事する者でも、死にたくないと願い祈る心は同じである。「戦する身はかねてから、捨てる覚悟でいるものを、何で命が惜しかろう。ないてくれるな草の虫」という歌が戦争中流行したが、それは虚構であり、あきらめであって、人間本来の心ではなく、生きたい、死にたくないという気持が本心である。ただ当時の気持では、天皇陛下のためと、国家のために国防の大任を引き受けた軍人が、その責任と名誉のために決意した覚悟を表わしたものである。若き特攻隊員が、淡々として死を見ること帰するが如き心境で、死地に赴き得たのも、皆この決意から来たものであろう。
 現在は当時とは時代も変り、思想も異なって来たので今の若い人達には当時の我々の気持は理解できないかも知れないが、当時の軍人には確かにそういう信念があった。

 戦争では、いくら死にたくないと思っても、敵の弾丸雨飛の中を進まなければならない。従って、いつその弾がわが身に当たらないとは限らない。今まで隣にいた戦友がバタバタとたおれるのを見ると、自分の生命というものはほんの一寸先も保障ができない状態にあるのである。この時に臨んで、死生の問題をどう考えたらよいかという問題が起こる。なるほど戦争に参加する前に一応は戦死するかも知れない、死んでも仕方がない、と覚悟はきめて出発はしているが、いざ戦闘となり、射ち合いが始まって見ると、もう一度あらためて覚悟を決め直さなければならない気持になるものである。このときの覚悟が本当の覚悟である。この覚悟は、人によって拠りどころが違うと思う。全般的にいえば、「お国のため」だというあきらめに近い心であるが、ただ無意味に犬死はしたくない、という気持、何か尊く崇高な目的のために結びつけた犠牲心というものがないと、あきらめ切れず未練が残る。また指揮官という立場となると、多勢の部下を持っており、その尊い生命を預かっているので、その責任観念が起こり、自分一個人の問題に恋々としてとらわれていると、作戦指揮を誤り、任務を達成することができないばかりでなく、尊い部下の生命を無駄に失うことになるので、死を超越して指揮に専念せねばならぬという覚悟がおのづからできてくるものである。この覚悟がきまったときの心境は、実に清らかな気持がする。人間一切の欲望がなくなり、金もいらず、物もいらず、光風清月の思いである。この心境が仏教でいういわゆる「悟」を開いた心境ではないかと思う。しかし、凡人のなさけなさで、ひとたび戦闘が済むと、また直ぐもとの俗心にかえってしまうのが常である。いずれにしても、戦闘の始まった瞬間に、この覚悟を決めなければならない。ところが、この覚悟の決らない者がある。それは結局「悟」の開けない者で、兵の中にも幹部の中にもあるものである。                    

 私が参加した山西セッ口鎮の戦闘の際、某中隊の小隊長は、攻撃前進の命令が下って、敵味方の射ち合いが始まり、身辺に敵の銃砲弾が盛んに落下し、死傷者も続出してくると、顔面蒼白となり、ぶるぶる、がたがたふるい出して、射撃号令も出なくなり、岩かげにかくれて前進もせず、涙をぼろぼろこぼしていた。これを見た中隊長は、平素温厚でよく部下を可愛がる人であったが、決然立ち上がって、小隊長の襟がみをつかみ、畑の中に引きづり出し、どんどん敵の銃砲弾の飛んで来る中に二人共突っ立って「それでも貴様は将校か」とどなりなぐりつけていた。するとその小隊長はにわかに顔面にさっと血の気をとり戻したかと思うと、自分の卑劣な行為をわび勇猛奮起して飛び出し、落ち着いて射撃の指揮をしはじめた。小隊長は応召前は女学校の先生で、性質も女性的で、幹部候補生出身の少尉で、召集されて来たものであった。家庭にもいろいろな事情があったらしく、個人的には同情すべき点があったか、いやしくも小隊長として数十名の部下を持ち、その尊い人命を預かる職責にある者としては許さるべき行為ではないと思う。また、この際中隊長の採った処置も私的制裁に似ているが公憤であり、この場合そうするより他に方法がなかったのではなかろうかと思う。この中隊長は後に戦死をされたが、沈着勇猛しかも情味豊かな立派な人であった。

 戦場で死生に迷って覚悟の定まらぬ者は、心の練れていないインテリに割合多いように思われた。私の見た範囲では兵隊の中には見受けられなかった。それは、絶対服従の軍紀にしばられており、また戦闘のさ中、そんなことを考える余裕もなく、戦友と行動を共にせねばならぬ立場にあったので、卑劣な行為もできなかったばかりでなく、あまり死生の問題を深刻に考えず、割合あっさりと覚悟ができるせいでもあったと思う。思考力があり、ある程度行動の自由を許されている幹部の心すべきことである。

 生れて初めて戦闘に参加し、最初に敵弾の音を身近に聞いたときは、大抵の折は兵といわず、将校といわず、一時は顔面蒼白となる。私はそういう場面をたびたび見た。これもやはり敏感なイソテリに多い。某部隊長は頭よい人で、勇気もあり立派な部隊長であったが、今迄一度も実戦に参加したことがなく、中央部から初めて前線に出て来られた人だったが、前進中数発の機重射撃を受け、敵弾は頭上高くパンパンという音をたてて通った。パン音は相当大きな音がするので初めての者はびっくりするのが普通だが、この部隊長も例外なく咄嗟に首を縮めて土に伏して危険を避ける姿勢をとられた。見ると類面蒼白で緊張した様子がありありと表われていた。

 これは誰もが一度は経験することで、特に臆病だからというわけではないのであるが、戦争に慣れて弾の音によって危険の大小を識別できるようになった者から見るとまことに滑稽に見えるのである。近くにいた老練な兵隊たちは、この新任隊長の様子を見てクスクス笑っていた。これは平時において実弾の洗礼を受けさせる訓練をして置かないからで、平時の散開射撃の時に危険のないようにして実弾の音によってその遠近、高低を聞きおける訓練をして置くことが必要であると思う。

 私は支那事変前十数年軍隊にいたが、その間戦闘射撃のとき、実弾の下で実際にトン、パン、シュンの音を聞き別ける経験をしたのはただの1回しかなかった。それでも1回の経験があったので随分役に立った。また一方において特に幹部はこのような場合に泰然自若としておれる修養も必要であると思う。
 戦闘に慣れてくると、敵の弾もそれほどこわくなくなり、兵隊達も立ったままで、敵味方の射ち合いを見物しながら面白がっていたりするようになるものだが、これは勝ち戦さの場合であり、大会戦の前夜だとか、苦戦が予想される戦闘では、毎回相当深刻に死生のことを考えるのが人情である。今度こそはやられるかなという気持になるのである。こんな場合、私は部下の兵隊全員にハガキを数枚もたせて置き、今度は危険だなと思われる戦闘の前夜に、全部の者にハガキに遺言をかかせて集め、封印をして預かることにした。私も従軍手帖に何かそれらしい最後の言葉を書き残すことにしていた。そうすることによって、肩の重荷がおりたような気がして、心がはればれとし、いつ死んでもいいという覚悟が新たに決まるのである。

 戦争に出るときには、親戚、知人その他から沢山のお守り札や千人針等を大抵の者がもらって腹や腰に下げていた。苦しいときの神頼みで、こういうものを身につけていると、なんとなく弾があたらないような気がする。
理論的には通俗的であり、実際の効果は、あるか否かわからないか、お守りを持ち、千人針を身につけていると、自分の体は、神様が守っていてくれるから弾にあたらないのだという安心感を持つようになることは確かである。この安心感があるので心に余裕ができ、落ち着いて平常心をもって事に当たることができ、敵の弾筋の判断、地形、地物の利用も適切となり、指揮官は落ち着いて指揮かできることになり、結果的には身を守ってくれることになるものである。これは私の先輩の中隊長のことであるが、山西に出動前有志で夜会食をした。そのとき彼は大分メートルが上がって、満洲事変以来、いつも肌身離さず腰に下げていた沢山のお守りを全部焼き捨ててしまった。そんなことをすると罰が当たって戦死をするぞと皆から冷かされたが、数日後、山西のセッ口鎮で戦死をしてしまった。

 縁起をかつぐわけではないが、こんなことはしない方がよいと思う。私は郷里の氏神様と成田山のお守りを持っていた。事変か始まってから、天津の知人から金属製の観音様の像(メダル式にさげるようにできていた)をもらったので、それを刀帯の前部の環にぶらさげていた。それから母のかたみのシャリコウベの数珠を常に軍服のポケットに入れていた。もう一つは義父のかたみの軍刀(虎撤)を持っていた。

 これをもっていることによって、氏神様と父と母とがまもってくれているから大丈夫だという安心感を持っていた。中支の武漢戦のとき、前進中敵弾が私の腹部に命中した。相当のショックを受けてその場にしゃがんで、てっきりやられたと思って腹を押えていた。やがて手をとって見ると血が出ていない、不思議に思ってよく見ると、刀帯の前部にさげていた観音像がぶち切れて、どこかに吹き飛んでなくなっていた。恐らく敵弾がこの観音像に命中してそれたのだと思う。この観音像のお蔭で私は命拾いをしたわけだ。これは迷信であり、奇蹟であり、偶然であったのであろうが、戦場でこんなことがあると、神仏の加護だったとしみじみ有り難く感ずるのである。

 いざ戦闘が始まるというときには、時間の余裕があったならば大便をして置くことは心が落ちついてよいものである。私は自らもこれを実行し、部下にもこれを励行させた。これは一見妙なことのように思われるが、用便することによって心が落ち着くのと同時に、万一腹部に敵弾があたった場合に助かる公算があるという実効ももっているからである。何か大事に臨むときには、一つたして見たらよい。
 要は平素心の修養ができていて、戦場でも平常心を失なわないようになっておれば、こんな迷信じみた事に頼る必要もないのであるか、凡人の悲しさ、いざとなると、こんな事にも頼りたくなるものである。

貞節を守るために自決した真岡郵便局の「九人の乙女」

 日本帝国の敗戦近しとみて無法にも火事場泥棒的侵略戦争をしかけてきたソ連軍。そのソ連軍が惹き起した大和撫子の悲劇は、満洲国新京の従軍看護婦だけではなかった。
 昭和天皇「樺太にいのちをすてしたおやめのこころおもへばむねせまりくる」と詠まれた真岡郵便局九人の乙女の自決である。

 八月九日、樺太を南北に分ける北緯五十度の日ソ国境線を突如として侵し、海陸から侵入してきたソ連軍は十五日の日本敗戦後も南下を続け、二十日には真岡市街に艦砲射撃を行ってから上陸してきた。

 樺太庁が十六日に発令した緊急疎開命令をうけて、六十五歳以上の老人と十四歳以下の児童幼児そして婦女子の大半は、波荒い宗谷海峡を渡り北海道へ向かっていたが、身の危険を覚悟のうえで残留していた若き女性も市内にはいたのである。
 真岡郵便局では、健気にも「電話交換業務を維持するため」二十二名の女子交換手が、昼夜二交代で非常体制に就いていた。

 疎開命令が全ての婦女子を対象にしていたため、郵便局の電話交換業務は真岡中学の男子生徒にあたらせる方針であったが、熟練を必要とされる任務でもあり、日頃より公務の重要性を自覚していた女子交換手たちは自ら志願したのであった。また電報を扱う電信課の女子教員からも同じ理由で残留志願者がでている。

本人の意志とは別に家族の事情と感情もあり、それまでの一班を十二名とする三班の三交代制から、高石ミキを班長とする高石班十一名と上野ハナを班長とする上野班十名が、最終的に残留と決まったが、二十日のソ連軍上陸時に局内で勤務していたのは高石班である。そして悲劇は起った。

 二十日未明、幌泊にある監視哨からソ連艦隊が真岡に向かっている、との急報をうけた真岡郵便局では非常呼巣でかけつけた男子職員が暗号解読表を焼却するなど、最悪の事態にそなえて慌しい雰囲気に包まれていたが、そこへ沖の洋上に姿を現した軍艦から艦砲射撃が浴びせられたのだ。突然の砲撃に大混乱に陥った市内に、続々とソ連兵が軽機関銃を威嚇発射しながら上陸してくる。

 郵便局にも負傷者が逃げ込んでくるなど極限状態のなか、女子交換手たちは未だソ連車が侵入していない南樺太各地言址の郵便局電話交換台に状況を伝えたのち、次々とかねて用意の青酸カリを呑んで自決したのである。その一人である伊藤千枝が泊居局の交換手に最後の電話言言い遺した>「わたしも乙女のまま清く死にます」の言葉が全てを尽くしている。
 昭和三十八年、北海道稚内市の宗谷海峡を望む公園に旧樺太島民の殉難者を慰霊する『氷雪の門』碑と、真岡郵便局の自決者を鎮魂する『九人の乙女の碑』が建てられた。前掲した昭和天皇の御製は、昭和四十三年にこの碑をご覧になられたおりに詠まれたものである。また香淳皇后もこのように詠まれている。

 樺太に露ときえたるをとめらのみ
 たまやすかれとただいのりぬる


真岡郵便局の「9人の乙女たち」

昭和の戦争記念館 第5巻 名越二荒之助編 展転社から抜粋 

大東亜戦争「玉砕」一覧表

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大東亜戦争「玉砕」一覧表

昭和の戦争記念館 第5巻 名越二荒之助 展転社からの抜粋

マニラ法廷 フィリピン軍による戦犯裁判

■モンテンルパの死刑囚はゲリラ戦の報復だった
伊藤正康(陸将 陸自富士学校長、”あゝ モンテンルパの夜は更けて”の作曲者)
ーー途中から抜粋ーー
比島軍事裁判は一体何であったか。一言に要約すれば、基本的には米軍のそれと同じであり、その二番煎じでしかなかった。米軍当時の調査資料がそのまま踏襲されただけで、独自の調査活動はなかったように思う。両者ともに裁判は人道と正義の名において行われたが、裁かれた側から見れば、戦勝国が敗戦国の個人に対して行った「報復」以外の何物でもなかった。比島軍事法廷では時として反日感情が露呈し、判決の結果から見れば、米軍以上に厳しかったといわざるを得ない。
 比島裁判第一号工藤ケースの工藤忠四郎氏(秋田県)は私と同連隊(歩兵第十七連隊)に属し、彼は中隊長、私は連隊本部の幕僚(兵姑)であり、起訴項目(バイにおける住民殺害の責任)について彼とその中隊がまったく無関係であることを私はよく知っていた。それゆえに日本人弁護士K氏からの依頼で某日弁護側証人として法廷に立った。K氏の質問に対して、私が答えようとする矢先、検事が立って「この証人は同じ罪名ですでに起訴されている。本証人の証言は信用するに値しない!・」ことを主張し、ついに私の口は封ぜられてしまった一幕を、今も思い出さずにはいられない。

 昭和二十二年十一月六日、工藤氏は、死刑を宣告されてマンダルョンの独房舎に入れられた(比島軍事裁判の死刑第一号)。 やがて私の出番となる。ほとんど工藤氏と同じ罪名だったので、工藤氏を担当したK氏に私の弁護をお願いした。 開廷劈頭、検事側証人が現われ、事件発生の経緯を述べたかと思ったとたん、被告席にたった一人座っている私を指さして、「この男が現場の責任者だった!」と供述したのには、当方が驚いた。バイという場所へ私白身今まで一度も足を踏み入れたことがなかった。それだけに裁判で負けるとぱ思ってもみなかった。この後の弁護側証人、私自身のアリバイ証言も、事件の生き残りと称する一人の住民の証言には勝てなかった。昭和二十三年一月二十一日、私もまた工藤氏同様に死刑を宣告されてしまった(死刑第四号)。この日からマンダルョンにおける独房生活が始まった。先に判決を受けた工藤氏はもとより、その時点ではまだ、米軍により死刑の宣告を受けた人々が約十名残っていた。
 独房に入ってから自分の裁判について考えてみた。結局は法廷に現われた住民の証言を根本から覆すだけの資料がなかった。ただ自分自身のアリバイを供述するのに精一杯で、住民の言うような事件なんてものはなかった。住民の証言は嘘だと主張できなかったところにわが方の弱昧があった。

 昭和二十年二月上旬のある日、―すでにリンガエンに上陸した米軍も、ナスグブに上陸した米軍もともにマニラヘ進撃していた。―食糧収集に出かけたわが約一個分隊ぐらいが、バイにおいてゲリラによって全滅したことが報ぜられ、その翌日所在の部隊により報復的ゲリラ討伐が行われたことも耳にはしていたものの、その細部を私は知らなかった。所在部隊が前述工藤中隊でなかったことは確かだが。結局のところ、工藤氏も私も、日本車の行った報復討伐に対する報復裁判だった。
比島側にしてみれば、被告は日本人でさえあれば誰でもよかったのであろう。

 これに類する事例は他にも限りなくあったと思うが、具体的に述べようとすると残念ながら明確な資料は私の手許にはない。ただ一つ後述する中村ケース(十三名)はセブ島の事件で責任をとらされたのであるが、この十三名のうち少なくとも四名は、当時その島にいなかった。にも拘らず判決は、全員死刑を宣告されてしまった。
 戦後比島側により誇強調文張されたにせよ、日本軍によって戦時中犯された数々の事件をいまさら言い逃れようとは思わないが、そのほとんどが比島側の「ゲリラ」によって触発されたこともまた明白である。
強調文
 比島の「ゲリラ」とは一体何であったのか。その多くは、開戦初期日本軍による比島攻略作戦時、すでに米軍の構成員だった比島軍人である。米軍の降伏時、同時に彼らも降伏したが、日本占領時代の初期釈放された(ルソン島だけで十五万人もいたといわれる)。釈放後、マッカーサー再来を信ずる軍人の多くが「ゲリラ」となり、米軍将校の指揮下で、占領日本軍に反抗し、あるいは反抗するよう住民を扇動していた。
 マッカーサー将軍は自らの予言どおり、昭和十九年十月大軍をもってレイテに進攻、さらに昭和二十年一月ルソンに進強調文攻したのである。これと軌を同じくして、各地のゲリラが一斉蜂起しないはずはなく、住民もまたこれに同調したことは紛れもない事実である。

 米軍の上陸と同時に戦闘を強いられた部隊からは、戦犯者は出ていないと思う。逆に米軍上陸から本格的戦闘まで、若干の時間的余裕のあった部隊(私の部隊はその典型だった)では、戦後多くの戦犯犠牲者がでている。米軍来攻以前に行わざるを得なかった「ゲリラ」との対決が、多くの住民を捲き込んでしまったと、弁解がましいが言わざるを得ない。とは言ってみても、その行為が今日正当化されることはないであろうが。
 比島におけるゲリラとはそのようなものだった。もとより戦後彼らの多くは、英雄視され、米軍人として当然の報酬を受け、各方面で活躍していた。

戦記シリーズ23「戦争裁判処刑者一千」 新人物往来社

ソ連軍は満州で何をしたか

 日本の人的犠牲と物的被害
 昭和二十年八月九日午前零時を期して行われたソ連軍の満洲、樺太、千鳥に対する侵攻は、あらゆる意味で不当なものであった。 ここではソ連軍が満洲地区で日本人に与えた人的、物的被害を一覧表にして掲出した。 これをご覧になれば、ソ連が如何に無法で悪辣なことをしたい放題していったか、更には、日本の敗戦七日前に突然参戦したスタlリンの狙いもあわせお分かり戴けると思う。人的被害の中で民間人二十数万が死亡しているが、大東亜戦争の戦域でこれほど多くの死者を出し、しかもその多くが終戦を過ぎてからのものである。 このような地域は他に例を見ない。その上に現地人の妻となった婦人や、残留孤児となった乳幼児も数千人をくだらないのである。

 物的被害はこの表でも分かるように、現在の価格にしたら天文学的数字のもので、これらを掠奪同然に持ち帰り、または破壊したのである。一般的に、満洲国の産業施設の四割が撒去され四割が破壊されたといわれている。米国ポlレl委員会の報告は、その意味で大変貴重なものである。

 ソ連のこれらの行為に対し、中華民国は当然抗議をおこなった。満洲が中国領に復帰する以上、満洲における日本の財産と満洲国の遺産は、すべて中国に帰属するのが自然との理由である。この抗議に対するソ連の回答は、 「満洲の施設はソ連の『戦利品』とみなす」というものだった。

 何をかいわんやである。それのみかソ連軍は役務の報酬や資材の買人れに軍票を発行した。
公称九十九億円というが、そのため招いたインフレが日本人難民の困窮の度を一層高めた。日常物資の生産を行いたくともそれらの施設はすべて持ち去られるか破壊されていた。

 ソ連がおこなった占領政策は、大東亜戦争後のどの地域に較べても比較にならないほどその悪辣さが際立っている。そのために蒙った日本人の苦しみは、他の外地引揚者に比して格段に大きかったのである。

ソ連軍侵攻による人的被害(死亡者)一覧
各地の撤去状況

「昭和の戦争記念館 第2巻」展転社 名越二荒之助編から抜粋

Depot3(でぃぽ) 61テーマ一覧(21.8.22)

■20.12.8から21.8.22の投稿記事

·体験記 抑留ー引き上げ・復員 その2 (08/22)
·体験記 抑留ー引き上げ・復員 その1 (08/22)
·占領辞典  (08/21)
·この死からの脱出-私の引揚体験記 その5 (07/04)
·この死からの脱出-私の引揚体験記 その4 (07/04)
·この死からの脱出-私の引揚体験記 その3 (06/01)
·この死からの脱出-私の引揚体験記 その2 (06/01)
·この死からの脱出-私の引揚体験記 その1 (05/25)
·方面別海外引揚要図 (05/25)
·燃える空と地の間で---私の空襲体験記 (05/22)
·全国主要都市空襲被害状況一覧 (05/22)
·「降伏日本軍人」という身分と英軍による虐殺 (05/22)
·ベルリン陥落1945 ソ連軍の蛮行レイプ (03/10)
·ベトナム戦争に参戦した韓国軍元兵士たち (03/09)
·私の村は地獄になった (03/09)
·ああ, 震撼の韓国軍! (03/09)
·朝鮮戦争時の韓国軍にも慰安婦制度 (03/09)
·「抗日史観」を国家の「背骨」にせざるをえない韓国の「お家の事情」 (02/14)
·凛として サハリンの同胞を救った夫婦 朴魯学・堀江和子 (02/08)
·サハリン残留韓国人への支援問題 (02/08)
·サハリン(樺太)残留韓国・朝鮮人問題 (02/08)
·私が見た従軍慰安婦の正体 (02/05)
·米軍の性処理 ペトナム戦争とその後 (02/03)
·戦後補償の日独比較 (02/02)
·韓国・朝鮮の慰安婦 (02/01)
·左翼系在日朝鮮人騒乱史 (01/30)
·同胞4万救出作戦 (01/29)
·日本人抑留者が遺したウズベキスタンとの友好の絆 (01/29)
·近衛文隆 ~ ラーゲリに消えたサムライ (01/29)
·シベリア抑留 (01/29)
·北朝鮮帰国事業の実態 (01/27)
·進歩的文化人 の罪、北朝鮮賛美のプロパガンダ文集 (01/27)
·在日韓国・朝鮮人の年代別・地域別人数 (01/26)
·在日済州島人の「不法入国」から「特別在留」獲得まで 新聞記事見出し (01/25)
·戦後処理 在日一世の来歴調査と虚構の強制連行説 (01/25)
·釈放戦犯の洗脳と朝日新聞の日の丸論 (01/25)
·終戦直後の日本 対馬と朝鮮 (01/25)
·終戦直後の日本 李承晩ライン (01/25)
·終戦直後の日本 多くの暴動に積極的に関与した共産党系在日朝鮮人 (01/24)
·終戦直後の日本 パチンコと他人の土地の不法占拠  (01/24)
·終戦直後の日本 警察襲撃と朝鮮人のシャブ・コネクション (01/24)
·終戦直後の日本 警察権を無視した三国人 (01/24)
·終戦直後の日本 不逞行為をする朝鮮人たち (01/24)
·敗戦による朝鮮半島引揚げの惨事 ③ (01/13)
·敗戦による朝鮮半島引揚げの惨事 ② (01/13)
·敗戦による朝鮮半島引揚げの惨事 ① (01/12)
·満州帝国の崩壊 日本人の流浪と抑留 (12/28)
·満州開拓団と義勇隊の悲劇 (12/26)
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·米豪軍の日本兵に対する残虐行為(リンドバーグの衝撃証言から) (12/17)
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体験記 抑留ー引き上げ・復員その2

一億人の昭和史 日本占領 1降伏・進駐・引き上げ から抜粋

■ 南十字星の下 妹尾英男

 北部マレーのビドル収容叫にいた私たちが、シンガポールに移送されたのは昭和二〇年の暮れであった。シンガポール島の西端ジュロンと呼ぶ一帯は、丘陵と湿地帯からなる荒蕪地である。敗戦直後、シンガポール在留の日本人はいち早くこの地にバラックを建てて集団生活を営んでいた。ほどなくマレー半島、スマトラの一般邦人も逐次送られて来て、いわば内地引湯の中継地となっていたが、ピーク時には、四、五万人にも達していたであろう。
一棟に約三〇人が起居できるバラックが整然と建ち並んでいて、集会所、野外劇場まで設けられていた、英軍は概してシビリアンには寛大で、ビドル収容所で味わったような強制労働も、ここでは行われていないようだった。
炊事の手伝いや、水汲みの使役に出る以外は、麻雀などで時間をつぶすのが日課であった。

 マラッカ海に日が沈み、シンガポールの街の灯が夜空に映える時刻になると私たちは香りの高い英国煙草をくゆらしながら、野外劇場をひやかしに出かける。出場者にはクロウトもいて、なかなかにぎやかなものだった。なかに丸顔のひどく歌の上手な少女がいて私たちを驚かせたが、この娘が久保幸江さんだとは後日知ったことだった。ジュロン抑留所での三ヵ月間は、私の人生の中でもっとも屈託のない安逸の時だったかもしれない。独身者の気楽さで、私はシンガポール残留を希望した
がいれられるはずもなく、翌二一年二月、廃虚と化した故国に帰還した。(神戸市在住)

■ 抑留列車 高崎初喜
 私たちは放心したように線路の上に立っていました。ここは北朝鮮の咸興より、二つ三つ南に下がった小さな駅でのことです。

 二〇年一〇月、ソ連軍発行のパスポートを手にした私たちは内地の土を踏める日が近いことを信じつつ清津駅をたちました、二両の貨車に二〇〇人もがつめこまれました。男は数人のみで、あとは女と子供でした。だが、やっと、ここまで来たときに、「機関車に牽引力がない」との理由で私たちの貨車二両を切り離して、列車は行ってしまいました。

 食料と水を求めて私たちは朝鮮人の村へ行き、戸をたたきました。「イルブンサラミ(日本人)には分けるものがない」と、かたく戸を閉ざし、屋外にある井戸のポンプまではずして家の中に持っていってしまいました。
 一日、二日とむなしく日は過ぎました。そして.三日目がきました。線路のはるかかなたに機関車の煙が見えたのです。みんな大喜びで手を振リました。間もなく列車はこの駅に止まりました。そのとき銃を持ったソ連兵が一〇人くらい降りて来ました。貨車には日本の軍人が捕虜として乗せられていました。言葉をかわすことはできません。黙ってお互いのあわれな姿を見つめあい、涙がほおを伝いました。兵隊さんたちも泣いていました。やがて、その貨車は北に向かって動き出しました。

 そのときです。「捕虜の身にこんなものはいらない」と叫んで毛布、財布、果糖などを私たちの貨車に向かって投げてきました。 「日本へ生きて帰れよ!」、「子供を死なすなよ!」と口々に絶叫しました。はたしてあのときの兵隊さんの幾人が、日本の土を踏むことができたでしょうか。  (金沢市在住)

■ トラック 金子正七 
終戦の日から一週間後、この新京にもソ連兵が進駐してきました。二五日、私と同僚の小野田さんが満州自動車の社用のトラックに乗って南嶺方面に物資の調達に行った帰り道、人影もまばらな官庁街の大通りを横道に曲がった途端、二人づれのソ連兵にバッタリとぶつかってしまいました。さっと自動小銃をかまえたソ連兵はトラックに停車を命じました。なにごとか声高にしゃべっているのですが、さっぱりわかりません。近づいて来てステップにあがり、さかんに新京駅の方を指さしています。そっちへ走れということらしいので仕方なく、ノロノロと車を走らせました。

 私たち二人はここで捕まってシベリアヘでも送られたら一大事だと目くばせしながら、脱走のチャンスをうかがいました。ソ連兵の任務はどうも自動車の徴発のようでしたが、とられてたまるかと大和魂がちょっと頭をもたげました。二人のソ連兵はヤケにしっかりと車につかまっていて、ふリ落とす機会もなくて、とうとう新京駅の見える所まで来てしまいました。なんと駅前の広場にはソ連兵がウジャウジャといました。そして徴発された自動車の列がずーっと続いていて私たちのトラックはその最後尾につけるように命じられました。しっかり停車したのを見定めて二人のソ連兵はステップから降りると前列の方へ報告に行くらしく、駆け足で車から離れました。「それ、今だ」とっさにバック! フルスピードで逃げだしました。二人は後ろから飛んでくるかも知れない弾丸の恐怖も忘れて、顔を見合わせて思わずニッコリと笑いました。

 しかし、トラックをカムフラージュして草むらに隠したかいもなく、中国人の密告で三日後、ソ連に召し上げられてしまいました。      (東京都在住)

■ トイレ 榎本 侑
 日本敗るの悲報全聞いたのは保定の陸車病院であったが、私の原隊である保定幹部候補生隊は、当時のいわゆる国共内戦で国府軍に加担し、ハ達嶺方面に出撃していたため、原隊復帰のできない私はそのまま北京に後送され、ここから内地帰還の部隊を編成して復員するということになった。 昭和二一年の一月、私たち日本兵を満載した無蓋貨車は、天津を目指して、折からの寒風をついて走ったのだが、長時間停車したり、またノロノロ運行などして、某夜、廊坊という駅に到着した。ところが、なんたることか、トイレで用を足しているうちに、復員列車は私を残して出発してしまったのだ。

さあ、たいへん。駅分哨の国府軍に尋問され、翌日、一般中国人の汽車で天津へ行くより方法がないという。だが、天の助けか、国府軍の装甲列車を見つけ、これに便乗、どうにか天津の駅までたどりつくことができた. これからがまたひと苦労。一目で日本兵士分かる軍服、しかも支給されたばかりの新品のものを着ているため、部隊の集結地を求めて市内を歩く私のあとを中国人がゾロゾロついてくる。身辺の危険を感じた私は人力車を見つけて、とにかく日本人のいる所へ連れてゆけというのだが、とんでもない所で降ろされて、べらぼうに高い料金を請求される始末。
 やっと日本人部隊の集結している集中営にたどリ着いたが、トイレの一件は笑えぬ大きなミステークだった。   (田無市在住)

■ 愛馬葬送曲 伊藤武雄
 異様な沈黙の列が続いている、南国の灼けた道に重苦しい列は延々と続いている。一頭、一頭、軍馬は兵に引かれてやがて丘の小道を登る。ときどき兵は愛馬の一肩を撫で首筋をたたいて、はげますがごとく慰めるがごとく呟くが、その目は暗く沈み、足どりは重い。やがて丘の中腹まで登ると視野が広がり、左側に地隙に似た断崖があって板の仮橋がかかっていた。その上に馬をとめ、一握りの青草を与える。それを無心にむさぼる馬に一発の銃声。いななく間もなく愛馬は谷底に転落し、やがてかすかに地響きがはい上がってくる。

 銃声は、軍馬への厳粛なる葬送曲であり、儀式の進行の合図でもあった。兵はみな唇をかみしめ、涙をこらえ、嗚咽を必死に押さえ、その冥福を祈るばかりであった。丘の下から愛馬たちは一列に登ってきつつあるが、銃声のたびに軍馬の耳は一様にビクンとはするけれど動揺はまったく見られず、さすが砲兵部隊とともに六年有余の砲撃戦を経験した強者としての貫録十分で、たのもしい限りだが、数刻の後に迫る運命を思うとき、哀れさが倍増されて涙があふれた。 こうしてこの日約一〇〇〇頭の軍馬が心収拾ならずも射殺され、バンコク郊外のナコンナヨークの丘は鬼哭啾々の霊場と化した。昭和二〇年一〇月四日のことである.。            (北九州市在住)

■ 水飢饉   飯豊 正五
 商工省から第一六軍軍政部付文官として派遣された私は、インドネシアのバンドンで終戦を迎え、その後、同地で強制使役をつとめたうえ、二十一年四月、ガラン島に島送リとなった。シンガポールから五時間ほどの赤道直下の無人島であるこの島は〟餓乱島″ともいわれたようにヤシの木すら育だない荒涼たる小島である。ここで四○日間、餓死寸前に追いこまれるまで過ごしたあと五月二五日、復員船となった空母「鳳翔」で帰国することになった。

 ところが、出航してまもなく、海水を浄化して真水に変える給水装置が故障してしまった。シンガポールに寄港できない当時、次の寄港地は台湾の高雄で、およそ一週間はかかるという。わずかの真水を貯蔵した給水タンクが五〇〇〇人を超す日本兵の命の綱となったのである。酷熱の南シナ海上、スシ詰めのカイコ棚の船室………そして水は一日たったコップ一杯、であった。

 なんとかして水を・・・というわけで舷側からバケツをロープにつるしてくみあげようとしても、二〇ノットのスピードである。バケツが水面にはねあがるだけ。せっかくくみあげてロにすると、そのあまりの塩からさに吐き出してしまうほどだった。

 窮余の策として、給水タンクの漏水に目をつけ、夜半、水泥棒に出かけるとたちまち見つかってリンチを受ける始末。はてはコップ一杯の水が腕時計や万年筆と交換というふいたらくとなった。この相手の甲板員は日本人船員であったと記憶するが、人間には水が食物より優先するとはいえ、浅ましい限りであった。          (東京都在住)

■ 星条旗    八子 淳次
 ホノルルから船で復員した。二一年十月のことである。復員船の中ではいまだ勝ち組の苦悩があった。祖国の無条件降伏が信じられないというのである。これはマッコイ収容所の暑い夏から始まっていた。「負けたという証明もないのに、なんで負けたと君たちは信ずるのか、陛下に申し訳がないではないか」というのだ。係員がいくら事実をありのまま説明しても、納得しようとはしない。「日本が負けたというその証拠を見せろ」「アメリ力から借りた船だなどというが、日章旗を掲げているではないか」と叫ぶ。

 やがて浦賀へ着いた。湾の水は青く美しかったが一隻の駆逐艦が片隅で傾いていた。恐るべき敗戦の事実がしだいに明らかになってゆく。赤十字から来た老看護婦が「皆さん、ほんとにご苦労でございました」と優しく出迎えてくれた。母のような声であった。それから広場へ出たら、アメリカで見慣れていた星条旗が、高々と中央に翻っているではないか。「畜生!」「ガッデム!」というやけくそまぎれの声が流れ、祖国はもう完全に星条旗の下に置かれているのだという感懐が、我我の胸を秋風のように寒々と吹き抜けてゆく。

 それから広場ではMPの手による所持品検査。タバコ三個と日用品は没収されない。だが、禁制品のUSAの記号入りの軍隊毛布を二枚、隠し運んできたヤツがいたのには仰天した。それは皇道派だかなんだか知らないけど、いつも立派な言葉を吐いていた男であった。
         (新潟県南蒲原郡在住)

■ 便器運搬   時岡弘志
 私たちは、第八七飛行場大隊の兵士として、スマトラのコタラジャで終戦をむかえたが、引湯の途中、シンガポールで現住民のストにあい、その代替要員として日本人作業隊となったが、幕舎の表門には、ジャパニーズ・プリズンと大書してあり、収容所はジョホールバルを指呼の間にのぞむゴム林の中にあった。

 作業隊は毎日幕舎から英印兵の引率で、徒歩で作業に出かけたが、ある中国人民家から七、八歳のこどもが小走りに出て来て、親しげに紙巻きタバコようのものをニワトリに餌をやるようにぱらっとまいた。日本兵は将校も兵士も先を争ってそれを拾ったが、実はそれは白い紙を巻いただけのものだった。

 作業場へ行く途中の道路わきに、旧日奉軍の軍票が山のように捨ててあり、風が吹くたびに空に舞った。我々より少し前にここに到着したものは、全裸でシンガポール市街を走らされたという話を聞いた。 作業場はカマボコ型の大きな倉庫で、その一棟々々にはI〇〇キロほどの米や砂糖、チーズの缶詰めなどがあり、英印兵の監視の目を盗んで、手を血だらけにして缶詰めを開け、むさばり食べた。見つかればもちろんチャンギーの刑務所行きであるが、それほど私たちは空腹だった。

 変わった作業といえば、大小便器の清掃である。六畳ほどのところに溜まっている大小便は炎熱の太陽のため、表面二〇センチほど固くなっていたが、それをスコップでとりのぞいて下にあるのを汲みとった。また、民家の便取りもあった。ある日、私たち二人が重い便器を持って二階の階段をおりていると、頭の上に落ちて来る液体がある。上を見ると同じ日本兵が四階の階段を、あふれた容器を運んでいた。             (玉野市在住)

■ 神霊    影山敏治
 二一年三月、国府軍の進駐で瀋陽(奉天)市内もやや平穏をとり戻した。私は当時、大和区青葉町の出雲大社教奉天分院院長を代行していた。 三月末の朝、軍装の将兵十数人が朝鮮なまりの強い医大生服の男を通訳にして入って来た。なにごとかと玄関に出ると「本日午後四時までにこの建物より全員退去せよ」という。私が「ここは日本人の神廟である。難民救済所として一五〇余人が住んでいる。退去できない」というと彼は「軍の命令である。昨日、営ロより到着した砲兵部隊を駐留させる」。私は「建物はすでに、国民政府瀋陽市公署に接収され、その管理を委任された責任者だ。承諾できない」と説明すると「軍の作戦行動上占領する」といいすてて彼らは引き揚げた。

 私はさっそく瀋陽市公署の邦人財産接収委員の李さんを訪れ相談したが「軍には勝てない」といわれ引きさがるだけだった。苦難! 受難! 時間はすでに正午を過ぎていた。その時あることがひらめいた。一週間前、紅梅町の元幼稚園広場で露天商一〇五店の開店合同地鎮祭をした折、列席した国府軍、宇中校と親交を誓ったことを思い出し、最後の神頼みと夢中ではせ奉じた。宇中校はしばらく腕組みをして思案していたが「督察組へ行きなさい、連絡しておきます。接双書を持奉して・・・」と助言してくれた。奉天ビル隣りの食糧会社跡の事務所へ走り込んだ。中国語で「この建物は督察組が管理する。許可なく立ち入りを禁ず」と書いた文書をいただいたのは三時半。正四時、彼らは現れたが、この文書を見ると即刻退去した。私は宇中校に感謝し、督察組の権力を改めて認識した。
 お陰で八月引き揚げるまで、出雲大社のご神霊と奉天神社のご神霊を無奉奉祭できたのである。
          (島根県斐川町在住)

体験記 抑留ー引き上げ・復員その1

一億人の昭和史 日本占領 1降伏・進駐・引き上げ から抜粋

■三十八度線  朝日 望

「さあ行こう」押し殺した男の声が暗闇の中から聞こえた。昭和二〇年一〇月初め、夜中の一時ころだろう、待ちに待った脱出の日がきた。朝鮮人の船を買収し北緯三八度線を海路突破するのだ。しかし本当に船に乗れるのだろうか、密告され全員逮捕されるのではないか、期待と不安を胸に二キロほど離れた港に向かった。

一〇〇人くらいはいるだろう。当時一七歳の私を頭に四人の弟妹と母の六人家族だ(父は十九年に死亡)。おとなたちに遅れまいと四歳の末弟の手を引き必死に歩いた。港にはソ連軍の目を逃れるため、防波堤の石垣の下に十トン足らずの小さな漁船が二隻あった。

 それを見ると整然と並んでいた列が急にくずれ、われ先にと乗りこみ始めた。おとなたちは自分の妻子を乗せるため人を押しのけ暴力を振るっている、小さい子供が泣き出す、私たちはじっと順番を待った。小さい船倉がすぐいっぱいになった。まだ数家族が残っている。おとなたちは「荷物を捨てろ」「もっとつめるんだ」と怒鳴りながら狂ったようにわが子を人の頭の上に投げ込む。どうにかみんな乗りこみ、私たちが最後に乗りこもうとしたそのとき「乗るな、もういっぱいだ」「お前らは残れ」の怒号。

 「私たちだけです。乗せて下さい。子供ばかりです。助けて下さい」。船べりをつかんで母は泣いて頼んだが、その手は冷たく払いのけられた。つかんでもつかんでも払われ、蹴とばされた。船はエンジンの音を押し殺し、沖に向かった。これがいままで生死をともにした同じ日本人だろうか。私は涙も声も出ず立ちすくんだ。どのくらいたったろうか、ふと我にかえったとき、聞こえるのは母のすすり泣く声と波の音だけだった。私は静かにいった。 「さあ元気を出そう。収容所に戻ろう、死ぬなら一緒だ。明日があるさ」。それからIカ月後、同じ港から脱出できた。(長野市在住)


■アクチブ  石川末隆
 アクチブ(活動分子)たちは、疲れきった捕虜を砂浜に並べ「これから第一、二、三分哨で、ソ連官憲の厳しい所持品検査がある。それに引っかかったら後戻りになる。そうならぬように正直に、針、ハサミ、ロシア紙幣を出せ」と、わずかの所持品全部を没収し、分哨に誘導する。

 そこには日本兵が朱に染まって倒れ、その背後では、財閥が酒池肉林に溺れている宣伝ポスターがあった。分哨に入るとソ連検査官が、我々の背を申し訳なさそうに触り「カネがあるか」「ない」と答えると「よしよし」と簡単に全員通過。わずかの所持品を没収された捕虜が「にっくきアクチブめ、日本船に乗ってみろ、海底に叩き込んでやる」と砂を蹴飛ばす。

 アクチブたちは毎日、焼けつく砂浜に我々を引っ張り出し、ソ連賛美、天皇、軍閥、財閥、地主を罵倒し、思想教育をする。そして数日後、我々は小雨の降るなかを岸壁目指したが、さして波浪はないのに、天候不良で船が接岸できぬと、またも幕舎に追い返された。

再び数日後、岸壁に行く。 日の丸をなびかせた船が接岸している。ソ連兵が人名の頭文字だけ読むと、我々はタラップを駆け上がりマストにしがみつき「おおっ、日本船には日の丸があるぞっ」と叫んだが、船員に「敗戦は事実か」とは恐ろしくて聞けなかった。我々はソ連の謀略にひっかかったのではあるまいか。ヒョッとするとこの船は捕虜交換船ではあるまいか。我々は生きて虜囚のはずかしめを受けた。日本軍の状況をソ連に提供したという想定のもとに、処刑されるのではあるまいかと、新たな恐怖におののくのであった。          (益田市在住)


■夫を失う 深山小百合
 旧満州国の安東市で苦しい難民生活一年ののち、持ちこがれた引揚の旅か始まった。第十三大隊、一行三〇〇〇人。老若男女を交えたこの多人数を引率する幹部も大変だったであろうが、一年間こじき同様の難民生活に心身ともに弱り果てた人々は、気力だけで足を引きずっている状態の人が多かった。出発後三日目 かすかな月明を頼りに、岩角にしがみつき、木の根にすがり、ずるずるとすべり落ちそうになるのを必死に手にさわるものに何でもしがみつき爪を立て、山中をあえぎあえぎ登った数時間。夫は一家四人の衣類や乏しい食糧を詰めた重く大きなリュックを背負って四歳の長男の手をひき、私は二歳の二男を背負って、互いに呼び交わしながら、命からがらの行軍であった。途中落後者が多く出た。"もうどうなってもいい、捨てて行ってくれ″という老婆もあった。

 ようやく平野に下り、荒れ果てた建物ながら雨露をしのげる宿を得てホッとしたのもつかの間、極度の心身の緊張がゆるんだ夫は、かねて栄養失調で衰えていたところへ心臓発作を起こし、わずか数時間で絶命してしまった、三四歳の若さで。この驚きと嘆きは一生忘れ得ない。

 安東市を出てまだ数日、先の長い引揚の旅の途中だというのに。翌日、空はよく晴れて、こんな悲しい出来事があるなどウソのように思われた。アンペラに包まれた夫の遺体は、すでに凍結しているので浅く掘られた土の中に埋められた。幼い長男が「土をかけたら出られなくなる……」と泣いた。無一物の難民生活一年、中国軍の激しい使役に疲れ果てていた夫。恋しい故国を一目見ることもかなわず異国の土になった夫。私は三十四年間、夫を思って泣いてきた。 (茨城県波崎町在住)

占領辞典 

一億人の昭和史「日本占領、2、動き出した占領政策」から抜粋

(ガリオア・エロア基金) 

飢えと焦土の中で決行される占領をスムーズに進めるためのカンフル注射と」て、アメリカが軍事予算から支出した対日援助費。ガリオア(GARIOA)は「占領地救済基金」として占領地の疾病や飢餓からくる社会不安防止のため食糧、医薬品などの緊急物資を、またエロア(EROA)は「占領地経済復興基金」として綿花、鉄、工業機械など経済自立のために必要な生産財を供給した。

 占領期間中に日本が受け取った援助総額は 一八億ドル(日本側の計算)にのぼったが、のちにこの援助は″もらったものか、借りたものか″が問題化。結局、昭和二六年六月、日米間で四億九〇〇〇万ドルを一五年の分割払い(年利二・五%)で返すことが合意された。

〔シャウプ勧告〕 
ドッジ・ラインを税制面から補完するため、コロンビア大学教授C・S・シャウプを団長とする税制調査団が二十四年九月に発表した税制改軍案。一四章十八万字からなる勧告案は①直接税中心主義②資本蓄情のための減税措置③地方財政の再編強化などを骨子とし、二五年度予算から早速実施された。

 これらの改革は戦後の日本税制の基本となったが、とくに「本年末、おそくも年度末まで滞納の一掃」が勧告された二とは、やがて「地田勇人(蔵相)オニより怖い。ニッコリ笑って税を取る」と皮肉られたほど、税金のきびしさを国民に体験させる二とになった。

〔対日理事会〕
 極東委員会とともに、昭和二十年十二月のモスクワ外相会議で設置の決定した連合国の対日占領管理機関のひとつ。米英ソ中の四カ国国代表で構成され、日本占領を実庖する連合軍最高司令官の諮問に応え、また必要な勧告、助言をすることを任せるとした。二十一年四月五日の第一回会議から講和条約発効直前の二七年四月二十三日の第一六四回会議まで、東京丸の内の明治生命ビルで定期的に開催。

 たとえば農地解放については、理事会の英国代表案がGHQ指令の基礎になるといった例もあったが、「(理事会は)最高司令官の日本管理における唯一の権威者たるの責任を分担するものではない」というマッカーサー演説(第一回会議)にもみられるとおり、初めからGHQとこの″助言者″との関係は微妙だった。とくに東西対立の激化につれて両陣営の露骨な宣伝の場と化し、議題のないまま開会即解散というケースも少なくなかった。

(パ一ジ)
 日本に乗り込んだ占領軍は、ポツダム宣言第六項に基づいて、、軍国日本を侵略に駆り立てた各界の責任者をいっせいにパージ(公職追放)した。二一年一月四日の覚書では″望ましからぬ人物″の範囲としてAからGまで七項が規定され、これによって二二年五月までに二〇万三六六〇人が公職を追われた。 だが初め″解放軍″として、共産主義者を含む左翼陣営に寛大だった占領軍も、国際情勢の変化とともに次第に右傾化。やがてパージのほこ先は共産党員とその同調者に向けられることになる。朝鮮動乱(二五年六月一五日)前後からいわゆるしッド・パージが本格化、総計一万一000人が職場を追われた。

〔プレス・コード〕
 昭和二〇年九月一九日のGHQ覚書で示された新聞規約。全部で一〇ヵ条から成り、「一、新聞は厳格に真実を守らねばならぬ」など″真実の報道””宣伝の排除″といったニュース報道の基本的なあり方を規定、同時に「四、連合軍に対し破壊的な批判を加えたり、同軍に対し不信や怨恨を招くような事項を掲載してはならない」など、占領軍に関する報道規制も盛られていた。このため、進駐軍兵士の犯罪報道には″大男の犯行″といった苦心の表現が使われたりした。コードに基づく検閲も厳重であった。

 実際に、重大なプレス・コード違反に問われた例は少なかったが、第一号は二三年五月二十七日付の「日刊スポーー『ツ」。アメリカのヌード・ショー上演に、GHQ貢献課長が関係したという記事が第一項及び第四項違反に問われたもので、軍事裁判の結果、編集局長が重労働一年(執行猶予)、同紙は六ヵ月間の発刊停止罰金七万五〇〇〇円の判決を受けた。

〔ポツダム勅令・政令〕
 昭和二○年九月二○日、勅令第五四二号「ポツダム宣言受諾に伴い発する命令に関する件」が公布され、連合国軍最高司令部の要求を実施するため、必要に応じ命令、罰則を設けることができるようにした。国会の同意を得ずに施行でき、あらゆる法律に優先するいわば超憲法的な効力をもつ法規であった。

 この緊急勅令に基づいて、さまざまの勅令や政令が出されたが、第一号は二一年二月二三日公布の勅令第一○一号(軍国主義・右翼団体の結社禁止)。この勅令第一〇一号を改正した政令菓六四号(団体等規正令)、国家・地万公務員の団体交渉、罷業権を否認した政令第二○一号(二二年七月三十一日)などがある。講和条約発効後、いずれも廃止された。 

〔極東委員会〕
 日本占領の基本船な政策を決定する最高機関として、昭和二〇年十二月、モスクワで開かれた米英ソ三国外相会議で設置が決められ、二一年二月に発足。米、英、仏、ソ、中、加、豪、オランダ、二ュージーランド、インド、フィリピンの一一力国(のちビルマ、パキスタンが参加)で構成され、ワシントンの旧日本大使館で定期船に会議が聞かれた。 占領政策の最高決定機関とはいうものの、現実にはアメリカの単独占領実施のため、ソ連との間に生まれた妥協の産物で、委員会の決定は米政府を通してのみ連合国軍最高司令官(SCAP)に伝達される間接的な役割しか持たなかった。それでも、マツカーサーが委員会発足前に新憲法草案を日本側に突きつけて、その改正を急がせたのは有名。

(指令・覚書)
 「日本の管理は日本政府を通して行われるが…必要があれば・・・貴官の発した命令を強制することができる」(二〇年九月六日 米政府通達)とあるように、占領政策の実施に当たって連合国軍最高司令官はさまざまの指示・命令を発した。七年弱の占領期間中、その数は大小二五〇〇件にも及んだといわれるから、 一日一件以上の計算になる。降伏調印にともなって発せられた第一号から九月二二日付の第三号までは指令(Drective)とされたが、それ以後は最高司令官覚書(SCAPIN MEMO)として、一定の形式によって日本政府に伝達された。

 このほか、最高司令官声明という形で″命令″の出されることもあった。二十一年三月六日の「憲法改正要綱に関する声明」や二十二年一月三十一日の「ゼネスト禁止声明」などである。また、二五年六月の共産党中央委員追放令のように、吉田首相あての最高司令官書簡という形式をとったケースもある。

〔オフ・リミット〕
 「立ち入り禁止」の意味。占領以来、この標示があちこちに立てられ、日本人にもなじみになった。占領当初、日本側の管理する倉庫に米兵が無断で侵入し、物を持って行く。「Don't enter」と掲示したがさっぱり効き目がない。MPに相談したら「OFF-LIMIT」と表示しろという。以来、ビタッと米兵の無断侵入はなくなったというエピソードもある。

特殊慰安施設で性病が発生すると、直ちにこの看板が出され、店はたちまち閑古鳥が鳴いた。それほど「オフ・リミット」の威力は絶大だった。 米兵向けだけではなく、日本人向けにも各基地などに、この表示が使われていた。

〔RTO〕
 占領後問もなく、国鉄の主要駅に「RTO」の大きな看板が出され、人目を引いた。国鉄もまた占領軍の管理下に置かれ、第八軍の第三鉄道輸送司令部(のち民間運輸局)が担当。その末端機関として置かれたのがRTO(RAILWAY SPORTATION OFFICE)で、各主要駅に陣取って占領軍関係の輸送とサービスに当たった。

 占領軍専用列軍の運行は最優先で、そのため国鉄は大変苦労した。専用客車として、展望車、寝台車、食堂車など九八三両(二十一年十月)が接収され、車体の白帯に「アライド・フォース」と大書した列車が各地を走った。なかでも高官用の特別列車は豪華版で、たとえば第八軍司令官専用の「オクタゴニアン」号は九両編成、食堂車は一一号御料車、展望車は一〇号御料車といったぐあい。満足な窓もないオンボロ列車にスシ詰めにされて旅をする日本人に、ため息をつがせた。

(GHQ)
 占領期を生きた日本人には忘れられない存在である。連合国軍最高司令部(ENERAL HEADQUARTERS  OF THE SUPREME COMMANDERS FOR THE WLLIED POWERS) )の略。対日占領業務遂行の総元締めで、進駐と同時に横浜に開設、二十年九月十七日からは東京・日比谷の第一生命ビルに移転した。

 日本占領は〟間接統治″だったが、実質的にはGHQが″政府の上の政府″として、二十七年四月二十八日の独立まで二四○○余日の間日本を支配、絶対権力を振るった。大きく分けて軍事面担当の参謀部(GENERAL STAFF)と非軍事面を担当する幕僚部(STAFF SECTION)があり、このうち、民主化推進の中心的な役割を果たしたのがホイットニーの率いる″進歩的な″GS(民政局)だったが、次第に諜報・治安を担当するウィロビーのG2(参謀第二部)との対立が進み、結局両者の地位は逆転、占領政策転換の背景ともなった。ニューディール派のGS次長ケーディスが、G2によって昭電事件や女性関係のスキャンダルを暴露され、職を去ったのはその象徴的な出来事であった。

〔地方軍政部〕
 GHQを本社スタッフとすれば、その出先機関としてラインの役割を果たしたのが地方軍政機構。原則として四八都道府県に置かれた″府県軍政チーム″がこれに当たる。第八軍管轄下に、全国八つの地方軍政部がそれぞれいくつかの府県軍政チームを統括した。(二十一年七月現在)

 府県によって大中小の三ランク(東京、神奈川、大阪を除く)に分かれ、小クラスで中佐以下三十一人、中クラスで中佐または大佐以下四〇人、大クラスで大佐以下四七人といった陣容。二十二年七月現在で、軍政要員は総計二四三九人を数えた。   
     
 占領政策が各地で忠実に実施されているかどうかを監視し、あわせて指導に当たるのがその主要任務。だが軍政スタッフの性格によって、任務遂行ぷりにも差があって、軍政部長自らトラックを指揮して税金滞納の差し押さえに乗り出したり、教員異動にまで関与するといった例(長野県)もあった。

〔ドッジライン〕
 米ソの冷戦が進むにつれ、占領政策を転換して、インフレに悩む日本経済の再建にその力点をおいたGHQは二十三年十月「経済安定九原則」を発表。さらにこの政策を推進させるため二四年二月、デトロィト銀行頭取ジョセフ・ドッジをGHQ財政顧問として招いた。ドッジは日本経済の現状を「米国の援助と補助金という二本の足に乗った竹馬経済」と診断するとともに、
①超均衡予算によるインフレ防止
②行政整理、企業合理化、耐乏生活③一ドル三六〇円の単一為替レート設定などの処方箋(ドッジ・ライン)を書き上げた。

 この大手術は直ちに】二十四年度予算から実行に移されたが、そのため日本経済は深刻なデフレ不況に見舞われ、金詰まり、倒産、失業が続出。銀行では預金が集まらず、嫁入り道具一式などの景品付き、最高三〇万円の賞金付きなどで預金獲得を競い合ったほど。

〔終戦処理費〕
  占領にともなう諸経費の負担については、当初明確な取り決めはなかったというから奇妙な話である。史上初の占領軍を迎えた日本側は、軍票使用阻止の一念で、占領軍に必要な日銀券の提供を約束し、事実、駐留経費を日銀の立て替え払いという形でまかなってきた。

 ところが二十一年四月、日本政府の負担とすることが明確となり、GHQの指示で二十一年度予算から終戦処理費が計上されることになった。調達命令(PD)によって提供される占領軍用の物資や施設、労務など直接占領経費はいっさいこの処理費でまかなわれた。たとえば二十二年度では歳出総額二○五八徳円のうち処理費五八五徳円、実に予算の三割弱を占め、その財政負担は大きかった。資金調達に悩む大蔵省の高官が、最高司令官あて″節約陳情〟の手紙を出したほどである。

 二十八年度まで総計四九六六徳円。このほか、兵器処理や進駐軍犯罪の見舞い金など間接経費も含めると五一三一億円で国民一人当たり六三一三円の負担となった。二十九年度以降は、対外処理費として存続した経費もある。

〔ララ物資〕
 アジア救済連盟八(LARA)が、日本など「アジア地域の生活困窮者を救うため、さまざまの救援物資(ララ物資)を送ってくれた。YMCA、アメリカ救世軍など宗教・労働関係十三団体で組織された大統領公認の慈善機関で、市民の寄付によってカン詰め、小麦粉などの食糧品や医薬品、衣料などを現物供与した。

 ララ物資の第一便が横浜港に到着したのは二十一年十一月二十九日。以来二十七年六月まで総計一万六二○○トン(日本円換算四〇〇億円)にのぼった。配分には日本政府が責任を持ち、各地の孤児・引揚者収容施設をはじめ、災害地や学校給食などにも特別配給された。恩恵を受けた日本人は一四〇〇万人にのぼるといわれ、各地でララ感謝の集いが開かれたほど。いまでも給食で飲んだ脱脂粉乳の味を覚えている世代も少なくないだろう。 

この死からの脱出-私の引揚体験記 その5

八人の赤ちゃんをとりあげて 末吉トク (当時・満州。図們で産婆を開業)

 私は朝鮮の平壌で十五年間、その後、終戦まで満州図們で、産婆を開業しておりました。終戦の年の五月に十九歳で次男が、七月には長男が現地召集され、八月には娘が結核に加うる栄養失調で亡くなり、戦後は雇用人も散ってしまって、にわかに一人になりました。二人の息子は戦後まで続いたソ連との戦闘で戦死していたのですが、引揚げ時には知らずにおりました。

 終戦の前日だったと思います。満鉄に勤めていた長男の友人が避難するようにと知らせてくれましたが、お産があって満鉄関係者とは別になり、三日ほどあとに町内の方たちといっしょに、朝陽川という処に集まりました。

 ここでIヵ月ほどいるうち、老黒山で降伏した日本兵が百人ばかり武装解除され、白旗を持ってソ連兵に銃を突きつけられながら来るのを見ました。生まれてはじめて見る白旗は何ともいえず、なさけなかったことは今も忘れ得ません。

 ふと、老黒山といえば長男がいたはずと夢中でさがしましたが、七月に入隊したばかりの新兵は捕虜となってソ連に連れて行かれたとのことでした。一ヵ月ぶりに家にもどると、まるで空家同然、台所には空びんやら割れた皿などが散乱していました。寝るふとんもないので、むかし使っていた中国人に頼んで敷ぶとんを一枚もらい、それで冬を迎えました。

そのふとんもどこかの日本人の家から盗んだものらしく思われました。 近所に小学校の公舎がありましたが、接収されて行き場のない先生の家族が産院をしていた私のところにまいりました。一部屋に一家族がはいり、七家族が引揚げるまで住みました。そんな冬の真夜中、突然三人のソ連兵か押し入って来て、かぶっていたシューバ(毛皮の外とう)まで剥いで行ってしまいました。寒さを防ぐために燃えるものを集め、ようやく冬を越しました。

 そして八月末、外出先から家の近くまで帰って来ると、町内の人達がすぐ引揚げだといっております。急いで診察カバンに産婆カバン、それに銘仙のもんペー枚をもって広場にかけつけました。あまりあわてたので、子供たちの写真を忘れて来たことに気付きましたが、ハ路軍が銃を向けて取り囲んでいるので、恐ろしくて戻れません。そればかりか荷物を調べられて、カバンを二つとも取り上げられてしまいました。さいわいにも、診察カバンのほうがひどく古かったせいか、その場で投げ捨てましたので、それを拾って汽車に乗り込みました。

 汽車とはいえ、無蓋の貨物車で、すでにチャムス方面から乗って来た人で混んでおりました。しかもこの一行には、夫や子供と別れ、出立の遅れた妊婦がたくさんおりました。結局佐世保に上陸するまでの五十二日間に、あちらこちらと乗り合わせた人達の中からハ人の子供が生まれましたが、妊婦とて着のみ着のままの有様でしたから、平時ではとても考えられないお産でした。私のカバンの中には僅かながら綿花、目薬、デルマトール、リソホルムなど入れておりましたのが投立ちました。

 汽車は、病人が出ると止まったり、また理由もわからぬ荒野でも止まったりしました。そんなとき配給のお米を機関車のお湯をもらって炊くのですが、お米がぶつぶつと煮え始めるころ、突然汽車が走り出したりして、ゴリゴリのご飯を噛んだこともありました。こんな中でのお産はいちばん大変でした。なにしろ狭くて、消毒液を溜めた盆の置き場にも困りました。綿花等は一片でも貴重でしたから、血を絞っては干して使いました。私の唯一の着がえのもんぺも、何枚かのT字帯に変わりました。

 ある日、病院のある町に着き、臨月近い妊婦はそこで全部降すことになりました。ところが病院側では、お産の用具を持たない妊婦につらく当たるというので、私が付いて降り、病院で場所とお湯を与
えてもらっただけで、三人の子供を取り上げました。全く人情も何もありませんでした。

 こうして、普通なら二日の道のりのところを、五十日もかかってコロ島に着き、すぐ船で佐世保に向いました。、船は八十人乗りぐらいの小さなもので、そこもすし詰めの状態でした。・コロ島を出て、すぐ産気づいた婦人がありました’。その人には看護婦をしている若い妹も一緒でしたが、その子がおんおん泣くのを、ほんとにかわいそうに思ったことでした。船長が親切な方で、手桶のようなものに水
を下さり、協力して下さいました。その後、佐世保沖でまた一人取り上げましたが、その子には船長が洋子と名付けられたのを憶えております。

 あれから三十年、私はいまも空っぽの古ぽけた診察カバンを大事にしております。これを見るたびに、八人の子供の生命を、そこに感じるのでございます。 私はことし八十六歳になりました。耳はまだよく聞こえますが視力も記憶もうすれました。ですが、私が持ちました体験を記録の一部に加えて頂ければ幸いと存じまして、恥ずかしいのですか、人にすすめられて応募いたしました。

この死からの脱出-私の引揚体験記 その4

■盲人と唖者の逃避行     近藤正兼 (21年4月北鮮・咸興より引揚)

 昭和二十年八月七日、予期しなかったソ連軍の進撃をうけ、私たち朝鮮、満州、ソ連の三国国境警備の朝鮮咸鏡北道慶興警察署署長以下百余名の警察官は、国境を死守するためわずかの武器であったが、怒濤のようなソ連軍に抗するにはあまりにも少数でありました。それにもまして住民保護が本来の使命でもあり、ソ連軍の追撃は隣の青鶴部隊に任せて、住民安全退避に全力を尽した。住民のしんがりとなってソ連兵の追撃を受け、家族達とも七日の夜から別れました。

 倒れる同僚の屍もそのままに農家の納屋に倒れ込み、そこの主人から戦争の終結を知ったのです。「早くお前達も避難民の群に紛れ込まなければ、自警団に捕まってソ連へ送られるから、早く逃げよ」とズボンとシャツをもらい、一路南下して羅南の方に線路ぞいに歩いた。食糧も金も持っていません。道ばたの馬鈴薯畑を掘り、とうもろこしやその茎の汁を吸って歩き、夜は橋の下や大きな本の下で眠りました。疲れと飢えを訴える子供達に、大人は食糧を得るために道ばたの農家や、先に引揚げた日本人住宅にはいっては、食糧を盗みました。そのため、村落ごとに自警団が日本人を寄せつけないようにしていました。

 その上ソ連兵の暴行略奪です。ピストルや自動小銃で女をさがす。なんの拒む力もない日本人は、死ぬよりつらい苦しみに耐えねばならない。女という女は、みんな丸坊主に刈り上げ、男装してはソ
連具の目から逃れようとしました。 私は別れた妻子の安否をきづかい、南へ南へと歩きつづけているある日、ふとしたことで妻と娘らしい人が咸興にいると聞いた。すぐ行ってみると、紛れもなく妻と娘が栄養失調で病み細った身体でうずくまっているのであった。「おい、おとうさんだぞ元気を出せ」。母娘はしばし声も出ず大きく瞳をあけロをパクパクさして従りついた。三人はただ必死に抱き合いました。娘は泣きながら坊主頭で、どんなに長い不安の旅であったかを話した。病気になった母とともに、幾度か死を決したという。

 「もう大丈夫だ’。おとうさんが来たからには、親子三人で日本へ帰るのだ。頑張ろうね」 しかし避難民には医者はいたが薬がない。それに食物はなにIつない。私は毎日街中を食糧を探し求めて民家の軒に立つやら、農家に行って手伝って食物をもらっては’それを粥にして三人で食べ、神仏に感謝したものです。やがて冬の寒さである。零下三ト度は、身一つで逃げ廻って来た人々にとって死を強制する寒さである。咸興に集まった二十数万の中の老人子供は、この寒さで次々と死んでいった。妻の衰弱した身体には、この寒さはあまりにもひどかった。ついに十二月八日、魂だけ先に日本海を渡り黄泉路に旅立ちました。
 せめてもの安らぎは、別れ別れになった親子が偶然にもめぐり逢い、わずかではあるが親子三人で暮した日々の想い出であった。包むもの十らなく、寒さに固まった妻の亡骸を背負って、裏山の防空
壕に納め、一握りの土を娘と二人で被せて、山を降リたのでした。

 それから八ヵ月後、「おとうさん、日本のお餅が食べたいね」といいつつ栄養失調の末死んで行った娘の遺体を抱き、呆然自失の私を叱る神の声を聞いた。この苦しみ抜いた二人の死を日本の故里の母達に知らすことは、自分に課せられた使命である。必ずや二人の霊が守ってくれると信じました。
 そのころ、咸興で盲唖学校の生徒だった二人の青年と知り合いになった。二人は、日本内地に渡りたい、連れて行ってくれというので、私が唖者となりその盲人二人と元の盲唖学校生徒が故郷へ帰る
という証明を手に入れ、朝鮮人避難列車へ乗り込みました。二人の盲人を連れた、唖者で朝鮮人姿の私は、朝鮮山脈を越して平塙へ出ました。そこから先は汽車が出ません。そこで二人の手をひいて開城まで歩きました。

 道中、保安隊に、「連れの者ぼ日本人だろう」と審問を受けること再三です。唖者である私に、なんの応答が出来ましょう。あるところでは拷問で兵隊だろうと責められる。が私はただ「あわ、あわ」と手まねで盲人の手を引くだけです。そうすると盲人二人が頭を振り口を揃えて、「お前達、同志の発行した証明が信用できぬか」と、朝解語でまくしたてたので、どうにか通り抜けました。

 妻や娘の霊に念じながら幾度か難関を通り抜けて、三十八度線の山中に入り、米軍陣地を発見したとき、私ぼ両手を上げて駆込んだのです。私はもう唖者ではない、日本人だ。直ちに開城日本人世話会へ連れて行かれました。そうすると盲人は朝鮮人だから内地へ渡れないという。さあ困った。結局三人は開城の町で一ヵ月あまりさまよいつづけ、民家の前に立ち、人々の喜捨を受け、かろうじて生命をつなぎました。

 やがて京城の盲人委員会の救いの手がのび、二人はそこにはいることになった。が私は日本人なので彼等と別れねばならなくなりました。二人は「私達は京城で暮してゆけますから心配なく。あなた一人だけならなんとかして日本に帰れるだろうから、一日も早く帰って下さい。いずれ国交が回復したときはあなたを尋ねて行きますから」と涙ながらに誓って別れました。

 思えばあれから約三十年、二人の生死もまだ尋ね得ません。こうして二人と別れた私は、幸い日本鉱業の人達と知り合い、そこの工員として日本に帰ることができました。いま朝鮮にねむる妻子の霊
に合掌する私の心に、ニ人の魂は生きています。毎朝、誦唱し奉る般若心経を納受し拾い、有縁の土へ成仏なさしめ給え。合掌。

この死からの脱出-私の引揚体験記 その3

■現地人に助けられた父   大浦明美(21年11月満州・安東省荘河より引揚)

 昭和二十年八月十五日、当時、国民学校の三年生で、ラジオもデンキもない世界に住んでいた私にとっては、学校が早いめに終ったのと、その夜、父が一晩中、風呂をたき、書類を燃やしていたのが、常と違う印象であった。 ソウガというその満州の片田舎にある小さな町の警察にいた父は、憲兵隊だったか誰か親しい知人から電話があり、別れの言葉をいったあと、何発かの自決のための弾の音をきいたとあとあとになって、語ってくれた。その南京豆のおいしい海辺の町は、明けて八月十六日になると、大きな官舎の鉄の扉をたたきこわして乱入する現地人達を迎えた。昨日までとは打って変ったそのようす。家財をすみずみまで持ち去っていく姿は、幼な心にも大変強烈な印象であった。

 その日のあとに私達は、大連に近い町の小学校の講堂に寝起きしていた。このときの印象をいえば夜ごとにソ連兵が、若い女を探しに来るということで、十二、三歳から上の女の人は、みんな顔に炭をぬったり、断髪をしたりしていたのを覚えている。父は元警官であったため、ピストル等を所持することは具合悪いと考え、囲りの人達のを集めて、コウリに入れ、校庭にうめていたようだった。そして身分をかくすため、このころから家族全員が偽名になった。

 やがて、大連から塩運びのジャンクにのって安東に着いた。この町は、私は今でも第二の故郷と思っているくらい渡満した最初の想い出深い土地であった。そして、入学の思い出も深い国民学校を横目で見ながら、旅館に落着いた。二十年の暮だったように思う。この旅館は、避難民で満ちていた。戦時中一クセあった連中ばかりであった。特に父は、元警察の上層部ということでねらわれていた。

 昭和二十一年一月十七日のことだった。中国人が殺害され、その寛人が旅館にいるというので、みんな市の公会堂に集められた。雪の積った寒い日だった。結局、犯人がいたのかどうか判らぬまま、私達は安東市外の競馬場に移動させられた。途中脱走した人達は、ハ路軍に機関銃で射殺された。

 競馬場では、馬小屋一頭分が一家族であった。そのときのことだった。父は八路軍二十人ばかりに銃口を向けられ、円の中に立たされたのである。警官だったことがバレたのだ。彼らは、ピストルをかくしていて自分たちがおそわれるのを恐れたのである。父の言葉を信用しない彼らの、銃口が火を吹こうとしたとき、その中に以前可愛がっていた中国人が割り込んで来て、父の言葉を信用してくれ、ようやく釈放されたという。その父はいま七十歳を越えてなお元気である。 その競馬場からは十里以上の追放になった。寒風吹きすさぶなかを荷馬車にゆられ、湯山城という遠い親類を頼った旅が続いた。この村での生活は永く、落ち着いた毎日だった。しかし人々の胸に望郷の思い捨てがたく、コックリさんが大変流行した。そして二十一年九月、帰国のための苦しい旅につくのである。

 汽車にのれば二十分くらいの所が、戦火によりズタズタになっている。そのため毎日毎日川の中を歩き、山路を歩き、ときには無蓋車にのり、雨にたたかれ、死んだ人を路傍に見捨て、前の人におくれることなく毎日八里ばかり半月も歩いただろうか。

 京都、金せい、奉天、新京、そしてコロ島。このコロ島から玄海灘で流されながら、船は博多に着いた。コレラ発生で 一週間ほど上陸はのびたけれど、赤茶けた大陸の山を見慣れた私にとって、みどりの山々が、そして差し入れの青いみかんが、どんなに新鮮に映ったことだろう。昭和二十一年十一月も末の日のことであった。



■同性を救った10人の芸妓    篠原与四郎(20年12月北京より引揚)

 紅い夕陽が、淀んだ西の空を真赤に染めはじめたころ、北京の在留日本人の引揚者を乗せた輸送船(米軍LST)三隻が錨を揚げ、天津から白河を下っていった。それは昭和二十年十二月十日の夕暮れのことだった。

 天津の外港、塘活岸壁にいったん碇泊し、乗員(引揚者)の再検査が済んで薄暮の外海へ静々と進んだとき、上甲板に出ていた私たちの瞳がうるんだ。ニれが惜別の涙というものかしら、あれほど祖国の土を懐しんだ私だったが、いざ大陸を離れるとなったら、戦友や北京で世話になった人々の声が耳に残り、つい「さようならお先に……有難う」と唇から洩れ、夜のとばりの下りるのも知らなかった。 こうして引揚げの第一夜を迎えたのだが、九時には消灯、小さな保安灯が船内をわずかに照らしているだけだった。やがてたくましい黒人海兵が三名で巡視に廻って来た。たどたどしい日本語で一人が「おれたちは沖縄織の勇士だ。お前たちはこれからおれたちの指揮に従わねばならない。そこで、持っている時計、指輪など貴金属をみんな出せ」という。

 一人は一メートルほどの麻縄の束をもって引揚者の身体検査を始め、ワニ皮や高級品の帯革をしめている者からはそれさえ取り上げ、「お前はこれでよろしい」ととりかえる。もう一人はピストルをもって二人の行動を護衛していた。詰所というか監視所というか、一段高い場所に帰った彼らは、机の上に戦利品を並べ、なにやら話し合いゲラゲラ笑っている。話の内容は解らなかったが、おそらく戦利品の分配の話だったろう。 私の近くにいた引揚者の一人は素早く腕時計をはずし、もっていた握飯の中へ握り込んでしまった。黒人兵の帰った後で、彼はその握飯を割って見せた。握飯がコツコツと時をきざんでいた。彼は佐世保へ上陸するまで、その握飯を食うことは出来なかった。

 第二日目、船の速力は遅く、もどかしくてならない。朝食に支給された水は、小さな茶飲み碗に一杯ずつ、これで今日一日を過ごせというのだ。私と友人はいっぺんにググーッと飲んでしまった。午後になったらのどがカラカラに乾いてしまった。そこで、飯ごうをヒモでつるし、海水を汲み揚げて飲んでみたが、とても塩辛くて飲めるものではない。友人の島津国臣君(当時、毎日新聞経済部記者、のちTBSへ移る)が、北京の煙草公司の石渡理事長から兄の石渡荘太郎氏(当時、宮内大臣)へ渡してくれと預かってきたサッカリンを持ち出し、混ぜてみたが、甘辛のおかしな水が出来上って、これまたのどを通らなかった。船室へ帰ると、乗船のときから青ざめたフラフラの青年が血を吐いて寝ていた。彼はもともと肺結核で、船旅は無理と知りつつ、どうせ死ぬなら内地の土になりたいと周囲の引き止めるのをふり切って乗船したという。

 米兵による陵辱
その日、昼間は何事もなく済んだが、夜になって大変なことが起こった。昨夜、強奪に来た黒人海兵がまたやって来て、「上官の命令だ、十人ほど若い婦人を提供せよ」という。船内は大騒ぎ、若い夫婦者、独身女性など怯えきって唇をふるわせるだけで、声も出ない。黒人兵に連れ去られたら最後、生命の保証すらない。すると片隅から一人の女性が起ちあがって「このところはわたしたちにお任せ下さい。みなさんを鬼のような米兵のいけにえにするわけにはまいりません。わたしたちはついこの間まで済南で芸妓をしていたものです。どうせ体の汚れついでです。ちょうど十人おります。ちょっと片づけて来ますから……」といったかと思うと、彼女らは化粧をし直して出ていった。彼女らのうしろ姿に掌を合せるものすらいた。おそらく観世音菩薩の化身にも見えたのだろう。独り身の私は、このときばかりは故郷で私の帰りを持つ妻子の顔が思い浮かび、いつまでも眠れなかった。

 第三夜。肺結核で血を吐いて寝たっきりのあの青年がとうとう死んだ。所持品によって九州の男とわかった。誰ひとり、死水をとってやる者もいなかった。もっとも、朝、支給される一ばいの真水だけでは無理もない。深更十二時過ぎ、各グループから一人ずつ代表が上甲板に召集された。そこへ艦長が正装して現われ、「これから米海軍の慣習によって水葬を行なう」と宣言。舷側に、君が代の吹奏につれて日の丸がするすると掲げられ、やがて新しい毛布に包まれた青年の骸が静々と玄海灘に沈められていった。後ろの方から讃美歌の合唱が聞こえた。その合唱隊の中に、夜な夜な船内を荒し廻った黒人海兵の姿も見えた。その夜ばかりはさすがにシーンとしていた。やがて暗闇の海上に、漁り火がちらちらと見えはじめた。


この死からの脱出-私の引揚体験記 その2

■病める父に青酸カリを飲ませ  山村文子(21年10月満州・チチハルより引揚)

 一九四五年八月に入ると、北満州のチチハル市の関東軍の動きが、私の目にもなんとなく異常に感じられました。トランクや柳ごうりだけの軍家族が、軍用トラックで、どんどんどこかへ移動して行くのです。やがて、ソ連参戦、満州里、ハイラル等から、民間人婦女子が着のみ着のまま、なかには寝まき姿のままで逃げて来た人もありました。

 城内に住んでいた私が、「日本八街の方に移るように」と申し渡されたのは、十四日の夜でした。しかし日本人街に私達の避難する余地はありませんでした。行き場所のない婦女子三百名ほどが広場に集められ、一人の将校から、「この聖戦を勝ちぬくためご早天近くの工場に行って働いてもらう……二名の男子引率者をつける……」との訓示を受けて、貨車に押し込まれたのは、八月十五日の夜明けでした。このとき、すでにこの将校は、自分の家族を南下させていました。敗戦を知ってぃたのでしょう。

 子供を背負い、前に荷物をぶらさげ、着こめるだけ着こんだ私のそばで、中国人の友人は、チチハルに残るよう熱心にすすめました。しかし、私は関東軍の言葉を信じておりましたので、私の働きがお国のためになると思いました。訓示に従わないのは非国民となると思っておりました。
 北満州の大平原を走る、私たちの乗った貨車めがけて、ソ連の飛行機が機銃掃射をあびせてきました。そのたびに私達は平原に散らばって、大地に身をふせました。地平線までつづく大地と空、停車したままの貨車と駅舎、静まりかえった八月十五日のひるすぎでした。駅舎の水をもらいに行っていた一人が帰ってくると、「よくわからないけど………戦争まけたらしいの。駅長さんから聞いたの……」と、とぎれとぎれに伝えました。

 大地に寝ころんでいた一同は、「まさか……」と、起き上がりました。「うそよ……」と言って、私たちはふたたび横になりました。駅舎にたしかめに行った引率者か、「広島に新型爆弾が落とされ、天皇陛下のお言葉があったそうだから、ほんとうらしい……」と帰ってきました。
 「チチハルを出るんじゃなかった」と、後悔しましたが、家に帰れるとほっとしておりました。しかし敗戦を迎えた安達から、二日目につれてこられたのはハルビン駅でした。線路の横では、関東軍の物資がどんどん焼かれていました。つかれきった私達は、乾パンを噛みながらぼんやりとその火を見ておりました。私たち女、子供、老人の一団が、二名の男子引率者に逃げられたのは、収容所に入ってまもなくのことでした。

 こうして、職なく、家なく、金なく、祖国の保護からも捨てられた私たちの共同生活がはじまったのです。持ち金を出してメリケン粉を買い、一日二食、だんご汁を作ることになりました。何日食いつなげるかわかりませんが、のばせるだけのばさなければということになり、親指大のだんごが二、三個入った塩味だけの汁が、空缶などに一ぱいずつ。こんな日が二十日もつづいたころには、浄化してない水を飲んだためもあって、ほとんどがパラチフスにかかり、ふらふらしておりました。

 その上に毎夜のように、土足のままふみこんでくるソ連兵。囚人兵がまず満州に入ってきたとかで、銃でこづいて時計を取りあげ、着ている物まで「ダワイ、ダワイ」と、はぎ取ってゆきました。栄養失調で動く力もなくなった助い子供達が、まず眠ったまま動かなくなっていきました。収容所の庭には、毎日、土まんじゅうが増してゆきました。娘が「お父さんお薬よ……」と、上部から渡された青酸カリを飲ませました。

 「えろろ・・・にがいな・・・」とつぶやいた中風の老人が、目を白黒させてこと切れました。父親の瞼をそっととじてやりながら、娘は涙を落しました。私の一歳半の息子も、骨と皮になって、「オブ、ちょうだい」という言葉を最後に、逝ってしまいました。

 ソ連軍の鬼畜行為
「お母ちゃん助けて!!」と泣きさけぶ娘がソ連兵にかかえてゆかれ、「私が行くから……私が行くから・・・」と、追いかける母親の必死の抵抗もむなしく、下半身が血だらけになって母親に負われて帰って来たこともありました。ハルビンの日本の出先機関にも行きました。しかし、「日本がなくなったいま、何か出来ますか」との言葉が返ってくるだけでした。こんななかでも、それ相当の地位にあった人々の家族は、金を持たされて出たらしく、街にあふれている食物を買って食べておりました。
 こうして日本に帰るまで長い流浪の旅で、人間のみにくさ、美しさを知りつくしました。きたない日本人も多くいたあのときに、規律正しい八路軍から暖かい心を受けたことは、終生忘れることはありません。

 いまも、敗戦で死んだ一般の日本人が、旧満州の広野で、街で、眠りつづけております。またあの混乱の中で親を亡くしたり、ほぐれたりした子供たちがたくさん満州に残ってぃます。生きていることへの感謝を、これらの方々へのお役に立つよう、生きてゆこうと思っております。


■姉ちゃんのお骨を首にさげて      金田雅博  当時・満州安東在住、引揚後島根県 (安来市立赤江小学校六年生のとき執筆)

 ぽくは満州熱河省承徳で生まれた。(略)ここでは五つのときまでいた。つぎは奉天にかわっていっった。(略)姉ちゃんは国民学校二年生だった。妹の公子は三つで、弟の康博ちゃんは生まれたばかりの赤ちゃんだった。(略)ぽくたち日本人は満語を知らなくても、満人が日本語をよく知っていてとても親切だった。奉天には一月から八月までいて、つぎにかわったのは安東だった。(略)五日目に終戦になった。そして九日目にトラックに荷物を乗せて(略)出発したが、途中の北鮮(註・亀城)で日本人は通行禁止にあってそこで一年間くらした。亜麻会社という(略)きたない工場をかりて、土間にかますを三枚ずつ重ねて、その上にアンペラをしいて、そこで八百人もぎっしりつまって集団生活をしていたので、(略)いろいろ悪い病気がはやって、三つから下の赤ちゃんは殆んど死んでしまった。毎日のように小さなおかんが山にうめられるのを見て、ほんとうにかわいそうだった。そのときぽくの弟のわいい康博ちゃんも、。ジフテリヤで病気になってから三日めに、ぽっくり死んでしまった。まるまるふとっていたので、死んでもねむっているようなかわいい顔をしていたので、山へうめるのがかわいそ
うでならなかった。(略)

 とうもろこしのこなでおだんごを作って食っていた。それも一日二回だから、とてもおなかがすいているけれど、そのおだんごをたべかけると、とてもまずくて食べられなくてこまった。『略』もうこれから先、いつまでもいられないので、ふとんや着物を売って自動車賃をつくって、鉄道本線(註・定州駅)まで出ていったが、そこでロシヤ兵が汽車に乗せてくれず、また、いた所へ追い返されてしまった。しかたがないので、野宿をしながら歩いてでた。(略)十八日間、その間の苦労といったら口にも筆にもとてもいいあらわすことができない。途中で大人二人と子供一人が死んだので、かわいそうだったが、川原にうめて来た。

 この時うちの姉ちゃんは病気になったのをむりに歩かしたので、鳥目になって、夕方になると目がみ
えなくなった。妹の公子をおんぶしているお母さんの両手に、姉ちゃんとぽくはつかまって歩いた。お父さんはその一団の責任者であったし、病人のたんかをかついでいたので、家の者のめんどうはちっとも見てもらえなかった。(略)保安たいに荷物をけんさされた。ときどきにせ者がいて切れものを全部とられた。(略)かぽちゃを川原の石にぶっつけて、さじで小さくきってにてたべた。(略)やっとの思いで三十八度線の近くまでくると、あちらこちらの道からひきあげ者がたくさん集って来て、二千人ぐらいの人数になった。そこで三時間ぐらい道路にずらっとならんでけんさをされて、通行ぜいをとられた。その間にぽくたちの前にいた人がマラリヤがおこって道路の上でぶるぶるふるえていたが、みな自分たちもくたくたにつかれているので、どうしてあげることもできず、かわいそうだったか、水をのましてあげることぐらいしかできなかった。(略)

 ここから十分ぐらい歩くと大きな道路に出たので、皆やれやれといって休んでいると、そこへ天幕村から日本人の世話係の人がむかえに来てくださった。「皆さんおかえりなさい。みなぶしに帰られてよかったですね」といわれたときには、みなうれしなきにぽろぽろないた。(略)出発してから屋根の所で安心してねることが出来ると思うと、米軍のありがたさがしみじみとうれしかった。(略) 一週間ののちコレラのうたがいのない者だけ貨物列車で釜山までおくられた。釜山から六千トンの貨物船に乗せられたときは、これで内地へ帰れるといって、みなうれしさのあまりなみだをうかべた。

 あのときのうれしさは、いまだにはっきりとぽくは思いだすことができる。その日の夕方なつかしの内地の博多についた。明後日はいよいよ上陸というときコレラ患者が出たので、上陸は二週間のばされた。(略)姉ちゃんはえいようしっちょうのため、他の者より先に上陸させてもらって福岡の病院に入院した。姉ちゃんにはお父さんがついて伝染病の病室に入れられたので、姉ちゃんには窓からでないとあえなくなった。

 入院してからIカ月目にとうとう死んでしまった。その朝、窓から早く早くといわれて二略)ぽくと妹は手のぬけるほどお母さんにひっぱられて、姉ちゃんのへやへ行ったときには、もう死んでしまっていた。死ぬ前にははれていた顔が、死んでからすっかりはれが引いて、もとの姉ちゃんの顔になっていた。かんごふさんにアルコールできれいにふいてもらうと、「ほんとうにきれいでロウ人形のようだ」といって、同じ室の人がなみだをこぽしてくれた。せっかくここまで帰っておりながら……ほんとうにかわいそうだった。そのよく日、姉ちゃんは小さな箱の中の骨となってしまった。ぽくはこのかわいそうなお姉ちゃんのお骨を首に下げて、おばあさんの家に帰った。

 〈付記〉この作文の原稿は、当時の担任が保有されていて、昨春小学校の百年祭に発表され、初めてこのような思い出を書いていたことをしりました。 父 金田豊吉

この死からの脱出-私の引揚体験記 その1

■海を渡って38度線突破  小西静子(二十年十一月 北鮮・清津より引揚)
 
 北鮮の清涼から南鮮へ向けて出る最後の引湯列車、それも四両連結の貨車でした。二十年十一月初旬、日々厳寒に向かうこの土地に見切りをつけたのです。 ほんとうに着のみ着のままでした。ソ連軍の切断作戦のためこの町もしだいに反日のきざしが強くなって来ました。きょうまで何百里歩きつづけたことでしょう。地下足袋もいつしかすり切れ、家から持ってきた主人の鬼足袋も十里ほどで足裏が血に染まってきました。衣類もぼろぼろ、背中の子供も投げ出したくなるような重さでした。胸は負い紐で傷が痛みました。いまはただ汽車に乗り、たとえ少しでも内地に近づくことが出来ると思えば、狂喜にも似た気持ちで一杯でした。運転手は北鮮の人とソ連兵だったようです。しかし期待していた列車は、二、三の駅を走っては二日も三日も止まったきりで動こうとはしません。夜ともなればソ連兵が貨車を破って侵入し、いつもの略奪です。私達はきょうまでそんなことは馴れていますが、ただ婦女子を襲うことだけが恐かったのです。またあるとき北鮮の人がわめきながら車の中に乱人して来て。
 「この汽車は我々のものだ。日本人は降りてしまえ」と叫び一人の男がソ連兵をつれて来ました。窓口で事情を話していた日本の男の人が銃で殴られ、ただ無言のまま立っております。鬼のような形相のソ連兵が、こんどは私達に銃口を向けました。「皆さん伏せて下さい」と一人の老人が叫びました。薄笑いさえ浮かべてソ連兵は車から降りて行きました。

 さて八十名あまりの人がI貨車にすし詰め状態のまま、ちょうど1ヵ月ぶりに私達はキンコウという町へ降ろされたのです。久しぶりに駅で手足をのばし、コンクリートを床に夜を明かしました。さて虎の子のお金も千円になり、金の切れ目は命の切れ目にならぬよう、一日も早く京城へ脱出したい心でいっぱいでした。

 キンコウから南鮮へ山を越えて鮮満の人々が歩いております。日本人は私達二組、みんなで八名でした。服装もチマとチョゴリでした。でもこの単独突破は朝鮮の少年に見破られ、「ヤッポン助だ」とソ連兵に密告されて捕まり、とうとう失敗してしまいました。

 さて待望の二度目の突破の日がやって来ました。昭和二十一年二月四日、それこそ劇的な死にもの狂いの1ページでした。当時、私達は地理的に有利な海州の高台に収容されていたのです。明けても暮れてもみんなと脱出の話ばかりでした。この海州の引き潮を利用して対岸へ渡れば南鮮でした。その決行の夜がいよいよきょうなのです。

 その夜は淡い月光が私達を祝福するかのように……星も光っておりました。すべての準備を終えて私は子供を背中に、鍋を首にぶらさげました。手に食糧です。主人の後につづきます。みんな息を殺して保安隊の詰所を通り、村のあぜ道を静かに抜けて息をつくひまなく引き潮の海上に走り出したのです。 無人の海はなにか無気味なほど閑静でした。あちこち大きな沼がまるで怪物のように口を開け、視野のつづく限り暗黒の別世界のようでした。後方の女の人が悲鳴をあげています。人々のざわめき。銃声が二度、三度聞こえました。朝鮮人の案内人が逃げようとしています。私は無意識にその人の手をつかみました。「あんたは私達を見殺しにするのですか。この海の真ん中で私達はどうしたらいいの」と哀願したのです。
 「奥さん、向こうのほうに灯が見えるね。あれはソ連の飛行場。早く逃げなさい」そうこうするうちに、半分くらいの人が前進するのを諦めたのか、背後に人影はありません。もちろん案内人もいなく月は
雲にかくれて、あたりは暗くなってきました。ふと前・を見ますと、藤本さんが幽鬼のように立っております。連れて来た女の子三人が見えないのです。問いつめましたら、「みんな沼にはまって死んでしまった」と男泣きしています。瞬間何か冷たいものが私の背筋を走ったのです。

 後方から小山さん一家四人が近づいて来ました。お題目を唱えています。もう何時間すぎたのか。それより飛行場の灯の遠いこと。近くに見えては私どもを嘲笑するように明滅しています。だんだん疲労も激しくなり、足もとが浮いたようになってきます。睡魔がおそってきます。ふと夢の中で子供の泣き声がしたようでした。

 立って前方を見ますと、右の方向に黒い長蛇の列がうごめいて見えます。そして赤ん坊の泣き声が聞こえてくるではありませんか。私は懸命に泣き声の方へ走り寄り、うしろの男の人に助けて下さいとすがりつきました。それはこの土地の引揚者の人達でした。
 「御苦労さんでした。どこから来たのですか。私達のあとから離れないでついて来て下さい」とまるで神様の声のようでした。海を渡りきったところに大きな川が流れています。腰まであったと思います。無我夢中で渡り、やっと岸へ上陸することができたのです。待望の三十八度線脱出が成功したのです。時刻は夜も白む午前五時ころでした。

 私達の四十名中八名がこの海の犠牲者になってしまいました。みんな沼に足を取られてなくなったのです。私達の身代りになられた人々の冥福を祈りつつこの記を閉じます。



■ピストル出せと拷問  細野淑子(21年9月満州・チチハルより引揚)

 私の一家十人は、北満のチチハル市に住んでおりました。両親と八人兄妹で、終戦当時、兄は二十四歳で長女の私が二十二歳、一番下の弟は小学校の二年生でした。 日本への帰国が開始されていた昭和二十一年の九月初め、父と母は事情があって八人の子供を残し、一足先に日本に帰国することになりました。半月遅れて子供八人は引揚列車に乗ったわけでした。両親の事情というのは、こんなわけでした。

 昭和十二年から満鉄社員だった父は、大変に大陸が好きで「満州に骨を埋めたい。せまい日本には自分は住めない」とも話して、満州がとても気に入っていたようです。昭和十六年の秋、父がチチハル鉄道局に転任になったので、一家は住み馴れた奉天を離れ、北満のチチハル市に移りました。一家十八は満鉄社宅に落着いて平和に暮していました。その後、戦況はしだいに悪化の道をたどり、「日本は戦争に負けるのでは?」などささやかれる中で、昭和二十年七月、兄は応召され、消息の知れぬまま八月十五日の終戦を迎えました。

 兄は満州にいるのか、南方にでも回されているのか、毎日案じていました。父は当時五十二歳で、体格もよく、働き盛りでしたが、終戦で満鉄が崩壊して父の運命にも変化が始まっていました。満鉄で父が防衛関係の仕事をしていたので、終戦後まもなく中国の官憲から取調べを受けるようになり、何度も連れ出されました。父の仕事の関係上、武器をどこかに隠匿してはいないかというものでした。
父は終戦時、武器は関東軍に引渡し、整理のついていることを申し述べましたが、なかなか信じないのか、ピストルはないかといって押入れの中を必死になって捜したりされました。

 連れ去られた父は「ピストルー丁でもよいから、出したらすぐ釈放してやる」とおどされ、次には拷問を受けました。山口県の萩に生まれ武家屋敷に育った武骨な父は、「ないものはない」と一喝したそうですが、そのたびに拷問が加えられ、若いころ軍隊できたえた体に自信のある父も、全身に青いアザをつくられ放りだされて帰宅するしまつでした。家で養生して体がすこし回復したと思うころ、また顔ぶ
れの違った連中が乗り込んで来て、父をロープでしぼり、町制に乗せてどこかへ連れ去るのでした。そんな父の様子を訴える警察もなく、家族は敗戦のみしめさをかみしめるだけでした。

 そのうち、父の友人や知八が力となって父を助けるために運動してくれましたが、ピストルー丁でも戦利品として入手したい一味によって、父が連れ去られることもわかり、母がお金を包んで連絡の者に渡すと、父は早く帰れるようになりました。しかし、このまま同じようなことをくり返していると、拷問によって父の体がもたなくなるからと、知人の家に父と母はかくまってもらうことになり、社宅をでて四キロ離れた家に移り、静養することになりました。

 そんなとき消息不明だった兄が、ひょっこり帰宅したので、弟妹の喜びようは大変なものでした。北安の山奥で武装解除を受けた兄は、満鉄社員だったため釈放され、南下する貨物列車に身をかくして帰宅、戦友はシペリアに連行されたのでした。

 日本人の引揚も近いという話に、兄は父に代って露店に立って菓子を売り、八百屋を開いたりしながら、引揚の費用を準備しました。チチハル高女の四年生だった妹も男装して兄と露店に立ち、弟たちはソ連兵相手にタバコを売ったりしました。

 二十一年九月十四日、残暑の強い日ざしを受け、重いリュックを背に出発することになりましたが、お隣りの石原さん宅の奥さんが心臓病で歩けないので、担架を造り、四八の男子で持つことになり、兄もその中の一八として病人を連れ、重い荷を背に、七人の弟妹を連れての引揚が始まりました。
 なかでもハルビンと新京間の鉄橋が爆破されているところでは、全員下車して次の駅まで歩いたのですが、その光景は忘れることができません。焼けつくような大陸の陽を受けて、重いリュックを背にした人々は、ただ下をむいたままあえぐように十三キロ余りを歩きました。病八の担架を持った兄たちは、汗を流して}歩一歩進み、途中病人を地に置いてご主八が注射を打つのですが、そのとき病人は弱々しい声で担架を持つ四八の男子に、「本当に済みません」といっておられた言葉を思いだします。

 二十分、三十分と歩くうち、人々はリュックの中から毛布を捨てる人、オーバーを投げる人、終りには食糧まで捨ててゆく人……。隊列は乱れ、弟妹も遅れてヨタヨタ歩いておりましたが、兄はふり返りながら「死にたくなかったら早くオレについてこい」と叱咤したものでした。そして無事萩まで、兄妹八人たどり着きました。

 毎年八月十五日には八人の兄弟が集まり、赤い夕日の満州、重いリュックを背に歩いた十三キロの遺のりの話に花が咲きます。子供と別れ、病院列車で引き揚げた父は、萩に帰国してまもなく他界しました。

方面別海外引揚要図

方面別海外引揚要図昭和36年12月31日現在 1億人の昭和史 4 毎日新聞社

燃える空と地の間で---私の空襲体験記

『一億人の昭和史』 4 空襲・敗戦・引揚 毎日新聞社からの抜粋
■ガソリンの雨            宍戸 かつみ(当時・東京都江東区亀戸町在住)

 昭和二十年三月十日。史上空前ともいうべき東京下町一帯の大空襲に江東区亀戸町で被災し、幸いにも五人家族全員生き残り、当時、小石川西丸町にあった叔父の家(母の実弟)を頼って、やっと落着くことが出来ました。が、それも東の間、あの呪わしい日からわずかIカ月ばかりの四月十三日夜半、ふたたび大空襲に見舞われました。

 ちょうど叔父は会社の仕事で地方に出張中、家族は京都に疎開しており、私どもは居候兼留守をあずかっておりました。私は当時、女学校四年生(17歳)で、学徒動員で本所にあったD機械工場で働いていましたが、学校も工場も焼けてしまいました。祖母は三月十日の空襲にこりて福島県の山の中に疎開させ、兄は海軍省の上役の方のお宅に下宿させてもらっており、一家離散の有様でした。後は娘の私と薬剤師である父、当時心臓病で弱かった母と三人のわび住いの毎日でした。

 四月十三日の晩は風もなくおだやかで、妙に不気味なほど静まりかえった夜でした。あれはちょうど10時過ぎだったと思います。警報が出て、毎度のことながら身仕度をして、父母と様子を見ておりました。間もなくB29の爆音と味方の高射砲のお腹にひびくような、ズシンズシンと、にぶい音が入り乱れて、だんだん近づいて来た様子です。その時なにかがピカツと光り、突如家の中がパァッーと真昼のごとく明るくなったので、とっさに外にとび出してみると、左手の上富士前の方角に照明弾がキラキラと落下して行くのが目に入りました。理研の建物がある場所あたりです。それと同時に空襲警報のサイレンが、けたたましく鳴りひびき、親子三人防空壕へすべり込んで、父と私だけ入口から首を出して空を見上げておりました。

 敵機の爆音からして、今夜はどうも大編隊でやって来たらしく、地鳴りや轟音がいつもと違うようで、イヤな予感がするなと思った瞬間です。突然、頭上でガラガラッ、ザァーッザァーッと耳をつんざく音とともに、ドスンドスンと、二、三度身体に猛烈なショックを受けて、頭をどこかへぶつけました。壕が。サュサゆれ動き、天井から土砂が降って来ます。

「やられたナ」と思ったとき、父が「ここにいたらあぶないっ、外に出ろ」と、母と私の手を引っぱって壕の外に出ました。前の路地に出ると、お向いのタンス屋さんの家に直撃弾が落ちたのです。ゴーツとものすごい音をたてて、あっという間に紅蓮の炎が吹き上げ、もう二階が崩れ落ちてないのです。無我夢中で走り、四つ角まで来ますと、もう大勢の人達がひしめき合っていました。大塚、巣鴨、六義園方面は空も地も見渡す限り火の海で、わずかに南の後楽園(春日町方角)方面だけがほの暗いだけ、人々は完全に猛火の円の中に立たされてしまったのです。いつもは沈着冷静な父も顔色を変えて。

 「こっちへ移って来てまだ日が浅く、地理がよくわからない。運を天にまかすしかないから、覚悟だけはしておけよ」といい渡すのです。逃げまどう人々の流れに押され、突きとばされ、雨のように落下する焼夷弾の洗礼を死物狂いでよけながら、同じような場所を行ったり来たりしていたらしいのです。気がつくと市寛永川下停留所の所に立っていた私達でした。すぐ近くに、当時の鈴木賃太郎首相の邸があるのです。そのとき警防団員の人が途方にくれている私達に、「皆さん早く徳川邸に避難して下さい」と、大声で呼んでくれたのです。大きな門を入ってみると、もうたくさんの人々が避難しておりました。雑草の生えた池のほとりに、やっと坐る場所を見つけ、いざとなったら水中にとび込む覚悟でいました。

 やがて邸の回りの樹木に火が燃えうつり、パチパチと音を立て始めました。列火が風を呼び、煙と熱風が激しく吹きつけます。敵機は未だ頭上を悪魔のように乱舞しています。そのときポトリとなにか顔に当たりました。雨かなと、手でさわってみると、プーンとガソリンの臭いがするではありませんか。敵機はガソリンをまいて焼夷弾の直撃をかけてきたのです。はらわたの煮えくり返る思いですが、どうすることも出米ません。隣りに母と並んで坐っていたどこかの上品な老婦人は、さきほどからずっとお念仏を唱えどおしです。私も他の人達と力を合わせ、防空頭巾を池の水に浸しては吹雪のように降りかかる火の粉を夢中ではらいのけていました。どのくらいの時間が過ぎたのか、ふとあたりが次第に静かになって来たのに、皆われに返りました。いつの間にか敵機も去り、東の空が白みはじめ、長い夜が明けたのです。

 親子三人、しばらくは放心状態で口もきけませんでした。私達はふたたび九死に一生を得て助かったのです。こ『生死を共にした老婦人が、「助かって本当によかったですね。火の粉をはらって下さってありがとう。おかげさまで駄目だと思っていた塞が焼け残ってぃました」といって、自宅からわざわざおにぎりを持って来て下さったのです。異臭の立ちこめる焦土の中で、いただいたあのおにぎりの味は、その人の温情と共に、一生忘れることが出来ないでしょう。昼すぎ親類の者が、私たちを探しにやって来ました。

 学校や心あたりを探したが見つからず、百パーセントあきらめていたとのことでした。 母をリヤカーに乗せ、徳川邸を後に余鑑くすぶる市電通りを黙々と歩いて行きました。途中、静かな谷中の通りにさしかかったとき、まぶしいほどの陽光に照り映えて桜の花だけは、あでやかに咲き誇っておりました。



■水田に座り込んで            小林正子(当時・芦屋市茶屋之町在住)

 昭和二十年六月から終戦にかけて、阪神間もご多分にもれずB29の来襲をたびたび受けた。そのつど交通は遮断され、二十二歳の私は勤め先の勧業銀行神戸支店から、阪神電車の線路づたいに芦屋まで家路をいそぐ。三宮あたりの阪急高架下には、その日の爆死者が百体、二百体と、整然と縦に一列に並べられていた。死者はすべて焼夷弾のために蒸し焼きになり炭化している。人間は焼けるとそのままの形で縮むのか、ちょうど五、六才の幼児のような大きさで、黒い人形そっくりだ。そして申し合わせたように胸を地につけ、そり返っているので、遺体はすべてうつぶせである。身元のわかった遺体には花やムシロがかけられているが大部分はそのままだ。

 春日野道あたりで馬が倒れていた。これは機銃掃射によるもので、遺体は損われていない。ひっぱっていた車など散乱していないところをみると、馬方さんは助かったのかも知れない。その横を人が行き交う。人間は緊張の極限にきたとき、不思議に静かに行動する。矛盾を感じるのは爆撃をうけた地区と無傷の地域、昨日のままの平和な街並を通る時はどれがほんとうの今日なのか、一瞬ためらう。
芦屋は幸い今日の爆撃には無事だった。

 翌日、ふたたび三時間の道のりを自分の足で勤め先に向かうとき、昨日倒れていた馬は半分になっていた。夜の間に馬肉として盗まれたのだ。私だって近くに住めば家族のためにそうしただろう、ここに一切れの馬肉があれば……。

 この日、たどりついた銀行は、昨夜の焼夷弾攻撃をうけてくずれていた。銀行は海岸通りによく見られる赤レンガ造りなので、まず瓦哩の取りのぞき作業が今日の仕事始め。幸い金庫や地下室は無事だったが、外観は焼けただれており、すぐに開けるのは危険なので、近くの他銀行からお金を借りて開店する。それでも二人、三人とお客さん。 昼、瓦硬に腰をおろしてお弁当を開く。紙に炒り豆を包んできた人、大根ご飯(細かくきざんだ大根七分に米三分)など、仲間が集まってつまんだりつままれたり。目の前の市電道(栄町二丁目)を越して、焼けくずれた南京町から元町通り一帯が、スポンとひらけていた。南京町は文字通り中国人の市場だった。くずれた防空壕から遺体が掘り出されていたが、中国人の遺体は必ずアグラを組んでいるので識別しやすいと、作業中の軍人さん(陸軍)が教えてくれた。

 帰途、阪急高架下の三宮劇場はまだ猛煙と炎を吹き上げている。ここはその後一ヵ月あまりも異臭を放っていた。多くの人が焼夷弾の直撃をのがれて高架下に逃げこみ、ここで焼死したと聞く。 そしてついに、芦屋も初めての焼夷弾、爆弾の集中攻撃をうけ市内の三分の一が灰になった。正確には昭和二十年八月六日午前零時、広島原爆の八時間前である。

 寝入りばなに空襲警報が鳴って敵機の来襲を告げたので、いつものように身仕度をして家族全員(父母に私、女学生の妹。悪いことに母の里に疎開させていた幼い弟妹二人も国民学校の夏休みを利用して昨日から帰っていた)庭先の防空壕に飛びこんだ。壕は父の手づくりで一畳あまり、頑丈にできている。一時間ぐらいで警戒警報に変わったので壕から這い出し、夏のことなので外していた蚊帳を釣って床にもぐりこんだ。そのとたんに焼夷弾の集中攻撃が始まったのだ。(B29、200機の波状攻撃ということを後で知った)あわてた私たちは、裸足のまま壕に飛びこんだ。無気味な照明弾がゆらりゆらりと空中にとどまり、あたりは真昼のような明るさだ。これは駄目だと思って我に返った時には壕の中が蒸し暑くなっていた。幼い弟がしきりに喉のかわきを父に訴える。父は壕をぬけ出し台
所へ走って柄杓に一杯の水を運んできた。

 バケツを下げて走るという正常な神経はすでに麻蝉していたのだろう。 さらに暑くなったとき、このままでは蒸し焼きになるという恐怖か私たちをおそってきた。「町内会の壕へ逃げよう」と父がいった。一人でも二人でもご近所の人と行動を共にしなければ不安なのだ。私たちは壕を飛び出した。親子六人、手をとりあってかけ出七た。 地面は一直火の海で、我が家もさかんに燃えている。裸足の弟があつい、あつい……と泣き出した。周囲に人影はない。「田んぼに逃げよう」と父がいった。阪神の線路を越すと水田だ。田には水がある。ふたたび道をひき返し土手をよじ登って、三メートルあまりの高さを向い側へ飛びおりた。線路の枕木も燃えている。水田の泥に足をとられながら、火の粉のふりかかるのが比較的少ない田んぼのまん中で、泥水を体にかけ合いながら私たちはへたりこんだ。家族六人、とにかく生命さえあれば……と肩をよせ合っていると「やア、きれいやナア」と無邪気な弟の声。火の粉をふりまきながら、一条の線光となってシュルシュルと落下する無数の焼夷弾は、なるほどこの世のものならぬ美しさだった。

全国主要都市空襲被害状況一覧

空襲被害状況一覧
昭和50年6月現在 毎日新聞社 昭和史編集部調査

「降伏日本軍人」という身分と英軍による虐殺

「日本の反論』米田健三著 並木書房
第6章 歴史の闇に葬られた日本人捕虜虐殺から抜粋


日本軍捕虜に対する戦時国際法違反の不法な対応は、米軍にとどまらない。国際法が定める捕虜の待遇を与えないために、英車は「降伏日本軍人」というあらたな身分を編み出した。その結果、英軍主体の東南アジア連合軍に降伏した我が南方軍将兵は、粗末な給養で、危険な、あるいは不潔な労働に使用されたのである。この問題については『軍事史学』(第三五巻第二号)に掲載された喜多義人論文に詳しい。

 それによると、一〇万六〇〇〇名もの将兵が昭和二一年七月以降も「作業隊」として現地に残され、昭和二三年一月の送還終了までに九〇〇〇人近い死者が出たという。

 もともと、捕虜の立場を厭う日本軍側の意向が、逆手に取られたのである。
 また、日本軍将兵が課せられた作業は、「弾薬の海中投棄、採石、樹木の伐採、下水掃除、糞尿処理、炭塵の立ち込める船倉内での石炭積載作業、一〇〇キロ入り米袋の運搬」などで、明らかにハーグ陸戦法規と一九二九年の捕虜条約が禁じた、過度で、不健康、危険な労働であった。まさに、緒戦で日本軍に敗れた怨念を晴らすための報復に他ならなかった。

 英軍についていえば、一九四四年六月二二日、インド・アッサム州のミッションで、一〇〇人以上の日本軍傷病兵が、英軍兵に焼き殺された(『世界戦争犯罪事典』文藝春秋)。アッサムの英軍根拠地インパールの攻略をめざした牟田口中将の第一五軍は、コヒマを占領したものの、英軍の猛反撃を受け後退を開始した。ミッションを防衛していた歩兵第六〇連隊も移動を始めたが、逃げ遅れて担架に乗せられたまま路上に放置された野戦病院の重症患者一五〇名は、英車グルカ兵の手でガソリンをかけられ焼き殺されたのである。

 ブーゲンビル島トロキナでは、オーストラリア軍によって、日本軍捕虜に「死の行進」が課せられた(同)。
 ナウル島とオーシャン島を占領していた日本軍は、一九四五年九月、オーストラリア陸軍の捕虜となった。同月二〇日にナウルの日本兵約二〇〇〇人がトロキナの仮収容所に移送されることとなったが、栄養失調と疾病で衰弱しきっているにもかかわらず、気温三五~三ハ度のなかを一〇マイル行進させられた。翌日、到着の一二五〇人も同様であった。豪州車の警備兵は行軍の速度をゆるめることを許さず、水もほとんど与えられなかった。死亡者が続出した。

 体験者の回想によれば、川を見つけた日本兵が水を求めて駆け寄ると、川の両側に並んだ豪州車将校たちが水を飲ませまいと、足で水をかきまぜて泥水にし、そのうえ銃を向けて威嚇した。一〇月八日にトロキナに着いたナウルからの七〇〇人とオーシャンからの五一三人も同じ扱いを受けた。
 くわえて、一〇月末にファウロ群島の常設収容所に移動させられた時には、マラリアに多数が感染したが、豪州軍は予防薬を支給しなかった。捕虜のほとんど全員が感染、約七〇〇名が死亡したとみられる。

 なお、戦場となった各地で非業の死をとげた無数の捕虜の他に、戦犯容疑者として拘束され、虐待のうえ死亡、あるいは処刑されたBC級戦犯については、第三章で述べたところである。


■シペリアだけではなかった旧ソ連の日本人抑留地

 第五章でも触れたように、一九四五年二月四日から一一日にかけて、ソ運クリミヤ半島の保養地ヤルタ近郊のリバディア宮殿で、ルーズベルト米大統領、チャーチル英首相、スターリンソ連首相による首脳会談が聞かれた。世に言うヤルタ会談である。議題の中心は、ドイツ降伏を目前に控えての第二次世界大戦戦後処理で、この会談で「ソ連はヨーロッパでの戦争終結後、九〇日以内に対日宣戦布告する」ことが取り決められたのである。

 これを受けて、ソ連は同年八月八日、日ソ中立条約を一方的に破って対日宣戦布告。翌九日には満州、樺太南部、千島列島への侵攻を開始した。その結果、膨大な数の日本人民間人がソ連接による略奪・暴行の餌食となり、くわえて約六〇万人の軍民が拉致・連行され、強制的な重労働により約六万人が死亡したのである。「早期に捕虜を本国に送還する」としたポツダム宣言に、明らかに違反する行為であった。

 八月二三日にスターリンが発した命令は、次のようなものであった。「強制労働に耐えられる健康な捕虜五〇万人を選別する。捕虜を一〇〇〇人ずつの建設大隊に編成する。捕虜の被服や寝具は戦利品から調達する」

盗人猛々しいとはこのことであろう。捕虜のほとんどは軍人であったが、技術や通訳の能力を待った軍属、満州国政府や満鉄の日本人職員、そして従軍看護婦などの女性五〇〇〇人も連行された。それぞれが重労働に駆り立てられ、女性はソ連軍の″習性”により多くが陵辱の対象となった。重労働に耐えられないとみられた病弱者は、劣悪な環境の満州の収容所に送り返され命を落とした。

ソ連の蛮行をたどるとき、まさに、捕虜=奴隷だった古代・中世の戦争を彷彿させられる。ソ連が捕虜にした外国軍民は、ドイツや日本をはじめ四百十二万人にのぽる。これだけ大量の捕虜を捕獲した理由は他でもない。戦後復興のためのタダの労働力にするためだった。したがって、日本人捕虜の収容所が設置された地域をみると、シベリアに限らない。モンゴル、中央アジア、はてはウクライナ、モスクワ近郊を含むヨーロッパ・ロシアにまで広がっているのには驚かされる。

 ハーグ陸戦法規やジュネーヴ捕虜条約の精神を踏みにじり、捕虜たちは食糧や医療も不十分で極寒のなか、危険で厳しいさまざまな作業に酷使された。石炭・石油の採掘、木材の伐採、河川・港湾の整備、鉄道の建設、各種工場での労働、農場での労働などで、ノルマが課せられ、目標を達成できない場合は労働時間の延長、減食などの懲罰に付された。

 二〇〇〇年十二月一九日に公開された外務省外交文書で、シベリア帰還者の証言が明らかになっている。それによると、収容所はバラックや旧囚人収容所。一人当たり居住面積は平均一・三平方メートルで、やっと横になれる程度。衣服や暖房が不十分なため、凍死者があいついだ。食事も重労働に値するものではなく、一日、一九〇〇~二〇〇〇カロリー、収容当初は一食三〇〇グラムのパンとお茶だけで氷点下四〇~六〇度のなか労働を強制された例もある。

 拘留者がさらされた恐怖は、重労働だけではない。約三〇〇〇人が弁護人もつかないデタラメな略式裁判で「スパイ罪」、「反革命罪」、「資本主義幇助罪」に問われ、五年から二五年の強制労働に処せられたのである。これら犠牲者の取り調べの模様について、外交文書はこう記している。
 「足を縛ってつるされた」
 「等身大の箱に八時問閉じ込められた」
 「銃で脅され調書に署名させられた」

 一方、共産主義の洗脳教育に同調し、日本帰国後はソ連の先兵として日本共産化に挺身するであろうと目された者のみは、食事・衣服・労働量などで優遇されたのである。
 死亡者は約六万人とされているが、実際には実数不明である。公開されている日本人墓地にすら、氏名や身元不詳の無縁墓地が多く残されている。

ベルリン陥落1945 ソ連軍の蛮行レイプ

ベルリン陥落1945
著者:アントニー・ビーヴァー、出版社:白水社 
 
1945年4月30日、ヒトラーは妻とともにベルリンの総統官邸でピストル自殺した。遺体はガソリンで焼却され、砲弾でくぼんだ地面に埋められた。やがて、ソ連軍が発見し、ヒトラーの遺体のあごを確保して歯科助手に確認させた。しかし、スターリンは最前線にいた赤軍の総司令官ジューコフ元帥にはそれを隠し続けた。

 600頁からなる大作です。ヒトラーのユダヤ人大虐殺をはじめとするファシズムの暴虐は絶対に許すことができませんが、この本は、スターリン指揮下のソ連赤軍の信じられないほど大がかりな蛮行をも明るみに出しています。ベルリンでソ連軍によってレイプされた犠牲者は13万人(うち1万人が自殺した)、全ドイツで少なくとも200万人のドイツ女性がレイプされたという。ただ、これも、ナチス・ドイツの捕虜となった赤軍兵士が英米軍人の捕虜とは差別され、まったくケダモノ同然で虐殺されていたことへの反動だった側面も否定できないと指摘されている。もちろん、だからといって報復レイプが許されるわけでは決してない。

 生きのびたドイツ共産党員がソ連軍を歓迎したところ、その妻や娘までもソ連軍にレイプされてしまった。その結果、多くのドイツ女性が性病にかかって治療を受けなければならなかった。これでは東ドイツでソ連の評判が悪かったのも当然だ。多くのソ連将校がドイツに占領地妻をかかえ、帰国のときソ連国内にいた妻の憤激を買った。もちろん、ドイツ人の男性も無事だったわけではない。捕虜としてソ連へ連行されて強制的に働かされた。生きて帰ったのは3分の2のみ。スターリンと赤軍の元帥たちは、ヒトラーと同じで兵士の生命にほとんど関心をはらわなかった。ベルリン作戦だけでソ連軍の戦死者7万人、負傷者27万人。これは、アメリカ軍がベルリンに到着する前に占領しようと無理したことが原因だ。また、ドイツに捕虜になった赤軍兵士150万人は解放されても、スターリンはスパイの恐れありとして、強制収容所やシベリアへ送った。この間、アメリカ司令部は、アメリカ兵士たちを殺したくないといって進撃をためらっていた。

 スターリンはベルリンを陥落させた赤軍とジューコフ元帥の評判が高まると自らの地位を脅かすと考え、そうならないように周到な手をうっていった。ヒトラーの遺体発見をジューコフ元帥に隠したのも、そのひとつだった。
 ベルリン陥落に至るまでの無惨な戦争の実相が暴かれています。頁をめくる手が重たく感じられましたが、なんとか、最後までたどり着きました。レイプ被害にあった女性は本当に哀れです。しかし、ドイツ女性の目からみて、生き残って帰ってきた男性はもっと深刻な精神的打撃を受けており、容易に立ち直れなかったとも書かれています。弱い性は女性とばかりは言えないというところに、人間の本質もあるようで、いろいろ考えさせられました。名実ともにズシリと重たい本です。               (霧山昴)

ベトナム戦争に参戦した韓国軍元兵士たち

ベトナム戦争に参戦した韓国軍元兵士たち
         アジアプレス・インターナショナル キョン・スッキョン
http://www.asiawave.co.jp/KyonSukkyon1.htm

カン・ソングさんの場合
●ベトナム戦争に参加した韓国
 
ベトナム戦争が終結して、今年で二六年。日本では遠い過去の出来事かもしれない。しかし、韓国では戦争の傷をいまも深く抱えて暮らす人たちがいる。ベトナムの戦場で枯葉剤を浴びて、その後遺症で苦しんでいる韓国軍元兵士たちだ。
 韓国政府はアメリカからの参戦要請を受けて、一九六四年、移動外科医療団とテコンドーの教官を当時の南ベトナムに派遣したのを皮切りに、ベトナム戦争と深く関わることになる。六五年からはついに戦闘部隊を送り込み本格参戦。七三年に撤退するまで、三一万人あまりの韓国軍兵士がベトナムに派遣された。
「ベトコン」と呼ばれた「南ベトナム解放民族戦線」の共産ゲリラが潜む森に、米軍は六一年から七一年までの間、ベトナムの大地から丸ごと壊滅させようと枯葉剤を撒き続けた。枯葉剤にはきわめて微量でも人体や環境に致命的な影響を与える猛毒ダイオキシンが含まれていた。戦争中、ベトナムの大地に撒かれた枯葉剤の総量は約九万一千キロリットルと推定されている。

●白馬部隊のジャングル戦
――カン・ソングさんの枯葉剤体験

 六八年から一年間、韓国軍「白馬部隊」の一員としてベトナム中部の街ニンホア周辺のジャングルで作戦に参加したカン・ソングさん(五五歳)は、ベトナムで枯葉剤が撒かれていたときの光景を振り返る。
「アメリカ軍の飛行機が撒いた粉は、まるで白い霧が降ってくるようでした。私たちは蚊を殺す薬だとばかり思っていました。人の体に害があるなんて思いもしなかったです」
 カンさんは帰還して二四年も経ったある夜、就寝中に突然体のマヒに襲われた。それからまもなくさらに左の手足が動かなくなった。それだけでなく、枯葉剤の影響なのか、妻までもが流産や死産を五回も繰り返した。

●隠蔽された韓国での枯葉剤
 韓国軍事政権下では、ベトナム戦争の枯葉剤被害が隠され続けた。しかし、アメリカで元米軍兵士らが起こした枯葉剤被害訴訟が、一九九一年に韓国で報じられたことを契機に、韓国国内でも枯葉剤被害の実態が明らかになる。
 それ以前に枯葉剤の被害で亡くなった元兵士たちの数は、不明のままになっている。韓国では以前から、ベトナム帰還兵のなかに皮膚病や末梢神経の病気などで苦しむ人が、多かった。しかしその原因が特定できず、「ベトナムで移った風土病や性病のせいだ」という、根拠もない噂や偏見で見られることが多かった。
 現在、カンさんのような枯葉剤の後遺症に苦しんでいる元兵士たちは少なくない。ガン、皮膚病、神経病などの病気で、政府から枯葉剤被害者として認定されている人だけでも三九二二人、そして親からの遺伝による後遺症で認定された「二世患者」も二四人いる(二〇〇一年一月、韓国政府の統計)。これまで何らかの症状を訴えて検診を受けた人の数は七万人にも及ぶ。

●カンさんの闘い
 九九年、カンさんは韓国中部のノンサン市に流れるクム川(錦江)にかかる橋の上で、ボランティアの助けを借りて歩行練習を始めた。往復二キロもある橋の上で、松葉杖の代わりに橋の欄干を右手で握ってゆっくりと歩いてゆく。
「じゃあ、今度は独りで行ってみるから」と、カンさんは橋の欄干から手を離して自分の力だけで歩きだす。右手を少し振りながら体のバランスをとり、一歩一歩足を前に出す。しかし、五歩ぐらいが精一杯だ。すぐに欄干に手をやってしまう。それでも、カンさんは喜びをかみしめていた。橋を渡ることは歩行練習の意味もあるが、彼にとっては勇気を出して世間に出てきたという意味もあるのだ。これは自らへの挑戦でもあると信じている。
「鉄砲玉も私を避けたのだから、枯葉剤ごときには負けていられないよ」戦争による人間の破壊を身を持って告発する気迫をこめてカンさんは言った。

●再び倒れたカンさん
 しかし昨年八月、カンさんは再び倒れた。脳梗塞による全身麻痺であった。今年三月、私は彼の入院している病院を訪ねた。
 彼が入院する「ボフン病院」は軍人や公務員のための医療施設である。戦争で負傷したり病気になったりした元軍人が多数入院している。カンさんは自宅から近いテジョン(大田)にあるボフン病院に入院した。ここにも、すでに枯葉剤の後遺症に苦しむ元兵士たち二〇人が入院している。
「よくきてくれた」とカンさんは微かな声で迎えてくれた。しかし、私はカンさんの姿を見て、何も答えられなかった。その後の言葉はお互いに何も続かなかった。長い沈黙の時間が病室を重く包んだ。それは一時間近くもずっと続いた。
 私はカンさんの麻痺している腕を触った。彼は何も感じられなかったかもしれないが、私はその柔らかい腕を何度も摩ってあげた。そして、突然カンさんは力のない小さな声で話し始めた。
「申し訳ない……。多くの戦友たちもここで死んだ。あなたに健康な自分を見せたかったのに……」
 そう言って、また彼は黙り込んでしまった。私も彼にかける言葉を失っていた。カンさんの橋の上でのリハビリもむなしく、枯葉剤の後遺症は再び彼の命を脅かしていた。彼が再びあの橋の上に戻ってくることは、恐らくないだろう。

キム・イルランさんの場合
●国策としてのベトナム戦争
――文通女性と結婚

 一九六〇年代の韓国は、GNP(国民総生産)が北朝鮮よりも低く、経済的に貧しい国だった。そんな時代背景のなか、韓国政府はベトナム参戦を決定し、派兵を推し進めていった。
 当時、韓国ではベトナム参戦についてのイメージをよくするために、様々な政策がとられた。その一つとして、女子学生や女性の会社員と、軍人の文通を奨励した。キム・イルランさん(五四歳)もそんな政策に乗ってベトナム戦争に参加し、文通で知り合った女性と結婚した一人だ。

http://www.asiawave.co.jp/KyonSukkyon1.htm

●「猛虎部隊」の分隊長として
――苛烈な戦争体験
 
キムさんもいま枯葉剤の後遺症で足や腰の痛みに苦しんでいる。顔には細かい血管が浮かびあがり、顔色はつねに赤らんでいる。彼は六六年から一年間、ベトナムの中部クイニョン市周辺で、韓国軍「猛虎部隊」の分隊長として戦った。
 ベトナムの人々にとって加害者だった彼は、帰国後、思いもしなかった枯葉剤の後遺症に苦しむことになった。消えることのない戦場での記憶を抱えて、加害者であると同時に被害者でもある、精神と身体の二重の傷に苦しみ続けている。
「帰国後は、ヘリコプターの音を聞くだけで身の毛がよだつようでした。ベトナムでは本当にいろんなことがあったから……」と、キムさんは静かに語る。
「寝て起きたら戦闘、そしてまた戦闘。その繰り返しです。すると、戦場で人を殺すことまでが、ストレス発散方法になりました。誰がいちばん早く人を撃ち殺すかで、ビールを賭けました。人の命で賭けをしていたのです……」
 さらに戦場での記憶をたどって、彼は告白するように話し続けた。
「六六年九月から三カ月間、私はベトナム中部のフーカットというところで、『猛虎六号作戦』を行なっていました。ある村に二〇人ぐらいのベトコンがいるという情報を得たので行ってみたんです。それまでの戦闘で戦友がたくさん戦死したり負傷したりしていましたから、そのとき私たちは完全に頭に血が昇って狂ったようになっていました。村ではベトコンを探し出すのが難しくて、私たちは見せしめのために村長の娘を木に吊るして腹を切ったんです。それでも、村長は何も言わなかったので、二番目の娘も同じようにして殺したんです。そして、三番目の娘を吊るしたら、とうとう村長が口を開きました。こうやってベトコンを全部探し出して、村長も含めてそこにいた人たちを皆殺しにしました。こんなことは数えきれないくらいありました。私たちは人間ではなかったんです……」

●精神と身体の二重の傷を抱えて
 彼は、この「猛虎六号作戦」が終わると、韓国政府から勲章を与えられた。異国の戦場で、何度も人を殺した体験を心の底に抱えこみ、戦場からの文通で結ばれた妻にも、子供にも、誰にも言えないまま、ずっと罪責感に苛まれ、癒えることのない心の傷をひろげてきた。
 毎年六月六日、韓国では全国でベトナム戦争犠牲者の追悼式を開く。キムさんもこの日、戦死した部下の兵士のお墓参りをするため、ソウル市内の国立墓地に向かった。

●国立墓地で
 墓前で彼は、タバコを大きく一吹かししてから、戦友たちの霊に捧げた。
「一服して楽になってください。あなたの分隊長が来たよ。きっと安らかなところに行って眠っていると、信じています」と、亡き部下に語りかける。
 国立墓地には、ベトナム戦争で亡くなった韓国軍元兵士たちおよそ四〇〇〇人が眠っている。枯葉剤の後遺症で死亡する元兵士たちもここに収められる。
 生き残った兵士たちも、亡くなった兵士たちも、戦争の加害者として、そして被害者として、その心と体に傷跡をずっと抱えたまま、問い続けている。
「ベトナム戦争とは、私たち韓国人にとって何だったのだろうか……」
 再び戦禍を繰り返さない痛切な祈りが静かに捧げられる。

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Author:野生馬 太郎
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